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教養(リベラルアーツ)と場創り(共創)に向けて

1尾崎清之輔:2007/11/04(日) 22:20:25
まず、はじめに、このスレッドのタイトルを付けるにあたって、数日ほど悩んでしまった。

当初は、秋という季節にちなんで『芸術と読書と食について』というような名称にして、そこから徐々にリベラルアーツへ展開していくことを目論もうと考えたが、『食』については長い間このテーマを文明論的な視座で捉えられている素晴らしい塾生の方がいらっしゃるし、読書については既に『戦後日本の十大名著とは』と『最近読んで印象的だった本』の2つのスレッドが存在しているため、残りは『芸術』ということになるが、これも既にフィボナッチ数列やラチオについて語られているスレッドが存在していること、芸術のサブセットである音楽ひとつとっても、たかが1000枚程度のクラシックCDやDVDの所有と、実際の鑑賞に出向いた数が100回にも満たないくらいではこのようなテーマを専門にして語ることは誠に恐れ多い。
更に「秋という季節にちなんで」という考え方では、一過性もしくはそのシーズンにならないと盛り上がらなくなってしまいかねない危険性がある。
よって、このようなタイトルを付けさせて頂くに至ったが、良く考えてみたら(…というより実は考えるまでもなく)最も大層なタイトルを付けてしまったため、提唱者である私にとっては文字通り『無謀な挑戦』となること必定であろうが、このテーマを出来るだけ長期に亘り続けていくことで、藤原さんの近著(KZPやJZP)で触れられていたリベラルアーツに少しでも近付くことができるよう、私自身、修養を重ねていきたいと思うが、実際のところ本場のリベラルアーツである「自由七科」を学んだわけではないので、教養(リベラルアーツ)とカッコ付きにさせて頂いたことをご了承願いたい。

もう1つのテーマである場創り(共創)については、これまでも何度か取り上げられてきた内容ではあるが、本来あるべき姿としての「場」は広がりを持つ系であり、私が「場」と言われて出向いたその多くについては、残念ながら閉じた系である「空気」でしかなかったことだ。
従って、これも前者の教養や修養と密接に関わりを持つことで、開いた系としての「場創り」に向けられるのではないかと考えたことから、この2つのテーマを一緒にさせて頂くことにした。

さて、前置きが長くなり過ぎて辟易としたでしょうから、そろそろ本論(まずは序文)に向かいたいと思う。
「共創」と言えば同音異義語に「競争」があるが、これは、いみじくも正慶孝さんが自著で看破されていた、現代のIT社会を司る「Communication」「Control」「Computation」といった3つの「C」に対して、私からもう1つ「Covetous(貪欲な)」を加えさせて頂くと、たちまちにして「賤民資本主義(パリア・キャピタリズム)」という人造ダイヤの4℃を構成することになってしまい、これが現代における「競争」の本質を示しているのではないかと考える。
日本におけるマックスウェーバー研究の泰斗である中村勝巳慶大名誉教授が20年前から仰せのように、まともな躾を受けぬまま「カバレリア・ルスティカーナ」の限りを尽くし続けてきたことが、最近のクライシスの根底にあると私も考えているが、これは亡国云々以前に、人間のあり方そのものの問題として捉えられるべきではないかという意味で、中村博士の意見に共鳴を覚える。
尚、蛇足だが、今夏来日したパレルモ・マッシモ劇場の「カバレリア・ルスティカーナ」を観て、これまで何度も同じ作品を観たにも関わらず、中村博士の仰った意味が漸く正しく理解できた気がする。
場創り(共創)に向けては、同じ「Communication」という言葉であっても、「通信(としての手段)」ではなく「人間同士の意思の疎通」が肝要であり、これに「Confidence(信頼、信用)」「Conscience(良心、分別)」「Coexistence(共存)」または「Covivence(共生。但しsymbioticという意味とは関係ない)」を加えて磨き続けることによって、自然が創り出した原石である天然ダイヤに4℃の輝きが増していくのではないかと思っている次第だ。

※上記の「ダイヤ」はメタファーとして使わせて頂いた。

2尾崎清之輔:2007/11/06(火) 00:19:20
1ヶ月半近く前のことになりますが、スタジオ・ジブリの絵職人として知られる男鹿和雄さんの展示会を鑑賞された方より、その作品群のアニメとは思えない美しさや繊細さについて高い評価をされていたことから、その後、所用で近くへ出向いた際に、折角の機会なので、近代美術館へ立ち寄ってみることにしました。

アニメ(ジブリ作品をアニメという括りにして良いかどうかは別として)には全く縁の無い私ではあるものの、数年前に行われた脱藩会の後、藤原さんを含む数名で二次会と称して他の店に移った際に、様々な話題に花が咲きましたが、その席上で、藤原さんとは非常に長いお付き合いのある方より、宮崎駿さんの作品群の話題が出ていたことを思い出したことも、このたび出向いた理由の一つでした。
また、男鹿さんご自身は分かりませんが、宮崎駿さんに関しては八切止夫史観に相当影響を受けていると伺ったことがあるので、それが男鹿さんを通じて実際の絵画にどのような影響を与えているかについても少々興味があったからです。
(ちなみに宮崎駿さんの作品群と八切止夫史観の関係性については、いずれ古史古伝大系を論ずる際に項を改めて行いたいと思います)

しかし、残念なことに連休中に出向いてしまったことから、チケット購入と入場までに90分待ちとなっていたため諦めることにしましたが、隣で「磯辺行久展」なるものが開催されており、空いていたのでこちらを鑑賞することにしました。

この美術家&環境計画家の磯辺行久さんは、御年72歳ながら、非常にユニーク且つ強烈なメッセージを、その作品群を通じて提示されてきている方であり、1950年代の抽象画から始まり、60年代にはワッペン型のモチーフを反復させたような作品群を数多く発表しており、そのワッペンの中には多くのシンボル(国旗、欧州の貴族の紋章、日本の家紋、企業体や各種組織体のマーク、王冠、ラベルなど)が、さながらミランダのオンパレードの如く大小取り入れられた作品もあったので、これはこれで大変興味を引きました。

その後60年代半ば頃の渡米により、二十世紀のダビンチと呼ばれた、科学者、哲学者、美術家の顔を持つ天才バックミンスター・フラーとの出会いにより大きな影響を受けた彼は、造形的な実験を通じて、より大きな枠組み、つまり自然環境を視座に置いた作品活動に従事することになったようです。

