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Web誌友会 板/2

1トキ:2013/01/20(日) 11:50:32 ID:UVsStHb2
「今の教え」と「本流復活」を考える・「web誌友会」 板 です。

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管理人「トキ」 敬白

5168a hope:2015/02/04(水) 11:54:50 ID:cEpBaIdo

>>5167 a hope所感)

この船橋氏と雅春先生の御会話は、わたし自身も経験としても思い当たることが沢山あります。

自分自身が小学校の高学年だったころ、練習不足だったリコーダーの発表の直前に激しい腹痛が起きて保健室に運ばれました💦
あれは、仮病ではなくて本当にすごく痛かったですし、顔色まで真っ青だったそうなので友達が心配してくれたのを覚えています。

わたしの子供達も学校で嫌な事があったときなど、朝なかなか起きてこないで、「頭がいたい」「お腹が痛い」「気持ち悪い」などということが良くありますが、
一応額に手を当てて大した発熱がない場合は、わたしが気合をいれて「えー、でも○○ちゃん今朝はすごく顔色もいいし、元気そうだよ!」と断言し、
「学校行ってみて、それでも調子悪かったら、先生にすぐに言うんだよ!お母さんがすぐ迎えに行ってあげるから・・」と
有無もいわさず支度をさせて学校に行かせてしまいます。
そうすると、ほとんど何事も起きず、元気に学校から帰ってきます(笑)

ですから、わたしは「病は気から」ということわざは、真理であると確信しています。

5169トキ ◆AXzLMGIbhk:2015/02/04(水) 20:23:19 ID:q.BS7ms2
>>5167

 この船橋さんは軍医さんだったみたいですが、思い出した事があります。

 先の戦争でビルマ戦線にいたお医者さんの回顧録では、前線で負傷してようやく
野戦病院にたどり着いた患者さんに優しい言葉をかけると、そのまま気が緩んで
亡くなるケースが多かったみたいです。そのため、患者が到着すると、あえて
厳しい言葉をかけたり、場合によっては殴ったりしてから、病院に収容したと
聞いています。

 言葉の力が生命をも左右するという事でしょう。

5170a hope:2015/02/05(木) 23:58:49 ID:cEpBaIdo

>>5169 トキさま

「気が緩んで亡くなる」というトキさまのお話を聞いて思い出したのですが、
海上で何日も漂流して衰弱している遭難者が他船を発見した場合なんかでも、
自分が救助されるとわかった瞬間、「気が緩んで」死んでしまうこともあるので、
そのように衰弱している遭難者を発見した場合は、焦らしながら遠回りに徐々に救助に向かうようですね。

「生きたい」という欲望は、言いかえれば現象世界や肉体への執着でもあるわけですが、
「これで助かった!」と思った瞬間「気が緩んで」、本望ではなく霊魂が肉体から離れてしまうということなのでしょうか・・・?


ところで、「魂は生き通し」であり、本来人間は「死ぬ」ということはないわけですが、
その真理を悟らずに、現象世界や自分の肉体に執着しながら亡くなってしまった霊魂は、
自分の肉体が死んだということを理解できず迷ってしまうことがあるようです。
そうすると、成仏できませんから、憑霊となって誰かに善くない念波を送り病気にさせてしまうこともあるようです。


その具体例のようなお話がいくつか、テキストのp16の5行目からされています。

特に「前妻の逆念」のお話(p23 2行目〜)などは、雅春先生「生命の実相」の真理によるご解説がなかったら
「恐ろしい怪談」のような内容です(/ω\)

5171a hope:2015/02/06(金) 09:59:54 ID:cEpBaIdo

みなさま おはようございます。

今回も、大熊先生が素晴らしいご講話を you tube に upしてくださいました!

「肉体としての命も大事でありますが、精神・魂としての生命(いのち)も大事であります。どちらも大事であります。
本当の、本当の、本当の生命(いのち)を大事に生きてまいりましょう。
うれしい 楽しい ありがたい うれしい 楽しい ありがたい
今日は人生最良の日だ 今日は人生最良の日だ 今日は人生最良の日だといえるような人生を歩んでいきましょう」

わたしは宇治の練成で大熊先生のご講義は受けたことはありませんが、
大熊先生のこの講話を拝聴していると、宇治の練成が懐かしく思い出されました。

これぞ、「生長の家」のご講話ですね!

愛を生きる <いのちより大事なものがある>
http://blogs.yahoo.co.jp/panda41415151

5172a hope:2015/02/07(土) 00:12:01 ID:cEpBaIdo

(a hope 赤線ヵ所)

<<谷口―― 父の霊魂は決して子供を病気にするために念波を送っているのではないのです。ただ自分の肉体が死んでしまっているという自覚がない。自分が霊界に属していてこれから霊界の修行にいそしむべきであるという自覚がなく、あくまでも自分自身が現実界に属していると思っているから現実界に執着がとれない。執着がとれないから現実界への執着の念を送る。ところが、その念が苦しんでいる人の念、病気の人の念ですから、それを受ける人が病気になるのです。>>p19 2行目〜

<<谷口――・・・(略)・・・その病人の救われる唯一の道は肉体死後にも人間の生命は存続していて、依然として生きているという事実を話してあげるほかはない、病気は本来存在しないという真理を悟って死ねば、死後その病気は治っているけれども、意識というものは肉体の産物だと思って、肉体が死ねば意識がなくなるものだと思っている人が、死後霊界において意識を回復した時には、自分は生きていると思い、肉体もあると思い、自分は病気だったと思い出すと、霊界における自己の状態は自己の念の客観化でありますから、自分の身体(この時は、もう肉体ではなく幽体であります)が、やはり病気だったと思っているのです>>p21 後から4行目〜

<<こういうように一家の家庭的乱れというものが、一人の迷える霊魂を導くだけでこんなにも改善されてくる場合があるのであります。だから先祖とか親類縁者の祭祀(まつり)というものは決しておろそかにしてはならないのであります。
この祭祀に幽斎と顕斎とがありまして、顕斎とは形の上の御宮とか仏壇とか各宗で定められた一定の形に顕れた方式で祀るのであります。幽斎というのは心をもって心に相対するので、精神統一をして実相を念じ、人間の実相が円満完全であって悩みも病もないという念を霊界の諸霊に放送してあげて、念波によって霊界の諸霊の苦悩を除いてあげるのであります。
これは相手たる霊を生前の名前で招(よ)び出して置いて、一緒に神想観をするつもりでやられてもよい。念だけで頼りなければ、言葉で真理を説いてきかすがよい。それには聖典の「實相篇」を読んできかせてあげるのがよろしい。>>p30 2行目〜

第1章「念の病気に及ぼす力」終わり

5173a hope:2015/02/07(土) 00:13:45 ID:cEpBaIdo

>>5172 a hope所感)

この第1章を拝読して、わたしにも先祖供養の大切さがよくわかりました。
この対談のあった時代にはまだ聖経「甘露の法雨」がなかったのでしょうか?
ここでは、雅春先生は先祖供養には生命の實相の「實相篇」を読んできかせるようにとのご指導をされています。

あらためて「甘露の法雨」を読誦してみますと、この第1章の雅春先生のご指導内容は〝霊〝 の項目にそっくりだと感じました。

以下に、謹写させていただきます。 合掌。

5174a hope:2015/02/07(土) 00:19:13 ID:cEpBaIdo

「霊」

感覚はこれ信念の影を視るに過ぎず。
汝ら霊眼を備えて霊姿を視るとも
実在を視たるに非ず、
感覚にて視得るものは
すべて心の影にして第一義的実在にあらず、
霊姿に甲乙あり、
病める霊あり、
苦しめる霊あり、
胃袋もあらざるに胃病に苦しめる霊あり、
心臓も有(も)たざるに心臓病にて苦しめる霊あり、
これすべて迷いなり。

斯くの如き霊、人に憑(よ)れば
憑られたる人或は胃病を顕わし、
或は心臓病を顕す。

されど霊覚に映ずる
さまざまの苦しめる霊は、
第一義的実在にあらず、
彼らは誤れる信念によりて
流転する迷いの影なり。

迷い迷いて流転する心は
その信念が形となりて仮の相(すがた)を現ずべし。

されど如何に相を現ずるとも
仮相(かりのすがた)は永遠に仮相(かそう)にして実在となることを得ず。
汝ら、実在にあらざる物を恐るること勿(なか)れ、
実在にあらざる物を実在せるが如く扱うこと勿れ。

実在にあらざる物には実在をもって相対せよ。

真にあらざる物には真をもって相対せよ。

仮相(かりのすがた)に対しては実相を以て相対せよ。

闇に対しては光をもって相対せよ。

非実在を滅するものは実在のほかに在らざるなり。

仮相(かりのすがた)を破るものは実相のほかに在らざるなり。

虚妄を壊(え)するものは真理のほかに在らざるなり。

闇の無を証明するものは光のほかに在らざるなり。

彼らに生命の実相を教えよ。

彼らに生命の実相が神そのものにして完全なる事を教えよ。

神はすべてなるが故に
神は罪を作らざるが故に
神のほかに造り主がなき故に
此の世界に犯されたる罪もなく
報いられるべき罪もなきことを教えよ。

三界の諸霊
三界の諸生命
この真理を観じ、
この真理をさとりて、
一切の苦患(くげん)の源となるべき
顛倒妄想(こころのまよい)を摧破(さいは)すれば、
天界の諸神(しょじん)ことごとく真理の合唱(コーラス)雨ふらし
現世(このよ)の生命ことごとく光を仰ぎ、
惑障(わくしょう)ことごとく消滅し、此世はこの儘にて光明世界を示現せん。

5175a hope:2015/02/08(日) 23:30:45 ID:cEpBaIdo

「生命の實相」第16巻 p31

山本――(画家、山本博士の息)―― 僕には神様があるということがどうしても解らないのです。それが解ったら安心できるのです。


(a hope所感)

第二章「治す念波の話」は、この画家である山本氏の発言から始まっています。

「生長の家の教え」では、「人間神の子」が真理だとされていますが、
ここでは雅春先生は「神の子」とは言わず『「自分が神だ」というのが「生長の家」の信仰なのです。』
とお答えされています。

「生命の實相」を拝読してお勉強しているかぎり、わたし自身は「人間は神の子である」という言葉より、
「人間は神である」という言葉の方が、ずっとすっきり納得できます。

ですが、「人間は神である」と表現すると、実相世界の存在を知らないほとんどの人が
「現象人間」のことを神だと言っていると勘違いをしてしまうからでしょうか・・・

いつの頃からか生長の家でも「神の子」という表現が定着していったのですね。きっと・・・

5177a hope:2015/02/10(火) 00:33:22 ID:cEpBaIdo

「生命の實相」第16巻 p31 

谷口―― 自分のそとに神様を求めるから解らなくなるのです。自分の内にある生命力――これを神様と見ておれば、だいたいまちがいないのです。自分をアミーバ-のような小体から、現在のような複雑微妙な人体に造り上げた不可思議な生命力――この生命力は、どんな医学者、生物学者よりも、偉大な力をもっている。どんな医学者、生物学者でも胃袋の一片をも製造することができない。

