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日蓮考察
150
:
Leo
:2006/02/04(土) 00:47:51
>Libraさんの求めるのも論理性じゃないでしょうか。
論理性というよりむしろ思考力といった方が正解でしょうか。
そういえば、私が昔Libraさんに指摘貰ったのは【鰻のように散乱した説】ですね。
(思い出してしまった)
「仏教では、肝腎な論点を外してノラリクラリと鰻のように話を展開する答弁を「鰻のよ
うに散乱した説」[注1]と呼んで忌避しています。」
http://page.freett.com/leo020503/bbslog2_004.html
○真実ならざることは真実ならざることとして否定しなければならない(袴谷憲昭)
http://page.freett.com/Libra0000/011.html
「しかるに、そういう明確な主張命題の提示がないばかりか、重要な問題についても断えず論点をはぐらかして
鰻(うなぎ)のようにぬらりくらりと周辺の問題ばかりに言葉を費すのを仏教では amara(_)-vikkhepa
(鰻のように散乱した説)と呼んで一番恥ずべきこととされております。」
あと、Libraさんが懸念してたのは「真の「論争」の欠如」と「そのたびごとにイロハから始まる」
ということでしたね。
「丸山真男が『日本の思想』において「諸思想間の真剣な対決を促すことあまりにも少な
いわが国の知的風土における思想的「無限抱擁性」あるいは「雑居性」を批判」[注1]し
てからもうずいぶんたちますが、いまだに、わが国には「真の意味での「討論の精神」」
[注2]が欠如しているのかもしれません[注3]。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
日本の論争の多くはこれだけの問題は解明もしくは整理され、これから先の問題が残
されているというけじめがいっこうはっきりしないままに立ち消えになってゆく。そ
こでずっと後になって、何かのきっかけで実質的に同じテーマについて論争が始まる
と、前の論争の到達点から出発しないで、すべてはそのたびごとにイロハから始まる。
(丸山真男『日本の思想』、岩波新書、1961年、p. 7)
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━」
http://page.freett.com/leo020503/bbslog2_004.html
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