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鬼和尚に聞いてみるスレ part9
602
:
避難民のマジレスさん
:2017/09/21(木) 21:44:01 ID:DAY232aw0
>591.>597ご回答ありがとうありがとうございます。わざわざすいません。実践して行きます。
603
:
避難民のマジレスさん
:2017/09/22(金) 00:28:50 ID:ydE4b1w.0
592です
ということは「自分は〜である」といった自分が何者であるかということに関する観念は消えるが、
それ以外の観念((例)これはパソコンだ)は残るということでしょうか?
前者のたぐいの観念は無我の段階で消えて、後者の様な観念は認識を滅したときに消えるということ?
604
:
541
:2017/09/22(金) 05:03:42 ID:o7TfOr0I0
女子をナンパすることと悟りは矛盾しませんか?
ナンパしつつ事業も成功させ悟ることもできますでしょうか?
或いはナンパしたいと言う本心を観察して滅却することもできるのでしょうか?
605
:
541
:2017/09/22(金) 18:59:24 ID:o7TfOr0I0
ひとり部屋の中で心を観察している時に、欲望が現れなくても、生活空間に女が現れた時に連動して欲望も生じる事があるよね
逆に、現れを深く観察すると、欲望が消えてしまう事もある。
さて、どうしたものか。
606
:
避難民のマジレスさん
:2017/09/22(金) 20:27:07 ID:FocWw5K20
>>600
鬼和尚さん、ありがとうございます。
囚われずに進んでみます。
ところで、進むというのは、自分だと思っているものは何かということを探っていけば良いのですよね?
そして、自分だと思っているものを観察して厭離していくことが、進むということで良いですか?
607
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2017/09/22(金) 22:09:59 ID:1d4drIFg0
>>601
そうじゃ、実践あるのみなのじゃ。
またおいでなさい。
>>602
どういたしまして、またおいでなさい。
>>603
そのような理解でよいのじゃ。
後は実践で確めるのじゃ。
実践あるのみなのじゃ。
>>604
悟りを求めていない者はナンパするとよいのじゃ。
悟りを求めるならば止観を修業するとよいのじゃ。
全部は無理じゃろう。
一つ一つ実現するとよいのじゃ。
それも観察によって滅することが出来るじゃろう。
608
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2017/09/22(金) 22:12:34 ID:1d4drIFg0
>>605
自分が本当はなにをしたいのか本心を明らかにするとよいのじゃ。
それによって道も決まるのじゃ。
本心を観るのじゃ。
>>606
そのような理解でよいのじゃ。
後は実践あるのみなのじゃ。
実践が全てなのじゃ。
609
:
避難民のマジレスさん
:2017/09/23(土) 10:05:20 ID:zvPsXPv60
お尻が痛いので立禅でもよいでしょうか?
610
:
避難民のマジレスさん
:2017/09/23(土) 11:49:53 ID:ydE4b1w.0
>>607
ありがとうございました。
611
:
避難民のマジレスさん
:2017/09/23(土) 19:08:27 ID:4r9Nyxn.0
>>608
鬼和尚さん、ありがとうございます。
改めて自分を見ようとしたんですが、苦を感じていることが多くて、苦の観察ばかりになってしまいます。
苦の観察だけで悟ることはできますか?
それとも、苦の観察以外の自分についての観察もした方が良いですか?
612
:
541
:2017/09/23(土) 19:10:04 ID:o7TfOr0I0
本心からなにもしたくないですね。
この詰まらない結論。もう少し大恋愛したいとか、悟りを得たいとか、政治家になりたいとか、無いのかと思うが、なにもしたくないと言う糞みたいな本心
613
:
避難民のマジレスさん
:2017/09/23(土) 19:36:28 ID:4r9Nyxn.0
すみません、もう1つ質問させてください。
鬼和尚さんの以前のブログに、執着の原因がまた執着である例として、
「例えば子供の頃におもちゃを買えなかったから、今、いろいろなものを集めているが求めても得られない苦が起こるとかなのじゃ。」
と書かれているんですが、この話の場合は、実際どうしたら執着がなくなるのですか?
子供の頃に得られなかったものを今手に入れても苦がなくならないのなら、その気持ちはどうしたら収まるのでしょうか?
過去に戻れないと取り返せないと思ってしまうような執着心などは、どうしたら良いのでしょうか?
614
:
541
:2017/09/23(土) 20:06:26 ID:o7TfOr0I0
やりたいことをやりつくしてしまった。
鬼和尚。困った。
615
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2017/09/23(土) 21:07:22 ID:1d4drIFg0
>>609
善いのじゃ。
いろいろ試してみるのじゃ。
実践あるのみなのじゃ。
>>610
どういたしまして、またおいでなさい。
>>611
苦の原因を次々に追求していけば自我に行き当たるじゃろう。
全ての苦の根本は自分があるという観念なのじゃ。
その観念によって苦があると気付けば無我になり、悟りも訪れるじゃろう。
ただひたすらに本心を観察し続けるのじゃ。
616
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2017/09/23(土) 21:10:11 ID:1d4drIFg0
>>612
>>614
それは善かったのじゃ。
何もせずただ座り続けるがよいのじゃ。
自然に悟りも訪れるじゃろう。
>>613
元になった執着の原因を追究するのじゃ。
それが孤独感であり、自分があるという観念が更にその原因であると気付けばなくなるのじゃ。
原因から起こる事を観察していけば収まるじゃろう。
それも原因がわかり、観察すれば無くなるのじゃ。
実践あるのみなのじゃ。
617
:
避難民のマジレスさん
:2017/09/24(日) 09:29:51 ID:czRftzgI0
自己探求を続けてついに自分があることが苦の原因であることに気付きました。これで無我瞑想に専念できます。
和尚さんを疑ったこともありましたが、ここは本物だと思いますよ、皆さん。苦を気にしなくする他のスピ系と違ってここは根本的に苦を滅却するところだと思います。
618
:
541
:2017/09/24(日) 16:06:41 ID:G2RHzlNw0
鬼和尚。例えば、フェイスブックを見たら、元カノが結婚しており、凄いショックを受けたんですね。このショックは何だろうか?
じゃあ、その女と結婚したかったのかと言うと全くそんなことはなかったのですよ。
要は、私は、女と言うものを、自分を称える道具かなにかだと思っているのかもしれない。
つまり道具が意思を持ち、自分以外の者を支えている、その事実に不快を感じる。愛とは全く正反対の感情ですね。
これは、異性関係一般に関する本心に近いと思う。
619
:
541
:2017/09/24(日) 17:40:51 ID:o7TfOr0I0
本心と言うか本能ですかね。
他者を養分として自己を拡張しようというのは自然界でもよく見られる活動です。
ただ、他者も、全く同じ本能を持っているので、この欲求は必ずしも満たされない。
女も男も、自分を幸せにしてくれるパートナーを探している。
あれ?これって、悪いことじゃないよね。
つまり、貴方を食べさせておくれ、私を食べていいからと言う関係性だよね。
620
:
541
:2017/09/24(日) 17:55:27 ID:o7TfOr0I0
鬼和尚。本心には本能由来のものと、理性由来のものが有りませんか?
中世ならば悪魔の囁きと天使の囁きとも言えますが。
本能由来の本心は「みんな俺の奴隷になれ」でしょう。
しかし、人間はそう言う生き方が最悪であり、教官も得られず、自分も他人も傷つけて、地獄行きだと言うことを経験的にも直観的にも分かっている。
621
:
541
:2017/09/24(日) 18:05:44 ID:o7TfOr0I0
もはや、本心ではないんだよな(笑)
本心ではなくて、幾度もの反省を経て鍛えられた良心なんだよ。
良心は、恋人の幸せを祝ってやりなさいと言っている。ただ、それは社会的仮面で、本心では、悔しー!!俺の女取りやがって、ボケが!ぶん殴ったろか
と言う訳だ。
622
:
541
:2017/09/24(日) 18:14:39 ID:o7TfOr0I0
じゃあ、本心に従って、女を取り戻したらいいじゃないか?と言う話もあるだろうが、別にそこまでして取り戻したい女でもないと言う本心(最低だな)女そのものを愛しているのではなく、女に愛されている自分と言うイメージを愛している。さらに、女に袖にされた自分と言うイメージを嫌っている。
623
:
541
:2017/09/24(日) 18:33:02 ID:o7TfOr0I0
仏教的に不思議な話ではなくて、お釈迦様も「私は、東西南北探し回ったが、己以上に愛しい存在を見つけられなかった」と言っている。これこそ、まさに本心の告白ですよ。自分の生存を不利にすることが嫌だから、恋人と結婚するのも嫌だが別れるのも嫌なわけだ。
624
:
541
:2017/09/24(日) 18:42:49 ID:o7TfOr0I0
何故悟りを求めるかと言うと、これら矛盾や分裂を止揚する究極の答えがあると思うからなのだ。
だらか、本心が「女の娘とセックスしたい」であったとしても、突き詰めて行くと「そう言うことも含めて、苦しみから解放されたい」でしょう。
だから、「女とセックスしたい」と「悟りを得たい」は表裏一体なんですよ。「煩悩」があるから、その滅却もありえるわけで、煩悩が強いほど、悟りへの希求も強くなる。心のシステム上、どっちかだけ削ると言うわけにはいかないのです。
625
:
541
:2017/09/24(日) 18:50:09 ID:o7TfOr0I0
所で、何故私が元カノが結婚してショックなのかと言うと、「アイツら俺にたいして優越感に浸ってやがるな」と考えるからなのです。それは、私がそう言うことを通して優越感に浸りたいからそう思う訳です。つまり、自分の邪な心が自分を傷付け陥れている。釈迦は清い心を持ちなさいと言った、イエスも邪な心で女を見るなと言った。
それは、全部自分に反ってくるから。もし、私が結婚と言う現象と優越感を結び付けなければ、誰が結婚しようと劣等感に苛まれたりしないはずだ。
626
:
541
:2017/09/24(日) 19:06:03 ID:o7TfOr0I0
よく、幸せになりたいと言うが、幸せと不幸せの対立概念だから、幸せなろうとすると、不幸せが襲ってくる事になる。
幸せと言う概念と金持ち、結婚、悟り、地位や名誉と結び付いているから、それらの欠如が不幸せとして襲ってくる。幸せを滅却しないと不幸せも消えない事になる。
もし、この世に幸せと言う現象が無ければ、不幸せもない。順観、逆観してみる。
627
:
避難民のマジレスさん
:2017/09/24(日) 19:41:12 ID:r3AdvIzY0
>>615
>>616
鬼和尚さん、ありがとうございます。
苦の観察でも悟れるなら、とりあえず苦の観察だけを続けてみます。
そこでまた質問なのですが、私の苦の半分以上は劣等感なのですが、これも最終的には自分があるという観念から起こるということですか?
私の劣等感は、とくに誰と比べて劣っているということはないのですが、自分は劣っているという気持ちがどこかにあって、人と関わるときに苦を感じることが多いという感じのものです。
大体いつも子供の頃の経験がその苦の原因だったりするので、その記憶を思い出すと苦が減るのですが、自分があるという観念から、それが起こっていると感じたことはあまりない気がします。
劣等感が自分という観念から起きているというのは、どうしたら実感できるでしょうか?
628
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2017/09/24(日) 21:22:14 ID:1d4drIFg0
>>617
善いことじゃ。
おぬしも本物じゃ。
更に精進あるのみなのじゃ。
またおいでなさい。
>>618
-
>>626
そうじゃ、愛と執着は違うものじゃ。
それがわかってよかったのじゃ。
執着しなければ苦は無いのじゃ。
>>627
そうじゃ、自分という観念から劣等感も在るじゃろう。
劣った自分という観念があるのは自分があるからなのじゃ。
自分の観念とは自分の名前とイメージなのじゃ。
心の中に自分の名前や顔かたちなどのイメージがなかったら劣等感はないじゃろう。
心の中に自分の名前やイメージがある時、劣等感もあるじゃろう。
そのように観じてみるのじゃ。
実はそれは劣等感でもなく恐れとか不安かも知れん。
自らの本心を観ることで全て明らかになるじゃろう。
629
:
541
:2017/09/25(月) 07:40:05 ID:o7TfOr0I0
鬼和尚、人は本心では、別に金も欲しくないし、余計なことはしたくないんですよ
ねっころがってゴロゴロしていたいのが、大多数の人の本心だし、私の本心でもあります。
猫や犬でも、腹が減ってなければ、ゴロゴロしています。人間も基本的には同じはずですが、
これ重要ですが、人間は他者と共に生きると言う側面が大きい。犬猫よりも、個体生存性が弱い。
だから、犬猫に比べると、他者の目を意識する存在と言える。本心はゴロゴロしていたいのだけど、他者に嫌われたくないから、勤勉なふりをしたり、金を稼いだり、様々な努力をする。
630
:
そらいろ
◆EHlCk/f57s
:2017/09/25(月) 07:48:37 ID:HSM21ZvE0
鬼和尚
思考と本心は別ですか?
631
:
541
:2017/09/25(月) 07:51:31 ID:o7TfOr0I0
鬼和尚、聞いてますか?
この本心と言うのが、結構、しょうもないもので、昨日と同じようにゴロゴロできればいいやと言うのが、殆どの人間の本心なんですよ
人間と言うか殆どの動物が、本心はこんなところにあります。
本心はゴロゴロしたいのに、他人に見栄を張るために、残業して高い車を買ったり、海外旅行して、自分を納得させている。
632
:
541
:2017/09/25(月) 08:00:00 ID:o7TfOr0I0
困ったことに、他人に見栄を張りたいのも本心なんですよ。ゴロゴロしたいのも本心だし、見栄を張りたいのも本心。
だからインスタグラムでリア充アピールされると誰しも内心穏やかじゃないんだよね
だがよ、この悔しー!と言う嫉妬のエネルギーを含めて本心なのかもしれないよ。
633
:
541
:2017/09/25(月) 08:07:15 ID:o7TfOr0I0
あと、人間の本心は「死にたい」と言うこともある。人間関係で八方塞がりになると、死にたいと思うよね。
ご破算願望ね。だから本心と言っても意外とろくなもんじゃないんだよ。
634
:
541
:2017/09/25(月) 08:13:21 ID:o7TfOr0I0
しかも、本心と言うのは現状を破壊する何の力も持っていないんだよ。
むしろ、現状を強化する方向に働く事が多い。
ただ、人間には「退屈」と言う気分がある。
これが襲ってくると、人間は、「あー、彼女欲しい!」とか「仕事辞めて独立しよう!」とかマジで思う事がある。つまり一定ではない。
さっきまで「ゴロゴロしたい」だったのに「彼女欲しい」に本心が移り変わりつつあるからね。
それは、太陽の動きとか気候の変化とも関係があるよな。
635
:
541
:2017/09/25(月) 08:21:31 ID:o7TfOr0I0
これはとある哲学者の人間存在の分析だけど、まず気分がやってくる、それを退屈と認識する(了解性)そして、「あー暇だ!」と「語る」
それを受けて「彼女欲しい!」などと可能性を見て、「ナンパしにいこう」などと、己を企投する訳だ。
636
:
541
:2017/09/25(月) 08:36:07 ID:o7TfOr0I0
俺は、三島由紀夫と言う人は、全部解っていた人だと思うんだよ。
彼は仏教に対する深い理解もあったし、当時最先端だった実存哲学なども理解していたと思う。
彼の絶筆は仏教の唯識論をテーマにしている訳だからね。
何かと言うと、彼は信念に身を捧げたと言うことだよ。誰かに作られた世界観ではなくて、自分の本心からの善、或いは究極の美のために身を捧げた。全身が信念の人なんだよ。どこをとっても信念しかない。だから、異質すぎるし、どこか気持ちが悪いようにも見える。
637
:
541
:2017/09/25(月) 08:41:39 ID:o7TfOr0I0
鬼和尚なども、そうじゃないですか、自分でキャラクターを作り、その通りに生きている。
一切、世間と関係していない。その自我は「他者の眼差し」から生じているのではなくて、自分の意志や信念から生じている。
638
:
541
:2017/09/25(月) 08:48:15 ID:o7TfOr0I0
三島なんかも、エネルギーがビンビンに脈打っていたでしょう。
自分でキャラ作りをしていても、がらくたの寄せ集めで、生命が備わらない場合も多い。
ちょっと、からかわれれば、その演技は瓦解して、羞恥の渦に巻き込まれる
三島は、自衛隊に野次られても、自我崩壊したわけてわはなく、ちゃんと、古式に則り、切腹までやりとげた、これは演技で出来ることではない。
世間に一切迎合せずに、しかも血の通った信念がそこにあったのだ。
「認めてクレクレちゃん」ではないのだよ。
639
:
541
:2017/09/25(月) 08:55:27 ID:o7TfOr0I0
彼らはプッと笑われたら瓦解するような自我ではない
我々の自我は、キモーイなんて言われたら直ぐに瓦解して、世間にゴマすり始める。
多分、彼らの強さは、存在に死を内包することにある。
その信念の為に死のうと深く決意する事だ。
640
:
541
:2017/09/25(月) 09:01:47 ID:o7TfOr0I0
三島の偉いのは、あれでいて、ちゃんと家庭も持っていたと言う事だ。
一説によると、三島の家庭環境は複雑で、精神医学的にはかなり病的であったとも言われる。
三島は、あのような狂気の信念を持ちながら、ごく一般の孝行息子を望む両親の要請にもこたえているのである。
完全に全てを否定して、全てをゼロから作り上げないと出来ない芸当じゃないか?
641
:
541
:2017/09/25(月) 09:17:50 ID:o7TfOr0I0
俺は、三島のその姿が、淡々と善行を施す鬼和尚と被るんだよ(笑)
さて、このスレに来る皆さんなら気が付いているように、全ては自分の思考である。
だったら何を恐れるのだ?
全ての顛末を先駆的に受け入れる生き方をしようと思う。
つまり、クーデターが成功しようが三島由紀夫は三島由紀夫として生きる事が大事だった。
そこに、世間にちやほやされたいとか、誰かを見返してやるとか、奥さんに誉められたいみたいな意識は無いわけだ。
三島由紀夫が三島由紀夫として生きて死ぬ事だけが大事だった。
そのように、一切の後悔の無い、納得ずくの生を私も生きたい。
642
:
541
:2017/09/25(月) 11:17:37 ID:o7TfOr0I0
この一連の書きこみ、自分では意識していなかったが、現代思想の根幹に関わる問いのようでもある。つまり、いかに生きるべきか問題なのだが、
かつては、宗教や親父、天皇や世間がそれを決めていた訳だが、現代ではそれらの信用が全く無い。そこで、ハイデガーなどは「本心(良心)の声に従いなさい」と言うような事を言ったわけだ。
ただ、結果、ナチズムみたいなことになってしまい、本人も晩年はぼんやりとしたことしか言わなくなってしまったようだが、三島由紀夫がハイデガーに影響されていたことはあると思う。
ただ、死の先駆性の思想が直ちに民族主義に繋がるかと言うとそうでもないと思うし、繋がっちゃ悪いのかと言う論点もある。
それは鬼和尚を見ても解るが、生きながら死人となっている鬼和尚には民族主義も何も無い。
そこは趣味の問題だろう。
私は、そこまで、民族主義は思わないが、確かに、人間は歴史性と言うものをアイデンティティの根拠にしたがる傾向はあると思う。
ただ、死は、そう言った神話やお話を否定破壊してしまう。だから趣味の問題だと思うよ。
三島が生きる舞台装置として天皇や武士道が必要だったと言うことはあると思う。
643
:
そらいろ
◆EHlCk/f57s
:2017/09/25(月) 18:59:12 ID:HSM21ZvE0
鬼和尚
埋もれてしまっているかもしれませんので念のため、
>>630
もお願いします。
644
:
避難民のマジレスさん
:2017/09/25(月) 19:02:04 ID:ydE4b1w.0
猫や犬のような動物にも阿頼耶識は備わっていますか?
645
:
避難民のマジレスさん
:2017/09/25(月) 20:00:19 ID:VdfIeYe.0
>>628
鬼和尚さん、ありがとうございます。
心の中に自分のイメージがなければ劣等感は起こらない、という言葉はとても分かりやすいです。
ありがとうございます。
それから、劣等感ではなく恐れや不安ではないかというのは、その通りです。
私は大人になるまで安心できる場所がなく、常に不安を抱えていました。
生きるのが不安でそれをなくすために生きてきたようなものです。
人と関わっているときも、相手が不安を感じずに、自分ばかりが怯えているので自分が劣っているように感じるのです。
鬼和尚さんに指摘されて、よく考えればこれは劣等感ではなく不安や恐れなのだなと思いました。
自分が脅かされるかもしれないという不安も、心の中に自分についてのイメージがなければ起こらないということで合っていますか?
不安がない状態を求め続けてきたので、不安がない状態が可能ならば、ぜひその状態を体験したいです。
心をよく観察すれば、心の中に必ず自分についてのイメージがあるわけではなくて、それがない時もあるということでしょうか?
それを確認することができれば、不安がない状態を体験できるのでしょうか?
646
:
541
:2017/09/25(月) 20:09:07 ID:o7TfOr0I0
話は変わるが、子供の頃、極度にボケーとすることで認識のフレームを外す方法があって、それをすると世界が突然回り出すと言う現象があったのだが、似たような経験したことある?子供の頃は出来たはずだが、大人になったら出来なくなった。鬼和尚は出来る?
647
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2017/09/25(月) 21:27:20 ID:1d4drIFg0
>>629
-
>>646
そのように考える原因を自分の心の中に探すのじゃ。
原因がわかればそれも消えるじゃろう。
実践あるのみなのじゃ。
>>630
別と言えるじゃろう。
本心は思考することも出来るが思考そのものではないのじゃ。
むしろ思考によって本心を隠すこともあるのじゃ。
本心は本当に思っていることなのじゃ。
>>644
あるのじゃ。
ものごとを認識しているからのう。
記憶によって行いを決めてもいるのじゃ。
>>645
そうじゃ、自己イメージがなければ自分が脅かされると言う不安も無いじゃろう。
その原因を追究すれば不安も無くすことができるじゃろう。
それは親に放置されたとか孤立したとかの原因があるのじゃ。
原因から不安がおこり、原因が無ければ不安もないと心の中に観察するのじゃ。
そうすれば消えるじゃろう。
648
:
541
:2017/09/25(月) 22:13:31 ID:NhrNGD3M0
鬼和尚。そのように考える原因は私がそのように考えたからで、それ以外に原因は無いですよ。
そのように考えなければ、そのような観念は生まれませんが、考えたからと言って苦痛が生まれるわけではないので、特に消そうとは思いません。
649
:
避難民のマジレスさん
:2017/09/25(月) 22:24:38 ID:ydE4b1w.0
644です、そうなんですか、
猫や犬は阿頼耶識を厭離しようと思ってもやはりできないんですかね?(猫が観察するところなんて想像つきませんから)
阿頼耶識って厭離する必要のあるものであるなら、厭離しようとしてもできない彼ら動物達がかわいそうに思えてきます。
650
:
そらいろ
◆EHlCk/f57s
:2017/09/25(月) 22:41:17 ID:HSM21ZvE0
鬼和尚
本心がわかったり、本心にしたがったりしている時は、苦はないでしょうか。
651
:
そらいろ
◆EHlCk/f57s
:2017/09/26(火) 03:13:21 ID:HSM21ZvE0
鬼和尚
ブログにも書いてありますが苦の観察はとても難しいです。
まずそれが苦なのかそれとも苦ではないのか、単なる思考とか雑念なのか、
それがわかることが難しい。
本当にメクラです。
また、それが苦であるとわかっても、
それがどの様な苦なのかそれがわかることもとても難しいです。
それがわからないとどこに原因を探していいのかもわかりません。
652
:
避難民のマジレスさん
:2017/09/26(火) 15:14:38 ID:ydE4b1w.0
鬼和尚、手を観察した場合、それが自己ではないという気づきが起こり厭離が起こる。
言ってみれば手からの厭離は簡単に起こるんですけど、
「目の裏のあたりに私がいる」という感覚がなかなか落ちません、目の裏あたりに私という感覚を
強く感じていて、そこから外界を見ているのが「私」であるという感覚が根強くあるんですが、もしかしてそれは観照が起こらないと落ちないんでしょうか?
653
:
避難民のマジレスさん
:2017/09/26(火) 19:57:57 ID:uCTaZ5cc0
>>647
鬼和尚さん、ありがとうございます。
不安の原因をじっくり探してみようと思います。
自分の子供時代は自分にとっては当たり前のものだったので、それらが不安の原因になっていると、ちゃんと考えてみたことは今まであまりなかった気がします。
気づかずに抱えていた不安も整理できそうです。
ありがとうございます。
また別に質問なのですが、心の中にある自分のイメージというのは、なくすことはできるのですか?
654
:
避難民のマジレスさん
:2017/09/26(火) 21:20:26 ID:czRftzgI0
和尚さんがただ観察しろというのは、原因を考えながら見るより観察しているうちに原因に気付く方がいいからですよね?
どちらにせよ苦も自我も原因に気づかないことには乖離しないのに違いがないですよね
655
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2017/09/26(火) 22:08:49 ID:1d4drIFg0
>>648
それは原因ではないのじゃ。
真の原因は本心の中にあるじゃろう。
本心を受け入れるのじゃ。
>>649
できないのじゃ。
人間だけがそれをできるのじゃ。
この幸運を活かすのじゃ。
>>650
それが完全に観察されて厭離されなければ苦はあるじゃろう。
本心は観察の基礎となるものじゃ。
本心を観なければ意味は無いが、本心を受け入れただけでも苦はあるのじゃ。
>>651
苦であるか苦ではないか見分ける必要は無いのじゃ。
ただ本心をありのままに観察すればよいのじゃ。
心の働きが観察できれば厭離は起こるのじゃ。
観察は分別とは違うものじゃ。
ただありのままに認め、観察し続けるがよいのじゃ。
656
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2017/09/26(火) 22:17:45 ID:1d4drIFg0
>>652
それが自我の感覚をもたらしているならばそれを観察できた時に観照は起こるじゃろう。
そしてなくなるじゃろう。
その感覚に自分の名前やイメージが投射されているのか観察して観るのじゃ。
目の奥が自分であり、自分の名前であるのか観察してみるのじゃ。
実践在るのみなのじゃ。
>>653
無くすことができるのじゃ。
どんなイメージも無くすことができるのじゃ。
消えるのではなく自己同一化がなくなるのであるがのう。
>>654
そうじゃ、自然に気付くほうがよいのじゃ。
推測や思考からわかっても観察にはならないからのう。
改めて観察するより、自然に気付くほうが一瞬で厭離は起こるのじゃ。
違いないのじゃ。
657
:
541
:2017/09/26(火) 23:12:11 ID:o7TfOr0I0
本心とはしょうもないものだと思う原因が本心にあると?
