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Web誌友会 板/2
5099
:
a hope
:2015/01/13(火) 08:20:40 ID:cEpBaIdo
>>5067
訂正
曳馬野さまって、初心者さまやさくらさまにソックリですね。
↓
曳馬野さまって、初心者さまやさくらさまとされることがソックリですね。
誤解を招く発言をし、申し訳ありませんでした。
わたしは、曳馬野さま=初心者さま=さくらさま だとは思っていません。
ただ、お三方とも、聖典「生命の實相」の真理が蘇ると都合が悪いお立場にいる方なのかもしれませんね。
5103
:
a hope
:2015/01/13(火) 21:01:02 ID:cEpBaIdo
「生命の實相」第15巻 p147 3行目〜
肉体の年齢は仮の年齢であって、本当の年齢ではない。本当の人間の年齢はその霊魂の年齢である。霊魂の年齢とは、どれだけその人間が真理を悟ったか、「実相の人間」に近づいたかということで定(き)まるのです。
5104
:
a hope
:2015/01/13(火) 21:04:05 ID:cEpBaIdo
(
>>5103
a hope所感)
以前、このweb誌友会で霊界篇をお勉強しているときに、
神の子さんが小林春恵先生の「わが信仰の旅路」を紹介してくださいました。
http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/11346/1358650232/3670
その時は、トキさんや志恩さんもいろいろ春恵先生のお話を紹介してくださったりしたので、
わたしも興味をもったので、「わが信仰の旅路」を拝読してみました。
そして、衝撃を受けました!
なんと、春恵先生は、20歳年下の小林昭三氏と結婚されたのですよね!!
当時、そういうことは珍しいことだったと思いますが、
「生長の家の教え」では『肉体の年齢は仮年齢であって本当の年齢ではない』とありますから、
春恵先生も、昭三氏もその真理をよく悟られていたのでしょうね。
また、この第5章には、楠野という青年が登場して、自分の恋愛問題を雅春先生に相談しています。
当時の「恋愛」は当事者同士の問題にとどまらず、家族、親せき、霊学者なんかまでも関わってきていて、
なんだか大変そうです(;´∀`)
今の日本では、不倫や離婚があたりまえのようになってしまっていますが、この章を拝読していると、
当時は、今ほど恋愛の自由がなかったかもしれませんが、
現代よりも、もっとずっと純真な美しい恋愛をする人が多かったのではないかと感じます。
5106
:
神の子さん
:2015/01/14(水) 00:15:53 ID:???
1908 :神の子さん :2015/01/13(火) 23:46:42 ID:???
>>1905
レイさん くだらんレスするな。汚物は消毒だ〜!
管理人を真っ先に消毒しなければなりません。なりすましはいかんと速攻消毒にかかった管理人でありましたが、
1901 :トキ :2015/01/12(月) 12:41:18 ID:A3MA1f1M
>>1900
曳馬野 様 あらあら、とうとう、うのはな様まで攻撃の対象にしましたか。うのはな様、味方と思っていた曳馬野 様が裏切りました。 の投稿に対して何もしない。
一日半何もしないと云うことは、なりすましではないと云うことになります。となりますと独占版でうのはなさんが、この一連のやり取りについて正しく読んでおられる。
管理人は簡単な内容を敢えて、『裏切りました』という言葉を使うことで、荒れる版にしようと自らしたことになります。管理人の価値が全くないと云うことになります。また
>>1901
の投稿者「トキ」なるものがナリスマシであるならば、消毒の措置に出るのが管理人の一貫性から当然であります。然るに削除の行為はしない。ナリスマシを肯定している。
どちらにしても版が荒れればよいと云う行動をトキ管理人自ら採っているのです。
こんな管理人に護ってもらいながら投稿したい、いくら気取っても腹の中は詮索好きの、人を軽蔑する傲慢な人間、a hopeさん
5107
:
a hope
:2015/01/14(水) 09:26:34 ID:cEpBaIdo
>>5105
曳馬野さま
わたしが詮索好きだと見抜かれたようなので、それならば、正々堂々と反論させていただきます。
本当に雅宣先生が「生長の家」の教えを正しく法燈継承されていて、
教えの神髄を変えることなく時代に合わせて説いていらっしゃるのであれば、
わたしのこの掲示板での雅宣先生の教えへの「批判」など、なんの影響力ももたないと思います。
曳馬野さまや初心者さまやさくらさまは、雅宣先生の教えが、
本来の「生長の家」の『光明思想』とは真逆の『暗黒思想』であるとわかっていて、
敢えて援護されているのではないですか?
その目的は何ですか?
5110
:
a hope
:2015/01/14(水) 21:57:08 ID:cEpBaIdo
「生命の實相」第1巻 p152
「言葉」でこの世界に健康を満たせば、この世界の人類が健康になる。「言葉」でこの世界に光明を満たせばこの世界が光明化される。「生長の家」は実にこの「言葉の力」によって人類生活を健康化し、幸福化し、光明化せんがための「神の国運動」であって、「生長の家」の発行部数がふえるほど、この世界に「善き言葉の力」がふえることになる。
「善き言葉の力」がふえればそれだけ人間の心が光明化し、地上に浮動している人間の「想念波動」が光明化し、いっさいの現実的悪の種子(たね)が浄められ、キリスト教でいえばキリストの再臨、仏教でいえば弥勒菩薩下生、すなわち地上天国建設の時期が早まることになるのであります。
こうして「コトバの力」の見地から考えてみますときには「生長の家」のコトバの力によって人類生活を健康化し、幸福化し、光明化しようという運動に相反して、いかにこの世界にはコトバの力によって人類を不健康化し、不幸化し、暗黒化そうという運動が多いことでしょう。
毎日日本国中に合計なん百万なん千万という発行部数をもったジャーナリズムは皆いちようにこの人類生活不健康化、不幸化の運動に味方しているようにみえる。全世界でいうときは十数億の発行部数に達するジャーナリズムが毎日コトバの力で人類生活を不健康にするための印刷物をバラまいていることになる。
新聞紙の大半は栄養剤と薬との広告で埋まっている。その広告は「おまえたち物質で造られた人間よ、おまえたちはこの薬を飲まないと治らないぞ」「この栄養剤を飲まないと健康になれないぞ」とおどしつけている。
これは新聞が広告料という金のために牽制されて「悪しき言葉」の力の宣伝に利用されているからであって、こんな広告を読めば読むほど、われわれ人間が神の子だという信念、物質ではなくて生命であるという信念が失われて、人間は物質であるから永久に薬物の奴隷として永久にその前にひざまずくべきものなりとの烙印を押されることになるのであります。
5111
:
a hope
:2015/01/14(水) 21:58:58 ID:cEpBaIdo
(
>>5110
a hopeまとめ)
「コトバの力」の見地から考えてみる『光明化運動』と『暗黒化運動』
『光明化運動』――「生長の家」のコトバの力によって人類生活を健康化し、幸福化し、光明化しようという運動
『暗黒化運動』――『おまえたち物質で造られた人間よ』という「悪しき言葉」の力によって人類を不健康化し、不幸化し、暗黒化そうという運動
5112
:
a hope
:2015/01/14(水) 22:03:38 ID:cEpBaIdo
>>5108
曳馬野さま
<<そんな息子を敢えて副総裁にし、組織を任せた清超先生の行動は、なんと評価しますか貴女は。>>
わたしには、当時の清超先生のご意志はまったくわかりませんから、お答えしようがありません。
<<それよりも復興Gさんが去って後、あなた以外誰が参加されていますか誌友会に。>>
トキさま、訊けさま、志恩さま、るん吉さま、SAKURAさま、トンチンカンさま、
最近は忙しそうで参加が少ないですが、ユタカさまなんかが参加されていますよ。
曳馬野さま(仏心さま)だってこうして参加されているではないですか・・・
それに、書き込みはされなくても、何人もの閲覧者の方がご覧になってくださっているとわたしは信じています。
だから、わたしは、曳馬野さまに「傲慢」と言われようが、「強情」と言われようが、「臭い」と言われようが、
トキさまのお許しがある限りこのweb誌友会を続けたいと思います。
わたしは、大好きな聖典「生命の實相」をここで学ばせていただくことで、
本当の「生長の家の教え」が何なのか明らかにしたいだけなのですから・・・。
曳馬野さまこそ、何の目的もないのであれば、どうぞお体に障りますから、
こんな傲慢なわたしの「臭い」投稿はもう読むのをおやめになって心安らかにお過ごしください。
「臭い物には蓋」という諺もありますから、曳馬野さまにはトキ掲示板自体をご覧にならない事をお勧めいたします。
ご自愛くださいね!
5117
:
トキ
◆AXzLMGIbhk
:2015/01/15(木) 10:14:34 ID:t.y68kmc
a hope様
いつも素晴らしい御文章を書いてくださり、心から感謝申し上げます。
web誌友会でのご活躍は、管理人としても嬉しい限りです。
最近、悪意に満ちた投稿者が、心ない投稿を繰り返しておりますが、
無視してください。釈尊やイエスキリストがお悟りを得る前には、悪魔
が現れて妨害をしたとお経や聖書にはあります。
真理について書かれて、妨害投稿がある、ということは、内容が正しい
という事です。
これからも、よろしくお願いします。
合掌 ありがとうございます
管理人敬白
5118
:
神の子さん
:2015/01/15(木) 10:19:10 ID:???
5113 :神の子さん :2015/01/15(木) 02:02:29 ID:???
