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つぶやきすれっど2

1管理者:2002/12/15(日) 15:25

つぶやきすれっどが、1000レスを越えて、使えなくなりましたので、新たに、つぶやきすれっど2を立ち上げました。よろしくお願いいたします。

何となく、普段からフツフツと感じている事を、ここに書き込んでみて下さい。
このスレッドは、独り言、ボヤキですから、会話、議論の応酬は避けましょう!
本音、弱根を、思う存分サラしてみましょう!

1928犀角独歩:2005/12/02(金) 15:34:45

滝本弁護士はやりましたよ(笑)

1929彰往考来(しょうおうこうらい):2005/12/02(金) 17:39:22

>滝本弁護士・・・空中浮遊

NHKスペシャル「奇跡の詩人」への検証本『異議あり! 「奇跡の詩人」』 (同時代社、滝本太郎・石井謙一郎 編著)の著者近影で、滝本太郎弁護士は「空中浮遊」している。麻原彰晃を激怒させ、滝本弁護士殺害計画の切っ掛けになったとも言われているものだが、滝本弁護士がわざわざこの写真を選んだことの意味は自ずから明らかだろう。「奇跡の詩人」を信じろと言うことは、麻原彰晃の空中浮遊を信じろというのと、等価なのである。

http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4886834752/503-4798392-9661507

http://web.kyoto-inet.or.jp/people/kbys_ysm/dabun24.html

1930ラキ:2005/12/02(金) 20:15:39
>麻原彰晃の空中浮遊

昔、学研のムーと言う雑誌で、掲載されていた号を持ってました。w

1931犀角独歩:2005/12/02(金) 21:10:17

>> 麻原彰晃の空中浮遊
> …ムー…掲載…号

これはプレミアがつきますね。

1932片瀬江ノ島:2005/12/04(日) 12:30:15
67世御法主日顕上人猊下様が今月をもって退座されるようですね。考え深い一日になります。

1933問答迷人:2005/12/05(月) 06:40:45

>67世御法主日顕上人猊下様が今月をもって退座

日蓮正宗の宗制宗規は改定されて、終身制とも言える有り方になっているのに、なぜ、今退座何でしょうか。

そもそも、宗制宗規を変えたのは、確か昨年ではなかったでしょうか。

何か背景が有るのでしょうね。

1934孤独な迷子:2005/12/05(月) 07:17:25
お久しぶりです。

>1933
学会系の掲示板で退座の情報がありましたが、本当だったのですね。

宗門や法華講が大きく変わるのでしょうか。

1935犀角独歩:2005/12/05(月) 08:44:26

創価学会が最も御しやすいと言われる早瀬さん。藤本さんはどんなつっかえ棒になるのか。
先代早瀬(日慈)さんに屈辱を与えた妙観講への怨念を背負っています。顕正会へももっているんでしょう。法道院に入る八木さんは、顕正会のパイプ足り得る存在でしょうか。

阿部さんの容態の度合いは知りませんが、「法主」を降りたからといって、石山では完全引退ということにはなりません。久方の「隠尊猊下」の誕生ということでしょう。いわば、坊さん連中は二つの頭になり倍加した支配構造に締め付けが激しくなるということでしょう。

いずれにしても、創価学会の松岡本、浅井さんの情報入手の末、はったり辞任勧告と、今回の交替劇は、何ら因果関係がないことだけは明らかでしょう。

1936藤川一郎:2005/12/05(月) 12:03:12
「ほらみなさい!
私の諫暁に恐れをなして阿部日顕(上人)が隠居しました。
顕正会の対決申し入れを回避するために逃げたのです。」

上記のような趣旨の講演を浅井さんがすることを前もって予言しておく(私も超能力があるのです・笑)。

1937連番通りすがりじゃない通りすがり:2005/12/05(月) 13:12:27
はやく、浅井センセが私の諫めで「日顕」がやめたっていわないかな。
そしたら、みんな笑いものにしましょ。

1938犀角独歩:2005/12/06(火) 12:49:03

藤川さんの偉大な予言は当たるでしょうね(笑)

1939藤川一郎:2005/12/07(水) 11:35:59
>>1933

>>日蓮正宗の宗制宗規は改定されて、終身制とも言える有り方になっているのに、なぜ、今退座何でしょうか。

「法主は、遷化又は自らの意思による以外はその地位を退くことはない。」
上記条項は、別に改正しようと、しまいと、余り変わりは無い条項ですがね。
むしろ元からの不文律を文律化したようにしか見えませんがね。
もし本気で終身制にするのなら「又は自らの意思による」は削ったでしょう。

それより、改正宗規により、大正以来途絶えていた「学頭職」を復活させた事が重要で、その、宗規に従って、常聰院日如師が学頭に任じられたと言うことは、改正時点で既に、御隠居を想定した改正だったと考える方が普通です。

1940藤川一郎:2005/12/07(水) 12:50:59
別スレですが、確かに「バカチョン」の語源については、この「チョン」を朝鮮人とするのは早計のようです。
私もそう聞いて、後輩を注意したことがありますが、それを朝鮮人と思ってる若者は少なかったのも事実です。
むしろそれを注意することにより、忘れかけた「チョン=朝鮮人説」が復活してくるとも言えます。

所謂、放送禁止用語(言葉狩り)が盛んな昨今ですが、差別用語を言葉狩りで刈るのは日本だけでして、まして古い映画等からも「ピー音」で修正するのは言霊国である日本の習性でしょうか?
しかし「差別用語」を刈れば差別が無くなる等というのは誤解でして、海外では差別用語はもちろん使用しないようにしますが、実質を重んじます。差別を無くすのは「差別用語」を無くすのではなく、「差別の実質」を無くすのが正解なのです。

日本でも古い映画には、座頭市等でも「ドメク○」(目のご不自由な方の蔑称)等と叫ぶシーンでは「ピー音」で消され、あまりの馬鹿馬鹿しさに笑ってしまいます。
せめて字幕で「現代では不適切な用語ですが、制作者のオリジナルを尊重し、そのまま放送します」位の事は出来ないものでしょうかね(パーフェクトTV等衛星放送ではこの例はあります)?

1941問答迷人:2005/12/07(水) 13:42:09

>改正時点で既に、御隠居を想定した改正だったと考える方が普通です。

納得です。有難うございました。

1942藤川一郎:2005/12/07(水) 14:18:13
つぶやきです。
つまらないことですが、自分の投稿を見て、驚きました。
ホリエモンの名文句「想定内」「想定外」を知らぬうちに使用している自分がいた。

私の過去の投稿を全て見ても「想定」等という言葉は使用していない。
しかし、今回無意識に使用していた。
マスコミの報道の影響力を感じた。

1943ラキ:2005/12/08(木) 17:51:06
独歩さん。
本日のランチ勉強会ありがとうございました。
一番の発見は、独歩さんの弱点が○○○とは、驚き!でした。^^
本日は本当にありがとうございました。

1944犀角独歩:2005/12/08(木) 18:19:33

藤川さん、1940のご指摘、賛同します。

ただ「バカ○○○カメラ」(敢えて、それでも伏せ字)は、しかし、そのような意味での使用中止は事実であったでしょう。

わたしも言葉狩りは根治的改善にならないと思います。

らきさん

うーん、一つ弱みを見せてしまいました(笑)

1945管理者:2005/12/15(木) 06:34:33

シタラバ掲示板のメンテナンスが先日実施されたようです。その時に、何らかの錯誤で、レス数が1000に制限される設定になってしまったようです。

新たに、10000レスまで投稿できる設定に変更しました。ご迷惑をお掛けして申し訳ありませんでした。

1947管理者:2005/12/19(月) 13:59:41

>1946は、「戦争についてスレッド」の閉鎖に関連して、さらに、管理者の制止、スレッド停止措置を無視して、書き込まれたものと判断いたします。このような投稿は、当然のことながら、当掲示板のルールに抵触しますので、削除すると共に、匿名さんの、以後の掲示板への書き込みをお断りいたします。

1950ラキ:2005/12/29(木) 19:02:10
2005年も残すこと数日。
色々な事件、出来事があり1年間大変お世話になりました。
来年は、どんな出来事があるか楽しみですが、浅井さんをオフ会に呼びたいですねw
それでは皆さん。良いお年をお迎えください。
お年玉365日受付中です(*ノωノ)

1951ラスカル:2005/12/30(金) 15:39:08
高野山には日蓮上人の墓があるそうです。他にもいろいろ聞きますが。空海は華厳から教学を方向付けたとか読みました。でも、家の周りの真言宗は南無遍照金剛(弘法大師空海)と唱えてるような。学問と捉えるならアバウトさがわかるような気がしました。大仏など仏は、お天道様から信仰が来ているのかと。

1952パンナコッタ:2006/01/16(月) 23:39:15
また、此処の掲示板の存続にも関わるニュースが飛び込んできましたね。
管理人さんの方針が出るまでは、様子を見る感じですね。

しかし、一体どうなる事やら・・・。

1953犀角独歩:2006/01/17(火) 01:08:04

パンナコッタさん、なんのことですか?

1954彰往考来(しょうおうこうらい):2006/01/17(火) 07:17:53

>1952 パンナコッタさん

ライブドア家宅捜索の件ですか?

