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日蓮考察

117Libra:2006/02/01(水) 04:02:51
 初期経典において、ちがう意味の信仰を、同じ「サッダー」という言葉で表
現しているのは、「サッダー」と言う言葉が、意味の違うそれぞれの信仰を含
みうるより広い意味の言葉だからでしょう。

 初期経典は、シャカの言葉をすべてもれなく記録したものではありません。
実際に話されたさいには、どちらの意味で「サッダー」と言う言葉を使ってい
るのかが文脈から明らかでない場合には、とうぜん説明されたでしょうし、文
脈から明らかな場合には説明はなかったでしょう。

 わめさんが、「信仰」という言葉を忌避されるのはご自由です。しかし、実
際には、仏教において「信仰」という言葉が忌避されてきたという事実はあり
ません。

 「しがみつき、玩び、宝物のように扱い、執着する」というのは、たしかに
仏教では否定されるところの「信」でしょうが、そのことは今の議論とは無関
係だとおもいます。そのようなものではない「信」を仏教は肯定していますし、
それを「サッダー」と表現しています。

 わめさんは、どうしても、「信仰」という言葉を《仏教で否定される「信」》
という意味にのみ限定して使用されたいようですが、そのこだわりは捨てるこ
とができないものなのでしょうか。初期経典の表現やオーソドックスな解釈を
無視してまで、そのことにこだわる必要がどこにあるのか、わたしには全く理
解できません。

 「自分は信仰を捨てた」と自己解釈されるわめさんにとっては、仏教とは信
仰を否定するものでなければならないのかもしれませんし、別の動機があるの
かもしれませんが、いずれにしても、シャカが「信仰」という言葉を否定的な
意味でのみ使ったなどという説にはわたしは賛成いたしません。


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