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法華経について

1管理者:2002/08/29(木) 17:45

スレッドテーマのご提案がありましたので、立ち上げます。提案文は以下の通り。

14 名前: いちりん 投稿日: 2002/08/29(木) 12:41

『法華経』について、なんでも語り合うというスレッドを希望します。

2いちりん:2002/08/29(木) 17:55

ブッダが悟りを開いた地であるブッダガヤから、北に100キロくらいのところに、ラージギールという村がある。
そこは、ブッダが晩年を過ごしたマガダ王国の首都(王舎城・ラージャグリハ)だったところ。このラージャグリハが、いまのラージギールだ。

ちなみに、そこから北に13キロくらいのところに、ナーランダ寺院がある。そこでは、700年間も仏教研究がされていたという。はるばる、玄奘が中国から来て、唯識などを学んだりもした

そのラージギールに、霊鷲山がある。
インド人は、霊鷲山のことをグリッタクータと発音していた。
サンスクリットでGrdra-kuta(グリッドラ・クータ)。そこから「ぎしゃくっせん」という音写がでてた。Grdraというのは、禿鷲の意味だとか。

きっと禿鷲が飛び交うような山だからも、霊鷲山と呼んだのだろうかと思っていたら、ふもとを歩いていて、分かった。

それは山頂の形が、鷲に見えるのだ。鷲のクチバシと羽根を広げたような形をしている。ああ、なるほど、それで霊鷲山かと。

3いちりん:2002/08/29(木) 17:59

『法華経』が説かれたのは、霊鷲山だ。浄土三部経も、霊鷲山で説かれている。さらには、禅宗で語り継がれている、拈華微笑の法門も霊鷲山だ。

その意味では、天台宗、日蓮宗、浄土宗、浄土真宗、曹洞宗、臨済宗などとの日本仏教にとって、きわめて大切な地が、この霊鷲山である。

さて、その『法華経』であるが、その説法の、会座には、おびただしい数の聴衆が参列する。

序品には、「大比丘衆、万二千人」「学無学、二千人」「菩薩摩訶薩八万人」「「釈提桓因、其の眷属二万の天子」「自在天子、大自在天子、其の眷属三万の天子」……とキリがないのでやめるが、なにしろすごい数。まあ二十万人〜何百万人くらいだろうか。

しかも、人間ばかりではない。菩薩から天界の神々から、修羅とか竜王みたいなものから、いろんな衆生が集い来ていた。文字通り読めば、ものすごく広大なスペースが必要になる。

ところが実際に、霊鷲山の山頂に行くと、せいぜい数十人くらいが座れるスペースしかない。高く険しい山でもなく、サンダル履きでわりと簡単に登れてれてしまう。途中まで私はロバに乗っていったが。

隣の山は、霊鷲山よりも高い山で、リフトなんかがついていて、インド人の観光客はそちらに行っていた。その山の山頂には、日本山妙法寺のお寺があって、一日中、太鼓叩いて南無妙法蓮華経と唱えていた。インドの人たちは、霊鷲山にはほとんど思い入れもないから、日本山妙法寺のお寺の方が珍しいみたいだ。

「霊山一会厳然未散」(霊山一会、厳然として未だ散らず)
「常住此説法」(常に此に住して法を説く)

このように釈迦が法華経で説いているので、法華に縁のある人は、霊鷲山はとても思い入れがある山だ。ま、しかし、実際に行くと。やはりイメージは崩れてしまう。

インドの人たちは、シヴァ神とか偉大な神々は、ヒマラヤに住んでいると思っている。

カイラス山とか、カンチェンジュンガとか、やはりすごい。
サンダル履きで登れる霊鷲山とちがって、かたや8000メートル級の山だ。ヒマラヤの頂を遠くから眺めていると、なるほどなあ、たしかに神々しい。神さまがほんとに居そうだわいと感じる。

4現時点:2002/08/29(木) 21:27
霊山一会厳然未散

この言葉は、どのように理解すればよろしいでしょうか。

教えていただければ幸いです。

5五月雨:2002/08/29(木) 22:30
いちりんさんは霊鷲山を直に見てこられたのですか!スゴイですね。
私はヒマラヤみたいにドドーンと大きな山を想像していました。確か六万恒河沙の地涌の菩薩が出現した所ですよね。せいぜい数十人くらいが座れるスペースでは困りますね。山から相当数がこぼれ落ちた事でしょう(笑)後世で法華経を書いた人々は、霊鷲山を見たことが無いのでしょうか。もっと霊鷲山のお話を聞かせて下さい。