1955パンナコッタ:2006/01/17(火) 12:18:54
ええ、家宅捜査の件です。
株価は午前でストップ安水準になりましたし、昨年の選挙の時、社長を担ぎ上げた政党(一応、無所属でしたが)も
なにやら慌ただしいですね。
社長のコメントは、お詫びとさらなる事業拡大を言っていましたし、直接板の存続に関わるような事には
ならないでしょうが、間接的には何らかの影響が今後出てくるのかもしれませんね。

1956アリアン:2006/01/18(水) 10:27:48
> 1947
トクメイさんとの議論が気に入らないので一時的に閉鎖し、追い出した後に閉鎖を解除したわけですね。

1958管理者:2006/01/18(水) 10:54:16

非難の応酬の様になってスレッドが混乱したので、停止措置を取りました。一週間停止して、とりあえず混乱が収まったと判断しましたので、停止措置を解除しました。書き込み禁止措置は、1947でご説明した通り、この措置とは別のことです。ご理解賜りますれば幸いです。

1959僕だけ:2006/01/18(水) 12:01:10
ライブドアのホームページにアクセスすると

1960僕だけ:2006/01/18(水) 12:44:13
1959> 済みません尻切れとんぼになってます
ライブドアのホームページにアクセスすると話題の子会社のクッキーが保存されます
しかもワーム付きです
つぶやきでした

1961名無しさん:2006/01/18(水) 19:44:21
>>1958
管理者さん、大変だと思いますが、念のためログの保存を
しておいた方がよろしいと思います。

1962管理者:2006/01/19(木) 07:04:22

>1961 有難う御座います。削除対象となったレスも、全て管理者の手元ではログは保存するように設定してあります。但し、掲示板過去ログ倉庫には現在のところ保存してはいません。今後は、削除する時には、過去ログ倉庫に保存するようにしたいと存じます。

1964パンナコッタ:2006/01/29(日) 01:11:00
れんさんと一字三礼さんとのやり取りの中で電子大蔵経がでてきましたが、それでふと思い過去の
レスを読み返して、えらい勘違いを自分がしていたことが解りました。
以前、独歩さんと薩曇分陀利経についてやり取りをしましたが、自分は竺法護が265年に訳出したと云われる
六訳三存、西晋の薩曇分陀利経と頭から思いこんでおり、それが注法華経にも引用されていたのだと勘違いしていました。

大正新脩大蔵経9巻 訳者不詳 一巻。 内容は見宝塔品の一部と提婆達多品に相当する部分で、蓮祖の引用はこれの事
でしょう。
最初の思いこみと、基本的な事を失念していたポカミスですね。大変失礼しました。 <(_ _)>

1965れん:2006/01/31(火) 18:42:46
昨日、図書館に行きまして、大正新脩大蔵経所収の世親の法華論をコピーしてきました。世親の法華論は梵本が現存せず、世親が用いた梵本法華経の形態が不明なのは誠に残念ですが、世親の教学を知ることができますから、世親当時のインドにおける法華経の用いられ方、知る止すがにはなろうかと思います。
漢訳仏典でのこる法華論ですが、やはり本場の漢文体は難しいですね。日蓮や門下のいわゆる和様漢文体とはまた違いますから、ときどきどのように読み下せばよいかわからない文章に出会います。やはり国訳大蔵経も参照しなければならないですね。
パンナコッタさん、私もそういう思い込みはざらにあります。でも、実際に調べてみて、自分の間違いを修正できた。知らなかったことが、わかった。それもひとつの“功徳”といえるかもしれませんね。

1966犀角独歩:2006/03/18(土) 10:17:00

最近は、既に過去に沸騰した議論になっていることが、同じように繰り返され、投稿されています。

まあ、ここの膨大な過去ログを読むのも大変でしょうし、致し方がないのでしょう。
ただ、大概のことはほとんど、議論が尽くされている観があります。

そもそも、「わたしは」何を書いたのか、忘れているところもありますから、繰り返しも、また、一つのあり方かと最近は思うことにしました。

それにしても、顕正居士さんはさすがで、既に過去に記されたことは、あまり再論なさらない、既に回答済みという姿勢を貫かれるのは、さすがであると違う観点で感心しています。

これまた、余談ですが、わたしは定期的に掲示板データをダウンロードし、テキスト化したうえで、該当事項を検索して、読み直すようにしています。このデータ化は、一度の作業で小1時間、思いつきで、気軽に質問を投げかけるのは個人の自由ですが、既出の話題であれば、この検索で過去の投稿を追ったほうが情報量は遙かに多いことになります。
お薦めしておくことにします。

つぶやきとも、お薦めとも採れる文章になりましたが、一言まで。

1967今川元真:2006/03/25(土) 15:51:05
【21世紀は、空海教、鳩摩教?】●紅(神教)〜白(仏教)、仏塔、●法華教学、本仏殿、法華経様式、●仏性〜如来蔵、北から伝えられた一念の法が三千の花弁の蓮を咲かせる教え『南無妙法蓮華経』、法華堂(十界勧請漫陀羅)、法華経変遷、真蹟研究、宿坊、●価値創造、三証四悉檀、●何の知識・情報も無い人々に布教するのは大変

1968今川元真:2006/03/26(日) 13:13:43
切りの良い所で書き込みを止めれば良いのですが創価(勝ち創造の笑顔と愚痴)学会と冷戦になったのでストレス溜まるので辞められない。何でも書いてバッサリ妙法の利剣(御書遺文)で切り分けてくれる所なんて他所に無い。●広宣流布・仏壇(本尊漫陀羅・位牌・水其他)・道場(シャクソン成道図絵・本尊漫陀羅・日蓮立宗図絵、三国四師・何故最澄は法華経行者・天台と伝教の相違・天台密教と日蓮仏法の相違)・神社仏閣(シャクソン・蓮華・四大菩薩天竺様・四菩薩震旦様・四天王日本様)、個人的には、法華堂(十界勧請漫陀羅)だけで良いと思うのですが、歴史は一筋縄では捉えられませんから。

1969犀角独歩:2006/03/27(月) 22:47:37

やや長い投稿をさせていただきます。以下、あくまで試案です。
議論の俎上に乗せようと思うわけではなく、自らの備忘録として、書き置くものです。

■四大天玉の図示の位置について

以下はわたしが個人的に気が付いた点ですので、先行研究等がございましたらご紹介いただくと共に、ご批正をいただきたく存じます。

四大天玉は、図示年代変遷のなかで、日蓮聖人の試行錯誤が窺われ、興味深いテーマの一つです。

東・持国天、西・広目天、南・増長天、北・毘沙門

当時のの宇宙観では大地を方(四角形)と考えられていたわけで、その四角がそれぞれ東西南北になる(方角)ことは、今さら申し上げることでもないわけです。

戒壇院などの伽藍様式の四角い部屋となっているのは、単なる建都合というより、当時、大地は四角形と思われていることに由来するのであろうと類推します。そのそれぞれ方(四角形)の角が東西南北です(方角)。実際に建物がその方向を向いているかというと、これは45度ずれがあります。中央に五重塔(多宝塔)を建て、中に釈迦・多宝の二仏が奉安されています。実際の法華説相からすれば、宝塔の真後ろが東となります(角が正面ということになります)から、そこに持国天像が置かれ、大衆が立つ背が西となって、ここに広目天像を建てれば、経典のとおりとなります。しかし、こうなりますと、多宝塔の後ろでは、像はよく見えませんし、何より、西側入り口の中央に像を置くことになってしまいますから、参詣にも都合が悪く、また、美を尽くせないことになります。この場合、そこで、45度これをずらして、奉安することで、この点を解消しているのが、一般的な建築の妥協でした。

日蓮聖人は、四角い料紙を大地に見立て、その四隅を東西南北の方角を与えることとまず考案されました。しかし、インドでは天子は東面、日本は天子は南面と、国風の相違があります。説法の釈尊もそのように方向を選んで座しておられるわけです。つまり、西側に座しておられるわけです。そこに涌現した多宝塔は、その釈尊に向かっているわけですから、西面となります。つまり、紙の四角(よすみ)に東西南北を与え、宝塔品を図式化しようとすれば、インドのしきたりに従えば、図される上側が東となります。
一方、日本では天子南面のしきたりがあります。ですから、上側が北になります。

日蓮漫荼羅は宝塔品を図示といいますから、西面となりますが、しかし、天照・八幡という国神も勧請されているわけですし、奉安様式は、南面でしょう。そうしないと国風に準じられないからです。つまり、宝塔は東側は、貴人は北側という相矛盾する二つの要素を孕むことになるわけです。
これを表化すれば

【宝塔涌現】
北(左上):毘沙、東(右上):持国
西(左下):広目、南(右下):増長
【日本国風】
西(左上):広目、北(右上):毘沙
南(左下):増長、東(右下):持国

となり、四大天玉の配置に相違が生じます。

1970犀角独歩:2006/03/27(月) 22:48:48

―1969からつづく―

また、45度、ずらしているために、本来、東には西、北には南と対するところを、東西南北のままに配置すると、こうはならず、従来の奉安では、東西、北南との対が対角線上に配置されてしまうわけです。しかし、実際は、宝塔を正面から見る場合、衆は西を背に東に向かい、日本国風の天子を仰ぐとなれば、南を背に北を向くはずです。けっして、対角線にはなりません。
この点を日蓮聖人は、紙の四角を方角に見立てるに置いて、見事に解消したアイデアが浮かんだのでしょう。
つまり、右上下二角を東西に、左上下二角を北南とすることで、このを問題を見事に図示することに成功したわけです。

なお、漫荼羅平面でしか表現できないわけで、さらに掛け立ててありますが、そのイメージは三次元で、大地と虚空を表すわけで、四角に従えば、床に敷いて大地の如く、けれど、首題(塔内妙法蓮華經)と諸尊はその大地に立って天に向かって立っていることになるのでしょう。紙の上が奧で下が手前という三次元です。

以上、ややこしいので紙に四角を書き、その四隅にそれぞれの四大天玉と方角を書き込んでみれば、日蓮聖人の卓抜したアイデアが彷彿とします。
以下、簡単に作図してみました。

http://www.geocities.jp/saikakudoppo/sidaitenohaiti.html

諸尊勧請とインド、日本の国風の相違からの配置については、日寛はうまく説明しています。

「千古より国風自然に同じからず、所謂漢土・日本は天子南面す、故に左は東にして陽、右は西にして陰なり、故に左尊右卑なり。
若し月氏の如くんば君父東面す、故に右は南にして陽なり、左は北にして陰なり、故に右尊左卑なり。
国風同じからざれば尊卑既に定まる、故に其の処に随って何れの方に向かう時も日本は左を上座と為し、月氏は右を上座と為すなり。
本尊の左右亦復爾なり。謂わく、宝塔西に向く、故に釈尊は右の上座に居し、多宝は左の下座に居するなり。大衆は東に向く、故に上行・無辺行は右の上座に居し、浄行・安立行は左の下座に居す、是れ霊山の儀式を移す故なり」(六巻抄当流行事鈔第五)

余談ですが、仏像奉安の際、本当であれば、四菩薩をわたしどもに背を向けている形になるはずですが、こちらを向けて建てられています。これも致し方のないことでしょうか。

■塔中「妙法蓮華經」は五字か・経典か

日蓮聖人における仏像開眼とは、絵像木造で表現できない梵音声である経典を仏像の御前に置くことであることは御遺文から窺われます。『木絵二像開眼事』は、そのことを説明したものでした。

「木画の二像の仏の前に経を置けば、三十二相具足するなり。但し心なければ、三十二相を具すれども必ずしも仏にあらず」

梵音声は経典であれば、開眼となるわけですが、しかし、それでは心とならない、心は法華経に限る、では、この心とはいえば、すなわち一念三千である、故に経典は法華経に限るという論の運びであるわけです。
経典は梵音声の説法そのものを指し、妙法蓮華經の五字は一念三千を指す。