学者は、この不思議な生命力の歩いた足跡を調べてみるが、それは不思議な生命力の行く先にいろいろ実験的に何物かを置いてみて、こうすればその生命力はどういうふうに歩みを変えるかと観察しているにすぎないのです。学者は観察する、ただそれだけです。創造(つく)るのは神のみです。自分の内にやどる生命力のみです。


山本(医博、画家の父)――なるほど〝There is no God, I am God.〈神は余所(よそ)にいない、自分が神だ〉というわけですね。三十年前にわたしはインディアン・コイン(インディアン貨幣)を手に入れたことがあります。だいぶ古いものですが、四角な銀で造ったものでして、それに梵語でなにかかいてある。それを二人の外国人に翻訳させて、両方比較してみて誤訳のないことを確かめてみたのですが、それは「神は余所(よそ)にいない、自分が神だ」と書いてあったのです。

「自分が神だ」――わたしは余所へ交渉に出かけるようなときには、このインディアン貨幣を持って出ると必ずその交渉に成功する。妙なものですねえ。「自分が神だ」という観念があるので、心に自信力ができて心の力で成功するのですねえ。


谷口―― そうです。「自分が神だ」というのが「生長の家」の信仰なのです。「自分が神だ」といっても何も傲然と構えて相手を軽蔑するわけではないのです。自分が神だと解ったら他(ひと)も神だと解るのです。だから他をも尊敬するようになれるのです。人皆に「自分は神だ」と自覚させるようにするのが「生長の家」の教えなのです。

ある宗教では神を自分と懸け離れた手の届かないような非常に遠い所にいられるもので、どんなに修行しても近づけないもののように説いていますし、ある一派ではキリストだけが神の一人子(ひとりご)であって、他の人間は神の子ではないようにも説いていますし、またある宗教では、その宗祖だけが神の顕現であって、他の人間は下らない無価値な凡夫のように説いていますが「生長の家」ではみんなに「自分は神だ」というメダルをぶら下げさせるのです。そのアイ・アム・ゴッドのインディアンの貨幣は大変結構な護符ですねえ。

5178a hope:2015/02/10(火) 00:37:33 ID:cEpBaIdo

>>5177 a hope所感)

<<人皆に「自分は神だ」と自覚させるようにするのが「生長の家」の教えなのです。>>

これが、生長の家の「唯神実相」の自覚なのではないかと思うのですが、
だからといって、実際に「自分は神だ」「あなたも神だ」「みんな神だ」なんて言って歩いたら、
気が触れたかと思われてしまいそうですね(;’∀’)

一方「人間は神の子だ」といえばその意味を素直にとれば『人間は神そのものではなくてその子供である』という意味ですから、
わたしには、御親としての「神」が自分の外に存在しているのではないかというイメージが湧いてきてしまい少し混乱してしまうのです。

みなさんはどうですか?

ですが、この対談で雅春先生は、

<<自分のそとに神様を求めるから解らなくなるのです。自分の内にある生命力――これを神様と見ておれば、だいたいまちがいないのです。>>
<<「自分が神だ」というのが「生長の家」の信仰なのです。>>

とはっきりご指導くださっています。

わたしたちはそとに神を求める必要はないのですね!
だって、自分の中にちゃんと神さまがいるのですから・・・そういう意味ですよね?

5179a hope:2015/02/12(木) 09:39:44 ID:cEpBaIdo

「生命の實相」第16巻 p40 7行目〜

山本(画家)―― 人間に生きる力が宿っている――その力を神と名づける、各人が皆一個の神である。そういえばそういえぬこともないとは思いますが、宇宙にも神があるということ、全体を生かしている神があるということが、どうも解らないのです。

谷口――自分のうちに神秘な生命力が宿っている、それは認める。それならば他の内にも神秘な生命力が宿っている、それをも認めなければならなくなるでしょう。その自分のうちに生きている生命力と、他人のうちに生きている生命力とが、一つの源(みなもと)のいっそう大きな生命力から来ているということは、われわれの内に生きている力が、誰も彼も同じ相似の働きをしているのでも知ることができるでしょう。

誰でも胃袋があり、腸があり、心臓があり、肺臓がある。その細部の構造設計までも似ている。別にある人が発明した「人体」という機械を、他の人が真似をしてこしらえたわけではないのに、その細部の構造設計までが一貫した一つの同じ原理ででき上がっていることを思えば、われわれ各個人に宿る生命力は、各個人の肉体から出る個々別々の力ではなく、全体の生物を一貫して生かしている、共通的生命力というようなものを認めずにはいられないでしょう。

この共通的大生命力――これを称してわれわれは本源の神と呼ぶので、われわれにはこの本源の神の生命力が宿っていて、いろいろ生きた活(はたら)きをしたり、物を考えたりしている。その「活きている自分」というものはこの「本源の神」が宿っていて「自分」となっているのですから、「自分は神だ」ということになるのです。この「自分が神だ」とい真理がわかり、そしていっそう大きな生命に結ばれているということがわかると、われわれはわれわれ自身の内に宿っている大きな生命力に信頼することができ、安心がそこから湧いて来、大きな自己癒能もそこから湧いてくるのです。

5180a hope:2015/02/12(木) 09:41:43 ID:cEpBaIdo

>>5179 a hope所感)

『「われは神と一体なり」そして「彼も神と一体なり」(神人一体の自覚)ならば、「われと彼も一体なり(自他一体の自覚)」、
つまりは、わたしたちは「すべてが一つ」〝Oneness〝 というわけなんですね!!

わたしは生長の家の教えに触れて間もないころ、「実相を観ずる歌」が好きでよく唱えてました。
そして、宇治の練成に参加して、その歌に素晴らしい曲がついていることを知りました。
今回のこの部分の雅春先生のご説明は、この「実相を観ずる歌」の内容とそっくりだと感じました。

実相を観ずる歌

(一)
神はすべてのすべて
神は完(また)き生命(いのち)
神は完き叡智(みちえ)
神は完き聖愛(みあい)。

すべてのものの内に、
神の生命は生くる、
神の叡智は生くる、
神の聖愛は生くる。

神はすべてにして、
すべて一体なれば、
よろずのもの皆共通(ひとつ)の
ちから是を生かせり。

天地(あまつち)の創造主は、
唯(ただ)一つの神にませば、
天地はただ一つに、
いと妙に調和満つる。

吾座す妙々実相世界
吾身は金剛実相神の子
万ず円満大調和、
光明遍照実相世界。
 
(二)
・・・省略・・・

5181ヌん吉:2015/02/12(木) 22:24:41 ID:p..UGkhA
曲、もひとつかな・・・っと。にゃひっ。

5182a hope:2015/02/13(金) 08:13:23 ID:cEpBaIdo

ヌん吉(るん吉)さま?

きっと「ひとつ」だと思いますよ。
魂に響くような善い音楽はもとは「ひとつ」であり、すべてが『天楽』の顕われなんだと思います。

ヌん吉さまは、宇治の練成に参加したことがありますか?
わたしはまたいつか、宇治の練成に参加して「生長の家」の聖歌をみなさんと歌いたいです。

5183a hope:2015/02/15(日) 19:16:10 ID:cEpBaIdo

「生命の實相」第16巻 p55 後から2行目〜

谷口――神は宮(みや)の中にいないということを知ると共に、本当の人間――「神の子」すなわち真人は肉体の中にいないということを知ることが肝心なのです。それでは肉体の人間は本物でないから、他人にでもその肉体に不親切にあたってやってもよいかというと、そうではないでしょう。

肉体は「真の人間」ではないけれども、われわれは隣人を愛するのに、その隣人の肉体をとおして愛し、隣人をいたわるのにその隣人の肉体を通していたわるしか愛を表す道がないでしょう。愛とはその肉体を象徴として肉体ならざるもの、隣人の神性に敬礼するにあるのです。

それと同じようにわれわれは神が霊であって宮の中にいないのを知る、知るけれどもその宮を象徴として神の霊に敬礼するために宮の前で敬礼をするのです。キリスト教は神殿偶像だといって軽蔑しますが、キリスト自身は神殿を尊敬して、エルサレムの神殿の境内で鳩を売ったり両替する商人を神社の境内を汚すものものとして、彼らを縄の鞭で逐(お)い払ったりしました。

5184a hope:2015/02/15(日) 19:20:58 ID:brQxC10.

>>5183 a hopeまとめ)

○肉体 ―― 肉体は「真の人間」ではないけれども、肉体を象徴として肉体ならざるもの、隣人の神性に敬礼するためにある。 または愛を表現するためにある

○宮・神殿 ―― 神はその宮・神殿の中にはいないけれども、その宮・神殿を象徴として神の霊に敬礼するためにある。 宮・神殿はあってもよく、なくてもよい


(a hope所感)

「わたしのお墓の前で泣かないでください。そこにわたしはいません、死んでなんかいません。・・・」

と「千の風になって」の歌詞にありますが、だったらお墓を建てる必要もないわけですが、
わたしたち人間はおそらくどこの国の人間であっても、身内が亡くなればお墓を建てて供養するのではないでしょうか?

それは、この説明から考えれば、亡くなった方の霊(実相・神性)をお墓を象徴として敬礼するためということになります。

確かに霊は肉眼では見えませんから、礼拝(敬礼)しにくいですし、年月が経つにつれてその存在自体を忘れてしまいがちになります。
ですが、お墓や宮・神殿のように形になって顕れていると礼拝しやすいですし、その存在を忘れてしまうということがありませんね。

一方、肉体をもっているわたしたちは、そのお互いの肉体を霊(実相・神性)の象徴として礼拝し愛することができるのですね。

すべてが「生長の家」の『実相礼拝』ということになりますね!

