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「α」についてはここで語ってください

331ヨッサリアン:2004/07/31(土) 02:03
・αとは「全ての人にに等しい価値があるものと見なす」こと。

これの関連でちょっと気になったのが、事故で死者が出たときなどにマスコミで使われる
「かけがえのない命が失われた」という言い方。

そういう言葉を聞くと私は「そうかなあ?」と疑問を感じてしまいます。

自分の命は一つだけ、だから「かけがえがない」ことは自明。
自分の家族、恋人、友人の命は自分にとっての世界を構成する大きな要素。
彼らの個性は他の人では代えられないので「かけがえがない」。

でも、よく知らない同僚は?なじみの食堂のおばちゃんは?
彼らが死んでも、彼らに代わって仕事やサービスを遂行してくれる人が来れば、
私にとっての世界は特に以前と変わりなく続いていくだろう。
だから彼らの命は自分にとっては「かけがえがある」(代替可能)。
もちろん彼らの家族、恋人、友人にとってかけがえのない存在だったのでしょうが、
彼らの感覚を自分が本当に共有することは出来ない。

さらに見ず知らずの人の命は、自分にとっては人口統計の上での数字に過ぎない。
彼らが死んでも、私の実感する世界からほとんど何も失われない。
「欠け」たことが実感できないんだから「代え」も不要。
ニュースを見て「ああ、お気の毒に」とは思っても、心の片隅にも
「かけがえのない命が失われた」などという実感は持てない。(思ってなくても言ったり書いたりすることは出来ますが)

事故を伝えるアナウンサーにも、それを見る視聴者の99.9999%にも無関係な人の死を
「かけがえのない命が失われた」と表現するのはなぜなのでしょう?
「自分の家族・恋人・友人の命はかけがえがない」ことを見ず知らずの他人の生死にまで(おそらくは無意識に)延長している訳で、
α的な理念に通じるものがあるように思えます。

私はそのような言い方を「なんだか嘘くせー」と少し嫌悪します。
ですが、多くの視聴者は聞き流して(あるいは受け入れて)いるみたいですね。
彼らが本当に無関係な他人の命を「かけがえのない」ものと実感しているのかどうか、私にはかなり疑問ですが。


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