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鬼和尚に聞いてみるスレ part2

98避難民のマジレスさん:2013/10/30(水) 06:21:42 ID:LC3de7YgO
>>93
ありがとうございます。
そんなに難しいことをやろうとしているのではないはずなのに、効果がなかなか安定しません。
いまだ瞑想時に心が勝手に呼吸に集中する感覚もつかめてませんが、なんとか先に進みたいので、日常生活全般に付き「心が勝手に」気付き続ける 状態を目指しみようかと思います。・・・ ハードルを上げ過ぎないで、とりあえず無意識な行動に気づいたらそれをチェックする練習辺りから始めてみます。

99避難民のマジレスさん:2013/10/30(水) 12:33:40 ID:zz3du5Nk0
>>94 ありがとうございます。
何でも試して実践して行きます。

100龍昇:2013/10/31(木) 18:59:35 ID:Zk9ACFFk0
まあ、いつものように騙されましてね。
今までは結構な喧嘩をしてきたわけよ。怒って怒って、恨んで恨んで。
他人にも「正しさ」を望んでいたのが原因でさ。
そいつを落としておいたから、今までと違ってね。

「観察して真実に気づいたとしても、何か外部の世界が変化する訳ではない。」

そうなんだよ。生活どうしよ、っていうのは変わらんのよ。
べつに怒ってねえけど、このままじゃ俺死ぬべ?っていうね。
新しい面接も採用も、今日一日で決めたからいいけどさ。

そこで質問。
悟ったら流れに任せて死んじゃうの?
マハリシは洞窟の中でほとんど食わず、小動物に足噛まれまくって傷だらけだったらしいけど。
やっぱり体に対する執着は1ミリも残らんもんなの?

101避難民のマジレスさん:2013/10/31(木) 19:47:59 ID:kl1CR23s0
「誰ですか?」と聞かれて、
私は「私です!」と応えると、
あれ?私とは何だろう?誰だろう?という疑問が湧いてしまう。

誰でしょう・何でしょう?
答はありますか?言語化できますか?


自分で自分の後頭部を見る様なモドカシサです。
お前の後ろに犯人が居る!
振り返ると誰もいない。が後ろにはまだ居る。
そんな永遠ホラー物語のようなモドカシサ。

102鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2013/10/31(木) 20:59:00 ID:kaXJvxhM0
すまんのう昨日は忘れていたのじゃ。

>>95 どういたしまして、またおいでなさい。

>>96 自分の体を頭の後ろから見ているような視点にしてみると良いかも知れん。
 考えている事も頭の後ろから見ているような視点にするのじゃ。
 思考まで見えるのはおかしいとか考えずにイメージしてみるのじゃ。
 そのうち本当に見えるかも知れんのじゃ。

>>97 心にある苦しみは、。その苦の原因を観察しなければ滅しないのじゃ。
 自我への執着を観ようとしなくて良いのじゃ。
 お釈迦様は人の心が縁によって連鎖的に起こるものであると知り、それを観察する事で苦を滅する事の出来る法を教えたのじゃ。
 自分が楽しむ事が何故だめだと想うのか、その原因を探してみるのじゃ。
 原因が判れば、その原因から楽しむのはだめだと言う思いが起こり、原因が無ければその思いも起こらないと観察するのじゃ。
 そうすればその条件付けも消えるじゃろう。
 そのように苦を滅して自由になれば、出来る事も増えるのじゃ。

103鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2013/10/31(木) 21:04:27 ID:kaXJvxhM0
>>98 あまり早く効果を出そうと思わず、ただひたすらに集中と観察を続ける良いのじゃ。
 そうすれば自然に効果もやってくるものじゃ。
 またおいでなさい。

>>99 そうじゃ、実践してみるのじゃ。
 またおいでなさい。

>>100 それは人によるのじゃ。
 お釈迦様は健康にも気を使い、80歳まで生きてインド中を旅行して回ったのじゃ。
 人に教えを説くと言う意志か゛あれば、肉体にも気を使い、長生きする事も出来るのじゃ。
 肉体への執着は無いのであるがのう。

104避難民のマジレスさん:2013/10/31(木) 22:24:38 ID:TWsIZlsE0
>>102
鬼和尚さん、わたしの >>86 のレスも、お礼を書いたので読んでください!

105太陽くん:2013/11/01(金) 01:40:42 ID:/aeITQK.0
鬼和尚様

お返事ありがとうございます。
自我への執着を捉えようとするというより、
その時心が起こす反応を注意して観察するのが大事なのですね。
自我を捉えようと、観念的になって心の動きそのものへの視点が薄くなっていたかもしれないと思いました。
参考にして修行します。

原因の観察について、よく分からない所があるのでもう少し質問させてください。
苦のお原因を探る、というところは何となくわかる気がしました。
苦が生じるシチュエーションを具体的に思い浮かべるか、日常で起きた時に気をつけるかして、
その時の心の反応の過程を観察して受容する事が最初にあると思います。
その次に、その原因が何なのか、というのは、その感情を引き起こす根っこの感情とか、その前提になっていた価値観、という意味でしょうか?
例えば、相手が不幸になればいいという考えが起きたとして、
一方でそんな考えを起こす自分は悪い人間であると葛藤が生じた時、
その直前に嫉妬の感情が動くのが見られたとして、
さらにその嫉妬は、何かある価値観に拘っている事が前提になっていると分かったとすれば、
その前提自体は、たいていの場合思い込みや刷り込みのような大した事のないもののことが多いと思います。
原因がなければ苦しみも生じない、というのは、
苦しみが生じる成り立ちをそのまま観察できたならば、そのような前提自体には根拠がないことを観察し、
それ故にその苦しみ自体も、そのように成り立った実態のないものであるということを実感する、ということでしょうか?
原因となった出来事、自体は実際にあったものなので、無かったことには出来ない気がしたのですが、
そこで生じた感情の動き自体は、その前提をつかめば、
納得して受け入れたうえで、そのまま乗り越えられるものかもしれない、と思いました。

106龍昇:2013/11/01(金) 19:31:21 ID:Zk9ACFFk0
>>103
最終的には「体」という観念は落とすか落ちるかするんだろうね。完全に。

とりあえず直近では、邪魔な観念が減ったから相当楽にはなってるよ。
どうもありがとう。

107鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2013/11/01(金) 21:06:50 ID:kaXJvxhM0
>>104 すまんのう見落としていたのじゃ。
 >>86 そうじゃ、夢の中で意識があれば夢を自由に制御する事が出来るのじゃ。
 恐いお化けが出れば飛んで逃げるとかも出来るじゃろう。
 いろいろ試してみるのじゃ。

>>105 そうじゃ、心と体の反応を今ここで観るのが本当の観察なのじゃ。
 自我が観られるとしたらその反応の結果としてなのじゃ。

 原因を探すとはそのような意味なのじゃ。
 価値観が原因ならば価値観であり、感情が原因ならば感情となるのじゃ。
 大抵は執着とか恐れ、恐れへの不安から起こった逃避などであるがのう。
 そのような原因を追求してみるのじゃ。

 その原因は心にあるが、人の心はそれが無いとした時の心の反応も観察できるのじゃ。
 自らの心にもしその原因が無かったら、どのような反応が起こるかをイメージしてみるのじゃ。
 心は言葉とイメージによって観念を設けている故に、心にその原因がないとイメージすれば、それが無い時の反応も起こるのじゃ。
 そのように心に原因がないことをイメージして、苦の反応が無い事を観察するのじゃ。
 
