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素朴な疑問

1管理者:2002/02/20(水) 13:44

1 名前: 管理者 投稿日: 2002/01/28(月) 18:47

スレッド立ち上げの要請がありましたので、立ち上げます。皆様、気軽に御発言ください。要請文は以下の通りです。

>私の場合、皆様のように難しい事はわかりませんが、いわゆる「素朴な疑問」は
>あります。そのような質問でもよろしいでしょうか?
>もしくは、そのようなスレがあればいいのですが・・・

1882通りすがり:2004/11/08(月) 23:47
頭角無類さんの、アップした日禅授与の本尊の写真が見られないみたいです。
石山の僧侶の間でも、ここのページが話題になっているのは実に光栄な事だ
と思います。日蓮正宗教学部や提議のある僧侶の意見を聞いて見たいもんです。

1883勉強中:2004/11/09(火) 00:32

通りすがりさん、はじめまして。

「大石寺教学の研究」の著者であるHN直人さんのHPでも写真が出ています。

http://www.sincere.ne.jp/~naohito/kaidan_zenshi.html

直人さんは、本門戒壇の大御本尊が日禅授与曼荼羅を原図としていることには異論があるようです。

http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/3171/1080352245/37

また大石寺の御僧侶方がご覧との事ですが、是非大石寺蔵の日禅授与曼荼羅の鮮明なお写真と、本門戒壇の大御本尊の鮮明なお写真の公開をお願いしたく存じます。

1884犀角独歩:2004/11/09(火) 14:06

>1882

リンク先を拝見しました。
要するに、いちばん、肝心の2点、アプローチの仕方がわたしと違うわけです。

(1)並べられる写真のサイズをまず、「南」〜「經」で同一にして比較すること

こうしませんと文字の比率の差がよくわかりません。同一サイズにすると、けっして「南」字は小さくありません。
「華」も輪郭を重ねると、ほぼ相似形をしています。字画・光明点の伸びる角度まで一致しています。
「經」旁‘リ’‘ツ’の相違は、もちろん現宗研の講演で考証しています。
「ツ」1画目「ノ」の位置に「華」の縦棒が一致しています。この点で彫刻本尊では作為があるというのがわたしの考えです。その他の部分でも、字画運筆がぴたりと重なります。

(2)パッチワークであることを意識すること

彫刻本尊の制作過程を木下日順師は「よせもの」と称しました。稲田海素師の「4部構成」説もいうべき考えを踏襲したものです。ですから、文字一字々々は似通っていながら、その‘置かれる位置’にズレがあります。その理由は

 a:原図から持ってきた字を板面でパッチワークして、再構成している
 b:北山蔵と石山ではレイアウトの相違がある

などの点によるとわたしは考えています。

以上、サイズとパッチワーク、この点を外して、原本と模刻は縦横・配置まで、ピタリと同じはずだという固定観念は事実を見落とす先入観であることを意識しなければならないというのが考証段階におけるわたしの発見と反省でした。
たぶん彫刻本尊は複数原本の臨模、さらに制作者の作為という複雑な要素が絡んでいることを考慮しなければ事実は見えてきません。

ところで頭角無類さんアップの写真、もう消えてしまったんですね。

1885犀角独歩:2004/11/09(火) 19:14

れんさん、
勉強中さん

お二方が同じHPを紹介されており、それがどうやらわたしへの反論か疑義?のご紹介ようなので、弁明という、立証のために、一つだけ画像をアップします。

この手の画像は出版して著作権が確立してから、ネットへ公開したいのですが、ご参考に未発表ですが、比較画像を紹介します。

種々ご教導をいただているお二人ですから、礼節に従った次第です。

これはご紹介のページにアップされた画像を同一サイズとして、平行線を引いて、大きさを比較したものです。ここまで一致するのに、原図ではない、「南」字の大きさが違うという「説」を立てる理由がわかりません。

http://www.geocities.jp/saikakudoppo/ookisa_hikaku.jpg

1886通りすがり:2004/11/09(火) 19:36
ん、見られませんね、何か技術的に問題でもあるのかな
準備中になっています。

1887犀角独歩:2004/11/09(火) 19:37

自己レスです。
1885のジャンプ、何故か飛びません。
けれど、コピペすると飛びます。
ご面倒ですが、そのようになさって、ご高覧ください。

1888れん:2004/11/09(火) 20:14
犀角独歩さん、アップされた画像を拝見いたしました。ケイタイからですと、残念ながら首題の経字までしか見られませんが、禅師授与曼陀羅と彫刻本尊・同じ大きさにしますと、首題だけ見てもよく一致してますね。現在の彫刻本尊は首題・日蓮花押・四大天玉・不動愛染だけみましても、おもに禅師授与曼陀羅をパッチワークしたものである(勿論ところどころに製作者による作為が見られる)ことは間違い無いと私も思います。直人さんの誤解?は、独歩さんのご指摘の点とともに、現在の彫刻本尊を興師直造と考えていることでしょう。日憲文献・完則図・明治期に公開された写真とで、彫刻本尊の相貌が異なっていて、彫刻本尊は一枚岩ならぬ一枚‘板’ではなくて、複数の‘存在’が認められることを看過していることですね。
それから、御教導戴いているのは私の方です。犀角独歩さんをはじめ皆さんのご教示のおかげで、大分頭のなかの整理がついてきました。独歩さんをはじめ皆さんの御学恩に深く感謝申し上げます。

1889れん:2004/11/09(火) 21:06
訂正
誤、アップされた画像
正、アップされた比較画像

1890犀角独歩:2004/11/09(火) 21:13

れんさん、過分なお言葉恐縮です。こちらのほうこそ、感謝申し上ておりげます。

周囲のレスなのですが、なにかわたしが模写=原図であるといっているような周囲のレスがありますね(笑)
わたしはそんなことを言っていません。臨模・作為混合であると言っています。
中央題目についてもそれは同様で、ただ、各文字が相似している、殊に各文字同士の大きさ・字画長等の比率が合っている点に注目しているわけです。これらの点が一致すれば、模写であれ、臨写であれ、作為であれ、(参考にした)原図には違いないという認識です。

なお「南」字の‘冂’画はたしかに彫刻本尊のほうが細く見えます。また‘┐’の部分、より終点に向かい内側に入っている点で相違しているように見えます。しかしこれは原本ならざる決定打にはなりませんでしょう。他の部位があまりにも類似、相似形にあるからです。故に「華」「經」についても、これは同様に考えております。

あと「經」光明点が彫刻本尊にはないということですが、これはたぶん写真の関係ではないかと類推します。もしなければ、それだけでも、この「南」字は他筆と断定できることになりますね。そんな筆法は他に例がないからです。ですから、写真では確認できなくても、わたしはこの線はあるはずだと考えています。

仮にこの原図が臨模作為であっても聖筆を真似る気があれば、そんな初歩的な書き間違いをするわけもないからです。ですから、これを「ない」と断言する勇気には、多少ならずとも驚かされました。

1891勉強中:2004/11/10(水) 00:14

犀角独歩さん、出版前のご多忙な中を申し訳ありません。
私のレスが結果的にお手を煩わす結果となってしまいました。
私はれんさんはじめ、こちらの諸先輩方と違い、何の真新しい投稿もできていません。
ただ虫干などでみたまま、聞いたままを報告したまでで、誠に皆様の学恩に授かっているに過ぎません。

そして直人さんは、なんといってもお若い。未来があり将来有望な方であることは間違いないと思う次第です。

ともかく私の出すぎた投稿で、お二人の学匠の貴重なお時間をさいてしまったことに陳謝いたします。

1892通りすがり:2004/11/10(水) 00:15
 戒壇本尊の正鵠な写真が中川日史と言われる方の書物に掲載されていると言う
 話を宗内僧侶から聞いた覚えがあるんですけど、書名は分かりませんが
 あと、正本堂の取り壊しの後に一時的に安置された奉安殿や現在の奉安堂でも
 カメラ付携帯電話で堂々と撮影している法華講員が多数いるそうです。
 四月の虫干法会の際に奉掲される宗祖御本尊の内のなかで御本尊集に未収録の
 本尊は偽筆?の可能性はあると本山僧侶の方が語ってくれたのは驚きました。
 山中氏は、そのあたりを憂慮せられあえて収録されなかったのでは無いでしょ
 うか。

1893きゃからばあ:2004/11/10(水) 11:13

面白いものを見つけた。

『弘安二年 大曼荼羅と日興師』昭和五年十月三十日発行・松本佐蔵(道本)著

「尚又此御本尊の裏に閻浮提云云と御下附の由來が書記せられてあるとの噂を耳にしたことがあるが併し之は裏と云ふのであるから只だ噂として到底其實否を確めることは出來ない 本來我々が拝すのは内拝であって広宣流布の暁でなくば公然拝すべき筋のものでないと石山では昔よりの云ひ傳へであるから容易に拝すことを許されない事になって居るが道本が子供の頃はこの筆法で信仰を認めなければ金を積んでも拝ませなかったが最近では金で拝ませるかどうか」

「明治四五年の頃この大本尊に対し甚だ恐れ多いことがあった 夫は時の政府が全国の神社仏閣の本尊を取調べ神仏混交を許さずとあって各々其本尊を取調べ疑点ありとするものは皆引上げられたことがあった この噂を聞き石山でも大に驚きこれに限り疑ひありなどと批難さるゝ気支ひはないが併しどんな口實を以てか假令一時たりとも引上げらるゝ様な事があっては恐れ多い迚時の法主(石山五十一世日英師が其時機に當る)は東京芝區の強信者山田善兵衛氏(道本の親戚)を招かれ諮議の上法主は正本尊大の紙幅に模写しこれを本尊に仕立てゝ正板本尊は山田氏等数人が供奉し夜中を選み出京して本郷の加秔邸に旨を傳へ同邸の倉庫へ窃かに預け置き暫時世間の状況を見定め最早安全なりと認められて同邸より取戻し元の如く石山寳庫に安置せられたのである又假りの代品本尊は東京に持來り数十年後深川區の法道院と云へる教會に於て日應師山田氏等立會の上焼却し終った(法道院は大正十二年の大震火災に全焼せり)又山田氏は今尚芝區本郷町にて山田善之助迚立派に相続して居る此事は道本も子供の頃に之れを聞き記臆して居る 此経緯を誤り伝へて石山の本尊は偽物なりなどと飛んでもない噂さを世間でしたそうだが事實は右の通である」

はたして、本物が取り上げられるのを恐れたか?
または、偽者とバレるのが怖かったのか?
いずれにせよ、一時的に板漫荼羅が大石寺より東京の信徒の倉庫に保管されたとある。
もしかして、今の奉安堂の板漫荼羅も、仮本尊だったり?
やはり、うさんくさい。

1894管理者:2004/11/13(土) 23:18

頭角無類さん

犀角独歩さん

>1884  ところで頭角無類さんアップの写真、もう消えてしまったんですね。

管理者の独断で、頭角無類さんアップの写真、リンク集に収納させていただきました。もし、不都合が有れば消します。仰ってください。

http://kamakura.cool.ne.jp/gomoyama/new_page_35.htm

1895平和創価:2004/12/11(土) 16:28
私は今、までいつも思っていたのですが、蓮祖の御両親は一体何歳で亡くなったのでしょうか。
父の妙日尊霊は正嘉2年2月14日、母の妙蓮は文永4年8月15日です。

日蓮正宗過去帳に没年齢が書かれていないので、不思議ものと思われます。

1896通りすがり:2004/12/13(月) 02:51
> 1895
実の親の事?育ての親?
妙日・妙蓮尊霊がどちらかは不明ですがね。
育ての親という説もありますしね。
実親は、高貴な…(笑)。

1897れん:2004/12/13(月) 07:13
たしか、石山代々法華の方々の間では、妙蓮・妙日尊霊は育ての親で、実の親は高貴な…という伝承だそうですね。ただこの説にかんしては石山五十九世堀日亨師は「但し確実なる資料が無い」(杉谷師筆録の日亨上人講述)と疑義を呈していますし、文献のうえでは蓮師門下最古の蓮師伝記である大石寺四世日道師の「御伝土代」では「日蓮聖人は本地是地涌千界上行菩薩の後身なり、垂迹は則安房の国長狭の郡東条片海の郷、海人の子なり」とあります。また後世の文献ながら富士の相伝書の産湯相承でも三国大夫・梅菊夫婦が実親とされてますからいかがなものでしょうか?