なるほど、本心のパワーを開放して大成功をおさめたいと言う本心があるわけですが、
本心では自分の事をしょうもないと思っているのかもしれませんね。だから、本心の力で一発逆転とか思うわけですからね。
658
:
避難民のマジレスさん
:2017/09/27(水) 06:56:54 ID:czRftzgI0
>654
あ!そうかという腑に落ちる経験が大事なんですね。ありがとうがございました
659
:
避難民のマジレスさん
:2017/09/27(水) 11:57:40 ID:ydE4b1w.0
652です。
そうですか、目の奥から見ている自己感覚を観察すると一時的に
「ああ、目の裏あたりに自分という感覚があるが、その感覚に今気付いているということは目の奥の自己感覚は自分自身ではないのだ」
という感じになり、一時的にその目の裏あたりの自己感覚との非同一化というか乖離が起こるんですが、
気を緩めて何かしようとパッと動いて観察をやめるとまたその目の奥の自己感覚が自分だと思ってしまい、一体になってしまいます。
これはその自己感覚を維持させる何かがあり、それがまだ観察されていないという質的な問題でしょうか?
それとも目の裏の自己感覚は根強い習慣的なものであり、それゆえに何回も観察をしないと厭離し切れないという量的な問題でしょうか?
660
:
541
:2017/09/27(水) 17:57:50 ID:o7TfOr0I0
鬼和尚の普段の精神状態ってどんな感じなんですか?
①いつもウキウキ、ハッピー
②退屈だなあ
③しーん・・
④それ以外だとすると、どんな感じでしょうか?
661
:
そらいろ
◆EHlCk/f57s
:2017/09/27(水) 18:45:47 ID:cZ2RhCWA0
鬼和尚
今ここ、であればそれは本心ですか?
662
:
避難民のマジレスさん
:2017/09/27(水) 20:37:21 ID:dpLRfrSw0
>>656
鬼和尚さん、ありがとうございます。
自分とか自分の不安が見えてきた気がします。
今まで当たり前過ぎて見えていなかったのですが、見通しがよくなったというか、見えてきました。
自分のイメージも見えたら不安がなくなることも、何となくわかる気がしてきました。
観察を続けてみます。
また質問させてください。
ありがとうございました。
663
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2017/09/27(水) 21:42:58 ID:1d4drIFg0
>>657
そうじゃろう。
更に本心を受け入れるがよいのじゃ。
>>658
どういたしまして、またおいでなさい。
>>659
ただひたすらに観察を続けるのじゃ。
そのうちに原因もわかり、習慣も途切れるのじゃ。
日々続けることが大事なのじゃ。
精進あるのみなのじゃ。
>>660
三ぐらいじゃな。
>>661
そうじゃ、瞬時もなく認識されたならばそれが本心なのじゃ。
少しでも経てば思考や感情による解釈が起こってしまうのじゃ。
今ここにある心をありのままに見続けるのじゃ。
>>662
そうじゃ、実践あるのみなのじゃ。
またおいでなさい。
664
:
541
:2017/09/27(水) 22:16:52 ID:o7TfOr0I0
鬼和尚、しーん・・ですか?
その境地を目指すために頑張る意味があるのでしょうか?
665
:
541
:2017/09/28(木) 00:25:58 ID:o7TfOr0I0
鬼和尚は退屈を感じませんか?
その世界には楽しみとかは在るのでしょいか?
666
:
避難民のマジレスさん
:2017/09/28(木) 05:51:37 ID:fpGbb5P20
>>582
活動量計による瞑想時の心拍数ですが、
安静に座っている時、60回/分
横になっての睡眠時、50回/分
のところ、瞑想時、70回/分
と現在ざっくりとこんな感じです。
姿勢の維持に余計な筋力を使っているのかもしれません。
さらに続けてみます。ありがとうございました。
667
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2017/09/28(木) 19:58:08 ID:1d4drIFg0
>>664
>>665
頑張らないでよいのじゃ。
何もしなければ自然に没入するのじゃ。
退屈するものも無いのじゃ。
全てが楽しいのじゃ。
>>666
そうじゃ、続けるとよいのじゃ。
実践あるのみなのじゃ。
668
:
避難民のマジレスさん
:2017/09/28(木) 20:25:26 ID:IOMLtO8.0
鬼和尚さん質問ですが、
注意深く観察すれば良いのでしょうか?
669
:
避難民のマジレスさん
:2017/09/29(金) 13:00:25 ID:ydE4b1w.0
>>659
そうですか、ちなみに鬼和尚には目の裏あたりに自分がいて、そこから外界を見てる
という感覚もないんですよね?
670
:
避難民のマジレスさん
:2017/09/29(金) 13:01:50 ID:ydE4b1w.0
間違えました。
>>663
です。
671
:
避難民のマジレスさん
:2017/09/29(金) 21:13:35 ID:czRftzgI0
体が勝手に動いているとは、例えば本を読む時、意識は本を読むと考えるだけで、手を動かして本を取ってもう一方の手でページを捲ってなどといちいち動作を考えていないで行動していることですか?
そして、身体の乖離は、思考は目的を考えるだけで体は無意識に動いていることに気づくことですか?
672
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2017/09/29(金) 22:39:27 ID:1d4drIFg0
>>668
そうじゃ、注意深く観察するのじゃ。
何も見落とさないように、些細な事こそ大事に観察するのじゃ。
そうすれば気付くことも多くなるものじゃ。
実践あるのみなのじゃ。
>>669
そのような感覚は無いのじゃ。
おぬしは見るものが自分であると言う観念が強いのかもしれん。
それをよく観察してみるのじゃ。
実践あるのみなのじゃ。
>>671
そのようなものじゃ。
気付くことができれば厭離は自然にできるのじゃ。
それが自分ではないと気付くのであるからのう。
実践あるのみなのじゃ。
673
:
避難民のマジレスさん
:2017/09/30(土) 05:56:02 ID:czRftzgI0
>>671
おおそうですか。何かもっと難しいことをしなければならないのかと勘違いしておりました
ありがとうございました
674
:
避難民のマジレスさん
:2017/09/30(土) 12:46:53 ID:DAY232aw0
>>672
ご回答ありがとうございます。
質問ですが、大いに楽しく生きたら良いのでしょうか?
675
:
避難民のマジレスさん
:2017/09/30(土) 13:21:00 ID:ydE4b1w.0
>>672
ありがとうございます。
それから一応確認なんですが「観察する」っていうのは
「思考を挟まずに対象をただ見る」
ってだけでいいんでしょうか?対象をただ見れれば
それが自己ではないという気づきとそれによる厭離は後からおのずとついてくるからという理由で。
また、ただ見ててもすぐ気づきが起こらない場合でも、ずっと見てればいつかは対象が自己ではないという
気づきが起こるはずであるから、すぐ気づきが起こらなくても焦らずにもっと対象をただ見続けていれば
いつかは気づきが起き厭離される、そしてそれが「観察」であるという理解でいいでしょうか、、
676
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2017/09/30(土) 22:28:54 ID:1d4drIFg0
>>673
どういたしまして、またおいでなさい。
>>674
それは自由なのじゃ。
おぬしが大いに楽しく生きていたいと思えばそうしたらよいのじゃ。
鬼のように修行して悟りを得た後も鬼のように学びたいと思えばそうしたらよいのじゃ。
おぬし次第なのじゃ。
>>675
そのような理解でよいのじゃ。
ただ観察するだけと言うのも難しいのであるがのう。
ただひたすら実践あるのみなのじゃ。
677
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/01(日) 06:49:40 ID:YWyUsy120
いつも教えていただきありがとうございます。
試験勉強のため、コーヒーを使って眠らずに無理していたら躁鬱病を発症した人がいます。
今は、睡眠薬を含む向精神薬で、副作用は多々あるものの症状そのものは抑えられています。
しかし、睡眠薬がないと眠れない体になっています。
私は向精神薬は、このように依存性があり、毒でもあるため、将来認知症などを招くと危惧しています。
また、睡眠薬による眠りはニセの眠りであるとも考えています。
以下のことを教えてください。
1.向精神薬は減薬していくべきでしょうか?
2.人にはなぜ眠りが必要なのでしょうか?
678
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/01(日) 14:03:22 ID:DAY232aw0
>>676
ご回答ありがとうございます。
質問ですが、注意深くなれば良いのでしょうか?
何度も同じ様な質問申し訳ないです。
679
:
541
:2017/10/01(日) 19:42:45 ID:o7TfOr0I0
鬼和尚。実はいつも通っている牛丼屋のバイトの男が昔の会社の上司の息子で、しかも中学の同級生だったのですが、こう言う不思議な偶然はなぜ起きるのでしょうか?
しかも、私は長年その男と会いたいと思っていたのですが、不幸な別れ方をしたので長年連絡を取れなかったのに、そうとは知らずその親と長年交流していたのです!!
どうみても、自分の心の状態が現象世界と関連している。まあ、現象世界と言うのは元々心の世界と言う意味ですが、そうは言ってもこのような偶然が重なると驚きます。
実は一週間くらい前も、五年間会わなかった人と二日連続で離れた場所で出会ったりしているのです。そのようなことがあるのは、何か精神に根元的な変化があるときに限られます。
鬼和尚も、瞑想を深めると、それに連動して不思議なことが起きたりしませんでしたか?
680
:
541
:2017/10/01(日) 19:50:33 ID:o7TfOr0I0
これは瞑想になっているか分かりませんが、最近私は、現象としての自分の背後にあるものを感じようとしています。
その過程において、現象世界への自我の執着が緩んできて、自我がストップをかけてきた出来事がどんどん現象化するのかなと思っています。
要するに、私は、その友人が嫌いではなかったが、嫌な思い出があったので、会いたくないと思っており、本心は会いたいと思っているが、自我がストップをかけていたのかと思います。
しかし、現象の背後にあるものに意識を移していくと、自我が弱まり、抑圧が消えて、無意識が解放され、友人と再会したりするのかなと思います。
681
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2017/10/01(日) 21:45:16 ID:1d4drIFg0
>>677
1 そうじゃ、減らしたほうがよいのじゃ。
肝臓もおかしくなるからのう。
2 休めることで肉体も成長したり、修復したりできるのじゃ。
細胞の修復は微小の働きであるから身動きを最小にする時間が必要なのじゃ。
>>678
そうじゃ、注意深く観察するのじゃ。
今そのように何度も聞いているようにのう。
わからないことがあればわかるまで何度も聞くように、自分の心もわかるまで何度も注意深く観察するのじゃ。
>>679
>>680
そのようなことは留意していなかったからわからんのじゃ。
外の世界は何も感知しないようにしていたからのう。
自分の本心だけを観るがよいのじゃ。
682
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/01(日) 22:37:39 ID:DAY232aw0
>>681
ご回答ありがとうございます。
質問ですが、自我は自分なのでしょうか?
683
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/02(月) 00:22:56 ID:ydE4b1w.0
>>676
わかりました、ありがとうございます。
あと、間違ってたらすいませんが、以前、鬼和尚は「観察」という修行法を知ったのは悟った後だ、というようなことを
おっしゃっていたと思うのですが(記憶違いでしたらすいません)、悟った後にはもちろん観察されるべき自我はもういない状態ですよね、
つまり観察する対象がもうすでにないなら、鬼和尚は実際に何かを観察して厭離したという経験はないんですか?
また、それにもかかわらずなぜここまで「観察」について実践的な指導やアドバイスをできるくらい観察に対する理解が深いんですか?
何度も質問して申し訳ないです。
684
:
541
:2017/10/02(月) 02:19:33 ID:o7TfOr0I0
!鬼和尚。
「外の世界」などあるのですか?
人間は自分の心の純粋な外側の世界を見ることは出来ないと思いますが。
685
:
541
:2017/10/02(月) 02:28:21 ID:o7TfOr0I0
言語を使ってコミュニケーションしているので、お互いに話の焦点があっていない気がしますね。
単語に対する理解が人それぞれ違うので、同じことを話していても話が見えなくなってしまう。
686
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/02(月) 02:47:21 ID:Y5LPInQE0
鬼和尚さんは、確か、お経を読んでいたとき、観照が起こったと書かれていたと思うのですが
どうしてそうなったと思いますか?
また、他の人にそれを勧めないのは、どうしてですか?
687
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/02(月) 07:00:28 ID:DAY232aw0
連投すいません。質問ですが、厭離が起きるまで観察し続ければ良いのでしょうか?
688
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/02(月) 12:06:16 ID:DAY232aw0
>>687
厭離できるまででお願いします。すいません。
689
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2017/10/02(月) 22:15:42 ID:1d4drIFg0
>>682
違うのじゃ。
自分があるという観念も誤謬なのじゃ。
自分はなく、自我も無い自分に投射された名前とイメージなのじゃ。
>>683
観照は自我を観察して起こるものなのじゃ。
わしも観察によって自我を厭離したのじゃ。
それが観察による厭離であると言葉によって表すことができたのは悟った後なのじゃ。
全ての悟りは何らかの形で自我が観察され、厭離されて起こるものじゃ。
そうであるから指導するには実践と智慧によって観察を知るべきであり、そうしたのじゃ。
>>684
おぬしのために仮にそう語るのじゃ。
>>685
わからなくてよいのじゃ。
実践在るのみなのじゃ。
実践が全てなのじゃ。
690
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2017/10/02(月) 22:21:02 ID:1d4drIFg0
>>686
それは何度も多くの経を読み、追求していたからじゃろう。
他人はそんなに多くの経を何度も読めないじゃろう。
面白いものではないからのう。
>>687
そうじゃ、何度も観察すればそれは自然に起こるじゃろう。
実践によって確めるのじゃ。
実践あるのみなのじゃ。
691
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/02(月) 23:05:34 ID:DAY232aw0
>>682
ご回答ありがとうございます。
自分はなく、自我も無い自分とは何なのでしょうか?
692
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/03(火) 01:57:39 ID:Y5LPInQE0
>>690
ご回答ありがとうございます。
お経を読むことで何を追求されていたのでしょうか?
693
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/03(火) 05:48:22 ID:YWyUsy120
>>681
ご教授ありがとうございました。
私は精神科医を信用できません。薬漬けにするだけだからです。
一生なおらない、といいますが、一生なおさせない療法と思います。
しかし、自己診断で減薬するのも危険に思います。
どうしたらよいのでしょうか?
694
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/03(火) 19:28:19 ID:ydE4b1w.0
683です。
ありがとうございます。私が誤解していたようです。申し訳ございません。
悟るときは何らかの形で観察が行われる、とおっしゃっていますが、常に能動的な観察の際中
でなくても悟りが起こることはありますか?
例えば四六時中観察をしている人が、さて今日は疲れたから寝よう思って、寝室に向かう途中のふとした瞬間に自分という感覚が消えて
いわゆる観照が起こる、ということはあるんでしょうか?
695
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2017/10/03(火) 20:52:08 ID:1d4drIFg0
>>691
謬見なのじゃ。
誤ってあるものと認識されたものなのじゃ。
本来無いものをあると認識してしまっている妄想とも言えるのじゃ。
>>692
不死の境地なのじゃ。
わしもお釈迦様と同じく昔は死を恐れていたものじゃ。
不死の境地への道がないかと追求していたのじゃ。
そしてそれを見つけることが出来たのじゃ。
おぬしも精進あるのみなのじゃ。
>>693
西式健康法などを学び実践して腸の大掃除をすると善いのじゃ。
脳の不調は腸の故障によるものなのじゃ。
腸によって各種のホルモンや免疫物質などが作られるから腸が弱ると脳もおかしくなるのじゃ。
それを腸脳相関と呼ぶのじゃ。
腸を大掃除して不調を直せば脳も大抵よくなるのじゃ。
実践あるのみなのじゃ。
>>694
そのようなこともあるじゃろう。
マハリシは寝ていたときに起きたのじゃ。
常に自分を追求していればどこでも頓悟が起こる可能性はあるものじゃ。
精進在るのみなのじゃ。
696
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/04(水) 15:17:08 ID:DAY232aw0
>>695
ご回答ありがとうございます。
質問ですが、自分を追求した方が良いのでしょうか?
それとも、自分とは何か追求した方が良いのでしょうか?
697
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2017/10/04(水) 20:50:31 ID:1d4drIFg0
>>696
それはおぬし自身が興味を持てるほうでよいのじゃ。
自分に興味があるならば自分を追及するとよいのじゃ。
自分とは何かに興味があるならばそれを追求するとよいのじゃ。
おぬし次第なのじゃ。
698
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/04(水) 21:34:31 ID:DAY232aw0
>>697
ありがとうございます。
質問ですが、自我に気付くとはどう言う事なのでしょうか?
699
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/04(水) 23:16:11 ID:DAY232aw0
>>698
スルーしてください。すいません。
質問ですが自分を追求したり、自分とは何か追求したりするのは、自我に気付く為でしょうか?それとも自分に気付く為でしょうか?
700
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/05(木) 00:30:39 ID:ydE4b1w.0
>>695
なるほど、必ずしも能動的に観察の作業を行っている時じゃなくても観照が起こる可能性は
ある、ということでしょうか?
それから、認識を観察することについてはっきりさせたいというか、確認させていただきたいんですが、
認識(阿頼耶識)を観察するっていうのは、
「認識(阿頼耶識)が目の前の対象物に膨大な記憶の中からその対象物に適したラベルやイメージを投影し、
そのラベルやイメージを対象物に当てはめて認識している過程」
を捉えてただ見ることが認識を観察するということなんですか?
わかりやすく言うと、目の前の名もないありのままの「それ」に対し過去の記憶から勝手に「観念A」を投影して
「名もないそれ」を「観念A」であると認識する[過程]を捉えてその過程をただ見るということが「認識を観察する」ということなのか、ということです。
そして、その過程を捉えてただ見ることができれば、それは過去の記憶を見ているだけでありありのままを見ていなかったんだ、
と気づけばそれによって厭離が起こる そんな感じでしょうか?
少しでも違っていたら指摘していただけると助かります。
701
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/05(木) 18:41:43 ID:czRftzgI0
「何かものを見ればそれがりんごだとか石だとか分類し別けるのが分別なのじゃ。そしてそれがりんごであると認め、知るという働きが認識なのじゃ。」について質問します。
Q1.分類と認めるの違いがわかりません。記憶と照合してりんごと分類している時点で認め、知ることになっていませんか?それとも赤くて丸い物と記憶抜きで分類し、その後記憶を元にりんごと認めるという意味ですか?
Q2.2行目はりんごが既知であればりんごと認め、未知であれば知るのが認識という意味ですか?
702
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2017/10/05(木) 20:47:39 ID:1d4drIFg0
>>698
それが何であるかに気付くのじゃ。
それが物としてあるものなのか。
あるいは物としてはないものなのか。
寝ていてもあるものなのか。
寝ているときは無いものなのか。
などに気付くことなのじゃ。
>>699
どちらでもないのじゃ。
自我が何であるかに気付くためなのじゃ。
自分とは何であるかに気付くためなのじゃ。
>>700
そうじゃ。
そうじゃ。
そうではないのじゃ。
ただそれが記憶に依存した認識であると気付くのじゃ。
>>701
1 それは分類される前にはりんごとしては認められず、知られていないのじゃ。
りんごを認めるとは第三者の視点であるからそのようにいうのじゃ。
分類され、記憶と照合される前にはあかくてまるい物体なのじゃ。
2 分類されて記憶と照合されてりんごとして認め知るといことなのじゃ。
703
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/05(木) 21:39:36 ID:czRftzgI0
>701
分別認識は速すぎて観察しづらいですが、頑張って観察しようと思います
ありがとうございました
704
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/05(木) 22:02:47 ID:DAY232aw0
>>702
両方共答えて抱きありがとうございます。
質問ですが、自我が何であるかに気付いたら観照が起こるのでしょうか?
それとも自分とは何であるかに気付いたら観照起こるのでしょうか?
それとも両方に気付かなければ観照は起こらないのでしょうか?
気付く時は両方同時に気付くものなのでしょうか?
質問が沢山になってしまい申し訳ありません。
705
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/05(木) 22:02:48 ID:ydE4b1w.0
>>702
700です。鬼和尚の私に対する返答の三行目の
「そうではないのじゃ。
ただそれが記憶に依存した認識であると気付くのじゃ。」
というのは
700レス目の中の私の最後の質問↓
「そして、その過程を捉えてただ見ることができれば、それは過去の記憶を見ているだけであり、ありのままを見ていなかったんだ、
と気づけばそれによって厭離が起こる そんな感じでしょうか?」
という質問に対する答えとして「そうではないのじゃ。」ということでしょうか?
そうであれば、認識の厭離が起こるためには私の上記の文にあるように
「その過程を捉えてただ見ることができれば、それは過去の記憶を見ているだけであり、ありのままを見ていなかったんだ、
と気づけばそれによって厭離が起こる」
というのではなく、もっとシンプルにもっと単純に、認識が観念を投影する働きを見て、ただそれが記憶に依存した認識であると単純に気付くだけで厭離が起こる、
ということですか?
706
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/06(金) 00:17:08 ID:5b5rHLEE0
鬼和尚まだみんなの難しそうな質問に答えてたんですね
めんどくさくなったりしないんですか?
707
:
旅の客人
:2017/10/06(金) 09:59:10 ID:kcjko4As0
鬼和尚 様、質問させていただきます。
寝ている自分に気付いたときは、気付いているままで良いの
でしょうか?(恐怖を感じて無理やり起きてしまうのですが)。
708
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2017/10/06(金) 21:49:53 ID:1d4drIFg0
>>703
そうじゃ、実践あるのみなのじゃ。
またおいでなさい。
>>704
どちらでも起こるのじゃ。
自我とは自分という観念であるからのう。
自我と自分の二つがあるのではないのじゃ。
ただ言葉のみの違いなのじゃ。
>>705
そうじゃ。
それを観るのは無我になった後であるがのう。
実践あるのみなのじゃ。
>>706
わしは何も思わないのじゃ。
ノー思惑なのじゃ。
>>707
そうじゃ、それでよいのじゃ。
ついでにいろいろ観察すると善いのじゃ。
それが自分ではないと気付くじゃろう。
709
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/07(土) 01:27:31 ID:ydE4b1w.0
>>708
705です、すいません、「そうじゃ」というのが何に対する返答なのかがはっきり
汲み取れなかったんですが、要するに結論から言うと
無我に至った後に認識(阿頼耶識)の働く過程をとらえることができれば、そこから更なる過程を経ることなく
認識の働く様に気付いたのと同じ瞬間に認識(阿頼耶識)が厭離され無認識へ至る、という理解でいいですか?
710
:
旅の客人
:2017/10/07(土) 03:36:29 ID:XGGScHBs0
有難う御座います。
勇気を出して観察してみます。
711
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2017/10/07(土) 22:17:10 ID:1d4drIFg0
>>709
それでよいのじゃ。
しかし言葉通りになるのではないのじゃ。
それは最初何が起きたのかすらわからんじゃろう。
知る必要も無いのじゃ。
言葉も観念もないからのう。
ただ悟りを伝えるためだけに言葉としてそのような気付きがあったと言えるだけなのじゃ。
>>710
そうじゃ、実践あるのみなのじゃ。
またおいでなさい。
712
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/08(日) 20:06:20 ID:DAY232aw0
>>708
ご回答ありがとうございます。
質問ですが、プッタタートと言う人は悟っていますか?
713
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/08(日) 20:35:04 ID:DAY232aw0
連投すいません。
プッダヴァチャナはお釈迦様の本当の教えなのでしょうか?
714
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/08(日) 20:51:52 ID:ydE4b1w.0
>>711
ありがとうございました。
715
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2017/10/08(日) 21:10:05 ID:1d4drIFg0
>>712
悟っていないのじゃ。
何も知らないのじゃ。
>>713
違うのじゃ。
全体から切り取られて編集された言葉はもはやお釈迦様の教えとは言われないのじゃ。
人を殺してはいかんとかいうのを、人を殺すということをお釈迦様は教えたというように変えることもできるからのう。
止観が理解できない者たちが編集した故に、自説を補強するだけのものになっているのじゃ。
>>714
どういたしまして、またおいでなさい。
716
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/08(日) 22:31:41 ID:DAY232aw0
>>715
大変勉強になります。ありがとうございます。
質問ですが、観察し続ける事が難しいのですが、何か良い方法は無いのでしょうか?
717
:
541
:2017/10/09(月) 06:24:10 ID:o7TfOr0I0
鬼和尚、時間や空間は心の中にありますか?心の外にありますか?
718
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/09(月) 17:09:58 ID:czRftzgI0
夢を分析したところ、その中の自分には思考、感情、分別もちろん自我もと覚醒時にあるものの全てがあると気付きました。
この結果をどう活かせばいいですか?
719
:
541
:2017/10/09(月) 18:08:26 ID:irpWTyyc0
鬼和尚、私の前世は何でしょうか?
ちなみに、輪廻転生は現代人が来世に江戸時代に転生することはなく、歴史学的な時間秩序に基づいているのでしょうか?
720
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2017/10/09(月) 21:14:34 ID:1d4drIFg0
>>716
そのような時は集中し続けるのじゃ。
集中することで我を忘れて、観察し続けられるのじゃ。
自我の好悪とかがないからのう。
実践あるのみなのじゃ。
>>717
時間も空間も心の外も中も無いのじゃ。
ただ実践あるのみなのじゃ。
>>718
観察に活かせばよいのじゃ。
夢の中でもなくならないそれらがどのように生起するのか観察してみるのじゃ。
実践あるのみなのじゃ。
>>719
今の環境を反映したものじゃろう。
環境が最悪ならば最悪なことをした者じゃろう。
最高ならば最高なことをした者じゃろう。
それらも観念分別在るのみなのじゃ。
わしは江戸時代に生きていると思っていた者など一人もいないからのう。
721
:
541
:2017/10/09(月) 22:49:05 ID:o7TfOr0I0
答えが意味わからんです(笑)
722
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/10(火) 01:22:18 ID:5b5rHLEE0
鬼和尚くらい修行が進むと、目の前で知り合いや家族が死んでも悲しんだりショック受けたりはしなくなるのですか?
723
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/10(火) 05:50:59 ID:czRftzgI0
>718
「夢の中でもなくならないそれらがどのように生起するのか観察してみるのじゃ。」は「夢の中でもなくならないそれらが覚醒時にどのように生起するのか観察してみるのじゃ。」の意味ですか?
724
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/10(火) 10:56:14 ID:GijSlBiA0
和尚さま。
気になるコメントを見かけたので便乗させてください。
ブッタタートが悟っていないとのことですが、
どのように判断されたのでしょうか。
今後、いろんな方の法話を読むときの参考にしたいので
教えて頂けないでしょうか。
725
:
蓮恵
:2017/10/10(火) 20:36:58 ID:/840N4pM0
鬼和尚さま
思考を黙らせるのに必要なのは、思考によって思考を止めることではなく、無分別に近づくことのみだと愚考しました。
当然未だ無分別に到っておりませんが、分別から離れつつある見地とは、例えるなら足場が不安定でグラグラとなるような、もしくはめまいのようなクラクラする感覚に近いのではないでしょうか(頓珍漢な表現で申し訳ありませんが)
逆に言えば、日頃我々の分別による見地は固定化されすぎて、安定しすぎているようです。
今の私では、先の不安定な感覚であるグラグラ、クラクラを追求していくしか無さそうです。
726
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/10(火) 21:00:03 ID:czRftzgI0
「人の運命、人類社会の発展、そのすべては神佛によって制御されている。1人の人間が生まれてから死ぬまで、その一生の運命はすべて定められており、例え髪1本が抜け落ちることも、すべて塩梅されたこと。」というのは本当ですか?
