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日蓮考察

1わめ ◆TJ9qoWuqvA:2005/07/21(木) 11:10:24
このスレッドでは、日本では馴染みの深い、日蓮をテーマに議論していきたいと思います。
日蓮の呼称は、大聖人とか、聖人とか大菩薩など様々ですので、敢えてスレタイは日蓮とさせていただきました。
わめもここでは配慮して、日蓮と書く場合が多いかもしれませんが、配慮以外の他意はないことを予めお断りしておきます。
皆さんは馴染みある呼び方でも、日蓮とだけでも自由にお書きください。

それとわめの掲示板での議論のルールを説明します。
ネチケット尊守は当然して、ここではポパーが提唱する「可謬性」をお互いが認知し、「批判的合理主義」に則って議論をし、互いの知識を高めあっていこう、互いの誤謬を発見し合い、喜びとしようとするものです。
なので、自らの論の正当性を、訴えることに終始したり、他者からの批判を、攻撃されているように受け止めることは避けてください。
それと皆さん限られた時間の中での書き込みになるかと思いますので、レスを催促したりすることは避けてください。レスはむしろテキストエディター等で作成し、何度も読み返す&時間をおいて書き込む等を心掛けてください。

またテーマに関する範囲でその自己認識を提出し、誤謬がないかを指摘してもらうのもいいかもしれません。
ということでよろしくお願いいたします。ぺこ <(_ _)>

最後に「可謬性」及び「批判的合理主義」の簡単な解説を載せておきます。

「可謬性」とは、ポパーが用いた用語で、われわれの知識が完全に真理に到達したかどうかは確証できず、常に誤っている可能性があるということ。
「批判的合理主義」とは、「私は間違っているかもしれない、あなたが間違っているかもしれない、そしてお互いに批判的に検討しあえば、よりよい真理に到達できるかもしれない」とする見解をいう。

2わめ ◆TJ9qoWuqvA:2005/07/21(木) 11:53:47
わめはまず自分の認識に誤謬がないかの確認のため、日蓮久遠本仏論についての意見を提出します。

日蓮久遠本仏論とは、日蓮の本地が自受用報身如来であり、この世界が出来たときからの仏とする見解です。
現在では日蓮正宗のみの見解となっておりますが、創価学会でも以前はこの見解を支持しておりました。
現在の創価学会では日蓮久遠本仏論の見解を非公式に否定したものと受け止めております。

その証左として、発刊年数は西暦1990年代前半としか記憶にありませんが、発刊当時東洋哲学研究所欧州研究部長・ドイツSGI文化本部長・松戸行雄氏が試論として「日蓮久遠本仏論批判」を著作し、日蓮久遠本仏論を批判しております。
創価学会に詳しくない方のための補足になりますが、東洋哲学研究所とは創価学会系の仏教研究団体であり、そこからの著作物は当然創価学会の認可が必要と思われます。

また日蓮正宗においても、日蓮久遠本仏論は第9世日有上人からの見解で、日蓮・日興〜第8世上人までにはなく、第26世日寛上人により、当時宗内が釈迦本仏とする傾向が高くそれを憂い、日蓮久遠本仏論を宣揚されだしたとのことです。

わめも日蓮久遠本仏論の見解をずっと信じておりましたが、1年ほど前よりそれが誤りであると認知しました。

皆様からのご批判、ご意見をお待ちします。ぺこ <(_ _)>

3葉末:2005/07/21(木) 15:37:41
こんにちは(^^♪
よろしくお願いします。
私も今は日蓮久遠本仏論を信じておりません。
(日蓮正宗の根本教義を信じていないということです。)

子供のころ、日蓮大聖人様は末法の御本仏と教えられていました。
でも学校の社会の教科書に載っているのは「日蓮上人」。
そして日蓮宗の開祖くらいにしか書いていなかったですよね。

日蓮さんて二人いるの?見たいな感覚でした。
不思議に思い、帰って母に聞いた記憶があります。

そのとき、母から納得のいく答えはなかったと思います。

私が日蓮さんについて、勉強してみようかなと思ったのが
宗門問題がおきた後、沸き起こった不信がきっかけでした。
創価学会以外の仏教学者によって書かれた「日蓮」についての本を
読んでみました。これがきっかけでいろんな呪縛が解けはじめました。

日蓮さんのことは、ただひたすら法華経に帰依した方ととらえています。
私は日蓮さんにあまり親近感がありません<(_ _)>

4フルナ:2005/07/21(木) 19:59:54
こんばんは。

>現在の創価学会では日蓮久遠本仏論の見解を非公式に否定したものと
わめさんのご意見は正しいと思います。ただ、どうして「非公式」なのでしょう?日蓮本仏論と言えば、学会教義の根幹をなす重要なものだと認識しているのですが。そういう重要な教義が、いつのまにか変更されている──学会には多いと思いませんか?その結果、同じ学会員でも年代によって異なる教義を信じる人達が混在するという、異様な状態が生まれていますね。

ぼくは、日蓮聖人を法華経普及の功労者として評価しています。しかし、後世になって他宗攻撃のマイナス面が強調されるなど、真意はどうあれやり方に問題があったことも事実です。結果、法華経までもが排他的な経典とのイメージを持たれるようになってしまいました。

わめさんとは意見の分かれるところですが、ぼくは法華経を寛容な経典と理解しています。

5わめ ◆TJ9qoWuqvA:2005/07/21(木) 20:52:55
フルナさん皆さんこんばんは^^

とりあえず、日蓮久遠本仏論を否定しながら、創価学会が組織内において何故非公式なのか?についてレスします。

> >現在の創価学会では日蓮久遠本仏論の見解を非公式に否定したものと
> わめさんのご意見は正しいと思います。ただ、どうして「非公式」なのでしょう?日蓮本仏論と言えば、学会教義の根幹をなす重要なものだと認識しているのですが。そういう重要な教義が、いつのまにか変更されている──学会には多いと思いませんか?その結果、同じ学会員でも年代によって異なる教義を信じる人達が混在するという、異様な状態が生まれていますね。

わめは「非公式にしよう」と決めた場に残念ながらいなかったわけですから、本当のところは分かりませんw汗
ですのでわめの推論になりますが、公にするのは都合が悪いことがあるからだと思います。
で、推論のいくつかを書いてみます。

・日蓮久遠本仏論を理論付け宣揚した第26世日寛上人書写の御本尊を、現在の学会では複製し、各学会員の家庭の御本尊としている。
日蓮久遠本仏論が誤りであると宣言することは、この第26世日寛上人の誤りを指摘することになり、第26世日寛上人書写の御本尊をも否定しなければならなくなる可能性が出てくる。これは学会員にとって重大問題です。

・古くからの学会員から、不信の声が上がる。
古い教義は、日蓮は久遠実成の釈迦よりもっと以前からの仏、無始無終の仏であると教えられ、真の仏とされてきたわけですが、これが崩れると草創からの学会員は不信・混乱を起こす可能性が非常に高いと言うことです。

逆に何故今更日蓮久遠本仏論を否定するのかについては、
・以前から(おそらく昭和50年以前より)日蓮正宗教義の日蓮久遠本仏論はおかしいと感じていた。
・日蓮正宗の唯一一人血脈相承を否定するため。
・世界宗教を目指す上で、海外では仏教と言えば釈迦(ブッダ)との認識が強く、日蓮本仏では布教が進まない。
日蓮本仏は日本仏教的象徴として捉え、本来は釈迦が本仏であると海外で宣揚するため。

PS
わめはゆっくりいきますね。<(_ _)>
と、フルナさんとわめとは以前から話し合ってきましたので、ある程度は理解できますが、その他の方にも分かるように、法華経を寛容な経典と理解する理由を提出していただけると、他の皆さんからもレスがもらえやすいと思います。^^

6わめ ◆TJ9qoWuqvA:2005/07/21(木) 21:06:23
あ、少々混同されやすいところがありますねw汗
わめの書き方が悪いかったのか誤解があるといけませんので・・・w
日蓮久遠本仏論と日蓮本仏論とはまったく別のこととまでは言えませんが別個のことです。
日蓮本仏論は、末法の御本仏と言う意味です。
日蓮久遠本仏論は、日蓮が実(本地)は久遠元初自受用報身如来という世界の始まりから仏であったと言う説です。(かなり密教色が濃いですw汗)

7フルナ:2005/07/22(金) 20:12:02
>>6

こんばんは。思いっきり混同していました。正直、その違いがよくわかりません。学会員でも、わかっている人は少ないのでは?

8わめ ◆TJ9qoWuqvA:2005/07/22(金) 20:54:56
フルナさん、皆さんこんばんは^^

> こんばんは。思いっきり混同していました。正直、その違いがよくわかりません。学会員でも、わかっている人は少ないのでは?

これって理論的?には繋がっちゃうのですけどね(^^;;
わめにはよく分かってなくて説明が難しいのですが、日蓮正宗教義として(過去の創価学会も)は、久遠実成の釈迦(五百塵点劫の昔に仏と成ったとされる釈迦)は、誰にこの法を教わった(下種)のか?、実は久遠元初の自受用報身如来の日蓮(久遠元初の元からの仏である日蓮)に、直接乃至間接的にこの法を教わった。
まぁ例えれば鶏(仏としての釈迦)がいるのは、卵(元からの仏の日蓮)があったからだ。
うーん、あまりいい例えではないなw
独自の因果論と言えばいいのか、結果(悟りを開いた釈迦=仏)を出すには、原因(元々の仏の日蓮)があるって感じかな。
まぁこのように教わってきたのです。^^

でも日寛上人の説では、最終的に釈迦と日蓮は同一人物(仏)ってこと(一世界「この宇宙ね」一仏の仏説から逸脱しないためか・・・)になってしまうようですが、ここまでは学会では教えていませんでした。

でこのようなわけで日蓮正宗(多くの学会員も)は、釈迦より日蓮が偉い、だから本仏(真仏)とするわけです。

あと、日蓮御書の上野殿御返事の「末法に入りぬれば余経も法華経も詮なし但南無妙法蓮華経なるべし」との切り文で、法華経も末法には役立たずと誤った解釈を用いて、同じことを言ってますw(^^;;

この臨終まじかな上野さんに日蓮が言いたかったのは、汚れた命の末法の衆生は法華経も余経も同じように見て区別が付かない(詮なし)、唯一法華経こそが大事(但南無妙法蓮華経なるべし)です。最後(臨終の時)まで南無妙法蓮華経と唱えていきなさい。と読むべきで、その文だけ切り文にして、詮なしの詮を処方箋の”せん”と同一とする無茶な解釈をするな!って言うのが、日蓮宗各派(日蓮正宗以外の日蓮宗諸々)の統一見解(多分w)で、そうじゃなきゃ死に向かう上野さんに、何を教えたかったのよ?って言いたいみたいw

ご批判、ご意見お待ちします。<(_ _)>

9わめ ◆TJ9qoWuqvA:2005/07/22(金) 21:16:14
あ 肝心な疑問にちゃんと答えてないかもw汗

> 独自の因果論と言えばいいのか、結果(悟りを開いた釈迦=仏)を出すには、原因(元々の仏の日蓮)があるって感じかな。
> まぁこのように教わってきたのです。^^

これが日蓮久遠本仏論ね。

> でこのようなわけで日蓮正宗(多くの学会員も)は、釈迦より日蓮が偉い、だから本仏(真仏)とするわけです。

これが日蓮本仏論です。

10わめ ◆TJ9qoWuqvA:2005/07/22(金) 22:35:33
あ フルナさんをびっくりさせるのにもう一点w

日蓮正宗や創価学会で唱える題目、つまり南無妙法蓮華経は、法華経の正式経典名?(妙法蓮華経)として唱えているわけじゃないのです。
妙法蓮華経如来寿量品第十六の、文の底に秘し沈められた、「三大秘法の南無妙法蓮華経」とするのです。

日蓮正宗や創価学会では、末法に法華経は功徳無しとして、三大秘法の南無妙法蓮華経(法華経じゃない妙法蓮華経)こそが末法の衆生を救うと説かれます。

日蓮は果たしてどちらの意味で、(南無)妙法蓮華経と唱えられていたのでしょうか?
わめにはわからないですw汗

11フルナ:2005/07/23(土) 19:13:14
わめさん、こんばんは。

日蓮本仏論の解説、ありがとうございました。
ただ、
>これって理論的?には繋がっちゃうのですけどね(^^;;
ぼくもそう感じていたので、結局違いがわからなかったんです。でも、あまり深く追求する気もありません。

>日蓮は果たしてどちらの意味で、(南無)妙法蓮華経と唱えられていたのでしょうか?
素直に解釈していいのでは?つまり、法華経に帰依するという意味しかないと思いますが・・・。

日蓮正宗は、印象として仏教をことさら神秘的なものにしている感じがします。釈尊が最も排したものが、宗門や学会の根幹をなしているということです。

12わめ ◆TJ9qoWuqvA:2005/07/23(土) 19:59:22
フルナさん、こんばんは^^

> 日蓮本仏論の解説、ありがとうございました。
> ただ、
> >これって理論的?には繋がっちゃうのですけどね(^^;;
> ぼくもそう感じていたので、結局違いがわからなかったんです。でも、あまり深く追求する気もありません。

日蓮久遠本仏論批判を非公式にしないと、日蓮本仏論も怪しくなっちゃう可能性大ですね。

> >日蓮は果たしてどちらの意味で、(南無)妙法蓮華経と唱えられていたのでしょうか?
> 素直に解釈していいのでは?つまり、法華経に帰依するという意味しかないと思いますが・・・。

ごく普通に考えるとそうなりますよね・・・
それに法華経と切り離すならわざわざ紛らわしく妙法蓮華経とすること自体変な気がしますし、御書(日蓮のお手紙)のそこかしこに間違わないようにとの説明があってしかる可しですよね・・・