6いちりん:2002/08/29(木) 22:45
ここに、霊鷲山の写真があります。
ここが頂上ですから、写真では50人くらいが正座すると、もういっぱいですね。

http://www2g.biglobe.ne.jp/~koetsu/india/budha3.htm
http://www5.ocn.ne.jp/~seigadou/india1.html

7いちりん:2002/08/30(金) 11:13
『法華経』じたいは、お釈迦さまが亡くなって、おそらく五百年後あたりにできたお経なんでしょうね。
お釈迦さまが、あのあたりにおられたのはたしかですね。王舎城もあるし、祇園精舎も近くですし、ブッダガヤも近くです。
実際に、霊鷲山では説法されたかも知れません。

まあ、お弟子さんが、どれくらい居たのかわかりませんが。第一次仏典結集のときには、五百人の覚醒者(阿羅漢)がいたことになっています。

ともあれ、生きたお釈迦さまがおられて、百人くらいの出家の弟子がいたんでしょうね。それで、日々、瞑想と説法をされていた。

そのことを素材にして、数百年後に、大乗仏教が語られると、ものすごいSFXみたいになってしまうわけです。

たとえば、「見宝塔品」あたりを読みますと、────

地中から、高さ五百由旬、縦横二百五十由旬の七宝づくりの塔が湧き出し空中に留まったとか。
娑婆世界は一変し清浄な世界となり、諸佛が集まって来て、高さ五百由旬の宝樹の下の五由旬のところにある獅子座に座った。
各方面にいた釈尊の分身が、八方に座した。十方の四百萬億那由他の国土(星)に諸佛が遍満しているのが見える。

この宝塔なんてのも、おそらく地球的な規模の巨大さかも知れません。そうして、この銀河系宇宙のみならずあらゆる宇宙からの仏さんが来集するわけですね。

こういうお話を、もすこし自分たちのイメージに近づけると、────

日蓮さんが亡くなって、七百五十年くらいたちますよね。で、その日蓮さんが説法したというお話を、いまの平成のときに、経典であらわす人たちがいる。
まあ、日興さんあたりが、「わたしは師匠からこのように聞きました」という語りで、あらわすようなスタイルですね。すべての経典は、弟子の阿難が、お釈迦さまから聞いたことを話すというスタイルです。

そのものがたりは、身延山の庵に、何千万人という人が集まり、全宇宙の仏やら菩薩が集まる。そして、日蓮さんは、眉間からレーザービームのような光を発して、全宇宙を照らして浄化する。東京ドームの一億倍くらい巨大な宝塔がにょきにょきと現れる。
空中にどわーーと浮遊して、そこから説法される。で、聞いている大衆も、あれあれいう間に、空中に浮かんでしまう。

そんなものがたりが、真実だとして、書かれる。そして、それが外国に伝わって、翻訳されて。ものすごい金言として大切にされてゆく。

そうして、あるとき身延山の日蓮さんの庵の後を訪ねてみたら、まあ5DKくらいの、日の当たらない湿気の多い場所であった。

……とまあ、そういう感じでしょうか。

8現時点:2002/08/31(土) 00:22

いやぁ、日蓮さんの眉間からレーザービームが、どわー、これには大笑いしてしまいました。

まったくもって、法華経製作者は、何を考えていたんでしょうかねぇ。空想にもほどがあるって言うものですね。

9いちりん:2002/08/31(土) 00:53

わたしは大乗経典は、リアリティとして読みません。
ひとつのまあ、文学作品、宗教文学、あるいは壮大な詩としてとらえています。なので、
──いかに「幻」=ファンタジーとしての構成が豊かであるか──
というところで、とらえています。
そうすると、『法華経』というのは、数多くの経典の中で、白眉だとは思いますね。

で、大切なのは、やはり感性でとらえることだと思っています。
天台がこうたら、妙楽がああたら、なんとかの釈によるとこうで、かの先生はこういっておられて、……とえんなえんとやっていますと、疲れて感性が摩滅して、大切なハートが死にますね。

で、ハートが死ぬと、『法華経』の蓮の花はしぼんでしまいますでしょう。
しぼんだ華の数を、八つだのいや九つだ、種が先か実が先か、根っこがああでとやっても、意味がないのでしょうね。

賢治は、こう書いています。
「大きな勇気を出して、すべのいきものの、ほんとうの幸福をさがさなければいけない。
それは、ナム・サダルマ・プンダリーカ・スートラというものである」