また、自殺というこの世の修行を放棄する行為もまた神佛によって制御されているのかそれとも人間の自由意志によるものですか?
727
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/10(火) 21:51:41 ID:x/6oSfDM0
プラユキ・ナランボー、ネルケ無方、藤田一照
この三人は修行者としてはどのくらいのレベルの人達なのでしょうか?
728
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2017/10/10(火) 22:11:16 ID:1d4drIFg0
>>721
わからないでよいのじゃ。
実践あるのみなのじゃ。
実践が全てなのじゃ。
>>722
そうじゃ、それは滅びる性質のものであるからのう。
それによって何かがなくなったり、生じたりすることもないとわかっているのじゃ。
全てが足されることも引かれることも無い一つなのじゃ。
>>723
それが夢の中で起こるのならば夢の中で観察するしかないのじゃ。
今ここでしか観察は出来ないからのう。
観察が無意識にもできるようになれば夢の中でも観察できるのじゃ。
自分は夢を見ていると観察する事もできるのじゃ。
実践あるのみなのじや。
>>724
何も知らないのじゃ。
法を知識と思っているのじゃ。
南方仏教のものならば観察を主としている筈なのに四諦も厭離も知識として捉え、行うものと思っているのじゃ。
悟っているならばそれほど無知なはずは無いのじゃ。
クリシュナムルティも知っていたというからのう。
729
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2017/10/10(火) 22:31:46 ID:1d4drIFg0
>>725
集中していればいずれ思考は止まるじゃろう。
実践あるのみなのじゃ。
>>726
嘘なのじゃ。
自分の意志で行うことが全てなのじゃ。
自分の意志で死ぬから自殺なのじゃ。
全て決められていたならば自殺ではないのじゃ。
神が他殺の真犯人なのじゃ。
>>727
おぬしと同じぐらいじゃな。
精進して遥かに遠くへ行くがよいのじゃ。
730
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/10(火) 22:43:09 ID:czRftzgI0
>723>726
なるほど、夢でも観察できるよう精進したいと思います
自殺は意志、考えてみれば当然のことです。これに関しては改めて明日質問します。
今回も丁寧な指導ありがとうございました
731
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/11(水) 03:05:20 ID:ydE4b1w.0
鬼和尚がお経を読んでいる際に観照が起きたっていうのは、その時が初めての
観察体験だったんですよね、
しかもそこからの流れで一気に無認識まで至ったということは
ほとんどの人が通るであろう、
①見性体験が起こる→②自我が戻ってくる→③悟りの探求をさらに進める→④ある程度のところに落ち着く(無我の段階でしょうか)
→(⑤無認識へ至る(至る人は少ないであろう段階))という順序の②と③と④を一気にすっとばしていきなり⑤まで行ったみたいな感じですよね(正確には鬼和尚の場合の①は見性体験が起きたというか観察の結果として無我に至ったんでしたか)、
ほとんどの人は何年もかけてある程度のところに至るというのを聞くと鬼和尚って豪運すぎますよね、
たとえて言うなら初めての宝くじで一千万当たってその軍資金を株にあてすぐ成功して億万長者になり、それにより一生不労所得での生活に
すみやかに安住した、みたいな(下世話なたとえですいませんが)
732
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/11(水) 05:45:59 ID:04sFW9n.0
いつも教えていただきありがとうございます。
悲しいという感情が起ったので、せっかくの機会なので観察をしてみました。
最初は「悲しみが起こっている」などと思考していたのですが、
そのうち「心臓がどきどきしている」とか「みぞおちあたりか強く脈打っている」とかになり、
悲しみを観察しているのではなく、肉体におこっている変化の観察になりました。
脈絡がないためか、結局どのような観察結果になったのかはおぼろにしか思い出せません。
何かを獲得できたような感覚もありません。
観察とはこのような感じでよいのでしょうか?
733
:
541
:2017/10/11(水) 06:44:50 ID:o7TfOr0I0
実践が全てと言いますが、何を実践すればよいので?
734
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/11(水) 09:33:39 ID:GijSlBiA0
>>728
ありがとうございます。
今後の参考にさせて頂きます。
735
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/11(水) 18:14:54 ID:DAY232aw0
>>720
ご回答ありがとうございます。
質問ですが、自分と思っているものは何か観察すれば、自分とは何であるかに気付きますか?
736
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/11(水) 18:40:51 ID:czRftzgI0
無我やサマーディに至るには、または無我やサマーディの修行を始める前には、苦を一つ残らず完全に滅さなければならないのですか?
人間なんだから苦の一つや2つくらい残ってもしょうがないと思うのですが、それらもやはり完全に消し去らねばならないのでしょうか
737
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/11(水) 20:11:07 ID:jfWCoXjM0
鬼和尚、ラマナ・マハルシの問答集「私は誰か?」の解説をしていただけませんか?
一応貼っておきますので、もしよろしければ、是非お願いいたします。
738
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/11(水) 20:12:59 ID:jfWCoXjM0
私は誰か?
生きとし生けるものは、いつでも幸福であることを願い、不幸でないこ
とを願っている。誰にとっても、そこには自分自身への至上の愛が見られ
る。そして幸福だけがその愛の源なのである。それゆえ、人間の本性であ
る幸福、想念のない深い眠りのなかで体験される幸福を手に入れるために、
人は自分自身を知らねばならない。そのためには、「私は誰か?」という問
いで探究する知識の道が最も重要な方法である。
1 私とは誰でしょうか?
七つの要素*1 から成る粗大な身体、それは私ではない。五つの感覚器官、
聴覚、触覚、視覚、味覚、臭覚は、それぞれの対象である音、感触、色、
味、匂いをとらえるが、私はそれらではない。五つの能動的な器官である
言語器官、運動器官、認識器官、排泄器官、生殖器官は、それぞれ話すこ
と、動くこと、理解すること、排泄すること、楽しむことという働きをす
るが、私はそれらではない。五つの生気*2、すなわちプラーナなどは、吸
気などの五つの働きをするが、それは私ではない。ものごとを考える心で
さえ、私ではない。対象物の印象だけが刻みこまれた無知も、対象物も働
きもない無知も、私ではない。
*1 七つの要素: 栄養液、血液、肉、脂肪、骨、髄、精子。
*2 五つの生気 : パンチャ・プラーナ。 身体で働いている五つのプラーナ(気)。アパーナ、
下降する気。プラーナ、上昇する気。サマーナ、食べ物をアパーナに運ぶ気(消化)。ヴィ
ヤーナ、プラーナとアパーナをとらえる気。ウダーナ、食べ物や飲み物を上下に運ぶ気。
2 もし私がこれらのものでないなら、私は誰でしょうか?
今述べたことすべてを「これではない」、「これではない」と否定してい
ったあとに、ただひとつ残る覚醒――それが私である。
3 覚醒の本性は何でしょうか?
覚醒の本性は、存在-意識-至福である。
4 真我の実現はいつ得られるのでしょうか?
「見られるもの」である世界が取り除かれたとき、「見る者」である真我
は実現されるだろう。
5 世界が(実在として)存在しているときでさえ、真我が実現されるとい
うことはないのでしょうか?
ないだろう。
6 なぜでしょうか?
見る者と見られている対象は、ロープと蛇のようなものである。錯覚で
ある蛇という知識がなくならないかぎり、実体であるロープという知識は
得られない。同じように、世界が実在であるという確信がなくならないか
ぎり、実在である真我の実現は得られないだろう。
7 対象として見られている世界は、いつ消え去るのでしょうか?
すべての認識作用とすべての行為を引き起こす原因である心が静かにな
ったとき、世界は消え去るだろう。
8 心の本性とは何でしょうか?
「心」と呼ばれているものは、真我に内在する驚くべき力である。心はす
べての想念を起こさせる源である。想念を離れて心のようなものは存在し
ない。それゆえ、想念が心の本性である。想念を離れて、世界と呼ばれる
独立した実体があるわけではない。深い眠りのなかに想念はなく、世界も
ない。クモが自分のなかから糸を出し、それをまた自分のなかに引き入れ
るのと同じように、心はそれ自身から世界を投影し、再びそれ自身のなか
へ還元させる。真我のなかから心が外に出るとき、世界が現れる。それゆ
え、世界が(実在として)現れているとき、真我は現れない。真我が輝い
て現れるとき、世界は現れない。人が絶え間なく心の本性を探究しつづけ
るならば、心は真我をあとに残して死滅するだろう。「真我」と呼ばれてい
るものは、アートマンである。心はつねに何か粗大なものに依存すること
によってのみ存在する。それはひとりであることができない。微細身ある
いは個我(ジーヴァ)と呼ばれているのは、心である。
9 心の本性を理解する探究の道とは何でしょうか?
身体のなかに「私」として立ち現れるものが心である。もし身体のなか
のどこに「私」という想念が最初に現れるかを探究するなら、それはハー
トのなかに現れることが発見されるだろう。そこが心の起源となる場所で
ある。絶えず「私」、「私」と考えても、人はその場所に導かれていくだろ
う。心のなかに現れるすべての想念のなかで、最初に現れるのは「私」と
いう想念である。この想念が現れたあとにのみ、他の想念は現れる。二人
称と三人称の人称代名詞が現れるのは、一人称が現れたあとのことである。
一人称がなければ、二人称、三人称も存在しないだろう。
10 どうすれば心は静かになるのでしょうか?
「私は誰か?」と尋ねることによってである。「私は誰か?」という想念
は、他のすべての想念を破壊するだろう。そして燃えている薪の山をかき
混ぜる木の棒のように、ついには「私は誰か?」という想念そのものも滅
ぼされてしまうだろう。そのとき真我は実現されるだろう。
739
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/11(水) 20:16:54 ID:jfWCoXjM0
11 「私は誰か?」という想念を絶えず心に保つにはどうすればよいでしょ
うか?
他の想念が起こっても、それを追いかけることをやめ、「この想念は誰に
起こったのか?」と尋ねるべきである。どんなに多くの想念が起ころうと
かまわない。想念が起こるたびに「この想念は誰に起こってきたのか?」
と入念に探究すべきである。それに対して現れる答えは「私に」だろう。
そこで、すぐに「私は誰か?」と探究すれば、心は源に引き戻され、起こ
った想念は静まるだろう。このように修練を繰り返せば、心は源にとどま
ることに熟達するだろう。微細な心が脳や感覚器官を通って外に出ると、
粗大な名前や形が現れる。心がハートのなかにとどまっていれば、名前と
形は消え去る。心を外に出さずにハートのなかにとどめておくことは、「内
にあること」(アンタール・ムカ)と呼ばれる。心をハートから外へ出させ
ることは、「外へ向かうこと」(バヒール・ムカ)として知られる。このよ
うに、心がハートのなかにとどまっているとき、すべての想念の源である
「私」は消え去り、永遠に存在する真我が輝きだす。人は何をするときに
も、「私」という自我性なしにそれをすべきである。もしそのように行動す
れば、すべてはシヴァ神の本性として現れるだろう。
12 心を静かにする他の方法はないのでしょうか?
探究以外に適切な方法はない。他の方法で心を静めても、心は制御され
たように見えるだけで、再び勢いを増して現れるだろう。呼吸の制御によ
っても心は静められるが、それは呼吸が制御されている間だけのことであ
り、呼吸が元に戻れば心もまた活動を始め、潜在する印象に駆りたてられ
てさ迷いだすだろう。心も呼吸も、その源は同じである。想念とは、実は
心の本性である。「私」という想念が心の最初の想念であり、それが自我性
である。自我が生まれ出る同じ場所から呼吸も生まれる。そのため、心が
静かになれば呼吸も制御され、呼吸が制御されれば心も静かになる。けれ
ども深い眠りのなかでは、心は静かでありながら、呼吸は止まっていない。
これは、身体が維持されるように、そして死んでしまったと他の人びとが
思わないようにとの神の意志によるものである。目覚めの状態とサマーデ
ィにあっては、心が静まっていれば呼吸は制御されている。呼吸は心の粗
大な姿である。死の時までは、心は身体のなかに呼吸を保っている。身体
が死ぬと、心は呼吸とともに出ていく。それゆえ、呼吸を制御する修練は
心を静める(マノニグラハ)助けにすぎず、心の消滅(マノナーシャ)を
もたらすことはない。
呼吸を制御する修練と同じように、神の姿に瞑想することや、マントラ
の復唱、断食などの修練も、心を静める助けにすぎない。
神の姿に瞑想することや、マントラの復唱を通して、心は一点に集中さ
れる。心はつねにさ迷いつづけるだろう。鼻を鎖でつながれた象が、他の
何もつかまえられないように、心も神の御名や姿に満たされていれば、他
の対象をとらえることはないだろう。心が無数の想念へと拡散していると
き、そのひとつひとつの想念は弱いものとなる。だが、想念が決意を固め
て一点に集中すれば、強いものとなる。そのような心にとって、真我を探
究することは容易になるだろう。すべての規則制限のなかでも、適度な量
の清らか(サートヴィック)な食事を取るという方法が最上のものである。
これを守ることによって、心の清らかさは増し、真我の探究の助けとなる
だろう。
13 心に残ったものごとの印象が、海の波のように際限なく現れてきます。
いつになったらそれらすべてがぬぐい去られるのでしょうか?
真我への瞑想が高まれば高まるほど、それらの想念は破壊されるだろう。
740
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/11(水) 20:18:09 ID:jfWCoXjM0
14 数知れない過去生から蓄積されてきた、心に刻まれたものごとの印象
が取り除かれ、純粋な真我としてとどまることは可能でしょうか?
可能か、可能でないかという疑問に屈することなく、真我への瞑想を続
けるべきである。たとえ、人が大罪人であるとしても、「ああ、私は罪人だ。
どうすれば救われるだろう?」と思い悩み、嘆き悲しむべきではない。「私
は罪人だ」という想念を完全に棄て去り、真我への瞑想に強烈に集中する
べきである。そうすれば、確実にうまくいくだろう。ひとつは善く、もう
ひとつは悪いという二つの心があるのではない。心はただひとつだ。幸運
と不運の二種類があるのは、心ではなく、心に刻まれる印象である。心が
幸運な印象の影響を受けたとき、それは善と呼ばれ、不運な印象の影響を
受けたとき、それは悪と見なされる。
心は世間のものごとや他の人びとに関することへとさ迷いでぬよう、戒
められなければならない。他の人がどれほど悪くとも、彼に対して憎しみ
を抱かぬようにしなければならない。欲望と憎しみは、どちらも避けなけ
ればならない。人が他の人びとに与えるすべては、実は自分自身に与えて
いるのだ。もしこの真理が理解されるなら、人びとに施しをしないでいら
れようか。自己が現れると、すべてが立ち現れ、自己が静まればすべては
静まる。謙遜を忘れないならば、それに応じてよい結果が現れるだろう。
心が静寂に帰すれば、人はどこででも生きていくことができる。
15 探究はどのくらいの期間修練されるべきでしょうか?
心のなかにものごとの印象があるかぎり、「私は誰か?」と尋ねなければ
ならない。想念が起こったなら、そのとき、その起こったまさにその場で
問うことによって、破壊されるべきである。もし真我に到達されるまで、
不断に真我への黙想に打ちこめば、それだけで想念は消滅するだろう。要
塞のなかに敵がいるかぎり、敵は反撃を続けるだろう。もし敵が姿を現す
たびに滅ぼしていけば、要塞はわれわれの手中に落ちるだろう。
16 真我の本性とは何でしょうか?
真実、存在するのは真我だけである。世界、個我、神は真珠貝のなかの
銀色の輝きのように、真我の内に現れるものである。これら三つは同時に
現れ、同時に消え去る。
「私」という想念が絶対にないところ、それが真我である。それは沈黙
と呼ばれる。真我そのものが世界であり、真我そのものが「私」であり、
真我そのものが神である。すべてはシヴァ、真我である。
17 すべては神のなせるわざではないのでしょうか?
欲望も決意も努力もなしに太陽は昇る。太陽がただそこに存在するだけ
で、日長石は火を発し、蓮の花は開き、水は蒸発していく。磁力が存在す
ることによって磁石の針が動くように、人びとが三つの宇宙的機能*3 や五
つの神聖な活動*4 に支配され、それぞれのカルマにしたがって行為し、そ
して休息するのは、ただ神が存在するという美徳によるものである。神は
何の意志も持たず、いかなるカルマも彼に属さない。それは、世間の行為
が太陽に影響をあたえず、すべてに遍在するエーテルが他の四元素の長所
や短所に影響されないのと同じである。
*3 三つの宇宙的機能 : 創造、維持、破壊。
*4 五つの神聖な活動 : パンチャ・ヤジュニャ。『ヴェーダ』の学習、祖霊への食物の供養、ホ
ーマの献火、すべての生き物への食物の供養、人間への供養などを示すヒンドゥー教徒の義
務。
18 帰依者のなかで最もすぐれているのはどのような人でしょうか?
神である真我に自分自身をゆだねきった人が、最もすぐれた帰依者であ
る。自分自身を神にゆだねるとは、真我という想念以外のいかなる想念も
起こることを許さず、ひたすら真我の内にとどまっていることである。
どんな重荷を負わされようと、神はそれに耐える。神の至高の力がすべ
てのものごとを動かしているというのに、なぜわれわれはその力に身をま
かせず、何をどうすべきか、どうすべきではないかと思い悩むのだろう
か? われわれは列車がすべての荷物を運んでくれることを知っている。
列車に乗ってまでも、自分の小さな荷物を頭にのせて苦労する必要がどこ
にあろう。荷物をおろして安心しなさい。
19 無執着とはどういうことでしょうか?
想念が起こるとともに、その起こったまさにその場で、あますところな
く完全に消滅させること、それが無執着である。真珠採りが自分の腰に石
をくくりつけて潜り、海底に沈む真珠を採るように、誰もが無執着ととも
に自己の内に深く潜り、真我という真珠を手に入れなければならない。
741
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/11(水) 20:19:04 ID:jfWCoXjM0
20 神やグルは、魂の解脱をもたらすことはできないのでしょうか?
神やグルは解放への道を示すだけだろう。神やグルが人を解脱の状態に
連れていくわけではない。
実際は、神とグルは異なるものではない。トラの顎にくわえられた獲物
に逃れるすべがないように、グルの慈悲深い眼差しにとらえられた者は、
グルによって救われ、見棄てられることはないだろう。けれどもひとりひ
とりは、神あるいはグルによって示された道を自分自身の努力で究め、解
脱に達しなければならない。人はただ自分の知識の目によってのみ、自分
自身を知ることができる。ラーマ神がラーマ神であることを知るために、
鏡の助けが必要だろうか?
21 解脱を熱望する者にとって、意識の構成要素の本質(タットヴァ)を
探究する必要があるでしょうか?
ゴミを捨てたいと思っている人にとって、その中身を分析したり、それ
が何であるかを調べたりする必要がないように、真我を知ろうとする人に
とっても、意識の性質を調べたり、その構成要素を分類して数えたりする
必要はない。彼がすべきことは、真我を覆い隠している構成要素すべてを
払いのけることである。世界はひとつの夢のようなものと見なされなけれ
ばならない。
22 目覚めと夢見の間に違いはないのでしょうか?
目覚めている間は長く、夢を見ている間は短い。これより他に何の違い
もない。目覚めの間に起こることが真実に見えるように、夢の中で起こる
ことも夢のなかでは真実に見える。夢の中では心はもうひとつの身体をと
っている。目覚めの状態でも、夢見の状態でも、想いや、名前と形は同時
に現れるのである。
23 解脱を願う者にとって、本を読むことにはどんな価値があるのでしょ
うか?
すべての聖典は、解脱を得るためには心を静かに保たなければならない
と述べている。それゆえ、心を静かに保つべきだということが、聖典の最
終的な教えである。ひとたびこれが理解されたなら、際限なく本を読む必
要はない。心を静めるには、人はただ自分自身の内に、真我とは何かと問
いつづけるべきである。この探究がどうして書物のなかでできるだろう
か? 人は自分自身の智慧の目で、自分の真我を知るべきである。真我は
五つの鞘*5 の内にあるが、書物はその外にある。真我は五つの鞘を棄て去
っていくことで探究されるべきものであるため、それを書物のなかに求め
るのは無駄なことである。いずれ学んだことをすべて、忘れ去らなくては
ならないときが来るだろう。
*5 五つの鞘 : パンチャ・コーシャ。 真我を覆い隠す五つの身体の鞘。アンナー・マヤ・コ
ーシャ、身体の鞘。プラーナ・マヤ・コーシャ、生気の鞘。マノ・マヤ・コーシャ、心の鞘。
ヴィジニャーナ・マヤ・コーシャ、知性の鞘。アーナンダ・マヤ・コーシャ、至福の鞘。
24 幸福とは何でしょうか?
幸福とは真我の本性そのものである。幸福と真我は別のものではない。
世界のいかなるものごとのなかにも幸福はない。われわれは無知ゆえに、
ものごとから幸福を得るものだと思っている。心が外へ出ていくと、不幸
を体験する。心の願いが満たされたとき、実は、心は自己本来の場所に戻
っており、真我である幸福を楽しむのである。同じように、眠りの状態、
サマーディ、失神状態、あるいは、得たいと願っていたものが得られたり、
嫌っていたものが消え去ったりしたときには、心は内面に向かい、純粋な
真我-幸福を楽しむのである。このように心は休むことなく動きまわり、
真我からさ迷いでては、また戻ってくるということを繰り返している。木
陰は気持ちいいが、外では太陽が焼けつくようだ。灼熱の太陽のなかを歩
いてきた人が木陰にたどり着けば涼しいと感じる。木陰からわざわざ出て
猛暑のなかを行き、それからまた木陰に戻ってくるのは愚かなことである。
賢い人はずっと木陰にとどまっているだろう。同じように、真理を知る人
の心は、ブラフマンを離れることはない。その反対に、無知な人の心は、
悲惨を味わいながら世界をさ迷い歩き、つかの間の幸福を味わうためにブ
ラフマンに戻ってくる。実際には、世界と呼ばれているものはただの想念
にすぎない。世界が消え去ったとき、つまり想念が存在しないとき、心は
幸福を体験する。世界が現れると、不幸を味わうのである。
25 洞察力(ジニャーナ-ドリシュティ)とは何でしょうか?
静寂にあることが洞察力と呼ばれている。静寂にあるということは、真
我のなかに心を帰り着かせることである。過去、現在、未来の出来事を知
るテレパシーや千里眼は洞察力ではない。
742
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/11(水) 20:19:57 ID:jfWCoXjM0
26 無欲と智慧にはどんな関係があるのでしょうか?
無欲が智慧である。二つは別のものではない。それは同じである。無欲
とは、心がいかなる対象物に向かうことも差し控えることである。智慧と
は、何の対象物も現れないことを意味している。言い換えれば、真我以外
の何ものも求めないことが無執着あるいは無欲であり、真我をけっして離
れないことが智慧である。
27 探究と瞑想の違いは何でしょうか?
探究とは、真我のなかに心をとどめておくことである。瞑想とは、自己
をブラフマン、つまり存在-意識-至福であると思いなすことである。
28 解脱とは何でしょうか?
束縛されている自己の本性を探究すること、その真の本性を悟ることが
解脱である。
743
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2017/10/11(水) 21:02:14 ID:1d4drIFg0
>>730
どういたしまして、またおいでなさい。
>>731
見性は自我を見ることではないのじゃ。
本性が見られただけなのじゃ。
そうであるから見性なのじゃ。
一部の禅の者が無我とか悟りの意味で使っているが間違いなのじゃ。
それも本心を見るには役に立つものであるがのう。
自我を観るのは観照なのじゃ。
大抵の者はそこから無我となり、大悟に至るのじゃ。
白陰も大悟二度とか言っているのじゃ。
真摯に求めていればやがて誰もがそこに至るのじゃ。
それは大地のように永遠普遍のものであるからのう。
>>732
それでよいのじゃ。
感情が肉体の反応を起こすことが見えたのじゃ。
今ここに起こることをありのままに観ればよいのじゃ。
やがて自我が自分という概念とは無関係であることさえ観えてくるがそれもありのままに受け容れればよいのじゃ。
>>733
止観を実践すればよいのじゃ。
集中と観察なのじゃ。
わしのブログなどを参考にするのじゃ。
744
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2017/10/11(水) 21:23:51 ID:1d4drIFg0
>>734
どういたしまして、またおいでなさい。
>>735
真摯に探求すれば気付くじゃろう。
恐れや逃避があれば気付かないこともあるじゃろう。
おぬし次第なのじゃ。
>>736
滅さなくてよいのじゃ。
修業の邪魔になるものだけを滅するとよいのじゃ。
サマーディには一つの苦も滅さなくても至れるのじゃ。
ただ姿勢をよくして座るだけでよいのじゃ。
>>737
>>738
1は仏教でもよく使われる五感や身体が自分ではないと気付くための教えなのじゃ。
それらはよく観察する事で自分ではないと気付くじゃろう。
五蘊を観察する仏教の法とは少し違うがのう。
心身の要素を観察して厭離する意図は同じなのじゃ。
2 それらの心身の要素を観察して行き、全てが厭離されて残るのが覚醒なのじゃ。
それを私と言っているがもはや私も無いものじゃ。
言葉の便法によって私と言うのじゃ。
3 その覚醒の本性とは存在であり、意識であり、至福と言うのじゃ。
お釈迦様が不死の境地とか言ったものと同じなのじゃ。
死もない永遠の意識こそ覚醒の本性なのじゃ。
4 真我とはそれ自体が認識するものでありながら、認識はされないものなのじゃ。
認識できたならばそれは真我ではないのじゃ。
全てが見る者となる時、真我は実現したと言えるのじゃ。
5 そこにはもはや世界とかの概念設定されるものは存在しないのじゃ。
世界があったならばまだ真我は実現したと言えないのじゃ。
6 全ての概念設定を離れて認識が実現すれば真我も実現すると言えるのじゃ。
虚妄の世界と真実である真我は両立しないのじゃ。
745
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2017/10/11(水) 21:38:28 ID:1d4drIFg0
>>738
>>739
7 認識が記憶に依存していれば概念は起こり続けるのじゃ。
認識作用が記憶への依存を止めた時に心は止まり、虚妄の世界も消え去るのじゃ。
8 ここで心と呼ばれるのは観念を投射する記憶に依存した認識なのじゃ。
それは今ここでも絶え間なく悟りを得ない者の心にさまざまな観念を作り出しているじゃろう。
それが個我の観念をも生み出すのじゃ。
その作用がなくなり、虚妄の世界゛消えて真我は表れるというのじゃ。
9 個我を起こす認識の働きは心臓への集中によって見出されるというのじゃ。
それは心臓に限ったことではないがのう。
一度、その働きが観られたならば自我は消えさるのじゃ。
10 常に自己を探求することで心は鎮まると言うのじゃ。
それが完全に観察された時に、個我は滅し、真我が実現されるのじゃ。
11 雑念が起こればその都度、それが自分から起こる事を観察するように言うのじゃ。
常に全ての注意を自己の探求に向ければ悟りも自ずから訪れるのじゃ。
12 呼吸の制御も神を瞑想することもマントラも断食も心を鎮める助けになるだけなのじゃ。
自分とは何かを観ることが真の悟りへの道なのじゃ。
13 雑念がどれほど浮かび上がってきても日々の実践によって消えていくのじゃ。
746
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2017/10/11(水) 22:20:32 ID:1d4drIFg0
>>740
14 長年の執着も一つの気付きで消え去るように、観念の蓄積も認識を観れば消え去るじゃろう。
それらは妄想に過ぎないからのう。
妄想を妄想とわかってしがみつく者はいないのじゃ。
15 観念があり続ける限り探求は終わらないのじゃ。
それがどのくらいで終わるかは本人次第なのじゃ。
日々の実践だけがその道を近ずけてくれるのじゃ。
16 真我とは唯一つの実在であり、永遠の意識なのじゃ。
全ての者の全てなのじゃ。
神仏などの観念さえそこに含まれるのじゃ。
ただ妄想としてであるがのう。
17 神が意識であればそれは人に何かをさせるものではないのじゃ。
ただ在るがままにあるのみなのじゃ。
人はただ自ら実践してその意識の至福に至ることができるだけなのじゃ。
それこそが恩寵と呼ぶべきなのじゃ。
18 金や物を捧げるより、自らを真我にゆだねきった者こそ最も優れた帰依者であるというのじゃ。
帰依とは神仏に回帰することであるが自らの心身をささげつくす者は少ないものじゃ。
自分自身にさえ自らをささげ尽くすことは難しいのであるからのう。
19 無執着とは今ここにのみ在ることなのじゃ。
過去を想い、未来を臨んでいれば今ここにはいないのじゃ。
心に浮かんでは消える雑念をその場で手放して真我を得るのじゃ。
>>741
20 どれほど優れた師匠や神も人に悟りを得させることはできないのじゃ。
お釈迦様でさえ道標になるだけと言ったのじゃ。
人は自ら悟りへの道を歩まなければいかんのじゃ。
21 知識は塵芥であり、糟糠であると空海も言ったのじゃ。
実践こそ真の悟りへの道なのじゃ。
22 目覚めと夢は同じ意識の現われなのじゃ。
夢の中でも観念はありつづけるものじゃ。
23 聖典を読めば実践すべきことが書かれているのじゃ。
実践が全てなのじゃ。
知識を集めれば知識に執着し、妨げになることもあるじゃろう。
実践あるのみなのじゃ。
24 真の幸福は真我の実現によってのみ達成できると言うのじゃ。
その他の幸福は幻想であり、一時の気休めに過ぎないのじゃ。
25 心を鎮め、心臓に真我を求める力こそ洞察力なのじゃ。
超能力ではないのじゃ。
747
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2017/10/11(水) 22:27:29 ID:1d4drIFg0
>>742
26 無欲とはなにものにも囚われない心なのじゃ。
智慧とはそのような心そのもの働きなのじゃ。
欲があれば智慧は無く、智慧があれば欲は無いのじゃ。
欲が無く智慧のある状態が真我実現なのじゃ。
27 探求と瞑想との違いは真我を求めることと、ブラフマンの法との違いと言うのじゃ。
真我探求の法は心臓にひたすら集中し、真我を求めることなのじゃ。
ブラフマンの瞑想は心身をどこまでも広げてブラフマンと一体化する法なのじゃ。
悟りを得ればそれらも一つの法と知れるのじゃ。
28 解脱とは自己の本性を探求し、悟ることなのじゃ。
それが存在しないと気付いた時に人は無我になり、無認識にも至るのじゃ。
それこそ解脱なのじゃ。
748
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/11(水) 22:35:19 ID:OYxDwooY0
鬼和尚すげーwww
脱帽です…。
749
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/12(木) 17:23:19 ID:jfWCoXjM0
鬼和尚、解説ありがとうございます!
