したらばTOP ■掲示板に戻る■ 全部 1-100 最新50 | |

神と科学は共存できるか

1地下に眠るM:2007/11/12(月) 20:22:48 ID:yb0RBWTc
管理人のブログ記事
ttp://d.hatena.ne.jp/NATROM/20071105/
のコメント欄におけるやりとりの続編スレですにゃ

162地下に眠るM:2007/12/23(日) 22:44:44 ID:J4MyD2WQ
社会生物学論争史1を読了。
「神は妄想である」は今日発送したというメールが届きましたにゃ。
予約してあったグールドの「神と科学は共存できるか」を昨日図書館で借りて参りましたにゃ。

正月はこのあたりをゆくーりと読むつもり。

で、社会生物学論争史1を読んで、なんとなく思ったことなんだけど
ドーキンスの基本モチーフのひとつに「ニンゲンは遺伝子支配に対抗できる」ちゅうのがありますよにゃ。
もしかしたら、ドーキンスの執拗な宗教批判のベースには、この「遺伝子支配への対抗」というものがあるのではにゃーかという気がしたのですにゃ。このモチーフが宗教批判の形をとった場合、非常に激烈なものになっていくのは理解できる。それは、単なる「外部」批判に留まることができにゃーものだからだ。

まあとにかく読んでみますにゃ。
(ほかに読みたい本も正月にはあったんだけどにゃー・・・・。自業自得にゃんが)

163AH1:2007/12/26(水) 12:34:06 ID:fKqeZx4M
すいません、ここだけレスさせてください。

>>建て前として批判可能かもしれませんが、公に強く批判しても批判者に対して何も起きないとNANさんお思いですか?
>なぜ「強く」批判するのですか?効果的な批判とは「強い」批判とは限りません。

強い批判でも弱い批判でも良いのですが、皇室問題については「宗教だから遠慮する」ではないでしょう。あくまで、ダークグリーンのいかつい車が大音量でドラ声を響かせながら、迷彩服のアンチャンを乗せて来るからではないですか?
つまり、「宗教だから遠慮する」のではなく、はっきりと暴力による威嚇があるから二の足を踏むのでしょう。
私はあんな連中は素朴な神道を汚しているとしか思えませんが、面と向かってそう言えば取り囲まれて殴られそうだから言ったことはありません。私がヘタレである事は確かだとしても、これは「宗教に遠慮している」ことになるでしょうか?
私はNANさんの言う「利権機構」に附随する暴力装置が問題であり、宗教であろうがナチズムであろうがパクス・アメリカーナであろうが同じだと思います。

164地下に眠るM:2007/12/28(金) 23:42:17 ID:SQkurglE
「神は妄想である」を読み始めたとこ。
ここまでヒデエ本だとは予想してなかったにゃ。
明白な事実誤認(ことによると捏造)や決めつけを根拠にした厨房論法が目立つ。

これを書いたのは本当にあのドーキンスなの?

読まずに厨房呼ばわりしていたけど、思っていたよりよっぽどヒデエ。
数ページめくるごとに「馬鹿か、こいつ」と呟きながら読んでおりますにゃ。

うん。これがまかりとおるのなら、創造科学に同情しちゃうね。

165後悔と懺悔:2007/12/30(日) 22:21:15 ID:yW.XqGsE
>>132:chochonmageさん
>言わば、戦争遂行者とその手駒になっている(ならざるを得ない)人では「責任」のありようが違うのではないかということです。

もちろんそうです。誰もが一律に同じ責任を負えと言っているわけではありません。ただ、誰か直接の責任者を見つけてきてそれを追及し、自分は無関係(むしろ「悪」を追及している自分は「正義」の側の人間である)というのは違うのではないか──ということです。
オウム事件のとき、多くの教員は(特に理科教員は)自分の教え子にオウム信者がいたわけでもないのに「自分が教えてきたことはなんだったのだろう。自分は何をしなければならなかった・今後しなければならないのだろう、一体何ができるのだろう」と激しく自問しました。それは私には人として自然な感情に思えます。そういう感情が湧かない人を「間違っている」とは言いません。でも、事実の問題として、多くの教員はそういう気持ちを持ったのです。
私は、ではなぜ「宗教」はそういった気持ちから自由なのだろう──ということが不思議なのです。その気持ちが、>>102の4番目の「たとえば」には込められているわけです。

>>133:AH1さん
>「共通認識を持たない相手にはどうすればよいか」「『ある基準において論理的に正しく望ましい』事が,別の基準と共存できるか」という問題です.

ですから、それは何度も何度も書いているように(>>6>>17>>48>>50>>128)、当事者同士が真剣に向き合って解決していくしかないでしょう。どうしても相容れなければ、「互いに今後一切干渉しない」とするかも知れませんし、第三者に判断を仰ぐかも知れません。それは当事者どうしが決めればいい。簡単なことです。それを難しいことにしているのは何か──ということです。そして私はそれを非難しているわけです。

なんというか、AH1さんは人間というものに対してあまりに悲観的というか侮蔑的に過ぎる気がします。>>130に書いたように、人間は、どんな倫理感や道徳感を持ちうる本来的な傾向があるのか、そういう傾向は人間のもつどんな本性的・本能的な性質からもたらされるものなのか、それらはどの程度普遍的ないし強固なものなのか──といったことは、実はさんざん研究・検討されてきているのです。分かってきたのは、人間の本性的・本能的な感情の傾向なんて、いつどこで生まれ育っても大して変わらない──ということです。
AH1さんは、「惚れた女なら相手の気持ちなんて考えずに力ずくでとことん犯して孕ませろ」という価値観をもった文化が醸成される可能性を本気で危惧しますか。逆に「たとえ理由なくぶん殴られても、殴った相手を決して責めてはならない」という価値観が支配的な文化が存在しうると考えますか。「異邦人の女ならいくら泣き叫ぼうが犯しても良い」という価値観と「相手が誰であれそこまで非人間的な扱いをすべきでない」という価値観の2つを提示された人間は、前者の価値観に好感を持ったり支持したりすることもあると主張しますか。
私は、もういちいち引用を示しきれないほど、「“重要な問い”への向き合い方について、人の理性は(不完全とはいえ長いスパンでみれば全体的に)信頼に足るものであると思われる(>>49)」という主張を擁護してきたのですけど、AH1さんはまだまだ不満だということでしょうか。

>>134:AH1さん
>一方,上の言葉に続けて「君たちは宗教という下らないモノに囚われている.今こそ理性と自由意志によって解放されるべきなのだ」と言い出す事も可能だし,これは何気に失礼千万な言い方だな,という漠然とした「感じ」です.

おそらく多くの人間はそう感じるんです。まさにここで皆さんが証明してくれているように、自分のモノとは違う「正しさ」を押しつけてくる(私のような)モノに対する嫌悪感は、人間の自然な感情だと思うんです。私の主張の正当性の根拠はまさにそこにあるわけです。

>>133:AH1さん
>第一掲示板の方を見て頂けばわかると思いますが,このサイト自体が「科学でないものが科学のフリをするな!科学を名乗るなら科学の基本に則ってからにしろ!」という基調に貫かれていると考えています.

それは存じております。その点ではすでに合意できていると思っていましたが。ただし、何度も繰り返しているように、「宗教」に超自然的なコト・モノを信じさせる教義なり傾向なりがある限り、この点での批判は避けられないと思います。

166後悔と懺悔:2007/12/30(日) 22:24:45 ID:yW.XqGsE
>>133:AH1さん
>また,相当に有害だと思わない限り,こちらから「取り締まり」に行くことはしたくありません.

そのお気持ちは尊重します。でも、そう思うならば、相当に有害だと思っている人間が取り締まりに行くのを非難しないで欲しいのです。

>>147:AH1さん
>恐らくそうだとは思うのですが、それは各人がどれだけ自戒しても過剰ではない、と思うのです。ヒトはとかく「正義の御旗」に弱いものですから。

AH1さんのこのコメントが誰に向けられているのか分かりませんが、私はここでずっとそのことだけを主張し続けているのであり、「宗教」はそれを妨げるものだと非難しているのです。
なお、AH1さんの>>147での他の論点については、まず、私の>>127の主張に対するAH1さんの見解をうかがった上で考えたいと思います。

>>150:AH1さん
>ちょっとSF的に読んでほしいのですが、弾圧を行わずに、「この世の事は合理的な判断こそが重視される」「我々は理性を尊重するという素晴らしい認識を持っている」「それに対して宗教は正しさを独占しようとしている、いわば価値観の独裁者である」という形で宗教包囲網を作り上げ、「・・・で、論理的に考えると宗教は必要ないよね。」という所まで持って行くとします。これは、「この世は合理的判断が全て」なる独占的価値体系をもって宗教を扼殺してませんかね?

それは非難されるべきことなのですか。
各々のカギ括弧内の内容は私の主張とは大きくかけ離れており、その点で異論はありますが、それはこの論点とは無関係だと思うので無視します。
さて、もし弾圧を行わずに宗教包囲網が作り上げられたのだとしたら、AH1さんはそれはなぜだと思われますか。洗脳ですか。たしかに、私は、>>50で「古代ギリシアのデマゴーグたちやソフィストたちからも学ぶべきことが多い」と書きましたが……。
AH1さんの論法では、たとえば奴隷解放運動が、「人は誰もが基本的人権を尊重されるべきだ」「それに対して奴隷制擁護者は基本的人権の破壊者である」といった形で奴隷制包囲網が作り上げたら、それは奴隷制を扼殺しようとする非難すべき運動である──ということになりませんか。

>>151:AH1さん
>そして、一番強く感じているのは、正しさを独占すべきではない、という出発点を持ちながら「成功すれば敵は消える」というのはおかしくないか、という、そういう不安感です。

少し前に話題になった『NATROMの日記』の「信仰と狂気〜吉村医院での幸せなお産」(↓)
ttp://d.hatena.ne.jp/NATROM/20070707
を覚えていらっしゃるでしょうか。もし私が、吉村医院の問題点を指摘して、それでも「一人ひとりの信者たちを弾圧するつもりはない」と本心で言ったとします。でも、「もしも私の主張が多くの人に共感され受け入れられるものだとしたら、吉村医院(や、そのような価値観)は次第に衰退し、消えていくかも知れない」と考えるとしたら、そう考えてしまう私に、AH1さんは不安を感じますか。

167後悔と懺悔:2007/12/30(日) 22:27:40 ID:yW.XqGsE
>>133:AH1さん
>つまり,お地蔵さんを拝む人に対して「それはケイ酸塩を主体とする鉱物であって・・・よってその行為はなんら意味をもたないが,君がそれで幾許かの安心を得られるという非合理的な心情を持っているなら止めはしない.ただし科学的に無意味であることは理解したまえ」と講釈する気はない,ということです.

AH1さんがそう思うのは尊重します。でも私は「拝むだけでは願いはかなわないし奇蹟はおきないということは分かってるよね。自分にできることはすべてして、それでもまだ足りなくて不安で、だから拝んでるんだよね」と言ってあげられる人を否定すべきではないと思います。少なくとも私は自分の教え子の受験生が、受験勉強よりも合格祈願のお祈りやおまじないに夢中になっていたら、AH1さんが「する気はない」とおっしゃった「講釈」をすると思います。
さらに言えば、そうやって正面から受験勉強に立ち向かわないで、祈りやおなじないに逃げた人たちのことを、これから受験を迎える生徒たちに批判的に話すようなことは実際にしてきました。批判というのは、直接批判対象となっている当人に向けてという気持ちも大事ですが、それ以上に、その批判対象と同じ陥穽にはまりうる潜在的可能性をもった人たちのためにすべきであると、私は思っています。

>>135:次郎さん
>で、そうした多様性を受容し合うような社会を作る上で、ドーキンスとグールドの主張のどちらが有効かという事を考えた場合、結論は明らかだと思うんですが、皆さんはどうでしょうか。

ドーキンスの主張が(そして私の主張も)そんな単純なものでないことは明らかです。たとえば、少し前に話題になった『NATROMの日記』の「信仰と狂気〜吉村医院での幸せなお産」(↓)
ttp://d.hatena.ne.jp/NATROM/20070707
ですが、もしも、吉村医院が妊婦を一切転送しないとすれば、グールドは吉村医院を批判できるのでしょうか。吉村医院を非難することも不快感を表明することも、その根拠をどこに見出すことができるのか、私には分かりません。
私は、吉村医院の当事者に向かって直接非難する(ような無駄な)ことはしませんが、吉村医院の価値観(正しさ)を批判の対象にすべきでないという見解には大いに疑問を持ちます。もちろん批判や議論の結果、私の価値観が共感を得られずに「吉村医院の価値観(正しさ)を受容する社会であるべし」という世論が形成されるかも知れません。それでも、互いにより望ましい価値観を模索したり、自分の望ましいと思う価値観が社会通念になるよう努力したりする余地は認められるべきだと思うのです。皆さんの見解の多くは、そのような行為を拒否・否定するもののように私には感じられるのです。
この件(吉村医院の件ではありません)について別の場所で自分の見解を述べたのもあるので参考までに(↓)。
ttp://blog.so-net.ne.jp/schutsengel/2007-07-10
このブログはコメントに直接リンクができないようなのですけど、コメント欄の「田部勝也」が私です。このエントリとコメント欄には(少なくとも私のコメントまでは)斜め読みでも必ず目を通していただけると幸いです。この論点における私の主張のポイントがあると思っています。

>>135:次郎さん
>でも他の価値観を腐し、自分の信じる価値観を賞揚する所に行くと、啓蒙までもう一歩、あるいは啓蒙そのものではないでしょうか。

私はこの点について冷静で公正な判断を下す自信がないのでぜひ皆さんに聞いてみたいのですけど、>>129で問題提起したように、本当にドーキンスの非難は不当に「宗教」を腐したものなのでしょうか。私には正当な批判行為の範囲だと思えるのです。ドーキンスが正しいか間違っているかはともかく、「宗教」側の言い分をきちんと理解した上で(キリスト教に偏っていることはたしかですが、少なくともキリスト教に対して「藁人形論法」になっているようには思えないのですが)それに対する反論を根拠を挙げて述べ、自分の望ましいと思う価値観に不利な事実も取り上げ(たとえば330頁以下)、その上で中傷や罵倒表現を一切排した言葉遣いで、非難すべき点を指摘しているだけのように、私には見えるのです。その非難や価値観が、多くの人・社会から共感を得られるか嫌悪されるかは、また別の話です。
もしも、この書におけるドーキンスの行為が「不当に他の価値観を腐し」たものだとするのならば、私にはどんな正当な批判活動もできそうにありません。

168後悔と懺悔:2007/12/30(日) 22:34:18 ID:yW.XqGsE
>>108:NANさん
>しかしこのスレッドで続いている議論は、宗教そのものに対する批判や検証では、ない。たとえば「911」に代表されるような、宗教家、もしくは「自称宗教家」によるテロや、そこまではいかなくても社会的に害悪だったり、個人に対して脅威となるような圧迫、嫌がらせ、その他暴力的行為についてであろう。

たとえば、上で書いたように、オウム事件は、通常、学校教員のせいだとはみなされていません。しかし、社会の構成員である以上、オウム事件を許した社会的土壌の形成には、どんなに小さくとも何らかの寄与はしているはずであり、多くの教員はその点を悩んだわけです。いわゆる「ニセ科学」の蔓延に警鐘を鳴らしている人たちの多くも、個々のニセ科学の直接の害悪を追及しているだけでなく、ニセ科学が「蔓延してしまう」ような社会的土壌が、ニセ科学の蔓延だけでなく、他の(一見すると無関係にも思えるようなものも含め)社会的害悪のはびこる温床になっているのではないか──ということに注目しているわけです。
私は、特定の「宗教」が直接的に社会の害悪となるケースをもって、それを「宗教」一般に拡大解釈しているわけではないことを強調したいと思います。そうではなく、さまざまな社会的害悪を許すような社会的土壌の形成に、「宗教」一般がどう寄与しているのか──に興味があるわけです。

その他、NANさんが>>108>>109に書かれたことについては、すでに私なりの回答は十分していると思うので、1点だけ……。

>>108:NANさん
>つまり、自分は無宗教である、だけど宗教者をどうにかしたい、ってことです。

ここがそもそもの誤解だと思うのですけど、NANさんは、今現在の「無宗教者」と「宗教者」だけを考慮すれば済むような世界に住んでいるわけではないと思うのです。私は「宗教者をどうにかしたい」とはほとんど思いません(それはこれまでの私の発言から明らかだと思うのですけど)。「(まだ産まれてきていない人々も含めて)これから“宗教者”になりうる潜在的可能性をもったすべての人々」をどうにかしたい、ということです。

>>121>>122のNANさんのコメントについては、さんざん言い尽くされてきたことですが、よく肝に銘じておきたいと思います。>>121でNANさんが紹介された『佐倉哲エッセイ集』は、すべてに目を通すのにはとても長い時間が必要になりそうですが、興味深く読ませていただいています。

>>138:NANさん
>その点において、少なくとも件のドーキンスの書籍を自由に販売している社会において、今交わされているこうした議論が誰にも禁止されたり咎められたりしていないことは現実ですね。それはもうとっくに実現されています。

おっしゃる通りかも知れません。この点に関しては、私のコメントは撤回します。ただ、今私がしているこの議論において、私の論拠だけでなく、批判対象の対する感情的気遣いや批判対象を扼殺する危惧などの点から批判を受けていることについては、未だ納得しがたいものがあります。

>>138:NANさん
>あるいは、たとえば宗教法人というものの法人格を認める国家が宗教擁護者でしょうか?だとするなら、誰もが国家を批判し政権を「選ぶ」権利を我が国は有しています。これについて、いつまでも与党が変わらないことを批判するなら、それは国家に対してではなく、私たち自身についての自戒となるでしょう。

この点について反論はありません。個人的には宗教法人制度自体に疑問を感じています。そして、ここでの議論の論点とは離れますが、一般に国家に対する批判は、その政権を選んだ国民に対する批判と等価であるという指摘には全面的に同意します。

>>138:NANさん
>私は最初に述べたように、ドーキンスのいる社会において、ドーキンスの少し青臭い主張に同情し理解もするけれど、この日本においてそんな危惧を延べる強い必要を感じません。

私は感じるのです。そのことに納得・共感していただけないのは仕方ありませんが、それは私の批判を非難する論拠にならないのは、NANさんも十分ご承知でしょう。

>>139:NANさん
>まとめるなら、私は後悔と懺悔さんが想定する「宗教擁護者」というものが果たして存在するのかどうか、疑問なのです。

>>142でカクレクマノミさんも指摘していますが、私の批判対象は「宗教擁護者」ではありません。「宗教」です。「宗教」自体が反論することは期待できないので、「宗教」の言い分を代弁する者として「宗教」擁護者と書きました。>>108でNANさんが「一方で個人、一方でガイネンという比較はどうなんだろう?」と書かれたので、以後その点に配慮して注意深く書き分けているつもりです。

169後悔と懺悔:2007/12/30(日) 22:45:27 ID:yW.XqGsE
訂正です。
上記>>168から2箇所あります。

>>108:NANさん
>しかしこのスレッドで続いている議論は、宗教そのものに対する批判や検証では、ない。たとえば「911」に代表されるような、宗教家、もしくは「自称宗教家」によるテロや、そこまではいかなくても社会的に害悪だったり、個人に対して脅威となるような圧迫、嫌がらせ、その他暴力的行為についてであろう。

は、実際には、>>121からの引用です。正しくは、

>>121:NANさん
>しかしこのスレッドで続いている議論は、宗教そのものに対する批判や検証では、ない。たとえば「911」に代表されるような、宗教家、もしくは「自称宗教家」によるテロや、そこまではいかなくても社会的に害悪だったり、個人に対して脅威となるような圧迫、嫌がらせ、その他暴力的行為についてであろう。

同じく、上記>>168からもう1点。

>>139:NANさん
>まとめるなら、私は後悔と懺悔さんが想定する「宗教擁護者」というものが果たして存在するのかどうか、疑問なのです。

は、実際には、>>138からの引用です。正しくは、

>>138:NANさん
>まとめるなら、私は後悔と懺悔さんが想定する「宗教擁護者」というものが果たして存在するのかどうか、疑問なのです。

以上、謝罪し訂正します。申し訳ありませんでした。

170後悔と懺悔:2007/12/30(日) 22:47:01 ID:yW.XqGsE
>>139:NANさん
>要するに、私が後悔と懺悔さんに対して批判的である大きな軸とは、そういう「おかしな構造」はジンルイが持つすべての文化・文明に対して共通であるはずなのに、なぜか宗教だけをクローズアップする動機が分からない、ということです。

私は、なぜ「宗教」をクローズアップしては駄目なのかというのが分かりません。正直に言えば、先生に叱られた子供が「あの子もやってるし、あの子はもっと悪いのに、なんでボクだけ……」と拗ねるのと、どう違うのか説明して欲しいと思っています。私が「宗教」以外のものを批判していないと思っているわけではないでしょうし……。>>145の「(前略)もう一方で、そうしたテロリストに資金を援助してきたアメリカの暗い部分には無指摘であるドーキンスの姿勢に疑問を持ちます」などにも同様の疑問を多々感じます。

>>139:NANさん
>もっと端的に云うのなら、利権についての無指摘です。あなたが危惧を感じる「宗教擁護者」とは、実は利権を保護するモノではないのですか?ある利権の恩恵を受けていたり、参加している者は、ドーキンスやあなたが指摘するような行動を起こしがちでしょう。少なくとも私にはそう思えます。

そういう点はたしかにあるでしょう。しかし、私の批判している点は、もっと人間の本性的な感情や思考傾向に根ざした部分にあります。>>91>>105は読んで頂いていると思いますが。

>>140:NANさん
>「私(NAN)」ぢゃだめですかい?あるいは地下猫氏でもほかの誰でもイイんだが…w

NANさんたちがそういう自戒をしたのは、あくまでNANさんたちの、人としての矜持なり美学なり理性なり感情なりによるものであって、「宗教」がそうさせたのではないでしょう。私は、それは「宗教」の自戒ではないと思います。だから駄目です。
特に、NANさんは「そういうステレオタイプが宗教だ、というのなら、私はそれを全否定したいほどです(>>139)」「だからこそ「仏教系」を自称する様々な新興宗教やその他仏教系宗派のとんでもない詭弁には嫌悪感を覚えるし、なるほど「害悪だろう」と評価しているけれど、これを「宗教」と一くくりにする主張は同じように嫌悪する(>>149)」といった主張を繰り返しているので、私の>>102の疑問に関する答えとしては説得力を持ちえませんし、むしろ、「宗教」から自由な人のほうが、より人として自然な矜持なり美学なり理性なり感情なりに基づいた判断ができるように思う──という私の見解を補強する例にさえ感じられます。

>>144:NANさん
>もしかしてカクレクマノミさんも「既存の入信者や有名無名宗教者はドーキンスが発するような批判に答えなくてはいけないor答えないことは許せない」とか考えてます?正しさを押し付けないと気がすまないということかな?

NANさんのご批判は論理的にもっともかと思いますが、一方、不安を感じる点に関して疑念を払拭してくれない(批判に答えてくれない)人たちと一緒の社会に暮らしていくのは、心情的に納得しかねるものがあります。

>>146:NANさん
>(前略)これについて、牧師もシェフもエロCGモデラーも同様の説明を試みることができます。しかしことさら執拗に牧師の地位を貶める必要を私は感じないし、その後に否定しようが批判しようが「どんな主張もとりあえず真面目に聞くべきだろう」と思うのですが、これをもって「不当な宗教の擁護」と云われるのであれば、それは十分に差別的で傲慢な態度にしか私には見えません。

まず、「庭師やシェフも同様の説明を試みることができる」と言うことが「ことさら執拗に牧師の地位を貶める」ことなのかが疑問です(エロCGモデラーは誰が言い出したのか知りませんが)。また、このことで牧師を擁護することを、誰も「不当な宗教の擁護」とは言いません。「説得力のない宗教の擁護」と指摘し、その論拠を述べるのは差別的で傲慢な態度でしょうか。

171後悔と懺悔:2007/12/30(日) 22:55:22 ID:yW.XqGsE
>>146:NANさん
>しかし「牧師の話を真面目に聞く正当な理由」がないというほどに、宗教を蔑視する必要性はどこから来るのか?それがなにか問題解決に役立つのか?神というレトリックを使って宇宙誕生を説明することがそれほど不当なのか?