そういう寝言は部室版
>>2502
と少し前からの訊けのもの読んでから言ってね
こんな人間、本流よりはるかに心の汚い人間を生み出したのが、生長の家なんだ
自らはお高く留まるけれど心は低い、そんなトキ&訊けに感応する貴女 すばらしいです
5119
:
a hope
:2015/01/15(木) 23:36:37 ID:cEpBaIdo
>>5117
トキさま
あたたかいお言葉をありがとうございます。
「生命の實相」がこんなにも素晴らしい聖典でなかったら、
わたしはここでこんなに長くお勉強させていただいてはいないと思います。
<< 真理について書かれて、妨害投稿がある、ということは、内容が正しい
という事です。>>
わたしは、聖典を拝読し、謹写して、そのことへの感想を述べているだけですが、
いつかは、自分自身の口から直接「真理」が語れるようになりたいです。
この掲示板では、トキさまがいつも見守ってくださっているので安心してお勉強できます。
こちらこそ、これからもどうぞよろしくお願いいたします。
感謝 合掌。
5120
:
a hope
:2015/01/16(金) 20:00:15 ID:cEpBaIdo
「生命の實相」第15巻 p148 後から6行目〜
有名な観相家石竜子(せきりゅうし)も「人相は信仰生活に入らないまでの人には的中するが、信仰生活に入った人には的中しない」と言っています。人相も、姓名も、家相も、体相も、健康状態も、およそ形なるものは、われわれの過去からの念の集積の形象化(かたちにか)したものであります。
(中略)
人間は生まれると一定の姓名を与えられ、また大体一定の人相も備えられていますが、これはその人間の霊魂が現世に生まれるまでの過去生活において得たる念の集積(業ともいいます)が形に出てるのであって、業というものは自動的に流転する一種の波動ですから、われわれが自身の生命の実相を自覚し、真理を悟って超越しない限りは、業の自転する力によってわれわれの運命は生まれた時にはすでにその大体が定(き)まっているといってもよいのです。だから、 人相を見てその人の運命を言い当てることができる――これは当然であります。
ところが病気とか不幸とかを起す念は妄念であるが、妄念に捉われている人から観れば厳然たる存在でありますのは夢見ている人にとって夢が確乎たる存在であるがごとくでありますが、真理の上から言えば根柢のない存在であります。なぜなら神はそのような病気とか不幸とかを造り給わないから、それを起す念も真存在ではなく、偽存在、空しき虚の念、妄念なのであります。
だから真理を知り、自分の生命が神の子であって事情円満なものであるという実相を自覚すれば、業の流転から超越することになるのです。そうなさりますと、その人の運命は観相家が観ても当たらない、姓名判断の大家が観ても当たらない。自分の「生命」が自由な世界へ出て過去に捉われない自由創造を続けてゆくからです。
この自由創造の働きとして人相もそれに追随して変わってくることもあり、姓名も自然に変えたくなり、変わってくることもあります。
(中略)
心をあとにして形ばかりを追うている者は、とんだ失敗を演ずるものです。心が整い、自然に人相のよくなるような人は、また自然に善い家相に住むように事情が運(めぐ)って来、善き家相の家が誂(あつら)えたように見つかるとか、今までの家に住んでいても、自然に、物のならべ方や造作の仕方などにも、生き生きとした光明が見えて来、家相が一変してしまうのであります。だからこの変化というのはどこまでも真理を知った上での自由創造の働きとしてそうなってくるのでなければなりません。
「人間の生命は形に縛られるものだ」という迷いに捉われている結果、姓名を変えられるような方は、いかに姓名を変えてもやはり不幸が付随しますので、この姓名も欠点がある、あの姓名も欠点があるといって、始終転転として姓名を変えながらなお安住を得ないで、その不安の念がさらに次の不幸を起す集積となることがあります。
姓名が「生命」を支配するのではなく、あらゆる現象は「生命」が進軍して行く際に周囲に投映した念の影でありますから、「生命」こそ主なのであります。生命の自由創造として人相が自然変わるならば、それもよろしい。生命の自由創造として善い家相にすむようになれば、それもよろしい。生命の自由創造として改名したくなったり新しい屋号や仮名や雅号(がごう)をつけたくなるならば、それもよろしい。しかしいかなる場合にも、われらは「生命」が主であって、いっさいの形相は従だということを知らねばなりません。
5121
:
a hope
:2015/01/16(金) 20:01:37 ID:cEpBaIdo
(
>>5120
a hope所感)
わたしは昔から、「占い」の類にはほとんど興味がありませんでした。
「今日の○○座の運勢」とかTVなんかでやっていますと、あえて見ないようにしていました。
当時は「自分の運命は、自分で支配したい」という気持ちが強かったのですが、今は「わたしの運命は、神さま任せ」という心境になってきました。
<<心をあとにして形ばかりを追うている者は、とんだ失敗を演ずるものです。心が整い、自然に人相のよくなるような人は、また自然に善い家相に住むように事情が運(めぐ)って来、善き家相の家が誂(あつら)えたように見つかるとか、今までの家に住んでいても、自然に、物のならべ方や造作の仕方などにも、生き生きとした光明が見えて来、家相が一変してしまうのであります。だからこの変化というのはどこまでも真理を知った上での自由創造の働きとしてそうなってくるのでなければなりません。>>
「真理」を知って心が整えば、こちらから求めなくても、自然に幸福がやってくるということのようです。
そのためにやるべきことは、『聖典を拝読』して、『神想観』をして、周りの人に深切を尽す(『愛行』)こと、つまり「生長の家」の三正行ですね!
5122
:
るん吉
:2015/01/17(土) 13:54:56 ID:p..UGkhA
a hopesama
ずーっと読ませて頂いてますよ。
有難うございますねっ。
5123
:
a hope
:2015/01/18(日) 00:25:16 ID:cEpBaIdo
「生命の實相」第15巻 p159 4行目〜
谷口―― (略)
真にあなたと民子さんとが誓ったとおりに純情で愛し合っているならば、二人の心は一年や二年離れているだけでは変わらないでしょう。今民子さんを遠山さんが郷里へ帰されたのは遠山さんの心では、あなたたちの恋愛が本当の永続性をもったものであるか、一時の浮気の熱病であるかをわからすためです。
別れているうちにお互いに気が変わるようでは浮気な出来心で本当にそれは神の結び給いし縁ではなかったのです。そこにあなたたちの前にテストが置かれてあるのです。今あなたたちの幸福のためにこのテストをパスしなければならないのです。
楠野――(切なそうに)一年も二年も、二人はわたしたちの愛が永遠性のものであるということを人々の前に実証するまでは会えないのですか。
谷口――恋するもの同士が逢いたいのは無理もない。その時期はもっと早く来るでしょう。あなたは倉田百三氏の戯曲『出家とその弟子』を読んだことがありますか。あの戯曲のなかで、唯円坊と「かえで」とが恋をする、恋して二人は会いたくてたまらないけれども相手の幸福を希(こいねが)って逢わないで耐えしのんでいる場面がある。会いたくて会いたくてたまらぬけれども、相手の幸福を欲して会わないでいる心持ちには、会いたくて会う心持よりも、いっそう深い愛と美が輝いている。肉体の会いたさに打ち克っている。
それには感覚的な騒がしい美はないけれども、魂の静かな美がある。ここからのみ本当の明るさが来るのです。こうして魂が整ってから、その心の反影として肉体の世界が整う。こうして得られる男女の結ばれ方が本当の結ばれ方なんです。
楠野――よく解りました。目が覚めたようです。行手がハッキリしてきたようです。先生のおっしゃるように努めます。(小声で)皆様失礼いたします。(退場)
5124
:
a hope
:2015/01/18(日) 00:27:33 ID:cEpBaIdo
(
>>5123
a hope所感)
正直に言えば、この第五章のここのところの楠野青年の恋愛相談を拝読していて、わたしは楠野青年と民子さんを気の毒に感じていました。
二人とも離婚歴や女性遍歴はあったとはいえ、お互いに当時は独身で、普通に考えれば恋愛するのも自由なはずなんですが、
ここでは、まわりの人々に過去の行動なんかを評価され、無理やり一時的に別れさせられてしまったという結果になってしまいました。
昔の恋愛というのはみな、そんな感じだったのでしょうか?
ですが、
<<会いたくて会いたくてたまらぬけれども、相手の幸福を欲して会わないでいる心持ちには、会いたくて会う心持よりも、いっそう深い愛と美が輝いている。肉体の会いたさに打ち克っている。
それには感覚的な騒がしい美はないけれども、魂の静かな美がある。ここからのみ本当の明るさが来るのです。こうして魂が整ってから、その心の反影として肉体の世界が整う。こうして得られる男女の結ばれ方が本当の結ばれ方なんです。>>
という雅春先生の素晴らしいいお言葉を読んだとき、恋愛においても「環境は心の影」「肉体は心の影」という真理は普遍なんだな〜と納得しました。
でも、まてよ、わたしはそんな恋愛を今迄に経験したのだろうか・・・
もちろん、主人とは恋愛結婚でしたが、そこに「魂の静かな美」があったのだろうか・・・
あらためてチャレンジしてみようかな・・・
そして、主人に「また君に恋してる」なんて言わせてみようかな・・・(笑)
5125
:
a hope
:2015/01/18(日) 00:31:45 ID:cEpBaIdo
>>5122
るん吉さま
あたたかいお言葉をありがとうございます。 合掌。
また、いつでもご参加くださいね!!
5126
:
a hope
:2015/01/20(火) 00:14:39 ID:cEpBaIdo
「生長の家」第15巻 p172
平井―― (略)
人の転住に方角の吉凶、男女の相性の吉凶、生年月日による吉凶、事を始めるのに日の吉凶があるのでしょうか?
谷口―― 人間は神の子であってひとりひとり宇宙の中心でありますから、どの距離へ対しても無限でありまして、本来東西なく南北ないのであります。だからどちらを向いても、みんな善い方角であるのが真理なのであります。
周囲がいかに暗くともわが行く先に光明を必ず見る、われ自身が光明であるからだというのが「智慧の言葉」にありますが、そのとおりでありまして、人間は神の子でありますから、どちらの方角を向いても皆善い方角なのであります。
また「思い立ったら吉日」という諺が昔からある。この諺は真理をうがっているのでありまして、人間は思い立ったときに恐れることなく断行する、この恐るるところなく断行するところに鬼神も避くる誠が出てくるのであります。
(中略)
方角の吉凶も、日の吉凶もみんな自分の心に在る。出かけしなに、今日は悪い方角へ向いて行かねばならぬ、何か悪いことが起こらねばよいがとふと思う、――あとは忘れて別に気にかけないでも、最初に「今日は悪い方角へ向いて行く」と思ったときに、心の力でその方角が悪くなっているのであります。
その代り「今日はよい日だ」と思えばその日は必ず善くなる。「智慧の言葉」に「天気の小言を言うな」と書いてあります。「日の小言」も同じことである。神のお創造(つく)りになった日に、悪い日などというものは一日もない。どの日も皆善い日である。方角でもみんな善い方角である。
世間では人間には健康者と病人とがあるという。しかし「生長の家」ではあらゆる人間は神の創造(つく)り給うた神の子であるから、みんな健康者であって病人は無いという、人間に病人があるのは迷信だという。人間が病気に見えているのはその迷いが影を肉体という鏡に映しているのだという。そして真理を悟らして人間本来無病完全の神の子だという真理に悟らしたとき今までどうしても治らなかった病が消える。その実例は『生長の家』誌友の中にたくさんある。
5127
:
a hope
:2015/01/20(火) 00:18:04 ID:brQxC10.
(
>>5126
a hope所感)
なんて素晴らしい真理なんでしょうか!
「悪い日はない」「悪い方角もない」「悪い相性もない」「病気もない」、
あるものは「善い日」「善い方角」「良縁」「健康」だけなんですね!