1898真実 探求者:2005/01/25(火) 20:07:11
失礼、。 素朴な疑問、、?  は誰しも抱くものでしょうか、。 そのヒトツに「、、どうして日興師」が「、身延山」を下山するに至ったのでしょうか?  日蓮聖人が「身延は聖地なり、、?」と断じた?ようですが、。 日興師は、?ではないでしょうか、。 本当は「、ご供養の激減、?」による「、弟子などの育成、?」の点で「、イワユル、、ゼニの問題、?」と存じますが、? 世の中「キレイ事」では通じ無いことが多数あるようです。ダマシ?は、後日、999%
見破られるようです、。 早々。

1899祝8郎:2005/01/26(水) 01:51:36
>1898
身延離山は日興師の前に昭師朗師持師頂師が不参というかたちで行なっています。
当時の身延は波木井の領地であって、かりに久遠寺があったとしてもそれは波木井の所有にかかるものと考えられます。
日蓮聖人や日興師に対して「身延の沢」「草庵」「久遠寺」などを波木井が寄進したという事実もありません。
日蓮聖人在世当時から波木井による「御供養」などほとんど無きに等しかったと考えられます。
やはり波木井の不信心が大きな要因だと思われます。

1900真実 探求者:2005/01/29(土) 22:13:31
、、ご免下さい。 当時は、人は、どこかの寺院に必ず所属する義務??があったようです? まー、それが幕末まで続いた「徳川政策、、」であった、、。 その中での「、、日蓮さん無き後の、布教の対策?」に日興さんも苦慮されたでしょう、、。 「昭、朗、持、頂師方」が身延の日蓮さんの墓参もしなかった、ようですが、、これは、、「、、日蓮さんへの不信の確定犯、??、」とも、? 言えないでしょうか、、??  あまりにも、厳しい折伏に「、、五他僧が、内心は日蓮さんに反感を抱いていた、??、」という、事も考証可能でしょうか、?  ならば、日蓮さんは「弟子方、、」に高い確率で当時から「、、裏切られて居た、、??」ようでしょうか、、?  でも真実は、、「、、弟子方か、、?  日蓮さん、、か、、?、、」かは、後世の我々の範疇でしょうか、、?? 早々、。
早々、。

1901顕正居士:2005/02/05(土) 20:59:20
身延山の位置は今日でも山梨県の辺境です。鉄道(身延線)があるから行けはするが。日蓮が示寂した後
六老が交替で祖廟を守ると決めたが昭朗持頂の四老は多忙で来られない。甲斐出身で甲駿に教線を張る
日興が常駐することになってしまった。しかし日向だけは来た。そして波木井日円は日向と仲が良くなった。
当時の寺院は大名小名が土地、資金、軍事力を出資することで新設された。領民の文化向上による領地の
安定を目指してだろう。次代以降の住職はその大名小名の男子の一人が出家して継ぐ。日興は日円と関係
の改善を計ったが、すでに日円の志は日向に傾いている。身延山は門弟を繁茂させるには不便な位置でも
ある。駿河への転地の計画を構想したでしょう。構想は実って南條氏の寄進により大石寺の基いができた。
しかし二年後には更に将来性がある石川氏の出資により重須に移って、本門寺根源と称することになった。
日向は学問が優秀であったのかも知れない。非常に永い目で見れば身延山は繁栄すると予想したのかも
知れない。対していえば日興のほうは経営の感覚が優れていた。重須への転地は南條氏の了解と支援の
もとに行われた。ここで日興の門徒は大石寺(南條氏)と本門寺(石川氏)に分張した。大石寺を継承した
日目は南條氏ではなく縁戚の小野寺氏であり、その寂後には日道(小野寺氏)と日郷(南條氏が支援)との
寄進地継承抗争が勃発した。結局、日郷は大石寺を離山し、又、日興の後を継いだ日代は当代の石川氏
と合わず重須を離山して西山に(真実の)本門寺根源を開いた。富士派は骨肉の抗争によってむしろ発展
した。他門徒もそうであろう。競争原理の効果といおうか、六老に序列を付けないと宣言した日蓮の先見の
智慧か。土地を獲得し小作収入を増やし、本山参詣による商業を推進し、かつは軍事力を養成して戦国に
覇を唱えるという宗教勢力発達の方規は比叡山を見習ったが、その山科本願寺は京都日蓮宗の民兵に
よって滅ぼされ、その京都日蓮宗二十一箇寺は比叡山山兵に焼かれ、比叡山は織田信長の軍隊によって
破却された。徳川家康がオランダ大統領に送った書簡にはわが国と貴国とはともに宗教戦争を終焉させた
共和国であるから万里の波濤を越えて軍事同盟を結ぼうと提案された。経済力も軍事力もなくても学問が
できる環境があれば勢力を伸張できる江戸時代になってはじめて身延山久遠寺が誕生したといえましょう。

1902犀角独歩:2005/02/07(月) 20:17:08

デルトロさん、はじめまして。
書き込みをされたスレッドは『スレッドテーマ提案用』なので、その後に続けて投稿するわけに行きませんから、仮にこちらに書き込みことにしました。

わたしは52に投稿される如き、率直な感想には賛同します。

「広宣流布」とは、(法を)広く宣(の)べ流布することでしょうね。原義的には、まあ、信仰者は怒るかもしれませんが、広宣流布にいちばん近い現代語は、広告宣伝・流通(広く告げ・宣(の)べ伝える・流通する)であろうと思っています。もちろん、これは商業用語になっていますが、法であるか、商品であるのかの差異はあるにせよ、類似形態であると考えてきました。

ただ、その広宣流布は、衆生の三割(舎衛三億の喩え)であるとは、万民一同であるとか、その流布の割合は区々に言われ、その結果社会をまた、意味するところに語彙は拡大解釈されるにいたり現在に及んでいるのでしょうね。

日蓮門下としては『如説修行鈔』の

「法華折伏、破権門理の金言なれば、ついに権教権門の輩を一人もなくせめをとして法王の家人となし、天下万民諸乗一仏乗となりて妙法独り繁昌せん時、万民一同に南無妙法蓮華経と唱へ奉らば、吹く風枝をならさず、雨土くれ(壞)をくだかず、代はぎのう(義農)の世となりて、今生には不祥の災難を払ひ長生の術を得、人、法共に不老不死の理を顕さん時を各各御らん (覧)ぜよ。現世安穏の証文疑ひあるべからざる者なり」

を、その具体的イメージとして懐いてきたのでしょうね。
まあ、しかし、わたしにはリアリティがありません。

1903犀角独歩:2005/02/07(月) 20:19:01

> 1902

失礼、52とは、『スレッド提案用』の52のことです。
http://jbbs.livedoor.jp/bbs/read.cgi/study/364/1014121584/52

1904愚鈍:2005/02/07(月) 21:15:46

広宣流布は、悲しいかな「virtual reality」ではありませんか。
天災も人災もない世の中なんて信じられませんし、あり得ないことでしょう。
地震・台風・津波を止める術なんてないですよ。
去年の中越地方がいい例だと思います。台風による水害、その後が大地震、そして記録的豪雪です。まるで、踏んだり蹴ったりを絵に描いたようなものです。
どうせ、カルト教団では罰がどうしたこうしたと言ってるんでしょうけど。 ムカ…(;-_-メ)>

1905愚鈍凡夫:2005/02/07(月) 21:22:33

>>1904:は小生のレスです。 m(_ _)m
世の中が創価学会・法華講・顕正会の会員で溢れていても、理想郷とはほど遠い社会になっているのじゃないですか。どうせ新たな敵を見つけて攻撃してるでしょうから。

1906デルトロ:2005/02/07(月) 21:49:50
独歩さん はじめまして
私のような拙い質問にお応えいただいて恐縮です。
一見されてよくおわかりかと思いますが、
私は教学は苦手でして、普段御書を開くこともあまりありません。

ただここの掲示板に縁ができて、少し学んでみたいという欲求が
湧いてきました。
これは私の感想なのですか、一般の信徒のかたで、日々教学について
研鑽されているかたは少ないと思います(これはあくまでも主観であり、
証拠を示すことはできませんが 笑)
ただそのような信徒にも、積極的に御書を学んでいきたいと
感じさせられるような掲示板だと思っています。
その一点においても、かなり有意義だと感じさせられました。

疑問のひとつとして、流派はいろいろあれ、大聖人の仏法は信じるに
足りるものなのでしょうか?
おそらくこれは聞いてはいけないことなのかもしれませんが、

分裂した流派は否定するが、大聖人様は肯定できる。のか。
あるいは分裂するような流派を元々作った人間に問題があるのか、
(継承した人間がどうだったかという問題はおいておいて)
もっといえば日々リアルな生活を送っている人間に
大聖人様の仏法は必要であるのか。

このへんてどうなんでしょうか。
これも上記と同じく個人的感想なので証拠はないのですが
大聖人様の仏法の入り口には「現世利益」という
いいかたはよくないかもしれませんが俗さがあるような気がします。

現世利益がなくなってしまうと、たぶんほとんどの人が
この信仰を捨ててしまう気がします。
(他の宗教でもほとんどが現世利益を売りにして、それなりの利益は
あるのかもしれませんが、ならどの宗教でもいいということになってしまい、
長年正宗の信仰に関わってきた人間はジレンマに陥る)

なんかうまくまとまってないですが、
(御書の件とも自己相違してしまうかもしれませんし)
正直、正しくて現世利益があるのならばもっと勉強していきたい
けど、根本が崩れているならやりたくないと、いうのが
本音かもしれません。

どう思われますか?
甘えているのかもしれませんが、アドバイスがいただけると
助かります。
幼稚な文章ですみません

1907デルトロ:2005/02/07(月) 22:00:38
続けてすみません。
愚鈍凡夫さん こんにちは
新たな敵をみつけて攻撃っていうのはまったく
その通りですね。
まったく敵がいなくなった状態というのも
どんな状態なのか想像つきません(それが広宣流布というならば)
全体主義のような社会なのか、あるいは差別格差が大きくなっている
社会なのか。
どちらにしろ歪みは出てくるような気がしてきます。
歪みのない社会を作ることが新しい歪みを作るというのは、
なんとなく理にかなっているような気がするのですがどうでしょう?

はじめから絵に描いた餅だったんですかねえ
やっぱりちょっとショックかもしれません

1908犀角独歩:2005/02/07(月) 22:08:23

デルトロさん、どうも。

なんか、自分でも不思議なのですが、デルトロさんの疑問と言うか、感性は、わたしは実にすとんと腑に落ちるのです。まあ、わたしが御書・富要オタク(ほかは弱くて、れんさんにお叱りを受けたり、顕正居士さんに補っていただいたり、暴走は愚鈍凡夫さんがかっこよくフォローしてくれたりですが)で、まあ、蓮師文献は好きです。御書はあまり開かない…、けれど、何かを言い張るわけではないので、別段、それはいいでしょう。

> 大聖人の仏法は信じるに足りるものなのでしょうか?

