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「α」についてはここで語ってください

1法の受験人:2003/05/21(水) 00:37
ぼーんさんが述べられてる「α」なる理論。
これに対しては批判も多いので、
こちらでまとめて話しませんか?

241大神:2003/08/27(水) 17:49
>>240

 そもそもね、これは武蔵君にあてで書いたんだが。武蔵君は2世議員全体を指し
ているのであるからそれに対しての書きこみをしたんだがね。

          2世議員だけを抽出しても仕方ないよとね

                判るかな?

それに武蔵君の場合は2世議員を世襲と捉えていたから、

         貴族院ではない、他の候補者と同じだよとね。

>(2)
 (2)に関しては、これについては今までのレスでは本格的には述べてい
ないよ。長くなるから。そして、もともとそれを言うのが目的ではないから。
繰り返すけど2世議員だけを抽出しても意味が無いというのが私が書いたことの
主旨だからね。

>背景の利害関係を問題にすることと、背景を問題にすることは違います。
 細かいケースについて話をするなら解るが、2世議員全体には無理があるん
じゃない?それは2世議員だけを抽出すると言った意味でも。2世が引き継ぐ
ものを作り上げたのはそれは1世議員だし、なにも二世議員だけが抱えるもの
ではないよね?君が言っていることは。○○族と言う言葉もあるように。

それとね、ぼーん君、利害関係で繋がったグループが存在したとして、
そのグループの支持を受けた議員が受ける票は選挙民の票だよね。だから、
2世議員も結局は
             選ばれたわけだよね?

と言うことを最初に書いたんだよ。

242ぼーん:2003/08/27(水) 23:08
>>241
(1)のレベルで問題なし、という話をしているのは分かるのですが、大神さんの書き方を見るに、
(2)のレベルをそもそも考えてないんじゃないか、と推測したのでああいうレスをつけてしまったわけなんです。
(これは僕の勇み足)

確認しますが、(2)のレベルでの問題性についてぼーんの議論に賛成するが、
今のところはそのレベルの議論をしているつもりはなかった、ってことでいいですか?

243cathoderay:2003/08/28(木) 00:20
なんでカネをおおく残して子供にやったらいかんのでしょうか?

>株や土地を売買することや、金融利殖によるもの・・・不労所得というのですか

こういうのも意味がわかりません、なんで不労なんですか
お金を投資してお金を増やすことがなんで不労所得なんですか?
不労所得ってのはバクチでゲットした金のようなことではないのですか?

相続税はもっともっと安くすべきです。
故人が残した財産を、子孫が譲り受けるのは権利でしょう。
相続税は出来る限り安くすべきです。

244大神:2003/08/28(木) 01:15
>>242
 (2)は難しいね。程度問題もあるし。
だからそのことの話をするつもりは無いし、武蔵君あてに書いたことその
事を述べる必要はないからね。

だから(2)の君の意見に賛成も反対もなにもしていないんだ。

245うろちい:2003/08/28(木) 19:56
>>243 cathoderay さん
>なんでカネをおおく残して子供にやったらいかんのでしょうか?

弊害はハッキリしていますね。
私有財産を前提とした資本主義と血統に基づいた財産相続の結果は事実上の血統に基づく身分制度ですから。
そういう制度を全く放置したら、死ぬか生きるかギリギリの下層階級と、集約した富を持つ一部の上流階級とに分離するでしょう。
互いが富の増殖合戦とその相続を続けたら、結局足の引っ張り合いになって、多くの人の場合が自分の望む結果(子孫により多くの富)を手にできません。
ただしそれは資本主義と相続を「全く」野放しにした場合であって、実際の各国の制度はその最悪の状態は回避するようにいくらかは努力されています(じゃなきゃ革命起こるから)。
このスレッドで最近話し合われていることは、「その努力をどのくらいにしようか?今のままで良いのかな?」ってことだと思います。

>お金を投資してお金を増やすことがなんで不労所得なんですか?
>不労所得ってのはバクチでゲットした金のようなことではないのですか?

言葉の定義上、投資して稼いだ金を「不労所得」って言います。
そんだけのことです。

>相続税は出来る限り安くすべきです。

その「出来る限り」がどの辺か、っていう話し合いをしているのだと思いますよ。
根拠無しには「全くできない」という選択肢もとりあえずは除外できません。

246ぼーん:2003/08/29(金) 11:33
>>244
> (2)は難しいね。程度問題もあるし。
::
> だから(2)の君の意見に賛成も反対もなにもしていないんだ。

いえ、問題があることを否定しないなら、この場合賛成してもらっているのと同じです。
(別に、あなたの意図を拡大解釈しているのではなく、
元々僕が同意を確認していることの内容がそれだけ少ないという意味です。)

247大神:2003/08/29(金) 18:46
>>246
 なるほど。

248cathoderay:2003/08/29(金) 19:22
>>245 うろちいさん なるほどよくわかりました。


しかし、私は階級であるとか身分であるとかいうのが
現在でも残ることに反対していません。
それもアリだとおもっています。

全員が等しい身分である というのはあんまり魅力的には思えないのです・・・・

249大神:2003/08/29(金) 22:36
>>248
 身分、階級は文化や伝統とも関ってきますからね・・。

250イカフライ:2003/08/30(土) 23:29
cathoderayさんへ

 もともとは、世界における富の不均衡を軽減するにはどうすれば良いか?
という方向で始まったお話です。
 相続税の話も、その流れだとは思うのです。
 ただ、私は、今の日本の現況において、現行の相続税が高いのか、安いのか、まだ、判断は出来ません。

 また、身分制度についても、全ての階層をなくすべきかどうか?というのは、これからの話だとも思います。
 これも度合いの問題だとは、思います。

 バングラディッシュの話でもあったように、日本ではホ−ムレスになっても、満足にとは言えないにせよ、最低の医療を受けられる。
けれど、バングラの路上の子供達は重病になってもただ死んでいくだけではないでしょうか?

 そういった不均衡をなくしていくにはどうするか?だと思うのですが。

251cathoderay:2003/08/31(日) 03:18
>>250

なくしてしまうのはどうかな? って考えです私は 不均衡こそが
人間の進歩の根源ではないかと


あと、相続税の高さによって高額な美術品が流失してしまうことが多々あるので
私はどうかなとおもいます、貴重な美術品にかぎっては相続に特例を認めるべきではないかと。

アホたかい相続税がくるので、贋作だったことにして画商とナイナイしてしまう
贋作を用意する・・・・その段階で散逸してしまったり 裏へいってしまったり
故人があつめた有数のコレションがいつの間にか画商にだまされナイナイになったりしては
損失ではないかとおもうのですが・・・

まぁ美術品っていっても、高島屋や三越が売りにくるようなのにはロクなのがないのですが・・・・
おっと脱線・・

252武蔵:2003/08/31(日) 18:27
長らく留守をしておりました。
土地家屋の問題。
憲法第二十五条【生存権、国の生存権保障義務】
1 すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。

その、生存権の一部としての居住権が保証されなければなりません。
生存権の一部である居住権程度の住居は、親の代から住んでいたものであれ、自分が買ったものであれ、いかなる事情によっても取り上げられるべきではないと思っています。
その上に立って考えて、私は、所有者の死去によって所有権があらかた消滅するという制度がいいと思っています。
生前贈与にしろ相続にしろ、相当程度の税負担をした上で残りを取り分にする。
相当程度というのは、このスレに来ている人の中でも割れるところだと思いますが、
私は累進課税にして、最高は90パーセントくらいでもいいと考えています。

253武蔵:2003/08/31(日) 18:28
>>251

>あと、相続税の高さによって高額な美術品が流失してしまうことが多々あるので
私はどうかなとおもいます、貴重な美術品にかぎっては相続に特例を認めるべきではないかと。

高額な美術品が流出する理屈にはならないと思いますが・・・・
美術館が買い取りやすくなって、個人の所有物(秘蔵品)ではなくなり公共性が増すでしょう。

254cathoderay:2003/09/01(月) 00:25
失礼ですが・・・・それはタダ単に「持たざるものの僻み」でしかないのでは?

自分の腕一本で財産を築きあげた人が自分の死後に
わざわざ自分の能力で稼ぎ上げた財産を他人に、わけてやる必要など微塵も感じませんが。

どうして財産を持つものが持たないものに強制的に財産を分散してやる必要があるんです?
金持ちは多少の財産を残す  もたざるものはもたざるまま
それがあるからこそ、人間は働いてちょっとでもいい暮らしをしようとするのでは?

私はお金持ちはお金持ちのまんま置いておくほうが景気によいとおもいます。
どうせ貧乏人が多少の、おこぼれをもらったとしても、それこそ溜め込むだけなのではないかなぁ・・・

255イカフライ:2003/09/01(月) 00:35
>>251

>なくしてしまうのはどうかな? って考えです私は 不均衡こそが
人間の進歩の根源ではないかと

これは、私の言い方も不充分だったのですが、全て平等にせよ、なんていう気はありません。
 
 ただ、その不均衡の度合いです。
 あなた自身もバングラディッシュのストリ−トチルドレンをみて
「彼らはもっと人間らしい生活をすべきじゃないのか」
と思われたのでしょう。
 そういうことです。

256イカフライ:2003/09/01(月) 01:36
 相続税については、確かに難しいです。

 私はたいした家の出ではないし、自分の育ったところも、それほそ裕福な地域ではありませんでしたが、東京23区の結構便利はよい場所だったので、バブルの頃はかなりの地価になりました。
 昔、田中角栄が東京に3代住めば家なんて国の物になる、と言いましたが、実際、その頃におじいちゃんが死んで家を手放した人も多かったです。
 一応、東京に実家がある、ということは、私は持つ者なのかなあ、あまり実感ないですが。

 と、脱線しましたが。

 >金持ちは多少の財産を残す  もたざるものはもたざるまま
それがあるからこそ、人間は働いてちょっとでもいい暮らしをしようとするのでは?

基本的にはこれは間違っていません。
ただ、あまりにも差が大きすぎると、底辺に産まれた人間は彼我の差が大きすぎて這い上がれない。
まあ、これはうろちいさんが言われていますが。

福祉というのも、やりかたを一歩間違えると、勤勉で有能な人間がやるきのない怠け者を養う、という結果になりかねません。
そうなると、頑張って上を目指して努力すること自体、あほくさくなって、その社会自体が衰退します。
かといって、この不景気に例えば年金を下げたり雇用保険を廃止したりすれば、生活不安が募って、ますます景気が悪くなる。
この兼ね合いは難しいのですが。

257武蔵:2003/09/01(月) 12:38
無主の木というものは、共有財産とも考えられます。
その木から果実をもぎ取ったものに半分の権利があるとして、
その半分を自分で消費する場合は問題がないが、
余剰が出たときの分配(贈与)の権利はどの位あるかということですね。
1.100パーセント所有者にあるか、
2.または分配権も半分であって、残りは共有にするか
3.オノレの必要分以外は共有とするか。
私は 2 の立場ですが、個人所有が多くなれば累進的に多くを公共の場に出すべきだと考えます。

258ぼーん:2003/09/01(月) 17:38
>>257
自分の物をとって、その残りを分配&贈与にまわす、という言葉の使い方をしてるみたいですが、
そこが多分混乱の元です。

贈与することができるのは、自分の物だけです。
だから、まず、何かを生産したら、自分の物と、残り、に分けます。
贈与したいなら、自分の物の中から好きにすればいい。(自分の物=自己消費+贈与)
生産物−自分の物=残りについては、共有物にし、分配にまわします。
この分配において、生産した人の希望は関係がありません。

# 生産物は、「自分の物」と「共有物」に分けられます。
  「自分の物」は、「自己消費」と「贈与」に使われます。
  「共有物」は、あるルールにしたがって分配されます。

# 私的所有権の神話とは、「生産物」=「自分の物」という発想を前提することを当然と考えることです。
  (「共有物」=0 の場合ですね。)

# 「生産物」=「自分の物」である場合にも、「生産物」=「自分の物」+「共有物」の場合にも、
  「自分の物」とされたものについては贈与したければできるし、死んだら相続の対象となります。

259武蔵:2003/09/01(月) 18:45
>>258

>自分の物をとって、その残りを分配&贈与にまわす、という言葉の使い方をしてるみたいですが、
そこが多分混乱の元です。

分配について、
生産についての分配と、その分配分の再分配を分けているんですが・・・

>贈与することができるのは、自分の物だけです。――1.
>自分の物=自己消費+贈与)――2.