5185a hope:2015/02/15(日) 19:30:17 ID:cEpBaIdo
>>5183訂正 
最後の段落文中の【  】内の文章が抜けていました。m(__)m

<<それと同じようにわれわれは神が霊であって宮の中にいないのを知る、知るけれどもその宮を象徴として神の霊に敬礼するために宮の前で敬礼をするのです。【この境地に達すると宮は毀(こぼ)たなくともなんの障りにもならないのです。宮はあってもよく、なくともよい。】キリスト教は神殿偶像だといって軽蔑しますが、キリスト自身は神殿を尊敬して、エルサレムの神殿の境内で鳩を売ったり両替する商人を神社の境内を汚すものものとして、彼らを縄の鞭で逐(お)い払ったりしました。>>

5188a hope:2015/02/20(金) 09:55:31 ID:cEpBaIdo

「生命の實相」第16巻 p41 後から6行目〜

山本(画家)――そういうわれわれに共通した大きな生命がある。その大きな生命に繋がっているということが解ってもわれわれはやっぱり死ぬのが恐ろしい気がします。そうした生命の海というものに没し込んでしまうのは恐ろしいですね。

谷口――死ぬのが恐ろしいのは、この肉体を人間だと思っているからでしょう。あなたは死ぬのが恐ろしいといわれますが、人間は決してしなない、生き通しのものですよ。これが解れば人間は死ぬことが恐ろしくなくなる。死なない者に「死」を恐れるはずがない。死なないから、死を恐れようがないのです。・・・

5189a hope:2015/02/20(金) 09:56:28 ID:cEpBaIdo

>>5188 a hope所感)

「肉体なし」、「死なし」、あるのは「生きとおしの生命」だけであるという『生長の家の根本真理』を、
この後、雅春先生が詳しくご説明くだっています。
そして、「肉体なし」、「死なし」と聞いて、そのコトバの表面だけを捉えて勘違いをして、
現象の苦しみから逃れるために自殺したりする人がいることに警鐘を鳴らして下さっています。

<<・・・現界で病気であって、死んだら肉体はないから病気はないと思って自殺する人もありますが、肉体が死んだ後も霊魂は存続している。霊魂は死の刹那のショックで意識を失うが、霊界で意識を回復すると、なんでも周囲が見えるものだから「自分は生きている」と思う、そうしてその次には「自分は病気だった」と思う、すると「自分は病気だ」という念によって、その霊魂体に病気をあらわす。先日もそういう例がありました。ある霊媒に十七年も前に亡くなった人の霊魂があらわれて来ましたが、依然として十七年前の臨終の苦しみを継続して苦しんでいました。>>p43 6行目〜

現象の苦しみから逃れるために「自殺」するということは、実際には何の解決にもならないということが解ります。

5190トキ ◆AXzLMGIbhk:2015/02/21(土) 21:42:42 ID:v52dWahU
>>5189

 過去、たくさんの人と関わりを持った中で、この自殺願望の人とも何人もお話をしました。
生長の家の真理をお伝えすることで何人もの人が自殺を思い留まってくださったことは嬉しい
ですが、反面、私の徳が足りないために、亡くなられた人がいることは反省しています。

 これは私の独断と偏見ですが、自殺をする人も内心では生きていたい、と思っています。
しかし、勝手に、他に選択肢がないと思い込んでいるような気がします。パソコンがフリーズ
した時に、リセットをするような感覚でいるのでしょう。しかし、リセットをしても結果は
同じどころか、もっと悪くなると知っていれば、リセットのボタンを押さないように、
自殺をしても、もっと悪くなると知ることが必要だと思います。それに、神様は、
「この世で起きたことは、この世で解決する」という方針でおられますから、解決は
できるのが当たり前です。

 それと、こういう自殺などの問題は、正直、手間も時間もかかり、相談を受ける側
もそれなりの覚悟が必要です。私が青年会の頃は、まだ、こういう問題について、
正面から向き合った人が多かったような気がします。しかし、そういう「手間のかかる」
ことを嫌う風潮が出てきているのは困ったものかと感じます。

 最澄は「一隅を照らすもの、これ即ち国宝なり」と説きました。西洋でも道徳再武装運動
では、「闇夜を嘆くより、一本のローソクになりなさい」と言います。一人の人が自殺を
思い留まり、前向きになってくれたら、それは素晴らしい事だと思います。

 そのためにも真理をお伝えしたいと思います。

5191a hope:2015/02/23(月) 00:56:24 ID:cEpBaIdo

>>5190 トキさま

素晴らしお話をありがとうございます。

生き通しの人生にはリセットボタンはないのですね。

わたしたちはこの現象世界に生まれて色々な経験をすることで、魂が向上していくのですから、
人生で困難に出会うということは、むしろ魂向上の大きなチャンスなのですよね!

ですが、「真理」を知らなければせっかくのそのチャンスも生かせない。

だから、人々にその「真理」をお伝えして、魂の向上のお手伝い(個人救済)をしていくのが、
わたしたち「生長の家の教え」に出会った者の使命なのだとわたしは思うのです。

その伝道すべき真理は聖典「生命の實相」の中にしっかりと書かれていますよね!


たしかに、かつて雅春先生が「政治運動」等の現象問題に対応した運動をされていたことを考慮すれば、
「生長の家」を信仰するということは、聖典の中の真理を人々に伝え個人の魂の救済するというだけでは物足りないのかもしれません。

ですが、今、このように現象の「生長の家」が混乱している状態の中では、
個人の魂の救済という本来の光明化運動をおろそかにしていては、他のどんな運動をやってもうまくいかないのではないかと感じています。

5192a hope:2015/02/25(水) 09:46:32 ID:cEpBaIdo

「生命の實相」第16巻 p57〜

谷口――何教でなければ救われないというのは、人間の生命を知らないからです。どんな祀り方でなければ、神の気に入らないというのは、神の実相を知らないからです。ある一定の祀り方で祀ってもらわなければ腹が立つというような神なら、それは「神」ではなく迷いでありましょう。

つまり社(やしろ)とか儀式とかによって沽券(こけん)をつけてもらわなければ、自分の「生命の実相」に威厳が出ないと思うからこそ、祀り方のいかんによって腹も立つのでしょう。それは何か他のものを外から付け加えてもらわなければ、自分が完全になれないという弱みがあるから、その外からの付け足しにようが悪いと腹が立つのであって、外から付け加えてもらう必要はないのです。

神は神であるから尊い、神は神であるから自由自在である、神は神であるから円満完全である、その尊さと、自由自在さと、完全さとは外からの付け足しによらず、それ自身の本質にあるのです。人間の生命の尊さも、神の子たる自身の本質にあるのですから、何教でなければ救われないということはないのです。

仏教よし、キリスト教よし、神道よし、なんでなくともよし、何であってもよいのです。人間の生命(たましい)が救われるのは外の力によるのではなく、それ自身の本質が「神の子」であるからです。それ自身の本質が「神の子」でなかったら、外からどんな力を加えても救われるはずがありません。

5193a hope:2015/02/25(水) 09:48:43 ID:cEpBaIdo

>>5192 a hope所感)

「生長の家」の聖典である「生命の實相」だけを拝読していているかぎり、「生長の家」が「天皇信仰」であり、
「光明化運動」が「愛国運動」であるとはとても思えないというのが、わたしの正直な感想です。

ですが、谷口雅春先生も「生長の家」も天皇国であった日本に誕生しました。
それには、とても深い因縁があったのだろうと感じでいます。

5194a hope:2015/02/27(金) 12:09:52 ID:cEpBaIdo

(a hope まとめ)

「生命の實相」第16巻 
二 神社と信仰より


【神はその宮を毀(こわ)されたら神罰を当てるか?】

<<谷口――本当の神様なら神罰は当たらないはずです。本当の神様は神の宮の中にいられないから神の宮を毀(こぼ)っても神自身は汚されようがないのです。神は神の宮が毀(こわ)れたり、立派になったくらいで、自分の神聖さが殖えたり減ったりするものではない。だから神にとっては神殿の立つも毀れるもおなじことです。それほどの神様であってこそ尊いのです。>>p59 2行目〜



【ではわれわれ人間はなぜ、宮や神殿を拝するのか?】

<<われわれが神殿を拝するのは自分の信仰を外に出して形に顕してそれを拝むことになるのです。・・・(略)
・・・それと同じく心のうちにある信仰を外界へ投影(うつした)して拝みたいという人間の要求が宮を作り神殿を構え、神体を安置することになるのです。>>p59 8行目〜



【宮や神殿は実在か影か?】

<<実在の神は霊であって物質に憑(よ)るものではありません。その宮は、人間が実在の神をわが心に反射して、外の形ある姿に翻訳し客観化したのです。画家が「実在の美」を感得する程度にもいろいろあり、その程度に従って絵の形が変わってくるように、人間が神を感得する程度にもいろいろあり、その程度に従って、神の宮や、神体にもいろいろ形が相異してくるのです。>>



【神社が『鏡(かがみ)』を御神体とし拝する理由】

<<われわれが神を祭祀するのに一点「私」の姿を映さないで、立ち向かうものすべてを自分の内に映す「鏡」を御神体として拝するということは誠に意義のあることだと思います。神はすべてを包容して無相(すがたなし)であると同時に、拝む人の心のとおりに顕われ給うのですから、鏡をもって象徴するのが相応(ふさわ)しいのです。>>

5195a hope:2015/02/27(金) 12:12:48 ID:cEpBaIdo


>>5194 a hope所感)

近年、日本各地に点在する小さな神社などが老朽化し朽ち果てていく様子を見ていると、
なんとなく神さまの罰が当たりそうな気がしてしまいますが、
そんな状態であっても本当の神さまは罰を当てるということはないのですね。

その時代の人間の信仰を形に顕したものが宮や神殿であるのならば、現在のわたしたちがその信仰を継続しないのであれば、
その宮や神殿は朽ち果てていってしまうのが当然の結果なのかもしれません。

ですが、当時の人々の念(業)が流転していることを思えば、もし現在も継続してその宮や神殿を信仰し続けるのであれば、
その宮や神殿を拝してきた人々の真剣な信仰態度や伝統を尊重して同じように祭祀し続けるのが当然だと思います。

そういう意味で、今回の雅宣先生の総本山の「鎮護国家外し」や、「ご祭神の変更」は善くないことだったのではないかと感じます。

5196トキ ◆AXzLMGIbhk:2015/02/27(金) 13:00:50 ID:cw0xKYtE
>>5195

a hope様のご意見に同意します。

と、言うか、こういう祭祀を弄ぶ行為をしたら、それなりの事が起きると危惧しています。

5197a hope:2015/02/27(金) 21:31:41 ID:cEpBaIdo

>>5196 トキさま

<<こういう祭祀を弄ぶ行為をしたら、それなりの事が起きると危惧しています。>>

本当ですね。
神罰は決して起こりませんが、人間の念の憑依は十分考えられますものね。

雅宣先生は「生長の家の教え」のみならず、今までの「生長の家」の伝統的な祭祀の方法なんかまでも自分勝手に変質させてしまっているので、
それまで真剣に伝統的な「生長の家」を信仰してきたたくさんの信徒の恨みを買ってしまっていますからね。

それに、総本山の祭祀の弄びともなると、過去に総本山を拝していて、
今は他界されたたくさんの信徒の方々霊魂の念をも巻き込みそうですね・・・・(◎_◎;)

ですからわたしも、雅宣先生やその方針に従う本部の方々などがその「恨みの念」の憑依を受け、
何か善からぬことが起こるのではないかと危惧しています。

というか、もうすでに「今の教え」を信仰していて、不幸な状態になってしまった人が何人もおられるのですよね?

