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日蓮考察
121
:
わめ
◆TJ9qoWuqvA
:2006/02/01(水) 12:37:33
Libra師匠、皆さんこんにちは。^^
>>117
> わめさんが、「信仰」という言葉を忌避されるのはご自由です。しかし、実
> 際には、仏教において「信仰」という言葉が忌避されてきたという事実はあり
> ません。
信も正信や盲信などで意味が違ってきますから、私もどのような信仰もすべて忌避すべきものとは思っておりませんし仏教的にもそうだと思います。
ただ信仰という言葉の意味がgoo辞書にもありましたように「神仏などを信じ崇(あが)めること。経験や知識を超えた存在を信頼し、自己をゆだねる自覚的な態度をいう。」と言うようなイメージが一般的に定着しているように思いますし、『シャカの教えを自分で確かめてみて(反駁を試みて)、それが「反駁し得ないものとして説」かれているとしか思えない時に生じる』のが「仏教的信仰」であるならば、現代において当たり前にあると思われている「引力」とか「遠心力」に対して”当たり前にある”と思うことも「仏教的信仰」であると言えるのではないでしょうか。
私はこの”当たり前にある”ような(反駁し得ない)ことを「仏教的信仰」と呼ぶことにもまた信仰するということにも違和感を感じるのです。
ブッダの教えも「引力」や「遠心力」も”当たり前にある”ものであって人が生きていくために活用することが大切で、それは”当たり前にある(正しい)”と常識的に捉えていけばよいのではないでしょうか。
そこに至るまでの途中段階として、ブッダの教えを吟味するにあたり信も必要であるのかもしれませんが、それが自身の中で信が確信に、確信が当たり前にあるものとなっていくように思います。
この当たり前に思うことが「清らかで明瞭なこの見解」を正しく理解したということではないでしょうか?
話が前後しますが信仰(信)という精神的な”思い”は、理性・合理的に当たり前に”思う”ことに比べ、その”思い”の強さは弱く不安定であるように私は思います。
私は言葉足らずが多くて、受け手に妄想を生みそうな仏教用語を使うのはなるべく避けたいと思っております。涙
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