1971犀角独歩:2006/03/27(月) 22:50:17

―1970からつづく―

さて、ここで『本尊抄』の

「其の本尊の為体、本師の娑婆の上に宝塔空に居し、塔中の妙法蓮華経の左右に釈迦牟尼仏・多宝仏、釈尊の脇士上行等の四菩薩、文殊・弥勒等は四菩薩の眷属として末座に居し、迹化・他方の大小の諸菩薩は万民の大地に処して雲閣月卿を見るが如く、十方の諸仏は大地の上に処したまふ。迹仏迹土を表する故なり」

というときの「塔中の妙法蓮華経」が五字か・経典かという問をわたしは懐いたわけです。この本尊抄の記述に従って仏像を建立するとします。多宝塔を造り、その塔の中に二仏並座させることになります。

わたしは塔の中でなければならないと思いますが、しかし、これは四菩薩がこちらを向いているのと同様、外に置くのは致し方のない造形上の措置でしょうか。
それは、置くとして、では、肝心の妙法蓮華經はどうでしょうか。
わたしは法華経典であると思います。なぜならば、ここに法華経典がなければ、『木絵二像開眼事』と齟齬を来すからです。では、上行所伝の妙法蓮華經が表現できないではないかとなりますが、そうなのだと思います。仏像造立では妙法五字は表現できないのです。ですから、別立てで曼荼羅が必要なわけです。

富士方では、伝・三位日順文書『本門心底抄』に

「本門の戒壇其れ豈に立たざらんや、仏像を安置することは本尊の図の如し」

とあり、要法寺系でも、この考えですが、わたしは、これはまったく日蓮聖人の三大法門を満たすことが出来ない謬論であると考えています。
本門の本尊は仏像・本門の題目は字像曼荼羅、そして、戒壇は『取要抄』に記される密事として、伝えられた比叡山戒壇の代わる本門戒壇であり、こうして、三大法門の三つは成就するのではないのかという考えです。

これを妙法蓮華經の五字を本仏釈尊としてしまえば、二大秘法としかならないことになります。この点は、石山で言う日蓮本仏・人法一箇でも同様ではないのか、というのがわたしの考えです。

なお、「其本尊為体」は、日蓮門下一般を通じて、「其の本尊為体(ていたらく)と読むことで、異論がないようですが、わたしはこの点に異議を有します。では、どう読むのか「其の本尊を体と為(な)し」ではないのか、というのがわたしの考えです。では、その体とされる本尊とは、その後に続く記述ではなく、その前段ではないのかと考えます。すなわち、四十五字法体段でいわれる仏が本尊であるということではないか、ということです。では、「為体」以降は何を意味するのか、つまり、それは「末法に来入して始めて此の仏像出現せしむべきか」という造立される仏像の奉安様式です。
ただし、この点については、思索中です。

1972犀角独歩:2006/03/27(月) 22:51:17

―1971からつづく―

■日蓮聖人持仏は聖人のご自作のこと

「随身仏、この表現はいかん」と、中尾堯先生はいうので、いまは持仏とさせていただきます。
日蓮門会一般の伝承認識として、このお像は伊東配流の際、船守弥三郎から献上されたものだとなっています。
しかし、その成立を日興上人滅後90年、聖人滅から140年目の成立であるとする高木豊師がいう『五人所破抄』では、日蓮聖人自らが刻まれたものであるといいます。すなわち

「五人一同に云く、先師所持の釈尊は忝くも弘長配流の昔之を刻み、弘安帰寂の日も随身せり何ぞ輙く言うに及ばんや云云」

とあります。これを雪仙日亨は訳解して

「五人一同の義には先師日蓮の御奉持になつていた釈迦牟尼の立像仏は・勿体なくも弘長元年伊東御流罪の時に彫刻せられて・弘安五年池上御入滅の時まで御身を離さず奉持せられたもので・あるを・何とて遺弟の身とて容易く彼是と非難をしてよからうや・唯仰いで信敬すべきぢや云云」

といいます。最近は、どうも記憶力が減退し、文献を失念しましたが、船守弥三郎の寄進は浮木であったという文献が確かありました。
この「忝くも」「勿体なくも」は「刻み」に掛かる語ですから、日蓮聖人を指していることになります。ここで刻んだというわけですから、海中出現とは齟齬を来すことになります。実際に古文献を調べても、海中出現を指示するものには当たれなかった記憶があります。

さて、聖人お手製本尊となれば、その崇敬は高いのは当然で、日興上人作とされる『原殿御返事』に

「大国阿闍梨の奪い取り奉り候仏の代わりに其れ程の仏を造らせ給えと教訓し参らせ給いて、固く其の旨を御存知候を、日興が申す様には、せめて故聖人安置の仏にて候わさばさも候いなん。
 それも其の仏は上行等の脇士も無く始成の仏に候いき、其の上其れは大国阿闍梨の取り奉り候いぬ、なにのほしなさに第二転の始成無常の仏のほしく渡らせ給うべき」

と‘第二転’とは、つまり、日蓮聖人お手製の仏の第二転という意味であろうと、わたしは考えます。ただ、この日朗上人を記述する文面が、本当に日興筆であるのか、やや疑問は残ります。いずれにしても、日蓮聖人お手製持仏という文献は、以上の如くとなります。

■字像漫荼羅の不動愛染勧請の理由

『不動愛染感見記』は真筆か、という問題は、さておいて、不動愛染が梵字で図示される理由は、富士門流信徒の掲示板に顕正居士さんが宝珠曼荼羅を引きご賢察を示されたわけです。そこから、調べたところ、たしかに摩尼宝珠漫荼羅という真言の曼荼羅がありました。中央、宝珠に脇士は不動愛染です。

ただ、この摩尼宝珠曼荼羅の場合、中央宝珠を、どのような解するのかという点で、日蓮聖人とは異なるであろうと思います。聖人は、もちろん、一念三千を宝珠と考える立場でしょう。『本尊抄』に「一念三千を識らざる者には仏大慈悲を起こし、五字の内に此の珠を裹み、末代幼稚の頚に懸けさしめたまふ」という珠の正体は、この文脈からすれば、一念三千に他なりません。そして、この珠は、聖人が虚空蔵求聞持法を修して「生身の虚空蔵菩薩より大智慧を給はりし事ありき。日本第一の智者となし給へと申せし事を不便とや思し食しけん、明星の如くなる大宝珠を給ひて右の袖にうけとり候」という珠と一致するのであろうと、わたしは考えます。そして、一致こそ、顕密相対し、聖人のなかで生じる整合性であるとわたしは拝します。つまり虚空蔵を介する密教宝珠を一念三千と翻訳し、上行所伝の妙法蓮華經の五字と一致させ、ここに法華によって、聖人の密教を開会されたのではないでしょうか。

その宝珠を上行所伝の妙法蓮華經の五字に裏み、霊鷲山出現の宝塔中における四菩薩への附属の儀式を併せて表現したのが、字像漫荼羅であれば、密教に精通した日蓮聖人であれば、宝珠の脇士に不動愛染を置かれるのは、むしろ必然というほかありません。『不動愛染感見記』を引き合いに出すまでもなく、不動愛染の勧請は説明が着きます。

1973れん:2006/03/28(火) 19:15:18
犀角独歩さん
1969〜1972
久方振りに御賢察をご披瀝頂き、大変勉強になりました。
>本門の本尊は仏像、本門の題目は字像曼荼羅、そして戒壇は『取要抄』に記される密事、伝えられた比叡山戒壇の代わる本門戒壇であり、こうして三大法門はの三つは成就する…
御賢察に賛同致します。重須側の日順師・日代師の著述を見ますと戒壇に安置する仏像は「本尊図の如し」なのですが、上野に目を転じますと、日目師の申状(正本・保田妙本寺蔵)には「仏滅後二千余年間正像末三時流通程、迦葉龍樹天台傳教所残秘法有三。所謂法華本門本尊与戒壇与妙法蓮華経五字也」日目の孫弟子日向定善寺開山日叡師の後信抄(正本・定善寺蔵)に「本仏・本戒・本尊」(この表記は法華取要抄や報恩抄に見られる通途の本門三法門と表記が異なりますが、これは日興師・日源師の写本が伝わる“法華本門本尊問答抄”の思想の影響を受けた記述と考えます。意味合いとしては、本門本尊=仏像、本門戒壇=『取要抄』に記される密事としての比叡山戒壇に代わる戒壇、本門題目=字像漫荼羅と理解できます)又、時代は室町中期以降に下りますが要法寺日辰師の造読論議に引用される大石寺顕応房の文書には「三箇秘法者仏土教法也」とあり、顕応房自身は御影本尊論を述べるものの、この成句そのものの原初的な意味は取要抄・報恩抄・目師申状・日叡後信抄に同じであったろうと考えます。
蓮師の取要抄や報恩抄ないし初期上野の文献から原初的な本門三法門を調べますと、やはり独歩さんの御賢察の方が、やはりしっくり来ますね。
なおご失念された上代富士における日蓮聖人自作の釋尊像についての記述ですが富士宗学要集第二巻に収録されている日順雑集の中の“法華観心本尊抄見聞”に「聖人海の定木を以て一躰の仏を造り佐渡の国へも御所持・御臨終の時は墓側に置けと云々」との記述を見ます。初期興門においては日蓮聖人持仏の釈尊像は、やはり日蓮聖人の御自作と伝承されていたようですね。

1974犀角独歩:2006/03/28(火) 21:23:39

れんさんには種々ご賛同を賜り、恐悦至極に存じます。
上記備忘録にやや補足します。

■四大天玉の図示の位置については、かつてワラシナさんとメールであったと記憶しますが、遣り取りをしたことに端を発します。

■塔中「妙法蓮華經」は五字か・経典かは、問答名人さんと議論をしたことです。

先に顕正居士さんは「漫荼羅設計図論」を提示されましたが、わたしは、むしろ、『本尊抄』がその設計図ではないのかという考えをもっています。ただし、これは顕正居士さんのご賢察を斥けるというものでは、もちろん、ありません。

漫荼羅が設計図であった場合は、二つの位相、すなわち、宝塔(東西)と国風(北南)は、相容れない配置となりますから、これを実際の大地に顕現することは不可能ではないのかという思いがあり、この点から漫荼羅を設計図と見ることに躊躇いがあることもあります。