わたしは、『法華経』というとき、いつも、サダルマ・プンダリーカ・スートラ
──白い蓮の華が、朝の光に照らされて開く──
というイメージを持っています。

10一字三礼:2002/08/31(土) 21:55

>で、大切なのは、やはり感性でとらえることだと思っています。

創○学会や○華講でよく見かける、没個性的で少し歪んだ日蓮主義者に対しては、このような視点から法華経をとらえ直す必要もあるのかもしれません。

しかし、法華経で繰り返し主張されている事は、法華経自身に対する信心・崇拝と殉教精神であろうと思います。
そして、ほんの少しでも実際にこれを行なおうとするとかなり厳しい教えです。

修行という言葉があります。
剣術修行とは、一心に打ち込んで、長年かかって体得出来るか、出来ないかの技と境地を、それこそ命懸けで目指す事を言います。

仏道もまた、蓮祖聖人の御一生を読むかぎり、命懸けの修行と呼ぶに相応しい壮絶な厳しさを持ち合わせるものではないでしょうか。

この間、テレビで中東の事をやっていました。中途半端に見たので、なんの番組か解からなかったのですが。

そこに1人のムスリムが出ていました。その彼は、日本人撮影スタッフ達と少し言葉を交わしていたようですが、突然、メッカの方向を向いて礼拝を始めたのです。
それを見ていた日本人スタッフ達は驚きながらも、その姿をカメラに収めました。

沈む夕日と低い山々、無限に広がる荒涼とした砂漠の中で、無心に礼拝を繰り返す1人の老人が映し出されていました。

その映像を見ながら、私は蓮祖聖人も厳しい修行、純粋無染の信心による絶対的な孤独の中で、法華経を通して、ただひとりで、雖近而不見の仏と向かい合い、深い法悦を得られたのではないか、と想像しました。

そしてそれは宗教の別にかかわらず、本来の信仰者とはこういうものではないのか、と考えさせられました。

11いちりん:2002/08/31(土) 22:31
>法華経自身に対する信心・崇拝と殉教精神

それって、具体的にいいますと、なんなのでしょうね。
一字三礼さんの、自らの体験を通して、なにかいいあらわせるものが、ありますでしょうか。

12一字三礼:2002/09/05(木) 12:00
>それって、具体的にいいますと、なんなのでしょうね。

個人的体験とは、少し違いますが。

私が蓮祖聖人の準じた法華経第一主義に惹かれる理由の一つは、現代人の持つ無意識な傲慢さ、に対する反動かもしれません。

人と話をするなかで、「私は無神論者だから」という言葉をよく聞きます。その人に「では、あなたの無神論を聞かせてください」と尋ねても、“論”など持っている方は皆無でした。

ようするに“無知神論者”が“無神論者”を装っているのです。

これに類する事は、現代人の仏法に対する姿勢にもあてはまるように思えるのです。

宗教について何らの知識や定見が無くても、
“仏法だから平和主義なはずだ”とか“世界宗教であるから差別は説いていないはずだ”などと言う根拠の無い個人的思いこみを判断材料にするいい加減な態度。

また、ややもするとその成立理由や成立国、根本主張がまったく異なる幾つかの宗教に書かれている、似たような内容の言葉を引用して、さも人類普遍的に共通な教説であるかのような錯覚をしている、私の友人などを見ていて感じる事です。

これなどは、まるでカルチャースクールで講座を選ぶように、気に入った宗教や仏様の気に入った部分だけを使い、それ以外は無視する、もしくは捨てるようなものです。

雑多な情報に晒されている現代人の、学ぶ事に対する怠慢・軽視が、このような傲慢ともとれる態度に繋がっているように思えるのです。

それでも、どのように素晴らしい教えであれ、最終的に自分の宗教を選択するのは個人の感性よるとは思います。

しかし、感性とは、倫理観の指針などを吟味して得られるものではないので、客観的な評価とは無縁なものです。つまりそれは、社会に害をもたらす思想であっても、容認してしまう危険性もあると言う事ではないでしょうか。

いちりんさんの様に、さまざまな修行をご自分でなさって、確固とした宗教観を持たれてる方であれば、その研ぎ澄まされた感性は信用出来ること納得します。

でも、たとえば私のような者では感性に随えば、ただ宗教に迷うだけになりそうです。(笑)

13一字三礼:2002/09/11(水) 23:11

霊鷲山について

玄奘三蔵の「大唐西域記」によれば、実際に釈尊が弟子達に説法した場所は、霊鷲山の頂上ではなく、もう少ししたの平らな所であったと書いています。

また、僧達が起居していたのは中腹にある横穴群であったようです。
(私は現地に行っていないので、確かな事はわかりませんが)