今夜も善い夢が見れそうです・・・(*^-^*)
それではみなさま、おやすみなさい。
5128
:
a hope
:2015/01/21(水) 09:25:09 ID:cEpBaIdo
「生命の實相」第15巻 p176
どんな美人でも眉を顰(ひそ)める習慣のある人を奥様に貰うと、よほど男の方が修養の足りた人でないと相性が悪くなり良人の運命が悪くなるのであります。
眉の間の晴れやかな暗いところのない婦人ならなんの歳生まれの人でありましょうともたといひのえうまの婦人でありましょうとも必ず相性がうまくいくのであります。
眉の間を常にしかめている人は常に不快な感情を自分で味わっているのでありまして、必ずその人は不健康か、不運なのであります。
5129
:
a hope
:2015/01/21(水) 09:25:59 ID:cEpBaIdo
(
>>5128
a hope所感)
わたしはここのところの文章を拝読して、思わず鏡を手にして、自分の「眉間」を確認してしまいました。(笑)
幸せになりたいみなさん、特に、p177の後から5行目〜は必見ですよ!
これって、一番簡単に運命を好転できる「裏ワザ」なんじゃないですかね。
女性のみなさん、こめかみにテープ貼って、目じりの皺や、顔のたるみ引っ張ってる場合ではないですよ!
伸ばすところが違いますよ!!!
5130
:
a hope
:2015/01/23(金) 00:01:12 ID:cEpBaIdo
「生命の實相」第15巻 p179 7行目〜
谷口――(略)
『神想観』をする時にも、精神を統一すると眉を顰める習慣のある人がある。こういう人は自己の放散する霊波が暗いから、ともすれば低級霊の霊波を感受致しますから今後は眉をできるだけ伸ばすようにして精神統一をし、自分自身より放散する心的霊波を朗らかなものにしていっそう高い明るい霊波を感受するようにせられるのが、神に近づく道であります。
眉というのは人間というラジオ的受信機の捻子(ねじ)のようなものでありますから、眉をひそめて神想観なり鎮魂なりしている方の様子をみていますと、その肩のところに悪霊波が客観化したのが見えることがあります。
5131
:
a hope
:2015/01/23(金) 00:02:36 ID:cEpBaIdo
(
>>5130
a hope所感)
わたしは神想観は大好きですが、たまに、気分のあまり良くない時にしたりすると肩が重く感じられ、意識も「祈りの言葉」に集中できないときがあります。
もしかしたら、こういう時には低級霊の霊波をキャッチしてしまっているのかもしれませんね。
この後、この座談会で雅春先生は、『狐狸等の「憑霊」』と『人間の「念」の形象化』の関係を説明してくださっています。
とても興味深いです。
5132
:
a hope
:2015/01/23(金) 10:21:27 ID:cEpBaIdo
(a hope まとめ) テキストp179〜182
「狐狸の憑霊」と「念の形象化」とは・・・
○人間は万物の霊長であるから、動物の霊に支配されるといことはない
○憑霊というのはほとんどが人間の「念」形象化である
○「念」は形に化して顕れる傾向がある
○一つの「迷いの念」が客観化して物質的にみえるのが病気であるのと同様に、
「迷いの霊波」がその地方独特な迷信と結合し、人間について狐狸の姿等に客観化してワザをするのが憑霊である
○感受した念の象徴化には一定の法則がある
・狡い懶(なま)け者人に感受した念(こころ)―― 狸の形に象徴化して見える
・賢(さか)しく敏捷で化粧好きな人に感受した念(こころ)―― 狐の形に象徴化見える
・執念深い人に感受した念(こころ)―― 蛇の形に象徴化して見える
・高慢な人に感受した念(こころ)―― 鼻の高い天狗に見える
※たまに何の罪もないのに故意に殺されたような場合に山野自生の狐狸の怨霊の憑依するような例【祟(たた)りの霊の襲撃】もあるが、
恨みも由縁(ゆかり)もないのに野生の狐狸の霊魂が感応憑依するものではない
p180 後から2行目〜
<<恨みも由縁もないのに人間に感応して来る狐狸の霊というものは、実は野生の狐狸の霊波ではなく、人間から発する善からぬ念波がその地方特有の迷信に則(のっと)って凝集作用、変形作用、象徴作用によって形象化したものが類似の念を有する人間に感応して、その姿をあらわしているのであって、人間の念同志だから最も感応しやすいのであります。>>
【対策】
○観念の波として心の中に存する病気が、心の中の観念を取り去ったら治るように、いわゆる狐狸の霊も心の迷いを消せば消えてしまう
p182 5行目〜
<<しかし形象化した以上はそれぞれ個性的に独立した働きをするので、霊眼にも見え、喋らせればペラペラ喋ったりしますが、本来それは無いものですから、その棲家(すみか)やら、生年月日やらいろいろ分析して追求してゆきますと、しだいにその答えが支離滅裂になって、結局、何も無いということになってしまうので、わたしはこれを象徴的憑依と称しています。>>
5133
:
a hope
:2015/01/23(金) 10:24:39 ID:cEpBaIdo
( a hope所感)
テキストではこの後(p182 9行目〜)「象徴的憑依」と「業の流転」そして「生霊」「怨霊」「障礙霊」との関係が説明されています。
雅春先生って、ほんとすごいですね!
5134
:
トキ
◆AXzLMGIbhk
:2015/01/23(金) 11:50:26 ID:qhzd28iE
>>5132
この憑霊については、正しい知識を持つことが本当に大事だと思います。
かなり前ですが、タヌキにとりつかれた親族を真言宗の祈祷僧のところへ連れて
行った人がいて、加持祈祷をしていている最中に祈祷された人が亡くなり、結果と
して、祈祷をした人が逮捕され、有罪の判決を受けた事があったそうです。
こういう悲劇をなくすためにも、このご文章は大事だと思います。
5135
:
a hope
:2015/01/24(土) 10:00:29 ID:cEpBaIdo
>>5134
トキさま
コメントをありがとうございます。
「生長の家」の教えからいえば、?神の子人間? が、動物や、
暗黒世界を支配する悪魔のような存在に支配されるということは在り得ないと思うのです。
ですが、そのような動物憑依の迷信や「罪あり悪あり現象あり」の暗黒思想がこの世の中に少なからず広まってしまっているのが現状です。
その迷信や暗黒思想を信じてしまい、波動を合わせてしまったときに『象徴的憑依』や『病気』や『不幸』のような良からぬ現象が起こるのだと思います。
(わたしは雅宣先生や純子先生のご思想もこの暗黒思想であり、現教団はこの暗黒思想の影響を受けてしまっているが為に衰退現象が起きているのだと思っています。)
完全なお悟りを得ている雅春先生の光明思想の『聖典』を拝読して、その心の「迷い」を完全にとりさって、
?神の子? の自覚がまことに得られればみな幸せになれますのにね!
その光明思想を広める運動こそ、本来の生長の家の「人類光明化運動」なのですよね!
現生長の家教団が一日も早く、本来の「人類光明化運動」を取り戻して下さること祈っています。
5136
:
a hope
:2015/01/24(土) 10:03:16 ID:cEpBaIdo
>>5135
訂正
?神の子? →?神の子?
5137
:
a hope
:2015/01/24(土) 10:05:23 ID:cEpBaIdo
>>5136
訂正になっていませんね(笑)
5139
:
a hope
:2015/01/25(日) 13:30:34 ID:cEpBaIdo
(a hopeまとめ) テキストp183
人間がある『念』を起こした場合に起る二つの作用
○ 外に放射 → 漠然たる念波 → 1、波長の合う他人に作用 2、凝縮作用により独立した個性的生霊になる 3、象徴作用により象徴的憑依を起こし、怨霊、障礙霊などになる
○ 自分自身の内に印象 → 『業』として潜在 → 生を生まれかわってもその業が流動流転してくる
5141
:
a hope
:2015/01/25(日) 16:07:31 ID:brQxC10.
「生命の實相」p183 後から4行目〜
伊藤――わたしは法華経の修験者として以前多数の病人を治したことがありますが、わたしの師匠になる方から霊術で病気治しをした者の末路は必ずよくないから止す方がよいと教えられ病気治療を止しました。それ以来諸方の霊術家の末路というものを考えてみるとたいていよくない。
ある霊術家は友だちと一緒に河豚(ふぐ)を食って自分だけ食傷して死にました。ある霊術家は腕に肉腫といいますか、女の尻ほどの大きな瘤(こぶ)ができて死にました。これなどは確かに霊術で退散せしめた悪霊の怨念に祟(たた)られたのだと思います。
野田――それは法力で病気を治すだけで病人に真理を知らせて治さぬためにそんなことになるのでしょう。真理を知れば、そんなことはない。病人が真理を知り、「生命の実相」を知り、障りをする悪霊の波長と合わなくなって病気が治る段には悪霊は障りをすることができなくなるにちがいありません。
伊藤――本人に悪霊が感応しなくなるだけで、その悪霊そのものを教化することができなければ、その悪霊はまた他の人に感応して禍(わざわい)を起すにちがいありませんから、わたしは、悪霊は何よりも教化しなければならんと思うのです。
日蓮宗の方では第一鑑定、第二教化、第三経文ということになっています。「鑑定」というのはいかなる悪霊が障りをしているかこれを鑑定しなければならない。「教化」というのは、その悪霊を霊媒に招霊して、よく教えを説いて聞かし、改心して再び禍を起さなくさせるのです。「経文」というのは経文を誦(よ)んで仏力によって悪霊を救いとるのです。
5142
:
a hope
:2015/01/25(日) 16:08:53 ID:cEpBaIdo
(
>>5141
a hope所感)
誰でも「重い病気」にかかれば、藁をもすがるような気持ちになって、その病気を治す努力をするのではないでしょうか?
良い医者にかかったり、食べ物を工夫したり、ご先祖さまや神さまにすがってみたりもするでしょうし、
狐狸の霊や悪霊が憑いていると言われれば、祈祷師や霊術家にその霊を祓ってもらおうとするのかもしれません。
ですが、ここでは一見、「命を救う」というとても尊い仕事をされている霊術家と言われる方々の末路があまりよくないという、
その原因についてみなさんで話し合われています。
この後、雅春先生がその原因について生長の家の「迷いの自壊作用」を根拠にした説明と、
「怨霊」や「障礙霊」などの『憑霊』を根拠にした説明を二方面からしてくださっています。
雅春先生は、どんな時にも相手の立場や理解力を考慮しながら、自由自在の方便を用いて真理を説明されています。
すごいです!!