 原因が間違っていれば苦は未だ在り続けるじゃろう。
 
>>106 そうじゃ、身があるという観念は無くなるじゃ。
 楽になってよかったのじゃ。
 またおいでなさい。

108避難民のマジレスさん:2013/11/02(土) 11:11:42 ID:LC3de7YgO
>>103
ありがとうございます。
m(__)m

109避難民のマジレスさん:2013/11/02(土) 13:33:24 ID:j..Vzewk0
鬼和尚さんの言葉を見ていると観察とは分析的で論理的で非常に頭を使うもののように感じます。
頭を使わないのが悟りですが、過程では分析的に頭を働かさないとならないという矛盾があるのでしょうか?
頭がいい方が効率的に悟れるとか。

110避難民のマジレスさん:2013/11/02(土) 15:57:50 ID:D7NleYHc0
>>107
ありがとうございます!
試しに昨晩、夢である人に会おうと思って寝たら、その人に会うことができました。
いろいろ話せてうれしかったことは覚えているのですが、それ以外は忘れてしまいました。
これも夢の制御ができたことになりますか?
その人はまだ生きている人です。
その人も似たような夢を見たことになりますか?

111避難民のマジレスさん:2013/11/02(土) 19:52:21 ID:C.mybkWo0
悟った人が株とかFXをしたら、簡単に勝ててしまいますか?

112鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2013/11/02(土) 20:35:22 ID:kaXJvxhM0
>>108 どういたしまして、またおいでなさい。

>>109 わしは言葉で伝える故に分析や論理を使うが、本当に観察している時には思考は使わないのじゃ。
 むしろ感覚や感性と言うもので、心の働きと体の反応を感じていくのじゃ。
 それには頭の良い事より自らに本心をあかす心構えが必要なのじゃ。

>>110 出来たようじゃ。
 やはり素質があるようじゃ。
 悪夢も良い夢に変えられるじゃろう。

 本人に聞いてみると良かろう。
 覚えていないかも知れんが、おぬしに会ったと言う同じ夢を見ていたら本人に会っていたのじゃ。

113避難民のマジレスさん:2013/11/02(土) 21:52:01 ID:j..Vzewk0
自分を認めてくれたり尊重してちやほやしてくれる人とそうでもない人に好悪の印象の差や
扱いを変えてしまうのは自我ですが、口ではいくらいいように説明しようと、鬼和尚さん
もそのような人間的な部分が態度に出ませんか?感性や感覚でなんとなく感じました。
私もうざかったのか無視されたり、お抜きで、ぬし、とかあしらわれたり。

114避難民のマジレスさん:2013/11/03(日) 16:53:20 ID:C.mybkWo0
集中力をつけるのに、残像トレーニングって効果ありますか?

115避難民のマジレスさん:2013/11/03(日) 18:04:15 ID:V7qrRIoo0
>>112
ありがとうございます。
夢で会えた人は近くにいないので、いろいろ聞くことはできないのですが、
(だから、会いたかったのです)
なんだかやっぱり会えた気がします。
いつも心配させているようで、不安だったのですが、いろいろ話せて安心できました。

会えない人に会えるのは、なんというか、会わなければいけないのに、
会えないという困った状態が解決するようで安心です。
悪夢も、見たくないのに見てしまうという、困った状態が解決するなら安心です。
どうにもならないことが本当はないのが、本来の世界なのでしょうか?
この世は不思議です。

116鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2013/11/03(日) 20:53:23 ID:kaXJvxhM0
>>113 おぬしにそのような観念があればそう感じるじゃろう。
 目覚めた者の言葉は自我が無い故に、鏡のように相手の心を映し出すのじゃ。
 おぬしの心に疑念や敵対心があれば、見落としやただの書き間違いでさえ嫌悪を現すように感じるかもしれん。
 疑心には疑心が返り、対抗心には対抗心が見えてくるものじゃ。
 本当に観るべきものは常に自らの心一つなのじゃ。

>>114 あるかもしれん。
 ヨーガにもそのような観想法があったのじゃ。
 何でも試してみるのじゃ。

>>115 そうじゃ、人の意志はこの世で最も強いものである故に、一切の苦も滅することが出来るのじゃ。
 夢もまた意志によって制御できるのじゃ。
 夢の中で神仏に会う事も出来るじゃろう。
 しかしそれに囚われないようにするのじゃ。
 夢は夢であり、現世でさえも夢であるからのう。

117避難民のマジレスさん:2013/11/04(月) 09:37:05 ID:zz3du5Nk0
鬼和尚
瞑想や苦滅の道で様々なやり方を試しているのですが、
自分に向いているやり方を判断するための注目点やチェックポイント
などがありましたら、教えてください。
今のところ私は、瞑想後のしっくり感や、気持ちよさに頼っています。

118避難民のマジレスさん:2013/11/04(月) 10:15:14 ID:qqswUyu60
苦の原因を探すのも思考による論理や分析ではなく、
観察や直観によるのでしょうか? 
また苦の原因探しは、数息観に続けてなど、瞑想中に行いますか?

119太陽くん:2013/11/04(月) 12:47:11 ID:onzejU8A0
鬼和尚様

アドバイスありがとうございます。
苦の原因がなかった時の反応を観るにも、
心を澄ませて集中することが大切だろうな、と思いました。
ありがとうございます。

120避難民のマジレスさん:2013/11/04(月) 19:59:16 ID:C.mybkWo0
集中と瞑想は同じものですか?

121避難民のマジレスさん:2013/11/04(月) 20:42:41 ID:pxpFy/Sc0
瞑想は目を瞑るほうがいいですか
仏像なんかは半分開いてますよね
おすすめはどっちですか

122鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2013/11/04(月) 21:28:35 ID:kaXJvxhM0
>>117 そのような感覚的な注意点で良いのじゃ。
 長く行っていくには理屈よりも感覚が大事になるからのう。
 修行が進んで感覚が変わり、上手く行かないと感じれば別のやり方をすれば良いのじゃ。

>>118 そうじゃ、原因が正しければ思い浮かべる度に、苦も起こるじゃろう。
 理論的にこの苦はこのような原因であろうと推測しても、思い浮かべても苦の反応が起こらなければ正しくは無いのじゃ。
 常に反応や感覚を観察するのじゃ。

 瞑想中でも良いのじゃ。
 集中力が高まっているから探し易いじゃろう。
 常日頃から原因を知ろうと観察しても良いのじゃ。
 速やかに判るようになるじゃろう。

>>119 どういたしまして、またおいでなさい。

>>120 違うのじゃ。
 心を開放する瞑想もあるからのう。
 集中は瞑想の一種なのじゃ。

123鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2013/11/04(月) 21:39:06 ID:kaXJvxhM0
>>121 おぬしがやってみて快適な方がおぬしへのお勧めなのじゃ。
 自分に合ったやり方が一番良いのじゃ。
 そして他人には別のやり方が良いかも知れんから、他人に押し付けてはいかんのじゃ。

124避難民のマジレスさん:2013/11/05(火) 00:04:47 ID:Bwz0R3.60
> おに さん

                    __
                   /. . . . . `丶
                      /. . . . . . . . . . . 、
                 |. . . . . i⌒'. . . . .\
                 |. . . . . |\| . . . . ヽ\ __,,ノ7
                /. . . . . `‐u . . . . /. . . . . . . . . . 7
雀の涙ほどですが・・・    ̄\ . . . . . . . . /. . . . . . . . . . /
                   \ヾヾヽ/. . . . . ./ . . . /
                         丶、/ . . . . . . /. . ./
                        /. . . . . . ./》 ̄
                    _/. . . . . . ./ /
                 '´ ∠∠∠二.イ /|
                 { (⌒)  }
                ヽ五円 ノ
                   ̄