この2の場合にも、無条件100パーセントの贈与は現在でも認められていないのですが
ぼーんさんは、
>>257 の 1.つまり「余剰が出たときの分配(贈与)の権利はどの位あるかということですね。
1.100パーセント所有者にある」
を取られるということですか?
自分の所得から贈与するときには、贈与税を設定しないという説なのですか?

260ぼーん:2003/09/01(月) 18:58
>>259
原理的なレベルではそうですね。
所得から所得税が引かれ、その残りを処分するときに、またぞろ贈与税がかけられる、というのは、原理的には二重課税だと思います。
そのレベルだけで思考するならば、「生産物をすべて取得することはできない」としても、自分の私的な取得物をどのように処分するかは、
その人の自由であるべきと思います。

# そうなると、贈与税ゼロ、相続税ゼロ、すら視野に入ってきます。
  最終的にそう主張する気はありませんけどね。↓に続きます。

原理的レベルの考察を元に制度設計を考える段階になると、話が少しずつ変わってきます。
所得税を引いたあと、完全に所得が均一になってしまうと、いつも話題になっているように、労働のインセンティブをそぎます。
ですから、「ある程度」は、「たくさん働けば、たくさん生み出せば、手元にもより多く残る」というルールが導入される必要があります。
その結果、どうしても不平等は生じます。

# この場合、今の世の中がそうであるように、より多く生み出した人がより多く手にする、わけです。
  しかし、「それが当然正当だから」ではなく、「そうしないと別のところで困るから」という風に、
  そういうルールを採用する根拠は変わっています。

で、その生じてしまう不平等の程度によっては、贈与税や相続税で調整する、という可能性は出てきます。

# 完全な再分配を制度化することは、労働のインセンティブとの両立が難しいから、そこを緩めて、
  贈与税や相続税で調整する、という発想なわけです。

僕も武蔵さんも贈与税や相続税を否定しないとしても、否定しない理由が異なるわけです。
そして、否定しない理由が異なる、ということは極めて重要な違いなのです。

261ぼーん:2003/09/01(月) 19:07
補足。

> 原理的レベルの考察を元に制度設計を考える段階になると、話が少しずつ変わってきます。
> 所得税を引いたあと、完全に所得が均一になってしまうと、いつも話題になっているように、労働のインセンティブをそぎます。

武蔵さんが「完全均一所得を主張している」という意味ではないです。もっと完全均一所得ではなくても、
生産の成果に応じて十分に取得物が増えていかないならば、やはり労働のインセンティブを大きくそぎます。
ことは、程度問題です。

262武蔵:2003/09/01(月) 19:16
>>260 >>261

>僕も武蔵さんも贈与税や相続税を否定しないとしても、否定しない理由が異なるわけです。
そして、否定しない理由が異なる、ということは極めて重要な違いなのです。

この異なる点と言うのを具体的に書いてくださいませんか?
私は異ならないと思っているので・・・・誤解されているみたい。

>生産の成果に応じて十分に取得物が増えていかないならば、やはり労働のインセンティブを大きくそぎます。
ことは、程度問題です。

どうしても同じことを述べているように思います。
解説のほうよろしく。

263武蔵:2003/09/01(月) 19:30
続き。

否定しない理由の違いという点において、
ぼーんさんは「労働のインセンティブ」という方向にバランスを向けられたということでしょうか?
私は、「労働のインセンティブ」ということにおいても、
人生のスタートラインの大きすぎる差異は、労働のインセンティブをそぐものがあると思っています。
頑張ったってどうなるものでもない、という無力感は頑張る意欲をそぎますから。

264イカフライ:2003/09/03(水) 13:30
 あの……今更ながら話を引き戻してしまうようで、本当に悪いのですが。
 「私的所有権の神話」というのは、つまり、自分が得たもの(例えば、無主の木から取った果実)は、本来100パ−セント自分のものであるが、そのうち何割かを公共物として提供している。
というどではなくて、本来公共物である果実を、労働した分だけ自分で貰う、ということなんでしょうか?

 う-ん、しかし、これって結果は同じじゃないか、と思うんですが、なんか、意味あるんですかね?

 あとは、この公共物(現実的には税金ですよね)の割合を何割にするかとか、それをどのように使うか、ということじゃないかと思うんだけれど。
違うのかな?

265武蔵:2003/09/03(水) 14:41
>>258

># 「生産物」=「自分の物」である場合にも、「生産物」=「自分の物」+「共有物」の場合にも、
  「自分の物」とされたものについては贈与したければできるし、死んだら相続の対象となります。

☆「生産物」=「自分の物」――自由主義経済
の上に立って、贈与・相続税を強化しようとしている(100%も視野に入れる)のが、私。
☆、「生産物」=「自分の物」+「共有物」――共産主義経済
の上に立って、贈与・相続税を軽減していく(ゼロ%も視野に入れる)

こういう風な違いを考えておられるのでしょうか?

そういう意味で
>僕も武蔵さんも贈与税や相続税を否定しないとしても、否定しない理由が異なるわけです。
そして、否定しない理由が異なる、ということは極めて重要な違いなのです。
と言われているとすれば
まだその違いが分かるほどには話し合いは進んでいないように思うんですが・・・・

266武蔵:2003/09/03(水) 14:55
>>265 の、2番目の☆に書き加え

☆、「生産物」=「自分の物」+「共有物」――共産主義経済
の上に立って、「自分の物」については贈与・相続税を軽減していく(ゼロ%も視野に入れる)のがぼーんさん。

267ぼーん:2003/09/05(金) 08:41
>>266
>>265

> ☆、「生産物」=「自分の物」+「共有物」――共産主義経済

は違います。

共産主義経済は、

「生産物」=「共有物」

です。

268ぼーん:2003/09/05(金) 08:43
>>264
>  あの……今更ながら話を引き戻してしまうようで、本当に悪いのですが。
>  「私的所有権の神話」というのは、つまり、自分が得たもの(例えば、無主の木から取った果実)は、本来100パ−セント自分のものであるが、そのうち何割かを公共物として提供している。
> というどではなくて、本来公共物である果実を、労働した分だけ自分で貰う、ということなんでしょうか?

違います。どういう所有権の割り当て方であれ、「それが正しいから、それ」と言えば、それは嘘(=神話)です。

>  「私的所有権の神話」というのは、つまり、自分が得たもの(例えば、無主の木から取った果実)は、本来100パ−セント自分のものである

が神話です。

じゃ、どれだけが自分のものなんだ?というとき、それが全部であれ一部であれゼロであれ、どれを言うにせよその確固たる根拠はありません。

269武蔵:2003/09/05(金) 18:05
>>267

訂正します。
―――
># 「生産物」=「自分の物」である場合にも、「生産物」=「自分の物」+「共有物」の場合にも、
  「自分の物」とされたものについては贈与したければできるし、死んだら相続の対象となります。

☆「生産物」=「自分の物」――自由主義経済
の上に立って、贈与・相続税を強化しようとしている(100%も視野に入れる)のが、私。
☆、「生産物」=「自分の物」+「共有物」――中国的共産主義改革開放
の上に立って、贈与・相続税を軽減していく(ゼロ%も視野に入れる)のがぼーんさん。

こういう風な違いを考えておられるのでしょうか?

そういう意味で
>僕も武蔵さんも贈与税や相続税を否定しないとしても、否定しない理由が異なるわけです。
そして、否定しない理由が異なる、ということは極めて重要な違いなのです。
と言われているとすれば
まだその違いが分かるほどには話し合いは進んでいないように思うんですが・・・・

270武蔵:2003/09/05(金) 18:34
>>267

「極めて重要な違い」である「異なる」「否定しない理由」を
教えて下さいというのが、レスの主旨なのです。

271武蔵:2003/09/05(金) 18:51
>>267

私が
☆「生産物」=「自分の物」――自由主義経済
の上に立って、贈与・相続税を強化しようとしている(100%も視野に入れる)のが、私。
であると解釈していなさるなら少し違うのですが。。。。
ともかく、ぼーんさんがどう解釈なさって

>僕も武蔵さんも贈与税や相続税を否定しないとしても、否定しない理由が異なるわけです。
そして、否定しない理由が異なる、ということは極めて重要な違いなのです。

こう言っておられるのかということをずっとお聞きしているのです。

272三毛猫ナナ:2003/09/05(金) 19:04
>>268
ぼーんさん(ぽーんさんじゃないのねゴメンなさい)の
お話にチョットだけ付け加えをします。

『どれだけか自分のものなんだ?』

この問いの答えは…
『それは私達が決めていく事なんだ』
ですよね、ぼーんさん?

#私の立場で言えば『所有権割り当ての本質は社会的に
 構築されている』となります。
 『私的所有権の神話』という現実は事実ではありません
 からね。

273ぼーん:2003/09/05(金) 23:07
>>272
そのとおり。

とだけひとまず述べておきます。

274ぼーん:2003/09/05(金) 23:11
>>武蔵さん

違うのか、違わないのか、分かりませんが、僕が違うと感じるのは、
僕の出発点が>>272にあるのにたいして、武蔵さんの出発点がどこにあるのかがわからないからです。

どういう所有権構造を選ぼうとしてるのか、という意味では、多分違いはないです。
が、なぜ現行の所有権構造を変更できるのか、という理由づけの点ではどうなのかわからんのです。

275武蔵:2003/09/06(土) 07:22
>>274

>武蔵さんの出発点がどこにあるのかがわからないからです。

分からない場合は「違う」ということになるのでしょうか?
あっちこっちに、以下のようなことを書いています。

>>210
>私的所有権が、
もぎ取ったりんごの全てと無条件で考えないような意味で
親の持つ諸権利についても、譲渡が当然と考える必要がないということです。
>>210
>だから、私有財産も相続も全否定するとは言ってないんですが・・・
りんごは全て、もいだものの権利であるということの「全て」に当るものを否定しています。

つまり、わたしは
「生産物」=「自分の物」+「共有物」
と言っているわけですから、ぼーんさんはそれ以外の主張をなさっているということになるのですか?

つまり
「『それは私達が決めていく事なんだ』」
のなかに、
☆「生産物」=「自分の物」
☆「生産物」=「共有物」
も含めて、私たちみんなで考えていくものなんだよといいたいのですか?
その場合何故わたしの
☆「生産物」=「自分の物」+「共有物」
を排除して、
>僕も武蔵さんも贈与税や相続税を否定しないとしても、否定しない理由が異なるわけです。
そして、否定しない理由が異なる、ということは極めて重要な違いなのです。

という風に、「極めて重要な違いがある」とまでおっしゃるのでしょうか?