「ランドスケープ」と呼ばれることになるこれらの作品群は、70年の第1回アースディにおいてはエア・ドームという名称の作品を発表しておりますが、このドームの中では、船の帆の形をした非常に低消費エネルギーのスピーカーがあり、このスピーカーから流れる自然の音色がエア・ドームの中全体に渡って何とも言えない優しさを奏でておりました。

その後も数々のランドスケープ作品を制作してきた彼ですが、何と言っても圧巻であると感じたのは、2000年頃に発表された「イル・ド・フランス」作品であり、これはパリとその周辺地域を記した大きな地図(十畳か十二畳くらいの大きさ)の上に、生態系に影響を与える各種施設や汚染など(原発やBiohazard Facilitiesのある場所、強い電磁波の流れる場所、SO2やNO2が空気に乗った流れなど)の情報を重ねた形で表していたことから、その場に座り込んで暫く凝視してしまったと申し上げておきましょう。

今世紀に入ってからの磯辺さんの活動主体は、自然環境のあり方そのものに対するメッセージを強める方に向かわれているようで、自然体系に対してテクノロジーで挑戦し続けようとする人知の愚かさを、信濃川において元々あった川の流れを治水という名目で強引に変えたことに対する痛烈な批判を「川はどこへ行った」などの作品を通じて行っているようです。

それにしても出会いというものは不思議なもので、このジブリを見に行くことが無かったならば、磯辺行久という一人の個性的な芸術家のメッセージを知ることなく終わっていたでしょうから、全くの偶然とはいえ、私にあの「場」へ出向く切っ掛けを示して頂いた方に対して、ここで改めて感謝の意を表したいと思います。

3尾崎清之輔:2007/11/08(木) 01:20:19
『経済的合理性を超えて』(みすず書房)において、『日本人の考えている「経済的合理主義」に対して対抗原理として働く要因として、芸術ないし美という領域ないし観点があります』と喝破された中村勝巳博士は、その一例として、企業の社名や製品名を知らせるために多額の広告費を使い、ビルの屋上に巨大な広告塔を設置し、夜になるとネオンだらけになってしまう都市の夜景や、電車の中刷りや新聞の中にある広告だらけの状況に対し、果たして世界中を見渡してこのような行為が可能な社会は一体どこの地域に限られているかを考えてみる必要があるのではないかと述べており、そのような経済至上主義的な要求を抑える対抗軸として、芸術や美的な要求、また市民自治の伝統への誇りといったことが、欧州社会の根底に存在していることの重要性を語っております。

これは『人は何で生きるか、人は何のために生きるか、人はいかに生くべきか、社会や国家はいかにあるべきか、という究極の価値基準から一貫した組織的生活態度をとって生きようとする要求』であり、『人として倫理的命令に絶対に服しようという生活態度こそ、「経済的合理性」に真正面から対立』できるものであるとしております。

この緊張関係とバランスのとり方が肝要であり、「して良いこと、してはいけないこと」の判断基準になるはずですが、(特に昭和初期から現在に至るまで)日本はこのような形による社会の発展がされてこなかった(というより最初から対抗原理自体が欠けたまま経済的合理性の支配と貫徹が為されてきてしまった)ため、手段の目的化のみならず、行き着くところまで行ってしまい、結果、社会の分裂と内部崩壊により、その歴史的役割を終えて滅んでしまいかねない危険性を説いております。

但し、『健全な人間精神をもった人々がここで深い学問、高貴な芸術、すぐれた哲学と高い宗教を生み出し、広く国境と時代をこえて人類に貢献する途と可能性』は残されているとも指摘しており、そのためには永い眼(少なくとも100年きざみ)で見て、世紀単位で考えていけるような大戦略が必要ということになりますが、これは欧州社会が辿ってきた長い歴史にその範を求めることで何らかの道筋が見えてくるのではないかと考えます。

さて、そうは言っても、いきなり100年単位で考えていくことは、余程の訓練と冴えた目を持つ者でなければ、なかなか到達できる次元ではないでしょうから、一介の凡夫としては、そのようなことを頭の片隅に置きつつも、日々の生活に決して埋没されることのない自分、つまり藤井尚治博士が仰った『自由とは「Free from」ではなく「Free to」である』という言葉の重みを十分に感じつつ、平たく言えば『自由気ままに生きて』いけるだけの心の余裕は常に持っていたいものです。
正しく「忙しい」という言葉が「心が無くなる=心の余裕が無くなる」ことを防ぐ意味でも。。

このような心の余裕の持ち方こそが、自分の仕事とは全く関係の無いもう一つの(または二つ以上の)世界観を持つことに繋がり、延いては、専門バカという病弊に侵されないための知恵ではないでしょうか。
そして、このもう一つの(または二つ以上の)世界観を持つことが、より大きな枠組みの中で認められ、更に人類の共通言語や共通財産に繋がるような普遍的な妥当性にまで至ることによって、その人間の懐の深さや嘘・偽りのない衷心を示すことが可能となり、尚且つ人類の普遍的課題を自らの課題と同じくすることの出来る、本当の意味でグローバルに通用する人間へと育つことは間違いないのではとも考えます。

そのための第一歩として、余分な周りの状況から離れて音楽に親しんだり、無心・虚心になって絵を描いてみたり、自然の美を楽しんでみたりすることから始めてみるのも良い切っ掛けになると思います。

4牧野:2007/11/08(木) 13:10:13
久しぶりの読み応えのある記事に拍手喝采です。忙しいというのは心が亡びることを文字が示していますが、貧すればドンするというように余裕がなくなるとドンするわけです。今の日本人がそんな感じでして、国も個人も本当のゆとりがなくなったために、まともなことが考えられなくなったのでしょう。
中村先生もピューリタンについて書いていて、高利貸し、投機、売春などのようなハイエナのビジネスが、いかに人間の貧しさを現しているかを論じています。日本ほど大きな町の駅前にサラ金という高利貸しの看板が並んでいて、それを放置しているというのは情けない限りですね。

5尾崎清之輔:2007/11/09(金) 01:02:52
牧野様。過分なるお褒めの言葉を頂きまして、誠に有難うございます。
また、「忙しい」を「心が無くなること」から「心が亡びること」へ修正して頂いたことにつきましても、感謝申し上げます。