125避難民のマジレスさん:2013/11/05(火) 07:57:51 ID:LC3de7YgO
昨日瞑想中に突然涙が溢れそうになり、あわててしまいその感情を観察することもせずに中断してしまいました。 とっさに逃げてしまったのだと思います。
そこで、鬼和尚のブログを参考に、心のありようを正面から観察してみました。
呼吸への集中ではなく、心を開放して観察する。段取り①悲しみ、怒り、不安、劣等感あるいは喜び、期待などの感情を伴う記憶を呼び水にして解放を促す。②感情が溢れてきたら、それを考えず、観察する。抑圧したり解決しようとしたりしない。
初回はあまりうまく行かなかったが、続けてみようと思います。
二次的効果としては、なぜかケッカフザにしてから感じずらくなっていた腹式呼吸における丹田から呼気が抜けて行く感じが復活していました。
また、集中していると時たまに見えていた記憶映像はたいてい乾いた地面、川原の砂利、草原、密林などの地面に近いところからの目線で石や地面のひびや草木の葉の一枚一枚のリアルな映像が見えてましたが、今日は立ち位置目線で、暗闇の雑木林を歩いている映像や今まで見ることがなかった生物が蠢く映像が見えました( ̄0 ̄;

126避難民のマジレスさん:2013/11/05(火) 12:26:29 ID:Gez/NO8U0
>>122 ありがとうございます。
常に反応や感覚を観察するのがポイントなのですね。

もう1つ質問があります。自分自身の認識が正常であることは、
どうやったら分かるでしょうか。また、正常じゃない場合は、
どのようにしたら戻れるでしょう?
といいますのも、心と体の観察をしていて、混乱してくることが
あるからです。混乱は2種類あるように思います。
まず、ひとつは、認識対象が観念か事実かと判断しかねるということ。
これは、以前鬼和尚が示されたように、事実の場合は身体に反応が現
れるということで解決しました。
もうひとつは、認識自体に問題が起こることはないのかということです。
ブログの心の模式図にあるように、認識から自我が生まれるということ
であれば、しっかりと集中と観察ができていれば、認識自体が間違うと
いうことはないように思います。ですが、集中と観察自体が正しくでき
ているかどうかを確認できないと、認識だと思っているものが実は自我
にゆがめられた偽物だったということがあるのではないかと思いまして。
もしかしたら、認識に疑問を持たせること自体が、自我の抵抗の表れかも
しれませんが…。
もし、私の理解に間違いがありましたら、それもご指摘ください。

127鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2013/11/05(火) 20:26:58 ID:kaXJvxhM0
>>124 おぬしを龍禅と名付けるのじゃ。
 龍禅よ、禅那に励むのじゃ。
 
>>125 本心が一瞬見えたのじゃな。
 本心に、強い苦があったりろ、余りに自分のイメージと違ったりすると逃避も起こるものじゃ。
 そのようにして本心が見えれば本当に変わる事も出来るのじゃ。

>>126 そうじゃ、今ここで起きている反応や感覚を見るのじゃ。

 認識が正常かどうかと言えば普通の者は全て正常ではないのじゃ。
 記憶に依存している認識しかないからのう。
 その認識を正常にする事が、悟りを得ると言う事なのじゃ。
 
 記憶に依存しすぎて誤謬を起こしている認識を正常に戻すために全ての修行があるのじゃ。
 それ故に今修行しながら認識が正常であるかどうか、悩む事は無いのじゃ。
 正常でない認識を正常に戻すために修行しているのであるからのう。
 集中と観察を続け、いつか観念でしかない自我を己としていたと気付き、記憶に依存していた認識の仕組みにも気付けば、それは厭離され、正常な認識に回帰するのじゃ。

128避難民のマジレスさん:2013/11/05(火) 21:55:53 ID:Dp/qMVVc0
>>127 
認識が正常ではないので、観察や苦滅が的を射ないことも
当然あるが、気にせず止観と苦滅の道を努め励めば良いのですね。
ありがとうございます。

129避難民のマジレスさん:2013/11/05(火) 22:41:00 ID:LC3de7YgO
>>127
ありがとうございます。
鬼和尚が仰られるように、自分が変われるチャンスではないかと思いました。
もう少し集中力がついてからにしようと思っていましたが、己の観察を始めました。
今朝書いた方法だとイマイチ感情がわいて来ないので、テーマを絞って、徹底的に問いかけてみることにしました。その方がいくらか効果がありそうな気がしました。
止 から 観察 に変えたら、身体の反応も変わりました。今日だけかもですが1時間ケッカフザで座ってる間、終始足の感覚が瞑想の邪魔をすることなく、抜歯時の麻酔を打ったような感覚があるだけでした。これは自我が、そんなことをやろうとするといつまでも座ってることになるぞと脅しをかけてきてるのかな…とか思いました。
また、瞑想中に浮かぶ映像が蠢く生物から夢の中にあらわれるような人になりました( ̄□ ̄;)!!
映像は2〜3分で消えます。

130避難民のマジレスさん:2013/11/06(水) 13:27:59 ID:BwDSqr2o0
意志はどこにあるのでしょうか? 自我の一部ですか?

131避難民のマジレスさん:2013/11/06(水) 18:02:53 ID:iV9YIG0s0
                / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
                | おにぎり・・・おにぎり・・おにぎり・鬼斬り。
                \______  ___________
                          \(

        _. ,,, .                                    _. ,,, .
       ,r'    ` ' .                               ,r'    ` ' .
      ,:´,       ` 、                             ,:´,       ` 、
     .;'    ;   ,   ';                  う〜〜ん    ..;'    ;   ,   ';
    ,:´  ; ____   `、           |ヽ-‐-へ         .:´  ; ____   `、
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   ! .     |;;;;;;;;;;;;;;;;;;;|     ';         `ムィ'!リロ-ノ!ゝ       ! . .  ; |;;;;;;;;;;;;;;;;;;;|     ';
   ヽ、..,_,.,,,.|./ ̄\  ̄\,..ノ          〈=!r∽、〉           ./ ̄ / ̄\|.,,__,.,..ノ
        (__■__)■,. -、,. -、,. -、     〜〈_r'つと,〉     ,. -、,. -、,. -、■(__■__)
               (,,■)..■,,)■)               (■,,(■,,(■,,)

132龍華:2013/11/06(水) 18:12:45 ID:kl1CR23s0
シルバーバチやインペレーター等の本・教えや彼らについてお話して下さい。

<参考>
http://www5e.biglobe.ne.jp/spbook/

凡人の私からすると偉大な物(知識)とか高い次元の物に見えます。
彼らは仏教的に言うと如来なのか、修行中の者だけには魔境に当たるのか、
悟ると進化や、する事は何もないと鬼和尚は云われましたが
彼らは天国に行くには永遠に苦労して進化すべしと云います。
彼らから見ると悟った人間とは進化を否定する宇宙の法則に反する者・脱線した者なのか。
お坊さんには霊と付き合ってる方もいれば、スピリチュアリズムを否定している方もいる模様。
真実・真理・法則・法とかは不動な筈なのに、それを語る方々の言葉には相反や否定し合う矛盾が多い。
矛盾があると疑いが起こる。高次元な物だと思った物・者に対する否定が特に厄介です。
悟れば解るだろうと数年保留していた問題ですが、中々悟れないので聞く事にしました!