5143
:
a hope
:2015/01/26(月) 10:53:23 ID:cEpBaIdo
「霊術で他人の病気を治した者の末路がよろしくない理由」の二面的説明
説明その一、自然(因果)の大法を破ったことへの報いを受けたから
○病気は「迷いの自壊作用」であるから、そのことによってその人の神性が磨き出される自然的過程になっている
○それを横合いからいって突然その病気を治すと、治された人は真理もなにも知らないままになる
○それは病人を治しながらかえって相手の向上をさまたげたことになる
p185 後から6行目〜
<<「迷いの自壊作用」として真理を知らす自然の過程として起ってきた病気がその意義を全うせずして捨てられる。これは因果の法則を破ったことになる。ここに病気を不法に治した人に責任が問われなければならない。だからわたしは直接治療で法力で患者を治すということはしないのです。そんなことをしなくても本を読むだけで、神想観をするだけで、真理を知ればそれだけで、病気は治るのです。>>
説明その二、障礙霊の復讐を受けたから
○怨霊その他の障礙霊にもそれ相当に理由があって病人を悩ましている
○それを霊術を用いて悪霊を退散せしめると、その悪霊の憤りによる害悪の念波が術者を襲う
p186
<<われわれがその病人を治すのにある種の霊術を用い、法力という強制力によってその悪霊を退散せしめますと、「盗人にも五分の理」という諺もありますとおり怨霊その他の障礙霊にもそれ相当の理由があって病人を悩ましているのでありますから、それ相当の理由で不平があり、憤りを発して、その憤りによる害悪の念波が、常にその術者を襲っているわけでありますから、術者の心が真理を知らず、ちょっと隙ができたとなると、その害悪の念波が術者を襲うことになり、心霊術家の末路はおもしろくないといあれるようになるのでありまして、これは一面から言えば因果の大法を破った報いであり、他面から言えば、障礙霊の復讐を受けたことになる。
生長の家では本を読んで真理を知って自分で治るからそんな弊害はありません。>>
5144
:
a hope
:2015/01/26(月) 10:54:33 ID:cEpBaIdo
(
>>5143
a hope所感)
「生長の家」の唯神実相の真理から言えば、「心(念)もない」わけですから、
その念波が凝縮したり象徴したりしてあらわれている悪霊など本来存在する筈はないのですが、
それを信じてしまっている人にとっては存在しているのも同然なのですから、
その原因を理解できるように説明してあげることも重要なのではないかと感じました。
それが、説明その二になるのだと思います。
この真理をちゃんと悟ることができれば、心霊現象なども全く怖くなくなるような気がします。
<<そんなことをしなくても本を読むだけで、神想観をするだけで、真理を知ればそれだけで、病気は治るのです。>>
<<生長の家では本を読んで真理を知って自分で治るからそんな弊害はありません。>>
いずれにしても、「聖典」を拝読することにより、真理を知ればこの人生でなにも恐れることはなくなりそうです。
5145
:
a hope
:2015/01/29(木) 23:44:51 ID:cEpBaIdo
「生命の實相」第15巻 p191 2行目〜
谷口――・・・(略)
・・・このように念の力というものは黙念でも感応していろいろな禍(わざわい)をしたり、あるいはそれが善い念であったら幸福や健康を与えたりするものでありますが、また、この「念」はある人から放射された時だけ働くのではなく、いったん放射された「念」が一定の場所や物に蓄積されていまして禍を与えることもあります。
わたしは以前住吉の某所にいたことがあります。それはまだわたしが因縁を超越する真理を悟っていない前でしたので、その家に住まっている間中わたしは不健康でした。まだわたしが不健康で死ぬような気がする。・・・
5146
:
a hope
:2015/01/29(木) 23:46:00 ID:cEpBaIdo
(
>>5145
a hope所感)
人間の「念」の力というのはすごいものですね。
むかしの日本の幽霊は「うらめしや〜」といって出てきたようですが、幽霊の姿を見ないまでも、
そのような「悪念波(怨念)」に波長を合わせてしまうと、怨み殺されてしまうということも本当にあるようです(◎_◎;)。
まだお悟りになる以前の雅春先生も、当時住んでいた家に蓄積されていた「肺病で亡くなった方々」の悪念波を受けて体調を壊されていたようですね。
一時的な対策としては、その悪念の蓄積されている場所や物をさけるのがいいのでしょうが、
ふつうの人間ではどの場所やどんな物に悪念が蓄積されているかなんてわからないと思うのです。
ですから、自分自身の波動を良化しない限り、何度でも悪念波を受けてしまい、健康を害したり不運に見舞われたりする可能性はあると思います。
ですが、真理を悟って因縁を超越すれば、どこにいようが、何を持っていようが、そのような禍に巻き込まれることはなくなるようです。
わたしたちは、谷口雅春先生の「聖典」を拝読しつづけることで波動を良化できますし、
生まれ持った因縁も超越できるのですから本当にありがたいですね!
5147
:
志恩
:2015/01/30(金) 09:15:35 ID:.QY5jUA6
伝統さま掲示板より
人時処の三相応に適して生きるNEW (134)
日時:2015年01月30日 (金) 04時44分
名前:伝統
*『白鳩』誌(昭和49年9月号)より
私は家内にその曇っている内障ある眼のレンズ 〈水晶体〉 を切除して、
人工のレンズで補うことを勧めたのである。 私は理論的にそのことを勧めた。
「生長の家の誌友や信徒の中には老人性白内障にかかっても、聖経読誦で治したい、
神想観で治したい、悟りを深めて治したいと一心にあんたのように苦労している人も
あるが、そうして治るのは若い人の白内障である。
老人性白内障は60歳を越えると誰でも顔にシミが出来るが、
これは色素排泄の調節力の老衰であるが、あんたには顔に他の人ほどにあまり
シミが出来ない。
その代りにそのシミが不幸にして眼の水晶体に出来てそのために
レンズが不透明になって来たんだ。
その不透明なレンズを人工的に切除して眼鏡のレンズと置き換えることは、
蝕くった歯に金充填するようなもので、歯は金充填をする手術をしながら、
眼の手術を恥じる必要はない。
宗教人であるから、静坐や、悟りや、読経で治さ‘ねばならぬ’と頑張るのは、
柳生但馬守が自分は剣者だから雨を刀を揮って斬り払わ‘ねばならぬ’と考えたり、
沢庵禅師が、自分は禅者であるから坐禅によって雨に濡れないでいなければならない
と考えて、濡れていながら、実相は濡れていないと頑張るのと同じことだ。
生長の家はそんな‘ねばならぬ’を放ち去って、人時処の三相応に適するように
雨には傘をさして濡れずという風に物質的に処置し得るものは、簡単に物質的に
処置するのが三相応の道であり、それが生長の家の生き方だ。
あんたが白内障にかかって手術によって視力を恢復したということを聴いたら、
今のあんたのように老人性白内障にかかりながら信仰によって、悟りによって
直さねばならぬと頑張って苦しんでいる信者が “生長の家でも手術しても好いんだ”
と安心してそれによって多くの人々が救われることになるのだ」
わたしはこんな話をして、家内をして、ついに白内障の外科手術をすることを
納得せしめたのであった。
(
http://blogs.yahoo.co.jp/vanon32/18684691.html
)
<感謝合掌 平成27年1月30日 頓首再拝>
……………………………………………………………..
a hopeさん
信仰は、両刃の剣だと思います。
病気になった場合、医者に行けばいいし、霊障害をうけていると分かった場合は、
ほんものの霊能者のところへ行ってお祓いを受ける事も、まちがいではないと私はおもいます。
本を読んだだけで,治る人も居ますが、そうではない場合もありますから。
その点は、本に書いてあるからと言って、あまりこだわらないほうがいいのではないでしょうか。
昔、谷口先生ご一家も、虫歯になれば、みなさま、歯科医へ行き、虫歯の治療をされてましたからね。
5148
:
志恩
:2015/01/30(金) 09:42:07 ID:.QY5jUA6
5143:a hopeさん
>>「霊術で他人の病気を治した者の末路がよろしくない理由」の二面的説明<<
これも、全員がそうだというわけではなく、そういう人が多々あるということだと思います。
前にも、お話しましたが、
私の母は、生長の家に入信する前は、知り合いの医学博士のすすめで
趣味で「心霊科学研究会」をされていた浅野和三郎先生の直弟子のお一人である竹内先生がされていた
集まりに参加しておりました。
その心霊科学研究会で、母も私も、当時の医学では治らなかった病気を一度行っただけで、完治して
頂いたことがございました。(私の病気とは、重度の腎臓病)
でも、竹内先生は、東大出の弁護士だったので、お金は困っておらず、
趣味でやっているからといわれて、お金は一円も
受け取られませんでした。
そのような、志の高い、霊能者でいらした竹内先生は、末路も晩年も幸せにお暮らしでした。
私は、いちどだけでしたが、先生の晩年にご挨拶にご自宅へ伺い、
年賀状の交換は、先生が亡くなられるまで、させて頂いていましたから
先生の実際の末路のご様子は、よく存じ上げているのです。
ですが、この世には、お金儲けのために、インチキまがいの霊能を商売にしている
霊能者があふれているのも事実ですから、
そのような悪徳霊能者の末路、晩年はよくないということだと、私は受け取らせて頂いております。
で、霊能力で病気が治った体験のある私は、その後,私が中学2年生頃のこと、、
母が、生長の家に入信しましたので,私も母とともに生長の家に入信し、
その後は、心霊のほうの集まりへは、行っておりませんでしたので、
心霊は、やめて、
心の問題専門に學んで参りましたから、母の晩年も私の晩年も幸せに過ごさせて頂いております。
5149
:
志恩
:2015/01/30(金) 10:19:47 ID:.QY5jUA6
つづき
私の実母は、生長の家に入信後、竹内先生宛に毎月、神誌「生長の家」誌を送る
愛行をし続けておりましたし、【生命の實相】全巻も 寄贈していました。
なので、竹内先生は、生長の家の教えにとても好感を持っておられることは、
先に書きましたように、
先生の晩年に 私が、先生のご自宅へご挨拶に伺いましたおり、、
生長の家の話がでましたから、そういうこともあり、末路が良かったのかもしれません。
5150
:
a hope
:2015/01/30(金) 11:14:26 ID:cEpBaIdo
>>5147
志恩さま
貴重なアドバイスをありがとうございます。 合掌。
<<信仰は、両刃の剣だと思います。
病気になった場合、医者に行けばいいし、霊障害をうけていると分かった場合は、
ほんものの霊能者のところへ行ってお祓いを受ける事も、まちがいではないと私はおもいます。
本を読んだだけで,治る人も居ますが、そうではない場合もありますから。
その点は、本に書いてあるからと言って、あまりこだわらないほうがいいのではないでしょうか。
昔、谷口先生ご一家も、虫歯になれば、みなさま、歯科医へ行き、虫歯の治療をされてましたからね。 >>
わたし自身も病気になれば病院へ行きますし、わたしの家族もみな病院へ連れて行っています。
「因縁を超越する真理」を本当に悟るまでは、世間一般の常識に沿って生活していた方が無難だと感じています。
>>5148
<<>>「霊術で他人の病気を治した者の末路がよろしくない理由」の二面的説明<<
これも、全員がそうだというわけではなく、そういう人が多々あるということだと思います。>>
わたしももちろん、そうだと思います。
現在も、世界中にたくさん志の高い高潔な霊術者の方々がご活躍されているのだと思います。
>>5143
での説明その二は、あくまでも、
『術者の心が真理を知らず、ちょっと隙ができたとなると、その害悪の念波が術者を襲うことになり、
心霊術家の末路はおもしろくないといあれるようになるのでありまして…』
と雅春先生もおっしゃっているように、術者が「因縁を超越する真理」を悟っていない場合に起ることなのだと思います。
志恩さまも、お母さまも、竹内先生も その後、「生長の家」にご縁があったのですね!