尚、牧野様が仰せの「読み応えのある記事」として成立できましたのは、決して私の筆力によるものではなく、中村博士の著書がそれだけ優れていたことの証左でしょうし、私は多くを引用させて頂いたに過ぎません。
このような名著が絶版になって久しく、再販の目途さえ立っていないことは賤民化の現れと考えますが、巷間では相変わらず「表紙付き紙屑」の大量生産が続けられておりますので、正に貧すれば鈍するが如きといったところでしょうか。

さて、中村博士の著書から引用を続けさせて頂きたいと思いますが、西洋文化を解くマスターキーとして、

◆「ヨーロッパとは何かときかれた時、ぼくはキリスト教と数学と音楽と答える。音楽はヨーロッパ理解の手掛かりなんです。」(矢野暢「朝日新聞」1987年5月14日、夕刊)と指摘されていますが、ヨーロッパ文化はマックス・ヴェーバー的な意味で「合理主義文化(ラチオナリスムス)」だと言い換えることもできるでしょう。一つの文化を解くには、マスター・キーというものがあるのです。「音楽家」でない人がバッハとモーツァルトとベートーヴェンを愛するというだけでたちまち人間として信頼をうることができるのは、鍵があうからです。

からはじまり、続いてその意味するところを詳細に渡って述べておりますが、このような考え方をヨーロッパ中心志向と批判する方々に対しては、

◆不満があるのならば、日本の在来文化の中から人類の共通財産になりうるものを、共通の述語を通して掘り起し、持ち出せばよいのです。そういう普遍的座標軸の批判に堪えるものを産み出すことができるならば、ヨーロッパ以外にも普遍妥当性をもつ文化があるということですから、喜ばしいことであるわけです。

と正鵠を射た指摘をしております。

また、音楽がヨーロッパ社会に与えてきた影響を、そこに生きる人々おいては全存在がかかっている場合もあり、音程の高い低いという次元の問題ではないとも喝破しております。

これはヨーロッパの音楽が、そこに生きる人々の精神生活に対する不可欠な要素を為していて、若い人のみならず、中高年や老年の方々に至るまで、見識を備えるための「場」として存在していることが、何よりの証拠であるからと考えます。

そういう意味で日本を捉え直しますと、昨年夏頃まで長期間に渡り位人臣を極めた男は、トップとしての責任感は全くなく、国内外の様々な危機的状況への対処より、オペラ観劇を優先されていたと見え、その様子は幇間的なマスメディアを通じて、日本版ポピュリズムとしてのプロパガンダによく利用されていたようです。

嘗てはカール・ベームやカルロス・クライバー、最近ではリッカルド・ムーティーやワレリー・ゲルギエフ等(記憶違いの可能性もありそのような発言をしていない方もいたかもしれませんが)といった方々から、日本人の鑑賞や観劇に伴う行儀の良さを高く評価されておりましたが、私の知る限り、ただ一度だけ「ブーイングの嵐」に見舞われたのが、この現代版パヴァリアの狂王(こんなことでルートヴィヒ二世と比較したらあの世からルートヴィヒ二世にお叱りを受けそうであるが「狂王」という言葉については適切と考えるのであえてそうさせて頂きます)でした。

このボローニャ歌劇場の来日公演(昨年6月)に現れた際の演目は、その男の好むワーグナーではなく、ジョルダーノの「アンドレア・シェニエ」というフランス革命前後の実在の人物(実名はアンドレ・シェニエ)をベースに少しフィクション化したオペラでしたが、ミーハーなこの男がどうして「アンドレア・シェニエ」のような演目を観劇しにきたのか、その時は不思議に思いつつもプロパガンダの一環くらいにしか思っていなかったのですが、この件を古くからの最も信頼できる方へ話したところ、『多くの国民を断頭台へ導くことに成功したことに対して優越感や恍惚感を抱いていたのでは』という大変貴重なコメントを頂いております。

最後に余談ではございますが、この「アンドレア・シェニエ」の内容を存じ上げていない方は以下のサイト等でご確認願えれば幸いです。

◆アンドレア・シェニエ(ウィキペディア(Wikipedia)より)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%AC%E3%82%A2%E3%83%BB%E3%82%B7%E3%82%A7%E3%83%8B%E3%82%A8

6尾崎清之輔:2007/11/10(土) 02:07:07
先の投稿でルートヴィヒ二世やワーグナーに触れてしまった以上、何かしら続きを書く必要性を感じておりますが、実は三十代後半になるまで、ワーグナーの持つ毒にやられないようにするため、意識的に出来るだけ聞かないよう観ないようにしてきました。
特に例の「無限旋律」を聞くと、いつまで経っても解決の付かない抜けられない状況に陥ったような感じが何とも言えず、余程優れた演奏家や演出でもない限り、逃げ出したくなる気持ちがあったからです。

四十代になってから普通に観劇・鑑賞できるようになりましたが、その理由の一つとしては『丸山眞男 音楽の対話』中野雄(著)(文春新書)との出会いが大きいと思います。

それにしても、ワーグナーの超大作『指輪(リング)』四部作が、作品完成までに四半世紀を費やしたことは余りにも有名ですが、その間に『ニュルンベルクのマイスタージンガー』と『トリスタンとイゾルデ』という、これまた4時間強に渡る大作を2本も作り上げているのですから、これはもう驚愕を禁じえません。

これらの作品群とそこから得た感想については別の機会にさせて頂きますが、先に述べた『丸山眞男 音楽の対話』も教養と創造に値する素晴らしい書籍の一つと考えており、この本を通して丸山博士の思想と音楽、特にワーグナーやベートーヴェン、そしてフルトヴェングラーについて語りつつ、芸術から政治へと展開したいと思っておりますものの、丸山思想について云々申し上げるには、私にはまだまだ時間が必要と感じておりますので、まずは序章として、この書籍で私が線を引いた部分から2点ほど以下にご紹介させて頂きます。

◆本当に身につく教育はやはり1対1.それも学ぶ方が積極的に吸収する資質がなければダメです

◆何事によらず、自分がこれと思った人に徹底的に喰らいついて、何から何までわがものにする−、これが結果的にはいちばん効率的な勉強法です。しかし、喰らいつく相手は必ず当代一流であること。喰い尽くしたら、独自性は自然に出てくる。それが本当の『創造行為』です。

