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避難用作品投下スレ3

1管理人★:2007/10/27(土) 02:43:37 ID:???0
葉鍵ロワイアル3の作品投下スレッドです。

795アイニミチル (5):2008/06/26(木) 03:35:09 ID:I4YEtknU0
 
眼前の光景が、悪夢であればいい。
手も足も赤光の十字架に囚われて動かせずに、だから私はただ、息を呑んだ。
ずるりと崩れたその身体から赤黒い液体が溢れ、ぽたぽたと垂れ落ちて、
それで夢などではないと気づかされ、初めて悲鳴が漏れた。
姉さま、と叫んで。
叶わぬと知りながら伸ばした手は、眼前にあった。
疑問に思う余裕など、なかった。
手が動く。足が動く。それだけで、その事実だけで十分だった。
走る。突き出た石に、平らでない岩場に何度も躓きそうになりながら、走る。
ぬるりと滑る血に足を取られる。
音が遠い。胸が苦しい。見えるすべてが薄っぺらい。
あらゆる感覚が火傷しそうなほどに熱くて、同時に作り物じみていた。
姉さま、姉さま、姉さま。
針の飛んだレコードみたいな悲鳴だけが、他人事のように響く。
腕を伸ばして、届かず。
手を伸ばして、届かず。
指の先までを懸命に伸ばして、それから一歩を踏み出して、ようやく触れた、その白い手は。
ひんやりと、まるでもう、生きてはいないみたいに、冷たかった。

いやだ、と首を振る。
むしゃぶりつくようにその手を抱き寄せて、その腕を手繰り寄せて、その肩を、抱きしめた。
細く、軽く、それでやっぱり冷たいその肩を抱きしめて、すぐ近くにある耳に、叫ぶ。
ねえさま、ねえさま、ねえさま。
わたしはここにいます、ひじりはここにいます、ねえさま、ここにいます。

どれだけ叫んでも。
どれだけ、喉を痛めて叫んでも。
声なんて届かないみたいに、その眼は、どこか違うところを見ていて。
いつまでも、私を、見てはくれない。

796アイニミチル (5):2008/06/26(木) 03:35:29 ID:I4YEtknU0
けれど。
ずっとずっと叫んで、咳き込んで、涙が出るほど咳き込んでようやく、私は気づく。
紫色に染まった、血のついた唇が、微かに震えていた。
何かを、言おうとしていると思った。
必死に耳を寄せる。どんな言葉でもよかった。
その声を、その言葉を、覚えておこうと思った。
私に向けられる、本当にたいせつなことば。
それがどういうものであれ、私はそれだけを覚えておこう。そう思った。

 ―――つぎは、きっと、かみを。

意味が、分からなかった。
いくつもの疑問符が私の頭に浮かんでは、泡のように弾けて消えていく。
分からない。分からないからきっと、これは最後の言葉じゃない。
私に向けられる、たいせつなことばなんかじゃない。
だから、こんな言葉なんかじゃなく、私は、私の姉さまは、私に、言葉をくれるんだ。
本当に大切な言葉。
本当に大切な言葉、本当に大切な言葉、私に向けられる、ほんとうにたいせつなことばは。
いつまで待っても、やってこない。

その目は、何も映さない。
その口は、何も話さない。

その目はもう、私を映さない。
その口はもう、私に何も、話さない。

その目は最後まで、私を見なかった。
その口は最後まで、私に言葉をくれなかった。

本当に、最後の最後。
事切れるまで、私は、待っていたと、いうのに。
名を呼ばれることすら、なかった。

ごめんなさい、と。
ありがとう、と。
それだけで、それだけで救われたのに。

たった一言さえを、遺さずに。
私のたいせつなひとは、いってしまった。

そんなことが。
そんなことが、あっていいはずが、なかった。
あってはならないことが、目の前にあるのなら。

―――間違っているのは、目の前の光景のほうだ。


***

797アイニミチル (5):2008/06/26(木) 03:35:53 ID:I4YEtknU0
 
水瀬秋子の亡骸にすがりつく女の全身が、燃えるような朱色の光を放ち始める。
背後に青光、びりびりと震える青の柱、正面に燃え立つような朱の光。
その二つの輝きに挟まれて、ひとり呵う女がいる。

天野美汐。
目も眩まんばかりの光を睥睨するように見比べて、呵う。

「哭け、嘆け、哀れな人形たち!」

光柱の中の観月マナを、既に物言わぬ骸と化した水瀬秋子を、それに取り縋って泣く霧島聖を、嘲う。

「赤々と咲け、愚かな道化!」

聖の背に突き刺さるような言葉と視線。
何の反応も返さず、聖の全身からは目映い朱色が立ち昇っている。

「その命を燃やすとき青が蒼穹を映すように、赤もまた、己を灼いて紅蓮を生ずる、
 爆ぜろ、爆ぜろ、喪失を拒んで燃え上がれ―――!」

嘲う女が、くるくると回る。

「記し手の死を以って青の書は蓄えた力を解き放ち―――」

いまや爆発的な勢いで輝きを増しつつある青の光柱へと手を差し伸べ、踊る。

「青は神を喚ぶ門となり―――」

青の光が、融けていく。

「赤は彼岸と此岸とを繋ぐ懸け橋となる―――」

赤の光が、融けていく。

「両儀を糧に、今こそ神の降る刻―――」

くるくると舞い踊るような女の周りで、赤と青が融けていく。
果てなく広がるような岩窟を隙間なく埋め尽くすように、光が拡がっていく。
その中心で、ただひとり、呵い、踊る女がいる。

798アイニミチル (5):2008/06/26(木) 03:36:12 ID:I4YEtknU0
「使徒の青はあり得べからざるの在るを肯んじ―――」

あり得べからざるもの。
この世に在ってはならぬもの。
ないはずのものが、存在を肯定され、顕れようとする。
それは、光柱の中にいたはずの少女をばらばらに分解し、滅茶苦茶に繋ぎなおしたような、おぞましい何か。
怖気立つような何かが、その大きさを増していく。
大きさが増すにつれ、少女だった何かはその形を失くしていき、やがて、消えた。
代わりにそこにあったのは、四角く巨大な、黒の一色だった。
厚みもなく、色以外の何もなく、それは存在していた。
見上げるほどに大きなそれを慈しむように美汐が哄う。

「そして愚かな道化の赤は、あり得べからざるの無きを拒む―――」

あり得べからざるもの。
この世に在ってはならぬもの。
ないはずのものが、非在を拒絶され、顕れようとする。
亡骸に縋り、朱く燃えるような光を放っていた女が、ついには一柱の光となって、消えた。
光は空に融けず、音もなく存在する黒に吸い込まれていく。
染み渡るような朱に、巨大な黒が静かに震えだす。
それはまるで、長く埃を被っていた古い機械に、時を越えて電気が通ったかのように。
小さな振動は、やがて目にも明らかな震えとなって辺りを揺るがし始める。
それは奇妙な光景である。
音もなく厚みもないその黒い何かの震動が、確かな重みをもって辺りを揺らしていたのだった。

「ついに門が―――開く」

799アイニミチル (5):2008/06/26(木) 03:36:30 ID:I4YEtknU0
震え、軋み、今にもばらばらに砕け散りそうな、その巨大な黒い何かの前に、美汐が立っている。
その表情は歓喜に満ちていた。
それは哀れな草食動物の、湯気を立てる臓物を前にした肉食獣のような。
或いは愚かな落第生の、試験用紙を前に苦渋するのを見下ろす教師のような。
絶対の確信と、抑えきれぬ情動の漏れ出すような、それは歓喜の笑みだった。

その両の手には光と、本があった。
右手には青の本。
門と化して消えた少女の持っていた、青く輝く書物。
左手には赤の本。
赤の使徒を名乗る少女を悦楽の地獄に突き落として奪った、赤く煌く典籍。
両の手に光と書とを宿し、天野美汐は哄う。

「二つの書は幾多の時を巡り、終に貴女方を超える力を蓄えるに至った……!
 さあ……姿を見せなさい、神の名を持つ化け物ども―――!」

その眼前で、『門』が、開いた。

800アイニミチル (5):2008/06/26(木) 03:37:06 ID:I4YEtknU0
 
 【時間:2日目午前11時半すぎ】
 【場所:B−2 海岸洞穴内】

天野美汐
 【所持品:青の書・赤の書】
 【状態:異能パーフェクト・リバ、元GLの使徒、遊戯の王】

水瀬秋子
 【状態:死亡】

霧島聖
 【状態:消滅】

観月マナ
 【状態:消失】

→986 ルートD-5

801走れ獣よ、お前は美しい:2008/06/29(日) 04:16:10 ID:3HLWBWUQ0
 ボタンは激怒した。
 必ず、かの邪智暴虐の主催者を除かなければならぬと決意した。
 ボタンには殺し合いをする理由がわからぬ。ボタンは、藤林杏の飼い猪である。笛を吹き、人間と遊んで暮して来た。
 けれども邪悪に対しては、人(?)一倍に敏感であった。
 きょう正午ボタンは出発し、野を越え山越え、十里(くらい。本人の感覚で)はなれたこの鎌石村にやって来た。

「……やれやれ。杏の姉御もどこに行ったものやら。無事だといいのだがな」(※ボタンの声は翻訳されています)

 高くそびえ立ち、威嚇するように自分を見下ろしている民家群の中を移動しながら、ボタンはそう呟いた。
 ちなみにやたらとハードボイルド風味なのは仕様である。

「しかし、何の匂いも……いや、『ニンゲンの』匂いはあるか。……以外は何も匂わんな。犬どもや猫どもの匂いが微塵も感じられん。それだけじゃない、植物や建物も新しすぎる。言っちゃなんだが、温室栽培、って感じだ」

 違和感。それはどいつもこいつも「天然物」ではないということだ。
 それは即ち、全部が作り物ということを意味している。
 ボタンとて人間の世界に住まう以上、人工物には幾度となく触れてきたし、所謂養殖物と言われる食べ物が現在の主食だ。
 だからと言って、この世界は異常だ。全てが人工物であるなど在り得る訳がない。

 そう、島をまるごと一つ作り上げるなど。
 しかもかかる費用が莫大過ぎる。埋め立てるならともかく、どことも知れぬ海上に一から建設し、その上電気、水道などの管理施設まで用意するとすればそれは娯楽の範疇を超えている。
 加えて土地の問題もある。いきなり島一つ建てられるわけがない。時間は必ずかかるはずなのだ。だとすれば、その途中で必ず権利問題などが生じるはず。そこをどうやって切り抜ける?

 今のうちに解説しておくが、ボタンが博識なのはいつも杏の膝の上でテレビを見てたり床に置いてある新聞を眺めたり近所のおばちゃんの世間話を聞いたりしていたお陰である。人間バンザイ。

802走れ獣よ、お前は美しい:2008/06/29(日) 04:16:29 ID:3HLWBWUQ0
 それはさておき、こんな催しを開催するとすれば国家単位でやっているという可能性が一番大きい、がリスクが大きすぎる。
 人間界の情報は驚くほど早く、正確だ。マスコミならともかく、国家単位で行う諜報のレベルからすると、とてもではないがこんな催しを隠しきれるわけがない。並大抵の国家なら全世界から非難を浴びて大爆撃の喝采は確定だろう。
 ……そう、権力と圧力が必要なのだ。殺し合いを開催するのであれば、その非難すらも押し潰す圧倒的な権力が。
 アメリカ。権力の大きい国家としては世界でも随一だ。その線もある。だが如何にアメリカとて軽々しくそのような行いができるはずもない。それくらいの理性はある。
 だとすれば、可能性はもう一つ。もうそこしか見当たらない。

「……篁財閥。ここ最近、一気に有名になった、全世界に影響があるとすら言われる巨大企業……」

 テレビから得た情報でしかないが、それくらいはボタンも知っている。
 全世界に影響を及ぼす、などという言葉があるくらいなのだから開催すること自体は可能だろう。
 問題は巻き起こるであろう、全世界からの非難をどう回避しているかということだ。
 金だけで倫理や道徳は踏み潰せない。国家に手出しをさせないためには絶対的な恐怖と、脅威が必要だ。
 そう、今やっているこのバトル・ロワイアルのように。

「……まさか、な」

 ボタンの中に一つの可能性が浮かぶ。
 核兵器。それを篁財閥が所有しているという可能性だ。
 核の抑止力は有効性が薄れつつあるとは言え、現代においてもその効力はまだまだ十分に力を発揮している。篁財閥ならばそれを手に入れるのも容易いことだろう。いや手に入れるだけでなく、発射する手段すら確保できると言っても過言ではない。
 篁財閥はあらゆる事業に手を出していると耳にしたことがある。それこそ、食品販売から武器兵器の売買にまで。その上で太いパイプを持っているとするならば、おおよそ不可能ではない。
 ……放送で、篁、という人物が呼ばれていたのが気にかかるが……同姓の別人であろう。トップが現場に出てくることなど在り得ない。

 オーケイ。ならば篁財閥がこの殺し合いを開催したとしよう。
 その目的は何だ?
 こんな非人道的なことを無理矢理させるのに意味があるとは思えない。
 単に殺し合いをさせるだけならそれこそ闘技場のようなところに集めて一斉に戦わせればいい。その方が高尚な悪趣味を持っておられる方々もお喜びになるでしょう、ええ。

803走れ獣よ、お前は美しい:2008/06/29(日) 04:16:47 ID:3HLWBWUQ0
 それに自由度を持たせているということは、それだけ参加者に抗う手段を持たせているということに他ならない。
 ちょこっとしか見てないが、USBメモリなんてのはその典型だろう。他にも何かを解除できるスイッチなんてのもあった。
 時間もかけすぎている。こんなものは誰かに気付かれ、妨害をされる前に手っ取り早く終わらせたほうがいいに決まっている。無駄に時間をかけても遊戯としての面白みも薄れる(参加しているこっちは全然面白くもありませんが、クソ)だろう。それこそ首輪に時間制限を設けて短期決戦にした方が早い。
 それに参加させられている面子も、この間まで普通に学生していたような連中や、普通の人間ばかりだ。
 恐怖を煽り、疑心暗鬼から来る人間の醜さでも演出したいのだろうが、だとしたら尚更短期決戦に……という結論にしかならない。

 まるで素人だ。いや、単純に殺し合いという枠の中に放り込んだだけのようにすら見える。
 そこに合理性や目的は見えない。それなりの形にさえなればいい、という意思すら見え隠れする。
 いや、まさにそれだとしたら?

「人が減った後にでも……何かを仕掛ける気なのか」

 何度も繰り返すようだが、ボタンがここまで賢いのは日々の努力と彼の明快なる頭脳のお陰である。
 つまり、ボタンは天才なのだ! それはともかく。

 だとして、何を仕掛ける? わざわざ殺し合いをさせるという手間をかけてまで、それに誰が生き残るかも分からない状況で、特定の人物だけが生き残るのを期待するのはほぼ不可能だ。
 つまり、生き残る人間自体は誰でも良くて、その上で殺し合いに勝ち残り、肉体的にも精神的に変貌した人間を集める。

 怯え、逃げ惑うだけの人間。
 狂気に駆られ、殺戮の波に飲み込まれた人間。
 理想だけの非現実主義者的な人間。

 これらの人物はここまでに淘汰されている可能性が非常に高い。そして生き残るのは……
 鋼の如き心を持った、芯の強い、屈強な人間だ。
 それが殺し合いに乗っているいないに関わらず。

804走れ獣よ、お前は美しい:2008/06/29(日) 04:17:09 ID:3HLWBWUQ0
 ……そして考えられるのは、強くなった連中を「何か」と戦わせることだ。
 殺し合いという異常な環境を通して強くさせる。恐らく、ではあるがどんなに精神的に強固になったとして、その根底にあるのは「生き残りたい」という思いであろう。そこに服従といった主催者に従わせる意思は多かれ少なかれ失われていくはずだ。
 最初から主催者の手駒にする気など毛頭ない。その代わりに何かと戦ってもらう。もしくはその力を何かに試す。実験台として。
 弄ばれ、モルモットにされている……そうであるかもしれないと思うと、ボタンのはらわたが燃えるように煮えくり返っていた。

「ちっ、杏の姉御をそんな実験台にさせてたまるか」

 己の主人であり、絶対的な忠誠心を捧げている杏のことを思えば尚更であった。
 路頭に迷っていた自分を優しく抱き上げ、暖かさで接してくれて、今日まで大事にしてもらった恩義を忘れたことなどありはしない。
 ボタンは情の猪であった。ボタンは仁義の世界に生きる猪である。ぶふー、と獰猛な鼻息を吐き出しながら更に考えを進める。
 そう、仮にこの説が正しかったとして何の実験にするのか。

 鬼ヶ島の鬼退治か?
 世界に誇る最強軍隊の実戦練習?
 それとも未知の超兵器との対決?

 どれもありえそうだから困る。何せ相手は篁財閥なのだ。
 ……しかし、これだけははっきりしている。
 この殺し合いに優勝はない。参加者に待ち受けているのはお互いに殺しあっての死か。
 或いは今後待ち受ける主催者の実験台にされての死か。

 まともに戦っているなら、運命はこの二択しかない。
 無論伊達や酔狂で、上層部の人間たちの悪趣味でこんなことをした、という可能性もある。
 ボタンの考えはあくまでも推測でしかなく、真実など分かりようもない。
 ならば運命に逆らうしかない。真実を知るためには、反逆の道を選ぶしかない。

805走れ獣よ、お前は美しい:2008/06/29(日) 04:17:25 ID:3HLWBWUQ0
 そうだ、考えろ。この殺し合いは過程だとするなら。過程だからと高をくくっているのなら。
 抜け道はどこかにあるはず。どんなに包囲網を厳しくしようともそれを考え出すのは人間。ならばどこかに必ず穴がある。
 その穴の一つが、ボタンだ。

「……俺には首輪がない。ポテト……いや、マスター・オブ・裏庭にもな。獣だからと、舐めてかかったな」

 参加者には必ずある首輪。それは絶対的な拘束力であると同時になければもはや縛る要素はないと言っても過言ではない。
 そう、それが自分達にはない。つまり、本来の参加者が入れないところにもボタンやポテトは入れるはずなのだ。
 突くべきはそこ。だが、その入れる場所の、そこが分からない。そこだけは人間の力を借りる必要があった。

「杏の姉御が第一目標だが……他の人間とも接触を試みてみるか……賢そうな奴がいい」

 幸いにして、自分は人間に可愛がられやすい姿である。無闇に攻撃はされまい。

「……ま、ボチボチやってみますか……ん!?」

 ふと、風に乗って何やら焦げ臭い匂いが鼻につく。
 ふごふごと鼻を鳴らしながら、ボタンはその根源を探る。犬ほど利かぬとは言え、これでも獣の端くれだ。
 探りを入れつつ辿ってみれば、その大元は今差し掛かっている坂の上から来ていることに気付く。

「ドンパチか……ちっ、どうする、行くか……?」

 考えかけて、ふと主の杏ならばどうするだろうと想像してみる。

806走れ獣よ、お前は美しい:2008/06/29(日) 04:17:52 ID:3HLWBWUQ0
『行くに決まってるじゃない! もしあそこで誰かが助けを求めているなら……放っておけないでしょ!?』
「……ああ、そうだな、杏の姉御ならそうするか!」

 威勢のいい掛け声と共に、想像の杏が華麗に、真っ直ぐに、しなやかな足を振りかざしながらボタンの眼前を駆けて行く姿が見える。
 ならば、それに従わぬ理由はない。
 時既に遅し、かもしれないが。行かぬよりはマシ。
 言葉通りの猪突猛進で、ボタンは坂を駆け上がっていくのだった。

「……あいてっ!」

 ……時折、くねった道を曲がりきれずに木に激突したりしていたが。








【時間:二日目午前18:50】
【場所:D-3】

ボタン
【状態:杏を探して旅に出た。火災元(ホテル跡)へ直行。主催者に怒りの鉄拳をぶつける】
→B-10

807アイニミチル (6):2008/07/04(金) 00:54:21 ID:qK9RljSM0
 
ずるり、と。
『門』から出てきたそれを一言で表現するならば、醜悪だった。
それが姿を現した途端、まず辺り一面に漂ったのは猛烈な悪臭である。
饐えた牛乳と海産物を乱暴にかき混ぜて煮詰めたような、生理的な嫌悪感を催す臭いを撒き散らしながら
地響きを立てて降り立ったのは、見上げるほどに巨大な、ぶよぶよとした丸い塊だった。
脂ぎった体表面のそこかしこから、うぞうぞと蠢く肉の突起が飛び出している。
それが醜悪であったのは、その悪臭と形状のみではない。
そのおぞましい巨塊はまだもう一つ、見る者に吐き気を催させるような要素を備えていた。
目。鼻。耳。
人が、ヒトの顔として認識するために必要なパーツを、それは持っていた。
二対の目は互い違いの方向を睨み、二つある鼻は汚らしい色がついているかのような吐息を漏らし、
四つある耳の内側にびっしりと生えた肉の突起は秋の麦穂のようにざわざわと蠢いている。
ヒト二人分の顔の造作が不気味な肉饅頭の中に散乱している、悪夢の光景。
腐り果てた蜜蝋の塊に、人の目鼻らしき形を適当に埋め込んでその表面を火で炙ったような、
それは醜悪で粗悪で劣悪な、ヒトの顔のまがい物であった。