この点は、わたしも実に興味があります。
正直、申し上げ、大乗経典の一切は後世の創作物語、漢訳仏典は致命的な違訳・意訳の山、天台も「うーーん」と唸るところも多く、御書に至っては半分は真偽未決、中世、相伝は信じるに足らず……。しかし、信者さんのなかに功徳の体験を熱く語る、このパラドクスは如何に?というところでしょう。

現世利益(功徳)は…、「うーん」ですね。
これはわたしが高校生のとき、キリスト教の友人と72時間の長期激論をしたときのことです。
わたしが「利益も出ないような信仰は力がない!」と、まあ、創価学会で教えられたことを「確信」を持って語ったわけです。
友人いわく、「キリスト教では、利益を考えてやる信仰を貧しい信仰であるという。功徳があろうがなかろう、ひたすらに神を信じること、それが見返り、損得を考えない純粋な信仰だろう」とやり返されました。実は、そのときから、30有余年、この点について、腕組みをしたまま、今でも考え込んでいます。

難しいご質問を投げかけられますね。

1909デルトロ:2005/02/07(月) 22:43:03
独歩さん すみません。
くだらない質問で。
利益を考えてやる信仰は貧しい信仰といった
キリスト教の人の意見もわからなくはないんですが、
でもそれだと限りなく自己満足の信仰な気もするんですよ。
もっというと、
「得もないのに、なんで信仰やってんの?
自分が高尚なことしてるって思い込みたいだけでしょ?」
と、キツイいいかたですが、あります。
キリスト教の人はあまりにも高すぎる理想と、
等身大の自分にギャップが出て苦しむ人が多いようですね。
そんな自分を封じ込めるような気がします。

でもこれはこちらの視点であり、キリスト教からしてみれば
排他的で罰論ばかり、脅かしの宗教だって感じるんでしょうね。
スイマセン。話それましたが。

広宣流布がリアリティなくなってしまうと、
大聖人の仏法にリアリティがなくなってしまうんでよ。
けど罰や功徳にはリアリティがある(かもしれない)
罰や功徳の判断はあくまでも主観でしかない。
けど信仰している人間はほぼ全員といったら言い過ぎかも
しれませんが、現世利益を求めている。
あれが欲しいこれが欲しい。ああしたいこうしたいと。

では罰ってなんだ功徳ってなんだ
大聖人って正しいのか正しくなにのかって
どんどんジレンマに陥るんです
これを解決できるものが仏法だと信じていたわけで、
かなり混乱しています。

1910犀角独歩:2005/02/07(月) 23:01:04

デルトロさん、くだらない質問とはぜんぜん、思わないですよ。
根源的、かつ直截な疑問点であると思います。
こちら側からのキリスト教の見方、また、向こうから見方。かなり適切にとらえられていると思います。

> では罰ってなんだ功徳ってなんだ

ここら辺について、クラックを埋めるのが「即」ということなんでしょうね。たとえば「罰即功徳」とかね。類型的に言えば、「変毒為薬」なんていうのもあるでしょうね。


デルトロさんの今のような状態、立ち止まって考えあぐね、堂々巡りに陥っているとき、その突破口となり、罰であれ、毒であれ、悪であれ、それを一切合財、いい方向に転換し、前向き、上昇に切り替えることができるとするのが、力ある仏教なんていうとらえ方なのでしょうね。「不可能を可能にする」「妙とは蘇生」なんていうのも、その類じゃないでしょうか。

現実問題、祈って、人生を切り開いてきた人は上述を、もっともだと思うでしょうね。
反面、端で見ている人から、「あいつ、拝んでいるだけ」「拝むことが目的になっている」「宗教をやっている自分に酔っている」なんていう辛辣なご意見を飛び交うかもしれません。

わたしは、最近、こういう功利性を、説明原理として、御書、経典を引くのが仏教の在り方で、阿弥陀さんのお陰にするのが浄土念仏、神様への感謝となればキリスト教で、そうやって感謝させながら、人々を労するのが宗教団体・指導者…、でも、そういう潜在能力は、実は人間本来の、個人的な能力ではないのかと考え直すようになってきています。オフ会スレッドで書いた如くです。

…答えになっていないかもしれませんが。

1911愚鈍凡夫:2005/02/08(火) 00:27:22


>>1907:デルトロさん、初めまして。

「絵にも描けない美しさ」なんちゃって。

「だから、なに・・・・・。」 (-.-;)y-゚゚゚

まず、幾多の宗教が同じテーブルに座って、神や仏、そして信仰について話し合う機会を作ることから世界平和は始まると思います。
イラクでも同じイスラム教のスンニ派とシーア派が対立しています。イラクほど深刻ではないにしても、日蓮宗(富士門も含めた意味で)の統率力のなさを、他人事とは思えません。元を正せば日蓮その人が、謎だらけの人物であるからかも知れません。
歴史書にその存在を探し求めても見つからない人物、それが日蓮、その人でもあります。
先日、聖徳太子と親鸞聖人について犀角独歩さんとお話させて頂きましたが、何を隠そう、「日蓮聖人は架空の人物である」なんて論文が出てくると面白いかもと個人的に思ったりしています。

「祟りがありませんように・・・・・」 ちーん Ωヽ(-"-;)南無南無。。。。

ただ小生は、ピュアな心を保ち続けることができるのなら、今でも創価学会員であり続けたかも知れません。しかし、残念ながらその願望は打ち砕かれ、現在に至っております。
(-""-;)

1912犀角独歩:2005/02/08(火) 00:50:30

愚鈍凡夫さん、横レス失礼。
ピュアな心を持ち続けたからこそ脱会したというのも、あるんじゃないでしょうかね。

1913デルトロ:2005/02/08(火) 01:50:08
こんばんわ。
難しいですねえ。ピュアな気持ちを持ち続けられて
盲信ではなくかつ利益も欲しいとは、
本来からして欲張りな考えなのかもしれませんねえ。

私も二元論でとりあげてるのかもしれませんね。
しかし宗教に葛藤がつきものというのは
常みたいですね。
それをどう捉えていくのかの判定基準というのが
主観なのか客観なのかもわからなくなっているんで、
単純に正邪が欲しくなってしまう。
その心理もあるのかもしれません。

私は宗門と学会が決別してしまった時に、
そのタイミングで組織とは違う個人的なことも
重なって、御本尊様をカッターでズタズタに裂くということを
してしまいました。それも二度もです。
狂ったから御本尊に手をかけたのか、御本尊に手をかけたから
狂ったのか、精神病院の入退院を繰り返していました。
閉鎖病棟の保護室という場所に監禁され、手足もすべて
しばりあげられ、まさに地獄でした。
どこかのスレで、似たような体験のURLを開きましたが、
「これ自分だ」って。逆にいえば、自分だけじゃなかったんだ。
とも思いました。

今は薬もよくなっているんでしょうが、当時の副作用は
とても強く。退院してきてもほとんど廃人に近い状態でした。

1914デルトロ:2005/02/08(火) 01:50:54
もちろん信仰につけるはずもなく、日々自殺だけを考え、
廃人ライフを送ってきました。というより、こんなこと
しでかしといて生きていこうなんて虫がよすぎるなあと感じていました。

それからしばらくして宗門の信仰につきました。
(もちろんこんなことがあったなんて誰にも話せない)
自分の謗法の強さを自覚していたので、常に懺悔の日々です。
今では奇跡的に回復し、普通の日常生活も送れるようになったのですが、
今でもたまにふと思うんです。

あの時自分が御本尊様に手をかけていなかったならば、どんな人生だったんだろうと。
仮定は意味のないことかもしれませんが、
やっぱり考えてしまいます。違う人生があったのか、それとも自分は最初から
こうなるようになっていたのかと。
しっかり信心をして功徳をいただいた気もするし、そうじゃない気もする。
今こうして生活ができていること自体大きな功徳ではあるとは思うのですが
本当にそうなのかと思う自分も同時にいるわけです。
(ものすごく恐ろしいことをいっている気もします)

自分は罪業が深い。これだけは間違いない。
何かひどい目にあっても、それは自分のしでかしたことが原因だからと
考えやすくなってしまう傾向もある。
これが呪縛による神経症のようなものなのか。
あるいは違うのか。
呪縛からとき離れるべきか、背負っていくべきか。

1915デルトロ:2005/02/08(火) 01:51:30
私はこの信仰をずっと続けていこうと思っています。
しかしもしそれが、根源である日蓮大聖人から否定されるべきものなので
あれば、流派うんぬんなどまったくの瑣末なことであり、大げさにいえば
自分の人生の否定にもなってしまいます。

しかし否定されることが怖いわけではなく(もちろん恐怖ではありますが)
今後、どのように曼荼羅と向き合っていったらいいのかとの葛藤です。
信仰を捨てるのか否か。あるいは保つのか否か

日蓮大聖人が間違っているのであればこの呪縛からとき離れたい
(もちろん思っているより簡単なことではないでしょうが)
しかしこの仏法が正しいのであればこのままずっと罪障消滅を祈っていきたい。

これは正か邪かの二元論ではなく選択だと思っています。
独歩さんはどうお考えになるでしょうか?
独歩さんの答えはいつもリアリティがあってとても好きです。
失礼になりますが、ここで独歩さんの話を聞いても、おそらくすべてを委ねるようなことはないでしょう。
(かといって真剣に耳を傾ける姿勢は変えないつもりです)
またこれから先、どっちを選択しても葛藤からは逃れられないのも
わかっているつもりです。

ただ、もしみなさんの通ってきた葛藤と私の葛藤に何か通じるものが
あれば、アドバイスをいただきたく思います。

1916犀角独歩:2005/02/08(火) 13:38:21

デルトロさん:

辛い日々を送られたのですね。
わたしは25年前に倒れました。
それからは自分を苛む日々でした。
そんな当時の心象風景が、いまあなたの投稿と重なります。
辛い日を送りました。こんな掲示板は勿論ありませんでした。
カルトという言葉すらありませんでした。
生まれながらの日蓮正宗・創価学会であったわたしは、答えを、そこ以外に求めませんでした。
答えはすべて仏法のなかにあるとも思い込んでいたからです。

> 何かひどい目にあっても、それは自分のしでかしたことが原因

このような考え方を「自罰性」と言いますね。
『マインド・コントロールの恐怖』(恒友出版)でハッサン師は

「自己処罰に積極的に参加する人は、やがて自分がその罰に値するのだと信じるようになる」(P116)
「無意識のレベルで、このグループに加わることで自分の『罪』を罰していた」(P292)
「(あるメンバーは)やめると気が狂うという観念を(略)埋め込まれていた。驚いたことに、彼はやめたあと本当におかしくなった。両親は彼を病院へ連れていった。医師たちの意見では、彼はたしかにおかしい、実際分裂症だ、というのだった。青年はこの診断を、自分のリーダーが正しかった証拠だと解釈した」(P306)
「(あるメンバーは)もしグループをやめようものなら自己破壊を起こすのだと条件づけられていた。そして実際やめてみると、まさにそのことが起こりはじめたのだった−−救出カウンセリングに出会うまでは」(P307)

わたしは、この本の、上述の記述に出会うことによって、それまでの自罰的生活が脱却することが出来ました。その後、わたしは優秀な学者、カウンセラーに出会うことが出来、今に至っております。

わたしが創価学会にいたとき「御本尊を破ると、同じように自分もバラバラになって死ぬ」などと脅かされたものでした。たぶん、こんな呪文は顕正会をはじめ、石山教義への強い信念体系下では今でも語られていることでしょう。しかし、実際のところ、昭和20年代より創価学会の中堅幹部を務めた親の元で育ったわたしは、ゴミ捨て場に捨てられたり、壁に貼り付けられたり、破却されたこと、燃やされたことなど、たくさんの事実を見聞しています。その実行者も多く知っていますが、特に、それに見合う「罰」が当たるものでもありませんでした。

上古を探れば、蓮師の御筆漫荼羅ですら、信者が亡くなるとともに埋葬された事実は散見でき、また、漉き返しにしたことも窺えます。

1917犀角独歩:2005/02/08(火) 13:38:45

―1917からつづく―

漫荼羅のこと、この世で、それをもっとも廃棄している者があれば、それは印刷業者でしょう。
現在、石山、学会ともに、漫荼羅本尊は、印刷製版で作製されていますね。
「試し刷り」という行程があります。印刷機にインクが馴染み、綺麗な印刷が出きるまで、時には何百枚もの紙を無駄にして輪転機を回し続けます。本刷りではない多量の漫荼羅は、当然、その後、廃棄処分されるでしょう。また、石山には返却されてくる大量の印刷漫荼羅を処分する専用の焼却炉があることを、学会に移った僧侶が暴露したことがありました。焼却効率を上げるためか、軸の部分は破り取ることが怖かったなどと体験を載せていた記憶があります。
つまり、本尊の破却は、実はその発行元でこそ、もっとも行われているということです。
しかし、印刷会社が火事になったとか、石山で焼却作業をした僧侶が焼け死んだなどという話は聞いたことがありません。

何より、漫荼羅とは、蓮師がいうところの、本当の本尊なのでしょうか。
「観心本尊」という言葉があります。実はわたしは、この言葉に蓮師の(漫荼羅観ではなく)、本尊観が籠もっていると思います。漫荼羅とは、その本尊を観(み)る具である、といまのわたしは考えています。護札、勧請札の意味合いもあったのかもしれません。