おそらく、当時はたくさんの霊能力者の方々が「生長の家の真理」で救われていたのではないかと感じています。
5151
:
志恩
:2015/01/30(金) 12:18:36 ID:.QY5jUA6
a hopeさん
>>5143
での説明その二は、あくまでも、
『術者の心が真理を知らず、ちょっと隙ができたとなると、その害悪の念波が術者を襲うことになり、
心霊術家の末路はおもしろくないといあれるようになるのでありまして…』
と雅春先生もおっしゃっているように、術者が「因縁を超越する真理」を悟っていない場合に起ることなのだと思います。
志恩さまも、お母さまも、竹内先生も その後、「生長の家」にご縁があったのですね!
おそらく、当時はたくさんの霊能力者の方々が「生長の家の真理」で救われていたのではないかと感じています。<<
a hopeさんの 仰る通りだと私も思います。
だって「生命の實相」は、2000万部、2 0 0 0 万 部 もですよ、売れた空前の大ベストセラー本なんですから、
アクエリアンさんがご紹介下さったモーリーさん以外にも,隠れ生長の家人の甚大な数の人が、地底に潜んでいると想像できますものね。
やめちゃったかどうかは、しりませんけれど。。。
5152
:
a hope
:2015/01/30(金) 23:19:51 ID:cEpBaIdo
「生命の實相」第15巻 p193 2行目〜
井上――念は自己から発射されて自己を放れてしまい、あたかも発射された弾丸(たま)のように自己から独立した念波は、弾丸が物に当たって運動慣性がなくなるように、目的を達した後は自然に消えてしまうということは解りますが、念を発したならば、自己自身がその念の印象を受けて、それを業として背負わねばならないということを承りますと、わたしにはこの問題の方が重大です。
この自己自身が業として背負わねばならぬ念の印象、念の習慣性というようなものは実に恐ろしい気がします。この業の解消法というものがありましたら、それを詳しくお教えしていただきたいと存じます。
(a hope所感)
この後この井上さんの質問に対して、雅春先生がとても詳しく沢山の例え話を交えながら「業の流転」の仕組みをお答えくださっています。
その中でもわたしが、特に印象に残ったところは、p199の4行目からの文章で、
「病念をまだ一度ももったことのない生まれたばかりの赤ちゃんがなぜ、病気にかかるのか」ということが説明されている箇所です。
その個所をつづけて抜粋謹写させていただきます。
5153
:
a hope
:2015/01/30(金) 23:20:41 ID:cEpBaIdo
「生命の實相」第15巻 p199の4行目〜
・・・こうしてわれわれは生まれながらにして、いろいろな業をもっている、この業の内容というものは蓄積されたる過去の念でありますから、赤児(あかご)はまだ病気というものを思ったことがないのに病気しているから、病気というものは念のあらわれだということは承認できないといわれる人があっても、それは見当違いでわれわれは生まれながらにしていろいろな業をもっているということが解れば、疑問が氷解するのであります。
この業は幾度も生まれ更わった霊魂ほど現世、幽界を度かさねて浄化作用を営んでおります。で現幽両界の境を超ゆる時、および幽界にて浄化を遂げるうち、神の摂理によって業の濾過作用が行なわれているので、この業の濾過作用の一つは過去世の記憶のいっさいを拭い取られてくるということであります。
ですからわれわれの小児時代は比較的清らかでありますが、必ずしも幼児の心はキリストの言ったように天国の心ばかりはもっていないで、生まれつきの意地悪や、盗癖なども持っています。これは過去世の業を持ち越している証拠です。・・・
5154
:
a hope
:2015/01/30(金) 23:27:27 ID:cEpBaIdo
(
>>5153
a hope所感)
わたしは自分の子供達をくらべ見てみますと、みな自分と主人の子供で、同じように育てているつもりなのですが、
それぞれ持って生まれた性質も違いますし、成長するに従がって、得意なことや、好き嫌い等もハッキリ別れてきています。
そのことは、本当に不思議に感じていましたが、前世からの「業の流転」であると考えるとすべてが納得できます。
「業の流転」を考えて子供達を見直してみると、なんだか子供たちの悪癖まで、すべてが愛おしく感じられてきました!
5155
:
a hope
:2015/01/30(金) 23:36:14 ID:cEpBaIdo
>>5151
志恩さま
<<だって「生命の實相」は、2000万部、2 0 0 0 万 部 もですよ、売れた空前の大ベストセラー本なんですから、
アクエリアンさんがご紹介下さったモーリーさん以外にも,隠れ生長の家人の甚大な数の人が、地底に潜んでいると想像できますものね。>>
本当ですね。
そんな素晴らしい聖典「生命の實相」をないがしろにしている、現「生長の家」教団はクレイジーとしか思えません。
今の教団が恥ずかしくて、「自分は生長の家の信徒だ」とか「自分は生長の家の信仰をしている」とか公言できずにいるたくさんの方々が、
志恩さまのおっしゃる、『隠れ生長の家人』と言う訳ですね。
わたしもその一人ですが・・・。
5156
:
志恩
:2015/01/31(土) 06:34:19 ID:.QY5jUA6
5154:a hopeさん
神様から 授かった 子供たちは、神様から 預かった 子供達だと教えて頂いていますものね。
前世において深い縁(えにし)のあった人たちが、自分のところへ来てくれてるようです。
自分が居たと 同じ星から来た人もいれば、違う星から来た人もいるようです。
うちは、3人の子がいますが、a hopeさんとこのお子さんたちと同様、3人とも、それぞれ、性格が ちがいます。
小さいときは、いろいろと、子供はやるもんで、大人になってから、なんで、あんな危険なことを したんだろう、と
自分で言って、笑ってますよ。
うちの子供達、特に娘は、幼い頃は、うちが小高い丘のてっぺんにあるせいか、どんな高い所も
怖くない性格だったんですよね。高所安心症?
あれは、娘が、4、5歳くらいだったかしら、近所にマンションが建つので、大手の建設業社が、地面の造成工事をしてて、
どのくらいの はしごの長いクレーン車だったか、工事現場に、クレーン車が、置きっぱなしになっていたんです。
日曜日ですから、工事は休み、白いテントを 敷地の周囲に、ハリメグラシテあり、
「立ち入り禁止」の札が、吊るしてあるのもかかわらず、うちの子達3人は、日曜日、テントをくぐって、こっそり、敷地内に入って行った。
長男と次男は、低学年。女の子は、幼稚園。
3人が、敷地内に侵入した共通の目的は、クレーン車の、あの高い高い はしごのてっぺんまで、登ってみる事(汗)。
なにも臆せず、先頭を切って、どんどんと、当たり前のように、目標のクレーン車のはしごのてっぺんまで 登って行ったのは、娘だったそうです。
二人のおにいちゃんは、半分も登らないうちに、怖くなって、やばい、やめよう.降りよう、帰ろうと、言ったけれど,妹は、
高いところが ぜんぜん怖くないタチなので、お兄ちゃんたちが、制する言葉も きかず、
娘は、ひとりで、てっぺんまで 登って行ったそうです。あとから 娘に聞いたところによると、
その時は、なにせ、目標の てっぺんに いくことしか、頭になかったそうです。
娘は、一人ではしごの てっぺんまで 行っただけじゃなく、おまけに、てっぺんまで行く途中のところに、少しだけ 広くなってるところがあり、
そこで、おにいちゃんたちに、「こわくないよ」と言って、
でんぐり返しを してまで、みせたそうで、それで、てっぺんゆきの目標を達成したので、何事も なかったように、
満足そうな顔をして、降りて来たそうなんです。(あれは、登るときより、降りるときのほうが、落ちる危険性が高いと思います)
その直後は、3人とも親に言うと,𠮟られると思って、しばらくは、内緒にしていましたが、しばらくたってから、子供達は、私に打ち明けてくれました。
誰かを いじめるとか、迷惑を かけるということは、その点は、厳しく言っていたので、あまり なかったと記憶していますが、
後で聞いたら、身が縮むような悪さは、そのようにしていたんですよね。
あの時、子供達が、誰ひとり、クレーン車の高い はしごから落ちて、
死んでなかったのは、神様、産土神様、ご先祖様のご守護のお蔭ですけれど、本人も、まだ、この世に 生きる使命があったからだったと思います。
(娘の娘たちは、あの頃の年齢ですが、恐がりなので、そのようなことは、していません。)
5157
:
志恩
:2015/01/31(土) 06:41:43 ID:.QY5jUA6
たしかに、今の生長の家は、本来の生長の家とは、別物になってしまいましたから、
私は生長の家ですと、世間に いいずらくなりました。
教団本部からみたら、雅春先生の「生命の實相」を基に生きているわれわれは、大東亜戦争に関する
考え方でも、ウルトラ右翼に見えるのでしょうけれど、
教団は、ウルトラ左翼ですからね。
雅春先生と雅宣総裁は、真逆の世界を生きておられます。
5158
:
a hope
:2015/01/31(土) 12:48:36 ID:cEpBaIdo
>>5156
志恩さま
お子さんたちの小さい時のお話を聞かせてくださりありがとうございます。
お話を拝見していて、その時の状況が目に映るように想像できました。
そのおてんば(?)だった娘さんも、今は二人(?)の娘さんのお母さまなのですね。
でもその娘さんたちが、お母さんと違う「恐がり」という性質なのもまた何か意味がありそうですね。
<<神様から 授かった 子供たちは、神様から 預かった 子供達だと教えて頂いていますものね。
前世において深い縁(えにし)のあった人たちが、自分のところへ来てくれてるようです。>>
<<あの時、子供達が、誰ひとり、クレーン車の高い はしごから落ちて、死んでなかったのは、
神様、産土神様、ご先祖様のご守護のお蔭ですけれど、本人も、まだ、この世に 生きる使命があったからだったと思います。>>
「児童教育に関する神示」は子育てにおけるわたしの心の支えとなっている神示ですが、
その中にも、
『・・・神の子は神が育て、人間の子は人間が育てる。
人間の子だと思うものは終世、取り越し苦労をして育てねばならぬ。
子供を神の子だと思うものは、子供を尊敬して出来るだけその世話をさせてはいただくが、
神が守ってい給うと信ずるがゆえに取り越し苦労は必要はないのでる。
人間力で子供を生かしうると思うなら終日終夜起きて子供の番をしておれ。
それはできなかろう。
できない間に子供を生かしているのは神の力である。 』
http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/11346/1358650232/3879
とありますものね。
子供を自分の所有物だと思って育てていると、子供を心で拘束してしまうのだと思います。
子供には子供の「神の子」としての使命があるのだから、
その使命を全うできるように感謝してお世話させていただきたいと思います。
志恩さまのお話はいつもとても具体的で解り易いので、閲覧者の方々も楽しみにされていると思います。
わたしも、いつもほとんど一人でweb誌友会をさせていただいていますので、
時々でも志恩さまやトキさま、その他の方々が参加くださると、ホッとします。
これからも、どうぞよろしくお願いいたします。
感謝 合掌。
5159
:
a hope
:2015/01/31(土) 19:37:37 ID:cEpBaIdo
「生命の實相」第15巻 p199 後から1行目〜
・・・過去世の業のうち、善くないものとしてわれわれの主として持ち越して来るものは、(一)個我をありとする念、(二)物を有りとする念の二大業であります。これが我欲の根本となり、たいていの人は本能的に個我を有りとして愛するがために、「物」本来ありと思うがために、「我」に少しでも「物」を所得せしめておかなければ自分自身を保護することができないと思い、己を愛し己を保護せんとして、遮二無二突貫して行きますから、自分自身を愛するのに邪魔となるもの、自分から「物」を持ち去ろうとするものに対しては、それを憎む念、憤る念を誘発しやすい傾向をもっております。これを業の催しと申します。・・・