『私を―――』『私たちを喚んだのは―――お前、なの―――?』

ごうごうと、洞穴を吹き抜ける風のような低くおぼろげな声。
醜悪な巨塊の放った、その声は二つ。
もごもごと震えた巨塊に口らしきものは見当たらない。
ぶよぶよと震動する肉そのものから、声は発されているようだった。

「……そうですよ、化け物」

猛烈な悪臭も不気味な容貌も、圧倒的な体躯の差にも臆した様子なく、静かに言い放ったのは
巨塊の正面にたたずむ女、天野美汐である。
赤と青、二色の光が渦を巻くようにその両手から立ち昇っている。

『性なる神を前に―――』『化け物呼ばわりとは、いい度胸なの』

808アイニミチル (6):2008/07/04(金) 00:54:44 ID:qK9RljSM0
ごぼごぼと、粘液質の泡がいくつも弾けるような湿った声。
痰の絡んだようなその声が収まるや、巨塊に生えた無数の肉突起が蠕動を開始。
その内の数本が目にも止まらぬ速さで伸びると、美汐へと一直線に迫る。
佇む美汐を無惨にも貫くかに見えた触手群は、しかしその目標へと到達することすらなく、消えていた。
霧のかかったような瞳の女がしてみせたのは、ただその手を打ち振るうことである。
手の一振りで、その左手に宿った赤い光が壁のように立ちはだかっていた。
赤い光の壁に触れた途端、触手の群れは消え去っていたのである。

「非在の拒絶による具現、存在の拒絶による消滅……」

低く呟かれた美汐の言葉に憤るように、巨塊がぶるぶると震えた。
互い違いにあらぬ方を見ていた二対の瞳が、美汐を捉えて怒りの色を浮かべる。

『小賢しいの―――』『そんな力、所詮は私たちの餌でしかありません』

ぶるぶると震えていた巨塊が、唐突に消えた。
否、その姿は空中、青と赤の光に照らされてなお薄暗い岩窟の広間の高みに存在していた。
一瞬にして数メートルを跳ねたのである。
その巨躯に似合わぬ、恐るべき敏捷性であった。

『しゃぶり尽くしてあげますよ、その力』『―――おいしそうなの』

中空、放物線の頂点で静止した一瞬。
巨塊に、びきりと巨大な罅が入り、次の瞬間、割れ、爆ぜた。そのように、見えた。
が、巨塊はまだ、一つの塊である。
割れ爆ぜたように見えたのは、その球形の塊を縦の真一文字に裂くように開いた、巨大な割れ目の故であった。
その裂け目から、ぼどぼどと粘液質な液体が滲み出している。
内側に見えるのは、ざわざわと蠢く、まるでイソギンチャクを思わせるように密集した肉突起の群れ。
そしてその中心に位置するのはひときわ巨大な、桃色の肉塊。
表面を細かな疣に覆われながら、蛞蝓のようにぐねぐねと不気味に蠢くそれは、紛れもない、舌である。
してみると薄黄色に汚れた岩石の如きものは、歯列であろうか。
がばぁり、と。
縦一文字に割れ開いた、肉の裂け目は。
巨塊に散りばめられた人の顔の要素に足りなかった、最後の一つ。
だらだらと涎を垂らす、それは巨大な口腔であった。

『私たちの舌技、味わう間もなく潰れなさい』『―――いただきまぁす、なの』

その重量と位置エネルギーとを膨大な運動エネルギーに変えながら、巨塊が落下を開始する。
ごうごうと風を巻きながら、ぼろぼろと涎を散らしながら、落ち行く先はただ一点。
赤と青の光に包まれた、天野美汐である。
迫り来る巨塊、その大きく開かれた汚らしい口腔に、為す術もなく呑み込まれるかに思われた美汐の表情は、
しかし微塵も動かない。
そこには恐慌も、恐怖も、絶望も、寸毫とて存在していなかった。

809アイニミチル (6):2008/07/04(金) 00:56:15 ID:qK9RljSM0
「いい加減に……理解していただけませんか」

彼女が漏らしたのはただ、冷笑である。
応えるように、右の手に持った分厚い書物が青い光を強めていく。
刹那の間に直視できぬまで強くなった青の光が、弾ける。
瞬間、胃の腑を抉る重低音が幾つも重なって響くような、名状し難い音が岩窟を揺るがしていた。

『……ぐ、ぅ……!』『か、はぁ……!』

苦しげに呻いていたのは、中空から落下を始めていたはずの巨塊の方だった。
美汐の細い体を押しつぶさんと迫っていた巨塊が、止まっていた。
その球形の巨躯を中空に縫い止めていたのは、光の柱である。
水晶を思わせるような、硬質な輝き。
大地に立つ美汐を包み込むように聳えた青光の柱が、その先端で貫くように、巨塊を受け止めていた。
限界まで開かれた口腔一杯に野太い光柱を突き立てられた巨塊がぶるぶると震えるが、青光はこ揺るぎもしない。
がっちりと光柱を咥え込んだその隙間から白く泡立った唾液が落ちて、辺り一面に刺激臭を撒き散らした。

「どうしました? ……見せてくださいよ、ご自慢の舌技」

嘲笑に満ちた美汐の声に、巨塊の表面から突き出た肉突起がざわざわと蠢く。
その内の何本かが苦し紛れに美汐へと迫るが、青い光の壁に阻まれて届かない。

「ええ、貴女方は全能にして無敵ですよ、『神様』。……貴女方の世界においては、ね。
 貴女方は存在するだけで世界を狂わせる。青の加護を持たぬ者は正気を保つことすらままならず、
 ただ無作為に歩き回るだけで人々は色に狂い爛れて死んでいく。
 そのまま世界を滅亡させることだって容易いでしょう」

見開いた眼窩に泥を擦り込むような、ねっとりとした悪意を込めて、神という単語が紡がれる。
美汐の冷笑は自身の表情すらも凍りつかせてしまったかのように動かない。

810アイニミチル (6):2008/07/04(金) 00:58:32 ID:qK9RljSM0
「貴女方の世界、貴女方の宇宙、貴女方の時間。その狭い世界で、貴女方は確かに神と呼ばれるに相応しい。
 こちら側に出てきてなお、その力は人のそれを遥かに凌駕している。
 無限に近い力、ですが―――それは決して、無限そのものでは、ありません」

淡々と呟く美汐。
その身を包む青い光の中で、今度は左手から立ち昇る赤い光が次第に強くなっていく。

『ほの、ぉ……いんげん、ふれいがぁ……』『あに、お……らまいひら、ころお……らろおぉ……』

ぶるぶると震える巨塊が何事かを喚き散らそうとするが、口腔に光の柱を詰め込まれた状態では
それもままならぬのか、紡がれる言葉は明瞭なものにはならない。
代わりに大量の唾液が飛び散って辺りを汚した。

「無限に近い有限。ならば……それを凌ぐことは、可能なのです。
 一度の生で超えられぬ限界ならば、二度。二度で駄目ならば、三度繰り返せばいい。
 そうして繰り返せば、いつか私は、繰り返し続ける『私たち』は……貴女方を超える」

つんと鼻をつく、乳製品の発酵臭に近い臭いの漂う中、顔色一つ変えずに美汐は続ける。

「その為の『書』、その為の器。『私たち』の経てきた幾星霜が―――ここにある」

掲げた両の手に、二冊の書。
右の手には青い本。
あり得べからざるを肯んじる、青く輝く書。
左の手には赤い本。
あり得べからざるの無きを拒む、赤く煌く典籍。

「青は貴女方の撒き散らす害悪を相殺し―――そして赤は、貴女方の存在そのものを否定する。
 この二冊に込められた、時を越えて集められた力が……『神』を討つのです」

見据える先には、神を名乗る醜い巨塊。
涎を垂らし、野太い柱を銜え込んだ、それは醜悪なヒトのまがい物。

811アイニミチル (6):2008/07/04(金) 00:59:19 ID:qK9RljSM0
「……沢渡真琴を、覚えていますか?」

徐々に強くなる赤い光を左手に宿しながら、美汐が口を開く。
何気なく呟かれたその言葉は、無色。
透明、と呼べるものではない。あらゆる感情の色、正も負も入り混じった、数限りない感情が
無数に押し込められたが故、特定の色を判別できぬが故の、混沌の無色であった。

「貴女方に犯され、引き裂かれて、無惨に殺された……私の、大切な友人です」

ぎり、と鳴ったのは噛み締めた歯であっただろうか。
混沌の無色をその瞳に宿し、怒りや憤りや悲しみやそういうものですらない、同時にそういうすべてが
蓄積され醸造され蒸留されたような、ひどく歪な表情を貼り付けたまま続けられた美汐の言葉に、
光柱に突き刺されたままの巨塊がぷるぷると震える。
無作為に蹴散らされたかのようにバラバラに配置された二対四つの眼が、不可解な色を浮かべていた。
何を言われているのか理解できぬ、とでも言いたげなその様子に、美汐が口の端だけを上げて嘲う。

「……でしょうね。今の真琴がどう生きてどう死んだのか知りませんし、興味もありませんが……。
 きっと、貴女方とは関わりないのでしょう。ええ、私が言っているのは昔のことです。
 ずっと、ずっと……もうどれくらい昔だったのか、それすら思い出せないほど『以前』の、こと。
 ―――私の覚えている、最初の真琴」

眼を閉じて、大きく息を吸う。

「貴女方は繰り返しの元凶であるだけ……その存在が時を歪める、ただそれだけの異物。
 『以前』のことを覚えてなど……いないのでしょうね」

その左手に宿った赤い光が、分厚い本を中心にして渦を巻くように集まっていく。

「だからこそ―――許せない。
 だからこそ―――赦さない」

凝集した光が、一つの形を成していく。
細く、長く、先端は鋭く。
それは目映く煌く、赤光の槍。
槍の中心には赤の書が埋め込まれ、延びた穂先は真っ直ぐに巨塊の方へと向けられている。
長大な槍を手に、美汐が結審の言葉を紡ぐ。

「滅しなさい、永劫に」

振りかぶったその手から、赤光の槍が解き放たれた。
爽、と風を切り裂いて、滅神の槍が飛ぶ。
煌く赤光の軌跡を残しながら中空、青の光柱を咥え込んだ肉の巨塊へと一直線に。

812アイニミチル (6):2008/07/04(金) 01:00:05 ID:qK9RljSM0
『ぉ、ぉお―――』『―――ぁ、あぁ、……!』

身動きもとれず、ただ白く泡立つ唾液を撒き散らしながら、巨塊が震える。
こ揺るぎもしない青の光柱に捕らえられ、為す術もなく自らを滅する赤光の槍を見つめる巨塊。
長大な穂先が、そのぶよぶよとした肉を突き刺し、貫こうとした、正にその瞬間。
滅神の槍は、消えていた。

「……、……え?」

美汐が、言葉を失う。
槍は音もなく、前触れもなく、ただ、消えていた。
僅かな赤光を残して、まるで宙へと融け去るように。
その中心にあったはずの、赤の書ごと、消えてなくなっていた。
状況が、掴めない。何が起こったのか、分析できない。
悠久を繰り返す天野美汐をして、それは理解の範疇外にある出来事だった。
ただ呆然と、自らが解き放った槍の軌道を見つめる、その背後で。

 ―――ぱち、ぱち、ぱち。

小さな音が、響いた。
驚愕と混乱に頭脳は普段の半分も回転していない。
それでも反射的に振り向いた美汐の眼に映ったのは、小さな人影。
役者の労をねぎらう演出家のように微笑んで。
閉じゆく幕を惜しむかのように手を叩く。
それは、少女の影。

「どうし、て……」

呟く美汐の声は、老婆の如くしわがれている。
まるでその精神相応に老いたように力なく、見つめる眼前、佇む影の名を、紡ぐ。

「……里村、茜……」

肉色の海の中へと没した筈の、それは少女の名だった。


***

813アイニミチル (6):2008/07/04(金) 01:00:40 ID:qK9RljSM0
 
「―――お久しぶりです、パーフェクト・リバ」

歩む少女の衣服に乱れはない。
厭らしく照り光る粘液も、白い肌を這い回る蚯蚓の痕跡も、残ってはいなかった。

「どうしました? 不思議そうな顔をして」

言って微笑んだその顔に邪気はない。
ただ、底知れぬ悪意だけがあった。

「愚かな赤の使徒は神の贄に捧げられ、異界に引き込まれたはず、とでも?」

蜂蜜色の豊かな髪に顔を埋めるようにしながら、少女がくるくると喉の奥で笑う。
すると奇怪なことに、その足元に伸びる影、ゆらゆらと揺れる灯火に伸びた影が、唐突に形を変えた。
伸び上がり、縮み、丸まり、厚みのないはずの影が膨らんで、貼り付いていた地面から身を起こす。
一瞬の後、そこにいたのは笑い声を漏らす少女と瓜二つの、生まれたままの肢体だった。
赤く透き通るような輪郭を持つ、影から生まれた少女がほんの少しだけ、首を傾げる。
す、と掲げた手で己の乳房を揉みしだき、空いた指を薄い茂みに隠された秘裂へと潜り込ませて
淫蕩に笑んだ影の少女が、

「―――」

ぱちん、と。
まるで一杯に膨らんだ水風船が弾けるように、消えた。
僅かな赤光だけが、後に残って漂っていた。
それはまるで、滅神の槍と、赤の書のように。

「本当に、本当にお疲れ様でした」

幾度も深く頷いて、少女が口を開く。
美汐が奪い、そして宙へと融け去ったはずの赤い典籍を、その手に持ちながら。
時折、白く粘つく液体が少女の周りに落ちて嫌な臭いを立てる。
中空の光柱に縫い止められた、それは巨塊の漏らす唾液だった。

814アイニミチル (6):2008/07/04(金) 01:01:13 ID:qK9RljSM0
「仰る通り、貴女の仰る通りです、パーフェクト・リバ。
 青の力を持たない者は、神に近づくことすら叶わない」

青の光柱に身を包んだまま、呆然と自らを見つめる美汐を、少女は哀れむように見返す。
それはどこか、水瀬秋子と天野美汐によって交わされたやり取りの、逆回しのようでもあった。
同じ脚本で俳優だけを変えた、ダブルキャストの舞台のような。

「ですから、待っていたのです……この瞬間を。
 青の力が神の力を相殺し、貴女と神が共に無力な姿を晒すこの瞬間を、ずっと」

ならば、と美汐は思う。
脚本が同じならば、結末もまた、変わらない。

「もっとも私としては、神を封じるのはどなたでも構わなかったのですよ。
 貴女と共に繰り返しの寸劇を演じる水瀬の頭首でも、恋に破れた哀れな魔法使いでも、
 勿論壊れた青の器でも、どなたでも」

配役だけが、違う。

「赤は拒んでいるのです。在るということ、ここに存在していること、それ自体を」

結末は、変わらない。

「それが貴女たちには分からない。『今』を拒むだけのあなた方には所詮、真なる声など聞こえない。
 だから赤に見限られたのですよ。赤の切なる願いを聞き届けられない貴女たちには、赤の加護は届かない。
 私こそが赤の代行者。積層する時と世界を拒絶する、真なる赤の代行者」

ならばこの舞台で天野美汐に割り振られるのは、

「私は拒絶する。今を生きることを、明日を思うことを、昨日に縋ることを。
 思考を、思索を、思慕を、想像を、想念を、夢想を、希望を、絶望を、私は拒絶する。
 それこそが、唯にして一なる私の願い。私の求める―――永遠の世界」

―――死体役だった。


***

815アイニミチル (6):2008/07/04(金) 01:03:54 ID:qK9RljSM0
 
ずる、と崩れ落ちる天野美汐の躯から赤の刃を引き抜いた里村茜に降り注ぐ、声があった。
中空、光柱に縫い止められてぶるぶると震える巨塊の、声にならぬ声。
茜の手にした本からは、既に先刻の美汐が放ったそれにも倍する大きさの、斧とも槍ともつかぬ赤光の刃が形成されている。
巨塊の声は、恐怖に怯えるようでも、手酷い裏切りに憤るようでもあった。

『―――ろぉぉ、しれぇぇぇ……』『ぉぉおわえぇぇわぁぁ、わらしぃぃ、らちおぉぉ―――』

どうして、と。
どうして、お前は私たちを、と。
幾多の贄を捧げながら、何故このような暴挙に出るのか、と。

「どうして、といって……」

見上げた茜が、不思議そうに首を傾げる。
返す答えには差し挟む余地のない、純粋な事実の響きだけがあった。

「屠殺する家畜は、肥え太らせるものでしょう?」

それが、最後。
かつて、歪んだ時の幕の向こうで、一之瀬ことみと、あるいは藤林椋と呼ばれていたものの、それが最後に聴いた言葉だった。
一切の躊躇なく、何らの変哲もなく。
長大な赤光の刃が、巨塊を両断した。
神と称されたものの滅する瞬間は、ひどく飾り気なく。
それはただ、肉から成るものが肉へと帰ったという、それだけのことだった。
その事実に、何らの一文も付加することなく。
神は、死んだ。


***

816アイニミチル (6):2008/07/04(金) 01:04:09 ID:qK9RljSM0
 
二度、三度、四度。
刃が、既に滅された巨塊を切り刻む。

五度、六度、七度、八度、九度、十度。
寸断され、断裁されて、神であったものが無数の肉塊に過ぎない何かとなり、飛び散って岩窟を汚す。

十一度、十二度、十三度、十四度、十五度、十六度、十七度。
十八度十九度二十度二十一度二十二度二十三度二十四度二十五度二十六度二十七度二十八度二十九度。

巨塊を突き刺していた青の光柱が徐々に薄れ、やがて完全に消えた頃には、巨塊であったものは既に、
辺り一面に散らばった汚らしい肉片でしかなくなっていた。

いつしか、灯火が消えていた。
巨塊の欠片が覆って消えたものか、神を切り刻む刃の風圧に消されたものか、それは判然としない。
確かなのは、広い岩窟を照らすものは何もなくなったということだけだった。

灯が消え、命が消え、神が消え、青が消えた岩窟。
すべてが終わった祭儀場の中心で、唯一つ光るものがある。
赤光。
声もなく笑う少女の持つ、赤の典籍であった。

「流れ込む、この力―――私と真なる赤とに溢れる神の力」

否。
呟く少女は、それ自身が光を放っている。

「何もかもを拒んだ先にある、静かで穏やかな世界―――」

どくり、どくりと。
脈動するように、明滅する少女。

「何も生まれることのない世界―――」

少女の足は、大地を踏みしめてすらいない。
暗闇の中、浮かび漂う少女は、まるで世界から切り離されて在るように。

「私の導く、それこそが―――本当の、永遠の世界」

久遠の孤独に、初めて満ち足りたように。
少女が、笑う。



***

817アイニミチル (6):2008/07/04(金) 01:04:36 ID:qK9RljSM0
 
 
灯が消え、命が消え、神が消え、すべてが終わって。
だが、それでも、青はまだ絶えてはいない。



***

818アイニミチル (6):2008/07/04(金) 01:04:56 ID:qK9RljSM0
 
 
 【時間:2日目午前11時半すぎ】
 【場所:B-2海岸より続く岩窟最奥】

里村茜
 【所持品:赤の書】
 【状態:赤の使徒・神精】

天野美汐
 【状態:死亡】

一ノ瀬ことみ・藤林椋 融合体
 【状態:消滅】

→474 976 991 ルートD-5

819朝焼け後より桃色な:2008/07/13(日) 22:26:55 ID:oYsy7boE0
「上手くいきそうか」
「ぼちぼち」

パソコンルーム、黙々と作業する一ノ瀬ことみのタイプ音だけがこの場に絶え間なく響いていた。
それなりに広いこの部屋には、二人の人間が存在した。
パソコンをいじることみの邪魔をすることなく、少し離れた場所で佇んでいたのは霧島聖である。
コンピューターに関して詳しい知識を持ち得ない聖がここにいるのは、あくまで警護の意味だった。
一人パソコンに向かうことみを、第三者が狙ってくるかもしれないという可能性はゼロではない。
いざという時に無防備な状態になっているであろう彼女を守るべく、聖は椅子に腰掛けていることみと背中合わせのような形になり、入り口を凝視し見張り役のようなものをしていた。

「せんせ」
「何だ」
「無理しないで」

ぱちぱちということみの指先が奏でる作業とは、全く関係のない話題が彼女の口から放たれる。
聖は何も答えない。
恐らく、ことみは第二回目の放送のことを指しているのだろう。
行われた第二回目の放送にて、聖の探索している人物が読み上げられることになる。
霧島佳乃。聖の実妹である少女は、聖の知る由も無い場所で命を落とした。
顔には出していないものの、聖の受けたダメージは計り知れないものだろう。
身内を失うという痛みをことみも全くの想像ができない訳ではない。
それに、ことみも失った。
明るい笑顔が映える、長いストレートの髪が印象的だった友人。

