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日蓮考察

1わめ ◆TJ9qoWuqvA:2005/07/21(木) 11:10:24
このスレッドでは、日本では馴染みの深い、日蓮をテーマに議論していきたいと思います。
日蓮の呼称は、大聖人とか、聖人とか大菩薩など様々ですので、敢えてスレタイは日蓮とさせていただきました。
わめもここでは配慮して、日蓮と書く場合が多いかもしれませんが、配慮以外の他意はないことを予めお断りしておきます。
皆さんは馴染みある呼び方でも、日蓮とだけでも自由にお書きください。

それとわめの掲示板での議論のルールを説明します。
ネチケット尊守は当然して、ここではポパーが提唱する「可謬性」をお互いが認知し、「批判的合理主義」に則って議論をし、互いの知識を高めあっていこう、互いの誤謬を発見し合い、喜びとしようとするものです。
なので、自らの論の正当性を、訴えることに終始したり、他者からの批判を、攻撃されているように受け止めることは避けてください。
それと皆さん限られた時間の中での書き込みになるかと思いますので、レスを催促したりすることは避けてください。レスはむしろテキストエディター等で作成し、何度も読み返す&時間をおいて書き込む等を心掛けてください。

またテーマに関する範囲でその自己認識を提出し、誤謬がないかを指摘してもらうのもいいかもしれません。
ということでよろしくお願いいたします。ぺこ <(_ _)>

最後に「可謬性」及び「批判的合理主義」の簡単な解説を載せておきます。

「可謬性」とは、ポパーが用いた用語で、われわれの知識が完全に真理に到達したかどうかは確証できず、常に誤っている可能性があるということ。
「批判的合理主義」とは、「私は間違っているかもしれない、あなたが間違っているかもしれない、そしてお互いに批判的に検討しあえば、よりよい真理に到達できるかもしれない」とする見解をいう。

59Leo:2006/01/17(火) 22:53:10
みれいさん、こんばんは。

>このあたりの教議は学会ではどのように教えているのでしょうか?

受難の理由は「開目抄」で説明されているということなのだと思います。
たとえば、
創価学会教学部編 『教学の基礎 ◇仏法理解のために◇』聖教新聞社、2002年
などでは「寺泊御書」に触れられてないです。

『教学の基礎』pp.44-45

「大聖人は「開目抄」で、御白身が受けられた大難を挙げながら「難を忍び慈悲のすぐれ
たる事は・をそれをも・いだきぬべし」(御書二〇二㌻)と大難を忍ぶ慈悲の境地を示
れ、「詮ずるところは天もすて給え諸難にもあえ身命を期とせん、……我日本の柱となら
む我日本の眼目とならむ我日本の大船とならむ等とちかいし願やぶるべからず」(御書ニ三
ニ㌻)と、大難を越えて末法の一切衆生を救おうとの大願を師子吼されました。

(中略)

すなわち、大聖人は、末法万年の民衆を救おうとの大慈悲のゆえに大難を忍ばれ、御自
身の凡夫の身に仏界を顕されました。法華経に説かれているとおりに幾重もの大難を受
け、そのすべてに耐え抜いてこられた勝利の姿をもって、一人の凡夫が生命に本来具わる
仏界の偉大な力を涌現できることを証明されたのです。」

>当時からすでに現代と同じような批判がされているあたりに注目です。

「寺泊御書」に注目するのはポイントかもしれません。
また何かみつかったらまたカキコします。では。

60みれい:2006/01/19(木) 01:16:34
Leoさん、
とってもとっても頼りになる情報、ありがとうございます。さすがです。
千手観音なみの手際のよさ(^^)
またお願いします。

なるほどです。
寺泊御書は、その本を書かれた方でも、理解が難しそうな感じでした。
日蓮さんと富木さんの二人の心理的な部分が大きく左右しそうな内容ということかな。

私は安楽行品と勧持品の違いもよくわかっていないので、ちょっと法華経の旅に行ってこようと思います。
ここか、ペガサスさんのところか、チョンガーさんのところをうろうろしていると思います。

61ドプチェク ◆UILiye31iI:2006/01/19(木) 20:20:02
みれいさん、お久しぶりです。
実につまらない事ですけど、私もほんの少しばかり、自分なりに思っている事を述べさせていただきます。
北川前肇氏の「書簡からみた日蓮」は、私も持っていますよ(と言っても、みれいさんと違って、じっくり読んだわけではないのですが^o^;)。

>1、まず富木さんと日蓮さんとの関係。かなりの信頼関係であった(という表現が適切かわかりませんが)ことが伺える。
>富木さんは数々の法難に遭っている日蓮さんの苦悩を良く知っている。
>日蓮さんも富木さんには愚痴(というか嘆き)をこぼせる、という間柄であったこと。

不勉強者の私には、詳しい事はわかりませんが、それは大いにあり得たのではないか?と思います。
創価学会・日蓮正宗といった富士門流の系統では、日蓮聖人の事を全知全能の神のような存在としてしか捉えていなくて、血の通った生身の一人の人間として見ていない為、彼ら(創価学会や日蓮正宗の人間たち)の話に接していたら、聖人はまるで血も涙もない機械かロボット、もしくは、顔のない冷たい蝋人形のようなイメージしか沸いて来ません。
また、すごく傲慢不遜な人間であるかのようにも思えて来ます。
しかし、実際の日蓮聖人という人物は、彼らの言うようなイメージの人間とは全然違い、聖人自身も内心で様々な葛藤を抱きながら、弟子・信徒たちと共に泣いて笑って心を通わせ、気持ちを共感し合った実に人間らしい人だった事は、学会関係や正宗関係以外の書籍を読めばよくわかります。
また、御書にしろ、学会式や正宗流ではなく、素直に読んで行きさえすれば、日蓮聖人の人となりがわかると思います。
結局、学会や正宗の人間たちは、日蓮聖人を全知全能の神のような存在=久遠本仏として捉えるという間違った解釈の仕方による先入観から抜け出せないので、それ故に、信徒の富木常忍の事も飽くまで聖人より格下としてしか見れず、多分、彼らは「大聖人(彼らは日蓮聖人の事をそう呼んでいますね)が信徒に向かって愚痴をおっしゃる筈がない」「信徒に大聖人の境涯がわかるわけがない」と、そのように言うのではないかと。
とにかく、教義的な解釈の仕方を誤っている学会や正宗の話は、まったくのナンセンスである事が多いのは確かだと思いますね。
ちなみに、『仏教の思想12 永遠のいのち<日蓮>』(紀野一義・梅原猛 角川文庫 1997年)で、紀野一義氏も北川前肇氏と同じような事を述べられていました(梅原氏との対談の中で)。

まぁ、私の意見はそのようなところです(^_^;)。
頑張って下さい!(^_^)

62みれい:2006/01/21(土) 02:49:15
ドプチェクさん、
おひさしぶりです(^▽^)ノ
お元気そうでなによりです。

私こそ、カタツムリ並の進み方で、すこーしずつ進んでます。
そもそも、文章能力からまだ要進歩です^^;)

>日蓮聖人を全知全能の神のような存在=久遠本仏として捉えるという間違った解釈の仕方による先入観から抜け出せないので、

日蓮さんに対して、本当に、そうですよね。
今でこそ私も「日蓮さん」と呼んでいますが、昔はそんなことしたら罰が当たると思ってました。
ついでに「池田さん」も「池田先生と呼ばなくちゃ罰が当たる」となぜかインプットされてました。

日蓮本仏と釈迦本仏ではかなり「仏」の意味合いが違うということを、他の仏教から「仏」について教わっているうちにわかってきました。
日蓮正宗と創価学会では、「仏」の意味も神格化しているというイメージは私も感じます。
これは、偶像の「仏」ともまた違うものですね。
そして活動している人(地湧菩薩としてますかね)も、「悪を倒す聖なる戦いをする人々」のイメージを植え付けられている感じです。
なんだかそのままキリスト原理主義みたいですね。
そもそもそれですでに縁起の思想はないわけで、他の仏教からこの二つだけは大きくかけ離れている部分ですよね。

>信徒の富木常忍の事も飽くまで聖人より格下としてしか見れず

これも、他の仏教では師弟の絶対服従的なものはないはずですね。
あくまでも仏教で師弟になるのは(帰依としても)、法脈を受け継いでゆくことで、服従ではないはず。
質問や発言の場は徹底的に与えられるはずかと。日蓮さんなんてとことんまでやりそうです。
絶対的な拠り所にさせることを日蓮さんが望んでいたかどうかという部分を、私もあらためて読んでみようと思います。
そして、ほろりとこぼしているのが寺泊御書らしく。
山を越え海沿いを歩きようやく寺泊までたどり着き(あそこの土地は海の後ろがすぐ山です)、これから佐渡島に渡るという手前で、日蓮さんもこの道のりはかなりきつかったようです。

私もその本で日蓮さんがいろんな方に暖かい言葉をかけていたのを読んで、
感強情っぱりな印象はそのままだけれど、ニュアンス的には今までと違う解釈があるのではと感じるようになってきたのでした。
ただ、法華経でもドギツイ言葉があり、加えて日蓮御書でもやはり勧持品によった日蓮の過激な言葉が飛び交います。
右派、また原理主義に働きかけやすい要素はもっていたかな、と思います。
(なんだか私はチェ・ゲバラとかぶる)

梅原猛さんのお名前も、仏教を調べているとよく出てきますね。
図書館で探してみます。

ありがとうございます(^-^)

63Leo:2006/01/21(土) 23:58:37
みれいさん、こんばんは。
ドプチェクさん、お久しぶりです。

みれいさん、
わめさんのブログの方にコメントしました。
http://wame.seesaa.net/article/10650360.html

64みれい:2006/01/23(月) 01:29:58
Leoさん、

ありがとうございます。
コピペしてペガサスさんの所にも貼らせていただきました。

65Leo:2006/01/25(水) 22:18:08
みれいさん、わめさん こんばんは。

ブログの方のコメントの続きです。

すでにご存知の情報が多いかもしれませんがこんな本があります(教学の再考向け)。

○直人(なおひと)さん(ROCKさん)の出された本はこれです。
『大石寺教学の研究』平楽寺書店 (私はまだ買ってないんですが...(^^;)
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4831310832/qid=1138193875/sr=8-2/ref=sr_8_xs_ap_i2_xgl14/249-5809110-7589927#product-details
・大石寺教学の批判。

○友岡雅弥さんの初期仏教の本『ブッダは歩むブッダは語る』第三文明社
http://item.rakuten.co.jp/book/1301746/
・初期仏教の紹介。

○山中講一郎さんの『 日蓮伝再考(2)伝説の長夜を照らす 』報恩社 /平安出版 (こちらもまだ買ってないです...(^^;買いたい)
http://item.rakuten.co.jp/book/1716026/
・日蓮(大)聖人の再考。
『日蓮自伝考―人、そしてこころざし―』水声社 が3月出版されるそうです。

○法華経のサンスクリット語からの訳
松濤誠廉、梶山雄一、丹治昭義 訳 『大乗仏典4 法華経Ⅰ』 中公文庫、中央公論新社、2001年
松濤誠廉、梶山雄一、丹治昭義 訳 『大乗仏典5 法華経Ⅱ』 中公文庫、中央公論新社、2002年
・方便品の十如是がないし、冒頭が「オーン」(インドの聖なる言葉)から始まるのでたまげます。

○創価学会員のご友人がおられるという大学教授が書いた本
末木文美士 『日蓮入門 − 現世を撃つ思想』 ちくま新書、筑摩書房、2000年

66Leo:2006/01/25(水) 22:26:09
(ちょっとご注意)

私が友岡雅弥さんや山中講一郎さんの書籍を紹介したからといって別に彼らはアンチでは決してありません。
彼らは創価学会思いの方だと思っております。
私と立場は違うけど(私がこのようなことを言うのはおこがましいですが)ですが真実を求める姿に共感ということで。

67Leo:2006/01/25(水) 22:28:56
うう。『 日蓮伝再考(2)伝説の長夜を照らす 』の(2)は(1)だった。

68Leo:2006/01/25(水) 23:25:14
参考ご発言(1)

顕正居士さん(顕正会とは無関係の無宗派の方)曰く:
「>顕正さんはどんな立場(宗派?)の方なんですか?

  大乗仏教です。根本教理は「人法二無我」です。霊魂とか物自体は存在しないと云う立場です。龍樹−月称−宗喀巴と継承する中観帰謬論証派が最高の理解であると考えます。
ローカル(日本仏教的)には日蓮主義です。何故かと云うと浄土教は絶対者、密教は有我、禅は唯心で相対的に天台・日蓮が中観派に近い。
  中で日蓮は実践的には唯色論的だからです。
縁起(釈尊)や空性(龍樹)の説は霊魂や物自体の否定で唯心論ではないが大勢はそういう方向が盛んになった。
日蓮的唯色論も自然科学、社会科学的発想を促すのでなく、呪物崇拝、呪文信仰に転落して来た。唯心論と迷信を払拭したあとに残る大乗思想、法華思想は十分現代でも信仰に価すると云う立場かな。」
http://page.freett.com/leo020503/note005.html
「要するに

『現実版・創価学会会則前文』
>釈尊に始まる仏教の慈悲と平和の精神は、大乗仏教の真髄である法華経に
>集約され、一切衆生を救う教えとして明示された。日蓮大聖人は、法華経の
>根本を三大秘法として顕され、未来永遠にわたる人類救済の道を確立された。
が、
『理想版・創価学会会則前文』
釈尊がお説きになった無我の教えは、聖龍樹の空性の教えに発達し、法華経は
万人平等(一乗)の精神を唱えた。聖龍樹の空性の教えと、法華経の万人平等
(一乗)の精神とは不分離であることを、羅什三蔵は中国に伝え、智者大師が
両箇の教えをよく合揉した後、日本において発達した法華思想を、日蓮は世界
に宣布せよと述べた。わたしたちは日蓮のこの訓えを信じるがゆえに、空性の
教義と一乗の精神とを世界に伝えたいとおもう。

ていどになれば好いんでないでしょうか?」
http://page.freett.com/leo020503/bbslog001.html

69Leo:2006/01/25(水) 23:26:40
参考ご発言(2)

Libraさん曰く:
「わたしは、佐倉哲さんや曽我逸郎さんのような仏教理解は正しいとおもいま
す。そういう理解に到達できるのであれば、どのような道を通ってもよいとお
もいます。

 わたしは、「法華経・日蓮という道を通らなければそこには到達できない」
(A説)とはおもいませんが、「法華経・日蓮という道を通ってしまうとそこ
には到達できない」(B説)という意見には賛成できません。ネット上にもB
説を主張する人がいるので、そういう人には反対していきたいとおもっていま
す。

 わたしの場合、法華経とか日蓮という道を通ってそこに到達しました。もし
その道に出会っていなければ、どうなっていたかわかりません。そういう意味
では、創価学会員の子供として生まれたのはラッキーだったと思っています。

 わたしは、これからも、「法華経・日蓮という古典的な道も、けっこう面白
いですよ」といっていきたいなとおもいます。」
http://page.freett.com/leo020503/bbslog3_002.html

70Leo:2006/01/25(水) 23:33:29
(Libraさんが引用した)「信」について

 「『法華経』でも、信仰は各所に強調されている。しかしそこで
  の原語は、シュラッダー(信)か、アディムクティ(信解)で
  ある。他にプラサーダ(澄浄)が一つか二つ使われている。こ
  れら三語とも、バクティのような絶対者にたいする絶対信を意
  味しない。仏道への入門にさいし、心をあらため、心を決め、
  心を浄めることをいう。その上で修行にはげみ、智慧をみがい
  て悟りに達するのである。
   右のごとき信仰の観念は仏教を一貫して流れるもので、ナー
  ガールジュナ(竜樹)の『大智度論』巻第一に、「仏法の大海
  には信を能入と為し、智を能度と為す」と説かれているところ
  である『法華経』でもこの基本線は保たれているので、たとえ
  ば、分別功徳品第十六(第十七)で一念の信あるいは信解を強
  調しながら、それらは五波羅蜜をこえるが、「般若波羅蜜は除
  く」と説かれている。つまり、悟りにいたる(パーラミター)
  六つの実践行為(六波羅蜜、六度)のうち、智慧(プラジュニ
  ャー 般若)のみは最後的なものとして信の上に置かれたので
  ある。
  (田村芳朗『法華経』(中公新書196)、中央公論社、1969年、
   p.92、※原語表記は省略して引用した)」
  http://freett.com/Libra0000/Beat_Me_501_521.html

71みれい:2006/01/26(木) 23:28:29
Leoさんこんにちは。またお世話になります。

>浄土教は絶対者、密教は有我、禅は唯心で相対的に天台・日蓮が中観派に近い。

本文と関係ないかもしれませんが、このあたりはなんだか疑問が残ります。
たぶんネットなどでさらっと検索するとそのまま当てはまるのでしょうが、
掘り下げていくと違う気がします。
あくまでも超浅学の私の印象なのですが。

>『理想版・創価学会会則前文』
>釈尊がお説きになった無我の教えは、聖龍樹の空性の教えに発達し、法華経は
>万人平等(一乗)の精神を唱えた。聖龍樹の空性の教えと、法華経の万人平等
>(一乗)の精神とは不分離であることを、羅什三蔵は中国に伝え、智者大師が
>両箇の教えをよく合揉した後、日本において発達した法華思想を、日蓮は世界
>に宣布せよと述べた。わたしたちは日蓮のこの訓えを信じるがゆえに、空性の
>教義と一乗の精神とを世界に伝えたいとおもう。

>ていどになれば好いんでないでしょうか?」

賛成です。そしてそれは日蓮宗もしくは立正佼成会なのではないかと思うのですが、違いがあるのでしょうか。日蓮本仏では成り立たないのではと思います。
(Libraさんもそうおっしゃられているような)
あと、素朴な疑問ですが、今まで創価学会で「空」について語られていたでしょうか?