一瞬で片付けてしまうとは、まさに鬼ですねw
悟った人同士ですと、言わんとしている事もツーカーなのでしょうか?
750
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/12(木) 17:40:04 ID:jfWCoXjM0
この「私は誰か?」という問答集の総評を聞かせてください。
それと↓もラマナ・マハルシの言葉なので、コメントをお願いします。
生きとし生けるものは、いつでも幸福であることを願い、不幸でないこ
とを願っている。誰にとっても、そこには自分自身への至上の愛が見られ
る。そして幸福だけがその愛の源なのである。それゆえ、人間の本性であ
る幸福、想念のない深い眠りのなかで体験される幸福を手に入れるために、
人は自分自身を知らねばならない。そのためには、「私は誰か?」という問
いで探究する知識の道が最も重要な方法である。
751
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/12(木) 19:03:22 ID:czRftzgI0
和尚さんは無我・サマーディに至るには苦をすべて取る必要はないとおっしゃいました。では、執着もすべて取る必要はないのですか?
752
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2017/10/12(木) 20:55:56 ID:1d4drIFg0
>>748
おぬしには負けるがのう。
わっはっは。
>>749
そうじゃ、まさに鬼じゃ。
医者が他の医者の言葉が直ぐにわかるように、悟った者同士もわかるのじゃ。
特に難しいことは言っていないのじゃ。
>>750
マハリシは質問する者が観念に陥らないように常に心臓の真我に実際に集中するようにと答えているのじゃ。
実践が全てなのじゃ。
悟った者は常に実践を説くのじゃ。
悟らない者は知識を説くのじゃ。
それが悟ったものと悟らない者の違いなのじゃ。
マハリシも自ら悟り、不死の境地を知っているから皆をそこに導こうとしているのじゃ。
それもまた実践によって真の幸福を実現するための言葉なのじゃ。
全ての幻想を滅し、心の中にある真実を実現した者だけがそのように語りかけることもできるのじゃ。
>>751
そうじゃ、全ての執着を滅しなくて善いのじゃ。
執着は心の働きによって次々に作られてしまうものであるからのう。
全て滅しようとしてもきりがないのじゃ。
修業の邪魔になる執着だけを取れば良いのじゃ。
753
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/12(木) 22:27:44 ID:czRftzgI0
>751
はい、そのように修行したいと思います
754
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/13(金) 07:21:55 ID:ydE4b1w.0
鬼和尚、
>>738
の書き込みの中の9項目目に
「もし身体のなか
のどこに「私」という想念が最初に現れるかを探究するなら、それはハー
トのなかに現れることが発見されるだろう。そこが心の起源となる場所で
ある。」
と書かれていますが、それは人は一般的に言って心臓のあたりに自分という感覚を強く
感じやすいということでしょうか?
そして、そうであるなら心臓らへんに対する観察は自我の正体を見るうえで効果的である、
ということなんでしょうか。
755
:
541
:2017/10/13(金) 10:46:36 ID:o7TfOr0I0
これだけの人間が真我探求して見付からないと言うのはどう言うことなのだろう。
心臓の辺りに真我があるならば、心臓の辺りを意識したら見付かるはずである。
何でそんなに難しい話になるのだ?
真我があるならば、もう見付かってもいいだろう
何年も探求して見付からないとしたら、それが幻想だからではないでしょうか?
756
:
541
:2017/10/13(金) 11:01:24 ID:o7TfOr0I0
確かなことは、意識と特定の肉体が何故か結び付いている事だよね。
それは、意識が肉体から生じているからなのか、或いは、意識が特定の対象(個別の肉体)を現象化し続けているかどっちかだろうね
この肉体は昨日と今日では別の性質を持つが、知性が、同一のものと見なしているから、昨日と同じ自分の肉体と判断している。
だから、全て幻想とは言えるのだが、それでも特定の肉体と言う認識システムと意識が関連していることは否定できない
757
:
541
:2017/10/13(金) 11:06:30 ID:o7TfOr0I0
つまり、どうして、意識は、この眼球(視角システム)やこの脳(認識システム)を通して、世界を眺め見るのか?
それは、「そう言うものだから」としか言いようがない。
つまり、意識は、この肉体を通して世界を経験しようとしており、それに「私」が異議申し立てをしても、意に関しないのである。
俺様は、そうしたいのだ、文句あるか?と言わんばかりである。
758
:
541
:2017/10/13(金) 11:11:18 ID:o7TfOr0I0
その時の私ってなんなの?この今、文字を打とうとして打っているものよ
まあ、あえて言うなら、この「世界を考え、語るもの」に、私は、自我意識を感じている訳だ。
鬼和尚の理論からすると、この世界を考えて語っているものを観察するときに、観照が起きることになる。
759
:
541
:2017/10/13(金) 12:44:02 ID:o7TfOr0I0
観察しようと思うと思考は消える。
と言うより「誰かに語ろう」とした瞬間に思考は生まれる。ほら、この通り。
私は、この語りや思考にidentityを感じており、自覚もあるし、観察してもいるが、観察されたからと言ってこれが滅却される事もなければ、永遠に触れているとも言えない。
760
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/13(金) 12:57:15 ID:ydE4b1w.0
鬼和尚としては
相当の覚悟、己を捨てられる、という強い意志があれば人はたった一日であっても観察
しまくって大悟に至れることは現実的に可能であると思われますか?
761
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/13(金) 18:21:43 ID:DAY232aw0
>>744
ご回答ありがとうございます。
質問ですが、自分を探求すれば良いのでしょうか?
762
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/13(金) 20:01:12 ID:jfWCoXjM0
鬼和尚、解説ありがとうございます。
ラマナ・マハルシの教えの実践としては「心臓に集中して、私という思いの生起を見る。」で良いでしょうか?
鬼和尚的には、心臓でなく他の部位に集中してもOKで、自我の観察が出来れば効果は同じということですか?
763
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2017/10/13(金) 21:28:21 ID:1d4drIFg0
>>753
そうじゃ、精進あるのみなのじゃ。
またおいでなさい。
>>754
違うのじゃ。
強く集中していると集中の対象と同一化が起こるのじゃ。
そのために心臓に自分があると感じられるのじゃ。
集中の対象は何でもよいのじゃ。
集中力によって自我を観やすくなるだけなのじゃ。
>>755
真我などないのじゃ。
ただ集中のための対象に過ぎないのじゃ。
何も無いのが真我なのじゃ。
>>760
できるじゃろう。
マハリシも一日で悟ったのであるからのう。
今日にも死ぬというようなほどに強い動機が無ければ難しいかも知れんがのう。
>>761
そうじゃ、自分を探求すればよいのじゃ。
実践あるのみなのじゃ。
実践が全てなのじゃ。
>>762
そのような理解でよいのじゃ。
どこにでも自分の生起は観られるじゃろう。
大事なのは集中力と観察力なのじゃ。
764
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/13(金) 22:00:25 ID:ntpTPdXY0
>真我などないのじゃ。
バッサリw
真我も観念であることを見破らなければいけませんね。
私も真我に囚われていましたが、ようやくそれも自分の考えであることが見えてきました。
765
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/14(土) 08:30:43 ID:aIZyr5vQ0
>>763
鬼和尚さま
「強く集中していると集中の対象と同一化が起こる」とありますが、ああいうのは何がどうなっている状態なのでしょうか?
例えば虫を観ていて、虫と自分とどちらが自分かわからなくなるとか、自分が虫になったとか、言いますが、
ああいうのは自分の側の分別がなくなるとか、認識の仕方が変わっただけのことなのでしょうか?
例えばこの場合、自分の側ではなく、虫の側に何か影響はあるのでしょうか?
例えば誰かが鬼和尚さまに集中して、鬼和尚さまと同一化した場合、
鬼和尚さま側は何か感じたり変化があったりするのでしょうか?
766
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/14(土) 10:41:47 ID:czRftzgI0
スピ系の精神性の高い人は、神仏や高次の宇宙人の訪問を受けたり、UFOに招待されるそうですが、和尚さんにそういうことはありますか?
また、見知らぬ普通の人からあなたはオーラがすごいですねえとかあなた只者じゃないですねえとか言われたことがありますか?
767
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/14(土) 16:50:27 ID:5b5rHLEE0
悟るとモテますか?
768
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2017/10/14(土) 20:07:27 ID:1d4drIFg0
>>764
そうじゃ、全て捨てて進むのじゃ。
精進あるのみなのじゃ。
>>765
自分という観念が集中の対象に投射されているだけなのじゃ。
それは観念である故にどこにでも投射されるのじゃ。
自分がそう感じるだけなのじゃ。
虫とかわしには影響はないのじゃ。
>>766
そのようなことはないのじゃ。
妄想なのじゃ。
そのような者もいないのじゃ。
全て幻想なのじゃ。
>>767
もてもてなのじゃ。
わしもおぬしにもてもてなのじゃ。
769
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/14(土) 22:16:01 ID:DAY232aw0
鬼和尚さん質問ですが、
本心を観るのは何故でしょうか?
770
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/14(土) 22:21:26 ID:czRftzgI0
>766
はあー、和尚さんにかかるとそれらは全部幻になるんですね。ひやー
771
:
765
:2017/10/15(日) 03:05:14 ID:aIZyr5vQ0
>>768
単に自分の観念、自分にとってのことなんですね。
ありがとうございます。
ところで、ただ意識だけがあり、個々の分別が錯覚であっても、
個々の境界に関係なく影響し合うものというのはないのですか?
同一化はその人の観念ということですが、シンクロニシティだとか虫の知らせとか双子が同じことを考えているとか、
個々の垣根を超えて影響し合うように見える状態は、何ですか?
ああいうものも偶然や錯覚なのでしょうか?
ただ意識だけが在るという悟りの境地からすると現象は全て幻なのでしょうが、
個々が存在してるとする現象レベルにも意識だけが在ることの片鱗や現れが見えるのかなと思ったのですが。
772
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/15(日) 05:10:57 ID:04sFW9n.0
>>743
ご教授ありがとうございました。そのように観察を続けます。
別の質問があります。
他者のために生きなさい、という教えと、自分のやりたいように生きなさい、
という教えがありますが、両立しない場合もあると思います。
例えば、仕事をすれば資本家のためや、納税を通じて社会のためになると思いますが、
自分のやりたいことをやる時間はなくなります。
このような場合、どのような判断基準が正しいといえるのでしょうか?
773
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/15(日) 07:04:18 ID:ydE4b1w.0
身体部位を厭離できた際に想念のエネルギーのようなものが放出することはその身体部位を厭離できたか
どうかに関係ありますか?
身体部位に対する自我の観念(=体への自己同一化の観念)ではない、善悪の観念のような自分を
しばりつけるような類の観念を手放せたとき、その観念にひっついていた感情のエネルギーのようなものが
放出するのを感じる時がよくあるんです。
しかし、身体部位に対する自己同一化の観念を厭離できた際は上記のようなエネルギーの放出が起こるときもあるんですが、ないときの方が多いんです、
身体部位を観察してじっと見つめ続けていたら、気づいたらいつのまにか自分とは思えないような感覚になっていた
とか、そんな感じのケースの方が多いんですが、それって厭離できているんでしょうか?
想念のエネルギーのようなものが放出されないと厭離できた感が薄いんですが、想念エネルギーが放出
される感覚と身体部位に対する自己同一化の観念を厭離できたかどうかには関連性はないんでしょうか?
また、身体部位をじっと見続けていて(この腕がなくなっても私という感覚はあるだろう、したがってこの腕は自分ではない
というような考えるプロセスさえも省いてただ見続けて)ずっとその部位を見てたら気づいていたらどうもその身体部位が自分とは
思えなくなった、というようなぼんやりと薄い手ごたえでもきちんと厭離されているんでしょうか?
774
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/15(日) 07:18:05 ID:ydE4b1w.0
訂正です
× また、身体部位をじっと見続けていて(この腕がなくなっても私という感覚はあるだろう、したがってこの腕は自分ではない
というような考えるプロセスさえも省いてただ見続けて)ずっとその部位を見てたら気づいていたらどうもその身体部位が自分とは
思えなくなった、というようなぼんやりと薄い手ごたえでもきちんと厭離されているんでしょうか?
○ また、身体部位をじっと見続けていて(この腕がなくなっても私という感覚はあるだろう、したがってこの腕は自分ではないというような考えるプロセスさえも省いてただ対象を見続けて)
ずっとその部位を見ていて気づいたらその身体部位が自分、または自分のものであるとは思えない感覚で対象の身体部位を見ていた、というようなぼんやりと薄い手ごたえでも
「それが自分、または自分のものだとは思えない感覚」になればきちんと厭離された、と判断していいのでしょうか?
775
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/15(日) 12:34:27 ID:czRftzgI0
分別と認識についてお聞きします。
鳥の声がしているのに気付いた時、小鳥の声だと思ったなら、どんな小鳥か分からなくても小鳥の声という記憶と照合したことになるから、認識でいいですか?
聞いたことのない鳥の声でなんだろうと思っているときは、分別なのか、それともとりあえず記憶から鳥の声ということがわかっているから認識になるのどちらですか?
と、ここまで書いたら記憶と照合しないで分けることができるのか、分別とは何なのかわからなくなりました。認識との違いは名前や性質などの知識情報がついているかいないかでしょうか。
776
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/15(日) 18:37:19 ID:ydE4b1w.0
鬼和尚、「自分」という観念から生じる根源的な不足感を埋めようとして快楽に
執着したままでも無我に至る観照は起こりえますか?
もし起こらないならどの程度執着心を落とせば観照は起きますか?自分で内観してリストアップ
した限りでも数えきれないくらいの対象に対する個別の執着が見つかったんですが、それら全部ですか?
そうでなければどれくらいの執着を落とせば観照は起こりますか?助けてください。
777
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/15(日) 19:58:26 ID:ydE4b1w.0
ごめんなさい、何度も尋ねてしまって、
非二元の本とかでよく目にする「悟りを求める探求心が落ちない限り悟りはない」
というのは
「悟りを得ようとして観察をしようとする心の働き、言い換えれば悟りへの探求心が止まない限りは鬼和尚のおっしゃる「観照」はおこらない」
という意味ですか?
自分の今の現状が「自分はこの体だ」という思い込みから自分は死に得る存在であるという死の恐怖に震えていて、
解決の道は観照が起こることだとも思っているんですが、観照が起こらない限り肉体が自分であるという観念も落ちず、したがってその観念が生じさせる死の恐怖も存続し続ける、
しかし、探求心が落ちない限り非二元で言われる悟り(鬼和尚のおっしゃる観照)は起きない、しかしどう頑張っても、どう他の色々な要素を手放そうとしても悟りへの探求心が落ちず
それゆえに、自分は今どうすれば、、、と感じているんですが、
そんなこと言ったって、自分のやれることは観察しかもはやないと思っているので観察をつづけているんですが悟りを得ようとするエゴエゴの
探求心を残したまま観照を目指しても観照は起きますか?
778
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2017/10/15(日) 22:28:56 ID:1d4drIFg0
>>769
本心でなければ嘘の心なのじゃ。
嘘を見ても何も起こらないのじゃ。
おぬしの金を二倍にしてやると言って金を預けても嘘ならば二倍にならず金も返ってこないのじゃ。
そのように嘘を信じても損をするばかりなのじゃ。
>>770
わしでなくとも幻なのじゃ。
>>771
全てが観念の世界であれば影響も観念なのじゃ。
そのようなこともあるじゃろう。
しかし人が機械を使い通信しあうのと同じなのじゃ。
囚われれば妨げになるものじゃ。
囚われずに進むのじゃ。
>>772
自分のやりたいことが他者のためにならないならばそれは違うことじゃろう。
しかしそれほど違うことも無いものじゃ。
絵を描きたいとか劇をしたいとかも他者のためになる作を創る事が出来るじゃろう。
そうでなければ誰にも注目される事の無い無名で終わるからのう。
自分のやりたいことで他者のためになる道を探すと善いのじゃ。
>>773
それはエネルギーというより感情的な開放感じゃろう。
今までストレスを与えられる囚われなどを持っていたものが、それを解放したときに感じたりするものじゃ。
身体などの特に囚われのない部位を厭離しても起こらないのは当然なのじゃ。
例えば今まで自分を苦しめてきた観念が要らないものと気付いた時に重荷を下ろしたように感じるのじゃ。
その感覚が無くとも自分と感じなければもはや厭離は出来ているのじゃ。
>>775
そうじゃ、認識できているのじゃ。
何かの鳥の声と言う認識なのじゃ。
知識情報がなくとも類似や推測などが働いているのじゃ。
それも記憶からの分別の一部なのじゃ。
779
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2017/10/15(日) 22:47:05 ID:1d4drIFg0
>>776
それが障害にならないならば起こるじゃろう。
障害になるならば起こらないのじゃ。
悟りを最も求めていたならば何も障害にならないのじゃ。
>>777
それが強い囚われとなり、障害になるならば起こらないのじゃ。
そうでなければ起こるじゃろう。
他人の言葉はあてにはならいなものじゃ。
そうであるから仏陀達はただ道標になるだけなのじゃ。
なにものも信じずただ鬼のように探求し続けるがよいのじゃ。
それがおぬしの道なのじゃ。
それがあっても心身を完全に観察し尽くせば必然的に観照は起こるじゃろう。
780
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/15(日) 22:51:05 ID:Y5LPInQE0
鬼和尚さんは不死の探求の最中に観照が起こったそうですが、不死の探求とはどのような内容だったのでしょうか?
ここで我々に勧めている方法(心身を完全に観察する?)との違いはあるのでしょうか?
781
:
771
:2017/10/16(月) 00:11:58 ID:6WTCjnEc0
>>778
ありがとうございます。
悟った見地からすると全ては観念でどうでもいいことなのでしょうね。
そのレベルからすると、現象のひとつひとつをいちいち取り出してあれこれ言っても何の意味もないことだ、
というのはわかります。
そういう見聞きするひとつひとつの事象を囚われにせず、
修行していくのが大切ですね。
ありがとうございました。
782
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/16(月) 07:45:17 ID:czRftzgI0
>775
未だ両者の違いが理解できたわけではありませんが、現時点ではそんなに厳密に区別する必要はないかなと思っております。
ありがとうございました
783
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/16(月) 08:11:16 ID:ydE4b1w.0
>>779
ありがとうございます。探求心が自然と落ちるためには自分が完成させた観念の資料を見ながら
観念を一通り手放せれば徐々に探求心も落ちていくと思うので、それらを手放す作業をとりあえず
やり抜こうと思います。
観察について質問させてください。
脳みそや心臓、後頭部や背中、顔の形体などの目に見えないところはどう観察すればいいですか?
784
:
541
:2017/10/16(月) 11:37:52 ID:uckpFOu60
全て幻ならば嘘も幻ですよね
785
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2017/10/16(月) 20:25:44 ID:1d4drIFg0
>>780
ただひたすら経典を読み、瞑想していたのじゃ。
全く違うのじゃ。
自分が何をしているのかもわからんかったのじゃ。
経典を読むことが自然に観察に繋がっていたと後で知れたのじゃ。
止観ができる者は幸せなのじゃ。
>>781
そうじゃ、精進あるのみなのじゃ。
またおいでなさい。
>>782
そうじゃ、実践あるのみなのじゃ。
またおいでなさい。
>>783
それらもまた注意を向ければ感覚があるじゃろう。
心臓は動いているとか、触感があるとか熱があるとかわかるものじゃ。
そのような感覚を観察するのじゃ。
それもまた五感のうちであるのじゃ。
>>784
その考えも幻なのじゃ。
786
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/17(火) 05:29:05 ID:ydE4b1w.0
>>785
783です、ということは頭だったり心臓、背中、顔のように目に見えないところの観察は
実際に目に見える状態で観察する必要はなく、その部位がある場所の「感覚」を見て(感じて?)
その感覚にひっついている自己同一化を観察する、そういう理解でいいですか?
また質問なんですが、日常で生活を送っているとエゴからの欲が沸いてくる時が多々あります。
例えば美味しいものが食べたいとか、タバコを吸いたいとか、めんどくさいから風呂に入りたくない、とかの
快楽に対する執着と不快に対しての拒否心です。
それらの欲や執着心が沸いたまさにその時、私は下記のうちのどのような対処を行うべきでしょうか?
①「〜したい、〜したくない」という執着心や拒否感が沸いたとき、その執着心や拒否心を観察によって手放す
②「〜したい、〜したくない」という執着心や拒否感が沸いたとき、その欲に従ってその欲望を満たす行動をする(美味しいものが食べたいなら食べるという行動に移す)
しかし、②の行動を行うと、「自分は今、エゴからの欲を行動に移している、悟りの道とは正反対の方向に向かっている」という感じがして大きな違和感を感じます、
さらに罪悪感も感じます、その罪悪感は「悟りを目指しているものはエゴの差し出す快楽に向かうべきではない」
という観念からのものなのですが、その観念が正しくない、間違っている、とはどうしても思えなくて、したがって
その観念は外れないまま残存しています。
また①の行動を移した場合、それは以前もやったことがあるんですが、沸くたびにこの執着はどこから沸くのだろう
とかその場で色々やって手放そうとして生活できないくらいに身動きが取れなくなり、沸くたびに手放そう手放そう
というのが忙しすぎてほかのことがほとんどできなくなる、最終的にその執着心は弱まるんですが、自分の理解だと
「私」という観念が生じさせる根本的不足感を何とかしないと執着心はそこからまたどんどんとわいてくる、と思うと
「自分の手放そう手放そうとやってることって結局うわずみをすくってるだけだよなぁ」と思えてきます。
それゆえ、別にそういう欲が沸いてもその場では放っておいてもいいんじゃないか?
どっちにしろこれから私が行っていくワークによって「私」という観念が消えれば不足感も消え、それに
伴い欲も消えるのであれば別に今そうした執着心をなんとかしようとしなくてもいいのでは?
とも思っています。
だからと言ってそうした欲が沸いたときに欲望を満たす方向に向かうというのも大きな違和感があり、
「これじゃまずいよなぁ」と思えてしまうので結局のところ自分はその時どうしたらいいんだという
感覚になります。どうしたらいいのでしょうか?
その欲望が沸いたということに気づいたらただそれに気づいていさえすれば美味しいものを食べてもいいんでしょうか?
787
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/17(火) 06:12:27 ID:04sFW9n.0
>>778
ご教授いただきありがとうございました。
同じような質問で恐縮ですが、またお願いいたします。
例えば、一人で穏やかに静かに暮らしたい、という本心があったとします。
周囲はそれを望んでいないとします。
この場合、自分のために、自由に、やりたいように振る舞うべきでしょうか。
それとも本心を抑圧し、周囲の期待に応えるべきなのでしょうか?
788
:
541
:2017/10/17(火) 07:30:41 ID:ixanSuLQ0
>その考えも幻なのじゃ
でもその考えも幻ですね。ループですが。
789
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/17(火) 11:45:43 ID:ydE4b1w.0
鬼和尚、
>>779
のレスの中の
「心身を完全に観察し尽くせば必然的に観照は起こるじゃろう。」という鬼和尚の言葉は
例えば手という一部分を厭離までもっていくことが可能であるなら、体全体を部分的にどんどん
厭離させていけば、最終的には体全体に対する同一化がはがれて、肉体が自分であるという観念も
消える=観照まで自力で持っていける、ということですか?
自分は「自力で悟りを起こすことはできない」、といろんな本に書いてある通りに信じ込んでいたんですが、
自力で体全体を部分的に観察→厭離させれば最終的には観照に至る、ということが可能ということですか?
790
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/17(火) 19:24:25 ID:czRftzgI0
身体の同一化は、肉体を自分だと思うのか肉体を自分の物だと思うのかどちらですか?