「せんせ」
「……」
「もう誰も、死なせたくないの」
「私だって、そう思うさ」

820朝焼け後より桃色な:2008/07/13(日) 22:27:30 ID:oYsy7boE0
そしてこれは、そのための行動だった。
会話が途切れ、再びパソコンルームにはことみのタイプ音だけが支配するようになる。
二人は涙を流さなかった。
そんな行為にひたる時間すら、惜しいと考えたのかもしれない。





「で、私達だけど」
「真希さん、ガンバ」
「いや、あんたも頑張るのよ」

ことみがパソコンを弄っている間その場で待機しているだけなのも何だということで、二人は学校の中を探索することにした。
広瀬真希と遠野美凪は、相変わらずの様子で外敵がいるかもしれないここ、鎌石小学校の中を歩き回る。

「真希さん、虫さんがいます」
「ぎゃ! ちょっと、そんな報告いらないんだけどっ!?」
「可愛いです」
「可愛くないっ!」

しかし、それにしても二人には危機感がなかった。
二人は今ことみ達が留まっているパソコンルームから離れ、一回の廊下を歩いている。
ここ、鎌石村小学校はスタート地点にもなった場所だ。
爆破されたこともあり建物にも自体にも歪みのあるここは、それプラス争いのあった後も外から確認できているため足場の注意も必要だろう。
今真希と美凪は、どうやら爆破が起こったらしい側の校舎を歩いていた。

「……っていうか、何であたし等わざわざ危ない橋渡ってんのよ」
「勇敢です、真希さん」
「あーもう、つまずきそうになる! イライラする!」
「真希さん、どうどう」

821朝焼け後より桃色な:2008/07/13(日) 22:27:53 ID:oYsy7boE0
きーっ! となる真希に、美凪がおっとりと声をかける。
すっかりツーカーな二人のテンションは、傍から見れば微笑ましいものだろう。
……二人の様子は、まるで変わりがなかった。
第二回目の放送は彼女等がここ、鎌石村小学校に向かっている際に行われている。
真希は、そこでクラスメートである長森瑞佳、住井護、里村茜を失った。
残った彼女の知り合いは、折原浩平と七瀬留美だけである。
確執の残る相手だけが上手く残ったものだと、皮肉めいた感情が真希の腹の底を撫でた。

同じく美凪も、神尾観鈴という見知った名前が上がったことにより寂しさを感じただろう。
彼女とのつながりは、国崎往人との延長で作られたものである。
往人が、そして何よりもみちるの安否が、美凪も気になっているに違いない。

しかし二人は、そんな不安を口に出すことをしなかった。
今までの日常的なものを守ろうとしているその姿の意味を、彼女等は自覚していないかもしれない。
また真希と美凪は、これまで血をみる危険な争いというものを体験していない。
大切に守ろうとする日常を維持できるだけの余力が、二人にはまだあるということ。
精神的な余裕と呼べばいいだろうか。
どこにでもいる普通の少女達が潰れずに自然体でいられることは、この状況下では幸いな事実としか表しようがないかもしれない。

ふらふらとした足取りの美凪の手を取り、真希は足元の瓦礫に気をつけながら先導して進んでいく。
その様子は、どこか微笑ましい。
少し浮世離れした感のある美凪のスローペースと真希のはきはきした性格は、非常に良い相性を見せていた。

「……真希さん、すとっぷ」
「え?」

少しずつ前進いていた二人、先導していた真希の足を止めたのは後続の美凪だった。
振り返る真希に美凪はいつものぽやんとした表情のまま、少し先の廊下を指で差す。
つられるように視線を送る真希だが、美凪の意図にはすぐ気づけなかったのだろう。
目を細め様子を窺う真希、目に入る異常に気づくのはそれから三テンポ程ずれた後である。

822朝焼け後より桃色な:2008/07/13(日) 22:28:14 ID:oYsy7boE0
「……」

真希の大きな瞳が、時間をかけ見開かれていく。
その間真希の網膜に焼きつけられた異常の正体は、瓦礫だらけの廊下に点々と伝わっている赤黒い水滴だった。
小走りで近づき改めてみれば、真希の嫌な予感は現実となって彼女に圧力をかけてくる。
廊下の先、ずっと続いていると思われるそれは……どう見ても、滴る血液が作ったものに他ならなかった。

「み、美凪!」

振り向く真希のすぐ傍、美凪は既に待機していた。
美凪が小さく頷くと同時、真希は美凪と二人しては血痕を追い駆けるようにて走り出す。
彼女等が初めて出会う、非日常。
これがそれだった。

暫くの後廊下の端に人影を発見し、真希はまっすぐにその人物へと近づこうとした。
壁に横たわり身動きを取らない彼、廊下の窓から差し込む月光で窺える面影は真希達と同じ世代という幼さである。
少年の場所的には腹部に値する箇所を覆うシャツは、赤黒く濡れ変色していた。
廊下にある血の軌跡の出所は、恐らくこれだろう。

視界は悪いとはいえ、真希の目に入る光景はあまりにもグロテスクだった。
少年の着用しているシャツが白地を帯びたものなのも原因だろう、漏れ出た血液の広がる様は一目で確認できる。
顔面蒼白になった真希は、その状態を理解した時点で金縛りにあったかのように足を止めてしまう。
背筋が伸びる。
真希の体に走るのは、未知のものに対する緊張だった。
その横をもう一人の少女がすり抜けていく、真希が身動きをとる気配はない。
真希は勢いで左右に揺れる少女の黒髪を、瞳で追いかけるだけだった。

「真希さん、先生を」

823朝焼け後より桃色な:2008/07/13(日) 22:28:54 ID:oYsy7boE0
立ち尽くすだけだった真希の正面、少年に駆け寄った美凪の冷静な声が場に響く。
失血により顔色も不健康そうな少年と目線を同じにするようかがんだ美凪は、そのままの状態で真希に話しかけていた。

「生きています。気を失ってるだけでしょう、手当てが必要です」

てきぱきと少年の体を確認する美凪は、どこか手馴れている所がある。
真希はそれが不自然でならなかった。

「な、何で美凪……そんな、普通にしてられんのよ」
「?」
「だ、だってこんな、こんな血が出て……」

まるで自分だけ狼狽しているのがおかしいようだと、真希はそのように感じているようだった。
今まで同じような朗らかな時間を過ごしていたはずなのに、むしろしっかりしていたのは真希の方だったはずなのに。
戸惑う真希の心とは、美凪の行動はあまりにも裏腹なものである。

「真希さん」

名前を呼ばれ、真希は改めて美凪を凝視する。
相変わらずその表情の変化は乏しい、しかし漂う雰囲気から美凪が真剣である様を、真希もすぐに窺うことができた。
それは、まるで別人のものであった。
柔らかいぽやぽやとした彼女らしさが失われた訳ではない、しかしそれでも違うのだ。
今まで真希が同じ時間を過ごしてきた、遠野美凪という女の子が出す空気とは違うのだ。

「真希さん。生きている人を死なせてしまうのは、駄目です」
「な、何よ突然」
「……それだけです」

824朝焼け後より桃色な:2008/07/13(日) 22:29:37 ID:oYsy7boE0
美凪の言葉は、人として当然の主張である。真希もそれが理解できないわけではない。
しかしそれでも、拭えない疑問が真希の中には残っている。
真希は問いただしたかった。
美凪に、自分の心に沸き上がる熱をぶつけたかった。
『おまえは、本当にみなぎなのか』
いつも真希の後ろをついてきて、北川と織り成すやり取りにもちょこちょこ少ない言葉を挟みこむ、ぽやぽやとした天然少女。遠野美凪。

それは、真希の心にあった驕りかもしれない。
美凪はこういう子と決め付けていた自分、それにより守ってあげなくちゃと先行していた思い込みが真希の中には少なからずあった。
だからこその混乱であり、棘が真希のプライドを刺激するのだ。

「真希さん、先生を。真希さんの方が、足、速いです。お願いします」

呆ける真希が何かしゃべろうと唇を開きかけようとするその前、美凪の唇は先に言葉を紡いでいた。
それはこの場ではどうでもいいことであると、まるで真希に言い聞かせるようでもある。
……それで真希は、何も言えなくなった。

「すぐ、呼んで来るから。ごめん、お願い」

少し硬さの残る声、真希はどこか居心地の悪さを感じながら聖がいるパソコンルームに向かい駆け出していく。
自然と込みあがる涙が恥ずかしかった、しかし真希は決してそれを溢してはいけないと歯を食いしばりながら足を動かす。
そうしてがむしゃらに走ればこのもやもやも薄れていくはずだと。真希は必死に思い込もうとするのだった。

一方、遠ざかっていく真希の気配を感じながら、美凪は改めて少年に目を向ける。
そして。
小さく、首をかしげた。
廊下の壁に寄りかかりぐったりとしている少年の麓には、何故か丁寧に畳まれた彼の物と思われるジャケットが置かれている。
どうみても、この状態の彼が施したとは思えないだろう。
反対側にも首を傾けてみる美凪だが、勿論それで何か案が浮かぶはずも無い。

825朝焼け後より桃色な:2008/07/13(日) 22:31:01 ID:oYsy7boE0
「……ぁ」

ぴろーんと広げてみて、美凪はそれが見覚えのある制服だとすぐに気づいた。
上ったばかりの朝陽が差し込み視界に色を与えているこの状況の中、美凪はジャケットの色、デザインから数時間前に離れた一人の男の子を思い浮かべる。

「北川さんと、同じ学校の方?」

首を傾げたまま問いかける美凪の言葉に、答えは返ってこなかった。






一ノ瀬ことみ
【時間:2日目午前7時前】
【場所:D−6・鎌石小中学校・二階、パソコンルーム】
【持ち物:毒針、吹き矢、高圧電流などを兼ね備えた暗殺用十徳ナイフ、支給品一式(ことみのメモ付き地図入り)、100円ライター、懐中電灯、お米券×1】
【状態:パソコン使用中】

霧島聖
【時間:2日目午前7時前】
【場所:D−6・鎌石小中学校・二階、パソコンルーム】
【持ち物:ベアークロー、支給品一式、治療用の道具一式、乾パン、カロリーメイト数個】
【状態:ことみの警護】

広瀬真希
【時間:2日目午前7時前】
【場所:D−6・鎌石小中学校、一階】
【持ち物:消防斧、防弾性割烹着&頭巾、スリッパ、水・食料、支給品一式、携帯電話、お米券×2 和の食材セット4/10】
【状況:聖を呼びに行く】

遠野美凪
【時間:2日目午前7時前】
【場所:D−6・鎌石小中学校・一階、左端階段前】
【持ち物:消防署の包丁、防弾性割烹着&頭巾 水・食料、支給品一式(様々な書き込みのある地図入り)、特性バターロール×3 お米券数十枚 玉ねぎハンバーグ】
【状況:祐一の状態を確認している】

相沢祐一
【時間:2日目午前7時前】
【場所:D−6・鎌石小中学校・一階、左端階段前】
【所持品:S&W M19(銃弾数4/6)・支給品一式(食料少し消費)】
【状態:気絶、腹部刺し傷あり】
【備考:勝平から繰り返された世界の話を聞いている、上着が横にたたまれている】

(関連・715・869)(B−4ルート)

826朝焼け後より桃色な:2008/07/13(日) 23:00:21 ID:oYsy7boE0
すみません、>>822の表現におかしな箇所がありましたため、こちらのみ以下に挿げ替えていただければと思います。
お手数おかけしてしまい、申し訳ありません。





「……」

真希の大きな瞳が、時間をかけ見開かれていく。
その間真希の網膜に焼きつけられた異常の正体は、瓦礫だらけの廊下に点々と伝わっている赤黒い水滴だった。
小走りで近づき改めてみれば、真希の嫌な予感は現実となって彼女に圧力をかけてくる。
廊下の先、ずっと続いていると思われるそれは……どう見ても、滴る血液が作ったものに他ならなかった。

「み、美凪!」

振り向く真希のすぐ傍、美凪は既に待機していた。
美凪が小さく頷くと同時、真希は美凪と二人しては血痕を追い駆けるようにて走り出す。
彼女等が初めて出会う、非日常。
これがそれだった。

暫くの後廊下の端に人影を発見し、真希はまっすぐにその人物へと近づこうとした。
壁に背を向けた状態で横たわり身動きを取らない彼から窺える面影は、真希達と同じ世代という幼さである。
少年の場所的には腹部に値する箇所を覆うシャツは、赤黒く濡れ変色していた。
廊下にある血の軌跡の出所は、恐らくこれだろう。

電気がついていないため決して視界がいいとは言えないが、真希の目に入る光景はあまりにもグロテスクだった。
少年の着用しているシャツが白地を帯びたものなのも原因だろう、漏れ出た血液の広がる様は一目で確認できる。
顔面蒼白になった真希は、その状態を理解した時点で金縛りにあったかのように足を止めてしまう。
背筋が伸びる。
真希の体に走るのは、未知のものに対する緊張だった。
その横をもう一人の少女がすり抜けていく、真希が身動きをとる気配はない。
真希は勢いで左右に揺れる少女の黒髪を、瞳で追いかけるだけだった。

「真希さん、先生を」

827それぞれ:2008/07/14(月) 22:22:39 ID:34hZeGm60
 大きな穴が二つ。
 深さは3メートル程だろうか。やや縦長の楕円形が深く大口を開けて食事を欲しがるように土色の乱杭歯を覗かせている。
 そんな発想をする俺はやはり苛立っているのかもしれない、と那須宗一は思った。

「すみません、結局手伝ってもらって」
「気にするな。……こうできれば、一番いい」
「……そうですね」

 遠野美凪とルーシー・マリア・ミソラは渚のツールセットから小型のスコップを借り受け、墓穴を掘る作業を手伝っていた。
 古河渚も手伝いたいという意思は見せていたが、怪我の度合いが激しいという理由から宗一が控えさせ、支給品の整理を任せることにした。
 牽制合戦だった先程とは違い、首輪以外のことに関してなら今はほぼ自由に情報のやりとりができる。
 穴を掘りつつ、四人は情報交換を行った。

 ルーシーは水瀬親子に急襲され、上月澪と春原陽平を失いながらも脱出に成功し、現在は知り合った美凪と共に行動を共にしていること。
 美凪はルーシーと会う前に同じく水瀬名雪に襲われ、北川潤と広瀬真希を殺害されたこと。
 そして渚と宗一が霧島佳乃を失い、同じく埋葬しようとしている来栖川綾香と戦闘沙汰になったことをそれぞれ伝え合う。
 そして確認できる限りの危険人物は以下の通り。

 ・先述の水瀬親子。
 ・(かなり前の話であるが)一緒にいた仲間を襲ったというお下げ髪の男。
 ・綾香の仲間だった天沢郁未。

 この時点で既に四人が敵に回る。加えて二回目の放送から大分時間が経過しているため更に多くの殺人鬼が潜んでいることが推測できる。
 状況は悪化の一途を辿っていると言えた。本当ならこんなことをしている時間すら惜しい。エージェントとしての宗一はそう告げていた。
 しかしそれは命を賭してまで宗一に依頼事を頼んだ佳乃を侮辱する行為であるし、それに……渚の様子がおかしい。

 明らかに元気がなかった。どことなく影が差した様子で、ルーシーや美凪と会話をする姿にも覇気がない。
 原因は大よそ掴めている。……春原陽平。確かそれは渚が探していた人物の一人だったはずだ。
 優しい渚のことだ。きっと口には出さず、しかし心の奥ではその死を悲しんでいるのだろう。
 宗一はいたたまれない気持ちになると同時に、それを打ち明けてくれない渚に対して、俺では役者不足なのかとやるせない思いも抱く。
 愚痴でも恨み言でもいい、溜め込んでいる思いを吐き出してはくれないのだろうか。

828それぞれ:2008/07/14(月) 22:23:02 ID:34hZeGm60
 そんなに……今の俺は不甲斐ないのか。

 そうかもしれない。事実、ここに来てからというもの窘められたり諌められたりすることの方がよほど多い。

 ……情けない。
 ……役に立ちたい。
 ……あの時、確かに望んだような、ヒーローでありたい。
 ……夕菜姉さんを守りたいと思ったときのように。

 一度目を閉じて、宗一は深く息を吸う。
 なら、好き嫌いなんてしてられないよな。
 何事もまず行動で示してこそだ。

「もうこのくらいで十分だろ。そろそろ埋めてやろうか」
 一つ息を吐き出して、宗一は穴を掘っていたスコップを地面に突き刺し静かに横たわっている二つの遺体を見やる。
 その視線にはもう怒りや憎しみの感情は残ってはいない。
 ただ、生き残ることだけを思っていた。他人の屍の上に立っている、そのことを認識しながら。

「そうだな、後はそっちに任せる。渚、行ってやれ」
「……あ、はい」

 二人に先は任せるというようにルーシーが渚の背中を押し、宗一の下へと歩かせる。
 徐々に近づいてくる渚が、それに比例するように表情を強張らせているのが宗一には分かった。
 半ば自然に、呼吸をするかのようにその真意を探ろうとしてしまう自分に気付き、宗一は辟易する。
 きっと、緊張しているだけだ。
 そう思うことにする。
 畏れられているのではないか……浮かび上がった考えを打ち消すように。

829それぞれ:2008/07/14(月) 22:23:28 ID:34hZeGm60
「佳乃、持てるか」
 綾香の遺体を持ち上げながら、渚にそう問う。
 渚は佳乃を持ち上げようとしたが、体の半分も持ち上げられない。

「……すみません」
「ま、仕方ないか。一人ずつ埋めていこう。逆に軽々と持ち上げられてもそれはそれで絶句してたけどな」

 宗一は冗談半分で言ったが、渚は困ったような表情をしたばかりで、笑うこともなかった。
 ほろ苦い唾の味が広がる。しかしため息だけは飲み込んだ。
 こういうことには、時間をかけていくしかないのだから。
 残念なことに、それくらいしか思いつく解決法がなかったのだ。
 男であることが、悔しい。

「大丈夫だって。この那須宗一君に任せろ」
 一声入れると、宗一はひょいっと綾香の遺体を抱えたまま穴の中に飛び降り、それを丁寧に横たえる。
 彼女が体につけていた防弾チョッキは回収させてもらった。まだ使い道があるからだ。
 それにしても、あれだけ格闘戦をこなしていたくせに体重自体は軽いものだった。女性の七不思議の一つかもしれない。
 皐月やリサもこれくらいなのだろうかと想像しかけて、ぶっ飛ばされそうなのでやめた。触らぬ神に崇りなし。聞こえていなくても崇りなし。

「よし、いいぞ」
 渚に手で合図しつつ、宗一は飛び上がって穴から脱出する。土を掻き入れるなら渚にだって出来るだろう。
 その間に自分は佳乃を墓穴に入れることにしよう。
 すっかり冷たくなった佳乃の体を持ち上げながら、宗一は次の行動に移っていた。

     *     *     *

 葬儀を進める二人(那須宗一と、古河渚)に、ルーシー・マリア・ミソラはそれを半分、複雑な思いで眺めていた。
 こうできれば、一番いい。
 それは自分に対して向けた言葉だったのかもしれない。

830それぞれ:2008/07/14(月) 22:23:56 ID:34hZeGm60
 今も尚、ルーシーにとってもっとも大切な人だと言える春原陽平の遺体はあの民家に、憮然と転んでいるのだろう。
 上月澪も、深山雪見も。
 霧島佳乃、来栖川綾香の両名が埋葬されることに関しては別段妬みのような感情は持たない。
 たまたまあの二人にはそうしてもらえる機会があって、自分にはなかった。
 だがそれでも春原を自分の手で送ってやりたいという思いは確かにあった。

 渚が春原の死を聞いたときの表情を見れば尚更だ。
 春原が言っていた通りの、やさしい人間。
 少なくともこれまでの、あの頃のルーシーであればあんな顔は出来なかった。いや、今だってそうかもしれない。
 簡単には、変わらないな。どんなに強く思ったって。
 どこか冷静に他人を見てしまう自分が少し、悲しかった。
 けれども、悲しい、と思えることは成長なのかもしれないとも思う。
 ほんのちょっぴり、前進はしている。
 そう考えると、元気が出たような気がした。

「なぎー、つかないことを聞くが……あの短髪の方、同じ制服だな。知り合いだったか?」
「ええ、同じ学校でした。……とは言っても、知り合いというほどでもなかったのですが」

 情報交換をしている間も、美凪は一切必要なこと以外は喋っていない。
 しかし思うところがあったのか、ここ一連の作業の間でも口数は少なく(元々少なかったが)、思案に耽っているようだった。

「……るーさんだから、言えることですが、那須さんが見つけたという二人の遺体……あれは、北川さんと広瀬さんのでは、と思っていました」
「そういえば、そんなことを言っていたな」

 確かに、この近辺にいたというのだから見つけていてもおかしくはない、とルーシーは思ったが二人の男女というだけでそう決めるのは早計ではと考えた。
 しかし美凪はデイパックの中身を見せると、
「古河さんが纏めていた荷物を拝見させてもらったのですが……この散弾銃は、北川さんが使っていたものと同じでした」
「……なるほど」
「それで確信したんです。那須さんは、北川さんと広瀬さんを見つけていた、って。それは構いません。ですが……あのお二人が埋葬されているのに、北川さんと広瀬さんは荷物を回収されただけなのか、って……」
「……」
「嫌な気分になります……自分が、そんなことを考えていると思うと……酷い人間ですよね」