なお、日蓮の仏像開眼観は、木絵仏像+{経典:梵音声+心:一念三千}という三点セットで、法華経である場合、梵音声と一念三千の両意を有するととらえている。門下教学のなかでは仏像本尊は、のちに曼荼羅本尊に移行するという見方がありますが、わたしはこの考えには反対です。なんとなれば、本門題目と本門本尊が明確に二立しなければ、三大法門とはなり得ないからです。その意義を異にすると考えるからです

妙法蓮華経に裏まれた宝珠と不動・愛染脇士という試論は、実に秀でたところと敬服します。

仏像本尊は、本師・本仏の所表ですが、漫荼羅は一念三千宝珠の所表、つまり、仏像で表される仏は本尊ですが、漫荼羅の場合は仏界の所表とその意図するところが相違しています。しかし、この二つが別のものであるかといえば、三大法門は一を三に開くところであるところで、所化もって同体だからこそ、一念三千であるのでしょう。また三千はその十界互具百界で本因九界悉く本仏界にあり、さらにその本国土はまさに本門戒壇として事相されなければ、三千を成ぜません。妙法蓮華経の五字は一念三千を裏み、では、その一念三千を諸尊で図すれば曼荼羅図の如く、その東西・北南に拝する宝塔存立の場はまさに戒壇で、この意味において、たしかに顕正居士さんが仰る如く、漫荼羅は、その意義を余すことなく、孕んでいるのであろうと思います。つまり、妙法蓮華経の五字に裏まれた一念三千は具体的な十界諸尊の図示を以てさらに記されているわけです。となれば、漫荼羅の全体は一念三千であり、この宝珠全体を不動愛染の脇士が守護すると見ても、よいのであろうとも考えます。

【宝珠曼荼羅】愛染+宝珠+不動

【字像漫荼羅】愛染+{一念三千〔本果・仏+本因・九界+本国土戒壇〕+〔妙法蓮華経(宝珠:一念三千)〕}+不動

一尊四士の一尊は本仏の所表、四菩薩は附属の菩薩を表しますが、しかし、ここでは師資の義を成じても附属の本法が表せません。已上末法出現仏像本尊。

1975犀角独歩:2006/03/28(火) 21:25:20

―1974からつづく―

これを表すのは、漫荼羅図示に譲られるところで、しかも、具体的に本門寿量顕本の一念三千、仏界・九界・互具十如、そして本門戒壇として三世間をそこに書き示して秘事として、名前を書き示して、授与とすることは、まさに上行菩薩附属の妙法蓮華経の五字を流布する相となるのでしょう。已上五字漫荼羅。

そして、密事された未来建立を期した迹門戒壇に代わる末法の事壇。已上本門戒壇。

■日蓮聖人持仏は聖人のご自作のことについては、いまのところ、議論にはなっていなかったかと存じます。特に参考にした先行研究があるというより、『五人所破抄』の記述が、事実であればという前提の愚考です。

れんさんには、わたしの失念を補完していただきまして、誠に有り難うございました。

■字像漫荼羅の不動愛染勧請の理由について。別スレッドで彰往考来さんがさらに感見記のご賢察を示されたので参考になりました。感見記の真偽は書の鑑定上の問題で、それ以上でもなければそれ以下であってもならないというのは科学的な態度であると考えます。いままで自分の所属する団体が「真言亡国」と言ってきたから、日蓮はそうなんだから、真言臭のする感見記は偽書だなどという連想ゲームが固定観念になって、論陣を張るというのは、古文書鑑定としては墜ちた為にする論というほかありません。鳳凰さんには、最高の意図が示されたこと、喜ばしく存じます。また、パンナコッタさんがご指摘のとおり、独学徒さんの考証がありましたか。

妙法蓮華経の五字は筆を握れば、誰でも記せます。書いて人に授けられます。口で唱えることもできるでしょう。では、それと上行所伝の妙法蓮華経は、どこで違うのか、それはまさに‘日蓮の妙法蓮華経’でなければならない。では、日蓮の妙法蓮華経とは具体的には何か、それはまさに字像漫荼羅を置いて、他にないというのは、わたしなりの結論です。

本仏釈尊の久遠下種、さらに四菩薩地涌菩薩の眷属たるを示す本尊は一尊四士にあり、では上行所伝を日蓮の名に隠す日蓮は、自ら附属された妙法を如何様に、さらに附属、広宣流布しするのか。それはまさに妙法蓮華経の漫荼羅をもってするのでしょう。漫荼羅に示された妙法蓮華経は、日蓮の(正確には上行に附属され、末法に日蓮として流宣する)妙法蓮華経です。他の妙法蓮華経とは軸が同様でも、根本的に意義は相違します。日蓮の妙法蓮華経に有らずんば、附属の妙法蓮華経とは言えないというのが日蓮の自覚でありましょう。そして、その授与を受けた弟子檀那は、ここに自らの久遠下種を知り、報恩尊敬(そんぎょう)の一念を以て像を結ぶのが、本仏師・久遠釈尊、附属の資・四菩薩の像ではないでしょうか。(一尊四士)しかし、日蓮が比叡山を去り、本門一念三千を末法流宣に成就、本国土の妙を、事相せんとすれば、密事とされた本門戒壇未来建立を以て、三大法門の成就を期したのであろうと拝察いたします。本門の本尊と戒壇、妙法蓮華経の五字は一の宝珠を以て、不可思議にも虚空蔵菩薩を介して、日蓮に伝えられ、その守護を不動愛染がなしていたという自覚が日蓮にあったのかも知れません。

以上しかし、わたしは既に富士の裾野より独歩したうえ、大崎の学風にも、身延の学風に疎い、一在家に過ぎません。皆さんのご批正を賜れれば幸甚です。

1976犀角独歩:2006/03/28(火) 23:21:34

【1975の訂正】

誤)鳳凰さんには、最高の意図
正)鳳凰さんには、再考の意図

誤)妙法蓮華経とは軸が同様でも
正)妙法蓮華経とは字句が同様でも

1977今川元真:2006/04/01(土) 17:12:39
今更ながら尚更ながら、●●蓮祖教学≒5機●● ▲▲興門教学≒5時▲▲[本尊論・勝劣でも一致でも無い十全完璧な本尊]、シャカ(泥沼蓮華)、シャクソン(皆成仏道)、鳩摩訳で無くても台家は一心三観等を繋げるか、大乗教団次第か。

1978今川元真:2006/04/03(月) 11:50:53
私の家で花と言えば、スイセン・アジサイ・オニユリ・ウメですが、名前も知らない花もあります。年の所為か小さくて群生で集まって咲く花々をキレイに見れるようになりました。名前が解らないのはイライラします...●皆成仏道、、法華涅槃、依法不法人●本仏と言えない本尊、漫陀羅=修行●像法(仏像)、末法(漫陀羅)、本門法華経戒壇堂(生粋法華経行者)●教義(題目肝心)修行(唱題成仏)できる本尊、横並びでも縦並びでも無い教法本尊●ゼロベースの仏国土=理想郷

1979一字三礼:2006/04/04(火) 22:45:15

犀角独歩さん

超亀レスで申し訳ありませんが、ご教示ください。

> 1790
>> 仏像奉安の際、本当であれば、四菩薩をわたしどもに背を向けている形になるはずですが、こちらを向けて建てられています。

ご存知のように文永・建治の大曼荼羅には釈迦・多宝以外の仏尊も勧請されているものがあります。
保田の万年救護本尊であれば「南無善徳仏」「南無十方分身諸仏」ですが、では、これらの仏尊方は、どちらを向いているとお考えですか。

釈尊・多宝の二尊と同じ向きに座して四菩薩と対面しているのか、それとも四菩薩と同じ向きに座して釈迦・多宝と対面しているのか。

これが解れば、日蓮聖人が東密と台密のどちらを重視していたかを知るための一つのアプローチになるのではないと考えているのです。

その答えを例の金・胎両界の大日如来が勧請されている第18番の大曼荼羅にあてはめて考えてみて、胎蔵界・大日如来が上座であれば、東密重視と考えられますし、金剛界・大日如来を上座としているのであれば、台密重視であったとは考えられませんでしょうか。

1980犀角独歩:2006/04/08(土) 08:17:09

どちらに投稿をしてよいのか判りませんので、こちらとさせていただきます。

4月6日、悲母が逝去しました。
お励ましをくださった皆様には、衷心より御礼申し上げます。

以上の事情から、ここ何日間か投稿ができませんでした。
まだ、しばらくは整理その他から、お声かけに十分なお答えができないこととなろうかと存じます。恐縮ながら、御斟酌をお願い申し上げるものです。

有り難うございました。

1981問答迷人:2006/04/08(土) 08:26:24

犀角独歩さん

ご母堂のご逝去の報に接し、謹んでお悔やみ申し上げます。お力落としの事と存じます。暫くは、ご静養される事と存じます。落ち着かれましたら、又、掲示板でのご活躍を拝見致したく存じます。ご愁傷さまでした。

1982れん:2006/04/08(土) 11:33:17
犀角独歩さん。
三日の松山師ご講義にもご参加なさっておられなかったので、もしや御母堂様の御体調が御悪いのではないかと心のなかで危惧しておりました。
六日に、御母堂様ご逝去の由、謹みて、御母堂様の御冥福をお祈り申し上げます。
何と言葉をかけるべきか、適切な言葉が出てきません。
今は、心身ともに、なにかと大変なことと拝察申し上げますが、今は、とにかく諸事、周りの状況が落ち着くまでは、心ゆくまで、御母堂様をお送り下さい。早々

1983パンナコッタ:2006/04/08(土) 12:36:17
犀角独歩さん、
 お母様ご逝去の由、心からお悔やみ申し上げます。
 ご親族の方におかれましても、ご傷心はさぞ深いことと拝察いたしますが、
 なにとぞお気を取り直されて、ご自愛のほどお祈り申し上げます。
 まずは、謹んでお母様のご冥福をお祈り申し上げます。

1984独学徒:2006/04/08(土) 13:03:19

犀角独歩さん、お母様ご逝去とのこと伺いました。謹んでお悔やみ申し上げます。

私を彫刻信仰から覚醒させてくださった、犀角独歩さんの論考『所謂「本門戒壇之大御本尊」の真偽について』、及び『何故わたしは、所謂「本門戒壇の大御本尊」の真偽を論じるのか』を、拝読させていただく中で、犀角独歩さんのご家族への思いを強く感じておりました。
お母様のご冥福を、心よりお祈り申し上げます。