> 日蓮正宗は、印象として仏教をことさら神秘的なものにしている感じがします。釈尊が最も排したものが、宗門や学会の根幹をなしているということです。

が故に末法に釈迦仏法は役に立たないと嫌ったのかもしれませんね。

でもこれで終わっちゃうとお茶の間話、単なる推測の域をでませんので、何か資料があれば書き込んでくださいね。^^ わめも調べてみます。

と、皆さんのご意見も伺いたいな。^^

13青空:2005/08/12(金) 17:27:20

大御本尊って 二処三会の儀式、令法久住の人を定めんが為の儀式でもあるその状況を形として顕わしている。

14わめ ◆TJ9qoWuqvA:2005/08/12(金) 23:48:19
> 大御本尊って 二処三会の儀式、令法久住の人を定めんが為の儀式でもあるその状況を形として顕わしている。

誰が仏教に似せて書いたものかは分かりませんが、その法華経に書かれてある創作仏教説話を元に、日蓮が御本尊を相貌されたってことかな。
(Libra師匠、わめは罰当たりですねw汗)

16わめ ◆TJ9qoWuqvA:2005/08/30(火) 17:51:03
えっと、ちょっと整理して・・・ ここまでの皆さん共々の意見としては、

日蓮は法華経に帰依し、法華経を宣揚した人。

日蓮(久遠)本仏論は、わけわからんミジンコ新興宗教等を除くと、日蓮正宗のみである。
創価学会は、非公式ながら日蓮(久遠)本仏論を否定した。

てな感じじゃないでしょうか。

17わめ ◆TJ9qoWuqvA:2005/08/30(火) 17:54:52
あ、もう一個追加

創価学会では、末法の御本仏としての日蓮は、否定されていないように思います。

18わめ ◆TJ9qoWuqvA:2005/08/30(火) 18:04:01
顕正会も日蓮(久遠)本仏だったw汗

19ほしのしずく☆ ◆85qvGhCCNc:2005/09/01(木) 21:17:25
こんばんは。

>12

>>> >日蓮は果たしてどちらの意味で、(南無)妙法蓮華経と唱えられていたのでしょうか?
> 素直に解釈していいのでは?つまり、法華経に帰依するという意味しかないと思いますが・・・。
>ごく普通に考えるとそうなりますよね・・・
それに法華経と切り離すならわざわざ紛らわしく妙法蓮華経とすること自体変な気がしますし、御書(日蓮のお手紙)のそこかしこに間違わないようにとの説明があってしかる可しですよね・・・

うーん・・・。
Very法華経のイメージがあるなあ、私には。

20みれい:2005/09/08(木) 13:47:04
単純に日蓮宗だとかなり寛容的です。日蓮さんの扱いも本尊の扱いも日蓮宗と日蓮正宗とでは大きく違います。
日興さんが日蓮正宗を立てたと思うのですが、
そのあたりはどうなのでしょう?

http://www.nichiren.or.jp/index.html
「日蓮宗HP」

ちなみにお坊さんの修行は各宗派の中でもきついほうと聞きました。遠くに聞こえるよう大声で何時間もお題目だそうです。だから日蓮系のお坊さんはしゃがれ声の方が多いそうです。
日蓮さんといい、鍋かぶり上人(南無妙法蓮華経を唱えたら焼いた鉄鍋をかぶせるぞと言われ、かぶらされても唱えて相手を参らせたという方)といい、
日蓮系には「根性」と言う言葉が似合う気がします。
当時の病気も飢えも天災もはびこる中、日蓮さんの強気な存在はとても頼もしく思えたでしょうね。
スーパースターに救われた方も多いと思います。

他宗でも法華経は勉強しますが(他宗は例えば一つの経典を拠り所にするとしても、普通に他の経典も勉強して取り入れるんですよね。当たり前なのですが、これが初め意外でした)
「法華経は数ある経典の中でも王様的存在なだけに、扱いも慎重」と話していました。
法華経はそんな元気をくれるユンケル的経典かもしれませんがw(?)、取り扱いを誤るといけないドラッグ的経典になるのかも・・・

21みれい:2005/09/09(金) 00:51:59
http://kibounokaze.hp.infoseek.co.jp/nichiren.html

春田の蛙さんのサイトより。
いったいどれだけ勉強したらこんなに書けるのだ?というくらい膨大な情報量。
すばらしいです。

22わめ ◆TJ9qoWuqvA:2005/09/09(金) 01:19:53
> 春田の蛙さんのサイトより。
> いったいどれだけ勉強したらこんなに書けるのだ?というくらい膨大な情報量。
> すばらしいです。

ホント、すごいですよね。
わめもこのサイトは以前より読ませていただいてます。^^
ついでにトップページも紹介しちゃおっと♪

カルト問題啓蒙サイト『希望の風』
http://kibounokaze.hp.infoseek.co.jp/

23わめ ◆TJ9qoWuqvA:2005/09/09(金) 01:23:10
>>22 リンク♪スレに貼ればよかったかw汗

せっかくみれいしゃんが、このスレタイに相応しいURLを貼ってくれたのにw<(_ _)>

24みれい:2005/09/10(土) 02:21:45
いえいえ、逆に私がすべてのものも貼るべきでした。
お気遣いありがとうございます<(_ _)>

それにしても、何百年も先に自分の名前が語られているなんて、日蓮さんは想像したかしら?w

日蓮さんを知ったついでに、法然さん、親鸞さん、道元さん、空海さん最澄さん、栄西さん、一休さんあたりをみていっても面白いです。
くせものばかりで(^^)このアクの強さがまた(^^)
親鸞さんの息子さんはグレちゃったみたいですね。

25地接:2005/10/19(水) 18:12:38
このスレで良いのか、迷ったのですが・・・

はじめまして。

男子部を経験せずに、壮年部に入会して、数年が過ぎました。
年齢はわめさんと同じぐらいと思います。
活動のこと等、いろいろと、尋ねたいことがあるのですが、
今回は、御書での質問をさせて下さい。

上野殿御返事の「余経も法華経も詮なし」について疑問が、あったのですが
このスレにて納得できました。 そして、今、もうひとつ疑問あるのです。


法華取要抄で、「広略を捨てて、肝要を好む」と、ありますが、
どのように解釈すれば良いのでしょう?

この場合の“広略”とは、「法華経」の全てのことではないのでしょうか?

26わめ ◆TJ9qoWuqvA:2005/10/19(水) 19:25:06
地接さん、始めましてなわめです。^^

> このスレで良いのか、迷ったのですが・・・

すいません、よく似たスレが乱立してまして迷わせてしまったようですね。(^^;;
ここで問題ないです。

> 男子部を経験せずに、壮年部に入会して、数年が過ぎました。
> 年齢はわめさんと同じぐらいと思います。
> 活動のこと等、いろいろと、尋ねたいことがあるのですが、
> 今回は、御書での質問をさせて下さい。

 ☆^∇゜) ニパッ!!
 わめが答えられることは限られているとは思いますが、御書に明るい方もおられますので、ご遠慮なくどうぞ。^^

> 法華取要抄で、「広略を捨てて、肝要を好む」と、ありますが、
> どのように解釈すれば良いのでしょう?

これは法華経の肝要、妙法蓮華経の五字を指しているのでしょうね。^^
『疑つて云く何ぞ広略を捨て要を取るや、答えて曰く玄奘三蔵は略を捨てて広を好み四十巻の大品経を六百巻と成す羅什三蔵は広を捨て略を好む千巻の大論を百巻と成せり、日蓮は広略を捨てて肝要を好む所謂上行菩薩所伝の妙法蓮華経の五字なり』(「法華取要抄」、全集、p. 336)

『日蓮は広略を捨てて肝要を好む』
http://freett.com/Libra0000/z002.html

『続・日蓮は広略を捨てて肝要を好む』
http://freett.com/Libra0000/z003.html

> この場合の“広略”とは、「法華経」の全てのことではないのでしょうか?

「法華経」を含む、釈尊一代聖教の”広略”かも。

27Leo:2005/10/20(木) 00:20:20
>これが日蓮本仏論です。

実は大聖人は釈尊本仏論(釈子)、初期興門教学は「宗祖=上行再誕」とのこと。

初期興門教学には「大石寺流宗祖本仏思想」はなかった(Libraさん)
http://freett.com/Libra0000/z008.htm

また『富士宗学要集』の「本尊三度相伝」(http://nakanihon.net/nb/yousyuu//yousyuu1_2.htm)には

「釈迦と申すは天照太神西天に釈迦と顕はれ諸仏の本誓妙法蓮華経を説き一切衆生悉く是れ吾が子なりと宣ふ、
 日本に又大明神と顕はれ正直に方便を捨つる本願の誓に酬て正直の頭に宿る、
 末法濁世の時は日蓮聖人と顕はれ諸仏の本意を顕はす」

釈迦=天照太神=日蓮聖人 とあって、
(場所と時代の違いで顕われが異なる)

釈迦 < 日蓮聖人 でないですね。
「釈迦より日蓮が偉い」と最初に言い出した人(学会や正宗の教学部の人、折伏教典書いた人など)が
そもそも間違いの始まりだったのですね。

28わめ</b> ◆TJ9qoWuqvA<b>[TRACKBACK]:2005/10/20(木) 00:44:00
Leoさん、こんばんは〜

>>27

もしかしてこれですかね。^^

『でも日寛上人の説では、最終的に釈迦と日蓮は同一人物(仏)ってこと(一世界「この宇宙ね」一仏の仏説から逸脱しないためか・・・)になってしまうようですが、ここまでは学会では教えていませんでした。』
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/sports/20126/1121911824/r8

29地接:2005/10/20(木) 01:19:51
>>26

わめさん、レスありがとうございます。

・・・私の理解力が無いのでしょうが、「よくわからない」が本音です。

この御文だけで考えると「唱題だけで良い」と解釈してしまうのですが・・・

(「そうでは、無い」と理解しているつもりなのですが。)

30わめ ◆TJ9qoWuqvA:2005/10/20(木) 02:38:29
地接さん、こんばんは〜^^

> ・・・私の理解力が無いのでしょうが、「よくわからない」が本音です。

いえ、地接さんはよく理解されてると思います。

> この御文だけで考えると「唱題だけで良い」と解釈してしまうのですが・・・
>
> (「そうでは、無い」と理解しているつもりなのですが。)

その上で理性と心情とが相反されているようですね。

わめからすれば、その「唱題」さえ必要ないとなってしまいます。

31地接:2005/10/20(木) 18:41:25
こんばんは

>理性と心情とが相反されているよう

そ、そんなに、大袈裟さものでは無いのですが・・・


>その「唱題」さえ必要ないとなってしまいます。
(うふっ、
「親鸞さんの『念仏をとなえなくても阿弥陀仏への信心だけで救われる』と
同じなのかな?」と、思ってしまいました。)

このことの、わめさんのお考えを、聞かせてもらえたら嬉しいです。

32わめ ◆TJ9qoWuqvA:2005/10/20(木) 23:53:59
地接さん、こんばんはなわめです。^^

> >その「唱題」さえ必要ないとなってしまいます。
> (うふっ、
> 「親鸞さんの『念仏をとなえなくても阿弥陀仏への信心だけで救われる』と
> 同じなのかな?」と、思ってしまいました。)

わめには信心も必要ないようなw汗 って言うかむしろ邪魔と言うかw

> このことの、わめさんのお考えを、聞かせてもらえたら嬉しいです。

う〜ん、信仰する目的は、救われるとか、悟りを開くとか、成仏するってことだと思うのだけど、結局目的を果たせたらいいと思うわけで、わめは信仰心がその目的を見にくくしているように思うし、教法とか行法も目的達成の邪魔をしているように感じてしまうのです。

だから、一般的な目的達成(冷静・沈着・分析・計画・根性!等々)の手段のほうが、有効な手段ではないかと思っていたりしてw

33わめ ◆TJ9qoWuqvA:2005/10/20(木) 23:56:18
> だから、一般的な目的達成(冷静・沈着・計画性・先見性等々)の手段のほうが、有効な手段ではないかと思っていたりしてw

 これも変かな・・・

 (教えの)指差す方向を見る・知る・生かすかな。^^

34みれい:2005/10/21(金) 01:30:01
横レスすみません。

日蓮考察でなくて、日蓮正宗考察(日蓮本仏考察)を発見したので貼っていきます。

http://d.hatena.ne.jp/kumarin/20050920#p1

35わめ ◆TJ9qoWuqvA:2005/10/21(金) 01:40:38
>>34
みれいしゃん、貼り付けアリガト!(´▽`)
見たらkumarinさんのブログだったわ♪

わめはコメントしてないけど、リンク先が似てることもありたまに覗いてます。(^-^)

36わめ ◆TJ9qoWuqvA:2005/10/21(金) 02:18:39
あ、みれいしゃんのリンク先は別館だったw汗

読み応えあったわ。データベースに追加♪

わめが覗いてたのは本館だったw
http://ngp-mac.com/kumarin/

37地接:2005/10/21(金) 07:52:12
>>32 >>33
わめさんのいわれることにわかる気もするのですが、
それだと、大聖人の意と違う気もするのです。

もう少し、自分で、考えたり、調べてみます。

ありがとうございました。

38わめ ◆TJ9qoWuqvA:2005/10/21(金) 12:43:51
地接さん、こんにちは。^^

> わめさんのいわれることにわかる気もするのですが、
> それだと、大聖人の意と違う気もするのです。

わめは、人々を救いたいと言うのが大聖人の本意であり、それにはブッダの教え以外にないと思われたのではないかと思うのです。

> もう少し、自分で、考えたり、調べてみます。

自分で考えることは大切ですね。
大聖人の仏法は、理にかなうかどうかがポイントではないかと思います。

 >>34 でみれいしゃんが貼り付けてくれたkumarinさんのブログなど、大変参考になるかと思いますので、よかったら見てください。

> ありがとうございました。

いえいえ、またいつでも書き込んでください。(*´∇`*)

39マターリ:2005/11/12(土) 10:36:27
日蓮大聖人の御文について色々考えています。↓この御文を殺人教唆と言う
アンチもいます。しかし私は、「謗法をしてはいけない」という事を強調して
言っておられるのでは?と良い方に解釈したいと思っています。
しかし、この御書を何度も拝読すると、法華経の敵に対する「怒り・憎しみ」
という感情も同時に込められていることを完全否定できません。