831それぞれ:2008/07/14(月) 22:24:23 ID:34hZeGm60
 美凪が塞ぎこんでいた理由は、ルーシーにも通じるものがあった。
 殺人鬼が埋葬されているのに、いい仲間だった人たちは手付かずのまま、放置されている。
 理屈では分かっていても止められない邪な気持ちで、自己嫌悪してしまう。
 ああ、どこか自分が納得できていないのも、そういうことなのかもしれない、とルーシーは思った。

「いや……分かる。私だって似たような気分だ。けど、もうどうしようもない。どうしようもなく、私達は……ここにいる全員は、無力だったんだ」
「……」
「でも、良かった。なぎーが話してくれて良かった。吐き出してくれたことが、嬉しい」
「るーさん……いえ、感謝されるようなことではないと思います。こういうことからは、何も生まれないと思いますから」
「だな……ああ、これだけにしよう。秘密だ、二人だけの」
「はい」

 二人はまた沈黙を取り戻し、埋葬を続ける二人の姿を眺め始めた。
 まだ少しだけ残るわだかまりと、切り替えつつある思いを携えながら。

     *     *     *

 結局、誰からも許されざる道へ進むことになってしまった。
 あの時の行動はきっと正しかった。そうしなければきっと、皆で死んでいた。
 だからこの選択については後悔はしていない。相応の責務と、罪悪を抱えることにはなってしまったが。

 しかし、古河渚は迷う。
 これから先、わたしは何に拠って行動していけばいいのだろうか、と。
 そう、許されざることをしている。
 殺しはしないという約束を破り、消え逝く命を見つめるだけで、そして今も。
 時間を使って、我侭を押し通している。

832それぞれ:2008/07/14(月) 22:24:50 ID:34hZeGm60
 綾香も埋葬するという言葉を伝えたときの宗一の複雑そうな顔が視界の隅にこびりついている。
 だからこれまでだ。これが、最後。
 大丈夫です。もう迷惑はかけません。後は那須さんに従います。
 言葉にすれば、それはあまりにも言い訳がましかった。だから作業は、宗一とは離れるように、黙々と進めていた。

 その途中で、友人の死を聞いた。
 春原陽平……知り合いの岡崎朋也と、一緒にいることの多かった人間。
 朋也は詳しく語ろうとしなかったものの、二人が気心が知れた関係だというのは渚にもすぐ理解できた。
 恐らくは、本人達は認め合わないだろうが、親友なのだろう。
 その春原が死んでしまった。
 朋也はもちろん次の放送でそれを聞いて悲しむだろうし、この報を伝えてくれたルーシー・マリア・ミソラという女の子も辛そうな表情をしていた。
 きっと春原はこんな地獄でもいつものように振る舞っては、皆に安らぎの一時を与えていたのだろう。

 それに引き換え、自分は……
 考えかけて、やめようと渚は思った。自己嫌悪したって春原の死がどうなるわけではない。いつも朋也が言っていた「悪い癖」だ。
 大丈夫。ちゃんとまだそれが分かっている。
 結論を出さなければならなかった。

 この先、何に拠って行動するべきか。
 宗一は皆を守りたいから。美凪とルーシーは死んでいった仲間に報いるため、生きるために脱出する。
 それぞれがそれぞれの信念を持っている。
 あの時戦った郁未でさえ生き残りたいからという理由を持って人殺しをしている(絶対に許しはしないが)。
 既に、渚は人殺しをしないという信念を破り捨てている。特別、これといった技能があるわけでもない。
 なら、渚に出来ることは体を張る、それしかなかった。

 わたしは、盾になる。
 皆を凶弾から防ぎ、迫る刃を受け止める盾だ。

 どんなに傷ついたって構わない。歩けなくなっても、腕が取れても、死んでもいい。
 殺させたくない。誰かがいなくなっていくのは、悲しい。
 命一つで皆を救えるなら、渚は躊躇わずに差し出すつもりだった。
 それがまた我侭であることにも、自分の死がまた誰かを悲しませることにも気付いていながら。

833それぞれ:2008/07/14(月) 22:25:14 ID:34hZeGm60
 誰にも言わない。

 誰にも言わない、一人だけの約束。

 だから、古河渚は孤独だった。

「ということで、分校跡に行こうと思うんだが、古河もいいか?」
「……えっ?」

 そんなもの思いに耽っていたせいか、途中から宗一の話を聞き逃していたことに、ようやく渚は気付いた。
 確かこれから主催者に対抗するための同士(表向きは宗一のエージェント仲間であるリサなる人物ということにしてある)、姫百合珊瑚という人物を探すというところまでは覚えていたのだが……
 ふぅ、と宗一他二人が困ったように顔を見合わせる。途端にまた迷惑をかけてしまい申し訳ないという気持ちが渚を駆け巡る。

「す、すみません、ぼーっとしてて……」
「まあいいか。もう一度言うぞ。大事なことなのでもう一度ってヤツだ。俺達が探す奴がどこにいるかってことで、俺なりに考えて候補を上げてみた」

 言いながら、宗一は分校跡、ホテル跡、この二箇所を取り出していた地図の、それぞれの名前の部分を指す。
「こういう廃墟っぽいところこそ隠れるには最適な場所だ。普通施設に近づく目的は二つ。
 一つは隠れるため。もう一つは施設内にある備品なんかを持っていくためだ。
 しかし廃墟では後者は望めない。だから普通はこういう機能していたところの民家に立ち寄る」

「だから私達も、そして那須も怪しいと睨んだ。拠点にするにはある意味では最適な場所だからな」
 ルーシーが後に続き、最後に美凪が締める。
「ホテル跡については既に私が通った場所でしたが、特に以前から誰かがいるような気配はありませんでした。
 ですから探すのであればこちらの分校跡にするのはどうか、という話になったのですが……古河さんのご意見は?」
「あ、いえ、わたしは……それでいいと思います」
「本当にいいのか? 意見があれば遠慮なく言え。頭の中に留めておくのは良くないぞ」
「……いえ、大丈夫です」

834それぞれ:2008/07/14(月) 22:25:30 ID:34hZeGm60
 考えていたことを見抜かれたような感覚に渚は陥る。
 日本人とはかけ離れた、どこか浮世離れしたようなルーシーの雰囲気がそう思わせるのか。
 しかし、別に分校跡に行くという提案について特に異論があるわけでもないし、むしろ賛成だ。
 だから渚はそう答えて、笑みを向ける。
 ルーシーはしばらく渚の顔を見つめてから「そうか」と納得して宗一に結論を促す。

「よし、ならそれで決まりだ。そうだな……俺とルーシーで前を歩くから、少し離れながらついてきてくれ。所謂斥候ってやつだ」
「せっこう……?」
「偵察のようなものです。ということで古河さんとは語らいの時間です。二人きり……ぽっ」
「え? え? なんで赤くなるんですか?」
「ふむ、パヤパ……」
「おっとルー公、それ以上は怖いお姉さまが飛んでくるから止めとけ。さ、行こうか」
「む、了解した」

 離れていく二人と、未だに頬を赤らめている美凪を交互に見ながら、渚は未だにチンプンカンプンだった。
 霧島さん、新しい人たちですが……わたし、守っていけるのでしょうか……
 僅かにではあったが行動を共にしていた仲間の姿を脳裏に思い浮かべながら、渚は己から自信がなくなっていきそうなのを必死で堪えていた。
 あんぱんっ、と小さな声で励ましながら。

「ほかほかのご飯」
「……へっ?」
「……好きな食べ物から自己紹介かと思いましたが、違いましたか」
「あ、いや、それは、その、あぅぅ……」

 前途は、多難だった。

835それぞれ:2008/07/14(月) 22:27:02 ID:34hZeGm60
【時間:二日目17:00頃】
【場所:F-3】

古河渚
【持ち物:おにぎりなど食料品(結構減った)、支給品一式×2(秋生と佳乃のもの)、S&W M29 4/6、ロープ(少し太め)、ツールセット、救急箱】
【状態:腹部打撲、中度の疲労、ちょっと手が痛い、食事を摂った】
【目的:最優先目標は宗一を手伝う事。分校跡へ行く】

那須宗一
【所持品:FN Five-SeveN(残弾数11/20)、防弾チョッキ、SPAS12ショットガン8/8発、スラッグ弾8発(SPAS12)、ほか水・食料以外の支給品一式】
【状態:腹部に軽度の打撲、疲労大、食事を摂った】
【目的:分校跡へ行く。渚達と共に珊瑚を探し、脱出の計画を練る。可能ならリサと皐月も合流したい】

遠野美凪
【持ち物:包丁、予備マガジン×1(ワルサーP38)、包丁、防弾性割烹着&頭巾、支給品一式、お米券数十枚、色々書かれたメモ用紙とCD(ハッキング用)、ノートパソコン】
【状態:強く生きることを決意、疲労小、食事を摂った。お米最高】
【目的:分校跡へ行く。るーさん達と行動を共にし、珊瑚を探す。ハッキングを絶対に成功させる】

ルーシー・マリア・ミソラ
【所持品:IMI マイクロUZI 残弾数(30/30)・予備カートリッジ(30発入×5)、支給品一式×2】
【状態:生き残ることを決意、疲労小、食事を摂った。渚におにぎりもらってちょっと嬉しい】
【目的:分校跡へ行く。なぎー達と行動を共にし、たこ焼き友だちを探す。なぎーを手伝う】

→B-10

836アイニミチル (7):2008/07/15(火) 13:15:06 ID:myea85cE0
 
沢山の光が浮かんでいる。
光はまるで、広い海を泳ぎまわる魚のように自由に漂い、触れ合って、また別れていく。

しばらくじっと、それを見ていた。
見ている内にやがて、自分もまたその光のうちの一つなのだと、気付く。
気付いたら急に、身体が軽くなった。
どこへでも行ける気がした。
どこへでも行ける気がして、どこかへ行こうとして、どこに行きたいかが、わからない。

考えようとして、思い出そうとして、理解する。
―――ああ、私には、記憶なんてものが、ないんだ。
記憶がないから、希望もない。
何ができるのかもわからないから、何をしたいかもわからない。

みんな、そうなんだ。
周りの光を見て、思う。
わからない。
どこへ行きたいかも、何をしたいかもわからない。
だからああして、ずっと漂っている。
触れ合って、別れて、漂って、ずっと、ずっとそうしている。
私もきっと、ずっとそうして、

 ―――  。

そうして、

 ――― ナ。

漂って。

 ―――マナ。

名前を呼ばれることなんか、なく。


***

837アイニミチル (7):2008/07/15(火) 13:15:36 ID:myea85cE0


青一色の世界の中で、死んだように眠る少女を囲む、三人の女がいた。
その全員が青く透き通るような体をした三人の女はじっと少女を見つめ、その名を静かに呼んでいる。
一人は泣きながら、一人は茫漠と、そして一人は微笑んで、少女の名を呼んでいる。


***

838アイニミチル (7):2008/07/15(火) 13:15:58 ID:myea85cE0


涙を流す女が、赤く泣き腫らした眼で、語る。

 ―――たとえばの話をしよう。


***



たとえば今、愛する人の隣にいたとして。
私を蝕むのは喜びでも幸福でもなく、恐怖だ。

今この手にある幸福が、明日は失われているかもしれないという恐怖。
それは私を常に脅かし、この足を竦ませる。
誰かが耳元で囁くのだ。
今日という幸福は明日という不幸の端緒に過ぎないと。
甘い菓子の後の苦い薬のように、それは喪失を際立たせるための淡い幻想だと。

だから私は愛する人の隣を歩きながら、その手を取れずにいるのだ。
ずっと、ずっとその手の温もりを夢想しながら、ほんの少しの距離を飛び越えることもできずに怯えている。
それは幸福を掴むことへの躊躇だ。
今日から続く明日への畏怖であり、今この瞬間への怯懦であり、幸福への根源的な違和感だ。
私は幸福を掴むことに怯え、幸福であることを実感できず、だけど幸福であることを願っている。

それは二律背反だ。
虹を掴めないと泣くような、子供じみた愚かしさだ。
だけど、それでも、私は願ったんだ。
虹を掴みたいと。
愛する人の隣を歩きながら、それを幸せと感じたいと。
私の出した答えは、何だと思う?

簡単なことだ。
記憶さ。
思い出だよ。

昨日という時間が、私を支えてくれることに気づいたんだ。
それは本当に単純で、簡単な答えだった。
思い出の中の私は何も失わない。
それは紛れもない幸福の中にいて色褪せない。
それはどこにも続かない。
昨日は今日へと続かない。
思い出は、記憶は、昔は、今日の私と断絶している。

私の振り返る記憶の中の私は、今日という日を知らない私。
思い出という結晶の中に封じられた私は、だから未来へ続かない。
それは、本当の幸福という意味だよ。

幸福の中に結晶する私に喪失は存在せず。
それは常に、輝く時間を謳歌している。

たとえば恐怖。
たとえば変化。
たとえば未来。

それらのすべては、昨日の私を侵せない。
その幸福は私を支えていてくれる。
今日という不幸を、明日という喪失を、思考の埒外へと押しやってくれる。
私は幸福の結晶に縋って立っている。

だから、私には今日という時間も、明日という時間もいらない。
いらないから、君にあげよう。
明日という喪失を、今日という伏線を、君にあげよう。

―――マナ、君は喪失を恐れるかい?



***

839アイニミチル (7):2008/07/15(火) 13:16:23 ID:myea85cE0


茫漠とした女が、霧に煙る夜明けの湖面のような茫漠とした瞳で、語る。

 ―――たとえばの話をしましょう。


***



たとえば昨日を悔やむとき。
たとえば明日を願うとき。

何も為せなかった昨日に泣くことも、届かない星に手を伸ばすような明日を嘆くこともなく、
私は今日という日を慈しむでしょう。

これは、一つの諦念の話です。

たとえばある日、大切にしていた美しい宝物が壊れてしまったとして。
夜が明ければ、新しいそれを買ってもらえるとして。
だからといって愛おしむことを、やめられましょうか。
割れてしまったその欠片を、宝石の小箱に入れて夜ごと抱きしめることを、誰が笑えましょうか。
綺麗な紙に包まれて届く、新しくて美しいそれは、柄は同じで傷もなく。
だからそれは、私の大切な宝物ではないのです。
だからそれが、誰かの不注意で壊れてしまっても。
私は欠片を集めない。
私はそれを悔やまない。
私がそれを惜しいと思うことなど、ありはしないのです。
拾い上げられない沢山の偽者の欠片が散らばった大広間の真ん中で、
小箱に詰めた大切な本物の欠片だけを抱きしめて、私は眠るのです。

それを笑う人がいて。
それを責める人がいて。
私は彼らを認めません。
私の眼は彼らを映さず、私の耳は彼らの声を通さない。
彼らという雑音はだから、私の世界に踏み入ることさえ叶わない。
私が大切な小箱を抱きしめるのに、そんなものは必要ないのです。

私は昨日を悔やみません。
壊れてしまった大切な宝物を、それでも私は抱きしめている。
私の胸の中に、その小箱に、変わらずあるのです。
それだけを見つめて、だから私は昨日を思わない。

私は明日を願いません。
明日は今日と変わらぬ日。
抱きしめた小箱をいとおしむ、それだけの日。
たとえば明日が来ないとしても。
私は大切な宝物を抱きしめて、眠るだけ。


―――だからマナ、観月マナ。
私の失った今日の続きを、貴女に分けて差し上げましょう。
これは一つの諦念の話です。
微睡む私は、夢を見る私は、今日以外の何も願わぬ私には明日は訪れず。
諦念と幸福の間でそれを甘受する私に、ならば今日という時間は永遠という意味を持ち。

だから、久遠に続く私の今日の欠片を―――貴女に。



***

840アイニミチル (7):2008/07/15(火) 13:16:44 ID:myea85cE0


微笑む女が、底知れぬ老いと疲れとを孕んで、それでも微笑んだまま、語る。

 ―――たとえばの話をします。


***


たとえば明日、世界が滅びるという日に。
それでも林檎の木を植えることを、私は赦しません。

私には力がある。
理不尽を覆すだけの力が。
私たちにはあるのです。
運命に抗うだけの力というものが。
私に力があり、私たちに力があり、ならば私は命じます。
己が刃を振りかざし、抗い、抗い、抗い続けよと。
明日という理不尽に抗えと、私は私以外のすべてに強いるでしょう。
夜に怯えるすべての我と我が子らに、私は命じます。
抗えと、打ち破れと、薙ぎ倒し叩き伏せよと、夜を越えよと私は命じます。

陽は沈み、夜は長く、それでも朝は来るのです。
ならば打ち続く剣戟の、その飛び散る火花で目映く夜を照らしなさい。
地を震わせる鬨の声で眠ろうとする者を揺り起こしなさい。
貴女の願う明日を切り開くその足音を、微睡む世界に響かせなさい。

いつか来る夜明けを、歓喜をもって迎えるために。
その朝を、続き続く明日を、ただ幸福が支配するように。
涙を打ち払う剣を取って夜に抗いなさい。
かつて幼子であったものの義務として、明日の幼子のための道を切り開きなさい。

昨日を踏み拉き、今日を振り払って明日へと至りなさい。
顔を上げ、声を限りに叫んで歩を進めるその先に、夜は明けるのです。
誰も届かなかった明日に手をかけ、抱き寄せてその唇を奪いなさい。
既に昨日は喪われ、今日という日は終わりを迎え、それでも明日は来ると、貴女が叫びなさい。
夜の向こうへ轟く声で、まだ見ぬ朝陽を引きずり出しなさい。

明けぬ夜の頑冥を突き崩す剣を、遥か稜線の向こうに輝く日輪へと届く刃を、
私は、私たちは、その腕に、その心に、その声に、その命に、持っているのです。

命持つ私は、ならば命持つ貴女に命じます。
越えなさい、何もかもを。

その道の果てに―――明日を築きなさい。



***

841アイニミチル (7):2008/07/15(火) 13:17:08 ID:myea85cE0


青一色の世界の中で、死んだように眠る少女を囲む、三人の女がいた。
その全員が青く透き通るような体をした三人の女はじっと少女を見据え、もう何も話さない。
一人は泣きながら、一人は茫漠と、そして一人は微笑んで、ただ少女を見つめている。


***

842アイニミチル (7):2008/07/15(火) 13:17:30 ID:myea85cE0



眼を開けることなく、その声を聞いていた。
勝手なことばかりを言うと、そう思った。

三者三様の吐露は三者三様の身勝手でしかなく。
それは狂人じみた独り語りだ。

色々なものを押し付けられた。
どうしようもなく、腹が立った。
沢山の知識と、沢山の想いと、沢山の時間とを持ちながら、身勝手な大人たちは
何もせずに退場していく。
まるでそれを継ぐことが私の義務であるかのように、身勝手なことばかりを言って。
そのことにひどく腹が立つ。

腹立ちのまま、暴れるように身を揺すると、光の海に変化が現れた。
きらきらと輝く海に、ごぼりと泡が立つ。
熱を持った海のうねりに、漂う光のいくつかが弾けた。
眼を閉じたまま輝く海を見る私は、弾けた光を吸い込むように、口を開ける。

雪の街があった。
夏の長閑さがあった。
桜舞う季節が、秋の匂いのし始める庭があった。

色々な景色があった。
幸せな時間があった。
沢山の言葉があった。
伝わる想いがあった。
少しだけ、哀しい恋があった。
そのすべてがいとおしかった。

そこに、愛があった。


***

843アイニミチル (7):2008/07/15(火) 13:17:46 ID:myea85cE0


観月マナの中から、身勝手への憤りは既に消えていた。
そんなものはもう、どうだってよかった。
それはただ、幸福を希求する無数の声の一つに過ぎなかった。

それらの声に突き動かされたわけではない。
ただ、マナは許せなかった。
このまま終わってしまうことが、このまま途切れてしまうことが、このまま続いてしまうことが、
とにかく何もかもが、世界がこのままであることが許せなかった。
何もかもを蔑ろにして、何もかもを中途半端なままにして、それで終わり途切れ続くことが、許せなかった。
それは小さな怒りと、沢山の光へのいとおしさと、それからわけの分からない、
心の奥のもやもやしたものがない交ぜになった、どこにでもある、誰にでもある感情だった。

それはごく普通の少女が、世界の弁護に立つ決意だった。
力でも知識でもなく、ただその決意によって何かを成し遂げる、それはそういうものだった。


眼を開ければ、そこは世界の終わる場所だった。

844アイニミチル (7):2008/07/15(火) 13:18:04 ID:myea85cE0
 
【時間:2日目午前11時半すぎ】
【場所:B-2海岸より続く岩窟最奥】

観月マナ
 【状態:復活】

霧島聖
天野美汐
水瀬秋子
 【状態:非在】

→991 993 ルートD-5

845(先行不安)/Chaotic Island:2008/07/20(日) 13:14:40 ID:4wBxa5pU0
 訪れた放送の内容は、篠塚弥生にとって意外なものとなった。
 最終生存人数の増加。
 口上は大切な人を守るため、大切な家族を守るため、などと謳われていたがどうにも今更のように思えてならなかった。

 タイミングが遅すぎる。
 現段階での生存者はこれまでの放送から確認する限り既に40人を切っている。
 それはつまり、全体の3分の2が死体となってこの島に転がっているということだ。
 ならば、家族や恋人関係にある人間の片割れが既に死亡していないことなど、ないに等しい状況なのだ。

 参加者名簿に、弥生は目を走らせる。
 やはり、大半のそういう関係にある者は死んでいる。名簿の名字から推測するだけでもそうなのに、恋人などの関係まで含めると更に数は増える。
 大体、放送を待ってこんなルール変更をする理由がないのだ。
 単にルールを変えるだけならいつでも……例えば、昼ごろや、極論を言えば主催者が思いついた段階で言っても構わないはず。

 二人まで生き残れるというのは実は相当に重要なことだ。
 神尾晴子がそうであるように「生き返り」など信じていない現実主義者は大勢いる。……弥生自身が殺害した、藤井冬弥もそうだった。
 クローンという推測は立てたもののそれですら眉唾ものだ。確率的には「生き返り」が本当に出来るかというのは無に等しい。
 ――それでも弥生は森川由綺のためにそれを信じるしか道はなかったが、今はそれは置いておくとしよう――
 とどのつまり、「好きな人と一緒に生き残れないから主催に反逆する」人間は少なからずいたと考えられる。
 そのための対応策が、生存者数の増加……二人生き残れるから、殺し合いに乗る。そのカードを、何故今更切ってきたのか。
 不可解に過ぎる、と弥生は考えた。それとも、それ以外に何か理由があるのかとも考える。

 考えられるのは……妥当に考えれば、集団の崩壊を狙うことだろうか。
 先程も考えたように、二人で生き残ることができないから反抗している人間はそれなりに多くいるだろう。
 そして殺し合いゲームも終盤に近づいた今、集団を形成している可能性もそれなりに高い。
 だがルールが変更され、生き残りも少なくなった今、果たして主催を倒すのと、ゲームに勝ち残ることと、どちらが勝算が高いか。
 天秤にかけられた結果、共謀して集団を内部から攻撃し、凄惨な争いが繰り広げられる……といったところだろう。
 それを眺めて楽しむ悪趣味さを考えれば、ありえないことではない。
 だがやはり、「遅すぎる」という事からは離れられない。
 それとも、ゲームを運営している連中に何かあったのか……?