791
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/17(火) 19:26:44 ID:DAY232aw0
>>763
>>768
この前はお礼を言い忘れてすいません。
ご回答ありがとうございます。
質問ですが、観察者であれば良いのでしょうか?
792
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/17(火) 19:48:54 ID:czRftzgI0
すいません、これもお願いします
思考の同一化は、思考を自分だと思うのか思考を自分の物だと思うのかどちらですか?
793
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/17(火) 19:54:12 ID:Y5LPInQE0
>>778
鬼和尚さん、ご回答ありがとうございます。
>経典を読むことが自然に観察に繋がっていたと後で知れたのじゃ。
とは、どういう事でしょうか?
経典を読んでいる最中に雑念が浮かんできて、それを観察していた、ということですか?
794
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2017/10/17(火) 22:34:50 ID:1d4drIFg0
>>786
そのような理解でよいのじゃ。
どのような対処も行わなくて善いのじゃ。
観察だけをするのじゃ。
食べなかったならば食べなかったと観察するのじゃ。
食べたならば食べたことを観察するのじゃ。
観念は間違っていないと思うならば観念は間違っていないと思っていると観察するのじゃ。
欲を満たしたならば欲を満たしたと観察するのじゃ。
観察によって何かをしようとも思わなくてよいのじゃ。
ただひたすらに観察してみるのじゃ。
>>787
それはおぬし次第なのじゃ。
自分のしたいようにしたいと思えばそうするのじゃ。
周囲の期待にこたえたいと思うならばそうするのじゃ。
自由なのじゃ。
死と言う限界の在る身で自ら願う道を行くのじゃ。
>>788
その考えも幻なのじゃ。
>>789
そうじゃ、できるじゃろう。
お釈迦様もマハリシも自らの意志で観照を起こしたのじゃ。
死も超える強い意志があれば可能なのじゃ。
そのような意志の無い者は自らを手放す時を待つ以外にないのじゃ。
795
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2017/10/17(火) 22:41:08 ID:1d4drIFg0
>>790
>>792
それはおぬしの認識している通りなのじゃ。
おぬしが肉体を自分だと思っているならばそれが自己同一化なのじゃ。
おぬしが肉体を自分のものと思っているならばそれが自己同一化なのじゃ。
おぬしが思考を自分だと思っているならばそれが自己同一化なのじゃ。
おぬしが思考を自分のものと思っているならばそれが自己同一化なのじゃ。
>>791
そうじゃ、観察者でいるのじゃ。
ただひたすらに観察するのじゃ。
死の恐れも超えて観察できれば悟りも訪れるのじゃ。
>>793
例えば般若心経ならば肉体を空とか読むとおりに肉体は空じゃな、と観想するのじゃ。
そのように読んでいれば経を読むことが自然に修行になるのじゃ。
お釈迦様がいま自分に説いているかのように読んでみるのじゃ。
796
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/18(水) 06:51:20 ID:czRftzgI0
>790
自分がどちらなのかわからなくなりまして、観察してみます
797
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/18(水) 10:53:25 ID:ydE4b1w.0
>>794
786です、二つの質問への回答ありがとうございます。
「食べなかったならば食べなかったと観察するのじゃ。
食べたならば食べたことを観察するのじゃ。
観念は間違っていないと思うならば観念は間違っていないと思っていると観察するのじゃ。
欲を満たしたならば欲を満たしたと観察するのじゃ。」
という文の「観察する」とは、その原因を分析したり、思考を挟んだりせずただその行為や思いに気付いていること。
という意味で置き換えて理解していいですか?
すなわち
欲を満たしたならば欲を満たしたと(その原因を分析したり、思考を挟んだりせず)ただその行為や思いに気付いていること
観念は間違っていないと思うならば観念は間違っていないと思っていると(その原因を分析したり、思考を挟んだりせず)ただその思いに気付いていること
というような意味で「観察する」という言葉を理解していいですか?
そして、障害になりえるエゴのパターンに阻まれた際はただ気づくだけではなく、しっかり原因を分析し、突き詰めていってそれを解放し、それ以外の時は
自分の一挙手一投足を分析も何もせずにただ気づいている状態でいる(=観察する、ただ気づく)ということでいいでしょうか?
798
:
541
:2017/10/18(水) 18:41:38 ID:mmf5Fyts0
鬼和尚。その考えも幻ですよ。
799
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2017/10/18(水) 21:47:39 ID:1d4drIFg0
>>796
そうじゃ、実践あるのみなのじゃ。
またおいでなさい。
>>797
そのような理解でよいのじゃ。
注意深く気付いているようにするのじゃ。
どのような特徴も見逃さないように観るのじゃ。
そうすれば気付くことも多くなるのじゃ。
障害になりえる苦には原因を探すと善いのじゃ。
それから自分を追及するのもよいのじゃ。
障害になりえるものへの強い囚われが自分というものの認識を強くしている場合も多いからのう。
>>798
その考えも幻なのじゃ。
昔のインド人はそのようにループになりえる考えはそれ自体が矛盾しているゆえに成り立たないと考えたのじゃ。
800
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/18(水) 22:53:48 ID:WybGUs/o0
>>799
インドの話、納得しました。
さすが和尚ですね。
鬼和尚、最近ハートの辺りがモヤモヤと苦しいです。
以前は観察でこのモヤモヤが開放される感覚があったのですが、最近どうもうまく行かない。
これは最近慣れない環境に生活が変わり、自我を強烈に感じているからかもしれません。
鬼和尚のように悟るとこのハートのモヤモヤは無くなるものなのでしょうか。
またこれを無くすには、やはり観察なのでしょうか。
801
:
541
:2017/10/19(木) 04:07:42 ID:o7TfOr0I0
鬼和尚。では、全てを幻だとする鬼和尚の考えは成り立ってないではありませんか。
802
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/19(木) 05:39:22 ID:04sFW9n.0
>>794
ご教授ありがとうございました。
確かに私は自由のようです。本心を偽らずに行動したいと思います。
問題は、私の場合、それが本当に本心なのか確信が得られず、
時間ばかりが経過してしまうことのようです。
803
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/19(木) 20:28:01 ID:ydE4b1w.0
>>799
ご回答ありがとうございました。
804
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2017/10/19(木) 21:10:48 ID:1d4drIFg0
>>800
無くなるじゃろう。
そうじゃ、観察してそれが何か見極めるのじゃ。
そうすれば消えるじゃろう。
実践あるのみなのじゃ。
>>801
その考えも成り立っていないのじゃ。
>>802
そのように迷うのはどちらも自分のやりたいことだからなのじゃ。
周囲の期待にこたえたいのもやりたいことなのじゃ。
むしろ何がやりたくないことなのか観察して見極めたらよいのじゃ。
その反対が本当にやりたいことなのじゃ。
>>803
どういたしまして、またおいでなさい。
805
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/19(木) 23:38:20 ID:DAY232aw0
>>795
ご回答ありがとうございます。
質問ですが、自我を滅するとは自分を滅するという事なのでしょうか?
806
:
蓮恵
:2017/10/19(木) 23:54:00 ID:ETmMy/0M0
鬼和尚さま
瞑想の研究が効を奏して、条件によりますが日常においても、雑念の起きない妙な時間が起きるようになりました。
少しだけですが、上のような力を得たようです。
この力なら、この力だけが真に人を救えるのでは、密かに愚考しています。
807
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/20(金) 00:26:39 ID:Wz03wK1Y0
>>804
鬼和尚、
ハートのモヤモヤが起こるようになり、より悟りたいという気持ちが大きくなりました。
観察を続けてみようと思います。
ありがとうございました。
808
:
541
:2017/10/20(金) 04:47:53 ID:o7TfOr0I0
全て幻であるならば、真実は「全て幻である」ではありませんか?それともただの方便です?
809
:
541
:2017/10/20(金) 04:58:43 ID:o7TfOr0I0
鬼和尚。この娑婆世界は観念で成り立っています。例えば、「一万円札が落ちている」とか「田中さんが山で熊に教われた」と言う出来事すら、ある意味では虚構です。
そして、それらの虚構が生まれる原因の大部分は「私は人間である」と言う観念です。
我々は無意識に人間らしく世界を解釈しています。存在を一万円札とか熊とか山とか田中さんと解釈しますね。
私は人間であると言う観念を捨てるならば、そこにあるのは存在です。
マハリシ等が言うように、私は存在すると言う観念すら捨てるならば、あらゆる存在を成立させる無の境地に至るでしょう。
810
:
541
:2017/10/20(金) 05:14:42 ID:o7TfOr0I0
人間と言う観念世界は人間と言う喜びをもたらしますが、苦しみももたらします。
現代人が無意識に取り込んでいる人間と言う観念は高々200年から300年前に西洋で生まれた人間概念に影響されています。その人間概念の特徴としては、独立性、自由性、完全性等が上げられますが、これらは元々西洋人が抱く神の属性であり、その自己投影でした。それゆえに、老いて、病んで、運命に翻弄されて死ぬと言う目の前の自然現象としての人間の現実に基本的に我慢がなら無い面がある。その事が文明の発展をもたらした面もあるでしょうが、第一次大戦や第二次大戦のような、情け容赦の無い神々の戦いをもたらした面もあるでしょう。
811
:
541
:2017/10/20(金) 05:20:34 ID:o7TfOr0I0
また、世界から切り離されて存在する人間と言うイメージは、そう信じる者に根源的な不安感や孤独感をもたらします。人間が酒を飲んで憂さ晴らししたり、ひたすら集団に同調したりするのは、この観念がもたらす根源的な不安感や孤独感に起因するように思います。
812
:
541
:2017/10/20(金) 05:36:47 ID:o7TfOr0I0
さて、我々は、このような人間観念を前提とした観念世界を生きている。自己の無謬性を信じるならば対立する他者を片っ端から葬り去らねばならない。それと同時に、人間には所詮人間みたいな卑小なイメージも持っているわけで、我々の生活の喜怒哀楽は、この自己イメージと言う私小説をあらゆる機会に読み上げているだけとも言えるでしょう。人間の人生の起伏は人間と言うイメージの起伏に過ぎない。人間としての喜びも悲しみも、自己演出して自分で勝手に苦しんだり喜んだり怒ったりしているわけです。
813
:
541
:2017/10/20(金) 05:42:24 ID:o7TfOr0I0
勿論、このような私の分析も観念でありましょう。
これは人間が生きる世界を解体する為の観念です。根本的な世界観を解体してしまえば、もはや一万円と千円札の違いもなく、それが失われることも得られることも無いでしょう。
814
:
541
:2017/10/20(金) 09:49:52 ID:o7TfOr0I0
現代の虚構性、価値観の中でその虚構の価値をもって虚構に対するのはその価値を強める事になってしまう。
例えば、「鬼和尚くん。残業頼むよ」と言われたとき、現代人は「ちょっと妻の体調が」とか「子供が風邪を引いて」と言った断り方でないと角がたつ。それは現代の価値観を利用して、或いは逆手にとって、構造上否定できない上司の命令をひっくり返した訳だ。例えば、鬼和尚は、大地震が起きたとき「別に大したことではないのじゃ」と言った。「人が無数に死のうと富士山が噴火しようとなにも起きていないから、淡々と座れば良いのじゃ」みたいなニュアンスの発言もあったと思う。本当の本質的な救済とはそう言うことであろうと思う。
自然災害で死んだ人は返ってこないし壊れた家も元通りではない。
だから、それが「何でもないこと」でなければ、本当の意味での救済は無いのである。
ヒューマニズムの観点から人を救うことは悪いことではないが、いきすぎると、無限に国の責任が問われたり、目の前の人間を助けられなかった事で己を苛む。
これらのことが本当の意味で解決すると言うことは「元々なにも起きていなかったのだ」と言う基盤に立たなくてはならない。
その基盤に立ったとき、人々は真の意味で許し合い、助け合い、悼みあうことができる。
人間と言う枠組みではなく、無と言う共通基盤に立ったときに、それは可能となる。
この掲示板で修業をしている人達はまさに、人間と言う枠組みを捨てて、無の境地に立とうとしている。そしてそれはこの掲示板を越えて、まだ少ないが、沸き上がりつつある運動だと思う。
だから、頼むぞ、君達が目覚めた分、私の修業も進むし、世の中が明るくなるだろう
815
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/20(金) 18:13:34 ID:ydE4b1w.0
仏陀は菩提樹のもとに至る前、苦行をしていたと言われている期間は鬼和尚の言う「観察」
は行っていたんでしょうか?
また、菩提樹の下に来て、悟りを得るまでここを動かない、と言っておよそ一週間の間その菩提樹の下
にいた間(他所から聞いた話です、しかもうろ覚えなので間違ってたらすいません)は鬼和尚の言う「観察」を常に行っていたんでしょうか?
それとも悟りを得る直前しか「観察」を行わなかった、と思われますか?
816
:
541
:2017/10/20(金) 18:51:57 ID:o7TfOr0I0
鬼和尚。良寛さんは悟っていたんですかね。
イメージですが、人間関係のいざこざやもつれなどを、ニコニコ笑いおどけながら「無」に帰させ、解消させてしまうような力のあるイメージです。
法然とか日蓮や弘法大師のような生真面目で威厳がありすぎるタイプとは正反対ですが「現実」生活の中では良寛的な柔和さの方が威力を発揮するような気がします。
たとえ、悟りのレベルは低くても、問題解決能力は高い。
それとも、悟りのレベルが高まれば、おのずと、問題解決能力も高まるものでしょうか?
817
:
541
:2017/10/20(金) 18:57:40 ID:o7TfOr0I0
バッと相手の懐に入ってしまって、場や集団の雰囲気を変えてしまう。
そのような存在になりたい訳です。
と言うのも、ちょっと交渉ごとがあって、私は割と胆力はあるので、相手の理屈を粉砕しようかと思ったのですが
それだと、相手をやっつけたとしても、非常に恨みを残すことになる。
という訳で、柔軟路線に変更しようと思うのです。
818
:
541
:2017/10/20(金) 19:04:27 ID:o7TfOr0I0
不思議なものです。強硬路線で、集団のリーダー2、3人を粉砕する論理を探っていたのですが、
観念的に論破できてしまえると(勝てるとわかっていると)知った時点で、「だったら柔軟路線でも良いな」と戦略が大いに転換してしまった。
戦略が転換すると、存在の性質も変る。元々観念の相手を恐れ、観念の相手に備えている訳ですからね。思考と言うものは面白いものです。
思考によって生み出された「敵」が思考によって「味方」に転じることもある訳です。
しかし、もし、思考を書いていたら、敵から味方と言う弁証法的展開は無い。
この世は思考によって作られており、だからこそ、それを思考によって変えられるのかもしれません。
もっとも、このレベルの思考になると、思考と言うよりは瞑想に近いものになっていますが
819
:
541
:2017/10/20(金) 19:05:33 ID:o7TfOr0I0
↑ ×思考を書いていたら←○思考を欠いていたら
820
:
541
:2017/10/20(金) 20:55:43 ID:RnFr4kXY0
柔軟路線が行けるなと思ったとたん、柔軟ろせんというか、別に交渉する必要性すら感じなくなってしまったw
存在が無に転じた瞬間である。
821
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2017/10/20(金) 21:37:30 ID:1d4drIFg0
>>805
自分は滅しないのじゃ。
ないものは滅することもないのじゃ。
それを観察してみるのじゃ。
>>806
善かったのじゃ。
そのような時に自分を観察してみるのじゃ。
気付くこともあるじゃろう。
>>807
そうじゃ、精進あるのみなのじゃ。
またおいでなさい。
>>808
その考えも幻なのじゃ。
>>815
苦行をしている間はしていなかったのじゃ。
七日間瞑想している時に時々できていたじゃろう。
悟りを得る寸前に完全に観察したのじゃ。
>>816
悟っていたじゃろう。
次はおぬしの番なのじゃ。
精進あるのみなのじゃ。
822
:
541
:2017/10/20(金) 21:41:24 ID:RnFr4kXY0
ええ?以前聞いたら、悟って無いのじゃと言ってたぞ。鬼和尚、てきとー過ぎ(笑)!
823
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/20(金) 23:37:01 ID:DAY232aw0
>>821
ご回答ありがとうございます。
質問ですが、自分を厭離して、認識を厭離するのが悟りなのでしょうか?
824
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/21(土) 05:38:44 ID:6RllZ6Zk0
>>804
ご教授ありがとうございました。そのように観察してみます。
ところで、相手をやっつけると結局は自分がやっつけられることになると聞いています。
しかし、それを知っていても、相手をやっつけたくなります。
そして実際やっつけてみると、やはり気分がすっきりします。結果については夢想だにしません。
このような衝動は、本当に自分がやりたいからやっていることなのでしょうか?
825
:
香雪
:2017/10/21(土) 19:00:55 ID:V.gQOPRg0
鬼和尚様 こんばんは。
お久しぶりでございます。ご質問させていただきたいのですが。
無我とは自我が、自分を示す言葉とイメージがなくなっただけの状態で、
間違った認識による記憶との照合、そこから起こる自他を区別する分別、
記憶から起こる思考とイメージ、観念による身体の作用、感情的な反応、
などの自我を自分と思い続けている状態の時とそれほど変わらないのですか?
無我とは単に自己同一化が解消されただけの状態なのでしょうか?
よろしくお願いいたします。
826
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/21(土) 19:09:35 ID:DAY232aw0
連投すいません。
質問ですが、観察している時は、思考は使わないのでしょうか?
827
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2017/10/21(土) 20:16:29 ID:1d4drIFg0
>>822
おぬしに自分で判断させるためなのじゃ。
それも幻なのじゃ。
>>823
自分はないから厭離できないのじゃ。
認識は厭離されるじゃろう。
それが出来れば大悟徹底なのじゃ。
先ずは自我を厭離するのじゃ。
>>824
それも親などからの条件付けからくるものじゃ。
やられたらやりかえせとか教えられるとそのように感じるのじゃ。
それも自分がやりたいからではなく、そうすれば親から褒められると言う記憶からのものなのじゃ。
やらないと親から責められるという感情から解放されるのじゃ。
本心を観察してみるのじゃ。
>>825
記憶との照合は在るのじゃ。
その他はかなり変るのじゃ。
全てが自分に見えたりするのじゃ。
身体は自然に動くのじゃ。
感情もかなり変るのじゃ。
自分を侮辱されたからと怒ったりしないのじゃ。
もはや自分はないと気付いているからのう。
828
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2017/10/21(土) 20:18:12 ID:1d4drIFg0
>>826
本当は思考を使わないで行うべきなのじゃ。
しかし思考が起こってしまっても失敗とか思わないでよいのじゃ。
思考したときは思考したと観察すればよいのじゃ。
実践あるのみなのじゃ。
829
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/21(土) 21:22:29 ID:DAY232aw0
>>827
>>828
ご回答ありがとうございます。
質問ですが、思考を使わずに観察すれば良いと言う事なのでしょうか?
もう一つ質問申し訳無いのですが、自我を滅して、認識を滅するのが悟りなのでしょうか?それとも自我を厭離して、認識を厭離するのが悟りなのでしょうか?
830
:
香雪
:2017/10/21(土) 21:29:51 ID:V.gQOPRg0
鬼和尚様 ありがとうございました!
やっぱり苦滅ともかなり大きな違いがあるんですね。
改めて無我を目指していこうと思います。
また何か聞きたくなったらお邪魔しますので、よろしくお願いします。
失礼します。
831
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/21(土) 23:16:04 ID:ydE4b1w.0
815です、
そうですか、しかし七日間しか観察していなかったかもしれないのにあそこまで仏教
の教えというか理論体系を築き上げたのってすごいですよね、釈迦は悟った後に色々考えて
そういう細かい数々の概念を作っていったんでしょうか?
108の煩悩の区別とかも釈迦が考えたんでしょうかね、そうだとしたらよく七日間しか観察
してないかもしれないのに考え付いたな、と感心します。
832
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/22(日) 04:22:02 ID:DAY232aw0
連投すいません。
質問ですが、なるようにしかならないのでしょうか?
833
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/22(日) 04:51:06 ID:DAY232aw0
>>832
追記です。
お釈迦様の言葉で
思いわずらうな。
なるようにしかならんから、
今をせつに生きよ。
と書かれてあったのですが、本当なのでしょうか?
834
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/22(日) 12:36:55 ID:czRftzgI0
阿部敏郎のブログから
多くの人が勘違いしていることの中に「修行」があります。
修業とは、いまよりもっと上等な自分になるためとか、悟るためとか、何かになるために行うことだと思っているのです。これは人のマインド(自我)が時間の中に存在しているから起きる発想です。
しかし実際には時間は存在せず、ただいつも「いま」だけが展開しています。その「いま」を生きる態度を「修行」と呼ぶのです。
マインド(自我)の引力は強力で、うっかりするとすぐに頭の中の物語に吸いこまれてしまいます。いつも頭の中を生きている人には、このことさえもピンときません。思考が湧いたときに、それを思考だと見抜き、思考が作りだす物語に埋没することなく、いまここを生きることを「修行」と言うのです。
したがって幾多の禅師が言うように、修行そのものが悟りなのです。
修行そのものが悟りというのは本当ですか?
835
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/22(日) 16:22:27 ID:Y5LPInQE0
鬼和尚さん
本心を見れば何が起こるのでしょうか?
836
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/22(日) 16:28:46 ID:Y5LPInQE0
>>795
ご回答ありがとうございました
肉体が空ということのイメージがよく掴めないのですが
空とはどういうことなのでしょうか?
科学で言うところの原子核の周りを電子が回っていて
肉体としてあるように見えている物は、実はほとんどがスカスカの
空間だとかそういう話でしょうか?
837
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2017/10/22(日) 19:52:24 ID:1d4drIFg0
>>829
そうじゃ、思考を使わない観察が理想的なのじゃ。
自我も認識も厭離すれば滅するじゃろう。
もはや自己同一化がなくなるからのう。
実践によって確めるのじゃ。
>>830
どういたしまして、またおいでなさい。
>>831
そうじゃ、悟った後にさまざまな法や戒や律を作っていったのじゃ。
何も考えていなかった悟った直後の説法は失敗したりしているのじゃ。
煩悩は三毒だけなのじゃ。
増えたのは後の者が付け足していったからなのじゃ。
>>832
>>833
そのようなことはないのじゃ。
お釈迦様は常に修業に励むようにと説いたのじゃ。
ダンマパダにも励むようにと言葉が遺されているのじゃ。
>>834
嘘なのじゃ。
悟りが何か知らない者がそのように書くのじゃ。
修業と悟りが違うのは登山することと山の頂上とが違うようなものじゃ。
登山すれば頂上にも至れるが、登山そのものを頂上とは言わないのじゃ。
修業も日々続ければ悟りに至れるが、修業そのものは悟りではないのじゃ。
このような明白な違いがあるのじゃ。
838
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2017/10/22(日) 19:57:17 ID:1d4drIFg0
>>835
変容が起こるじゃろう。
真の変容は常に何らかの形で自己の本心を観ることで起こるものじゃ。
師匠とか他人の指摘で本心がわかることもあるがそれも自ら本心を観ているのじゃ。
実践あるのみなのじゃ。
>>836
ただ無いと言うことなのじゃ。
そのようにイメージすることなのじゃ。
原子とかは関係ないのじゃ。
肉体も食べることとか水を飲み空気を吸うという条件にょってあるものじゃ。
条件が無ければ直ぐに消えるものじゃ。
或いは時とともに衰えて消えたり、事故とか病でもなくなる性質のものじゃ。
そのように幻と同然と観想することで肉体への執着と自己同一化を無くす方法なのじゃ。
839
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/22(日) 20:23:27 ID:czRftzgI0
>834
はっきり嘘と言い切るところが和尚さんらしい。やっぱり悟りは必要ということですね。
840
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/22(日) 20:29:08 ID:czRftzgI0
>834
と思ったら、彼のいう悟りの説明がありました。
そもそも悟っている人など誰もいないのですから。逆の言い方をすれば、全ての人は最初から悟っています。
その人が内側から消えた時、そこに悟りがあります。
悟りとは、個人の精神レベルのことではないのです。個人という錯覚が消えた時、もともとあったありのままのリアリティーを悟りと言います。
引用元
http://abetoshiro.jp/archives/4497230.html
これは合っているでしょうか?
841
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/22(日) 23:12:00 ID:uhL2Zu5U0
鬼和尚、
私は意識に思考が起こり、五感が起こると観察しました。
それらを連結させて私と言う自我が幽霊のように立ち上っている。
この意識に気づいたことが悟りであるとしばらく思っていましたが、鬼和尚の心の模式図を見ていて、この意識は阿頼耶識なのではないかと考えました。
そこで質問なのですが、
この意識上で、記憶との照合である認識作用が起きている様を観察すれば良いのでしょうか。
842
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/23(月) 14:00:07 ID:ZcjPAbko0
少し内容がわかりづらかったかもしれません。
阿頼耶識というスクリーンみたいな意識に私を生起させていると言いましょうか…。
そして生起させている原因は五感と思考による刺激である、と感じます。
この先に進むには、この阿頼耶識を「これが阿頼耶識である」とレッテル付けしている作用に気づくことかなと思いました。
いかがでしょうか。
843
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/23(月) 16:13:43 ID:ydE4b1w.0
>>837
ありがとうございました。
844
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/23(月) 20:29:46 ID:Y5LPInQE0
>>838
ご回答ありがとうございます。
どういった場合、本心を見る事は有益なのでしょうか?
例えば、修行なんてやらないでナンパでもしたいけれど、
修行やらなければならない気がしてナンパやっていても
何か罪悪感を感じ気が引けるというような場合、本心を見れば、
ナンパに打ち込めるようになったりするのでしょうか?
空の観想、やってみようと思います。
845
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2017/10/23(月) 22:19:28 ID:1d4drIFg0
>>839
そうじゃ、悟りなくしては老病死の苦を滅することも出来ないのじゃ。
観念遊戯に陥る事無く修行するのじゃ。
実践あるのみなのじゃ。
>>840
悟っているものがいないのに全ての人が悟っているとは一体どういうことじゃ?
全ての人が悟っているならば悟っている人が誰もいないというのはおかしいのじゃ。
そのような完全に狂った論理を受け容れる側もおかしいのじゃ。
奇を衒ったことを言えばよいというものではないのじゃ。
個人が消えただけでは小悟なのじゃ。
そこまで至っていない者が観念によって考えた幻想なのじゃ。
>>841
>>842
それはまだ自我が完全に観えていないのじゃ。
自我が完全に観られれば無我になるのじゃ。
阿頼耶識が観られるのはそれからなのじゃ。
自我を完全に観察するのを目標にするのじゃ。
>>843
どういたしまして、またおいでなさい。
>>844
おぬしがこれから生きる上で全てにおいて有益なのじゃ。
行き先がわからない者がどこにも行けないように、自分の本心がわからなければどこにもいけないのじゃ。
ナンパがしたいというのが本心ならばナンパをすればよいのじゃ。
罪悪感があるならば本当はナンパなどしたくないということなのじゃ。
そのように本心がわかれば自分の本当にしたいことがわかるのじゃ。
それがなくてはどこにもいけないのじゃ。
実践あるのみなのじゃ。
846
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/24(火) 04:10:49 ID:ZcjPAbko0
鬼和尚、
「肉体も思考も私ではなく、私はこの意識である」などと悟ったつもりでいる者、「この意識が本質であり私個人はいない」と記憶を基に認識している者こそが自我であると観察したのですが、自我はもっと気づきにくいものなのでしょうか。
それとも灯台もと暗しのように近すぎて気づいていないのでしょうか。
847
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/24(火) 06:14:05 ID:6RllZ6Zk0
>>827
ご教授ありがとうございました。本心が観察できるように努力します。
別の質問なのですが、私は他人がくちゃくちゃ音を立てて食べていると苦を感じます。
その原因は親からそのような行為を強く戒められたからだ、と知っています。
しかし苦はなくなりません。
なぜなのでしょうか?