悟った方の次元から見る本当の処はなんなのか色々知りたい。

133鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2013/11/06(水) 21:13:12 ID:kaXJvxhM0
>>128 そうじゃ、苦を滅し悟りを得るのに必要な認識は誰にでも充分にあるのじゃ。
 ただひたすらに止観に励むのじゃ。
 またおいでなさい。

>>129 そのような映像にはあまり囚われないようにするのじゃ。
 雑念と同じくあまり意味は無いものじゃ。
 いずれ映像をコントロールできるようにもなるが、囚われれば神仏などが出てきておぬしは悟ったと言ったりして騙されてしまうのじゃ。
 どのようなイメージや言葉も観念の現れであり、囚われれば障害になるのじゃ。

>>130 自我の一部ではないのじゃ。
 観念でしかない自我に意志は持てないのじゃ。
 自我が投射されているのが意志なのじゃ。
 それは認識から起こるものじゃ。

134鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2013/11/06(水) 21:20:27 ID:kaXJvxhM0
>>132 そのような神降ろしの類は昔から何処にでもあるものじゃ。
 日本にもお狐様とかお狸さまとか犬神さまとか言って巫女が降ろしていたのじゃ。
 それらの多くは自己を離れた智慧や力によるものなのじゃ。
 
 自我を忘れるサマーディに入れば同じような事も出来るのじゃ。
 しかしそのような智慧も世間で役に立つ便利なものの範囲を超えられないものじゃ。
 無我には入っても、無認識にまでは行けないのであるからのう。

 精霊や守護霊や神仏と言う対象を捨てなければそこまではいけないのじゃ。
 それらを捨てられなければ悟りに対しては障害となるのじゃ。

135避難民のマジレスさん:2013/11/06(水) 22:18:09 ID:LC3de7YgO
>>133
ありがとうございます。
映像には囚われないように注意します。
今朝40分、夜1時間座りました。まだ二日目ですが、観察したい本心=感情が溢れてきません。本心で感じているはずの不安や恐怖、怒り悲しみなどの感情を意図的に引き出すために、例えば思考を駆使して己の死が今まさに差し迫っていると想起して恐怖感をあじわってみる。みたいな方法でも良いのでしょうか?

136避難民のマジレスさん:2013/11/06(水) 22:37:18 ID:iV9YIG0s0
.Nichiren to moko daishurai - 2:17:04
http://www.youtube.com/watch?v=9rUuMQ2ucSU
.Film Mongol - 2:05:28
http://www.youtube.com/watch?v=kRVLcTctZjg
.Mongol - [2007] - 2:05:40
http://www.youtube.com/watch?v=46ljLJW6US4
.DER MONGOLE [GANZER FILM HD] DEUTSCH - 2:00:57
http://www.youtube.com/watch?v=WSAn4XDbDC0

137避難民のマジレスさん:2013/11/07(木) 02:48:59 ID:Bwz0R3.60
仏教の本質 哲学者「中村元」 - 8:48
http://www.youtube.com/watch?v=NWZtkxP3eGg
中村元「フ?ッタ?最後の旅」短縮版 - 25:20
http://www.youtube.com/watch?v=kmXGXSKdgE0
中村元 - 6件の動画
http://www.youtube.com/watch?v=dvfXfsvJ4yc&amp;list=PLuNiMXdp2TQ0blL-f9feORhJQs-u-Texk

138避難民のマジレスさん:2013/11/07(木) 09:14:27 ID:ncKanP4g0
ここで鬼和尚に質問して、その通りに修行しても悟れるわけじゃ無いよ。
何十年も修行してる僧侶達ですら、ほとんど人が阿羅漢までは達して無いと言うのに
たかが何年か修行して悟りを得られるなんて思うのは考えが甘すぎる。
ましてやたかが何日かやって、自分の体の反応がどうとか言ってる人は、
観念を強めてるだけ。

悟りを得られなくても死ぬまで修行するって気構えでやっても、
悟れるかどうかなんて分からないと思っていたほうが良いんじゃ無いかな。
まあ、中には簡単に悟っちゃうような人も居るんだろうけど、
そういう人はここで毎日のように細かい質問を繰り返してる
ような神経質な人では無いと思うよ。

139避難民のマジレスさん:2013/11/07(木) 16:59:50 ID:Dp/qMVVc0
>>133 ありがとうございます。
意志も認識から起こり、自我は様々な心の機能に投射する
ということですね。
ブログの心の模式図を見ていたのですが、感情、思考、感覚は
どこから起こるのでしょうか?

140避難民のマジレスさん:2013/11/07(木) 18:03:04 ID:XpOqqj3k0
>>138

鬼和尚はそういう人の需要にこたえてる。
そういう人からしか質問が無い。
共依存。

141473:2013/11/07(木) 18:11:32 ID:XpOqqj3k0
自我は観念である、というが、それがどうしたというのだろうか。

その観念である自我に同化している。
我々は観念そのものなのだ。

観念そのものである我々が自身を観念だと把握することはできない。
それは2重の観念になる。

また、仮に観念だとして、その観念が私たち自身なのだ。
観念だから大したことない、観念だから幻だ、とはならない。

私たちは観念と自身を同一視していて、観念が大好きなのだ。

何かが観念だと見抜く。
鬼和尚はそういう2元性のスタンスをよく使う。
「私は真実で対象や他人は幻だ」と
いやいや、偽りであるのは私の方であり、それに少しでも気づいた人は自然な謙虚さが身につくもの。

「私は偽りだった」と私は言う。
これがスーパーエゴ。
私は偽りだったという理解は、態度からしか現れません。自然な謙虚さ。誇示の無さ。

問題は観念と同化している我々の意識の持ちよう。
「自我は観念に過ぎない。」
そう唱えても観念との同化は全く変わらない。
そもそも自我は物ではない。観念でしかありえない。
だからそんなことを言っても何の解決にもならない。

142鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2013/11/07(木) 20:02:37 ID:kaXJvxhM0
>>135 そのようなやり方でも良いのじゃ。
 普段は隠している死への恐れなどが観察できるじゃろう。
 恐れを観察しようとするだけでも恐れは少なくなるものじゃ。
 何でも試してみるのじゃ。

>>139 感情や思考も認識から起こるものじゃ。
 感覚は認識しなくとも反応があるから肉体から起こるものと言えるがのう。
 全てイメージの通りではないのであるがのう。

143避難民のマジレスさん:2013/11/07(木) 20:23:12 ID:NpBkhqbI0
認識は観念じゃないと思うぞ

144避難民のマジレスさん:2013/11/07(木) 21:21:16 ID:LC3de7YgO
>>142
ありがとうございます。
長らく感情を抑制する社会的訓練を重ね、更に瞑想で雑念や感情を滅する技術を訓練したせいか、意図的に素の感情溢れさすことは難しいです。下手をするとネガティブな自己暗示をかけているような感じになりそうです。
ブログに紹介していただいていた、自分の名前とイメージを観察するというのもやってみましたが、うまくゆきません。
自己観察をはじめたら、パンドラの箱を開けたようになり、苦にまみれ、収拾がつかなくなるのではという不安は全くの杞憂でした。
感情を燻りだす良い方法はないものでしょうか?