(中略)
・・・この業の催しの中心力となるものは「個我を有りとする念」と「物を有りとする念」とでありますが、本来われわれは大生命と一体であって、個我はない、実在するいっさいは霊的大生命の所現であって、「物」は無いのでありますのに、なぜ、「個我」をありと思う念が起こり、「物」がありと思う念が起こったかと申しますと、現象界というものは、時間空間の縦横組み合わせのフィルムの上に映し出されますので立体写真的に写され、フィルムの一駒一駒中の映像を空間的に実在すると思い違いしやすいのです。その結果は一駒一駒を全体としての一つの流れに融け込ますことを惜しく思うのであります。・・・
(中略)
・・・つまり、個我と個我の所得に執着するときは、現象界は善い具合に順調に運ばないのであります。それで釈迦は「個我は無い」「所得はない」「無我」「無所得」ということを強調されたのであります。無我、無所得であることが悟れて、個生命が我執で執着しなくなったとき、現象界のフィルムは自動的に淀みなく回転し、一駒一駒のフィルムは全巻のフィルムの中に融け込んで一体となり、そこに現象界なるスクリーンには完全なる生命的映画が映ることになるのであります。
一駒一駒のフィルムが全巻のフィルムに融け込むとは、無我になって全体のために、または愛他的のために奉仕するということです。人を救い国のために尽す時のわれわれの心持ちの何物にもたとええぬ快さはここからくるのであります。この時には過去の持ち越しの自利的我欲的な業に縁を与えませんから、そういう業の催しは起らず、いったんかかる善業を積んでおきますと今後同様の縁が与えられる場合には前の善業が働き出して比較的容易に全体奉仕または愛他的の行為ができます。・・・
5160
:
a hope
:2015/01/31(土) 19:42:36 ID:cEpBaIdo
(
>>5159
a hope所感)
今回のテキストである第15巻の最後(p192〜204)に「業の流転」についての説明があるのですが、ここのところのご説明は、
唯物論者や、「生き通しの生命」を信じていない方々には、とても理解しがたい内容なのではないかと感じています。
わたしは以前、仏教に興味をもって少し勉強したことがあるのですが、その時にはまったく「無我」「無所得」の意味が解りませんでしたが、
今回、雅春先生のここのところのご説明を拝読して、やっと意味が通じました。
ですが、真理の「意味が解る」のと「悟る」のでは全く違うと思うのです。
『無我、無所得であることが悟れて、個生命が我執で執着しなくなったとき、現象界のフィルムは自動的に淀みなく回転し、一駒一駒のフィルムは全巻のフィルムの中に融け込んで一体となり、そこに現象界なるスクリーンには完全なる生命的映画が映ることになるのであります。』
現象界が上に抜粋した文章のような状態になって、自分の前に地上天国が顕われたとき、その時が本当に悟れた時なのですよね・・・。
「雅春先生のお書きになった聖典や愛国書をそのまま後世に伝え残すこと」も「生長の家」にご縁があった信徒の大切な使命なのかもしれませんが、
わたしはそれが雅春先生の本当の御遺志ではないと思うのです。
「わたしたち信徒一人一人がその聖典の真理を学び続けることで、雅春先生のお悟りに少しでも近づき、人類を光明化し続けること。」
それが雅春先生が一番お望みになっていることであり、本当のご遺志だったのだとわたしは理解しています。
今現在、雅春先生の聖典が地上からすべて消え去ってしまったわけではないのですから、
今手に入る聖典を熟読し、雅春先生のお悟りに少しでも近づくこと、それが一番雅春先生がお喜びになることなのだとわたしは信じています。
ところで、今日で、1月も終わりです。
明日になりましたら、第32回 web誌友会を開会させていただきます。
感謝 合掌。
5161
:
a hope
:2015/01/31(土) 19:45:52 ID:cEpBaIdo
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
第32回 web誌友会 予告
期間 2月1日〜2月28日まで
テキスト 「生命の實相」第16巻 人生問答篇 下
内容 人生の悩みを解く(下)
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
5162
:
a hope
:2015/02/01(日) 00:26:56 ID:cEpBaIdo
「生命の實相」第15巻 p204 3行目〜
・・・業はどこにある。捉えんと欲しますれば、鏡にうつる波動的映像ですからどこにも本来ありません。本来無いものでありながら波動であるがゆえに何全何万年も経ましてもその力の流転を継続するものであります。石炭が燃焼するのは、実は数百万年前の木材の業の流転であります。この業の流転こそ、現象宇宙進化の大原動力ともなるのであります。
人間も業は恐るるに足らず、業が集積し流転しこれによって現象人間が進化するのであります。だから悪業を積む、病気になる、心が神に向かうというような経路によって高められる人が大勢あるのであります。それはなぜか。業の流転の奥には必ず実相があるからであります。
鏡面(かがみ)の中に映像が映るのは源(みなもと)に実体があるからである。映像がしだいに実相の完全さを映すように運命つけられているのであって、決してショーペンハウエルの言ったように盲目的意志に導かれているのではありません。業を恐れず、業をきよめつつ業を積んでゆく時、人生はただ光明への旅路となるのであります。
『生命の實相』(頭注版)第十五巻 <<完>>
5163
:
a hope
:2015/02/01(日) 15:24:36 ID:cEpBaIdo
2月に入りましたので、第32回web誌友会を開会させていただきます。
開会にあたり、祈りの言葉を掲載させていただきます。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
住吉大神様 住吉大神様 谷口雅春先生 谷口雅春先生有難うございます、有難うございます。
生きとし生けるものを生かし給える御祖神元津霊ゆ幸へ給へ
吾が生くるは吾力ならず、天地を貫きて生くる祖神の生命
吾が業は吾が為すにあらず、天地を貫きて生くる祖神の権能
天地の祖神の道を伝へんと顕れましし生長の家の大神まもりませ
住吉大神様、今月の 生長の家 本流復活について考える WEB誌友会板 に於ける
生命の実相 輪読誌友会で、生長の家の御教えを正しく把握し、広く伝道するための
必要な霊の選士を集え給うて、真理の研鑽を導き給う。
住吉大神様 勉強会を正しく導き給う 住吉大神様 勉強会を正しく導きたもう。
参加者お一人、お一人を浄化し給うて、使命を授け給う。
有難うございます 有難うございます 有難うございます 有難うございます 有難うございます
世界平和の祈り
神の無限の愛、吾に流れ入り給いて、愛の霊光燦然と輝き給う。
その光いよいよ輝きを増して全地上を覆い給い、すべての人々の心に愛と平和と秩序と中心帰一の真理を満たし給う。
光明思念の歌
天照す御親の神の大調和の生命射照し宇宙静かなり
天照す御親の神の大調和の生命射照し宇宙静かなり
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
5164
:
a hope
:2015/02/01(日) 15:26:40 ID:cEpBaIdo
つづきまして、今回のテキストである 第16巻の「はしがき」を謹写させていただきます。
「生命の實相」第16巻
はしがき
わたしが兵庫県武庫郡住吉村で生長の家を始めたころに集まってこられた求道者との対談や、質問に対する回答の筆録は、今ではなかなか得がたい文献になっているのである。なぜなら、今ではあまりに生長の家の人類光明化運動が拡大してその規模が大きくなり、数名の熱心な求道者や悩んでいる人たちにしみじみわたし自身対談して個人指導を与えている時間的余裕がないからである。
昨今、わたしは大都会では大講堂で四、五千名を一堂にあつめて真理の講演をするし、小都会でも一千名より聴衆の少ないことは稀である。個人個人の悩みを親しくきいてあげ、その求めるところにしたがって回答を与えて差し上げることはまことに尊いことである。しかし、このように運動が拡大してくると、数人または一人ずつに対談していることは時間的に不可能となったのである。
講演または講習会によって大量に教化するより仕方ない。そうしてみると、わたしの住吉在住時代の対談の記録には講習会では得られないしみじみとした深いものが、その在々所々に真珠のように鏤刻(るこく)されているはずである。そのころにはテープレコーダーもなかったし、わたしの貧しい経済では速記者をやとうこともできなかったから、その記録は、会が終わってから、わたし自身がその場の光景や雰囲気を思い浮かべながら書いたのである。
書くにしたがって次々とその光景があらわれ、対話そのままが髣髴(ほうふつ)とあたかも霊示できくかのように浮かび上がってくるものであるから、翌月の『生長の家』誌にその記事がのると、翌月求道の集まりに集まって来られた人たちから「先生はどこかに速記者を隠しておいて筆記せられたのではありませんか。まったくあの場そのままの雰囲気と対談とが再現されている」と誉められたものである。
本巻に収録されている問答は、霊魂および心霊問題に関する多くの疑問や、因縁因果や、業に縛られて幸福になろうと思ってもなかなかなれない人たちに、その業因から解脱する方法についてこたえたものが多いのである。霊媒に出てくるいろいろの現象のうちには、真(しん)の霊魂の憑依ではなく、たんなる念の感応や、象徴的に動物霊の形をもってあらわれて来るものもある。
詳しいことは本文を読んでもらうより仕方ないが、いっさいの不幸は「迷い」から生ずるのである。よろしく、迷いから脱却すべきである。そのほか病気や老衰現象を克服して、この世に生を受けているかぎりにおいて健康であるにはいかにすべきかなどのことも取り扱われている。それらの問題はすでに『生命の實相』第一巻から第四巻(本全集及び携帯版では第一巻かた第八巻)の間に詳しく説かれてきたのであるが、なお十分納得のゆくように個人的に相談された場合にいちいち答えた章もある。
最後の章は、わたしが家庭光明寮という花嫁学校で若い人たちを指導していたころに、そこから巣立ちして人生に出発しようとする卒業生に贐(はなむ)けした言葉である。今では、この花嫁学校は広島県府中市本山町見晴団地に生長の家養心女子大学寮という名称で、嫁入前の娘さん達に家庭の諸芸と共に精神的修養を与える機関として経営されている。あまりにも終戦以来、生活の理想を失って止め度なく暗黒の道にさまようて行こうとする若い人の多きとき、この養心女子大学寮がこれらの若き女性に対してなんらかの光明を与えるものとなれば幸いだと思っている。
昭和三十八年 七月 十日
著者しるす
5165
:
a hope
:2015/02/01(日) 15:30:08 ID:cEpBaIdo
トキさま みなさん こんにちは
今回も、こちらで第32回web誌友会を開催させていただけることに心から感謝いたします。 合掌。
ですが、わたし自身なぜこの「生命の實相」の学習会でもあるweb誌友会を
こんなにも熱心に続けているのか時々不思議に感じています。
一体、いつからこんなことを続けているのかと思って、第1回web誌友会がいつだったのか探してみました。
http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/11346/1324435617/1735
そしたら、なんと2012年の4月14日にこの掲示板の部室板で第一回目の誌友会をしているのです。
今年は2015年ですから、もうすぐ3年になりますね。
当時は「訊け」管理人さまがとても楽しい司会進行をしてくださっていて、
ユタカさまも「おみくじ」なんかを用意してくれたりして盛り上げてくださっていて、
たくさんの方々が参加されて和やかな雰囲気の中で誌友会をしています。
また、そんな感じで誌友会ができたらどんなにうれしいことでしょう!