6〜7世紀頃、色々な国から僧侶達が、王舎城を目指して巡礼に訪れ、霊鷲山を見上げて涙を流し、感極まって悶絶した、とも記されています。

まあ、やって来た僧侶全員が悶絶していたら大変ですが、ようするに仏教徒にとって4大聖地に匹敵するほどの霊場だったでしょう。

14犀角独歩:2002/09/11(水) 23:51

なんだか、ここのスレッドって、こっぱずかしいんですね。
かつて、私が「法華経は最高だ」とか人に言っていた時、私、実は妙法華の方便品と寿量品しか読んでいなかったなんて、経験があるわけです。

大石寺・学会の家に生まれた私は「法華経が最高。他は邪教」こんな感じで育ちましたから、他の経典なんか、読んだこともない、それどころか、法華経でも、妙法華の方便品と寿量品しか読んだことないくせに、偉そうに「法華経が最高なんだ」とか高飛車に言っていたわけです。もう、思い出すと、穴に入りたいというか、冷や汗が全身が吹き出すような恥ずかしさを覚えるわけです。他の経典を読んだこともないくせに「法華経が最高」と言っていたわけです。

ところが法華経は早くて世紀前100年頃から、遅い説だと西暦50年頃から、アフガニスタン当たりで創られたもの。シャキャムニとぜんぜん関係ないわけです。後世の創作ですね。

自分が言っていたことなんて、、色々な経典を読み比べて「法華経はすごい」じゃないわけです。…… 私自身のことですよ、他の人のことを言っているわけではありません …… 法華経しか知らない、でも「大聖人はそう仰っている」で、「法華経は最高の経典」と言っていた自分がいるわけです。自分のことですよ。「こいつはほんとに井の中の蛙」、ほんとに「世間知らずのアホ」でした。

いまどき、「法華経は釈尊が説いたものだ」なんて言ったら、「あれまああ、お気の毒」と大笑いされるのが落ちですからね。

どこぞの教団は、いまでも教学試験で五時八教を教えるそう。もう、赤面してしまいますよね。でも、そんなことで、自分を取り巻く人が信じてくれる環境って、なんだか羨ましいような、でも、私はこっぱずかしくて、笑ってしまいますね。

15いちりん:2002/09/12(木) 09:01
わたしも『法華経』は最高だと言っていながら、読んだことはなかった。
やれ「四十余年未顕真実」と「無量義経」にあるじゃないか、とか。

「久遠実成」と「二乗作仏」を明かしているから、すごいのだとか。まあ、なんたらかんたら、語っていても、しっかりと自分で読んだことはなかったですね。

『法華経』は最高だというのなら、他の経典も読んで、それと比べてみる必要があるし。『法華経』も他の経典も読んだことないのに、『法華経』が最高だと信じて疑わないのも、おかしな話ですよね。

いろいろと経典を読んでみると、『法華経』が最高でもないらしいと思い始めたし。
「久遠実成」と「二乗作仏」がすごいというけれども、ほんまにそうかいなーとも思うし。

お釈迦さんの滅後、数百年もあとに創作されたお話に、それに「久遠実成」と「二乗作仏」が書かれているからと言って、それがどうしてすごいのだろうかとも思うし。

ま、ともあれ。自分で読んで、自分で考えて、自分で感じていくということが、大切ですよね。ものすごくあたりまえのことですが。

16いちりん:2002/09/13(金) 13:15
『法華経』には、「女人成仏」と「二乗作仏」が説かれているから、諸経のなかでも、とりわけすごいのだという考えがありますよね。

で、それなんですが、そんなことに、いったいどういう意味があるのかなあと思うわけです。
そもそも、『法華経』はお釈迦さま滅後、五百年後くらいに創作されたものですよね。

内容も、とても生身のお釈迦さまが説いたとは思われないようなものです。いわば、神話でありファンタジーでしょう。

いわば、日本の神話の「古事記」みたなものかもしれません。「古事記」には、アマテラスという女神があらわれるから、すごいのだと言っても、仕方がないような話ですよね。神話なんですから。

神話として、文芸として、内容の深さとか面白さはどうかという論議は、ありえますけども。それによって、救われるだとか、「女人成仏」と「二乗作仏」が証明されるわけでもありませんよね。

17いちりん:2002/09/13(金) 13:16
……とは言いつつも、『法華経』というものを真実であるととらえていくのは、信仰だからいいのだとは思います。

で、問題は、です。
ならば、『法華経』に「女人成仏」と「二乗作仏」が説かれているかどうか、をみていきたいと思います。

『法華経』をちゃんと読めばわかりますが、「女人成仏」とされる「龍女」の成仏は、あれは女人が男に変身してからの成仏ですね。「変じて男子となって」とありまして、女人のままの成仏ではありませんですね。