>不殺生戒と申すは、是の如き重戒なれども、「法華経の敵になれば、
此れを害するは第一の功徳と説き給う」。・・・ 故に仙予国王は五百人
の法師を殺し・覚徳比丘は無量の謗法の者を殺し・阿育大王は十万八千の
外道を殺し給いき、此等の国王・比丘等は閻浮第一の賢王・持戒第一の
智者なり、仙予国王は釈迦仏・覚徳比丘は迦葉仏・阿育大王は得道の仁
なり(秋元御書P1075、15行目〜)

この御文から考えると、謗法の者や、外道の者は殺してもかまわない、
とも解釈できるので、困ってしまいます。

他にも考えさせられる文があります。↓

建長寺・寿福寺・極楽寺・大仏・長楽寺等の一切の念仏者・禅僧等が 寺塔
をば焼きはらいて彼等が頚(くび)を由比ヶ浜にて切らずば、
日本国必ず滅ぶべしと申し候了ぬ。−撰時抄・真翰存在(P287、13行目〜)

この御文では、大聖人が実際に言った事実として書いてありますので、
秋元御書よりも、更に過激なお言葉だと思っています。慈悲をもって
書かれた言葉だと思っていましたが、何度くりかえして拝読しても
念仏者・禅僧に対する憎しみの心が伺えるのです。

40Leo:2005/11/12(土) 22:21:11
マターリさん、こんばんは。

>この御文から考えると、謗法の者や、外道の者は殺してもかまわない、
>とも解釈できるので、困ってしまいます。

「富士門流の掲示板」見ていたら、御書のそのような部分は涅槃経をもととする「ポア」思想とのことです。
現代、原理主義的に(完全に)「御書根本」「大聖人直結」でそのような部分を用いるとそれこそ大変なことになってしまいます。
現代人は「自分の頭で考えて」取捨選択すべきでないでしょうか。大聖人は言います、

「師なりとも誤ある者をば捨つべし又捨てざる義も有るべし世間仏法の道理によるべきなり」
(「曾谷殿御返事」)

41マターリ:2005/11/12(土) 22:35:47
>Leoさん、レスありがとうございます。自分の頭で取捨選択するよう
努めてみます。m(__)m

42Leo:2005/11/12(土) 22:44:17
A) 大聖人の教え一字一句(原理主義的に)まもる。
B) 大聖人は仏教を復興しようとしていたのだから現代知りうる情報に照らし合わせてそれを試みる。

一瞬A)の方が尊いように思えるでしょう。しかしB)の方が大聖人の意にかなっているように思えるのです。
A)は静(死)の信心、B)は動(生)の信心といえましょうか。

43Leo:2005/11/12(土) 22:53:59
マターリさん。

人間誰しも間違いはあって、私の考えにも間違いは多々あるでしょう。
重要なことは各人が自分の頭で考え各人が自分の選択を行うことだと思います。
色々なことで納得いかないのに従うということはよくないことだと思います。

各人が自分の頭で考え各人が自分の選択を行えば(自然なことかもしれませんが)、
個人だって、宗教団体だってだんだんよくなっていくと思います。

44Leo:2005/11/12(土) 23:08:24
連続投稿になってしまいますが...

宗教団体や宗教というと、一般的には、自分で考えるのが限界だから(自分で考えるのはやめて)、
超越的存在や指導者におまかせしようという面があります。
ですので私の言ったことは矛盾です。なのにどうして矛盾することを言うのかというと、
超越的存在や指導者は直接的にはなーんもしてくれないからです(少なくとも私の知っている範囲では)。
で各自自分でなんとかしなければならない。ということでそういう発言をしました。

45マターリ:2005/11/13(日) 21:05:08
あるメールマガジンからの転記です。↓

日蓮より先の時代、天台の源信(942〜1017)の書物に「南無妙法蓮華経」
との題目が見られる。
この「南無妙法蓮華経」の題目を、ひたすら唱える事を勧めたのが日蓮で
ある。

これが本当だとすると、日蓮大聖人が「南無妙法蓮華経」を発明したという
説がくつがえされてしまうのですが、皆さんの見解はいかがでしょうか?

46わめ ◆TJ9qoWuqvA:2005/11/13(日) 21:24:52
>>45

マターリさん、南無妙法蓮華経は鳩摩羅什が法華経の題号とされたのが最初じゃないかな?

『題目は呪文ではない』
http://freett.com/Libra0000/z024.html
『題目論メモ』
http://freett.com/Libra0000/z019.html

47わめ ◆TJ9qoWuqvA:2005/11/13(日) 21:26:50
>>46

鳩摩羅什が訳した法華経の題号は妙法蓮華経ですね。(南無なし)(^^;;

48湛寂:2005/11/13(日) 22:27:43
>>45
「南無妙法蓮華経」を広く他にも勧める、このことを初めてしたのが日蓮であるという主張はされているが、
「南無妙法蓮華経」を日蓮が発明したという説はそもそも最初から存在していない。

49マターリ:2005/11/14(月) 18:14:02
>わめさん、湛寂さん、レスありがとうございます。湛寂さんは、他の
掲示板での「湛寂の潭に溺死さん」でしょうか?

>わめさん、HPを拝見しました。「南無妙法蓮華経」は、釈尊の教えの
エッセンスが凝縮されている、とのことでした。しかし、法華経自体が
釈尊滅後、500年経過してから作られた創作文学である、ということの
ようです。また、日本に入ってきた仏教は、大乗経のみで、釈尊直伝の
小乗経が全く日本へは入って来なかったとのことです。

これらの事を考慮に入れた場合、「南無妙法蓮華経」の有効性をどのよ
うに考えたら宜しいのでしょうか?私としては、「南無妙法蓮華経」を
より確信をもって唱えたいと思っています。

50わめ ◆TJ9qoWuqvA:2005/11/15(火) 04:16:09
マターリさん、おはようかこんばんはか悩む時間のレスですw(^^;;

ボリュームがあるかもしれませんが、『法華経について』スレを、リンク先をも含め一度目を通して頂くのがいいかもしれないと思います。m(_ _"m)ペコリ
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/sports/20126/1120491109/

51湛寂:2005/11/16(水) 01:28:03
>>49
湛寂の潭に溺死です。
どうにも長いのと、誤解を生みやすいため省略することにしました。

>日本に入ってきた仏教は、大乗経のみで、釈尊直伝の
>小乗経が全く日本へは入って来なかったとのことです。

阿含経が最初期から伝わってきていますので大乗経のみということはありません。
また小乗も部派の洗礼を受けており、直説と捉える見方には飛躍があります。

スッタニパータは近年になってからようやく伝わったようです。

52マターリ:2005/11/16(水) 23:46:51
>湛寂さん、レスありがとうございます。阿含経は伝わっていたんですか。
小乗経が直説でないということですが、そうしますとスッタニバータが
直説と考えて宜しいのでしょうか?またスッタニバータとは、漢字では
何経と読むのでしょうか?

53湛寂:2005/11/17(木) 04:44:06
スッタニパータもいわゆる小乗経です。
ただシナや日本には伝わらなかった、というだけのことなのです。

スッタニパータは最も成立が古いとされているため、
重要視される経典ではありますが、直説と言えるわけではないようです。
直説を類推することは色々為されていますが、誰もが認められるような本当のことは
残念ながら誰にも分からないし、確定することができないのが現実です。

また、スッタニパータを漢字ではなんというのかということですが、
スッタニパータの中の一部分は漢訳されて義足経と名づけられていたりしますが
スッタニパータ丸ごと全部は漢訳されてきませんでしたので、特に決まってはいないと思います。

54マターリ:2005/11/17(木) 19:03:29
>湛寂さん、教えていただきまして、ありがとうございます。直説がどう
いうものであったか、誰にもわからないんですね。しかしスッタニパータ
が最も成立が古い、ということですので、図書館から本を借りてきて勉強
してみます。

55湛寂:2005/11/18(金) 03:49:53
本当のところはわかりません。
ただ四諦八正道については大方の学者が直説であろうと認めているようです。
ちなみにスッタニパータは岩波文庫から
中村元 訳『ブッダのことば』というタイトルで出ていますので
図書館で探す時、参考にしてください。

56マターリ:2005/11/19(土) 12:54:33
>湛寂さん、レスありがとうございます。図書館に行ったら「ブッダの泉
」著:高瀬広居という本があり、スッタニパータの文がいくつか出ていま
した。これから読むところです。
これを読んだ後、中村元 訳『ブッダのことば』も探してみます。

57みれい:2006/01/17(火) 16:48:46
母の仏壇に、父から「北川前肇(立正大学教授)著 書簡からみた日蓮(NHK出版)」
が供えられていました。バリ学会員婦人部おかんは学会以外の本だから読まないだろうけど(むしろ邪宗の本として即行ゴミ箱行きでしょう)、生前に読んでほしい本でした。
供えた後、私が読ませていただきました。

さて、タイトルどおり、「書簡からみた日蓮」ですが、
日蓮さんからいろんな方へ送ったお便りから日蓮さんの人物像が浮かび上がる、という趣旨の本です。

その本の後半部分、寺泊の日蓮さんから富木さんへのお便りが寺泊御書で、後に「開目抄」や「観心本尊抄」の伏線ともなる重要な教義が散りばめられている、とのこと。

1、まず富木さんと日蓮さんとの関係。かなりの信頼関係であった(という表現が適切かわかりませんが)ことが伺える。
富木さんは数々の法難に遭っている日蓮さんの苦悩を良く知っている。
日蓮さんも富木さんには愚痴(というか嘆き)をこぼせる、という間柄であったこと。

2、起きている法難にあたって。日蓮さんは法華経の法師品、安楽行品、また涅槃経の憍陳如品より引用されている。
(・法華経からは釈迦入滅後において、怨嫉を抱く人がいるということ、涅槃経からは釈尊に対して怨(あだ)をなす人がいる、ということ。
・末法において、法華経を広める自己が、法難を受け、釈尊に背く諸宗の人々が迫害をなす、という日蓮の指摘)

3、諸宗が間違っているという点。
 (日蓮さんの経の位置づけについて)

4、日蓮さんの法華経の広め方に間違いがあり、その為に法難に遭ってしまうという批判をされている点。
・日蓮は教えを受ける相手の能力(機根)を知らないで、強引な教義を立てているから、法難に値う(←原文の漢字のまま)。
・法華経の勧持品に基づく法華経の実践は、位の高い菩薩にあてはまる行為であるから、日蓮のように位の低い修行者は安楽行品の実践によるべきで、これに背いている。
・日蓮の主張は、ただ経典の優劣を論じたり、教義の表面にかかわるだけの問題(教相)を論じて、自己の内面で捕らえる、宗教的な喜び(観心)については、少しも触れていない。

○これらの事を日蓮さん自身が富木さんへのお手紙に添えたという点で、日蓮が自己批判を富木さんへ開示できたということではないか。

○これらの批判に回答を示しつつ、日蓮の生き方は、勧持品の20行の偈文を持って法華経を広め、それによる守護を受けているとしている。

以上、かなり簡略したので、ズレがあったらすみません。

寺泊御書
http://nakanihon.net/nb/gosyo//teradomarigosyo.htm

法華経勧持品
http://nakanihon.net/nb/hokekyou/wm13.htm

法師品
http://nakanihon.net/nb/hokekyou/wm10.htm

安楽行品
http://nakanihon.net/nb/hokekyou/wm14.htm

58みれい:2006/01/17(火) 16:55:15
このあたりの教議は学会ではどのように教えているのでしょうか?

当時からすでに現代と同じような批判がされているあたりに注目です。

59Leo:2006/01/17(火) 22:53:10
みれいさん、こんばんは。

>このあたりの教議は学会ではどのように教えているのでしょうか?

受難の理由は「開目抄」で説明されているということなのだと思います。
たとえば、
創価学会教学部編 『教学の基礎 ◇仏法理解のために◇』聖教新聞社、2002年
などでは「寺泊御書」に触れられてないです。

『教学の基礎』pp.44-45

「大聖人は「開目抄」で、御白身が受けられた大難を挙げながら「難を忍び慈悲のすぐれ
たる事は・をそれをも・いだきぬべし」(御書二〇二㌻)と大難を忍ぶ慈悲の境地を示
れ、「詮ずるところは天もすて給え諸難にもあえ身命を期とせん、……我日本の柱となら
む我日本の眼目とならむ我日本の大船とならむ等とちかいし願やぶるべからず」(御書ニ三
ニ㌻)と、大難を越えて末法の一切衆生を救おうとの大願を師子吼されました。

(中略)

すなわち、大聖人は、末法万年の民衆を救おうとの大慈悲のゆえに大難を忍ばれ、御自
身の凡夫の身に仏界を顕されました。法華経に説かれているとおりに幾重もの大難を受
け、そのすべてに耐え抜いてこられた勝利の姿をもって、一人の凡夫が生命に本来具わる
仏界の偉大な力を涌現できることを証明されたのです。」

>当時からすでに現代と同じような批判がされているあたりに注目です。

「寺泊御書」に注目するのはポイントかもしれません。
また何かみつかったらまたカキコします。では。

60みれい:2006/01/19(木) 01:16:34
Leoさん、
とってもとっても頼りになる情報、ありがとうございます。さすがです。
千手観音なみの手際のよさ(^^)
またお願いします。

なるほどです。
寺泊御書は、その本を書かれた方でも、理解が難しそうな感じでした。
日蓮さんと富木さんの二人の心理的な部分が大きく左右しそうな内容ということかな。

私は安楽行品と勧持品の違いもよくわかっていないので、ちょっと法華経の旅に行ってこようと思います。
ここか、ペガサスさんのところか、チョンガーさんのところをうろうろしていると思います。

61ドプチェク ◆UILiye31iI:2006/01/19(木) 20:20:02
みれいさん、お久しぶりです。
実につまらない事ですけど、私もほんの少しばかり、自分なりに思っている事を述べさせていただきます。
北川前肇氏の「書簡からみた日蓮」は、私も持っていますよ(と言っても、みれいさんと違って、じっくり読んだわけではないのですが^o^;)。