276武蔵:2003/09/06(土) 19:29
私の出発点を書いておきます。
これは経済や税制だけにいえる出発点ではありません。
だから「経済や税制については、どんな具体的なほう方がいいのか」は模索中です。
詳しい方が、税制にはこういういくつかの具体策があり、それぞれにはこういうメリットとデメリットがある
と指摘していただければ考えやすいです。
ハナから、「極めて重要な違いがあります」というのでなく。
---
やる気には2種類あると思います。
上を目指すやる気と底から這い上がるやる気と。
その内、上を目指すやる気は比較的持ちやすいと思うのです。
その気にもなりやすいし、やればやるほど手ごたえもつかめます。
成績でいうと、ちょっと基礎が出来ていれば、やればやっただけの手ごたえがあります。
だけど、子供時代につまづいた子は、まず、やることの手がかりがつかめない。
ちょっと手伝って、基礎的な手ほどきをすると、分かったことの喜びは持つけれど
それが成績には繋がらないし、やる気が継続しないんです。
もちろん血のにじむ努力を継続することも、全くありえないことではありません。
英雄伝に出てくるような人の存在は確かにあります。
だけど、諦めてしまうケース(砂)の中から宝石を探すより少ないのではないでしょうか?

全体を向上させるには、先頭を引っ張ることと、底辺をかさ上げすることの両方があると思います。
先頭を引っ張ろうとする人は嫌ほどいますから、
私は底上げをすることに力を出そうと思って生きてきました。
それがどんな問題に対しても取ってきた私の生きる姿勢です。

男女の格差は、一次的には女性にとってしんどいことですが
男性にとっても、責任の重さというしんどさを押し付けられています。
最近の自殺者の傾向の中にも、責任の重さやプライドの重さに耐えられなくて
ということがあるようです。

トップを目指す種類のやる気をそぐ政策を取るべきだとは思いません。
トップが輝くことは、トップを目指すことが(実質的には)出来ない人にとっても夢です。
しかし、それは基本的にはその人一代で終わってもいいのではないかとすら思います。
現在は3代で食いつぶすと言われているようですが、本来スタートラインはずいぶん優遇されているのですから、2代目3代目が人並みに頑張れば増やすことが出来て当たり前でしょう。
それより、スタートラインから落ちこぼれる人間を減らしていく方が
社会の活性化に繋がると思うのです。
(世界的には教育を、というのもその点からです)

丸っきりの均等化なんてものは、お互い目指していませんね?

わたしとぼーんさんとは
程度の差なんでしょうか?
基本的な考えの違いなのでしょうか?

277ぼーん:2003/09/08(月) 10:18
>>275
たとえばこれですけどね。

> >>210
> >私的所有権が、
> >もぎ取ったりんごの全てと無条件で考えないような意味で
> >親の持つ諸権利についても、譲渡が当然と考える必要がないということです。

(1) もぎ取ったりんごの全てに私的所有権を認めない。
(2) 私的所有権を認めたりんごのすべて(すべてのりんごではない)に譲渡する権利を認めない。

武蔵さんの中では、これらがごっちゃになってるみたいなんです。

で、(1)については同意するんだけれども、(2)については同意するかどうかは分からないです。
少なくとも僕の場合、(2)は(1)とは違う論点ですから、(1)とは違う理由で同意すると思います。
武蔵さんの方は、そもそも違う理由で、と考える以前に、(1)、(2)の論点がごっちゃになってる。
だから、「同じではありえない」と思います。少なくとも現時点で。

(1)と(2)が違う論点であることが分かったなら、その上で武蔵さんが(1)と(2)のどっちを主に
批判したいのかが分からないんです。しかし、今までの書き方の印象からすると、(2)の方にずっと
重きを置いているのかな、と思う。だとすると、僕は(1)の方に重きを置いているので、ちょっと違う。
((1)に重きを置いているなら、その点では同じ。)

> 「生産物」=「自分の物」+「共有物」
> と言っているわけですから、ぼーんさんはそれ以外の主張をなさっているということになるのですか?

そこは同じですよ。ただ、武蔵さんにおいてそこに至る道筋が同じなのか分からない。
その上で、

> 「生産物」=「自分の物」+「共有物」

だとして、そこから相続や贈与を制限すべき、という理屈は出てこないんですよ。
で、武蔵さんは相続や贈与を制限することをかなり強く主張なさってる。
結論としては、僕も同意すると思うけど、武蔵さんの場合はどういう根拠で反対するのかな、と思っています。

278反吐が出る:2003/09/08(月) 10:45
>>277

ありがとうございました。これでだいぶん分かってきました。
2項目をもう少し厳密に書き換えさせてください。

(1) もぎ取ったりんごの全てには、私的所有権を認めない。「生産物」=「自分の物」+「共有物」

(2) 私的所有権を認めたりんごのすべて(すべてのりんごではない)に、無条件では譲渡する権利を認めない。

私はおっしゃるように、(2)の方に重点をおいています。
理由は、100パーセントに近い譲渡(相続)が繰り返されると
富の偏在が固定化するからです。
戦前のように、他人の土地を踏まずに自宅に着くなんて富者が生まれるのは好ましくない。
アメリカのように富者の地域を設けて軍隊並みのセキュリティ―を施してもまだ不安コミュニテイーができるのは好ましくない。
人間の生まれながらにしての不平等が強化される。
これは貧乏人にとっての不満はもちろんのこと、富者にとってすら安全な社会とは言えない。

(1)も問題ですが、公共の福祉に潤沢な金がある限りは、能力と努力に応じた分配がある方が、
  やる気が起こるし、能力のないものにとっても夢だけはもてるからです。

279武蔵:2003/09/08(月) 10:46
ばれちゃったね。
名前って残るんだ!!

280イカフライ:2003/09/08(月) 14:17
>>272
>『どれだけか自分のものなんだ?』

>この問いの答えは…
>『それは私達が決めていく事なんだ』

その割合は、100パ−セントかも知れない、50パ−セントかもしれない、もしかしたら、ゼロかもしれない。
 けれど、その割合のどれもに根拠はない、ということですね。
(やっと解った(^^ゞ)

 みんなが、なるべく飢えないように、かといって、頑張って果実を取る人が、その努力が報われないことのないように、ちょうど良い割合を決めていきましょう。
 って話ではないでしょうか?
 少なくとも、私は、そういう話をするつもりでいるのですが。

 で、今度は、ナナさんの

>『所有権割り当ての本質は社会的に
 構築されている』となります。
> 『私的所有権の神話』という現実は事実ではありません
 からね。

 実は、これがよく解りません。
 つまり、社会情勢や環境によって、所有権の割り当てが決まっていく、ということでしょうか?

281<未入力>:2003/09/08(月) 15:29
>>279
な〜んだ!(激藁

282武蔵:2003/09/08(月) 15:36
はい。な〜んだ!(激藁  です。
もともと武蔵で書いてたんですけどね。最後に反吐が出ると書いたら
看板に上げたくなった(笑)
しかし、続けることもできず静観していたから・・・・忘れてた。
いつもハンドルいちいち書かなくても便利しているのに、気がつかなかった(^^ゞ

283武蔵:2003/09/08(月) 16:32
>>278
2項目についてもう少し細分化してみましょう。

(1)「生産物」=「自分の物」+「共有物」
と言う場合、もぎ取った果実の何パーセントを共有物にするか
について、私は非課税部分(控除)からはじまる累進課税を考えています。
(2)私的所有権が認められた財産を譲渡する場合にも、
非課税部分(控除)を残し、後は累進課税を考えています。

その上で、自ら得た所得の方が、他の人からの贈与より優先されると言う考え方です。

284281:2003/09/08(月) 16:56
>>282
いや〜、愛嬌があるよ。(笑
そういうところが、君のいいとこだよ。

285実は:2003/09/08(月) 17:11
実は野次豚も君でしょう?

286武蔵:2003/09/08(月) 17:28
>>285

「実は」さんが「野次豚」さんではないのですか!?!
ともあれ、レス違いの雑談はここまでね。

287武蔵:2003/09/08(月) 19:57
>>277

>だとすると、僕は(1)の方に重きを置いているので、ちょっと違う。

私は(2)の方に重きを置いているから、確かに違いますね。
ぼーんさんが、どういうわけで(1)に重きを置いてられるのか、説明していただけないでしょうか?

私が見たところ、贈与する側に重点を置いて、自分の私有財産なのだから、自分に贈与の権利もある(私もそれは認めているのですが、100パーセントの権利を認めないです)
と言われているようです。
わたしは、贈与を受ける側の権利に重点を置いて考えています。

産まれる子供は親を選べない。
所得の多い親に育てられた子は、教育をはじめ全ての面で恵まれたスタートを切ります。
それ自身が、とっても大きい財産贈与だと思うのです。(もちろんそれを否定する気はありません)
その子が普通に働けば、他の子より大きな収入を得ます。
その子の子は、他の子の2乗の恵まれたスタートを切ります。
そういう意味で、それ以上の形に見える(金や家屋)財産を残されなくっても
すでに大きい財産を受け取っていると思っています。
子孫に美田を残さず。残すのは教育だけ。そういう心意気があってもいいと思っています。
(相続税100パーセントを主張しているのとは違います)
ぼーんさんのお考えを聞かせてください。

288ぼーん:2003/09/09(火) 14:16
>>287
すべての人に教育を受ける機会が保障されることには基本的に賛成するけど、
すべての人が教育において等しい可能性を持っているわけではなく、
事実として能力の差はあり(あるいは、現在の教育が伸ばすことのできる能力は偏っており)、
教育は万人に等しい何かをもたらすようなシステムではないと僕なんかは考えます。

誰か教育を受けたい、というときに、それが本人には克服できないどうしようもない経済的事
由によって不可能となるならば、それはアカンとも思いますが、教育を提供すべきということ
と、教育以外の何かを提供してはいけない、ということはまったく別の話です。

僕は子供に教育を残してやろう、という親の心と、子供になにがしかの財産を残してやろうとい
う親の心との間に、僕は上下をつけません。

289武蔵:2003/09/09(火) 16:17
>>288

>すべての人に教育を受ける機会が保障されることには基本的に賛成するけど、
すべての人が教育において等しい可能性を持っているわけではなく、

そりゃあそうですよ。
同じスタートラインから、同時に同条件で走っても、1等もいればべったこもいる。
だから、能力と努力を評価するにやぶさかではありません。
それでも、同じスタートライン(とまですら行っていないですよ、現実のかけっこは)
を保証できる世の中、あるいは、それに近づく世の中でありたいと思います。

>僕は子供に教育を残してやろう、という親の心と、子供になにがしかの財産を残してやろうとい
う親の心との間に、僕は上下をつけません。

この二つの親心は、二者択一のものでしょうか?
教育を一切つけないで、財産だけを残してやろうとする親っているとお考えなのでしょうか?
私には、教育にかかる費用を惜しんで、遺産を残そうとする親って考えられません。
そして、教育を付けた上でなおかつ財産まで残してやれればそれに越したことはないでしょう。
しかし、そのとき100パーセント自由に残せるのか、その何割かは共有財産に組み入れることに賛成です。
贈与税、相続税を累進的に支払うということは、「我が子」だけではなく「社会の子」を育てる大事な資金ですから。
そして、社会の子のレベルが上がることは、我が子にとっても大事な社会が育つことですから。
我が子だけが豊で何不自由ない生活をしても、社会が貧困と無知と暴虐の巷では
我が子の生活は保障されません。

290武蔵:2003/09/09(火) 16:50
>>289

文の切り方が変でした。

しかし、そのとき100パーセント自由に残せるのか、その何割かは共有財産に組み入れることに賛成です。

しかし、そのとき100パーセント自由に残せるのか?
私は、その何割かは共有財産に組み入れることに賛成です。

291武蔵:2003/09/09(火) 18:03
追加。

もし、親が教育不要論を持っていて、教育をつけない代わりに財産を残したいというなら、
その子の教育にかけるべき金額を贈与財産の課税額から控除するということもできますね。

292三毛猫ナナ:2003/09/09(火) 20:33
>>280 イカフライさん

混乱させてしまい申し訳ありません(ぺこり)
話の内容はイカフライさんが解釈されている
とおりです。

>>272の私の発言は同内容を言い方を代えて
二度述べているだけです。

293ハンドレッドソード:2003/09/17(水) 14:10
朝鮮族に対する真実を知っていますか? (Res:2) All First100 Last100 INDEX SubjectList ReLoad ▲2▼

1 名前: ハンドレッドソード 投稿日: 2003/09/17(水) 13:35

ここに来ている人達の多くが 
チョソン捏造に騙されすぎていないでしょうか?