---------------------------------------
皆龍女の忽然の間に変じて男子となって、菩薩の行を具して、即ち南方無垢世界に往いて宝蓮華に坐して等正覚を成じ、三十二相・八十種好あって、普く十方の一切衆生の為に妙法を演説するを見る。(提婆達多品第十二)
---------------------------------------

そして、もひとつ「二乗作仏」ですが、これも、二乗が成仏したとは書かれていませんですね。
「二乗が成仏するよ」という約束はしていますけど。

しかも、ものすごい歴劫修行の末にですね。

たとえば、舎利弗に対する記別のところです。

---------------------------------------
舎利弗、汝未来世に於て、無量無辺不可思議劫を過ぎて、若干千万億の仏を供養し、正法を奉持し菩薩所行の道を具足して、当に作仏することを得べし。(譬喩品第三)
---------------------------------------

無量無辺不可思議劫を過ぎて、若干千万億の仏を供養した上での成仏するというのですから、ものすごい先の話です。

さらに、『法華経』で記別される二乗は、「じつは菩薩」なんですね。

---------------------------------------
内に菩薩の行を秘し 外に是れ声聞なりと現ず(五百弟子受記品第八)---------------------------------------

と、書かれていますね。
……というように、素直に『法華経』を読んでいくと、どうも「二乗作仏」も「女人成仏」も説かれているとはいえないなあと思ったりします。

18顕正居士:2002/09/13(金) 18:39
諸法実相、開顕、二乗作仏、久遠実成、即身成仏等

法華経がどういうひと達によって作られたのかはよくわからないが、この経の
特色は諸法実相、開顕、二乗作仏、久遠実成、即身成仏等であると云えます。
妙法蓮華経と大智度論を中国に伝えたのは、西アジア出身の羅什三蔵であり、
彼の学系が後に天台宗になった。大乗教の開祖である聖龍樹は、釈尊を遠祖と
認めた。諸法実相、開顕、二乗作仏、久遠実成、即身成仏等は、羅什三蔵が
聖龍樹の教義として中国に伝えたのであろうし、龍樹教学と矛盾はしない。

龍女は舎利弗の疑難に応えて、直ちに八相成道の仮の姿を現したのであり、
来世に男に生まれ変わったわけでない、だからこそ、即身成仏の表現であると
いうのです。

19犀角独歩:2002/09/13(金) 20:30

> 18

これは羅什とその訳、妙法蓮華経の特色と言うことでしょうね。

なお、即身成仏に対応すると思われるのは、竜女のことで、

皆見龍女。忽然之間。変成男子。具菩薩行。即往南方。無垢世界。坐宝蓮華。成等正覚。三十二相。八十種好。

と確かに「等正覚を成じ」と即身成仏を意味するであろう記述があります。
ところで、この記述のある提婆達多品は後の挿入ですね。(というか、他品と合わさっていたのでしょうか。わたしは勝手にこの品は、梵本にはないと考えていたのですが、岩波文庫本では該当の訳はあります。けれど、章題を載せません)

元来の(という言い方は成り立つかどうかは別として)27品に、即身成仏に対応する記述はあるのでしょうか。未来成仏の約束、すなわち記別ばかりであって、それに該当する記述がないように思われますが、これは私の誤解でしょうか。

20顕正居士:2002/09/13(金) 21:36
提婆達多品

は羅什三蔵の翻訳ではなく、智者大師の滅後に輸入、翻訳された単行の経典を
合本したのです。しかし、龍女成仏の部分は、梵本や正法華経にはあります。
梵本や正法華経では、「見宝塔品」の中にあるとおもいます。妙法蓮華経には
龍女成仏の部分もなかったから、羅什三蔵伝のテキストは梵本や正法華よりも
古く、妙法蓮華経はキジ語訳からの重訳だろうといわれております。

21犀角独歩:2002/09/13(金) 23:28

> 20 顕正居士さん:

解説、有り難うございました。
提婆達多品は、色々な意味で興味深い記述であると思います。

22いちりん:2002/09/14(土) 09:59
この龍女が、神話の世界の記述であれ、どうしてかんたんに成仏できたというのか、はなはだ疑問なのですが、経典を読むと、フツーじゃありませんですよ。

---------------------------------------
娑竭羅龍王の女年始めて八歳なり。智慧利根にして、善く衆生の諸根の行業を知り、陀羅尼を得、諸仏の所説甚深の秘蔵悉く能く受持し、深く禅定に入って諸法を了達し、刹那の頃に於て菩提心を発して不退転を得たり。辯才無碍にして、衆生を慈念すること猶お赤子の如し。功徳具足して、心に念い口に演ぶること微妙広大なり。慈悲仁譲・志意和雅にして能く菩提に至れり
---------------------------------------
智慧利根……とても頭がいい