端的にいれば、その正しさの根拠の問題です。何度も繰り返しているように、「重要な問い」への答えの正しさの根拠は、それぞれの人の矜持なり美学なり理性なり感情なりといった主観的なモノにしかありえないように、私には思われます(この論点については、皆様にぜひご教示を頂きたいと思っています)。

「重要な問い」への答えの正しさの根拠を「科学」に求める態度がどれほど危険かは、ここで私の間違いを指摘されている皆様には異論はないかと思います。それは、>>5で紹介した『kikulog』の『道徳やしつけの根拠を自然科学に求めるべきではない』エントリでの議論でほぼ尽くされていると私は考えています。
一方、私が>>16などで何度も指摘してきたように、「宗教」は、自らの「重要な問い」への答えの正しさの根拠を、超自然的なモノ・人智を越えたモノに求めるシステムのように、私には思われます。余談ですが、「ドーキンスはどのような理由で「そうしたものは宗教ではまったくなく」と述べているのでしょうか(>>161:リリスさん)」の答えははっきりしていて、「“重要な問い”への仏教や儒教の答え」について、その正当性を超自然的なモノ・人智を越えたモノに拠っていることを、ドーキンスは示せなかったからです。

「重要な問い」への答えの正しさの根拠を、超自然的なモノ・人智を越えたモノに求めることに違和感のない社会、むしろそれが奨励される社会は、そうでない社会に比べて、一般にどういう傾向を有しうるでしょうか。どういうものが生じうる社会的土壌の形成に寄与するでしょうか。
私は、「重要な問い」への答えの正しさの根拠を「科学」に求めるような社会と同様の、「超自然的なモノ・人智を越えたモノ」を「科学」に置き換えただけで、まったく似た傾向を有するような社会になっていくのではないかと、何度も何度も指摘し続けてきたわけです。正しさの根拠が、超自然的なモノ・人智を越えたモノである以上、正しさと現実との齟齬(いくら祈っても願いが叶わないなど)が生じうるだけ、なお好ましくない社会と考えることもできるかも知れません。

NANさんは「科学的方法論をもっともっと浸透させること。それこそ問題解決の鍵だ、と私は思います(>>146)」と述べてます。科学的方法論を浸透させる上で最大の障害は何でしょうか。私はもう20年近く「ニセ科学」について考えてきました(当時は「ニセ科学」なんて言葉はなかったですけど)。「ニセ科学」の蔓延が、科学的方法論を浸透させる上で障害となることには異論はないでしょう。では、「ニセ科学」の蔓延が、なぜ、どのようにして、科学的方法論を浸透させる上で障害となるのでしょうか。最近、poohさんのブログの『心に棲むもの』というエントリ(↓)
ttp://blog.so-net.ne.jp/schutsengel/2007-12-27-1
のコメント欄を読みました。偏見に凝り固まった私には、正しさの根拠を、超自然的なモノ・人智を越えたモノに求めることに違和感のないような社会における社会的心性の話としても読める気がしたのですけど、いかがでしょうか。

いずれにせよ、改めてここでの議論を何度か通読してみて、「宗教」一般についての私の主張は誰の共感も得られるようなものでなく、その論拠も多くの人にとってまったく説得力をもたないということは、さすがの私でも、かなりはっきりしました。
これまでの「宗教」一般についての私の主張は、すべて取り下げさせて頂きたく思います。もちろん、「宗教」一般についての私のあまりの無知と見解の底の浅さを深く自戒しなければならないという気持ちを強くしました。皆さんの議論や>>121でNANさんが紹介された『佐倉哲エッセイ集』も含め、自分の認識を意識して修正していくよう努めていきたいと思います。

これまでの「宗教」一般についての私の主張はすべて取り下げますが、私がそれらについて書いてきたことへの批判や、そこから派生したより有意義で建設的な議論は、ぜひとも続けて頂きたく願っています。自分の認識の修正に役立てたいと思っていますし、私の何が間違っていたのか、本当はどのような議論が必要だったのかといったことが、今後閲覧する人たちに分かりやすいかたちで提示されることは意味のないことではないと考えますので(今回の一連の投稿はその材料となるべく、自分の無知と偏見──だけど自分自身で論破できない部分を特にさらけ出したつもりです)。

172NAN:2008/01/07(月) 11:25:49 ID:???
年をまたいでしまったし、書くべき文章が大量なので少し散文気味になることをご容赦。

>>166
>そのお気持ちは尊重します。でも、そう思うならば、相当に有害だと思っている人間が取り締まりに行くのを非難しないで欲しいのです。


どんな理由に基づく行為であれ、正当性や不当性を帯びたものであれ、批判するのも非難するのも自由ですよ。無論、まったく不当に復讐されることだってあるかも知れない。それがイヤだ、と(同じように)主張することはできるけれど、批判・非難される可能性を下げることは少しもできないだろうなぁ。

>>167
>私には正当な批判行為の範囲だと思えるのです。ドーキンスが正しいか間違っているかはともかく、「宗教」側の言い分をきちんと理解した上で(キリスト教に偏っていることはたしかですが、少なくともキリスト教に対して「藁人形論法」になっているようには思えないのですが)それに対する反論を根拠を挙げて述べ、自分の望ましいと思う価値観に不利な事実も取り上げ(たとえば330頁以下)、その上で中傷や罵倒表現を一切排した言葉遣いで、非難すべき点を指摘しているだけのように、私には見えるのです。

もちろんそれは「正当な批判行為である」と私も思いますよ。ただし、「キリスト教に偏っていることはたしかですが」とご自分で書いておられるように、それだけで「宗教一般に対する批判」としては落第でしょう。

>>168
>そうではなく、さまざまな社会的害悪を許すような社会的土壌の形成に、「宗教」一般がどう寄与しているのか──に興味があるわけです。

仮にそうであるなら、後悔と懺悔さんの文章はあまりにまわりくどく、あなたが指摘する問題点に少しも届いていないように見えてしまいます。つまり私が述べたいことは、そんなことを議論するのであれば、そもそも「宗教一般」を批判対象にする必要性すらなく、主題とすべきはニンゲンが持つ「盲信性」に端を発し、原理主義や教条主義について批判し、その解明を行えば良いのではないでしょうか。

>>これから“宗教者”になりうる潜在的可能性をもったすべての人々」をどうにかしたい、ということです。

「社会的害悪」になりうる潜在的可能性をもったすべての人々をどうにかしたい、という主張でさえ、私は賛同しにくい人格なので、これが宗教者となると、まったく無理な世界ですね。(しかし、そういう論調を否定はしません)


>>私は、なぜ「宗教」をクローズアップしては駄目なのかというのが分かりません。

説得力がないからです。十分な根拠を提示して「なるほど宗教一般にはそういう問題がある」という共通認識が得られるのなら、議論の方向は違うものになったでしょう。宗教批判者としてのドーキンスにさっぱり信用がなく、さらにその著作をベースにした二次議論であれば、さらにコンセンサスが得られなくなるのは当然のことでしょう。
私は「宗教批判をすべきではない」などとまったく思いません。後悔と懺悔さんの行う「宗教一般批判」が的外れである、と述べてきただけです。

>>あくまでNANさんたちの、人としての矜持なり美学なり理性なり感情なりによるものであって、「宗教」がそうさせたのではないでしょう。私は、それは「宗教」の自戒ではないと思います。だから駄目です。

どうとでも云える話でしたね。失礼しました。
ただし、私は「人としての矜持なり美学なり理性なり感情なり」を得るにあたり、多くの宗教的観念や思想に影響を受けています。答えは白と黒だけではないことを、最も重視すべきでしょうね。

173NAN:2008/01/07(月) 11:26:30 ID:???
>>まず、「庭師やシェフも同様の説明を試みることができる」と言うことが「ことさら執拗に牧師の地位を貶める」ことなのかが疑問です(エロCGモデラーは誰が言い出したのか知りませんが)。また、このことで牧師を擁護することを、誰も「不当な宗教の擁護」とは言いません。「説得力のない宗教の擁護」と指摘し、その論拠を述べるのは差別的で傲慢な態度でしょうか。


ドーキンスは「悪魔に仕える牧師」の中で「牧師の言い分を”真面目に”聞く必要がどこにあるのか?」と書いているのです。それに対して、なぜ”真面目に”聞くことさえNGなのだろう?と私は述べています。私はエロCGモデラーだったりベジェ絵描きだったりギャンブルチラシ屋だったりインチキコラムニストだったりする顔を持っていて、時に進化論支持者というプラカードを掲げてネット議論に参加したりします。私がどんな顔をしていようと、皆さん真面目に話しを聞いてくれます。少なくとも「牧師の話など聞けるか!」とはなりません。ドーキンスは似たような主張をしつこくくり返し、さっぱり共感の持てない私としては、該当するページの部分は常に飛ばし読みされることになりました。

>>端的にいれば、その正しさの根拠の問題です。何度も繰り返しているように、「重要な問い」への答えの正しさの根拠は、それぞれの人の矜持なり美学なり理性なり感情なりといった主観的なモノにしかありえないように、私には思われます(この論点については、皆様にぜひご教示を頂きたいと思っています)。

ぜんぜん違いますよ。ドーキンスは「宇宙創成の物理的仕組み」について友人に説明を求めたのです。これは「たとえばなし」の一種ですから、ドーキンスの友人は天文学者のはずなのにさっぱり頼りにならなくて、質問を向けられたとたんに「牧師に尋ねたほうがいい、科学では到底答えられないから」と述べた、と「演出されている」のです。(さらにその友人の態度に立腹するドーキンスの様子はまったくバカっぽい)

宇宙創成の物理的仕組みを説明するにあたり、牧師だろうがシェフだろうがマクドナルドのカウンターの中でほとんど笑わないお姉さんだろうが、適切さにおいて差はないでしょう。でも同時に、牧師だって聖書だけを読んでいるのではないだろうし、シェフは包丁を研ぐばかりではなく、マクドナルドのお姉さんは大学に戻ると理論物理学を専攻しているかも知れない。いや、そんなものを専攻していてもいなくても、大人だったら「話くらい真面目に聞けよオラ!」と思われるのは当然でしょう。

>>「宗教」は、自らの「重要な問い」への答えの正しさの根拠を、超自然的なモノ・人智を越えたモノに求めるシステムのように、私には思われます。

それは宗教の「限られた一面」に過ぎません。もしもそれが「宗教一般の傾向」である、と本当に考えているのなら、そこからスタートする議論が破綻してしまうのは当然のことであろう、と私は予測します。
すでに後悔と懺悔さんは「一連の宗教批判」について、主張を取り下げておられるようですが、私としてはその「取り下げ」も少々釈然としません。なぜ長年お考えになってきたであろう議論を、これくらいの軋轢で取り下げてしまうのだろう?と私には思えるです。

以後、少し包括的に続けさせていただきます。

174AH1:2008/01/07(月) 15:01:13 ID:fKqeZx4M
>>165, >>166, >>167
後悔と懺悔さん
まず、ネットの存在しない所に引きこもっていましたので遅くなりました。
全部答えられるかどうかわからないですがやってみましょう。ただし、答えをまとめてしまうかもしれませんので御容赦ください。

>当事者同士が真剣に向き合って解決していくしかないでしょう。どうしても相容れなければ、「互いに今後一切干渉しない」とするかも知れませんし、第三者に判断を仰ぐかも知れません。それは当事者どうしが決めればいい。

まあ、そうするしかないでしょうね。

>簡単なことです。それを難しいことにしているのは何か──ということです。そして私はそれを非難しているわけです。

宗教対科学に限らず、常に、誰もがそう思っているだろうと思います。

>私は、もういちいち引用を示しきれないほど、「“重要な問い”への向き合い方について、人の理性は(不完全とはいえ長いスパンでみれば全体的に)信頼に足るものであると思われる(>>49)」という主張を擁護してきたのですけど、AH1さんはまだまだ不満だということでしょうか。

申し訳ないのですが、あなたが熱く語れば語るほど、「正しさを独占しようとする傾向はなんと普遍的なものか」としか思えません。
そして、前の投稿にも書いていますが、一体だれが、「メリケンの馬鹿クリ」のような存在に遠慮しろなどと主張しているのでしょうか?私が言っているのは「宗教とは」という一般化が粗雑すぎ、おバカ撲滅主義(=科学万能主義)的にすら見える、という主張です。

>そのお気持ちは尊重します。でも、そう思うならば、相当に有害だと思っている人間が取り締まりに行くのを非難しないで欲しいのです。

ならばなぜ掲示板にお書きになったのですか。あなたが意見を述べる自由があるのと同じく、私にも意見を述べる自由があるのではないですか。

>AH1さんの論法では、たとえば奴隷解放運動が、「人は誰もが基本的人権を尊重されるべきだ」「それに対して奴隷制擁護者は基本的人権の破壊者である」といった形で奴隷制包囲網が作り上げたら、それは奴隷制を扼殺しようとする非難すべき運動である──ということになりませんか。

例えが違います。この例であれば、奴隷解放運動を行う人が「奴隷推進論者を奴隷にせよ」と言えばどうですか。

>少なくとも私は自分の教え子の受験生が、受験勉強よりも合格祈願のお祈りやおまじないに夢中になっていたら、AH1さんが「する気はない」とおっしゃった「講釈」をすると思います。

地下猫氏の投稿を引用して、有害さの程度の問題であろう、と述べました。

175AH1:2008/01/07(月) 15:12:40 ID:fKqeZx4M
ちょいと訂正。
奴隷の例えも「有害さの程度」と考える方が実体に即してますかね。
有害さをどのように計るのか、も、これまた大騒ぎだと思うけれども。

そして、まとめ。後悔と懺悔さんの御意見に対する私の意見は以下のように集約されるでしょう。
「恐らく人間にとって有害であると思われるものを批判するのはもちろん自由である。
また教条主義・排他性などは人類の陥りがちな悪として常に自戒すべきである。
宗教は(その宗教にとって)正しき事を述べるものであるがゆえに、「信者にとってのみの正しさそのもの」
であり、その点で正しさを独占するものに他ならない。しかしながら、宗教のもつ有害性を、一部の極端な例だけによって一般化するのは問題がある。」

すなわち、「メリケンの馬鹿クリ」相手の局地戦闘ルールを一般化しすぎじゃないのか、
それってキリスト教が自らの神を唯一の神と信じ込むのと同様の違和感を感じるんだけど。
というようなことです。

176NAN:2008/01/08(火) 02:07:53 ID:???
後悔と懺悔さんの問題提起に対し、私がこのように反応している理由と動機について、少し書いておきたいと思います。(この掲示板に問題提起したのは地下猫氏なわけだが…)

宗教一般について包括的な批判を行うこと…実は私もそこに興味がないわけではありません。また、くり返し述べているように、「メリケンのバカクリ」に厳しい批判を行うのは当然だ、と思っているし、カルト宗教の嘘っぱちや底の浅さ、原理主義に基づく暴力を非難しないというのは、とても恥ずかしいことだ、と思います。それでは単に、私は後悔と懺悔さんの主張する「一部宗教に対する批判の一般化」について、そこだけを批判しているのでしょうか。一連の議論はそこに終始しますが、私の個人的な動機はもっと別の部分にあるようだ、と思えるのです。

>>102において『様々な「宗教」と無宗教が混在する世界のなかで、より望ましい(かつできれば実現可能な)社会の在り方とはどのようなものか』と、後悔と懺悔さんは述べています。ここで云う宗教とは、かなり包括的なものであるように私は捉えます。また、先の投稿(>>170)で示されるような、これから宗教者となるかも知れないひとびとに対する危惧や警鐘そのものが無意味であるとは、当然、私も思いません。

それではなぜ、宗教「一般」に対する批判を私がなかなかできずにいるのだろうか?そう考えるとき、私は「その先にあるモノ」を想起せずにいられないのだろう、という推論に辿り着くのです。
私は(もちろん自分を含めて)ニンゲンに対してさほど期待をしていません。理性とやらの確かさも、信用に値しない脆いものだ、としか思っていません。それはたとえば「軍事的抑止力」などに代表される、独善的で威圧的な「正しさの押し付け」をもってしか、ひと時の平和さえ維持できないヒトの浅はかさに対して、とうの昔に絶望しきっているからなのだろう、と思っています。つまり、百歩譲ってドーキンスや後悔と懺悔さんの主張を認めたとき、それもまた「正しさの押し付け」として広まり、歪められ、必ず差別的なムーブメントに繋がるだろう、と予測しているからです。(実際、ドーキンスは『知識人』に対して決起を要請している。非知識人はどうなるのだろう?)

あるいはこんな予測も私はしています。仮に後悔と懺悔さんが述べるような「自戒」をひとびとが行い、実践していったのなら、なるほど現在はびこる宗教的問題は解決していくでしょう。しかしそれこそ仏陀やその他の開祖が試みた「救い」なのではないのか?それはつまり現代という世の中におけるとても宗教的な行為ではないのだろうか、仮にそうであるのならば、救いの「線引き」はどこでなされるのだろうか、どこかで線引きを行うような救いが、果たして私に許容できるだろうか?などと考え始めてしまい、やはり容認できないものに見えてしまうのです。

宗教に対してなにか積極的なアプローチを行うのだとしたら、もしそれが革新的で、強い説得力を持ち、本当に世界を変えるほど力のあるものであれば、それは必ず宗教的な色合いを帯びたものにならざるを得ないのではないか?私はそう思います。

177chochonmage:2008/01/14(月) 04:54:07 ID:vUxNW.gI
年末からドタバタと忙しく、すっかり間があいてしまいました。
レスをくださったNANさん、大変失礼いたしました。
何度か書き込もうとも思ったのですが、どうにもうまく考えがまとまらず苦しんでもおりました。

AH1様
横レスで失礼します。
>私が言っているのは「宗教とは」という一般化が粗雑すぎ、おバカ撲滅主義(=科学万能主義)的にすら見える、という主張です。

「おバカ撲滅主義」は私の>>14の書き込みから取られたものかと勝手に想像いたしますが、「おバカ撲滅主義(=科学万能主義)」と取られる可能性はあるなぁと思ってはいました。
が、>>19で書きましたように、私のいう「おバカなこと」とは「人を盲目状態・思考停止状態にしてしまうかも知れない大きな影響力をもったワケの分からない理屈とか考えとか」のことであり、
NANさんご指摘のような「正しさを独占したがる権力と呼ばれるもの」にとって極めて便利な「ツールになりうるものの」ことを意味させたつもりでした。
そういった意味で、私はそういう「便利なツール」が無くなるといいな、もしくはたとえ無くならなかったとしても、「連中がツールをツールとして使っていやがるな」と、使われている人たちがちゃんと認識できるような
極力刷り込みされる機会が少ない社会がくればいいな(つまりツールとして無効になればいいな)、と、こちらでの各種ご意見を拝読した今でも思っています。

で、その便利なツールのひとつとしての宗教(ひとまとめにするなとか、ワケのわからない理屈とか考え方じゃないとか言われそうですが、ちょっとここでは勘弁)が、特に911以降は、連日新聞等で大きく報道されていることもあり、使われまくってるように私には思えるのです。
(あとは「愛国心」なる言葉とか。もちろん「連中」が使う意味でですが。)

といったわけで、私の言いたかった「おバカ撲滅」は科学万能主義を意味してるわけではないと思うのですが、いかがでしょう。

レスが前後しますが:

>強い批判でも弱い批判でも良いのですが、皇室問題については「宗教だから遠慮する」ではないでしょう。

皇室の話は「宗教への遠慮」の例としてあげたのではありませんでした。NANさんのおっしゃっていた「宗教批判を躊躇わせない社会が実現している」
に対して米国の例をあげ、(NANさんは恐らく日本社会を想定してらっしゃったと思うのですが)米国の「信仰」(キリスト教に限りません)に対する空気
(タブー感とでもいいましょうか)が日本の皇室に対するそれに似ているなぁとあげたものですが、読み返して見るとちょっとポイントをはずしていたようです。
今思えば、NANさんの発言を「日本では何に対しても自由にモノが言える」と誤読していたようです。「対宗教」限定だったのですね。

>私はNANさんの言う「利権機構」に附随する暴力装置が問題であり、宗教であろうがナチズムであろうがパクス・アメリカーナであろうが同じだと思います。

ほぼ同意します。ですが「村八分」やそれに類する周囲の反応なども、皇室問題で発動される暴力装置ほどあからさまではありませんが、また暴力装置なのではないでしょうか。

178chochonmage:2008/01/14(月) 04:58:17 ID:vUxNW.gI
そもそも宗教とは何者なのでしょう。「一般化」が難しく、無理があるのは承知で私の疑問を書いて見たく思います。
雑な議論かも知れませんが、お付き合いいただけたら幸いです。

以下はWikiの定義なのですが:

*********引用ここから*********

宗教(しゅうきょう)は一般に、神・超越的存在・聖なるものなどについての信念や信仰、
信念や信仰と結びついた個人の態度(超越的なものとの関係)・活動(礼拝など)・制度(寺社、教会など)・信者の形成する社会などを表す。

*********引用ここまで*********

まぁ、「一般的」にはこのあたりじゃないかと思うのです。仏教についてはお釈迦さんのオリジナルは「哲学」や「思想」(信仰を含まない)
に近いものだったように思われるのですが、お釈迦さんの死後、「解釈」とやらでヒンドゥー教の神様やら混ぜ込んじゃって以来、上記定義にあてはまる
「宗教」になっちゃったように思うのです。

>>NANさん、AH1さん

NANさん、AH1さんは「馬鹿クリ」、や「カルト宗教」とその他の宗教をどのように分類なさっているのでしょう。そして、「宗教」の一般化が困難であると認識なさっていながら、
「馬鹿クリ」、「カルト」に関してはわりとあっさりと一般化(ラベル貼り)なさっているように思えます。
正直、私には「馬鹿クリ」と「お利口クリ」、「カルト宗教」と「普通の宗教」の区別がつきません。(感覚的にはわかっています。もちろん。)

以下、文章にうまくまとめるのが私には難しいので箇条書きにさせていただきます。

1.「馬鹿クリ」と「お利口クリ」の違いは原理主義、完全逐語解釈か否かというところなのか。
2.原理主義が問題だとしたら、「原理」から離れれば離れるほど「お利口」なのだろうか。このあたりは猫さんに「多様性を理解してない」と一蹴されているのですが、まだ良くわかっていません。
3.だとすると最終的には「信仰」の否定が正解なのではないか。
以下猫さんご紹介の「自由神学」についてのWikiの記述です。

*********引用ここから*********

* 一部の甚だしく急進的な派では、イエスの母マリアの処女懐胎やキリスト教信仰の中心ともいえるイエスの復活をも事実とはせず、神の存在をも肯定しない。
この段階に達すると、聖書と基本信条に示される三位一体の神を信じる、歴史的なキリスト教の正統信仰の枠から、完全に逸脱する。異端神学というより、その宗教性そのものが根本から問われる。改革派の保守的神学者メイチェンは、自由主義神学(リベラリズム)はキリスト教では無いと断言した。

*********引用ここまで*********

4.そもそも宗教(全ての宗教に通じているわけではないので、強引ではありますが)は完全逐語解釈から始まっているのではないか。
5.そして、「解釈する」というのは、後世矛盾を生じてしまったり、ど〜考えてもこれは無理やという部分、あるいはそれ以外の「都合」によるつじつま合わせにすぎないのではないか。
6.だから、「信仰」を含んでいる以上は、例え原理主義よりでなくても単に「程度」の問題で、現在「表の掲示板」で行われているグラデーションの話なのではないか。(信仰者と非信仰者のグラデーションの議論はあるとは思いますが、ちょっとここでは「馬鹿クリ」及び「カルト」限定ってことで。)
続きます。

179chochonmage:2008/01/14(月) 04:59:53 ID:vUxNW.gI
続きです。

7.「預言者」、「神の代弁者」への降臨とかお告げとかではじまった宗教は多いが、どれについても「根拠」や「証拠」を見出すのは私には困難である。
8.だから、「ムハンマド」、「出口ナオ」、「麻原彰晃」、「ジョセフ・スミス・ジュニア」、「サイババ」、「高橋弘二」、「文鮮明」、「大川隆法」やその他幾万といた、あるいはいるであろう自称、他称預言者、代弁者の区別がつけられない。
9.「イエス」は「神の子」だか「神そのもの」だかだそうだが、私には他の幾万といた、あるいはいるであろう自称、他称「神その人」、「神の子」たちとの区別がつかない。有名かどうかの違いはあるけど。
10.「ギリシャ神話」、「日本神話」その他世界中に存在する厖大な数の「神話」と特に「アブラハムの宗教」の聖典の主な違いは登場する神なり神々なりがニンゲンにああせい、こうせい、あるいは、ああするな、こうするなと言うか言わないかの違いしかないのではないか。
11.結局宗教はニンゲンの作り上げたフィクションに分類されるものではないのか。
12.それを「解釈」、「研究」することで多くの重要な思想やいわゆる哲学(ってこういう書き方すると猫さんに叱られそうだけど)が誕生したことは事実であろうが、だとすると宗教も思想や哲学あるいは物語として扱われるべきもので特に「宗教」としての尊敬や遠慮を要求したり、我々がそう考えなければならない理由はないのではないか。
13.「宗教」が「正しさを独占したがる権力と呼ばれるもの」の便利なツールであるならば、そのツールの根拠薄弱製を指摘したりする批判活動は、「情動分野」に論理的整合性で結論を求めるナンセンスな行為である、以上の意味があるのではないか。

以上、バカがバカなりに真剣に考えたことです。どうか笑っておつきあいくださいませ。

180NAN:2008/01/14(月) 14:32:53 ID:???
>正直、私には「馬鹿クリ」と「お利口クリ」、「カルト宗教」と「普通の宗教」の区別がつきません。(感覚的にはわかっています。もちろん。)

ん?感覚的に分かっていらっしゃるならそれで十分ではないですか?表の掲示板ではないですが、ヒトによる区分など恣意的なものに過ぎません。こうして区分を「きちんと」しようとすると、それが新たな逐語主義や原理を招いてしまいませんか?…と、一応「タテマエ」を述べておきますw

さて、ぶっちゃけお話しますと「バカ」の対義語が果たして(この場合)「お利口」なのか?ですね。結論を急がず、もう少し書きます。

>1.「馬鹿クリ」と「お利口クリ」の違いは原理主義、完全逐語解釈か否かというところなのか。

違います。別にどんな主義に見えようと、信仰(町内会の会合に出ることは”正しい”という信仰でももなんでも良い)を正当性の道具に使い他者を迫害したり威圧する傾向を持つ人格を指しています。

>2.原理主義が問題だとしたら、「原理」から離れれば離れるほど「お利口」なのだろうか。このあたりは猫さんに「多様性を理解してない」と一蹴されているのですが、まだ良くわかっていません。

どの原理を選ぶのか?という恣意性の問題です。他者に暴力を及ぼし支配し威圧することの正当性の根拠を原理に求める態度が「バカ」なのです。基本的には統率された集団行動(たとえば軍隊の規律)における盲目的な戒律を「まんべんなく平等に」誰彼構わず行使する人格ではないでしょうか。(つぅかそれは教条主義だな)

>3.だとすると最終的には「信仰」の否定が正解なのではないか。

何度も申し上げているように、信仰はこの際関係ありません。無論それは「私の主張の範囲において」という限定ですが。
たとえば親が子を「教育する」という場面においてでさえ、そこには盲目的な服従がたびたび求められます。このとき、服従の正当性を強化する目的でカミサマやゴセンゾサマや先代シャチョーやらが登場するのです。

>4.そもそも宗教(全ての宗教に通じているわけではないので、強引ではありますが)は完全逐語解釈から始まっているのではないか。

それはまったくの誤認ではないでしょうか。口伝を逐語解釈などしようがありませんし、民俗信仰の大半は経典さえありません。教義が存在しない信仰を逐語解釈しようがありませんね。

>5.そして、「解釈する」というのは、後世矛盾を生じてしまったり、ど〜考えてもこれは無理やという部分、あるいはそれ以外の「都合」によるつじつま合わせにすぎないのではないか。

布教(統治)の際に生じる「利権獲得」をスムーズに行うためのシステム作りです。たとえば著作権協会が行っているシステム、MLM(マルチレベルマーケティング=マルチ商法)もそうだろうし、映画のコマーシャルでよく見られる「総制作費○億!」みたいなのも「権威づけ」という意味からは同様のものです。「ナニカ」を得たり興じるために対価を支払え、というごく自然に見える行為にはすべて解釈があります。

>6.だから、「信仰」を含んでいる以上は、例え原理主義よりでなくても単に「程度」の問題で、現在「表の掲示板」で行われているグラデーションの話なのではないか。(信仰者と非信仰者のグラデーションの議論はあるとは思いますが、ちょっとここでは「馬鹿クリ」及び「カルト」限定ってことで。)

この辺は残念ながら破綻しているように見受けられます。それは4)の破綻を引きずっているからですが、結論先にありきで前段を組み立ててしまいませんでしたか?警察官や官吏の教条主義は一見社会秩序を維持するために必要なものに見えます。しかし指導者が侵略的独裁者だった場合はどうなるでしょう?