7尾崎清之輔:2007/11/11(日) 22:32:53
『投機』という言葉は、一般的には賤民資本主義社会を構成する「金銭またはそれに準ずる取引における短期的な利鞘の獲得行為」として捉えられておりますが、その語源が禅語であったことは、『New Learder』10月号の編集後記で初めて知りました。
(尚、編集後記者ご自身も芥川賞作家の玄侑宗久氏に会って初めて知ったとのことです)

その編集後記から該当する箇所を以下にご紹介させて頂きます。

◆本来、投機とは「機に投ず」と読み、修行者が真理の世界に参入して道と合一する体験を指す言葉だった。それがいつのまにか商取引の世界に転用され、「私」の欲得を示す言葉になった。本当の投機とは、身につけてきた一切の概念を捨てからだ一つに戻る勇気のことだという。

玄侑宗久氏も自らのエッセイにて、『いつのまに、どうして商取引などという概念だらけの世界に転用され、「私」の欲得を示す言葉になってしまったんだろう。』と仰っておりますが、ちょっと歴史を振り返れば、マネーが価値交換媒体としての役割以上の存在になってしまってから、非常に長い歳月を経てきたことが良く分かります。
しかも、マネーは今やほぼ完全に電子化されてしまったため、本当に文字通りの単なる概念でしかなくなくなってしまい、その概念があたかも実体の如く振る舞ってやりたい放題、といったところですが、申し上げるまでもなく、このような状況はオイルピークや食糧ピークなどの実状と併せて間もなく大崩壊するでしょうし、その前の残飯あさりの加速度がますます上がることは必定ですが、そのような中でもパニックに陥ることなく、クライシス後の秩序構築へ向けた準備を怠らないよう日々努めたいと思います。

◆『日本人の新しい「気概」の創造―戦後の腑抜け日本人を蘇生させるのは老荘思想だ』日下藤吾(著)(日新報道)

著者の日下藤吾さんは、今年5月に100歳を目前にして大往生されましたが、あの中野正剛の弟子であり、中野正剛、廣田弘毅、緒方竹虎などを輩出した修猷館の出身で、戦時中は企画院の調査官を、戦後は専修大、拓殖大、青山学院大の教授ならびに名誉教授を努められており、坂口三郎さんと同じタイプの毒を持つ個性的なご老人という印象がございますが、書籍の説明文に『「正義」と「恥」が失われた日本に未来はあるのか。暗黒の中から抜け出て、新しい光を得るべく、中国の老子、荘子の思想を語る。』とございますように、老荘思想(著書で触れられているのは主に荘子)を通じて、現代の暗黒と間近に控えたクライシスからの脱却を図るための良書の一つと考えております。

また、この本では「捉われ」や「こだわり」を捨て去るべく、禅の教えについても幾つか散りばめられておりましたが、一読して、『正法眼蔵』における雪峰義存と庵主の話を思い出し、『道得』という難解な世界へ至るにはまだまだ多くの時と修養が必要であると、改めて考えさせられました。

8尾崎清之輔:2007/11/13(火) 00:18:02
昨夜の私の文章に余りにも飛躍し過ぎて分かりにい部分がございましたので、追記させて頂きます。

『投機』という言葉の語源が、禅語で「修行者が真理の世界に参入して道と合一する体験を指す」ことや、「身につけてきた一切の概念を捨てからだ一つに戻る勇気のこと」であったにも関わらず、『いつのまにか商取引などという概念だらけの世界に転用され、「私」の欲得を示す言葉になってしまったのはどうしてなのだろうか』、と玄侑宗久氏が仰ったことに対して、私の昨夜の文章では、

>ちょっと歴史を振り返れば、マネーが価値交換媒体としての役割以上の存在になってしまってから、非常に長い歳月を経てきたことが良く分かります。

に続く形で、

>しかも、マネーは今やほぼ完全に電子化されてしまったため、本当に文字通りの単なる概念でしかなくなくなってしまい、

となっており、これでは肝心な説明(私見)が全く為されていないことに、恥ずかしながら読み返してみて気が付きました。

この『非常に長い歳月を経てきたことが良く分かります。』の文章の後に、

◆本来の『投機』を意味する「身につけてきた一切の概念を捨てからだ一つに戻る」ための一環としては、自ら築き上げてきた「財」を捨て去ることも含まれており、これは元来「浄財」と呼ばれ、「布施」とか「喜捨」と同様の意味を持つ、愛他的精神に結び付いた、公共や公益また慈善事業に使われるお金のことを示すはずであると思いますが、この「浄財」という言葉さえも、今や横文字にすると文字通りの「マネー・ロンダリング」になってしまい、本来の「浄財」が持つ意味とは大きく懸け離れてしまっていることから、嘗て藤原さんが自著で喝破した「革命」という言葉と同様に、「浄財」も矮小化されてしまったのではないかという私見を持っております。従いまして、『機に投ず』が、短期決戦的な即時的満足(つまり市場原理主義社会や賤民資本主義社会においてはマネーないしそれに準ずる存在)という意味に捉えられてしまうようになったのではないかと思う次第です。

という一文を付け加えさせて頂きます。

9尾崎清之輔:2007/11/13(火) 00:50:38
話題はガラリと変わりますが、本日は『場創り』に関連して、身近な話から少し述べさせて頂くことをご了承願えますと幸いです。

以前から『社会への恩返しのすすめ』のスレッドでも触れさせて頂いておりますが、日常の狭い範囲や枠組みに囚われることなく、様々な「場」への単独行を通じて、素敵な出会いを多く持つことができるよう、ここ数年そのように努めてきた中で、若手フォトジャーナリストの方々、場の研究の一環である「勧の目と行の目」から野たる現場へ「行」として赴くことを選んだ方、最近ではとても秘めたる輝きを持つ表現者の方などに邂逅する機会に恵まれてきました。

そのような邂逅は、彼ら彼女らの作り上げた作品群から気が付くこともあれば、対話を通じて気付くこともあり、最初お会いした際は分からなかったものの、2度目には片鱗に気が付き、3度目にはやや確かさを感じつつ、4度目になって確信へと至る、といったケースもございます。