正直彼等の多くが既に嘘を認めている 
在日朝鮮人の由来(嘘強制連行)も 
民団が既に真実に近いものを発表さえしている
それが現実である。

そして併合も暗殺を利用して 
ロシアに拒否されたものを無理やり受け入れさせたに過ぎない

このスレの2以降は自分はこんな嘘に騙されていた!
ってのを時々載っけてくれる人がいると助かる とりあえず以上。


2 名前: ハンドレッドソード 投稿日: 2003/09/17(水) 13:36

http://japanese.joins.com/transboard/jp_bbs/list.html?tname=history&page=1&startpage=1
ここで真実を体得する事を望む

294ヨッサリアン:2004/07/28(水) 08:07
ご自分で意識されているかどうか分かりませんが、ぼーん氏のα理論はなかなかSFしてますね。
本気でSFを現実化しようとしているらしいぼーん氏はマッドサイエンティストみたいでなかなかカッコいい。
まあぼーん氏は科学者ではないみたいなので「裏庭で作ったタイムマシン」みたいな成果を期待できないのは
ちょっぴり残念・そして大いに安心です。

α理論が現実化する世界を描いたSF作品に
「終わりなき平和」 ジョー・ホールドマン 創元SF文庫
というのがあります。
http://member.nifty.ne.jp/windyfield/peace.html
 「終わりなき平和」である。まさに、人類の永遠のテーマにまっこうから挑んだタイトルである。いったい作者はどんな
 回答を出すのかと期待と不安を半分ずつ感じながら読んだのだが……実のところ、読後感はかなり複雑である。
 この作品の結末をどうとらえればいいのか、私にはいまだに判断できないでいるのだ。
 まず誰もが考えるのは、すべての人々に物資が行き渡れば、平和が到来するんじゃないか、ということ。本書の世界
 ではナノ鍛造機という無尽蔵にモノを生み出す魔法が実現しているけれど、それでもまだ平和は訪れていない。それ
 ではいったいどうすればいいのか。作者の答えはかなり大胆だ。
 精神医学に、「自我境界」という概念がある。幼児期には自己と宇宙は一体だけど、成長するにつれてだんだんと自己
 と非自己の境界が生まれてくる。ところが、分裂病などではこの自我境界が弱体化してしまい、「自分の考えは自分の
 頭の中だけにおさまっていないで、まわり中に広がり、同時に、すべての人々の頭に浮かんでいる」という体験をする
 ことになる。
 本書で描かれるのは、まさにこの自我境界喪失が日常になった世界である。兵士たちは電子的に脳を結合し、基地に
 いながらにして戦場にいる戦闘ロボットを操る。部隊の中で思考は共有され、部隊は特別な絆で結ばれる。そしてこの
 技術がやがて世界を変革し、終わりなき平和を導くことになるのだが……。
 しかし、境界が消滅した世界に、人は果たして耐えられるのだろうか。そして耐えられるようになったとして、それはまだ
 人間といえるのだろうか。「終わりなき平和」が到来するには、人が人ならざるものにならねばならない。これが作者の
 回答なのだ。
 おそらくこの物語の結末はさまざまな議論を生むだろう。私個人の意見としては、人を殺すことができない新人類の誕生は、
 三原則に縛られたロボットを思い出させる。結末に訪れるのは、実は洗脳の楽園なのではないだろうか。そして、そこまで
 しないと訪れない「平和」なるものにいったい価値があるのだろうか。
 作者の真意がどこにあるかはこの際あまり重要ではない。本書は読み終えた後にさまざまなことを考えさせてくれる作品
 である。そして、本当に優れた小説とはそういうものだろう。

私もこの書評に同感です。
すべての人が本心から「全ての人に等しい価値があるものと見なす」ようになれば、
それは私の考える人間らしさを失った(あるいは、もっと良いものに造り替えた)別の生物でしょう。
私はそういう生き物にはなりたくありませんね。なんだか蜂やアリみたいですから。
命の価値が平等な蜂の社会よりも、自分勝手で色々な個性を持った人間が作る社会のほうがずっと面白い。
面白く生きるのためにはある程度のリスクも忍びます、人間らしくあるために。

295ヨッサリアン:2004/07/28(水) 08:09
「終わりなき平和」の世界の先にあるのは
「アルファ・ラルファ大通り」 コードウェイナー・スミス 早川文庫(「鼠と竜のゲーム」収録)
の世界かもしれません。

http://www2u.biglobe.ne.jp/~BIJIN-8/fsyohyo/ratdragn.html
 天候や病気はもちろんのこと、人々の寿命さえコントロールできるようになった世界において、《人間の再発見》の名のもとに、
 古代の文化と古代の言語と、古代の災厄までもわざわざ復活させた、新しい世界を築こうとしている様子が描かれている。
 完全な保護によって成立した完全な世界――ユートピアの、さらにその先を表現しようとしたのは、あるいは著者がはじめて
 ではないだろうか。

遥か遠未来の人々が「事故や病気の可能性」を新しく手に入れたことを喜び、はしゃぎまわるシーンには驚きますが、
危険なスポーツに熱中し、健康に悪い食べ物を好んで食べたがる現在のわれわれと、実は本質的に同じなのではないでしょうか。
絶対平和のユートピア、ってのはどうも退屈みたいですよ。
「都市と星」 アーサー・C・クラーク 早川文庫
も、超未来の閉ざされたユートピア都市からの脱出を描いた名作です。
そのほかにもSFには平和や戦争について可能性の極限を追求した作品がたくさんあります。
まじめな平和主義者の人たちも頭の体操のつもりで読んでみてください。
視野が空間と時間、さらには人間性の枠をも越えて大きく広がるものと思います。

296三毛猫ナナ </b><font color=#800000>(p3wi1A.I)</font><b>:2004/07/28(水) 20:00
)理論が現実化する
理論は、あくまでモデルであり、ぼーん氏の理論は
ウェーバーの理念型である事を理解されていますか
? 
ユルゲン・ハーバーマスの『公共性の構造転換』(社
会学の基礎理論の一つです)に対する批判として『理
論と現実が違う』と指摘する方と同様の的外れな批判
と言えますね。

理論はあくまで理論であり原理主義的・教条主義的に
これを捉えるから、話の要旨を理解出来ないのです。
す。

297吉岡:2004/07/28(水) 20:43
ヨッサリアン氏

あなたの言う
「自分勝手で色々な個性を持った人間が作る社会のほうがずっと面白い。」と
いうことが、そのまま「α」だと思いますが・・・・
つまり
「己の個性を否定されないためには、他の個性を否定してはならない」
「己の個性が尊重され、同時の他の個性も尊重される」
ということで。
「己の自分勝手が、他の自分勝手を押し殺してはならない」とは言えましょうが・・・・

298イカフライ:2004/07/28(水) 21:42
>>294-295

ヨッサリアンさん、はじめまして。
 
コードウェイナー・スミス の「人類補完機構」クラークの「都市と星」懐かしいです。
結構,SF好きの人が多いですね,このサイト。
私もかつてはSFは良く読んだのですが,「終わりなき平和」 は未読です。今度,読んでみよう。

299ヤッス:2004/07/28(水) 22:20
どうせ「α理論」なんかとっくに破綻してんだから、いいじゃん。
ぐだぐだ言わなくても>猫

結局、「人類全員が同じ価値観と同じ夢を見るのはSFだ」ってことで、
それを改めて既存のSF書を例に感想を述べた人がいたってだけで。
なんでおまえはそうやって、理解されにくい呪文を唱えるのが好きなんだ。

300吉岡:2004/07/28(水) 22:29
ヤスツ氏

>「人類全員が同じ価値観と同じ夢を見るのはSFだ」

「α」というのは、違う価値観(を持つ相手)を尊重しよう、と言う理論であると読み取れたのだが・・・
つまり、他者の価値観を守ること(己の価値観を守る)が「α」だと思うのだが・・・
まるっきり正反対の読み取りをする方がいるのですね。

301スライムベス:2004/07/29(木) 00:59
私はα理論というのをはっきり解ってませんでしたが
(今も解ってない)、
確か
「自分の命と他人の命は同価値なので、
二者択一の状況で自分の命を優先するのは
αの理念に反する」
とか言ってたような。

議論には参加しませんでしたが
「α理論がそんなものだとしたら、
これはちょっとついていけんなー」
と思いながら
当時スレを読んでました。

302ヨッサリアン:2004/07/29(木) 01:08
> 三毛猫さん
あなたの言うことはまったく理解できないのでお返事はパスさせてください。

> 吉岡さん
「多様な価値観を認め合う」というのもひとつの価値観でしょう。
でも世の中には「俺様の価値観最高!他はクズ!!」という人もかなりの数いるわけで。
そういう人に無理やりだか説得に説得を重ねて(それって洗脳じゃないかという気もしますが)
「寛容」というひとつの価値観を押し付けるのは私の好みじゃありませんね。
私は「寛容真理教」が不寛容な一神教にならないよう願うばかりです。

> イカフライさん
こちらこそはじめまして。SF好きな人がいてうれしいです。
よく「銀英伝」(私は未読)を引き合いに出すヤスツさんあたりもSF者かな?と期待しているのですが。
ホールドマンの前作「終わりなき戦い」ハインライン「宇宙の戦士」もどうか機会があればお読みください。
それぞれ「終わりなき平和」の先駆的作品とアンチテーゼ(というか、こちらが元でホールドマンがアンチテーゼ)です。
オーソン・スコット・カード「エンダー」シリーズも『戦争と平和』ものとして完成度が高いです。

> ヤッスさん
破綻と言ってしまうと身も蓋もないw
私は現代において「ピンの頭の上で天使が何人踊れるか」みたいなことを真剣に!
考えている人がいることが面白くてなりません。
ぼーん氏はUFO学の重鎮、清家清(せいけ・きよし)氏とおなじくらい頭が良くて革新的な考えをお持ちだと感嘆するばかりです。

303ヨッサリアン:2004/07/29(木) 01:26
> スライムベスさん

すごい言葉ですよねー、「自分の命と他人の命は同価値」って。
口で言うだけなら簡単です、私だって何度でも言えますよ
「ヨッサリアンは自分の命と他人の命を同価値と信じている」
「ヨッサリアンは自分の命と他人の命を同価値と信じている」
「ヨッサリアンは自分の命と他人の命を同価値と信じている」
…えっ?くどいですか済みません。