みなさま、どうぞご気軽にご参加くださいね。
5166
:
トキ
◆AXzLMGIbhk
:2015/02/02(月) 10:49:34 ID:jnvqNl/M
>>5164
a hope様、いつも誌友会のお役を務めてくださり、心から感謝申し上げます。
少し本題から外れますが、戦前はもちろん、戦後しばらくも谷口雅春先生と信徒が直接の
交流を持つことは普通だったみたいです。古い信徒さんの話を聞くと、谷口雅春先生と奈良
の橿原神宮の勤労奉仕で一緒にモッコをかついだ、とか、谷口雅春先生ご夫妻を囲んで、
ご講演後にお食事会を開いた、という話をよく聞きました。
現在の信徒はもちろんのこと、昭和30年以後入信の信徒さんは、谷口雅春先生といえば
遠くから拝む存在になっていますが、それ以前の信徒さんが異口同音に言われるのが、
「人間味のあふれる、暖かい人柄」ということでした。
明窓浄机に、谷口雅春先生が奥様のお手紙を引用して、組織が拡大し、人間が増えすぎた
ために、人との交流がおろそかになった点を憂いておられる御文章が掲載されていますが、
谷口雅春先生の真意が、この御文章にも伺えると思います。
心して学びたいと思います。皆様のご参加をお待ちしております。
合掌 ありがとうございます
5167
:
a hope
:2015/02/04(水) 11:53:26 ID:cEpBaIdo
「生命の實相」第16巻 p13 後から1行目〜
船橋――・・・(略)
・・・わたしは以前は軍医でありましたが、軍隊などでは二、三種の一定の薬剤をどの病気にも使うのでありまして、それを服(の)ませて次の診察の時が来ると「どうじゃ、もう治ったろう」と命令のように怒鳴りつけると、兵卒などはその瞬間気を呑まれて気をつけの姿勢をして、間髪を容れず「ハイ、治りました」と答える。
「治らない」などとは絶対に言わせない。「治った」とこっちからも言えば、あっちからも「治りました」と言う。両方の言葉の力で治してしまう。治らないなどと言えば厳しいいっそう痛い治療法を受けさせられる。「軍人たる者が、これくらいの病気で弱ることがあるか!」と一喝される。いやでも治ったといい、また治ってしまわなければならぬ。治らないと損だから治ってしまうのであります。
谷口――そうです。病気に対しては、寸毫(すんごう)も妥協するような気持があってはならないのです。病気である方がなんらかの利益があるとか、都合が良いとか、その病気というものを口実にするような気持が少しでも潜在意識の底にあってはその潜在意識が病気を製造することになるのです。・・・
5168
:
a hope
:2015/02/04(水) 11:54:50 ID:cEpBaIdo
(
>>5167
a hope所感)
この船橋氏と雅春先生の御会話は、わたし自身も経験としても思い当たることが沢山あります。
自分自身が小学校の高学年だったころ、練習不足だったリコーダーの発表の直前に激しい腹痛が起きて保健室に運ばれました💦
あれは、仮病ではなくて本当にすごく痛かったですし、顔色まで真っ青だったそうなので友達が心配してくれたのを覚えています。
わたしの子供達も学校で嫌な事があったときなど、朝なかなか起きてこないで、「頭がいたい」「お腹が痛い」「気持ち悪い」などということが良くありますが、
一応額に手を当てて大した発熱がない場合は、わたしが気合をいれて「えー、でも○○ちゃん今朝はすごく顔色もいいし、元気そうだよ!」と断言し、
「学校行ってみて、それでも調子悪かったら、先生にすぐに言うんだよ!お母さんがすぐ迎えに行ってあげるから・・」と
有無もいわさず支度をさせて学校に行かせてしまいます。
そうすると、ほとんど何事も起きず、元気に学校から帰ってきます(笑)
ですから、わたしは「病は気から」ということわざは、真理であると確信しています。
5169
:
トキ
◆AXzLMGIbhk
:2015/02/04(水) 20:23:19 ID:q.BS7ms2
>>5167
この船橋さんは軍医さんだったみたいですが、思い出した事があります。
先の戦争でビルマ戦線にいたお医者さんの回顧録では、前線で負傷してようやく
野戦病院にたどり着いた患者さんに優しい言葉をかけると、そのまま気が緩んで
亡くなるケースが多かったみたいです。そのため、患者が到着すると、あえて
厳しい言葉をかけたり、場合によっては殴ったりしてから、病院に収容したと
聞いています。
言葉の力が生命をも左右するという事でしょう。
5170
:
a hope
:2015/02/05(木) 23:58:49 ID:cEpBaIdo
>>5169
トキさま
「気が緩んで亡くなる」というトキさまのお話を聞いて思い出したのですが、
海上で何日も漂流して衰弱している遭難者が他船を発見した場合なんかでも、
自分が救助されるとわかった瞬間、「気が緩んで」死んでしまうこともあるので、
そのように衰弱している遭難者を発見した場合は、焦らしながら遠回りに徐々に救助に向かうようですね。
「生きたい」という欲望は、言いかえれば現象世界や肉体への執着でもあるわけですが、
「これで助かった!」と思った瞬間「気が緩んで」、本望ではなく霊魂が肉体から離れてしまうということなのでしょうか・・・?
ところで、「魂は生き通し」であり、本来人間は「死ぬ」ということはないわけですが、
その真理を悟らずに、現象世界や自分の肉体に執着しながら亡くなってしまった霊魂は、
自分の肉体が死んだということを理解できず迷ってしまうことがあるようです。
そうすると、成仏できませんから、憑霊となって誰かに善くない念波を送り病気にさせてしまうこともあるようです。
その具体例のようなお話がいくつか、テキストのp16の5行目からされています。
特に「前妻の逆念」のお話(p23 2行目〜)などは、雅春先生「生命の実相」の真理によるご解説がなかったら
「恐ろしい怪談」のような内容です(/ω\)
5171
:
a hope
:2015/02/06(金) 09:59:54 ID:cEpBaIdo
みなさま おはようございます。
今回も、大熊先生が素晴らしいご講話を you tube に upしてくださいました!
「肉体としての命も大事でありますが、精神・魂としての生命(いのち)も大事であります。どちらも大事であります。
本当の、本当の、本当の生命(いのち)を大事に生きてまいりましょう。
うれしい 楽しい ありがたい うれしい 楽しい ありがたい
今日は人生最良の日だ 今日は人生最良の日だ 今日は人生最良の日だといえるような人生を歩んでいきましょう」
わたしは宇治の練成で大熊先生のご講義は受けたことはありませんが、
大熊先生のこの講話を拝聴していると、宇治の練成が懐かしく思い出されました。
これぞ、「生長の家」のご講話ですね!
愛を生きる <いのちより大事なものがある>
http://blogs.yahoo.co.jp/panda41415151
5172
:
a hope
:2015/02/07(土) 00:12:01 ID:cEpBaIdo
(a hope 赤線ヵ所)
<<谷口―― 父の霊魂は決して子供を病気にするために念波を送っているのではないのです。ただ自分の肉体が死んでしまっているという自覚がない。自分が霊界に属していてこれから霊界の修行にいそしむべきであるという自覚がなく、あくまでも自分自身が現実界に属していると思っているから現実界に執着がとれない。執着がとれないから現実界への執着の念を送る。ところが、その念が苦しんでいる人の念、病気の人の念ですから、それを受ける人が病気になるのです。>>p19 2行目〜
<<谷口――・・・(略)・・・その病人の救われる唯一の道は肉体死後にも人間の生命は存続していて、依然として生きているという事実を話してあげるほかはない、病気は本来存在しないという真理を悟って死ねば、死後その病気は治っているけれども、意識というものは肉体の産物だと思って、肉体が死ねば意識がなくなるものだと思っている人が、死後霊界において意識を回復した時には、自分は生きていると思い、肉体もあると思い、自分は病気だったと思い出すと、霊界における自己の状態は自己の念の客観化でありますから、自分の身体(この時は、もう肉体ではなく幽体であります)が、やはり病気だったと思っているのです>>p21 後から4行目〜
<<こういうように一家の家庭的乱れというものが、一人の迷える霊魂を導くだけでこんなにも改善されてくる場合があるのであります。だから先祖とか親類縁者の祭祀(まつり)というものは決しておろそかにしてはならないのであります。
この祭祀に幽斎と顕斎とがありまして、顕斎とは形の上の御宮とか仏壇とか各宗で定められた一定の形に顕れた方式で祀るのであります。幽斎というのは心をもって心に相対するので、精神統一をして実相を念じ、人間の実相が円満完全であって悩みも病もないという念を霊界の諸霊に放送してあげて、念波によって霊界の諸霊の苦悩を除いてあげるのであります。
これは相手たる霊を生前の名前で招(よ)び出して置いて、一緒に神想観をするつもりでやられてもよい。念だけで頼りなければ、言葉で真理を説いてきかすがよい。それには聖典の「實相篇」を読んできかせてあげるのがよろしい。>>p30 2行目〜
第1章「念の病気に及ぼす力」終わり
5173
:
a hope
:2015/02/07(土) 00:13:45 ID:cEpBaIdo
(
>>5172
a hope所感)
この第1章を拝読して、わたしにも先祖供養の大切さがよくわかりました。
この対談のあった時代にはまだ聖経「甘露の法雨」がなかったのでしょうか?