これらの方々は、世界を舞台に活躍し始めている方、これから飛躍しようとしている方、既に一定のポジションを築き上げつつも、より広い世界や高みへと自らを見出そうとしている方など様々ですが、いずれにしても、彼ら彼女らには「共通する一種のエネルギーやポテンシャル」を感じます。

私はそれをあえて「才能」とは呼ばずに「資質」と呼びたいと思っており、それは一般的に言われる「才能」という響きに『世間にスグ役立つ「モノ」としての能力』といった意味合いが込められているようで、『無用の用』の重要性を考える私にとっては、どうしても違和感を覚えてしまうからです。

また、彼ら彼女らは、自らが活躍している「場」を通じて、「場」を構成する各要素が互いに自発的な活動を起こすことによって、新たなる創造へと至ることが出来るような『リアルタイムの創出知』と呼ばれる優れた面を見せることの出来る可能性を感じさせることも間々あり、私は、このような方々との出会いを通じて、お互いを大切にできる関係性へ発展させていくことの肝要さを痛切に感じております。

このことは、私にとっても、時には自らのパフォーマンスやポテンシャルをアップさせたり、時には自然の中での平穏や安らぎに近いものを覚えたりもしますが、それは先に述べた、『共通する一種のエネルギーやポテンシャル』が互いの中で増幅し合い、それがフィードバックループすることで、「良いひとときを過ごすこと」へ至るからではないかと思っているためです。

このような素晴らしい可能性を持つ方へ、以前ご紹介した藤井尚治博士の著書から再び引用する形でご紹介させて頂きますが、『「大局観」で捉えつつ、「些細なこと」には拘らず、「一生新手」の面白さを楽しみ、そこで得られた「自分の楽しみ」と「他人に役立とう」という2つの観点を持ちつつ』人生を歩んでいきましょう。

10尾崎清之輔:2007/11/14(水) 00:21:10
小学生のお子様をお持ちの親御さんへお勧めしたいと思っている書籍の一つに、『タオのプーさん』ベンジャミン・ホフ(著)(平河出版社)がございます。
これは書名から察することが容易なように、タオイズムについて書かれた児童文学の系統に属する本であり、同じ著者による『タオとコブタ』という姉妹書もございます。

ここの掲示板を訪れる方々の多くは、タオイズムや老荘思想についてはおそらく一通り学んでこられており、今更といったところでしょうが、数年前の『きっこの日記』でも評価されていたように、実は「今の大人」が読んでもそれなりに面白い内容でした。

さっと一読してみてスグに譲ってしまったため、何が書いてあったかは殆ど忘れてしまいましたが、一つだけ覚えていることとして、山水画の中の「空白」部分の重要性や、ドビュッシーのピアノが奏でる鍵盤と鍵盤の間の「無音」部分に着目している文章があったことです。
(蛇足ですが、ドビュッシーの方はベルガマスク組曲の第3曲『月の光』のことかなと察しました)

所謂「描かれていない」または「あえて描かなかった」向こう側に何があるかを想像してみることや、「空」の考え方について、若い頃から身につける意味では良い本の一つといえるでしょう。

ところで山水画で思い出しましたが、過日、僅か1時間で風景画のスケッチを描いた方の実物写真との比較を拝見させて頂いたところ、遠近法の妙による美しさはもちろんのこと、写真には存在していない(と思われた)部分まで描ききっていたことには思わず脱帽しました。

書籍については、行間を読む訓練のみならず、書かれていない部分についても読み取ることが出来るよう努めてきたつもりでしたが、絵画の世界に対してはまだまだであることを再認識した者としては、同じように挑めるよう、芸術の秋を堪能したいと思います。

そういえば、藤原さんが20年ほど前の共著『日本の危険』の「あとがき」で、山水画に関して若干言及している部分を思い出しましたので、以下にご紹介させて頂きます。

◆ひとつの発想、あるいはひとつの構図との出会いを通じて、新鮮な共感を分かちあえるような年齢になると、山水画や俳画の世界が楽しいものになるらしい。

『ひとつの発想、あるいはひとつの構図との出会いを通じて、新鮮な共感を分かちあえるような』場創りが肝要ですね。

11尾崎清之輔:2007/11/17(土) 04:53:32
暫く連続で書き続けておりますと、たとえ1日でも合間を作ってしまうことは、何となく気持ち悪いと思いつつ、書き溜めた文章が幾つかあるものの、発表するには若干考察を行う必要性を感ずることから、本日も私事に近くなってしまうことをご了承願いたいと思います。
私が世事に疎かったことを思い知らされたこととしては、11月15日(木)0:00をもって、ボジョレー・ヌーボーの解禁日であることを、一昨日、行きつけのワイン主体のお店で知ったことでした。

ワインとクラシックに大変造詣の深い、私より一回り上の世代にあたるこの店のオーナーは、「シャトーマルゴー90年モノ」とのたまう初見の客に対して「お客様。残念ながら品切れで…」と即答する矜持をもった方でありますが、会話を通じて、ひとたび信頼関係、つまりお互いの「場」の繋がりを感じさせるだけの関係性が出来上がると、メニューに載っていない品はもちろんのこと、彼の趣味である、真空管のアンプと複数の高級スピーカーが奏でるクラシック群(少なくとも私の十倍とか二十倍以上の作品所有者)を一般客が引いた後、営業時間後でも暫く楽しませて頂ける器量の持ち主です。

当日がボジョレー・ヌーボーの解禁日の直前であることを知らなかった私は、全く違ったタイプのワインを嗜んでおりましたが、折角の機会なので、お願いしましたところ、勧められたのは、マルセル・ラビエールという生産者の手による品で、ボジョレー・ヌーボーのような、熟成ワインとは懸け離れた葡萄酒は数年ぶりに口にしてみましたが、この生産者は有機農法ワインの作り手としては相当古くから有名らしく、昨今の有機農法ブームの作り手たちとは全く違った歴史の重みを感じさせるだけの味覚を楽しませて頂きました。

その骨子がどのようなものか、後程調べさせて頂きましたところ、以下の通りであることを知った次第です。

1.補糖を一切行わない。
2.培養酵母ではなく、葡萄の実の皮に付く天然酵母のみで発酵させる。
3.除草剤や化学肥料を使わない。この際ボルドー液さえも使わない。
4.酸化防止剤を加えない。自然に発生するSO2(35mg/リットル程度)を含有するのみ。
5.濾過処理をせずに瓶詰めを行う。
6.蝋キャップを使用する。