846(先行不安)/Chaotic Island:2008/07/20(日) 13:15:03 ID:4wBxa5pU0
 そこまで行くと、最早推理ではなく、妄想の域に入ることに気付き弥生はそれ以降の考えを打ち止めにする。
 そんなことより今、問題にすべきなのは……
 『すまん、ちょっと外の空気吸ってくるわ』
 と青褪めた顔色を必死に隠すようにして、怪我しているにも関わらずふらふらと無学寺の外に出て行った、神尾晴子の姿だった。

 潰れてくれなければ、いいのですが……
 懸念しつつも、しかしどこかで晴子が自棄を起こし弥生に襲い掛かってきたときのことを考慮し、対応策を考えている冷ややかな自身の頭に苦笑する。
 どこかで人を物のように考え、どう利用すれば最善の結果を導き出せるかばかりを考えている。
 生来の性だ。変える気はないし、この場では存分に使える思考体系である。

 ……でも、それじゃ寂しいですよ。

 ふとそんな事を言う藤井冬弥の顔が弥生の頭に浮かんだ。
 いつだったか、黙々とマネージャーの仕事を続け、仕事ばかりしていて、由綺の先のことばかり気にして大丈夫なのかと尋ねてきたときがあった。
 弥生は当然のように大丈夫だと言い、それに由綺をアイドル界のトップに、スターダムにのし上げることこそが生き甲斐なのだと話した。
 それ以外は何も必要ないとも。
 その時にぽつりと冬弥が零したのが、今の言葉だった。

 何を思って、そう言ったのかは今でも分からない。問い質そうにも既に彼はこの世からは……弥生自身が手を下して、消えた。
 寂しい。何が、寂しいというのか。
 別にそのような批評を向けられたことに対して怒りや不満を抱くわけもなかったが、弥生にはそう言われる理由が分からなかった。
 目的を見つけて、それに生き甲斐も持っているというのに。

 詮無いことだと思い、その疑問に対する考えを中断させる。
 そもそも、どうしてこんな言葉を思い出すのだろう。
 今の自分にも、行動にも後悔はない。
 ……それとも、まだ気付いてないだけで……

「愚問、ですね」

847(先行不安)/Chaotic Island:2008/07/20(日) 13:15:25 ID:4wBxa5pU0
 嘲るように吐き、もう残り弾数が少なくなっているP−90の黒々とした銃身を眺める。
 確認したところ、残りは20発。フルオートで連射できるだけの余力はないに等しい。
 警棒で戦闘力を奪い、P−90で止めを刺すか。それとも銃の使用は神尾晴子に任せるか。
 どちらにしろ、もう迂闊には使えない。
 30人強。
 十分だ。あらゆるものを利用し尽くし、生き延び、願いを……由綺を生き返らせてもらう。
 そして、取り戻すのだ。あるべきだった未来を。

 ……でも、それじゃ寂しいですよ。

 何故かもう一度思い出したその言葉が、ちくりとして弥生の胸に突き刺さった。

     *     *     *

 ぐるぐると、頭の中で何かが回転していた。
 澱みを成した河であった。
 混乱と疑念、憎悪、懇願……神尾晴子の持ちうる限りの思念を一つ残らず投げ込み、それは黒々とした汚濁となっている。

 嘘だ、と呟き続ける彼女の半分。
 これが現実、と頑なに言い張る彼女の半分。
 いっそ狂ってしまえばどんなに楽なことか。
 喚き、叫び、心を放り出して肉体だけの存在になってしまえば、恐らくは苦しまずに死ねたことだろう。

 しかしそれだけはするな、お前は復讐を果たさなければならないと晴子の黒い部分の中でも、特に黒を覗かせている部分が囁く。
 まだ狂ってはならない。理性を以って、行動しなければならぬ理由がある。
 目頭に浮かぶ熱い涙の粒を振り払うかのように、晴子は無学寺の壁に拳を叩きつける。

「――ええ度胸しとるやないか」

848(先行不安)/Chaotic Island:2008/07/20(日) 13:15:45 ID:4wBxa5pU0
 悲しみは既に怒りに塗り変わり、後悔は牙をより鋭くしている。
 最愛の娘を、何よりもかけがえのない笑顔を奪った罰は万死ですら生温い。
 温い。温い温い温い温い温い温い温い温い温い!
 殺すだけでは足りない。死、以上の……死んだほうがマシだと言えるくらいの死を与えてやろう。
 復讐の覚悟は整った。今の自分は阿修羅さえも陵駕する存在であるとすら自覚できる。

 だが、しかし。
 晴子の胸の内では、その後のこの命、どう使うという疑問が湧き出していた。
 ……いや、既に頭は回答を導き出している。

「……クローン、か」

 優勝して、『生き返らせて』もらう。それで観鈴は戻ってくる。
 晴子が否定をした、ニセモノの神尾観鈴が。
 それを受け入れてしまっていいのか。
 例え今までの記憶を持ち、仕草まで完璧で、何一つ寸分の違いもなく完全なるコピーだとしても、それを認めてしまっていいのか。

 復讐を果たした後は自分も死んでしまえばいいという考えもあった。
 娘に殉じて、あの世で詫びる。
 きっと優しい観鈴のことだ、これまでの不孝を、笑って許してくれるはず。
 すぐに仲直りして、親子の時間を過ごす。
 もう何にも畏れることはない、永遠の安息が訪れるだろう。

「は……バカバカしい」

 けれども、晴子はその考えを吐き捨てるように却下する。
 甘い、甘すぎる。
 それは逃げであり、逃避だ。
 楽に縋り、安穏を求めようと低きに流れる堕落した人間の姿だ。
 大体、無神論を謳っている自分が天国だ死後の世界だのと言うのはあまりにご都合が過ぎるではないか?

849(先行不安)/Chaotic Island:2008/07/20(日) 13:16:03 ID:4wBxa5pU0
 ならば最後までその道に生きよう。
 偽者? そんなものは認めなければいいだけのこと。
 どんなに欺瞞に満ちていても、もう一度娘の姿が見られるなら……取り戻せるなら、その道に進もう。
 ダメとは言わせない。
 無理だと口を利くなら髪の毛を掴み、何度でも叩きつけて出来ると言えるまでやってやる。

 神尾晴子はエゴイストだ。
 身勝手で、自分のことしか考えていないとも言える考えだということは分かっていた。
 恐らくは世界で一番自己中心的な母親かもしれない。
 いや、そもそも母親ですらないか、と晴子は苦笑する。
 なら、これは一人のワガママ女がする、誰もが呆れるくらいの馬鹿げた行動だと思うことにしよう。
 そう考えると、胸の中に溜まっていた重苦しいものがスッ、となくなっていくような気がした。

 なんだ、いつものようにしていればいいじゃないか。
 難しく考える必要はない。
 己の気が向くままに、やりたいことをやり、欲しいものを手に入れる。
 十分だ。神尾晴子という女の生き方は、それでいい。
 後は、怒りと憎悪を忘れなければよかった。
 それさえ忘れなければ、晴子は晴子でいられる。まだ戦える神尾晴子でいられる。
 澱みは消えた。流れを堰き止める障害は、取り払われた。

「さぁて、行こか。……何もかも、潰したる」

 不敵に笑うと、未だ打ち付けていた拳を壁から離し、瞳を薄暗さの集まる森林から、無学寺の内部へと移す。
 貴女も、きっと私と同じ考えになります。何故なら……本質的に、貴女と私は同じなのですから。
 無表情のままそう言い放った女は、中で晴子を待ち続けているのだろう。
 本来なら真っ先に排除してかかるべきなのだが、今は状況が違う。

850(先行不安)/Chaotic Island:2008/07/20(日) 13:16:18 ID:4wBxa5pU0
 生き残れる人数が、二人になった。
 本来ならその枠には観鈴が入るはずだったが、もうその観鈴は姿を消した。
 残るは弥生と共に優勝し、願いで観鈴を『生き返らせて』もらうしかない。観鈴と、生き残るためには。
 なら、精々共闘させてもらうことにしよう。弥生曰く「相性はいい」とのことだ。パートナーとしては問題ない。
 武装の貧弱さが気になるところだが……一応最低限戦えるものは揃っている。
 狙うべきは奇襲。正面から突っ込むのはただの愚かな自殺行為に他ならない。
 勝ち残るためには、もう一度たりともミスは許されない。

 選択肢は二つ。
 北上し、ここから先にある学校で狙い撃つ。
 南下し、氷川村に向かい、恐らくはまた起こるであろう戦闘に乱入し、漁夫の利を得る。
 逃げ回るという手もなくはなかったがそれは晴子の性に合わないところではあるし、貧弱な武装のまま終局を迎えねばならないことになる。
 そうなった場合いかに不利かということは弥生も分かっているだろう。
 討って出るしかないのだ。活路を見出すためには。

「……まぁ、相談やな」

 数時間休息をとって僅かなりにとも回復はしている。
 立ち回りができないというほど体が衰えているわけではない。
 足を引っ張ることも、引っ張られることもあるまい。
 その確信に支えられるかのように、寺の中へと踏み出した一歩は、しっかりとした足取りであった。

851(先行不安)/Chaotic Island:2008/07/20(日) 13:16:37 ID:4wBxa5pU0
【場所:F-09 無学寺】
【時間:二日目午後:18:50】

神尾晴子
【所持品:H&K VP70(残弾、残り4)、大きなハンマー、支給品一式】
【状態:マーダー。右手に深い刺し傷、左肩を大怪我(どちらも簡易治療済み。痛みはあるものの動けないほどではない)、弥生と共に勝ち残り、観鈴を生き返らせてもらう】
【備考:蘇生の情報には半信半疑】
篠塚弥生
【持ち物:支給品一式、P-90(20/50)、特殊警棒】
【状態:マーダー。脇腹の辺りに傷(悪化)、晴子と共に勝ち残り、由綺を生き返らせてもらう】
【備考:蘇生の情報は一応理解を示している】

→B-10

852アイニミチル (8):2008/07/20(日) 21:00:59 ID:Hbw10mKg0
 
「―――全部をなくして、あなたは何がほしいの」

雨が降っていた。
さあさあと、絹の糸が天から幾筋も垂れ落ちるような細い雨を受けながら、少女は立っている。
夜空に浮かぶ満天の星のように雨粒を黒髪に纏わせて静かに問う少女の名は、観月マナ。
世界のどこにでもいるただの少女であり、世界のどこにでもいる、世界を変えるたった一人。
それは思い込みという小石と狭い視野という服とに身を包んで歩を踏み出し、いつしかそれを
決意という刃と覚悟という鎧とに塗り替えた、世界を変革するただの少女だった。

「勿論、何もかもがなくなった世界ですよ」

雨が降っている。
ぱたぱたと揺れる水面に蜂蜜色の豊かな髪を映し、微笑んで返した少女の名を里村茜。
世界のどこにでもいるただの少女であり、世界のどこにでもいる、世界を認めぬただ一人。
それは悔恨を喰らい慙愧を啜り、妄執と宿怨とを丹念に練り込んだ化粧を施し、
無色透明の意志で自らを縛り上げた、世界を殺すただの少女だった。

「全部をなくして、あなたは何をするの」

マナの手には剣がある。
青く透き通った剣だ。
滄海の青を一片の歪みもなく伸びた刀身に宿し、淡く発光している。
叩きつければ折れてしまいそうなほど細く真っ直ぐな諸刃を振るえば、軌跡には光が舞い散る。
春の朝を思わせる光は中空を漂うと、雨に融けるように消えていく。

「赤の遣い手が絶無を望むのは、それほどおかしなことですか」

茜の手には刃がある。
赤く煌く刃だ。
焔の中から産まれた宝玉を削り出して造ったような、真紅の刃。
装飾の施された柄から伸びる優美に反った刀身は、触れたすべてを切り裂くような鋭さに満ちている。
ゆらりと掲げられたそれだけで、雨粒が爆ぜた。

「あなたのことを訊いてるんだよ、茜さん」

す、と歩を進めたマナの眼前には、真紅の剣を向ける茜の姿がある。
刃の先を軽く打ち合わせるように、マナもまた滄海の刃を掲げる。
硝子の砕けて散るような、硬質な響き。
それが、始まりの鐘だった。

853アイニミチル (8):2008/07/20(日) 21:01:36 ID:Hbw10mKg0
「―――人が」

つ、と踏み出す茜の繰り出した刃を、マナが躱す。
雨粒が散ってきらきらと光を反射した。

「人がその生の最後に恐れるものは、いったい何だと思いますか」

二人が立つのは、舗装された道である。
薄暗い岩窟であったはずのそこは、様相を一変させていた。
色とりどりの石がモザイク様に並べられた遊歩道。
とめどなく降りしきる雨が幾つもの水溜りを作っている。

「生き終わること? 喪うこと? もう誰かと逢えなくなること?
 いいえ、いいえ、違います」

遊歩道の両脇には色彩豊かな看板とショーウインドウ。
飾られているのは可愛らしい服であり、安っぽく煌くアクセサリーであり、少し大人びた靴であった。
目を移せばパステルカラーで装飾された大きなメニューがある。
季節のフルーツがあり、何種類ものアイスクリームがあり、クリームのたっぷり入ったクレープがあった。
硝子とフリルとジュエリーと革とエナメルと甘い香りと鮮やかな色彩が、見渡す限り軒を連ねている。

「忘却です。忘れ去られることですよ」

言って振るった茜の刃が、その内の一軒を切り裂いた。
沢山のパッチを施した古着を軒先に並べていた店が、ぐにゃりと歪んで消える。
消えたそこには、何も残らない。
所狭しと吊るされていた服も、柱の一本も、空き地すら残ってはいなかった。
そこには古着屋の右にあったはずのアクセサリショップと左にあったはずのランジェリーショップが、
静かに軒を並べていた。まるでその間には、隙間など存在しなかったかのように。
最初から、何一つとしてありはしなかったかのように。

「その生を懸けて何かを遺そうとするのが、生きとし生けるものの本質です。
 命は次代へ、自らを継ぐ何かを遺そうと走り続ける」

854アイニミチル (8):2008/07/20(日) 21:02:08 ID:Hbw10mKg0
蜂蜜色の髪がふわりと舞い、その向こうから真紅の刃が伸びてくる。
滄海の剣で受け止めたその反った刀身を、マナは更に力を込め、弾き返す。
光と音が、花のように散った。

「けれど、人がそれを最後まで見届けることは叶わない。
 当然です。続き続くこの世の終わりまでを知ることなど、誰にもできはしない。
 だから怖い。だから不安になる。だから、その生の最後に恐怖するのです。
 自身が継がれぬことを。誰かに、何かに遺されることなく、忘れられることを」

光の散華の中、茜の言葉にマナは思い返す。
三人の女。身勝手の挙句にその生をマナへと押し付けた三人の女のこと。
怯懦と妄執と、理不尽に抗う理不尽とを強いた、女たちの生を。

「忘れられること。何かを遺せないこと。根源の恐怖。―――けれど」

女たちは生きた。
生きて、生き終わった。それだけのことだった。
三人が最期に何かを遺したつもりでいられたのか、それは分からない。
カラオケボックスが、携帯電話のデコレーションショップが、斬られて消えた。
後には何も残らない。

「けれどその恐怖を、根源の本能をすら越えて尚、何かを望む人が、いるのです」

弧を描く赤の刃を、滄海の剣が弾く。
光が散り、小さな流星となって瞬いた。

「忘れられることよりも、ここに在り続けることをこそ恐れ、拒絶する人。
 変化を、或いは変遷を、或いは変質を、或いは変貌を、明日が来ること、それ自体を拒んでしまう人。
 そういう人が、この世界には確かにいるのですよ」

流れた星が雨粒に融けて、雨が光を纏う。
光の雨に打たれた店が音もなく消えていく。

「だから私は待つのです」

極彩色の看板が消えた。
パステルカラーのロゴが消えた。
色とりどりの飴が、安売りの頭痛薬が、小さな鉢植えが、消えた。

「来ない明日を、終わらない今日の中で、誰にも邪魔されることなく」

小麦粉の焼ける匂いが、砂糖の焦げる匂いが、卵の甘い香りが、光に打たれて消えていく。
最後に残ったベルギーワッフルの店の、小さな手書きのメニューが、消える。

「永遠に、永遠に」

遊歩道が、崩れる。



******

855アイニミチル (8):2008/07/20(日) 21:02:36 ID:Hbw10mKg0
 
 
雨が降っている。
何も無くなったはずの世界は、しかし降りしきる雨だけをそのままに、再びその様相を変えていた。

少女二人を映す窓硝子についた水滴が時折、流れていく。
しんと静まり返った空気はまるで外界とは隔絶されているかのように重く、息苦しい。
雨は窓の外に降っていた。
外に見えるのは整地された広く平坦な土の地面。
石灰で書かれた大きな楕円が、それが陸上競技のグラウンドとして使われていることを主張している。
とん、と硬く軽い音が響いた。
マナの革靴がリノリウムの床を叩いた音である。

「……今度は学校?」

見渡す限りの教室の扉はどれも固く閉ざされ、静まり返っている。
長い廊下の真中で呟いたマナの声だけが、小さく木霊していた。

「他に必要ですか? 私に、私たちに?」

かつ、と響いた足音と同時。
一瞬でマナの眼前にまで間を詰めた赤光の刀身が、縦一文字に空を裂く。
躱して振り抜いた太刀筋には既に茜の姿なく、光の軌跡だけが残った。

「そうだね、買い物のできる街と、学校と、それから……私の部屋と。
 それが私の殆どで、私たちの殆どだ。だけど……だけど足りない」

ふわりと跳んだ茜を追って、マナが跳ねる。
横に薙がれた剣風に巻かれ、掲示板に貼られたプリントが一枚、はらりと落ちた。

「それが私の殆どで、だけど単なる殆どだ。
 うん、それじゃまだ、私には、ぜんぜん足りない」

856アイニミチル (8):2008/07/20(日) 21:03:14 ID:Hbw10mKg0
滄海の剣が宙を舞い、退がる茜を捉える。
手応えは硬質。
赤光の刃が噛み合わされる牙の如く、迫る刀身を受け止めていた。
中空、一瞬だけ至近で睨み合った少女二人が、鳳仙花の実の弾けるように距離を開け、着地する。

「―――何が足りませんか。
 傲慢を満たす学び舎と、不遜をくすぐる店先と、それから何が、貴女に足りませんか」

音もなく駆け、透き通る刃を重ねて、赤の少女が鋭く言い放つ。
重ねられた刃から幻想に舞う花弁のように光が散り、煌いて、消えていく。
光の花束の中心で、しかし青の少女は静かに首を振る。

「足りないよ。あなただって同じでしょう、茜さん」

鍔迫り合いの中、気色ばんだのは茜であった。
吐息のかかるほどの距離にある少女の表情が、変わっていた。
里村茜の眼前、観月マナは微かに、しかし確かに、笑んでいたのである。
それはひどく穏やかで、ひどく倣岸で、ひどく儚げな、春を待つ白い花の蕾のような、笑み。