チベットの砂マンダラをご存じですか。緻密に丁寧に制作しても、しばし時間で風が一切を消し去ります。蓮師御自身、常に楮紙を用いて漫荼羅を墨で図示した以上、その耐久度が尽き、やがて朽ち果てる日が来ることは当然、意識していたと思います。反面、霊的、かつ密教的な要素を強く持つ蓮師は、その漫荼羅、呪力、霊力が具わっているという確信もあったでしょう。

しかし、その漫荼羅「本尊」が功徳を与えるのも、またただ紙墨と見るのも、人間です。わたしが蓮師漫荼羅を通じて、垣間見るのは、日蓮聖人御自身の、そが己中に観た本尊の相貌(すがた)です。

漫荼羅が真実か、本尊が真実か…と問う前提として、それよりもっと根元的なことがあるでしょう。

そもそも、自分が教えられた日蓮聖人の教えは、本当に日蓮聖人の教えなのかということです。
少なくとも、いまの各集団がいう日蓮(仏法)像は、日蓮その人とは、かなり大きくかけ離れているように映じます。

まあ、あまりせっぱ詰まらず、ゆったりと鷹揚に構え、上述の点を咀嚼してみてください。
いずれにしても、元来、仏法の教えとは、人を治罰したり、裁いたりするものではないでしょう。
聖書神話の世界ではあるまいし、子羊のように言うことを聞く人ばかりの永遠の救いを与え、聞かなければ裁き・地獄に堕とす存在ではありません。そんな罰論の混入は、バラモン教への先祖帰り、西の影響を受けた改変仏教の有様であると、わたしは思えます。もっとも蓮師もそのような強迫観念に生きた人であったでしょう。しかし、そのような部分まで、全部が全部、引き受ける必要はありませんでしょう。

二元論、奇しくもそうお書きになっておられますが、まったくそのとおりで、善いところは採り、不要なところ用いない、信が真っ白で、不信が真っ黒とすれば、その間に無段階の無数の灰色が広がっています。そのグラデーションの一切合切もまた真実であると言うことでしょう。そのどちらかに偏ることを戒め、中道を説いたのがシャキャムニの教えと解釈される後継者の英知にわたしは頷くものです。

1918吉祥仙人:2005/02/08(火) 18:41:36
 デルトロさん失礼しました。
 
 以後こちらに書き込みます。

1919デルトロ:2005/02/08(火) 18:54:33
独歩さん。真摯に答えてくださってありがとうございました。
何度も読み返しました。おそらく、自分の中でもすぐに解決していく
問題ではないのでしょう。
いまだじくじくと傷口が膿み、血が流れているのは感じます。
ただ、独歩さんのお言葉が、瘡蓋を作っていくひとつの縁になるかも
しれないとは思いました。
すぐにすべての葛藤から開放されるとは思っていませんが、
ただもう一度、色んなことを見つめなおすいい機会だとは思っています。

ところで、もう少しお話してもいいですか?
他のスレッドにある文章を引用するのがいいことなのか
よくわからないんですが。独歩さんの

<非常に極端な言い方になるかもしれませんが、「本門戒壇の大御本尊」によって功徳があったのではなく、その功徳によって「本門戒壇の大御本尊」たらしめていたのは、実は信者(学会で言えば、その会員)であったという事実を、ここに、わたしは確認しました。

強い信仰心があれば、聖地・器物、もっと言えば石山僧(殊に「御法主上人猊下」)がなくても、たしかに功徳の体験があり、さらに「生命力が涌く」実感もあるわけでしょう。

という意見は面白い見方だなあと思いました。
これって野球チームやJリーグのファンみたいなもんなのかなと。
たとえば日蓮リーグというのがあり、各流派の人間たちがこぞって自分たちの流派をスタンドから応援しているわけです。
お互いに野球を愛している気持ちは変わらねど、自分のチームこそが最高と信じきっているわけだから
互いに攻撃的なわけです。互いのスタンドは常にまっぷたつに割れていて、相手チームのファンが自軍のスタンドに
まぎれてきてしまったらそれこそ大騒ぎで吊るし上げられます。
ファン同士の争いは自分の応援するチームを最高だと常に信じて疑わないわけだから、
当然そこに正も邪もない。けれどみんな野球を楽しんでいる。と同時に憎んでもいる。
一度スタンドに入ってしまった以上は、たとえ本当はどこのチームも応援したくなくなっても、
応援し続けないと士気が下がるし、みんなに迷惑がかかるので続けなければいけない。
もし翻って相手チームの応援団に入ってしまったら元の応援団チームからは罵倒し続けられる。
たとえ連敗続きでも、貧乏球団でも金持ち球団でも、みんな愛され続けてなくなることはない。
応援をしていると、どんどん気持ちがよくなってきて、自分のチームの利点だけみつけ、
相手チームの欠点を罵倒する。とにかく自分の応援しているチームは最高のチームだと、
みんなが各自信じて疑わない。いつか自分のチームを世の中の人全員が応援してくれる日がくると、
信じて疑わない。球団は、彼らがどんな問題を起こしたとしても、
単なるファンの集いなので、当然責任を問われることなどない。
他にもキリストリーグ、天台リーグ、その他無数のリーグがあり、
リーグ内は常に争っている。

この比喩が当たっているのかはわからないし、私の思い込みみたいな部分もあるのかもしれないけど、
なんか宗教って広い視野でも狭い視野でも、単なるゲームなのかなって気もします。

1920吉祥仙人:2005/02/08(火) 19:00:24
 曼荼羅について

 私は曼荼羅(御本尊)は自身の十界の対境だと指導されてきました。自身の生命の鏡だと。

 確かにこの世にあるもので最も尊い物の一つと思いますし、それを粗末にすることは自身の
生命を粗末にすることに通じるとは思います。しかし「胸中の肉弾におわしますなり。」
(教学不足で出典が書けません。)とあるとおり、その扱いを教条的にとらえることはないと
思います。

1921犀角独歩:2005/02/08(火) 19:33:49

吉祥仙人さん、端的に申し上げましょうか。
印刷漫荼羅を作ることほど、わたしは漫荼羅に対する冒涜も、不敬もないだろうと思っています。だからこそ、興師は禁止したのでしょう。

我が家が昭和28年の入信です。物心ついたときに、仏壇のなかに線香の煙で煤けた寛師形木本尊がありました。わたしが勤行を覚えたのも、題目を唱えたのも、その本尊です。昭和52年、正本堂が建立し、特別御形木本尊が授与されることになりました。
母は「今度は、もっと大きな立派な御本尊様が来るから」、そう言って、仏壇からその煤けた寛師本尊は外されました。父は、それを丁寧に袱紗を包み、背広のポケットにしまいました。
「本部に行って来る」、そう言って、外に出ると、タクシーに乗り込みました。
その瞬間、わたしは、元の寛師本尊に二度と会えなくなることを咄嗟に悟ったのです。
「…、待って」、そう小さく叫んで、父の乗ったタクシーをわあわあ泣きながら追っかけました。母はわたしを引き留めました。「あの御本尊様はどうなるの。ねえ、どうなるの?」、そう聞き質すと、母は困った顔をしました。
「お山に帰るんだよ。それで大切に保管されるんだよ」
「ほんと、ほんとなの」
わたしは何度も聞いたのを覚えています。
「大切に保管してもらえるのならばいい…」と、そう自分を納得させたのです。
でも、事実は違っていました。石山に大量に返却されたそれまでの本尊は焼却炉ですべて燃やされたわけでしょう。
わたしは、このようなところにも石山信仰の実態というものがあることから、目を背けられません。

1922吉祥仙人:2005/02/08(火) 19:40:54
 デルトロさんへ

 >1919・・・野球チームやJリーグ・・・

 いい意味で、絶句してしまいました。すばらしい発想ですね。少し考えてみます。

1923犀角独歩:2005/02/08(火) 19:47:23

1919 デルトロさん、野球の観戦ですか。なるほど。うまい譬えですね。

チャルディーニ師の『影響力の武器』(誠信書房)に載る「連合(投影された栄光)」という話を思い出しました。

「投影された栄光によくしたいという気持ちは誰にでも多かれ少なかれありますが、自分が観戦できなかったゲームのチケットの切れ端一枚を五十ドルで買うために雪の上で行列をつくった人々には、何か特別なことがあるように思われます。それはおそらく、家に帰ってから友人などに、自分がその偉大な勝利の場面に居合わせたことを『証明する』ためなのです。彼らは一体、どのような人なのでしょうか。私の推測が的外れでなければ、彼らは単なるスポーツ熱愛者ではなく、背後にパーソナリティの脆弱さが隠されている人たちです。つまり、否定的な自己概念をもっている人々なのです。こころの深層に、自分は価値が低い人間だという気持ちがあるため、自分自身の業績を高めて名声を得るのではなく、他者の業績との結びつきを形成し、それを強めることによって名声を得ようとしているのです。私たちの文化の至るところにはびこるこの種の人間は、実に多種多様です。有名人を友だちのように言う人たちは、その古典的な例です。ロック・ミュージシャンを追い回すグルーピーもそうです。彼女たちは、有名なミュージシャンとしばらく『一緒に』いたと友人に言いたいがために、自分の性的魅力を売り物にしているのです。どのような形であれ、そのような人々の行動には似たような主題があります。それは、物事の達成は自分が外部から得られるという、かなり悲劇的なものの見方です」(P238)

なお、ここで言う「連合」とは

「連合というのは一般的な原理であって、望ましくない結びつきにも、望ましい結びつきにも適用されます。悪い出来事でも良い出来事でも、それと単に結びつけられることが、人々が私たちに対しどのような感情を抱くかに影響を与えるのです」(P226)
「 奇妙な行動の多くは、人々が連合の原理を十分に理解していて、望ましい現象−−自分がその現象の原因ではない場合でも−−と自分を結びつけ、逆に、望ましくない事象から自分を遠ざけようとする事実によって 説明できます」(P233)
「著名な作家アイザック・アシモフは、私たちがコンテストを見るときの反応を次のように描写しています。『他のすべての条件が等しければ、人は自分と同じ性別、同じ文化、同じ地方の人を応援する……その人が証明したいと思っているのは、‘自分が’他の人より優っているということなのである。応援する相手が誰であれ、その相手は‘自分の’代理になる。そして、その人が勝つということは、‘自分が’勝つことと同じなのである』 」(P236)
「私たちは望ましい連合をひけらかし、望ましくない連合を覆い隠すことによって、周囲の人たちが私たちを高く評価し、もっとすきになるようにさせているのです」(P238)

1924犀角独歩:2005/02/08(火) 20:02:28

1921をちょっと補足。

しかし、それでも、いまわたしはそんな漫荼羅幻想から脱却したわけです。
いまは、もうそんな呪縛にとらわれることはありません。
その課程で、漫荼羅の再考は、わたしにとって、極めて大きな意味を持ったわけです。

1925デルトロ:2005/02/08(火) 20:22:19
吉祥仙人さん、すいません
やっぱり場違いな人間だと実感しました。
失礼します。

独歩さん。
宗教はやっぱり商売であり、営利がすべてにおいて優先されるのかな
とも思いました。現実にお金がかかるのは否定しませんが、
お金が主導になってしまい、人を気持ちを癒すどころか、
人を傷つけることにもどんどん鈍感になっているんだと思います。
怒りよりも、強い悲しみを感じます。
すべてにおいて効率が優先されるのであれば、宗教とは
呼べないと思いますが、争って現世利益を追い求める信者たちにも、
同じような醜い姿があるのかもしれません。
私なりの解釈でいえば、信仰には信と慈悲が常にあることが理想だと
思っています。しかし同時にまったく逆のものも備えており、
ここが矛盾と映るとどうしても苦しまなくてはなりません。
当時の独歩さんの子供心が、
傷つき、苦しみ、怒り、悲しみ、憤り、の複雑な感情が入り混じったのは
とてもよく理解できる気がします。罰論によって、
はけ口をみつけられないのは、あまりにも残酷だと思います。

私は教学的なことはわかりませんが、
ここの掲示板は、そんな人たちのセラピーになる場所だと
思っています。信仰を続けていけば、矛盾を感じ、傷つき、苦しむ。
しかしそのはけ口はまったく用意されず、罰の恐怖を
叩きこまれる。これこそに矛盾を感じます。
その蓋をはじめて開放したのがここなのだと思っています。