1985顕正居士:2006/04/08(土) 13:59:20
犀角独歩さん。
御母堂様のご逝去を悼み、
謹んでお悔み申し上げます。

1986一字三礼:2006/04/08(土) 20:49:57

犀角独歩さん

御母堂様のご逝去謹んでお悔やみ申し上げます。

まことに勝手ながら、題目、読経を勤めまして御母様の菩提を弔わせていただきました。

ご心痛の中、やらなければならない事は尽きないと思いますが、どうぞお体もご自愛ください。

1987文殊:2006/04/08(土) 21:00:57
犀角独歩さん。
お母様のご逝去の報に接し、謹んで
ご冥福をお祈り申し上げます。

1988空即是進化:2006/04/08(土) 22:30:45
犀角独歩様
 御母堂様のご逝去をお悔やみ申し上げます。
 やはり悲しいものは悲しいですね。
 お気を落とすことなく、これからもご活躍をお願いします。

1989ラキ:2006/04/10(月) 02:50:02
犀角独歩さん

お母様ご逝去の由、心からお悔やみ申し上げます。

1990彰往考来(しょうおうこうらい):2006/04/10(月) 06:53:19

犀角独歩さん

ご母堂様、ご逝去の報に接し、心からお悼み申し上げます。

1991犀角独歩:2006/04/13(木) 12:36:17

皆様には、ご弔辞、並びに暖かいお励ましを頂戴しましたこと、謹んで御礼申し上げます。

悲母葬儀は、楠山日道(泰道)上人、貫名日泰(英舜)上人の大導師を得て、お二方のお慈悲溢れる御計らいの許、三浦本山と称される金谷山大明寺に於いて執行していただきました。

法名 帰真院妙行日松信女 位

皆様の御回向を賜れれば、有り難く存じます。蹲踞

1992みかん:2006/04/13(木) 23:49:59
犀角独歩さま。
お母様がご逝去されたとのこと、こころよりお悔やみ申し上げます。
なんと申し上げて良いか、言葉もありません。
こころより、ご冥福を祈念させていただきます。
さぞ、お力落としのことと存じますが、ご無理なさいませんよう。

1993犀角独歩:2006/04/14(金) 04:40:57

みかんさん

お久しぶりです。ご祈念下されるとのこと、痛み入ります。
有り難うございます。

1994雖念:2006/04/15(土) 20:37:35
犀角独歩さん

ご母堂様、ご逝去の報に接し、心よりお悔やみ申し上げます。

小生も近年両親を送ったばかりですので、ご心中をお察しいたします。

あわせて、ご母堂様のご冥福を祈念させていただきます。

1995犀角独歩:2006/04/16(日) 07:22:10

雖念さん、お久しぶりです。
有り難うございました。

1996犀角独歩:2006/05/01(月) 23:19:19

一字三礼さん

本日は、たいへんに有り難うございました。
追って、詳しく投稿させていただく所存ですが、頂戴しました御香、ただいま、母の遺骨に供えさせていただきました。お気持ち、衷心より御礼申し上げます。

1997Taitsu:2006/05/02(火) 00:10:42
金谷山大明寺とは衣笠の・・・
私以外に横須賀に縁の有る方がここにお出でとは、ちょっと嬉しく思いました。

不謹慎と思われましたならお詫び申し上げます。

1998犀角独歩:2006/05/02(火) 08:19:58

Taitsuさん

わたしも嬉しく思います。
機会がありましたら、大明寺でお会いしましょう。

1999犀角独歩:2006/05/08(月) 22:27:13

本日、日蓮宗の千部会に参列してみたのですが、いくつか発見があり、日蓮宗の様を観て、いまさら、石山とはなんたるかと、慨歎を禁じ得ない発見がありました。

わたしが法華講にいた頃、石山御影堂の法要で散華というものを初めて観ました。教学部の説明では、古式豊かに、よく研究して行ったとかという口上でしたが、本日、日蓮宗の法要で、この散華があったのです。その華の取り出し方、構え方、そして、散らし方に至るまで、ほとんど、同じ。
日蓮宗のほうの散華は、昨日今日始まったものではなく、要は「石山が言う古式豊か」というのは、ただの日蓮宗のパクりということなのでしょう。もっとも、檀林その他で、他派の日蓮門徒と席を同じくし、共に教を唱えてきたからこそ、離間した現在でも、方便自我偈に唱和することに苦労はないわけです。信者を食った話だと思った次第です。

このような呆れ話は、類は幾つもあります。石山で、正式書籍にも載る日目の身延修業時代を謳ったとする古歌「法華経を我が得しことは薪こり 菜つみ水くみ つかへてぞえし(『日蓮大聖人正伝』321頁)という話が、実は、比叡山の修行で僧侶たちが口ずさむ歌であることを、わたしは指摘したことがあります。
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/364/1014117251/37

また、地名さんもその元は、拾遺集哀傷 一三四六、大僧正行基の歌であると、正確に情報をご指摘下さったわけでした。
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/364/1015573970/724

御受戒の「持(たも)ち奉るや否や」「持ち奉るべし」という遣り取りも、日蓮宗の法要における経巻頂戴の儀式の台詞そのままであり、「乃至法界平等利益」もまた、日蓮宗の勤行の台詞です。

まあ、なんというか、先に勤行は二品読誦で一経読誦謗法だなんだという話がありますが、謗法を云々するのなら、行基の歌を日目の修行を謳ったなどと寝惚けた戯言を記したり、散華その他を日蓮宗からパクッたりするほうが、よほど、問題であろうと思った次第です。

七百年の伝統とか、富士の清流とか、祖道の恢復とか、聞こえは善いのですが、それぞれ結局、近代の捏造で、よくもすぐにばれるような作り物を「伝統」だなんだといって憚らないものだと改めて思った次第です。

2000なし:2006/05/09(火) 01:42:39
延暦寺本堂での散華を見た。身延もパクリかな。正倉院にもあるという。

2001なし:2006/05/09(火) 06:42:36
叡山、散華行道僧の衣がカラフル。身延は?
狩野派の日蓮像、衣が真っ赤。

2002犀角独歩:2006/05/09(火) 07:34:09

散華に関しては、2000、2001に言うとおりでしょう。
その元々は、他派に由来するのでしょう。

石山で散華の記述として、僧俗が誰しも知るのは、化儀抄の記述でしょう。

「経を読むに必ず散華有るべし信の時は法界妙法蓮華経なる故に一仏なり其の一仏の三身に供するなり、是れ即ち本門無作なり、天台宗に沙汰する本有の理智慈悲は理の無作なり」

わたしが着目していたのは、この日亨師の『註解』です。

「他宗にては厳儀の折などに・紙に製したる蓮華の葩を華籠に入れて・行道の僧童が参集の衆の頭を降らすことあり」

という一節です。つまり、紙で造った華(多くは蓮華の花弁を模す)を参集に降らすやり方は「他宗」であると言っている点です。ですから、「宗門古来の伝統」ではないだろうと言ってのことでした。

なお、化儀抄における散華は、石山の勤行では、経机の経本に置かれてある三枚葉の樒を、勤行の終わりに、一枚一枚に切り離すことを言います。
この三枚葉の樒の様もまた天台密教、密壇に置かれるものと同じ。つまり、そこが起原となっているのでしょう。

あと、他日蓮門下の日蓮像の衣は真っ赤なのではなく、緋衣。五位の朝服の色ということですが、この点は、わたしなどより、藤川さんがお詳しいところでしょう。

日蓮が終生、薄墨衣であったかどうか。わたしはやや決しかねますが、先に挙げた化儀抄、その他聞き書きを瞥見すると、薄墨、白五条袈裟は早い時期に定着していた如きです。ただし、ここで重要な点は「素絹」といった簡素な衣であるという点です。

「真っ赤」な衣が、批判されるのであれば、色ばかりは薄墨で、しかし、石山住職が着る衣など、100万とも数100万もするといわれる豪奢なものでしょう。これは日蓮の粗衣、名字折伏を示すという中世の自宗の化儀にも反するという批判は既に為されているところでしょう。

日蓮御影に、在世は、弟子檀那が着せることが出来なかった緋衣を着せ、報恩の志が非難されるべきことなのか、その御影像には在世当時を表す質素な薄墨衣を着せ、その前に座る石山住職は、桁違いの豪奢な衣を纏うことが是なのか、自宗に贔屓目を捨て考えてみるべき点です。

2003犀角独歩:2006/05/09(火) 12:07:32

やや補足しますが、緋衣が五位の朝服を法衣としたものであり、かつ、明治以前からそのような衣が着せられていたとすれば、これはその御影を祀る寺院が勝手に行ったことではないだろうと思われます。つまり、これは朝廷からの勅許なくしては、出来ないことであったろうという意味です。

日本という国は、後継者が既に故人になっている者の、生前の名誉を称揚するために、あたかも生者のように、官位、称号を朝廷に願うことが行われるという特殊な監修を有した国です。

帝都弘教を果たした日像お、既に故人の日蓮への大菩薩号を勅許の功は夙に著明なことです。また、近代では「明治天皇は、日露戦争のときに時宗の苦労を思いやられて、明治37年、勅使を円覚寺にある時宗の墓にお遣わしになって、四階級特進して従一位をご追贈なられた」(『日本史から見た日本人・古代編』(祥伝社)渡部昇一 P280)という話も伝わります。

また、日顕氏が、創価学会の願い出によって執行した故牧口常三郎氏第50回忌で、戒名を冷然院感徳日常居士から、冷然院感徳日常大居士に改めたと言うことがありました。

日蓮御影に緋衣を着せることが江戸時代までのことであれば、以上のような朝廷に対する正式な手続きを経ずしては行えることではなく、終生流人の汚名を背負った日蓮の名誉復権に苦心した門下の熱意がその衣と現れているということでしょう。しかし、近代では、このような官・衣は撤廃され、勝手に団体を興したものが自ら法皇を僭称するご時世ですから、御影に好き勝手な法衣を着せる風潮もまま見受けられるのかも知れません。また、僧位・法衣も各宗の独自性に任せられる故、これもまた、明治以前のような、一つの尺度にはならなくなったという一面もあります。

わたしは個人的には、御影は、日興の言とされる「影像を図する所詮は後代に知らせしめんが為」という精神は賛成するところが多く、ならば、当時の似姿を忠実に再現したものが至当であるという思いはあります。しかしこれは、あくまで、個人の嗜好と、希望の範囲を超えるものではないのであろうという襟度も記しておかなければならないかと存じます。