「―――私には、好きな人がいるんだ」

少女のそれは、この世すべての価値を蹂躙する、笑みだった。
およそ少女を少女たらしめる、星月夜のようにありふれた、不可侵の幻想。
がつりと音を立てたのは、その笑みを前にした茜である。

「……」

がつり。

「同じ」

がつり、がつり。

「同じ、ですか。私と貴女と、それが同じですか」

がつり、がつり、がつり。
茜の手にした赤光の刀、精緻な華の文様に装飾されたその透き通る柄頭が、傍らの壁に叩きつけられる。

「不愉快です。これ以上の限度なく、これ以降の極まりなく、不愉快です」

がつり、と。
打たれるたびに、壁に罅が入り、その表面が錆を落とすように剥げ落ちていく。

「貴女に好きな人がいて。それが貴女に足りなくて。それが私と同じですか」

がつり。ぼろぼろ。
がつり。ばらばら。
がつり。がつり。がつり。

「違うでしょう、それは。私は貴女とは違う。貴女は私とは違う」

落ちた欠片が消えていく。
割れた壁が消えていく。
がつりがつりと音は止まらず、とうとう教室の一つが、消えた。

857アイニミチル (8):2008/07/20(日) 21:03:48 ID:Hbw10mKg0
「同じだよ」

す、と。
滄海の色をした直剣の細い刃が、雨粒を溜めた窓硝子に突き立てられる。

「甘いものや、綺麗なものや、そういうものじゃあ、足りないんだ。
 本当の素敵なものが足りなくて、だから手を伸ばしてるんだ。
 私は。私たちは、ずっと」

刃が、一気に引き下ろされる。
音も立てずに断ち割られた硝子が床に落ちて、砕けることもなく消えた。
硝子の落ちた窓の隣で、もう一枚の硝子が落ちた。
ドミノ倒しの仕掛けのように、長い廊下の硝子が次々に落ちて、消えていく。

「……だから!」

雨は降り続いている。
硝子もない窓の外に、変わらず降り続いている。
声を上げたのは、茜だった。

「それがどうしたっていうんです! それがどうして同じになるっていうんです!
 私は私で、貴女は貴女で、こうして世界の明日を賭けて、それで全部でしょう!?
 他の何も、何もかも、関係ないじゃないですか!」

吹き込んだ雨が、リノリウムの廊下を濡らす。
里村茜の革靴を、白い靴下を、臙脂色のスカートを、ベージュのベストを、蜂蜜色の髪の毛を、濡らす。

「戦って、闘って、相手の胸に剣を突き立てて、それで終わりでしょう!?
 終わらせましょうよ、この物語を!」

赤光の刃を叩き付けた先で、また一つ教室が消えた。
次第に短くなっていく雨の廊下で、

「これは戦いの話じゃない」

マナが、静かに首を振る。
吹き込む雨に濡れ髪が額に張り付くのをそのままに、見開かれた瞳が真っ直ぐに茜を射抜き、言う。

「―――違うよ。私たちはずっと、何かを愛していくんだ。
 これは、そういう物語なんだ」

言葉と共に振り下ろした滄海の刃が、薄い壁を、残った窓枠を、石膏の柱を、緑色の掲示板を切り裂いて、
そうして最後に、廊下の端にあった鉄製の傘立てを、がらんどうの傘立てを、真っ二つに断ち割った。

学校が、歪んで消えた。



******

858アイニミチル (8):2008/07/20(日) 21:04:29 ID:Hbw10mKg0
 
 
雨が降っていた。

いつから降り続いているのかも知れぬ細い雨に、無造作に生えた雑草が濡れて頭を垂れている。
剥き出しの地面は泥濘となり、そこかしこに水溜りを作っていた。
水溜りに落ちる雨粒は幾つもの波紋となり、波紋は重なり合い、打ち消しあって無限の円環を形成している。

人の手から離れて久しいとわかる、荒れた空間。
どこにでもある民家に挟まれた、それは鉄条網に囲われた別世界。
そこに、

「……」

豊かな髪をしとどに濡らして、瞳には昏い焔だけを宿し。
傘も差さずに、立ち尽くす少女がいた。

書き割りの背景は既になく。
雨は少女に降りしきる。

透き通る刃の他には、何一つも持たず。
小さな雨の空き地に、里村茜は立っている。

「これがあなたの―――本当の世界」

眼前に立つ少女の、観月マナの声に、茜が静かに顔を上げる。
さあさあと、絹の糸が天から幾筋も垂れ落ちるような細い雨に打たれながら、茜はマナを見据えると、
無言のまま、唯一つその手にした赤光の刃を、灰色の空へと掲げた。

少女たちの見る夢の最後の、それが、始まりだった。

859アイニミチル (8):2008/07/20(日) 21:04:56 ID:Hbw10mKg0
 
 
【時間:???】
【場所:???】

観月マナ
 【所持品:青の刃】

里村茜
 【所持品:赤の刃】

→993 996 ルートD-5

860アイニミチル (終幕):2008/07/26(土) 16:49:50 ID:ruXzk7n60
 
「―――これがあなたの、本当の世界。沢山の嘘の底に隠した、本当の」

返答は翻る刃だった。
灰色の空の下、赤光が閃き、マナを襲う。

「何が分かりますか、貴女に―――!」

茜の怒りに任せた大上段からの一撃は僅かに身を引いたマナを掠め、濡れた地面を叩いた。
ばしゃりと盛大に跳ねた泥が少女の制服に黄土色の斑模様を作る。

「怖がって、傷ついて、それで逃げ込む先でしょう!」

頬に付いた泥が雨に濡れて流れ落ちるのにも構わず、マナが叫ぶ。
叩きつけるように落とした滄海の刃が茜の背を捉えるより一瞬早く、蜂蜜色の髪の少女は
その身を大地へと投げ出している。

「待つと決めた、私の永遠の証です!」

ベージュの制服がべっとりと水溜りの泥を吸い込んで染まり、汚らしい滴がばたばたと垂れた。
気にした風もなく叫び返す茜の刃が、降りしきる雨を裂いて奔る。

「なら、どうして隠すの! 誇ることもできない気持ちなの!?」

辛うじて受け止めた青の剣がびりびりと震える。
濡れたマナの革靴が、ず、と泥を噛んで下がった。

「土足で踏み込まれたくないからに、決まっているでしょう!」

両手で抱えた赤光の刃を押し込むように茜が体重をかける。
脱ぎ捨てた冷徹な仮面の下の、剥き出しの激情をそのまま力へと変えていくかの如く、
茜の瞳には真紅の焔が燃え盛っていた。
下から睨み上げるマナもまた、焔に呑まれぬ大海の青を宿して斬りつけるような言葉を吐く。

861アイニミチル (終幕):2008/07/26(土) 16:50:13 ID:ruXzk7n60
「なら嘘で隠す必要もない! 最初から誰も近づけなければいいじゃない!」
「そうしているでしょう!」
「じゃあGLは何だったの!? 仲間を作って!」

ぎり、と文字通りの鎬を削るような鬩ぎ合いは長くは続かない。
押されるマナの足が水溜りに取られて、滑った。

「利用しただけです! 分かりなさい!」

絶好の好機。
が、唐突に崩れた均衡に押し込んでいた茜は思わず体勢を崩してたたらを踏んでしまう。
赤く透き通る刃を振り下ろしたときにはマナの姿は既になく、追撃に薙いだ刀の軌跡も遠い。

「よく言うよ! 寂しくて、構ってほしくて、近づけば逃げるふりをして!
 声をかけられて嬉しかったんでしょうが!」

後転するように身を投げ出した勢いのまま跳ね起きるマナ。
泥に濡れたシャツの貼り付いた背中に冷たさを感じながら、駆け出す。
跳ねる泥水が膝下を汚し、一歩ごとにぐじゅり、ぐじゅりと靴が嫌な音を鳴らした。

「勝手なことを……!」

滄海の剣の間合いまで二歩。
茜が赤光の刃を腰だめに引く。
マナが一歩を駆ける。
茜の刃が動き出す。

「誰が、そんなものを望みましたか……!」

リーチはほぼ同一。
詰めるマナと、受ける茜と、刃が交錯する。
迫るマナの引きずるように構えられた下段から、滄海の剣がかち上げられる。
待ち受ける茜の刃はそれに先んじて動き始めている。
下段からの切り上げに開くマナの胴を狙った、烈風の突き。
相討ち、否、僅かに茜の突きが早い。
赤光の刃がマナの胴に突き込まれる、その寸前。
青剣の軌跡が、ぐらりとぶれた。
切り上げる姿勢を利用して、マナが上半身だけを強引に捻っていた。
渾身の両手突きに手応えはない。
茜の刃は、マナの着込んだ制服の脇を僅かに千切り飛ばすに留まっていた。

862アイニミチル (終幕):2008/07/26(土) 16:50:42 ID:ruXzk7n60
「待ってるっていうんならずっと引き篭もってればいい!」
「……ッ!」
「外に出て、誰かに会いたくて、それで何を待ってるっていうのさ!」

刃を突き出した姿勢、茜は剣を引くことができない。
上半身を捻ったマナが頭上に流れた両刃の剣を、今度は開いた茜の背に向けて叩き込む。
咄嗟に身を投げ出した茜の、二つに編まれた髪の先が流れ、剣風に巻き込まれた。
ぷつりと小さな音がして、髪留めが飛ぶ。

「ただ待ってるのが嫌なら、そう言いなよ!」
「……何も知らないくせに!」

飛んだ髪留めが水溜りに落ちて小さな波紋を立てるのと同時。
膝立ちになった茜の刃が、横薙ぎに宙を裂いていた。
迂闊に踏み込めず立ち止まったマナを、茜が憎悪に満ちた眼差しで睨み上げる。

「待ち続ける辛さも、何も知らないくせに……!」
「辛いんでしょう!?」
「―――ええ、辛いですよ!」

ばらり、と茜の髪がその容積を増した。
ゆっくりと立ち上がった茜の、編み髪の一つが解け、波打つ蜂蜜色の海が広がっていた。

「辛いですよ、待ち続けるだけの日々は。
 苦しいですよ、帰らない人のことを想い続けるのは。
 それがおかしいですか? 何か間違っていますか?」

ぶつりと音がした。
茜の手が、もう一方の編み髪を強引に解いた音だった。
乱雑に拡がる豊かな髪が、雨に濡れて茜の肌に張り付いていく。
それを空いた手でかき上げて、茜は叫ぶ。

「寂しいです、息が詰まりそうです、でも、だからどうだっていうんです?
 誰かに近づいたら私の想いは色褪せるんですか?」

匂い立つような艶を醸し出しながら、茜が手にした刃を真横に振るう。
降り続く雨粒が、断ち切られた。

「……そう感じたから、世界を空っぽにしようとしたんでしょう。
 あなたの近づける、誰かのいる世界を」

激情を吐露する、赤光の刃の少女を見据えて、滄海の剣の少女が静かにそれを口にする。
否む強さに縋る少女を断罪するように、肯んじる者が、告げる。

863アイニミチル (終幕):2008/07/26(土) 16:51:08 ID:ruXzk7n60
「……」
「待つことが辛くて、誰かに寄り掛かりたくて、だから世界を永遠に塗りこめて。
 それが、あなたの想いの果て」

告げられた言葉が、雨に吸い込まれて消える。
暫く、無言が続いた。
さあさあと降る雨が、泥の跳ねる音が、水溜りに波紋の浮き出る音が、小さな空き地を満たしていた。
やがて。

「そうですよ」

ぽつり、と。

「……待てなくて、何が悪いんですか」

呟かれるのは、少女の世界だった。

「私はいつだって有限で、けれど生きていれば私は私を埋めていく。
 色とりどりの形と、気持ちとで、私は少しづつ埋まっていく。
 私のぜんぶは、あの人を待つためにあるはずなのに」

俯いて雨を受ける、それは罪を贖う聖者のような、媚を売る物乞いのような、
醜く哀れで、そうしてどうしようもなく目を逸らしがたい、命のありようだった。

「私は生きて変わっていく。世界は私を変えていく。
 仕方ないとわかっていて、避けられないと諦めて。
 だけどそれは、いつか待つことをやめてしまう私を、認めることです」

いつしか少女の手から、透き通る刃が消えていた。
代わりにその白い手指から漏れ出していたのは、どろどろと泡立つ、赤黒く粘つく何かだった。

「だったら、なくしてしまうしかないじゃないですか、世界」

それは月経の血にも似て。
地面に落ちて、世界を汚す。

864アイニミチル (終幕):2008/07/26(土) 16:51:38 ID:ruXzk7n60
「永遠に逃げ込まなければ、永遠を待ち続けることなんて、できないんですから」

ぐずぐずと泡を吹く赤黒いものが、茜の手の中で新しい刃の形に練り固められていく。
届かぬ何かに伸ばされる老婆の手のような、幾つもの刃を持つ大鎌。
ごつごつと歪み、ぶつぶつと崩れ、ぐらぐらと捻じくれ曲がったそれは里村茜の吐く言葉そのままに、
ひどく醜く、ひどく切実に、血を吐きながら叫ぶように、存在していた。

「……そうやって」

駄々をこねて泣き止まぬ、幼子のような空を仰いでマナが言う。
その手にした剣もまた、茜のそれに対応するように形を変えていた。
少女の細腕には不釣合いな、グロテスクなほど巨大な広刃の直剣。

「そうやって、思い出を濁らせていくの?」

自らの背丈ほどもある深い青の刃を、まるで重さなどないように手首を回して掲げると、
マナがその巨大な刀身を地面に突き立てる。
蒼穹と滄海と、その最も澄み渡る一塊を削り出して剣の形に彫り上げられたような刃が泥濘を抉り、
飛び散った泥がマナと茜とを汚した。

「思い出せる? その人の声を。その人の顔を。その人と過ごした時間を。
 その人のこと、なんだっていいから、あなたはまだ覚えていられている?」

沈黙に色はない。
さらさらと降る雨が、濡れそぼる少女たちを洗い流していく。

「……そうして世界が腐っていくから、永遠の中に留めるしかないんでしょう」

暫しの間を置いて返った回答は、空白と同義。

「腐っていくのは、世界じゃない。……あなただよ、茜さん」
「同じですよ。だから私も世界も、永遠になる」

最早、言葉はなかった。
笑みも、涙も、意志も感情も使命も義務も目的すらもなく、少女たちは自らの刃を掲げる。
そこに生まれるものはなく。
そこに見出されるものはない。
ただ己が生を刃として、観月マナと里村茜は対峙している。

865アイニミチル (終幕):2008/07/26(土) 16:52:00 ID:ruXzk7n60
最初に雨を裂いて疾ったのは、血色の大鎌だった。
横薙ぎに迫るそれを、海の色の大剣を盾とするように防ぐマナ。
硬質な音と共に鎌が弾かれ、茜が一歩を下がる。
開いた間合いを潰すように、マナが大剣を盾にしたまま駆ける。
チャージの圧力に更に数歩の距離を飛び退った茜を追うように、大剣が今度は下段から競り上がっていく。
常識外の距離から届く巨大な大剣の刃はしかし、単純な一文字の軌跡。
大剣の豪風は恐れず踏み込んだ茜の蜂蜜色の髪を数条だけ舞い散らせるに留まる。
天空へと振り上げられた巨大な青の刃が断頭台の如く下ろされるよりも早く、茜は大鎌を振るう。
マナの空いた横腹を掻き切る軌道。
先刻に似た交錯、だが違うのは少女二人の戦いの意味。
青の少女は躱さず、赤の少女は退かない。
両手で大剣を振り上げたマナが選択したのは叩き下ろす一撃の加速。
体勢を崩すことなく真下へと振るわれる豪剣は互いの刃の間にあった刹那の差を埋める。
直後に響いた鈍い音は、刃の肉を食むそれではない。
茜の肩が、体当たりの形でマナの胸に食い込んだ音である。
頭上から風を巻いて迫る巨刃に、咄嗟に刃を引いた茜が見出した間合いは密着。
一瞬遅れて轟音が辺りを揺るがす。
けく、と息を吐いたマナの振り下ろす大剣が、必殺の勢いを失いながらも慣性に従って大地を抉っていた。
僅かに浮いた小さな身体を、血色の大鎌のごつごつと歪んだ柄が打ち据える。
大きな飾りボタンが一つ、弾けて飛んだ。
泥濘の地面に食い込んだ大剣を握るマナは飛んで転がることもなく、代わりに第二撃をその身に受ける。
野球のバットを振るような横殴りの打撃が、マナの腹部を直撃していた。
臓腑を潰すような一撃に、今度こそマナが吹き飛ぶ。
その手から離れた大剣が無数の光の粒になって消えた。
数歩分の距離を飛び、大地に叩きつけられたマナが泥濘の中を転がる。
咳き込みながら膝をついて跳ね起きたその全身は見る影もなく泥に塗れ、しかしその瞳の光は消えていない。
追撃に迫る血色の大鎌の、大気を縦に断ち割るような斬撃を見据えるマナの手に、再び青が宿る。
一瞬の後、その手には蒼穹の大剣が握られていた。
少女の細腕が、その背丈をすっぽりと隠すような幅広の大剣を片手で操る。
重く低く響く、鐘のような音の波。
下からの斬り上げが、赤の大鎌を受け止めていた。
がちりと噛み合った刃を、そのまま弾くように力を込める。
押し込む茜と押し返すマナ。
体重をかける茜の革靴が、マナのついた片膝が、滑りやすい地面の泥をぐねりと歪ませ、
しかし勝ったのは下、重心の低いマナの圧力だった。
跳ね上げられる大鎌。
かち上げられる大剣。
手応えはない。
勢いに逆らわず飛び退った茜を睨みながらマナが立ち上がる。

866アイニミチル (終幕):2008/07/26(土) 16:52:24 ID:ruXzk7n60
顔に張りつく泥を拭うその手の甲も泥に塗れていて、マナの表情を彩る黄土色の縞模様は雨に崩れて醜い。
口の中には砂の味。
無造作に吐き出した唾が顎に垂れたのを、もう一度拭う。
見据える先では、豊かな蜂蜜色の髪を雨にべっとりと濡らした少女が泥に塗れて醜い。
奇怪な血の色の大鎌を腰溜めにした瞳に色はなく。
きっとそれが、里村茜という少女だ。
ならば雨の中、泥に塗れ、己が意志も持たず。
どこかの誰かに託された想いと生とを剣として支えに立つ自分は、観月マナだ。

「―――ッ!」

少女二人に声はなく。
同時に上げたそれは正しく、咆哮だった。

誇れ、何にも拠らず立つことを。
誇れ、世界を殺す感傷を。

泥を跳ね上げ、雨を切り割って駆ける少女が、激突する。
ぶつかり合う刃が、何度も何度も音を立てる。
弾き、弾かれ、互いを断ち割らんと振るわれる刃が雨の中、少しづつ光に還っていく。
咆哮と、雨音と、刃の弾ける硬質な音とが小さな空き地を覆い、
蒼穹と滄海と、人の見る世界の拡がりの色が、
薄暮と灯火と、人の中に流れている命の色が、
少女たちを包み込んでいく。

互いの刃が、互いの刃を削り。
削り、削り、削り、折れ、砕け、散り、光に還り。
やがて細い刃だけを残して少女たちの手には何もなくなっても。
それでも少女は牙を止めない。

か細い刃を、後ろ盾のない想いを。
ただ、ぶつけ合う。

きらきらと輝く音と、さらさらと流れる光の中。
背負うものすらも忘れた、闘争の果て。

「―――」
「―――」

青の剣が、赤の少女を貫き通し。
赤の刃が、青の少女を貫き通し。

ゆっくりと、ゆっくりと。
倒れ伏す、少女二人の外側で。
雨の空き地が、割れ、砕けた。


 
******

867アイニミチル (終幕):2008/07/26(土) 16:53:16 ID:ruXzk7n60
 
 
そこは広い岩窟だった。
静謐の中、照らす灯火も既に消え、闇だけがその空間を満たしていた。

動くものは何もない。
闇の底に沈んだ岩窟には、微かな息遣いも、ほんの僅かな温もりも、存在してはいなかった。
風すらも吹かぬ、悠久を闇に沈んであり続けるかのような岩窟に揺らぎが生じたのは、
ならばそれが何時のことであったのか、判然としない。

判然とはしなかったが、しかしそこに現れたものがあった。
生まれたのは、光である。
真円に近い光の球が、いつの間にか闇の中に漂っていた。

奇妙な光球だった。
自ら輝きを放ちながら、しかし闇を照らさない。
ただ光として在り、しかし闇を侵さないそれが、唐突に、二つに割れた。
割れた二つの光球が、次第にその色を変えていく。

何も照らさぬ、透き通るような青と。
何も照らさぬ、透き通るような赤と。

互いの周りをくるくると回る青と赤の光球は、耳を澄ませば微かな音を立てて震えていた。
きらきらと光る薄い翅の揺れるような、ほんの僅かな音。
それはどこか、遠い国の言葉のようでもあった。

「―――」

「―――」

囁き合うような光球は、互いの周りを回りながらその速度を増していく。
二つの光球がやがて視認できないほどに加速し、回りまわる赤と青が、闇を照らさぬ二色の光が絡み、
融け合い、やがて赤と青という色の境目をなくした、その刹那。
音が、爆ぜた。

