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日蓮考察

153Leo:2006/02/04(土) 23:43:53
>このような「信は慧の因」の話は「日蓮考察」スレに戻ってやったほうがよかったかもw汗

わめさん、上のご意見でこのスレに戻りました。

>私が気になったのが「日蓮考察」スレの師匠の93、94の慧と信の関係なのですが、「仏教的信仰」以外の
>信仰も「信は慧の因」が成り立つのではないかと思うことです。

>それと3番目に関わることだと思うのですが上記の慧と信の関係、93の「慧に基づいた信」と94の「信は慧の因」が
>一見ループしちゃっているように思うのです。

>ループを避け慧を中心に少し角度を変えて考えてみると、94の「信は慧の因」(聞法位・信解脱)はやがてそれが
>93の「慧に基づいた信」になると言うことだと考えることもできるのですが、94の「信は慧の因」も
>「慧によって煩悩の一分を断じていることと、如来に対する信が確立して根を生じていることとである」とあり、
>やっぱりそこにも慧は必要であると書かれているように思います。とすると94の「信は慧の因」の前提として
>慧が必要となるのではないでしょうか。

>上記の解釈から94の「信は慧の因」は、信・信仰は一部の理解から曖昧ながらも希望的推測をして、
>その教えに向おうという心の様のように感じますし、そこには盲信的要素が含まれ「信仰を捨てよ」に
>該当する信仰姿勢ではないのでしょうか。

信解脱のポイントは「智慧が不十分な段階でも」「心に少しでも清浄な部分」があるということではないでしょうか。
(たとえ不十分であっても「慧」は必要ですね、慧がなくともよいとなっていないので)

「このような信は、智慧が不十分な段階でも得ることができる。心に少しでも清浄な部分があれば信解脱は可能である。」
http://freett.com/Libra0000/023.htm

>また如来に対する信が確立は何によって起こるのかが私には不明です。

たとえ不十分でも智慧を持って「釈尊の無我などの教えを信ずること」によって「如来に対する信」
が確立するのではないでしょうか。

「これに対し原始仏教の信は、自己の経験したものを信ずることであり、釈尊の教えを聞いたあと生まれる信である。」
「原始仏教の信解脱は慧が劣っていても可能であり、本性浄心を考えなくても、釈尊の無我などの教えを信ずること、
 信解脱を得ることによって、段階的に悟りへと精進努力することができると考える。」
http://freett.com/Libra0000/023.htm


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