つぶやきスレッドなので、これくらいといたします。

2004犀角独歩:2006/05/09(火) 12:10:44

【2003の訂正】

誤)特殊な監修
正)特殊な慣習

2005ミカ:2006/05/09(火) 17:56:48
はじめまして。
こちらの掲示板は、以前から知っておりましたが、私が「自由な茶寮掲示板1F」にて、犀角独歩氏の著書を紹介をしましたが、あちらの掲示板で氏の著書に付いての議論があり、氏の名誉を傷つけかねない発言もありました。
この原因を招いたのは、私の責任でもあり、発言者、UWFさんがこちらで、反論をなされるように進めたしだいでありますので、ご迷惑かもしれませんが、こちらで議論する場をお貸し願いたく、ご挨拶がてら、書き込みをさせて頂きました。
犀角独歩氏にたいして、他の掲示板で名誉を傷つける発言の原因を招いた事を、ここでお詫び申し上げます。


「自由な茶寮掲示板1F」
http://mt.advenbbs.net/bbs/kensho.htm

2006顕正居士:2006/05/10(水) 06:48:16
素絹薄墨の衣に白五条の袈裟は天台宗からです。『有師談諸聞書』、『当家三衣抄』に詳しい。
これは律衣ではなく俗服、それも折伏(戦闘)用の僧兵の服です。日有師、日寛師は慈覚大師
以来としていますが、池田令道師は慈恵大師以来とし、それが正しいようです。
参考 『天台の教え』ページ9
http://www.shosha.or.jp/syukyou/main/tendai/osie/osie/osie9.htm
なお、日蓮は『八幡抄』に八幡大菩薩が伝教大師に授けたのが紫衣の起源だとしており、紫衣
などを否定していません。『三衣抄』もこれを会通できていない。薄墨・白五条は天台宗から来て
いるのですが、色袈裟の否定は神道、修験のほうからではないかと想像します。
参考 『風俗博物館』
http://www.iz2.or.jp/fukusyoku/

2007なし:2006/05/10(水) 07:00:52
散華の博識ご披露ありがとうございます。

儀式の淵源を尋ねれば誰かの創作でしょうから後にはすべてパクリでしょう。
学ぶの語源は真似ぶからだと聞いたことがあります。

>「宗門古来の伝統」ではないだろうと言ってのことでした

なるほど。

>日蓮御影に、在世は、弟子檀那が着せることが出来なかった緋衣を着せ、報恩の志が非難されるべきことなのか

報恩の志というよりみてくれ、世間気でしょう。アバタもえくぼに見えますか。緋衣の聖人、お弟子がカラフルの図、もう別世界でしょう。高価な法衣もご指摘どおりだとは思いますが。

>また、日顕氏が、創価学会の願い出によって執行した故牧口常三郎氏第50回忌で、戒名を冷然院感徳日常居士から、冷然院感徳日常大居士に改めたと言うことがありました。

これは初めて知りました。

>わたしは個人的には、御影は、日興の言とされる「影像を図する所詮は後代に知らせしめんが為」という精神は賛成するところが多く、ならば、当時の似姿を忠実に再現したものが至当であるという思いはあります。しかしこれは、あくまで、個人の嗜好と、希望の範囲を超えるものではないのであろうという襟度も記しておかなければならないかと存じます。

日興上人は御影信仰との論は取り下げられました。

興上御自筆の御遷化記録の文によれば、一体仏は御灰骨とともに、廟内に安置しおくべしとの大聖人の御遺言である。けっして、他に持ち出し、または帰敬の本尊仏となすべきでない。墓番の六老僧たちが、廟参のときの香華燈明供の時に記念の礼拝をなすべき、特別の宝物で墓所の内院に納まる御焼骨と同然のものである。(第59世日亨上人『富士日興上人詳伝

興師筆の御遷化記録には「仏は釈迦立像墓所の傍に立て置くべ し」とあるそうですが、ど素人の私にはこの程度でいいご処置でありこれ以上ではないように思いますが。

ブツブツとつぶやきです。

2008犀角独歩:2006/05/10(水) 08:04:44

2005 ミカさん

はじめまして。当掲示板にご訪問なされたことを歓迎いたします。

ご紹介の該当掲示板において、わたしの名誉が穢されたかどうか、現時点では判断をつきかねますので、謝罪を戴くまではないと判断しております。

やや瞥見しましたが、所謂「本門戒壇の大御本尊」と日寛が呼んだ彫刻品についての議論は、当掲示板ではほぼ落着し、すでに拙書でも落着したことです。
あとは、その事実を受け入れられるかどうかは、各人の健康な精神状態によるほかありません。特定信念体系に誣いられて、事実を事実と認められない人は、事実を受け入れられないという過悪において、事実に打ち捨てられ、その仮想現実の中で長い彷徨、つまり、虚偽の夢想の輪廻に陥り続けるほかないことを気の毒に思うばかりです。

該当の掲示板の、わたしに係る一連の遣り取りは瞥見しましたが、これは議論になっていません。つまり、わたしが提示した彫刻に関する事実鑑別についてのミカさんの投げかけに対して、回答側は、顕正会と同じ話法で、その質問に答えず、ただ悪口を以て、回答を回避しています。つまり、質問内容を悪口にすり替えて、答えることから逃げるという、よく見かける人格攻撃の論理のすり替えという常套手段を悪用しています。

また、このような回答回避を受けた側は、その起因、たとえばわたしの事実鑑別が議論の主眼であったところから、人格攻撃に係る論理のすり替えにはまって話がずれされる主題から脱線してしまうという事態に陥るわけです。

この悪辣な論法はしかし、該当掲示板のミカさんのご投稿に対してに限ることではなく、そもそも、顕正会の常套手段です。これに嵌っては肝心の議論ができないことになります。

彫刻が、日禅授与漫荼羅を原本とし、臨模作為された模造品であることは、わたしがサイトにアップした写真でも一目瞭然なのであって、もはや、そこに疑問を挟む余地はありません。反対者側は、その写真を見ることをせず、ただ、その提示者への悪口を以て、論理をすり替えています。その第一が浅井さんでしょう。

浅井さんの言うところに依れば、法道院で何度も日禅授与漫荼羅を観た、この論法自体、既にすり替えているわけです。観たが、それが彫刻の原本であると見抜けなかったのは、浅井さんの鑑識眼の能力が劣っていただけのことです。わたしは図形を以て鑑別したわけですから、その反論は図形を以て論じるそれ以外の反論の方法はないわけです。ところが彼は、「大謗法者」「魑魅魍魎」「学会くずれ」と口を極めて、わたしは悪口することで、この真偽鑑別を人格攻撃にすり替えたうえで、回答から逃げています。また、それを鵜呑みにする誣いられた人々は、その口真似・物真似を以て議論をすり替えるという連鎖に陥ってる自分の姿に気付かないでいます。

もっとも、顕正会員は、観たこともない彫刻を信じさせられているわけですから、その真偽を論じること事態、できるはずはありません。それを信じさせ議論を悪口にすり替える卑怯な論法を口真似するほか、何もできないのでしょう。

2009犀角独歩:2006/05/10(水) 08:05:39

―2008からつづく―

この結果が、わたしの名誉を傷つけたかどうか、いまのところ、子供が棒を振り回して自分が一番強いと思っている他愛なさとしか映じておりませんので、子供の“いきがり”に、腹を立てることは大人げないことなので、以上の分析に留めることにいたします。

ただし、昨年10月25日付『顕正新聞』における顕正会の公式発表、並びに浅井さんの前後の発言については、謂われない誹謗中傷であり、十分に名誉毀損に当たると判断すれば、名を挙げられたわたしのみならず、楠山泰道JSCPR代表理事、紀藤正樹弁護士とも協議のうえ、JSCPRに所属する弁護士複数を以て弁護団を結成し、オウム真理教、統一教会、法の華三法行、ライフスペースといったカルト団体を処理したきたことと同様、法的措置に訴える用意はあります。

しかし、人づて、新聞で見るばかりで、当人浅井さんから、わたしに直接、何ら言ってくるわけでもなく、ただ、わたしの知人を処分している悪口をして、それだけで終わる様は、ずいぶんと恐がりの人物だと、いと面白く感じるばかりです。次にアクションがあれば、裁判の当事者は、私設の掲示板で口真似をしている人々ではなく、ズバリ、裁判のターゲットは浅井さん本人です。

以上わたしの名誉に係ることとしかし、彫刻の真偽は、別問題です。

わたしが採用した該当の写真は熊田葦城著『日蓮上人』に掲載されたものです。わたしの批判者は、この原資料を確認しておらず、この写真自体から疑うというお話にならない稚拙さですので、この点については一言すれば、同書には、

「本門戒壇の大本尊…大石寺に宝蔵す由井一乗居士特に寄贈せらる」(『日蓮上人』P375)

とその写真の提供者を「由井一乗」であると明示してあります。
http://www.geocities.jp/saikakudoppo/siryoshu/nitirenshonin_p375.html

同氏は昭和4年に総講頭に日開氏が任命した人物です。『日蓮上人』の発刊は、明治44年のことです。

さらに、写真が発表されたことが事実であることは細井精道(のちの日達)氏が『悪書板本尊偽作論を粉砕す』(日蓮抄宗務院編)のなかで認めています。

また、わたしが使用した日禅授与漫荼羅の写真は、北山本門寺宝蔵調査で撮影されたものです。この北山所蔵漫荼羅と、大石寺所蔵の同漫荼羅が見分けがつかないことは堀日亨氏も認めたことでした。そのことから、この二体は相剥で分かたれたものであると目されるわけです。仮にこの二幅の相貌が不一致であっても、日蓮上人に載る「戒壇の大本尊」写真と日禅授与漫荼羅の相貌が一致していることは、既に鑑別したとおりです。

以上のことは、わたしの管見をご理解いただいている以上、屋上屋を重ねるところですが、取りあえず、記しました。

感情的、人格攻撃によって回答を避け、事実を認めない類の議論は時間の無駄ですから、こちらで、落ち着いた議論をされることをお薦めするものです。

2010犀角独歩:2006/05/10(水) 08:21:06

―2009からつづく―

ご承知のことと思いますが、彫刻に関しては2頁、わたしのHPは2箇所設けてあります。

何故わたしは、所謂「本門戒壇の大御本尊」の真偽を論じるのか
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Library/6963/doki.html

所謂「本門戒壇之大御本尊」の真偽について
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Library/6963/itamandarasingi.html