光球の立てていた微かな音とは明らかに異質な硬い音が、幾つも連鎖する。
それは、洞窟を構成する岩盤に、無数の罅が入っていく音だった。
崩落。岩窟が、崩壊していく。
轟音と共に土埃が立ち昇る。
巨大な岩盤が、大小無数の欠片になって崩れ落ちていく。

闇の中、闇を照らさぬ光は、崩落する岩盤に包まれてもう見えない。
砕けて落ちる岩窟の中、微かな息遣いも、ほんの僅かな温もりも、既にない。
声はもう聞こえない。





「―――」

「―――」





声はもう、聞こえない。




 
******

868アイニミチル (終幕):2008/07/26(土) 16:53:30 ID:ruXzk7n60
 


否。


 
******

869アイニミチル (終幕):2008/07/26(土) 16:53:43 ID:ruXzk7n60
 


「―――ねえ、世界って―――」


 
******

870アイニミチル (終幕):2008/07/26(土) 16:54:09 ID:ruXzk7n60
 

藤田浩之がその声を聞いたのは、七瀬彰と名も知らぬ触手の男を埋葬し、その墓に手を合わせた、
正にその時である。
どこからか響くようなその声に戸惑ったように顔を上げた浩之が、柳川祐也と顔を見合わせ、
ふと微笑んで、首を振る。
声は、短い問いだった。
ほんの小さな、ひどく身近な、単純で深遠な、小さな問い。
確かな答えは、見交わした視線の中にあった。

静かに口を開いた浩之の、その眼差しに迷いなく。

「んなこと、ねえよ―――たまにかったりいけど、な」

その声音に揺らぎなく、応える。
浩之の言葉をどう受け止めたのか。
声は、それきり聞こえなかった。

「なあ、今のって……」

目を見交わした柳川が、意を汲んだように頷く。
どこからともなく響く、怪しくも不思議な声。
それがどこかで聞いたことのある声であるように、浩之には思えたのだった。
首肯する柳川の、優しげな眼の光に浩之が確信する。
それは、傷ついた二人を癒し、護り、そして勝利へと導いた、青い光を纏う歌。
誰ひとりとして歌わぬ、だが誰の耳にも聴こえた、あの歌声に似ていた。


 
******

871アイニミチル (終幕):2008/07/26(土) 16:54:28 ID:ruXzk7n60
 

「え……?」

どくん、と震えたのは心臓ではない。
辺りを見回した春原陽平が、無意識の内に撫でていたのは下腹である。

「そんなのわかんない、けど……」

何かに背中を押されるように、声が出た。
木漏れ日の眩しい林道の中、さわさわとざわめく梢の音に混じって聞こえたのは、ほんの短い問い。
まるで空に融けるような声にも、春原は不思議と恐怖を感じなかった。
それはとても懐かしく、同時にひどく近いどこかから聞こえてくる声のように、春原には感じられていた。

「わかんないけど……少なくとも、退屈はしてない……かな?」

ざあ、と。
ひと際強い風に木々が揺れた、その時にはもう、声は消えていた。

「……ちょっと! ついてくるならさっさとしなさいよ、まったく!」

代わりに聞こえてきたのは怒声のような響き。
慌てて駆け出した春原陽平の、その片手で押さえた下腹に宿った小さな光は、誰の目に留まることもなかった。
青い、青い光が、風に舞い上がるように立ち昇り、梢の向こうへと消えていったのに、気付いた者はいない。


 
******

872アイニミチル (終幕):2008/07/26(土) 16:54:55 ID:ruXzk7n60
 

崩れ落ちる岩窟の中、凛と光るものがある。
闇を照らす光が、闇を照らさぬ赤と青の光を圧して、そこにあった。

「―――ねえ―――」

光が、声を放つ。

「―――ねえ、世界って、そんなに、つまらない?―――」

声は響く。
世界に響く。

問いに気付く者は僅か。
問いに答える者は僅か。

それでも、答えはあった。
その問いに応える者は確かに、存在していた。


***


そうして青が、闇を照らさぬ光の片方が、応える。

「―――私には、好きな人がいるんだ。私たちはずっと、何かを愛していくんだ。
 それが、答えだよ」

その応えはどこまでも驕慢で誇り高く、享楽に塗れ放埓に過ぎ、
同時にひどく、満たされていた。
少女と呼ばれる者たちの、それは輝く日々だった。


そうして赤が、闇を照らさぬ光の片方が、応える。

「―――いいえ、いいえ。確かにままならず、確かに愚かしく、確かに脆弱で、取るに足らず。
 それでも、素晴らしいものも、ほんの少しだけ、ありました」

その応えはどこまでも不遜で計算高く、意気地なく哀切に満ち、
同時にひどく、鮮やかだった。
少女と呼ばれる者たちの、それは小さな牙だった。


***


応えは返る。
世界に響く。

「―――そう―――」

光が、その眩さを増していく。
赤が呑まれ、青が融け、光が膨張する。

「―――なら、僕は―――」

轟音を圧し、崩落を圧して、
光が瞬き、そして。

「―――生まれたいと、思う―――」


 
******

873アイニミチル (終幕):2008/07/26(土) 16:55:12 ID:ruXzk7n60
 


岩窟に、光が満ちた。


 
******

874アイニミチル (終幕):2008/07/26(土) 16:55:22 ID:ruXzk7n60
 


さわ、と。
鼻先を撫でる潮風に、ゆっくりと開かれた観月マナの目に映ったのは、ひどく遠い、蒼穹の青だった。

岩窟はなく、それを満たす光もなく。
ただ、澄み渡る空だけがあった。

日輪が、輝いていた。

875アイニミチル (終幕):2008/07/26(土) 16:55:41 ID:ruXzk7n60

 
【時間:???】

【場所:B−2海岸】
観月マナ
 【状態:生存、エピローグへ】

【場所:???】
里村茜
 【状態:不明】


【時間:2日目午前11時半すぎ】

【場所:C−3 鎌石村】
藤田浩之
 【状態:生存、エピローグへ】
柳川祐也
 【状態:軽傷、エピローグへ】

【場所:G−5】
長岡志保
 【状態:異能】
春原陽平
 【状態:妊娠】


【時間:???】
【場所:???】
???
 【状態:決意】

→921 938 998 ルートD-5

876霧雨ニ響ク鳥ノ詩:2008/07/30(水) 20:11:17 ID:cXyYwh360
 ぽつぽつ、と鈍色の空からは雫が降り注いでいた。
 どんよりと立ち込めている暗雲はまだ姿を見せているはずの太陽を遮り、夜の帳を早めている。
 まだそんなに雨粒の数は多くない。
 今からすることの障害にはならないだろう、と前髪につく水滴を払いつつ、国崎往人は川澄舞の姿を待っていた。

 「少しやることがあるから、待って欲しい」と言ったきり、かれこれ10分が経過しようとしている。
 一体何をやっているのだか、と疑問に思いながら手持ち無沙汰に護身用の投げナイフを弄ぶ。
 まさか、未だに自殺を考えている……ということはないだろう。
 寄り添っている間に感じた安堵の雰囲気は、間違いなく本物だ。
 これからどうしていくかについては結局、明瞭な返答は得られないままだったが生きていくという意志は見える。
 過程が見えていないだけだ。なら、それはじっくりと探していけばいい。
 その間の手伝いくらいはしてやろう、そこまで考えて、今までの自分なら考えもしなかっただろうなと思い、往人は苦笑する。

 母さん、俺は今度こそ間違えずにいられると思う。
 ……この姿を、見せたかったな。

 記憶の片隅にしかなく、顔もぼんやりとしか思い出せない母親の輪郭を空に見ながら、往人は目を細める。
 まだ家族を思うほどには情が残っている。
 人らしさが残っていることに安心感を覚えながらそろそろ呼びに行こうか、と思ったとき、タイミングよく舞が玄関をくぐって出てくる。
 噂をすれば……ではないか。

 何をしていたんだと尋ねようとして、舞の手に小さな箱が納まっていることに気付く。
 荷物の整理をしていたときにはなかったものだ。往人はまずそちらに興味を移し、それが何かと尋ねる。

「マッチ」
「……今時、まだそんなものがあるんだな」

 簡素に答えて、舞は抱えていたデイパックを地面に置き、マッチ箱だけを手に持った。濡れないように手のひらで隠しながら。
 何に使おうとしているのかはすぐに察しがついた。
 雨粒の匂いに紛れて漂ってくる刺激臭。どこか硬い舞の表情。
 それを止める気はなかったが、確認する意味も込めて往人は問いかける。

877霧雨ニ響ク鳥ノ詩:2008/07/30(水) 20:11:42 ID:cXyYwh360
「いいのか」
「……構わない。これが、私なりの結論だから」

 その声は諦観ではなく、決意のようなものがあった。
 そうか、と答えて往人はそれ以上何も言わなかった。
 けじめだと言うのなら、手を差し伸べる必要はない。
 一歩身を引いて舞のするがままにさせることにした。

 同時、シュッと軽い音がして暗くなりつつある平瀬村に一つ、小さな灯りが燈る。
 煌々と瞬く光は儚く、今にも消えてなくなりそうに見えたが、しっかりとした炎を纏っていた。燻らない強さがあった。
 しばらく舞はそれを見つめ、やがて意を決したように火を民家の中に投げ込んだ。
 途端、轟と凄まじい炎の波が膨れ上がり数瞬の間に民家を駆け巡る。

 壁材が灼熱に溶かされ、化学繊維がパチパチと悲鳴を上げ、木材が崩れ往く。
 実際には民家の全身が炎に包まれるまでは何分かの時間を要しただろうが、往人にはひどく短い時間のように思えた。
 まるで炎はこの時を待っていたかのように踊り狂い、紅蓮のコーディネイトを施していく。
 熱気に押し上げられた大気は風となり、焼けて脆くなった部分を吹き飛ばす。
 既に燃え尽きて灰になった一部が雨だというのに宙を舞い、鈍色から漆黒へと変わりつつある空へ同化してゆく。
 火は勢い益々盛んに全てを焼き尽し、所々でガラスが割れはじめる音が響きだした。

 死者の悲鳴だとは思わなかった。現場にも立ち会ってない自分が思うのはあまりに勝手かもしれないが……
 だがそれでも生き延びろ、生き延びろと声を張り上げているように往人は感じたのだ。

 轟、と風が凪いだ。
 ギリギリと民家が音を立て、僅かにその姿を変え始める。墓になろうとしているのだ。
 なおも強くなる熱風は雨などものともしていないかのように二人を撫で付ける。
 行け、もう自分達は使命を果たしたのだと、背中を押すように。

878霧雨ニ響ク鳥ノ詩:2008/07/30(水) 20:12:03 ID:cXyYwh360
「……まだ、やる事があるな」

 もう少し待ってくれ、と心中で笑いながら往人は腕を捲くり、ナイフを逆手に持って刃をむき出しになった腕へと向ける。
 あれが舞の決別なのだとしたら、これが俺のやり方だ。
 ぐっ、と深く切り過ぎないように力を篭めて、往人はナイフを押し付ける。

「往人? 何を……」
「大丈夫だ、リストカットなんかじゃない」

 その様子を見た舞が慌てたように止めようとするが、言葉で制し、僅かに苦痛と流れ出る血を感じながら続ける。
 それでも不安なのか、心配そうに見つめる舞を横目に見つつ、往人は一文字ずつ言葉を刻んでいく。

 『Don't forget』

 ……これくらいの英語は知っている。多分スペルミスもないはず。……多分。
 ともかく、これが往人なりのけじめのつけ方だった。
 忘れない。事実を事実として受け止め、その上で進んでいくしかない。
 逃げない。逃げるわけにはいかない。そんな意味も篭めて。
 雨と混じった血が赤い河となって流れて行くのを眺めながら、往人は捲くっていた袖を元に戻した。

「……」
「どうした?」

 もの言いたげな視線を寄越す舞に、往人はなんの気はなしに尋ねてみる。
 反応して、舞は口を開きかけたが何か思うところがあったのか、少し逡巡して何でもない、という風に首を振った。
 表情に変化が少ないため何を考えていたかは読み取れなかったが、バカにしていたわけではないだろう。
 ということは、スペルミスはないな。文法ミスもなさそうだ。
 そんなくだらないことでホッと心中でため息をつき、本当に何も言わないのを確認して、行こうと促す。

879霧雨ニ響ク鳥ノ詩:2008/07/30(水) 20:12:25 ID:cXyYwh360
「あ、待って」
「今度は何だ?」
「気付いた。荷物の整理をしていない」
「……そう言えば、そうだ」

 家を出る前にやっておくべきだったことを、どうして今まで気付かなかったのか。
 色々あったから仕方がなかったとはいえ、肝心な所をボケすぎだろう俺、と往人は嘆息する。
 だが今更何を言ってもどうにもなりはしない。さっさと行動に移して要領よくやるべきだ。

「一旦全部出すか……確か、六人分はあったな」

 言いながら、持ってきたデイパックを次々と開けて中身を取り出していく。
 流石に、とでも言うべきか六人分もあれば武器の量も多く加えて高性能なものが揃っている。
 軽く武器庫状態だな、と思う一方、それだけの命の重みを抱えているのだとも実感する。

 ともかく、種類は豊富だった。
 銃だけでもショットガン(レミントンM870)、拳銃(SIG P232、ワルサーP38)が二丁、鉄扇、トンカチ、フライパン、カッターナイフ、投げナイフが四本。……と、謎のスイッチが一つ。
 レミントンに関しては予備弾薬は十分であるが、他の二丁の拳銃はほぼ残弾が皆無であることが判明した。
 往人の手持ちの38口径弾は転用できるかどうか分からないので、それなりに詳しい人間に出会えるまでこのままにしておこう、ということで結論を得た。
 謎のスイッチであるが、全く以って謎の代物であり、説明書を見ても何が何やらという調子で下手に使うのも躊躇われた。
 見る限りでは無線機のような形状であり、恐らく電波か何かを送信するのであろうアンテナが見受けられるが、やはり見渡しても何も分からない。
 かと言って壊すのも勿体無い気がしたので、これも保留。
 残りは白兵戦に用いる近接武器、と分配を考えようとしたときだった。

 燻る雨と煙の向こう、泥のように濁った気配が霧の中に出現した幽鬼の如く立ち込める。

「……」

 耳を凝らさなければ聞こえないくらいの掠れた声が湿った大気に伝わったと同時、往人は無用心だった、と舌打ちし……
 電撃的に舞の腕を引っ張り、身体を手繰り寄せる。
 その空間を、雨の冷たさよりも冷酷に、ボウガンの矢が潜り抜けていった。

880霧雨ニ響ク鳥ノ詩:2008/07/30(水) 20:12:42 ID:cXyYwh360
 考えてみれば、轟々と火を上げ続ける民家が目印にならないわけがなかったのだ。
 周囲が暗さを増しつつあるなら、尚更。
 迂闊だったと己の注意不足を恥じつつ、集中を取り戻した舞が地面に置いていた日本刀を手に取り、すっ、と構えるのを横目にしながら、往人もコルトガバメントカスタムを向ける。
 互いの距離は約10メートル前後。
 地面のコンディションは劣悪という程ではない。濡れた草などに足を取られないようにすれば、問題はない。
 その判断を三秒足らずで下し、眼前に迎える敵の姿を見る。

 小柄な少女だった。
 ただ、その格好はスクール水着に制服と、この島には似つかわしくないような異様さを放っている。
 だがそれより、何より異常だったのは……

「何で避けるんだよっ、なんでっ、なんで、なんで……っ!」

 ――雰囲気。
 何かに取り付かれたかのような、余裕のない瞳。
 執拗なまでに向けられる獰猛で、我侭な殺意。
 暗く水底に沈んだかのような、虚ろな叫びを上げて。
 朝霧麻亜子が、歯を噛み締めて、ボウガンを持ち上げた。

     *     *     *

 何かが、音を立てて崩れ落ちていくのがはっきりと自分でも感じ取れた。
 目の前が真っ白になる……その表現が、間違いだと分かった。
 虚無だ。白ではなく、そこは無に満ちていた。
 自分の存在すら感じられないくらいに、人事不省になるのではないかといっても差し支えない足取りで、朝霧麻亜子はよろよろと歩く。
 どん、と壁に身体が当たって、はじめてそこに自分の身体があったのだと認識するほどに、麻亜子は何も考えられなくなっていた。

881霧雨ニ響ク鳥ノ詩:2008/07/30(水) 20:13:02 ID:cXyYwh360
「嘘だ……こんなの、冗談だろ……?」

 否定する声は、思ったよりも白々しく感じられた。
 用意された台詞を喋っただけの、空虚で中身のない声。
 あるいは――放送で死んだと伝えられた、久寿川ささらと河野貴明の一件を受け入れようとしている、自分の頭に対して言ったものかもしれなかった。
 そして、そのことは麻亜子が完全なる『殺人鬼』へと変貌したことをも証明している。

「違う、違う違うちがう! あたしはっ、そんなことのために殺してなんかない!」

 誰も問いかける者もいないのに、麻亜子は必死に、髪を振り乱す勢いで反論する。
 だが、聞こえる声は止まらない。

 お前はもう、殺人を愉しむ餓鬼なんだ。人の悲鳴を好み、戦いと憎悪を快楽とする阿修羅なんだと、囁き続ける。
 受け入れろよ。お前の目的は友達を救うことじゃない、血を啜りたいだけなのだろう?

 ……狂ってる。何もかも。

 そんな押し問答を繰り返す自分が、残酷に奪っていくこの世界が、
 親友だった二人の死を、悲しみもしない、心が。
 一番信じられないことだった。
 どんなことがあっても大切にしようと、守り通そうとしてきたはずなのに、大好きだったのに、涙の一滴も流していない。
 人を殺し続けた結果が、これだと言うのか。

 『冗談だろ?』

 この一言に、全てが詰まっていた。
 あらゆる事が冗談としか思えない出来事。
 変わってしまった自分、変えられない現実、変えられぬ過去……
 紛れもない真実であり、空想のような事実。
 これで、ここから、どうしていけばいいのだろう。

882霧雨ニ響ク鳥ノ詩:2008/07/30(水) 20:13:27 ID:cXyYwh360
 夢の続きだった。
 境目のない虚無を歩き、殺しを肯定する自分と、否定する自分に喘ぎ、出せぬ結論に苦しむ。

「……いや、まだだ、まだ方法はある……」

 放送の内容は、辛うじて覚えている。
 いや、覚えていなければならないという意思が、優勝しなければならないという意思が働いていたからなのかもしれない。
 どちらでも良かった。問題は、残り人数のみ。
 二人まで生き残れることも、二人とも願いを叶えて貰えることも、生きて欲しいと願った二人がいなくなった瞬間から、意味を為さない。
 全く因果なものだ。これを仕組んだのが運命だというのなら、その運命をズタズタに引き裂いてやりたいところだった。

 乾いた笑いを上げながら、麻亜子は指折り、生存者数が30人強にまで減っていると認識する。
 残りはそれだけ。それだけ殺せばいい。
 骨が折れ、肉が千切れ、悪鬼羅刹に身をやつそうとも、一人残らず屍に変える。
 どうせそう望まれているのなら、そうしてやろうではないか。
 誰かが哂う。主催者が、恐らくはいるはずであろうこの殺し合いの協賛者も。
 結構。掌で弄ばれようが、それでもやり遂げねばならないことがある。
 邪魔する人間は全て皆殺し。
 許しを請い、慈悲を願い、額を地面に擦り付けて涙を流し生を懇願しようが、冷酷に切り捨てるのみ。
 今まですら甘すぎた。
 既に救いは無い。求められるはずも、手が差し伸べられるわけも無い。

 残された手段はただ一つ。
 地獄へ自ら堕ち、宝物を奪い、蜘蛛の糸を辿り戻ってくるしかない。
 即ち――優勝して、二人を生き返らせてもらうこと。
 これさえ叶えられれば、たとえその後自分が死んだとしても、想像を絶する苦痛に苛まれ、陵辱されたとしても構わない。

883霧雨ニ響ク鳥ノ詩:2008/07/30(水) 20:13:49 ID:cXyYwh360
 もうそれしか……それしか、麻亜子には考えられなかった。
 それ以外に、どうしていいか分からなかった。
 心すら、今は煩わしい。
 こんなにも苦しいのならば、悲しいのならば、感情などいらない。そう思うくらいに。
 それでもやらなければならない。麻亜子がやらなければ……一体誰がかつての日々を取り戻してくれるというのか。
 当たり前のようにあったあの日常は、最早麻亜子にしか取り戻せなかった。

 何も考えるな。機械になれ。もう、物思いに耽るのはここまでだ。
 決意しても尚、麻亜子の中にある何かが悲鳴を上げ、軋みを立てて痛みを訴えようとする。
 後悔しているのだろうか。こんなことになってしまったことを、今更、今更、今更……
 そう、今更だ。だから、こうやって方法を模索し、皆殺しにして願いを叶えて貰うという選択に行き着いた。

「……よし」

 それ以上黙っていれば、また何か考えてしまいそうな気がしてそれで締めくくることにした。
 今までだってそうだった。言葉は道化だ。
 何かを考えないようにするには、全てを遮り、喋り続けているのがいい。
 そうすれば、何も聞こえない。