145473:2013/11/07(木) 21:40:17 ID:XpOqqj3k0
ブッダはこうおっしゃります。「こころひとつですべてを作る」と。
ヨガではこう言われます。、「体はこころの内にある。心は体より広い」と。

そう。
物質より観念は希薄なものというわけではなく、むしろより強力なものなのです。
観念が物質を定義するのだと伝えられています。

146避難民のマジレスさん:2013/11/07(木) 21:44:02 ID:XpOqqj3k0
>>143

観念、という言葉自体が、心という主体が客体として投影する思考、ということで非常に末端のものです。

ブッダは、こころ、という表現で主体客体を包括します。
無意識的なもの、感情的なもの、その全てです。

こころの働きが認識作用を生んでいるとブッダは仰ります。
こころが静まれば認識も静まる。

多分、あなたがおっしゃるところの「認識」は観念と関係ないのかもしれません。
しかし、私たちの知ってる認識は、私たちの心が定義した何かゆがんだものだとも思うのです。

147避難民のマジレスさん:2013/11/07(木) 21:49:46 ID:XpOqqj3k0
>>142

感情や思考は記憶から起きる。

記憶を通した認識から起きる。
記憶は執着を生む。執着は恐怖を生む。

我々は記憶を通さない認識など持っていない。
持っていないものを夢想することのむなしさを知るものにこそ祝福あれ。

148避難民のマジレスさん:2013/11/07(木) 22:25:06 ID:Dp/qMVVc0
>>142 ありがとうございます。
ブログの心の模式図は、完全に正確なものというより、
以下のことを示しているということでしょうか。
つまり、大抵の人が自分自身の基盤だと思っている
自我というものが、誤った認識であり、
実際は自我も感情、感覚、思考も自分自身でもなく、
自分のものでもないということを
理解するためのものだということです。

149龍華:2013/11/07(木) 23:06:30 ID:kl1CR23s0
>>134
ありがとうございます。

>自我を忘れるサマーディに入れば同じような事も出来るのじゃ。
アニメの一休さんみたいなのですね
坐禅の中から智慧を持って帰るってシーンは一休咄の中に既にあるのかな。


>しかしそのような智慧も世間で役に立つ便利なものの範囲を超えられないものじゃ。

世の中や人のお役に立てば、ありがたくて素晴らしい物だと思いますが…
その便利な物を超えた物とは何でしょうか??
無認識の中で何かが得られるというのはちょっと矛盾を感じます

150鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2013/11/08(金) 20:08:29 ID:kaXJvxhM0
>>144 感情を露にするのは実は容易な事なのじゃ。
 抑えていたものを解き放つだけであるからのう。
 例えば落ちそうになる岩を支えていた手を離すようなものじゃ。
 常日頃から感情を抑制していればそれが習慣になり、無意識に感情を押さえつけている事も意識しなくなるのじゃ。
 それに気付き、抑制を止めるだけで感情は露になるじゃろう。
 
 逃避もまた同じなのじゃ。
 抑制も逃避もせずに自分の心に向き合う事を決意したならば、自然に道は開かれるのじゃ。

>>148 そうじゃ、そのような解釈で良いのじゃ。
 本来何物も心の中のイメージとは違うものじゃ。
 あえて図を示すのは修行者の不安を取り除くためなのじゃ。
 悟りとは何やら心を恐ろしげに改造するものであるらしいとか、そのようないわれの無い恐れが無くなればよいのじゃ。

>>149 そのような世間の知では不死の意識、死を超えた悟りの境地は推し量れないのじゃ。
 せいぜい輪廻の知識位までしか判らんからそれが永遠に続くとか、言ってしまうのじゃ。
 真実の在り様を知り、死を超えた永遠の意識に到達するには、目覚めた者の智慧を道標にするしかないのじゃ。

151避難民のマジレスさん:2013/11/08(金) 20:27:16 ID:XpOqqj3k0
>>148

自我、感情、感覚、思考が自身であるということを認識すること自体がはるかな道のりです。

私たちは、いつもそれを対象として認識しています。対象としてそれを見る時、主体が当の自我、無意識の思考、感情、なので全く進展がありません。
主体がそれだと認識することは最高度の知性、覚醒を要します。

152龍華:2013/11/08(金) 21:47:36 ID:kl1CR23s0
>>150

ありがたいことです
ありがたいことです
ありがたいことです

153避難民のマジレスさん:2013/11/08(金) 22:14:32 ID:LC3de7YgO
>>150
ありがとうございます。
決意をあらたにしました。感情の堰の解放はまだできませんが、呼び水に応じて感情が溢れるのをまって、特に集中しようとせずに姿勢の維持して腹式呼吸をしていると、意思力によらずに意識を呼吸に置く感覚がよりつかめたり、足の痺れを今までより簡単に消したり、あるいはほとんど感じないようになったりという想定外の効果がありました。

154避難民のマジレスさん:2013/11/09(土) 01:51:31 ID:LC3de7YgO
>>150
連投お許しくださいm(__)m
抑制も逃避もせず自分の心に向かう決意をあらたにして1時間座ってみました。
背筋を伸ばし腹式呼吸をして20分くらいして、今日あった感情を伴う出来事が思い浮かび、それを観察してみました。止の行の時のように帰るべき集中対象がないので、その感情に意識をとどめ、その感情の背景原因なども観察してみました。止の行の時はそれを観察して因果を見極め消し去るだけでしたが、待ち受けていた感情がせっかくわいてきたので、連想ゲームのように他の感情に広げようとしてみたりしている内に、こんなやり方でいいのか疑問に思い、ふといつものように思考を止め、呼吸に意識を振り向けると 感情は消えてしまいました。 まだ慣れていないので、呼び出した感情の取り扱いに付きどうしたものかと…

155避難民のマジレスさん:2013/11/09(土) 10:30:42 ID:Dp/qMVVc0
>>150
オショーとクリシュナムルティの本もいくつか読んでみました。
鬼和尚のブログも含め共通しているのは、いずれも悟りへと
いざなうものであり、
・自我や師匠や神を含む、いかなるものにも囚われないこと
・自分自身の今ここを見守り(観察)続けること
・悟りは素晴らしいということ
を質問者に合わせて説いていると理解しました。
いずれからも、修行を続ける勇気を鼓舞されます。
自然に止観ができるように、これからも努め励みます。
ありがとうございました。

156避難民のマジレスさん:2013/11/09(土) 16:01:08 ID:j..Vzewk0
良心、善悪判断について教えて下さい。
これはある時点までは必要だと思います。悪いことをしたら心が痛む、それで心や行動を修正する
苦しみから自らを省みざるを得ない、これが因果応報、カルマの法則として働いている。
良心はセンサーみたいなものでしょうか、これにひっかかる、想定外のものが出てくると判断して苦
に繋がる。
人に良いことをすれば心が温まる、人を傷つければ心が痛む、これは良心が正常に働いている
ためで、エゴの方に行かずに愛の方に引き戻すもの、と捉えれば慈悲や神性から来るもののようにも
思えます。
例えば
子供を8人殺した宅間守の発言の痛快さは異常
http://blog.livedoor.jp/hanakuso_quality/archives/23978804.html

このような人がそばにいたり、被害者の立場になったとしたら、良心や善悪判断、自我を超越し続けていないと
心が苦を感じ続けると思います。大変な。
良心から言うと、せめて謝ってほしい、反省した態度が見たい。相手の良心を確かめたい。
それが裏切られると、己の判断から苦や怒りに繋がり、それを感じたくないために相手を罰したい、殺したい、
拷問したい、となるでしょう。因果応報とは罪と罰の法則で、それが良心から来ているとしたらやはり自我の範囲内
のものなのでしょうか。
ここまでではないですが、私もある人の顔や言動を見ると良心や善悪判断がうずいてもやもやと、また考え始めると
イライラと苦を感じるので見たくない、突き詰めれば反省も変化もしないので罰したい、居なくなってほしいと感じて
しまいます。どうしてもそこで自我を超越できないからです。
最初はその人のいい部分を信じました。話せばわかるだろうとかばいました。でも自分の想定外の人でした。
そこでそのひとをそのままただあるものとしてほっておけなくなった。コントロールの気持ちが出てしまいます。
どのように観察していけば滅されるのか分析力がないのでわかりません。ヒントをお願いします。

