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「α」についてはここで語ってください

44ぼーん:2003/05/26(月) 16:58
>>42
> ただ、その本能発動せんくてはならん状況に自分が「追い込まれない」という
> 確証がなければ、すべての状況にそれを適応することはでけんだろうね。

別にそんなことはないですよ。
追い込まれたにせよ、そこでαを否定する行動を取った人は、その行動において
αを否定した、ということを認めなければなりません。

その上で、進むことの可能な道は幾つかあります。
1つは、αを徹底的に否定するか。
いま1つは、そのαを否定する行動を反省的に捉えなおすか。
その場合、「本当にその場面ではαを否定する行動しかありえなかったのか」と
問い直すことがあります。また、「αを否定する行動しかありえない状況はどう
してありえたのか」ということを問い直すことがあります。

たとえば、戦争で中国人を殺した日本兵の場合。
殺さなければ自分が殺されていただろう、という状況があることはわかる。
しかしこの場合でも進むことの可能な道は幾つかある。
「仕方が無かった」といって、すべてを殺した相手の方に投げつける方法。
この場合、いかに仕方がなかったとしても、それは殺す側の論理であり、自らの
背後にいて殺すよう仕向けた国家や様々なものの側に立っていることになるでし
ょう。いかにそれが切羽詰ったものであろうと、殺される側にとっては無意味で
す。本質的にαの否定でしかありえない。

もう1つの道は、殺さざるを得なかった状況を作り出した当時の国家の責任や社
会情勢に目を向けることです。当時の日本政府には多大なる責任があるでしょう。
まずはそれを考えること。そして、日本政府を追い込んだ外国政府の責任がある
なら、それも同時に言っていくべきでしょう。殺さざるを得ない状況で殺した人
に可能なことは、自分自身においてαを否定したことの責任を自分で引き受けて、
殺した相手ではなくて殺さざるを得ない状況を作った社会構造の批判へと向けて
いくことが大事です。

さらに言えば、このような兵士を戦地に送った後方の人たち、そのような兵士た
ちを戦地で送った結果としてある今を生きる人たちも、そのような責任を(部分
的には)引き受けていくべきでしょう。


αの否定・肯定にこだわることは、「私」において発生した矛盾(殺すか殺される
か)を引き受けて社会を問い返していくか、殺した相手に覆いかぶせて逃げ去る
か、その分岐点になりえるでしょう。僕がαの否定・肯定にこだわるのはそういう
意味です。


仕方なかったから、「そういう場合にはαを否定していい」なんてのは、いかに
切羽詰った人の悲しい言い訳であったとしても、それは単なる「論理的間違い」
に過ぎません。その心中を慮りつつも、「間違いだ、共に責任を引き受けるべき
ではないか」と詰め寄ることも大事でしょう。


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