「さぁて、行きましょうかね、無限の彼方へー! ……っとと、その前に持ち物の確認か。冒険する前の準備はRPGの常識だよねー」

 戦闘続きでデイパックの中身は久しく確認していない。
 それにしては戦利品が少ないのを懸念しつつ、麻亜子は鼻歌交じりに荷物を確認する。

「ふんふん、黒くて太くて硬いものと、先端が尖ってて硬いものと、勢い良く発射するやつか」

 誰かが盗み聞きしていれば間違いなくある種の誤解を招きそうな事を(本人は確信犯的に言っていたが)喋りながら、ボウガンの矢数はまだそれなりに残っていることに安堵する。
 元々大量に支給されていたのと、モッタイナイ精神の元拾えるものがあれば拾い集めていたので、矢の残りは36本。
 デザート・イーグルは強力無比ではあるものの残り弾数があまりにも少なすぎる。
 柏木耕一のような化け物相手でもない限り使わない方が無難だろう。
 となると、ボウガンで狙い撃ちしつつ近距離に入り込まれたらナイフで応戦するのが基本戦術となる。
 結局、新しい武器を手に入れるまではいつも通りか。

884霧雨ニ響ク鳥ノ詩:2008/07/30(水) 20:14:19 ID:cXyYwh360
 制服のポケットにナイフを入れ、ボウガンを手に持ち、麻亜子は新たなる戦いへと赴く。

「……大丈夫、あたしはまだ、大丈夫。忘れてないから、だから、待ってて、さーりゃん、たかりゃん」

 その二人の名前が心に圧し掛かるのを無視して、麻亜子は家の玄関を開けた。

「さよなら」

     *     *     *

 麻亜子が往人と舞を発見したのは、それからすぐのことだった。
 雨に濡れた大気の中に浮かぶ、薄紅色の景色と風に運ばれてやってくる、焼け焦げる匂い。
 何かを燃やしているな、と判断した麻亜子はすぐにそちらに向かうことにした。
 まだ炎が燃え盛っているなら、人がいるのではないか。そう思って。

 この予測自体は正しかった。
 気配を殺しながら、慎重に足を進めた先には二人の男女がいた。
 何をやっているのか、雨が降っているというのに荷物の確認をし合っていた。
 恐らく、家に火をつける前に確認するのを怠っていたのだろう。

 間抜けだ、と息を漏らし、一思いに殺してやろうとボウガンを持ち上げる。
 犠牲者、第四号と五号だ。
 連射こそできないボウガンだが、音もなく一撃必殺の矢を放てるのは最大の利点。
 相方がいきなり倒れ、動かなくなれば間違いなくもう一人も動揺する。後はそこに矢を撃ち込めばいい。
 狙いをつけようと目を凝らし、対象を捉えようとした麻亜子だが……それが一つの物体を目にする結果になった。

「あれ……は……?」

885霧雨ニ響ク鳥ノ詩:2008/07/30(水) 20:14:44 ID:cXyYwh360
 男が持ち上げた、見覚えのある扇子。見紛うはずがない。何故なら、あれは麻亜子が実際に使っていた、鉄扇なのだから。
 瞬間的に、麻亜子が記憶を手繰り寄せる。

 あれを持っていたのは誰だったか。
 学校でのいざこざがあったときに奪われたはず。
 誰に?
 たかりゃんの近くにいた、仲間っぽいツインテの女の子。
 そして、たかりゃんの近くにはさーりゃんもいた。
 逃げたあたし。
 追っていたたかりゃんとさーりゃん。
 燃え盛る家。
 その前で、あいつらの持ち物だった荷物を持って何か確認し合う二人組。

 事実が過去と繋ぎ合わさり、一つの推測を生み出す。
 まさか、たかりゃんとさーりゃんを殺したのは、あの、二人?
 状況証拠があまりにも揃いすぎていた。
 冷静だったはずの頭が、どんどん熱を帯びて思考を一元化させる。封じ込めていたはずの余計な思考が入り込む。

886霧雨ニ響ク鳥ノ詩:2008/07/30(水) 20:15:04 ID:cXyYwh360
 あいつらが、あいつらが……殺した……

 『だが、逃げたのはアンタだ』

 あれはっ……あの時は……仕方なく……

 『アンタさえ逃げなきゃ、二人は死ぬことはなかったんだ』

 逃げてなんかない! 殺したのはあいつらだ!

 『そうだとしてもその要因を作ったのも、アンタ』

 違う! 違う違う違う!

 『さーりゃんとたかりゃんを殺したのは、アンタなんだよ。まーりゃん』

 違うっ……そんなこと、あるもんかぁっ!

「……っ!!!」
 流れ込んでくる声を黙らせるかの如く遮二無二ボウガンを振り上げ、半ばいい加減に狙いをつける麻亜子。
 それがいけなかった。
 気付かないはずだった男――国崎往人――が気配に気付き、相方の女――川澄舞――の手を引っ張り、ボウガンの射線から退いた。
 空しく外れた矢は、麻亜子の空回りする思いを示しているかのようで。

「何で避けるんだよっ、なんでっ、なんで、なんで……っ!」
 思い通りにいかないのを、苛立ち、駄々をこねる子供のように叫び、矢を再装填する麻亜子。
「当たってよっ! アンタ達が、アンタ達がいるからっ!」

 何に対して怒っているのかも自身ですら分からぬまま、再度舞の方へと向けて矢を発射する。
 だが先程と違い十分に集中を保っている舞は射線を読み切り、僅かに横に動き、二発目の矢も回避する。
 そのまま刀を構え、突進してくる舞の、予想以上のスピードに麻亜子は反応が遅れた。
 三度目の装填は許されない。ボウガン本体を刀の鍔で押し飛ばされ、高々と放物線を描いて麻亜子に後ろに落下する。

887霧雨ニ響ク鳥ノ詩:2008/07/30(水) 20:15:21 ID:cXyYwh360
「……っ! どうして……! そうなんだよっ!」

 サバイバルナイフを抜くと、懐目掛けて斬りつけようとする麻亜子だが、冷静に一歩引きそれを刀で弾いた舞に阻まれる。
 めげずに幾度と無く振るうが、舞は元々夜の学校で剣を振るい、正体不明の魔物と対峙してきた、白兵戦における実力者でもあった。
 卑怯の女神とあだ名され、その神懸り的な知略と小柄を利用した運動能力を誇る麻亜子でも、その道の達人には及ばない。
 加えて、今の麻亜子からは冷静さも欠けていた。
 そもそも冷静であるなら今の時点で実力者に真っ向から勝負を挑むのは無策かつ無謀だと悟り、敵を出し抜く術を考えていたところだろう。
 それどころか当たらない攻撃にますます焦り、無闇矢鱈に攻撃を繰り返す始末であった。
 まるで、目の前の舞ではなく、その先の見えない何かを追い払っているかのように。

「あなた……?」
「五月蝿い! 黙れ! 喋るなっ! ここからいなくなれ!」

 様子がおかしいと気付いたのは、舞だけではなく、往人もだった。
 遮二無二攻撃を繰り返し、目の前を倒す事しか考えていないかのような行動。
 何かを否定するかのように大声を張り上げ、側面に回ってガバメントカスタムを構えている往人にも気付かない。
 明らかに精彩を欠きすぎている行動から、却って何か策ではないのかと疑わせるくらい、麻亜子の状態は異常だった。

「アンタ達のせいで、死んだんだろ!? さーりゃんとたかりゃんは!」
「さーりゃん……? あなた、まさか」

 その呼び名に聞き覚えのあった舞が少し動転し、僅かに動きが止まる。
 間隙をついて振るわれたナイフの刃が、舞の腕を浅く裂く。
 痺れるような痛みに顔を顰め、舞が大きく飛び退く。

「舞っ!」
「大丈夫、大したことない」

888霧雨ニ響ク鳥ノ詩:2008/07/30(水) 20:15:43 ID:cXyYwh360
 叫ぶ往人を手で制し、任せて欲しいと視線で訴える。
 その瞳の色に説得され、往人は追撃していく麻亜子の姿を見る。

 あいつ……いや、今は舞に任せよう。下手に手を出すと、取戻しがつかなくなってしまうかもしれない。
 ガバメントカスタムはいつの間にか下がり、代わって、仕舞っていた風子のスペツナズナイフの柄を握る。
 頼む。上手くいくように、お前も力を貸してくれ。

 往人はそう願いながら、二人の姿を見つめることに集中した。
 願いの先では――川澄舞が、両手に刀を持ち直しながら、朝霧麻亜子に話しかける。

「……まーりゃん先輩、というのは、あなた?」
「……やっぱり、殺したんだ。そうだよ、あたしがまーりゃん。でもそんなのどうでもいいよ、さっさと死んでって、言ってるだろ!」

 再び振るわれる刃を、今度は動揺せずに受け止める。
 相手が分かった以上、舞にもう迷いはなかった。
 今の舞の命を繋いでくれた、まーりゃんの後輩の少年。
 頼む。無念と共に紡ぎだされた言葉が今も舞には重く圧し掛かっている。
 けれども、それに潰されるわけにはいかない。

 後を任されたのだから。それに応える。それが私の、信頼の証だから。

 力で薙ぎ倒そうとする麻亜子の刃を真正面から受けながら、舞が言葉を返す。

「殺してなんかいない。それに、私は貴明から後を任された……あなたを止めてほしい、って」
「な……嘘を……分かったような事を言うなよっ! 白々しい……事をっ!」
「――だったら、どうしてそんなに怯えているの?」
「……っ!?」

 驚いたように、麻亜子の目が見開かれる。思ってもみなかった一言に虚を突かれ、動きが止まる。
 舞はそれを隙と見、ナイフも弾いて戦力を奪おうとする。
 だが硬直は一瞬。正気を取り戻して身を引いた麻亜子の前を振り上げられた刀身が駆け抜ける。

889霧雨ニ響ク鳥ノ詩:2008/07/30(水) 20:16:03 ID:cXyYwh360
「怯えて……? あたしに怖いものなんかあるもんか。仮にアンタが言ってた事が本当だとして、やることは変わらない。あたしが勝って取り戻すんだから、全部を」
「……何を、取り戻せるって言うの?」

 今度は、応えなかった。今度は無言。知らん振りを決め込むように言葉の追随を許さず、ナイフを振り込む。
 その居直りを、舞は許さない。今度は舞が踏み込み、当身するように麻亜子に突進する。
 同じ女性であるが、体格差は無視できない。力を抑えきれず、受け止めたはずの刀が徐々に押してくる。
 だが麻亜子は前蹴りで切り返し、若干バランスを崩した舞から即座に距離を取る。逃げるように。

「死んだ人は、戻ってこない。どんなに強く思っても、どんなに必死に切望したとしても……」
「知ってるよ……でも、でも! それでもあたしは信じるしかない! あたしが信じなきゃ、誰が取り戻してくれるって言うの!? 二人の居場所を!」

 戦いは、次第に白兵戦から舌戦へと変貌してゆく。
 無骨な刃物同士が火花を散らし、甲高い音を鳴らすのはなりを潜め、代わりに人間同士が織り成す感情の渦が場を支配していく。
 鍔迫り合いは大きく言葉がぶつかり合う瞬間。

 互いが互いを否定し合う。
 一方は頑なに自らの目標に拘泥し。
 一方は使命感と、信頼に応えるために。

「アンタは何も分かってないんだよ! 大切な人を失う哀しさが、あたしが想う気持ちが!
 さーりゃんとたかりゃんはこんなところで死ぬべき子たちじゃなかった!」
「貴女だけじゃない……! 私も、往人だって大切な人を亡くした! 何よりも大事にしたいひとを助けられなかった!
 どんなに苦しんで、苦しんで、辛くなっても絶対に守りたかったのに、出来なかった!」

 舞の中で、親友の姿が思い出される。
 どんなに辛いときでも、苦しいときでもそのひとがいたから頑張れた。立ち上がる事が出来た。
 ずっとずっと、守り通していきたかったのに。
 そうする事は叶わず、そればかりか仲間の死を呆然と見つめているだけで、生き恥を晒し。
 だが……

890霧雨ニ響ク鳥ノ詩:2008/07/30(水) 20:16:21 ID:cXyYwh360
「貴明も、ささらもきっと同じだった! 助けたい人がいるはずなのに、どうしようもなくて、
 それでも逃げずに最後まで恥ずかしくなく生きようとして、それで死んでいってしまった!
 何が正しいのか、これでいいのかってろくに考える暇もなくて、やれることをやって死ぬしかなかった!
 佐祐理も、観鈴だって……!」

 舞が口にした観鈴、という名に様子を見ていた往人にも何か熱いものが腹の底から湧き出てくる。
 会えなくても、きっと観鈴は健気に笑い、人を一つにまとめようとしていたのかもしれない。
 逢いたい人に会えなくて、それでもまずやれることをやろうとして、それで犠牲となって、或いは庇って、或いは奪われるがままに。
 それは今の往人達も同じだった。
 今のこの生き方が正しいのか。
 ろくに考える暇もなく、それでも生きようとしていた殺し合いの犠牲者のように、懸命に生きていくしかなかった。

「だから、私達がその意思を継がなければいけない……どんなに悲しくても、苦しくても」
「……じゃあ、諦めろって言うの!? 大切なひとを殺されて、踏み躙られて、悔しくないの!?
 どんな手を使ってでも取り戻したいって思わないの!? アンタにとって一番大切なものって、その程度の価値なのかっ!」
「違う」

 舞ではなかった。全く別の方向から聞こえてきた往人の声に、麻亜子は戦闘中であることも忘れてそちらに振り向く。
 その先では往人が、激情を滾らせながら、しっかりとした真摯な目を麻亜子に向けていた。

「俺達は鳥なんだ。血を吐きながら、繰り返し繰り返し苦しみや悲しみ、辛さ、苦しさを乗り越えて飛ぶ鳥だ……!
 その先に救いがなくても、求めていたものが得られなくても、俺達は飛び続けて、空を目指すしかないんだ……!」
「……確かに、悔しい。憎くないわけない。踏み躙られて、どうでもいいわけなんかない。きっと一生忘れられない。
 でも、そうやって生きていくしかない! あの日を取り戻す力なんて、どんなものに縋っても、ないから……!」
「そんなこと……!」

 ない、とは言えなかった。言葉に出して否定することが出来なかった。
 既に知っているから。日常を、つい昨日まであったあの日を完全に取り戻すことなんて不可能だということを。
 けれども、もう麻亜子にはどうしようもなかった。
 どうやって空を飛べばいいのか、分からなかった。

891霧雨ニ響ク鳥ノ詩:2008/07/30(水) 20:16:41 ID:cXyYwh360
「でも、他にどうしようもないんだ! どうしろって言うんだよ……! あたし、たかりゃんとさーりゃんに顔向けできないよ……!
 それだけじゃない、それまでに殺してきた人たちも……ここで止めちゃったら、無駄死にじゃんか……!
 何て言えばいいの? どうしたらいいの? あたしには、戻れる場所も、留まれる居場所も、進める所もない!
 なら、無理矢理にでも奪い返すしかないじゃないか! たかりゃんとさーりゃんに、死んでいった人たちに顔向けするにはそうするしかないんだ!
 だから、返してよ……あの二人の居場所を、返してよ!」

 考えることを、二人の言葉を考えることを拒絶し、一声叫ぶと麻亜子はナイフを真正面に突き立て、舞に突進する。
 防御は考えなかった。ただ倒せればいいと考えていた。
 自分でも正しいと思う答えを否定するには、暴力と恐怖で押し潰すしかなかった。

「――そんなの、間違ってる!」

 叫び返したのは舞だった。
 反論するための声ではなく、それは真に心から伝えるための声だった。
 裂帛と共に放たれた刃は、当に神速。
 麻亜子の目はそれを捉えられなかった。
 剣風が突き抜けたかと思えば、キンと小さな音を立ててナイフは宙に飛んでいた。
 麻亜子は敗北を悟る。
 これで完全に空手。
 デザート・イーグルはあるにはあるが、取り出す間に再び弾き飛ばされるのがオチだろう。
 それより、何より……自分は、泣いているのだから。

「……誰も彼もが救われる道なんてない。死んでしまった時点で、救われることも、赦してくれるはずなんてないんだからな……」
「それに、まーりゃんは手段と目的を履き違えてる。……自分が赦されたいがために、殺し続けようとしているだけ……
 私と一緒……自分が赦されたいだけのために、命を絶とうとした。そんなのじゃ、誰も覚えていてはくれないのに」

892霧雨ニ響ク鳥ノ詩:2008/07/30(水) 20:17:03 ID:cXyYwh360
 同じ雰囲気を、舞は感じ取っていた。
 取ろうとした方法は違えど、自己満足がために行動していたのは同じに違いなかった。
 舞は往人がいたからこそ、これ以上の過ちを犯さずに済んだ。
 だから……というには早計かもしれなかったが、麻亜子にもそうなって欲しくなかった。
 まだ、彼女は生きているのだから。

「……でも、もうあたしは一人……それに、もう今更だよ……あたしは、たくさん人を殺して、どうしようも……」
「仲間なら、いる」

 舞が往人を見る。言われるまでもなく、往人はそれに従うつもりだった。
 まだ、自分の足で立って、自身で過酷を受け入れて、それでも歩こうとするなら。
 未だ燻る、熱情の残滓を抱えながら、往人は「ああ」と答えた。

「……いいの? あたしがいたら、殺人鬼の仲間だって、疑われるかもしれないよ……?」

 はらはらと涙を零しながら、確かめるように、けれども自身の負債には巻き込みたくないというように、躊躇いがちに視線を寄越す。
 だが、往人も既に一人を殺害し、舞も穿った見方をすれば、仲間を見殺しにしたと責められても仕方のない状況だった。
 この場にいる誰もが、誰かに責められ、罵られ、突き放される可能性を孕んでいる。
 それでもなお、前に進まねばならない。
 そうする義務があるのだから。

「なに、そのときはそのときだ。俺達も似たようなものだしな。
 ……お前が、逃げずに、死んでいった奴らの命を背負って血を吐きながら飛び続けるというのなら」

893霧雨ニ響ク鳥ノ詩:2008/07/30(水) 20:17:21 ID:cXyYwh360
 言葉の一つ一つが、麻亜子の胸の中に深く染み込んで固まっていく。
 皆が孤独な罪を抱えている。
 だからこそ、人は人と触れ合い、その罪を力を合わせて、何とかしようとする。
 それでどうにもならなくても。
 暴力や恐怖で押し潰そうとする力の倫理は、どこかで破綻する。
 どこかで崩壊する。
 いつかはそれ以上のものに潰されてしまうから。
 故に、お互いがお互いを支え合わなくてはならないのだ。
 力の倫理に屈せず、生き抜くために。

「ほんとう……? あたし、また誰かの近くにいても……」
「うん、だから、安心して」

 雨の中、燃え盛っていた炎は消えようとしていた。
 その全てを、濡れたままのちっぽけな存在たちに託すようにして。
 戦闘のほとぼりが冷め、雨に濡れ冷たくなりつつある身体が、しかし一点だけ暖かく、温もりを放っているのを麻亜子は感じていた。

 ああ、本当は、こうしてもらいたかったのだ。
 誰かにお前のやっていることは間違っていると、頬を叩いてもらいたかったのだ。
 どうして――
 どうして、この思いをあの時、貴明とささらに会ったときに、抱かなかったのだろう。
 結局、逃げたツケが、自業自得が降りかかってきた。
 最初の最初から、もっと自分の声に耳を傾ければよかった。
 自分にやれることは何だったのかと、もう少しでも恥ずかしくない生き方を考えておけばよかった。
 本当の日常は、きっと自分の手の中にあったはずなのに。

 ……だから、生きなければならなかった。
 最後まで恥ずかしくない生き方を、やれることをやって死ぬしかなかった、二人の意思を継ぐために。

894霧雨ニ響ク鳥ノ詩:2008/07/30(水) 20:17:41 ID:cXyYwh360
「――」

 ふっ、と。
 足腰から急激に力が抜け、自分の身体が崩れ落ちていく感触があった。
 同時に、雨の音が遠のき、意識が暗転していくのにも。
 何か口にしようとして、結局叶わぬまま、麻亜子は深い意識の底に沈んでいくことになった。

     *     *     *

「……大丈夫だ、気を失っているだけだろう」
「良かった……」

 ホッと胸を撫で下ろした舞を横目に、往人はどこか安心しきったように目を閉じて穏やかな吐息を立てている麻亜子を見る。
 恐らく、緊張の糸が切れたのだろう。
 言動から窺う限り、相当な無茶をしでかしてきたのだろう。
 服の間から除く細かい擦り傷、切り傷。
 精神的な苦痛だってあっただろう。
 ともかく、このままにしておいては風邪を引く可能性がある。

 当初は相談の結果、舞の仲間であったはずであり、惨劇も目撃していたはずの、今は忽然と姿を消した藤林椋という女の捜索にあたるつもりだった。
 舞が言うには大人しい印象の人物だったそうだが、ただ単に逃げただけとは思えない。
 何か考えあって戻ってこないのか、それとも……
 ともかく、事件に関しては第三者でしかない往人が結論を出すわけにもいかず、事の真相を究明すべく探し出して尋問するつもりだった。


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