181NAN:2008/01/14(月) 14:33:24 ID:???
>7.「預言者」、「神の代弁者」への降臨とかお告げとかではじまった宗教は多いが、どれについても「根拠」や「証拠」を見出すのは私には困難である。

ん?それも宗教の「有名ではあるけれどごく少ない例外」ですよ。しかもです、重要なのは彼らに根拠を与え正当性を冠したのは民衆である、という点です。民衆には「統治されたがる傾向もある」ということは、決して忘れてはいけません。もちろん、私たちにもそれはあるのです。

>8〜9. だから、「ムハンマド」、「出口ナオ」、「麻原彰晃」、「ジョセフ・スミス・ジュニア」、「サイババ」、「高橋弘二」、「文鮮明」、「大川隆法」やその他幾万といた、あるいはいるであろう自称、他称預言者、代弁者の区別がつけられない。

区別する必要、ないでしょw。だって彼らはみんな「ニンゲン」ですから。ニンゲンの口から出る言葉は人語に過ぎません。

>12.それを「解釈」、「研究」することで多くの重要な思想やいわゆる哲学(ってこういう書き方すると猫さんに叱られそうだけど)が誕生したことは事実であろうが、だとすると宗教も思想や哲学あるいは物語として扱われるべきもので特に「宗教」としての尊敬や遠慮を要求したり、我々がそう考えなければならない理由はないのではないか。

論理を重んじるあまり、枠にハマった結論を急ぎすぎてませんかねぇ。無論、論理とか辻褄は大事です。私は「宗教」が特に尊敬や遠慮を要求しているとは思いません。それは「宗教コンプレックス」ではないでしょうか。
どんな批判対象であれ、あてずっぽうで的外れな批判が再批判されてしまうのは当然のことです。それは「宗教を批判するな」という強要ではありません。

>13.「宗教」が「正しさを独占したがる権力と呼ばれるもの」の便利なツールであるならば、そのツールの根拠薄弱製を指摘したりする批判活動は、「情動分野」に論理的整合性で結論を求めるナンセンスな行為である、以上の意味があるのではないか。

(少なくとも)私は「宗教を批判することはナンセンスである」とは云っていません。ドーキンスをはじめ、chochonmageさんのそれも(論理で片付く問題じゃないものに論理を根拠に批判することが)「的外れでナンセンスである」と述べているのです。
ちなみに宗教の根拠薄弱性を論理的に証明することも「極めて困難である」と私は思います。それはたとえばこの掲示板に集まる皆さんのように、論理的整合性を読み取ることができて、科学知識にさえ通じている「グループのさらに一部」にしか通用しないものでしょう。またそれは「知識人」という非常に醜く不恰好で独善的な「差別」を生むことにしかならないように私は思います。

なぜなら私自身が、とても醜く独善的で、狡猾でさえあり、差別を平気で行う人間だからです。このような傾向は程度の差こそあれ、必ず他の人格にも共通しているであろうし、本当の危機的状況が我が身に襲い掛かったとき、今こうして維持しているような平穏さを保つことができる自信などまったくありません。

先にも述べた気がしますが、いわゆる「宗教者(すでになにがしかの信仰を持つ信者や預言者や団体)」を個別に批判することは簡単です。説得力も容易く獲得できます。それでは、こういうケースをどう批判し、根拠の薄弱性を指摘しましょうか?以下、書きます。

182NAN:2008/01/14(月) 14:35:40 ID:???
『今まさに沈没しようとしている船があります。生存者は5人。全員がひどく衰弱し、怪我をし、動くのもやっとの状態です。ある者は精神的限界を超え、ある者は体力が尽きようとしています。しかし、なんとか誰かが水没したエンジンルームに入り込み、ポンプを作動させなければ船は速やかに沈没してしまいます。生存者の全員に、これといった信仰はありません。あるとしたら、家族を愛していたり、仕事を愛していたり、我が家に帰りたいという思いがあるだけです。そうこうしているうちに、一人が持病の発作を起こしました。発作に呼応して、もう一人がパニックを起こし、ひどく暴力的な傾向が見えてきました。このとき、生存者の中で最も社会的にはみ出しモノで、普段はギャンブルばかりしている不良中年が、本当は自らの借金を返すのが面倒になった、という理由でエンジンルームに入ることを決意します。不良中年は適当に機関をぶっ叩いただけでしたが、奇跡的にポンプは復活し船は水平を保つことができました。数時間後、やっと救助された生き残りは不良中年の死体を発見します。それぞれの我が家に生還することができた生存者たちは、互いが妙な絆で結ばれていることにその後気付きます。それは身を挺して自分たちを救ってくれた(かのように見えた)不良中年に対する感謝の念でした。彼らは不良中年がどんな人物だったか、機会があれば集まり話しました。どんなことを話していたとか、どんな顔だったとかそういう話です。中にはまったくの作り話もありましたが、全員がパニック状態だったので分かりませんでした。そのうち誰かが「彼はラベンダーの花が好きだと云っていた」と云い出しました。それはまったくの妄想でしたが、生存者たちはその話をとても気に入ってしまい、互いの貯金を出し合ってラベンダー畑を作ることになりました。そこには墓碑がありました。碑銘にはこう書かれていました。「自らを犠牲にして我らの命を救ったエンジン技術者に捧ぐ」それはもう、まったく事実と違っていたけれど生存者たちの間で不良中年は信仰と化していて、前科モノで無職で住所不定のギャンブラーが彼らを救ったという事実が受け容れ難かったのです。彼らは「救い主」をカリスマ化していました。また、そうしていくことが互いの親密度を深め、なにかとても善いことをしている気分になり、仕事や生活に張り合いが出て、それまでの毎日と今がまったく違う貴重で大事なものであると思えるようになったのです。やがて、生存者の一人で本当はとても暴力的な男が不良中年とラベンダー畑について「ノンフィクション小説」を書き、これがなぜかベストセラーになります。莫大な印税を得た暴力的な男は、この印税を生存者グループの共通資産とし、さらに腎臓病の持病を持つ生存者の医療費として一部を大学病院に寄付し、記念財団を設立します。ノンフィクション小説はほとんどがフィクションでしたが読者の感動を呼び、ファンとなった読者たちが生存者を訪れたり、激励をくれるようになりました。

183NAN:2008/01/14(月) 14:36:32 ID:???
そのうち読者たちの誰かがラベンダーを育てるようになり、それは徐々に広まっていきました。これに目をつけた広告代理店が暴力的で浮気ばかりしているけれど文章だけはまともに書ける生存者に話を持ちかけ、不良中年とラベンダーをモチーフにした映画の制作をはじめます。映画はもはやいいかげんな小説とさえかけ離れた、ほとんどアクションヒーローものといって差し支えないエンターテイメントでしたがウケました。暴力的な男はこの収入で不良中年が最後に住んでいたとされているボロアパートの土地を買い取り、そこに寺院めいたビルを建てました。すると、小説の読者や映画を見たファンがそこに集まるようになり、いつしか彼らはまるで教団信者のように振舞うようになり、献身的にラベンダーを育てては売り歩くようになりました。彼らは支配的だったり威圧的だったり独善的だったりしませんでした。単に誰かと損得なく働いたり、汗を流し苦楽を共にするという絆を求めていたのです。彼らは家庭内暴力に苦しめられたり、いじめっ子だったりいじめられっ子だったり、体に機能障害があったり、要するに社会から差別的な扱いを受けてきた経験を持っていました。彼らは生存者たちが最初に作ったラベンダー畑を聖地とし、そこで育った苗を丹念に増やしては各地にラベンダー畑を増やし、暴力的な映画作家の言葉を盲目的に信じ、絆を深めていく気分になり、なにか災害があると一目散にそこへ駆けつけボランティア活動に励んだりしました。しかし、彼らは本当は、暴力的な男が少しもノンフィクション小説を書いていないことや、映画や物語が作り話であることを知っていました。実はそんなこともどうでも良くて、彼らが欲しがっていたのは「そこにいる理由」だけだったのです。彼らは税金や保険料を払いましたが、家から離れ親がつけた名前を捨て、浮世離れした行動を繰り返しました。そのうち、家族の誰かが暴力的な映画作家やその他の生存者たちを非難したり、時には警察に被害届を出したりしましたが、信者たちは自発的に行動している成人ばかりだったので家族の訴えは通りませんでした。しかも彼らは他人に危害を及ぼしたり霊感商法的に搾取をしたり布教活動みたいなことも一切しませんでした。家族はそれぞれの理由で生存者たちとその取り巻きを憎みましたが、社会はラベンダー教を歓迎しました。なぜならマスコミと政府与党が彼らを好意的に扱い、利害の一致があったからです。暴力的な性格の映画作家はやがてタレント化し、朝のワイドショーでコメンテーターを務めたり、世相を討論する番組の論客としてテレビに露出することが増え、名前も法人も教義もない教団は社会現象にさえなっていったのです。』

184NAN:2008/01/14(月) 14:37:00 ID:???
さて、調子に乗って長い物語を作ってしまいましたが(笑)、こういう話は現実にあり得ることだし、存在しているだろうとさえ私は思います。
この物語に出てくる登場人物たちは、全員が嘘つきで全員が善意的で、全員が盲信を絆に生活を営んでいます。彼らを外部から論理的に批判することはいくらでも可能ですが、それは「宗教」が必要とされる根拠を補強したり逆に貶めたりする結果を生めるでしょうか。信仰は、機会さえあればどこからでも生まれ、どのようにも育ちます。信仰というのは、恐らくニンゲンが根源的に持っている不安や恐怖を緩和してくれるものなのではないか?というのが私の考えです。私が私の妻を特定して擁護することだって、実は信仰の一種ではないのか?これらをすべて「ひとまとめにして」宗教批判することなどできるでしょうか?少なくとも、私の能力ではできそうにありません。

情報伝達という視点から、chochonmageさんはじめここで宗教批判を試みた皆さんは、それがまるでマスコミによる情報捏造を暴露する週刊誌の記事(どっちにしてもマスコミ)であるかのように、論理的に教祖が嘘っぱちであることや教義の脆弱性を指摘しようとしているように見受けられますが、宗教を受け容れるヒトと云うのは、宗教を受け容れるだけの「とても強い理由」があるのだろう、と私は考えています。そしてまさに、この部分に対して、論理などまったく無効である、と私は思うのです。

百歩譲って、宗教と宗教を取り巻く社会に対して論理的な批判を試みるとするなら、アメクリのバカやカルトなテロリストを糾弾するのとはまったく異なる、相当に社会の深層をえぐった、ひいては自分自身がダブスタにならないよう物凄く配慮をした言説を説かなければならないでしょう。宗教を受け容れる「とても強い理由」とは、貧困や差別、さまざまな障害や精神的薄弱性、さまざまな挫折や屈折、歪んだ愛情や倒錯、さらに強い母性や父性、もしくは科学的探究心や真理への渇望など、とても多岐にわたるだろう、と思います。そしてそれらは、私としてはあまり好きじゃない言葉ですが「格差」などにたとえば代表されるだろう、と考えています。ではこの格差を無くした均等な社会などというものを追い求めたら、ジンルイとやらは一体何をしてきたのだろう?そういうところに私ははまり込んでしまいます。

宗教は、ジンルイの抱える大きな矛盾である、と私も思います。であるなら…私はいっそ「ジンルイの性質そのものを批判する」ことにはいくらでも同意できるし、賛同できるんですがねぇw

185AH1:2008/01/15(火) 13:22:50 ID:fKqeZx4M
>chochonmageさん
>といったわけで、私の言いたかった「おバカ撲滅」は科学万能主義を意味してるわけではないと思うのですが、いかがでしょう。

失礼しました、元の仰っていた意味とはずれてしまっていたようです。
ただ、私としては(今回のコンテクストの、またこのウェブサイトの中で)宗教と対比される事が多いがゆえに科学主義を付け足すようにあげさせて頂きました。
というのは、ちょっと飛躍や妄想が過ぎるかもしれませんが、「人間は理性によって世界を正しく認識できる筈であり、理性を通さない(=思考停止にいたる)いかなるものも価値が低い」という考えは、それ自体正しいかどうかは別として、強力な啓蒙主義であり且つ科学主義の一種であろうと考えるからです。
実際問題として「理性や善意や自由ってのは結構なもので、無視しちゃいけないよ」「現代社会においてまあ一番使えるツールの一つだろうね」という点はもちろん同意しますが。

>ほぼ同意します。ですが「村八分」やそれに類する周囲の反応なども、皇室問題で発動される暴力装置ほどあからさまではありませんが、また暴力装置なのではないでしょうか。

同意します。あれはムラ社会という秩序を保つための強制力ということでしょう。個人的な経験による部分もありますが、ムラ八分は大嫌いです。

>NANさん、AH1さんは「馬鹿クリ」、や「カルト宗教」とその他の宗教をどのように分類なさっているのでしょう。そして、「宗教」の一般化が困難であると認識なさっていながら、
「馬鹿クリ」、「カルト」に関してはわりとあっさりと一般化(ラベル貼り)なさっているように思えます。
正直、私には「馬鹿クリ」と「お利口クリ」、「カルト宗教」と「普通の宗教」の区別がつきません。(感覚的にはわかっています。もちろん。)

明確な定義はありません。しいて言えば、NANさんとほとんど同じになってしまいますが、
「お前バカじゃないのか」「そりゃいくらなんでもひどいだろ」という事をやっちゃうのが馬鹿**ですね。
「メリケンの馬鹿クリ」とは私の語感では、「アメリカの原理主義的キリスト教団体のように、自らの宗教を絶対の原理と信じて、他者にとっては不当な、あるいは横暴な、時に危険な行為を行う相手」をさします。
つまり、宗教とは非常に広い範囲を指すものとして使っているが、その中には明確に「馬鹿」「テロリスト」としか呼びようのない集団や行為も存在する、ということです。

186e10go:2008/01/15(火) 20:40:07 ID:5/V6R9W6
ドーキンスの宗教批判は全く知らないので、それについて論じる事はできませんが、宗教批判を論じるなら「イエスの方舟」事件を知っておいた方がいいと思います。
この事件の、マスコミや警察の対応と、その後の行動が、オウム真理教の事件に影響していると思いますから。

「イエスの方舟」事件は1970年代終り頃に発生しましたが、マスコミ(*)は「イエスの方舟」バッシングを行ない、教祖の千石氏を非難するキャンペーンを張りました。
この時の状況は、オウム真理教事件の批判並みに激しかったと思います。
しかし、実際は、事件性のないもので、信者の親族が誤解してマスコミに訴えたのがきっかけです。
マスコミ(*)が煽り立てる様な報道を行ない、そのマスコミ(*)に煽られて警察は犯罪者でない人を逮捕する寸前までいきました。

*、1社のマスコミが異なる対応をした。千石氏と信者を密かに匿い、そのため、匿った報道関係者が警察から逮捕されそうになった。(この当時、このマスコミによる千石氏の単独インタビューのスクープが衝撃的だった)
ttp://yabusaka.moo.jp/hakobune.htm

事実が世間に明るみに出て、マスコミと警察はその反省からそれ以後の一時期、新興宗教の扱いに及び腰になりました。
「イエスの方舟」と「松本サリン事件」以前のオウム真理教では、マスコミの対応は真逆のものでした。
それがオウム真理教の一連の事件発生に間接的に繋がったと思います。

「イエスの方舟」事件をリアルタイムで経験した人は、宗教批判にためらいを感じる人がいるのではないでしょうか。
しかし、オウム真理教事件の二の舞も困ります。
宗教批判を否定するつもりはありませんが、「イエスの方舟」事件を知っているだけに、間違ったあるいは行き過ぎた宗教批判をしないように心がけたいと思います。

流れを止めるような発言ですみません。

187ちょちょんまげ:2008/01/16(水) 16:35:27 ID:vUxNW.gI
皆さんこんばんは。ラッシャーきむ、じゃなくて旧chochonmageです。気分転換のためハンドル名をひらがなにしてみました。
気分転換ついでにNANさんのまねっこでお話を作ってみました。

「おとうさん、なにやってるんですか。なんかまた変な宗教にはまっちゃってるんですか。」
「変なとはなんじゃ。お前は人の信仰をバカにするのか。」
「いや、その、別に信仰をバカにするってわけじゃないんですけどね。なんか不穏な話を聞いたもんですから。」
「不穏な話なぞありはせんぞ。」
「不穏じゃないですか、充分。なんかお父さんのはまってる宗教の教祖に全財産投げ出すとか。」
「投げだすわけじゃない。寄付するだけだ。しかも条件付き。」
「大体なんなんですか、その宗教ってのは。なんかついこの前まで「たまごは一日、一個まで!!」とか分けわかんないこと言ってたけどその宗教ですか。」
「あれはもうやめじゃ。だいたい、最近教祖がすっかり顔を出さんしな。じゃが、今度のは本物じゃ。すごいぞ。」
「一体なんなんですか。」
「メリケンさんという神様じゃ。」
「メリケンさん?それって、大阪の通天閣にある?」
「それはビリケンさんじゃ。」
「で、そのメリケンさんってのはどんな神様なんですか。」
「全てナンバーワンで、全て正しく、一番強い神様なんじゃ。そして悪を見ればかならず介入して懲らしめてくれるという、実に頼りがいのある神様なのじゃが、一方、子供と犬は絶対に殺さんという慈悲深い神様でもあるんじゃ。」
「なんかハリウッド映画のヒーローみたいな神様だな。どんな教義なんすか、いったい。」
「わしも全貌を把握してるわけではないのじゃが、例えばぐろーばりずむとかじゃな。具体的には、非人間的なめーとる法を廃止して、より人間的なやーど・ぽんど法や温度は華氏に世界中をまとめよとかの
お告げが教祖に与えられたのじゃ。ふぃーとはだいたいの足の長さ、風邪引いて熱がでたら100度。どーじゃ、実に人間的じゃろ。」
「そんなことしたら、世界中大混乱ですよ。」
「神のお告げじゃぞ。お前は人の信仰にケチをつけるのか。」
「いや、だから別にケチつけてるわけじゃないんですけどね。そんでその教祖ってのはなにもんですか。」
「ジョージ・藪様というえらーいお方じゃ。」
「大体予想のついた名前だな。」
「藪様語録にこーいうのがある。『降参せよ。さもなくば我々がする!』 どーじゃ、イエス様の『右頬を打たれたら』にも匹敵する尊い教えじゃろうが。」
「なんか文法を間違えただけのような気もするけど。」
「お前は人の信仰にケチを」
「だから、つけませんってば。」
「こういうのもあるぞ。『私は人と魚が平和に共存できると信ずる。』 何という崇高なお言葉じゃ。」
「ん〜っ、なんかよくわかんないけど、崇高なんですかね。」
「崇高じゃ。」

188ちょちょんまげ:2008/01/16(水) 16:38:35 ID:vUxNW.gI
「ん、じゃぁ、まぁそれはいいとしてですね。その寄付するための条件ってのはなんなんですか。」
「奇跡を見せてくれるのが条件じゃ。わしも95にもなって世のためになることがしたいでな。真の奇跡を見せてくれるような教祖様には全財産寄付しても悔いは無い。」
「じゃぁ、この家とかもあげちゃうって話ですか。」
「わしの家じゃ。文句あるか」
「いやまぁ、それはそうなんですけどね。あのね、おとうさんは年のせいかちょっと正常な判断力を失ってるんですよ。でも家がなくなったらどうするんですか。」
「お前のところに転がり込む。心配するな」
「心配するなって、そんなムチャクチャな」
「ムチャクチャって、年老いた父親の面倒を子供が見るのは当たり前じゃろうが」
「いやまぁ、だから見ないて言ってるわけじゃないんですけど。」
「だからなんの心配もいらん」
「心配ですよ。で、奇跡ってどんなんですか。トリックかなんか見せられて納得させられちゃうだけじゃないんですか。」
「これはすごいぞ。聞いて腰を抜かすな。わしがこの皿を持って、教祖様の目の前で手を離す。するとなんと皿が見る見る下に落ちるんじゃという。そして落ちたら教祖様の奇跡成就じゃ。わしは財産を寄付するぞ。」
「わっ、腰がぬけた」
「抜けるじゃろ」
「抜けますよ、そりゃ。手を離したら落ちるのはあたりまえじゃないですか。奇跡でもなんでもないじゃないですよ。」
「なんでじゃ。奇跡じゃろうが」
「だって、あのですね。この世にはニュートンの法則ってのがあってですね、モノってのは引き合うんですよ。んで、地球ってのは皿に比べてすごいデッカイんで、皿が下に落っこちるです。っていうか、今ここにおとうさんと私が座ってるのだって、ニュートンさんが見つけた万有引力のおかげなんです。」
「で、その万有引力ってのは絶対なのか」
「ん〜、えーっと、あの、絶対じゃないんですけどね。いや、あの、わたしも最近聞きかじってやっとわかってきたんですけど、科学理論ってのは全て仮説で絶対って言っちゃいけないそうなんです。」
「教祖様は絶対落とすと言っておるぞ」
「いやだから、絶対じゃないんですけど、あの〜、なんちゅ〜か、あのつまりですね、絶対じゃないんですけど、ものすご〜く、高い確率なんですよ、モノが落ちるっていうのは。」
「ほれ見い。確率の話じゃろうが。」
「んっ〜とまぁ、そうなんですが、それでもですね、ほとんど絶対って言っていいぐらいなんですよ。」
「ほれ見い。ほとんどじゃろうが。教祖様は掛け値なしの100%だと言っておるぞ。ニュートンより確かじゃろが」
「だからぁ、そういう問題じゃないんですよね。皿ってのは落ちるもんなんです。万有引力があるんですから」
「科学主義」
「へ?」
「お前は科学主義者じゃ」
「いや、あの科学主義ってのはですね」
「お前は教祖様の奇跡に科学の狭い観点から文句をつけちょる。重大なNOMA違反じゃ。ふぉーくぼーるのNOMOじゃないぞ」
「NOMAって、なんでおとうさんがそんな余計なこと知ってるんですか。他のことじゃ半分ボケてるくせに」

で、これからどうなるんでせう。乞ご期待、って不評ならやめますけど。

189地下に眠るM:2008/01/17(木) 12:01:13 ID:cizMQ0FI
「神は妄想である」はとっくに読了していたけど、こっちに書く字間がとれなかったにゃ。
特に気になったところをつっこんでおきますにゃ。

***********************
第1章
宗教がまっとうな一つの学問分野であり、そのなかでは自分が専門家だと主張してもいいという考え方は、不問に付すわけにはいかないものである。この聖職者もおそらく、妖精の翼の正確な形と色について専門家を自称する「妖精学者」の意見に従ったことはないはずだ。P31
************************

まずアゴが外れたのがこの箇所。
妖精について知りたければ「妖精学者」に聞くのはアタリマエなのではにゃーのか? 妖精のことについては、まともな者(つまり専門家に対する一定の敬意をもつという市民としての常識を備えた者)なら、妖精については妖精学者の意見に従うだろにゃ。僕はそうするぜ。
妖精に入れ込んじゃった人は、コナン・ドイルをはじめとして結構な数にのぼるらしいにゃ。日本では妖怪にあたるので、日本ならば水木しげる先生以下、妖精(妖怪)をまじめに研究している人はたーくさんいるにゃ。主に民俗学や人類学なんかでは、学会でとりあげられるネタでもあるにゃ。無論、妖精(妖怪)が自然科学的な意味で実在していると思って研究している人も、心理的な事実として研究している人もいるだろうけれど、妖精(妖怪)のことは妖精(妖怪)学者がよくわかっているというところは当然のことだにゃ。

ちゅうかさ、ドーキンスのこの論法は、すべての神話研究や民話研究についても「まっとうな一つの学問分野であり、そのなかでは自分が専門家だと主張してもいいという考え方は、不問に付すわけにはいかないものである」と頭ごなしに否定する暴論であることは明らかなんでにゃーの? この論法は自然に実在するものや機構についてのガクモン以外のガクモンすべてを否定する論法なのではにゃーだろうか?

自然科学的な意味で存在しない、神や妖精についての知見とその体系を学問とよぶことを拒否するドーキンスは、人文科学すべての存在意義を否定しているといっていいだろうにゃ。少なくとも、そういう幼稚な論法を振りかざしていることは間違いにゃー。これが自然科学至上主義、悪質な科学主義でなくてなんだというのか?
巻末のほうで、文化的産物に対する敬意は書かれているけれど、それがとってつけたもののように思われてならにゃー。

190地下に眠るM:2008/01/17(木) 12:01:49 ID:cizMQ0FI
***********************
第2章
宗教史家は、未開部族のアニミズムから、ギリシア、ローマ、北欧神話の神々のような多神教を経て、ユダヤ教及びそこから派生したキリスト教やイスラム教といった一神教にいたる発展過程を認めている。P52

(引用者注;以下の記述は聖人のうけもつ分野や天使の位階についての記述に続くもの)私がカトリックの神話学から受ける印象として、悪趣味な俗悪さというものが必ずどこかにともなうが、主として感じるのは、カトリックの人々がそうした細部をつくりあげる際のあっけらかんとした無頓着さである。まさに厚顔無恥なでっちあげ方なのだ。P57

(引用者注;教皇ヨハネ・パウロ2世が暗殺者に狙撃されて一命をとりとめたときに「聖母の手が弾をそらせてくださった」と教皇がいったことをひきあいにだして)なぜ聖母は、弾が彼にまったく当たらないようにしなかったのだろうという疑問をもたざるをえない。P57

ウェヌス(ヴィーナス)はアフロディーテのもう一つの名にすぎなかったのか。それとも別の愛の女神だったのか? 槌を持つトールはオーディンの顕現なのか。それとも別の神だったのか。誰が気にするものか。人生はあまりにも短く、一つの想像の産物とその他多くのものとの区別にかかずらっている暇はない。こちらを無視するのかという非難を浴びたくはないから、多神教に目を向けてきただけで、このことでもう何も言うつもりはない。以降、簡潔のために、多神教であろうと一神教であろうと、あらゆる神様を単純に「神(God)」と呼ぶことにする。P58
*************************
批判し、否定する対象について無知であることはしばしば問題が大きいということは、多くの人に賛同していただけるでしょうにゃ。先の投稿で、ドーキンスには人文科学を否定しているのではにゃーかと疑義を付したけれども、ドーキンスの人文科学(特に神話学)に対する無知とそこからくる侮蔑がよくわかるところを拾ってみましたにゃ。

まず、P52にある、アニミズム⇒多神教⇒一神教、といった「発展過程」なんてのは、いつの時代の宗教史家がいったことなんだろ? 自然科学においても、ちょっと昔までは、白人が一番発達しているとかいう欧米白人中心主義が幅をきかせていたことはみにゃさまもご存知だろ? ドーキンスだって知らにゃーはずはにゃーだろう。宗教史などという分野が欧米白人中心主義から無縁でいられたはずもにゃーことも、誰だってわかるよね? 少なくとも20世紀中盤以降の宗教史において、アニミズム⇒多神教⇒一神教、といった「発展過程」なんてものは相手にされてにゃーよ。
自分の批判する対象について100年前の欧米白人中心主義に汚染された知識をベースにする馬鹿がここにいるよ、と。

また、進化生物学の優れた啓蒙者であるドーキンスが、自分の専門分野でないとはいえ「発展過程」などという言葉を無思慮に使っていることには本当にがっかりしたにゃ。


教皇暗殺に関するところにゃんが、教皇にとっては、銃弾が当たり、そして助かったというところに深い意味を見いだしたのだということだろうにゃ。弾がまったく当たらなかったよりも、教皇にとっては意味があったということなんでにゃーのか? 体験とその解釈が、それぞれのニンゲンの内的な現実を形成しているということを理解しようともしていにゃーんだろう。

191地下に眠るM:2008/01/17(木) 12:02:15 ID:cizMQ0FI
つづき

天使の位階を「厚顔無恥なでっちあげ」ってのもおそれいるよにゃー。ここでは紹介する余裕もにゃーし、そもそも僕にまとめる力量もにゃーのだが、天使の位階というのは土俗の神を取り入れて混淆しながら必然的に形成されていったものだにゃ。ある体系の形成過程を知ることなく「でっちあげ」呼ばわりするなんざ、夏の火に飛び込む虫のように第一掲示板に飛び込んでくる進化論否定馬鹿と何が違うんだ?

そこに関連して、さらに、多神教の神々についての「誰が気にするものか。人生はあまりにも短く、一つの想像の産物とその他多くのものとの区別にかかずらっている暇はない。」という態度。
多神教における神々の混淆とか変化とか分離とかいうのは、僕の知る限りもっとも面白いトピックのひとつにゃんな。文献や考古学的資料から神々を同定したりしていくのは、もっとも知的でスリリングな分野の一つだと思うにゃんよ。本も何冊も出ているし、専門の研究者もいるにゃ。しかし、ドーキンスにとっては「誰が気にするものか」
ドーキンスは、例えばAという甲虫とBという甲虫の関係、生態学的にはこういう違いがあり、形態的にはこういう違いがあり、地理的にはこうで、ゲノムはこうで、とかいう比較について「誰が気にするものか」という態度をもつ者が進化論を否定するようなことをいったらどうするのだろう?

それともやはり、「想像上の産物」の研究などは学問と呼ぶに値しにゃーと思ってるんだろうかにゃ?
だとすると、美術や音楽、文学の研究も学問と呼ぶに値しにゃーことになるよにゃ。そして、もし美術や音楽の研究を学問とドーキンスが考えているのなら、単に自分の好みで学問と呼ぶべきものとそうでにゃーものとを区別しているだけだにゃ。
ドーキンスは、「想像上の産物」の研究すべてを侮蔑し否定する科学主義者であるか
あるいは
自分の好みの分野だけを学問とみなす何も考えてにゃーダブスタのウルトラ馬鹿のどっちかでにゃーのか?

さらに、だにゃ
「以降、簡潔のために、多神教であろうと一神教であろうと、あらゆる神様を単純に「神(God)」と呼ぶことにする。」だと?
多神教の神々と一神教の神をひとまとめにするのは、単にドーキンスのひどい無知からきていることは明らかだにゃ。もうとにかくぜんぜん違うんだけどにゃ。
どこかの進化論否定馬鹿が、進化論をまるで知らにゃーくせに
「以降、簡潔のために、ダーウィン進化論であろうとラマルキズムだろうと重力進化論だろうとウィルス進化論だろうと今西進化論であろうと、あらゆる進化論を単純に「ダーウィニズム」と呼ぶことにする」といったらドーキンスはどうするんだろう?