157避難民のマジレスさん:2013/11/09(土) 16:40:43 ID:j..Vzewk0
観察とは自我の現実味を薄れさせる、という過程でしょうか?
自分のものでもある全自我の異常性や悪い、醜い部分までも認めたうえで、こういうのもあっていいんだ、と
受け入れることでしょうか?達観した視点で。

158避難民のマジレスさん:2013/11/09(土) 17:09:46 ID:j..Vzewk0
上の宅間の発言を自分と切り離して読んでいた時は信じられないエゴイストで良心のかけらもない
と思っていましたが、復讐心など同じような部分があるかもしれない、と思いました。
死にたいと思っていたということは苦しかったわけで、軌道修正できない、エゴの異常性にとことん
憑りつかれてしまったのでしょう。

159鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2013/11/09(土) 20:35:49 ID:kaXJvxhM0
>>152 どういたしまして、またおいでなさい。

>>153>>154 感情が見えたならば、それも干渉せずに思考や雑念と同じように、ただ生じては消えていくのを観察すれば良いのじゃ。
 感情も己とは関係なく生じては消えていくだけのものであるとわかるじゃろう。
 そのようにして感情に囚われる事も無くなるのじゃ。

>>155 良かったのじゃ。
 またおいでなさい。

160避難民のマジレスさん:2013/11/09(土) 21:10:23 ID:LC3de7YgO
>>159
ありがとうございます。
心の深層を掘り起こしてみようと思います。
今朝は、目覚めと同時に自動的に自分の心を観察していました。
清々しくも、苦しくもありませんでしたが、ひたすら深い孤独感を感じ、それを観察しました。

161鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2013/11/09(土) 21:12:37 ID:kaXJvxhM0
>>156 そのような善悪の判断は自分が行いの基準とするには良いが、他人に当てはめるのは間違いなのじゃ。
 他人を裁く基準とすればそれはエゴの範疇という事になるじゃろう。
 他人の行いを見ず、自らの行いを観るのじゃ。

 凶悪犯も想定外の者も良く知ればそのような行いをする理由に気付くじゃろう。
 知る事で理解も出来るのじゃ。

162避難民のマジレスさん:2013/11/09(土) 22:16:36 ID:j..Vzewk0
>>161
でも他のスレで、不正をしたものは報いを受けることになるから放っておいていいのじゃ、と言われてますよね。
このように、罪と罰の法則、報いがあってしかるべきだ、というのは自我ではないでしょうか?
この観念や善悪判断がなくならない限り、他にも適応してしまい、苦が生じると思うのです。
どんな凶悪犯もずるいやつも心の中で無罪にしない限り、自分の中でも罪と罰の苦を感じ続ける。
よく善悪の実を食べたことでエデンの園から出た、という比喩もありますが、良心や善悪や報いで修正していくこと
は必要ですがあくまで自我の範疇で、悟るにはそこを超越する必要があるのでしょうか。(もちろんだからといって
何をしてもいい、という意味ではなく)
それに自分を裁いて他人を裁かない、他人を裁いて自分を裁かない、というのも無理だと思うのです。繋がっているから。

163避難民のマジレスさん:2013/11/09(土) 22:21:50 ID:j..Vzewk0
我欲のために人を踏みにじることはいけないことだ、などのセンサーがあるから
そのようなことはしない、改める。
でもその判断やセンサーがある限り、苦の原因にもなる。この矛盾が分かりません。
自我を超越することにかかっている気がします。

164避難民のマジレスさん:2013/11/10(日) 00:22:01 ID:GNXio6ZY0
鬼和尚
瞑想中にクンダリニー上昇と言われるものが起こっているかもしれません。
クンダリニーは悟りと関係あるのでしょうか。

165避難民のマジレスさん:2013/11/10(日) 14:09:58 ID:WL2yRwjAO
>>163
そう思う。
道徳心のセンサーが苦をもたらす
しかし生きていく限り、センサーが鳴り響く事は四六時中起きる。
このセンサー(超自我)は真我に属するのか自我の一部なのか
バガヴァーン鬼和尚
このセンサーは消すべきなのか或いはそのセンサーに従うべきなのでしょうか
センサーの感度が高いと生きていくのが辛くなる。センサーがうるさいので進んでサービス残業したりとか
でもセンサーが無いと知らず知らずに反社会的な行動にのめり込んでいる可能性もあると思う。

166避難民のマジレスさん:2013/11/10(日) 14:16:05 ID:WL2yRwjAO
このセンサーって目覚ましのアラームのように
人によって鳴る基準がまちまちなんだよな
人を殺しても鳴らない人もいるし蟻ん子を踏んづけただけでけたたましく鳴り響く人もいる
もしセンサーが無ければ苦は無いですけど
このセンサーが諸悪の根元じゃないかと言う気もする。

167鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2013/11/10(日) 20:52:10 ID:kaXJvxhM0
>>160 良い事じゃ。
 それが抑制されていない感情なのじゃ。
 抑制が働く前に見えたのじゃな。
 更に実践するのじゃ。

>>162 それはただの真実なのじゃ。
 自我があってもなくても報いは起こるものじゃ。
 
 他人の行いを見なければいかなる観念も投射する事は無いのじゃ。
 お釈迦様もこのように言っておる。
 50 他人の過失を見るなかれ。
 他人のしたこととしなかったことを見るな。
 ただ自分のしたこととしなかったことだけを見よ。
 
 まだ他人の行いを見ていれば善悪の観念の投射も起こるのじゃ。

>>163>>165 自我を捨て、認識をも滅すれば自然に一切の観念も消えるのじゃ。
 それは自らの観察によるものであり、幾つもある観念を一つ一つ消したからではないのじゃ。
 善悪とか強弱とか貧富とか有名無名とか好悪とかの相対的な観念は、
 強く囚われているときのみ離れるべき観念であり、全てを一つ一つ消していかなければならないと言う事は無いのじゃ。
 
>>164 それはサマーディにまで素早く入れるエネルギーなのじゃ。
 頭の天辺までエネルギーが到達すればサマーディが起こるじゃろう。
 そこから更に己が観られれば無我に成るのじゃ。
 更にそれを観る意識さえもなくなれば無認識に至り、真の悟りといえるのじゃ。

168避難民のマジレスさん:2013/11/10(日) 22:53:47 ID:GNXio6ZY0
>>167

>>164です。
ありがとうございました。

169避難民のマジレスさん:2013/11/10(日) 23:18:03 ID:LC3de7YgO
>>167
ありがとうございます。がんばります。

170避難民のマジレスさん:2013/11/11(月) 00:03:18 ID:GNXio6ZY0
鬼和尚
先ほど坐っていました。
己の全てが見渡せるような感覚がありました。
見渡す限り何もありませんでした。