で、そういうご立派な言葉を何度大声で、熱心に、涙を流しつつ叫んでも、
この掲示板の中の人も現実で私の身の回りにいる人も
「ああ、ヨッサリアンは本物の博愛主義者、平和主義者だなあ」などと思ってはくれません。
それどころか私の家族はきっと「何か変な宗教に騙されたに違いない」と心配するでしょうw
要するに、「自分の命と他人の命は同価値」と本当に信じているのなら
それにふさわしい行動をとらなければ意味がない。
あ、「自分は立派なことを言っている」「すばらしい思想を広めている」と思っていい気分になる、
という非常に個人的な癒し効果はあるでしょうし、それはその人限定で意味のあることかもしれませんね。
私ならそういう行いを「自己満足」と呼びますが。

304ヨッサリアン:2004/07/29(木) 01:52
さて、「自分の命と他人の命は同価値」という思想だか理念だかを
現実の行動として表し、皆さんに納得していただくためにはどうしたらいいでしょう?
私は無い頭を絞って考えました、そして思いついたのは
「誰かを救うために自分の命を投げ出す」ということ。
夏になると良くありますよね、「おぼれた子供を助けようとして水死」という事故が。
助ける相手は必ずしも自分の子供だけではなく、見ず知らずの子供である場合もあります。
そうやって人のために命をかけられる人間は立派だ。勇気がありすばらしい。
勇気も体力も高潔な倫理もないヨッサリアンでも、好きな女性が「あの娘を助けて!」
と言ったなら迷わず(嘘、絶対迷うだろう)水に飛び込んで自らの命をかけるでしょう。

「ああ、俺って立派だなあ。αを身につけているとボーン氏も認めてくれるだろう。
人格者として尊敬され女の子にもモテモテさ」
…などとにやけていたら、どっかから声が聞こえてきました。

「サダム・フセインと金正日が溺れている!助けられるのはお前しかいない!直ちに真冬のオホーツク海に飛び込め!!」

嫌です、絶対に嫌!!!
なんであんな悪党連中のためにかけがえのない俺の命を賭けなきゃならないんだよ。
やりたい奴はやればいいさ、止めやしない。
でも俺は悪党を救うために自分の命を散らすのは馬鹿げてると思うし、そんなことやるつもりはないね。
簡単に言えば  サダム・フセインの命の価値+金正日の命の価値 <<<< 俺の命の価値
ってことだ。天使だか悪魔だか知らないが、一般人の俺に馬鹿なこと命令するんじゃないよ。

あれ?これってα的に見てどうなの?やっぱりダメですかそうですか。
どうやら私には無理みたいですね、ボーン氏の考える積極的平和の実現される世界に生きることは。

305ヨッサリアン:2004/07/29(木) 01:56
>>304訂正。
ボーン氏 → ぼーん氏

ひとさまの名前を書き間違えるなんて、他人の尊厳を自分より重んじていないことの表れかも。
やはり私はαの体現者にはなれそうにありません。

306ヤッス:2004/07/29(木) 02:37
>>300
αってのは・・・
面倒だからコピペでいい?

-----

・「異なる立脚点の正義にも共通する要素があり、その共通項をαと名付ける。このαを軸足として共有できる人以外とは話はできない」
・αとは「全ての人にに等しい価値があるものと見なす」こと。αを認めることを「まともに対話するため」の最低限の資格条件とした
・αを受け入れない者とは対話は不要

1)αとは、正義の最低限の要請である。このルールは国境を越えて全ての人に等しく適用されなければならない。
2)αを認めた者は「正/不正」を問う資格があるが、認めない者にはそれがない。何故ならαは、何らかのルールが正義だと呼べるための必要最小限の条件だからであり、αを認めない者が「正/不正」を訴えるのは、論理的に矛盾するからである。
2)アメリカ人の大多数も含め、多くの人がαを受け入れている。だから、まずはその人達と話をする。認めない人や回答を保留する人は後回し。
3)αの認め方には誤っている場合もあるから、それを正してゆく。(正してゆく過程で、αを放棄すれば、これまた後回し。)
4)多数派がαを正しく認めたら、αを認めない人達は少数派になるから、彼等も損得からでもαを認めるようになる。(その時点で認めない人達と話す)

・αとは白紙委任状にサインを迫り、白紙委任状にサインをしたものだけを相手に契約の内容を後から知らせるもの

http://hunbook.hp.infoseek.co.jp/cgi-bin/dic/guide.cgi?action=view&amp;data=641
--------

307ヤッス:2004/07/29(木) 02:42
>>300-301
人類全員が同じ価値観と同じ夢を見るのはSFって話なんだけど、
元々「α」というのは、違う価値観であっても、その参加者の中にある
「共有できる価値観=α」があれば、同じ価値基準のテーブルの上に
のることはできるはずだ、という考えだったと思う。

でも、その「共有できるαってなに?」という部分をまったく詰めずに、
「なんでもいい。後から考える。αを共有できないものとは対話はできない」
(ぼーん)っていう話になっちゃったもんだから、
「そんなの契約内容を何も示さずに白紙委任状にサインしろ、できない
ヤツに対しては、α同盟はどんな酷いことをしても許される。同盟外だから」
という話になって、そんな話が通ると思ってんのかー!

・・・という結末になってぐだぐだになって消えた。確か。

308吉岡:2004/07/29(木) 07:54
スライムベス氏

>「自分の命と他人の命は同価値なので、
二者択一の状況で自分の命を優先するのは
αの理念に反する」
とか言ってたような。

このスレだけをざっと見ただけですが、
>44 などから見るに、
「優先してしまう」ことを認めた上で、
その状況が過ぎ去った後にも二者択一から一歩も出ず
「優先することに開き直っている」ことを問題ととらえているように思います。
「優先してしまった」ことでαの理念に反したことをとりあえず認める==認めることによって、
自分がαの理念に反した行動をとらざるを得なかった状況にメスを入れる必要がある・・・とまあそういうことではないかと・・・・
「戦争で中国人を殺した日本兵の場合」のたとえなどから、そう思います。

αの理念を持たなければ
二者択一の状況を延々と繰り返し、人類は滅亡する他ないでせう。

309吉岡:2004/07/29(木) 07:58
ヨッサリアン氏
>でも世の中には「俺様の価値観最高!他はクズ!!」という人もかなりの数いるわけで。
そういう人に無理やりだか説得に説得を重ねて(それって洗脳じゃないかという気もしますが)
「寛容」というひとつの価値観を押し付けるのは私の好みじゃありませんね。

私もそう思います。
誰かが「俺様の価値観最高!他はクズ!!」という価値観を持つのは勝手でしょう。
それを説得し続ける暇も根気もありません。
ただし「他はクズだから抹殺する」と言う行為に出た場合は、それも自由だとは思いませんが。

310うろちい:2004/07/29(木) 09:51
>>304 ヨッサリアンさん
>でも俺は悪党を救うために自分の命を散らすのは馬鹿げてると思うし、そんなことやるつもりはないね。
>簡単に言えば  サダム・フセインの命の価値+金正日の命の価値 <<<< 俺の命の価値
>ってことだ。天使だか悪魔だか知らないが、一般人の俺に馬鹿なこと命令するんじゃないよ。
>あれ?これってα的に見てどうなの?やっぱりダメですかそうですか。

でも俺は悪党を救うために自分の命を散らすのは馬鹿げてると思うし、そんなことやるつもりはないね。
簡単に言えば  サダム・フセインの命の価値+金正日の命の価値 <<<< 俺の命の価値
ってことだ。天使だか悪魔だか知らないが、一般人の俺に馬鹿なこと命令するんじゃないよ。

ヨッサリアンさんがサダム・フセイン並の悪党になった時に自分の命にサダム・フセイン並の命の価値しか見いださないのならαに従っていると言えます。

311うろちい:2004/07/29(木) 09:52
↑いかんコピペが一回多かった・・

312スライムベス:2004/07/29(木) 19:01
>ヨッサリアンさん、吉岡さん

>>44を読みますと、
「自分の命か他人の命か二者択一」
という状況で自分の命を優先することは
やはりαに違反するようですが、
また同時に
「必ずしもαを守らなくてもよい」
と言っているようでもあり、
どうもすっきりしないです。

三菱銀行立て篭もり事件
http://www.alpha-net.ne.jp/users2/knight9/mitubisi.htm
の時は
銀行員が猟銃を突きつけられて
他の瀕死の銀行員の耳を切り落とさせられる
という出来事がありましたが、
少なくとも私にはこの銀行員を責めることは出来ません。
ということは私もα否定論者ということになるのかな?

αを認めたり実践したりするのは
相当良心のしきい値が高い人じゃないと
出来ないんじゃないか、という気がします。

313スライムベス:2004/07/29(木) 19:02
αの話の前段として、
「公平」スレで
概略以下のような事を書いた覚えがあります。

−−−−
「日本は北朝鮮のテポドンに狙われているんだから、
事の是非はおいといて
国益上アメリカのイラク攻撃を支持しないと仕方ない」
なんていう話をよく耳にするが、
イラク攻撃を支持しない事でいったいどれくらい
テポドンが落ちる可能性が増えるのかを考えた場合、
それはあまりにも日本人とイラク人の命の重さに
差をつけすぎているのではないか
−−−−

誰でも自分優先、自分の子供優先、自国優先という気持ちは
あると思いますが、
「自分(の国)さえよければ何でもいい」というのは行き過ぎです。
私もどちらかというと公平志向が強いんですが、
私の場合はあくまでも「程度問題」であり、
そこがα理論との違いなのかな?
と思ったりしています。

314吉岡:2004/07/29(木) 19:35
スライムベスさん
今絶体絶命、二者択一に状況下に置かれたとき
動物の自然の本能として、自分の命を救おうとする、
そのことを他人が責めると言う話ではないと思います。

客観的な価値観として、俺の命を人の命より価値があると考えその行動をとることが許されるか、
と言う問題だととらえています。
客観的な状況で、ルール作りをする時に、公平を基準にするのか、自分の立場しか考えずにつくるのか
ということではないでしょうか?
テポドンとイラクの話を、私も思います。

315ヨッサリアン:2004/07/30(金) 01:13
>>310
> うろちいさん

> ヨッサリアンさんがサダム・フセイン並の悪党になった時に自分の命にサダム・フセイン並の命の価値しか見いださないのならαに従っていると言えます。

ヨッサリアンがサダム・フセインなみの悪党になったときは、自分の命を他の誰の命よりも大事にするエゴイストになってます。
そのときには当然「サダムは死ね、俺は生きる」という選択をするでしょう。(自分の命>>>>サダムの命)
…なんだ、今と変わりないですね。それならすでに自分はちょっぴり(かなり?)悪党なのでしょう。
だからといって、ご立派な道徳家さんに「αに従ってないから悪党だ」と批判されても全く良心に痛痒を覚えませんね。

もう一度まとめると、「自分の命と全ての他人の命は同価値」とするα理論を実践する人とは、
「極悪非道の悪党2人以上の命を救うために、自らの決意のみで(業務ではなく)自分の命を投げ出せる」
人のことだと私は思います。
そういう人が絶対に居ないとは言いませんが、人類の大多数はそうではないでしょう。

自分の妻をレイプし、もてあそんで殺した悪党2人の命を救うために自分の命を投げ出せますか?
自分の命ならまだしも、自分の子供の命を「二人の命は一人の命より重いから」と犠牲に出来ますか?
それは心から「人間らしい」と思える行動ですか?
「平和な世界を作るために、全ての人はそのようにすべきであり、もちろん自分は実践する」と誓えますか?