以上、ドーキンスは少なくとも神話学系の知について、どうしようもにゃー無知とそれに基づくあからさまな侮蔑があることは明らかだと思われますにゃ。この事実だけで、この本はまじめに取り上げるに値しにゃーだろう。
しかし、もうちょっと続けますにゃ。ドーキンスの論理的な誤謬についても突っ込んでおきたいにゃ。

192AH1:2008/01/17(木) 12:36:55 ID:fKqeZx4M
>ちょちょんまげさん
はっはあ! なるほど、こりゃ困ったオヤジです。
公平に見て薮教祖は単なる詐欺師である可能性が非常に高い・・そうでなくても他人の金を巻き上げるのはマズイんじゃね?と言えそうですが、「本人が大喜びで喜捨したがっている場合」についてはどうすべきでしょうねえ。
第三者であれば、私としては「好きにしな」と言うところですが、父親にされちゃったのは痛い所ですね。
まあ科学的には今の所「それって奇跡だか神の力だかの証拠には全くなってねーじゃん」と言うしかなさそうです。もう一つは「神たるものが現世の財産なんぞほしがるなよ」という所ですが、これも「教団のために使うだけだ」「我々信徒は自発的に喜捨しているのだ」と言われると困るところです。
・・というような事を考えていて、
「薮が本当に神だとしても、神が人格高潔である必然性はない」という事を思い出しました(清貧を頭に置き過ぎてました)。
神の力を振るいつつ、信徒には現世利益を約束してシェアを拡大し、現世の富をガッポリ手に入れる存在・・・ 最悪かも。

193地下に眠るM:2008/01/17(木) 12:41:20 ID:cizMQ0FI
>ちょちょんまげ

奇跡には希少性が必要条件ではにゃーだろうか?

194カクレクマノミ:2008/01/17(木) 13:52:26 ID:nWqwz./A
>無論、妖精(妖怪)が自然科学的な意味で実在していると思って研究している人も、心理的な事実として研究している人もいるだろうけれど、

この2つを1まとめにするのは無茶でしょう。それこそ、多神教の神と一神教の神を一緒にするよりもずっと無理があるように思います。
たとえば、河童伝説はカワウソがモデルになっているのか否か、頭の皿が乾くと死ぬという発想はどこから出てきたか、というのは興味深い問いだと僕も思いますし、ドーキンスもそのような研究を否定はしないでしょう。むしろ、非科学的な考えの基盤を明らかにするものとして歓迎すらするのではないでしょうか。
しかし、河童の頭の皿が乾くとなぜ死ぬのか、その生理学的機序についての研究が仮にあったとしたら、(「空想科学読本」や「ゴジラ生物学序説」的な面白さはあるにしても、)馬鹿げたナンセンスとしか言いようがないと思います。

ドーキンスが否定している宗教研究は後者のようなものだと僕は理解しています。実際、ドーキンスは宗教の起源論に1章を費やしているわけですし。(たぶん地下猫さんにとっては不満足なものなんでしょうけども、少なくともドーキンスがそのような研究に意義を見出しているということを例証するには、その章の存在だけで十分です。)


>多神教の神々と一神教の神をひとまとめにするのは、単にドーキンスのひどい無知からきていることは明らかだにゃ。もうとにかくぜんぜん違うんだけどにゃ。

定義としてひとまとめにして良いかどうかは、そのときの議論の内容に依存するでしょう。
たとえば、進化の機構論を論じるときにダーウィニズムとラマルキズムをひとまとめにしたらもちろん問題ですが、生物が世代を重ねるにつれて変化していくというアイデアの歴史について考察するときには、どちらも(種の不変論の対義語としての)進化論と呼んでしまってかまわないでしょう。逆に、「存在の連鎖」というアイデアについて考察したいときには、ラマルキズムは創造論と同じ陣営に入り、ダーウィニズムとは別物として扱わなければなりません。

多神教の神々と一神教の神をひとまとめにしてよいかどうかも、議論の内容しだいでしょう。「ひとまとめにしている」と指摘するだけでは、問題を指摘したことにはなりません。

195NAN:2008/01/17(木) 16:12:42 ID:???
>河童の頭の皿が乾くとなぜ死ぬのか、その生理学的機序についての研究が仮にあったとしたら、(「空想科学読本」や「ゴジラ生物学序説」的な面白さはあるにしても、)馬鹿げたナンセンスとしか言いようがないと思います。

なんでナンセンスなの?さっぱり理解できん。
作家ちゅうんはそういう「設定」に時には命を掛けるんよ?”フォース”のSF設定は馬鹿げたナンセンスで意味のないこと?
ミフノスキー粒子は?メギドやホイミは?かめはめ波は?

>。「ひとまとめにしている」と指摘するだけでは、問題を指摘したことにはなりません。

名前: E-mail(省略可):
>河童の頭の皿が乾くとなぜ死ぬのか、その生理学的機序についての研究が仮にあったとしたら、(「空想科学読本」や「ゴジラ生物学序説」的な面白さはあるにしても、)馬鹿げたナンセンスとしか言いようがないと思います。

なんでナンセンスなの?さっぱり理解できん。
作家ちゅうんはそういう「設定」に時には命を掛けるんよ?”フォース”のSF設定は馬鹿げたナンセンスで意味のないこと?
ミフノスキー粒子は?メギドやホイミは?かめはめ波は?

>。「ひとまとめにしている」と指摘するだけでは、問題を指摘したことにはなりません。

なんだドーキンス批判はタブーだったのか(大笑。

196NAN:2008/01/17(木) 16:13:33 ID:???
む?失礼>>195にコピペミスがありました。

197カクレクマノミ:2008/01/17(木) 19:02:21 ID:nWqwz./A
>作家ちゅうんはそういう「設定」に時には命を掛けるんよ?”フォース”のSF設定は馬鹿げたナンセンスで意味のないこと?
>ミフノスキー粒子は?メギドやホイミは?かめはめ波は?

神学者や妖精学者たちの議論は、フィクションの設定考察と同じだと言うことですか?だとしたら、それはドーキンスの立場にかなり近付くことになりますが。
フィクションの設定考察がフィクションの設定考察として有意義で興味深いのは全面的に同意しますが、この世界のありようについての議論としては馬鹿げたナンセンスです。

>なんだドーキンス批判はタブーだったのか(大笑

なんだドーキンス擁護はタブーだったのか(爆笑

「ひとまとめにしちゃってるぞ」という指摘は、「ひとまとめにすることでどのような問題が生じているのか」が明らかにされない限り、批判にはなりません。
これを指摘するのが、どうしてタブー扱いすることになってしまうのか、僕にはまったくわかりません。

それとも、少しでもドーキンスに肯定的なことを書いたら最後、すべての宗教と多様な文化を弾圧し粛清するナチスでスターリンな独裁者で還元主義者で生物学的決定論者で極右でブルジョアジーで人種差別主義で西洋中心主義で科学原理主義で(以下、お好きな罵倒語をご自由に並べてください)ということになってしまうのでしょうか?w

198うに:2008/01/17(木) 21:34:18 ID:mgYBkPpk
>>194(カクレクマノミさん
>>>無論、妖精(妖怪)が自然科学的な意味で実在していると思って研究している人も、心理的な事実として研究している人もいるだろうけれど、
>この2つを1まとめにするのは無茶でしょう。

このツッコミは的外れじゃないでしょうか。
>妖精について知りたければ「妖精学者」に聞くのはアタリマエ
が元の文脈です。「Aについて知りたいなら、スタンスはともかくAに詳しい人・専門家に聞く」が、スタンスを問わずひとまとめにすることにはならないでしょう。
アンチにもビリーバーにもUFOの専門家っていると思いますよ。

199NAN:2008/01/18(金) 02:03:39 ID:???
>>197
>神学者や妖精学者たちの議論は、フィクションの設定考察と同じだと言うことですか?だとしたら、それはドーキンスの立場にかなり近付くことになりますが。

ドーキンスは「宗教がまっとうな一つの学問分野であり、そのなかでは自分が専門家だと主張してもいいという考え方は、不問に付すわけにはいかないものである」と主張しているんでしょ。ここについて私は地下猫氏の>>189
「自然科学的な意味で存在しない、神や妖精についての知見とその体系を学問とよぶことを拒否するドーキンスは、人文科学すべての存在意義を否定しているといっていいだろうにゃ。少なくとも、そういう幼稚な論法を振りかざしていることは間違いにゃー。これが自然科学至上主義、悪質な科学主義でなくてなんだというのか?」
に同意するわけ。

フォースが自然科学として実在するかどうか?それだって「バカげたナンセンス」とは云い切れないでしょ。仮にそれらが実在するのだとしたら、現実世界でどのように振舞うのだろう?という問いかけに対して、さまざまなSFX技術やCG技術が投入されて映像化がされてるんだけど、「その生理学的機序についての研究」が仮にあったらバカげたナンセンスなの?

今は懐かしくなっちまった「バーチャファイター2」というゲームがあるんだけど、このゲームのキャラにアキラってのがいて、こいつの技に「1/60秒のタイミングでシビアにキー入力しないと発生しない」ってのがあった。幻のワザってことでみんなが夢中になったんだけど、無論そんなワザは現実世界に存在しないし、それが自由に繰り出せたとしても現実世界にはなんの影響も(一見すると)ない。ところが当時のゲーム好きはこのワザを出そうと苦心して特訓したり、その他様々なワザが発明されたりそれらをサポートする書籍もたくさんあった。
同じくゲーム「鉄拳」に出てくるキャラ、マーシャル・ロウのモデルは故ブルース・リーで、流派もリーが興したジークンドーなんだけど、この流派はリーが武道としての強さ以外に映画向けの見栄えの良さも追求したもので、現実の格闘家がそれを習得してリングで披露したりしていた。もともとが空想の産物であろうと、それをきちんと研究したり、時には現実世界に表現される「現象」として我々に影響を及ぼす「知の連携」は確かに存在するんだよね。

論点はそれが「フィクションかどうか?」ぢゃないでしょう。ある行為が、自然科学としての実在性に基づくかどうかを基準に「行為としてのナンセンスさ」を論じるのは科学至上主義に間違いない、と私は思うけどね。

>多神教の神々と一神教の神をひとまとめにしてよいかどうかも、議論の内容しだいでしょう。「ひとまとめにしている」と指摘するだけでは、問題を指摘したことにはなりません。

無論、「ひとまとめにしている」と指摘するだけで問題を指摘したことにはならないよね。ところが地下猫氏は「なぜ、ひとまとめにすることが問題になるのか」という条件付けを行ったうえでそれをしているわけ。ところがキミは問題を再びメタレベルに戻している。それはいったいどういう理由なんだい?というのが罵倒に値するのですよ。

仮に万が一、ドーキンスが自然科学以外の知の体系について十分な尊敬と認知を行っているのだとしても、そうしたスタンスとは「真っ向から対立する主張」を繰り返している「ように見える」だけで、件の本が「読むに値しないくだらないバカ本」だってことは十分分かる。ドーキンスの真意について「苦しい解釈」をしなけりゃならないってことがそれを例証しているよね。
ある議論が論理的に正であるか誤であるかを論じるのは極めて簡単なことですよ。しかし「なんらかの知」がフィクションであるかノンフィクションであるか(実在するか妄想であるか)の境界線は極めて曖昧であり、その存在および影響について「馬鹿げたナンセンス」だとか「かかずりあってる暇はない」ってのは単に好み・嗜好の問題だよね。

200カクレクマノミ:2008/01/18(金) 03:23:34 ID:nWqwz./A
案の定、一言でもドーキンスを擁護するとフルボッコだなあw
やっぱりドーキンス擁護はタブーなのかな。

妖精ビリーバーが、妖精について「知っている」とは、いったいどういう意味なのでしょう?それははたして、民俗学者が妖精伝承について「知っている」というのと、果たして同じ意味なのでしょうか?
僕にはこの2つが同義だとはとても思えません。そして、前者は学問的研究とは言いがたいと思います。

「妖精伝承において、妖精には羽があるとされることがある」という言明は、明らかに意味のあるものです。しかし、「妖精に『実際に』羽がある」とは、いったい何を意味する言明なのでしょうか?
僕には全くわかりません。

>ところが地下猫氏は「なぜ、ひとまとめにすることが問題になるのか」という条件付けを行ったうえでそれをしているわけ。

地下猫さんの投稿を読む限りでは、「違うからだめ」としか僕には読み取れません(この点は僕の読解力不足かもしれないので、もしそうなら教えてください)。

201NAN:2008/01/18(金) 03:59:09 ID:???
■ある議論が論理として正しいか誤っているか、を転じて『良いか・悪いか』を論じること。

なんだか結局ここに終始してしまう気がしてきました。自称宗教家が良く使う「真理」という言葉について、私は論理的な「正解」という意味以上の価値を自分の中で持たせないようにしています。ここになにか知識があり、それが「真理」であったとして、それが自身の行為の正当性を補強してくれる、と考えることは大変危険だ、と評価しているからです。

実際に私は、いくつもの矛盾や欺瞞(あるいは誤謬)とめぐり合ってきました。そして、その対処に苦慮をし、満足な結果が得られたと思ったことは、正直云ってありません。
あるひとは、「間違いは悪いことだ」と信じ込んでいました。これは「マチガイ」という日本語の多義性から来る問題と、論理的な誤りの過大評価に基づくものとの合成であったことは明確でした。しかしそれをいくら”彼”に説明しても、論理的誤=悪、という固定観念を取り払う説得ができたとは、私には思えませんでした。さらに悪いことに、私が指摘する「間違いは直せば良いだけで、別に悪いことではない」という主張が理解できないことが、二重に彼のマチガイを指摘してしまったことになり、却って彼を傷つけたかも知れません。それはたとえば「学校のテストで低い点をとることは悪いことである」と、くり返しくり返し刷り込まれてきたことの結果なのだろう、と私は思います。

宗教や信仰について、それらに興味はあるけれど宗教の危険性や欺瞞性を知り、なんらかの包括的な批判を行うべきであることに賛同するけれどその方法論について明確な指針を持てない私(あるいは、私に似たスタンスのひとたち)にとって、少しでも問題の単純化が行えるのだとしたら、たとえばこういうことなのかも知れません。

1:主張の論理的誤について、それを指摘されたり知っているのに認めない態度
2:主張の論理的正誤に基づいて、その人格的評価判断を行う態度
3:不可知である事象について、それを可知の論理であると主張し、なおかつその正しさと行為の正当性を結びつけて主張する態度

上記3点について、私は(たとえばこの掲示板に於いて)良く知っています。また、1と2については注意深く運用すべきであり、場合によってはダブルスタンダードを引き起こし兼ねないポイントであるだろう、とも思います。さらに、3については、要するに「神や死後の世界」という不可知領域から得られたとされる「知」に基づいて、教義の正当性や「聖らかさ」を主張する行為について「考える機会」を与えてくれるだろう、と思います。

それでは、このような論点はどう批評されるべきでしょうか。
4:「知」の実存性に基づいた価値判断
いわゆる科学主義はこれに類するだろう、と思います。その主張がフィクション(想像の産物)であるならば、すなわち無価値(もしくは価値が著しく低い)である、という主張です。この主張は、自然科学の範疇における創造科学に対してでさえ、慎重にならざるを得ないだろう、と私は思っています。創造科学の論理的誤りを指摘するのは簡単だけれども、その価値判断までが論理的正誤によって判断されるのかどうか?という問題です。多くの創造科学論者に対して、私は1に挙げた「論理的誤を認めようとしない態度」に基づいて侮蔑や罵倒を行います。ところが、論理的に誤りであるからと云って、それだけが「悪いモノ、ダメなもの」であることの証明になるのか?について、私はまったく同意できません。

自身の犯す過ちや誤謬についてであれば、これらを考え、過ちを認めて訂正していくことはそれほど難しくありません。しかし、他者のそれについて「なにかを指摘すること」までは一方的に行えるのですが、それが果たして相手(対象者)の「考える機会」となり得ているのかどうか?について、私はさっぱり自信が持てません。また、この点についてあまり深く傾倒すると、他者に対する過干渉にさえなり兼ねないでしょう。

この論点を突き詰めていくと、最終的に辿り着くのはヒトが持つ「根源的自由への言及」なのではないか、と私は思います。「自由という権利」はあくまで律法の中で行使されるものですが、根源的な自由とは、法や倫理とはまったく無関係に行える「すべての可能性」を指しています。ヒトは気分や興味だけで簡単に他者の生命を奪ったりその他の暴力を行使できる、恐ろしく危険なイキモノです。それらを抑制し得るものとは、云うまでもなく「知」であるだろう、と私は思いますが、決して万能ではなく、時には限りなく無力でさえあります。それでは、倫理を守る機会を与えてくれるものとはなんであるのか?もしかしたらそれも盲信の一種ではないのか?そう問われるとき、私には「違う」と結論できる根拠も自信もないのです。

202AH1:2008/01/18(金) 13:34:16 ID:fKqeZx4M
ぶっちゃけ、私がカッパについて知りたければ「自称カッパ学者」に聞きますね。多分。
例えその人がカッパビリーバーだったとしても、古今の「目撃記録」「伝承」なんぞに詳しいだろうから。
ビリーバーさんなら「カッパの系統学」「カッパの生態学」なんぞを独自に展開してくれそうですが、
その辺は聞き流す(笑

別にビリーバーさんでなくても文化人類学・民俗学的に調べている人がいれば十分である・・
むしろそういう人の方が「イッちゃってない」から助かる・・
ということは、言えるかもしれませんが。

203NAN:2008/01/18(金) 21:16:50 ID:???
いや、あのね…ちょっとちょっと待ってね。

1:「想像上の産物であることが確定的である事象」について、それを学問として研究することは、すなわち「バカげたナンセンス(無価値で意味のないこと)」である。

上記を「自然科学の一分野として」と云うなら、そりゃぁ私は同意しますよ?でも学問ってのはなにも自然科学だけじゃないでしょ?ってそれだけのことじゃないのか?カクレクマノミさんの云う「この世界のありよう」ってのは、自然科学の中にすべて含まれなければならないってことかい?ってのが私の疑義なんだよね。定量的・測定可能・実証可能なことだけで「この世界」は成り立たないし、それはたとえば「芸術性」とか「現象学」みたいな分野を侮蔑しかねない主張じゃないのかな。

2:「想像上の産物について、それらが実存するという言明」には意味がない。

ドラッグでラリって絵を描くヤツとか作曲するヤツは多いよね。倫理的にそれがどうかはともかく、そいつらにとっての「事実」をオーディエンスは共有できるわけでしょ。意味ってなに?価値ってなに?ってことだよね。そんなもん「意味があると主張するヤツには間違いなく意味がある」んだよ。これを論理で否定することなんかできるわけないじゃんか!ちなみに貨幣の価値なんてこれと同じだぜ?あんなもんニンゲンが作った最強の「想像上の産物」じゃんか。

204カクレクマノミ:2008/01/19(土) 05:31:39 ID:nWqwz./A
質問:「妖精には実際に羽がある」という主張は、具体的にどのようなことを意味するのですか?
(「意味があるかないか」じゃなくて「何を意味するか」)

答えてください。

205NAN:2008/01/19(土) 11:30:35 ID:???
>質問:「妖精には実際に羽がある」という主張は、具体的にどのようなことを意味するのですか?

その「実際」を体験した者にとって事実であり現実である、という主張だよ。

206ちょちょんまげ:2008/01/19(土) 15:19:31 ID:pnH8DlR.
AH1さんがサラッと書かれた「イッちゃってない」はけっこう重要なポイントのように思えるんだよなぁ。
うまく言えるかるかどうかわからないのですが:

フィクション創作者が作品の世界観の構築や、登場させるフォースなどの小道具の設定に命をかけるのは、あくまでその作品を自分の満足のいくものにするため、ひいてはそれを持って読者なり、観衆なりに楽しんでもらったり、何かを伝えたりするためだと思うんです。(あと自分の楽しみ、ってのは大いにあるでしょうね。)
でも、そこには「この作品はフィクションである」旨の認識が存在すると思うのです。(つまりイッちゃってない。イッちゃったような状態になった方がいい作品が生まれるとか、ってのはまた別の話だと思います。)
それに比べて、例えば「水からの伝言」の提唱者は、フィクションだとも言っていないし、科学だとも言っていないようですが、この人が「水の結晶」や「水が言葉や音楽に反応すること」の「専門家」であるとか認められるのでしょうか。
この人の場合は、おそらく金儲けやらの目的があるでしょうから多分に「確信犯」だと思うのですが、もしマジだとしたら「イッちゃってる」のではないでしょうか。
私はこの人に「水の結晶」について尋ねてみたいとは思いません。変なバイアスかかってそうだし。私よりは「水の結晶」について詳しいことは確実でしょうが。

蛇足ながら、「イッちゃってる」ことが必ずしも「悪いこと」だとは申しておりません。

NANさんに伺いたいのですが、

ある作曲家の音楽をほとんど信仰するがごとく愛している男がいたとして、その男が、その作曲家の作品群は他の作曲家のどの作品よりも
価値が高いことを「論理的」に証明することに命をかけ、ガクモン的に研究し、そして彼なりに証明できたと確信し大論文を書いたとしてください。

この人の仕事を、ガクモンあるいはそれなりに価値のあるものとして認められますか、それとも、「音楽の価値」などというニンゲンの感情的な部分でしか評価できないものを論理的に証明する、などはナンセンスである、とお考えになりますか。

207NAN:2008/01/19(土) 23:55:25 ID:???
う〜む…こぉいう「口語の領域の話」をきちんと書くってのは面倒臭いんだけど(苦笑)、行きがかり上これは私の責任らしいので書きます。
といわけでちょちょんまげさん。

>この人の仕事を、ガクモンあるいはそれなりに価値のあるものとして認められますか、それとも、「音楽の価値」などというニンゲンの感情的な部分でしか評価できないものを論理的に証明する、などはナンセンスである、とお考えになりますか。

オンガクの価値はさまざまな側面を持ちますよ。
1:意識・情動分野に明確に働きかける認知可能な質的な感動(無論、好悪のベクトルがあります)
2:楽譜、CDなどのメディアの売上(オンガク出版)枚数や量的な金額
3:楽譜(スコア)としての合理性や整合性、音楽理論的な革新性や斬新性についての質的な価値
4:その楽曲の演奏に対する観客動員数や二次演奏に関する量的な評価

ほかにもあるかも知れませんが、簡潔に述べるとこんなところでしょうか。
このうち「量的な分野」においてその楽曲が確かに数値を出しているのであれば、その論文は少なくともニンゲン社会というシステムの中で根拠を得ていることになります。しかし世の中には売上や知名度では今ひとつでも、特定分野のファン層(しかもギョーカイの一流とか呼ばれる層)にウケるオンガクなどもあり、そうした事例を根拠に「ガクモンとしてイチバンを証明すること」は難しいと思います。(ていうかオンガクとかは私にとってイチバン!ていう主張だけでそれを否定できる反論はなにもないんだけどね)
これは「オンガクの価値は論理的に証明可能かどうか?」について、できないこともない、という私の回答である、と捉えてください。

しかし、これは比喩が悪いだけで、ちょちょんまげさんの挙げた前半のくだりは的確な指摘だと思います。
疑似科学に基づいた詐欺的(に見える)商売について、私は決してそれを「認める」ことはしないでしょう。しかし、問題は「私が認めるかどうか?」ではないのです。そのような主張や商品を価値あるもの、重要なもの、大事なものとして認めるヒトは数多く存在し、中には他の分野では間違えようのない「科学の専門家」までがそれらに傾倒したり支持していることが問題なのでしょう。ただそれは「大文字ナンがへし折ったストラトキャスターのネック」に100万円払うヒトがいたとして、価値としてどう違うのでしょう。私たちは疑似科学やとんでも商売を批判することに使命感もしくはなんらかの興味を持っているわけですが、それらを「喜んで購入したり傾倒する自由」もヒトにはあり、それを否定することなんかできるわけがない、というのが私の主張です。

比喩をずらずら並べていくとなにがなにの主張に対してのメタファだったのか分からなくなるので、もともとの「妖精」について書きます。
私が「妖精を実際に見た、容姿はこんなであり、羽はこういう風に生えていた」と主張し、絵を描きました。絵は具象ですから明確な視覚情報を第三者と共有できますが、それを検証する方法はありません。するとちょちょんまげさんは「絵は分かったけれど、この実物はどこにいるんだ?」と問います。しかし私は「あなたに証拠を提出することはできないけれど、確かに私は妖精を見たのだ」と主張するでしょう。

この問答は「自然科学のテーブル」に於いて、私の完全なる敗北と云えるでしょう。あるいは、裁判をやっても負けるでしょう。
しかし、それが「計測可能な世界」において夢であれ幻であれ錯覚であれ、確かに私が認識するところの「現実世界」に於いて妖精との対面を体験し、記憶したのであれば、それをどんな方法で否定できるのでしょう?あらゆる科学的根拠を提示してでさえ、それは「正しさの要求・押し付け・強要」にしかならないのではないのでしょうか。また、そうした主張を科学者が科学的方法論に基づいていくら反証したのだとしても、私の主張に「真実」を見出してしまったり、そこまでいかなくとも「なんらかの信憑性」を得てしまう第三者は数多くいるでしょう。つまりそれが「ニンゲン社会である」ということなのだ、と私は思います。

自然科学だとか科学的方法論で否定できるモノは、この世界においてごくわずかです。このスレッドにおいて重要なテーマとして掲げられた「重要な問い」に、科学はほとんどなにも答えられないことを皆さん承知でしたよね。私の配偶者がそのひとである理由を論理的に実証することなどできるでしょうか。

208カクレクマノミ:2008/01/20(日) 04:27:49 ID:nWqwz./A
>その「実際」を体験した者にとって事実であり現実である、という主張だよ。

「とって」という言葉の意味が良くわかりませんが、ある人物の精神的状態についての言明であると理解してよろしいですか?