すべての問題の根本的な原因は「生長の家」総裁である雅宣先生がご兄弟や分派の方々と和解せず、不調和でいるということなのだと思います。

雅宣先生には、ご自分自身とご家族と部下を守るためにも、一刻もはやくそのことに気づいてほしいです。

5198a hope:2015/03/01(日) 21:34:40 ID:cEpBaIdo

みなさま こんばんは

本当なら、2月が終わり3月に入りましたので第32回web誌友会を終了し第33回web誌友会を開会するのですが、
わたしの勝手でたいへん申し訳ないのですが、「生命の實相」第16巻をもう少し続けてお勉強させていただきたいと思いますので、
今月も第32回web誌友会を続けさせていただきます。

よろしくお願いいたします。 合掌


☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 

第32回 web誌友会 案内 (訂正版)

期間   2月1日〜3月31日まで
テキスト 「生命の實相」第16巻 人生問答篇 下
内容   人生の悩みを解く(下)
     
☆ ☆ ☆ ☆ ☆

5199a hope:2015/03/01(日) 22:49:26 ID:cEpBaIdo

うのはなさま

独占板でweb誌友会の案内をご紹介くださりありがとうございます。

本当に最近はweb誌友会が地味になってしまいましたが、
わたしは聖典「生命の實相」の勉強は続けることに意義があると思っているので、
マイペースではありますが、これからもweb誌友会続けていかせていただきます。

うのはなさまがいつもわたしを応援してくださっているような気がするのはわたしの思い違いでしょうか?

うのはなさま、わたしは今でもうのはなさまが大好きですよ!
あまり無理をせず、これからもこの掲示板でご活躍くださいね!!

5200a hope:2015/03/01(日) 23:50:16 ID:cEpBaIdo

「生命の實相」第16巻 p63 6行目〜

谷口――心霊現象とは名前は心霊現象でも、実は半物質的現象なんです。全然心霊的である場合にはわれわれの五官にそれが見えてこないのですから、心霊現象は成り立たないのです。そこで心霊現象はその実、半物質的現象であるとしますと、この現象は物質的性質を多分に有した霊魂――いいかえると、物質的執着を脱け切らないでいる霊魂と、人格の低い霊媒とは親類筋になるわけですから、「類は類を招(よ)ぶ」の心の法則により、人格の低い霊媒には物質的心霊現象を起こす霊魂がおおむね感じて来るのです。

三枝――霊魂とは実際人間にかかってくるのでしょうか。 『生命の實相』の「創世記」の解釈(頭注版・携帯版では〈十一巻〉愛蔵版では〈六巻〉のこと)によりますと、人間は万物の霊長であるからいかなる霊魂にもかかられるものではないというようなことがありますが。

谷口――それはかかるという言葉の定義いかんによります。第一義的大自覚に入れば、人間は神の子でありますから、いかなる悪霊にもかかられるということはないのです。第二義的には、悪しき霊に憑かられるという信念をもつことによって、悪しき霊の波長に合うラジオ的受信機となり悪しき霊の霊波を感じて、悪しき霊の声を出し、悪しき霊の姿を感ずるのです。それはIOBKの波長に合うラジオの受信がJOBKの声を出し、その放送者と同じ言葉を喋るのと同じです。それは放送者と同じ言葉を喋るけれども、何もJOBKのアナウンサーはここに実際この受信機の側まで来て喋っているのでありますまい。それと同じで、悪霊が憑いて狐つきのような言葉でしゃべったりしましても、悪霊は実際人間に憑いてはいないのです。ただそこには悪霊が在るという夢と、悪霊に憑かれるという夢とがあるばかりです。すべてこの世の悪しきものは神の創造の繁栄ではなく、迷いが反射した白日夢です。

5201a hope:2015/03/01(日) 23:54:06 ID:cEpBaIdo

>>5200 a hope所感)

第一義的大自覚、つまり「人間神の子」「唯神実相」の自覚に到れば、悪い波長と合うということは一切なくなりますから、
悪霊にとりつかれなくなるのは勿論ですが、悪念波を受けて病気や不幸になるということもなくなるわけですね。

この対話のあとに三枝さん御自身が、あまり程度の高くない霊(神)に繫らて、
「神懸かり」状態になった時のお話をされていて興味深いです。p67 後から6行目〜

そして、「神想観」をするために精神統一をするたびに、その霊が懸かって来て「神想観」の邪魔をする、と雅春先生にご相談されています。

このあと、雅春先生は「神想観」の精神統一と無念無想(無想観)の違いをご説明くださっています。p69 4行目〜

5202a hope:2015/03/05(木) 07:52:19 ID:cEpBaIdo
(a hopeまとめ)p69 

「無想観」と「神想観」の違い


○「無想観」・・・精神統一して無念無想になること
→自分で自己を支配する権利を放棄してしまうから、ポカンとしたり、ボンヤリし意識が朦朧となり、他からくる霊波に支配されてしまう


○「神想観」・・・ひたすら精神をあつめて神なる自己の本質を思うこと
→自己の善意識を完全に自己の支配下に置き、意識を明瞭にして一つのことに集中しているので、低級な霊にかかられることは断じてない

5203a hope:2015/03/05(木) 07:53:52 ID:cEpBaIdo

>>5202 a hope所感)

わたしは以前、何年間か、近くの禅寺の坐禅会に参加していたのですが、坐禅というのは、この「無想観」に近いのではないかと思います。

何度参加しても、足は痺れましたし、完全に無念無想の状態になるのはむずかしかったのですが、
ある日、偶然、わたしの坐る場所がその寺の高僧のすぐ近くだったことがあるのです。

その時だけはまったく足も痺れず、自分でも驚くほど意識が集中して、無念無想状態を体験できました。

あの時は、その高僧の高級な念波(氣)がわたしに影響していたのだと思います。

5204a hope:2015/03/05(木) 20:28:46 ID:cEpBaIdo

「生命の實相」第16巻 p70 3行目〜

谷口――「神想観」というのは心を集めて「生命の実相(ほんとうのすがた)」を想うことですから、必ずしも静坐せねばならぬということでもないのです。 『生長の家』を読むだけでも感激に満ちて、それに書いてある神の子としての自己生命の実相がピッタリと心に自覚できればよいのです。『生命の實相』を読むだけで病気が治るなどの例があるのはそのためであります。

釈迦は菩提樹下で静座している間中、悪魔波旬(はじゅん)に襲われていた。ところが、尼連禅河(ナイランジャナーかわ)で沐浴して心がサッパリした刹那、「なんじゃ『生命』はどんな行もしないでも、このままで完全じゃないか」と自己の「生命の実相」――神性が自覚できた。すると悪魔波旬は逃げてしまった。

ここが肝腎ですね。あなたのように、静坐式のものをすると、直ぐ、常に憑(かか)りつけの霊が憑って来て「神想観」のできにくいというのは、霊がまた憑ってくるであろうという予想や恐怖があるためにそうなるのですから、そういう人は、釈迦が菩提樹下の静坐を捨てて、沐浴一番自己の「生命の実相」を自覚した例に倣(なら)うべきですなあ。

釈然と自己の「生命の実相」さえ自覚(さと)れるなら、その方法はどれでもよいわけでしょう。常に聖典『生命の實相』を読むことを怠らず、我欲を捨てて他のために働いて働いて生活全体が捧げ切ったものとなられるとき自分と全世界とが一体だという「生命の実相」がわかってきます。これが一等穏健な自己の神性の自覚の仕方ですなあ。

5205a hope:2015/03/05(木) 20:30:00 ID:cEpBaIdo

>>5204 a hope所感)

わたしは「神想観」が大好きですが、たまに、雑念ばかり浮かんできてしまい充実した神想観ができない時があります。

そのような時はだいたい、仕事で嫌な事があったり子供たちのことで問題があったりして、
感情が高ぶっていたり、または反対に精神的に疲れきっていたりしています。

わたしは今回、上の雅春先生のご指導内容を読んで目からうろこが落ちました!

これからは、気持ちが乗らない時には静坐式の「神想観」は控えて、聖典「生命の實相」の拝読をするようにしたいです。

それにしても、やはり「生長の家」の信仰には聖典『生命の實相』の拝読は欠かせないようですね!

5206トキ ◆AXzLMGIbhk:2015/03/06(金) 20:50:54 ID:1.Hn0ILE
>>5203

 谷口雅春先生が先導をされた「神想観」に参加された方の話では、
霊的な雰囲気が素晴らしく、初参加ですら奇跡が起きたと聞いています。

 霊的な体験も続出したそうです。

 あの圧倒的な雰囲気だけは忘れられない、と話しておられました。

5207a hope:2015/03/07(土) 22:36:05 ID:cEpBaIdo

>>5206 トキさま

谷口雅春先生は真理を大悟されたお方ですから、
それはそれは素晴らしい光明の念波を放っておられたのだと思います。

ああ、一度でいいからわたしも雅春先生に直接お会いしたかったな(≧◇≦)

5208K機関諜報員:2015/03/07(土) 22:58:21 ID:???

昨日、神想観をしていたときのこと。

瞑目合掌している自分を取り囲むような形で亡くなった両親やご先祖様が合掌し、
自分を祈ってくださっている姿をありありと観じました。

理屈抜きに「生かされている!ありがたい!」と思うことができました。

5209a hope:2015/03/07(土) 23:30:22 ID:cEpBaIdo

>>5208 K機関諜報員さま

素晴らしい神想観を体験されましたね!

わたしも、神想観がうまくいくと自然と感謝の気落ちが溢れてきて、
物事をとても前向きに考えられるようになり、体中に生きる力がみなぎってきます。

「神想観」って、ほんとに素晴らしいですね!!

5210a hope:2015/03/07(土) 23:32:19 ID:brQxC10.