>1、まず富木さんと日蓮さんとの関係。かなりの信頼関係であった(という表現が適切かわかりませんが)ことが伺える。
>富木さんは数々の法難に遭っている日蓮さんの苦悩を良く知っている。
>日蓮さんも富木さんには愚痴(というか嘆き)をこぼせる、という間柄であったこと。

不勉強者の私には、詳しい事はわかりませんが、それは大いにあり得たのではないか?と思います。
創価学会・日蓮正宗といった富士門流の系統では、日蓮聖人の事を全知全能の神のような存在としてしか捉えていなくて、血の通った生身の一人の人間として見ていない為、彼ら(創価学会や日蓮正宗の人間たち)の話に接していたら、聖人はまるで血も涙もない機械かロボット、もしくは、顔のない冷たい蝋人形のようなイメージしか沸いて来ません。
また、すごく傲慢不遜な人間であるかのようにも思えて来ます。
しかし、実際の日蓮聖人という人物は、彼らの言うようなイメージの人間とは全然違い、聖人自身も内心で様々な葛藤を抱きながら、弟子・信徒たちと共に泣いて笑って心を通わせ、気持ちを共感し合った実に人間らしい人だった事は、学会関係や正宗関係以外の書籍を読めばよくわかります。
また、御書にしろ、学会式や正宗流ではなく、素直に読んで行きさえすれば、日蓮聖人の人となりがわかると思います。
結局、学会や正宗の人間たちは、日蓮聖人を全知全能の神のような存在=久遠本仏として捉えるという間違った解釈の仕方による先入観から抜け出せないので、それ故に、信徒の富木常忍の事も飽くまで聖人より格下としてしか見れず、多分、彼らは「大聖人(彼らは日蓮聖人の事をそう呼んでいますね)が信徒に向かって愚痴をおっしゃる筈がない」「信徒に大聖人の境涯がわかるわけがない」と、そのように言うのではないかと。
とにかく、教義的な解釈の仕方を誤っている学会や正宗の話は、まったくのナンセンスである事が多いのは確かだと思いますね。
ちなみに、『仏教の思想12 永遠のいのち<日蓮>』(紀野一義・梅原猛 角川文庫 1997年)で、紀野一義氏も北川前肇氏と同じような事を述べられていました(梅原氏との対談の中で)。

まぁ、私の意見はそのようなところです(^_^;)。
頑張って下さい!(^_^)

62みれい:2006/01/21(土) 02:49:15
ドプチェクさん、
おひさしぶりです(^▽^)ノ
お元気そうでなによりです。

私こそ、カタツムリ並の進み方で、すこーしずつ進んでます。
そもそも、文章能力からまだ要進歩です^^;)

>日蓮聖人を全知全能の神のような存在=久遠本仏として捉えるという間違った解釈の仕方による先入観から抜け出せないので、

日蓮さんに対して、本当に、そうですよね。
今でこそ私も「日蓮さん」と呼んでいますが、昔はそんなことしたら罰が当たると思ってました。
ついでに「池田さん」も「池田先生と呼ばなくちゃ罰が当たる」となぜかインプットされてました。

日蓮本仏と釈迦本仏ではかなり「仏」の意味合いが違うということを、他の仏教から「仏」について教わっているうちにわかってきました。
日蓮正宗と創価学会では、「仏」の意味も神格化しているというイメージは私も感じます。
これは、偶像の「仏」ともまた違うものですね。
そして活動している人(地湧菩薩としてますかね)も、「悪を倒す聖なる戦いをする人々」のイメージを植え付けられている感じです。
なんだかそのままキリスト原理主義みたいですね。
そもそもそれですでに縁起の思想はないわけで、他の仏教からこの二つだけは大きくかけ離れている部分ですよね。

>信徒の富木常忍の事も飽くまで聖人より格下としてしか見れず

これも、他の仏教では師弟の絶対服従的なものはないはずですね。
あくまでも仏教で師弟になるのは(帰依としても)、法脈を受け継いでゆくことで、服従ではないはず。
質問や発言の場は徹底的に与えられるはずかと。日蓮さんなんてとことんまでやりそうです。
絶対的な拠り所にさせることを日蓮さんが望んでいたかどうかという部分を、私もあらためて読んでみようと思います。
そして、ほろりとこぼしているのが寺泊御書らしく。
山を越え海沿いを歩きようやく寺泊までたどり着き(あそこの土地は海の後ろがすぐ山です)、これから佐渡島に渡るという手前で、日蓮さんもこの道のりはかなりきつかったようです。

私もその本で日蓮さんがいろんな方に暖かい言葉をかけていたのを読んで、
感強情っぱりな印象はそのままだけれど、ニュアンス的には今までと違う解釈があるのではと感じるようになってきたのでした。
ただ、法華経でもドギツイ言葉があり、加えて日蓮御書でもやはり勧持品によった日蓮の過激な言葉が飛び交います。
右派、また原理主義に働きかけやすい要素はもっていたかな、と思います。
(なんだか私はチェ・ゲバラとかぶる)

梅原猛さんのお名前も、仏教を調べているとよく出てきますね。
図書館で探してみます。

ありがとうございます(^-^)

63Leo:2006/01/21(土) 23:58:37
みれいさん、こんばんは。
ドプチェクさん、お久しぶりです。

みれいさん、
わめさんのブログの方にコメントしました。
http://wame.seesaa.net/article/10650360.html

64みれい:2006/01/23(月) 01:29:58
Leoさん、

ありがとうございます。
コピペしてペガサスさんの所にも貼らせていただきました。

65Leo:2006/01/25(水) 22:18:08
みれいさん、わめさん こんばんは。

ブログの方のコメントの続きです。

すでにご存知の情報が多いかもしれませんがこんな本があります(教学の再考向け)。

○直人(なおひと)さん(ROCKさん)の出された本はこれです。
『大石寺教学の研究』平楽寺書店 (私はまだ買ってないんですが...(^^;)
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4831310832/qid=1138193875/sr=8-2/ref=sr_8_xs_ap_i2_xgl14/249-5809110-7589927#product-details
・大石寺教学の批判。

○友岡雅弥さんの初期仏教の本『ブッダは歩むブッダは語る』第三文明社
http://item.rakuten.co.jp/book/1301746/
・初期仏教の紹介。

○山中講一郎さんの『 日蓮伝再考(2)伝説の長夜を照らす 』報恩社 /平安出版 (こちらもまだ買ってないです...(^^;買いたい)
http://item.rakuten.co.jp/book/1716026/
・日蓮(大)聖人の再考。
『日蓮自伝考―人、そしてこころざし―』水声社 が3月出版されるそうです。

○法華経のサンスクリット語からの訳
松濤誠廉、梶山雄一、丹治昭義 訳 『大乗仏典4 法華経Ⅰ』 中公文庫、中央公論新社、2001年
松濤誠廉、梶山雄一、丹治昭義 訳 『大乗仏典5 法華経Ⅱ』 中公文庫、中央公論新社、2002年
・方便品の十如是がないし、冒頭が「オーン」(インドの聖なる言葉)から始まるのでたまげます。

○創価学会員のご友人がおられるという大学教授が書いた本
末木文美士 『日蓮入門 − 現世を撃つ思想』 ちくま新書、筑摩書房、2000年

66Leo:2006/01/25(水) 22:26:09
(ちょっとご注意)

私が友岡雅弥さんや山中講一郎さんの書籍を紹介したからといって別に彼らはアンチでは決してありません。
彼らは創価学会思いの方だと思っております。
私と立場は違うけど(私がこのようなことを言うのはおこがましいですが)ですが真実を求める姿に共感ということで。

67Leo:2006/01/25(水) 22:28:56
うう。『 日蓮伝再考(2)伝説の長夜を照らす 』の(2)は(1)だった。

68Leo:2006/01/25(水) 23:25:14
参考ご発言(1)

顕正居士さん(顕正会とは無関係の無宗派の方)曰く:
「>顕正さんはどんな立場(宗派?)の方なんですか?

  大乗仏教です。根本教理は「人法二無我」です。霊魂とか物自体は存在しないと云う立場です。龍樹−月称−宗喀巴と継承する中観帰謬論証派が最高の理解であると考えます。
ローカル(日本仏教的)には日蓮主義です。何故かと云うと浄土教は絶対者、密教は有我、禅は唯心で相対的に天台・日蓮が中観派に近い。
  中で日蓮は実践的には唯色論的だからです。
縁起(釈尊)や空性(龍樹)の説は霊魂や物自体の否定で唯心論ではないが大勢はそういう方向が盛んになった。
日蓮的唯色論も自然科学、社会科学的発想を促すのでなく、呪物崇拝、呪文信仰に転落して来た。唯心論と迷信を払拭したあとに残る大乗思想、法華思想は十分現代でも信仰に価すると云う立場かな。」
http://page.freett.com/leo020503/note005.html
「要するに

『現実版・創価学会会則前文』
>釈尊に始まる仏教の慈悲と平和の精神は、大乗仏教の真髄である法華経に
>集約され、一切衆生を救う教えとして明示された。日蓮大聖人は、法華経の
>根本を三大秘法として顕され、未来永遠にわたる人類救済の道を確立された。
が、
『理想版・創価学会会則前文』
釈尊がお説きになった無我の教えは、聖龍樹の空性の教えに発達し、法華経は
万人平等(一乗)の精神を唱えた。聖龍樹の空性の教えと、法華経の万人平等
(一乗)の精神とは不分離であることを、羅什三蔵は中国に伝え、智者大師が
両箇の教えをよく合揉した後、日本において発達した法華思想を、日蓮は世界
に宣布せよと述べた。わたしたちは日蓮のこの訓えを信じるがゆえに、空性の
教義と一乗の精神とを世界に伝えたいとおもう。

ていどになれば好いんでないでしょうか?」
http://page.freett.com/leo020503/bbslog001.html

69Leo:2006/01/25(水) 23:26:40
参考ご発言(2)

Libraさん曰く:
「わたしは、佐倉哲さんや曽我逸郎さんのような仏教理解は正しいとおもいま
す。そういう理解に到達できるのであれば、どのような道を通ってもよいとお
もいます。

 わたしは、「法華経・日蓮という道を通らなければそこには到達できない」
(A説)とはおもいませんが、「法華経・日蓮という道を通ってしまうとそこ
には到達できない」(B説)という意見には賛成できません。ネット上にもB
説を主張する人がいるので、そういう人には反対していきたいとおもっていま
す。

 わたしの場合、法華経とか日蓮という道を通ってそこに到達しました。もし
その道に出会っていなければ、どうなっていたかわかりません。そういう意味
では、創価学会員の子供として生まれたのはラッキーだったと思っています。

 わたしは、これからも、「法華経・日蓮という古典的な道も、けっこう面白
いですよ」といっていきたいなとおもいます。」
http://page.freett.com/leo020503/bbslog3_002.html

70Leo:2006/01/25(水) 23:33:29
(Libraさんが引用した)「信」について

 「『法華経』でも、信仰は各所に強調されている。しかしそこで
  の原語は、シュラッダー(信)か、アディムクティ(信解)で
  ある。他にプラサーダ(澄浄)が一つか二つ使われている。こ
  れら三語とも、バクティのような絶対者にたいする絶対信を意
  味しない。仏道への入門にさいし、心をあらため、心を決め、
  心を浄めることをいう。その上で修行にはげみ、智慧をみがい
  て悟りに達するのである。
   右のごとき信仰の観念は仏教を一貫して流れるもので、ナー
  ガールジュナ(竜樹)の『大智度論』巻第一に、「仏法の大海
  には信を能入と為し、智を能度と為す」と説かれているところ
  である『法華経』でもこの基本線は保たれているので、たとえ
  ば、分別功徳品第十六(第十七)で一念の信あるいは信解を強
  調しながら、それらは五波羅蜜をこえるが、「般若波羅蜜は除
  く」と説かれている。つまり、悟りにいたる(パーラミター)
  六つの実践行為(六波羅蜜、六度)のうち、智慧(プラジュニ
  ャー 般若)のみは最後的なものとして信の上に置かれたので
  ある。
  (田村芳朗『法華経』(中公新書196)、中央公論社、1969年、
   p.92、※原語表記は省略して引用した)」
  http://freett.com/Libra0000/Beat_Me_501_521.html

71みれい:2006/01/26(木) 23:28:29
Leoさんこんにちは。またお世話になります。

>浄土教は絶対者、密教は有我、禅は唯心で相対的に天台・日蓮が中観派に近い。

本文と関係ないかもしれませんが、このあたりはなんだか疑問が残ります。
たぶんネットなどでさらっと検索するとそのまま当てはまるのでしょうが、
掘り下げていくと違う気がします。
あくまでも超浅学の私の印象なのですが。

>『理想版・創価学会会則前文』
>釈尊がお説きになった無我の教えは、聖龍樹の空性の教えに発達し、法華経は
>万人平等(一乗)の精神を唱えた。聖龍樹の空性の教えと、法華経の万人平等
>(一乗)の精神とは不分離であることを、羅什三蔵は中国に伝え、智者大師が
>両箇の教えをよく合揉した後、日本において発達した法華思想を、日蓮は世界
>に宣布せよと述べた。わたしたちは日蓮のこの訓えを信じるがゆえに、空性の
>教義と一乗の精神とを世界に伝えたいとおもう。

>ていどになれば好いんでないでしょうか?」

賛成です。そしてそれは日蓮宗もしくは立正佼成会なのではないかと思うのですが、違いがあるのでしょうか。日蓮本仏では成り立たないのではと思います。
(Libraさんもそうおっしゃられているような)
あと、素朴な疑問ですが、今まで創価学会で「空」について語られていたでしょうか?