209名無しさん:2008/01/20(日) 11:09:36 ID:QpQGFxc6
>妖精について知りたければ「妖精学者」に聞くのはアタリマエなのではにゃーのか?(189 地下猫氏)
>ぶっちゃけ、私がカッパについて知りたければ「自称カッパ学者」に聞きますね。多分。(202 AH1氏)

それはそうでしょうね。私もそうすると思います。あくまで空想上の「妖精学」、「カッパ学」として。水木シゲルに期待するのも、その域をでないでしょう。
ドーキンスもそう言った「………学」まで否定したり、攻撃しているものではないと思いますよ。

しかし例えばその「自称カッパ学者」が、カッパは実在するものだと主張し、皿の水が乾くと死ぬメカニズムを「科学的に」証明し、その「事実」を国語の民話としてでなく理科の教科書に掲載することを要求し、カッパの棲息環境を守る為に河川の改修や護岸工事に反対し(川をコンクリートで固めることの是非について、ここでは置いておくとして)、その工事の責任者を殺害したり工事事務所に放火したとしたら………、

アメリカの一部で(或いはイスラムの一部で、又はオウムで)、宗教・神の名で行われていることは、事情は違っても概ねこう言ったことではないでしょうか。それもはるかに大掛かりに。

神の実在を主張し、そのなせる業や奇跡を証明しようとし、創造論を教科書に掲載させることを求め、少なくとも進化論と併記させようとし、一部の(でも結構な数の)家庭では子供に学校教育を受けさせることを拒否して自宅で親が「教育」し、人工中絶に反対して医院を焼いたり医師を殺害したり。

ドーキンスが批判しているのは、こう言った「神の実在性とその実際の弊害」に対してだと思います。
神の実在を信じるか信じないかは個人の自由だとして、ドーキンスが強調しているのは「宗教に対する過剰な敬意」への批判であり、その政治的な利用、弊害でしょう。特にその弊害が顕著なアメリカを主に念頭に置いて。

「宗教がまっとうな一つの学問分野であり、そのなかでは自分が専門家だと主張してもいいという考え方は、不問に付すわけにはいかないものである。」31ページに有るこのフレーズは、アインシュタインの神に付いての態度を吟味する過程で述べられているものですが、わざわざ「学問分野」に傍点が付いています。
私は、神の実在を前提とし、神を通して世界を解釈する、そう言う宗教教義を、「科学的な学問分野」として認める訳にはゆかないと言う、無神論者としてのドーキンスの意思表示として読みましたが。 

「想像上の産物であることが確定的である事象」について(203 NANさん)、想像上の問題として研究すること、聖書を優れた文学的遺産として、神やその御技を空想物語として「学問」する分には、ドーキンスもこんな本を書く必要は無かったでしょう。

無心論者である私には、一つひとつのフレーズは別として、ドーキンスの主張は全体として全く違和感を感じません。宗教の起源やその進化にも、淘汰の理論を強く持ち込んで解釈しようとする点などについては、些か辟易するところも有りましたが。
NOMAに関しても、若し科学が神の実在を示唆するような知見を発見したとして、宗教の側で「それは教導権が違うから」との理由で無視することは絶対無い筈だ、とのドーキンスの主張は痛く納得できるものです。

「神は妄想である」ほど感情的でなく、論理的でシンプルな論調としては「数学者の無神論」の方が抵抗が無いかも知れません。
ttp://www.seidosha.co.jp/index.php?%BF%F4%B3%D8%BC%D4%A4%CE%CC%B5%BF%C0%CF%C0

210:2008/01/20(日) 11:11:25 ID:QpQGFxc6
No-209 の「名無し」は雄です。失礼しました。
続きです。

私は、宗教・神とはフォイエルバッハが喝破したように、「現実世界の裏返しが、観念に反映したもの」だと思っています。
病弱な人が神に祈るのは健康な体でしょうし、貧困で一家心中する人が行こうと願う天国は、お金の心配の無い世界でしょう。

現実世界に精神的な基盤を持つ宗教を、現実世界と切り離して幾ら非難しても宗教をなくすことは出来ないし、思想・信条の自由は守られるべきだとは思います。
同時に同じ理由で無心論者の主張・立場も、無条件で擁護されるべきでしょう。
その辺の基準が特にアメリカなどでは、宗教に過剰な敬意が払われすぎていると、ドーキンスは言っているのでしょうね。

私は宗教に関して、現実の一番の問題は、宗教の政治利用、政教一致だと思っています。
日本でも靖国の問題や、某巨大教団と政党の関係など、多いに議論になるべきだと思っています。
政教分離と言っても現実にイスラム国家などでは大変だ、と言うことは重々承知していますが。

政治利用と言う点で、一神教と多神教では事情が随分異なるんじゃないか、今回「神は妄想である」などを読んでそのことを自分なりに気が付かされました。

一神教の神(或いは教祖様、先生など)は、天国でもその教団内でも権力を一手に握っている訳ですが、地上の為政者がその権威付けに宗教を利用する場合でも、その方が都合が良いのではないかと思う訳です。
日本が宗教的に非常に雑多であり、律儀な信仰者からすれば誠に節度の無いバチ当たりの国民性なのは、仏教にしろ神教にしろ、日本の宗教がおそらく多神教のせいではないかと思っています。

仏教の教祖は本来お釈迦様と言うことだと私は考えますが、日本の寺院で釈迦如来を本尊としているところがどの程度有るだろうか?
多分観音様を本尊としているところが一番多いように、私には感じますが、弥勒菩薩であったり、日光菩薩であったり月光菩薩であったり、或いは地蔵様であったりと。
大仏様もそもそも大きいというだけで何の仏様なのか、私には分かりません。

神教も同じことで、必ずしも天照大神だけが幅を利かせている訳ではなく、様々な神様が、それも古事記などを読む限りでは人間界との境界が非常に曖昧なままおわします。その点ではギリシャ神話と共通性を感じています。
「常陸国風土記」の中で、マタチという人間が、開墾作業を邪魔するヤツの神(蛇)を追い払って、社に封じ込めたという寓話が出て来ますが、こう言ったバチ当たりな話は、一神教では到底考えられないことでしょうね。

多神教においては宗教的な権力が分散している訳で、地上の為政者が権威付けに利用しようとしてもなかなか難しかったのではないか。
逆に地上の権力者によって、特定の「神・仏」に宗教的権威付けがされ難かったのではないかと思っているところです。

392年、ローマ皇帝テオドシウスが、それまで迫害していたキリスト教を国教化したのも、神聖ローマ帝国として自分の権威付けに利用できると踏んだのだろうし、その後の歴史の中で、天上・地上、合い携えて権威の高め合いをして来たのだろうと思います。

宗教的にルーズな国民性で本当に良かったと、私個人は思っているところです。

211NAN:2008/01/20(日) 12:58:28 ID:???
>しかし例えばその「自称カッパ学者」が、カッパは実在するものだと主張し〜

カッパ学者であろうと民意に基づいたことになっているバカ市長が公約した予算消化(天下り先土建屋の売上になる)のための護岸工事であろうと、おかしな事業を批判したり非難することは当たり前でしょう。「なんらかの正当性・権威性」を根拠にありがたくない善意を押し付けること、それがエスカレートして暴力行為に及ぶことが非難されるべきなのは明確です。しかしそれが「○○学に傾倒しているせいだ」となった場合、その一般化が果たして妥当なものであるか否かは別個の問題として議論すべきです。

>アメリカの一部で(或いはイスラムの一部で、又はオウムで)、宗教・神の名で行われていることは、事情は違っても概ねこう言ったことではないでしょうか。それもはるかに大掛かりに。

もちろん、そのとおりです。上記の文脈を否定したことはありません。
しかしそうすると、もっともっと広範囲に行われている威力行為に「営利拡大のために」という正当化を行った、様々な企業による乱開発や環境破壊、マイナスイオンをうたい文句にした数々の欺瞞商品が存在しますが、これは「自由経済」を批判すべきでしょうか?「国家・法の名のもとに」行われる暴力行為なんてのも数限りなくありますね。

私が一貫して主張しているのは、批判対象があまりに広範囲である場合、その範囲をもっと限定したり特定したりするという「礼儀」をわきまえないと、必要なもの、大事にすべきものまでが攻撃対象で(たとえ本意であろうとなかろうと)あるかのように見える、だから「メリケンのバカクリ」とか「○○教団」のような対象の特定をするべきだ、ということです。また、アメリカ社会が極度にクリスチャンに遠慮する社会であるなら、アメリカ社会の問題としてそれを扱いなさいよ、ということです。同じく創価学会と公明党だって名指しで批判できる根性のある(癒着のない)メディアがないのが問題なだけで、宗教というガイネンの問題ではないでしょう。

>「想像上の産物であることが確定的である事象」について(203 NANさん)、想像上の問題として研究すること、聖書を優れた文学的遺産として、神やその御技を空想物語として「学問」する分には、ドーキンスもこんな本を書く必要は無かったでしょう。

???誰にも「なにがしかの本を書かなければならない必要性」なんてものはないよ?それは本人の要求でしょう。

ワケの分からない一般化の事例として、我が国には「3ない運動」というのがありました。それは暴走族が社会現象と化した70年代、オートバイを諸悪の根源として一般化し、「乗らない、買わない、免許を取らない」という、さっぱり意味不明なヒステリーを正当化したものでした。(エレキギターなんてのも悪者にされたしね)

おかげで何が起きたか?隠れてバイクに乗るヤツが増え、暴走族は凶暴化し、日本のモータリゼーションはまったく寸断され、無免許でバイクに乗るからたかが一時停止も守れないせいで起きる事故が増えたりしたわけです。

つぅかね、戦争時の人殺しに代表される「平時にはあり得ないことの正当化」を行うすべての事象は批判の対象となり得るわけです。でもそれらをきちんと吟味するのが「面倒臭い」ので、とりあえず宗教でも批判しておこう、だってオレあいつらのせいで色々迷惑蒙ったし、くらいのメッセージしかドーキンスからは受け取れないのです。

212AH1:2008/01/22(火) 17:05:51 ID:fKqeZx4M
カッパ学と「イッちゃってる」について.前提となる私の認識としては「カッパは動物図鑑に出ている生き物のように,客観的かつ確実な記録があるわけではない」ことを前提にしています.もし「いや,俺は見たのだ」と主張される例があったとしても,それは「論文にできない程度の不確かな目撃情報」でしょう.つまり,「カブトガニの専門家」「ティラノサウルス・レックスの専門家」というような,対象をじかに研究した結果を持っている専門家はいない,と考えます.
さて,その上でカッパの色について知りたければ,そのような目撃情報(古いものであれば伝承)を集めるしかないでしょう.
情報の信憑性については,個別に判断するしかないと思います.「イッちゃってない」学者が有り難いのは,「これは**の見間違いかもね」「こうだと言われてるけど,どうかなあ」「これはこの時代のこういう文化的背景に影響されてるね」といった,否定的・客観的な情報を必ず紹介してくれるだろうという点でしょう.
対極に位置する人の場合,見間違い・勘違い・幻覚・妄信などを客観的に排除する努力をしていないかもしれません.全ての情報を出してくれればまだ良いが,恣意的な基準で勝手に取捨選択されている恐れもあります.ここに本人の妄想まで入ってるともはや利用不能.「**カッパは生命であるとの認識が大切です**」などと言いはじめた日には・・・(笑
カッパの実在を信じており,かつ使える情報を提供してくれる人は非常に少ないかもしれませんが,私としては「未知動物学」のようなものを想定しています.例えばネッシーについての目撃情報を全て集めて,その上で実在を真剣に考慮しつつ検討しているような人です.見間違い・イタズラ・伝説などなどがある事を知った上で,なお,いつか客観的な証拠が見つかる事を信じて,現在ある情報から科学的な考察を組み立てるという作業は不可能ではありません(情報不足ゆえに行き詰まると思いますが).
自称「進化の専門家」にもウィルス進化論,クラス進化論,重力進化論,新今西などが含まれている,ということでしょうか.

まあ,ここでドーキンスが言っているのは「そういうのはカッパ学じゃない,民俗学とでも言ってくれ」という意味であり,「カッパ学などと言い出した時点でイッちゃってる」というニュアンスを含めていると思います.しかし,もしそうなら,「カッパは存在しないんだからカッパ学なんてあるわけない,専門家なんているわけないだろ」というのもちょっとフライングじゃね?と思いますね.まあ,売り言葉に買い言葉的なノリはあると思いますけれど.

213ちょちょんまげ:2008/01/23(水) 04:34:17 ID:vUxNW.gI
「イッちゃってる」のケーススタディ

ケース1.錬金術の場合

(錬金術の歴史、手法等につきとうとうとまくしたてる。そこまでは拝聴する価値アリ。)
「で、私の結論なんですけど、いままでは術師の術前の身のお清めの方法に問題があった、という結論に達しました。正しいお清めの方法はですね、まず風呂桶いっぱいの処女の生き血を」

ケース2.妖精の場合

(妖精の歴史、民俗学的ポジショニング等につきとうとうとまくしたてる。そこまでは拝聴する価値アリ。)
「え?それで妖精は実際に存在するのですかって?そりゃしますとも。実際、一週間前に近所の幼稚園で2匹ばかり捕獲してきたところです。お見せしましょうか。これはニンゲンの幼児じゃないかって?何を言ってるんですか、あなたには背中の大きな美しい羽が見えないんですか?」

ケース3.カッパの場合

(カッパの歴史、民俗学的ポジショニング等につきとうとうとまくしたてる。そこまでは拝聴する価値アリ。)

「え?それでカッパは実際に存在するのですかって?いや、あまり大きな声じゃ言えないんですけどね。実は宇宙人なのです。うるとらせぶんに出てきたテペト星人とかうるとらまんえーすの超獣キングカッパーなどは、それと気づいた人たちが人々にこっそりと教えようと」
(ごめん!あんまり面白くない)

ケース4.水からの伝言の場合

(「水伝」にはまってる人。一定方向に強い思想傾向を持つ。最初からあまり拝聴する価値ナシ。)
「で、だれが美しいことばか汚い言葉か決めるかですって。そりゃ、実験者が美しい心を持ち、美しい言葉だたと思っていれば水もわかってくれるんですよ。例えば「日本人」。実に美しい結晶となります。ですが、「○○人」この結晶の醜さを見てやってください。」

で、おぢさんには上記の人たちと「宗教者」の区別があまりつかないのレス。

214NAN:2008/01/23(水) 17:38:48 ID:???
「イッちゃってる」のケーススタディ:NAN編

ケース1.金融・証券マンの場合

(通貨の歴史、自由経済システムの発達、金融機構について講釈する。あまり興味がない)
「で、私の結論としてはですね、御社にこの金融商品をお奨めしたいのです。正しい投資を行えば必ず資産運用に役立ちます。このプランであればかなりの確率で御社に役立てると思うのです」

ケース2.とある会社員の場合

(ほとんど一人で営業のすべてを取り仕切る取締役部長に呼び出される。カリスマだが人格は最低だ)
「あ〜、キミ来月からブラジル行ってくれる?そう、ブラジル。新種のコーヒーがえらく期待できるから権利を全部引っ張ってきて欲しいんよ。え?考えさせてくれ?あ〜、残念だねぇ、ボクのお願いが聞けないなんてねぇ」

ケース3.いかにもエロいカップルの場合

(想像に任せる!)
「で、お前たちってさ、何回イっちゃうとイイわけ?へぇ、アイシテル感じがしてシアワセなの?で、そのシアワセって何回イっちゃうと感じるの?つまりお前たちのシアワセってイっちゃった回数で決まるのね?う〜ん、なにがシアワセかどうかなんてオレにもさっぱり分からないけどね」

ケース4.英雄の場合

(間もなく任務が始まる。でも大丈夫、この上陸作戦にはアノヒトが参加しているのだから)
「彼こそ英雄さ。あの不利な局地戦をひっくり返し、完璧なまでに敵を殲滅したのだから」

で、おぢさんは上記の人たちは全員狂っていると思うのです。
と、それだけでは「んなもん相対的に過ぎんよ」と述べただけなので、もう少し書きます。

215NAN:2008/01/23(水) 17:39:11 ID:???
「信じる」こととは、言い換えると「呑み込むこと」だったり「その味に慣れること」でもあるのではないか?と私は思います。子供がさんざん発するあの「なんで?」を、私たちは年を経るごとに忘れ、「なんで?」をしないことがまるで大人であるかのように錯覚させられ、モノを買うことがシアワセであると思い込んだり、ビールの味を覚えたり、雑誌やテレビで紹介されることに名誉を感じたり、社会の一員であることが当たり前であると慣れてしまうのではないでしょうか。

このスレッドで皆さんの挙げる「宗教者」というプラカードを観察して見ると、その対象は「私たちとなにが違うのだろうか?」と思わざるを得ません。なぜなら、なにかを盲信していたり、自分に対する疑義を見失っているという点で、あらゆるジンルイはおんなじことをしているだけだ、と思うからです。また、これは根拠なく感じることですが「なぜ宗教者に対する見直しはしないのだろう?」とも思います。創造科学論者とか原理主義者とか教条主義に基づく威圧者だとか、「そんなの宗教者と云えるのか?」というダメダメなケースだけを取捨選択している、ということです。

「(一般に云う)仏教」ではなく、「釈迦(ブッダ)の言葉」として伝わるものの中には「信仰を捨てろ」とか「形而上学的領域の断定を知識として認めない」など、非常に合理的かつ科学的である教えが数多くあります。そうでなくても、世界宗教の原点には「偶像の拒否」など、皆さんが「宗教者のステレオタイプとしているモノ」とは、両極で対立するものが数多くあります。それら変化は各宗派が世俗化しスノッブと化し「ポピュラリズムという正当性」を身に付けていく過程において起きるのですが、まったく同じミーム論的現象が私たちの周りにはいくらでもあります。

このような視点に立って、私が宗教を「一般論として批判する」としたら、「なぜ本来の姿を守らないで勝手ばかりするの?」というスタイルを取るでしょうね。理由は、宗教が暴力を是とするわけがないし、欺瞞を是とするわけがないからです。ところがまるで「宗教者というのはこういうおかしなヤツらで悪いことを平気で行う」という視点に立った批判しか見えて来ない。自分たちも十分狂っているのにそれはないんじゃないか?というのが私の主張なのですが、なかなかかみ合いませんね(笑。

「なぜ夕食の買い物をスーパーでするの?」
「どうして毎日仕事に行くの?」
「なぜ私の家族はこのひとたちなの?」
「私はどうやって生きていけばいいの?」

世間一般に云う「普通のひと」は、上記のような疑問を滅多に持たないでしょう。しかし、信仰にハマり、イっちゃうヒトの大半はそれを強く疑わなければならない切実な理由をもっていて、そこに「おいしい餌」をぶら下げた「宗教の看板を掲げた詐欺師」が現れ、おかしな盲信が始まるのではないでしょうか。私は間違っているかも知れませんが、もし私の主張が正しいのであれば、批判すべきは宗教でしょうか、それとも宗教の名を語った詐欺師でしょうか?こういうことをきちんと考えることは「不当な宗教の擁護や遠慮」なのでしょうか?私にはそうは思えません。むしろ当然行うべき配慮である、と強く思います。

216diamonds8888x:2008/01/23(水) 21:34:08 ID:4jx.OKmA
 213番ちょちょんまげさんの挙げた例と214番NANさんの挙げた例では違いがあります。213番の例は全て世界の認識についてです。214番の例は全て何らかの行動指針です。行動指針は「こういう行動を選択すれば未来はこうなる」という予測ですから、結果的には正しいことも正しくないこともあり得ます。またどういう行動指針を取るかはまさに当人の価値観と戦略に基づくもので、完全に客観的なものではあり得ません。神頼みもサイコロ振りもありです。また信じる者は救われることも多い世界です。Qチャンみたいに。
 よって私の判断では、213番の人達は通常の常識に照らせば間違ってますが、214番の人達が狂っているかどうかは即断はできません。ケース1の場合だと「正しい投資を行えば必ず資産運用に役立ちます。」というのは一般論としては間違っていません。当の証券マンの進める資産運用方法がうまくいくかどうかは別の話ですが。また絶対に正しい投資というものを誰かが知っているかどうかも別の話ですが。


蛇足) Qチャンて高橋尚子のことだよ。もう忘れている人も多いかも知れないから。

217:2008/01/23(水) 23:07:38 ID:QpQGFxc6
NANさんから、私が言及していない問題にまで踏み込ん問題提起を頂きました。

例えば自称カッパ学者と「バカ市長の公約した予算消化」「おかしな事業」との関係。
或いは、「アメリカの一部で(或いはイスラムの一部で、又はオウムで)、宗教・神の名で行われていること」と、「営利拡大の為と正当化をされた企業による乱開発」「マイナスイオンなどの欺瞞商品」「国の名のもとに行われる暴力行為」との関係。等など。

私はあまりそう言った、話しの一般化はしていなかったつもりだったのですが。
ドーキンスが、一部の急進的原理主義者による産科医院放火や、医師の殺害を批判することと、一般的に悪徳医師が批判されるべきだと言うことを混同していないのと同じように。

なお………、
>>神やその御業を空想物語として「学問」する分には、ドーキンスもこんな本を書く必要は無かったでしょう。
>???誰にも「なにがしかの本を書かなければならない必要性」なんてものはないよ?それは本人の要求でしょう。

この辺は言葉のアヤです。……が、誤解が有りましたら訂正しておきます。
→ 「神やその御業を空想物語として『学問』する分には、ドーキンスも特に文句も無かったでしょう。」


私もドーキンスに格別に入れ込んで、「神は妄想だ」を読んだ訳では有りません。
「神は妄想である」にしても「数学者の無神論」にしても、ドーキンスやパウロスが、「神の不在証明」をどのように展開してくれるか、主にそちらに興味が有ってのことです。なかなか難しいんですよね「無いもの」を「無い」と証明するってのは。

私は「無い」と言う無神論の立場で議論に参加していますが、同じ無神論者でも内容が一様でないことは、グールドに対するドーキンスの激しい論調を見ても改めて思い知らされるところです。

と言うことで「NOMA」ですが………、NOMAに関して、私は多いに懐疑的です。

先ず第一に、

この掲示板でも例えば「音楽や絵画への評価・好みの問題」「道徳とか倫理」「どう生きるべきか」など『重要な問い』について、それは科学が口出しできる領域ではない、或いは口出しすべき領域ではないと言うことを、何となく当然の前提として議論がなされているように感じます。
しかし本当にそうだろうか?と言う疑問が私には有ります。科学は関与できないのだろうか?

明日の渋谷の風向きを特定するだけでも、その計算には膨大なパラメータが必要で、今後も不可能かも知れません。しかしそれはあくまでも技術的な制約であり、原理的なものでは無いでしょう(量子論的制約はこの後述べます)。

人の心の問題も同じことだと私には思えるんですよね。自然現象に比べてさえ桁違いのパラメータ(環境や個々人の生まれ、育ち、脳内の状況、人と人との関係等など、etc・エトセトラ)が有って、今後どれ程コンピュータが進化してもその解明は不可能かも知れないが、それは原理的なものではないだろう、って思いが先ず一つ有ります。

全てに渡っての解明には未だ遠く及ばないからといって、それで科学が関与出来ないとは言えないし、現実に心の問題についての科学知見も相当に蓄積されていると思っています。
少なくとも若し何らかの解明が出来るとして、それは宗教でなく、社会科学や心理学、動物行動学、人間行動学、脳科学などを含めた、科学全般が担う筈だという確信が私には有ります。当然進化の理論も含めてです。

「どう生きるべきか」についても、人間の歴史や社会の構造など、人文諸科学がベースになる筈です。地球環境の変化が、人間の生き方や考え方に影響を与えない筈は無いだろうし、「より良く生きる」為に、科学技術や医学の進歩が無関係である訳が無いでしょう。

若し私が「どう生きるべきか」を他人に聞くとしたら、現実の世界から超越した神でなく、自然・社会と日常的に切り結んでいる、現実の生の人間に聞くでしょうね。その人は毎日「科学」している訳ですから。


次に若し探求の結果、原理的にもその解明は不可能だという結論が出たとしたら、その結論とメカニズムも又、多分科学自身の手によって解明される筈で、宗教から引導を渡されるものではないと思っています。自然科学ではそうでしたから。

量子論によって、自然は確率的にしか記述できないという結論が出たとして、それは科学自身の手によるものです。
「無からの宇宙創成とそれ以前」「観測地平とその向こう」「ブラックホールの内側」等など、全て事情は同じことでしょう。
科学によって得られたその知見の上に立って「だから科学には限界があって、その先は神のみぞ知る」などと宗教の側から教導権の説教をされても、私には説得力をまるで感じません。

218:2008/01/23(水) 23:08:42 ID:QpQGFxc6
……と、ここまで書いてきて「NOMAって不可知論、それも(天真爛漫な)ヒューム型不可知論じゃないか」と思うに至りました。
急遽グールド著の「神は科学と両立できるか(原著=Rocks of Ages)」に当たってみました。冒頭の『前口上』16ページに「私は、T・H・ハクスリーが用いた、賢明な意味においての不可知論者である。」と言う告白が有り、又しばしば「ユダヤ人の不可知論者」と自認していたらしい。むべなるかな、と思った次第です。
うーん、グールドの晩節を汚す一冊にならなければ良いが。


第二

私が思うに、天上と地上をキチンと区分けすることが出来れば、確かに神と科学の領分が重複することも無いし、NOMA原理も問題なく成り立つんでしょうね。

しかし残念ながら、神(?)もその使徒も、実際には全て地上におわします。有神論者は否定するでしょうが無神論者である私はそう断言し、話しを進めます。
「神」と言えども地上の自然科学の支配を免れる訳には行かないし、浮世の経済の制約から自由で居られる訳ではありません。超越的な神は、教義と信者の頭の中にしか存在しません。

科学の側は特に天上の世界を必要としません。この現実の世界そのものの中に、存在と連関の有り様を探求する営為です。

そう言う意味でNOMAなどと言ってみても、所詮片手落ちにならざるを得ないと私は思う訳です。科学にとって神のお慈悲を必要とすることは何も無いが、神にとって科学への依存・浸透を免れることは1日たりとも出来ないでしょう。

そう言う舞台裏がバレバレであるにもかかわらず、何でわざわざ科学の側からNOMAなどと、現実世界から超越しているかのごとく神にお墨付きを与えるグールドを、ドーキンスは、「犬のように仰向けにひっくり返ってご機嫌をとるという芸当を見せている(86P)」と見えたんでしょうね。

言葉のきつさは兎も角として、私もNOMAには、現実からかけ離れた神への「過剰な敬意」美化が含まれると思います。
カッパにしろ妖精にしろ、水木シゲルの妖怪にしろ、頭の中で空想上のこととして扱い、論じる分には何も罪は無いと思います。

「重複することの無い教導権」なるものも、単にグールドの頭の中で(議論として)アレコレ想定されている分には特に弊害は無いかも知れませんが、実際に地上の世界に引き下ろして具体的に適用されたとき、(>>213;ちょちょんまげさん)の錬金術や妖精やカッパのような、現実の弊害が表面化するのではないでしょうか。

一つの例が「霊感商法」或いは「霊能師」などです。
彼らが頻繁に持ち出す商売道具に「前世」「来世」「霊」等が有ります。これは科学の及ぶところでは無いらしく、彼らに言わせれば「重複しない神の教導権」の範疇です。

「重複しない」とは、言葉を変えれば「立ち入るな」と言うことであり「口出し無用」と言うことです。
彼ら(或いは宗教一般)を行政権力で押さえつけることには、思想・信条の自由からも慎重でなければならないと私も思います。しかし彼らの言い分を科学の立場から理論的に批判し、理性ベースで一般国民の頭の中から非科学的妄想を駆逐することは必要でしょう。
その批判を手控えさせ或いは傍観させることに、若し「重複することの無い教導権」的躊躇が働いたとしたら、NOMAの罪は大きいと思います。

マスコミが「霊媒師」なるものの提灯持ちをし、心霊写真だの水子霊だのと騒ぐのはひとえに、雑誌の売上や視聴率の為でしょう。
しかしそう言う非科学的で愚にも付かないことを、女性誌や公共放送が垂れ流すことを躊躇させない要因として、或いは批判されたときの言い訳として、若しNOMA的心理が背景に有るとしたら、それも大きな罪です。
そして私にはそう言うことが絶対にないとは言えない様な気がします。


NANさんがNo-215の最後で仰っているように、全体的には良心的な宗教者が圧倒的なのだと思います。宗教的良心に基づく平和運動、人権擁護運動などに献身されている人も多いでしょう。
宗教は現実の世界にその精神的基盤を持っている訳ですから(私はそう考えています)、世界観の違いは違いとして、一致する行動で連帯すれば良いのだと思っているところです。

219地下に眠るM:2008/01/24(木) 02:12:36 ID:9YM1mm7M
おそくなっておりますにゃー(ぺこり

>>194  カクレクマノミ

>>無論、妖精(妖怪)が自然科学的な意味で実在していると思って研究している人も、心理的な事実として研究している人もいるだろうけれど、

>この2つを1まとめにするのは無茶でしょう。それこそ、多神教の神と一神教の神を一緒にするよりもずっと無理があるように思います。

現象学的には同じですにゃ。以下はウィキの「現象学」の記述より引用
>フッサールにおける超越論的現象学(げんしょうがく)は、彼の継承者と批判者とによって展開され続けている哲学の一分野である。世界がすでに「ある」とする態度を棚上げ(エポケー、「判断停止」と訳される)して、そのような信念がどのようにして成立するか、そしてそのような「ある」ものとしての世界は、経験からどのように構成されるのかを探求する。エポケーとは古代ギリシアの哲学者であるピュロンにより初めて用いられた。そこでは物の本性を把握するのは不可能でありそれゆえ「判断を差し控えるべき」であるとされ、現象学に通ずるものがある。

とまあ、衒学的に誤魔化しているように思われてもなんなので以下のカクレクマノミの記述を具体的に批判すると

>>200
>妖精ビリーバーが、妖精について「知っている」とは、いったいどういう意味なのでしょう?それははたして、民俗学者が妖精伝承について「知っている」というのと、果たして同じ意味なのでしょうか?
>僕にはこの2つが同義だとはとても思えません。そして、前者は学問的研究とは言いがたいと思います。

つまり、「ビリーバー」の著述は「民俗学」には無意味だということかにゃ?
すると、学問的に価値があるか否かという判断基準は、その学者の信念や世界観に依存するということになるんだけど、カクレクマノミは本当にそういうことをいいたいの? 論文の査読って思想チェックなの?
そもそも、「ビリーバー」の著述やら発言は、「民俗学」にとって無意味なの? 「里の古老(=ビリーバー)」を抜きにして民俗学が成り立つの? あるいは、「ビリーバー」は民俗学者になれにゃーの? どんな信念や世界観をもっていようが、そのガクモンにおける方法論を踏襲している研究は当該ガクモンの研究として成り立つと僕は思っていたんだけど、違うのかにゃ?