また天台宗はもちろんですが、曹洞宗道元さんも法華経は扱っていますし、浄土真宗親鸞さんも法華経の中から引用した言葉を使われています。法然さんもそうだと思いますが、皆天台で法華経は学んだはず。
たぶんこれだけメジャーな経典は現代で把握していない宗派はないのではと。
そして日本の多くの新宗教は大規模団体からカルトまで、法華経を取り扱っているはずです。
日本発信で法華経を取り扱うことと、一つの柱として法華思想団体が存在するのと、一つのグループが専売特許のように振舞うことと、また少し違うような気がします。

>わたしは、「法華経・日蓮という道を通らなければそこには到達できない」
(A説)とはおもいませんが、「法華経・日蓮という道を通ってしまうとそこ
には到達できない」(B説)という意見には賛成できません。ネット上にもB
説を主張する人がいるので、そういう人には反対していきたいとおもっていま
す。

> わたしの場合、法華経とか日蓮という道を通ってそこに到達しました。もし
その道に出会っていなければ、どうなっていたかわかりません。そういう意味
では、創価学会員の子供として生まれたのはラッキーだったと思っています。

B説納得です。ご縁を無駄にしない(というか無駄はないとする)考え方は賛同します。
また、私の場合は学会をご縁としてその後離れてからあらためて仏教や法華経のご縁をいただきましたが、学会がもし最終地点であったとしたら、今の考え方はなかっただろうと思います。

Libraさんの場合は、日蓮さんへのご縁として学会の教義はすでに通り過ぎ、他の方達のように独自に仏教、法華経の展開を確立されていらっしゃいます。
やはり現時点での創価学会問題は、通過させずそこへ留まらせるところにあるかと。

「或る人日蓮を難じて云く、機を知らずして麁議を立て難に値ふと。或る人云く、勧持品の如きは深位の菩薩の義なり。安楽行品に違すと。或る人云く、我も此の義を存すれども言はずと云云。或る人云く、唯教門計りなり。理は具に我之を存すと。」寺泊御書

これらは当時の方々がLibraさんがおっしゃりたい事にとても似たことを、日蓮さんに伝えたのではと思いますが、
結局
「勧持品に云く「諸の無智の人有て悪口罵詈し」等云云。日蓮此の経文に当れり。汝等何ぞ此の経文に入らざる。」(この「日蓮」の箇所が「学会」になるわけですが)
になってしまっているように感じるのですが、その後学会内部で発展はあったのでしょうか?ちょっとはLibraさんの手紙に目を通してくれたのかなぁと。

法華宗団として成り立たせるならば安楽行品ももう少し力を注いでくれたらいいのではと思います。(そしたら日蓮仏法と離れちゃうのでしょうか?)

72Libra:2006/01/27(金) 04:21:11
 みれいさん、みなさん、おはこんばんちは。

 2月に入ってしまうと、しばらくはここに来れそうにありませんので、一瞬
だけ参加してみようとおもいます。

 みれいさんは、あいかわらず鋭いことを書かれていますね。

 道元と親鸞についてはわたしも興味がありますが、話が別の方向にそれると
いけないので今回はおいておきます。

 「法華宗団として成り立たせるならば安楽行品ももう少し力を注いでくれた
らいいのでは」というみれいさんのお考えも、検討に値する立派なアプローチ
だとおもいます。しかし、わたし自身は、逆方向のアプローチもまた検討に値
するのではないかと考えています(みれいさんのアプローチの妨げにもならな
いとおもいます)。

 わたしは、日蓮の「宗教の生命は、〔中略〕折伏逆化にこそある」[*1]と考
えています。日蓮の折伏は「理性的批判」です。

 みれいさんのアプローチとの対比でいえば、わたしの考えは「勧持品をもう
少し正しく実践してもらいたい」というふうに表現できるかもしれません。

 勧持品に相当する考えは、初期経典にもみられるようにおもいます。たとえ
ば、『ダンマパダ』第77詩などは勧持品と同趣旨といってもよいようにおも
います。

  ─────────────────────────────────
  七七 (他人を)訓戒せよ、教えさとせ。宜しくないことから(他人を)
     遠ざけよ。そうすれば、その人は善人に愛され、悪人からは疎まれ
     る。

  (中村元訳『ブッダの真理のことば 感興のことば』〔岩波文庫〕、岩波
    書店、1978年、p. 21)
  ─────────────────────────────────

 「勧持品の如きは深位の菩薩の義なり」というのは、たしかにそのとおりな
のかもしれないなとおもいます。悪人から疎まれるのを覚悟で、他人を訓戒し、
教えさとすなどということは、まさに「真の知性人」にしかできないのかもし
れません。

 日蓮にいわせると、「勧持品を実践している自分こそが深位の菩薩なのであ
る」ということになるのだとおもいます。「行為によって卑しい人ともなり、
行為によってバラモンともなる」[*2]という発想からいえば、日蓮のいうこと
もわたしには理解できます。

73Libra:2006/01/27(金) 04:21:55
 さて、問題はここからです。つまり、創価学会が行っているシャクブク(以
下、単に「シャクブク」と略記します)は、はたして、日蓮の折伏と同じく
「理性的批判」といえるのだろうかという点です。もし、シャクブクが「理性
的批判」といえるものであるならば、大いにやってもらいたいとわたしはおも
います。

 創価学会では、「対話」という言葉が、シャクブクと同じような意味で使わ
れることがありますが、それは以下のようなものだそうです。

  ─────────────────────────────────
  本来、「対話」とは「格闘技」なのである。武器は「言葉」。リングは万
  人普遍の「理性」。
   権威をもちこむのは「反則」。なれあいは「八百長」。沈黙は「敗北」。
  論証もなく「私は、こう思うんだ」では、観客から笑われるだけだ。

  (『聖教新聞』、「羅針盤」、2000年11月12日、8面)
  ─────────────────────────────────

 この「羅針盤」に説明されている「対話」は、たしかに「理性的批判」とい
えるだろうとおもいます。

 ということは、実際におこなわれているシャクブクが、上でいわれているよ
うな「対話」でありさえすれば、何の問題もないということになります。

 しかしながら、現実には、万人普遍の「理性」から大きく飛翔し、名誉博士
号がどうしたなどという権威をもちこみ、ときには沈黙し、ときには論証もな
く「私は、こう思うんだ」などといって観客から笑われている創価学会員がい
るということでしょう。「無限に喜劇的」[*3]というのは、まさにこういうこ
とをいうのだとおもいます。

 「理性的批判」ができるのであれば、大いにやってもらいたいとわたしはお
もいますが、それができないのであれば、無理して日蓮の真似をすべきではな
いとおもいます。伊藤先生は「おのれの非を言われぬために人の非を言わぬ腹
黒い手合いの多い末世の中にあって、人の非を言い人を厳しく批判した聖人は、
したがっておのれに対しても厳しくあった。そのことを知らずして末代の教徒
が守文の頭で真似すべき事では決してないのである。」[*4]といわれています
が、わたしもそのようにおもいます。

 シャクブクの場合、シャクブクをおこなっている当人が「観客から笑われ」
るだけではすまず、他人に深刻な精神的なダメージを与えるなどの問題を引き
起こすことがおおいにありうることを考えれば、やはり、みれいさんのアプロ
ーチは本当に鋭いなとおもいます。


  [*1] 真の知性人とは(伊藤瑞叡)
     http://page.freett.com/Libra0000/005.html

  [*2] 釈尊は輪廻転生説を否定した(小川一乗)
     http://page.freett.com/Libra0000/077.htm

  [*3] 「理解」のソクラテス的な定義(キルケゴール)
     http://page.freett.com/Libra0000/095.html

  [*4] 真の知性人とは(伊藤瑞叡)
     http://page.freett.com/Libra0000/005.html

74みれい:2006/01/27(金) 17:04:48
わお♪

Libraさん、んちゃ!ほよよ♪(アラレちゃんを先日古本屋で買いました)

ぜひたまにでもいいので参加されてください。

>みれいさんのアプローチとの対比でいえば、わたしの考えは「勧持品をもう
少し正しく実践してもらいたい」というふうに表現できるかもしれません。

そこもとっても気になっていた部分なんです。
ぜひ掘り下げてほしいと思っていました。

ご存知のように、周りから苦情が起こるようなケースでも「それは自分が正しい教えを実践しているから反発をくらう」
として、内省、内観に至らないケースがしばしばみられます。
加えて選民意識を持ったような方もいらっしゃるようです。

折伏とは、折伏を行う人とは、その辺が実に曖昧なままです。
そして、私が思うのは、日蓮さんがご存命の頃から多くの非難を浴びていたということは、
必ずしも周りの方が無知や暴力的であったからというわけでなく、
日蓮さん自身が自分を勧持品に当てはめているところからすでに始まっているのではないかというところです。

けれどもその時分は釈迦本仏としてあるからまだしも、
日蓮自身を本仏として神格化した時点で言葉が絶対化し、また呪詛や祈祷のようなお題目もアリになってしまうのではと思います。
そんなわけで「地獄に落ちるぞ」というセリフも、日蓮さんのおっしゃるものと(これもまた過激発言で反発食らっていそうですが)、
現代の同じセリフの意味合いとはちょっと違う気がするのでした。

75Libra:2006/01/27(金) 23:34:06
 みれいさん、こんばんは。

 「日蓮さんがご存命の頃から多くの非難を浴びていたということは、〔中略〕
日蓮さん自身が自分を勧持品に当てはめているところからすでに始まっている
のではないか」というご指摘に対しましては、>>72 に書きましたような意味で、
わたしは日蓮を弁護したいとおもいます。

 わたしは、伊藤先生と同じく、日蓮を「真の知性人」として高く評価してい
ます[*]。わたしが日蓮をそのように評価するのは、日蓮の発言やふるまいに
貫かれている批判精神をとても優れているとおもうからです。

 「真の知性人」がおられて、その方の合理的批判が、「反発をくらう」とい
う結果をひきおこしたとしましょう。そのようなときに、その方が、ご自分の
状況を勧持品とか『ダンマパダ』第77詩に当てはめたとしても、わたしはそ
のかたに非難を浴びせようとはおもいません。

 これとは反対に、ただ単にトンデモなことを言って「反発をくら」っている
だけであるにもかかわらず、その状況を勧持品とか『ダンマパダ』第77詩に
当てはめて、自己を正当化しようとしている人を見かけたとしたら、わたしは
おもわず失笑するか、場合によってはその人を批判するでしょう。

  [*] 真の知性人とは(伊藤瑞叡)
    http://page.freett.com/Libra0000/005.html

76Leo:2006/01/28(土) 00:25:54
みれいさん、Libraさん、わめさん こんばんは。

みれいさん曰く:
>Leoさんこんにちは。またお世話になります。

いえいえこちらこそ。疑問や異論や批判がございましたらなんでも仰ってください。

>>浄土教は絶対者、密教は有我、禅は唯心で相対的に天台・日蓮が中観派に近い。
>
>本文と関係ないかもしれませんが、このあたりはなんだか疑問が残ります。
>たぶんネットなどでさらっと検索するとそのまま当てはまるのでしょうが、
>掘り下げていくと違う気がします。
>あくまでも超浅学の私の印象なのですが。

顕正居士さんのその発言に注目したのは、日蓮聖人の以下の言葉と仏教の中心的な
流れ(の一つ)は何だろうと思っていて「中観派」という言葉に納得したからです。
羅什訳の法華経も仏教が密教的になる前の中観派の影響が多いのだそうです。

「又仏になる道は華厳の唯心法界・三論の八不・法相の唯識・真言の五輪観等も実には叶うべしともみへず、
 但天台の一念三千こそ仏になるべき道とみゆれ」(開目抄)

>賛成です。そしてそれは日蓮宗もしくは立正佼成会なのではないかと思うのですが、違いがあるのでしょうか。

御書を先入観なく読んだり、日蓮聖人や法華経について調べたりしますと、日蓮宗や立正佼成会(立正佼成会
について詳しく知らないですが、立正佼成会は日蓮宗から破門されているのだそうです)との大きな差は
なくなってくるかもしれません。(創価学会と日蓮宗や立正佼成会が敵対関係にあったからといって無理やり
差が無ければいけないというものでもないとも思っています)

>日蓮本仏では成り立たないのではと思います。
>(Libraさんもそうおっしゃられているような)

そうですね。日蓮本仏論や戒壇之大御本尊については拘る必要ないというか、それらは後世(日蓮聖人後)に
出てきたものとして再考を要するものではないかと思います。

○初期興門教学には「大石寺流宗祖本仏思想」はなかった(Libraさん)
http://page.freett.com/Libra0000/z008.htm

○所謂「本門戒壇之大御本尊」の真偽について(犀角独歩さん)
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Library/6963/itamandarasingi.html

>あと、素朴な疑問ですが、今まで創価学会で「空」について語られていたでしょうか?

単独で「空」について語られたことはあまりないのではないかと思います。天台の教義では
「仮・空・中」の三諦になっていて日蓮聖人も引用してます。
ちなみに、創価学会教学部編 『教学の基礎 ◇仏法理解のために◇』聖教新聞社、2002年
では1箇所「空」が出てきます。

「死後の生命には、目に見える形やその生命が存在する特定の場所はありませんが、再び形ある
存在として生ずる可能性をはらんだ状態で存続しているのです。単純な「有」と「無」を超えた、
このような在り方を仏教では「空」といいます。」(pp.192-193)

何か死後の生命の存在を主張していて「空」を引用するというのは疑問ですが。

77Leo:2006/01/28(土) 00:48:32
(続き)

>そして日本の多くの新宗教は大規模団体からカルトまで、法華経を取り扱っているはずです。
>日本発信で法華経を取り扱うことと、一つの柱として法華思想団体が存在するのと、
>一つのグループが専売特許のように振舞うことと、また少し違うような気がします。

法華経は平等の教えでありパブリックドメイン(?)であり「独占」しようとするのは
実は法華経に反するのではないでしょうか。

>やはり現時点での創価学会問題は、通過させずそこへ留まらせるところにあるかと。

打ち出しと現場でやっていることは組織の拡大・維持が中心ですね。
日蓮聖人は鎌倉や京都に遊学したのだし、たとえ今日われわれが遊学できないとしても、
可能な範囲で調べたり学んだりして自分なりの考えを持つというのが重要ですね。
(「人に合わせる」のでは日蓮聖人の精神にも反するし各人のためにならないですね)

>「勧持品に云く「諸の無智の人有て悪口罵詈し」等云云。日蓮此の経文に当れり。
>汝等何ぞ此の経文に入らざる。」(この「日蓮」の箇所が「学会」になるわけですが)

そういう日蓮聖人から学会組織への「スリカエ」は多々ありますね。

>になってしまっているように感じるのですが、その後学会内部で発展はあったのでしょうか?
>ちょっとはLibraさんの手紙に目を通してくれたのかなぁと。

Libraさんの手紙の影響があったのかは定かではないですが、会則が改正されたり、
短縮勤行が提唱されたり、学会版法華経(日蓮聖人が手元におかれた註法華経を活字化
したもの)が出版されたりという変化はあったように思います。
全体の印象としてはあまり発展はないかなと。

78Leo:2006/01/28(土) 01:28:59
(続き)

ちなみに私が日蓮聖人と呼び大聖人という呼び方をしていないのは日興上人が日蓮聖人という
呼び方をされているのでそれを参考にしています。

またちなみに、『富士宗学要集』第一巻 本尊三度相伝 では日蓮聖人は釈迦の末法の顕れであり、いきなりの本仏
ありきではない説明ですね。
「一、釈迦と申すは天照太神西天に釈迦と顕はれ諸仏の本誓妙法蓮華経を説き一切衆生悉く是れ吾が子なりと宣ふ、
 日本に又大明神と顕はれ正直に方便を捨つる本願の誓に酬て正直の頭に宿る、
 末法濁世の時は日蓮聖人と顕はれ諸仏の本意を顕はす」
http://nakanihon.net/nb/yousyuu//yousyuu1_2.htm 
(これは正信会員nbさんのページ。
『富士宗学要集』は日蓮正宗・創価学会・正信会 共通ではないかと思います。
とはいえ創価学会ではあまり引用されないと思いますが...
正信会といえば学会のトラウマっぽいですが御書の日蓮聖人の展示会をやったり
興風談所が御書のCDROMを出したりしているので私は評価してます。)

もともとの教義としても
「釈迦の法はもう過去のもので何の利益もない」
「われわれは釈迦仏教に縁のない民衆であることを知らねばならない」(折伏教典)
のような雰囲気とはちょっと違うのではないでしょうか。

79Leo:2006/01/28(土) 01:29:50
(続き)

>法華宗団として成り立たせるならば安楽行品ももう少し力を注いでくれたらいいのではと思います。
>(そしたら日蓮仏法と離れちゃうのでしょうか?)