また天台宗はもちろんですが、曹洞宗道元さんも法華経は扱っていますし、浄土真宗親鸞さんも法華経の中から引用した言葉を使われています。法然さんもそうだと思いますが、皆天台で法華経は学んだはず。
たぶんこれだけメジャーな経典は現代で把握していない宗派はないのではと。
そして日本の多くの新宗教は大規模団体からカルトまで、法華経を取り扱っているはずです。
日本発信で法華経を取り扱うことと、一つの柱として法華思想団体が存在するのと、一つのグループが専売特許のように振舞うことと、また少し違うような気がします。

>わたしは、「法華経・日蓮という道を通らなければそこには到達できない」
(A説)とはおもいませんが、「法華経・日蓮という道を通ってしまうとそこ
には到達できない」(B説)という意見には賛成できません。ネット上にもB
説を主張する人がいるので、そういう人には反対していきたいとおもっていま
す。

> わたしの場合、法華経とか日蓮という道を通ってそこに到達しました。もし
その道に出会っていなければ、どうなっていたかわかりません。そういう意味
では、創価学会員の子供として生まれたのはラッキーだったと思っています。

B説納得です。ご縁を無駄にしない(というか無駄はないとする)考え方は賛同します。
また、私の場合は学会をご縁としてその後離れてからあらためて仏教や法華経のご縁をいただきましたが、学会がもし最終地点であったとしたら、今の考え方はなかっただろうと思います。

Libraさんの場合は、日蓮さんへのご縁として学会の教義はすでに通り過ぎ、他の方達のように独自に仏教、法華経の展開を確立されていらっしゃいます。
やはり現時点での創価学会問題は、通過させずそこへ留まらせるところにあるかと。

「或る人日蓮を難じて云く、機を知らずして麁議を立て難に値ふと。或る人云く、勧持品の如きは深位の菩薩の義なり。安楽行品に違すと。或る人云く、我も此の義を存すれども言はずと云云。或る人云く、唯教門計りなり。理は具に我之を存すと。」寺泊御書

これらは当時の方々がLibraさんがおっしゃりたい事にとても似たことを、日蓮さんに伝えたのではと思いますが、
結局
「勧持品に云く「諸の無智の人有て悪口罵詈し」等云云。日蓮此の経文に当れり。汝等何ぞ此の経文に入らざる。」(この「日蓮」の箇所が「学会」になるわけですが)
になってしまっているように感じるのですが、その後学会内部で発展はあったのでしょうか?ちょっとはLibraさんの手紙に目を通してくれたのかなぁと。

法華宗団として成り立たせるならば安楽行品ももう少し力を注いでくれたらいいのではと思います。(そしたら日蓮仏法と離れちゃうのでしょうか?)

72Libra:2006/01/27(金) 04:21:11
 みれいさん、みなさん、おはこんばんちは。

 2月に入ってしまうと、しばらくはここに来れそうにありませんので、一瞬
だけ参加してみようとおもいます。

 みれいさんは、あいかわらず鋭いことを書かれていますね。

 道元と親鸞についてはわたしも興味がありますが、話が別の方向にそれると
いけないので今回はおいておきます。

 「法華宗団として成り立たせるならば安楽行品ももう少し力を注いでくれた
らいいのでは」というみれいさんのお考えも、検討に値する立派なアプローチ
だとおもいます。しかし、わたし自身は、逆方向のアプローチもまた検討に値
するのではないかと考えています(みれいさんのアプローチの妨げにもならな
いとおもいます)。

 わたしは、日蓮の「宗教の生命は、〔中略〕折伏逆化にこそある」[*1]と考
えています。日蓮の折伏は「理性的批判」です。

 みれいさんのアプローチとの対比でいえば、わたしの考えは「勧持品をもう
少し正しく実践してもらいたい」というふうに表現できるかもしれません。

 勧持品に相当する考えは、初期経典にもみられるようにおもいます。たとえ
ば、『ダンマパダ』第77詩などは勧持品と同趣旨といってもよいようにおも
います。

  ─────────────────────────────────
  七七 (他人を)訓戒せよ、教えさとせ。宜しくないことから(他人を)
     遠ざけよ。そうすれば、その人は善人に愛され、悪人からは疎まれ
     る。

  (中村元訳『ブッダの真理のことば 感興のことば』〔岩波文庫〕、岩波
    書店、1978年、p. 21)
  ─────────────────────────────────

 「勧持品の如きは深位の菩薩の義なり」というのは、たしかにそのとおりな
のかもしれないなとおもいます。悪人から疎まれるのを覚悟で、他人を訓戒し、
教えさとすなどということは、まさに「真の知性人」にしかできないのかもし
れません。

 日蓮にいわせると、「勧持品を実践している自分こそが深位の菩薩なのであ
る」ということになるのだとおもいます。「行為によって卑しい人ともなり、
行為によってバラモンともなる」[*2]という発想からいえば、日蓮のいうこと
もわたしには理解できます。

73Libra:2006/01/27(金) 04:21:55
 さて、問題はここからです。つまり、創価学会が行っているシャクブク(以
下、単に「シャクブク」と略記します)は、はたして、日蓮の折伏と同じく
「理性的批判」といえるのだろうかという点です。もし、シャクブクが「理性
的批判」といえるものであるならば、大いにやってもらいたいとわたしはおも
います。

 創価学会では、「対話」という言葉が、シャクブクと同じような意味で使わ
れることがありますが、それは以下のようなものだそうです。

  ─────────────────────────────────
  本来、「対話」とは「格闘技」なのである。武器は「言葉」。リングは万
  人普遍の「理性」。
   権威をもちこむのは「反則」。なれあいは「八百長」。沈黙は「敗北」。
  論証もなく「私は、こう思うんだ」では、観客から笑われるだけだ。

  (『聖教新聞』、「羅針盤」、2000年11月12日、8面)
  ─────────────────────────────────

 この「羅針盤」に説明されている「対話」は、たしかに「理性的批判」とい
えるだろうとおもいます。

 ということは、実際におこなわれているシャクブクが、上でいわれているよ
うな「対話」でありさえすれば、何の問題もないということになります。

 しかしながら、現実には、万人普遍の「理性」から大きく飛翔し、名誉博士
号がどうしたなどという権威をもちこみ、ときには沈黙し、ときには論証もな
く「私は、こう思うんだ」などといって観客から笑われている創価学会員がい
るということでしょう。「無限に喜劇的」[*3]というのは、まさにこういうこ
とをいうのだとおもいます。

 「理性的批判」ができるのであれば、大いにやってもらいたいとわたしはお
もいますが、それができないのであれば、無理して日蓮の真似をすべきではな
いとおもいます。伊藤先生は「おのれの非を言われぬために人の非を言わぬ腹
黒い手合いの多い末世の中にあって、人の非を言い人を厳しく批判した聖人は、
したがっておのれに対しても厳しくあった。そのことを知らずして末代の教徒
が守文の頭で真似すべき事では決してないのである。」[*4]といわれています
が、わたしもそのようにおもいます。

 シャクブクの場合、シャクブクをおこなっている当人が「観客から笑われ」
るだけではすまず、他人に深刻な精神的なダメージを与えるなどの問題を引き
起こすことがおおいにありうることを考えれば、やはり、みれいさんのアプロ
ーチは本当に鋭いなとおもいます。


  [*1] 真の知性人とは(伊藤瑞叡)
     http://page.freett.com/Libra0000/005.html

  [*2] 釈尊は輪廻転生説を否定した(小川一乗)
     http://page.freett.com/Libra0000/077.htm

  [*3] 「理解」のソクラテス的な定義(キルケゴール)
     http://page.freett.com/Libra0000/095.html

  [*4] 真の知性人とは(伊藤瑞叡)
     http://page.freett.com/Libra0000/005.html

74みれい:2006/01/27(金) 17:04:48
わお♪

Libraさん、んちゃ!ほよよ♪(アラレちゃんを先日古本屋で買いました)

ぜひたまにでもいいので参加されてください。

>みれいさんのアプローチとの対比でいえば、わたしの考えは「勧持品をもう
少し正しく実践してもらいたい」というふうに表現できるかもしれません。

そこもとっても気になっていた部分なんです。
ぜひ掘り下げてほしいと思っていました。

ご存知のように、周りから苦情が起こるようなケースでも「それは自分が正しい教えを実践しているから反発をくらう」
として、内省、内観に至らないケースがしばしばみられます。
加えて選民意識を持ったような方もいらっしゃるようです。

折伏とは、折伏を行う人とは、その辺が実に曖昧なままです。
そして、私が思うのは、日蓮さんがご存命の頃から多くの非難を浴びていたということは、
必ずしも周りの方が無知や暴力的であったからというわけでなく、
日蓮さん自身が自分を勧持品に当てはめているところからすでに始まっているのではないかというところです。

けれどもその時分は釈迦本仏としてあるからまだしも、
日蓮自身を本仏として神格化した時点で言葉が絶対化し、また呪詛や祈祷のようなお題目もアリになってしまうのではと思います。
そんなわけで「地獄に落ちるぞ」というセリフも、日蓮さんのおっしゃるものと(これもまた過激発言で反発食らっていそうですが)、
現代の同じセリフの意味合いとはちょっと違う気がするのでした。

75Libra:2006/01/27(金) 23:34:06
 みれいさん、こんばんは。

 「日蓮さんがご存命の頃から多くの非難を浴びていたということは、〔中略〕
日蓮さん自身が自分を勧持品に当てはめているところからすでに始まっている
のではないか」というご指摘に対しましては、>>72 に書きましたような意味で、
わたしは日蓮を弁護したいとおもいます。

 わたしは、伊藤先生と同じく、日蓮を「真の知性人」として高く評価してい
ます[*]。わたしが日蓮をそのように評価するのは、日蓮の発言やふるまいに
貫かれている批判精神をとても優れているとおもうからです。

 「真の知性人」がおられて、その方の合理的批判が、「反発をくらう」とい
う結果をひきおこしたとしましょう。そのようなときに、その方が、ご自分の
状況を勧持品とか『ダンマパダ』第77詩に当てはめたとしても、わたしはそ
のかたに非難を浴びせようとはおもいません。

 これとは反対に、ただ単にトンデモなことを言って「反発をくら」っている
だけであるにもかかわらず、その状況を勧持品とか『ダンマパダ』第77詩に
当てはめて、自己を正当化しようとしている人を見かけたとしたら、わたしは
おもわず失笑するか、場合によってはその人を批判するでしょう。

  [*] 真の知性人とは(伊藤瑞叡)
    http://page.freett.com/Libra0000/005.html

76Leo:2006/01/28(土) 00:25:54
みれいさん、Libraさん、わめさん こんばんは。

みれいさん曰く:
>Leoさんこんにちは。またお世話になります。

いえいえこちらこそ。疑問や異論や批判がございましたらなんでも仰ってください。

>>浄土教は絶対者、密教は有我、禅は唯心で相対的に天台・日蓮が中観派に近い。
>
>本文と関係ないかもしれませんが、このあたりはなんだか疑問が残ります。
>たぶんネットなどでさらっと検索するとそのまま当てはまるのでしょうが、
>掘り下げていくと違う気がします。
>あくまでも超浅学の私の印象なのですが。

顕正居士さんのその発言に注目したのは、日蓮聖人の以下の言葉と仏教の中心的な
流れ(の一つ)は何だろうと思っていて「中観派」という言葉に納得したからです。
羅什訳の法華経も仏教が密教的になる前の中観派の影響が多いのだそうです。

「又仏になる道は華厳の唯心法界・三論の八不・法相の唯識・真言の五輪観等も実には叶うべしともみへず、
 但天台の一念三千こそ仏になるべき道とみゆれ」(開目抄)

>賛成です。そしてそれは日蓮宗もしくは立正佼成会なのではないかと思うのですが、違いがあるのでしょうか。

御書を先入観なく読んだり、日蓮聖人や法華経について調べたりしますと、日蓮宗や立正佼成会(立正佼成会
について詳しく知らないですが、立正佼成会は日蓮宗から破門されているのだそうです)との大きな差は
なくなってくるかもしれません。(創価学会と日蓮宗や立正佼成会が敵対関係にあったからといって無理やり
差が無ければいけないというものでもないとも思っています)

>日蓮本仏では成り立たないのではと思います。
>(Libraさんもそうおっしゃられているような)

そうですね。日蓮本仏論や戒壇之大御本尊については拘る必要ないというか、それらは後世(日蓮聖人後)に
出てきたものとして再考を要するものではないかと思います。

○初期興門教学には「大石寺流宗祖本仏思想」はなかった(Libraさん)
http://page.freett.com/Libra0000/z008.htm

○所謂「本門戒壇之大御本尊」の真偽について(犀角独歩さん)
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Library/6963/itamandarasingi.html

>あと、素朴な疑問ですが、今まで創価学会で「空」について語られていたでしょうか?