これは、ちょちょんまげ とか AH1 にも聞いておきたいところなんだけど、「いっちゃっている」ヒト、つまりある種の信念を強固に抱いているヒトがいるからといって、そのヒトがただちに当該するガクモンの方法論を無視するとかウソをつくとかいうことにはならにゃーだろ?(まあ、「いっちゃっている」ヒトには困ったヒトが多いというのはあるかもしれにゃーが)

研究者の信念や世界観とその業績を直接的にリンクする発想は、本来は馬鹿宗教の側の発想なのではにゃーのかね?
まあ、科学主義はひとつの「イズム」なので、科学主義の立場においては、研究者の世界観とそのガクモン業績はリンクすることになるだろうにゃ。

自然科学的に「実在」しないものを対象にした研究に意味はない、という白痴的言明を指示しているのは、実に分かりやすい科学主義の病状だにゃ。特に 雄 の病状がヒデエ。

220地下に眠るM:2008/01/24(木) 02:13:04 ID:9YM1mm7M
つづき
>>194

>>多神教の神々と一神教の神をひとまとめにするのは、単にドーキンスのひどい無知からきていることは明らかだにゃ。もうとにかくぜんぜん違うんだけどにゃ。

>定義としてひとまとめにして良いかどうかは、そのときの議論の内容に依存するでしょう。

あのさー
「神は妄想である」において、ドーキンスは一神教を否定しているだけでなく、超越的な思考すべてを否定しているだろ?
つまり、多神教の神々も否定しているわけだよにゃ。

まず、一般的に、他者に対する否定的な言説において、明らかに基本的な知識がないというのはそもそも致命的だとチミは考えにゃーのかね? 宗教史とか多神教について、ドーキンスは明らかに無知であり、また関心も持ってにゃーことは先週の僕の引用で明らかだろ? 百年前の宗教史の馬鹿言説を引っ張り出す馬鹿、多神教の神々について「一つの想像の産物とその他多くのものとの区別にかかずらっている暇はない」と無知に開き直る破廉恥野郎が、一神教と多神教をいっしょくたにして批判しているんだぜ?
繰り返し聞くけど、批判対象について明らかに無知であり関心もないと開き直るってのは、批判者としてそもそもどうよ?


ドーキンスの論理的な間違いとか捏造を晒そうと思ってたけど(僕の読んだかぎりでは、グールドに少なくとも捏造はない。また、宗教や人文科学についての明らかな無知や侮蔑はみられなかった)、その前にこんなアタリマエのことをいわなきゃならにゃーとはね。

221地下に眠るM:2008/01/24(木) 03:01:13 ID:9YM1mm7M
ちょっとつれづれと

橋本治が「宗教なんかこわくない!」という著書で
仏教を英語でBuddismとよび、イスラム教をIslamismと呼ぶことは、マルクス主義をMarxismと呼ぶことと同じ。つまり、宗教とはイデオロギーなのだ、といっておりますにゃ。

うんうん
確かに儒教はConfucianismだしにゃ。道教はTaoismで神道はShintoismですにゃ。シャーマニズムとかアニミズムもよく知られた用語にゃんね。
ただし、キリスト教はChristianityにゃんな。まあ、自分たちだけはイデオロギーではない、という態度が逆にイデオロギーであることを証明しているようなものにゃんね。

で、このあとは僕の思いつきなんだけど
ニーチェは「事実などない。あるのは解釈だけだ」といっておりますにゃ。
この言明は基本的には正しいと思うのですにゃ。個々のニンゲンにとっては、事実そのものがあるわけではなく、それぞれの体験があるのであり、体験とは何らかの解釈がなされて意味付けされているものですからにゃ。(意味付けのない体験は記憶されない)
そして、イデオロギーというのはその「解釈」あるいは「意味」を共有する社会集団といえるのではにゃーかな。そして、各々のイデオロギー間についてはそれぞれ対等だとするのが正しい文化相対主義ですよにゃ。
で、宗教とはイデオロギーであり「イズム」のひとつなんだと考えれば、当然ながら無宗教とか無神論もひとつのイデオロギーであり「イズム」であるといえるわけですにゃ。この意味で、無神論と宗教は対等ですにゃ。どっちも世界観にゃんからね。

イスラムを殺しまくるブッシュと、宗教撲滅を望むドーキンスはよく似ているわけだにゃ。


ところで自然科学ちゅうものをニーチェの言明に即して考えてみると、自然科学とはことによると「解釈」以前の「事実」を外化して共有するシステムなのではにゃーだろうか?
カントによると「物自体」は不可知だよにゃ。当然ながら、「事実そのもの」もニンゲンには本来ならば不可知といえますにゃ。しかし、事実の一部を抽象化して記述する方法論を徹底することによって、体験し解釈される前の事実そのものの一部を外在化することが可能になったのではにゃーかと。この外在化された事実の一部のことを「データ」と呼ぶわけにゃんね。

自然科学の方法論によって人類にとって初めて事実の共有が可能になったのかもしれにゃーですね。それまでは、解釈の共有以外はなかったのかもしれにゃー。

222カクレクマノミ:2008/01/24(木) 04:05:04 ID:nWqwz./A
>つまり、「ビリーバー」の著述は「民俗学」には無意味だということかにゃ?

すみません、人を単位にして書いてしまったのが、誤解のもととなったようです。
ここで単位にすべきは、人ではなくて個々の言明です。

ここでは、「妖精は存在しない」「魚は存在する」というのを前提として話をします。
「魚には鰭がある」「魚には消化管がない」というのは、明らかに学問的に意味のある主張です。なぜなら、これらの主張は現実の存在と対応しているからです(もちろん、後者は間違った主張ですが)。

では、「妖精には羽がある」と主張したとき、いったいそれは現実世界の何を表しているのでしょう?
(「多くの伝承などにおいて」という枕詞が省略されている場合もあるでしょうが、ここではそうでない場合を考えます。)
妖精はいません。いないものに、羽があったりなかったりするというのは、いったいどういうことでしょうか?存在しないのだから、当然羽を持ってはいないし、持っていなくもないはずです。
(もちろん、民俗学などのデータとして、「このように主張する人がいる」というのは学問的に意義があります。)

妖精はいないにもかかわらず、妖精には本当に羽があるのかないのか議論するのは、はたして学問的行為と呼べるのかどうか、僕は非常に疑問だと思います。

妖精の代わりに空飛ぶスパゲッティモンスター、羽の代わりにミートボールを考えてもらってもかまいません。
スパゲッティモンスターはミートボールを持っているのかどうか議論するのに学問として意味があるとは思えません*。

ドーキンスの考えでは、ほぼ間違いなく神は存在しません(この点に関する異論もあるかもしれませんが、ドーキンスの議論を追いかけるために、仮に受け入れてください)。
では、神学などの分野で、神がどんな性質を持っているかどうか議論するのは、いったい何について議論しているのでしょうか?


>まず、一般的に、他者に対する否定的な言説において、明らかに基本的な知識がないというのはそもそも致命的だとチミは考えにゃーのかね?

同意します。たとえて言うなら、他者の著作に対する否定的な言説において、その著作を読んでもいないのと同程度には問題だと思います。

>宗教史とか多神教について、ドーキンスは明らかに無知であり、また関心も持ってにゃーことは先週の僕の引用で明らかだろ?

そのあたりの問題についてドーキンスの議論はかなり雑だというのは同感です。
ただし僕の能力不足で、その雑さが具体的にどのような齟齬を発生させているのか、指摘することができません。
具体的な問題があるのでしたら、ぜひ教えてください(皮肉でなく)。

ただ、多神教について(あるいはキリスト教以外の宗教について)、ドーキンスは概論としては批判しているにも関わらず、各論としてはろくに取り扱っていないというのは確かだと思います。そしてそのことはかなり問題だというのもまた確かでしょう。
キリスト教以外の宗教について考えるときには、ドーキンスの議論をそのまま使ってしまうのは危険です。(参考になる点は多々あると思いますが)

この点についてドーキンスを弁護するとしたら、多様な宗教をすべて議論し尽くすのは事実上不可能だということが言えます(リストアップだけで「神は妄想である」よりも分厚い本が必要になるでしょうし、必要な労力も現実的な量ではないでしょう。グールドだって、ほとんどキリスト教のことしか書いていないし)
でも、それならば宗教全般を射程に入れているかのように書くのは風呂敷を広げすぎだ、という批判は当たっていると思います。彼は、具体的な議論の対象はキリスト教に限られているということを、もっと強調すべきだったと思います。

223ちょちょんまげ:2008/01/24(木) 15:38:29 ID:vUxNW.gI
>>猫さん

>つまりある種の信念を強固に抱いているヒトがいるからといって、そのヒトがただちに当該するガクモンの方法論を無視するとかウソをつくとかいうことにはならにゃーだろ?

おっしゃるとおりだと思います。

ただ、私の上記書き込みの「錬金術」の場合で言うと、彼が錬金術の歴史や科学史における意義、術者の興味深い人間像等について語っている時「ある種の信念を強固に抱いている」かどうかは、事実に即している限り全く問題であるとは思いません。むしろ情熱的でおもしろいかも。
しかし、彼が「具体的に鉄を金に変える方法(錬金術的に)」について語りだしたとしたら、その話を真面目に聞くことに意味があるのかどうかは私には疑問です。

224AH1:2008/01/24(木) 16:49:40 ID:fKqeZx4M
>地下猫氏 

>「いっちゃっている」ヒト、つまりある種の信念を強固に抱いているヒトがいるからといって、そのヒトがただちに当該するガクモンの方法論を無視するとかウソをつくとかいうことにはならにゃーだろ?(まあ、「いっちゃっている」ヒトには困ったヒトが多いというのはあるかもしれにゃーが)

当然,同意します.最初からそのつもりで書いています.古今のカッパだか妖精だかの情報に精通しており,しかも実在すると信じてる人は存在し得ます.
ちょちょんまげ氏の書いている「ここまでは拝聴する価値あり」と同様と言ってよいかと考えます.

とりいそぎ

225:2008/01/24(木) 17:06:49 ID:QpQGFxc6
RE 地下猫氏

地下猫氏と私の間に明らかな見解の違いが有ることは重々承知しています。それでいいのだと思っています。
例えば、私はニーチェは最悪の哲学の一種だと思っていて、どうもこれだけで地下猫氏からすれば病気に見えるかも知れません。
カントについても、その汲むべき内容が多い中で、地下猫氏が話しに出された「物自体」は既に100年も前に、観念論、唯物論の両陣営から完膚なきまでに論駁されていて、哲学的には決着が付いていると言う認識です。

しかしこれらは私の見解であって、神の実在性云々と同じく、ここで哲学に関して果てしない議論をしようとは思いません。
私の『科学主義』について「病状」を批判されるのも一向に構いません。

ただ一点、事実誤認が有りますので指摘させてもらいます。

>自然科学的に「実在」しないものを対象にした研究に意味はない、という白痴的言明を指示しているのは、実に分かりやすい科学主義の病状だにゃ
>特に 雄 の病状がヒデエ。

骨身にしみるご批判ですが、最後は直ぐに分かるとして、前段も私に向けられたものであれば、私はそんな「白痴的言明」はしていません。その辺は誤解の無いように繰り返し述べている筈なので、普通に日本語が分かれば誤読されることは無いと思っていたのですが。
と言うより………、ホントに読んでますか?

私は『実在しないもの』を実在しないものとして、つまり空想上のこととして「学問」することを「意味が無い」などと言っていません。
カッパを空想上の生き物として、例えば民俗学の範疇で研究すること、そしてそう言う観念がどう言う実在的背景の元で生じて伝播したのか(おそらく深い淵で水遊びする子供達を戒める為じゃないかな?とか)を研究することは多いに意義が有るだろうと思っています。

ただカッパを実在するものとして、自然科学の対象に研究するとしたら、それは違うだろうと言うことです。
カッパの皮膚の色は何色か?、若し緑色だったとしたらそれはキュウリを食っている為か?などと言う「研究成果」は、酒の席でのヨタ話としては受けるかも知れませんが、生物学の研究対象にはならないだろうし、すべきでないと言っているに過ぎません。

神そのものは空想上の産物だが、その精神的基盤は現実世界にあると思っている私は、宗教を研究することで現実社会を理解する、一つの手掛かりになるとも思っています。
聖書など教義の内容を、現実のものとして研究したり、押し付けることは問題だと言っているだけです。
古事記を国語でなく、歴史の教科書に載せようとしたり、創造論を生物進化の理論と並べて生物学の教科書に載せようとしたり、まっ、同じことですな。

ただ実在するかしないか、これもモノ(例えば神)によって見解が激しく異なることも承知しています。この点でも繰り返し「無神論の立場で」と、自分の立ち位置をハッキリさせた上で議論に参加させて貰っています。

なお、私は"科学"を、「客観世界を有りのままに意識に反映させる営為」と理解しています。時に自然を拷問(実験)に掛けて無理やり真理を白状させるようなこともしながらね。
多分私が想定している「科学」は、地下猫氏が定義する「科学」よりも広い意味で捉えています。
悪しからず。

226AH1:2008/01/24(木) 18:33:22 ID:fKqeZx4M
そもそも「妖精の羽の色」を何故知りたいと思ったのだろう?
妖精は実在し,その色が知りたいと思ったの?
伝承の中で何色とされていたのか知りたかったの?
絵を描くのにそれらしく見える色が知りたかったの?

そもそも,そんな事を本気で問う所からして間違っちょる,というレトリックかしらん?

227ka:2008/01/25(金) 00:33:00 ID:fopTCrCQ
>「物自体」は既に100年も前に、観念論、唯物論の両陣営から完膚なきまでに論駁されていて
よろしければソースください

228NAN:2008/01/25(金) 00:57:54 ID:???
>>216:diamonds8888xさん
>>よって私の判断では、213番の人達は通常の常識に照らせば間違ってますが、214番の人達が狂っているかどうかは即断はできません。

はい、それが「通常の常識」だろう、と私も思います。冷静に指摘していただいている通り、「狂っているかどうか即断できない」という、それらが狂気である可能性を認めていただければ十分です。

>>217:雄さん
>>私はあまりそう言った、話しの一般化はしていなかったつもりだったのですが。

「宗教」という「あまりに乱暴なひとまとめ」を支持しているでしょう?よって、私も「弊害が出るであろう一般化」でお答えしたんだけど、分からないかな?

>>カッパにしろ妖精にしろ、水木シゲルの妖怪にしろ、頭の中で空想上のこととして扱い、論じる分には何も罪は無いと思います。

カッパや妖精は比喩でしょう。
「不可知であるモノが可知であるかのように断定した言明」は、科学の側に立って考えても問題あるんじゃないかな?
これらが問題とならない「機会」は、それらの「解釈」が自然科学として私たちが既に確立している知識に照らし合わせたとき、著しく現実である可能性が低いと判断された場合に限られるはずです。たとえば創造科学にしたところで、既存の論者の述べる説明があまりに幼稚であることから簡単にバカ扱いできるけれど、まったく新しい、少なくとも論理の筋道だけは通った創造科学の解釈が出てこないとは限らない。そういう言明に対してできることがあるとしたら、断定を行う前に検証する、検証できたにしても「確度の判定」ができるのみであり、絶対否定や肯定なんかできないってのが冷静な態度じゃないのかな。

なお、オッカムの剃刀で普段は切り落とされている領域にある、あってもなくても項として結果に影響を与えないパラメータとしての神については、どんな方法でも否定できない。これは私が「自分は無神論者である」とまったく思わない最大の理由です。

>>一つの例が「霊感商法」或いは「霊能師」などです。
彼らが頻繁に持ち出す商売道具に「前世」「来世」「霊」等が有ります。これは科学の及ぶところでは無いらしく、彼らに言わせれば「重複しない神の教導権」の範疇です。

永遠リフレインの世界になってきたな(苦笑。
何度でも云うけれど、そういう欺瞞的商行為に無批判であるべきはずがない。ところが、その主旨がが「超越的存在を前提としているから」だとか「宗教的だから」と云うようでは、私たちが「通常の常識」だと思い込んでいるすべての事象(つまり、私たちの生活している文化や文明のすべて)でさえ、それらは「すべて妄想であり狂気の共有ではないのか?」という再反論に晒されることになり、これに確かな証拠を提示して反証することは極めて難しいので、個別の嘘だけを指摘するべきだ、と申し上げているわけです。

自然科学で云う「実在」と、広範囲な学問(あるいは知識全体)で云う実在とではかなり隔たりがあるはずです。あるいは隔たりがなくてはならない。人間の脳は基本的に夢と現実の区別ができない。よって(地下猫氏が指摘するように)外的に知を確保・検証するための方法論として自然科学という道具があるのだけれど、ある個人の体験を自然科学の範疇で事実ではないと実証できるからと云って「現実ではなく空想や妄想、錯覚である」と切り捨てる態度は、批判されるべき科学主義と呼んで差し支えないでしょう。

229NAN:2008/01/25(金) 01:30:12 ID:???
ついでに「妖精議論」について。
>>222などに散見されるけれど、妖精はいない、という証明は自然科学的実在性でしか世界を認識しようとしない「主義」にもとづくものではないでしょうか?しかし私は、先の発言(いや、今までずっと一貫して主張していることだけど)にあるように、誰かが妖精を体験したと主張するのであれば、とりあえずそれは「事実なのだろう」と考えます。それが他者にも体験可能、あるいは実測したり検証することが可能な「科学的実在」であるかどうかはその次のステップであろう、と考えます。

これはたとえば「痛い」という知覚にも同じことが云えるのではないか?と私は思います。私のような体中傷だらけの後遺症患いだと往々にしてあることですが、私が感じる「痛い」という知覚は計測不可能です。医師によって、あるいは計器によって、それを「痛覚レベル」として検証したり確認したりすることが極めて難しいので、触診したり薬液をつけたりその他の方法で「患部にアクセス」することによってなんとなく確かめるしか方法がないようです。結局のところ「これくらい痛そうな反応を示すのでよほど悪いのだろう」という、極めて不明瞭な判定しかできないのが現状のようです。(この点については、もっと確度の高い方法があるのかも知れませんが、私の経験の範囲ではこんな雰囲気でした)

このような「症状」を抱える私が各所の医院を訪ねると、その対処は千差万別です。「痛い」という私の主観的主張に基づいて適格な治療指針を探ろうとする医師もいたし、はなから「この損傷でそんなに痛いはずがない」という態度で診察に臨むような医師もいました。極端な話、治療も間違いない、検査の結果も傷みなど出るはずがない、よってこの患者(私)の痛いという主張は一種のヒステリーだろう、みたいな診断さえ「食らった」ことがあります。

しかし、患者の側からすれば確かに痛いのであり、それで困っているからわざわざ病院に出向き、長い診察待ちを経てやっと医師と邂逅しているのです。同様にして、極めて現実的であるけれど、極めて「我々が現実として認識するこの世界」とはかけ離れた「あっちの世界」を確かな現実であると主張するひともいます。彼らは通常、精神障害のあるひと、と診断されるでしょうが、彼らの言明は「空想の産物、妄想、錯覚であるので学問的意味などない」と捨てるべきでしょうか。(同様の指摘は「カールセーガン科学と悪霊を語る」がずっと詳しいし、丁寧だと思います)

「妖精はいない」という言明は「不可知であるはずのモノに対する断定」ではないだろうか?私はそう思うのです。無論、これまでのジンルイの経験において、妖精の存在は実証されていない。また、今後も自然科学の方法で妖精の実在を証明することは極めて難しいだろう、と思います。そしてもちろん「妖精はいる」という言明も同じことです。しかし、どちらの主張であれ、両者の主張は等価であり、それらを吟味する価値も同じであろう、と私は思います。

230:2008/01/26(土) 11:39:55 ID:QpQGFxc6
RE kaさん
>>「物自体」は既に100年も前に、観念論、唯物論の両陣営から完膚なきまでに論駁されていて
>よろしければソースください

カントの「物自体」は、後に二つに区分けされることになる不可知論のうちの、その一つの主張です。
不可知論にしても、その反論にしてもそれぞれの哲学的主張であって、神の実在と同じく賛否両方ありますので、例えば自然科学における、「ニュートリノ振動が『実証』された」と言う形で決着が付く訳では有りません。ですから特に客観的なソースと言うものがある訳では有りません。
「完膚なきまでに論駁されている」と言うのは、私はそう思っている、と言うことです。現実に不可知論は広範に生き残っていますから、そうでない人たちも大勢居るということですね。

NANさんからもNo-228で、
>「不可知であるモノが可知であるかのように断定した言明」は、科学の側に立って考えても問題あるんじゃないかな?

と言うご批判を頂いています。「私は不可知論的立場はとらない」とだけお答えしておきます。
カッパにしろ妖精にしろ、或いは神やその奇跡にしろ、若し実在すると言うことであれば、そう主張する人が、そしてそれを必要とする人が証明してくれ、俺に見せてくれ、と言うだけのことです。
無いものを「無い」と明確に証明できない(これって実は結構難しい)ことを持って不可知だと言うことになれば、空飛ぶティーポットであろうがスパゲッティモンスターであろうが、カッパ、妖精、座敷わらし、砂かけばばあ、等など、際限が有りません。

NANさんはNo-229で、「誰かが妖精を体験したと主張するのであれば、とりあえずそれは『事実なのだろう』と考え」ると述べておられますが、体験そのものの真偽も自己申告の域を出ない訳で、仮に私が「スパゲッティモンスターがティーポットにまたがって、空を飛んでいた」と主張したら、取りあえず事実なのだろうと考え、真偽を保留し、結論が出るまで不可知だとするでしょうか? 不可知論を容認する限り、こんなのおそらく結論はでませんよ。

と言うことでkaさんに「権威あるソース」を提供することは出来ませんが、私の拙い知識の範囲内で、私の哲学的立場に沿った解説で勘弁してください。私の哲学的立場とは、唯物弁証法の立場です。


人間は意識の中に、客観世界を正しく認識しうるか否か?と言う問題に対して、「認識できない」或いは「全ては認識できない」とする哲学的主張を不可知論と言う訳です。大雑把に言えば。

「認識できない」とする代表がイギリスのヒュームです。
ヒュームにあっては世界の認識可能性が全面的に否定されます。意識がその外の何かを正しく反映しているかどうか知りようが無いし、そもそもそう言う何かが意識の外に実在するかどうかさえ、知りようが無いと言うことです。詳細は割愛します。

231:2008/01/26(土) 11:41:40 ID:QpQGFxc6
続きます
「全ては認識できない」とする代表がドイツ古典哲学のカントです。
カントはヒュームと違って、意識の外に何かが存在することは承認され前提されます。
しかし人間が感覚器官などの認識装置を通して知り得るのは現象だけで、その奥に有る客観的実在そのもの、すなわち「物自体」は原理上認識できない、と主張されます。
つまり人間は対象が示す現象や性質は汲みつくすことが出来るけれども、物自体には永遠に到達できない、と言うことです。
ここでカントは不可知論に陥ります。

「物自体」はカントに於ける、観念論と唯物論と言う、相対立する哲学的傾向の調停・妥協の産物だとも言えます。従って破綻します。

カントの不可知論に対し、先ず観念論の立場から偉大なヘーゲルが反駁します。
ヘーゲルの批判の要旨は次のようなものです。

○現象と物自体は切り離せない。我々が現象を知るということは、我々との関係においてそのように現象する「物自体」を知ることに他ならない。
現象を全て知るならば、物自体の全ての諸性質・属性を知ったことになる、と先ず結論します。

○現象を全て知り尽くし、属性を全て汲みつくした後に、なおかつ残ると言う「物自体」とはどんなものか? それは単にそのものが我々の意識の外に存在していると言う、抽象的な事実だけではないか。と言う訳です。

例えばリンゴのリンゴたる全ての現象・属性を汲みつくした後に残る、リンゴの「物自体」と、同じくミカンの全ての現象・属性を汲みつくした後に残る、ミカンの「物自体」と、その違いはどこに有るのか? 若しどこか違いを見出せるとしたら、それは未だ汲み尽くすべき現象・属性が残っていることであって、カントの言う「物自体」とは言えない。

人間、ナメクジ、水、電子など何でも、そのものをそのものたらしめている、全ての現象・属性を全て汲み尽し、剥ぎ取った後に残る、それぞれの「物自体」の間には何の違いも無い。認識すべきどのような具体的内容も残っていない筈だ。
カントが絶対に認識不可能だとする「物自体」なるものは、ただ存在すると言う抽象的事実以外のどのような意味も持たない。ヘーゲルの主張はこう言うことでしょう。
元々カントに於いては「物自体」が意識の外に存在することは、最初から承認・前提されている訳で、「認識不可能な物自体」と言う彼の主張はますます無意味と言うことになります。

要約するならば、現象から絶対的に区別される「物自体」なるものは、頭の中で作り上げられた抽象物に過ぎず、現実世界に存在するものではない。なんら考慮の対象になるものでは無い、と言うことです。

流石にヘーゲル、見事な批判だと私は思います。
どなたか、「物自体」の信奉者の方、一度ヘーゲルに再反論してみては如何ですか。

ヘーゲルのような徹底した観念論者からすれば、カントの中途半端が我慢なら無かったのでしょう。ヘーゲルの批判はカントの主に観念論的部分に向けられます。
その結果、ヘーゲルの批判は唯物論の主張すれすれのものになります。
「ある観念論者が他の観念論者の観念論の基礎を批判するとき、そのことによって勝利するのは常に唯物論である」と言うことです。

232:2008/01/26(土) 11:42:09 ID:QpQGFxc6
唯物論の側からヘーゲルに付け加えることは、一つしか有りません。それは「実践」です。
現象や性質を理解するだけでなく、若し人間が、物そのものを作ることが出来たら、カントの言う「物自体」に到達することになる。後に認識不可能な「物自体」などどこにも残らない。と言うことです。

唯物論からの不可知論への批判は、ヒューム型不可知論を含め、主にエンゲルスの仕事です。
エンゲルスはアリザリンと言う染料を例に出して、「物自体」を批判しています。
この染料はかって、あかね草という植物の根からしか取れなかったのですが、有機化学の発達によってアリザリンの分子構造が分かり、その認識に基づいてコールタールなど、安い原料から大量に作ることが出来るようになりました。

この時、アリザリンという物質に、人間が認識できる現象と認識不可能とされるアリザリン自体が有る、などと言う主張は無意味になります。
コールタールから作り出したアリザリンは、あかね草の根から取ったアリザリンと全く同じものです。それを作り出したとき、人間にとって原理的に到達できないアリザリン自体が未だ残っているなどと言う主張は、もう成り立たないでしょう。

昆布のうまみがグルタミン酸ナトリウムと言う物質であることを突き止め、大豆や小麦粉など、安い原料から同じものを作るシステムを構築し、「味の素」として製品化した鈴木三郎助は、グルタミン酸ナトリウム自体に到達できた人間だと言えるでしょう。
後にグルタミン酸ナトリウムの「物自体」などと言うものは残っていません。

エンゲルスの時代と比較して、格段に進歩している現代の有機化学工業は、日々カントの「物自体」への反証になっていると思います。

なお、No-218で私は、NOMAがヒューム型不可知論じゃないか、と書きました。間違っていましたね。
明らかにカント型不可知論でした。訂正します。

233地下に眠るM:2008/01/26(土) 13:38:41 ID:z58pW4fo
ドーキンスの著書の批判的読解はもちろん続けるとして、参加者のみにゃさまに質問。
(ちゅうか、以下の質問はドーキンスの誤謬に直接に関連している)

1)「愛」は自然科学的な意味で存在すると思うか?