>>5209訂正

感謝の気落ち→感謝の気持ち(笑)

5211a hope:2015/03/08(日) 12:04:42 ID:cEpBaIdo

(a hopeまとめ)

「生命の實相」第16巻 
五 祖霊祭祀の形式 (p71 〜 p77 )


Q1【祖先はいかなる形式で祀るのが本当か?】

A1○第一義的・・・神性を自覚した霊にとっては物質でこしらえたお宮や墓やお堂は不要である

A2○第二義的・・・サトリの境地に達していない霊魂には、宮を欲するものには宮を与え、仏壇を欲するものには仏壇を与えて供養して誠をつくすのが道である


Q2【子孫が祖先のもった宗教と同じ宗教でなくなった場合はどうなるのか?】

A1○第一義的・・・自由自在なわが「生命の實相」(神性)が把握された霊であれば、「ある一定の形式で祀ってもらわねばやりきれない」というようなことはない

A2○第二義的・・・①人間は皆が皆までサトリの境地に達しているわけではなく、完全でないサトリはどこかに片寄りがある、その偏寄(かたよ)りが流派となり宗派となって現れている。
②この偏りがある限り、霊魂になっても一つの宗派をもっている。
③しかし、霊魂もわれわれと同様の一個の人格であるから、生前にもっていた宗派を死後の悟りの程度によって改宗することがある。
④子孫が切実に一つの他の宗教に改宗したい内的要求にかられた場合には、祖先の霊魂の思念が子孫に感応してきている場合が多い。
⑤そういう場合にはその内的欲求にピッタリする宗派の形式でお祀りしてあげればよい。

※しかし、宗教に好き嫌いをしているようでは、まだ信仰に偏寄りがある

5212a hope:2015/03/08(日) 12:07:42 ID:cEpBaIdo

Q3【キリスト教徒が「生長の家の大神」を祈るのに矛盾を感じるが・・・】


A1○<<生長の家の神さまを祈るのと、キリストを礼拝するのと心のうちに矛盾をお感じになるのは、神に関する考え方に偏寄りがあるからです。個人の人間霊は別として、救いの神は一つだということが本当に自覚できていないからです。>>p75 8行目〜 

A2○<<キリストの神と「生長の家の神」とが互いに相容れないようにお考えになるのは、キリストの神だとお考えにならないで、他の神と対立的に存在するような小さな神だとお考えになっている傾きがあるからです。全包容的な神ならば、自己のうちにすべての神仏を包容して少しも矛盾を感じない神でなければならぬ。】p76 6行目〜



Q4【本当の神(全包容的な神・救いの神)とはどのようなものなのか?】


A○<<神はイスラエルだけの神ではない。日本だけの神でもない、キリストが出て来られない前にも人類は救われたのである。それまでは人間を救わずに放って置くような神ならば本当の神ではない。イエスのまだ生まれない以前や、イエスの名の及ばないどんな辺鄙な世界にさえも救いの手のとどいている神であってこそ、本当の神である。>>p75 後から7行目〜



Q5【本当の神はひとつなのに、地上にはなぜたくさんの神があらわれるのか?】


A○<<神の方は一つであるけれども、地上の人間の方は、国々および時代によって習慣や風俗や思想にいろいろ変化がある。そのために、神はその各種各様な人間が救いを受け容れるために時代および国々によっていろいろちがう神となってあらわれなければならぬのです。旧約時代の神とキリストの神とは、大いに変わっている。これは神が進化したためでなく、人間が進化したために神がそれに相応(ふさわ)しい姿で顕われたのである。>p75 後から2行目〜>



Q6【「生長の家の神」の出現の理由は?】


A○<<時代が変わってきて今までの宗教では迷信臭くて入れぬという人のために同じ一つの神ではあるけれども顕現を異(こと)にしてお顕われになったのが、「生長の家の神」であります。>> p76 4行目〜

5213a hope:2015/03/08(日) 12:09:27 ID:cEpBaIdo

Q7【生長の神の特徴は?】


A1○<<生長の家の神さまは、どの神を拝んではならぬとは仰せられない。どの神も同体であるから、どの神を拝んでもよいと仰せられています。>>p76 7行目〜

A2○<<この点においてキリストの神の神髄を伝えているのは「生長の家」です。この点において仏教の本当の神髄を伝えているのは、「生長の家」です。一切包容のすべての宗教の神髄を伝えているのは「生長の家」です。一切包容のすべての宗教の神髄を伝えるために神界に顕われられた一個の天使が――言いかえると一つの救いの霊波――生長の家の大神であるとすると、キリストの聖名(みな)と一緒に生長家の大神の聖名を称えても一向矛盾を感じないのは当然ではありませんか。>>p76 後から4行目〜



Q8【排他的な神は本当の神か?】


A○<<排他的な神は、本当の神ではなくて執着をもった人間の顕現であるか、そうでなければ本当の神をば信者が勝手に人間的に解釈して、人間同様排他的に伝えるのです。>>p76 後から5行目〜



Q9【生長の家の根本的お教え(本当の真理)とは?】


A<<本当の真理はみな一体というところにあるのです。人間も形の上では個人別別に分かれているけれども、「みんな一体」という真理がわかれば争いが無くなるのです。国家も「みんな一体」という真理がわかれば戦争の必要も各国の軋轢もなく、世界一つになるのです。「みんな一体」だということがわかれば、宗教上の争いも無くなるのです。ユダヤの神、インドの神、日本の神と区別して、彼の国の神は邪神などといっているのです。全包容的な神の前には、邪神としてその神に対立しうるものがないのです。みんな一体、宗教も一体、人間も一体、世界も一つ、別れているのは迷いであるというのが「生長の家」の根本的教えになっているのです。>>

5214a hope:2015/03/08(日) 12:13:05 ID:cEpBaIdo

>>5211>>5213 a hope所感)

p71〜77までの 「五 祖霊祭祀の形式」の所の文章を、Q&A式にまとめてみました。

聖典「生命の實相」の文章は座談会形式になっていたり、論文形式になっていたり、講演会形式になっていたり様々です。

この章は座談会形式になって、参加者の質問に雅春先生がお答え下さるという形でまとめられています。

今回は、わたしが自分自身の疑問を雅春先生に質問しているつもりになってこの箇所をまとめてみました。

ただ、漠然と通読するだけではあやふやだった、「祖霊祭祀に関する真理」がとてもよく理解できました。

特に、Q5の【本当の神はひとつなのに、地上にはなぜたくさんの神があらわれるのか?】と
Q6の【「生長の家の神」の出現の理由は?】いう二つの疑問への雅春先生のお答えは、「へ〜、そういうことだったのか・・・」と妙に納得できました。

世の中の状況がどんなに悪くなっているように見えても、人間の魂は進化し続けているということなのですね。

そしてQ9の【生長の家の根本的お教え(本当の真理)とは?】という質問のお答えにあたる雅春先生のご文章を拝読すると、
あらためまして全包容的な「生長の家の教え」のすごさが伝わってきます。  

感謝 合掌。

5215a hope:2015/03/09(月) 08:27:22 ID:cEpBaIdo

「生命の實相」第16巻 p77 後から3行目〜

水田――わたしは今まで神さまというものは近づき難いほど遠いところにいられる方で、どんなに人間が努力してもなかなか神さまのところへ近づけないように思っていました。それにいろいろの宗教でいう神さまとか仏様とかいわれる方が、みんな別々のようでありまして、宗派ちがいの神様を、拝んではならないように説かれる宗教家が多い。まるで神様というものが一つの宗教に立て籠もって排他的に争っているようなんです。そこに非常に矛盾を感じて苦しんでおったのであります。

ところが『生長の家』を読むと神様はもとは一つということが書いてある。そして千変万化せられて境に従い人に従うてお出でなさるためにいろいろの宗教、いろいろの神に顕われあそばされているということがわかった。それで今までのような排他的な神さまの間に挟まって苦しむということがなくなったのであります。

それにありがたいことには、今まで神様は遠いところにあるとばかり思っていたが、神様はわがうちにある、神さま!と一念を起こせば、そのままに通じ、神がわがうちに生きてくる。それはちょうどラジオのスイッチを一つ押せば東京の放送でもすぐ自分の内に来て響をたてると同じようなものであることを悟らせていただいて非常にありがたく、常住坐臥つねに神とともにあるありがたさを感じさせていただいてこんな結構なことはないのであります。

もとから、わたしは胃腸が常に弱くて・・・・(この後、体験談が続く)

5216a hope:2015/03/09(月) 08:30:54 ID:cEpBaIdo

>>5215 a hope 所感)

わたしが「生長の家」の信徒になろうと決心したのは、生長の家が「万教帰一の教え」だったからです。

<<ところが『生長の家』を読むと神様はもとは一つということが書いてある。そして千変万化せられて境に従い人に従うてお出でなさるためにいろいろの宗教、いろいろの神に顕われあそばされているということがわかった。それで今までのような排他的な神さまの間に挟まって苦しむということがなくなったのであります。>>

わたしも、聖典「生命の實相」を初めて拝読した時、上の水田さんとほぼ同様の感動体験をし、心が解放されたのを思い出しました。

ですが、いざ信徒になってみると、この「万教帰一の教え」や「人間神の子」を信仰しているはずの「生長の家」が内部分裂を起こし、
信徒同士が裁判で争ったり、悪口を言い合ったりしていました。

そしてわたしの求めていた、全包容的な「生長の家の大神」は雲隠れしてしまっていたのです。

5217トキ ◆AXzLMGIbhk:2015/03/09(月) 22:45:49 ID:TIiLraUE
>>5216

 私が生高連時代はもちろん、青年会時代でも、谷口雅春先生の直弟子の方々が多数ご健在
でした。その先生方が、よく、

 「組織が大きくなったのは嬉しいが、教団の雰囲気が全然変わってしまった。」

と嘆いておられたのを思い出します。この原因はいくつかありますが、運動偏重というか、
教団内が形骸化、官僚化し、訳がわからないまま、運動を展開するような状態にあったの
は否定できません。教えへの信仰が、組織への忠誠へと変貌したと思います。「明窓浄机」
を拝読すると、谷口雅春先生ご自身も、同様のご感想を持たれていたと拝察します。

 やはり、基本に還るべきなのでしょう。

5218a hope:2015/03/09(月) 22:51:03 ID:cEpBaIdo
>>5213訂正

下の部分の{   }内の文章が抜けていました。m(__)m

Q9【生長の家の根本的お教え(本当の真理)とは?】


A<<本当の真理はみな一体というところにあるのです。人間も形の上では個人別別に分かれているけれども、「みんな一体」という真理がわかれば争いが無くなるのです。国家も「みんな一体」という真理がわかれば戦争の必要も各国の軋轢もなく、世界一つになるのです。「みんな一体」だということがわかれば、宗教上の争いも無くなるのです。ユダヤの神、インドの神、日本の神と区別して、彼の国の神は邪神などといっている{のでは、かくのごとき信仰を奉じている人がいかに迷いに捉われているかを暴露している}のです。全包容的な神の前には、邪神としてその神に対立しうるものがないのです。みんな一体、宗教も一体、人間も一体、世界も一つ、別れているのは迷いであるというのが「生長の家」の根本的教えになっているのです。>>

5219a hope:2015/03/09(月) 23:15:02 ID:cEpBaIdo

>>5217 トキさま

生長の家の教えの信仰の基本っていったい何なんでしょうか?

>>5218で訂正した文章の中に、

<<みんな一体、宗教も一体、人間も一体、世界も一つ、別れているのは迷いであるというのが「生長の家」の根本的教えになっているのです。>>

とありますが、「生長の家」の根本的教えが、みんな一体、宗教も一体・・・であるのに、
その生長の家が、教団と本流復活派に分かれていること自体、この教えに反していませんか?