私に言わせれば、α理論なるものは自然な人間性を捻じ曲げて「平和の奴隷」に仕立て上げようとする恐るべき考えです。
ある種不気味な美しさを感じますが、私はα理論が実現した世界に住みたいとはこれっぽっちも思いません。

316ヨッサリアン:2004/07/30(金) 01:47
>>313
> スライムベスさん

「日本がイラク戦争に反対することで戦争を防げた可能性」を考えてみてください。
私はほとんど0だと思ってます。
自己満足のためイラク戦争に反対のポーズをとり、結果として自国民に対するリスクを増大させるような
愚かな選択を小泉首相がしなくて良かったと私は心から喜んでおります。

> それはあまりにも日本人とイラク人の命の重さに
> 差をつけすぎているのではないか

イラクでの外交官殺害事件、カメラマン殺害事件ではイラク人も犠牲になってますが
ほとんど報道されず、総じて日本人は関心を持っていないようです。
報道量を見るかぎり、マスコミ人と疑問なく報道を受け入れている一般人の関心の持ち方としては
「日本人の命  5:1  イラク人の命」
くらいのようです(これでもまだ甘いかも)。

頭のいい人、道徳に厳しい人にとって「日本人の命の価値=(≒?)イラク人の命の価値」
なのが自明だったり譲れない正義なのかもしれませんが、
一般の日本人の実感としては「日本人の命の価値>>>イラク人の命の価値」なのでしょう。
私はそれを嘆いたり糾弾しようとは思いません、普通の日本人が「他国人の命の価値は常に+の値である」と考えれば充分です。

イラク人についてはいくらかでも関心を持ってもらえるだけマシですよ。
アフリカの内戦で死んでいく人たちはほとんど報道されず、優しい人に反戦デモもしてもらえません。
彼らが「日本人は俺たちの命の価値をゼロだと思っている」と主張しても私はそれに反論できないでしょう。

317ヤッス:2004/07/30(金) 02:35
おーい。
αの要約コピペは君ら読んだのか(w


α論のうちの「α」というものは、
・立場が違っても共有できる、最大公約数の正義
なわけだが。
だが、その「最大公約数の正義の正体」が語られないまま、
・最大公約数の正義であるαを共有できないものとは対話ができない。
・αを共有できないものは、αが保証する平和から除外し、α同盟が排除・攻撃してもαに対して矛盾にならない。
というものだったから、ずだずだのぐだぐだになったわけだが。

「絶体絶命の二者択一で、双方の命の価値が同じ」とかそういう命題とは全然違うものだったぞ。
議題を捏造すんな。>特に吉岡

318ヤッス:2004/07/30(金) 02:40
この「α論」の最大の問題はな。

「αが何か」を定義できないのに、αを共有しろ、と強制する点。
それと、
「正体のわからないαを共有する約束をした人間(国でもいい)以外は、
αの禁止する方法を用いても、α同盟(=αを共有する約束をしたグループ)
は、罰を受けない」
という考え方そのものだ。

つまりは、「異質な価値観の相違を認め合う世界=α論」じゃないんだ。
「異質な部分の中にある共通点(それが何かを定義せずに)を共有できないものを
排除するためには、正義=何かを禁止するαが、禁止していることそのものを、
同盟の外にいるものに行使してもよい、ということだ。

「核兵器の使用を禁止する=αだとして、それについて異を唱える、同意を得られない
ものに対して、【核兵器の使用を禁止する】ことに合意した集団が核兵器を使用しても
矛盾はなく許される」
という考えがα論なんだな。

自分で自分に課した禁止条項を、他人にはしていい、っていうのはおかしいだろ?
だからα論は、猛烈にぐだぐだになったんだよ。

319ヤッス:2004/07/30(金) 02:48
「自分と他人は違う」
というのは、彼我の相違を自覚する、要するに「自分という存在は、他人(他国でもいい)
とは別種のものだ」ということを知るための、まあ第一歩であるし終着点でもある。

我思う故に我あり。だし、
君がいるから僕がいる。だし、
自分に異を唱える他人が存在することで、初めて自分が自分であることを自覚できる。
ってことだーな。
テツガク的に言えばな(w

だから、そういう意味でも「価値観の統合」は不可能だしやっちゃいけない。
もっとも、価値観というものは、「風土の相違」によって生まれる。
およそ宗教が定義する「敵」や「戒め」、食習慣は、「風土」に左右される。
海沿いだ、山が近い、川で食糧を取る、砂漠のオアシス周辺で物々交換する、
胡椒と引き替えにコーヒーを得る、などなど。

そうするとだな。
地球上のあらゆる地勢・風土が統合・均質化されない限り、価値観の統合というのは
事実上不可能なわけだな。半島の奥にいるものは大陸側からの襲撃を恐れるし、
半島の対岸に住む者は半島からの襲撃を恐れる。そういうものだからな。

そうすると、彼我の相違、価値観の相違を埋めることは事実上不可能。
第三の「外界(=宇宙)」から脅威が生まれてこない限りは。
まあ、そうなると「宇宙人襲来」とか「宇宙水爆戦」とかの世界になるわけだが(w

そうした「価値観の統合が絶対不可能」な世界で、部分的に合意できる正義がある
はずだ、と考える、その考えそのものは別に否定せん。
あるとしたら、酸素と水と塩と飯と安全な睡眠だろうと思うし。
が、そうしたものを共有できても、なお共有できない「価値観」というのある。
その部分についてそれが何かをはっきりさせずに、「とにかく不可侵を約束しろ」
と、「盲目的不可侵という価値観」を強制するのがα論なんだよな。

それでは同意はできん。
ぐだぐだなのよ。ぐだぐだ。

320イカフライ:2004/07/30(金) 09:17
まあ、αの提唱者が、そもそもサイトを去ってしまわれたわけだが。

「自分と他人の価値は等しい」
これが、αの基本なのかな,と私は理解してるわけで。
あくまで私なりにだけど、「人の立場に立って物事を考える」とか「自分がされてイヤな事は人にしてはならない」とか、基本的な道徳だな。
この辺が,スタ−トになるのかな、と思っている。
でね、αに価値を置かないならば,他者が自己と同価値である事を認めないのならば,自分の子供が殺されても「理不尽と思ってはいけない」という(たしかみらいさんとのやりとりであったけれど)提唱者の論理は,論理としては完璧だったと思うんだよ。
理論としては完璧にあるにもかかわらずこれだけケンケンガクガクと疑問が出るのは、一方で
「人間は自己と他者を同価値には考えられない」という頑とした現実があるからなんだよな。

その溝をどうやって埋めるのか,それをぼ-んさんとは話したかったんだが、まあ、いない人は仕方が無い。

321イカフライ:2004/07/30(金) 10:04
福祉スレにも書いたことだけど、「自分」がバイクを手に入れるために、メシを抜いたりロクに寝ないで働く若者はいても、見ず知らずの障害者の車椅子を買うために,アフリカの子供の食料を買うために、食わず眠らず働きはしない。
それは、「自分が遊ぶバイク」のほうが「他人が生きるに必要な品」より上なんだよな。
これは「私の楽しみのおやつ」より「他人の生存ギリギリの食糧」が優先されるべきだ,と思う反面,自分の楽しみのオヤツを優先させる現実そのものなんじゃないだろうか?
これも人間のエゴ,だと思う。しかし、エゴというのは、悪い事のように語られる場合が多いが,全てが悪いわけではない。エゴや欲望によって人間は発展してきた事も否めないからだ。

αにあてはまるのかどうか解らないけれど,それこそなんの利害関係も無ければ縁もユカリも無い人間の為に,おのれの生涯を犠牲に出来る人っている。
マザ−・テレサのような人はそうだと思う。けれど、マザ−・テレサが聖人と尊敬を受けるのは,それが誰にでも出来る事ではないからなんだ。
宗教的バックボ−ンがそういう人々にはある場合は多い。しかし、では宗教を信じればαな領域に到達できるか,と言えば,なことは全く無くて。
実際,宗教信者がみんな自己犠牲に溢れ道徳心の高い人か、といえばんなことなく、殆どは無信仰者と変わらない程度の道徳観の持ち主だ,むしろ神や仏と言う自分にとっての絶対を手に入れる事によって、凡人よりもおのれのエゴに無自覚,無頓着になるケ−スも多々ある。

人間は自分に出来ることしか出来ないし、自分に出来ることを精一杯やるしかない、これは私が常々言ってることだけれど。
良く,ボランティアとかの話をすると,じゃあ、全財産を恵まれない人に寄付するとか,難民のいる国に行ってそこで一生を捧げた活動すれば、とか言う人がいる。
リアルでの掲示板でもね。これは、ずるい、と思うんだよ。
そういう人間の言い分としては,1,000円寄付したとか、障害者施設で一日雑用をやったとか、誰でも(まあ、ここの事情があるにせよ)やろうと思えばそうそう困難な事じゃない。
それをやらないいいわけで、やっている人間を貶めるような卑怯さがある。一方で,自分は弱者の事を考えない冷酷な人間だ,と思われるのはイヤ、という気持ちもあって,それが上のような言葉になるんだろうな,なんて思う。
しかしね、α理論なんぞ追及していくと,人間はその前に潰れてしまうんじゃないか?そんな気もするな。

322うろちい:2004/07/30(金) 12:26
>>301 スライムベスさん
>「自分の命と他人の命は同価値なので、
>二者択一の状況で自分の命を優先するのは
>αの理念に反する」
>とか言ってたような。

>議論には参加しませんでしたが
>「α理論がそんなものだとしたら、
>これはちょっとついていけんなー」
>と思いながら当時スレを読んでました。

「自分の命と他人の命は同価値なので、二者択一の状況で他人の命を優先するのもαの理念に反する」
αってこんなもんです。
単にαが実現できない状況があり得るってことだけです(「αを守らなくても良い」というのは仕方がないからです)。
ついてこれるでしょ。

323うろちい:2004/07/30(金) 12:27
>>315 ヨッサリアンさん
>ヨッサリアンがサダム・フセインなみの悪党になったときは、自分の命を他の誰の命よりも大事にするエゴイストになってます。
>そのときには当然「サダムは死ね、俺は生きる」という選択をするでしょう。(自分の命>>>>サダムの命)
>…なんだ、今と変わりないですね。それならすでに自分はちょっぴり(かなり?)悪党なのでしょう。

それならヨッサリアンさんはαを共有していません。
あなたがもし川で溺れていてもαを理由に「は」助けを求められません。
求めると「αを共有していない」に矛盾します。
まあ矛盾してても助かりたいから助けは求めるでしょうけど。

>もう一度まとめると、「自分の命と全ての他人の命は同価値」とするα理論を実践する人とは、
>「極悪非道の悪党2人以上の命を救うために、自らの決意のみで(業務ではなく)自分の命を投げ出せる」
>人のことだと私は思います。

違います。
「悪党」だからという理由が命を救わない根拠としてサダムらにも自分にもその他にも適用するなら、その人はαに対して矛盾していません。
一方、誰であってもとにかく助けるべきだ助かるべきだという考え「も」αに矛盾しません。

324イカフライ:2004/07/30(金) 15:43
>>316

>>313でスライムベスさんの言われた
>「日本は北朝鮮のテポドンに狙われているんだから、
>事の是非はおいといて
>国益上アメリカのイラク攻撃を支持しないと仕方ない」
>なんていう話をよく耳にするが、
>イラク攻撃を支持しない事でいったいどれくらい
>テポドンが落ちる可能性が増えるのかを考えた場合、
>それはあまりにも日本人とイラク人の命の重さに
>差をつけすぎているのではないか

 これは、私もずっと日本のイラク攻撃賛成の時に言い続けていた事です。

ヨッサリアンさんの言うように、日本がイラク攻撃に反対する事によってイラク攻撃が避けられる可能性は非常に低く,また、アメリカ様(この辺,らしいでしょ笑)のご機嫌を損ねる事によって自国民に対するリスクを増大させる(、ま、具体的に言えば北朝鮮から守ってもらえなくなっちゃう、ってことよね)。
だから、イラク攻撃賛成は日本のため,つまりは日本国民の為。これも又,正しいのかも知れません。
けれど、それでいいんだろうか?
自分の都合で他者を犠牲にするのなら,他者の都合で自分を犠牲になれても、文句は一言もいえませんね。粛々と死を受け入れるだけでしょう。
私は,そこまであきらめが良くないですね。

>アフリカの内戦で死んでいく人たちはほとんど報道されず、優しい人に反戦デモもしてもらえません。
>彼らが「日本人は俺たちの命の価値をゼロだと思っている」と主張しても私はそれに反論できないでしょう。

 確かにその通りです。
 どんなに偉大な人間であっても,人間一人の力で世界を救うことは出来ません。
 こうして昼間からネットに向えること自体,私も平和で豊かな国でネットの上でだけの理想論を言っている偽善者と言われても仕方ないでしょうね。

 人間は弱くて勝手なものです、いや、弱いから勝手なのかも知れませんね。
 それは、仕方ないことだと思うんです。その「仕方ない」の先を考えていきたいんですが、どうすれば良いのでしょうね?