単独で「空」について語られたことはあまりないのではないかと思います。天台の教義では
「仮・空・中」の三諦になっていて日蓮聖人も引用してます。
ちなみに、創価学会教学部編 『教学の基礎 ◇仏法理解のために◇』聖教新聞社、2002年
では1箇所「空」が出てきます。

「死後の生命には、目に見える形やその生命が存在する特定の場所はありませんが、再び形ある
存在として生ずる可能性をはらんだ状態で存続しているのです。単純な「有」と「無」を超えた、
このような在り方を仏教では「空」といいます。」(pp.192-193)

何か死後の生命の存在を主張していて「空」を引用するというのは疑問ですが。

77Leo:2006/01/28(土) 00:48:32
(続き)

>そして日本の多くの新宗教は大規模団体からカルトまで、法華経を取り扱っているはずです。
>日本発信で法華経を取り扱うことと、一つの柱として法華思想団体が存在するのと、
>一つのグループが専売特許のように振舞うことと、また少し違うような気がします。

法華経は平等の教えでありパブリックドメイン(?)であり「独占」しようとするのは
実は法華経に反するのではないでしょうか。

>やはり現時点での創価学会問題は、通過させずそこへ留まらせるところにあるかと。

打ち出しと現場でやっていることは組織の拡大・維持が中心ですね。
日蓮聖人は鎌倉や京都に遊学したのだし、たとえ今日われわれが遊学できないとしても、
可能な範囲で調べたり学んだりして自分なりの考えを持つというのが重要ですね。
(「人に合わせる」のでは日蓮聖人の精神にも反するし各人のためにならないですね)

>「勧持品に云く「諸の無智の人有て悪口罵詈し」等云云。日蓮此の経文に当れり。
>汝等何ぞ此の経文に入らざる。」(この「日蓮」の箇所が「学会」になるわけですが)

そういう日蓮聖人から学会組織への「スリカエ」は多々ありますね。

>になってしまっているように感じるのですが、その後学会内部で発展はあったのでしょうか?
>ちょっとはLibraさんの手紙に目を通してくれたのかなぁと。

Libraさんの手紙の影響があったのかは定かではないですが、会則が改正されたり、
短縮勤行が提唱されたり、学会版法華経(日蓮聖人が手元におかれた註法華経を活字化
したもの)が出版されたりという変化はあったように思います。
全体の印象としてはあまり発展はないかなと。

78Leo:2006/01/28(土) 01:28:59
(続き)

ちなみに私が日蓮聖人と呼び大聖人という呼び方をしていないのは日興上人が日蓮聖人という
呼び方をされているのでそれを参考にしています。

またちなみに、『富士宗学要集』第一巻 本尊三度相伝 では日蓮聖人は釈迦の末法の顕れであり、いきなりの本仏
ありきではない説明ですね。
「一、釈迦と申すは天照太神西天に釈迦と顕はれ諸仏の本誓妙法蓮華経を説き一切衆生悉く是れ吾が子なりと宣ふ、
 日本に又大明神と顕はれ正直に方便を捨つる本願の誓に酬て正直の頭に宿る、
 末法濁世の時は日蓮聖人と顕はれ諸仏の本意を顕はす」
http://nakanihon.net/nb/yousyuu//yousyuu1_2.htm 
(これは正信会員nbさんのページ。
『富士宗学要集』は日蓮正宗・創価学会・正信会 共通ではないかと思います。
とはいえ創価学会ではあまり引用されないと思いますが...
正信会といえば学会のトラウマっぽいですが御書の日蓮聖人の展示会をやったり
興風談所が御書のCDROMを出したりしているので私は評価してます。)

もともとの教義としても
「釈迦の法はもう過去のもので何の利益もない」
「われわれは釈迦仏教に縁のない民衆であることを知らねばならない」(折伏教典)
のような雰囲気とはちょっと違うのではないでしょうか。

79Leo:2006/01/28(土) 01:29:50
(続き)

>法華宗団として成り立たせるならば安楽行品ももう少し力を注いでくれたらいいのではと思います。
>(そしたら日蓮仏法と離れちゃうのでしょうか?)

実は...
創価学会内ではあまり知られていないのではないか思いますが、日蓮宗をウォッチしたりすると日蓮宗内では
摂受が本意か折伏が本意か論争中ですね(摂受が本意の可能性もあります)。

○「摂受か折伏か ◇今成元昭師の所説をめぐって◇」
http://www3.cnet-ta.ne.jp/o/otowatid/p4c2.htm

○「日蓮宗の布教を考える―通仏教化した現状と摂受折伏問題」
http://www.genshu.gr.jp/DPJ/note/flash019.htm

○「摂折論一考」
http://www.genshu.gr.jp/DPJ/note/note_033.htm

○「摂折論に関して」 
http://www5c.biglobe.ne.jp/~lotus/newpage24shoujyaku.htm

80Leo:2006/01/28(土) 01:32:30
>>78 の補足

もともとの教義 は 日蓮正宗の教義

折伏教典 は 過去創価学会が発行したもの(絶版)。

81Leo:2006/01/28(土) 13:50:15
(続き)

>実は...
>創価学会内ではあまり知られていないのではないか思いますが、日蓮宗をウォッチしたりすると日蓮宗内では
>摂受が本意か折伏が本意か論争中ですね(摂受が本意の可能性もあります)。

摂受、折伏は時と場合によって使い分けするべきですし、たとえ折伏を用いるとしても
Libraさんの指摘される(日蓮聖人に同様の精神が見られる)理性的批判、合理的批判を用いる
ことに賛成です。(私のように闘争本能がなくならない人間は特に)人間の持っている闘争本能を
物事の探求に昇華するのもよいかとも思っています。ただこれらは探求や議論が好きな人向けの
ことかもしれないのでみれいさんの仰るように通常は個人にとって摂受であってほしいと
思われると思います。

創価学会の折伏重視は日蓮聖人の勧持品重視が発端とはいえ誤解に基づくものであり
(日蓮聖人は釈尊の仏教を復興しようとして当時仏教の最高の理解と信じられた法華経を
広めようとされたのであり単に教団の勢力を拡大しようとしたのではないハズです)
創価学会が世間から嫌がられたり笑われたりすのであれば当然見直しが必要と思います。
組織がシガラミによって見直しが難しいのであれば(創価学会の根本理念である、
カントと牧口常三郎に共通する啓蒙主義を思い起こし)有志の個人個人でやるしかないと
思います。

○【創価学会の根本理念──カントと牧口常三郎に共通する啓蒙主義──】
http://page.freett.com/leo020503/note019.html
「カントがいう「啓蒙」とは《自分自身の知性を使わずに指導者に頼っている状態から人
を解放する》ということですが[注2]、この理念は創価学会の初代会長である牧口常三郎
に継承されています[注3]。この意味での啓蒙主義こそが、おそらくは創価学会の創立理
念だったのだと思います。」

82みれい:2006/01/29(日) 02:36:42
Libraさん、Leoさん、こんにちは。(Libraさんまだいるかなっ)

>Libraさん

話はそれますが、LibraさんのサイトはLibra御書と呼んだほうがいい気がしました(^▽^)

>わたしは、伊藤先生と同じく、日蓮を「真の知性人」として高く評価しています

日蓮さんが権力や名声に屈することなく進んでゆく精神はとてもすばらしいと思います。
日蓮さんのあり方に問題があるわけでなく、現代の問題を生んでいる個人の勧持品の取り扱い方、またその指導にあたっている方の問題ということですね。
そして、Leoさんがご紹介くださった日蓮宗の取り組みも、Libraさんの理想とするものと同じようなものですか?あちらのサイトにも伊藤さんの名前が出てきますね。

ご紹介いただいたサイトは前回からも読ませていただいているのですが、
日蓮さん=知性の人、というのがまだどうもすんなりと飲み込めません。
賢くてガッツがあるのはとてもよくわかるのですがまだまだ日蓮さんが激情的で戦闘的なイメージが拭えずにいます。立正安国論の予言なども?です。
デール・カーネギー好きの私は「いくら場合によっての折伏とはいえ、きつい言い方は相手を諭す前に傷つけやしないか」と心配になります。
そして、権力に屈しないという点では、日蓮さんの批判した臨済禅、浄土宗はさておき、
あらたに取り組みをはじめた道元さんと親鸞さんは、やりかたは違えど同じ精神ではなかったかと思え、功績は私は3人を並べてみてしまいます。
あと、私が理性的批判と合理的批判いうものが理解出来ていないからかもしれません。

83みれい:2006/01/29(日) 02:48:44

>Leoさん
日蓮さんが中間派?禅が唯心?と思って検索してたらさっそくLibraさんのサイトにヒットしたのでゆっくりみてみようと思います。
http://freett.com/Libra0000/z015.htm

>日蓮宗内では摂受が本意か折伏が本意か論争中ですね

びっくりです。でも何で今頃?とも思います。
誤った折伏の被害の甚大さに気がついたかしら。
正宗からはばっちりバッシングされていますね。

>何か死後の生命の存在を主張していて「空」を引用するというのは疑問ですが。

非常に同感の疑問なのです。
法華経で空が説かれているそうですが、どこですか?
そして、法華経での輪廻(三世)と解脱の解釈はどうなってしまうのかしらと。

>法華経は平等の教えでありパブリックドメイン(?)であり「独占」しようとするのは
実は法華経に反するのではないでしょうか。

やはり。

>打ち出しと現場でやっていることは組織の拡大・維持が中心ですね。

学会のどこらへんが日蓮仏法にあてはまるのか、どう法華経なのか、疑問が増えます。

日蓮正宗でも日蓮本仏に差があるのですね。それもそうか。
かなり以前に正信会員ご一行様とご一緒したことがあるのですが(宗教活動の部分には接触していないのですが)、日蓮正宗ぽさはあるものの、危ない団体にありがちな妙にハイな明るさや堅苦しさは無く、わりと自然体な皆様だったように思います。
ただ、ギャンブル禁止らしく、実際行うのも観るのもNGだそうで、
ふいにテレビに映った競馬のシーンを、名残惜しそうに、でもそのそぶりは見せまいとチャンネルを変えたのが、なんとも印象的です。

84Libra:2006/01/29(日) 04:24:02
 みなさん、おはこんばんちは。

 以前、別のスレッド[*1]に書きましたように、わたしは、日蓮の中心思想を
支持していますが、日蓮が主張したことのすべてを支持しているわけではあり
ません。

 みれいさんのご指摘のとおり、日蓮を本仏として神格化し、日蓮の言葉を絶
対視してしまっている創価学会員は、残念ながらまだまだ多いのでしょう。し
かし、そのような創価学会員しかいないということもないとおもいます。

 日蓮を本仏として神格化することを創価学会員として明確に拒否した最初の
人物は松戸行雄さんだとわたしはおもいます[*2]。この松戸さんのご主張は、
創価学会の内部では、ほとんどまじめに議論されることもなく無視されてしま
いましたが、外部の学者の中には評価する方もおられました[*3]。残念ながら、
結果的には、松戸さんは組織にいられなくなってしまったのですが、松戸さん
のような方こそ「真の知性人」なのではないかとわたしはおもいます。

 話を本題にもどしますと、日蓮の折伏というのは、《「客観的事実」[*4][*5]
としてその当時通用していた(批判に耐えていた)ことに依拠しつつ、相手の
主張の誤りを論理的に指摘するもの》であったとわたしはおもいます。そうい
う意味において、日蓮の折伏は、まさに「理性的批判」であったとわたしはお
もうのです。

 日蓮が依拠したものの中には、日蓮の時代には通用したとしても、今ではも
う通用しないものが少なからずあります。このことを素直に認めることができ
ない人がもしいるとすれば、そのような方は「狂人」であるといわざるをえな
いでしょう[*6]。

 日蓮も「師なりとも誤ある者をば捨つべし又捨てざる義も有るべし世間仏法
の道理によるべきなり」[*7]といっています。

 もちろん、日蓮の思想のなかには、いまでも立派に通用するすばらしい部分
があるとわたしは考えています。現在においてもきちんと通用することに依拠
つつ、「今一度、日蓮思想の多様性の中から主体的に現代思想として重要な視
点を再選択する作業」[*8]こそが、日蓮の弟子として現代に生きるわれわれに
与えられている最も大きな課題であるとわたしは考えます。


  [*1] 法華経について
     http://page.freett.com/leo020503/bbslog3_002.html

  [*2] 日蓮久遠本仏論批判(松戸行雄)
     http://page.freett.com/Libra0000/062.htm

  [*3] 秋谷会長への手紙(Libra)
     http://page.freett.com/Libra0000/z007.htm
     
  [*4] 客観的事実と信仰
     http://page.freett.com/leo020503/bloglog3_002.html

  [*5] 「客観的事実」とは?
     http://page.freett.com/leo020503/bbslog3_003.html

  [*6] 精神の健全さと病気の違い(カール・ポパー)
     http://page.freett.com/Libra0000/112.html
     
  [*7] 「曾谷殿御返事」、学会版全集、pp.1055-1056。

  [*8] 日蓮における釈尊観と霊山浄土観の諸相(松戸行雄)
     http://page.freett.com/Libra0000/119.html

85Libra:2006/01/29(日) 05:54:06
 みれいさん、おはこんばんちは。

 まず、「摂受か折伏か」についての日蓮宗内の論争についてですが、残念な
がら、わたしは、その中身を全く追跡しておりません。ですが、もし追跡した
とすれば、おそらく、全面的に伊藤先生の説の方を支持することになるのでは
ないかと予想します。

 つぎに、みれいさんの「日蓮さん=知性の人、というのがまだどうもすんな
りと飲み込めません」という印象についてですが、そういう感覚は、とても常
識的といいますか、そういう感覚をおもちの方はとても多いだろうと予想しま
す。特に、「戦闘的」というイメージは、ぴったりあたってるなとおもいます。
ただし、その場合の「戦闘」とは「論争」ということです。

 わたしは、学者になるための訓練をうけたことがあるので、実感としてよく
わかるのですが、一流の学者というのは、「われわれの代わりに理論を死なせ
る」[*]という観点をもっており、真剣勝負でおたがいの理論を斬り合うもの
です。そういう意味で、一流の学者ほど「戦闘的」であるというのがわたしの
実感です。もっとも、こういった感覚は、常識的ではないのかもしれません。

 とはいえ、そんな日蓮でも、学者でもなんでもない人にたいしてコメントす
るようなときには、学者の意見を反駁するときにみせるのとは全く別の顔をみ
せていたようにおもいます。そのギャップの大きさも、日蓮の魅力の一つだと
わたしはおもいます。

 さいごに、道元と親鸞についてですが、恥ずかしながら、わたしは、この二
人の大学者を全くといっていいほど追跡しておりません。ただ、わたしが尊敬
する仏教学者である松本史朗先生、袴谷憲昭先生、小川一乗先生などが曹洞宗
あるいは真宗のご出身であることから、道元と親鸞からは、わたしも多くのこ
とを学ぶことができるのではないかと予想しています。もっとも、わたしは、
仏教を本格的に研究できるという立場にはありませんので、道元と親鸞につい
て、わたし自身が本気で追跡してみるという機会はおそらく得られないのでは
ないかとおもっています。


  [*] 以下を参照されてください。

     ──────────────────────────────
     批判とは、論理的矛盾や事実との齟齬を指摘することにより、批判
     される対象と現実を直面させる試みである。そしてその目的は、
     批判対象をよりよきものにすることにある。この意味では、批判は
     その対象に対する真剣な関心の現れである。それは批判の対象を改
     善するきっかけ、チャンスなのである。だから、批判や反駁を受け
     入れることは改良への一ステップである。
 
     (蔭山泰之「面目と反駁−批判的合理主義の観点から見た日本的組
       織の諸問題−」、
       http://www.law.keio.ac.jp/~popper/v10n1kagefr.html
     ──────────────────────────────

     ──────────────────────────────
     日本的組織では、ある行動や思想を、それを生み出した者の人格と
     容易にむすびつけてしまう強い傾向がある。〔中略〕こうした傾向
     が強いところでは、批判即人格攻撃と受け取られてしまうだろう。
     しかしそうであるからこそ、行動や、思想と人格を切り離し、たと
     え理論が誤っていたとしても、「われわれの代わりに理論を死なせ
     る」と考えられる観点が、きわめて切実に要請されてくる。

     (同上)
     ─────────────────────────────────

86Leo:2006/01/29(日) 15:48:53
みれいさん、わめさん、Libraさん こんにちは。

みれいさん曰く:
>法華経で空が説かれているそうですが、どこですか?