別れているのは迷いである・・・・ 


もしかして・・・「生長の家」が 教団や本流復活派に分かれているように見えてしまうのは、わたしの「心の迷い」ということなのでしょうか?

本当は、別れてなんていないのかもしれない・・・

別れて見えるのは、わたしの「心の迷い」なのか・・・

別れてなんかいないのかもしれない・・・

5220神の子さん:2015/03/09(月) 23:57:38 ID:???
「生長の家」の根本的教えが、みんな一体、宗教も一体・・・であるのに、その生長の家が、教団と本流復活派に分かれていること自体、この教えに反していませんか?

貴女も教団と別れているでしょう。人のことは言えないですね。『救い』とは何でしょう。救われたとはどんなことなのでしょう。
私には本流派の方たちは教にとらわれ『自由』になっていない人のように見えますが。

5221大和撫子:2015/03/10(火) 09:20:18 ID:???
現象世界において.「教団」と「本流」に別れているとスクリーンに映って見えても、魂の奥底の願いは誰しもが本来は真理を求めてやまないのだと感じます。

5222大和撫子:2015/03/10(火) 09:26:58 ID:???
いろんな見方考え方かあると思います。
この考え方が絶対に正しいというのはないと思います。
天皇國日本實現のために、通らなくてはならない過程かもしれません。
現象世界に別れて映って見えても、そこにとらわれ頭脳智において、何とかせねばと考えてはならないと思います。

5223トキ ◆AXzLMGIbhk:2015/03/10(火) 10:14:09 ID:7hgdBF1o
>>5219

a hope様

 「基本」というのは、私自身は、「信」ではないか、と考えています。
藤原俊之先生は、よく信仰で一番大事なのは、「信」である、と言われて
いました。

 教団が分裂しているのは寂しい事ですが、これはよくなるための一過程
ですから、その意味では心配はしていません。

5224神の子さん:2015/03/10(火) 19:13:14 ID:???
>>5221大和撫子さん
魂の奥底の願いは誰しもが本来は真理を求めてやまないのだと感じます。


魂の底は神でありますから何も求めてはいないのでありませんか?満たされないものがあると云うことを感じるものは本来存在しない自我ではないですか?

その自我で、何かを信じるのが『信仰』なんでしょうかね。「信仰で一番大事なのは、「信」である」なんて言っている人がいますが、『全てが在ると云う実感』

の人には『不足感』はないですよね。『信』は『自覚』に至る過程でしかないと思うのですがいかがでしょうか。

『全てがある』と信ずることと『全てがある』と自覚する事とはまるで違うと思うのです。

5225大和撫子:2015/03/10(火) 22:00:21 ID:???
神の子様

私の知人に教団を辞めた方かおられました。
その方がこうおっしゃいました。
「甘露の法雨をしっかりあげたり、神想観をしているから救われるとか、願いが叶うという考えが間違えていることに気づいた。そうでないの。私たちは、みな救われ続けていて、すでに神が内在していて、私たちがその自覚に気づいてないだけ」

その知人の話と、神の子様の言われた事がダブってしまいました。
信じることの言葉の意味は、信じなくなる可能性が含まれます。
私たち自身が神であり、それを常に実感し生活していく中に自覚が生じていくのでしょうね。

私自身は、その自覚を深めるため神想観を実修します。
神様が内にあるからこそ、神様を求めてやまないのも事実だと思います。

5226レイ:2015/03/10(火) 22:13:20 ID:1ThqK4Lc
しつも〜ん(^o^)/

生長の家の神様についてどなたか良かたら教えてくらはい。
生長の家の主斎神・副斎神は何か?
神想観は生長の家の大神(住吉大神)に対して祈るって事で良いですか?

『生長の家30年史』の102P〜103Pでは…

さて吾々生長の家の団体では、心に宇宙大生命を祭るのであります。その宇宙大生命と云う文字の下に括弧して「(ソノ幽之幽ナル神トシテ天之御中主神、幽ナル神トシテ天照皇大神、現人神トシテ天皇)ヲ礼拝ス」と書いてありますが、

次に宇宙大生命即ち宇宙大生命の道を現わし、日本国威を発揚し、国体を明微にするところの導きの神様として心の幽斎する副斎神として生長の家の大神を礼拝すると云うことをハッキリ本尊の項目にあらわして置きました。
この生長の家大神とは誰方であるか、生長の家大神と云う文字の下に括弧をしまして、(『古事記』、『日本書記』に現われたる住吉大神)と申しました。

5227神の子さん:2015/03/10(火) 22:25:46 ID:???
大和撫子さん

ひとこと『神はすべてのすべて』と唱えて実相の世界に慣れて来ると入れます、と雅春先生は言われました。

「すべては一体」と云うことと「神はすべてのすべて」と云うことは同じことを言っているのですが、全てとか全てのすべてをどのように受取るか
が鍵ですね。

5228レイ:2015/03/10(火) 22:26:34 ID:1ThqK4Lc
話の流れをぶった切ってしまったようですが。

ここは博学な方が多いかと思いまして(^人^;)

私は、生長の家のご本尊は生長の家の大神(住吉大神)又は、自分の信じる宗教の神様なら何でも良し、みたいな…今一つハッキリわからないので。。

5229神の子さん:2015/03/10(火) 22:52:38 ID:???

智慧の言葉

宇宙には唯一の實在がある。それは『永遠の我』と云う実在である。

この事実の前に何の神があると云うのでしょう。

5230a hope:2015/03/10(火) 23:58:05 ID:cEpBaIdo

みなさま こんばんは

久しぶりにこのweb誌友会にわたし以外の方々の書き込みが沢山あってうれしいです。

わたし自身は、>>5221>>5225の大和撫子さまの

<<現象世界において.「教団」と「本流」に別れているとスクリーンに映って見えても、
魂の奥底の願いは誰しもが本来は真理を求めてやまないのだと感じます。>>

<<神様が内にあるからこそ、神様を求めてやまないのも事実だと思います。 >>

という、ご意見がとても心に響きました。


そして、>>5223のトキさまの

<< 「基本」というのは、私自身は、「信」ではないか、と考えています。>>

というご意見にも賛同させていただきます。

聖典「生命の實相」に書かれている真理を、素直に信じ行じ続けること、
それが「生長の家」を信仰するということなのではないかと思います。

だから、「すべては一つ」と書いてあれば「ああそうなんだ、すべては一つなんだ」と素直に受け入れることが大切なのではないかと感じています。


そして、レイさまが、「生長の家」の神さまについてご質問くださっていますが、
わたしも、そこのところはとても混乱するところです。

なぜなら、聖典「生命の實相」には、「生長の家」の主斎神・副斎神についての詳しい説明はないからです。


わたしの今現在の認識では、

『谷口雅春先生が、「生長の家」の主斎神・副斎神を決定されたのは、
「生長の家」を教化団体から宗教団体へと変更するために、便宜上、登録されたのが始まりなのではないか・・・。』

というものです。


そしてその理由としては、

『「生長の家」の創始者である谷口雅春先生が日本国に生まれた日本人であり、
当時、当然のように天皇を信仰されていたから』

というものです。


わたしも、聖典「生命の實相」にある「生長の家の大神」と「生長の家」の主斎神と副斎神との関係を、
どなたかにご指導をしていただけるとありがたいです。

5231a hope:2015/03/11(水) 00:20:50 ID:cEpBaIdo

「生長の家の本尊」についての参考資料 

>>1082 〜 復興Gさま謹写 『昭和十五年四月九日午後二時より 名古屋公会堂に於ける講演の速記』

5232レイ:2015/03/11(水) 03:28:21 ID:1ThqK4Lc
レスありがとうございます。

過去ログにあったんですね。
後で、じっくり読んで考えてみます。

主斎神・副斎神を決めたのは、宗教結社にする為の手続きで便宜上の理由で。
だから本当は生長の家では何を拝んでも良い、本尊も無いんだって言っても、じゃあ住吉大神・天皇・天之御中主神はどう位置付けてるのか?
そこらへんは正しく理解しときたいです。

簡単な言葉で書いてあるので私でも読めそうですが、出典は絶版書でしょうか。
これが絶版なら…やはり大変な事が起きていますね。
その後、文部省に変更の申し出をしていないらしいので、結びの神様を祭っている今の教団は既に…ってのは今日はやめときます。

5233大和撫子:2015/03/11(水) 06:57:55 ID:???
私の場合ですが、生長の家の神様は、生長の家は高天原ですから、宇宙創造の一切にみちみちておられる、実相を観ずる歌の歌詞そのものの方でいらっしゃり、聖経「甘露の法雨」の神の項そのものであられると感じております。その神さまの理念そのものが神の子人間であると感じております。

5234大和撫子:2015/03/11(水) 07:58:47 ID:???
神の子様
智慧の言葉をありがとうございます。
神はすべてのすべて…というと、実相を観ずる歌が思いめぐります。
歌詞のごとく、今日も生かされます。
なぜなら、私は神そのものですから。

5235a hope:2015/03/11(水) 09:22:53 ID:cEpBaIdo

>>5232 レイさま

<<主斎神・副斎神を決めたのは、宗教結社にする為の手続きで便宜上の理由で。
だから本当は生長の家では何を拝んでも良い、本尊も無いんだって言っても、じゃあ住吉大神・天皇・天之御中主神はどう位置付けてるのか?
そこらへんは正しく理解しときたいです。>>

レイさまのご意見に同感です。

ここのところのあやふやさが、教団と本流復活派の対立を引き起こす原因のひとつなのではないかとも思えます。

>>5222

<<いろんな見方考え方かあると思います。
この考え方が絶対に正しいというのはないと思います。
天皇國日本實現のために、通らなくてはならない過程かもしれません。
現象世界に別れて映って見えても、そこにとらわれ頭脳智において、何とかせねばと考えてはならないと思います。>>

という大和撫子さまの「天皇國日本實現のために・・・」というご意見を拝見すると、大和撫子さまは本流復活派の方でしょうか?

谷口雅春先生は、七つの光明宣言の冒頭に「吾らは宗派を超越し・・・」とうたっておきながら、
本当に『「生長の家」は天皇信仰でなければいけない』と他信仰を排斥するような宣言をされているとしたら、
それは明らかな矛盾だとわたしは感じてしまいます。

それとも、天皇信仰とは、本来、宗派を超越した信仰なんでしょうか?