2)自然科学的な意味で「愛」は存在しないと仮定した場合
 A)「愛」の存在を前提にした知的営みは学問と呼ぶに値しないか?
 B)「愛」の存在を否定したうえで研究をするのならば学問といえるのか?

3)以上の質問における「愛」を、人文科学や社会科学における諸概念(例えばウェーバーの理念型とかユングの元型など)と置き換えてみた場合はどうか?

234NAN:2008/01/26(土) 23:05:35 ID:???
私は哲学というものに素養がなく、知識が乏しい。だから、それぞれの論者による「ここに書いてある内容」だけを読んで、図々しくも自分の考えを書いてみようと思うのだけど、よく考えると哲学論に突っ込んで論じているのは二人だけなので、まぁいいか!とか思います(笑。

さて、不可知論とか不可知性について、がテーマということでよろしいでしょうか。
>>230で雄さんは
>NANさんはNo-229で、「誰かが妖精を体験したと主張するのであれば、とりあえずそれは『事実なのだろう』と考え」ると述べておられますが、体験そのものの真偽も自己申告の域を出ない訳で、仮に私が「スパゲッティモンスターがティーポットにまたがって、空を飛んでいた」と主張したら、取りあえず事実なのだろうと考え、真偽を保留し、結論が出るまで不可知だとするでしょうか? 不可知論を容認する限り、こんなのおそらく結論はでませんよ。

と、批判をしてくださいましたが、私は「事実」だとか「実在」と云うときに、自然科学的な事実と一般(文化)論で云う「実在」との両方を併せて述べています。この二つはきちんと峻別するべきであり、そうしないと科学議論は成り立たなくなるでしょうから。
では私の立場とはどんな立場か?それは「あるひとの体験を第三者が否定することはできない」というものであり、「あるひとの体験は科学的証明でしか客観的な知識とはなり得ない」という、もうひとつの立場となかば対立しながら私の中では矛盾なく存在しています。
つまり「妖精を見た」と主張する誰かと私が会ったときには「このひとは確かに妖精を見たのだろう」と考えますが、一方で「しかしその妖精を私が見ることは極めて難しいか不可能で、科学的な実証も同じことだろう」と考えるのです。つまり私に云えることとは「私には妖精が見えない」ということであり、もうひとつ踏み込んで「科学的方法論でも妖精の実在証明は難しいだろう」ということです。しかしどう足掻いたところで「あなたが妖精を見たという主張は嘘だ」と断定することはできません。(無論、その他の発言に矛盾やデタラメが混在しているようだと、主張の信憑性は、そのひとの主観であることを念頭に置いてでさえかなり乏しいものになるのだけれど)

それでは「不可知論」というテーマに於いて、私はどんなスタンスでいるのでしょう。カントがどうしたとかいう話は、残念ながら私は無知なのでさっぱり分かりません。しかし「ヒトが不可知であるはずのもの」についてであれば、かなり明確にお答えすることができると思います。
「物自体」というここでの説明を読んで、私は(この議論に於いては批判対象になってしまった)かのドーキンスの「盲目の時計職人」の中で、私たち地球上の生物が、壁や鉄の板を「硬くて通り抜けられないもの」と認識している、その知覚の適応についての議論を思い浮かべました。

235NAN:2008/01/26(土) 23:06:04 ID:???
もしもカントという哲学者が「人間は対象が示す現象や性質は汲みつくすことが出来るけれども、物自体には永遠に到達できない」と述べたのであれば、それは科学的に見ても正しいのではないか?私はそう思います。また、私が述べる「物自体」とは電子や原子格子だったりクォークだったり、極論すると「場」そのものであるような、時空そのものを指しています。私たちはその本質を知覚できないことから、現象を体験するのであり、認識します。そもそも私たちが「モノ」と知覚するすべての物質が、実は時空の振る舞いであることなど、いったいどうやって知覚すれば良いのでしょう。

まぁしかし、雄さんの議論を見ていると「現象から絶対的に区別される「物自体」なるものは、頭の中で作り上げられた抽象物に過ぎず、現実世界に存在するものではない」というカントへの反論もあるようです。なんだか先に挙げた「物自体」の定義(概念?)とは飛躍しているようですが、私たちがいる「世界」とは現象そのものなのですから、これがなにを批判しなにを意味しているのかが私には分かりません。(そう、モノもなにもすべて現象だろう、ということならこの批判は正しいけれど、なにをもって現実と定義しているのかが分からない)

ちなみに物質の属性として最後に残るものとは、ブラックホールの属性そのものである「質量・電荷・スピン」ですね。ホーキングら宇宙論学者たちの議論によると、ブラックホールの内部(つまり事象の地平面の向こう側)に「落ちた」物質も、それらの属性だけはブラックホールが消滅するまで残り続けるとのことですが、事象の地平の向こう側に「なにか」があると云う言明はなにを意味するのでしょう。さらに困ったことに、ブラックホールは物質を吸い込むばかりでなく、えらい勢いで吐き出すことも量子論の予測することとなり、近年の観測でそれが確かめられたようです。私たちの知覚からすると、恐らくブラックホールは「ある」ということですが、事象の地平の内部は「現実世界」でしょうか?これこそ、云うなれば「現象から切り離されたモノ自体」の顕現のひとつではないか?と私は思います。

同様にして、量子論におけるエヴェレットの多世界解釈を引っ張り出すと、私たちの世界は常に確率論的な「重ね合わせ」であり、ある二つの結果を持つ事象があるならば、その結果の発生と同時に二つの世界は切り離されたことになりますが、その切り離された世界は私たちに知覚することは不可能であり、不可知であることは明確です。大統一理論や超重力理論、膜宇宙論などが展開されるn次元宇宙でさえ、数学的には実証されているようですが、これを私たちが「知覚する」ことは可能でしょうか?

最近の私が思うことですが、ある物質を見て、これはボーズ粒子であるとかフェルミ粒子であるとかという「知覚」も、結局のところ情報に過ぎなくて物質の本質でもなんでもないのではないか?かつてのクォーク発見競争がそうであったように、いつまで経っても私たちジンルイは「物自体」になど辿り着けないのではないか?それは哲学などというややこしい理屈をこねるまでもなく「あって当然の疑問である」と私は思います。

236NAN:2008/01/26(土) 23:15:30 ID:???
あと、クイズもあったね(笑。

>1)「愛」は自然科学的な意味で存在すると思うか?→存在しない。


>2)自然科学的な意味で「愛」は存在しないと仮定した場合
 A)「愛」の存在を前提にした知的営みは学問と呼ぶに値しないか?→学問と呼ぶに値する
 B)「愛」の存在を否定したうえで研究をするのならば学問といえるのか?→これは判断保留

>3)以上の質問における「愛」を、人文科学や社会科学における諸概念(例えばウェーバーの理念型とかユングの元型など)と置き換えてみた場合はどうか?

どっちにしろ「価値」の話なので、最終的にはポピュラリズムに委ねられる、と私は思う。
ちなみに私個人の判断においては、自然科学における実在性の否定は、それら観念の価値の否定にはまったく繋がらない、と思う。

237地下に眠るM:2008/01/27(日) 01:43:36 ID:XBKwcxm2
ありゃ、NANに答えてもらって質問の不備を発見したにゃ。
答えてもらったNANにはすんごく申し訳にゃーのだが、書き直すにゃ。


1)「愛」は自然科学的な意味で存在すると思うか?

2)自然科学的な意味で「愛」が存在しないと仮定した場合
 A)「愛」が【自然科学的な意味で】存在していることを前提にし、かつ「愛」が【人文・社会科学的な意味で】存在していること前提にした知的営みは学問と呼ぶに値しないか?
 B)「愛」が【自然科学的な意味で】存在はしていないこと前提にし、かつ「愛」が【人文・社会科学的な意味で】存在していること前提にした知的営みは学問と呼ぶに値しないか?
 C)「愛」が【自然科学的な意味で】存在していること前提にし、かつ「愛」が【人文・社会科学的な意味で】も存在していないこと前提にした知的営みは学問と呼ぶに値しないか?
 D)「愛」が【自然科学的な意味で】存在はしていないこと前提にし、かつ「愛」が【人文・社会科学的な意味で】も存在していないこと前提にした知的営みは学問と呼ぶに値しないか?


3)以上の質問における「愛」を、
 A)「妖精」と置き換えてみた場合はどうか?
 B)「キリスト教の教義」と置き換えてみた場合はどうか? 
 C)「ある特定の妄想」と置き換えてみた場合はどうか?



僕の答えも書いておきますにゃ。要は「存在」とは多階層にわたったものだといいたいだけなんで。

1)自然科学的には愛は存在しているとはいえない

2)A)自然科学としては成り立たない。人文・社会科学としてはまあ異端の学派であろうが、当該学問の作法に従っている限りにおいて学問的貢献はなしうる。ストイックでなければNOMA原理を侵犯しやすいのは間違いなさそう。
  B)正統的な人文・社会科学といえる。
  C)純然たる「と」自然科学
  D)意味の通じないたわごと。社会科学的な意味では流通された言説は「存在している」し、人文科学的な意味では狂人の私的な妄想すら「存在している」。自然科学的に存在しないものは自然科学の対象にならないように、社会科学・人文科学的に存在しないものは社会科学・人文科学の対象にならない。

3)A〜Cすべてにおいて基本的には「愛」の場合と同じ。妄想の共有の度合いが違うので差異はあるんだけど、めんどいので突っ込まない。

問題は 2)A)の立場なんだけど、これを簡単に切り捨てるのはやっぱり科学主義なんでにゃーの? この立場が学問的貢献をなしえにゃーという理由はどこにもにゃーんだよな。この立場にいる天才的学者っているぜ。W.ライヒはオルゴン・エネルギーの自然科学的実在を信じていた「と」だけど、その著書である「ファシズムと大衆心理」は紛れもにゃー名著だったりね。確かに自然科学に対して侵犯しやすい困ったヒトタチだけど、だからといってそれが人文・社会科学としてダメだということにはならにゃー。

238ka:2008/01/27(日) 03:08:15 ID:fopTCrCQ
雄様知らないこともあったのでとても勉強になりましたご丁寧なご返答ありがとうございました。
今度ヘーゲルの本を読んでみようと思います。
それではROMにもどります。

239NAN:2008/01/27(日) 05:40:30 ID:???
ちょっとこの問題は重要な気がするので、徹夜作業の途中で書き込み…。
(部分的に雄氏にレスしているけれど、全体としては私の雑感)

>>「不可知であるモノが可知であるかのように断定した言明」は、科学の側に立って考えても問題あるんじゃないかな?
>と言うご批判を頂いています。「私は不可知論的立場はとらない」とだけお答えしておきます。

ん〜…事象の地平の内面について、すべて分かる(不可知などない)という言明は科学的なのだろうか?事象の地平を越えたモノは原理的に不可知ではないのか?あるいは「虚数時間」という数学的モデルとして「実証された世界」について、私たちは「知覚している」と明言できるのだろうか?
事象の地平の内面についての考察はホーキングが行ったEPR粒子(相関)による思考実験で「事象の地平のこっちとあっちに粒子のペアが分かれた場合、こっち側の粒子の状態が確定すれば、あっち側の状態も確定し、事象の地平の向こう側から『情報をサルベージできる』」というものがあるけれど、ホーキング自身が「だからといってブラックホールの中身がすべて分かる」と述べているわけではない(決定論の領域が少し増える)ことなども考慮すべき、と私は思うのだけれど。(さらにもちろん、そういう実験がジンルイにとって可能な実験なのかどうか?という技術的障壁も考慮すべき)

それと、上記のような「私の疑問」とは別個に「不可知であるモノを仮定した問いかけ」に対して「私は不可知論的立場はとらない」と返答することに「科学の側に立った考え」におけるなにかを示唆しているのか?そもそもダークマターなどという、宇宙に於いては圧倒的多量と予測されている「はず」のなにかさえ(現時点では)観測できないジンルイの科学において「不可知であるモノの仮定」を認めないことは、ただの思考停止か知の領域を広げることの拒否にしかならないのではないのか?

つまり「不可知であるモノを仮定すること」は、西洋哲学の流儀で云うと「それは分からないとあらかじめ決めてあることなので考えるだけ無駄だ」という思考停止に映るのだろうか?だとしたら、私の主張に対する反論の「動機」も理解できかけてくる。そう、私はこの問題を正逆に捉えていたんだよね。もちろん私は「不可知領域(面積)の絶対性」を肯定しない。「不可知である領域はいつまでも残る」と云っているだけ。
(還元主義の観点から云って、さっぱり還元してない>>232なんてのは少しも説得力がないし)
(ちなみに「物自体を作る」というのはエネルギー保存則に重大な亀裂を生じさせることになるのではないか?まさか化学物質を合成する程度のこととか、放射性物質の崩壊や核融合程度で「モノを作った」なんて認識じゃないよね?そりゃバカだぞ)

科学者でもなんでもない私が恐れ多くも勝手に標榜している「科学的な考え方」として、『今現在分からないことであっても、将来的には分かるようになる可能性が高いだろうね。それでもやっぱり、ヒトがすべてを知ることはできないだろうね…だって、すべてを知ったと判断したのと同時に知の拡大も停止するのだからね』というものがあります。また、この立場が「不可知論」というレッテルを貼られるべきものなのか、あるいは唯物論というレッテルを貼られるべきものなのか、私には分かりません。というかそもそも私は哲学に疎いし、そんなレッテルを知っていようがいまいが、これらの問題について私なりに考えることができるのでそれで十分だ、と思っているのです。

240NAN:2008/01/27(日) 05:41:20 ID:???
さて、次の問題。「カッパの生理学的研究」に果たして自然科学的な学問上の意味はないのか?少なくとも、さまざまな伝承や絵画をもとにして、カッパの実在を仮定した、まさしく科学的なモデルを構築することは可能だよね。その結果、現時点では「カッパと呼ばれている伝承上の生物は、その伝承どおりの形態で実在することはあり得ない」という結論を下すことができるかも知れない。それだって十分に意味のあることなんじゃないのかな?カッパの自然科学的実在を主張する誰かは、この結論を受け容れなくてはいけないけれど、カッパを「未知の生物」と置き換えれば、その生理学的な研究に意味がないなんて誰も云えないはずなのだけど、そもそもカッパの生理学的研究に意味がないという主張の思考停止加減のほうに私はうんざりしてしまう。(それともカッパや妖精が具象であるからダメなのか?それは想像力欠陥ではないのか?)

私に反論する多くのヒトの傾向は「自然科学的結論を無視して実在性を主張すること」についての主張だと思う。しかし私は、そんなことを肯定していない。それよりも「現存する伝承だけで、カッパについての言及のすべてが出揃ったと考えることは妥当なのか?」だとか「伝承とは違うかも知れないが、カッパとしか名付けようのない未知の生物がいる可能性は否定できるのか?」ということを危惧しているんだよね。

上記と同様の、あるいは類似した宗教への批判はあからさまに的外れだ、と私は思う。霊感商法やインチキ予言が「金になる」というのは、そもそも迷信を信じやすいジンルイブンカの体質上の欠陥であって、それはたとえば「家族」だとか「ムラ社会」だとか「国家」というレベルでヒトの文化的体質を批判しなければならないだろう、と私は思う。無論、その中には宗教だって含まれるけれど、それらの欺瞞が「宗教の属性である」という認識は対立を生むばっかりでなんの解決にもならないのではないか?というのが私の疑義だってことは何度も書いた。(だって、新しいから、という理由だけでモノを買うことだって同じだろう?)

神が自然科学的な意味で実在する、と主張するのであれば、それはあからさまに間違っているか、かなり特殊な(自然科学的に云えば、ただのヒトであることを認めた)主張であろう、と私は思う。しかしなぜ、そんなバカな主張について何度も確かめなければならないのか?ことは聖書の記述だけではない。神が自然科学的な意味で実在すると主張するグループが、信仰者全体の中でいったいどれだけいるのだろう?しかし「実在」とは、自然科学的な意味でだけ流通しているガイネンではない。言うなれば、言語あるいは数式で記述可能な「あらゆるすべて」が、私たちの周りに実在し、存在し、明確に影響を与えている。実在とか事実というガイネンが自然科学「だけに」許された表現であると、世界的なコンセンサスでも得られているのだろうか?

誰かが神を見たと主張する。無論、その主張は自然科学的な意味で肯定されない。しかし、それでなにか解決するのか?問題は、私たちジンルイが幻覚や妄想を(生理学的にも)現実世界と区別できないということなのではないのか?懸命になって、それは客観的事実ではないと証明することなんか必要なくて、単に「あなたには見えるし現実なんだろうが、私にはそうじゃない」で十分ではないのか。私が主張しているのは「超越存在を自然科学的な実在として扱え」という主旨ではない。ぶっちゃけ、この議論において自然科学的実在などどうでもいいとさえ思うほどだ。

批判の対象となるのは、そうした「超越存在への信用」に基づいて、他者に対してなんらかの侵害が成されるとき、だろう。しかしそれさえも、実は「規則だからと云う理由だけで貧困老人から生存権利を奪う行為」とか「軍人だからという理由だけで他者の命を奪う行為」と、狂気というモノサシでどれくらいの違いがあるのか、私にはよく分からない。増してや、信仰の無根拠を証明すれば、それらの脅威が少しでも減るだろうなんて、バイクを禁止すれば事故が減るという短絡ヒステリーとなんの違いがあるというのだろう?お菓子を食べることの無意味さや無根拠さを流布すれば虫歯のリスクが減るだろうか?いや、むしろ隠れてお菓子を食いまくるヤツが増えるだろう。ヒトって云うのは否定されたり禁止されたりした「既に知っているモノ」を決して手放さない、そういうイキモノであることが明確なのだから。

241ちょちょんまげ:2008/01/27(日) 16:07:30 ID:vUxNW.gI
>猫さん

ご質問の件。
猫さんとほとんど同意見です。
2)A)については、内容次第かなぁと思います。

>当該学問の作法に従っている限りにおいて学問的貢献はなしうる。
まさにおっしゃる通りで、この段階で切り捨てる理由など無いと思います。

>ストイックでなければNOMA原理を侵犯しやすいのは間違いなさそう。
ここなんですよね。ここで「愛」の自然科学的な存在の証明とか、「愛」の物質的な組成とか、「愛」とはニンゲンとニンゲンが引き合う「力」のことで「愛波動」が脳から出てるだとか、脳と脳の間で「愛中間子」のやりとりがあって等々と始まると「と」になっちゃうんだと思います。

242ちょちょんまげ:2008/01/28(月) 09:30:53 ID:vUxNW.gI
おぢさんは怒った。
うちのガキが小学校で「The Pledge of Allegiance」なるものを斉唱させられているのら。毎朝。
話には聞いていたけど1〜2年生の時はガキがあんまし言わなかったから気にしてなかったのら。まぬけな話なのら。
I pledge allegiance to the Flag of the United States of America, and to the Republic for which it stands, one Nation under God, indivisible, with liberty and justice for all.なのら。
「one Nation under God」なのら。それも気に入らないけど、布っきれ(象徴なのはわかってるのら!)に忠誠を誓わされるのも全身に鳥肌が立つほど嫌いなのら。何に忠誠を誓うなどは誰かに強制されることではないのら。自分で決めるのら。うんこでもおしっこでも自分の決めたものならなんでもいいのら。(でも出来るだけ合理的に決めてね。)
おぢさんの怒りは当初、当該小学校のみに向けられていたのだが徐々にメリケンに対する怒り、ついには全世界に対する怒りに拡大され、凶暴な気持ちになって、「全人類の全文化をろーらーで踏み潰してでも、うちのガキにこれを言わせるのだけは勘弁してくで!」と、自暴自棄になっているのら。
「どいつもこいつもバカばかり」とおぢさんは見るもの聞くものをかたっぱしから痛罵しはじめたのである。(ウチん中で)
(以上東海林さだおさんの完全パクリでひた。)

243ちょちょんまげ:2008/01/28(月) 09:35:39 ID:vUxNW.gI
ちゅうわけで、気分をすっかり切り替えて>NANさん(べつに怒りがNANさんに向いてるわけではないよ。)
レスあっちゃこっちゃ前後しますがご勘弁を。

>神が自然科学的な意味で実在すると主張するグループが、信仰者全体の中でいったいどれだけいるのだろう?
Wikiその他ネット上のソースによりますと、全世界の信仰者の数は:
キリスト教系:19億〜20億
イスラム教系:11億〜13億
ヒンドゥー教系:7.5億〜9億
仏教系:3億5,000〜6,000万

上記のトータルだけでも41億〜45.6億人が信仰者だということになります。
全世界人口が推計で66億人(Wikiによります。)だそうですから、上記だけで実に全世界人口の62%〜69%!
私見ですが、この中で「神が自然科学的な意味で実在する」と主張する人なり、グループなり、「自然科学的な意味ではないがとにかく「存在」し、かつ自然科学的な世界に影響を及ぼしうる、あるいはニンゲンなり生物なりが自然科学的な存在でなくなった後に影響を及ぼすモノ。(結果的に、現在自然科学的な意味で存在しているものの行動や思想に影響を及ぼす。)」と主張する人なりグループなりは、この中で相当な割合を占めていると思います。
(特にイスラムに多いのではないか。)

>しかし、信仰にハマり、イっちゃうヒトの大半はそれを強く疑わなければならない切実な理由をもっていて、
>そこに「おいしい餌」をぶら下げた「宗教の看板を掲げた詐欺師」が現れ、おかしな盲信が始まるのではないでしょうか。

>宗教を受け容れる「とても強い理由」とは、貧困や差別、さまざまな障害や精神的薄弱性、さまざまな挫折や屈折、歪んだ愛情や倒錯、
>さらに強い母性や父性、もしくは科学的探究心や真理への渇望など、とても多岐にわたるだろう、と思います。

上に掲げた信じられないような数(私からすれば)の信仰者のうち多くは、NANさんの上記のケースに当てはまらないと思います。
両親を含む周囲、国家まるごとなどが信仰者の集団であった場合、「なんの疑いもいだかず」周囲同様になることは極めて自然なことではないでしょうか。(このあたりはドーキンスが強く批判するところでもあります。)
つまり、NANさんの例に見られる「自発的」なケースはむしろ少数例のように思われてなりません。もちろん刷り込み完了後に、信仰を自ら再発見するケースが多くあるであろうことは否定しません。

続きます。

244ちょちょんまげ:2008/01/28(月) 09:38:04 ID:vUxNW.gI
>増してや、信仰の無根拠を証明すれば、それらの脅威が少しでも減るだろうなんて、(以下略)

>お菓子を食べることの無意味さや無根拠さを流布すれば虫歯のリスクが減るだろうか?
>いや、むしろ隠れてお菓子を食いまくるヤツが増えるだろう。ヒトって云うのは否定されたり禁止されたりした「既に知っているモノ」を決して手放さない、
>そういうイキモノであることが明確なのだから。

信仰者の多くが「刷り込み」によって誕生することが事実であるとすれば、その中に社会的な抑圧により「信仰者」であることを多かれ少なかれ強制されている人が数多くいると思います。
また、その中には頭や心の中に大きな「?」を抱えながら生きている人たちも沢山いると思うのです。疑問を抱きつつも情報が届いてないケースも多いでしょう。
私はやはり根拠薄弱性を指摘する行為がムダであるとは思いません。「禁止」はともかく、「否定」されたら意固地になる人間は多いでしょうが、「救い」と取る人がまるでいないとは思えません。
もし、現在多かれ少なかれ宗教的な要素を無視できない紛争を抱えている地域の人たちに「信仰を取るか平和を取るか」という質問に対し「平和」と答える人(そう答えて安全な状況ならば)はけっして少なくないと思います。
また、かって幅を利かせていた「盲信されていたことや盲信を強制されていたこと」の「非合理性」、「根拠薄弱性」に人々が気づき、その「盲信されていたこと」の社会的な影響力が少なくなったり、その「盲信されていたこと」をいまだ信じている人たちの肩身が狭くなった例というのも歴史的に少なくはない、と思うのですが。

例:神風(うちの親父は吹く!と固く信じていたそうです。少なくとも、彼の周囲は同様であったとのこと。)、 優生思想、ルイセンコ学説、聖書の逐語解釈、等

>私は「宗教」が特に尊敬や遠慮を要求しているとは思いません。それは「宗教コンプレックス」ではないでしょうか。

少々アンフェアかも知れませんが、私の正体が「ニホンゴが適当に達者なサウジアラビア人(棄教したら死刑の規定があるそうです)」であったとしてもNANさんのご回答は同じでしょうか。(「宗教」一般にはあてはまらない、とおっしゃるかも知れませんが、イスラムも「宗教」です。)

更につづきます。

245ちょちょんまげ:2008/01/28(月) 09:38:45 ID:vUxNW.gI
>しかし、どちらの主張であれ、両者の主張は等価であり、それらを吟味する価値も同じであろう、と私は思います。

>私が宗教を「一般論として批判する」としたら、「なぜ本来の姿を守らないで勝手ばかりするの?」というスタイルを取るでしょうね。
>理由は、宗教が暴力を是とするわけがないし、欺瞞を是とするわけがないからです。

「宗教」という一般化が容易でないこと、安易にすべきではない事などは、この掲示板の猫さんやリリスさん、そしてNANさんのご意見を拝読して私なりにも多くを学ばせていただきました。
しかし、「全ての主張は等価である」というある意味無敵の理論を振りかざされたら、個別にさえ批判することは不可能なのではないでしょうか。
メリケンのバカクリに対しても、NANさんが批判の投稿をなさった「カルト」に対しても。
また、「旧約」には暴力を是とするような記述がありますし、イスラムは異教徒に対し極めて不寛容=暴力的であると思います。(国家、宗派による温度差はありますが。)
それらの宗派なり信徒なりに対して「本来の宗教でない(私はNANさんのおっしゃってることを理解しているつもりです。)」と批判したところで、「我々こそが「本来」である」と返されたら再批判可能なんでしょうか。

>そもそも「正しさを独占しようとするもの」が宗教である、と私は認識していない。
>それは「権力」と呼ばれるものだし、宗教というのはそういう権力者にとっての道具に過ぎず、

この部分、私は一時全面同意だったのですが、今回の息子の「The Pledge of Allegiance」の一件で少々考えが変わりました。
「宗教が権力者の道具の一つ」であることは全くその通りなのですが、それにプラス「権力者がマジでビリーバーである」という鬼に金棒みたいなケースも多いのではないかということに気づきました。(遅いっ、て)
例えばぶっしゅはそうなのではないか。周囲の優秀な連中は計算づくで宗教を道具として使おうとしてるのかも知れませんが、ぶっしゅは危ないかも。
それから、ホメイニ師などは彼の権力欲より宗教的動機の方が大きかったのではないかと。した場合「宗教そのものに対する批判」は私のなかで再び頭をもたげてまいりました。
また、NOMAという概念は、グールドが米国に住む「名士」の一人として米国のキリスト教ベースの社会に対する遠慮から生まれたギリギリの「妥協」の産物なのではないか(それまで「創造科学者」との法廷での対決等、グールドは米国の権力からにらまれるようなことをやっていますから、周囲からの風当たりは強かったのではないか)、やはり「本音」は別のところにあったのではないか、そしてそのあたりをして、ドーキンスが「仲間」の一人として、(猫さんがおっしゃるような)より「厳しい目」で批判をしているのではないかと。
この辺は私の推測ですから当たっているかどうかはなんともわかりません。証拠のようなものもあることはあるのですが、それが書いてある本を、いま人に貸してしまっているので引用不可なのが残念です。

246AH1:2008/01/28(月) 11:49:43 ID:fKqeZx4M
1)「愛」は自然科学的な意味で存在すると思うか?
 脳の機能として「『愛情を感じている』に相当する状態・機構」は存在するだろう
 「これが愛」として取りだせるような存在ではないだろう

2)自然科学的な意味で「愛」が存在しないと仮定した場合
 ここでは「取りだせるような愛」が存在しないという意味だとして,

 A)ありえなくはないが,学問と呼びうる誠実な物になるかどうかは本人の態度によるだろう
 B)ごく普通に,心理学も文学もこれだろう
 C)裏返しの超・科学主義なのではないだろうか.存在したら現実との接点を持たない単なる妄想になると思う.
 D)これも超・科学主義的かつ極度なニヒリズムになるような気がする.どんなに否定したところで「愛と呼ばれて来たところのもの」は存在しちゃう筈だし.どっちにせよ現実を説明できるものではないんじゃないか.

