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日蓮考察

84Libra:2006/01/29(日) 04:24:02
 みなさん、おはこんばんちは。

 以前、別のスレッド[*1]に書きましたように、わたしは、日蓮の中心思想を
支持していますが、日蓮が主張したことのすべてを支持しているわけではあり
ません。

 みれいさんのご指摘のとおり、日蓮を本仏として神格化し、日蓮の言葉を絶
対視してしまっている創価学会員は、残念ながらまだまだ多いのでしょう。し
かし、そのような創価学会員しかいないということもないとおもいます。

 日蓮を本仏として神格化することを創価学会員として明確に拒否した最初の
人物は松戸行雄さんだとわたしはおもいます[*2]。この松戸さんのご主張は、
創価学会の内部では、ほとんどまじめに議論されることもなく無視されてしま
いましたが、外部の学者の中には評価する方もおられました[*3]。残念ながら、
結果的には、松戸さんは組織にいられなくなってしまったのですが、松戸さん
のような方こそ「真の知性人」なのではないかとわたしはおもいます。

 話を本題にもどしますと、日蓮の折伏というのは、《「客観的事実」[*4][*5]
としてその当時通用していた(批判に耐えていた)ことに依拠しつつ、相手の
主張の誤りを論理的に指摘するもの》であったとわたしはおもいます。そうい
う意味において、日蓮の折伏は、まさに「理性的批判」であったとわたしはお
もうのです。

 日蓮が依拠したものの中には、日蓮の時代には通用したとしても、今ではも
う通用しないものが少なからずあります。このことを素直に認めることができ
ない人がもしいるとすれば、そのような方は「狂人」であるといわざるをえな
いでしょう[*6]。

 日蓮も「師なりとも誤ある者をば捨つべし又捨てざる義も有るべし世間仏法
の道理によるべきなり」[*7]といっています。

 もちろん、日蓮の思想のなかには、いまでも立派に通用するすばらしい部分
があるとわたしは考えています。現在においてもきちんと通用することに依拠
つつ、「今一度、日蓮思想の多様性の中から主体的に現代思想として重要な視
点を再選択する作業」[*8]こそが、日蓮の弟子として現代に生きるわれわれに
与えられている最も大きな課題であるとわたしは考えます。


  [*1] 法華経について
     http://page.freett.com/leo020503/bbslog3_002.html

  [*2] 日蓮久遠本仏論批判(松戸行雄)
     http://page.freett.com/Libra0000/062.htm

  [*3] 秋谷会長への手紙(Libra)
     http://page.freett.com/Libra0000/z007.htm
     
  [*4] 客観的事実と信仰
     http://page.freett.com/leo020503/bloglog3_002.html

  [*5] 「客観的事実」とは?
     http://page.freett.com/leo020503/bbslog3_003.html

  [*6] 精神の健全さと病気の違い(カール・ポパー)
     http://page.freett.com/Libra0000/112.html
     
  [*7] 「曾谷殿御返事」、学会版全集、pp.1055-1056。

  [*8] 日蓮における釈尊観と霊山浄土観の諸相(松戸行雄)
     http://page.freett.com/Libra0000/119.html


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