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日蓮考察
144
:
わめ
◆TJ9qoWuqvA
:2006/02/03(金) 19:10:29
Leoさん皆さんこんばんは。^^
改めて信仰(信)に関するコメントを読み返して(
>>69
>>70
>>92-97
)みましたが、まだ我説を翻すに至っておりません。涙
>>69
でLibra師匠の言葉として「わたしは、佐倉哲さんや曽我逸郎さんのような仏教理解は正しいとおもいます。そういう理解に到達できるのであれば、どのような道を通ってもよいとおもいます。」とあり、少なくとも佐倉哲氏の仏教理解は研究・考察というアプローチであったと思いますし、私は佐倉哲氏のテキストから「仏教に信仰の必要性」を読み取ることが出来ませんので、正しい仏教理解に必ずしも信仰が必要とは言えないように思います。
ただ
>>93
の「自分の確かめたこと」だけを信ずるのが仏教的信仰とすると、佐倉哲氏のアプローチも仏教的信仰になってしまうのかもしれませんし、ポパーの批判的合理主義を「自分で確かめて」支持するのも仏教的信仰となってしまうと思いますし、物理法則その他諸々を「自分で確かめて」支持することも仏教的信仰となってしまうのではないでしょうか。そうだとすると釈迦の時代はともかく現代においてそれらに信仰という語句を使うのは誤解を生む可能性が高く適切でないように思ってしまうのです。
あるいは仏教に対する仏教的信仰とそれ以外とに何か大きな違いがあり、私はそれに気が付かずに一緒くたにしてしまっているのでしょうか?
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