ありがとうございました。

1926犀角独歩:2005/02/08(火) 20:47:03

デルトロさん、まだロムしていますか。

わたしの結論は、こうです。
ここでわたしが行って来たことは、カリスマ信仰、器物信仰、集団信仰から脱却です。
仏教は、実は極めて自立・自律です。
わたしが極度の神経障害から立ち上がるカリキュラムで、もっともしんどかったのは、自分の頭で考え、自分で決断をすることでした。
なぜならば、それまで、答えはすべて経典・御書を解釈する集団・指導者が用意してくれていたからです。ではあとはなにをやっていたか。それを「信じ・実践すること」だけです。

脱会という機縁で、その思考と決定権を自分の手に取り戻したものの、では、どうしたらよいのか…。その時、初めてわたしは気付いたわけです。自分は何も考えてこなかった。ただ、考えられてきた形を、信じることだけをしてきただけだったと。そこからの立ち直りの道程は、自立・自律、依存から脱却であったわけです。しかし、その道程で、気付いたことは、なんと、この宗教からの立ち直りと、神経障害からの立ち直り、カリキュラムの酷似です。
しかも驚いたことに、原始経典から垣間見られる釈尊の教説は、このような到達点とも、よく一致しているということでした。

その意味で仏法は捨てたものではないと、わたしは思っています。
なお、わたしは天台の教説を全面的に認める立場ではありませんが、

> 蓋をはじめて開放した…

という一説を拝読し、『摩訶止観』の「蓋を捨てよ」という一節を思い出しました。

なおまた、デルトロさんは、少しも場違いな人ではなく、また、吉祥仙人さんも、殊に揶揄したわけでもないと思います。むしろ、デルトロさんの新鮮、かつ独自の観点に感嘆の意を表したのではないでしょうか。わたしも、少なくともそのように感じましたよ。

それにもう一つ。当掲示板で、もっとも場違いな人間であると思われているのは、このわたしです。わたしを批判する投稿をお読みになれば、直ちにそれは了解されるでしょう。わたしは富士門の掲示板で、富士門の屋台骨を次々と切り倒しているからです。

しかし、でも、わたしは知っていることがあります。それは何か。仮に富士門の一切合切を叩きつぶしても、信者である人々の清廉な精神は決して死なないということを、です。

もう少し、ゆっくりとここで逗留されることをお奨めしますよ。

1927デルトロ:2005/02/08(火) 21:01:12
独歩さんありがとうございます。
今はきっと私は、精神的に弱っている状態なのでしょう。
自分でもとても過敏になっているのがわかります。
混乱しているんでしょうね。

独歩さんのような暖かい言葉が、他の場所で聞くことが
できなかったのが、なによりも残念に思います。
気持ちが落ち着いたら、また、色々と伺わせていただこうかと
存じます。その時は、あらためてよろしくお願いいたします。

1928犀角独歩:2005/02/08(火) 21:07:17

デルトロさん:

何も無理をすることはありませんよ。
自分のペース、自分が安全であると思う距離感を掴むことは何よりのことですから。

いつでも、お待ちいたしております。
なお、ここにわたしが投稿をしていないときは、フリーメールでけっこうですから、お気軽にメールをお寄せください。

saikakudoppo@rio.odn.ne.jp

1929管理者:2005/02/08(火) 21:18:02

デルトロさん
犀角独歩さん
吉祥仙人さん

大変共感を懐きながら、皆様の議論を拝見しています。今後とも宜しくお願いいたします。

>それにもう一つ。当掲示板で、もっとも場違いな人間であると思われているのは、このわたしです。わたしを批判する投稿をお読みになれば、直ちにそれは了解されるでしょう。わたしは富士門の掲示板で、富士門の屋台骨を次々と切り倒しているからです。

これは、富士門掲示板の管理者でありながら、富士門の屋台骨が次々と切り倒されてゆくのを快く思ってきた僕も、最も場違いな人間ですね。そもそも、四分五裂した富士門の統合を目指して、この掲示板は立ち上げられたわけです。ところがどっこい、議論を突き詰めてゆくと、この富士門各派の多くがいかにも食わせ物の似非日蓮で有ったかが白日の物となってしまいました。その最大の功労者は勿論犀角独歩さん、これはこの掲示板に参加された皆さんの異口同音の思いだと思います。批判する人も賛同する人も犀角独歩さんを差し置いては何も語れない。

僕も、戒壇本尊に対する器物崇拝は止めました。今は、さらに進んで曼荼羅を直ちに本尊とはしない立場にいます。南無妙法蓮華経とは、釈尊の法華経を信仰することであり、一つの仏性信仰の形なんだと思っています。

富士門の各教団に在って、傷ついた方がいらつしゃったなら、この掲示板はその方のためにあります。そして、この掲示板は、その方の自分の掲示板なんだ思ってください。何の遠慮も要りません。思う存分御参加の皆さんと議論してみてください。管理者は、唯ひたすら、その方に取って、この掲示板に参加した事がプラスになる事を願うものです。

1930愚鈍凡夫:2005/02/08(火) 21:27:44

横レス失礼します。
小生は、信仰とは心が透明になっていくことではないかと思います。ドンドン浄化されて澄んでいく事ではないかと思います。
心が、全てのもののあるがままを映し出す鏡となり、如何なる時も冷静さを失わない安定感を獲得することではないでしょうか。逆な言い方をすれば、そんな信仰を模索していると言った方が小生の心情としてはピッタリですね。
信仰観は人それぞれですから、現世利益至上主義といった考え方も否定しませんが、小生には馴染めません。
本当は、体験を語るのが一番いいことなのでしょうが、体験を語ると小生が誰なのかが分かってしまうものですから(済みません。それほど特殊な体験を持っています)。

1931真実 探求者:2005/02/08(火) 21:44:49
1930 愚鈍 凡夫さん、、<信仰とは心が、、、ドンドン浄化、、、澄んで、、>
  小生のコラソン(心臓)にグサリ、、、です。 諸氏の卓見には トテモ、、、勉強になりました、、。

1932真実 探求者:2005/02/08(火) 22:21:17
失礼します、、。 1930 の御主張こそ===日蓮さんが追い求めていました=== 即身の成就的なる仏の境涯===イワユル成仏、、、ではないでしょうか、、????

1933愚鈍凡夫:2005/02/08(火) 22:46:11

真実探求者さん、レス有り難うございます。
蓮祖が追い求めた成仏が如何なる姿を指すのか分からないのですが、敢えて推察すれば、釈迦牟尼仏のような人格を獲得するのが大乗仏教で言うところの成仏でしょうか。
「スッタニパータ」や「ダンマパダ」を読んでみると、ゴータマ・ブッダは特別なことを言っているようには思えないのです。
小生には、物事の本質を見極めなさいと御教示下さっているように思えるのです。

以前にも紹介しましたが、ここのHPで「スッタニパータ」、「ダンマパダ」が読めます。
まだ、読んでいない方はどうぞ。

「仏陀の部」
http://sugano.web.infoseek.co.jp/butu/index.htm

1934真実 探求者:2005/02/09(水) 00:02:35
ドーモです、、。 真摯に勉強をさせて戴きたく存じ申し上げます、、。 成仏とは、、、? 私の求める???でございます。 今後もあらゆるHPを渡り歩きましても、はたまた自分の実足を駆使しても探求する所存で御座います、。 何卒宜しくご指導のほどを、、!! 早々。

1935デルトロ:2005/02/09(水) 00:45:35
独歩さん。
少し気持ちを落ち着けて、メールしたく思います。
今は崩壊の段階なので、少なくとも全部壊しきってから
連絡します。親切にありがとうございます

1936犀角独歩:2005/02/09(水) 19:05:38

管理者さん、1日、空けましたら、他で議論が進んでいますが、1929につき、御礼申し上げます。
有り難うございました。

1937犀角独歩:2005/02/09(水) 19:15:46

【1921の訂正】

誤)昭和52年、正本堂が建立
正)昭和42年、御供養があり、昭和47年に正本堂が建立

1938吉祥仙人:2005/02/09(水) 20:27:33
 デルトロさんへ

 1922の私の発言は、皮肉でも、誹謗でもありません。
 ただ、その様に受け取られたのなら謝罪いたします。

1939デルトロ:2005/02/09(水) 21:09:48
吉祥仙人さん。
そんな、謝らないでください。
私はリハビリのつもりで書いてるつもりですから。
今まで自分の目に映っていた風景を、違う視点で見てみたく
なっただけですから。
今まで目に映っていて信じていたはずの海が、
突然本当はこれ川だったんだよっていわれてびっくりしてるんです。
じゃ、海って何だろうって、
ようやく考えようとしているだけですから

1940デルトロ:2005/02/09(水) 21:51:43
独歩さんいらっしゃいますか?
またくだらない質問していいですか?

日蓮正宗の教義が破綻しているというのは、
宗門、学会、正信会、(あえて顕正会はいれません)
上層部のどの位置ぐらいまでが把握しているとお考えですか?
どこまでが確信犯だとお考えでしょう?
そしてまた、戸田城聖は?
厳密な回答を求めているわけではないので、なんとなくこの辺ぐらい
までかなあたりで結構ですので教えてください。

日蓮リーグの話を気に入ってくださったなら恐縮です。
ただ、なぜ日顕上人は教義の破綻をわかっているのに、
最大のスポンサーである学会を手放してしまったんでしょう?
俗ないいかたですが、それならば多少の冷遇はあっても
損して得とれと考えるのは私のような俗の考えかたでしょうか。
私も宗門は贅沢しすぎたの感はありますが、一時の怒りの感情で
金の卵を産む鵞鳥の腹を割くようには思えないのです。
52年路線があっても実質上、学会はびくともしませんでした。
破門したら宗門に流れてくるなどと楽観した見方はしていないでしょう。
ましてや決別すれば、過去の例から見て、どれだけ誹謗中傷されるかも、
予想がついたはずです。
圧倒的財力を捨てて、圧倒的に誹謗を受け、経済的にも疲弊する茨の道を
選んだ。ここがどうも腑に落ちないのです。
そうまでして学会を許せなかった原因はなんだとお考えでしょう?

1941吉祥仙人:2005/02/09(水) 22:18:58
 でしゃばってすいませんが

 人間の一番強い感情、憎悪だと思います。

1942愚鈍凡夫:2005/02/09(水) 22:36:14

横レス失礼します。
創価学会の場合、牧口さんの「価値論」、戸田さんの「生命論」、この出発点から石山教学とは水と油だったのではないでしょうか。
しかし、創価学会のおかげて石山が経済的に潤ったのは事実ですから、戦中の神札問題同様、妥協できる点は極力妥協してきたというのが石山のスタンスではなかったでしょうか。
ただ、石山と創価学会は、池田さんが「創価学会」と「日蓮正宗」の上に、双方を統括する組織を作ろうと企てた頃から、実質的に距離を置くようになっていたと思います。
石山教学については、他山の相伝書・口伝書に展開される不可解な理論を自宗の教学に取り込んで、辻褄合わせをした時から教義破綻をしていたのだと思います。
それでも、江戸時代に日寛という矛盾に満ちた不可思議な理論を展開する人物によって、「日蓮本仏論」を前面に押し出し、辻褄合わせが完成を見たのではないですか。

1943吉祥仙人:2005/02/09(水) 23:14:01
 デルトロさんへ

 でしゃばって、答えのヒントにもならないことを書き込んですいませんでした。
 
 犀角独歩さんがまだいらっしゃらないようなので、愚鈍凡夫さんの書き込みを
ふまえて少々。
 なぜ憎悪もしくは怒りの感情を持ったか。創価学会では阿部管長個人の性格に
収れんさせることが通説となっています。私もその部分が多いと思います。
 しかし、(また島田教授の影響ですが)愚鈍凡夫さんの指摘する前半の点も
根源的にあるかなと思います。「創価学会と日蓮正宗の上に・・・」については
異論があるのですが。
 教義の破綻については、まだ勉強不足で納得していませんが、また反論も
出来ませんが、愚鈍凡夫さんの言う「辻褄合わせ」は、理論の発展として容認
出来るのではないかと思います。法華経を釈尊の直説ではないとして、文献上
学者に認められる(字がでない・・)アゴン経のみが正しいとする某師の説など
愚の骨頂と思います。

1944犀角独歩:2005/02/09(水) 23:28:08

1940 デルトロさん、ちょっと、考えてからお返事を差し上げます。
(いまから、ようやくと夕飯なものですから)すみません。

1945無徳:2005/02/10(木) 00:01:23
犀角独歩さん、先日は有意義なオフ会に参加させていただき誠にありがとうご
ざいました。
sunyaさんやワラシナさん等々懐かしい方々と再会が出来たことを心から感謝
申し上げます。特にsunyaさんとは大変同感でき、また、示唆に富む語らいが
出来とても楽しく過ごさせていただきました。

愚鈍凡夫さん、

>江戸時代に日寛という矛盾に満ちた不可思議な理論を展開する人物によって
>「日蓮本仏論」を前面に押し出し、辻褄合わせが完成を見たのではないですか。

とのことですが、<矛盾に満ちた不可思議な理論>この辺を少し解り易く解説
していただければ幸いです。決して急ぎませんですからお時間の許される範囲
でお答え願えればと存じます。

1946犀角独歩:2005/02/10(木) 00:36:05

無徳さん、せっかく、島田師の講演を聴いていただいたのに、そのことはあまり参考にならず、酒宴で歓談のほうが良かったのですか(笑)
では、企画者としては、失敗と判断しなければなりませんね。酒のうえの雑談は、別にいつでも出来ますからね(笑)

1947犀角独歩:2005/02/10(木) 01:17:21

1940 デルトロさん:

> 日蓮正宗の教義が破綻
> 宗門、学会、正信会、(あえて顕正会はいれません)
> 上層部のどの位置ぐらいまでが把握しているとお考えですか?