247NAN:2008/01/28(月) 16:04:03 ID:???
>>243>>245
>私見ですが、この中で「神が自然科学的な意味で実在する」と主張する人なり、グループなり、「自然科学的な意味ではないがとにかく「存在」し、かつ自然科学的な世界に影響を及ぼしうる、あるいはニンゲンなり生物なりが自然科学的な存在でなくなった後に影響を及ぼすモノ。

あのぉ…私の指摘への反論ですか、それ?「とにかく存在する」ってのは「神を認める宗教」のテーゼなんだから当たり前でしょ…。

>つまり、NANさんの例に見られる「自発的」なケースはむしろ少数例のように思われてなりません。もちろん刷り込み完了後に、信仰を自ら再発見するケースが多くあるであろうことは否定しません。

これもね、国家社会が「刷り込み」を行うってのは代表例なので書かなかったんだけど「強い理由のひとつ」です。無論それは政教分離への批判に繋がるけれど、政治と宗教を混同するのは権利者の「獲得利益」のひとつだよね。

>私はやはり根拠薄弱性を指摘する行為がムダであるとは思いません。「禁止」はともかく、「否定」されたら意固地になる人間は多いでしょうが、「救い」と取る人がまるでいないとは思えません。

確かに、無駄、というのは勇み足だったと思います。あまり有効には見えないけれど、そういう方法論もあるだろう、くらいに訂正します。

>現在多かれ少なかれ宗教的な要素を無視できない紛争を抱えている地域の人たちに「信仰を取るか平和を取るか」という質問に対し「平和」と答える人(そう答えて安全な状況ならば)はけっして少なくないと思います。

それは甘い。信仰とは平和なのよ。彼らにとって。平和とは、かつてあったけれど、今は失われている平穏な生活なのだ、と私は思う。その社会に於いては、当然「生活と信仰が密着している」のだから、信仰なしの平和はあり得ないだろうな。

>少々アンフェアかも知れませんが、私の正体が「ニホンゴが適当に達者なサウジアラビア人(棄教したら死刑の規定があるそうです)」であったとしてもNANさんのご回答は同じでしょうか。(「宗教」一般にはあてはまらない、とおっしゃるかも知れませんが、イスラムも「宗教」です。)

え?だからといってなにがどう変わるの?さっぱり意味が…
この文脈は「無宗教である者が宗教に対して不当に遠慮や尊敬を強要されている」という主張に対する私の反論でしょ。宗教者が自分の信仰を尊いものだ、と考えるのは当然のことでしょう。

248NAN:2008/01/28(月) 16:04:23 ID:???
>それらの宗派なり信徒なりに対して「本来の宗教でない(私はNANさんのおっしゃってることを理解しているつもりです。)」と批判したところで、「我々こそが「本来」である」と返されたら再批判可能なんでしょうか。

可能ですよ。その主張が相手に受け容れられるかどうか?はともかく、なにに対しても批判は可能です。また、この掲示板がそうであるように、議論を取り巻く「ジャッジ」にも、主張は届くでしょう。
私はさんざん「宗教一般への批判と見受けられる文節」に対して、宗教一般を擁護する視点から反論を続けているけれど、私には「不十分で有効性が感じられない批判」であっても、その主張そのものを禁止しようだとか排除しようなんて意図はありません。イスラム原理主義者とどのような対話が可能なのか私には今のところ分からないけれど、それは「批判の正当性」というよりも「政治の世界」になりそうですね。

>それから、ホメイニ師などは彼の権力欲より宗教的動機の方が大きかったのではないかと。した場合「宗教そのものに対する批判」は私のなかで再び頭をもたげてまいりました。

いやだからね…宗教的動機を持つのは「個人」でしょ。自己正当化のための道具として宗教との同一化を図るってのが宗教的動機だと思うけれど、それはニンゲンの性質なんだよ。宗教的規範も行政による立法も同じこと。「正しいヒト」たらんとする性質に適応しているのだろうね。宗教「だけが」規範への強い同一化を求めるだとか、教義に基づいた統制を求めるというなら話は別だけれど。

>また、NOMAという概念は、グールドが米国に住む「名士」の一人として米国のキリスト教ベースの社会に対する遠慮から生まれたギリギリの「妥協」の産物なのではないか

読み直して見れば明確なのですが、私は「NOMA原理」なるものについて、今初めて言及しています。
そもそも私はNOMA原理なるものをよく知りません。あまり興味もないし、さして重要なことであるとも考えていません。NOMA原理などというチンプンカンプンな原理があろうがなかろうが、宗教と科学を両立させている優れた科学者が多数存在するのが歴史的事実である以上、なに云ってんの?くらいにしか私は捉えていません。

ちょちょんまげさんはアメリカ社会になにを期待し、希望しているのですか?
アメリカの政治は政教分離が正常に成されているとはとても云えない。そんなことはアメリカの外からいくらでも分かる。だから、きちんと政治と宗教を分離すべきだ…とは云えるけれど「どうやって?」それをしましょう。

全世界の文化をローラーで潰す前に、お子さんを別の学校に移すことはできるかも知れない。そもそもちょちょんまげさん一家がアメリカを去ることだってできるはずだ。その問題がそれほど重要なことであるならば、プライオリティは明らかだ、と私は思う。しかしなぜかそうはならない。それよりも「アメリカ社会が問題だ」とか「小学校が問題だ」となる。でもその状況を選択したのは誰なのですか?あなたの不満は激しく矛盾していると私は思うのだけれど、私は間違っているだろうか?

私はサバンナに赴いて、そこが荒野だったり草原だったりすることを不満と思わない。海に出て、周囲が海水であることを不服と思わない。
毎日のように雨が降る多湿な気候に住むことが不満であれば、より乾燥した土地に移住すれば良い。関西弁や東北弁がイヤなのであれば、標準語地域に住めば良い。「私は私自身を変えたり選択することができるけれど、あなたや彼を変えることはできない」それだけのことではないのですか?

249カクレクマノミ:2008/01/28(月) 21:12:07 ID:nWqwz./A
答える前に、いくつか確認を。

>社会科学的な意味では流通された言説は「存在している」

この論理で言うならば、質問2Cや2Dに当てはまるような営みは事実上存在しないのではないでしょうか?
どんなものだって、誰かがそれについての研究をし始めた時点で「存在」してしまうのですから。

そして、「自然科学」vs「人文科学・社会科学」という分類がいまいちよくわからないので、確認のためいくつか質問を。
以下の学問分野は、どちらのカテゴリーに当てはまりますか?
・心理学   ・進化心理学
・動物心理学 ・認知科学
・動物行動学 ・行動主義心理学
・経済学   ・行動経済学

250ちょちょんまげ:2008/01/29(火) 13:29:20 ID:vUxNW.gI
>NANさん

>>私見ですが、この中で「神が自然科学的な意味で実在する」と主張する人なり、グループなり、
>>「自然科学的な意味ではないがとにかく「存在」し、かつ自然科学的な世界に影響を及ぼしうる、
>>あるいはニンゲンなり生物なりが自然科学的な存在でなくなった後に影響を及ぼすモノ。

上記の私の記述はマヌケでした。撤回します。
ですが、聖書にはイエス・キリストなるお方(キリスト教一般には神の子なり、神なりと信じられている)「少なくとも一時期、自然科学的に存在した」という記述があり、それを主張している人はワンサといるのではないですか。

>現在多かれ少なかれ宗教的な要素を無視できない紛争を抱えている地域の人たちに「信仰を取るか平和を取るか」という質問に対し「平和」と答える人(そう答えて安全な状況ならば)はけっして少なくないと思います。

>>それは甘い。信仰とは平和なのよ。彼らにとって。平和とは、かつてあったけれど、今は失われている平穏な生活なのだ、と私は思う。その社会に於いては、当然「生活と信仰が密着している」のだから、信仰なしの平和はあり得ないだろうな。

甘いと断定されてしまいましたが(苦笑。ですが、カーストの最下位にいた人たちの多くがそこから抜け出すためにイスラムに改宗したのをはじめとして、自分たちに有利(に思える)な新しい考え方に触れたときに旧来の信仰を棄てたり、改宗したりした例はいくらでもあるのでは?
単純に「じゃ、そっちのがいいや」ってのもまたニンゲンというイキモノだと思うのですが。ですから、爆弾や銃弾の脅威にさらされている人たちが、信仰を棄てることでその状態で無くなるなら棄教、ってストーリーは充分あると私は思います。

>少々アンフェアかも知れませんが、私の正体が「ニホンゴが適当に達者なサウジアラビア人(棄教したら死刑の規定があるそうです)」
>であったとしてもNANさんのご回答は同じでしょうか。(「宗教」一般にはあてはまらない、とおっしゃるかも知れませんが、イスラムも「宗教」です。)

>>え?だからといってなにがどう変わるの?さっぱり意味が…
>>この文脈は「無宗教である者が宗教に対して不当に遠慮や尊敬を強要されている」という主張に対する私の反論でしょ。宗教者が自分の信仰を尊いものだ、と考えるのは当然のことでしょう。

ん?このサウジアラビア人は無宗教者なんですけど? ここの設定は「私(ちょちょんまげ)が実はサウジアラビア人であった」ということで、私は無宗教者である旨明らかにしてたように思うのですが。また、そこまでは書きませんでしたが自国で不当な扱いを受けていると思っているわけです。それでも意味通じませんか?

NOMAの話は申し訳ありません。特にNANさんあてではありませんでした。勢いで書いてしまいましたが、分けて書くべきでした。

そして、愚息の話ですが、まず>242の投稿が遊びのつもりでした。「トチ狂った男」を演じてみたかったので.....投稿したこと自体が愚かでした。また、耳の痛いご指摘でもありました。
で、本件の優先順位は私としては高い方ですが、最上位ではありません。何らかの措置は取るつもりではありますが。

で、後学のためにうかがいたいのですが、NANさんは外国人は現在滞在なり居住なりしている国のシステム等に一切不満を持つべきではないとお考えですか。
そして、不満があって、そこを去る選択肢があるのならば文句を言わずに去るべきであるとお考えですか。

251AH1:2008/01/29(火) 14:14:16 ID:fKqeZx4M
横レスです.
ホメイニやブッシュがビリーバーでダメダメだったとして,
それは宗教のせいですか?ホメイニやブッシュのせいですか?

ちょちょんまげさんの御意見は
「もともとダメダメな奴が悪用したがる宗教なんかイラネ」
かな?と推測するのですが.

しかし,やっぱり
「暴走族がいるからバイク禁止」
「犯罪に走るからナイフ禁止」
と同じような気がする.
まあ,結局「宗教の有用性は有害性(悪用された時の,そして悪用される頻度)と比べてどうか」という話になり,
さらに「宗教の定義って?」になる,かな?
(漠然とお地蔵さん拝むのと産婦人科を爆破するのと,どっちも宗教に起因するけど有害性が同じってこたあるまい)

252NAN:2008/01/29(火) 16:20:30 ID:???
>>250
>ですが、聖書にはイエス・キリストなるお方(キリスト教一般には神の子なり、神なりと信じられている)「少なくとも一時期、自然科学的に存在した」という記述があり、それを主張している人はワンサといるのではないですか。

イエスが実在したかどうか?については、まぁ実在したとしてもよろしいんじゃないですか?
問題は、聖書に記述があるような数々の奇跡を起こしたかどうか?だと思いますよ。なお、私は「聖書逐語主義や原理主義者がいない」とは述べていません。いつも私が暴言を振りまいているように、そういう手合いは山ほどいます。いますが、それが大部分の宗教者であるかないか、というと少数派でしょう。ちなみに根拠はありません(笑。
#米国に於いてそれが多数だって?それは米国の問題だよね。

>単純に「じゃ、そっちのがいいや」ってのもまたニンゲンというイキモノだと思うのですが。ですから、爆弾や銃弾の脅威にさらされている人たちが、信仰を棄てることでその状態で無くなるなら棄教、ってストーリーは充分あると私は思います。

ない、とは言い切れませんね。確かに。

>それでも意味通じませんか?

あ〜、なるほどね。ていうかだったら簡単でしょ?そりゃぁ国家宗教という名の「法」が求めることだし、断罪するのは「宗教」ではなく政府もしくは司法だよね。信仰の名を騙った権力の代表じゃん。

>で、後学のためにうかがいたいのですが、NANさんは外国人は現在滞在なり居住なりしている国のシステム等に一切不満を持つべきではないとお考えですか。
>そして、不満があって、そこを去る選択肢があるのならば文句を言わずに去るべきであるとお考えですか。

ん〜、私自身も書くべきか書かざるべきか悩んだのです。でも、繰り返し書いておられるのでこれも議論のテーマにするおつもりなのかな?と思った次第です。正直、家族ネタに冷徹なレスを返すのは気がひけます。申し訳ありません。

さて、ご自身および一般化が可能なフォリナーについて、でしたらお答えできますね。
私は海外に長期滞在したことはありますが、居住するというほど長い期間、海外で生活した経験はありません。まぁそれでも、数ヶ月に及ぶ滞在ならしている、という説明にはなるでしょう。(ちなみに英国、フランス、そして中国です)
内的に答えるなら、ニンゲン、あらゆる事象に対してなにがしかの不満を持たないことなど出来ないでしょう。また、どんなに耐えるべきことであれ、時折愚痴をこぼすくらいは多めに見るのが人情だ、と私も思っています。
次に、外的に答えるなら、つまりこれは「タテマエ」ですが、一切不満を持たないことは不可能だけれど、彼の地においては自分こそがフォリナーでありストレンジャーであることは常に念頭に置くべきだ、と思います。これは海外であろうが内地であろうが同じことではないでしょうか。

また、もし仮に、そのひとが彼の地において永住するだとか、住民として地域社会に積極的に参加し、時にはその地域に対する影響力さえ発揮しようと云う「権利と義務」を志として担うのであれば、不満があればそれを改善すべく行動すればよろしいし、相応の社会参加をすれば良いのではないか?と思います。不満があり、社会への(とても大きな意味で)参加もせずに文句だけ云うということでないのであれば、いちいち尻尾を巻くことはないでしょう。さらに、積極的に孤立する、という戦略もアリだと思います。

253ちょちょんまげ:2008/01/30(水) 07:11:05 ID:vUxNW.gI
AH1さん

すんません、正直、私もうまく考えがまとまらないのです。

実は中学生ぐらいの時に、「エホバの証人」の訪問を受けたことがあり、生意気で理屈っぽかった私は相手を叩きのめしてやるつもりで玄関口で議論を始めた記憶があります。
その際、私は過去のキリスト教国がやってきた罪状やら戦争やら並べ立てたり、アダムとイブからニンゲンが始まったのなら、その後ずっと近親相姦ぢゃないかなどと攻め立てたつもりだったのですが、相手はちゃんとQ&Aを用意していて、「でもそれは「宗教そのもの」の罪じゃないですよね」とか、「その時は近親相姦を許容する遺伝子があったと言われているんですよ」などと返されてあっさりと論破されてしまひました。
「さすがプロや」、と「野球狂の詩」の岩田鉄五郎(ってもみんな知らんか)のような感想を持ったのを覚えています。
その時は結局「興味がないのでお引取りください」、で事なきを得たので、今こうして、立派(?)な無神論者としての私がいるわけですが(笑)。
歴史は繰り返すで、数十年後、同じ質問をくらって「うっ」とつまっている自分がここにいるわけです。中学生から全く進歩していないことが証明されてしまった。

ただ、「バイク」や「ナイフ」や「宗教」は使い方間違うと危ねぇぞってのはありだと思うんだけどなぁ、「禁止」は違うと思うんですけど。

お地蔵さんに手をあわせるぐらいなら、私の中でも「宗教と科学は共存」できるんですけどね。

それと、AH1さんが提議なさっている「テーブルにつかない相手に対してど〜するのか」という究極の質問にも答えが見つかりまへん。

254AH1:2008/01/30(水) 13:31:05 ID:fKqeZx4M
>相手はちゃんとQ&Aを用意していて、「でもそれは「宗教そのもの」の罪じゃないですよね」とか、「その時は近親相姦を許容する遺伝子があったと言われているんですよ」などと返されてあっさりと論破されてしまひました。

あー,向こうも慣れているでしょうからねえ.
最初の答えは確かに「宗教そのものの罪じゃない」とも言えるでしょうね.キリスト教マンセー!な相手を冷やかすには使えるかもしれませんが.(あるいは「正しい」キリスト教ってのが実現された例はあるんかい?という突っ込みなら可かも)
後者は「だれが言ったんじゃ!」ですなあ(笑)

>「さすがプロや」、と「野球狂の詩」の岩田鉄五郎(ってもみんな知らんか)のような感想を持ったのを覚えています。
確かに「にょほほ〜」ではあります.


>ただ、「バイク」や「ナイフ」や「宗教」は使い方間違うと危ねぇぞってのはありだと思うんだけどなぁ、「禁止」は違うと思うんですけど。

ええ,全くその通りです.恐らく,旅客機でビルに突っ込んではいけませんとか,ネクタイで他人の首を締めるのは危険だとか,包丁は料理に使いましょうとか,そういうのと(広い意味では)同じだと思います.
旅客機はライセンスを持ったパイロットしか運行しないから一応安全,ネクタイや包丁は生活に必須な道具として認知されてるから「なくなっても良い」とは言われないわけです.
バイクは趣味性が高くなるので「あんなもん無くてもいいから乗らせるな」という意見も出て来るし,ナイフに至っては「犯罪者にしか持ち歩く必要がない」に近い扱いを受けたりするわけです(私は登山やなんかで必携なんですが).
アメリカにお住まいでしたら,銃規制がこれに近いでしょうか.銃単体が人を殺すわけではない,しかし,悪用される場合はしょっちゅうあり,その結果も非常に重大である.それでもこの社会に銃が必要か?「必要である」とする派は規制に反対し,「いっそ無い方がいい」派は規制を求めるでしょう(NRAのロビー活動なんかはちょっと置きます).

そういう点を考えると,「宗教」と一括りにされているものが包丁やカッターナイフなのか,登山ナイフなのか,ピストルなのか,そういう見極めがいると思うのです.そして,その「有害性」の判断とは「宗教だから」という括りではなく,「あまりにムチャクチャで,同じ社会として共存できないようなもの」であるかどうかに委ねられると思うのですね.(宗教ないしそれに類するものが人類の文化と抜きがたく関わっているという点は同意頂けると思います・だから今すぐ全て無くなっていい,とは言えないという意見です)
つまり,まさに
>お地蔵さんに手をあわせるぐらいなら、私の中でも「宗教と科学は共存」できるんですけどね。
と仰っている判断そのものであると思います.私がドーキンスの「有害で侵略性の高いものだけを宗教と呼ぶ」という意見に同意できない,としたのはそういう事です.だってお地蔵さんに手をあわせるのだって(少なくとも私の感覚では)宗教がらみには違いないのだもの.排除したいものだけを「宗教」と認定して「宗教はダメだ」と言えば,それはつまり「ダメなものはダメ」という意見になって反論のしようがないのだけれども,それって「ナチスの指導者たちだけをドイツ人と呼ぶことにする.ドイツ人は犯罪者だ」と言ってるように聞こえるわけです.

>それと、AH1さんが提議なさっている「テーブルにつかない相手に対してど〜するのか」という究極の質問にも答えが見つかりまへん。

問いかけておいてなんなんですが,私もいい知恵がありません.どうすれば良いのでしょうねえ・・

255NAN:2008/01/30(水) 23:03:53 ID:???
バイクにせよ、ナイフにせよ、いやいやビニール袋だろうがヒモだろうが、ヒトを殺すことが出来るわけです。ただ、それらの道具は「能動的に」ヒトを殺せません。受動です。おそらくここがポイントなのだ、と私は思います。

ナイフでヒトを殺す事件が多発し、それが社会問題と化したとき、短絡的なメディアと視聴者はまずナイフを悪者にするでしょう。包丁はどうなんだ?とか、ナタも禁止すべきではないのか?みたいな間抜けな議論も予測できます。そういう議論が起きている最中に、ノコギリによる殺人事件が起きたりする。結局「刃物は全部悪者だ」みたいな論調にさえ、メディアと視聴者が狂っていると走りがちになる。私が危惧するのはそういうことです。

信仰・宗教に対する批判は、信仰・宗教に対する包括的で正しい知識に基づいた議論でなくてはならない。私はそう思います。これは「ナイフの使用法を正しく知ること」と同様です。私ごとき付け焼刃の宗教知識しかない者に「突っ込みどころ満載」に見えてしまうような論調では、お話にもなんにもならないだろう、ということでしょうか。また残念ながら、宗教に対する知識が私には足りません。だからこそきっと、有効な宗教批判が思いつかないのでしょう。

サッカーをやっていた子供時代に、ボールに座ってコーチから怒られたことがありました。神聖なボールを尻で踏むな、というわけです。料理人が包丁を大事にすることも、きっと似たような話でしょう。とても大きな括りをすれば、これらも信仰です。信仰の根本にあるものの、もうひとつの極として「大事にすべきもの」への敬愛があることを、私は疑いません。

さて、本題。
>>それと、AH1さんが提議なさっている「テーブルにつかない相手に対してど〜するのか」という究極の質問にも答えが見つかりまへん。

テーブルに「つくべき相手」は、放っておいても現れますよ。第一掲示板がそうであるように。
もちろん相手は、なにを説いたところでさっぱり反省しないだろうし懐疑の心など持ってくれないでしょう。でも、それでいいじゃないですか。たとえばネットの掲示板には、書き込みをしないROMというジャッジがたくさんいます。たまたま「宗教」と検索をかけたひとが、そのソースに辿り着くだけでもいいと思います。

256NORTON3rd:2008/01/31(木) 10:40:09 ID:tQvpJqX6
まじめな議論の最中に、横道への茶々で申し訳ない

>ナイフでヒトを殺す事件が多発し、それが社会問題と化したとき、短絡的なメディアと視聴者はまずナイフを悪者にするでしょう。包丁はどうなんだ?とか、ナタも禁止すべきではないのか?みたいな間抜けな議論も予測できます。

これ、実際に俺がガキのころにありましてね
当時の社会党の浅沼稲次郎委員長が演説中、右翼の少年に刺殺されるという衝撃的な事件があったのですが、これを契機に『刃物を持たせない運動』が全国的に広がりました。その中にはご指摘のような『間抜けな議論』では実際になされましてね(国会でまで)・・・

んで、それまで、良い子の筆箱の中には必ずあった鉛筆削り用のペンナイフや切り出し、肥後之守追放され、各教室には鉛筆削り器が備えられるようになりました(刃物業者の中には売れ行き不振で自殺したヒトまでいたらしい)

まさしく『三ない運動』とおなじくお馬鹿な『一般化』の好例ですわ

257AH1:2008/01/31(木) 13:58:53 ID:fKqeZx4M
ガキの時に肥後守や切り出しで木を削る愉しみを覚えて以来,常に「鉛筆削り用に必要」と言い張って肥後守を持ち続けたのですが,教師も親も禁止しないでいてくれた事は幸せだったのだと思います.
とはいえ,田舎だから通ったのも事実.大都市に出て来たらいきなり職質され,ポケットナイフを没収されました(泣)
その辺りで刃物をちらつかせた事件が多発したため,警戒中だったらしい.私なんぞは格好のカモだったんでしょう.

258AH1:2008/01/31(木) 14:13:13 ID:fKqeZx4M
>テーブルに「つくべき相手」は、放っておいても現れますよ。第一掲示板がそうであるように。

より明確には「同じ土俵に上がらない相手」ということで,テーブルについたのに科学や論理学といった共通のコトバを持たない相手・・という事なんですけどね.例えば私とNANさん,ちょちょんまげさん,狡獪と懺悔さんは,意見は異なってもコトバは通じているし,「個人の意志や自由を尊重しよう」という立場も恐らく共通でしょう.
私が議論しようとしても,全く異なる立場,すなわち「個人の意志や自由など神の道の前には無意味である」「神を知らぬ輩と話などしても得られるものはない」という立場の相手に対しては無力でしょう.しかし,今のところ

>もちろん相手は、なにを説いたところでさっぱり反省しないだろうし懐疑の心など持ってくれないでしょう。でも、それでいいじゃないですか。

と考えるしかなさそうです.少なくとも「個人の意志や自由を尊重しよう」と言ってしまった以上,明らかに他人の意志や自由を阻害しまくっていない限り,「個人の意志や自由など神の道の前には無意味である,と考える自由」も尊重せざるを得ないでしょう.言ってみれば,正義の味方を標榜した以上は卑怯な手は使ってはいけない,というようなジレンマですかね(笑) 
(他人の意志や自由を阻害しまくっていない限り,ってのも一種のコンセンサスにしか過ぎないんだろうけど)

259ちょちょんまげ:2008/01/31(木) 14:16:29 ID:vUxNW.gI
下のブログの記事皆さんどう思われますか。ここで話していることとちょっと関連ありそうなんで。
NATROMさんのブログ1月11日付け「ニセ科学批判者は科学を絶対視しているか?」1月11日付けエントリへのトラックバックなんですけど。
ttp://blackshadow.seesaa.net/article/80989429.html
ちょっと抜粋すると:

ここから引用:

そして疑似科学批判は、彼らにとって、
・よく分からんモノサシを問答無用で押しつけられた揚句
・そのモノサシによって自分の信じたものを否定され、
・さらには自分のモノサシ(価値判断基準)まで否定された
に等しい暴挙なのである。
だからこそ彼らは、疑似科学批判者が「科学という絶対的モノサシ」を押し付けてくると感じるのである。

引用ここまで

私は疑似科学(線引きは難しいのかもしれませんが)科学の領域に入ってきたら科学のやり方で批判されるのは当たり前だと思うのですが。

260ちょちょんまげ:2008/01/31(木) 14:32:29 ID:vUxNW.gI
すみません。ちょっと付け足し。

>私は疑似科学(線引きは難しいのかもしれませんが)科学の領域に入ってきたら科学のやり方で批判されるのは当たり前だと思うのですが。
そして、それ以上の配慮は基本的に必要ないと思いたがるほうなのです。

261AH1:2008/01/31(木) 14:42:47 ID:fKqeZx4M
疑似科学であるかどうか以前に,
「これは科学である」と称してやって来たものが全然科学でなければ
「おめー,それ科学になってねーじゃん」と批判されましょうし,当然しても良いでしょう.
また,「これは科学であるからして,**であることは科学的に証明されているのだ」と言い出せば
「んなことあるかよ,科学ならちゃんとこういう疑問に答えろやゴルァ」
と言われて当然かと思いますが.


新着レスの表示


名前: E-mail(省略可)

※書き込む際の注意事項はこちら

※画像アップローダーはこちら

(画像を表示できるのは「画像リンクのサムネイル表示」がオンの掲示板に限ります)

掲示板管理者へ連絡 無料レンタル掲示板