 弱く愚かな人間が弱く愚かなまま、世界を救うことは不可能なのでしょうか?

325ヤッス:2004/07/30(金) 23:46
「自分は間違っていただろうか?」
と振り返ることができるのは、自分が死ななかったから。

後悔ができるのは人間だけだというが、後悔というのは贅沢な行為なんだよな。
だって後悔できるってことは、「死ななかった」「まだ生きてる」ということだもん。
「もっといい方法があったかもしれない」といって、自分が選んだ選択肢を否定するのは間違い。
別の選択肢を選んでたら死んでたかもしれなかった。

「もっといい方法があったかもしれない」と悔やむのは勝手だが、
悔やむことができるのも自分の選択肢が当たり(=少なくとも自分が死ななかった)だったから。

これに照らし合わせると、「もっと他人を助けるべきだった」「自分だけが助かる方法を考えるべきでなかった」
というのは、実は非常に傲慢な考え方なんじゃないかと思うんだよ。
自分が助かった。自分たちの判断で自分は無事だった。
もっといい方法があったかも、なんて悔やんだり悩んだりできるのも、自分が選んだ方法で自分が死ななかったから。

イラク攻撃を日本が支持したことは、結果的に北朝鮮との交渉の中で同盟国アメリカが日本にプラスになる
行動を取る、というバーター条件を引き出している。だから、日本のあの時点での選択は正しかったと思う。

そして、人間は弱く愚かなものだ。愚かで弱くて当然で、そんな存在が世界を(自分以外を)救おうと考えることが間違ってる。
まず自分を助けることを考えるべきだ。
後悔という贅沢ができるのも、自分が生き残ったときだけだ。

おそらく相手も同じように考える。
強者も弱者も皆同じように考える。
そんなとき、自分を棚上げにして(その上で自分を見捨てずに)弱者を救おうと考えるのは傲慢だ。
弱者が自分で助かろうとするのと、自分が自分を救おうとすることは猛烈に衝突するだろう。
そのとき、「可哀想な弱者のために自分が死んでもいい」と考え、それを実行できるのは献身的な一部の宗教者だけで、
大多数の人間はそんなことはできない。

ならば、大多数の人間もまた献身的な宗教者になるべきか?それを目指すべきか?
否。そんなことはできない。生活があるからな(w

結局、人は世界を救えない。
自分を救う努力しかできない。
他人を救う真似事をすることで、自分は自分以外をも救うことができるのだ、という満足を得ることはできるだろう。
医療関係者なんかそうだろ?
でもそれって自己満足だよな。
宗教者の大部分もそうだけど。

もう1回だけ繰り返しとく。
人は自分しか救うことはできない。
後悔ができるのは、後悔した選択が正解だったことの証明。

326ヤッス:2004/07/30(金) 23:54
高い木のてっぺんにいる。
友達と2人で木に登って降りられなくなった。
助けを待っている間に、友人の掴まっていた枝が折れた。
自分は必死になって友達の腕を掴んだ。
が、自分の掴んでいる枝もこのままでは折れるだろう。
救助がくるまで枝は持たない。

さて、友達の腕を振り払って自分が生き残るのが正しいか?
友達の代わりに自分が木から飛び下りれば友達は生き残れるかもしれない。
それとも、答えを出さずにぎりぎりまで頑張った挙げ句に、枝が折れて2人とも助からないのが正しいか?

自分も友達も命の価値も、生き残った後の将来の価値も等価値だとする。
だが、どちらかしか選べない、それを選ぶ権利を自分が持っている。
これに答えろ、ということなんだよなあ。αって。

で、ぼーんは「自分の命も相手の命も等価値だということを、自分と友達の双方が理解できているなら、
自分が助かるために手を離すことを、友達は許してくれる。許してくれないかもしれないが、それを
理解した上で(つまりは、責め苦を得る覚悟をした上で)手を離すのと、自分が助かりたいがために
手を離すのとでは違う」と言った。

が、それは生き残った側の理屈でしかないんだな。
手を離す自分が相手の命の価値を理解していようと、相手がそれに同意していようといまいと、
手を離すことで相手は自己の意志と関係なく命を失った、それを実行したのは手を離した自分自身だ、
という点には何の違いも起こらない。
それを「αを共有していれば許される、許されないが自覚していることが重要だ」ということで誤魔化してしまう
のは、結局は生き残ったものが楽になるための詭弁でしかない。

まあ、ぼーんのα論はそういう側面を持っているわけなんだな。

327ヤッス:2004/07/30(金) 23:58
では、αを共有していない相手と自分が同じ条件だったとする。
相手は自分を殺してでも生き残りたいと思ってるし、しかしその相手の命を処断できるのは自分だけ。
αを共有していないから、相手を殺してもよい?
自分は相手を助けたいと思っているが、相手は自分を助けたいと思っていないから、自分は相手を殺してもいい?
αを共有しない相手になら何をしてもいい?

ぼーんのα論は、これに対しては「イエス」なんだよな。n

じゃあ、そこまでいう「α」ってなんだよ、具体的には、という話は結局出てこなかったなあ。
「αを共有するための説得をする間に、αを共有できなかった相手の説得は後回しにする。
これを繰り返していくとαを共有しないものは少数派になるから、αを共有する多数派に与するしかなくなる」
とも言ってたけど、提唱者ぼーんの説得の仕方を見てて俺はこう思ったのよ。

「提唱者ぼーんには、αの共有を説得することは100万年かかってもできない。
α論は、相手を説得できないので共有はされず、100万年たっても多数派にならない。
故にα論は成立しない」

328ヨッサリアン:2004/07/31(土) 01:14
>>323
> うろちい氏

> それならヨッサリアンさんはαを共有していません。
> あなたがもし川で溺れていてもαを理由に「は」助けを求められません。
> 求めると「αを共有していない」に矛盾します。
> まあ矛盾してても助かりたいから助けは求めるでしょうけど。

その通りですw
私はαと関係なく助けを求めるし、周りの人もαに関係なくそのときの気分と事情で助けたり助けなかったりするでしょう。
もし助かったら、私はαに関係なく助けてくれた人に感謝し(場合によって)助けてくれなかった人を恨むでしょう。
人助けするのにαなんて必要ないんですよ、「そのほうが気持がいい」「名誉という利益が得られる」だけで充分。

> 違います。
> 「悪党」だからという理由が命を救わない根拠としてサダムらにも自分にもその他にも適用するなら、その人はαに対して矛盾していません。

そんな殊勝な悪党は本当の悪党ではないですね。少なくともサダムはそうじゃなかったようです。

> 一方、誰であってもとにかく助けるべきだ助かるべきだという考え「も」αに矛盾しません。

「助ける価値のある人間は助ける。価値のない人間は見捨ててもよい」
これはおそらく大多数の人間が意識して・あるいは無意識に拠って立つ他人の生死についての規範ですが、
α理論とは「助ける価値がある」を「αを共有する」に言い換えただけなのでしょうか。
どうも私にはそうとしか思えない。
ただの言い換え、(言い方を悪くすれば)言葉遊びだけで世界に永遠の積極的平和をもたらせるならそれは実にすばらしいことです。
残念ながらそれが実現するとはこれっぽっちも信じられませんけど。
裏庭でUFOを作ろうとするのは夢があって楽しいことですが、完成した期待がうまく飛ぶのは特撮やアニメの中だけのようです。

329ヨッサリアン:2004/07/31(土) 01:20
>>327
> ヤッス氏

何だか、α理論というのは神様のいない一神教みたいですねw
「不在の神を信じる」というのはなかなか難しそうですなあ。
私は八百万の神がいる国、人が神になる国である日本に生まれ育った人間なので
「唯一の神」という概念にも抵抗を覚えます。
まして不在の神にお賽銭をあげる気にはなれませんw

330ヤッス:2004/07/31(土) 02:02
>>329
その通り。

だから、祈るべき対象のない宗教=α論は信者を獲得できず、
不在の絶対神を讃えたぼーん司祭は、彼の思うところの「愚かな民」に見切りを付けて、
もっと従順でもっと「賢く」、もっと司祭の言うことを聞く「選ばれた民」を求めて
去っていったんだと思うワ。

後に残されたのは、神学者ばかりナリよ(w

331ヨッサリアン:2004/07/31(土) 02:03
・αとは「全ての人にに等しい価値があるものと見なす」こと。

これの関連でちょっと気になったのが、事故で死者が出たときなどにマスコミで使われる
「かけがえのない命が失われた」という言い方。

そういう言葉を聞くと私は「そうかなあ?」と疑問を感じてしまいます。

自分の命は一つだけ、だから「かけがえがない」ことは自明。
自分の家族、恋人、友人の命は自分にとっての世界を構成する大きな要素。
彼らの個性は他の人では代えられないので「かけがえがない」。

でも、よく知らない同僚は?なじみの食堂のおばちゃんは?
彼らが死んでも、彼らに代わって仕事やサービスを遂行してくれる人が来れば、
私にとっての世界は特に以前と変わりなく続いていくだろう。
だから彼らの命は自分にとっては「かけがえがある」(代替可能)。
もちろん彼らの家族、恋人、友人にとってかけがえのない存在だったのでしょうが、
彼らの感覚を自分が本当に共有することは出来ない。

さらに見ず知らずの人の命は、自分にとっては人口統計の上での数字に過ぎない。
彼らが死んでも、私の実感する世界からほとんど何も失われない。
「欠け」たことが実感できないんだから「代え」も不要。
ニュースを見て「ああ、お気の毒に」とは思っても、心の片隅にも
「かけがえのない命が失われた」などという実感は持てない。(思ってなくても言ったり書いたりすることは出来ますが)