石山では、少なくとも能化以上はわかっているでしょう。先にも記しましたが、彫刻本尊の偽作ネタを安永師にレクチャーしたのは、かの有名な故老であると言いますから。

学会は、本部首脳クラス以上、もちろん、池田さんは掌握しているでしょう。

正信会は、どうでしょうか。あそこはそれぞれの信念大系(石山教義を出ませんが)の寄せ集まりですから。一部、まじめに古文書を研究している人々には敬意を表しますが、何度も記してきたことですが、彫刻(所謂「本門戒壇の大御本尊」と言われるもの)と、お肉(所謂「御肉牙」と言われるもの)に、ちゃんとした見解を述べなければオカルト教団の範疇を出ることはないというのがわたしの意見です。まじめな研究者という看板を立てるのであれば、まず、彫刻とお肉を信者に信じさせた過去の懺悔し、自己批判してから始めろと言いたいわけです。まさk石山に返り咲こうなどというケチな損得勘定がないのであれば、自分自身の根本を質せというのが言いたいことです。もっとも数年前、有職にあった正信会僧侶に会ったとき「二箇相承、あれは偽物です」と言っていました。ですから、そのような見解はしっかりと文書化して発表してしかるべきです。ついでに彫刻本尊、御肉牙についても公式見解を発表すべきでしょう。
まあ、そんなことを信じている上層部がいるわけはないでしょう。信じている信者に話を合わせているだけ?、ならば、あまりにも信者を馬鹿にした話であるとわたしは思います。


> どこまでが確信犯だとお考えでしょう?

確信犯は阿部さん、途中で知って愕然とし、方向転換を余儀なくされたのが池田さんではないのかというのが、現時点におけるわたしの見解です。正信会については、知りません。繰り返しますが、古文書研究では敬意を表しますが、彫刻本尊・御肉牙・唯授一人などということに対して、いまだちゃんとした見解を示さないとは何事だと、わたしは信仰面から、信者指導の在り方に正信会僧には疑問を抱いています。

> 戸田城聖は?

ここの掲示板では、最低「さん」付けが原則です。
ですから、わたしは戸田さんとします。
この人は、牧歌的というか、案外、そのまんま、信じていたのかもしれません。
ただ、その知識は、石山、日蓮門下(特に戦前の国柱会の影響)の範囲で、それ以上の仏教的な知識に目を向けていなかったのは残念です。(100年間に崩壊した)明治開闢頃の仏教常識のなかから石山優位を考えただけというのはいかにも惜しかったと思うばかりです。

1948犀角独歩:2005/02/10(木) 01:17:44

―1947からつづく― 

> 日蓮リーグの話を気に入ってくださったなら恐縮です。

たいへんに優れた比喩でした。

> なぜ日顕上人…最大のスポンサーである学会を手放してしまった

もっと、自分のところに着くと誤算したのではないでしょうか。
学会の半分ぐらいは自分たちに着くと「とらぬ狸の皮算用」をしたのだとわたしは思っています。

> 経済的にも疲弊する茨の道

これは石山が捏造した美談でしょう。
本当か嘘か知りませんが、富士宮筋の金融通に言わせれば、石山は1兆円持っているそうですよ。

奉仕供養という登山の際に阿部さんに直接する献金は、個人の収入になっているのではないでしょうか。奉安堂の建立でもずいぶんと儲かったという話も伝わります。これは未確認事項です。しかし、学会破門後、六万塔、客殿、奉安殿等々、後からあとから、多造塔寺の限りを尽くしましたが、必ず、ゼネコンその他のバックマージンは阿部さん個人の懐に転がり込んだのではないでしょうか。これが昔だったら、創価学会というクッションが入ったので思うままにならなかった。いまは、直参だからやりたい放題ではないのか?と、わたしは見ています。
阿部さんは、登座してどれほど、金を掴んだ、まあ、人が聞けば腰を抜かすような額ではないでしょうか。それによって、石山歴代の阿部家世襲制を不動のものにしたという分析もあるぐらいです。この前の石山の坊さんの会合で、(石山内でしか通用しない言い方ながら)高僧が、信彰さんをヨイショした話を聞いて、わたしは吐き気を催しました。いずれにしても(後世の創作であるにせよ)『大集経』の「多造塔寺堅固」の次に来るのは、「白法穏没」と相場は決まっています。

まして、阿部さんは、教学部長時代に既に彫刻本尊が禅師授与漫荼羅を原本にした構成の偽物であることは知っていたのでしょう。知ったうえで、登座し、池田さんを法華講総講頭に返り咲かせ、さらに破門し、創価学会も破門した。そのなかの彫刻が偽者であると知りながら、正本堂を壊したうえで、奉安堂を「再建」したのでしょう。「神をも恐れぬ」ならぬ「仏をも恐れぬ所業である」と、わたしは弾劾するものです。

> 学会を許せなかった原因

先に引用したハッサン師は

「破壊的カルトは、どんな種類の反対も我慢できないのである。人々は賛成するか(または入会候補者とみなされるか)、さもなければ敵である」(P188)
「自分が組織の中で上昇して(略)私はますます憑かれた人間になっていった。権力がほとんど中毒になっていて、選択するときには、道徳的に正しいことより、自分の権力を守り増大させることを基準としはじめていた」(P299)

という指摘は、阿部さんにも当て嵌まると思えます。そして、何より

「今日の破壊的カルトの指導者には、自分自身かつてカルトにいたため、意図的に金をもうけたり人々を利用したりというつもりからではなく、ただ妄想とマインドコントロールから行動している人物も多い。私がカウンセリングをして救出をした人々が入っていたいくつかのグループのリーダーは、『金銭のためにやっている』のではなく、私の見るところ自分の影響力に中毒になっている人間たちだった。多くの破壊的聖書カルトのリーダーは、目立った浪費家でもなく、神と聖書を自分より上の権威としているように見える。にもかかわらず、聖書と神意に関する彼らの解釈が、人々を操作しコントロールするのに使われているのである」(P183)

というカルト全般に亘る批判を換言すれば、

「今日の破壊的カルトの指導者には、自分自身かつてカルトにいたため、意図的に金をもうけたり人々を利用したりというつもりからではなく、ただ妄想とマインドコントロールから行動している人物も多い。私がカウンセリングをして救出をした人々が入っていたいくつかのグループのリーダーは、『金銭のためにやっている』のではなく、私の見るところ自分の影響力に中毒になっている人間たちだった。多くの破壊的御書カルトのリーダーは、目立った浪費家でもなく、神と聖書を自分より上の権威としているように見える。にもかかわらず、御書と仏意に関する彼らの解釈が、人々を操作しコントロールするのに使われているのである」

と読み直すとき、まったくその批判に当てられると、わたしは考えています。

各教団の美談は、鵜呑みにすると、酷い目に遭います。真実を見つめる勇気は、時には苦悶を伴いますが、しかし、真実に至る道程であれば、痛くして痛からずです。

1949犀角独歩:2005/02/10(木) 01:22:02

最後の言い換えが尽くされていませんでした。
繰り返します。

「今日の破壊的カルトの指導者には、自分自身かつてカルトにいたため、意図的に金をもうけたり人々を利用したりというつもりからではなく、ただ妄想とマインドコントロールから行動している人物も多い。私がカウンセリングをして救出をした人々が入っていたいくつかのグループのリーダーは、『金銭のためにやっている』のではなく、私の見るところ自分の影響力に中毒になっている人間たちだった。多くの破壊的御書カルトのリーダーは、目立った浪費家でもなく、仏と御書を自分より上の権威としているように見える。にもかかわらず、御書と仏意に関する彼らの解釈が、人々を操作しコントロールするのに使われているのである」

1950デルトロ:2005/02/10(木) 01:58:38
独歩さんありがとうございます。
そうですね。戸田さんと、訂正させていただきます。

ところでハッサン氏の本なんですが、手に入りそうです。
ぜひ研究してみたいと思います。
もうひとつだけいいですか?
今私は、リアリティのある言葉を欲しがっているのかもしれません。

重複している質問なのかもしれませんがあえて問います。
これは個人的な問題かもしれません。
ノーコメントでも結構です。

独歩さんは、
曼荼羅を、書写することは可能ですか?
書写してみたい衝動にかられたことはありませんか?
しないのならば、なぜなのでしょうか?
必要ないといえばそれまでですが、
よかったらその理由も教えてください。

1951犀角独歩:2005/02/10(木) 06:51:33

デルトロさん:

> 曼荼羅を、書写することは可能

わたし個人が、ですか。
細かい書き方でわからないところがありますね。
また、御筆漫荼羅はネットで拝見できますし、特にその必要性は感じません。
もう少し具体的に申し上げれば、字像漫荼羅が本尊であると考えておりませんので、その意味で必要性は感じません。
ただし、石山が言うように「法主の権能」であるとは、まるで思いません。

わたしは石山の彫刻「本尊」の鑑別をしたわけですが、その課程で、蓮師の運筆をなぞりました。ですから、人に説明する場合は、黒板や、ホワイトボードに書いてみせることはあります。それはしかし、運筆を示す文字であって、「本尊」と言えるものではありません。
また、元来、仏法には「本尊」と呼称すべきものはないので、それ故、わたしは「本尊」観から捌く蓮師の教説を鵜呑みにするものではありません。

以下、たびたび紹介したところですが、精神科医・高橋紳吾師は本尊、神仏、ペットなどを「補助自我」として説明しています。わたしはこの分析に敬意を表しています。

―― 教祖の釈迦は、現代のカルト的宗教が説くような、「私を信じなければ不幸になる。地獄におちる」式の脅しの言説は一切していない。
とはいえ仏教が輪廻思想から自由でないのは、当時のバラモン(婆羅門)や沙門(シュラマナ)たちが共有していた文化的な枠組みのなかで釈迦が生きていたからだが、釈迦にとってより重要だったのは、死後の世界よりもいま現在の人生問題の実務的解決であり、苦悩の原因が執着によっておきることを解き明かし、それらは正しい八つの行ない(八正道)を実践すること(道諦)によってのみ解決にいたるという極めて常識的な教えを提示することだった。とすれば人生問題の実務的解決は、釈迦に帰依しなくても実践できることで、したがって釈迦は秘技伝授の超能力者でも霊能者でも、ましてや「最終解脱者」でもなく、もちろん「神」のような絶対者でもなかった。しかしカリスマを求める周囲の心情はいつの時代も変りがない。死後の釈迦は次第に神格化され、俗化される。たとえば釈迦の骨がフェティッシュな崇拝の対象となったり、、釈迦の言説とされる教典それ自体が信仰の対象となったりという、釈迦が最も忌避した「執着」へ人々は再び回帰したのである。そこにあるのは象徴(シンボル)の病である。
もっとも八正道の実践だけでは出家修行者のみ可能な小乗仏教であって、これでは一般大衆には宗教的な喚起の世界は与えられない。そのために救済のビジョンが必要で、大乗仏教における阿弥陀信仰のように、方便として帰依の対象が求められる。これは補助自我とみなすことができよう。それは超越的な形態をとっていても、もう一人の「自分」なのであるから、その「超越者」を「信じている」自分を調べる義務は、その個人にある。