実は...
創価学会内ではあまり知られていないのではないか思いますが、日蓮宗をウォッチしたりすると日蓮宗内では
摂受が本意か折伏が本意か論争中ですね(摂受が本意の可能性もあります)。

○「摂受か折伏か ◇今成元昭師の所説をめぐって◇」
http://www3.cnet-ta.ne.jp/o/otowatid/p4c2.htm

○「日蓮宗の布教を考える―通仏教化した現状と摂受折伏問題」
http://www.genshu.gr.jp/DPJ/note/flash019.htm

○「摂折論一考」
http://www.genshu.gr.jp/DPJ/note/note_033.htm

○「摂折論に関して」 
http://www5c.biglobe.ne.jp/~lotus/newpage24shoujyaku.htm

80Leo:2006/01/28(土) 01:32:30
>>78 の補足

もともとの教義 は 日蓮正宗の教義

折伏教典 は 過去創価学会が発行したもの(絶版)。

81Leo:2006/01/28(土) 13:50:15
(続き)

>実は...
>創価学会内ではあまり知られていないのではないか思いますが、日蓮宗をウォッチしたりすると日蓮宗内では
>摂受が本意か折伏が本意か論争中ですね(摂受が本意の可能性もあります)。

摂受、折伏は時と場合によって使い分けするべきですし、たとえ折伏を用いるとしても
Libraさんの指摘される(日蓮聖人に同様の精神が見られる)理性的批判、合理的批判を用いる
ことに賛成です。(私のように闘争本能がなくならない人間は特に)人間の持っている闘争本能を
物事の探求に昇華するのもよいかとも思っています。ただこれらは探求や議論が好きな人向けの
ことかもしれないのでみれいさんの仰るように通常は個人にとって摂受であってほしいと
思われると思います。

創価学会の折伏重視は日蓮聖人の勧持品重視が発端とはいえ誤解に基づくものであり
(日蓮聖人は釈尊の仏教を復興しようとして当時仏教の最高の理解と信じられた法華経を
広めようとされたのであり単に教団の勢力を拡大しようとしたのではないハズです)
創価学会が世間から嫌がられたり笑われたりすのであれば当然見直しが必要と思います。
組織がシガラミによって見直しが難しいのであれば(創価学会の根本理念である、
カントと牧口常三郎に共通する啓蒙主義を思い起こし)有志の個人個人でやるしかないと
思います。

○【創価学会の根本理念──カントと牧口常三郎に共通する啓蒙主義──】
http://page.freett.com/leo020503/note019.html
「カントがいう「啓蒙」とは《自分自身の知性を使わずに指導者に頼っている状態から人
を解放する》ということですが[注2]、この理念は創価学会の初代会長である牧口常三郎
に継承されています[注3]。この意味での啓蒙主義こそが、おそらくは創価学会の創立理
念だったのだと思います。」

82みれい:2006/01/29(日) 02:36:42
Libraさん、Leoさん、こんにちは。(Libraさんまだいるかなっ)

>Libraさん

話はそれますが、LibraさんのサイトはLibra御書と呼んだほうがいい気がしました(^▽^)

>わたしは、伊藤先生と同じく、日蓮を「真の知性人」として高く評価しています

日蓮さんが権力や名声に屈することなく進んでゆく精神はとてもすばらしいと思います。
日蓮さんのあり方に問題があるわけでなく、現代の問題を生んでいる個人の勧持品の取り扱い方、またその指導にあたっている方の問題ということですね。
そして、Leoさんがご紹介くださった日蓮宗の取り組みも、Libraさんの理想とするものと同じようなものですか?あちらのサイトにも伊藤さんの名前が出てきますね。

ご紹介いただいたサイトは前回からも読ませていただいているのですが、
日蓮さん=知性の人、というのがまだどうもすんなりと飲み込めません。
賢くてガッツがあるのはとてもよくわかるのですがまだまだ日蓮さんが激情的で戦闘的なイメージが拭えずにいます。立正安国論の予言なども?です。
デール・カーネギー好きの私は「いくら場合によっての折伏とはいえ、きつい言い方は相手を諭す前に傷つけやしないか」と心配になります。
そして、権力に屈しないという点では、日蓮さんの批判した臨済禅、浄土宗はさておき、
あらたに取り組みをはじめた道元さんと親鸞さんは、やりかたは違えど同じ精神ではなかったかと思え、功績は私は3人を並べてみてしまいます。
あと、私が理性的批判と合理的批判いうものが理解出来ていないからかもしれません。

83みれい:2006/01/29(日) 02:48:44

>Leoさん
日蓮さんが中間派?禅が唯心?と思って検索してたらさっそくLibraさんのサイトにヒットしたのでゆっくりみてみようと思います。
http://freett.com/Libra0000/z015.htm

>日蓮宗内では摂受が本意か折伏が本意か論争中ですね

びっくりです。でも何で今頃?とも思います。
誤った折伏の被害の甚大さに気がついたかしら。
正宗からはばっちりバッシングされていますね。

>何か死後の生命の存在を主張していて「空」を引用するというのは疑問ですが。

非常に同感の疑問なのです。
法華経で空が説かれているそうですが、どこですか?
そして、法華経での輪廻(三世)と解脱の解釈はどうなってしまうのかしらと。

>法華経は平等の教えでありパブリックドメイン(?)であり「独占」しようとするのは
実は法華経に反するのではないでしょうか。

やはり。

>打ち出しと現場でやっていることは組織の拡大・維持が中心ですね。

学会のどこらへんが日蓮仏法にあてはまるのか、どう法華経なのか、疑問が増えます。

日蓮正宗でも日蓮本仏に差があるのですね。それもそうか。
かなり以前に正信会員ご一行様とご一緒したことがあるのですが(宗教活動の部分には接触していないのですが)、日蓮正宗ぽさはあるものの、危ない団体にありがちな妙にハイな明るさや堅苦しさは無く、わりと自然体な皆様だったように思います。
ただ、ギャンブル禁止らしく、実際行うのも観るのもNGだそうで、
ふいにテレビに映った競馬のシーンを、名残惜しそうに、でもそのそぶりは見せまいとチャンネルを変えたのが、なんとも印象的です。

84Libra:2006/01/29(日) 04:24:02
 みなさん、おはこんばんちは。

 以前、別のスレッド[*1]に書きましたように、わたしは、日蓮の中心思想を
支持していますが、日蓮が主張したことのすべてを支持しているわけではあり
ません。

 みれいさんのご指摘のとおり、日蓮を本仏として神格化し、日蓮の言葉を絶
対視してしまっている創価学会員は、残念ながらまだまだ多いのでしょう。し
かし、そのような創価学会員しかいないということもないとおもいます。

 日蓮を本仏として神格化することを創価学会員として明確に拒否した最初の
人物は松戸行雄さんだとわたしはおもいます[*2]。この松戸さんのご主張は、
創価学会の内部では、ほとんどまじめに議論されることもなく無視されてしま
いましたが、外部の学者の中には評価する方もおられました[*3]。残念ながら、
結果的には、松戸さんは組織にいられなくなってしまったのですが、松戸さん
のような方こそ「真の知性人」なのではないかとわたしはおもいます。

 話を本題にもどしますと、日蓮の折伏というのは、《「客観的事実」[*4][*5]
としてその当時通用していた(批判に耐えていた)ことに依拠しつつ、相手の
主張の誤りを論理的に指摘するもの》であったとわたしはおもいます。そうい
う意味において、日蓮の折伏は、まさに「理性的批判」であったとわたしはお
もうのです。

 日蓮が依拠したものの中には、日蓮の時代には通用したとしても、今ではも
う通用しないものが少なからずあります。このことを素直に認めることができ
ない人がもしいるとすれば、そのような方は「狂人」であるといわざるをえな
いでしょう[*6]。

 日蓮も「師なりとも誤ある者をば捨つべし又捨てざる義も有るべし世間仏法
の道理によるべきなり」[*7]といっています。

 もちろん、日蓮の思想のなかには、いまでも立派に通用するすばらしい部分
があるとわたしは考えています。現在においてもきちんと通用することに依拠
つつ、「今一度、日蓮思想の多様性の中から主体的に現代思想として重要な視
点を再選択する作業」[*8]こそが、日蓮の弟子として現代に生きるわれわれに
与えられている最も大きな課題であるとわたしは考えます。


  [*1] 法華経について
     http://page.freett.com/leo020503/bbslog3_002.html

  [*2] 日蓮久遠本仏論批判(松戸行雄)
     http://page.freett.com/Libra0000/062.htm

  [*3] 秋谷会長への手紙(Libra)
     http://page.freett.com/Libra0000/z007.htm
     
  [*4] 客観的事実と信仰
     http://page.freett.com/leo020503/bloglog3_002.html

  [*5] 「客観的事実」とは?
     http://page.freett.com/leo020503/bbslog3_003.html

  [*6] 精神の健全さと病気の違い(カール・ポパー)
     http://page.freett.com/Libra0000/112.html
     
  [*7] 「曾谷殿御返事」、学会版全集、pp.1055-1056。

  [*8] 日蓮における釈尊観と霊山浄土観の諸相(松戸行雄)
     http://page.freett.com/Libra0000/119.html

85Libra:2006/01/29(日) 05:54:06
 みれいさん、おはこんばんちは。

 まず、「摂受か折伏か」についての日蓮宗内の論争についてですが、残念な
がら、わたしは、その中身を全く追跡しておりません。ですが、もし追跡した
とすれば、おそらく、全面的に伊藤先生の説の方を支持することになるのでは
ないかと予想します。

 つぎに、みれいさんの「日蓮さん=知性の人、というのがまだどうもすんな
りと飲み込めません」という印象についてですが、そういう感覚は、とても常
識的といいますか、そういう感覚をおもちの方はとても多いだろうと予想しま
す。特に、「戦闘的」というイメージは、ぴったりあたってるなとおもいます。
ただし、その場合の「戦闘」とは「論争」ということです。

 わたしは、学者になるための訓練をうけたことがあるので、実感としてよく
わかるのですが、一流の学者というのは、「われわれの代わりに理論を死なせ
る」[*]という観点をもっており、真剣勝負でおたがいの理論を斬り合うもの
です。そういう意味で、一流の学者ほど「戦闘的」であるというのがわたしの
実感です。もっとも、こういった感覚は、常識的ではないのかもしれません。

 とはいえ、そんな日蓮でも、学者でもなんでもない人にたいしてコメントす
るようなときには、学者の意見を反駁するときにみせるのとは全く別の顔をみ
せていたようにおもいます。そのギャップの大きさも、日蓮の魅力の一つだと
わたしはおもいます。

 さいごに、道元と親鸞についてですが、恥ずかしながら、わたしは、この二
人の大学者を全くといっていいほど追跡しておりません。ただ、わたしが尊敬
する仏教学者である松本史朗先生、袴谷憲昭先生、小川一乗先生などが曹洞宗
あるいは真宗のご出身であることから、道元と親鸞からは、わたしも多くのこ
とを学ぶことができるのではないかと予想しています。もっとも、わたしは、
仏教を本格的に研究できるという立場にはありませんので、道元と親鸞につい
て、わたし自身が本気で追跡してみるという機会はおそらく得られないのでは
ないかとおもっています。


  [*] 以下を参照されてください。

     ──────────────────────────────
     批判とは、論理的矛盾や事実との齟齬を指摘することにより、批判
     される対象と現実を直面させる試みである。そしてその目的は、
     批判対象をよりよきものにすることにある。この意味では、批判は
     その対象に対する真剣な関心の現れである。それは批判の対象を改
     善するきっかけ、チャンスなのである。だから、批判や反駁を受け
     入れることは改良への一ステップである。
 
     (蔭山泰之「面目と反駁−批判的合理主義の観点から見た日本的組
       織の諸問題−」、
       http://www.law.keio.ac.jp/~popper/v10n1kagefr.html
     ──────────────────────────────

     ──────────────────────────────
     日本的組織では、ある行動や思想を、それを生み出した者の人格と
     容易にむすびつけてしまう強い傾向がある。〔中略〕こうした傾向
     が強いところでは、批判即人格攻撃と受け取られてしまうだろう。
     しかしそうであるからこそ、行動や、思想と人格を切り離し、たと
     え理論が誤っていたとしても、「われわれの代わりに理論を死なせ
     る」と考えられる観点が、きわめて切実に要請されてくる。

     (同上)
     ─────────────────────────────────

86Leo:2006/01/29(日) 15:48:53
みれいさん、わめさん、Libraさん こんにちは。

みれいさん曰く:
>法華経で空が説かれているそうですが、どこですか?

まずこれからいってみます。『法華経』で直接「空」を語っているところを抜書きしてみました。
(以前わめさんからも同様の質問あったのですがどこに書いたか失念したのであらためて書きます)

法師品第十の「如来の座とは一切法空是れなり」は結構核心ではないでしょうか。
(他の部分では単なる二乗のやっているところの空だけではダメという批判も含んでいます)
(「空」について直接語っているところはわずかなので『法華経』は装飾の多い古代美術の
ようだなと思ったりもします)

「我本邪見に著して 諸の梵志の師と為りき 世尊我が心を知しめして 邪を抜き涅槃を説きたまいしかば
 我悉く邪見を除いて 空法に於いて証を得たり 爾の時に心自ら謂いき 滅度に至ることを得たりと」
(譬喩品第三)

「我等長夜に 空法を修習して 三界の 苦悩の患を脱るることを得て 最後身 有余涅槃に住せり
 仏の教化したもう所は 得道虚しからず 則ち已に 仏の恩を報ずることを得たりと為す」
(信解品第四)

「如来は是れ一相一味の法なりと知れり。所謂解脱相、離相、滅相、究竟涅槃、常寂滅相にして、終に空に帰す。」
「復禅に住して 神通力を得 諸法の空を聞いて 心大いに歓喜し 無数の光を放って 諸の衆生を度すること有り
 是れを大樹の 而も増長することを得と名づく」
(薬草喩品第五)

「諸の比丘、若し如来、自ら涅槃の時到り、衆又清浄に、信解堅固にして空法を了達し、深く禅定に入れりと知りぬれば、
 便ち諸の菩薩、及び声聞衆を集めて、為に是の経を説く。世間に二乗として、滅度を得ること有ること無し。
 唯一仏乗をもって滅度を得るのみ。」
(化城喩品第七)

「又諸仏所説の空法に於いて、明了に通達し、四無礙智を得て、常に能く審諦に清浄に法を説いて疑惑有ること無く、
 菩薩神通の力を具足し、其の寿命に随って、常に梵行を修しき。」
(五百弟子受記品第八)

「如来の室とは一切衆生の中の大慈悲心是れなり、如来の衣とは柔和忍辱の心是れなり。
 如来の座とは一切法空是れなり。」
(法師品第十)

「今皆大乗の空義を修行す。」
(提婆達多品第十二)

「復次に菩薩摩訶薩、一切の法を観ずるに、空なり、如実相なり。顛倒せず、動ぜず、退せず、転ぜず。
 虚空の如くにして所有の性無し。」
「一切の諸法は 空にして所有無し 常住有ること無く 亦起滅無し 是れを智者の 所親近処と名づく」
(安楽行品第十四)

87みれい:2006/01/30(月) 01:01:16
私はネット内の人にもとても恵まれていると思います。
ありがたや。

Libraさん、Leoさん、こんにちは。


>Libraさん

>日蓮を本仏として神格化し、日蓮の言葉を絶対視してしまっている創価学会員は、残念ながらまだまだ多いのでしょう。しかし、そのような創価学会員しかいないということもないとおもいます。

>松戸さんのような方こそ「真の知性人」なのではないかとわたしはおもいます。

いろんなサイトをみていると、まだまだ依存度が高い印象ですが、最近は学会員さんでも内部について、おかしいところは批判の声をあげている方のブログをみかけます。
残念ながら組織内部は今でも批判をあげる空気ではないようです。
私は会員のそういった声はものすごく大事だと思いますし、また、組織も声を汲み上げ改善に努めてほしいと願います。
というわけで、松戸さんという方はきっとすばらしい方とおもいます。
もちろんLibraさんやLeoさんもすごいし。

神格化するのは、宗教的には必ずしも悪い面ばかりではないとおもうのですが、
(いい面は一言でいうと関係が絶対化して信者に「勢い」が出るかと)
おっしゃるとおり、やはり根底にブッダの正しい教えと実践がなくてはとてもとても危険だと思っています。
世界の宗教の中でもキリストやイスラムのような外部からの迫害らしいものが無い中ではじまった仏教のなかで、日蓮教団だけが迫害の歴史を得ながら形成された宗派なので、そこも特徴だと思います。
また、一神教は西洋では良くも悪くも文明発達を担ったようですので、その要素を持つ組織の動向は今後も非常に重要になってくるとおもいます。

>一流の学者ほど「戦闘的」であるというのがわたしの
実感です。もっとも、こういった感覚は、常識的ではないのかもしれません。

なるほど。
例えば、道元さんも学者レベルでしかわからないような難解な「正法眼蔵」を残されていますね(私はこれこそさっぱりわかりません。チャレンジャー求む)そのなかで道元さんもかなり批判的な意見を残していたりしますが、あくまでも理論の上で、とのことなので、Libraさんのおっしゃることと同じだとおもいます。
そのかわり、弟子が残した「正法眼蔵隋聞記」では、現代のサラリーマンでも主婦でもそのまま役に立ちそうな内容と、道元さんの人間らしさが残されています。
そして同じように親鸞さんの思想理解にあたっては「教行信証」があり、弟子の残した「歎異抄」があり、こちらもまた現代に通用するあたたかい言葉に溢れています。

日蓮さんにいたっては、やはりLibraさんが、
>「今一度、日蓮思想の多様性の中から主体的に現代思想として重要な視
点を再選択する作業」[*8]こそが、日蓮の弟子として現代に生きるわれわれに
与えられている最も大きな課題であるとわたしは考えます。

とおっしゃられるように、今まで残された学者レベルの思想的なものから現代理解(特に生活レベルの信仰に関わるもの)へともっと取り組みが始まってほしいです。
(まあこの私の意見も随分人任せで申し訳ないですが)

私の周りでは、学会員さんでも道理に基づいて話をしてくださる方(主にネット)は、皆さん一般仏教や宗教を熟知されているか、学会に依存しないし押し付けない方です。少数ですけどね。

>「われわれの代わりに理論を死なせる」

ディベート侍、みたいな。ちょっとかっこいいです。
すみません、こんなレベルなわけですが。屍が出なけりゃかまいません。

Libraさんのサイトのも、数年前と比べてみると、さらに少しずつわかってきました。
それを少し砕いたのがLeoさんのサイトですね。

88みれい:2006/01/30(月) 01:06:23
Leoさん、
これまた2度手間させてしまい、なのにご丁寧にご紹介くださいましてありがとうございます。
こんなにあるんですねぇ。大変お手数かけました。
保存版にさせていただきます。

お二人にご紹介いただいた中身の中の「空と涅槃」について、
空はまだ自分は確信しないようにしていますが、Libraさんのサイトに掲載されているものがとても近い印象です。
そして学会では空と縁起は聞いたここがないです。因果と輪廻と業ばかりだな。
佐倉さんの「空」はさすがに学者の「空」という印象で、私はぴんとこないです。
また、涅槃(悟り)は十牛図が、うまいこと表しているなぁとおもいます。
http://homepage3.nifty.com/sanbo-zen/cow.html


また、べつの掲示板で思った事を貼っておきます。

>>観音菩薩のいろんな相手に合わせて人を救っていこうという姿勢は釈迦のあらゆる人に教えを説く姿勢と照らして考えることも出来ると思います。
主に自ら解脱して観音菩薩(観自在菩薩)を目指すことのススメ初心者版が般若心経にあたり、
主に観音の救いがどれだけ自分のまわりに溢れているかを説くのが法華経の25番、という見方も出来ませんかね?
合わせるととてもいいと思うのです。