これは、いわば、欧州版の身上不二といっても過言ではないと思い、わざわざ日本まで輸入することの「もったいなさ」という一種の矛盾さえ感じてしまいました。

そんなこと考えつつも、実はワインについて語るのは憚ること(=恥ずかしいこと)であると思ってきました。
それは、この種の語り手である多くの政財界人や文化人の殆どが、ある種のいかがわしさ、ワインで申し上げればブショネ率5%(このくらいだとワインの味と仰せのソムリエまで今やいらっしゃるそうですが)や10%どころか、30%(端的には腐ったワインと一緒)のような方々がしたり顔で薀蓄を申し上げることにどうしようもない胡散臭さを感じざるを得なかったためです。
(その一種には例の日本版クルティザンヌとそのパトロンの方々もいらっしゃいます)

それに比べますと『世界を変えた6つの飲み物』トム・スタンデージ(著)(インターシフト)は、飲み物を通じてメソポタミアから現代のグローバリゼーションの代名詞の一つであるコカコーラまでの長い世界史を語っているだけの素晴らしさを持っており、詳細についてはいずれご紹介したいと思いますが、この書籍に限らず重要なこととしては、我々人類はその長い歴史の中で、常に「水」の獲得に相当のエネルギーと闘いを繰り返してきており、今後は更に激化するであろうということです。

古来「水」に恵まれた風土を持っているにも関わらず、実は「水」の消費大国である日本に生きる我々にとって、世界を見渡したときに、何が起こっているか、考えてみる必要があるのではないでしょうか。

12尾崎清之輔:2007/11/17(土) 13:07:05
11.の文章に間違いや不足を見つけましたので、他で気が付いた部分とあわせて正誤表を提示させて頂きます。
(さっと読み返しただけなので他にも幾つかあるかもしれませんが)

◆11
誤:「水」の消費大国
正:「水」の輸入大国

誤:飲み物を通じてメソポタミアから
正:飲み物を通じてメソポタミアにおけるビールから

◆9
誤:勧の目と行の目
正:観の目と行の目

◆7
誤:名誉教授を努められており
正:名誉教授を務められており

13尾崎清之輔:2007/11/18(日) 00:50:28
【いつわりを受け入れることは自殺行為に等しい】

これは、過日、ダニエル・バレンボイム率いるベルリン国立歌劇場の来日公演のひとつ『トリスタンとイゾルデ』を観劇した際、公演プログラムに記載されていた『トリスタンとイゾルデ』の演出家ハリー・クプファーのインタビュー記事のタイトルです。

他のスレッドでも若干言及させて頂きましたように、今年10月に行われたベルリン国立歌劇場の来日公演へは、この作品と『ドン・ジョバンニ』の2作品を観劇しましたが、現在のワーグナー作品の名演奏家のひとりであるバレンボイムは、モーツァルトの『ドン・ジョバンニ』よりか、こちらの方が相当レベルの高さを窺わせる演奏と劇であると思いました。

数年前のシカゴ響との来日公演では「これが??」と思わせる程度の上演内容であっただけに、このたびの『トリスタンとイゾルデ』の方は期待以上であったと申し上げておきます。

さて、ハリー・クプファーは、現代におけるワーグナー作品の代表的な解釈者とのことですが、冒頭のタイトルにも少し表されているように、この『トリスタンとイゾルデ』という作品を、単なる情念の世界としてではなく、社会一般へ通用するような冷静なる解釈をもって、その演出に反映させていると感じたことは、私が嘗てDVD等で観た他の方々の『トリスタンとイゾルデ』と比べてみても明白と思われましたが、それを裏付けるが如く、彼へのインタビュー(引用者抜粋)では以下のように語っておりました。

◆『トリスタンとイゾルデ』の登場人物たちは世間的なしがらみの中を名誉やしきたりといった硬直した規範に縛られて生きています。そこでは、トリスタンとイゾルデの愛は決して許されない。しかし、それよりもむしろ問題なのは、彼らがそうした社会的規範に反発する姿勢を一度として見せないことなのです。それどころか、彼らは社会の硬直した規範を受け入れ、自分を犠牲にしてしまう。

(中略)

◆彼らは社会と対立してでも自分たちの愛を貫こうとはしない。反対に、自分をいつわってすべての真実を心の奥底にしまい込み、ただ観念の中で夜を昼に、昼を夜に逆転させようとするのです。本当は社会の中に矛盾があるのに、矛盾のすべてを自分の内面に移し変えてしまったため、倒錯した観念の世界に生きるより他なかったのです。

◆自分の中の真実を押し殺し、現実との対決の中に解決を見出すことをはなから諦め、それゆえ共に死ぬことすらできなかった二人の招いた結果なのです。それは彼らの生き方の結果に他なりません。

◆イゾルデが最後に歌う「愛の死」は、愛するがゆえに死すという美しい愛の歌などではありえないのです。そもそも「愛の死」というタイトルはスコアには書かれていません。それは作品が成立した時代が付与した、美化されたレッテルに過ぎないのです。イゾルデの「愛の死」は、むしろ深い悲しみの歌です。特定の社会的条件、たとえば慣習であったり、ドグマであったり、いつわりであったり、そういった条件に服する限り、道ならぬ愛は成就しないということ、そして、今となってはもはや何もかも手遅れだということ、その途方もなく深い悲しみを、イゾルデは最後の輝きの中で死へと導かれながら歌うのです。

実際の作品を見終わった直後に、このインタビューを読んだこともあって、余計この演出家の語った言葉の重みを感じさせられてしまいました。
そしてインタビューは以下をもって締めくくりの言葉となっておりますが、これこそが彼の現代社会への問題提起に繋がっており、オペラという物理的に閉ざされた劇場という「場」での観劇を通して、個々の観客が自らの現実社会を捉え直す切っ掛けづくりを与えていると思わざるを得ませんでした。

◆社会も現実も変化しています。だからといって、決して社会や現実の矛盾がなくなるわけではありません。

(中略)