親からそのような指導がなければ苦が生じない、
ということを観察できていないからでしょうか?
848
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/24(火) 18:24:29 ID:czRftzgI0
>840
もうこの人のブログは読まないようにします
849
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2017/10/24(火) 23:12:36 ID:1d4drIFg0
>>846
そのように言葉に出来るようなもならば未だ気付いていないのじゃ。
いま自分の名前を呼ばれればおぬしはそれは自分だと認識するじゃろう。
そのよう名前と姿かたちのイメージを持つものが自我なのじゃ。
それを観察してみるのじゃ。
>>847
完全に観察していないからなのじゃ。
それは両親に対しての怒りを投射しているのかもしれん。
自分は怒られたのになぜ今の他人は怒られないのかと思うからかもしれん。
そのような真の原因をもっと詳しく観察してみるのじゃ。
>>848
そうじゃ、読まなくて善いのじゃ。
真の目覚めた者は常に自分の心を観るようにと勧めているのじゃ。
ただ知識を押し付けているのは目覚めていない者なのじゃ。
おぬしも心を観ればそこに真の悟りを見出すじゃろう。
850
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/25(水) 00:14:09 ID:v0wSFOKY0
>>849
鬼和尚、何度もありがとうございます。
今この瞬間をあるがままに観てみます。
あえて言葉にすると、映像と背中の圧迫感と手の感覚だけがあります。
そこをイメージで補完し、「横になってスマホを見ている私」になります。
鬼和尚のおっしゃる自我とはこのイメージとは違うのでしょうか?
851
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/25(水) 00:22:25 ID:v0wSFOKY0
もちろん映像と背中の圧迫感と手の感覚というのも過去との照合でそのように認識したものだと思います。
これらすべての認識が外れたところに悟りがあるのかなと思っていますが、どうなのでしょうか。
852
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/25(水) 07:29:39 ID:DAY232aw0
>>837
ご回答ありがとうございます。
厭離に対して質問ですが、完全に観察すれば厭離は起こるのでしょうか?
853
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/25(水) 12:27:32 ID:DAY232aw0
>>852
スルーした下さい。すいません。
質問ですが、観察に思考は必要無いのでしょうか?
854
:
進路探訪者
:2017/10/25(水) 19:58:06 ID:DIiPmWc60
鬼和尚さんご無沙汰しております。
ひょっとしたら悟りの入り口に立てたかもしれません。
最近、自分は煮ても焼いても自分であることに気づきました。
物心つく前の自分の顔や動きを思い出せば、そのころの自分の感覚を
思い出しました。そして、その感覚を通して、自分はその頃から今まで
全く変わっていないことにも気づきました。その感覚は物心つく前だから
周りの目なんて存在しないし関係ありません。単に生物的に生まれて成長
してそのような感覚を持つに至ったという事実があるだけにすぎません。
変わったとすると学校や社会で勉強や仕事を通じて能力が図られ、それにより
能力のある自分という理想像が生まれ、そのギャップに苦しんでいる点です。
しかし、自分は良い悪い関係なく絶対的な存在です。
物心つく前の自分が根源であるとすれば、それが過不足なく自分の全てであり、
それが全てであるから当然理想像とのギャップといった悩みもまたありません。
今までの自分は周りの目を気にしていましたが、それは自分の頭にあった理想像
が壊されたときに、自分の中で起きた喪失感にすぎず、それは私が自分の理想像
を自分であると思い込んでいた自我が感じている感情にすぎません。したがって、
自我以外の私にとってはそのような喪失感は無縁で、理想像という学校や社会が
生み出した幻想に、根源的に存在する子供のころの感覚が囚われることも当然
ありません。
恋愛、友人や家族兄弟などの人間関係についての悩みも、根源的には存在しないものであり、
自分の根源を思えばどうでもよくなりました。
また、前世は見えませんが、もしあるのであると仮定すれば、私の前世はADHDや
ダウン症なんだろうなと何となく直感しました。
私は悟ったのでしょうか?
855
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2017/10/25(水) 21:27:19 ID:1d4drIFg0
>>850
>>851
違うのじゃ。
感覚だけを観察するのじゃ。
ただひたすらに観察し続けるのじゃ。
>>853
必要ないのじゃ。
思考は無くても観察できるのじゃ。
実践あるのみなのじゃ。
>>854
まだなのじゃ。
その自分がどのようなものであるのか観察するのじゃ。
完全に観察できれば厭離が起こるのじゃ。
実践あるのみなのじゃ。
856
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/25(水) 21:42:14 ID:v0wSFOKY0
>>855
鬼和尚、ご回答ありがとうございます。
感覚だけをただひたすら観察すると、鬼和尚の仰る自我が見えてくると言うことでしょうか?
何度も質問してしまい申し訳ございません。
857
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/26(木) 00:07:53 ID:DAY232aw0
>>855
ご回答ありがとうございます。
質問ですが、観察は目的ではなく手段なのでしょうか?
858
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/26(木) 06:47:19 ID:DAY232aw0
>>857
スルーした下さい。すいませんでした。
859
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/26(木) 13:08:59 ID:fuOAkotI0
鬼和尚、
主体の観察についてお教えください。
自我の観察のうち、主体が現れた後で自分が思考しているイメージが現れるところまでは観えるようになってきました。しかし、主体はイメージというより、「自分が行なっている」というリアルな実感として現れていて、それがイメージだとは思えません。
むしろ自我が投射されていない場合のほうが、遠くで勝手に起こっていてリアリティを感じられないという状況です。
実感を伴うことが本当のことだと認識しているようですが、その認識には介入せず、ただ主体をより詳しく観察し続ければよいのでしょうか?
あと、詳しく観察しようとすると集中のために心身に緊張が生じます。一方でリラックスして全体を眺めるようにすると、詳細を見落としているように思います。観察に習熟すれば、全体を詳しく観察できるようになるのでしょうか?
860
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2017/10/26(木) 21:19:59 ID:1d4drIFg0
>>856
感覚を観察するならば感覚だけを観察するのじゃ。
それによって自我の起こることも気付くのじゃ。
そこに自我がある筈だとか思っていると観念を観てしまうのじゃ。
観念は自らの思うとおりに働くのであるからのう。
観たいと思うものを作り出し、観てしまうのじゃ。
それによって観念遊戯に陥ってしまうのじゃ。
ただひたすらに今ここにあるものにのみ集中し、観察していると本当に自我か起こることも見える瞬間がやってくるのじゃ。
実践あるのみなのじゃ。
>>857
そうじゃ、悟りを得る手段なのじゃ。
修行はみんなそうなのじゃ。
悟った後には衆生を導く手段になるのじゃ。
>>859
そうじゃ、どんどん観察すると善いのじゃ。
悟りも向こうからやってくるじゃろう。
慣れれば上手くできるようになるじゃろう。
精進あるのみなのじゃ。
861
:
進路探訪者
:2017/10/27(金) 00:26:30 ID:DIiPmWc60
>>855
ご返信ありがとうございます。
私は、自分の子供のころを思い出すときは、自分が小学1年であった
ときのころをイメージしております。
そのときの感覚が一番思い出しやすく、その時の感覚をつかむのが容易
であるからです。
しかし、物心つく前の記憶については難しいです。
小学一年の物心ついたころの感覚をつかみ取るのでよいのでしょうか。
862
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/27(金) 03:21:21 ID:v0wSFOKY0
>>860
鬼和尚、再度ご回答頂きありがとうございます。
見たいものを見てしまう観念遊戯に陥るとは今までも身に覚えがあり、深く納得しました。
心を横に置き、今ここにあるものそのままを観察することが大事なのですね。
糸口が掴めたように思います。
実践してみます!
863
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/27(金) 06:31:48 ID:DAY232aw0
>>860
ご回答どうもありがとうございます。
質問ですが、無意識の観察ができる様になれば良いのでしょうか?
864
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/27(金) 19:15:20 ID:LC3de7YgO
鬼和尚の仏教勉強会 悟りの真実 2 [自己啓発]
長文連騰でつぶしてしまったであります。
ごめんなさい。
明日、新規に建てるでありますが、長文にならないように気を付けるであります。
γ⌒:"-ヽ〟
(∪( )
∪∪∨-∨
865
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/27(金) 19:59:30 ID:VrFZalN.0
鬼和尚、
再度ご質問なのですが、観察の際に「注意」「焦点」があると思います。
「椅子に座りつつも注意を足に向ける」などの注意です。
足に注意を向けると、足のイメージが湧きます。
また私というイメージから、足への注意の矢印のようなイメージと、距離感のイメージが湧きます。
それらはイメージにより認識したからそのように感じたのだと思います。
イメージはイメージとして横に置き、今ここで起こっていること素直にそのまま観ることが観察でしょうか?
866
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2017/10/27(金) 22:38:29 ID:1d4drIFg0
>>861
それによって起こる今の感覚を観察するならば善いじゃろう。
今ここにあるものごとを観察するのじゃ。
記憶を観てしまってはいかんのじゃ。
それは既に無いものであるからのう。
気をつけて進むのじゃ。
>>862
そうじゃ、精進あるのみなのじゃ。
またおいでなさい。
>>863
そうじゃ、日々続けていればできるようになるじゃろう。
毎日の修行ができないこともできるようにしてくれるのじゃ。
実践在るのみなのじゃ。
>>862
ゆるすのじゃ。
どんどんやるとよいのじゃ。
>>865
それもまたイメージがわいたと観察してよいのじゃ。
横に置いたりしなくてよいのじゃ。
心の働きを全て余さずありのままに観るのじゃ。
なにも操作せずありのままに観察を続けるのじゃ。
それを続けていれば更に深く観察できるようになるのじゃ。
実践あるのみなのじゃ。
867
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/28(土) 08:04:48 ID:DAY232aw0
>>866
ご回答ありがとうございます。
質問ですが、悟りを得る事が目的なのでしょうか?それとも死を超える事が目的なのでしょうか?
868
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/28(土) 11:50:17 ID:czRftzgI0
誰かがおしゃべりをしているのを聞いた時、はじめは聞き流していたのに、「あ、自分のこと!」ど話の内容が自分の悪口だと知ったとします。その瞬間嫌な感情が起きます。
この場合、はじめは自我はなくて「自分のこと!」と気付いた瞬間に起きるのが自我でしょうか?
とすると、自分の何かの事柄の記憶と聞いた言葉を照合したとき自我が生じていることになります。
869
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/28(土) 19:51:29 ID:WRAz50E60
>>866
鬼和尚、度々ありがとうございます。
とにかく見に起こる現象全てを観察し尽くすのですね。
やってみようと思います。
870
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/28(土) 19:52:55 ID:WRAz50E60
身に起こるの間違いです。
失礼しました。
871
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2017/10/28(土) 22:01:51 ID:1d4drIFg0
>>867
それはおぬし自身が決める事なのじゃ。
おぬしは死を超えたいと思うのじゃろうか?
それともなにやらすごい悟りというものがあるらしいから得たいと思うのじゃろうか?
自らの本心が求めるままに道を進むのじゃ。
>>868
それは既に自我は起こっているのじゃ。
自分の名に反応しただけなのじゃ。
忘我の状態から名に反応して自我が起こることもあるじゃろう。
そのような時こそ自我が起こる事を観察する好機といえるじゃろう。
>>869
そうじゃ、精進あるのみなのじゃ。
またおいでなさい。
872
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/29(日) 06:20:37 ID:czRftzgI0
対象を認識している時点で既に自我があるということですか?
自分の名に反応したのではなく、過去に自分のやったことで思い当たることが話しの中に出てきたのです。
873
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/29(日) 10:05:58 ID:DAY232aw0
>>871
ご回答ありがとうございます。
質問ですが、自分の本心が求めるままに目的を決めたら良いと言う事なのでしょうか?
もう一つ質問申し訳無いのですが、悟りを得れば、苦は全て滅するのでしょうか?
874
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/29(日) 10:43:25 ID:DAY232aw0
連投すいません。
質問ですが、自分の本心が求めるままに道を進めば、何の目的も無くても悟りは得れるものなのでしょうか?
875
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/29(日) 13:43:42 ID:DAY232aw0
>>874
追加です。
質問ですが、自分の本心が求めるままに道を進むと仰ってますが、心の主人にならなくてもいいのでしょうか?
876
:
蓮恵
:2017/10/29(日) 17:23:32 ID:QZjWADYU0
鬼和尚さま
力の抜き方が下手で、どうしても姿勢が定まりません
前後に倒れます
方法的には、力みで体を固定せず重心が不安定なまま、上から吊るされたような揺れない点を見つけるというのであっているのでしょうか
877
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2017/10/29(日) 20:52:35 ID:1d4drIFg0
>>872
日常では殆ど自我があるのじゃ。
我を忘れている時を除いてのう。
自分に思い当たることや自分にまつわることがらや自分のものについて気がつくのも自我があるからなのじゃ。
我を忘れていれば思い当たることもないじゃろう。
思い当たる自分が忘れられているからのう。
>>873
そうじゃ、自らの本心の求める道を行くのじゃ。
悟りを得れば全ての苦は滅するじゃろう。
精進在るのみなのじゃ。
>>874
本心が求めているのが悟りならば悟りは得られるじゃろう。
本心が金を求めているならば金が得られるじゃろう。
おぬしの本心次第なのじゃ。
>>875
心の主人になるとは無理にでも強制して悟りを求めることではないのじゃ。
本心から悟りを求めているのではない限り、悟りは得られないじゃろう。
本心では金とか名声とか権力などを求めているならばそれらを得て修業を終えてしまうからのう。
老病死の苦を超える手段が悟りしかないと見極めて本心から悟りを求めるのが本当に心の主となることなのじゃ。
>>876
少し違うようじゃ。
下腹と腰に力を入れて安定させるのじゃ。
上半身からは力を抜くのじゃ。
背骨や頭が垂直になるようにバランスを保つのじゃ。
精進あるのみなのじゃ。
878
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/29(日) 21:21:36 ID:DAY232aw0
>>877
沢山の質問に答えていただきありがとうございます。自分の本心の求める道を行こうと思います。
879
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/29(日) 21:55:40 ID:czRftzgI0
>872
おーなるほど、自分のものについて気がつくのも自我があるから、納得です。
毎回目から鱗の落ちる返答をありがとうございます。
880
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2017/10/30(月) 21:47:08 ID:1d4drIFg0
>>878
そうじゃ、前進あるのみなのじゃ。
またおいでなさい。
>>879
どういたしまして、またおいでなさい。
881
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/31(火) 12:16:33 ID:DAY232aw0
鬼和尚さん質問ですが、
考えない観察をすれば良いのでしょうか?
882
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/31(火) 18:47:08 ID:czRftzgI0
視覚の観察をしています。
Q1.襖を観察して、白い物が目の前にあると感じるのは認識で、目の前に白い襖があると感じるのも認識で、襖に描かれた木を見て木と感じるのも認識でいいですか?
この例の場合、分別はどのようなことを言うのですか?
触覚の観察をしています。
Q2.皮膚の感覚の観察で、金属を額に当ててヒヤッとした時、冷たい感覚を認識した(分別でも思考でもなく)という理解でいいですか?
883
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/31(火) 19:30:30 ID:DAY232aw0
>>881
スルーして下さい。すいませんでした。
884
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/31(火) 20:12:27 ID:ydE4b1w.0
鬼和尚、「無我から無認識に至る過程」に関して質問させてください。
私の頭だけの理解では、
無我に至ったら主体と客体という感覚が消え、あえて言葉にするなら「見るものすべてが
自分である」、というそんな感じの感覚になる、と私は理解しています。
それを踏まえて話を進めます。
ある人が無我に至り、それゆえに個人感覚が消え、すべてが「いつなるもの」である、という体感を得た後に、
観照に至る前の修行中の段階において見ることのなかった強い観念、例えば「怒るのはダメだ」という観念がその人が無我に
至った後にその人のマインドにあまりにも強固な思考パターンとして沸いてきたとします。
そこで、 質問1
その場合、その人は無我に至ることで得られる「主体と客体というのがないという感覚」、すべてが「いつなる
もの」である、という感覚をそれによって失うことなくその沸いてきた思考パターンに対処することは可能でしょうか?
それともそのような強固なエゴ的思考パターンにとらわれることによって主体と客体という感覚がある、という
ところまで逆戻りしてしまうんでしょうか?そしてすべてが「いつなるもの」である、という感覚も消えて無我に至る前の状態に
逆戻りするんでしょうか?
質問2
無我に至ることで得られる「主体と客体というのがないという感覚」、すべてが「いつなるもの」である、という感覚を失うことなくその沸いてきた思考パターンに対処することが可能であった場合、
一度、無我に至ってしまえば、どのような残存しているエゴ的思考パターン(観念)が沸いてきて再びそれらにとらわれても
常に無認識に至るために認識の作用を観察し、認識を厭離させるということは常に可能な状態でい続けられるんでしょうか?
わかりやすく言うと、無我に至る前の段階では無認識に至るために認識の作用を観察し、認識を厭離させるということが常に不可能であるのなら、逆に無我に至った
場合なら、どのようなエゴ的思考が沸いてきても認識を厭離できる可能性は24時間常にあるのか?
というところが疑問に感じたので質問させていただきました。
質問3
ある人が無我に至った後に上記のようにエゴ的思考パターンが沸いてきてその思考に完全に
飲み込まれ同一化してエゴまみれな状態になっている最中に認識を観察→厭離させる、ということは可能でしょうか?
質問4
ある人が無我に至った後に上記のようなエゴ的思考パターンが沸いてきてもそれと一体化せず、
「ああ、これはまだ自分の中に残存していた観念だ」というように俯瞰的に観察できている状態から
認識を観察→厭離させる、ということは可能でしょうか?
質問は以上です、よろしくお願いいたします。
885
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2017/10/31(火) 21:56:45 ID:1d4drIFg0
>>881
そうじゃ、実践あるのみなのじゃ。
>>882
① そうじゃ、白いと言うのもすでに分別なのじゃ。
分別しなければ色も無いのじゃ。
② そのような理解でよいのじゃ。
>>884
1 いかなる思考であろうと囚われて無我であることを失うことは無いじゃろう。
2 常に可能なのじゃ。
3 本当に無我になっているならばエゴまみれになることはないのじゃ。
常に可能なのじゃ。
4 常に可能なのじゃ。
886
:
避難民のマジレスさん
:2017/11/01(水) 06:41:50 ID:czRftzgI0
>882
白い物が目の前にあると感じるのは分別をしていて、かつ認識もしている状態という理解でいいですか?
887
:
避難民のマジレスさん
:2017/11/01(水) 07:13:48 ID:czRftzgI0
執着する物はいずれ朽ちてなくなるから空と考えるのが一般的な空の法ですが、社会的地位に執着している場合、自分がいずれ死ねばそんな物を持てなくなるからその社会的地位は空であると考えるのも空の法ですよね?
888
:
避難民のマジレスさん
:2017/11/01(水) 11:41:43 ID:DAY232aw0
鬼和尚さん質問ですが、
縁起の法は何の為にあるのでしょうか?
889
:
避難民のマジレスさん
:2017/11/01(水) 16:52:52 ID:ydE4b1w.0
>>885
そうなんですね、わかりました、ありがとうございます。
それから、申し訳ないですがまた長文で質問させてください。
質問1
私は鬼和尚がいつだったか、「無我のままでは生活ができない」とおっしゃられたのを見たと思います(間違ってたらすいません)
しかし、無我に至ったと思われる先人たちが現に生きて生活していらっしゃることを考えると、彼らは少なくとも「無我のままでは生活ができない」
という状態ではない、と自分は推測します。
そこで質問は、そのような完全な無我の状態ではなく、無我に至った後、支障なく日常生活を
送れている状態であっても認識を観察して厭離させることは可能ですか?
質問2
日常生活が送れないほどの完全な無我の状態のさなかに認識を観察→厭離させることは可能ですか?
質問3
日常生活すら送れない無我の状態というのは観照が起こって無我に至った直後に誰しもが一瞬なるもの、そんな感じのものなんでしょうか?
そうでないなら、観照が起こる→無我 という流れの中のどの辺で「日常生活すら送れないほどの無我の状態」になるのですか?
質問4
日常生活すら送れないほどの無我の状態から日常生活が送れる無我の状態に移行するためにはどのようなきっかけが
必要とされるんですか?
890
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2017/11/01(水) 21:55:26 ID:1d4drIFg0
>>886
そうじゃ、それでよいのじゃ。
白とか認識しているのは既に分別したからなのじゃ。
分別しなければ色も無いのじゃ。
>>887
そうじゃ、なくなってしまうものというのも空の性質なのじゃ。
それも執着をなくすためのものなのじゃ。
>>888
苦を滅し、自我をも厭離するためなのじゃ。
苦から根本の原因である自分があるという無明にまで観察が及べば無我にもなれるのじゃ。
実践あるのみなのじゃ。
>>889
1 できるのじゃ。
いつでもできるじゃろう。
2 できるのじゃ。
3 悟った後に一時的になるのじゃ。
もはや自分が無く認識も無いからこの世の価値観や常識を無と知るのじゃ。
4 人に教えを説くために無意味な価値観や常識に従う意志が必要となるのじゃ。
45
891
:
避難民のマジレスさん
:2017/11/02(木) 03:14:56 ID:ydE4b1w.0
>>890
889です、そうなんですか、ということは鬼和尚のおっしゃる「日常生活も送れないほどの無我の状態」
というのは認識を厭離し無認識になった直後になる状態であって、観照が起き無我に至っただけでは
「日常生活も送れないほどの無我の状態」にはならない、ということですか?
892
:
避難民のマジレスさん
:2017/11/02(木) 06:50:50 ID:czRftzgI0
>887
これを観察に活かそうと思います。ありがとうございました
893
:
避難民のマジレスさん
:2017/11/02(木) 13:19:41 ID:DAY232aw0
>>890
ご回答ありがとうございます。
質問ですが、どうやって観察するのでしょうか?
もう一つ質問申し訳ですが、どうやって追求するのでしょうか?
894
:
避難民のマジレスさん
:2017/11/02(木) 16:25:57 ID:ydE4b1w.0
追加で質問すいません、釈迦は菩提樹の下で悟る直前、国と家族をほったらかして悟りの道
を歩んだ、ということに強い罪悪感を感じた、という話は鬼和尚は聞いたことはありますか?また、それは本当の話なんでしょうか?
895
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2017/11/02(木) 21:39:56 ID:1d4drIFg0
>>891
そうじゃろう。
まだ認識は残っているからのう。
慣れた日常生活はおくれるのじゃ。
>>897
どういたしまして、またおいでなさい。
>>893
今まで通り観察するのじゃ。
観るものを追求するのじゃ。
そのように思えるのも自分が主体であり、主体から観察や全ての働きが起こっていると感じるからなのじゃ。
実際には全ての心身の働きは主体なくして起こるものじゃ。
主体はあとから投射される観念に過ぎないものなのじゃ。
>>894
そのようなことはないじゃろう。
身を捨てても悟りを得たいと思っていたのであるからのう。
お釈迦様が悟る前に魔が家族の姿で迫ってきたことをそのように心理的に解釈する者がいたのじゃろう。
896
:
避難民のマジレスさん
:2017/11/02(木) 22:59:53 ID:1yJIgtKg0
鬼和尚、
主体や客体というのは、時間差による錯覚。
実際は主体も客体もイメージであり、起こる現象が今ここにただ起こっているだけであると観察しました。
しかしこの先は何をどのように観察すれば良いのでしょうか?
阿頼耶識を観察したいと思っています。
897
:
541
:2017/11/02(木) 23:17:57 ID:o7TfOr0I0
鬼和尚、一休さんは悟っていたとおしゃっていましたが
一休の師匠の華叟宗曇や兄弟子の養叟(ようそう)は悟っていたのでしょうか?
898
:
541
:2017/11/02(木) 23:20:28 ID:o7TfOr0I0
ところで、私は、権力や女や名誉が大好きなのですが、苦の元だからこれらへの執着は捨てたほうが良いのでしょうか?
899
:
541
:2017/11/03(金) 06:29:57 ID:o7TfOr0I0
人間関係にも恵まれ、立ち上げた商売も成功しつつあります。
しかし、成功のなかにも、「信頼を失わないようにしなくては」など、気を回す事が多く、新たなストレスの元になりそうです。
例えば、商品に傷がついていたりしないかとか、健康上問題はないだろうかとか、誠実であろうと思うほど、心配が増えてくる。
これは、客観的には商品の質の向上に繋がるし、勿論、悪いことではないが、精神を疲弊させる面もある。結果に一喜一憂することなく、顧客にも職員にも振り回されることなく、淡々と製品や運営システムを向上させていくことは可能ですか?
900
:
541
:2017/11/03(金) 06:42:46 ID:o7TfOr0I0
和尚。食欲や性欲などは、観念だけではなく、肉体に由来する面もあると思いますが、それらも厭離可能ですか?
901
:
避難民のマジレスさん
:2017/11/03(金) 11:57:59 ID:DAY232aw0
>>895
ご回答ありがとうございます。
観るものを追求すると仰ってますが、やっぱり追求の仕方がわかりません。自分とは何か追求するのと原因を追求するのでは追求の仕方は一緒なのでしょうか?
自分と感じるものは何か観察していれば追求していることになると仰ってましたが、観察すれば追求していることになるのでしょうか?
観るものを追求するとは追求して観るを追求するのでしょうか?それとも観察して観るものを追求するのでしょうか?
追求がいまいち分からずしつこいようですが質問させて頂きます。すいません
902
:
541
:2017/11/03(金) 12:31:18 ID:28Zc32Jo0
いつもながら沢山質問してすみません。
以前鬼和尚は鈴木大拙を「悟っていたのじゃ」と言っており、親鸞や法然などは「悟って居なかったのじゃ」とおっしゃっていましたが、
鈴木大拙自身は『日本的霊性』のなかで、法然、親鸞を高く評価し、「南無阿彌陀仏」にこそ日本精神の真髄があるとし、学識も修行もしていないが、ひたすら念仏を唱えて、日々の生活に自足している妙好人のような人々を称賛していましたが、大拙は、人々が、釈迦のような真のさとりを得ることは無理だと思っていたのでしょうか?
或は、禅の悟りよりも浄土真宗の信仰の方が、真の悟りに近いと考えていたのでしょうか
903
:
避難民のマジレスさん
:2017/11/03(金) 15:33:09 ID:ydE4b1w.0
>>895
わかりました、ありがとうございました。
それから、また質問させてもらいます。
質問1
以前、鬼和尚は「すべての観念は主体を想起させる」というようなことをおっしゃっておられましたが、
無我に至った人の場合その段階ではまだ観念は残っているから、それらの残っている観念が認識された際に主体という感覚を起こす、ということが
無我に至った後でもありうるんですか?