>「如来の座とは一切法空是れなり」は結構核心ではないでしょうか。

まんま掛け軸にかかっててもいいような。

>「空」について直接語っているところはわずかなので『法華経』は装飾の多い古代美術のようだなと思ったりもします

そのLeoさんの表現がとてもツボです。
そして、やはりそのままわかった気になってはいけない気がします。

89みれい:2006/01/30(月) 02:36:21
>そして、やはりそのままわかった気になってはいけない気がします。

私が「空」について、ということです。

90Libra:2006/01/31(火) 01:59:11
 わめさんへ

 今、拙文をブログの『宗教はやっぱり好きになれない』に投稿しようとしま
したが、うまくいきませんでした。

 かわりにこのスレッドに投稿しておきます(↓)。

91Libra:2006/01/31(火) 01:59:59
1.はじめに

 わめさんは、初期経典にみられる「信仰を捨て去れ」という言葉を、《何か
を信仰すること一般》をすべて否定する言葉だと解釈されているようですが、
このような解釈は妥当ではないとわたしはおもいます。わたしがそのようにお
もう理由を以下に述べてみたいとおもいます。

 以下では、まず中村元先生の説を批判しようとおもいます。というのも、中
村先生が、わめさんと同じような解釈をしめされているからです。なお、以下
にわたしが引用する中村先生のご発言は、すべて、Leo さんのご教示によりま
す(わたしは、現在、仏教関係の資料をほとんど所持していませんので、Leo
さんに協力して頂きました)。この場をお借りして、Leo さんに深く謝意を表
します。

92Libra:2006/01/31(火) 02:00:37
2.中村説批判

 さて、中村先生は、「信仰を捨て去れ」という表現を解釈される中で、「最
初期の仏教は〈信仰〉(saddhA)なるものを説かなかった。何となれば、信ず
べき教義もなかったし、信ずべき相手の人格もなかったからである。」[*1]と
主張されています。

 このご発言からは、《仏教には「信ずべき教義もなかった」》という中村先
生の独特のお考えが、中村先生が上のような解釈を肯定される根拠のひとつに
なっていることがわかります。しかしながら、この《仏教には「信ずべき教義
もなかった」》という説は、松本史朗先生の批判[*2]に耐えていないとわたし
はおもいますので、上のように解釈すべき根拠にはならないとおもいます。

 そもそも、この「信仰を捨て去れ」という表現は、この文句が埋め込まれて
いる文脈から素直に解釈すれば、《シャカがそれまでにはなかった斬新な見解
に到達した》ということを、従来の見解との対比において描写したものである
と捉えるのが自然だろうとおもいます。この文句が埋め込まれている文脈から、
《信仰の対象を限定せずに、何かを信仰すること一般をすべて否定している》
という解釈を導き出すのはひどく困難だとおもいます。

 そういう意味では、この文句は、ブッダゴーサがいうように、「当時の諸宗
教に対する信仰を捨てよ」[*3]という意味に解釈するのが妥当だとおもいます。
中村先生もこのオーソドックスな解釈を紹介され、かつ、肯定されています。

 「当時の諸宗教に対する信仰を捨てよ」ということは、「仏教を信仰せよ」
ということとなんら矛盾しません。矛盾しないどころか、全く同じことをいっ
ていると主張することさえ可能だろうとおもいます。

 『スッタニパータ』第184詩には、「ひとは信仰によって激流を渡り、
〔中略〕智慧によって全く清らかとなる。」とあり、そこではある種の「信仰」
が肯定されていますが、ここで「信仰」と訳されている原語もやはり「サッダ
ー」です[*4]。この詩が「遅い層」であるという証拠はありませんから、この
点においても、中村先生の解釈には無理があるとおもいます。

 中村先生は、『ダンマパダ』第333詩に付された註においては、「信仰―
―saddhA. 漢訳『法句経』に「信レ正」とあるように、正しいことを信ずるの
である。これが仏教における「信」の特質である。」[*5]といわれています。
わたしもこのご意見に賛成ですが、中村先生のこのお考えは、「最初期の仏教
は〈信仰〉(saddhA)なるものを説かなかった」とされるご自身のお考えとは
両立しないとおもいます。中村先生は矛盾しているとおもいます。

93Libra:2006/01/31(火) 02:01:15
3.仏教的信仰とは

 上記したように仏教がある種の「信仰」を肯定しているからといって、仏教
がすべての「信仰」を肯定しているわけではもちろんありません。「当時の諸
宗教に対する信仰」が否定されているのはもちろんのこと、たとえそれが仏教
に対するものであれ、何に対するものであれ、なにかを権威として絶対視する
ようなある種の「信」のありようは明確に否定されていたとおもいます[*6]。

 わめさんもお認めになられたように[*7]、「信仰」には「盲信」[*8]と「そ
うでない信」とがあるわけですが、「ブッダは、〔中略〕ブッダ自身の教えに
もまた執着するなかれと説いている」のだとすれば、このようなブッダの説を
信じることをも含意する仏教の信仰が「盲信」でありえないことはあきらかだ
とおもいます。仏教は、「盲信」を否定するものであるとわたしはおもいます。

 では《仏教において肯定される「信仰」》(以下、「仏教的信仰」と略記し
ます)とはいったいどのようなものなのかということがあらためて問題となり
ます。

 仏教的信仰とは、ブッダゴーサの言葉を借りれば、「自分の確かめたことだ
けを信ずる」[*9]ということなのだろうとわたしはおもいます。すなわち、シ
ャカの教えを自分で確かめてみて(反駁を試みて)、それが「反駁し得ないも
のとして説」[*10]かれているとしか思えない時に生じるのが、仏教的信仰なの
だろうとわたしはおもいます。だからこそ、仏教においては、《教えは「反駁
し得ないものとして説」かれなければならない》などということが強調されて
いるのではないでしょうか。

 もし仏教的信仰が上のようなものであるとすれば、それは、牧口常三郎の考
え[*11]にもつながるし、三証[*12]を強調する日蓮の立場ともつながるとおも
います。

 藤田正浩先生は、「原始仏教の信は、自己の経験したものを信ずることであ
り、釈尊の教えを聞いたあと生まれる信であ」り、「慧に基づいた信」である
が、「浄土教における信」や「如来蔵思想に見られるような性格の信」は、
「自己の理解し得ないものを信ずる」という構造を持つ「慧を絶した信」であ
るといわれ、両者は「同じ信とはいうものの全く次元を異にする」といわれて
いますが[*13]、わたしはこの藤田先生の説を支持します。

94Libra:2006/01/31(火) 02:01:50
4.日蓮の信は仏教的信仰といえるか

 日蓮は「信は慧の因」[*14]といいますが、ここでいわれている「信」とい
うのは、聞法位のことであり、「知識・経巻によって一実の菩提を聞き、通達
解了して名字即に登る」[*15]ということです。だとすれば、日蓮がいうところ
の「信」というのは、先に引用した「釈尊の教えを聞いたあと生まれる信」と
いう藤田先生の説明ともぴったり一致するとおもいます。

 また、日蓮が「信」を「慧の因」というのも、

  《「原始仏教で解脱〔中略〕と言えば、普通には心解脱、場合によっては
   慧解脱や倶解脱を指す」が、「これらの前段階に一段低い最初の解脱が
   あり、それが信解脱〔中略〕と言われている。信解脱の内容は、慧によ
   って煩悩の一分を断じていることと、如来に対する信が確立して根を生
   じていることとである」。「まずこの信解脱が重視され、このあと心や
   慧の解脱へと進む」》

という藤田先生の解説とぴったり一致するようにおもいます。

 つまり、日蓮がいうところの「信」というのは、初期仏教でいえば「信解脱」
に対応するものであり、「信は慧の因」というのは、さきに引用した、「ひと
は信仰によって激流を渡り、〔中略〕智慧によって全く清らかとなる。」とい
う詩(『スッタニパータ』第184詩)にあらわれているような初期仏教の考
えに対応するものであるということができるとおもいます。

95Libra:2006/01/31(火) 02:02:25
5.『法華経』の信は仏教的信仰といえるか

 『法華経』の信の性質については、以下に引用する田村芳朗先生の説をわた
しは支持します。『法華経』の信は、「原始仏教の信」と異なるものではない
とわたしはおもいます。

  ─────────────────────────────────
  『法華経』でも、信仰は各所に強調されている。しかしそこでの原語は、
  シュラッダー(信)か、アディムクティ(信解)である。他にプラサーダ
  (澄浄)が一つか二つ使われている。これら三語とも、バクティのような
  絶対者にたいする絶対信を意味しない。仏道への入門にさいし、心をあら
  ため、心を決め、心を浄めることをいう。その上で修行にはげみ、智慧を
  みがいて悟りに達するのである。
   右のごとき信仰の観念は仏教を一貫して流れるもので、〔中略〕『法華
  経』でもこの基本線は保たれているので、たとえば、分別功徳品第十六
  (第十七)で一念の信あるいは信解を強調しながら、それらは五波羅蜜を
  こえるが、「般若波羅蜜は除く」と説かれている。つまり、悟りにいたる
  (パーラミター)六つの実践行為(六波羅蜜、六度)のうち、智慧(プラ
  ジュニャー 般若)のみは最後的なものとして信の上に置かれたのである。

  (田村芳朗『法華経』〔中公新書196〕、中央公論社、1969年、p.92、
    ※原語表記は省略して引用)
  ─────────────────────────────────

96Libra:2006/01/31(火) 02:03:00
6.まとめ

 今回は、まず、初期経典にみられる「信仰を捨て去れ」という表現を《何か
を信仰すること一般》をすべて否定する言葉であると解釈することは困難であ
るということを示し、そして、《仏教において肯定される「信仰」》とはどの
ようなものなのかということについてのわたしなりの理解を述べてみました。
そのうえで、『法華経』およびその信者である日蓮や牧口の「信」についても
一瞥してみました。

97Libra:2006/01/31(火) 02:03:37
[註]

  [* 1] 『スッタニパータ』第1146詩に付された註(『ブッダのことば
      スッタニパータ』〔岩波文庫〕、岩波書店、1984年、pp.430-431)
     を参照。
     
  [* 2] 仏教解明の方法─中村元説批判(松本史朗)
      http://page.freett.com/Libra0000/082.htm

  [* 3] 中村元訳『ブッダ 悪魔との対話 サンユッタ・ニカーヤⅡ』〔岩波
     文庫〕、岩波書店、1986年、pp.336-337。
     
  [* 4] 『佛教根本聖典』、8.平和への祈り
      http://www.chuogakken.org/seitenHP/92.htm

  [* 5] 中村元訳『ブッダの 真理のことば 感興のことば』〔岩波文庫〕、
     岩波書店、1978年、p.133。

  [* 6] ブッダと「汎批判的合理主義」(小河原誠)
      http://page.freett.com/Libra0000/048.htm

  [* 7] 輪廻転生について
      http://wame.seesaa.net/article/10504051.html

  [* 8] 客観的事実と信仰03
      http://page.freett.com/leo020503/bloglog3_002.html

  [* 9] 『スッタニパータ』第851詩に付された註(前掲『ブッダのこ
     とばスッタニパータ』、pp.391-392)を参照。

  [*10] 異論が起こったときには、道理によってよく説き伏せて(『大パリニッバーナ経』)
      http://page.freett.com/Libra0000/006.html

  [*11] 信仰的模倣時代から理性の時代へ(牧口常三郎)
      http://page.freett.com/Libra0000/024.htm

  [*12] 「三証」とは「文証・理証・現証」のこと。「文証」とは「信頼
     すべき経典による文献的証明」のことであり、「理証」とは「思惟
     や論理を媒介とする合理的証明」のであり、現証とは「客観的事実
     における実践的追認による具体的経験」のこと(伊藤瑞叡『日蓮精
     神の現代』、大蔵出版、1989年、pp. 122-123)。

  [*13] 空無我の思想と本性心の思想とが両立し得るとは考え難い(藤田正浩)
      http://page.freett.com/Libra0000/023.htm

  [*14] 「四信五品抄」、学会版全集、p. 339。

  [*15] 花野充道「宗祖の本覚仏教と智顕の始覚仏教」
      http://otarunounga.hp.infoseek.co.jp/hananosi.html

98わめ ◆TJ9qoWuqvA:2006/01/31(火) 03:12:38
 Libra師匠、こんばんは。^^

 ブログに投稿できないのはもしかして文字数超過が原因かもしれません。
 私も何文字までOKなのかは分かりませんがこちらで分割投稿して下さった程度なら問題は無いと思いますが、ブログのコメント欄では一括投稿されたのではないでしょうか?また機会がありましたら分割投稿で試してみてください。

 師匠の指摘の「信仰を捨て去れ」と私の言う「信仰を捨てよ」は同義語と思いますが、私の思う信仰の意味はここで師匠が説明くださった意味とは違うことが分かりました。
 私の思う信仰はgoo辞書の『神仏などを信じ崇(あが)めること。経験や知識を超えた存在を信頼し、自己をゆだねる自覚的な態度をいう。』このような意味です。
 このような意味での信仰なら、師匠の指摘の「信仰を捨て去れ」に該当するのではないかと思いますがいかがでしょう?
 ただそうであっても『仏教がある種の「信仰」』を肯定しているとは思えませんので、この点は師匠と意見の分かれるところなのですが、ただこれも「信仰」の定義の差異なのかなとも思うのですが…
 師匠の言う「仏教的信仰」は信仰という言葉でなければならないものなのでしょうか?
 「仏教的信仰」と「それ以外の信仰」を区別する場合に、同じ「信仰」という言葉用いることに私は抵抗感がありますし、私の思う(goo辞書の上記引用)ような信仰の意味と解釈される方は多いように思いますし、このような解釈の信仰という言葉のイメージなら、師匠の説明がなければ「信仰を捨て去れ」に「仏教的信仰」が含まれると解釈される方もいるのじゃないかと思うのです。
 ですので私は師匠の言われる「仏教的信仰」の意味からは、「信仰を捨て去れ」には該当しないかもしれないとも考えられるのですがその言葉には抵抗感があります。

 私の『「仏教的信仰」は「信仰を捨て去れ」には該当しないかもしれない』とちょっと曖昧な意見は、信仰・信についてもう少し師匠の解釈をお聞きしなければ何ともいえない部分があると思っているからですが、「合理的なことを理解・納得し合理的に生きようとするようなこと」は、その合理的なことを信仰するとか信じると言うのが適切なのでしょうか?
 私は初期仏教の全容はよく分かりませんが、ブッダ自身が説かれたことは合理的であったと思っておりますし、合理的であるからそれは「信仰ではない」とブッダ自身が思われていたのではないかと思いますし「信仰を捨て去れ」の言葉もしっくりきます。

 師匠からこの点のお返事を頂いた上で、師匠の言われる「仏教的信仰」が「信仰を捨て去れ」には該当しないかどうかについて異論があるかどうかを再度考えてお返事したいと思います。

99Libra:2006/01/31(火) 03:52:54
 みれいさんへ

 みれいさんが今回提起された勧持品がらみ問題については、わたしはだいた
い述べたいことを述べおわったようにおもいます。

 わたしのほうは、またしばらく忙しくなりますので、少なくとも半年くらい
はここには来れないとおもいますが、またいつの日か、お付き合い頂ければさ
いわいです。

 とはいえ、少しだけまだ時間がありますので、以下に、3点だけ補足して、
おわりにしたいとおもいます。

1.創価学会における「日蓮神格化の拒否」の歴史について

 わたしは、さきに、「日蓮を本仏として神格化することを創価学会員として
明確に拒否した最初の人物は松戸行雄さんだと〔中略〕おもいます」(>>84
とかきました。

 しかし、日蓮を名指ししてはいないものの、初代会長の牧口常三郎が、すで
に、「如何にして、如何なるものを信ずるかといふに、如何に信用し、崇拝す
る人の言論でも、自分の経験に合致するものか、若くは実際の生活に当て嵌め
て見て妥当するもの即ち実験証明の出来たものゝ外は、容易に信ずる訳には行
かなくなったのが、現今に於ける多少に拘らず教育を受けたものの実際の状態
である。」「斯くして吾々は、如何なる偉人の言でも、軽々には信服しないと
同時に、如何に賤しい無名の人の言でも、苟くも自分の経験と合致し、若しく
は実験証明の挙げられたものには事の善悪得失の如何に拘らず、何人も素直に
承認し、それに服従しなければならぬこととなつた。是又理性の然らしめる所
である。」[*1]といっています。

 上でいわれている「崇拝する人」や「偉人」のなかには、当然、シャカも日
蓮も入りますから、実質的には、初代会長の牧口によって、すでに日蓮の神格
化は拒否されていたということができるとおもいます。

 また、「松戸さんのご主張は、創価学会の内部では、ほとんどまじめに議論
されることもなく無視されてしまいました」(>>84)ともかきましたが、実際
には、完全に無視されたというわけでもなく、以下のような形で取り入れられ
たようにおもいます。

  ─────────────────────────────────
  名誉会長 「人間・釈尊」を忘れた時、仏教は「人間の生き方」から離れ
   てしまった。「師弟の道」がなくなった。その結果は、仏教の堕落であ
   り、権威化です。

  (池田大作他『法華経の智慧』第四巻、聖教新聞社、1998年、p. 49)
  ─────────────────────────────────

  ─────────────────────────────────
  名誉会長 さあ、そこで「寿量品」です。寿量品の「発迹顕本」にこそ、
   「人間・釈尊に帰れ!」という法華経のメッセージが込められているの
   です。ここでは、このことを少し考えてみよう。

  (同上、p. 50)
  ─────────────────────────────────

  ─────────────────────────────────
  斉藤 大聖人は、常に「釈尊に帰れ!」と叫ばれました。大日如来を崇め
   る真言宗に対しても、「大日如来は、どのような人を父母として、どの
   ような国に出現して大日経をお説きになったのか」(御書一三五五㌻、
   趣意)と破折されてます。

  (同上、pp. 68-69)
  ─────────────────────────────────

 《「人間・釈尊」を忘れると「師弟の道」はなくなり、それは、仏教の堕落
であり、権威化である》という上記の主張にしたがうなら、《「人間・日蓮」
を忘れたら、「師弟の道」がなくなり、それは、仏教の堕落であり、権威化》
であるということに当然なりますから、日蓮の神格化はやはり拒否されたこと
になります。