どなたか、ご指導をよろしくお願いいたします。

5236大和撫子:2015/03/11(水) 09:47:54 ID:???
a hope様

私は生長の家の聖使命会にも入ったことなければ、どこにも所属していません。
私は、天皇信仰は生長の家の信仰そのものであって、天皇信仰でなければならないではなく、宇宙の真理であり摂理であると自覚しております。
申し訳ありませんが、私にはそれを教授できる能力はございせん。

5237大和撫子:2015/03/11(水) 09:53:34 ID:???
a hope様

参考までに。http://hikarinoshingun.giri.jp/03-aikoku/0304akk-shinomiya-masataka/01tennoushinkou-1.htm

5238レイ:2015/03/11(水) 15:28:07 ID:1ThqK4Lc
読んでみました。
先ず、主斎神をハッキリしたいです。

生長の家は本尊は無いけど、心に幽斎する神って事なら宇宙大生命すなわち天之御中主神(天照大神と一体)と、それが肉体人間として現れた現人神の天皇を祀る…だから生長の家ってのは天皇信仰て事ですかね?

副斎神は、これも本尊は無いけど、心に幽斎する神は生長の家の大神(住吉大神?)…ここもわからんけども、だから生長の家では日の丸を掲げて、その隣に光輪卍十字を掲げる…これが主斎神と副斎神を象徴してる?

難しいですね。。。

5239レイ:2015/03/11(水) 15:37:27 ID:1ThqK4Lc
私も本流復活派ですが。
とは言え天皇陛下は宇宙最高神!皇軍必勝〜!と言われたら引きますね(-.-;)

でも神道系の神、天皇…特に昭和天皇、太平洋戦争で戦った人たちを尊敬する気持ちは、やっぱり日本人として持ってます。
それが侵略戦争だったとしても…まあ、そこは他に詳しい人がいるので。

誌友会のテーマから離れてきて進行しないでもいけないので、この辺で退散します。

ありがとうございました。

5240a hope:2015/03/11(水) 22:51:00 ID:cEpBaIdo

大和撫子さま レイさま

いろいろなご意見、参考文献等をありがとうございます。 合掌。

実は、「生長の家」の天皇信仰については、自分の中ではだいぶ納得してきているのですが、
わたしの認識の仕方は、古くからの「生長の家」の信徒の方々、
特に本流復活派の先輩方には物足りなく感じられてしまうと思うので
これ以上の発言は控えさせていただきます。

>>5222で大和撫子さまが、教団と本流復活派の現象問題に関して、

<<いろんな見方考え方かあると思います。
この考え方が絶対に正しいというのはないと思います。>>

というご意見をくださいましたが、「生長の家」の天皇信仰に関しても、同じように、
<<いろんな見方考え方かあり、この考え方が絶対に正しいというのはない>>という結論にはなりませんでしょうか?

自分jが信じて信仰している「教え」が絶対的な真理であれば、
まずは、自分自身の周りから光明化が始まると信じています。

わたしは、これからも聖典「生命の實相」の真理を信じて、信仰していきたいです。

5241大和撫子:2015/03/12(木) 07:01:05 ID:???

<<いろんな見方考え方かあり、この考え方が絶対に正しいというのはない>>という結論にはなりませんでしょうか?

とのこと。真理はひとつですから。それぞれみな生かされている立場も課題も違います。
あなたがそれで良いならば、良いのではありませんか?

5242a hope:2015/03/12(木) 15:19:04 ID:cEpBaIdo

>>5241大和撫子さま

お返事をありがとうございます。

復興Gさまが、>>1278に<<昭和15年4月9日 名古屋公会堂に於ける谷口雅春先生ご講演>>の続きを謹写してくださっています。

一部抜粋させていただきます。

――――――――――

日本主義は結構でありますが、本当の日本主義は「八紘一宇」主義ですから、一切を包容する精神

でなければなりません。狭く凝り固まった日本主義の人達の中には、天照大御神様を日本特有の神様

であって外国の宗教の神仏と一緒にしてはならない、それは天照大御神の尊厳の冒瀆になるとお考え

になっている方もあるらしいのであります。特有とか特別とか申しますと何だか豪(えら)そうですけれども

普遍性がないと云う事であり、地方的だと云う事であり、どの民族からも共通的に礼拝せられる宇宙

的本尊とはなれないと云う事になり、神武天皇様の八紘一宇の理想から遠いと云う事になるのであり

ます。八紘が「一宇」となったら、「日本特有」などと云うものはありませぬ。だから「日本特有」

等と云う言葉を私は取除きたいのであります。天照大御神様はそんな小さい神でなしに、宇宙の大神

であられる。他の宗教の神はことごとく、宇宙の大神の垂迹(すいじゃく)あそばされたものであるから、一切宗教

の本当の本尊を拝むには天照大御神を礼拝すべきであると私たちは信じているのであります。そうす

ると、仏というもの、キリストと云うものも日本の神と同体の神であらせられるということになるの

であります。

―――――――――――

わたしは「天皇信仰は生長の家の信仰そのもの」であるように、「キリスト教信仰も生長の家の信仰そのもの」であり、
「仏教信仰も生長の家の信仰そのもの」であると感じています。

大和撫子さまの、

<<真理はひとつですから。それぞれみな生かされている立場も課題も違います。
あなたがそれで良いならば、良いのではありませんか?>>

というご意見に心より賛同させていただきます。

ありがとうございました。 合掌。

5243a hope:2015/03/12(木) 17:53:45 ID:cEpBaIdo

聖典「生命の實相」のお勉強に戻りたいと思います。

「生命の實相」第16巻 p90〜 の『 九 「戦いの哲学」と「戦い本来無しの哲学」』
では、
高津栄三郎という方が、雅春先生と議論をしています。
高津氏は、「鼠が猫に食われることが調和した事実」であり、戦いの世界こそ「生命」の世界の実相であると主張して一歩も引きません。

この議論好きな高津氏はなんとなく、初心者さまに似ていて拝読していて初心者さまを懐かしく思い出していました。
(そのご主張内容は似ているかどうかはわかりませんが・・・)

初心者さまはお元気でいらっしゃるでしょうか?

5244志恩:2015/03/12(木) 18:22:55 ID:.QY5jUA6
a hope様

a hope様は、お若いのにご熱心で継続力がおありになって、すごいですね。
日々、大変教えられております。

ほんとですね、初心者様は、どうなさっておられるでしょう….。
また、以前のように、さくらちゃんとコンビで出て いらっしゃるかしら?

5245ビックリ ◆KfYRXK6jJk:2015/03/12(木) 23:21:07 ID:p..UGkhA

コンビで出る=同時に出る=同一人物

5246a hope:2015/03/13(金) 07:47:17 ID:cEpBaIdo

>>5244志恩さま

あたたかい励ましのお言葉をありがとうございます。

わたしはなにが本当の「生長の家の教え」なのか、なにが「真理」なのか知りたいだけなのですが、
自分ひとりで勉強していると、どうしても偏りがでてきてしまいます。

わたしはこの掲示板で、志恩さまはじめたくさんの「生長の家」の先輩方に
見守られながらお勉強できる幸せをいつも感じています。

そして、なによりも管理人のトキさまのご愛念に心より感謝しています。

5247トキ ◆AXzLMGIbhk:2015/03/13(金) 22:03:59 ID:LUa.pzQ2
>>5246

 いえいえ、いつも粘り強いご投稿に心から感謝申し上げています。
今後ともよろしくお願いします。

合掌 ありがとうございます

管理人敬白

5248a hope:2015/03/16(月) 08:39:51 ID:cEpBaIdo

「生命の實相」第16巻 p108 後から6行目〜

高津―― 猫が鼠を食わなければ何をたべて生きるのです。

谷口―― 猫と鼠は一緒に草原に寝転んで草を食って相戯れているような状態が「実相の世界」なのです。生命は互いに奪い合い食い合わなければ生長進化できないというのは実相を知らぬ「迷い」です。その「迷い」が客観化(かたちにか)されたのが、互に食い合う生命なのです。「迷い」がなくなれば「迷い」の具象化である現象生命の「食い合い」もなくなるのです。『生長の家』誌友には心一つで鼠と猫を調和させた実例がたくさんあります。

高津―― そんなことは信じられません。仮に猫が鼠を食わず、あらゆる動物が食い合いをしなくなっても、人間の痛みや苦しみはなくならない。たとえば地震とか津浪とかいう天変はなくなりはしない。そういう苦しみに出遭っても悩まないように悟らせるのが宗教家の役目です。

谷口―― わたしに言わせれば三界は唯心の所現ですから、地震とか津浪とかも、われわれの心が清まれば起こらなくなるのです。あなたのおっしゃる救いは、苦しみは苦しみのままで諦めてその苦しみから解脱する救いですが、わたしが説くのは現実の苦難そのものの諸共(もろとも)に救われるのです。悟りと同時に病気が治り、境遇も環境もよくなるのです。

高津―― たとい現実に地震も起らなくなるとしても、それは幾十億劫後の世界のことでしょう。それはありうるかもしれない、無いかもしれない。そういう世界を空想して現実の苦しみを救うことはできない。現実の苦しみを救うには、現実の苦しみに突き入って、苦しみは苦しみのままでそこに生命が生きているという真理を悟らせるようにするしか仕方ないでしょう。

谷口―― 地上に地震や、津波がなくなるのは地上全体の生物の心が清まらなくてはならないから、その遅速は、地上全体の心の清まる遅速に関するのです。しかし、一個の人の環境がよくなるのは、その人一人の心がよくなればよいのです。地震や津波があっても、心に地震や津波がなくなった人をその天災は害することはできない。・・・(略)

5249a hope:2015/03/16(月) 08:42:08 ID:cEpBaIdo

>>5248 a hope所感)

ここのところの高津氏と雅春先生のやり取りは、とても興味深いです。
現象世界に生きて、実際に病気になったり災害にあったりしているわたしたちは、
高津氏同様に雅春先生のこのご指導内容を、すんなりと受け入れることはむずかしいのかもしれません。

しかし、雅春先生は、

<<わたしに言わせれば三界は唯心の所現ですから、地震とか津浪とかも、われわれの心が清まれば起こらなくなるのです。>>
<<一個の人の環境がよくなるのは、その人一人の心がよくなればよいのです。地震や津波があっても、心に地震や津波がなくなった人をその天災は害することはできない。>>

と、

つまり、人間の心が清まり「神の心」が顕れれば、地震や津波は起れなくなる。
たとえ、人類の心が清まらなくても、「一個人の心が清まれば、地震や津波はその人を害さなくなる」と、そう断言されています。


一方、現「生長の家」教団の総裁、雅宣先生は

<<生長の家では「神は法則である」とも「法則の形をもって現れ給う」とも説く。この観点から考えると、地震などの地殻変動は、物理学や化学の法則にもとづいて起こるのであるから、地震が起こる所には「神が現れている」と考えることもできる。>> >>4657 

というとても自分勝手な、雅春先生とは全く正反対の「物質在り」の見解をされています。
ですから、雅宣先生率いる「現生長の家教団」は人間、一人一人の心を清める個人救済をおろそかにして、
ソーラーパネルだとか、電気自動車等という物質的解決方法にばかり走ってしまうのだと思われます。

それはまったく本来の「生長の家の教え」からかけ離れた運動だと感じています。

5250神の子さん:2015/03/16(月) 20:01:07 ID:???
<一人一人の心を清める個人救済をおろそかにして・・・・それはまったく本来の「生長の家の教え」からかけ離れた運動だと感じています。>

ということですのでa hopeさんにお聞きします

<つまり、人間の心が清まり「神の心」が顕れれば、地震や津波は起れなくなる。
たとえ、人類の心が清まらなくても、「一個人の心が清まれば、地震や津波はその人を害さなくなる」と、そう断言されています。>

どの程度の心になると『清まった心』といえて『神の心』が現れたと云えるのですか?