でも主体の感覚があるならそれは無我と言えるんでしょうか?
質問2
観念が想起させる主体の感覚、というのは自我とはまた違うものですか?
904
:
避難民のマジレスさん
:2017/11/03(金) 15:46:57 ID:rVd9uqEE0
鬼和尚さん、腰痛になってしまいました。
軽いぎっくり腰のような症状です。
何をしたら改善できますか?
ストレッチなどはやっていますが、ここ数週間なかなか治りません…。
905
:
避難民のマジレスさん
:2017/11/03(金) 17:16:31 ID:czRftzgI0
過去にどぶにはまって友人に笑われた嫌な記憶があるとします。この場合、どぶにはまった自分を自分だと思うから恥ずかしいのであり、どぶにはまった自分は自我といえます。
そして、どぶにはまる行為を自分の行為だと思うから、どぶにはまった自分を自分だと思って苦が生じます。さらに、どうしてその行為を自分の行為と思うかは、自分の体を自分だと思っていて、その自分の体の行為も自分のものだと思っているからです。
だからこうした過去の行為の苦を乖離するには、行為を生じさせる自分の体を自分のものだと思わないように乖離する必要があると考えました。行為に基づくすべての自我は身体の乖離により解体されるというのが結論です。
まとめると
自分の体を自分のものだと思う→自分の体の行為を自分の行為だと思う→どぶにはまった自分を自分だと思う→苦
この見解は正しいでしょうか?
906
:
糞和尚
:2017/11/03(金) 21:28:01 ID:YUVcWBgU0
>>902
それはあくまでも「日本的」霊性なのじゃ。
鈴木大拙は禅をやっていたのじゃ。
仏教の日本独特のものを取り上げただけなのじゃ。
907
:
避難民のマジレスさん
:2017/11/03(金) 22:26:09 ID:XZhaK0vE0
>>899
鬼和尚じゃないけど,品質課を作ればいいんじゃないの?
品質課に人員を割けなければ,受け入れ検査,出荷検査など,商品を検査することにして
検査項目,検査方法を決めて,チェックシートを作って,結果を記入して,記録に残すとか
908
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2017/11/03(金) 22:34:23 ID:1d4drIFg0
>>896
自分を観察するのじゃ。
自分を観察して厭離しない限り阿頼耶識も観察できないものじゃ。
恐れとか何かの理由で自分が観察できないのかもしれん。
そのような逃避をも観察してみるのじゃ。
>>897
悟っていたじゃろう。
>>898
執着は捨てたほうがよいのじゃ。
苦になるからのう。
どんどん捨てるのじゃ。
>>899
出来るじゃろう。
自分には出来ると唱えているとできるようになるのじゃ。
実践あるのみなのじゃ。
>>900
しようと思えばできるのじゃ。
しなくてよいのじゃ。
>>901
自分という観念を起こす原因を追求するのじゃ。
どんどんやればそうなるじゃろう。
やらなければならないのじゃ。
自我がある限り観るものはあるとおもえるじゃろう。
まずは自分を観察するのじゃ。
それが観るものなのじゃ。
恐れがあるから観られないならばその恐れも観察するのじゃ。
>>902
大拙はスゥエデンボルグなども賞賛していたのじゃ。
オショーと同じく、全ての宗派を包摂しようとしていただけなのじゃ。
悟ったとは言っていないのじゃ。
ただ真宗の者を取り入れるためにゴマをすっていたのじゃ。
909
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2017/11/03(金) 22:40:39 ID:1d4drIFg0
>>903
1 真に無我になったならばないじゃろう。
既にそれが観念とわかってしまったのであるからのう。
忘我ならばあるかもしれんのじゃ。
観念は全て刹那に起こるものじゃ。
忘れていたものも刹那に思い出したりするのじゃ。
2 違うものなのじゃ。
それに自我が投射されているのじゃ。
自我は名前とイメージによる観念であり、分別された認識とは違うものなのじゃ。
客体と主体を分別された後に自我の観念は投射されるのじゃ。
>>904
痛むところよりずうっと腰の上とか尻等に硬いところや痛む所を探すのじゃ。
そこを揉み解すのじゃ。
心臓に向けてさするのじゃ。
そこが治れば治るのじゃ。
>>905
そのような理解でよいのじゃ。
後は実践あるのみなのじゃ。
910
:
541
:2017/11/03(金) 22:53:23 ID:o7TfOr0I0
>>897
悟っていたじゃろう。
一休の兄弟子の養叟(ようそう)と一休は確執があり、喧嘩別れしたとの話ですが
それは周囲の凡人の解釈で、実際は、どっちも悟っていたので「喧嘩」などはしていなかったのですかね。
悟った人同士でも、意見の相違や感情のぶつけ合いはあるのでしょうか?
>>900
しようと思えばできるのじゃ。
しなくてよいのじゃ。
しなくてよい。つまり性欲や食欲は放置プレイでよいのでしょうか?
結構、こいつらの力は強いですよね。
>ただ真宗の者を取り入れるためにゴマをすっていたのじゃ。
www予想外の斬新過ぎる解釈
それは本当に、大拙の真意なのでしょうか?鬼和尚の主観と言うことはないのですか?
911
:
541
:2017/11/03(金) 22:57:31 ID:o7TfOr0I0
大拙の代表的な書物である『日本的霊性』だけを読むと(多くの人はこれしか読んでいない場合もある)、真宗を取り入れるどころか、
なむあみだぶつと唱えていればいいんだと真宗の信仰に自信を持って、むしろ、禅者のうちに真宗に転向するものが出そうな勢いかと思います。
912
:
541
:2017/11/03(金) 23:06:00 ID:o7TfOr0I0
でも、鬼和尚の解釈は面白いと思います。
我々は内心小馬鹿にしているものをあえて賞賛することはありますからね。
歴史上の人物とかの手紙や発言を、そのまんま受け取る学者とかは、人間と言うものが全く分かってないなと感じる事はあります。
913
:
避難民のマジレスさん
:2017/11/03(金) 23:49:55 ID:ltsvCJfk0
>>908
鬼和尚、
厭離とは、主体だと思っていたものを客体視した時に起こると考えます。
思考や肉体から厭離し、それらをただ観ている視点に立ち、苦から離れることと理解し、また経験しています。
しかし今回私が観察したのは、思考が現れている瞬間は、それを離れて観ている主体など実はいないということでした。
思考の直後に、それを観ている主体という観念が起こっています。
思考→それを観ている者→「思考から離れているぞ」…
という一連の流れが意識に起こっていました。
これは思考に限ったことではなく、五感もそうでした。
何かを触った瞬間は、それを感じている主体はなく、その直後に感じている主体を作りだしていると言いましょうか。
これは何か別の方向に行ってしまってるのでしょうか。
914
:
避難民のマジレスさん
:2017/11/04(土) 02:31:51 ID:ydE4b1w.0
903です。
鬼和尚の主体という概念、難しいです、、、
また、分けて質問します。
質問1
鬼和尚の
「真に無我になったならばないじゃろう。」
という私への返答の中の「真に無我になったならば」という言葉は、
「認識を厭離して無認識に至ったときになる完全な無我の状態になったならば」という意味ですか?
それとも
「本当に無我に至ったのなら(まだ無認識まで至ってはいないが観照が起こって無我に至った)」という意味ですか?
質問2
>>909
の文章の中で鬼和尚のおっしゃられたことをまとめると
「すべての観念は主体を想起させるが、無我に至った後はすべての観念が主体を想起させることがなくなる」
ということですか?
質問3
私は目の裏に自己感覚というか主体の感覚があるんですが、上記で言われている「すべての観念が想起させる主体」
と私のこの主体の感覚とはまた別物ですか?
質問4
「すべての観念が想起させる主体」というのを実感としてどんなものか認識してみたいのですが、
そこを意識してそれがその主体だ、というようにわかるものでしたらどうすれば「すべての観念が想起させる主体」
というのを意識の上で捉えられるか教えてくれると助かります。
それとも、それはかなり微細な感覚で人間には到底認識できないようなものなのでしょうか?
915
:
避難民のマジレスさん
:2017/11/04(土) 05:52:59 ID:czRftzgI0
>905
身体の観察という膨大な作業を前に呆然となりますが、実践したいと思います。
916
:
避難民のマジレスさん
:2017/11/04(土) 09:50:04 ID:DAY232aw0
>>908
ご回答ありがとうございます。
まずは自分を観察すると仰ってますが、自分の本心を観察して、自分を観察するのでしょうか?それとも自分を観察して自分の本心を観察するのでしょうか?
917
:
避難民のマジレスさん
:2017/11/04(土) 16:18:49 ID:czRftzgI0
顔を観察する時、和尚さんは実際にどのようにされたのですか?鏡を前に置いてじっくり眺めたのか、顔を触って触覚を使って観察したのですか?
918
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2017/11/04(土) 21:55:09 ID:1d4drIFg0
>>910
>>912
ただ単にお互いを必要としていなかったのじゃろう。
修業の邪魔になる執着を滅するとよいのじゃ。
大拙は何でも褒めていたのじゃ。
騙されてはいかんのじゃ。
>>913
それでよいのじゃ。
何度でも観るのじゃ。
完全に観察されれば厭離されるのじゃ。
>>914
1 無認識ではない無我なのじゃ。
2 そのような解釈でよいのじゃ。
無我でも主体の無い観念は未だ起こるのじゃ。
3 それが別かどうか自ら観察してみるのじゃ。
おぬし以外には誰にもわからないのじゃ。
4 おぬしが目玉の裏に感じているものかもしれん。
おぬし以外には誰にもわからないのじゃ。
ただひたすらに観察するのじゃ。
実践あるのみなのじゃ。
>>915
そうじゃ、実践あるのみなのじゃ。
またおいでなさい。
919
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2017/11/04(土) 22:02:38 ID:1d4drIFg0
>>916
どちらでもないのじゃ。
自分の本心だけを観察するのじゃ。
>>917
何もしていないのじゃ。
わしは体が自分とは思っていなかったのじゃ。
920
:
避難民のマジレスさん
:2017/11/04(土) 22:38:23 ID:DAY232aw0
>>919
ご回答ありがとうございます。
質問ですが自分の本心だけを観察して、自分という観念が起こす原因を追求すれば良いのでしょうか?
921
:
避難民のマジレスさん
:2017/11/05(日) 00:20:47 ID:vrNcXKcg0
>>918
鬼和尚、ご回答頂きありがとうございます。今まで思考や肉体を観ることにより「それは私ではない」という距離を取る観察でしたが、転じて思考や肉体の感覚に成り切ることも苦を滅するものだと気づきました。
痛みの後に「私」が起こり、「私が痛みを感じている」という錯覚が苦の原因でした。
痛みそのものになってしまえば痛みは苦ではなく、ただの痛み。と認識しています。
このまま観察を続け、完全に悟ってみたいと思います。
922
:
避難民のマジレスさん
:2017/11/05(日) 04:15:41 ID:Y5LPInQE0
鬼和尚さん
主体と意識には、どのような違いがありますか?
923
:
避難民のマジレスさん
:2017/11/05(日) 05:07:29 ID:ydE4b1w.0
>>918
わかりました、ありがとうございました。
924
:
避難民のマジレスさん
:2017/11/05(日) 05:48:06 ID:czRftzgI0
>917
子供の頃から体が自分とは思っていなかったのですか?それとも何かのきっかけで修行を始める頃には体が自分とは思っていなかったのですか?
925
:
避難民のマジレスさん
:2017/11/05(日) 12:50:13 ID:DAY232aw0
>>920
追記です。
それとも自分の本心だけを観察していればいいのでしょうか?
926
:
避難民のマジレスさん
:2017/11/05(日) 15:38:31 ID:Tu1eESLY0
>>909
鬼和尚さんありがとうございます。
腰痛はここ2日でかなり良くなりました。
鬼和尚さんのおかげですm(__)m
927
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2017/11/05(日) 21:12:51 ID:1d4drIFg0
>>920
自分の本心を観て自分と言う観念が起こることを観察するのじゃ。
そして原因も追究するとよいのじゃ。
自分と言う観念が見えなければ原因を追究することもできないのじゃ。
>>921
そうじゃ、精進あるのみなのじゃ。
またおいでなさい。
>>922
主体は観念なのじゃ。
本来無いものじゃ。
意識は観念ではないのじゃ。
本来存在するものであり、全てなのじゃ。
観念も主体も意識とは言えるが、謬見によるものなのじゃ。
>>923
どういたしまして、またおいでなさい。
928
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2017/11/05(日) 21:22:05 ID:1d4drIFg0
>>924
最初からなのじゃ。
何を自分と思っているかは人によって違うのじゃ。
わしは記憶を持つものが自分と思っていたのじゃ。
>>925
本心をどこまでも追求していけば自分に突き当たるじゃろう。
自分がある人間はなにを観ても最後には自分にいきつくのじゃ。
恐れずにそれを観るがよいのじゃ。
>>926
よかったのじゃ。
またおいでなさい。
929
:
避難民のマジレスさん
:2017/11/05(日) 22:07:45 ID:bP6oxyAs0
記憶を持つものって誰なんですか?
930
:
避難民のマジレスさん
:2017/11/05(日) 23:51:49 ID:ydE4b1w.0
>>928
横レス失礼しますが、「肉体が自分だ」という観念が外れるのは観照が起きたと同時にやっと外れる
ものではないんですか?それによって死の恐怖も消え去る、そういう流れだと思ってるんですが、
子供のころから肉体への同一化がないってかなり特殊では?と感じまして、、
931
:
避難民のマジレスさん
:2017/11/06(月) 06:26:45 ID:DAY232aw0
>>927
>>928
ありがとうございます。実践していきます。
932
:
避難民のマジレスさん
:2017/11/06(月) 07:00:31 ID:czRftzgI0
>924
和尚さんのような人でも10年かかったのなら、体を自分と思っている私は悟りにどれだけかかるか不安になります。
一方、執着と人との比較と人目を気にすることが全て自分があることから来ると気付きました。自我乖離に向けたいい兆候だと思います。
933
:
避難民のマジレスさん
:2017/11/06(月) 15:58:58 ID:FnHdG3lo0
鬼和尚
最近坐禅をしていると、座禅中のほとんどの時間は忘我の状態だったと気が付きました、
時々、それを眺めている自分がいるんですが、ほとんどの時間は忘我になっているんですね、
実際の普段の生活においても同じような状態だなと、ここ数日、そのような理解が起きたのですが
この理解は正しいでしょうか。
934
:
避難民のマジレスさん
:2017/11/06(月) 16:17:29 ID:U6SatYxg0
鬼和尚、ブログの
> 何にも気付かないで変ることもないならば、それは観察ではなく観念遊戯をしている事になるのじゃ。
について二つ質問があります。
1."何にも気付かないで変ることもない"以外の観察と観念遊戯の違いを見分けるすべはないのでしょうか?
2.また、観念遊戯とはどういう状態のことなのかも詳しくお聞かせください。
935
:
避難民のマジレスさん
:2017/11/06(月) 17:16:11 ID:DAY232aw0
>>931
お礼に続けて質問申し訳です。
質問ですが、自分と言う観念が起こることを観察して、その原因を追求すると言う事なのでしょうか?
936
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2017/11/06(月) 20:48:08 ID:1d4drIFg0
>>929
誰もいないのじゃ。
誰かが持っているのでもないのじゃ。
ただ行雲流水の如く主体無くしてあるだけのものなのじゃ。
>>930
無我になる前からなのじゃ。
自分が肉体ではないと思うものは普通にいるのじゃ。
思考とか感情が自分と思う者も多いじゃろう。
肉体は自分のものではあるが、自分そのものではないと思うのじゃ。
>>931
そうじゃ、実践あるのみなのじゃ。
またおいでなさい。
>>932
日々実践すれば悟りも近いのじゃ。
よい気付きなのじゃ。
自我も見えてきたのじゃろう。
自我乖離も近いのじゃ。
更に精進あるのみなのじゃ。
>>933
それでよいのじゃ。
よい瞑想なのじゃ。
忘我と気付きが多くなれば無我も近いのじゃ。
更に精進あるのみなのじゃ。
937
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2017/11/06(月) 20:59:58 ID:1d4drIFg0
>>934
1 今ここにないものごとを空想しているならば観念遊戯なのじゃ。
今ここにあるものごとを観ているならばそうではないのじゃ。
2 思考している時とか過去を思い出している時とか未来のことを考えているならば観念遊戯なのじゃ。
>>935
それでよいのじゃ。
実践あるのみなのじゃ。
938
:
避難民のマジレスさん
:2017/11/06(月) 21:18:32 ID:czRftzgI0
>>932
その言葉を励みにがんばります。ありがとうございました
939
:
避難民のマジレスさん
:2017/11/07(火) 14:24:08 ID:U6SatYxg0
>>937
お教えありがとうございます
例えば心が動揺したときに
"同じシチュエーションでも動揺するときとしないときがある"と発見したとします。
それにより何ら変わることはできなくても"するときとしないとき"という発見があったので観察してることになりますか?
それとも過去(記憶)と比較するという思考が入っているので遊戯になってしまいますか?
940
:
避難民のマジレスさん
:2017/11/07(火) 16:06:53 ID:ydE4b1w.0
>>936
そうですか、でも鬼和尚は悟る前に死を恐れてはいたんですよね、
肉体が自分だ、という観念がなくてもいまだどこかに自分という感覚があって、それが
死ぬことで消えることが怖かった、そんな感じなんですか
941
:
避難民のマジレスさん
:2017/11/07(火) 17:08:18 ID:DAY232aw0
>>937
ご回答ありがとうございます。
質問ですが、自我を厭離させれば、無我なのでしょうか?
942
:
541
:2017/11/07(火) 18:16:18 ID:nhEvgxNI0
鬼和尚は因果律は自己を離れて客観的に実在すると思いますか?
943
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2017/11/07(火) 22:19:55 ID:1d4drIFg0
>>938
どういたしまして、またおいでなさい。
>>939
そうじゃ、それが観察なのじゃ。
記憶された観念をも観察して比較しているのじゃ。
記憶された観念をあれこれと操作するのが思考であり、観念遊戯になるのじゃ。
それぞれについてなぜ動揺したり、動揺しないのか条件を観察してみるのじゃ。
>>940
そのようなものじゃ。
感情が自分ではないと思うから恐れもないわけではないのじゃ。
何を自分と思っていても恐れや不安はあるのじゃ。
>>941
そうじゃ、無我になるじゃろう。
無我を目指すのではなく、自我を完全に観察して厭離が起こり無我になるのじゃ。
自我を観ることを目指すのじゃ。
>>942
おぬしがそう思えばあるのじゃ。
思わなければ無いのじゃ。
944
:
避難民のマジレスさん
:2017/11/08(水) 02:25:50 ID:ydE4b1w.0
ラマナとかニサルガダッタは悟りの完成には無我に至るだけじゃなく認識を厭離させる
必要がある、ということを明確に認識しているんでしょうか?
私が無認識について言及しているところを単に見逃しているだけかもしれませんが彼らが
認識を厭離させる必要性やその具体的手順について説明しているところを聞いたことがありません。
945
:
避難民のマジレスさん
:2017/11/08(水) 02:32:51 ID:ydE4b1w.0
それとも色々なものを厭離させていった中で知らず知らずのうちに認識も厭離していたが
それを特別重要なこととしてみていなかったが故に別に概念化して提示するほどのものでもないだろう
的な心境だったんでしょうか
946
:
避難民のマジレスさん
:2017/11/08(水) 10:22:08 ID:Y5LPInQE0
鬼和尚さん、心を観察するとは、こういう感じですか?
イライラしている場合、イライラしていることに気づく
混乱している場合、混乱している事に気づく
絶望している場合、絶望している事に気づく
>>927
ご回答ありがとうございます
947
:
避難民のマジレスさん
:2017/11/08(水) 10:51:59 ID:DAY232aw0
>>943
ご回答ありがとうございます。
質問ですが、何を指針にすれば良いのでしょうか?
948
:
避難民のマジレスさん
:2017/11/08(水) 17:05:47 ID:U6SatYxg0
>>943
わかりました。そのように取り組んでみます。ご指導ありがとうございました。
あとですね、もともと自律神経失調症なんですが
最近になって、ほぼ一日中動悸が止まなくなりました。就寝時は特に激しくなります。
痛みや不安感は無いので昼間は気にしないでいられるのですが
就寝時の煩さが酷すぎて薬を飲まないと眠れなくなりました。
このような状態を改善するマッサージ等あったら教えていただけないでしょうか。
949
:
避難民のマジレスさん
:2017/11/08(水) 20:33:28 ID:FCZrbmx.0
鬼和尚、
意識が世界を作っていると言います。
「何か」を蛇と認識した時、本当にそれは蛇なのだと思います。
実はそれは縄だった!と気づいた時に縄になるのだと思います。
実相は蛇にも縄にもなるのだと思っていますが、鬼和尚はどのようにお考えですか?
なぜそのような質問をするかと言うと、どう思い返しみてもこれは蛇だったのに、今見ると縄になっている、と言うことが多いのです。
950
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2017/11/08(水) 20:35:00 ID:1d4drIFg0
>>944
>>945
知らんじゃろう。
知識として記憶している訳ではないのじゃ。
それを語ったのは禅の者とオショー位なのじゃ。
優れた運動選手が自分の動きを全て言葉やイメージで認識し、伝えられるのではないように、
大悟した者も自分に起きたことを全て知識として記憶し、伝えられるのではないのじゃ。
>>946
それでよいのじゃ。
今ここで起きている心の働きをありのままに認め、気付くのじゃ。
それが本心を観察する事なのじゃ。
>>947
自らの本心を指針とするのじゃ。
本心は何を欲しているのか。
本心は何をしたがっているのか。
本心はどうしたいのか。
全て知るがよいのじゃ。
そのために本心を観るのじゃ。
>>948
もともと人間は心臓が動悸しているものじゃ。
それを気にしてはいかんのじゃ。
気にすることが心の病になるのじゃ。
気にして集中すると動悸が激しくなるのじゃ。
自分で心臓に集中して動悸を激しくしているのじゃ。
それによって眠れないのじゃ。
人の体は集中する処に血液を送り込んで激しく活動するのじゃ。
走る者は足に集中し、手を使うものは手に集中して激しく動かす準備とするのじゃ。
寝るときは足の先に集中するとよいのじゃ。
よく眠れるじゃろう。
951
:
避難民のマジレスさん
:2017/11/08(水) 22:37:34 ID:Y5LPInQE0
>>950
ご回答ありがとうございます
主体や自我の観察は、どうすれば良いですか?
自分という感覚を観察しようとしても「ああ、自分が居るなぁ」くらいしか
分からないのですが
952
:
避難民のマジレスさん
:2017/11/09(木) 10:14:11 ID:DAY232aw0
>>950
ご回答ありがとうございます。
質問ですが、自分の本心に従えば良いのでしょうか?
953
:
避難民のマジレスさん
:2017/11/09(木) 15:03:01 ID:ydE4b1w.0
>>950
ありがとうございました。
954
:
避難民のマジレスさん
:2017/11/09(木) 15:39:56 ID:U6SatYxg0
>>950
確かに集中すればその部位が暖かくなるわ、なるほど!
…と思いってやってみたのですが、よけいに気になるようになってしまいました。
まるでインド小話のグルに「薬を飲むとき猿のことを考えるな」と言われた男のよう…お恥ずかしい限りです。
修練が足りないのですね。当分はあきらめて薬で凌ぐことにします。
お教えありがとうございました。足先だけに集中できるようになるまで集中の訓練頑張ってみます。
955
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2017/11/09(木) 20:19:24 ID:1d4drIFg0
>>949
縄は咬まないのじゃ。
縄と思ったものが蛇であったならば死んだりするじゃろう。
縄であるから死なないはずと思っていても死んだりするのじゃ。
そのように事実を誤認していれば大きな災いにあったりするのじゃ。
本当は違うものを記憶によって創っていたのかもしれん。
ただひたすらに観察してみるのじゃ。
>>951
それがどのような原因でいると感じるのか観察してみるのじゃ。
寝ている時はそのように感じないじゃろう。
それでは何があるときに自分は感じられるのか、何が無ければ自分は感じられないのか観察して気付くのじゃ。
更にそのように自分と感じるものは何なのか見極めるのじゃ。
>>952
本心に従う以外に人の道はないのじゃ。
偽りの心に従えば迷うばかりであるからのう。
先ずは本心がどのようなことを欲しているのか観察してみるとよいのじゃ。
>>953
どういたしまして、またおいでなさい。
>>954
そうじゃ、足に集中するのじゃ。
実践在るのみなのじゃ。
956
:
避難民のマジレスさん
:2017/11/09(木) 22:44:04 ID:FCZrbmx.0
>>955
ご回答ありがとうございます。
私はまだ認識のない実相を見たことがないので何とも言えないのですが、認識なくとも毒があって噛みつく細長い「何か」は存在しているということでしょうか?
私が「何か」を「毒があって噛みつくもの」と認識するから、それはそのような特性を帯びるのではないか?それがこの世界なのではないか?と考えています。
もちろん、縄かと思って触ったら蛇だった…ということもあります。
それも、縄と蛇の情報を阿頼耶識が貯蔵しており、様々な認識が相まって予想も付かないことが意識で起こっているのではないかと。
まったく夢と同じ意識の世界がこの現実なのではないかと考えていますが、実際はどうなんでしょうか?
957
:
避難民のマジレスさん
:2017/11/10(金) 10:08:37 ID:DAY232aw0
>>955
ご回答ありがとうございます。
質問ですが、自分の本心を観察するだけで、自我を観れるのでしょうか?
958
:
避難民のマジレスさん
:2017/11/10(金) 17:39:39 ID:DAY232aw0
連投すいません。
鬼和尚さんに沢山質問させて頂きましたが、未だに自我を厭離させる方法がいまいちわかりません。
自分とは何か追求して観察したら良いと仰られますが、追求して観察する事自体が中々出来ないと思います。
心身の全てを観察すれば良いと仰られますが、自分は自分を追求して行こうと思ったので、中々心身の全て観察して行こうと思いません。
具体的に確実に自我を厭離させる方法はどの様にしたら良いのでしょうか?
自分を追求するとか、心身の全てを観察するとかだけでは無く、自分の本心を観察して行うのか、具体的に全体的にお教え頂けるとありがたいです。
自我を観る、厭離させる方法がわからないので普通の人が出来る方法で具体的に出来る方法をお教え願えないでしょうか。
宜しくお願い致します。
959
:
避難民のマジレスさん
:2017/11/10(金) 21:53:23 ID:ydE4b1w.0
>>754
で質問した者です。
それに対する
>>763
の鬼和尚の私に対する答えの内容がいまいちわかりませんでした。
>>738
のレスの中に書いてある
> 9 心の本性を理解する探究の道とは何でしょうか?