  [*1] 信仰的模倣時代から理性の時代へ(牧口常三郎)
     http://page.freett.com/Libra0000/024.htm

100Libra:2006/01/31(火) 03:55:40
2.「地獄に落ちるぞ」というセリフについて

 日蓮は、「地獄」は「我等が五尺の身の内に」あるとか、「我等がむねの間」
にあるといっています。

  ─────────────────────────────────
   抑地獄と仏とはいづれの所に候ぞとたづね候へば或は地の下と申す経文
  もあり或は西方等と申す経も候、しかれども委細にたづね候へば我等が五
  尺の身の内に候とみへて候、さもやをぼへ候事は我等が心の内に父をあな
  づり母ををろかにする人は地獄其の人の心の内に候

  (「十字御書」、学会版全集、p. 1491)
  ─────────────────────────────────

  ─────────────────────────────────
  夫れ浄土と云うも地獄と云うも外には候はずただ我等がむねの間にあり

  (「上野殿後家尼御返事」、学会版全集、p. 1504)
  ─────────────────────────────────

  ─────────────────────────────────
  衆生の心けがるれば土もけがれ心清ければ土も清しとて浄土と云ひ穢土と
  云うも土に二の隔なし只我等が心の善悪によると見えたり、衆生と云うも
  仏と云うも亦此くの如し迷う時は衆生と名け悟る時をば仏と名けたり

  (「一生成仏抄」、学会版全集、p. 384)
  ─────────────────────────────────

 《「地獄」は、この世界とは別のところに存在している世界のことなどでは
ない》というのが日蓮の基本的な認識です。「浄土」についもおなじです。

 これにたいして、法然の念仏は、《念仏を唱えることによって、死んだあと
に、この世界とは別のところに存在している「浄土」に生まれ変われる》とい
うものです。

 日蓮は、この世界とは別のところに存在している「浄土」などをもとめる人
(念仏信者)の心は、「真の浄土」とはもっとも遠いところ(すなわち地獄)
にいると考えていたのです。

101Libra:2006/01/31(火) 03:57:09
3.『法華経』と縁起説の関係について

 縁起を説く詩(「法身偈」とか「縁起法頌」とよばれています)で終わって
いる『法華経』があります。縁起法頌とは以下のようなものです。

  ─────────────────────────────────
  いかなる存在も因縁から生ずる。如来はそれらの因縁を説かれた。そして、
  それらの滅についても、大沙門はこのように説かれた。

  (中村瑞隆『現代語訳 法華経 下』、春秋社、1998年、p. 221)
  ─────────────────────────────────

 舎利弗がこの縁起法頌を縁として仏道に入ったいう話はとても有名です。

 イントロダクションともいえる序品をのぞけば、《『法華経』で説かれるす
ごい教え(妙法)とはいったい何なのだろう》ということが最初に問題にされ
るのは、いうまでもなく方便品です。その方便品の主人公として《縁起法頌を
聞いて目覚めたことで有名な舎利弗》を作者が採用し、最後に縁起法頌をズバ
リもってきているのは、《妙法とは縁起である》という主張のあらわれである
ようにわたしにはおもえます。

 法華経の中心思想は「縁起」であり、「空」であるとおもいますが、法華経
はそれを「もっぱら実践的関心に即して表現しようとした」[*2]ものであると
わたしは理解しています。

 「空の思想」の実践とは菩薩行であり[*3]、法華経は全編にわたって菩薩行
を説いています。

 法華経は「空の思想」について哲学的な議論を展開するものではないとはい
え、空について直接説いている箇所もあるという点につきましては、Leo さん
のご指摘のとおりです。


  [*2] 藤田宏達「一乗と三乗」、横超慧日編著『法華思想』、平楽寺書店、
     1969年、p. 400。

  [*3] 仏教の真理に目覚めるということを抜きにした慈悲行などはあり得ない(小川一乗)
     http://page.freett.com/Libra0000/069.htm

102Libra:2006/01/31(火) 05:25:04
 わめさん、おはこんばんちは。

 わめさんがおっしゃるように、ブログに投稿できなかったのは文字数超過が
原因だったのだと推測します。

 goo辞書の「経験や知識を超えた存在を信頼し、自己をゆだねる自覚的な態
度」というのは、仏教では否定される「信仰」だとおもいます。goo辞書のこ
の項目を書かれた人は、おそらく、仏教の信仰というものをご存じないのでし
ょう。

 わたしとしては、「信仰」という言葉を goo辞書 のような意味でのみつか
わなければいけない理由などはないし、実際、>>95 で引用した田村先生もそ
のような意味でつかわれてはいませんので、わたしが「信仰」という言葉を使
ったとしても、そのことによって、わたしの言いたいことが他人につたわらな
くなるともおもえません。そういう意味では、「信仰」という言葉のままでも
よいのではないかとわたしはおもうのですが、もしわめさんがそこにこだわら
れるのであれば、「信仰を捨て去れ」の中の「信仰」を含めて、たんに「信」
と読み替えて頂いても問題はないようにおもいます。「信」は日蓮もつかって
いる言葉なのでよいかもしれません。あるいは、「信仰を捨て去れ」という句
において「信仰」と訳されている原語の「サッダー」のままのほうがよいかも
しれません。

 わめさんは、「「仏教的信仰」と「それ以外の信仰」を区別する場合に、同
じ「信仰」という言葉用いることに私は抵抗感があります」といわれますが、
肯定すべき「信」について述べているところでも、否定すべき「信」について
述べているところでも、初期経典では同じ「サッダー」という言葉がつかわれ
ているということをわたしは示しました。そういう意味では、わめさんは、初
期経典にも同様の抵抗感をお感じになられることとおもいます。わめさんのそ
の抵抗感は、わめさんと初期経典との間のズレに起因するものなのではないで
しょうか。

 少なくとも「信仰を捨て去れ」という句については、その句が埋め込まれて
いる文脈がかなりはっきりしています。この句を、goo辞書のような意味での
信仰を一般論として否定したものであると解釈することはひどく困難だとおも
います。たしかに切り文的にこの句だけを提示されたとすれば、ふつうの人は
そのように解釈するのかもしれませんが、それはたんに切り文だったというこ
とであって、あの句の解釈として誤っているということは動かないでしょう。
そのような切り文は、切り文をした人の思想を伝えるものではありえても、シ
ャカの思想とは無関係というべきではないでしょうか。

 わめさんは、「合理的なことを信仰するとか信じると言うのが適切なのでし
ょうか?」といわれますが、ブッダゴーサも「自分の確かめたことだけを信ず
る」といっていますし、中村先生もそれを「合理主義の立場」[*]といわれて
いますから、「信じると言う」ことじたいが不適切なことであるとは、わたし
にはおもえません。

 残念ながら、もう時間ぎれです(涙)。続きはまたいつかやりましょう。

  [*] 『スッタニパータ』第851詩に付された中村先生の註(前掲『ブ
    ッダのことば スッタニパータ』、p.391-392)を参照。

104わめ ◆TJ9qoWuqvA:2006/01/31(火) 16:37:45
 Libra師匠、こんにちは。^^

 信仰について議論したいことがいくつかありますので、論点別に時間をかけて投稿したいと思います。

>  『スッタニパータ』第184詩には、「ひとは信仰によって激流を渡り、
> 〔中略〕智慧によって全く清らかとなる。」とあり、そこではある種の「信仰」
> が肯定されていますが、ここで「信仰」と訳されている原語もやはり「サッダ
> ー」です[*4]。

 ブログ記事の『自灯明法灯明』*1のコメント欄、ひゃっきまるさんとのお話の中で「筏の喩え」*2の話で「目的を達したならば舟を乗り捨てよ、という言葉もあります。」との意見が出てきたのですが(Posted by ひゃっきまる at 2006年01月10日 00:19)、この「筏の喩え」*2と師匠の書かれている「ひとは信仰によって激流を渡り、〔中略〕智慧によって全く清らかとなる。」とは同じような意味があるように感じるのですが、ひゃっきまるさんは「比丘たちよ、教え(法)とは筏のようなものであると知るとき、なんじらはたとえ善き教え(法)でも捨て去るべきである。悪しきものならばなおさらのことである。(マッジマ・ニカーヤ)

この場合の筏(善き教え)とは釈尊の教えのことであることは明らかと思います。またこの喩えは、釈尊の「苦の解決」と「法」に対する考え方を明確にしていると思います。」(Posted by ひゃっきまる at 2006年01月10日 14:55)とおっしゃっており、この見解の「教え(法)を捨て去るべき」を「信仰を捨て去るべき」と解釈するならば師匠の言われる「仏教的信仰」も捨て去るべきものとなりましませんか?

*1『自灯明法灯明』 http://wame.seesaa.net/article/10814676.html
*2 『信仰とその周辺スレから「筏の喩え」について』 http://wame.seesaa.net/article/9016740.html

105みれい:2006/01/31(火) 19:14:34
Libraさん

もういないですか・・・
最後までとても丁寧にありがとうございました。
読むものがたくさんあって短時間ではすべて吸収はできませんでしたが、説明はわかりやすかったです。
また次に会うまでにもう少しLibraさんのサイトも読み進んでいると思います。

Leoさん、引き続きこれからものんびりとよろしくおねがいします。

Libraさんの文を読んでみたら日蓮さんが中観派とおっしゃるのも自然に思いました。
今までの日蓮像にはない発想です。
そしてやはり中観派は日蓮だけではないと思います。
私はLibraさんの話される地獄や空、縁起の仏教観は学会以外で教わりました。
身近の創価学会員さんからはやはり空も縁起も聞いた事が無く、本人達も知りません。
今日丁度学会員さんにお会いしたので聞いてみると「法華経は輪廻よ。命はここで終わりじゃないの。宇宙の〜」とおっしゃっていたので「法華経にも空が説かれているそうで」という話をしたら、「??」でした。

また牧口さんが神格化否定にせよ、なぜ日蓮宗でなくて日蓮正宗だったのかはまだいまいちわかりませんが、日蓮正宗と離れるというご縁をいただけたのですから、Libraさん&Leoさんの提示する日蓮&法華経が創価学会でもスタンダードになってほしいと思います。やはり今のままではまったくの別物だと思えます。
そして釈迦に対して肯定してきたとはいえ、否定してきた昔と全く逆のことを平気で言う池田さんにもあらためてびっくりです。

今回のお二人のお話で、参考になるものがいくつか出来たので、活用させていただこうと思います。

脱線ついでに、学会員さんに日顕撲滅もたずねましたがノーコメント。残念。
あと、御書教学の教授という御書講義をする役職があるそうですが、いったい何を教授しているのか、疑問と不安が残ります。
まだ問題は今でも置き去りのままの気がします。
困った学会員さんとともに、私も勧持品を(ちょっとずつ)掘り下げつつ安楽行品もすすめたいと思います。

106Leo:2006/01/31(火) 22:39:44
ibraさん、お疲れ様でした。

みれいさん、こんばんは。

>Leoさん、引き続きこれからものんびりとよろしくおねがいします。

了解です。私は時々亀レスになってしまうことがありますが(今年は寒いですね)、
よろしくおねがいします(^^;

>Libraさんの文を読んでみたら日蓮さんが中観派とおっしゃるのも自然に思いました。
>今までの日蓮像にはない発想です。

やはり中観派というのは仏教の基準の(見方)ひとつになりますね。

>そしてやはり中観派は日蓮だけではないと思います。

そのようですね。LibraさんとA・S・Cさんのおすすめで浄土真宗の方の下記の本を買って
読んだことがあるのですが、彼らは法華経の伝統はないものの龍樹や般若経の伝統から
中観派の影響があると言えると思います。

  小川一乗 『大乗仏教の根本思想』 法蔵館、1995年

>私はLibraさんの話される地獄や空、縁起の仏教観は学会以外で教わりました。

私もそうでした。

私は5,6年前最初Libraさんとネットで出合った頃ものすごく反発してたんですが
おすすめの書籍やLibraさんの資料を読んだりして何ヶ月もかかって仏教の基本思想は
縁起・空・無我だなってことを理解することができました。

>身近の創価学会員さんからはやはり空も縁起も聞いた事が無く、本人達も知りません。
>今日丁度学会員さんにお会いしたので聞いてみると「法華経は輪廻よ。命はここで終わりじゃないの。宇宙の〜」
>とおっしゃっていたので「法華経にも空が説かれているそうで」という話をしたら、「??」でした。

新がつくまえの『小説人間革命』に書かれているように創価学会では教学は確信を持たせるための
ものだそうです。「なにも知らなくとも活動はできる」と現場での指導がありますし、
「仏教とは何か」について考える機会はなく(極端なことを言うと仏教はどうでもよいことに
なってしまいます)「確信を持たせるための教学」を教わってしまうのではないかと思います。

>また牧口さんが神格化否定にせよ、なぜ日蓮宗でなくて日蓮正宗だったのかはまだいまいちわかりませんが、

牧口会長の頃(戦前)は国柱会を中心とする日蓮主義がはやっており、牧口会長はご自分の教育論と日蓮思想を
プラスしようとしたのではないでしょうか。日蓮宗の北山本門寺では入信を拒否されて(牧口会長の教育論が余計
ということで)日蓮正宗の大石寺では入信を許されたとのことです。

>日蓮正宗と離れるというご縁をいただけたのですから、Libraさん&Leoさんの提示する日蓮&法華経が
>創価学会でもスタンダードになってほしいと思います。やはり今のままではまったくの別物だと思えます。

そうですね。その流れとしては学会員の方にも次の本を読んで欲しいですね。一番目の本は創価大学の先生
が書いた本です(日蓮本仏論を前提としない法華経の話です)。

  菅野博史 『法華経入門』 岩波新書、岩波書店、2001年
  田村芳朗 『法華経 真理・生命・実践』 中公新書、中央公論新社、1969年

>そして釈迦に対して肯定してきたとはいえ、否定してきた昔と全く逆のことを平気で言う池田さんにもあらためてびっくりです。

それが「なにも知らなくとも活動はできる」(裏返すと、なにも知らなくとも最高の地位を得た)の真骨頂なのだと
思いますし、悪いところと同時に良いところでもあるのではないでしょうか。
それに、彼は役回りとしては役者(俳優)のようなものではないでしょうか。スタッフ(台本)次第とも言えますし。

>脱線ついでに、学会員さんに日顕撲滅もたずねましたがノーコメント。残念。

阿部日顕氏が退座したから戦いは終わりではないか(一時代が終わった)と思うのですが...
そうではないようですね。

>あと、御書教学の教授という御書講義をする役職があるそうですが、いったい何を教授しているのか、疑問と不安が残ります。

『大白蓮華』の今月の御書講義を座談会の時読み上げるだけではないでしょうか。
(多少下調べするかもしれませんが...)

>まだ問題は今でも置き去りのままの気がします。

ううむ。そうなのですね。

>困った学会員さんとともに、私も勧持品を(ちょっとずつ)掘り下げつつ安楽行品もすすめたいと思います。

りょうかいです。

107マターリ:2006/01/31(火) 22:51:47
>わめ様、皆様、ご無沙汰しておりました。m(__)m

日蓮を御本仏と仰いだのは、江戸時代の日寛上人が初めてだったと思い
ます。日蓮自身は「上行菩薩の再誕」と言って、あくまでも釈尊の弟子と
いう立場を崩しませんでした。ですから、日蓮を仏としてではなく、
生身の人間として考えてあげないと御本人に可哀想な気がします。

108Leo:2006/01/31(火) 23:08:54
>>106 の続きです。

>>あと、御書教学の教授という御書講義をする役職があるそうですが、いったい何を教授しているのか、疑問と不安が残ります。
>
>『大白蓮華』の今月の御書講義を座談会の時読み上げるだけではないでしょうか。
>(多少下調べするかもしれませんが...)