神の心の雅春先生が戦後執筆追放になったのはどうしてですか?GHQの支配下になど成るはずがないのではありませんか?

東北大震災の津波で亡くなった人達は皆さん心の清くない人達と云うのですか?

東京大空襲で亡くなった10万人の人たちは心の清くない人達ですか?

5251トキ ◆AXzLMGIbhk:2015/03/16(月) 20:11:19 ID:irEswSAY
>>5250

曳馬野様、ご投稿ありがとうございます。
web誌友会にご参加のおりは、ご投稿をお願いします。

合掌 ありがとうございます

管理人敬白

5252トキ ◆AXzLMGIbhk:2015/03/16(月) 20:24:48 ID:irEswSAY
>>5250

曳馬野様

 横レス、失礼をします。

 なかなか、面白い事を言われますね。

 私個人は、個人救済が基本であり、この基本を無視して国家や環境を語っても
砂上の楼閣だという解釈をしています。生長の家の歴史を省みると、この個人救済
を軽視しての運動は行き詰まると私は感じています。それが違うというのなら、
曳馬野様が率先して見本を見せてください。他人様を批判する以上はそれなりの
覚悟はお持ちだと思います。よい見本を期待しています。

>>神の心の雅春先生が戦後執筆追放になったのはどうしてですか?

 ところで、この人間の世界にいる限り、私たちは誰も現象の世界の法則から自由
になる事は難しいです。これは谷口雅春先生でも同じです。後年の信徒のなかには、
谷口雅春先生を異常に神格化し、抽象化する動きがあります。が、谷口雅春先生の
直弟子の方々はこういう事を嫌われました。

>>東京大空襲で亡くなった10万人の人たちは心の清くない人達ですか?

 これは「神 真理を告げ給ふ」は拝読するとわかりますが、霊的な観点から、戦争
や大災害が起きる意味が説明されています。ただ、魂の向上が目的ですから、こうい
う戦争や大災害という手段が必須ではないのは当然です。現に、生長の家の信徒は、
現在でも”世界平和の祈り”をしています。

5253a hope:2015/03/16(月) 22:37:05 ID:cEpBaIdo

トキさま

やはり>>5250の「神の子さん」は曳馬野さまなのですね。

わたしは、今後ハンドルネームが「神の子さん」からの質問には一切お答えするつもりはありません。
神の子さんはたくさんいらっしゃいますから、いちいち質問に答えているとこちらが混乱してしまいますからね。
まして、その「神の子さん」が曳馬野さまなのであれば、余計にお答えする必要はないと思っています。

トキさま、わたしの代わりにお答え下さりありがとうございます。
トキさまのご意見に賛同させていただきます。

5254a hope:2015/03/16(月) 23:38:40 ID:cEpBaIdo

「生命の實相」第16巻 p112 5行目〜

谷口―― 『生命の實相』を読んでも心が真にそれに共鳴せず、実相を悟ることができない人は治らないのです。真理は種であるから、それを植えても生えない不毛の地や石地に播いては生えないけれども、それは真理という種がわるいのではない。十本の同じ種を植えて、半分も生えれば、その種は生える力がある、生えないのは土地が悪いのだと断定してもよいでしょう。

人間は心的存在ですから、酸素に水素を交えたら必ず水ができるというふうに、人間に「生命の実相」を混ぜたら必ず病気が治るというように一定の結果を生ずるわけにはゆかない。「生命の実相」を話せば話すほど、素直に受けないで、議論できるだけ反撥して来られるあなたのような人もある。だから「生命の実相」を受ける心の相異に従っていろいろの結果を生ずるのです。しかし、それを読んだ大多数の人々が病気から救われている事実を否定することはできません。

5255a hope:2015/03/16(月) 23:39:43 ID:cEpBaIdo

>>5254 a hope所感)

わたしは、「生長の家」の信徒であれば、聖典「生命の實相」に書かれてある真理には反発などせずに素直に受け入れるのが当然だと思うのです。

<<わたしに言わせれば三界は唯心の所現ですから、地震とか津浪とかも、われわれの心が清まれば起こらなくなるのです。>>
<<一個の人の環境がよくなるのは、その人一人の心がよくなればよいのです。地震や津波があっても、心に地震や津波がなくなった人をその天災は害することはできない。>>

と聖典に書かれているのですから、わたしたち「生長の家」の信徒は、素直にそれを信じて、
一人一人が心を清める努力をすればいいのだと思います。

そうすることが「生長の家」を信仰するということなのではないでしょうか?

5256神の子さん:2015/03/16(月) 23:58:42 ID:???

>>私個人は、個人救済が基本であり、この基本を無視して国家や環境を語っても砂上の楼閣だという解釈をしています。
>>ところで、この人間の世界にいる限り、私たちは誰も現象の世界の法則から自由になる事は難しいです。これは谷口雅春先生でも同じです。

「たましいの救い」とは最も厳粛な意味での救いでありまして、救われるということはわれわれのたましいが個性をもちながらも神または仏そのものなる大自在の境地
…欲しいと思う事物はそこに現れ、欲せざる事物はそこから姿を消すというような大自在境にに達するということであります。「頭注版一巻p23」

個人救済は言葉の響きはよろしいが、a hopeさんのような原理主義的な解釈を引用文にするのであれば、救われているはずの雅春先生は大自在境に達していなくては
ならない。然るに貴女は雅春先生でも自由になる事は難しいことであるという。「引用の真理」が正しいのか、はたまたあなたの言うことが正しいのですか?
雅春先生でさえ大自在境に達していないというのであれば、どこに個人救済などありますか?

「縦には、未来世に病気、その他の不幸の芽を出す業因を蒔かない工夫をしなければならない。すなわち罪を犯さないでもこの世に生きられる工夫をしなければならない
のであります。横には現在われわれが接触する環境を浄めて、「生命」が苦痛や病気という手段を使って自衛を講ずる必要のない天国浄土のような環境をつくるように
しなければならないのであります。ところがこの環境というものが一方においては自身の念の影なれども、同時に念はまた環境の陰であって、二つ向かい合わせた鏡の
ように環境と念とは互いに影響しあうものであります。毅然とした強い念は環境の方を征服しますが、弱い、発達の程度の低い念は環境に征服せられるのであります。」
   「頭注版一巻p37」

幼いたましいの唯物論を信じる中国のの人々は、自然破壊なんて何のそので真っ黒な煙をまき散らしています。日本人にして生命の実相を読んだにしてもろくすっぼ救わ
れない幼いたましいの人間が多いのであれば、自然破壊を防ぐことにより、過去の日本のように自然の中で自然とともに生きた故郷と云う言葉のイメージが生きている
世界を自然環境から取り戻すとは大事なことであると思います。

>>霊的な観点から、戦争や大災害が起きる意味が説明されています。ただ、魂の向上が目的ですから、こういう戦争や大災害という手段が必須ではないのは当然です。

「魂の向上が目的ですから」こういう言葉を言うから聞いているのです。心の清いものは災害に会うことはないというのが真理と云うから、災害に会った人は心が清く
ないのかと、あなた方は魂の進歩の為に災害に会ったと、腹の中では思うですかと。

5258トンチンカン:2015/03/17(火) 00:33:11 ID:r6TJQSCM
>>5257 削除ねがいます!!

5261トキ ◆AXzLMGIbhk:2015/03/17(火) 10:29:29 ID:BpP5RmUI
 これは私が不用意なことを書いたことが原因です。お詫びします。
この板は、誌友会のための板ですので、以後の議論は、別の場所でお願い
申し上げます。
a hope様、続けてください。

合掌 ありがとうございます

5262神の子さん:2015/03/17(火) 18:50:17 ID:???
>>なかなか、面白い事を言われますね。
>>これは私が不用意なことを書いたことが原因です。お詫びします。

面白いことをと揶揄しながら、雅春先生も自在境にはいない、と書き、反論されると「不用意なことを書いた」という。
不用意で書くかね、そんなことを。いつもそのように思っているから書くのじゃないかね。

5264トキ ◆AXzLMGIbhk:2015/03/17(火) 21:31:12 ID:BpP5RmUI
曳馬野様
トンチンカン様

 ご投稿、ありがとうございます。
たいへん恐縮ですが、誌友会と直接関係がない話題は、
できれば、他の板でお願いします。

 勝手なお願いをして、すみません。

合掌 ありがとうございます

管理人敬白

5267神の子さん:2015/03/18(水) 06:03:39 ID:???

5261 :トキ ◆AXzLMGIbhk :2015/03/17(火) 10:29:29 ID:BpP5RmUI
 これは私が不用意なことを書いたことが原因です。お詫びします。 この板は、誌友会のための板ですので、以後の議論は、別の場所でお願い
申し上げます。  a hope様、続けてください。 合掌 ありがとうございます


5264 :トキ ◆AXzLMGIbhk :2015/03/17(火) 21:31:12 ID:BpP5RmUI
曳馬野様 トンチンカン様
ご投稿、ありがとうございます。たいへん恐縮ですが、誌友会と直接関係がない話題は、できれば、他の板でお願いします。勝手なお願いをして、すみません。
 合掌 ありがとうございます 管理人敬白
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このような寝言を言う暇に、ご自分のまいた種の刈り取りをしたらよいのでは。a hopeさんの誌友会版での発言が、東北大震災で苦しみにあえぐ人たちは
「こころの清くない人達だ」と云う意味の真理解釈をしたから、それに疑問を呈した。それに対しa hopeさんは答える義務はないと云い、あなたは「横レス失礼します」

と書いてある通り代理で答えたのです。その前文が「おもしろいことをいいますね」であり内容が「雅春先生も自在境にはいなかった」と述べた。
それに対し「個人救済こそ生長の家の基本」との分派、a hopeさん、トキ管理人に生命の実相より引用して生長の家の説く「救い」とは何かについて書いた。

それについて薔薇の花氏名の通りのトンチンカン氏ガトンチンカンな反応をしている。管理人になって寝言を言う前に、「トキ」と云う一人の人間が蒔いた種の後始末を
したらいかがですか。

「個人救済こそ生長の家の基本」「雅春先生も自在境にはいなかった」に対する私の反論に。是こそ誌友会版の趣旨にかなっものでしょう。


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