わずかに、今日私が見聞きした物事の記憶の再生が断片的に行われました。
それは自我と呼ばれる者の行いでしょうか。

171避難民のマジレスさん:2013/11/11(月) 13:23:46 ID:j..Vzewk0
>>167
鬼和尚さんは悟る前から罪悪感というものが薄い方でしたか?罪悪感についてはあまり話しませんね。このセンサーや判断は罪悪感に端を発していると
思います。
私はこれや恐れが凄い強い方で、やっと今解放され自由を感じてきているところなんです。
上のエデンの園の例でいうとそこから出た状態を原罪とか陥罪とか罪への堕落とか表現されるように、自我そのものの根底に罪悪感や欠乏感というものがある。
でも悟った状態では罪も恥も恐れもない、いらない。自我がなく欠乏感もないので我欲もないし人を傷つけたりするわけがないから。(分離意識がなく
他人も自分だから)
自我だとこれがある、場合によって修正にも必要になる。上で私が苦手とするのが、悪い意味で恐れや恥や罪悪感がなく、人に何を言われても
平気でエゴの方に突き進む人です。これが怖く感じて胸がざわざわする。いいのか、と。
報いは罪悪感がないと感じないと思います。既に人から嫌われているのに平気なんですから。だから修正しない。
人を見るな、と言いますが、よく周りは鏡で、それに対してどう反応するかで自分のエゴを自覚することができる、と言われます。
そういう意味でも周りや他人を排除して見ないようにするだけではあまり意味がないと思えます。この私のざわざわとした恐れはどんなエゴなんでしょう。

172鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2013/11/11(月) 20:35:49 ID:kaXJvxhM0
>>168 どういたしまして、またおいでなさい。

>>169 そうじゃ、実践する者だけが進んで行くのじゃ。
 またおいでなさい。

>>170 それは自我ではないのじゃ。
 自動的に起こる連想なのじゃ。
 忘我であったようじゃのう。
 それが自分であると認識するのが自我なのじゃ。
 
>>171 そのような罪悪感は親兄弟などの条件付けによる事が多いのじゃ。
 その問題はむしろおぬしの心の中にのみある事をよく観るのじゃ。
 他人はおぬしが何を思っても思わなくても行いによる報いを受けるものじゃ。
 それを放置できない自らの心に気付くのじゃ。

173避難民のマジレスさん:2013/11/11(月) 23:29:29 ID:tHj0j65Y0
忘我と無我、取り違えそうですね

174素人A:2013/11/12(火) 07:14:26 ID:gOqWUDAs0
鬼和尚さん仏さんがこの世に来たのはこの世で修行するためなのですか?
極楽では楽だが修行はこの世が適しているのですか?最近の私は夢の中で
ぎゅうぎゅうの目に合わされて修行させられているし起きているときは
中々坐禅し無いあれやれこれやれでやれやれと憑かれているし
つまり忙しい現代生活は疲れる

175避難民のマジレスさん:2013/11/12(火) 08:09:44 ID:GNXio6ZY0
>>172

>>170です。
>>170に書き込んだ瞑想を終えた後、しばらくの間、今までにない自分の変化を感じていました。
それは、身体の芯(胸から腰のあたり)がすっきりとして、軽やかな感じがしたのです。
そして、自分が特に何も思考することなく行動していることに気付いたのです。
この感じは、寝て、夜中に途中目覚めてトイレに行ってもう一度寝るまで続きました。
これも忘我と関係あるのでしょうか。

176鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2013/11/12(火) 20:53:47 ID:kaXJvxhM0
>>173 忘我の状態で自我に気付けば無我になるのじゃ。
 我が観えて消えるのであるからのう。

>>174 修行に来たとも言えるのじゃ。
 衆生のために来たのじゃ。
 一休みしたらよかろう。
 一休み一休みじゃ。

>>175 それは無念無想の状態なのじゃ。
 そこに我というものが投射されて無ければ忘我なのじゃ。
 思考に自我を投射する性質の者ならば、思考が無ければ自我も一時忘れられている忘我といえるのじゃ。

177173:2013/11/12(火) 22:42:38 ID:tHj0j65Y0
>>176
やってみます。ありがとうございます。

178避難民のマジレスさん:2013/11/12(火) 23:05:26 ID:GNXio6ZY0
>>176
自分が「思考に自我を投射する性質」なのかどうか、
あるいは他の何かに投射する性質なのか、
それを知ることはできるのでしょうか。
できるのならば、その方法はどのようなものでしょうか。

179避難民のマジレスさん:2013/11/13(水) 04:12:13 ID:j..Vzewk0
>>172
ありがとうございます。でも私の質問の核心には触れられていないようです。罪を放置できないのは自我の見方が残っているからです。
罪を罪と見なければ罰などいらない。恐れも発生しない。
ここではエンジンを取り換える、というように、全く違う見方、命に切り替わることの根底の話です。親からの条件付けなどのみではなく。

180避難民のマジレスさん:2013/11/13(水) 04:17:40 ID:zc9z5nbU0
全ての苦は自我の自罰といっていいと思いますよ。他人を批判したり攻撃するのも自罰の投射で。
だからその根底にある罪悪感の話は避けて通れないと思うんですが。

181鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2013/11/13(水) 21:34:52 ID:kaXJvxhM0
>>177 そうじゃ、何でも試してみるのじゃ。
 またおいでなさい。

>>178 それはおぬしが何をしている時に最も自分を自分らしく感じるかで判るのじゃ。
 思考したり論理を構築したりする時に自分というものを感じるならば思考に最も投射している者なのじゃ。
 肉体を動かしている時に自分らしさを感じるならば肉体に投射しているのじゃ。
 芸術活動などが好きならば感情に投射している者なのじゃ。
 このように特に自分を自分らしく感じる働きに自我は投射されているものじゃ。

>>179>>180 更に観察してみるのじゃ。
 罪を放置できないのは自我の見方が残っているからと思わせるのが自我の働きなのじゃ。
 
 全ての者が罪悪感を持っているのではないのじゃ。
 それも観察してみるのじゃ。

182避難民のマジレスさん:2013/11/14(木) 07:59:05 ID:GNXio6ZY0
>>181

>>178です。ありがとうございました。

183避難民のマジレスさん:2013/11/14(木) 10:51:00 ID:WL2yRwjAO
私は2ちゃんねるに書き込んでいるとき最も自分らしく感じるかも知れません。

特に空想している時や物思いに耽ったりしている時に自分らしく感じているかもしれない

この時間が遮断されると苦痛を感じます。
端から見てるとボンヤリしているだけなのですが
このボンヤリの時間が自分なのです

184避難民のマジレスさん:2013/11/14(木) 12:22:22 ID:7rD9T5220
鬼和尚、ここのところ苦滅の法の実践をしていて、その強力さに驚いています。
苦しいこと、嫌なこと、面倒なことは、大部分が自分の心が作り出している
もので、その元になっている肉体の疲労や痛み自体はたいしたものでは
ないということが分かってきました。どうもありがとうございます。
それで、2つ質問があります。

苦滅に励み、成果が上がるようになるにつれて、全能感というか慢の感情が
起こるようになってきています。慢の感情と、それに続いて起こる嫌悪感を
観察し、もし他と比較する心の働きが無ければ、慢も起こらないと想像して
みると、慢の感情と体の反応は消えていきますが、このまま進めて良いもの
でしょうか?もし、この段階で注意する点がありましたら、お教えください。

また、苦滅ですが、厭離が完全なときと不完全な時があります。不完全な時
は苦は軽減するものの、無くなりません。自我の起こりの観察が次の目指す
ことだとすると、苦滅にこだわりすぎるのも良くないのかと思う反面、
苦滅に徹することで自我の最も恐れていることなどを見出せるかもと思います。
今のところ、自分の嫌悪すべき心のうちも淡々と見られているようです。
苦滅に徹すれば良いのか、苦滅はほどほどで止観を中心にすれば良いのか、
お教えください。