佛教再考
http://www.geocities.jp/saikakudoppo/

BLOG 犀の角のように独り歩め
http://blog.livedoor.jp/saikakudoppo/

2011犀角独歩:2006/05/10(水) 08:44:31

2007 なしさん

できれば、何かHNをお決めになって落ち着いて議論されては如何でしょうか。
ここは、つぶやきですから、議論はNG。ですから、感想程度に、以下、留めます。必要があれば、適切なスレッドに移動して、議論を続けたいと希望します。

> …パクリ…学ぶ・真似ぶ

は、御説のとおりでしょうが、わたしが「パクリ」と慨歎したのは、そのパクリ元を謗法だなんだと誹謗したうえで物真似をしているからです。これは学ぶ姿勢とは言えません。「盗人猛々しい」という非難の対象だろうという意味です。

> 報恩の志というよりみてくれ、世間気でしょう

それは、なしさんの個人的な勘繰りでしょう。
世間一般でも親が年を取れば、赤いちゃんちゃんこを着せるといった風習はあります。それは親孝行からの思い、報恩であるのに、世間気といってしまえば、その志は潰えます。

たとえば、日蓮の『立正安国論』が認められ、国士と認められ、朝廷の帰依も受け、官位を衣を下賜されたとしたらどうでしょうか。それを日蓮は拒否したでしょうか。わたしは、むしろ、当初の日蓮は、国師を標榜していたと思えます。となれば、それを否定する言われもないことになります。そんな拒否するぐらいであれば、そもそも、坊さんスタイル、頭を剃って、袈裟衣を着て沙門と名乗る世間気自体から否定すればよいわけです。薄墨=折伏ということ自体、後付の日蓮潤色のみてくれじゃないでしょうか。

> 日興上人は御影信仰との論は取り下げられました。

ええ、これは仰るとおりです。

> …仏は釈迦立像墓所の傍に立て置くべ し

この点ですが、恰も釈迦仏像の扱いを、この文献が既定しているような誤解があるとわたしは考えます。この釈迦像を墓所に置けとされたのは、これが日蓮手製の持仏、すなわち、日蓮個人の本尊だからです。

このような慣習は今でも行われていますが、堂塔伽藍に奉安される本尊と、各人が個人的に護本尊として所有する持仏とは、その性質が違います。
これを同等に論じるなど、石山で下付する個人用のお守り本尊を、本門戒壇の大御本尊として戒壇堂に懸けることだと言っているようなものです。ナンセンスな、勘違いというほかありません。

2012藤川一郎:2006/05/10(水) 11:27:03
薄墨色というのは、面白い。
天皇陛下の衣冠束帯は通常「黒色」であるが、仏門への帰依を顕すときに着用されるのは薄墨色です。
また、伊勢神宮や色々な場所への勅許が下される場合、各種色彩に施された詔書(用紙)が下されますが、
最高神を祀る社である伊勢神宮への詔書の色が薄墨色であります。

つまり、宮中でも特別な意味を持つのが「薄墨色」なのです。

2014犀角独歩:2006/05/10(水) 17:07:23

探したら、石山で七百遠忌の時にもらった散華が出てきたので、日蓮宗のものと並べてみました。

右が日蓮宗、左が石山。描いてあることに違いはありますが、その形は、そっくりです。

http://www.geocities.jp/saikakudoppo/siryoshu/sange_hikaku.html

2015ミカ:2006/05/11(木) 00:22:43
犀角独歩氏へ。
暖かいお言葉ありがとうございます。
犀角独歩氏の「本門戒壇の大御本尊」の書籍を紹介したかいがあります。
顕正会の掲示板では、散々に言われておりますが、いくら騒いでも、証拠を持って反論証明できないのが現状であり、なにを言われても説得力がないと思っております。
顕正会員として、会長の発言矛盾等指摘しても、何の回答も反応も出来ない、同じ会員としては情けない限りです。
私もこちらに参加して反論でもと思いましたが、次元が違いすぎて無理なので、閲覧専門になります。(汗)
こちらの顕正会のスレットでも、反論できる余地が恥ずかしいですが、微塵もございません。

私信の板汚しになって申し訳ございませんが、ご了承の程お願い申し上げます。

2016なし:2006/05/11(木) 01:05:14
>2007 

失礼だとは思いますが、お許しを、削除は受け入れますので
お説を疑問に思うことはあるのですが議論などとてもできないのです。

散華の写真ありがとうございます。左右が逆では?
大石寺の行道散華、堀上人以前はなかったのでしょうね。


世間と出世間とを同列視して飛躍した譬えのように思います。
世間の人は僧の中身より位階に平伏します。出世間に住しながら行態、思考が世間気の僧も数多見かけます。

仮定の上でなんですがセンダラが子と国師の両極の気位をお持ちの聖人、下賜をそのまま応諾されるでしょうか。階位などなくてよしと、ましてや五位の位階などと。  勝手な想像です。


>日蓮手製の持仏、
海中出現と聞きましたがお手製の証拠はどんなものなのですか。

信徒の釈迦像造立は個人の礼拝用の域であれば信心増幅のためお許しあったのではと、これまた自己流解釈です。

波木井氏の釈迦像建立は日興上人身延離山の理由の一つでした。

2017犀角独歩:2006/05/11(木) 01:45:07

なしさん

散華の写真、たしかに左右逆でした。

>大石寺の行道散華、堀上人以前はなかったのでしょうね。

先の資料からするとそういうことになりますね。

> 世間と出世間とを同列視して飛躍した譬え

そうでしょうか。僧侶というのは、何時の時代にも日本では、国家認可ですよ。
日興にしても、四十九院の供僧でしたし、日目その他にしても、自分の領地を持っていたわけです。そんな歴史は知りませんか。まさか、坊さんは、供養だけで食べていると思っていますか。

> 階位などなくてよしと、ましてや五位の位階などと。

では、なぜ公卿の弟子が多いんでしょうね。新田卿の日目、日尊みんなその類ではないでしょうか。また、出世間といいながら、日興は公家天奏しない、いや、できなかった。武士の出身だからでしょう。しかし、日目、日尊はできました。出身が公卿だからでしょう。(まあ、大雑把な表現ですが)
ここで問題です。では、日蓮が「センダラ」の身で、国家祈祷をできるんでしょうか。日蓮にその気があっても、当時の日本社会構造はそれを許さなかったでしょう。そんなことは日蓮は百も承知で、立正安国論ではないでしょうか。つまり、日蓮の出身には謎があるということです。
では、国師とはどういう意味か? あの当時、民衆凱歌なんかありえません。国家祈願、本門戒壇、それが階位なくしてできるなんて、非現実的な議論でしょう。
現在の民主儀と鎌倉時代を混同しては現実は見えません。

>>日蓮手製の持仏、
> 海中出現と聞きましたがお手製の証拠はどんなものなのですか。

この点は、つい最近、投稿し、れんさんの補完も受けたことです。
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/364/1039933512/1972-1973

> 信徒の釈迦像造立は個人の礼拝用の域であれば信心増幅のためお許しあったのではと、これまた自己流解釈です。

当たらずとも遠からずでしょう。
その個人用の隋身仏を日蓮も持っていた問い事です。

> 波木井氏の釈迦像建立は日興上人身延離山の理由の一つでした。

そうですね。しかし、これは釈迦立像建立が離山の理由ではなく、(多分、日蓮手製の)隋身仏が持ちされたからといって、第二転、つまり、その身代わり複製を建立したことに対する抗議、さらに日興は仏像は一尊四士であるという持論を持っていたので、一体仏であるという、以上二つの理由から、これに抗議したことでした。以下、その文献です。

「日興が申す様には、せめて故聖人安置の仏にて候わさばさも候いなん。
 それも其の仏は上行等の脇士も無く始成の仏に候いき、其の上其れは大国阿闍梨の取り奉り候いぬ、なにのほしなさに第二転の始成無常の仏のほしく渡らせ給うべき」(原殿御返事)

刷り込まれた集団のご都合アナウンスを自分で考えたことのように思わないことです。そして、集団のいうことは疑って、位置から自分で考え直してみることが大切です。少なくても、ここで長らく書いている人は、みな、その道を通ってきました。

2018犀角独歩:2006/05/11(木) 01:46:37

【2014の訂正】

誤)右が日蓮宗、左が石山。
正)左が日蓮宗、右が石山。

http://www.geocities.jp/saikakudoppo/siryoshu/sange_hikaku.html

2019犀角独歩:2006/05/11(木) 02:01:55

【2017の訂正】

誤)現在の民主儀
正)現在の民主主義

2020犀角独歩:2006/05/11(木) 02:33:34

持仏は、日蓮手製であること
http://www.geocities.jp/saikakudoppo/siryoshu/nitirenteseinobutuzo.html

2021なし:2006/05/11(木) 06:39:41
>現在の民主主儀と鎌倉時代を混同しては現実は見えません。

ご指摘のとおりですね。ありがとうございました。出家の原点はことごとくを捨て去る事から始まると思っていましたが
世の中は認めてくれない。優秀な僧侶にはジレンマもあったでしょうね。 大甘でありました。


聖人手製の持仏、証拠の提示ありがとうございます。伝承鵜呑みはあぶない。


波木井氏の釈迦像建立についての文献提示ありがとうございます。よくわかりました。

御文は強い、後世に残すことに尽力された日興上人のご功績は計り知れない。有難い事です。


>刷り込まれた集団のご都合アナウンスを自分で考えたことのように思わないことです。そして、集団のいうことは疑って、位置から自分で考え直してみることが大切です。少なくても、ここで長らく書いている人は、みな、その道を通ってきました。

心しているつもりです。
恥のさらしついでにもう一つ。
独歩さんの日目上人の評価が気に入らないのです。聞くところではば問答第一であられたという。
天奏でお尋ねあった時、問答に詰まってはお話にならないのでは。

2022犀角独歩:2006/05/11(木) 10:36:59

なしさん

まあ、気に入らないと、言われても困ります(笑)

さて、この「問答第一」「天奏」という2点に就き、あなたの思いは矛盾していませんか。伝説によれば、日目は42度の天奏を行ったといいますね。(『五段荒量』等)最後は美濃で臨終されたわけですから41度ということになりましょうか。41度です。では、あなたがいうとおり、問答第一ならば、そこで問答がされ、相手が納得しなかったのならば、これでは、まるで問答第一ということになりませんが、どうでしょうか。

さきにれんさんが、日目に取り立てた教学的な特徴を見られないのは、むしろ、日蓮、また、日興の教えを忠実に継承したからではないか、顕正居士さんがご指摘されるとおり、特に著書が伝わらないわけです。それでも、日目の様を伝える伝記は古く、『御伝土代』に見られます。