事故を伝えるアナウンサーにも、それを見る視聴者の99.9999%にも無関係な人の死を
「かけがえのない命が失われた」と表現するのはなぜなのでしょう?
「自分の家族・恋人・友人の命はかけがえがない」ことを見ず知らずの他人の生死にまで(おそらくは無意識に)延長している訳で、
α的な理念に通じるものがあるように思えます。

私はそのような言い方を「なんだか嘘くせー」と少し嫌悪します。
ですが、多くの視聴者は聞き流して(あるいは受け入れて)いるみたいですね。
彼らが本当に無関係な他人の命を「かけがえのない」ものと実感しているのかどうか、私にはかなり疑問ですが。

332ヨッサリアン:2004/07/31(土) 02:10
>>330
過去の偉大な宗教者は往々にして迫害されたり多くの信者を集められなかったりしています。
現時点で成功を収めていないからといって、将来ぼーん氏が先覚者、聖人として称えられないとも限らない。
ま、その可能性はほとんど無いだろうとは思いますが。

それにしても、無神論とも違う「神のいない一神教」か。
宗教の発達についての俗説で

汎神教→多神教→一神教

と進化するという話がありますが、一神教の次がぼーん教だったらどうしようw
その時世界はローマ帝国の衰退と崩壊以上の混乱をきたすでしょうね。

333うろちい:2004/07/31(土) 16:16
>>331 ヨッサリアンさん
>「助ける価値のある人間は助ける。価値のない人間は見捨ててもよい」
>これはおそらく大多数の人間が意識して・あるいは無意識に拠って立つ他人の生死についての規範ですが、
>α理論とは「助ける価値がある」を「αを共有する」に言い換えただけなのでしょうか。

どうもそもそもαの理解が消化不良のように見受けられます。
「助ける価値のある人間」と「助ける価値のない人間」と区別すること自体はαには矛盾しません。
しかし「助ける価値」の判断に「自分だから」「他人だから」を入り込ませるのならαと矛盾します。

334イカフライ:2004/07/31(土) 20:16
>>333

つまり、こういうことでしょうか?
「人を助ける価値はない」と判断したならば,
「自分も助けられる価値は無い」と判断せよ。
ならば、αに矛盾しない,と。

 これは、私がイラク攻撃の時に、賛成派の方々に言った意見ですが
「じゃあ、イラク人の都合で日本人が殺されても仕方ない、つーの?」って。

 ヤスツさんからは、確か、総括すると「仕方ない」というお返事を頂いたと思うんですが。

 そうなると、「日本人が助かりたいからイラク人を(間接的に)殺す」ってのは、矛盾があるわな。
 理不尽な理由で殺されても良い,ってことなんだから。

 かようにαってのは、理論的には完璧,とは言えないまでもスジが通っている。

 が、しかし、だ。

 多くの日本人は「イラク人は死んでもいいけど,日本人は死んだからヤダ」なんだよね,現実は。
 なんで?っていうと、日本人に自分も含まれるから。

 人間は自分を一番大事にしてしまう、これが残酷な世のテーゼ、なんだわなあ。

335ヨッサリアン:2004/08/01(日) 01:37
>>333
>うろちい氏
> しかし「助ける価値」の判断に「自分だから」「他人だから」を入り込ませるのならαと矛盾します。

ダブルスタンダードの禁止ということですか。
それはけっこうなことで同意しますが、わざわざαとか難しいことを言う必要もなさそうな気がします。

>>334
>イカフライ氏

うーん、私にはヤスツ氏の考え方のほうがαより筋が通っていて潔いような気がしますが。
少なくとも道徳家ぶった臭みが感じられないのが好ましい。

ヨッサリアンの意見としては、人間の道徳性を高める(あるいは、道徳的制約を強める)ことで平和を作り上げようと言う考え方にはどうも疑問があります。
昔から何人もの天才が宗教や哲学でやってきて、あまり成果が上がっていませんから。
その手段が「洗脳」だとか「全人類のテレパシー接続(SFだw)」みたいに科学的に確実な方法なら
完全な平和が実現できるかもしれませんが、そういうやり方が技術的・経済的・政治的に可能とは思えません。

となると、不道徳で利己的で他人の生死に関心を持たない人間が、
下品で自分勝手で薄情な行動をとっても、いやそうすることでかえって世界が安定し皆が豊かになるような
政治的・経済的・社会的システムを何とかして作り上げることを考えたほうが、理念的・道徳的アプローチより現実的な気がします。

…私は政治にも経済にも社会の仕組みにもうといので、システム構築の具体的な提案どころかそれが可能かどうかも分かりませんがw
科学の発達、特にシミュレーションとコンピュータ技術の発展に期待したいものです。

336スライムベス:2004/08/01(日) 01:48
むむー
どうもα理論というのは
「絶対的な無私の心」というのを信者さん(?)に求めているように
読み取れるんですけどねえ・・
うろちいさんはそういう解釈をしているみたいですね。
でも吉岡さんは「そこまでは言ってない」という解釈みたいです。

>>322うろちいさん
>「自分の命と他人の命は同価値なので、二者択一の状況で他人の命を優先するのもαの理念に反する」
>αってこんなもんです。

しかしどちらかに少しバランスが傾いているケースで
「少し価値が小さい」側に自分の命が当てはまってしまった場合はどうなんでしょう。
α理論にしたがえばニッコリ笑って死んでいかないとダメなんじゃないですか?
もしそうだとすれば、やはり私には無理みたいです。

337うろちい:2004/08/01(日) 07:18
>>336 スライムベスさん
>「絶対的な無私の心」というのを信者さん(?)に求めているように
>読み取れるんですけどねえ・・

そんな心は要求をしていません(もちろん心があっても良いですが)。
建前でも何でもいいからαに同意を示し言葉に責任を持てば良いんです。

もし公正な基準に照らして自分の命が他人より小さいために死ななくてはならないケースに遭遇したとき
そのとき「自分だけはどんな理由があっても何でも死にたくない」と「思って」いても別にαに矛盾しません。

ちなみに「この死刑の基準は間違っている」と考えて脱走するのもαと矛盾しません。
則ち「少し価値が低いくらいで死んでたまるか」と考え脱走したとしても、他者が同じケースで脱走するのを受け入れればαとは矛盾しません。

「二者択一の状況で」片方が多く死ぬべき理由(または「生きるべき価値」)を持つ状況などそもそも通常無いでしょう。
例えば「背が低い」「資産が少ない」などのことは我々は普通死ぬべき理由として考えません。
もしこれを死ぬべき理由として考え他者に要求するなら、「二者択一の状況で」背の低い自分が死ぬことによって背の高い他者を助けなくてはαと矛盾します。
背が低いことぐらいで納得して死ぬことは僕にも無理です。
スライムベスさんはおそらくそういうことを想定しているのでしょう。

ヨッサリアンさんがうまいこと言っていますが「(自と他との間に)ダブルスタンダードを置かない」と言う以上の意味はαにはありません。
これはごく基本的な規範ですね。
「相手の身になって考える」は5歳くらいから人間に自然に身に付く能力です。
きっと人間が社会を形成して生き残るのに大昔から必須の能力であり規範なんでしょう。

338三毛猫ナナ </b><font color=#800000>(p3wi1A.I)</font><b>:2004/08/01(日) 10:18
ぼーん理論は、概念を言説化して社会理論的に明示
したものです。

例えば『自由』ですが、これは元々は人の頭の中に
あるものに言葉を与えて、それがさも筋が通り正当
性があるかの様に振る舞った結果として定着したに
過ぎません。

ぼーん氏の狙いは概念に言葉を与え理論化する事に
より新しい規範が社会的に普及することなのです。
彼の理論を『現実は違う』と批判するのは的外れな
のです。

339壱学生:2004/08/01(日) 17:32
まぁ本人も居ないことだし、今さらα理論を批判しても仕方がないんだけど
(それに僕が主張すると、いらぬ半畳を入れてくる人もいることだし)
それでもあえて実際的な問題点を挙げておくと、

まず第一に論理学的な問題点として、
α理論は「αが存在する」という仮定の上でしか成り立たない理論な訳だ。
しかしながら少なくともぼーん氏の言説の中ではその「αの存在」はまったく証明されていない。
にもかかわらず、ぼーん氏はその証明できていない「αの存在」(の仮定)を盾にしてるんだな。
ここに論理学的な問題点がある。言ってみれば、「α」というのはこの段階では「理論」ではなく「ドグマ」でしかない訳だ。
「αが存在すると仮定した上で、規範的考察を進めるとこうですよ」という紹介なら兎も角として、
「αが存在すると仮定する。だから人はこうするべきだ/こうあるべきだ」と言うのは、論理的に筋が通ってないだろうね。

そして第二に政策的な問題として、
仮にこのα理論とやらを真面目に政策として適用すると、それは「ぼーん氏が独裁する世界」をかなりの確率で招くことになるって所かな。
第一の部分で見たように(そしてこれまでのα理論を批判的に考察してきた人が全て指摘しているように)、「α」の中身はぼーん氏本人にすら証明できてない訳だ。
でもぼーん氏は「αに違反している!」と他者を批判するわけだ。
じゃあその「αに違反している!」ってのは誰が判断しているかというと、それは「α教」の司祭たるぼーん氏本人でしかない訳だ。
つまりぼーん氏は「証明できていないα」を盾に他者を無制限に批判し放題な権利を持っていることになる。
しかも「αは証明できていない」訳だから、その批判に抗弁することは誰にもできない。
だってぼーん氏本人にすら「αの中身」は理解できてないんだから、他者はなおさら判断できんわな。

いやー、実に怖いねー。
だから仮に「実はαに違反していない考え方」でも、ぼーん氏が気に入らなければ「α違反!」って糾弾されるんだもんね。
実際、僕のこれまでの主張も僕基準では「αの範囲内」なのに、ぼーん氏には「α違反!」って散々言われたからねー。

これは政策的に見てもかなり問題で、
まず第一に、これは「ぼーん氏による精神的・倫理的独裁体制」でしかないって部分が、
そもそも「α」に違反しているっていう自己矛盾を招いてるし。
そして第二に、仮にぼーん氏がまったくの精錬潔白なプラトンが理想としたような哲人政治家だとしても、
ぼーん氏以外にはその「α違反!」って言う批判が、「本当にα違反」なのかそれとも「αを口実に他社を弾圧しているのか」判断がつかない
っていう致命的な問題も招いてるし。
だって僕もぼーん氏の僕に対する批判が「αの観点から見て正当」なのか「実はヒステリックに口撃しているだけ」なのか判断がつかないもん。
僕の中の理想主義者は「まさかそんなことはねー」とぼーん氏を信頼したがってても、
僕の中のリアリストは「人間ってもっともらしい口実で他者を攻撃するのが快感だからねー」とニヒリスティックに囁いてるんだけど(笑)

まぁ一番大きな声は、「いまさらいない人のことを話してもしょうがないんじゃないの」って言うんだけどね(w

340三毛猫ナナ </b><font color=#800000>(p3wi1A.I)</font><b>:2004/08/01(日) 21:07
>>339
ぼーん理論は、概念に言葉を与えたものです。
ですから当然『アルファ』は論理に過ぎません
。これは『自由』や『人権』も同様の事であり、
存在の有無が問題ではなく、どの様な虚構に関
与することにより社会が回っていくかという事
実性が問題なのです。

政策面に関して壱学生氏は、教条的マルクス主
義者と同様の過ちを侵しています。それはぼー
ん氏の理論がウェーバーの理念型であることを
理解していない為です。

『ぼーん氏の理論は現実にそのまま適用できない』
という類の批判には『理論はモデルですから当たり
前でしょう?』とする回答で十分なのです。


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