185避難民のマジレスさん:2013/11/14(木) 18:36:55 ID:NpBkhqbI0
一言でいうと、私の自己イメージは「モサッとしている感じ」で、そういわれることも多いです。
行動が緩慢で、動作と動作の間に思考が絡みます。
これは「イメージ」ではなく、事実もそうです。
行動するのが嫌いで、ぼんやり思考しているのが好きです。
これは自我(虚構の私)なのでしょうか、それとも自己(真実)なのでしょうか
真実かどうかわかりませんが、かなりものぐさなのは事実だと思います。
無我の境地にいたると、ものぐさも消えるのでしょうか
それともものぐさは個性なので、その個性を生かして生きるべきなのでしょうか

186避難民のマジレスさん:2013/11/14(木) 18:50:51 ID:NpBkhqbI0
鬼和尚

無我ということは、価値判断の基準が無くなるということですよね。

「モサッとしたいい人」というのが、私のイメージなので、大体それを踏襲した行動しかとれません。
「ギャンブルをして一攫千金」とかいう行動は良くも悪くもできません。
無我になれば、全く別次元からの想像を絶する発想や行動も可能ということですよね。

常にとは言いません。
凡夫が一瞬でも無我になり、智慧が生じる方法はないのでしょうか

どうせ、自我の奴隷で、明日も予定調和の行動しかとらないことがわかっている。
そこから何としてでも飛躍したい。楽になりたい。
一瞬だけでも、智慧が生じるならば、運命も変わると思います。

187避難民のマジレスさん:2013/11/14(木) 18:51:20 ID:GNXio6ZY0
鬼和尚
「忘我」と「サマーディ」は同じですか?

188避難民のマジレスさん:2013/11/14(木) 20:02:23 ID:WL2yRwjAO
瞑想中、明日会社での自分を観想すると
ペコペコ、モタモタして怒られている自分が想像つきますが、これがまさに「自己イメージ」な訳ですよね
こうして浮かび上がる未来や過去の自分を見る事は観察に当たりますか?
自我観察してますよね。観念を弄んでいる訳ではないすよね
観念を観てるんだから
これは観察ですよね

189鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2013/11/14(木) 20:26:50 ID:kaXJvxhM0
>>182 どういたしまして、またおいでなさい。

>>183 その自分を観るのじゃ。
 牛の足跡を追うようなものじゃ。
 性質が判っているならば観るのも容易なのじゃ。

>>184 良い事じゃ。
 
 自分で慢心に気付いて滅するならばそれで良いのじゃ。
 自己観察の習慣が身につくのは良い傾向なのじゃ。
 それをそのまま進めたら良いのじゃ。
 
 この世に何の未練も無くなったら止観を修行して悟りに向かうと良いのじゃ。
 苦が無ければやりたかった事とか、そのような執着が残っているならば、この世で苦を滅しながらて何でもやって見たら良いのじゃ。
 何か執着や未練が残っていれば修行を止めてしまうからのう。

>>185 それを自分と思うならば観念による自我なのじゃ。
 ただ単に思考する事が好きならばそれによって行動が妨げられているのかもしれん。
 思考が無ければまた違うようになるかも知れん。
 思考せずに行動したりして試して見たら良いのじゃ。
 自分の本当の性質が判るじゃろう。

190鬼和尚 ◆GBl7rog7bM:2013/11/14(木) 20:33:26 ID:kaXJvxhM0
>>186 自分のイメージに基づいた基準は無くなるじゃろう。
 強い集中によってサマーディに入れば自我を忘れ、思考も無く行動できるのじゃ。
 訓練すれば行いも出来るのじゃ。
 スポーツやゲームなどに夢中になっているとそうなる事もあるのじゃ。
 試してみるのじゃ。

>>187 忘我はサマーディの条件なのじゃ。
 強い集中によって我と言う観念を忘れたらサマーディに入っているのじゃ。
 強く集中しても我と言う観念があれば未だサマーディに入ったとは言えないのじゃ。

>>188 イメージを観ていると判っているならば観察になるじゃろう。
 それが自分と思ってしまうと間違いになるのじゃ。
 自分ではなく自分のイメージを観ているのであるからのう。

191避難民のマジレスさん:2013/11/14(木) 22:07:33 ID:log.GW5E0
>>190

>>187です。ありがとうございました。

192避難民のマジレスさん:2013/11/14(木) 22:19:04 ID:Dp/qMVVc0
>>189
>>184 です。確かに執着というか、まだこの世でやっておくべき使命
があると感じています。瞑想は楽しんで続けていきますが、まずは
苦滅の力を使いつつ、使命を果たそうと思います。

仏教は、悟りを得た人たちが、後世の人たちを悟りへ導くために
時代や人々に合わせて作り出した技術と心得の集まりだと理解しました。
その中でも鬼和尚の教えは、現代の日本人に向けられたものであり、
とても明確で理解しやすく、実践する勇気もいただきました。

本当のことをなんとしても理解したいので、いずれ必ず悟りの道に
戻ってきます。これからも私を含め、多くの人を悟りにお導きください。
ここまで本当にありがとうございました。

193素人A:2013/11/14(木) 23:01:52 ID:G5HiNwNQ0
瞑想が迷走してしまった空瞑想欠かして、坐禅する事にしたカカシさん。
ただ駄洒落が言いたいだけの私鴨意味は何も無い失礼しました。
二十四時間ざ前観察せよの鬼和尚さん。ぽつ師匠は二十四時間コンビに居る師
わたしは二十四時間散漫に居る。少しは精神統一使用

194避難民のマジレスさん:2013/11/15(金) 06:52:47 ID:WL2yRwjAO
鬼和尚
作家のスーザンケイン氏の「内向型人間の時代」と言う本の書評を読んで思ったのですが
こう言った内向や外向などの性格傾向はある種の遺伝的特徴で
観察したから消えると言った類いのものなのだろうかと言う疑問があります
消すと言う発想には悪いものと言う観念がある。
確かに内向型性格の人は観念的な思考に執着している面もある
しかしそれが無意識の傾向でありその人の個性と切り離せない場合
その「執着」を消す事は難しいとも思うし、著者もその素晴らしい個性を生かす道を探るべきと説いているのだと思う。
と、同時に内向型性格の人が抱えている不安が、過度な観念的思考が作った産物である事も確かだと思う。
悟りと性格について
悟った人の意見をお聞きしたいです

195避難民のマジレスさん:2013/11/15(金) 07:25:17 ID:WL2yRwjAO
スーザン氏も三十代半ばくらいまで向いてない仕事をして試行錯誤していたようだから
十牛図で言うと自分(牛)を見失った状態で
世間的な生き方を断念して自己(牛)を見つけ、牛の上に乗って快適な状態で、次第に(自己)牛も消えて、全てが一体となった無の状態になるのかもしれない

ああ自分は内向型だなとか見極めがついたのも
牛の足跡を見つけた状態なのかも

うん。そうだ。

196避難民のマジレスさん:2013/11/15(金) 09:33:56 ID:ncKanP4g0
>>195
君は人生相談板で、ウンコ達と仲良くああだこうだやってる方が合ってると思うよ。

197避難民のマジレスさん:2013/11/15(金) 13:56:42 ID:6dCAVrZQ0
>>195
ここは質問スレです。あらしはやめましょう。


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