「大聖仰せに云く。卿公問答せよ…聖感あつて云くさればこそ日蓮が見知りてこそ卿公をば出たれと云云」

この記事を見る限り、日蓮は、日目の問答能力を高く評価していたことが知られます。また、これは『家中抄』日目伝では「小日蓮」さらに「肉牙」問答第一の証に脱けた歯を下す(御肉牙)へと潤色されていきます。このようなところから、日目の問答第一の伝説は出来上がって言ったのでしょう。

わたしが日目の教学力に疑義を唱えたのは、問答第一という側面ではありません。概ね二つです。一つは、日目は日興在世の時から既に本尊を認めています。これは石山流の師弟の筋目に反しないかということです。もう一点は、日蓮の漫荼羅は「書写」の二文字がないことは、当掲示板でも話題に上ったことで、これは本尊書写のとしては、ルール違反ではないのかという点です。問答についてではありません。

問答というのは、勝ったほうが教学力も、信心もあると看做されることになりますが、わたしは問答の勝敗と、述べる教学の是非は別問題であると考えます。単に口がうまく、場を握れば、問答には勝つことができるからです。その好例が半世紀前の小樽問答の創価学会の勝利です。ここでなされた問答内容の学会側の主張はまさに噴飯ものですが、しかし、見かけでは学会の圧勝ということになります。しかし、その勝利に際し、主張された内容は、少しも日蓮の教学といえるものではなく、「本門戒壇の大御本尊」も偽物でした。

日目が問答第一であったか、懐く教学の日蓮を継承したものであったのか、今のところ、資料が乏しくその落着は困難であろうかと思います。

さて、前置きが長くなりましたが、なしさんは、一つの固定観念に基づいて天奏を考えているのではないでしょうか。それはつまり、問答が巧みで天奏して問答して朝廷を納得させれば、日蓮の教えに帰依する。これがまず、言われてきた物語を鵜呑みにしてしまったことによる判断の誤りの第一です。

当時のの事情、文献をから考えるとき、天奏とは、大雑把に現在の事例で類似形の探ると、いわば、宗教法人の許認可、また、朝廷、もしくは武家からの供養の確保という点に、実利面に重点があることがわかります。今の時代と違い、書類の手数料を出して、認可を待つというわけにはいきません。公の長、武の長と、直接掛け合って、弘教の安堵、寺領の安堵、経済支援を願うという具体的な嘆願が天奏であったというのが、当時の文献から窺える実像です。まあ、そこで問答に巧み(口がうまい?)というのは、他から抜きん出る意味でも、口下手より有利でしょうが、しかし、絶対要件ではないでしょう。

ですから、日目が問答第一であったかどうかと、天奏とは、直接、脈絡のないことであるとわたしは思いますが如何でしょうか。

2023犀角独歩:2006/05/11(木) 13:19:49

2020に就き、「船守弥三郎許御書にある」というメールを頂戴しましたので、ご本人の許可をいただき、その後指摘を紹介させていただくと共にこの点を記します。

『船守弥三郎許御書』に「海中いろくづの中より出現の仏体を日蓮にたまわる事」(定230)

この一節から、持仏は海中出現であるというのが、その反論でした。
わたしは、これを類推解釈であると思うわけです。「仏体」とあって、仏像とはないからです。
同御書は真蹟を遺さず、その内容からとても日蓮の真筆とは思えません。しかし、仮にここに記される出現の仏体という伝説が事実であったとしても、それが直ちに仏像であるということにはならないと考えます。

むしろ、ここで日蓮がたまわったとするのは、「海の定木」であり、それを仏像に刻んだゆえに仏(の)体としたという類推は成り立ちます。

漫荼羅正意論からは見えない日蓮の伊東流罪の心情があります。
当時は、当然、漫荼羅図示を日蓮は始めていません。日蓮が伊東で実際に過ごした場所はどのようなところであったのか、憶測の域を出ませんが、幼少より仏教に慣れ親しみ、虚空蔵菩薩に願もかけ、弥陀仏を簡んで釈迦を崇めた日蓮は、仏教の僧侶として、当然、仏像は崇敬の対象であったでしょう。

しかし、流人として流された日蓮の寓居は同宇ではなかった。当然、そこには仏像もないような場所であったのだろうと想像できます。

漫荼羅正意論者が、家に本尊がないことを寂しく不安に思うように、仏教僧として、仏像のない場所での暮らしは、どれほど、心細いものであったのか、わたしは、そんな流地伊東で流人の身上で日々を送った日蓮を想像します。そこで、海に浮かぶ一木を献上された日蓮は、自らの思いを篭めて一体の仏像を彫り、それを持仏として充て、無仏の寓居で、流罪を越した…。その苦しみを共にした手製の持仏を日蓮は、終生、大切に身に帯し、死んで身延に墓所を希望するに及んでも、身が荼毘に付されて骨となっても、その辛苦を共にした持仏を墓の傍らに置いて欲しいと願ったというのが、その日蓮の心情であったのではないでしょうか。

この持仏彫刻の伝承は、しかし、重須文献に見られる富士方が護るところであったのに、その後、徐々に漫荼羅正意に傾いた門派では、日蓮が自ら仏像を彫ったという伝説はまことに都合が悪いところであり、ゆえに今日では文献が残っているのにもかかわらず、語られるところがないことになったのであろうとも思えます。

いくえにも日蓮の痛みが伝わる顛末であると、わたしには思えます。

2024犀角独歩:2006/05/11(木) 13:42:09

ところで、この海中出現仏像伝説というのは、日蓮門下に限らず、むしろ、他で先行して、その物語があります。
なぜか、仏像の海中出現の仏像の伝説は古今東西に聞かれるのですが、こんな物語の延長で船守弥三郎献上の海中出現の仏像伝説も紡がれたのであろうと思われます。
彰往考来さんが得意とされるテーマと感じます。


「推古天皇36(628)年に土地の漁師、浜成・竹成の兄弟が投網で聖観世音菩薩像を海中から拾い、土師真中知が居宅を寺として奉安」
http://masuda91.hp.infoseek.co.jp/page07b.html

「白鳳元年3月15日、この地の漁船が八幡浦で難風に遭ったとき、荒れる海中より出現した阿弥陀仏像を、船にお載せ」
http://www.jodo-chiba.jp/contents/syokai/4088_muryoji.htm

「閻浮檀金釋迦如来像…唐代貞観十九年(646年)
下関赤間ヶ渕の海中出現の金像」
http://www.kcn-net.org/senior/tsushin/ttemple/y04/0409taka/jihou.htm

「普賢寺は平安時代、寛弘3年(1006)の創建で、開山は播州書写山円教寺の性空上人(910〜1007)といわれる。本尊の普賢菩薩像は海中から出現したという生身の霊仏」
http://www.kvision.ne.jp/~h-kanko/new-hp/bunkazai.htm

貞和3年(1347)「柴村の漁師が海中にまばゆいばかりの光を放つ物を見付け、村人たちは光をたよりに恐る恐る網を入れた。と、その光の主こそ、大津波のとき身替りになった長浜の観音さまだったのである。
 長年、海中に沈んでいたためカキ殻が一面に付着。村人は「貝付<かいつき>観音」といい、別に「海中出現の観音」とも呼んだ」
http://www1.seaple.icc.ne.jp/kusuyama/3burakana/21/21.htm

「応安元年(1368)妙謙和尚によって、開かれたといわれ、本尊の毘沙門天は、行基の作と伝えられています。この毘沙門天は、海中出現の像」
http://www.d5.dion.ne.jp/~ikeyoko/M-MIURASI-B.htm

「済鱗寺…1570)に海中より出現の阿弥陀仏像を本尊」
http://www.kcc.zaq.ne.jp/sitihukujin/sairinnji.htm

等々

2025藤川一郎:2006/05/11(木) 16:13:03
京都のIH法衣店にて、法衣の作成をする場合、一番出しにくいのが「薄墨色」だそうです。
一見逆のようですが、この微妙な色は出すのが難しい。
ネズミ色は簡単に出来ますが、薄墨色は難しく手間もかかるそうです(同一ではありません)。
一見派手な色の方が、染めが簡単だそうです。

だから究極の薄墨色の衣を作るとすると、最大の金額の物も作れるのですが、残念なことに日蓮正宗ですらそこまでの法衣は作ってくれないそうです。
それを宮中御依頼で作成するのが、数十年に一度だそうです。

2026れん:2006/05/11(木) 19:14:12
なしさん、初めまして。
目師の教学については、独歩さんのご指摘の通り、目師自身の著作は殆どなく、目師による日蓮聖人の御遺文の写本も、一代聖教大意(保田妙本寺蔵)・法華経題目抄(柳目妙教寺蔵)・四信五品抄(富士大石寺蔵)・法華取要抄(富士大石寺蔵)が伝承されるのみです。もっとも四信五品抄については奥書に「弘安元年五月二日」とあり、日蓮聖人在世、恐らく身延山での書写でしょうから、日蓮聖人から、この書の法義について何らかの教示を受けた可能性の推定は可能でしょう。ともかく目師が自身の日蓮聖人の教学に対する認識を披瀝した文献は現存しないので、現在、独歩さんが要約してくださった視点に落着しています。
一応の参考資料を提示すれば目師の孫弟子の郷門の日叡師の類聚記には「大上人御出世御本懐御法門日目上人御相承ハ弘安五年正月一日也云々」とあり、また同師の後信抄に「師傳ニ又本佛、本戒、本尊等の大事アリ、可秘可秘」とあり、上記の法門伝授が行われたことが上代目師門下に確認出来ます。道師門でも、大同の法門が伝承されていた模様でこちらは耳引法門として纏められたようですね(石山三十一代日因師の三四月会合抄に引用される日目直授相承〈三口一徹の相伝〉はその一部分の可能性があるかもしれません)。ただし郷門のそれは貫首一人の秘伝というわけではなく、日叡にも伝承されていた訳ですから当器伝授という位置付けだったと思います。
目師の問答については、日叡師の兄弟の慶俊師の写本を底本としたという戦国期の写本を翻刻した「問答記録」にありますね。目師筆の本尊には、現在公開されている三幅の御筆写真には「書写之」が記されてないのは、どういうわけによるものか、釈然としないものがありますね。まあ、図顕といった意識の方が強かったのかもしれません。

2027なし:2006/05/11(木) 20:01:41
先ほど帰ってきました。とりあえず1行だけ
お会式で読まれる申状はどんな位置づけなのでしょう。


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