◆作品の何が時代との接点を持つか、何が観る者の琴線に触れるかは、時代や社会によって変化するのです。だから、私たちは作品に対して常に新たな姿勢で向き合う必要があります。また、優れた作品は、繰り返し、その時々の現実と新しい関係を切り結んでいくものです。だからこそ、作品はたえず読み直され、新たな解釈が試みられなければならないのだと思っています。

(以下、次項へ続く)

14尾崎清之輔:2007/11/18(日) 00:55:34
(前項より続く)

また、以下のインタビュー部分に関しては、私にとって別の意味でピンと閃いたものがあり、それは先のハリー・クプファーが指摘した「倒錯した観念の世界に生きる」精神構造と二重写しになっていると思われました。

◆ワーグナーの作品では、性別の枠を超えた人と人とのセクシャルな愛情関係が非常に重要な役割を果たしています。ブランゲーネのイゾルデに対する愛情も、クルヴェナールのトリスタンに対する愛情も性的なものに結びついている。とりわけ重要なのは、マルケ王のトリスタンに対する愛情です。

これは正しく、藤原さんが15年ほど前の『平成幕末のダイアグノシス』(東明社)で診断された日本の病理現象である、4種類のネットワークの構成要素のひとつであり、今に至る『 Japan's Zombie Politics 』のサブタイトル『 A Tragedy in Four Parts 』の『 One Part 』であると考えます。

更に、先述の二重写しの精神構造は、将基面貴巳さんが『反暴君の思想史』(平凡社新書)で看破されていた、マックス・ヴェーバーの「心情倫理」には決して成りえない、三島由紀夫の「心情主義」にも通ずるものがあると考えており、それがセリフ無しの映画『憂国』の音楽に『トリスタンとイゾルデ』から歌の全く入っていない抜萃曲(しかも226事件の年である1936年版)を全編に渡って使ったことが関係しているのであれば、美学や純粋性や日本的良心といった『穢れのない清明心』への只管さと憧憬と純化に邁進してしまうことと、その逆立ち現象のみしか存在しかねない危険性をも孕んでいると考えますので、そのような1300年以上に渡るとも言われている「鎖国の精神」を司る「執拗低音」に対して、「公共善」や「共通善」を浸透させていくためには、個々人がそれぞれの立場とか立場を超えて不断に探求する努力を欠かしてはならないと思います。

最後に、果たしていま多くの人間は、『いつわり』を受け入れているのか、それとも『いつわり』にさえ気が付かなくなってしまっているのか、先に申し上げましたように、このオペラ演出家は作品を通じて問題提起をしているよう見受けられましたが、社会(延いては世界)の中における「個」という存在を良く見詰めなおし、「個」が抱える問題を普遍的な問題であるとして考え行動していくことの重要性が、私たち一人ひとりに問い質されていることは確かではないでしょうか。

15野田隼人:2007/11/18(日) 17:46:33
No.2に「宮崎駿さんの作品群と八切止夫史観の関係性」とありますが、今から楽しみにしています。宮崎氏の一連のアニメですが、拙宅では息子たちが宮崎氏のアニメが好きなことから、VTR(ビデオ)ですが私もお付き合いでよく見ています。

宮崎氏の作品について深く知るには、宮崎氏自身が著した『出発点』(徳間書店)や『風の帰る場所 ナウシカから千尋までの軌跡』(ロッキング・オン)もさることながら、宮崎作品についての書籍として青井汎氏の著した『宮崎アニメの暗号』(新潮新書)が良いと思います。同著は青井氏にとっての処女作であり、それだけに青井氏の情熱が伝わってくるような本です。同書では宮崎の作品を解くキーとして、『最新 宮沢賢治講義』(小森陽一著 朝日選書)、『魔女の神』(マーガレット・A・マレー著 人文書院)、『ギルガメシュ叙事詩』(月本昭男訳 岩波書店)なども挙げていました。

16尾崎清之輔:2007/11/19(月) 00:04:51
野田さん。このたびは貴重な書籍をご紹介いただき、誠に有難うございます。

実は私も上記で挙げられた書籍の一部は所有しており(最後まで読了しておりませんが)、今後ご紹介いただいた他の書籍とあわせて推測すると、ひょっとしたら野田さんのお考えと似たような結論に至るかもしれません。

尚、野田さんは既にご存知のこととでしょうが、相当深遠な世界にまで言及せざるを得ないと思っており、そこへ至るには相応の時間を必要と考えますが、古代の歴史に造詣の深い野田さんには、いずれ私の推論に対して、いろいろとご指導ご鞭撻を仰ぐこともあるかもしれませんが、その際は宜しくお願い致します。

17尾崎清之輔:2007/11/19(月) 00:54:25
今、ヴィルヘルム・ケンプのシューベルトのピアノソナタ集のCDを聴きながら、この記事を進めております。
ちなみにケンプは、『丸山眞男 音楽の対話』でも触れられていた、丸山先生の最も好きであった演奏家のひとりです。
(いつもと同じく◆の部分は著書より引用)

◆ケンプも、晩年の録音だとシューベルトですね。昔はベートーヴェンがよかったけれど、七十の坂にさしかかった頃からはシューベルトがいい。彼のシューベルトは本当にいいです。シューベルトという作曲家の神髄は、ケンプのピアンを聴けばわかります。

◆「ロマンティシズムは歴史的であっても、ロマンティックな心情は永遠である。クラシックとロマンティックの対比は「学問的」であっても芸術的ではない」という文章がある。十九世紀ロマン派の嗜好や主張と、人間の心の中に潜むロマンティックな感情を混同して、後者までを否定し去り、乾いた機械的な演奏をよしとする風潮に丸山は常に批判的であった。

そんな今日は、このケンプのピアノソナタ集と、ベートーヴェンの後期ピアノソナタ集、更には、やはり『丸山眞男 音楽の対話』で絶賛されていた、ベートーヴェン交響曲第5番と第7番の1943年ライブ版まで入手する機会に恵まれました。

◆毅然たる姿勢、凛とした音楽、…。そのつもりで聴いてしまうから、そう聴こえるのかもしれないけれど、背筋をピンと伸ばして、孤高を守り抜いたという芸術です。精神の貴族性(アリストクラシー)ですね。何ものにも屈しない、現実から逃避しないという−−、一番いい時代のヨーロッパの精神的遺産です。