御書学担当者と勘違いしました。通常は男子部の適当な人がやったりしますね。

「教授」は上級(青年教学1級)試験に受かった人のことですね。こういう人は地区では
いなかったりしますね。
上の方の教学試験に受かっているのに活動に出ない人もいれば、教学部(多分教授以上の人?)
(圏の教学部の人)の方で密かに現状に批判的な発言をポロっという人もいるので勉強している人は
消極的に密かにかもしれませんがなにか示してますね。

あと創価学会の教学部は無力化されているのだそうです。
(批判をやったりすると退転者が出るからなのだとか、
石田次男氏や原島嵩氏や福島源次郎氏のような人が出るのを恐れているのだと思います)
他の宗派では御書のCDROMを出したり研究が進んでいるのを見ると教学部の無力化
はやはりそうなのかなと思います。

直接組織には期待できないので個人個人が頑張るしかないように思います。
(いくらなんでも個人には制限はかけられないです)

109Libra:2006/02/01(水) 01:20:25
 わめさん、こんばんは。

 せっかくなので、今日まではおつきあいさせて頂きます。

 ひゃっきまるさんとの対話は追跡しておりませんが、「筏の喩え」は、わた
し自身、先の[*6]でご紹介しておいたところです。

 わめさんのご主張は、相対主義が自滅するときの論法にとてもよく似ている
とおもいます。わめさんの論法からすると、「批判的合理主義は批判的合理主
義を捨てなければならない」ということになるでしょう。

 いうまでもなく、わたしは、「批判的合理主義は批判的合理主義を捨てなけ
ればならない」などとはおもいません。

 批判的合理主義は、「批判に耐えないものは捨てよ」といいます。いまのと
ころ批判にたえているものであっても、いつかは挫折してしまう可能性が大い
にあるのは確かです。だからといって、批判的合理主義は、「いまのところ批
判にたえているものを含めて、一切のものを捨てよ」などとはいいません。

 シャカの「筏の喩え」もおなじだとわたしはおもいます。今まで、どんな流
れをもみごとに横切ってきた優秀な筏があったとしても、いつか、流れにのみ
こまれてしまう可能性は常にあります。だからといって、シャカは、「筏はす
べて捨ててしまいなさい」などとはいっていません。シャカは、シャカ自身の
教えもふくめて、一般的に、教えとはそういうものであると正しくしりなさい
といっているのです。
 
 もし、将来、何らかの具体的な材料から、「シャカの教え(縁起説)は批判
に耐えていない」と感じたときには、わたしは、シャカの教えを捨てるでしょ
う。それが、「自分の確かめたことだけを信ずる」ということであり、「反駁
し得ないものとして説」かれているもののみを信じるということ(仏教的信仰)
です(>>93)。逆にいえば、反駁されてしまったものは信じないということで
す。

 註までふくめて、ていねいに読んでさえ下されば、きっと、わたしの主張は
理解して頂けるだろうとおもいます。

110みれい:2006/02/01(水) 01:27:02
>わめさん、

流れと全く関係ないのですが、
こないだわめさんのおっしゃりたかった「多元論」と関係しなくもない「宗教的多元主義」を見つけたので貼っておきます。

知人からジョン・ヒックを教えてもらって調べたら出てきました(名前色つきです)。
宗教哲学者です。
http://72.14.203.104/search?q=cache:dSZx3KW-NRsJ:www.bun.kyoto-u.ac.jp/user/sashina/sub14B11.pdf+%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%92%E3%83%83%E3%82%AF&amp;hl=ja&amp;gl=jp&amp;ct=clnk&amp;cd=1

http://www.hmn.bun.kyoto-u.ac.jp/tolerance/tolerance_abstract9-1.html

http://72.14.207.104/search?q=cache:_ZtEaLroa1UJ:www.hmn.bun.kyoto-u.ac.jp/tolerance/tolerance_newsletter8.pdf+John%E3%80%80Hick&amp;hl=ja&amp;gl=jp&amp;ct=clnk&amp;cd=6&amp;lr=lang_ja

111Libra:2006/02/01(水) 02:01:36
 みれいさん、こんばんは。

 みれいさんは、わたしの説明をわかりやすいといわれた最初の人物かもしれ
ませんね。

 日蓮は中観派といってよいとおもいますが、それはあくまでも、日蓮思想の
中心がそうであるということです。ちなみに、龍樹もまた「戦闘的」と評価さ
ることが多い人物ですね。

 先にも紹介しましたように、松戸行雄さんは、「日蓮滅後の教団化の過程に
おける解釈の相違と分流の問題〔中略〕の淵源は、日蓮自身が伝統的なコスモ
ロジー、神仏習合思想、聖霊信仰、天皇制、神国思想を是認する中で独自の法
華本門観心の立場を樹立していったこと、そしてその重層的な習合思想を未整
理のままにしておいたことにあると言えよう。」[*1]といわれています。

 日蓮の中には、中観思想だけがあるわけではなく、日蓮当時にあったいろん
なものが未整理のまま是認されてあるということですね。したがって、「今一
度、日蓮思想の多様性の中から主体的に現代思想として重要な視点を再選択す
る作業」[*2]が、日蓮の弟子として現代に生きるわれわれに与えられている最
も大きな課題になってくるとおもいます(>>84)。

 これからは、日蓮の中にあるどのような視点を「現代思想として重要な視点」
として選択していくかというところに、各日蓮教団のそれぞれの特色があらわ
れてくるのだろうとおもいます。

 今回はこのへんで失礼します。またいろいろとご教示ください。


  [*1] 日蓮における釈尊観と霊山浄土観の諸相(松戸行雄)
     http://page.freett.com/Libra0000/119.html

  [*2] 同上。

113わめ ◆TJ9qoWuqvA:2006/02/01(水) 02:39:33
 Libra師匠、こんばんはです。^^

>  せっかくなので、今日まではおつきあいさせて頂きます。

 o(゜▽゜o)(o゜▽゜)oニパニパッ

 師匠、私のテキストがダメダメなのでちょっと論点がずれてしまったように思います。汗
 >>104 は思想・主義等についてのことじゃなく信仰についての議論のつもりで書いたもので、師匠は「仏教的信仰」と「それ以外の信仰」と分けられましたが、この二つに使われた「信仰」は両方とも「サッダー」という語句を使っているとのことで、師匠のように「信仰」という言葉に別々の意味をつけてこそ理解が出来ますが、ブッダが何故意味の違う信仰について同様に「サッダー」と言う語句を付けたか、また意味が違うなら意味が違うという説明を何故つけなかったのかということに、師匠の説明でもその見解には私は疑問が残ります。

 そこで >>104 で書いたことは「サッダー」の指す信仰に区別はないのではないかと推測してみたのです。
 仏教という思想も他の思想(仏教以外の宗教等)も信仰対象という意味では同じだと思います。筏の喩えからも読み取れるのが、ブッダは正しい思想も誤った思想に対しても信仰対象とすることを否定されたのではないかと私は考えます。
 師匠のお示しくださった『ブッダと「汎批判的合理主義」(小河原誠)』で、『比丘たちよ、かくも清らかで明瞭なこの見解でさえ、あなた方がこれにしがみつき、玩び、宝物のように扱い、執着するならば、あなた方は、われわれの教えが筏に似たものであることを理解していないのだ。筏は流れを横切っていくためにあるのであって、しがみつくためにあるのではない。』との言葉にある「執着するならば・・・」は信仰を指す言葉と私は解釈しました。
 なので「かくも清らかで明瞭なこの見解」がブッダの教えであり、信仰(しがみつき、玩び、宝物のように扱い、執着する)することを諌められているように思うのです。勿論「かくも清らかで明瞭なこの見解」は捨て去るものではないと思います。
 「かくも清らかで明瞭なこの見解」に対して信仰するものではなく、反駁しようのない教えであり納得するのが当たり前といったことではないでしょうか。

114わめ ◆TJ9qoWuqvA:2006/02/01(水) 02:48:12

> 「かくも清らかで明瞭なこの見解」に対して信仰するものではなく、反駁しようのない教えであり納得するのが当たり前といったことではないでしょうか。

 表現が変だなw汗
 「かくも清らかで明瞭なこの見解」は合理的(信じなくとも明瞭に理解が出来るはず)であり、車に例えると人や物を運ぶ実用的な教えであり、その教えはしがみつき、玩び、宝物のように扱い、執着する(信仰)ようなものではないと言ったほうが、私が思っていることをうまく表現できてるかも・・・

115わめ ◆TJ9qoWuqvA:2006/02/01(水) 03:06:28
 マターリさん、皆さんこんばんは。^^

>>107

> わめ様、皆様、ご無沙汰しておりました。m(__)m

 シナプスさんちでの投稿は見させてもらってますので、私にはあまりご無沙汰感がありません。(^-^)

> 日蓮を御本仏と仰いだのは、江戸時代の日寛上人が初めてだったと思い
> ます。日蓮自身は「上行菩薩の再誕」と言って、あくまでも釈尊の弟子と
> いう立場を崩しませんでした。ですから、日蓮を仏としてではなく、
> 生身の人間として考えてあげないと御本人に可哀想な気がします。

 このスレッドの >>2 で書いてますが、第9世日有上人が最初だったと思いますが、日蓮久遠本仏論が宣揚されたのは第26世日寛上人だったと私も認識しています。

116わめ ◆TJ9qoWuqvA:2006/02/01(水) 03:13:04
 みれいしゃん、こんばんは。^^

>>110

> こないだわめさんのおっしゃりたかった「多元論」と関係しなくもない「宗教的多元主義」を見つけたので貼っておきます。

 うーん、こないだのお話とは関係ないようなw汗
 紹介くださったサイトでは「宗教的多元主義」を述べているようですが、そこでも唯一絶対神(一元論)を神的実在と書いてますし、その上に立って包括的に他の宗教を包含する考え方が書かれているように思いました。

 って結構長いのでしっかり読んではいない(根性なしw汗)ので、私の解釈に誤りがあるかもしれませんのでその場合ご指摘くだされば幸いです。

117Libra:2006/02/01(水) 04:02:51
 初期経典において、ちがう意味の信仰を、同じ「サッダー」という言葉で表
現しているのは、「サッダー」と言う言葉が、意味の違うそれぞれの信仰を含
みうるより広い意味の言葉だからでしょう。

 初期経典は、シャカの言葉をすべてもれなく記録したものではありません。
実際に話されたさいには、どちらの意味で「サッダー」と言う言葉を使ってい
るのかが文脈から明らかでない場合には、とうぜん説明されたでしょうし、文
脈から明らかな場合には説明はなかったでしょう。

 わめさんが、「信仰」という言葉を忌避されるのはご自由です。しかし、実
際には、仏教において「信仰」という言葉が忌避されてきたという事実はあり
ません。

 「しがみつき、玩び、宝物のように扱い、執着する」というのは、たしかに
仏教では否定されるところの「信」でしょうが、そのことは今の議論とは無関
係だとおもいます。そのようなものではない「信」を仏教は肯定していますし、
それを「サッダー」と表現しています。

 わめさんは、どうしても、「信仰」という言葉を《仏教で否定される「信」》
という意味にのみ限定して使用されたいようですが、そのこだわりは捨てるこ
とができないものなのでしょうか。初期経典の表現やオーソドックスな解釈を
無視してまで、そのことにこだわる必要がどこにあるのか、わたしには全く理
解できません。

 「自分は信仰を捨てた」と自己解釈されるわめさんにとっては、仏教とは信
仰を否定するものでなければならないのかもしれませんし、別の動機があるの
かもしれませんが、いずれにしても、シャカが「信仰」という言葉を否定的な
意味でのみ使ったなどという説にはわたしは賛成いたしません。

118Leo:2006/02/01(水) 06:49:03
みなさん、おはようございます。

>>106 ibiraさん -> Libraさん

>>108 (圏の教学部の人) → (区の教学部の人)

どうも書き間違いが多くてすみません。

区の教学部長が男子部が池田先生、池田先生と叫んでいるのは間違っている。
御書根本だから御書をもっと勉強しなければいけないという意味のことを
いった人がいるという話を聞いて(これは又聞きですが)少し驚いたことがあります。
(その方はどうなったかわからないのですが気になります)

第一次、第二次宗門問題のときに活動家だった人が非活動になったとも聞きます。

いずれにせよ教学がずっと危機的状況にあるのは間違いないようです。

一方で、LibraさんやA・S・Cさん(2〜3世の方)は本を読んだり、自分で考えたりして
学生部の時分にはもう学会がおかしいと思ったのですね。
池田氏は青年に「本を読め」と言いますが、確かに本を読むのはよいことです(^^;

私はというと学会員の幼なじみがいて学会にはそれほど違和感がなかったのですが
(幼なじみは私を折伏することはありませんでした)
ひょんなことから入会したのです。
自分は所詮もともとよそ者だしということで自分を自分で妄信状態に追い込んで
いたというところがありました。
LibraさんやA・S・Cさんに色々ご教示いただいたり、皆さんとの出会いがあったりして
学会の意味は大いにあったですね。

あとLibraさんが『小説人間革命』読まない派だということは面食らいました。
読んじゃいけない本もあるのですね。
(私の頃は『小説新人間革命』が出版される前でした)

119Leo:2006/02/01(水) 07:07:05
>自分は所詮もともとよそ者だしということで自分を自分で妄信状態に追い込んで
>いたというところがありました。
>LibraさんやA・S・Cさんに色々ご教示いただいたり、皆さんとの出会いがあったりして
>学会の意味は大いにあったですね。

こういう状況で思い出すのがトインビーの歴史観です(飛躍し過ぎ?)。

トインビーの歴史観によれば旧日本軍の侵攻は欧米の支配下にあったアジアの独立を促した
とされます。学会は「旧日本軍」に相当するのかなと。
(だからといってマイナス面も捨て置けないような...)

121わめ ◆TJ9qoWuqvA:2006/02/01(水) 12:37:33
 Libra師匠、皆さんこんにちは。^^

>>117

>  わめさんが、「信仰」という言葉を忌避されるのはご自由です。しかし、実
> 際には、仏教において「信仰」という言葉が忌避されてきたという事実はあり
> ません。

 信も正信や盲信などで意味が違ってきますから、私もどのような信仰もすべて忌避すべきものとは思っておりませんし仏教的にもそうだと思います。
 ただ信仰という言葉の意味がgoo辞書にもありましたように「神仏などを信じ崇(あが)めること。経験や知識を超えた存在を信頼し、自己をゆだねる自覚的な態度をいう。」と言うようなイメージが一般的に定着しているように思いますし、『シャカの教えを自分で確かめてみて(反駁を試みて)、それが「反駁し得ないものとして説」かれているとしか思えない時に生じる』のが「仏教的信仰」であるならば、現代において当たり前にあると思われている「引力」とか「遠心力」に対して”当たり前にある”と思うことも「仏教的信仰」であると言えるのではないでしょうか。
 私はこの”当たり前にある”ような(反駁し得ない)ことを「仏教的信仰」と呼ぶことにもまた信仰するということにも違和感を感じるのです。
 ブッダの教えも「引力」や「遠心力」も”当たり前にある”ものであって人が生きていくために活用することが大切で、それは”当たり前にある(正しい)”と常識的に捉えていけばよいのではないでしょうか。
 そこに至るまでの途中段階として、ブッダの教えを吟味するにあたり信も必要であるのかもしれませんが、それが自身の中で信が確信に、確信が当たり前にあるものとなっていくように思います。
 この当たり前に思うことが「清らかで明瞭なこの見解」を正しく理解したということではないでしょうか?

 話が前後しますが信仰(信)という精神的な”思い”は、理性・合理的に当たり前に”思う”ことに比べ、その”思い”の強さは弱く不安定であるように私は思います。

 私は言葉足らずが多くて、受け手に妄想を生みそうな仏教用語を使うのはなるべく避けたいと思っております。涙

122マターリ:2006/02/01(水) 13:09:11
日蓮の性格は、千葉県生まれということにも影響されていると思います。
私は、千葉にいたことがありますが、あの辺の人はストレートに物を
言う性格をもっています。まわりの人の気持を考え、なごやかに過ごす
という感じではないです。昨年のロッテ選手に見られる、「野武士的
性格」があると思います。

また、ご両親が漁業を営んでいたということも影響していると思います。
漁業は「板子一枚下は地獄」というように、豊漁か不漁か、生か死かという
ような仕事です。日蓮も当然ながら漁業を手伝っていたと思われます。

そうした厳しい仕事の体験が、法華経にのめり込む一因だったのではない
でしょうか?また「地獄」を繰り返し言うのも、生死のはざまを行き来す
る厳しい仕事の記憶をたどっていたせいではないでしょうか?

123みれい:2006/02/01(水) 19:36:07
>わめさん

わめさんの言う「絶対神」の一元論と仏教の一元論は意味合いが異なります。
でもこの話はもうやめておくので、Libraさんの話の理解のほうに努めてください。

>Libraさん、

ありがとうございました。といいつつ書き残し。夏にでも。
私の「わかった」は、まだまだごく一部に過ぎない自覚があります。
少しでも一般仏教の知識と専門用語がわからないとLibraさんのサイトは理解できません。
酸素ボンベをつけずに海の中に潜るような感じで、すぐ出てしまうでしょう。
私もぎりぎりですが、いずれ魚になってみたいと思います。

>日蓮の中には、中観思想だけがあるわけではなく、日蓮当時にあったいろん
なものが未整理のまま是認されてあるということですね。

>これからは、日蓮の中にあるどのような視点を「現代思想として重要な視点」
として選択していくかというところに、各日蓮教団のそれぞれの特色があらわ
れてくるのだろうとおもいます。

日蓮さんえらいもん残してくれました。

124みれい:2006/02/01(水) 19:37:24
>Leoさん

レスは亀でもカタツムリでもかまいません。私もマイペースです。

>私は5,6年前最初Libraさんとネットで出合った頃ものすごく反発してたんですが

ええっそんな最近なんですか。これまたびっくりです。もっと昔からいるイメージです。

>日蓮宗の北山本門寺では入信を拒否され

やはり、戦前という時代の影響があったわけですね。牧口さんも、せめてあと2回は日蓮宗の門を叩くべきでしたね・・・

>学会員の方にも次の本を読んで欲しいですね
菅野博史 『法華経入門』 岩波新書、岩波書店、2001年
 田村芳朗 『法華経 真理・生命・実践』 中公新書、中央公論新社、1969年

ブログでも学会員さん&元学会員さんにお勧めさせていただきます。
ちなみにLeoさんがサイトに載せられている友岡さんも、いい事書いていると思います。
http://blog.goo.ne.jp/mirei-2005/c/e4800f61366a0ac2ef39b6932aa48d5e
Leoさんのサイトもあらためて勧めておきたいです。
川田洋一さんは良く知らないのですが、何か残されてますか?
私は河合隼雄さんと対談したものをみかけました。
町でのめいわく行為について突っ込まれていたのに関してはその本ではコメントなしでしたが。

>悪いところと同時に良いところでもあるのではないでしょうか。
それに、彼は役回りとしては役者(俳優)のようなものではないでしょうか。スタッフ(台本)次第とも言えますし。

う〜ん、いいところといえば・・・なんだろ?損害賠償しなくて済むとか。
最近のシナリオライターさんはチョンガーさんの提言(と同じもの)もいつのまにか取り入れているそうです。
>「教授」は上級(青年教学1級)試験に受かった人のことですね

地区によるのですね。
危機的状況は、それだけズレがしょうじているのがわかる、ということでしょうか。
うちの地域では教授はいましたが(女性)地域は前回の答えのままです。

私も人間革命は小学生〜中学生の頃に読み終わりました。新は1巻しか読んでいません。
あれで公宣流布を覚えました。ようやく忘れてきました。

125みれい:2006/02/01(水) 19:38:32

今日買った雑誌の社長さんの言葉に
「心は理と情で動くものだ」というものがありました。
日蓮さんをあてはめてみると、「理」(理論的という意味で)の面では高度なアプローチがあるかもしれませんが、逆に「情」の面でのアプローチがまだまだ弱い、とも言える気がします。
ゆえに勘違いして情が戦闘的になる傾向が増えると。
また勘違いしなくても、釈迦の教えに忠実でない限り、日蓮の弟子はそうなる傾向はあるのではと。
その補強に日蓮の書簡を意識した本が出されてみたり、安楽行品からのアプローチをはじめてみる方がいたり、ということなのかな、とも思えます。
逆に日蓮さんの「理」はおきざりにして池田さんの「情」のアプローチだけで進んでいるのが創価学会かもしれないと。非常に情熱的です。
ゆえにメンタルでの被害が出ます。
そしてLeoさんのおっしゃる教義的な危機も、そこかと。

なにかと忙しい現代人は、高度な理から入って理解するのはなかなか困難です。
ゆえにとりあえずわかった気がする情からのアプローチはもってこいだったりすると思います。

鎌倉時代の中では情からのアプローチは親鸞さんが上手いのではと思います。
ちょっと女性ファンが多いのもそのおかげかもしれません。

126みれい:2006/02/01(水) 19:41:25
>マターリさん、

千葉県の気質、とても興味があります。
日蓮さんはそれほど貧しい生活ではなかったという説もあります。
それにしても、やたら地獄という言葉を使うのは、困りますよね。

127Leo:2006/02/01(水) 22:24:50
みれいさん、みなさん こんばんは。

>ちなみにLeoさんがサイトに載せられている友岡さんも、いい事書いていると思います。

そのようです。

○『ブッダは歩む ブッダは語る』(友岡雅弥)
http://page.freett.com/Libra0000/016.html
「何度も言うことですが、ブッダの思想の特徴は、「立場」を永遠に突破することにあります。
 一つの立場に固執することから、常に飛躍するところにあります。」

○ ブッダ、因果を超える(友岡雅弥)
http://page.freett.com/Libra0000/080.htm
「権力の呪縛からの解放という、仏教のメインテーマはどこにいってしまったのでしょう。
 悪しき業報因果論にはこういう陥穽(かんせい)が潜むのです。」

○呪縛からの解放─法華経の宗教性(友岡雅弥)
http://page.freett.com/Libra0000/042.htm
「「法華経」は全編を通して、「法を悟る者」となることによってではなく、
 「法を語る者」となることを主張する。そうすることによって、「法華経」は、
 呪縛と閉塞から人々を解放した。ここに、「法華経の宗教性」がある。」

>川田洋一さんは良く知らないのですが、何か残されてますか?