まずこれからいってみます。『法華経』で直接「空」を語っているところを抜書きしてみました。
(以前わめさんからも同様の質問あったのですがどこに書いたか失念したのであらためて書きます)

法師品第十の「如来の座とは一切法空是れなり」は結構核心ではないでしょうか。
(他の部分では単なる二乗のやっているところの空だけではダメという批判も含んでいます)
(「空」について直接語っているところはわずかなので『法華経』は装飾の多い古代美術の
ようだなと思ったりもします)

「我本邪見に著して 諸の梵志の師と為りき 世尊我が心を知しめして 邪を抜き涅槃を説きたまいしかば
 我悉く邪見を除いて 空法に於いて証を得たり 爾の時に心自ら謂いき 滅度に至ることを得たりと」
(譬喩品第三)

「我等長夜に 空法を修習して 三界の 苦悩の患を脱るることを得て 最後身 有余涅槃に住せり
 仏の教化したもう所は 得道虚しからず 則ち已に 仏の恩を報ずることを得たりと為す」
(信解品第四)

「如来は是れ一相一味の法なりと知れり。所謂解脱相、離相、滅相、究竟涅槃、常寂滅相にして、終に空に帰す。」
「復禅に住して 神通力を得 諸法の空を聞いて 心大いに歓喜し 無数の光を放って 諸の衆生を度すること有り
 是れを大樹の 而も増長することを得と名づく」
(薬草喩品第五)

「諸の比丘、若し如来、自ら涅槃の時到り、衆又清浄に、信解堅固にして空法を了達し、深く禅定に入れりと知りぬれば、
 便ち諸の菩薩、及び声聞衆を集めて、為に是の経を説く。世間に二乗として、滅度を得ること有ること無し。
 唯一仏乗をもって滅度を得るのみ。」
(化城喩品第七)

「又諸仏所説の空法に於いて、明了に通達し、四無礙智を得て、常に能く審諦に清浄に法を説いて疑惑有ること無く、
 菩薩神通の力を具足し、其の寿命に随って、常に梵行を修しき。」
(五百弟子受記品第八)

「如来の室とは一切衆生の中の大慈悲心是れなり、如来の衣とは柔和忍辱の心是れなり。
 如来の座とは一切法空是れなり。」
(法師品第十)

「今皆大乗の空義を修行す。」
(提婆達多品第十二)

「復次に菩薩摩訶薩、一切の法を観ずるに、空なり、如実相なり。顛倒せず、動ぜず、退せず、転ぜず。
 虚空の如くにして所有の性無し。」
「一切の諸法は 空にして所有無し 常住有ること無く 亦起滅無し 是れを智者の 所親近処と名づく」
(安楽行品第十四)

87みれい:2006/01/30(月) 01:01:16
私はネット内の人にもとても恵まれていると思います。
ありがたや。

Libraさん、Leoさん、こんにちは。


>Libraさん

>日蓮を本仏として神格化し、日蓮の言葉を絶対視してしまっている創価学会員は、残念ながらまだまだ多いのでしょう。しかし、そのような創価学会員しかいないということもないとおもいます。

>松戸さんのような方こそ「真の知性人」なのではないかとわたしはおもいます。

いろんなサイトをみていると、まだまだ依存度が高い印象ですが、最近は学会員さんでも内部について、おかしいところは批判の声をあげている方のブログをみかけます。
残念ながら組織内部は今でも批判をあげる空気ではないようです。
私は会員のそういった声はものすごく大事だと思いますし、また、組織も声を汲み上げ改善に努めてほしいと願います。
というわけで、松戸さんという方はきっとすばらしい方とおもいます。
もちろんLibraさんやLeoさんもすごいし。

神格化するのは、宗教的には必ずしも悪い面ばかりではないとおもうのですが、
(いい面は一言でいうと関係が絶対化して信者に「勢い」が出るかと)
おっしゃるとおり、やはり根底にブッダの正しい教えと実践がなくてはとてもとても危険だと思っています。
世界の宗教の中でもキリストやイスラムのような外部からの迫害らしいものが無い中ではじまった仏教のなかで、日蓮教団だけが迫害の歴史を得ながら形成された宗派なので、そこも特徴だと思います。
また、一神教は西洋では良くも悪くも文明発達を担ったようですので、その要素を持つ組織の動向は今後も非常に重要になってくるとおもいます。

>一流の学者ほど「戦闘的」であるというのがわたしの
実感です。もっとも、こういった感覚は、常識的ではないのかもしれません。

なるほど。
例えば、道元さんも学者レベルでしかわからないような難解な「正法眼蔵」を残されていますね(私はこれこそさっぱりわかりません。チャレンジャー求む)そのなかで道元さんもかなり批判的な意見を残していたりしますが、あくまでも理論の上で、とのことなので、Libraさんのおっしゃることと同じだとおもいます。
そのかわり、弟子が残した「正法眼蔵隋聞記」では、現代のサラリーマンでも主婦でもそのまま役に立ちそうな内容と、道元さんの人間らしさが残されています。
そして同じように親鸞さんの思想理解にあたっては「教行信証」があり、弟子の残した「歎異抄」があり、こちらもまた現代に通用するあたたかい言葉に溢れています。

日蓮さんにいたっては、やはりLibraさんが、
>「今一度、日蓮思想の多様性の中から主体的に現代思想として重要な視
点を再選択する作業」[*8]こそが、日蓮の弟子として現代に生きるわれわれに
与えられている最も大きな課題であるとわたしは考えます。

とおっしゃられるように、今まで残された学者レベルの思想的なものから現代理解(特に生活レベルの信仰に関わるもの)へともっと取り組みが始まってほしいです。
(まあこの私の意見も随分人任せで申し訳ないですが)

私の周りでは、学会員さんでも道理に基づいて話をしてくださる方(主にネット)は、皆さん一般仏教や宗教を熟知されているか、学会に依存しないし押し付けない方です。少数ですけどね。

>「われわれの代わりに理論を死なせる」

ディベート侍、みたいな。ちょっとかっこいいです。
すみません、こんなレベルなわけですが。屍が出なけりゃかまいません。

Libraさんのサイトのも、数年前と比べてみると、さらに少しずつわかってきました。
それを少し砕いたのがLeoさんのサイトですね。

88みれい:2006/01/30(月) 01:06:23
Leoさん、
これまた2度手間させてしまい、なのにご丁寧にご紹介くださいましてありがとうございます。
こんなにあるんですねぇ。大変お手数かけました。
保存版にさせていただきます。

お二人にご紹介いただいた中身の中の「空と涅槃」について、
空はまだ自分は確信しないようにしていますが、Libraさんのサイトに掲載されているものがとても近い印象です。
そして学会では空と縁起は聞いたここがないです。因果と輪廻と業ばかりだな。
佐倉さんの「空」はさすがに学者の「空」という印象で、私はぴんとこないです。
また、涅槃(悟り)は十牛図が、うまいこと表しているなぁとおもいます。
http://homepage3.nifty.com/sanbo-zen/cow.html


また、べつの掲示板で思った事を貼っておきます。

>>観音菩薩のいろんな相手に合わせて人を救っていこうという姿勢は釈迦のあらゆる人に教えを説く姿勢と照らして考えることも出来ると思います。
主に自ら解脱して観音菩薩(観自在菩薩)を目指すことのススメ初心者版が般若心経にあたり、
主に観音の救いがどれだけ自分のまわりに溢れているかを説くのが法華経の25番、という見方も出来ませんかね?
合わせるととてもいいと思うのです。

>「如来の座とは一切法空是れなり」は結構核心ではないでしょうか。

まんま掛け軸にかかっててもいいような。

>「空」について直接語っているところはわずかなので『法華経』は装飾の多い古代美術のようだなと思ったりもします

そのLeoさんの表現がとてもツボです。
そして、やはりそのままわかった気になってはいけない気がします。

89みれい:2006/01/30(月) 02:36:21
>そして、やはりそのままわかった気になってはいけない気がします。

私が「空」について、ということです。

90Libra:2006/01/31(火) 01:59:11
 わめさんへ

 今、拙文をブログの『宗教はやっぱり好きになれない』に投稿しようとしま
したが、うまくいきませんでした。

 かわりにこのスレッドに投稿しておきます(↓)。

91Libra:2006/01/31(火) 01:59:59
1.はじめに

 わめさんは、初期経典にみられる「信仰を捨て去れ」という言葉を、《何か
を信仰すること一般》をすべて否定する言葉だと解釈されているようですが、
このような解釈は妥当ではないとわたしはおもいます。わたしがそのようにお
もう理由を以下に述べてみたいとおもいます。

 以下では、まず中村元先生の説を批判しようとおもいます。というのも、中
村先生が、わめさんと同じような解釈をしめされているからです。なお、以下
にわたしが引用する中村先生のご発言は、すべて、Leo さんのご教示によりま
す(わたしは、現在、仏教関係の資料をほとんど所持していませんので、Leo
さんに協力して頂きました)。この場をお借りして、Leo さんに深く謝意を表
します。

92Libra:2006/01/31(火) 02:00:37
2.中村説批判

 さて、中村先生は、「信仰を捨て去れ」という表現を解釈される中で、「最
初期の仏教は〈信仰〉(saddhA)なるものを説かなかった。何となれば、信ず
べき教義もなかったし、信ずべき相手の人格もなかったからである。」[*1]と
主張されています。

 このご発言からは、《仏教には「信ずべき教義もなかった」》という中村先
生の独特のお考えが、中村先生が上のような解釈を肯定される根拠のひとつに
なっていることがわかります。しかしながら、この《仏教には「信ずべき教義
もなかった」》という説は、松本史朗先生の批判[*2]に耐えていないとわたし
はおもいますので、上のように解釈すべき根拠にはならないとおもいます。

 そもそも、この「信仰を捨て去れ」という表現は、この文句が埋め込まれて
いる文脈から素直に解釈すれば、《シャカがそれまでにはなかった斬新な見解
に到達した》ということを、従来の見解との対比において描写したものである
と捉えるのが自然だろうとおもいます。この文句が埋め込まれている文脈から、
《信仰の対象を限定せずに、何かを信仰すること一般をすべて否定している》
という解釈を導き出すのはひどく困難だとおもいます。

 そういう意味では、この文句は、ブッダゴーサがいうように、「当時の諸宗
教に対する信仰を捨てよ」[*3]という意味に解釈するのが妥当だとおもいます。
中村先生もこのオーソドックスな解釈を紹介され、かつ、肯定されています。

 「当時の諸宗教に対する信仰を捨てよ」ということは、「仏教を信仰せよ」
ということとなんら矛盾しません。矛盾しないどころか、全く同じことをいっ
ていると主張することさえ可能だろうとおもいます。

 『スッタニパータ』第184詩には、「ひとは信仰によって激流を渡り、
〔中略〕智慧によって全く清らかとなる。」とあり、そこではある種の「信仰」
が肯定されていますが、ここで「信仰」と訳されている原語もやはり「サッダ
ー」です[*4]。この詩が「遅い層」であるという証拠はありませんから、この
点においても、中村先生の解釈には無理があるとおもいます。

 中村先生は、『ダンマパダ』第333詩に付された註においては、「信仰―
―saddhA. 漢訳『法句経』に「信レ正」とあるように、正しいことを信ずるの
である。これが仏教における「信」の特質である。」[*5]といわれています。
わたしもこのご意見に賛成ですが、中村先生のこのお考えは、「最初期の仏教
は〈信仰〉(saddhA)なるものを説かなかった」とされるご自身のお考えとは
両立しないとおもいます。中村先生は矛盾しているとおもいます。

93Libra:2006/01/31(火) 02:01:15
3.仏教的信仰とは

 上記したように仏教がある種の「信仰」を肯定しているからといって、仏教
がすべての「信仰」を肯定しているわけではもちろんありません。「当時の諸
宗教に対する信仰」が否定されているのはもちろんのこと、たとえそれが仏教
に対するものであれ、何に対するものであれ、なにかを権威として絶対視する
ようなある種の「信」のありようは明確に否定されていたとおもいます[*6]。

 わめさんもお認めになられたように[*7]、「信仰」には「盲信」[*8]と「そ
うでない信」とがあるわけですが、「ブッダは、〔中略〕ブッダ自身の教えに
もまた執着するなかれと説いている」のだとすれば、このようなブッダの説を
信じることをも含意する仏教の信仰が「盲信」でありえないことはあきらかだ
とおもいます。仏教は、「盲信」を否定するものであるとわたしはおもいます。

 では《仏教において肯定される「信仰」》(以下、「仏教的信仰」と略記し
ます)とはいったいどのようなものなのかということがあらためて問題となり
ます。

 仏教的信仰とは、ブッダゴーサの言葉を借りれば、「自分の確かめたことだ
けを信ずる」[*9]ということなのだろうとわたしはおもいます。すなわち、シ
ャカの教えを自分で確かめてみて(反駁を試みて)、それが「反駁し得ないも
のとして説」[*10]かれているとしか思えない時に生じるのが、仏教的信仰なの
だろうとわたしはおもいます。だからこそ、仏教においては、《教えは「反駁
し得ないものとして説」かれなければならない》などということが強調されて
いるのではないでしょうか。

 もし仏教的信仰が上のようなものであるとすれば、それは、牧口常三郎の考
え[*11]にもつながるし、三証[*12]を強調する日蓮の立場ともつながるとおも
います。

 藤田正浩先生は、「原始仏教の信は、自己の経験したものを信ずることであ
り、釈尊の教えを聞いたあと生まれる信であ」り、「慧に基づいた信」である
が、「浄土教における信」や「如来蔵思想に見られるような性格の信」は、
「自己の理解し得ないものを信ずる」という構造を持つ「慧を絶した信」であ
るといわれ、両者は「同じ信とはいうものの全く次元を異にする」といわれて
いますが[*13]、わたしはこの藤田先生の説を支持します。