善く衆生の諸根の行業を知り……生きとし生けるもののありさま、因縁などをよく理解している
陀羅尼を得……諸仏の真実の言葉を知っている
諸仏の所説甚深の秘蔵悉く能く受持……諸仏の説くところのエッセンスをしっかり理解している
深く禅定に入って諸法を了達し……深い禅定に入って、もろもろの真理を理解している
刹那の頃に於て菩提心を発して不退転を得たり……瞬時に菩提心を起こして、不退転の位を得ている
辯才無碍……説法がすばらしい
衆生を慈念すること猶お赤子の如し……生きとし生けるものを、わが子のように愛している
功徳具足して、心に念い口に演ぶること微妙広大なり……功徳がいっぱいで、説法してもすばらしい
慈悲仁譲・志意和雅にして能く菩提に至れり……慈悲があって志も素直ですばらしい

……というような八歳の女の子なのであります。
これは、もうもともと、仏に等しい菩薩のレベルですね。
そんなのが、瞬時に、成仏の相を示すのは、あたりまえといえばあたりまえですね。

だから、フツーの女性が成仏した話じゃないのですね。そんなのは、『法華経』には説かれていないわけです。いわば、菩薩が成仏した話ばかりです。二乗といえども、じつは菩薩であると明かされているわけですし。

だいたい『法華経』は「教菩薩法」というわけですね。
「菩薩を教える」ともいえますし「菩薩に教える」という経典であると、読めるわけです。

もっとも、大前提に「華厳経」の「初発心時便成正覚」という考えがあったと思いますが。

23犀角独歩:2002/09/14(土) 10:50

この提婆達多品というのは、実に不思議な品ですね。
この不思議さは梵本直訳で読みといっそう際だちます。

私がびっくりしたのは、過去の因縁を語るのにかつて提婆達多が師であり、そこで釈尊が修行をしたとする段で、漢訳の修行は「奴隷となる」と梵本直訳ではなっています。弟子(修行)と奴隷、このまったく違ってとらえられる立場が直訳では読み取れるわけです。

もう一点、竜女が自分を示す語は漢訳では「我」ですが、直訳ではなんと「妾」の字が充てられています。振り仮名は「わらわ」ですが、この「妾」という表現を見たとき、私はぎょっとしました。

ここで登場する提婆達多と竜女は何を意味するのか、ここを考えてみると面白いですね。提婆達多は釈尊の教団でもっと最初に分裂した一派であると言われています。もっと早い異端ですね。方や竜女と聞くと私は直ちに身延の七面山大明神を思い出すのです。「歴史が逆だ」ということは百も承知なのですが、七面山大明神は蛇の女の神様ですね。蛇というのは、つまりは竜です。竜女というのは実は竜の女神を祀る種族の王女のことであったのではないのかと思えるわけです。

さらに想像を逞しくすれば、(顕正居士さんのご指摘のとおり)提婆品は宝塔品の部分であるか、あるいはあとから挿入されたもので、文中には多宝如来に係る記述も見られます。実はこの四つ、釈尊の教団、提婆達多の教団、竜女神の教団、そして、あるいは多宝塔信仰教団の信仰が、法華経創作当時あって、それらを集合し、一つのものとして考える教団があり、それが法華経の、あるいは提婆品のモデルになっていったのではないのかと思えるわけです。

提婆達多は釈尊教団からすれば、悪人でしょうが、その教団にとって尊敬対象であったでしょう。竜は古今東西、ご神体として教団を形成する力はあります。女性の成仏、すなわ利益を説くことは、どの教団にとっても重要な意味を持つ次期に入っていたのでしょう。これらの宗教的な説明原理は先行し、ついで、異教団の集合を意図する底意が、この提婆品にはあったのではないのかと私は想像しています。

24いちりん:2002/09/14(土) 12:04

お釈迦さんの過去世において、阿私仙人(じつはのちの提婆達多)のもとで、修行しますよね。
お釈迦さまのお師匠さんが、提婆達多というわけです。

ちなみに、こういう歌があります。

法華経をわが得しことは 薪こり菜つみ水くみ つかへてぞかし

これは、行基さんの歌と言われていまして、「拾遺集」に収録されています。

たしかこの歌をまねして、日蓮正宗では日目さんが、水をくんだり薪をひろつて修行したというような歌になっていませんでしたか。

25犀角独歩:2002/09/14(土) 12:30

> 244


ええ。天台本覚思想のスレッド38で、過去に取り上げています。

目師の身延修行時代の様を謳ったといわれる
法華経を我が得しことは薪こり 菜つみ水くみ つかへてぞえし(大聖人正伝321頁)