川田洋一さんは東洋哲学研究所(http://www.totetu.org/)の所長さんですね。

川田洋一さんは著作は下のリンクのように色々ありますが「生命論」系の方ではないでしょうか。
http://esearch.rakuten.co.jp/rms/sd/esearch/vc?sv=30&amp;sitem=%C3%F8%BC%D4%CC%BE%A1%A7%C0%EE%C5%C4%CD%CE%B0%EC

128Leo:2006/02/01(水) 22:42:49
(続き)

>う〜ん、いいところといえば・・・なんだろ?損害賠償しなくて済むとか。

会則改正を見ると役員などの一切の責任職についていないことがわかります。
たとえ学会にどんな不祥事が発生したとしても捕まることはありません。
著作を彼の名前にしておけば古い学会の著作に名前ののっていた原○氏や福○氏の
ようようになってしまうことがありません。

>最近のシナリオライターさんはチョンガーさんの提言(と同じもの)もいつのまにか取り入れているそうです。

ええっ?そうなんですか。

まあ『法華経の智慧』(生命論を強調してしまっている部分もありますが)や、
『池田名誉会長の青春対話』のスタッフもなかなかなものがあったと思います。


「真摯な学問的成果なら、大いに受け入れるべきでしょう。」
(池田大作他『法華経の智慧』第一巻、聖教新聞社、1996年、p. 91)
http://freett.com/Libra0000/kangaeyou_03.html

「法華経では「一切衆生の成仏(じょうぶつ)」が仏(ほとけ)の一大事因縁(いちだいじいんねん)、すなわち、
 仏がこの世に出現(しゅつげん)した、最大(さいだい)で究極(きゅうきょく)の目的(もくてき)であると説かれている。
 滅後の衆生、特に末法という濁世(じょくせ)の衆生を救(すく)わなければ、その理想(りそう)は叶(かな)えられない。
 だから滅後(めつご)の衆生(しゅじょう)のための教(おし)えを仏(ほとけ)が説(と)かないはずがない。
 そのための慈悲(じひ)の経典(きょうてん)が法華経です。」
(池田大作他『法華経の智慧』第一巻、聖教新聞社、1996年、pp. 62-63)
http://freett.com/Libra0000/z018.html

「歴史観を養え!歴史の「真実」を見抜け!
 ほとんどは「勝者が書いた」歴史
 (中略)
 その歴史は、永遠の流転の一コマですが、真実をきちんと残し、積み重ねていかないと、
 正しい歴史観がゆがめられ、また未来に不幸を重ねてしまう。
 正しい歴史を残すことが、人類の平和と幸福の道を残すことになるのです。
 歴史は、ゆがめたり、歪曲したりしてはいけない。歴史をつくってしまっては小説になってしまう 。
 悪いことを隠し、格好のよいことだけを残しては、歴史書ではなく虚飾書になってしまう。
 歴史は客観的に正確に書き、証拠・証人を大事にしなければなりません 。」
( (池田大作 『池田名誉会長の青春対話③―21世紀の主役に語る―』 聖教新聞社、1997年、pp.100-102)
http://page.freett.com/leo020503/note007.html

129ひゃっきまる:2006/02/02(木) 00:09:06
わめさんに僕の発言の引用があると聞いたのでちょっと確認までに覗いてみました。

>Libraさん

まだいらっしゃるのでしょうか?
おそらく5年前か6年前と思いますが、少しだけメールのやりとりをさせていただいたことがありました。
その際はありがとうございました。

130わめ ◆TJ9qoWuqvA:2006/02/02(木) 03:59:53
 皆さんこんばんは。^^

みれいしゃん

> わめさんの言う「絶対神」の一元論と仏教の一元論は意味合いが異なります。

 「絶対神」の一元論は、世界の成り立ち(の原理)がすべて神によって成されたという意味での一元論ですので、私も意味合いが異なると思います。

> でもこの話はもうやめておくので、Libraさんの話の理解のほうに努めてください。

 ( ̄▽ ̄)ゞラジャ


ひゃっきまるさんいらっしゃい。こちらでは初登場ですね。(⌒〜⌒)ニンマリ

> わめさんに僕の発言の引用があると聞いたのでちょっと確認までに覗いてみました。

 >>104 です。勝手に引用しちゃいましたw(● ̄▽ ̄●;)ゞぽりぽり

> まだいらっしゃるのでしょうか?

 微妙なところかもw(^^;;

 >>91 からLibra師匠と信仰について議論しています。

 その中でひゃっきまるさんのコメントを引用させてもらったのですが、「なんじらはたとえ善き教え(法)でも捨て去るべきである」の善き教えは「いまのところ批判にたえている」教えだと思うのですが、この善き教えが筏とするならば川を渡り切れば必要ないものとして釈迦は「捨て去るべきである」と言っているように私は思うのです。

 よかったらひゃきまるさんのご意見もお聞きしたいところです。^^

Libra師匠

 もしかしたらLibra師匠と私とでは「善き教え」の捉え方が違うのかなって思ったりするのですが、師匠はこの「善き教え」に縁起の思想まで含めておられて、私は「善き教え」を目的を達成するための実践・修行方法であって縁起の思想は含まれていないと思っています。
 なので目的が達成されれば実践・修行方法(善き教え)も、それに対する信仰も必要なくなるのではないかと思いますし、ひゃきまるさんのコメントから引用させていただいた上記部分も私は違和感なく読むことができます。

131Leo:2006/02/02(木) 23:55:58
みなさん、こんばんは。

「筏のたとえ」ですが、佐倉哲さんのHPにも資料がありますね(わめさんも引用してたページと
違うページにも引用されています)。「筏のたとえ」とは「ドグマへの信仰」を捨てよといっている
のであって、「正しい理解」や「真実・真理を知ること」まで捨てよとはいってないのではないでしょうか。
陸に上がって筏をかついでいるのは確かにおかしいですが、なんでも捨てろだったらたとえば砂漠を行くのに
ラクダや水や食料や地図を捨てるんでしょうか?!
2番目の資料ではブッダの主張も暫定真理だというニュアンスはあるかもしれないですね。

「(3)信仰ではなく、「正しい理解」による
(中略)
ブッダは見解(ドグマ)への執着を捨てることを説いたのですから、ドグマへの信仰はブッダの思想に似合いません。
 人間苦の原因やそれからの解放に関する真実・真理を知ること、それこそがブッダの思想に似合うものと思われます。

比丘たちよ、教え(法)とは筏のようなものであると知るとき、なんじらはたとえ善き教え(法)でも捨て去るべきである。
  悪しきものならばなおさらのことである。
(マッジマ・ニカーヤ 22)」
http://www.j-world.com/usr/sakura/replies/buddhism/buddhism31.html

「もうひとつ、仏教には、有名なブッダの「筏の教え」というのがあります。ブッダ自身が、自分の教えを「筏」にたとえて、
川を渡るのに大切な筏も、川を渡ってしまえば必要ないものとなるのだから、捨てるべきである、
と教えたという仏典の記録です。

比丘たちよ、教え(法)というものは筏(いかだ)のようなものであることをなんじらに示そう。
 (中略)
(マッジマ・ニカーヤ 22)

 ブッダは自らの教え -- その中には「一切は壊れる」という無常の思想も含まれますが -- を「永遠不変の真理」
 として主張はしなかった、と思われます。」
http://www.j-world.com/usr/sakura/replies/buddhism/bud078.html

132Leo:2006/02/03(金) 00:13:31
(続き)

「筏のたとえ」の「大水流」は「煩悩」、「彼方の岸」は「涅槃」ではないでしょうか。
煩悩を制し迷いの生存を脱して涅槃に達せば、煩悩を制する教えなどが必要なくなるのは
当然なのですね。

「筏のたとえ」は「釈迦の教えは最初からいらないよ〜ん」ではないことは確かなようです。
でなければ経典などで釈迦が比丘に精進をすすめているのはおかしいことになってしまいます。

133Leo:2006/02/03(金) 00:20:55
続き)

(こういうこと書いているととまらなくなってしまうので、いかんです(^^;)

たとえばある人が激流を渡って筏を捨てたとします、がその人はまた激流にはまってしまった。
その人は言います、「釈迦が筏を捨てろといったんだから俺は筏は使わない。」
その人はおぼれてしまいいました。

これは「筏のたとえ」が「ドグマ」になった例ですね。

134Libra:2006/02/03(金) 00:27:25
>>130 

 わめさん、こんばんは。

 同じことを何度も何度も書かなければならないというのはものすごく苦痛な
ので、どうかどうかこれ以上はご容赦ください。あとは読者の方々とも自由に
検討して頂いて、よろしくご判断いただければさいわいです。

 わめさんはすでに目的を達成されており、シャカの教え(縁起説)も、もう
不要であるとのですが、それならばたいへんけっこうなことです。もちろん、
そのような方にとっては、わたしのコメントなどはそもそも不要でしょう。

 残念ながら、わめさんとはちがって、わたしの目の前には、まるでワンピー
スに出てくる「グランドライン」のような、激流渦巻く大海がはてしなく横た
わっています。それは、少し前に進むのさえもこわくなるくらいに広大です。

 しかし、さいわいなことに、わたしには、シャカ&ポパーの筏と、「嵐が来
たら肩組んで その先の希望を見」たいとおもえる「善き友」がいます。だか
ら、彼らとなら、これからも進んでいけるとおもえます。七色の風を切り、冒
険の海へと。

135わめ ◆TJ9qoWuqvA:2006/02/03(金) 00:29:39
 Leoさん、皆さんこんばんは。^^

> 「正しい理解」や「真実・真理を知ること」まで捨てよとはいってないのではないでしょうか。

 「正しい理解」や「真実・真理を知ること」、知ったことや理解したことはどうあがいても捨てられないように思います。(^^;;
 知る・理解する・納得するなどは信仰のように捨て去ることができないように思います。

> 陸に上がって筏をかついでいるのは確かにおかしいですが、なんでも捨てろだったらたとえば砂漠を行くのにラクダや水や食料や地図を捨てるんでしょうか?!

 「善き教え」とは涅槃(彼方の岸)に至るための実践・修行法だと思うので、目的(涅槃)が果たせた場合には必要がなくなり、涅槃を目的にしない方には元々「必要がない」ものなのではないでしょうか?

 一つひとつ議論をしていきたいので「ドグマへの信仰」についてはまた改めてお返事したいと思います。

137わめ ◆TJ9qoWuqvA:2006/02/03(金) 00:38:17
 Leoさんにお返事かいてたら師匠の書き込みがきたわ。(゜▽゜*)ニパッ♪

 Libra師匠こんばんは。

>  わめさんはすでに目的を達成されており、シャカの教え(縁起説)も、もう不要であるとのですが、

 (ノ゜⊿゜)ノあうぅ!! そんなことはどこにも書いておりませんし、縁起は暫定真理として私にとっては今のところなくてはならないものです。(>▽<;; アセアセ

 シャカ&ポパーの説を必要とすることを師匠は信仰と呼び、私は知る・理解・納得・腑に落ちると呼んでいるだけかもしれませんが・・・

138Libra:2006/02/03(金) 00:39:41
>>129

 ひゃっきまるさん、こんばんは。

 お名前だけは記憶にあるのですが、恥ずかしながら、肝心のやりとりの中身
をまったく記憶しておりません。もうしわけなくおもいます。

 ここに参加してしまったこともありまして、今のわたしは、やらなければな
らないことに押しつぶされそうになっております。どうしよ(汗)。

 そういうわけなので、残念ながら、今はまだ、ひゃっきまるさんとじっくり
とお話できないのですが、またの機会にお話をお伺いできればありがたいです。

139わめ ◆TJ9qoWuqvA:2006/02/03(金) 00:50:46
 Leoさん

> 「善き教え」とは涅槃(彼方の岸)に至るための実践・修行法だと思うので、

 釈迦の説かれた実践・修行方法は涅槃に至るための「善き教え」であるとしても、その実践・修行方法でなければ涅槃に至れないわけではないと思いますし、もしかしたらもっと良い実践・修行方法があるのかもしれません。

 私はこの涅槃に至るための実践・修行方法(善き教え)は、縁起などの暫定真理を元にして考え出されたもので、「涅槃に至るための実践・修行方法(善き教え)」と、縁起などの「真実・真理を知ること」はまったく別ごとと考えています。

140Libra:2006/02/03(金) 00:51:20
>>132

 Leo さん、こんばんは。

 ワンピースでいうなら、Leo さんは誰になりますかね。ウソップ?(笑)

 あとは頼みました…。正直いって、もうそれしか言えない(涙)。

141わめ ◆TJ9qoWuqvA:2006/02/03(金) 01:22:15
 Libra師匠、忙しい中ありがとうございました。m(_ _"m)ペコリ

 Leoさん、よかったらこんな私を見捨てないでお相手をしてください。。・゚゚・(>_<)・゚゚・。

142わめ ◆TJ9qoWuqvA:2006/02/03(金) 02:29:20
 Leoさん

 釈迦の涅槃(成仏)に至るための実践・修行方法は四諦・八正道で、日蓮は摂受・折伏(化他行)・題目行(自行)だと私は思いますが、釈迦と日蓮では涅槃(成仏)に至るための実践・修行方法が違うように思います。
 このどちらが涅槃(成仏)に至るための実践・修行方法として勝れているかは分かりませんが、この両方が涅槃(成仏)に至るための正しい実践・修行方法だとするならば、実践・修行方法は一つではないことになります。
(瞑想行も加えると3つになりますが。これを言い出すと禅もあるいはキリスト教だってそうかもで一杯出てきそうw)

 私にはどの実践・修行方法が涅槃(成仏)に至れるのか、あるいはどの実践・修行方法が一番早く涅槃(成仏)に至れるのかが分かりません。(楽しくとか簡単にとかも考慮に入れると余計に分かりませんがw汗)
 また私にはこの3つ(瞑想行も入れて)の実践・修行方法がそれぞれ正しいのか間違っているのか分かりませんから、私が涅槃(成仏)に至ることをもしも願うとしたら、この場合どれが正しいのか理解できていないわけで、どの実践・修行方法を実行するにしてもそこに信仰が必要になると思うのですが、この場合の信仰は正しい信仰姿勢と呼べるのでしょうか?
 私はこの場合の信仰は「しがみつき、玩び、宝物のように扱い、執着」するような誤った信仰のように思いますが、それでもこれらの実践・修行方法が(運よく)正しければ、実践・修行方法に忠実に実践すれば(激流を渡るなどの)目的は果たされるのかもしれません。

 あるいは私が縁起の思想などからこの3つの実践・修行方法を吟味して明解に判断できたとするならば、その場合にも信仰は必要なのでしょうか?

 釈迦の言われた「清らかで”明瞭”なこの見解」は、心が何かに囚われていなくてそれなりの智慧があれば信仰は必要なく、理解・納得し実践できるように私には思えてならないのです。

 以上述べたことは仏教の枠から外れた私のとんでもない我説かもしれませんが、「信仰を捨てよ」・「清らかで”明瞭”なこの見解」・「ひとは信仰によって激流を渡り、〔中略〕智慧によって全く清らかとなる。」とも符合するように思います。

143わめ ◆TJ9qoWuqvA:2006/02/03(金) 03:02:53
 訂正w
>>142

>  私はこの場合の信仰は「しがみつき、玩び、宝物のように扱い、執着」するような誤った信仰のように思いますが、それでもこれらの実践・修行方法が(運よく)正しければ、実践・修行方法に忠実に実践すれば(激流を渡るなどの)目的は果たされるのかもしれません。

 上記の「実践・修行方法に忠実に実践」するならば、「しがみつき、玩び、宝物のように扱い、執着」ではないですね。汗
 「実践・修行方法に忠実に実践」じゃない場合に「しがみつき、玩び、宝物のように扱い、執着」してしまうと言うことか・・・

144わめ ◆TJ9qoWuqvA:2006/02/03(金) 19:10:29
 Leoさん皆さんこんばんは。^^

 改めて信仰(信)に関するコメントを読み返して( >>69 >>70 >>92-97 )みましたが、まだ我説を翻すに至っておりません。涙

 >>69 でLibra師匠の言葉として「わたしは、佐倉哲さんや曽我逸郎さんのような仏教理解は正しいとおもいます。そういう理解に到達できるのであれば、どのような道を通ってもよいとおもいます。」とあり、少なくとも佐倉哲氏の仏教理解は研究・考察というアプローチであったと思いますし、私は佐倉哲氏のテキストから「仏教に信仰の必要性」を読み取ることが出来ませんので、正しい仏教理解に必ずしも信仰が必要とは言えないように思います。

 ただ >>93 の「自分の確かめたこと」だけを信ずるのが仏教的信仰とすると、佐倉哲氏のアプローチも仏教的信仰になってしまうのかもしれませんし、ポパーの批判的合理主義を「自分で確かめて」支持するのも仏教的信仰となってしまうと思いますし、物理法則その他諸々を「自分で確かめて」支持することも仏教的信仰となってしまうのではないでしょうか。そうだとすると釈迦の時代はともかく現代においてそれらに信仰という語句を使うのは誤解を生む可能性が高く適切でないように思ってしまうのです。
 あるいは仏教に対する仏教的信仰とそれ以外とに何か大きな違いがあり、私はそれに気が付かずに一緒くたにしてしまっているのでしょうか?