>
> 身体のなかに「私」として立ち現れるものが心である。もし身体のなか
> のどこに「私」という想念が最初に現れるかを探究するなら、それはハー
> トのなかに現れることが発見されるだろう。そこが心の起源となる場所で
> ある。絶えず「私」、「私」と考えても、人はその場所に導かれていくだろ
> う。心のなかに現れるすべての想念のなかで、最初に現れるのは「私」と
> いう想念である。この想念が現れたあとにのみ、他の想念は現れる。二人
> 称と三人称の人称代名詞が現れるのは、一人称が現れたあとのことである。
> 一人称がなければ、二人称、三人称も存在しないだろう。
という上記の文ではハートが心の起源となる場所である、というようなことが書いてあるので
一般的に「私」という感覚はハートの中に強く感じられる、というようなことを言ってる、ということなのかなと
おもうんですが、また別のことを指しているんでしょうか?
960
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2017/11/10(金) 22:49:37 ID:1d4drIFg0
>>956
おぬしがなにものも認識しなくても蛇はおぬしに噛み付いたりして死んだりするじゃろう。
誰かがおぬしの知らぬ間に後ろから殴ればやはり死んだりするのじゃ。
全てが認識ではないのじゃ。
唯識も本当は認識優勢論なのじゃ。
思考や論理に囚われてもいかんのじゃ。
常に現実を観察して進むのじゃ。
>>957
どこまでも追求すればいずれ観られるじゃろう。
全てはおぬしとおぬしのものとおぬしのものではないものとして観られているからのう。
本心を観るならばどこにいっても自分に突き当たるのじゃ。
>>958
おぬしが自我をどうしても観られないというならば、それは自我を観ようとしてはいないからなのじゃ。
心身の全てを観察すればいずれは観られるのになぜそれだけは実践しようとしないのじゃろうか?
それでも具体的に自我を観る方法が知りたいとはおかしなことじゃ。
心身を観察する方法が普通の人でも出来る方法なのじゃ。
お釈迦様もそれを説いているのじゃ。
誰でも自我を観られる方法でも自我を観られない者は自分が消える恐れや不安などから観ようとしていないのじゃ。
そこに逃避があればどんな方法も無意味なのじゃ。
これからどのような方法を教えてもそれを実践していこうとは思わないと書くじゃろう。
そして又普通の人でも自我が観られる方法をきくじゃろう。
本当に自我を観察し、厭離しようと本心から思う者は、どのような困難な方法でもやり抜くじゃろう。
それが本心からの欲求であるならば当然なのじゃ。
先ずは自分の本心を観察して、何を本当に求めているのか、何から逃避しているのか気付くのじゃ。
それが出発点になるのじゃ。
>>959
ただ集中している所に常に自分が感じられるだけなのじゃ。
実践して見るとよいのじゃ。
胸に集中していると胸に自分と言う感覚がわくじゃろう。
眉間に集中していると眉間に自分がいる感覚があるじゃろう。
マハリシはハートに集中している者であったからそう感じたのじゃ。
実践によって確めてみるのじゃ。
961
:
避難民のマジレスさん
:2017/11/10(金) 23:08:07 ID:DAY232aw0
>>960
お答え頂き本当にありがとうございます。鬼和尚さんの仰る通りです。反省しています。
心身の全てを観察したいのですが、自分の本心を観察して心身の全てを観察したら良いのでしょうか?
962
:
避難民のマジレスさん
:2017/11/11(土) 09:48:10 ID:czRftzgI0
一旦乖離したものが元に戻ることはありますか?
例えば、観察して乖離した手が、しばらくほっておくとまた自分のものという感覚に戻る事はありますか?
963
:
避難民のマジレスさん
:2017/11/11(土) 10:16:20 ID:ozubKx8M0
>>960
鬼和尚、ありがとうございます。
唯識も本当は認識優勢論であるとはどういうことでしょうか?
964
:
541
:2017/11/11(土) 11:12:19 ID:o7TfOr0I0
この「蛇縄問題」は興味深いですよね。
>おぬしがなにものも認識しなくても蛇はおぬしに噛み付いたりして死んだりするじゃろう。
この場合の「おぬし」が何を意味しているかですよね。
おぬし=真我だとすると、蛇に噛まれたところで、自分には何もおきていないわけです。死んでも居ないし噛まれても居ない。
おぬし=肉体だとすると、「蛇に噛まれて死ぬ」こともありえる。
肉体は老病死を免れないが、それを見ている何かは、老病死を超越している。
真我の立場に立てば、「生命」すら超越しているので、もはや、蛇と縄の区別すら、絶対的ではない。
だからこそ、落ち着いて、蛇と縄を区別できるとも言えるでしょうが
鬼和尚はどう思われますか?
965
:
541
:2017/11/11(土) 11:21:28 ID:o7TfOr0I0
西洋の存在論哲学を援用して考えて見ましょう。
蛇も人間も毒も縄も「存在」な訳です。
あらゆるの出来事は「存在の内部交流」のようなもので、その出来事が忠臣蔵だろうと、蛇に襲われるだろうと、車に轢かれるだろうと
それらの出来事はあくまで「人間的解釈」或いは「言語現象」であって、存在論的に観ると、エネルギーがグルグルめぐっているようなもの「存在の戯れ」のようなものといえましょう。
蛇と縄を区別できるのは人間だけです。蛇も縄も、人間の世界にしか存在しません。
蛇も縄も「仮象」に過ぎませんが、そのような区別は生きていくのに便利なので人は採用しています。
つまり、蛇や縄は、「生きよう」と言う人間の「気がかり」「配慮」が生じさせたとも言えます。
だから実体ではない。自殺志願者にとっては、毒蛇は「恋人」ですらあるかもしれない。
966
:
541
:2017/11/11(土) 11:45:29 ID:o7TfOr0I0
「全てが認識じゃない」
例えば、マムシの中にも「毒の無いマムシ」も居るかもしれませんね。
しかし「マムシ=毒をもって危険な蛇」と言う知識や認識があれば、その存在者は「毒蛇」に見える訳だ。
また、現代では、精巧に作られた蛇のロボットもあるかもしれません。
そう思えば、蛇と縄を区別するのは、そう簡単ではない。
いや、区別不可能なこともあるかもしれません。
かつては、白人と黒人(有色人種)は明確に「区別」されていた訳ですからね。
白人と黒人で生物学的に何かが変ったわけではなく、これは単に「認識」が変ったのです。
白人と有色人種は別人種と思われ、殺しても罪にならず、人権は存在しなかったのです。
これは、縄と蛇が「実は同じものだった」と言う事例です。
しかし、黒人と白人とが「同じである」と言う根拠も特に無く、結局は「その時代の人間がそう思うからそうする」と言うもの以上のものではない。
時代が変り、新しい分類学が生まれれば、「何で、これらを一緒のものと考えていたのだろう」と言う話になりえる。
つまりですよ。蛇と縄の区別にしても、現在の分類学が生物と非生物で分類しているので区別されるが(学問的区別)
「ほそ長いもの」の集合を一つの種類とするという新たな分類学が生まれれば、蛇と縄は学術的に同じ種族であるなどと言う話にもなりえる。
いやいやいやと、学術が生まれる前から人々は蛇と縄を区別しているよと言う主張もあるだろう。これを情動的区別としよう。
つまり、生命に危険があるか、無いかの区別である。すると、毒の無い蛇は、太いミミズとか別の名称が与えられているかもしれない。
という訳で、蛇と縄の区別は意外と「一筋縄ではいかない」のではなかろうか。
結局は、背後にある、文化的秩序を見ているのであって、本来自然に区別は無い。
そもそも、何故、我々は、これを蛇と呼び、これを縄とするのか
何故これが「蛇」に見えるのか。
それは「私とは何か」の追求とリンクするものが在ると思う。
悟りを得ようとする人が自我が生まれる瞬間を観察するように、蛇と縄が分別される瞬間も「観る」必要があるのではないでしょうか?
967
:
541
:2017/11/11(土) 11:53:17 ID:o7TfOr0I0
やはり、結論とすると
存在と言うレベルでは、蛇も縄も同じである。しかし、人間の「認識」がそれらを区別すると言わざるを得ない。
蛇を蛇たらしめて、縄を縄たらしめるのは、人間の認識である。
「人間」が居なければ、蛇も縄も無いのである。
それは「全ては人間の認識が作り出すならば縄を蛇にしてみろ!」と言う話ではない。
そうではなく、「人間」が生まれた瞬間、縄と蛇が生まれるのである。
現代の哲学では、存在論と存在の違いとする。存在的には縄と蛇は区別されるが、存在論的には「無」であると言うように。
968
:
541
:2017/11/11(土) 11:57:15 ID:o7TfOr0I0
>存在論と存在の違いとする
↑誤解が生まれそうなので、「存在論的な見方と存在的な見方の違い」と修正
存在論的な見方とは、言わば、「悟った人の視点」と言い換えても良いと思う。あらゆる観念性が落とされた視点のことである。
存在的な見方とは、我々の日常の物事の見方で、実際は対象それ自体ではなく、観念を見ているあり方のことである。
969
:
541
:2017/11/11(土) 12:07:55 ID:o7TfOr0I0
この喩えを好んで用いたマハリシは、存在論的な意味で「蛇と縄の喩え」を言っているのだが、
普通の人々は「ん? 生物的な区別の話か?」と思ってしまう。
勿論、鬼和尚も、本質的には、存在論的な意味で、この喩えを用いているのだが、説明が雑なので、やはり、存在的な区別の話に聞こえてしまうのだw
970
:
541
:2017/11/11(土) 12:22:08 ID:o7TfOr0I0
まじで、現象学と止観の方法論的差異について考察して見たい
それは全く同じものなのか、違うのか
現象学を一言で言うと、「経験とは何か」と言うことを考察していく学問である。
それにあたって、あらゆる実在性を括弧でくくる(エポケー) 何故、それがそのように見えたり感じたりするのかと言うことを考察する
外界に対しても、観念に対しても同じような態度を取る。
止観は外界にはさほど関心は無いが、心の考察と言う点では一致するものがあると思う。
971
:
541
:2017/11/11(土) 12:24:16 ID:o7TfOr0I0
根本的な違いとしては、現象学は特に「悟り」と言う状態を志向しないということである。
恐らく、止観もその過程で、悟りへの執着を取り除くだろうが、そうはいっても「悟り」と言うことをどこかに意識はしていると思う。
一方で、現象学者には「悟り」と言う概念がそもそも無いのである。
972
:
541
:2017/11/11(土) 12:38:37 ID:o7TfOr0I0
>説明が雑なので
失礼、説明がシンプルなので、に修正w
973
:
避難民のマジレスさん
:2017/11/11(土) 17:25:02 ID:8qFvIk/s0
鬼和尚、質問があります。
和尚のブログなどを参考にして、ヴィッパーサナーをしています。
自分の心を観察しようとして、ブログにある、
> 真のヴィパッサナーをしようと思う者、本当に心を観察しようと思う者は、坐る前にこのように決意し、誓うがいい。
> 「私はいままで心の中にある恐怖や不安、嫌悪感、劣等感から逃げてきた。しかし、もう逃げはしない。心の中に表れるものを全て逃げずに観察する」
> と、自分自身に強く誓うのじゃ。
> そして坐るがいい。
> もはや逃げないと、今まで逃げて隠したりしてきた恐怖や不安、嫌悪感、劣等感、孤独感、悲しみ、苦しみなどが襲ってくるじゃろう。
> そのような思いを、誓った通りに逃げずに観察するのじゃ。
> 恐ろしいなら恐れていると、不安なら不安だと、嫌悪するなら嫌悪していると、劣っていると感じるならなら劣っていると感じていると、孤独なら孤独だと、全て観察するのじゃ。
の通りにしてみたのですが、不安、嫌悪感、劣等感などは普段の生活でありありと感じる事があるのですが、瞑想中だと
こういった感覚が湧き上がってきません。そういった感覚が湧き上がるまで待って観察すればいいのでしょうか?
それとも、そういった感覚が起こるようにわざと記憶を思い出すようにしたり、念じるなどのことをしたほうがいいのでしょうか?
よろしくお願いします。
974
:
避難民のマジレスさん
:2017/11/11(土) 19:44:21 ID:ydE4b1w.0
>>960
ありがとうございました。
975
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2017/11/11(土) 20:28:18 ID:1d4drIFg0
>>961
わしもおぬしも、もはやそうではないとわかっているのじゃ。
ただ自分の偽りの無い心だけを自分に明かすのじゃ。
本当は何をしたいのか。
何のために悟りを求めようとしているのか。
それを自分に確めるのじゃ。
それは実は金や名声や権力のためなのかもしれん。
そうであるからそれらを楽しむ自我が必要なのかもしれん。
それが本心ならばそれでよいのじゃ。
悟りの道に求めるものはないと知れるのじゃ。
いずれそれらが死には対抗できないものと知り、虚しくなれば真に悟りを求めることもできるのじゃ。
善事を積んで福楽を得ればそれらも楽しめるのじゃ。
それもまたお釈迦様の教えなのじゃ。
自らの本心を知って求める道を行くのじゃ。
>>962
それが習慣になればそう感じることも出来るのじゃ。
しかし完全に厭離されればそれが自分ではないと知っている故に、完全に元には戻らないのじゃ。
大人が子供の遊びに付き合っているようなものじゃ。
鬼ごっこの鬼は本当の鬼ではないと知りながら逃げ回るようなものじゃ。
>>963
認識が心身全ての活動の源であるというようなものじゃ。
何かを認識しないとそれを考えることも行動することも出来ないからのう。
認識が心身の全てに先立って働くものと言う程度の意味なのじゃ。
>>973
それは深い瞑想に入っているからじゃろう。
普段感じるならば普段の心境で観察して見るとよいのじゃ。
恐れや不安から観察できなくなれば瞑想に入ってそれらを観察してみるのじゃ。
そして原因を追究していくとよいのじゃ。
976
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2017/11/11(土) 20:29:07 ID:1d4drIFg0
>>974
どういたしまして、またおいでなさい。
977
:
避難民のマジレスさん
:2017/11/11(土) 21:31:20 ID:DAY232aw0
>>975
鬼和尚さん今まで沢山の質問に答えてくださり本当にありがとうございました。
今まで鬼和尚さんと質問を通した会話は本当に楽しかったです。
いつの日か本当に悟りを求める日がきたらその時はよろしくお願いします。
自分の本心を知って求める道を行こうと思います。
本当にありがとうございました。
978
:
避難民のマジレスさん
:2017/11/11(土) 21:40:54 ID:czRftzgI0
>962
自分の手という感覚が視覚だけではなく触覚の記憶からも生じている場合、視覚による観察では乖離に不十分で、さらに触覚の観察による乖離も必要なことはありますか?
今の自分の手がそんな感じがしているので質問しました。
979
:
避難民のマジレスさん
:2017/11/11(土) 23:05:07 ID:soI.jltg0
>>975
鬼和尚、ご回答ありがとうございます。
そのような意味でしたか。
となると、やはり認識が世界を作っていると考えてしまいます。
いわゆる実相などあるのでしょうか?
実相を実相と観た時点でそれは実相ではないのでは?と思ってしまいます。
それを確かめたいがため、悟りを目指しているところもあります。
541さん、哲学的な考察ありがとうございます。
私は哲学はさっぱりですが、探求していたらいつの間にか現象学的な解釈で世界を見るようになっていました。
それが本当にそうなのか、観察を通じて知れればなと思っています。
980
:
541
:2017/11/12(日) 07:28:35 ID:o7TfOr0I0
>>979
さん
お返事ありがとう御座います。是非とも、意見交換をして、お互いに悟りを深めていきましょう。
981
:
541
:2017/11/12(日) 07:32:40 ID:o7TfOr0I0
>>いわゆる実相などあるのでしょうか?
979さんは哲学にもお詳しそうなので
実相に関しては、「我々に知る事はできない」と言うのが、カント哲学の結論ですよね。
いわゆる「物自体」です。
ただ、あらゆる観念を剥奪して言った先の「存在」のようなものは感じられるような気がします。
「厭離された手」などがその片鱗を見せている気がしますね。
982
:
避難民のマジレスさん
:2017/11/12(日) 12:52:28 ID:gH6Q6Ryw0
鬼和尚は、老子と、その著作の老子道徳経をどのように評価されますか?
もし悟りに有用なら、信心銘の時のように鬼和尚の訳解をお願いしたいです。
983
:
避難民のマジレスさん
:2017/11/12(日) 15:34:33 ID:8qFvIk/s0
>>975
ありがとうございます。
普段注意して、沸きあがってきたら見るようにしてみます。
984
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2017/11/12(日) 21:37:55 ID:1d4drIFg0
>>977
よかったのじゃ。
本心を受け入れ、認める事はどのような道に行こうとも無駄にはならないじゃろう。
またおいでなさい。
>>978
それも必要じゃろう。
完全に観察できなければ厭離は起こらないのじゃ。
全てをありのままに認識するのじゃ。
実践あるのみなのじゃ。
>>979
あるのじゃ。
阿頼耶識をも滅することは認識の全てがなくなるのではないのじゃ。
本来の認識に回帰することなのじゃ。
それが悟りなのじゃ。
それによって真実の世界も見えるのじゃ。
>>982
断片しか残っていないのじゃ。
それも意味不明なのじゃ。
ほとんどが後世の創作のようじゃ。
あまり役にはたたないのじゃ。
>>983
そうじゃ、実践あるのみなのじゃ。
またおいでなさい。
985
:
避難民のマジレスさん
:2017/11/13(月) 18:41:42 ID:czRftzgI0
>978
そうですか、そのように修行します
986
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2017/11/13(月) 20:29:21 ID:1d4drIFg0
>>985
そうじゃ、実践あるのみなのじゃ。
またおいでなさい。
987
:
避難民のマジレスさん
:2017/11/14(火) 14:49:06 ID:gH6Q6Ryw0
>>984
そうだったんですね。
では、鬼和尚も悟っていたと言われていた盤珪禅師の「臼ひき歌」はどうでしょうか?
一応貼っておきますね。
988
:
避難民のマジレスさん
:2017/11/14(火) 14:49:44 ID:gH6Q6Ryw0
生れ来りしいにしへ問へば、何にも思はぬ此心。
来る如くに心を持てば、すぐに此身がみな仏。
不生不滅の此心なれば、地水火風はかりの宿。
かりの火宅に心をとめて、我ともやして身をこがす。
過去も未来も只今ばかり、心とめよより只歌うたへ。
心とめずはうき世もあらじ、何もないこそ活如来。
恋しゆかしも只今ばかり、あはぬ昔しがある故に。
昔おもへば夕べの夢よ、とかく思えば皆うそじや。
夢と思へば浮世の中に、うきもつらきもなきものを。
因果歴然我なす事を知りて迷ふは身のひいき。
有為の転変身にならはして、それに迷はば己が損よ。
989
:
避難民のマジレスさん
:2017/11/14(火) 14:50:24 ID:gH6Q6Ryw0
有為の転変わが為す事を知らで迷うて身のひいき。
うその世界をまことのやうに化しばかさる化物ぢや。
いつか五欲を身にならはして、それに習うて日をくらす。
人にをしへはもとないものぢや、是非を争ふ我身なり。
仏道修行つとめし後は、何もかはりは得ぬものぞ。
迷い悟りはもとないものぢや、親もをしへぬならいもの。
後世のつとめも此頃いやと出入の息のあり次第。
無為の心はもとより不生、無為がなき故迷ひなし。
をしやほしやと思はぬ故に、いはば世界が皆我ものじや。
きめう不思議は一つもないぞ、しらにや世界が皆ふしぎ。
かねを持たりや貧者がいやし、もたぬむかしを忘れたか。
後世を願ふとひいきを、いとど我まんにそつかけて。
悪を嫌ふを善じやとおもふ、嫌ふ心が悪じやもの。
としはよれども心はよらじ、いつも変らぬ此心。
嬉し芽出度や老せぬ君に尋あふたりや我ひとり。
我と造れる心の鬼が責めて苦しむ身のとがを。
やすく養う浄土は爰よ五萬五萬の奥もなし。
さとる心を我ぢやと思へ、念と念とで相撲とる。
さとるさとると此頃せねば、朝のねざめも気が軽い。
よきもあしきも一つにまるめ、紙につつんで捨ておけ。
死んで、世界によるひるくらせ、それで世界が手に入るぞ。
とかく浮世はもとないものぢや、心とみよより唯うたへ。
990
:
避難民のマジレスさん
:2017/11/14(火) 14:51:09 ID:gH6Q6Ryw0
仏さまこそおいとしうござる、そとの飾りにまばゆかろ。
内の仏にや、そりやまだはやい、門の仁王にまづなりやれ。
われと浄土をたづねて見たら、けつく仏にきらはれた。
鬼の心であつめた金をがきにとられて、目がまうた。
地獄嫌の、極楽好きで、らくな世界に苦をうけた。
金がほしさに命をすてて、すてて見たれば、金いらず。
冬の頃しも悦ぶたき火、夏のくるほどあらいやや。
夏の頃しも乏しき風も秋の果てぬに早やにくむ。
人にかたきもと無きものぢや、是非を争う我が成る。
991
:
避難民のマジレスさん
:2017/11/14(火) 20:20:46 ID:gH6Q6Ryw0
>>989
訂正です。
後世を願ふとひいきを、いとど我まんにそつかけて。
↓
後世を願ふとひいきを願ふ、いとど我まんにそつかけて。
992
:
避難民のマジレスさん
:2017/11/14(火) 22:07:31 ID:Nw8VwStU0
>>988
〜
>>991
現代代語訳もアップせんと、ほとんどの人は読めんじゃろう
宝の持ちぐされになってしまうのう
993
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2017/11/14(火) 22:08:27 ID:1d4drIFg0
>>988
産まれて来た根源を聞けば何も思わない心なのじゃ。
種子と言うものじゃな。
来るが如く去るが如くに心を持てば皆如来なのじゃ。
心は本来あるものではなく不生不滅の意識であるからには、物質的な肉体は仮の宿なのじゃ。
そのような物質的な肉体に囚われれば、身を焦がす苦があるばかりなのじゃ。
過去も未来も無く在るのは今ここだけなのじゃ。
そのような過去や未来に囚われずに今ここにあるのじゃ。
心が囚われなければ浮世も無いも同然なのじゃ。
そのような無の境地こそ生き仏なのじゃ。
執着も過去の想いがあるからなのじゃ。
本来は今ここにあるのみなのじゃ。
過去を思うのは夕べの夢を思うようなものであり、皆虚妄なのじゃ。
修業の因果は歴然としてあり、修業をなすべきことと知りながら迷うのは身びいきがあるからなのじゃ。
自分だけは死なないとか、特別とか思っているのじゃ。
この世の無常は誰の身にも訪れるものじゃ。
それに迷っていては損なのじゃ。
994
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2017/11/14(火) 22:09:01 ID:1d4drIFg0
実践することをも知らなければ迷い傲慢になるのじゃ。
虚妄の世界を本当のものと思って騙したり騙されたりして世を終わるのじゃ。
五欲に慣れ親しみ日を送るのじゃ。
元より仏教もないものであるが、これが正しいとかあれが間違いとか争うもののためにあるのじゃ。
修業の代わりになるものはないのじゃ。
迷いも悟りも無いものとは親でも教えてくれないのじゃ。
後世のための勤めも息のありよう次第なのじゃ。
無為の心は不生であり、無為もなければ迷いも無いのじゃ。
何かが欲しいとか惜しいとかの心は無い故に世界は皆我が物なのじゃ。
それが奇妙不思議と言うこともないのじゃ。
悟らなければ皆不思議なだけなのじゃ。
金を持った者が持っていない昔を忘れて貧乏をいやしむ様に後世を願う心や身びいきも悪なのじゃ。
悪を嫌い善を願う心も悪なのじゃ。
年はとっても心は不変なのじゃ。
不変の心に我はたどり着いたのじゃ。
自ら作った心の鬼も、この浄土にはない安楽の地なのじゃ。
悟ろうとする心があればそれが邪魔になるのじゃ。
それがなくなれば心も軽いのじゃ。
良い悪いの分別も捨てて死んで生きれば世界が我になるのじゃ。
ありもしない浮世に迷うより、心をとどめずにただ今ここにあるのじゃ。
995
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2017/11/14(火) 22:09:33 ID:1d4drIFg0
いとしい仏も外の飾りには眩いものじゃ。
心の内に仏を求めるのじゃ。
それが早ければ門の仁王になるのじゃ。
己の欲で浄土を求めれば仏にも嫌われるのじゃ。
鬼となって集めた金も餓鬼にとられておしまいじゃ。
苦しいのが嫌で快楽がすきでも苦の世界にいるのじゃ。
金が欲しくて命もイランとしても命が無くなれば金も役には立たないのじゃ。
冬には喜ばしい焚き火も夏には暑苦しいものじゃ。
夏には少ない風も秋が終わる頃には激しく吹くものじゃ。
人には元々敵も無いのに是非を争う心が敵を作るのじゃ。
996
:
避難民のマジレスさん
:2017/11/14(火) 23:30:50 ID:Y5LPInQE0
>>994
>良い悪いの分別も捨てて死んで生きれば世界が我になるのじゃ。
鬼和尚さん、良い悪いの分別を捨てて良いのでしょうか?
良い悪いの分別を捨てたら、悪事も平気で行えてしまいますよね?
997
:
避難民のマジレスさん
:2017/11/14(火) 23:33:14 ID:Y5LPInQE0
>>955
ご回答ありがとうございました
998
:
偽和尚★
:2017/11/15(水) 00:37:36 ID:???0
次スレ
鬼和尚に聞いてみるスレ part10
http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/8276/1510665527/
立ててくれた人>乙
ということでこちらのスレは切りのいいところでストップします。(まだしません。多分明日します)
999
:
避難民のマジレスさん
:2017/11/15(水) 05:54:57 ID:1wPDzgc60
>>849
ご教授ありがとうございました。
真の原因を観察して、観念を遠離しようとする場合、観念による反応が生じた時、
体に起こる感覚を感じていれば、あるとき突然、
観念を抱くにいたった原因に気づく、ということなのでしょうか?
思考による過去への思索はいりませんか?
1000
:
避難民のマジレスさん
:2017/11/15(水) 20:13:48 ID:gH6Q6Ryw0
ありがとうございます!まさに鬼ですm(_ _)m
>>後世のための勤めも息のありよう次第なのじゃ。
これはどういったことを言っているのでしょうか?
1001
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2017/11/15(水) 21:56:51 ID:1d4drIFg0
>>996
それは己にとっての好悪の判断なのじゃ。
りんごは好きであるがみかんは嫌いと言うようなものじゃ。
それがあれば執着も生まれ、苦と迷いのもとになるものじゃ。
>>999
そのようなこともあるじゃろう。
思索によることも出来るじゃろう。
記憶を観察して思い出して原因に気付くこともあるじゃろう。
原因に気付く事はさまざまな道があるものじゃ。
注意深く追求していくのが大事なのじゃ。
>>1000
今の息をしている間、日々の生活の中で善事をしたり修業したりすることじゃな。
生きるとは息をしていることなのじゃ。
生きているときの行いが大事ということじゃな。
1002
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2017/11/15(水) 21:57:27 ID:1d4drIFg0
>>998
ご苦労さんなのじゃ。
正に菩薩の行ないじゃ。
1003
:
偽和尚★
:2017/11/15(水) 23:11:11 ID:???0
それではこちらのスレはストップします。
次スレ
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