【補助自我】自我のかたわらにあって、自我の充足を助けるもの。「ペット」や「わが子」のレベルから「思想」や「神」などの抽象的なものまである。――(『超能力と霊能者』岩波書店 P215)


以下、参考までに

『Nichiren Shonin Gohonzon Shu O'Mandalas by St. Nichiren』
http://nichirenscoffeehouse.net/GohonzonShu/001.html

他でも紹介しましたが
『いま大曼荼羅の世界を考える』
http://www.genshu.gr.jp/Local/Tokyo_W/kikanshi/No12/kj12_2.htm


わたしのサイトは
http://www.geocities.jp/saikakudoppo/

所謂「本門戒壇之大御本尊」の真偽について
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Library/6963/itamandarasingi.html

1952デルトロ:2005/02/10(木) 07:24:12
独歩さん、
いつも真摯なお答え、本当にありがとうございます。
皆さんも含め、心よりお礼を申し上げます。

教義上に暗いのを理由に、
愚問ばかりぶつけて本当に申し訳ありませんでした。
さぞ、御面倒をおかけしたと思います。
管理人さんも、暖かく見守っていただき、
感謝しています。

私の個人的な感想を述べさせていただきますと、
大聖人様の仏法は、凡夫にとって、
いかに「難信難解」であるかと、あらためて思い知らされました。
教義上、破折をされれば、塵にもならない私の存在ですが、
やはり、違った意味の確信が出てきました。

独歩さん、散々相手をさせられて馬鹿を見たなんて決して思わないでください。
独歩さんのリアリティのある言葉、少年時代のお話、
また、私が自身の経験を語るにおいて、私は何度も涙を流しました。
こんなことは、初めてでした。
お叱りを受けるのは重々承知ですが、独歩さんとは、根っこの部分で
深いつながりを感じるのです。
苦しんだ人間にしか理解できない、いや苦しんだ人間だからこその、
深い慈愛を感じます。

格好つけたくないんです。知ったかぶりもしたくないし、
人に頭を下げられない人間も、つまらないプライドで意地を張る人間も、
頭ですべてを測ろうとする人間も、親切な顔して他人の足をひっかけて喜ぶ人間も、
みんな嫌いなんです。
もし私がこの日蓮正宗の信仰で利益があったのならば、
他人を受け入れる勇気を
持たせていただいたことだと思っています。

1953デルトロ:2005/02/10(木) 07:32:26
否定のための否定、肯定のための肯定。
合理化のための合理化。
これはきっと、すべて愚かなことなのでしょう。
すべてが理屈で片付けられるのであれば、
仏法など、まったく無意味な存在になってしまいます。

独歩さん、あなたのようなかたとお話ができただけでも、
本当にありがたいことだと思っています。充分すぎるほど有意義な時間を
いただきました。
本当にあなたは慈悲の深いおかたです。
私も今すぐにすべての結論を出すわけにはいかないでしょう。
しかし、もう一度、今まで以上に、かつ目し、真摯に向き合い、
考えぬいていこうと思っています。
愚かなことだと笑われてしまうかもしれませんが、
やはり「疑」からではなく、「信」から入っていこうと思います。
悩み、考え、苦しみぬいて、自分の人生にけじめをつけていくことが、
私の信仰の道であると覚悟を決めています。
本当にすべての人に心から感謝します。みなさんには、最後までご迷惑かけて
言葉もありません。
ありがとうございました。

独歩さん、多忙のかただとは思いますが、お体だけは大切にしてください
本当にあなたには感謝以外の言葉がみつかりません。
本当に、本当にありがとうございました。

1964デルトロ:2005/02/11(金) 08:17:43
こんにちは独歩さん。デルトロです。
気持ちの整理がついてきました。なんか元気です。食欲やっと出てきました。
先日は本当に申し訳なかったです。
きっと謝っても許してはもらえないでしょうね。
私が結果的に放り出したことがよかったのか悪かったのかは別にして、
独歩さんの気分を害したのは事実だと思います。
それは本当に深くお詫びしたいです。
ただ私にとって独歩さんの存在が最高の治療になったことも事実なんです。
なんかね、私は独歩さんに卒業証書もらった気分でいるんですよ。
短期留学で。
もっというとね、独歩さんていうお医者さんから、
「もうおまえは退院していいから出てけ」
って、愛情もって追い出された気すらしてるんです。あの病院から。
別に掲示板が病んでいるってわけじゃないですよ。そんなつもりはないですから。誤解のないよう
管理人さん、怒んないでくださいね。

1965デルトロ:2005/02/11(金) 08:18:15
私がここで一番読み違えたなあと思うのは、書いたことかもしれないけど、信仰に疲れ傷ついた人のための
セラピーであることが重要だと思っていたわけです。というよりも前提かな。
けどやっぱ「日蓮ごっこ」であったり「御書ごっこ」の範疇からまったく脱却してなかったんですよねえ。
揶揄してるわけじゃないんです。ただ本当はみんな傷ついてここに流れてきたクセに、未だカッコイイ自分
しか目に入ってないんですよ。「教義に詳しいカッコイイ俺」みたいな全国の教義番長が集まってて
みんなで喧嘩してるわけですよ。だからちょっと目があえば喧嘩になるし、私はそこに嘘を感じたわけです。
「うそつけよ。本当はつらいことがあったんだから不良になったんだろ。いいじゃねえか
不良が泣いたって。傷があんだろ。おまえにも」っていっても不良たちは認めないんですよ。
「俺は喧嘩が強いんだ」の一点張り。譲らない。だからそんな連中がいかに小さいかってことを
示すためにも、独歩さんていう大番長がいたんだと思います。何人かかってきても全員投げ倒す。
圧倒的存在感、みんなの憧れ。

1966デルトロ:2005/02/11(金) 08:19:08
でもね、その認識はちょっと甘いかなって、思ったんですよ。
独歩さんて大番長なんてそんな小さな存在じゃなくて実はみんなの父親だったんですよ。
わかりますか?でも、それならば、番長と父親の違いは何だと思います?
ヒント出しすぎたかなあ。
それはね、リアリティなんですよ。誠実さって言葉に置き換えてもいいかなあ。嘘がないんですよ。
傷を隠さないで戦ってるんですよ。みんなね、傷を隠して戦いたがるんですよ。
だからみんな防御に回ってしまう。文章力、分析力、読解力、知識量、その他どの点でも秀でているのは
間違いないんですけど、その根源にあるのは、苦悩と傷、そしてそれを隠さない勇気。
それにおいて独歩に勝る人間はちょっと見あたらない気がします。
くだらない揚げ足取りまでももきっちり潰していく。独歩さんの歩いた跡って本当に
キレイに掃除されてるから、見ていても爽快感があるんですよ。
だからこそ最初独歩さんに近づくのは怖いなとも思っていたわけで、証拠出せ、文証見せろって言葉が
頻繁に飛び変わっている合戦の中で、丸腰どころか、行水から上がってきたばかりの丸裸の幼児の私が
場違いを覚悟でビビリながら初投稿しました。私も精神的に相当切羽詰ってたのでしょうね。
苦しんでいました。誰か私を解放してくれって。
考えようによっては自殺願望で、殺されたいって気持ちもあったかもしれません。

1967デルトロ:2005/02/11(金) 08:19:45
私がした質問や他の文章に他意はないです。その時思ったことを配列も考えずにバラバラに
つらねただけ、ただ今にして思えば、完全に勘違いしてたなって思います。
あらためて訂正します。前面訂正です。
ただその時考えていたことが反映されていたのは間違いないでしょうね。
身も蓋もない質問ばっかりでしたけど、それをいっちゃあおしまいよ、なんて質問に、
独歩さんがちゃんと誠実に答えをくれ、そして的確だったのは本当に目からウロコが落ちました。
と、同時に、自分の中に新たな矛盾も生まれてくるのも事実でした。
マインドコントロールからの開放が新しいマインドコントロールを産む。
そんなひっかかりも同時に感じました。ま、これこそが呪縛の消えていない証拠といって
しまえばそうかもしれないけど、それならもっと反発心が源泉になっていてもいいのになって。
それとはまた違った違和感があったわけです。不思議だなと。この疑問はなんだろうと。
合理化しようと思えば大抵のことの合理化は可能な気がするんです。
いいわけを作ろうと思えばいくらでも作れるってことですかねえ。
その時それを自分に求めたのも事実ですね。なんかうまい理屈づけはできないかな。
それができれば問題解決した気になれるのにって。

1968デルトロ:2005/02/11(金) 08:26:20
独歩さんは本当にすべてにおいて誠実に答えてくれました。それは間違いのない事実です。
その感謝の気持ちに偽りはないです。けれども、
学会を切ってスポンサーがいなくても、宗門は一兆円あるからいいんだ。
疲弊は作られた美談である。っていうのはやっぱり失礼ながらもそうかあ?って感じましたねえ。
正直いって。独歩さん流だと、じゃあその通帳を提示してみろってことになっちゃうし、
ま、別にそんなもんみたくないんですけどね。52年問題で学会はびくともしなかったのに、
破門したらそれこそスポンサーいなくなって大変じゃないですかって質問にも
宗門の読み違えだって、ちょっとこれはさすがに怪しくないですか?この解釈。
ちょっと無理かなあって。強引すぎませんか?52年で失敗してんのに、いくら認識が
甘いとはいえ、ワザワザ損することばっかりやるかなあって。

1969デルトロ:2005/02/11(金) 08:26:54
私の感覚だと一兆円じゃ満足できないんじゃないかなって、だって学会なんかはその何倍も
持ってるわけでしょう?私なら足を舐めてでも学会と離れませんよ。
腑に落ちないなあって思ってたのにますます腑に落ちなくなってきたわけです。
あれれれれって。なんか独歩さんらしくない切れ味の悪さを感じたわけです。
正直ちょっと残念だったわけです。いつものようにスパッと一刀両断が見たかったんで。
で、私は思ったわけですよ。いつも明快な回答をくれるはずの独歩さんがどうして?
教義が破綻しているのが学会宗門共通認識の確信犯なのであれば、ようは最初から
全部がウソならば、誹謗されてお金ももらえない道をワザワザ選ぶなんて、偏った見方しても
苦しいですよ。独歩さんがそんな考え方するのはちょっと意外でした。
その時ちょっと誰かの人生と重なるなあって、ぼんやり思ったんです。

1970デルトロ:2005/02/11(金) 08:27:42
正直私の中で混乱が生じまして、ヨシと、ここまできたら自分にとっての最大のタブーで
あった質問をしてみよう!と思って曼荼羅書写の質問をしたんですよ。
私は曼荼羅をズタズタに二度裂いて二度発狂したという強迫観念があるわけで、
それはでも独歩さんが思い込みだってやさしく慰めてくれたのは本当に嬉しかったんです。
ひとつ開放できたのかもしれないって。
だから不遜に扱うどころか書写なんかしたらどれだけ恐ろしい目に、って恐怖も常に
付きまとっているんです。と、同時に独歩さんの答えによっては自分の治療が終了するとも
思ったわけです。長い呪縛から開放される瞬間だと思って、私はずっと待ち続けたんです。
なんかわかんないですけど仏壇の前に座りたくなりまして、独歩さんを待ったんです。
ウソかと思われるかもですけど、何日かかってもいいから仏壇の前で独歩さんを待とうって。
真剣なんですよ。
必死でお題目を唱えました。ほぼ一晩中です。なんかどんどん涙が溢れてきて、
何かわかんないけど、
なんか違う。なんか違うんじゃないかって。
独歩さんの言葉に、正直すがりたかったんでしょうね。