94Libra:2006/01/31(火) 02:01:50
4.日蓮の信は仏教的信仰といえるか

 日蓮は「信は慧の因」[*14]といいますが、ここでいわれている「信」とい
うのは、聞法位のことであり、「知識・経巻によって一実の菩提を聞き、通達
解了して名字即に登る」[*15]ということです。だとすれば、日蓮がいうところ
の「信」というのは、先に引用した「釈尊の教えを聞いたあと生まれる信」と
いう藤田先生の説明ともぴったり一致するとおもいます。

 また、日蓮が「信」を「慧の因」というのも、

  《「原始仏教で解脱〔中略〕と言えば、普通には心解脱、場合によっては
   慧解脱や倶解脱を指す」が、「これらの前段階に一段低い最初の解脱が
   あり、それが信解脱〔中略〕と言われている。信解脱の内容は、慧によ
   って煩悩の一分を断じていることと、如来に対する信が確立して根を生
   じていることとである」。「まずこの信解脱が重視され、このあと心や
   慧の解脱へと進む」》

という藤田先生の解説とぴったり一致するようにおもいます。

 つまり、日蓮がいうところの「信」というのは、初期仏教でいえば「信解脱」
に対応するものであり、「信は慧の因」というのは、さきに引用した、「ひと
は信仰によって激流を渡り、〔中略〕智慧によって全く清らかとなる。」とい
う詩(『スッタニパータ』第184詩)にあらわれているような初期仏教の考
えに対応するものであるということができるとおもいます。

95Libra:2006/01/31(火) 02:02:25
5.『法華経』の信は仏教的信仰といえるか

 『法華経』の信の性質については、以下に引用する田村芳朗先生の説をわた
しは支持します。『法華経』の信は、「原始仏教の信」と異なるものではない
とわたしはおもいます。

  ─────────────────────────────────
  『法華経』でも、信仰は各所に強調されている。しかしそこでの原語は、
  シュラッダー(信)か、アディムクティ(信解)である。他にプラサーダ
  (澄浄)が一つか二つ使われている。これら三語とも、バクティのような
  絶対者にたいする絶対信を意味しない。仏道への入門にさいし、心をあら
  ため、心を決め、心を浄めることをいう。その上で修行にはげみ、智慧を
  みがいて悟りに達するのである。
   右のごとき信仰の観念は仏教を一貫して流れるもので、〔中略〕『法華
  経』でもこの基本線は保たれているので、たとえば、分別功徳品第十六
  (第十七)で一念の信あるいは信解を強調しながら、それらは五波羅蜜を
  こえるが、「般若波羅蜜は除く」と説かれている。つまり、悟りにいたる
  (パーラミター)六つの実践行為(六波羅蜜、六度)のうち、智慧(プラ
  ジュニャー 般若)のみは最後的なものとして信の上に置かれたのである。

  (田村芳朗『法華経』〔中公新書196〕、中央公論社、1969年、p.92、
    ※原語表記は省略して引用)
  ─────────────────────────────────

96Libra:2006/01/31(火) 02:03:00
6.まとめ

 今回は、まず、初期経典にみられる「信仰を捨て去れ」という表現を《何か
を信仰すること一般》をすべて否定する言葉であると解釈することは困難であ
るということを示し、そして、《仏教において肯定される「信仰」》とはどの
ようなものなのかということについてのわたしなりの理解を述べてみました。
そのうえで、『法華経』およびその信者である日蓮や牧口の「信」についても
一瞥してみました。

97Libra:2006/01/31(火) 02:03:37
[註]

  [* 1] 『スッタニパータ』第1146詩に付された註(『ブッダのことば
      スッタニパータ』〔岩波文庫〕、岩波書店、1984年、pp.430-431)
     を参照。
     
  [* 2] 仏教解明の方法─中村元説批判(松本史朗)
      http://page.freett.com/Libra0000/082.htm

  [* 3] 中村元訳『ブッダ 悪魔との対話 サンユッタ・ニカーヤⅡ』〔岩波
     文庫〕、岩波書店、1986年、pp.336-337。
     
  [* 4] 『佛教根本聖典』、8.平和への祈り
      http://www.chuogakken.org/seitenHP/92.htm

  [* 5] 中村元訳『ブッダの 真理のことば 感興のことば』〔岩波文庫〕、
     岩波書店、1978年、p.133。

  [* 6] ブッダと「汎批判的合理主義」(小河原誠)
      http://page.freett.com/Libra0000/048.htm

  [* 7] 輪廻転生について
      http://wame.seesaa.net/article/10504051.html

  [* 8] 客観的事実と信仰03
      http://page.freett.com/leo020503/bloglog3_002.html

  [* 9] 『スッタニパータ』第851詩に付された註(前掲『ブッダのこ
     とばスッタニパータ』、pp.391-392)を参照。

  [*10] 異論が起こったときには、道理によってよく説き伏せて(『大パリニッバーナ経』)
      http://page.freett.com/Libra0000/006.html

  [*11] 信仰的模倣時代から理性の時代へ(牧口常三郎)
      http://page.freett.com/Libra0000/024.htm

  [*12] 「三証」とは「文証・理証・現証」のこと。「文証」とは「信頼
     すべき経典による文献的証明」のことであり、「理証」とは「思惟
     や論理を媒介とする合理的証明」のであり、現証とは「客観的事実
     における実践的追認による具体的経験」のこと(伊藤瑞叡『日蓮精
     神の現代』、大蔵出版、1989年、pp. 122-123)。

  [*13] 空無我の思想と本性心の思想とが両立し得るとは考え難い(藤田正浩)
      http://page.freett.com/Libra0000/023.htm

  [*14] 「四信五品抄」、学会版全集、p. 339。

  [*15] 花野充道「宗祖の本覚仏教と智顕の始覚仏教」
      http://otarunounga.hp.infoseek.co.jp/hananosi.html

98わめ ◆TJ9qoWuqvA:2006/01/31(火) 03:12:38
 Libra師匠、こんばんは。^^

 ブログに投稿できないのはもしかして文字数超過が原因かもしれません。
 私も何文字までOKなのかは分かりませんがこちらで分割投稿して下さった程度なら問題は無いと思いますが、ブログのコメント欄では一括投稿されたのではないでしょうか?また機会がありましたら分割投稿で試してみてください。

 師匠の指摘の「信仰を捨て去れ」と私の言う「信仰を捨てよ」は同義語と思いますが、私の思う信仰の意味はここで師匠が説明くださった意味とは違うことが分かりました。
 私の思う信仰はgoo辞書の『神仏などを信じ崇(あが)めること。経験や知識を超えた存在を信頼し、自己をゆだねる自覚的な態度をいう。』このような意味です。
 このような意味での信仰なら、師匠の指摘の「信仰を捨て去れ」に該当するのではないかと思いますがいかがでしょう?
 ただそうであっても『仏教がある種の「信仰」』を肯定しているとは思えませんので、この点は師匠と意見の分かれるところなのですが、ただこれも「信仰」の定義の差異なのかなとも思うのですが…
 師匠の言う「仏教的信仰」は信仰という言葉でなければならないものなのでしょうか?
 「仏教的信仰」と「それ以外の信仰」を区別する場合に、同じ「信仰」という言葉用いることに私は抵抗感がありますし、私の思う(goo辞書の上記引用)ような信仰の意味と解釈される方は多いように思いますし、このような解釈の信仰という言葉のイメージなら、師匠の説明がなければ「信仰を捨て去れ」に「仏教的信仰」が含まれると解釈される方もいるのじゃないかと思うのです。
 ですので私は師匠の言われる「仏教的信仰」の意味からは、「信仰を捨て去れ」には該当しないかもしれないとも考えられるのですがその言葉には抵抗感があります。

 私の『「仏教的信仰」は「信仰を捨て去れ」には該当しないかもしれない』とちょっと曖昧な意見は、信仰・信についてもう少し師匠の解釈をお聞きしなければ何ともいえない部分があると思っているからですが、「合理的なことを理解・納得し合理的に生きようとするようなこと」は、その合理的なことを信仰するとか信じると言うのが適切なのでしょうか?
 私は初期仏教の全容はよく分かりませんが、ブッダ自身が説かれたことは合理的であったと思っておりますし、合理的であるからそれは「信仰ではない」とブッダ自身が思われていたのではないかと思いますし「信仰を捨て去れ」の言葉もしっくりきます。

 師匠からこの点のお返事を頂いた上で、師匠の言われる「仏教的信仰」が「信仰を捨て去れ」には該当しないかどうかについて異論があるかどうかを再度考えてお返事したいと思います。

99Libra:2006/01/31(火) 03:52:54
 みれいさんへ

 みれいさんが今回提起された勧持品がらみ問題については、わたしはだいた
い述べたいことを述べおわったようにおもいます。

 わたしのほうは、またしばらく忙しくなりますので、少なくとも半年くらい
はここには来れないとおもいますが、またいつの日か、お付き合い頂ければさ
いわいです。

 とはいえ、少しだけまだ時間がありますので、以下に、3点だけ補足して、
おわりにしたいとおもいます。

1.創価学会における「日蓮神格化の拒否」の歴史について

 わたしは、さきに、「日蓮を本仏として神格化することを創価学会員として
明確に拒否した最初の人物は松戸行雄さんだと〔中略〕おもいます」(>>84
とかきました。

 しかし、日蓮を名指ししてはいないものの、初代会長の牧口常三郎が、すで
に、「如何にして、如何なるものを信ずるかといふに、如何に信用し、崇拝す
る人の言論でも、自分の経験に合致するものか、若くは実際の生活に当て嵌め
て見て妥当するもの即ち実験証明の出来たものゝ外は、容易に信ずる訳には行
かなくなったのが、現今に於ける多少に拘らず教育を受けたものの実際の状態
である。」「斯くして吾々は、如何なる偉人の言でも、軽々には信服しないと
同時に、如何に賤しい無名の人の言でも、苟くも自分の経験と合致し、若しく
は実験証明の挙げられたものには事の善悪得失の如何に拘らず、何人も素直に
承認し、それに服従しなければならぬこととなつた。是又理性の然らしめる所
である。」[*1]といっています。

 上でいわれている「崇拝する人」や「偉人」のなかには、当然、シャカも日
蓮も入りますから、実質的には、初代会長の牧口によって、すでに日蓮の神格
化は拒否されていたということができるとおもいます。

 また、「松戸さんのご主張は、創価学会の内部では、ほとんどまじめに議論
されることもなく無視されてしまいました」(>>84)ともかきましたが、実際
には、完全に無視されたというわけでもなく、以下のような形で取り入れられ
たようにおもいます。

  ─────────────────────────────────
  名誉会長 「人間・釈尊」を忘れた時、仏教は「人間の生き方」から離れ
   てしまった。「師弟の道」がなくなった。その結果は、仏教の堕落であ
   り、権威化です。

  (池田大作他『法華経の智慧』第四巻、聖教新聞社、1998年、p. 49)
  ─────────────────────────────────

  ─────────────────────────────────
  名誉会長 さあ、そこで「寿量品」です。寿量品の「発迹顕本」にこそ、
   「人間・釈尊に帰れ!」という法華経のメッセージが込められているの
   です。ここでは、このことを少し考えてみよう。

  (同上、p. 50)
  ─────────────────────────────────

  ─────────────────────────────────
  斉藤 大聖人は、常に「釈尊に帰れ!」と叫ばれました。大日如来を崇め
   る真言宗に対しても、「大日如来は、どのような人を父母として、どの
   ような国に出現して大日経をお説きになったのか」(御書一三五五㌻、
   趣意)と破折されてます。

  (同上、pp. 68-69)
  ─────────────────────────────────

 《「人間・釈尊」を忘れると「師弟の道」はなくなり、それは、仏教の堕落
であり、権威化である》という上記の主張にしたがうなら、《「人間・日蓮」
を忘れたら、「師弟の道」がなくなり、それは、仏教の堕落であり、権威化》
であるということに当然なりますから、日蓮の神格化はやはり拒否されたこと
になります。


  [*1] 信仰的模倣時代から理性の時代へ(牧口常三郎)
     http://page.freett.com/Libra0000/024.htm

100Libra:2006/01/31(火) 03:55:40
2.「地獄に落ちるぞ」というセリフについて

 日蓮は、「地獄」は「我等が五尺の身の内に」あるとか、「我等がむねの間」
にあるといっています。

  ─────────────────────────────────
   抑地獄と仏とはいづれの所に候ぞとたづね候へば或は地の下と申す経文
  もあり或は西方等と申す経も候、しかれども委細にたづね候へば我等が五
  尺の身の内に候とみへて候、さもやをぼへ候事は我等が心の内に父をあな
  づり母ををろかにする人は地獄其の人の心の内に候

  (「十字御書」、学会版全集、p. 1491)
  ─────────────────────────────────

  ─────────────────────────────────
  夫れ浄土と云うも地獄と云うも外には候はずただ我等がむねの間にあり

  (「上野殿後家尼御返事」、学会版全集、p. 1504)
  ─────────────────────────────────

  ─────────────────────────────────
  衆生の心けがるれば土もけがれ心清ければ土も清しとて浄土と云ひ穢土と
  云うも土に二の隔なし只我等が心の善悪によると見えたり、衆生と云うも
  仏と云うも亦此くの如し迷う時は衆生と名け悟る時をば仏と名けたり

  (「一生成仏抄」、学会版全集、p. 384)
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 《「地獄」は、この世界とは別のところに存在している世界のことなどでは
ない》というのが日蓮の基本的な認識です。「浄土」についもおなじです。

 これにたいして、法然の念仏は、《念仏を唱えることによって、死んだあと
に、この世界とは別のところに存在している「浄土」に生まれ変われる》とい
うものです。

 日蓮は、この世界とは別のところに存在している「浄土」などをもとめる人
(念仏信者)の心は、「真の浄土」とはもっとも遠いところ(すなわち地獄)
にいると考えていたのです。


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