とあり、私はこれを目師に係る石山の古歌と信じてきたのです。
ところが、テレビで比叡山の特集をやったとき、僧侶が古歌を口ずさみながら、行道しているシーンがあり、びっくりしました。その後、これが行基に係るものであることを知ることになりました。なんも呆れ果てた話であったわけです。

26犀角独歩:2002/09/14(土) 12:34

> 244 は >24 でした。

失礼しました。

27五月雨:2002/09/14(土) 22:25
>私はこれを目師に係る石山の古歌と信じてきたのです。ところが、テレビで比叡山の特集をやったとき、僧侶が古歌を口ずさみながら、行道しているシーンがあり、びっくりしました。その後、これが行基に係るものであることを知ることになりました。なんも呆れ果てた話であったわけです。

私の所属寺院の法華講結成式では、この歌こそ日蓮正宗に伝わる法華経を信心する心構えであると指導教師が言って、猊下にこの歌を色紙に揮毫してもらい印刷して記念品として全員に配りました。もちろんこの歌は日目上人のことを詠んだ歌だと言ってました。これも大嘘、これもパクリだったのですね。石山の体質には少し慣れてきたと思っていましたが、慣れるのはまだまだ先の話かも知れません・・・

28アネモネ:2002/09/15(日) 00:18
全くおなじ歌なんですね。えー、そんなことってあり?!
なんだかこうなってくると、石山の謗法厳戒って、パクリがバレないための防波堤みたい。
バレるのを恐れて、脅しにかかる。世間でもよくあることです。

29おこさま:2002/09/22(日) 00:43
はじめまして。

法華経は漢訳されたものが日本に伝わり、それが現在我々が法華経と認識しているものですよね。
漢訳された法華経の読み方(発音)は漢語(?)なので、日本において我々がしている読み方とは違うのですよね?

漢語発音(?)で読経したら、日蓮正宗的にはやっぱり正しくないのでしょうか?
台湾などの信者の方はどのようにしているのでしょうか?
漢訳された法華経を日本語読みするのが正しいってことですか?

ぶしつけな質問ですみません。どなたか教えて下さい。

以前、知人に勧誘された時に聞いたら、日蓮正宗の読み方が唯一正しいと言っていたので
あまりにもうさんくさくて、塩をまいて追っ払ったことがあるんですよ。

30問答迷人:2002/09/22(日) 07:23

おこさま さん 

初めまして。

この点は、以前、この掲示板で犀角独歩さんが指摘されていたと思いますが、現在の日蓮正宗のお経の読み方は、平楽寺版の法華経の読みをそのまま、頂戴しているわけです。ですから、この段階ですでに「日蓮正宗の読み方が唯一正しい」などと言う資格は日蓮正宗にはないわけです。独自の法華経を持たず、平楽寺版の読みをそのまま踏襲しているわけですから。

>漢訳された法華経を日本語読みするのが正しいってことですか?

正しい、という事ではなくて、そのように昔からやってきたし、今もそうしている、という事に過ぎないと思います。根拠は、昔、日本が中国から仏教を輸入したときに、そのように教わったと言うこと以外に大した根拠はないでしょうね。

31いちりん:2002/09/22(日) 11:03
おこさまさん

お経というのは、そもそもお釈迦さまの説いた教えを文字にあらわしたものですね。
そういう建前です。

もっとも、お釈迦さまが説いた教えでなくても、インドで勝手に創作されたものがほとんどなのでありのすが。なにしろお釈迦さまの亡くなって五百年も千年もたってから作られたものが、かなりあります。

そして、中国において、古代のインドの言葉であるサンスクリット語から中国語に翻訳されたものが、日本にやってきているわけです。

この翻訳の段階で、翻訳者のレベルによって、かなり訳し方に違いがあります。

「サッダルマ・プンダリーカ・スートラ」というのは、「白い蓮のような正しい教え」という意味なんですけど、それをクマラジーヴァという人は、「妙法蓮華経」と訳しました。
別に、「正法蓮華経」と訳した方もいます。それで、クマラジーヴァの訳が名訳ということで、ずっと「妙法蓮華経」できているわけですね。

岩波文庫に、サンスクリット語からの直訳が出版されていますが、クマラジーヴァの「妙法蓮華経」とは、いろいろ異なる箇所があります。クマさんは、かなり「意訳」しているからですね。

その他、もともとなかったのに、あとから章をくっつけたり、あるいは削除されたりなんてのもあったようです。

「発音」そのものは、話すと長いですが、たとえば、

菩薩(ぼさつ)と日本では読みますが、中国では、「ほうさー」というような読み方をします。
これは、音訳されたものです。

ところが、もともと原典であるインドのサンスクリット語では、ボーディサットヴァと発音します。
ボーディー(悟り)サットヴァ(衆生)で、悟りを求める人たち、いうような意味ですね。