ここでは、雅春先生は先祖供養には生命の實相の「實相篇」を読んできかせるようにとのご指導をされています。
あらためて「甘露の法雨」を読誦してみますと、この第1章の雅春先生のご指導内容は〝霊〝 の項目にそっくりだと感じました。
以下に、謹写させていただきます。 合掌。
5174
:
a hope
:2015/02/07(土) 00:19:13 ID:cEpBaIdo
「霊」
感覚はこれ信念の影を視るに過ぎず。
汝ら霊眼を備えて霊姿を視るとも
実在を視たるに非ず、
感覚にて視得るものは
すべて心の影にして第一義的実在にあらず、
霊姿に甲乙あり、
病める霊あり、
苦しめる霊あり、
胃袋もあらざるに胃病に苦しめる霊あり、
心臓も有(も)たざるに心臓病にて苦しめる霊あり、
これすべて迷いなり。
斯くの如き霊、人に憑(よ)れば
憑られたる人或は胃病を顕わし、
或は心臓病を顕す。
されど霊覚に映ずる
さまざまの苦しめる霊は、
第一義的実在にあらず、
彼らは誤れる信念によりて
流転する迷いの影なり。
迷い迷いて流転する心は
その信念が形となりて仮の相(すがた)を現ずべし。
されど如何に相を現ずるとも
仮相(かりのすがた)は永遠に仮相(かそう)にして実在となることを得ず。
汝ら、実在にあらざる物を恐るること勿(なか)れ、
実在にあらざる物を実在せるが如く扱うこと勿れ。
実在にあらざる物には実在をもって相対せよ。
真にあらざる物には真をもって相対せよ。
仮相(かりのすがた)に対しては実相を以て相対せよ。
闇に対しては光をもって相対せよ。
非実在を滅するものは実在のほかに在らざるなり。
仮相(かりのすがた)を破るものは実相のほかに在らざるなり。
虚妄を壊(え)するものは真理のほかに在らざるなり。
闇の無を証明するものは光のほかに在らざるなり。
彼らに生命の実相を教えよ。
彼らに生命の実相が神そのものにして完全なる事を教えよ。
神はすべてなるが故に
神は罪を作らざるが故に
神のほかに造り主がなき故に
此の世界に犯されたる罪もなく
報いられるべき罪もなきことを教えよ。
三界の諸霊
三界の諸生命
この真理を観じ、
この真理をさとりて、
一切の苦患(くげん)の源となるべき
顛倒妄想(こころのまよい)を摧破(さいは)すれば、
天界の諸神(しょじん)ことごとく真理の合唱(コーラス)雨ふらし
現世(このよ)の生命ことごとく光を仰ぎ、
惑障(わくしょう)ことごとく消滅し、此世はこの儘にて光明世界を示現せん。
5175
:
a hope
:2015/02/08(日) 23:30:45 ID:cEpBaIdo
「生命の實相」第16巻 p31
山本――(画家、山本博士の息)―― 僕には神様があるということがどうしても解らないのです。それが解ったら安心できるのです。
(a hope所感)
第二章「治す念波の話」は、この画家である山本氏の発言から始まっています。
「生長の家の教え」では、「人間神の子」が真理だとされていますが、
ここでは雅春先生は「神の子」とは言わず『「自分が神だ」というのが「生長の家」の信仰なのです。』
とお答えされています。
「生命の實相」を拝読してお勉強しているかぎり、わたし自身は「人間は神の子である」という言葉より、
「人間は神である」という言葉の方が、ずっとすっきり納得できます。
ですが、「人間は神である」と表現すると、実相世界の存在を知らないほとんどの人が
「現象人間」のことを神だと言っていると勘違いをしてしまうからでしょうか・・・
いつの頃からか生長の家でも「神の子」という表現が定着していったのですね。きっと・・・
5177
:
a hope
:2015/02/10(火) 00:33:22 ID:cEpBaIdo
「生命の實相」第16巻 p31
谷口―― 自分のそとに神様を求めるから解らなくなるのです。自分の内にある生命力――これを神様と見ておれば、だいたいまちがいないのです。自分をアミーバ-のような小体から、現在のような複雑微妙な人体に造り上げた不可思議な生命力――この生命力は、どんな医学者、生物学者よりも、偉大な力をもっている。どんな医学者、生物学者でも胃袋の一片をも製造することができない。
学者は、この不思議な生命力の歩いた足跡を調べてみるが、それは不思議な生命力の行く先にいろいろ実験的に何物かを置いてみて、こうすればその生命力はどういうふうに歩みを変えるかと観察しているにすぎないのです。学者は観察する、ただそれだけです。創造(つく)るのは神のみです。自分の内にやどる生命力のみです。
山本(医博、画家の父)――なるほど〝There is no God, I am God.〈神は余所(よそ)にいない、自分が神だ〉というわけですね。三十年前にわたしはインディアン・コイン(インディアン貨幣)を手に入れたことがあります。だいぶ古いものですが、四角な銀で造ったものでして、それに梵語でなにかかいてある。それを二人の外国人に翻訳させて、両方比較してみて誤訳のないことを確かめてみたのですが、それは「神は余所(よそ)にいない、自分が神だ」と書いてあったのです。
「自分が神だ」――わたしは余所へ交渉に出かけるようなときには、このインディアン貨幣を持って出ると必ずその交渉に成功する。妙なものですねえ。「自分が神だ」という観念があるので、心に自信力ができて心の力で成功するのですねえ。
谷口―― そうです。「自分が神だ」というのが「生長の家」の信仰なのです。「自分が神だ」といっても何も傲然と構えて相手を軽蔑するわけではないのです。自分が神だと解ったら他(ひと)も神だと解るのです。だから他をも尊敬するようになれるのです。人皆に「自分は神だ」と自覚させるようにするのが「生長の家」の教えなのです。
ある宗教では神を自分と懸け離れた手の届かないような非常に遠い所にいられるもので、どんなに修行しても近づけないもののように説いていますし、ある一派ではキリストだけが神の一人子(ひとりご)であって、他の人間は神の子ではないようにも説いていますし、またある宗教では、その宗祖だけが神の顕現であって、他の人間は下らない無価値な凡夫のように説いていますが「生長の家」ではみんなに「自分は神だ」というメダルをぶら下げさせるのです。そのアイ・アム・ゴッドのインディアンの貨幣は大変結構な護符ですねえ。
5178
:
a hope
:2015/02/10(火) 00:37:33 ID:cEpBaIdo
(
>>5177
a hope所感)
<<人皆に「自分は神だ」と自覚させるようにするのが「生長の家」の教えなのです。>>
これが、生長の家の「唯神実相」の自覚なのではないかと思うのですが、
だからといって、実際に「自分は神だ」「あなたも神だ」「みんな神だ」なんて言って歩いたら、
気が触れたかと思われてしまいそうですね(;’∀’)
一方「人間は神の子だ」といえばその意味を素直にとれば『人間は神そのものではなくてその子供である』という意味ですから、
わたしには、御親としての「神」が自分の外に存在しているのではないかというイメージが湧いてきてしまい少し混乱してしまうのです。
みなさんはどうですか?
ですが、この対談で雅春先生は、
<<自分のそとに神様を求めるから解らなくなるのです。自分の内にある生命力――これを神様と見ておれば、だいたいまちがいないのです。>>
<<「自分が神だ」というのが「生長の家」の信仰なのです。>>
とはっきりご指導くださっています。
わたしたちはそとに神を求める必要はないのですね!
だって、自分の中にちゃんと神さまがいるのですから・・・そういう意味ですよね?
5179
:
a hope
:2015/02/12(木) 09:39:44 ID:cEpBaIdo
「生命の實相」第16巻 p40 7行目〜
山本(画家)―― 人間に生きる力が宿っている――その力を神と名づける、各人が皆一個の神である。そういえばそういえぬこともないとは思いますが、宇宙にも神があるということ、全体を生かしている神があるということが、どうも解らないのです。
谷口――自分のうちに神秘な生命力が宿っている、それは認める。それならば他の内にも神秘な生命力が宿っている、それをも認めなければならなくなるでしょう。その自分のうちに生きている生命力と、他人のうちに生きている生命力とが、一つの源(みなもと)のいっそう大きな生命力から来ているということは、われわれの内に生きている力が、誰も彼も同じ相似の働きをしているのでも知ることができるでしょう。
誰でも胃袋があり、腸があり、心臓があり、肺臓がある。その細部の構造設計までも似ている。別にある人が発明した「人体」という機械を、他の人が真似をしてこしらえたわけではないのに、その細部の構造設計までが一貫した一つの同じ原理ででき上がっていることを思えば、われわれ各個人に宿る生命力は、各個人の肉体から出る個々別々の力ではなく、全体の生物を一貫して生かしている、共通的生命力というようなものを認めずにはいられないでしょう。
この共通的大生命力――これを称してわれわれは本源の神と呼ぶので、われわれにはこの本源の神の生命力が宿っていて、いろいろ生きた活(はたら)きをしたり、物を考えたりしている。その「活きている自分」というものはこの「本源の神」が宿っていて「自分」となっているのですから、「自分は神だ」ということになるのです。この「自分が神だ」とい真理がわかり、そしていっそう大きな生命に結ばれているということがわかると、われわれはわれわれ自身の内に宿っている大きな生命力に信頼することができ、安心がそこから湧いて来、大きな自己癒能もそこから湧いてくるのです。
5180
:
a hope
:2015/02/12(木) 09:41:43 ID:cEpBaIdo
(
>>5179
a hope所感)
『「われは神と一体なり」そして「彼も神と一体なり」(神人一体の自覚)ならば、「われと彼も一体なり(自他一体の自覚)」、
つまりは、わたしたちは「すべてが一つ」〝Oneness〝 というわけなんですね!!
わたしは生長の家の教えに触れて間もないころ、「実相を観ずる歌」が好きでよく唱えてました。
そして、宇治の練成に参加して、その歌に素晴らしい曲がついていることを知りました。
今回のこの部分の雅春先生のご説明は、この「実相を観ずる歌」の内容とそっくりだと感じました。
実相を観ずる歌
(一)
神はすべてのすべて
神は完(また)き生命(いのち)
神は完き叡智(みちえ)
神は完き聖愛(みあい)。
すべてのものの内に、
神の生命は生くる、
神の叡智は生くる、
神の聖愛は生くる。
神はすべてにして、
すべて一体なれば、
よろずのもの皆共通(ひとつ)の
ちから是を生かせり。
天地(あまつち)の創造主は、
唯(ただ)一つの神にませば、
天地はただ一つに、
いと妙に調和満つる。
吾座す妙々実相世界
吾身は金剛実相神の子
万ず円満大調和、
光明遍照実相世界。
(二)
・・・省略・・・
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