145Leo:2006/02/03(金) 22:35:35
わめさん、こんばんは。

Libraさんは「仏教に信仰の必要性がある」と主張したのではなく
「仏教的信仰とは本来こういうものである」と説明されたのですね。
(確かに一般的な「信仰」のニュアンスとは違うという注意点はあります)

Libraさん曰く:
「わめさんは、初期経典にみられる「信仰を捨て去れ」という言葉を、《何か
 を信仰すること一般》をすべて否定する言葉だと解釈されているようですが、
 このような解釈は妥当ではないとわたしはおもいます。」
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/sports/20126/1121911824/91
2.中村説批判
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/sports/20126/1121911824/92
3.仏教的信仰とは
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/sports/20126/1121911824/93
4.日蓮の信は仏教的信仰といえるか
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/sports/20126/1121911824/94
5.『法華経』の信は仏教的信仰といえるか
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/sports/20126/1121911824/95
「今回は、まず、初期経典にみられる「信仰を捨て去れ」という表現を《何か
を信仰すること一般》をすべて否定する言葉であると解釈することは困難であ
るということを示し、そして、《仏教において肯定される「信仰」》とはどの
ようなものなのかということについてのわたしなりの理解を述べてみました。
そのうえで、『法華経』およびその信者である日蓮や牧口の「信」についても
一瞥してみました。 」
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/sports/20126/1121911824/97
[註]
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/sports/20126/1121911824/97

146Leo:2006/02/03(金) 22:45:11
私なんかも時々ある(あった)のですが、師匠を困らすようなことは避けましょう。
以下の原始仏典の言葉(全部)をかみしめて...

『アングッタラ・ニカーヤ』Ⅲ.67(PTS Text,Vol.1,pp.197-8)、三の集まり 大なる章 67

(抜粋)
「討論を通じて、(相手の)人がともに語るにふさわしいのかそうではないのかを知らねばならない。
 比丘たちよ。もしある人が質問されて、よりどころとよりどころでないものをはっきりと立てず、
 仮定とするものをはっきりと立てず、了解した論議をはっきりと立てず、方法をはっきり立てないならば、
 このようである人は、比丘たちよ、ともに語るにふさわしい人ではない。

 比丘たちよ。もしある人が質問されて、よりどころとよりどころでないものをはっきりと立て、
 仮定とするものをはっきりと立て、了解した論議をはっきりと立て、方法をはっきり立てるならば、
 このようである人は、比丘たちよ、ともに語るにふさわしい人である。」

(心にしみる原始仏典(マニカナ・エムさん)、http://homepage1.nifty.com/manikana/canon/mahavagga.html

147わめ ◆TJ9qoWuqvA:2006/02/03(金) 23:17:47
 Leoさん皆さんこんばんは。^^

> 私なんかも時々ある(あった)のですが、師匠を困らすようなことは避けましょう。以下の原始仏典の言葉(全部)をかみしめて...

 まずこちらからお返事します。 私のコメントは言葉足らずの上に倫理性にも欠けているようで、お相手してくださる方に忍耐力を強いる面があると自覚しています。涙
 このように自覚していますので私なりにはしっかり努力しているつもりで、投稿前のテキストも何度も読み返してからの投稿になっているのですが、この”私なり”が曲者なのか、テキストを書く・議論をするなどに不慣れだからか、自身の誤謬の発見と訂正に性急過ぎるあまりになのか、あるいはそれらの要因をすべて含むのか等で今回は師匠を困らす結果になってしまったようです。

 今回Leoさんから提示くださった引用とリンク先も参考に、早急に直していけることは早急に、すぐには無理なことも少しづつでも直していきたいと思います。

 ご指摘ありがとうございました。

148わめ ◆TJ9qoWuqvA:2006/02/04(土) 00:00:00
 私は師匠の言われる”「仏教的信仰」の中身”については正しい見解だと思います。
 また釈迦の「信仰を捨てよ」には、この”「仏教的信仰」の中身”は含まれていないと思いますので、捨て去るべきものではないと思います。

 私が言いたいのはそれを信仰とか信じると言う言葉で表すのは如何なものかと指摘しています。

 なぜかと言えば、その一つはLeoさんも言われているように『一般的な「信仰」のニュアンスとは違』い、読み手に釈迦が否定した信仰と同様に思われる可能性が少なからずあるということ。

 二つ目は、自灯明法灯明』*1の記事で書きました「ダンマパダ、97には『何ものかを信じることなく、作られざるもの(ニルヴァーナ)を知り、生死のきずなを絶ち、(善悪をなすに)よしなく、欲求を捨て去った人、--- かれこそ実に最上の人である。(中村元訳)』」の、”何ものかを信じることなく”は信仰をも指す言葉であり、また「佐倉哲氏はブッダの「信仰を捨てよ」の言明について『この言葉は、ブッダの伝道宣言ともいわれている有名な「梵天勧請」にもありますが、そこでは、あきらかに、特定の人にあたえられた言葉ではなく、すべての人(「耳ある者」)にあたえられたブッダの言葉です。 『耳ある者に甘露(不死)の門は開かれた。信仰を捨てよ。(サンユッタニカーヤ 6:1、中村元訳)』 』」とあり、これらの言葉からすると師匠の言われる”「仏教的信仰」の中身”から言えば、それを”信仰”や”信じる”と言うことは否定されるべきものとなってしまうように思いますし、”「仏教的信仰」の中身”は信仰・信じるなどの不安定・非合理性を含んだ表現は妥当ではなく、正しく理解するとか納得するなどの合理的・安定的な言葉が相応しく思うからです。

 3つ目は、正しく理解するとか納得するなどには智慧が必要に思いますし”「仏教的信仰」の中身”は信仰・信じることよりも智慧が要求され、智慧は釈迦も日蓮も信より上位に位置づけているように思います。この観点からも信仰・信じるとの表現は相応しくないと思います。

*1『自灯明法灯明』 http://wame.seesaa.net/article/10814676.html

149Leo:2006/02/04(土) 00:32:17
わめさん、こんばんは。

>まずこちらからお返事します。 私のコメントは言葉足らずの上に倫理性にも欠けているようで、
>お相手してくださる方に忍耐力を強いる面があると自覚しています。涙

いえいえ、私なんかもネットに出てきた頃はアンチの方々から(懐かしいなあ)創価人は日本語がわから
ないから小学生からやり直せといわれましたよ。アンチの方々は別に倫理性はもとめてなかったようで、
ということは求めるのは論理性でしょう(まさか語学ではないでしょう)。
Libraさんの求めるのも論理性じゃないでしょうか。こんな参考書のご紹介がありました。

三浦俊彦 『論理学入門 推論のセンスとテクニックのために』 NHKブックス、日本放送出版協会、2000年

あとなにごとも焦らず急がずですね。以前私もLibraさんの資料読んで理解するのにものすごく時間
かかりました。最初の頃はLibraさんのホームページの内容全部印刷して本のようにして読んで、
ポイントをラインマーカや赤ボールペンで線ひいてました。
お小遣いが潤沢ではないんですが本も読みました(なるべく文庫本中心)。
学会教学や指導に悪い意味でハマッていた状態から抜け出すには(信じないだけではまだ抜け出せていないんです、
ここがコワいとこ)仏教の勉強もありますがもっと基本からやり直す(やり直すというより新規勉強の場合もあり)
というのも意味のあることだったりします。
(経験者Leo談)

150Leo:2006/02/04(土) 00:47:51
>Libraさんの求めるのも論理性じゃないでしょうか。

論理性というよりむしろ思考力といった方が正解でしょうか。

そういえば、私が昔Libraさんに指摘貰ったのは【鰻のように散乱した説】ですね。
(思い出してしまった)

「仏教では、肝腎な論点を外してノラリクラリと鰻のように話を展開する答弁を「鰻のよ
うに散乱した説」[注1]と呼んで忌避しています。」
http://page.freett.com/leo020503/bbslog2_004.html

○真実ならざることは真実ならざることとして否定しなければならない(袴谷憲昭)
http://page.freett.com/Libra0000/011.html
「しかるに、そういう明確な主張命題の提示がないばかりか、重要な問題についても断えず論点をはぐらかして
 鰻(うなぎ)のようにぬらりくらりと周辺の問題ばかりに言葉を費すのを仏教では amara(_)-vikkhepa
(鰻のように散乱した説)と呼んで一番恥ずべきこととされております。」

あと、Libraさんが懸念してたのは「真の「論争」の欠如」と「そのたびごとにイロハから始まる」
ということでしたね。

「丸山真男が『日本の思想』において「諸思想間の真剣な対決を促すことあまりにも少な
 いわが国の知的風土における思想的「無限抱擁性」あるいは「雑居性」を批判」[注1]し
 てからもうずいぶんたちますが、いまだに、わが国には「真の意味での「討論の精神」」
 [注2]が欠如しているのかもしれません[注3]。

  ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
  日本の論争の多くはこれだけの問題は解明もしくは整理され、これから先の問題が残
  されているというけじめがいっこうはっきりしないままに立ち消えになってゆく。そ
  こでずっと後になって、何かのきっかけで実質的に同じテーマについて論争が始まる
  と、前の論争の到達点から出発しないで、すべてはそのたびごとにイロハから始まる。

  (丸山真男『日本の思想』、岩波新書、1961年、p. 7)
  ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━」
http://page.freett.com/leo020503/bbslog2_004.html

151みれい:2006/02/04(土) 02:04:17
わめさんは言葉の相応しさを提案して、そしてどうしたいのかと。

152わめ ◆TJ9qoWuqvA:2006/02/04(土) 03:12:18
 Leoさん、みれいしゃんこんばんは。^^

 Leoさん、またまたアドバイスありがとうございます。ぺこ <(_ _)>
 この話題については他の方に読んでいただく場合も 「議論しませんか?(議題検討スレ)」がいいかなと思いますので、私からのお返事や、またアドバイスを頂けるのでしたらそちらでお願いしたいと思います。

みれいしゃん

> わめさんは言葉の相応しさを提案して、そしてどうしたいのかと。

 質問の趣旨が漠然としてましてこのお返事は難しいです。(^^;;
 でももしかしたら『未来的にどうしたいかのために「言葉の相応しさの提案」を書いたわけでもありません』が、みれいしゃんが求めるお返事になるのかもしれませんが、質問の趣旨がよく分かりませんので的外れなら申し訳ないです。
 また改めて質問の趣旨をご説明くだされば、それに応じたお返事が出来るかもしれませんのでよろしくお願いいたします。

153Leo:2006/02/04(土) 23:43:53
>このような「信は慧の因」の話は「日蓮考察」スレに戻ってやったほうがよかったかもw汗

わめさん、上のご意見でこのスレに戻りました。

>私が気になったのが「日蓮考察」スレの師匠の93、94の慧と信の関係なのですが、「仏教的信仰」以外の
>信仰も「信は慧の因」が成り立つのではないかと思うことです。

>それと3番目に関わることだと思うのですが上記の慧と信の関係、93の「慧に基づいた信」と94の「信は慧の因」が
>一見ループしちゃっているように思うのです。

>ループを避け慧を中心に少し角度を変えて考えてみると、94の「信は慧の因」(聞法位・信解脱)はやがてそれが
>93の「慧に基づいた信」になると言うことだと考えることもできるのですが、94の「信は慧の因」も
>「慧によって煩悩の一分を断じていることと、如来に対する信が確立して根を生じていることとである」とあり、
>やっぱりそこにも慧は必要であると書かれているように思います。とすると94の「信は慧の因」の前提として
>慧が必要となるのではないでしょうか。

>上記の解釈から94の「信は慧の因」は、信・信仰は一部の理解から曖昧ながらも希望的推測をして、
>その教えに向おうという心の様のように感じますし、そこには盲信的要素が含まれ「信仰を捨てよ」に
>該当する信仰姿勢ではないのでしょうか。

信解脱のポイントは「智慧が不十分な段階でも」「心に少しでも清浄な部分」があるということではないでしょうか。
(たとえ不十分であっても「慧」は必要ですね、慧がなくともよいとなっていないので)

「このような信は、智慧が不十分な段階でも得ることができる。心に少しでも清浄な部分があれば信解脱は可能である。」
http://freett.com/Libra0000/023.htm

>また如来に対する信が確立は何によって起こるのかが私には不明です。

たとえ不十分でも智慧を持って「釈尊の無我などの教えを信ずること」によって「如来に対する信」
が確立するのではないでしょうか。

「これに対し原始仏教の信は、自己の経験したものを信ずることであり、釈尊の教えを聞いたあと生まれる信である。」
「原始仏教の信解脱は慧が劣っていても可能であり、本性浄心を考えなくても、釈尊の無我などの教えを信ずること、
 信解脱を得ることによって、段階的に悟りへと精進努力することができると考える。」
http://freett.com/Libra0000/023.htm

154わめ ◆TJ9qoWuqvA:2006/02/05(日) 04:49:05
 Leoさん、こんばんは。

> わめさん、上のご意見でこのスレに戻りました。

 ご配慮ありがとうございます。^^
 今回の議論は収束に向いたかったのだけど、どうしても異議があり反論します。涙

> > たとえ不十分でも智慧を持って「釈尊の無我などの教えを信ずること」によって「如来に対する信」
> > が確立するのではないでしょうか。

 これは師匠の言われる「仏教的信仰」ではないように思いますし、「釈尊の無我などの教え」を例えば「創価学会の教義」に当て嵌めると「学会的日蓮仏法」や「池田名誉会長信仰」が確立してしまうようで怖いです。
 これは「議論しませんか?(議題検討スレ)」47で私が書いたことに類似することっではないでしょうか?
『94の「信は慧の因」は、信・信仰は一部の理解から曖昧ながらも希望的推測をして、その教えに向おうという心の様のように感じますし、そこには盲信的要素が含まれ「信仰を捨てよ」に該当する信仰姿勢ではないのでしょうか。』

 私の思い過ごしならいいのですけど・・・

155Leo:2006/02/05(日) 08:31:29
わめさん、おはようございます。

>これは師匠の言われる「仏教的信仰」ではないように思いますし、「釈尊の無我などの教え」を例えば

それは前段階かもしれないですが「慧」は捨ててないわけです。また次の段階もあります。

>「創価学会の教義」に当て嵌めると「学会的日蓮仏法」や「池田名誉会長信仰」が確立してしまうようで怖いです。

ですので、「釈尊の無我などの教え」などから「学会的日蓮仏法」や「池田名誉会長信仰」などへのスリカエ
に気をつけるということですね。

仏教の創始者は釈迦ですし日蓮聖人は釈迦への回帰を説いたのだし現代では初期仏教の様子が明らかに
なっているので、上に書いたようなスリカエはもはや批判に耐えることはできないでしょう。

157わめ ◆TJ9qoWuqvA:2006/02/05(日) 09:13:08
 Leoさん、おはようございます。

> >これは師匠の言われる「仏教的信仰」ではないように思いますし、「釈尊の無我などの教え」を例えば
>
> それは前段階かもしれないですが「慧」は捨ててないわけです。また次の段階もあります。

 私もこの点は同様に思うのですが・・・

> >「創価学会の教義」に当て嵌めると「学会的日蓮仏法」や「池田名誉会長信仰」が確立してしまうようで怖いです。
>
> ですので、「釈尊の無我などの教え」などから「学会的日蓮仏法」や「池田名誉会長信仰」などへのスリカエに気をつけるということですね。

 スリカエと本物と出会う比率はハンパじゃなく極端にスルカエが横行しているように思います。

> 仏教の創始者は釈迦ですし日蓮聖人は釈迦への回帰を説いたのだし現代では初期仏教の様子が明らかに
> なっているので、上に書いたようなスリカエはもはや批判に耐えることはできないでしょう。

 私がついつい信(信仰)に否定的(全否定ではないですがw)になりがちになるのが、現実問題として創価学会の会員や他の宗教の信者で、師匠の言われるような「仏教的信仰」をされている方の割合はその他の信仰をしている方達と比べてどのくらいの比率になるのでしょうか。

 「もはや批判に耐えることはできない」には私も同意しますが、これも現実問題として批判を受けた学会員さんは過ちに気付き素直に退会されているのでしょうか。

 私は一度深く信じてしまったことには、たとえ反駁できない批判を受けたとしても簡単には訂正できない方が大半だと思っております。

 ですのでこのような信仰を仏教的に許して(奨励して)いるとしたならば批判的に成らざるを得ません。

158Leo:2006/02/05(日) 11:42:01
わめさん、おはようございます。

>私がついつい信(信仰)に否定的(全否定ではないですがw)になりがちになるのが、現実問題として創価学会の会員や
>他の宗教の信者で、師匠の言われるような「仏教的信仰」をされている方の割合はその他の信仰をしている方達と比べて
>どのくらいの比率になるのでしょうか。

> 「もはや批判に耐えることはできない」には私も同意しますが、これも現実問題として批判を受けた学会員さんは
>過ちに気付き素直に退会されているのでしょうか。

> 私は一度深く信じてしまったことには、たとえ反駁できない批判を受けたとしても簡単には訂正できない方が
>大半だと思っております。

悪徳商法(ちょっとたとえが極端ですが)と同様に、「騙すより騙されるのが悪い」
(騙されたくないのであれば)というのが私の持論です。

ネットやリアルでやっているのが啓蒙というか知識の普及(のお手伝い)ですね。
縁起説や批判的合理主義が参考になればと思います。

身近な例としては「縁起説や批判的合理主義」は学会の非活動のための強力な理論的根拠
になります。

初期仏教の中の初期的「信」を禁止しても効果は少ないでしょう。

>ですのでこのような信仰を仏教的に許して(奨励して)いるとしたならば批判的に成らざるを得ません。

経典では「学会的日蓮仏法」や「池田名誉会長信仰」など奨励している部分はどこにもないです。

包丁が犯罪に使われるからといって料理の包丁を禁止しないのと同様です。


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