サンスクリット語のわかるインド人に、「ぼさつ」とか「ほうさー」といっても、「はあ?」とちっともわかりません。ボーディサットヴァといえば、通じます。

「サッダルマ・プンダリーカ・スートラ」といいましても、通じます。
「妙法蓮華経」とか「正法蓮華経」といいましても、あたりまえですけど、意訳されているのだから通じませんですね。

「ゲヨイテとは おれのことかと ゲーテ云い」という川柳がありますが、かつて日本では、ゲーテのことをゲヨイテと表記していました。それで、ゲーテ本人が、はあ?というわけです。そういうようなことが、たくさんありますね。

でまあ、日蓮主義の立場から云うと、なにしろ『法華経』のエッセンスは「南無妙法蓮華経」というお題目に集約されている。いや、お釈迦さまのすべての、いやあらゆる仏さんの教えが、そのお題目に濃縮されているのだ。だから、それだけでいいのだ。正しいのだ、ということになるんでしょうね。

まあ、信仰とは、そういうものですね。それが正しいと決めた、と。確信というか、強烈な思いこみというか。

32いちりん:2002/09/22(日) 11:09

こんな話があります。

あるおばあさんが、「おおむぎ・こむぎ・いっしょう・ごんごう!」(大麦小麦一升五合)と唱えて、病気治しをしていました。

あるとき、旅の僧侶が、おばあさんにこう言った。
「おばあさん、その真言は、ちがいますよ。ほんとは、¨おうむ・しょじゅう・にしょう・ごしん¨と言うんですよ」。

これは、実は、「金剛般若経」の有名な一節「応無所住而生其心」という言葉なんですね。
「まさに無所住にして、しかも其の心を生ず」と読み下します。

これを聞いたおばあさんは、そうか
、それが「本当の呪文」だったのか。私の唱えていたのは、間違いだったのかといって、そこで自信が揺らいでしまった。
そしたら、そのならった言葉をいくら唱えても、もう病気なおしは出来なくなってしまったのです。

33いちりん:2002/09/22(日) 12:49

わたしのいいたいことは、祈りとか、心のはたらきであって、強く深く念ずるほどに力は発揮されるということですね。(祈って力が発揮されたり、功徳のようなものがあることが、幸せかどうかは別問題ですけどもね)

祈りの言葉、真言のことばに力があるわけじゃない。お経に力があるわけじゃない。
その言葉、お題目、真言、お経そのものに力があるとして、強烈に信じ込むその心の働きに、力があるんだろうなということです。わたしは、そう思います。

そして、それは、たくさんの人が信じ込むことによって、さらに力が増していく。ひとつの集団的無意識の力とでもいいましょうか。

で、「般若心経」とか「法華経」とかいうお経は、それがすごいと信じ込む人が多いから、そこにある種の心霊的なエネルギーが付着しているんですね。あるいは、集合的な無意識と通じやすい。でもって、他のお経よりは、力があると感じられる、かもしれません。

あるいは、南無妙法蓮華経というお題目、南無阿弥陀仏という念仏の称名、のうまくさーまんだー・ばーざらだん・せんだー・まーかろしゃーだ・そわたや・うんたらた・かんまんという不動真言とか、そういう呪文のような真言も、力があるとされるのは、圧倒的に長い年月にわたってすごい信じられた来たからですね。

インドでは、オーム・ナマ・シヴァーヤとか、ハリ・オームとか、スリーニン・ジーラン・ジージェーランとか、アラブでは、アッラー・アクバルとか、ユダヤでは、シャロームとか、まあ地域によってそれぞれのマントラがちがいますが、まあ何でもいいんだと思いますね。

34いちりん:2002/09/22(日) 12:52
スリーニン・ジーラン・ジージェーランというのは、いそいで書いて入力ミスです。

スリーラーム・ジェーラーム・ジェージェーラーム(偉大なる神をたたえます)でした。

35おこさま:2002/09/22(日) 15:14
問答迷人さん、いちりんさんレスありがとうございます。

何となく分かったような、、、
近代の日本では呪文的にとらえているので発音のしかた云々と言うことなのですね。
中国語やサンスクリット語周辺の言語を使用または理解する人にも、
「日本語発音じゃないと読経しても意味が無い(正しい教えでは無い)」と言われたものですから、、、

オリジナルの経典がどんなものであれ、日本においては呪文だから、
オリジナルが否定されたとしても、漢語経典は何らかの呪術的効力があるのですね。


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