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日蓮考察

142わめ ◆TJ9qoWuqvA:2006/02/03(金) 02:29:20
 Leoさん

 釈迦の涅槃(成仏)に至るための実践・修行方法は四諦・八正道で、日蓮は摂受・折伏(化他行)・題目行(自行)だと私は思いますが、釈迦と日蓮では涅槃(成仏)に至るための実践・修行方法が違うように思います。
 このどちらが涅槃(成仏)に至るための実践・修行方法として勝れているかは分かりませんが、この両方が涅槃(成仏)に至るための正しい実践・修行方法だとするならば、実践・修行方法は一つではないことになります。
(瞑想行も加えると3つになりますが。これを言い出すと禅もあるいはキリスト教だってそうかもで一杯出てきそうw)

 私にはどの実践・修行方法が涅槃(成仏)に至れるのか、あるいはどの実践・修行方法が一番早く涅槃(成仏)に至れるのかが分かりません。(楽しくとか簡単にとかも考慮に入れると余計に分かりませんがw汗)
 また私にはこの3つ(瞑想行も入れて)の実践・修行方法がそれぞれ正しいのか間違っているのか分かりませんから、私が涅槃(成仏)に至ることをもしも願うとしたら、この場合どれが正しいのか理解できていないわけで、どの実践・修行方法を実行するにしてもそこに信仰が必要になると思うのですが、この場合の信仰は正しい信仰姿勢と呼べるのでしょうか?
 私はこの場合の信仰は「しがみつき、玩び、宝物のように扱い、執着」するような誤った信仰のように思いますが、それでもこれらの実践・修行方法が(運よく)正しければ、実践・修行方法に忠実に実践すれば(激流を渡るなどの)目的は果たされるのかもしれません。

 あるいは私が縁起の思想などからこの3つの実践・修行方法を吟味して明解に判断できたとするならば、その場合にも信仰は必要なのでしょうか?

 釈迦の言われた「清らかで”明瞭”なこの見解」は、心が何かに囚われていなくてそれなりの智慧があれば信仰は必要なく、理解・納得し実践できるように私には思えてならないのです。

 以上述べたことは仏教の枠から外れた私のとんでもない我説かもしれませんが、「信仰を捨てよ」・「清らかで”明瞭”なこの見解」・「ひとは信仰によって激流を渡り、〔中略〕智慧によって全く清らかとなる。」とも符合するように思います。


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