丸山博士の語られた言葉の通り、これらの音楽から「精神の貴族性」という意味の重要性を感じ取ることができたことは、誠に幸いであったと思います。

実は、今日は小春日和ということもあって、当初美術館巡りを兼ねた絵画鑑賞を考えておりましたが、候補とした美術館はいずれも残念なことに「これは」と思った展示会が行われていなかったことから、全く逆の発想をして、紅葉の秋を楽しむため、鎌倉へ足を伸ばしてみました。
但し、紅葉と呼ぶには、時期尚早だったようで(まだほんのりと赤みや黄色がかった状況)、あと1週間くらいは必要といったところでしょうか。

それでも、久しぶりの鎌倉(北鎌倉)の寺巡りは心を落ち着かせる何かがあり、およそ1時間半ほどの滞在でしたが、十分な心身の静養になったと思います。

滞在した寺の中で偶然発見した文面を発見し、色紙などがあるかどうか尋ねましたら「無いのでお写真をどうぞ」とのお言葉を頂きましたので、以下にご紹介させて頂きます。

********** 以下は文面をそのまま掲載 **********

高い積りで低いのが教養

低い積りで高いのが気位(きぐらい)

深い積りで浅いのが知識

浅い積りで深いのが欲望

厚い積りで薄いのが人情

薄い積りで厚いのが面の皮(つらのかわ)

強い積りで弱いのが根性

弱い積りで強いのが自我

多い積りで少ないのが分別

少ない積りで多いのが無駄

いくら立派と言われる資格を持っていても 教養がともなわなければ半人前

教養の基本は 気配り 目配り 手配り

18尾崎清之輔:2007/11/19(月) 01:07:01
実はこの寺で発見した文面の中では、先にご紹介したより「心に響いた」お言葉(臨済宗 円覚寺派 管長 足立大進老師 揮毫)があったので、ご就寝前の安らぎにどうぞ。

花も美しい

月も美しい

それに気づく心が美しい

19尾崎清之輔:2007/11/19(月) 08:11:05
No.17の文章に2点間違い&不足がございましたので、以下の通り修正させて頂きます。


誤:ケンプのピアンを聴けばわかります。
正:ケンプのピアノを聴けばわかります。


誤:絶賛されていた、ベートーヴェン交響曲第5番
正:絶賛されていた、フルトヴェングラーのベートーヴェン交響曲第5番

20尾崎清之輔:2007/11/20(火) 00:09:31
今夜はNo.17の続きにあたります。

良く考えてみたら、今回はじめてヴィルヘルム・ケンプの作品群を所有したことに気が付きました。
何故か今年はピアノ演奏家に縁があるらしく、ここ暫くはバックハウスを聴いており、あのスケールの大きさと卓抜な技巧は、まさしく「鍵盤の獅子王」と呼ばれるに相応しいと感じつつ、彼の奏でる「ワルトシュタイン」で毎朝を迎えておりました。
(もっとも「鍵盤の獅子王」と呼ばれた若い頃の作品は持っていないので、所有している後期の作品群から感じ取っただけですが。。)

しかし、今回ヴィルヘルム・ケンプの作品群は、僅か2日ですっかり聴き入ってしまい、特にベートーヴェンの後期ピアノソナタの30、31、32番は秀逸と思いました。
このあたり、本を読んだだけでは全く分かりませんでしたが、『音が鍵盤を押した瞬間ではなく、押した後から遅れて出てくるような弾き方』の意味が漸く理解できた気がします。

ちなみに、これ以外に個人的に好きな演奏家としてはフルトヴェングラーがおりますが、この3人に共通しているのは、いずれも名前が「Wilhelm」であるということです。これは何かの縁なのか、それともドイツにはこの手のお名前の方が多いのでしょうか。。

さて、いきなり余談からはじまってしまいましたが、『丸山眞男 音楽の対話』において、丸山博士はバックハウスには殆ど触れられておりませんが、ヒトラーはバックハウスの大ファンであり、戦後は一時期ナチス協力者の汚名を着せられたはずという記憶がありますので、そのことに丸山博士が言及していないことに不思議さを感じました。
これは著者の中野雄さんが意識的に書かなかったのでしょうか。

それに比べると、リヒャルト・シュトラウスについては、『本当に美しさが分からない作曲家』のひとりに分類されており、

◆「バラの騎士」はえん麗の極地だ。しかしフィガロの結婚のエロティシズムと、バラの騎士のエロティシズムをくらべてみるがいい。芸術におけるErhabenheit[高貴、気品・中野注]とは何かということを、これほどあからさまに見せつけてくれる対照がまたとあろうか。

とまで言い切っております。

確かにリヒャルト・シュトラウスが第三帝国におけるドイツ音楽院の総裁を務めたり、ナチス当局の要請に応じて多くの音楽活動を行った事実などから、保身汲々していたと言われても致し方ないかなと思いますが、それ以上のこととして、大日本帝国政府時代の日本にとっては、皇紀2600年を記念する祝典音楽の創作を依嘱した6ヵ国の作曲家の一人であり、その曲名が何と『皇紀弐千六百年奉祝音楽』(正確には『大管弦楽のための日本の皇紀二千六百年に寄せる祝典曲』)などという他に依嘱された作曲家の付けた題名と比べて、大層な曲名にその迎合ぶりが表されているような気が致します。
(もし私の誤解でしたらすみません>リヒャルト・シュトラウスのファンの方)

ちなみに、同じく依嘱されたベンジャミン・ブリテンというイギリスの作曲家は、『シンフォニア・ダ・レクイエム』、要するに”レクイエム交響曲”などという題名を付けたのですから(従って当時の日本政府から受け取りを拒否された)、これはイギリス人らしいアイロニーが籠もってるなと思いましたが、こちらもその後よく調べてみたら、そんな高尚な理由で付けたわけではなかったようですね。

21尾崎清之輔:2007/11/20(火) 00:57:22
皆様におきましては、さぞかしご多忙中のことと存じますが、そのような中でも、常に「微笑み」のある日々を送って生きたいものですね。
今夜は、ささやかながら明日の朝に向けた「揮毫の書」をお送りさせて頂きます。


<微笑>

微笑は人一代の身だしなみ

微笑みに勝るきれいな化粧なし

微笑は機械の油の如く

渋面は人間のサビの如し

幸福は微笑みのようだ

微笑は意識して出来るものではない

泉のように静かに湧き出ずるものだ


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