1971デルトロ:2005/02/11(金) 08:28:27
告白すると、独歩さんの答えいかんでは、本気で書写をしようと、私は考えていました。
それが呪縛からの開放。そしてマインドコントロールからの開放。その完成こそがこれなんだと。
学会の本尊を拝んでおかしくなった人、リアルに見たことあるんです。強信の人でした。
本当なら、証拠として具体的に名まえ挙げてあげたいぐらいなんですけど。
当時は仲よかったんです。いつも私怒られてましたね。自分は回復したって自信があったから、
お見舞いに行ったんです。閉鎖病棟に見舞いにくる人って圧倒的すくないんですよ。
彼を見てびっくりしたんですよ。あまりにひどくて。私もこんなだったの?
その時自分の姿も重なって、こんな言葉あるのかわかんないんですけど、もらい狂いしそうに
なったんです。恐怖でした。その人はまだ病院に入っていますが、でも独歩さんの答えいかんでは、
救ってあげられるんじゃないかって、本気で思っていました。自分が最も恐ろしいとされる行為
を遂行できるならば、完治は無理でも、回復を早くすることは可能なんじゃないかって。

1972デルトロ:2005/02/11(金) 08:29:24
ずっと必死で唱題し、けど唱題していくうちに、
段々自分の意識が変化していくのがわかっていったんです。
ああなんて恐ろしいことをしようとしていたのだろうと。自分は仏法を頭で測っていたと、
つじつまあわせばかりを考えていた。なんと愚かな考えを。
呪縛じゃないんだ。この信心をずっと保っていこう。これこそが開放なんだって。
たくさんの人が見る場所に、なんて恐ろしいことを書いてしまったんだろうと、
心からの懺悔の唱題がはじまったんです。泣いてました。泣きながらの唱題なんて
何年ぶりなんだか。
そんな時、独歩さんからの返信をいただいたんです。そして独歩さんのその文章を読んで、
確信が湧いたというわけです。すぐに返事をかきました。
きっとぐちゃぐちゃの文だったと思うので自分でも恥ずかしくて再読できません。

1973デルトロ:2005/02/11(金) 08:30:11
独歩さんからいただいた書写に関する文章は、
失礼ですが今まで以上に切れ味が悪く。
言い訳をみつけているような気がしました。
ごめんなさい、正直、前半までしか読んでいないです。
でも必死で熟読したのは本当です。
逃げている!
必死で逃げる理由を探している!
それが私の印象です。
でもね、だからこそ独歩さんが以前よりずっとずっと好きに
なったんです。この人は私の仏様だったんだって。私を救ってくれた人だって、
涙が止まらなかったんですよ。その時頭に浮かんだ言葉が
「難信難解」だったんです。おかしいなあと思ったんですよ。
こんなに有名な言葉が、ここの掲示板のどこにも見あたらないなんて。
今ね、私は泣きながらキーボード打っています。涙が止まらないんですよ。

1974デルトロ:2005/02/11(金) 08:30:53
独歩さん、どうか、私に、罵倒でもなんでもいいです。
言葉をください。
お願いします。
私はあなたによって救われた人間なんです。
これは、思い込みなんでしょうか?
それとも、大聖人様の仏法の偉大さなんでしょうか?

1975愚鈍凡夫:2005/02/11(金) 08:53:38

真実探求者さん、犀角独歩さん、過分なお言葉、有り難うございます。 (*^_^*)
これからも精進して参ります。
昨日は、最後の投稿を終えた後、キーボードを打つ気力が萎えてしまって、ロムってました。

昔、「六巻抄」を読んだ時、その訳の分からない処が凄いと、思い込んでいました。
日寛師の教学は、小生のような浅学の者には理解できないほど凄いんだと思い込んでいました。しかし、その教学がこじつけと言葉遊びに満ちていることに気付き初めた時、日寛教学が正宗教学の最高峰と位置づけた石山・創価学会に愛想が尽きました。
今回、「六巻抄」に対する想いを文章にする機会を与えて下さった皆さんに感謝します。
m(_ _)m

1976愚鈍凡夫:2005/02/11(金) 10:26:04

小生は、日顕師が創価学会を切ったのは、下世話な言い方ですが、食べていく自信があったからだと思いますよ。
大石寺から学会色を払拭した事で、世間に、学会との実質的な決別を宣言したのだと思います。細かいことを言えば、それこそ印刷漫荼羅の返品の山を、後ろめたい気持ちで燃やさなくても済むわけですからね。もっとも、原稿さえあれば漫荼羅は山ほど作れますから、こちらが思うほど後ろめたさはないのかも知れませんが。
それに、創価学会からコンクリート打ちっ放しの、見るからに安っぽい寺院擬きをプレゼントされて、恩着せがましい皮肉を言われなくても済みます。地方の学会施設と比べたら、結構笑えますよ。
あとは、「際だった怪力の持ち主である日興上人様が、奥深い身延の山中から"戒壇之大御本尊"様をお一人で担ぎ、令法久住のために大石ヶ原までお運び下さった」と言い張るしかないでしょう。

1977デルトロ:2005/02/11(金) 11:37:38
こんちは〜なんかすっかり元気になりました〜
私の思い込みをもうひとつだけ書き込みますね〜

私はあの時、リアリティのある言葉が欲しかったんですよ。
しっかりそう書いてありますよね〜
今、再び自分を分析してみると、あの時私が一番欲しかった言葉は
「是非やるべきだ!今までのすべての呪縛から逃れるために
曼荼羅を書写するべきだ!それを持ってすべての呪縛から解放されるんだ」
という強い信念の言葉だったんですよ。
それが私の恐怖の根源なんですから。
字がわかんないとか、そういうことではないんですよ。
同時に、独歩さんの解放でもあるんじゃないかと思ったわけです。
だから、書写したい衝動にかられたことはありますか?
とも質問したんです。
でもその答えがなかったのも、残念な気持ちになったひとつなんです。
もしも、完全にノーコメントであれば、私は書写もしたしさらに
破っていますよ。自分ですべてを確かめるためにね。
もう一度発狂するのか、その過程をすべてみつめながら地獄に落ちよう
と、決心したんです。こんな恐ろしい選択って、どれだけ
恐怖をともなうかわかりますか?
けど独歩さんの答えはそうではなかった。
言い訳にしか聞こえないわけです。
少なくとも私には。
私のいいたいことは結局それなんです。

1978デルトロ:2005/02/11(金) 11:44:48
私はねえ、一度カッターでズタズタにして発狂してるんですよ。
それでもウソかなと思って、表装の済んだ御本尊をもう一度
ズタズタにしたんです。狂って当然でしょう。
そして一生を台無しにしかけているんですよ。
二元論なんですよ。正か邪か。やるのかやらないのか

1979デルトロ:2005/02/11(金) 11:51:08
こんなこと書いててまともにキーボードが打てていると
思いますか?私はねえ、今自分に悪鬼が入ってきてるのが
よくわかるんですよ。怖くて怖くて、震えてるんですよ。
当たり前ですよねえ、夕べしっかり罪障消滅を祈っていたのに、
涙を流して祈っていたのに、こんな恐ろしいことを考えているんですから。
愚鈍凡夫だかなんだかしらないけど、消えていただけませんかねえ。

1980デルトロ:2005/02/11(金) 12:15:20
ごめんなさいね愚鈍凡夫さん。返事は一切いらないですよ。
今は迷惑なだけだから。
私ねえ、こんな短い文章すら何度も打ち直しているんですよ。
きっと恐怖の意味を、芯から知っているんでしょうね。

でもねえ、こんな恐ろしいことから救ってくれたのが、
独歩さんなんですよ。
独歩さんはこじつけの言い訳しかしなかった。
だから、私は懺悔の唱題を必死で祈ることができた。
だから、助けられたし恩人だといっているわけです。
私の堕地獄を救ってくれた。仏様なんですよ。
わかりますか?愚鈍凡夫さん。返事はいらないですよ〜。
後でいくらでも聞きますから。
私を救ってくれた、独歩さんに感謝がしたいんです。
それについてどう思われるのか、どうお考えなのか、
デルトロには聞く義務があるでしょうと、
ようはそういうことなんです。カンタンでしょ?

教義に不明点があるだのなんだの、いいんですよ。
ようは信じられない。それにこじつけして納得してるだけでしょ?
信じられない理由を探してるんでしょ?
それこそ不信という名のマインドコントロールじゃないですか。
謗法の人間は地獄にいけば、いいんですよ。
少なくとも私はどんな所だか知っていますよ。
地獄というのがどれほど苦しく、どれだけ恐ろしい所かね。
ま、教義はサッパリですが…

1981犀角独歩:2005/02/11(金) 19:32:46

デルトロさん:

わたしの曼陀羅に関する書写の答えが歯切れが悪ければ悪い、納得がいかなければ納得がいかない、それでいいのですよ。

わたしは漫荼羅を図示したことがないかと言えば、それはありますよ。何度も何度も図示しました。鑑別をするというのはそういうことです。ただし、わたしは漫荼羅を本尊と今は考えていないわけですから、それは本尊なりえない。それ以前に、天台の段階ですら、本尊という概念はないわけですから、それは必要としない、こう書いたわけです。ですから、図として漫荼羅は幾度も書いたことはありますが、それは本尊とはなり得ない。たぶん、この言い回しは、ここでわたしと議論してきた方であれば、直ちに納得していただけるでしょう。これは、たとえば、写真でまとめた『御本尊集』は結局のところ、写真であって本尊ではないのと一緒です。正確に言えば御本尊‘写真’集です。まったく、この言葉のとおりです。白か黒か、そんな考えはわたしにはないわけです。ないことは書けないわけです。

あと、漫荼羅本尊を破って、地獄に堕ちるとか、「狂う」とか、そんなことはありません。
ただ、そのように心理プログラムを自己暗示にしろ、他からにせよ、操作されていれば、そのようになるでしょう。それを説明するために、ハッサン師の言葉を引いたわけです。

それから、あなたは、わたしに救われたのではないですよ。
あなたを救ったのは、あなた自身です。もし、そこにわたしが介在しているとすれば、それはあなたの己心の独歩という象徴(シンボル)です。それはしかし、わたし自身ではない、
あなた自身のあなた自身を救おうとする自己再生能力です。その影にわたしは映したのにすぎません。狂うも治るも己自身でしょう。

なお、印刷本尊をカッターでずたずたに切った、業者が試し刷りの本尊を大量に廃棄する、石山、(たぶん学会も?)回収した印刷本尊を焼却処分する、廃棄するという意味ではまるで一緒です。もう一つ加えれば、わたしが何度も図示し、また、プリントアウトした漫荼羅写真に、時には線を引き、時に細分化し、最終的には廃棄するのも同じでしょう。

ただ、あなたはカッターでずたずたにして狂うという心理操作に従ったけれど、業者にしても、わたしにしても、もとより、それを本尊と思っていないわけですから、そのような心理プログラムが作動することはなかった、ただ、その差です。

ですから、他で「信仰」といスレッドが立とうとしていますが、少なくとも複写された漫荼羅写真・図、また、自分で図したものをどうするかということは、まるで、わたしにとっては信仰とは関係ないわけです。それをあなたは信仰の範疇で考えているようですが、結果論的には信仰ではなく、心理効果の域を出ていないと、わたしには思えました。

しかし、あなたが、疑いでななく、「信」からやり直すというのであれば、それは個人の選択です。わたしがとやかく言うことではありません。お礼も言われ、一区切りもしました。それ以上、屋上奥を重ねるように言葉を重ねることは、「押しつけになる」と判断し、敢えてロムしなかったわけです。さらに言えば、わたしのような人間にお礼など述べる必要はありません。先に記したとおり、あなたは、あなたのなかのシンボライズされた独歩というイメージ、もっと言えば、そのイメージを生み出したあなた自身の再生能力によって救われたからです。

それが証拠に、あなたは、わたしに自分の納得のいくこと場を書いてほしいという欲求を、その後、露わにしたでしょう。つまり、それはそのような意味なのですよ。もっと、自分を信じてあげなさい。そして、いたわってあげることです。

わたしはかつて極度の神経症を患ったとき、日記に「行きながら地獄に堕ちた。こんな苦しいのであれば、死んで無に帰するほうがよほどましだ」と血涙を流す思いで、何度も記しました。
だからこそ、こんな出鱈目な中世以降の石山義は断じて弾劾しなければならないと思ったのです。

しかし、確かに、わたしと同じ道を歩んでいるところがあります。
だからこそ、言いますが、あなたはいつしかこの信仰を必要としなくなる日が来るでしょう。なぜならば、わたしの同じレールの上を進んでいるからです。


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