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日蓮考察

102Libra:2006/01/31(火) 05:25:04
 わめさん、おはこんばんちは。

 わめさんがおっしゃるように、ブログに投稿できなかったのは文字数超過が
原因だったのだと推測します。

 goo辞書の「経験や知識を超えた存在を信頼し、自己をゆだねる自覚的な態
度」というのは、仏教では否定される「信仰」だとおもいます。goo辞書のこ
の項目を書かれた人は、おそらく、仏教の信仰というものをご存じないのでし
ょう。

 わたしとしては、「信仰」という言葉を goo辞書 のような意味でのみつか
わなければいけない理由などはないし、実際、>>95 で引用した田村先生もそ
のような意味でつかわれてはいませんので、わたしが「信仰」という言葉を使
ったとしても、そのことによって、わたしの言いたいことが他人につたわらな
くなるともおもえません。そういう意味では、「信仰」という言葉のままでも
よいのではないかとわたしはおもうのですが、もしわめさんがそこにこだわら
れるのであれば、「信仰を捨て去れ」の中の「信仰」を含めて、たんに「信」
と読み替えて頂いても問題はないようにおもいます。「信」は日蓮もつかって
いる言葉なのでよいかもしれません。あるいは、「信仰を捨て去れ」という句
において「信仰」と訳されている原語の「サッダー」のままのほうがよいかも
しれません。

 わめさんは、「「仏教的信仰」と「それ以外の信仰」を区別する場合に、同
じ「信仰」という言葉用いることに私は抵抗感があります」といわれますが、
肯定すべき「信」について述べているところでも、否定すべき「信」について
述べているところでも、初期経典では同じ「サッダー」という言葉がつかわれ
ているということをわたしは示しました。そういう意味では、わめさんは、初
期経典にも同様の抵抗感をお感じになられることとおもいます。わめさんのそ
の抵抗感は、わめさんと初期経典との間のズレに起因するものなのではないで
しょうか。

 少なくとも「信仰を捨て去れ」という句については、その句が埋め込まれて
いる文脈がかなりはっきりしています。この句を、goo辞書のような意味での
信仰を一般論として否定したものであると解釈することはひどく困難だとおも
います。たしかに切り文的にこの句だけを提示されたとすれば、ふつうの人は
そのように解釈するのかもしれませんが、それはたんに切り文だったというこ
とであって、あの句の解釈として誤っているということは動かないでしょう。
そのような切り文は、切り文をした人の思想を伝えるものではありえても、シ
ャカの思想とは無関係というべきではないでしょうか。

 わめさんは、「合理的なことを信仰するとか信じると言うのが適切なのでし
ょうか?」といわれますが、ブッダゴーサも「自分の確かめたことだけを信ず
る」といっていますし、中村先生もそれを「合理主義の立場」[*]といわれて
いますから、「信じると言う」ことじたいが不適切なことであるとは、わたし
にはおもえません。

 残念ながら、もう時間ぎれです(涙)。続きはまたいつかやりましょう。

  [*] 『スッタニパータ』第851詩に付された中村先生の註(前掲『ブ
    ッダのことば スッタニパータ』、p.391-392)を参照。


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