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哲学・宗教質問箱

1:2005/05/10(火) 02:09:43
美しい日本語
竹下さんに是非お聞きしたい事があります。携帯からだとおしゃべりルームに入力できなかったので内容は異なりますが、こちらで質問させてください。竹下さんは以前フランスのリセで日本語を教えられてましたよね?そこでくだらない質問ですが、日本人が美しい日本語を喋るにはどいしたらいいと思いますか?私は東京に出てきてまだ一ヵ月ですが、こちらの人の喋り方ってきれいだなと思いました。私は関西風のイントネーションがなかなか抜けません。仕事でもきれいな言葉が必要なので、方言を頭の中から消したいです。やはり時間をかけるしか方法はないでしょうか?

644sekko:2013/02/27(水) 00:16:25
phantomさま、ありがとうございます。
愛徳姉妹会はもともと活動修道会ですから元気なシスターが多いです。

私たちのトリオが最初に日本で公演した時、愛徳姉妹会の養護施設にも行って、その時には最初に日本に来られたという最年長の日仏混血のシスターも来てくれました。すごくかわいい人でした。その方が100歳になった時、敬老の日に市から祝いの品を持ってきた職員がいて、シスターは何で祝ってもらえるのかピンとこないまま、その人が帰る時に「お大事にね」といたわったそうです。

シスター・クレールは自分たちはいわゆる老後の心配がないのだから、生きている間は他の人のために役に立ち続けたい、と言っています。

確かに普通の人は老後の暮らし、介護、葬式から遺品の整理までいろんなことを考えますが、彼女らは先のことを考えず生涯現役、とも言えるのでうらやましいです。

春には彼女のいる特養のサロンで慰問コンサートをします。

「年寄りやシスターたちがわらわらいるのを見ないようにすればなかなか素敵なところよ」

と言っていました。

私はむやみにポジティヴな人を見るとひいてしまうタイプなのですが、96歳であのポジティヴさを見ると、神さまっているのかも・・と嬉しくなります。

そんなシスターなので、ひょっとして教皇の引退のことを「まだまだ若いくせにがんばりが足らない」とか言うかもしれないと思っていたのですが、人はその時々に自分に合ったがんばりをする見極めが必要だということなのでしょうね。

http://setukotakeshita.com/

645Phantom:2013/02/27(水) 20:57:37
なるほど!
竹下先生、お忙しい中お返事ありがとうございます。

確かに、修道者は生活の心配はありませんね。
知識としては理解していても、その点はうっかり失念していました。一般社会と違って「引退」という概念がないからこその生涯現役なのかもしれませんね。

私自身もいわゆるポジティブは苦手ですが、このシスター方のような自然なあり方は素敵ですね。なかなかシニカルだったりするのもいい感じです。キリスト教ワールドも色々あるけれど、意外と捨てたモノじゃないかも、と感じさせられます。

春の慰問コンサート、きっとシスター方も楽しみにされている事でしょう。感想などブログで様子をアップして下さると嬉しいです。

竹下先生の演奏、いつか拝聴してみたいです。バロック音楽は普段接する機会がありませんでしたが、最近のブログ記事でとても興味を惹かれました。いつも先生のブログから知的好奇心を刺激されます。

646今紫:2013/02/27(水) 21:41:47
次期教皇は統括力のある人を
竹下先生
多忙の中でのお返事ありがとうございます。

次期ローマ教皇はどんな世相や思想に対して寛容かつ統括力のある方が選出されるとよろしいですね。同性愛もどのように受け入れられるのでしょうか。
変わり目というのは何か騒ぎ出す要素が存在するのでしょうか。そのせいで大変な不幸に遭遇しないことを願います。

できれば、よい方向へと進んでほしいのです。

647Sekko:2013/03/30(土) 07:59:21
教皇と陰謀論?
無視しようと思ったのですが、書きたくなったのでブログに思うところを書きました。興味ある方はどうぞ。

http://spinou.exblog.jp/19538718/

陰謀論系のコメントに対応する気はないので次からは削除しますのであしからず。

http://setukotakeshita.com/

648愚者:2013/04/05(金) 23:58:43
(無題)
人権侵害の禁止を骨抜きにし立憲主義を否定する改憲案を、憲法及び学説を学んだこともない無知な人が主張しています。赤ちゃんから高齢者まで全国民に番号を付けて住所氏名生年月日性別、所得資産負債、職歴、婚姻歴、病歴等を国に管理される国民番号法案を国会が審議中。大部分の国民が忌避する原発に固執。福祉の財源に充てるための増税と言ったくせに50兆円も外債購入(売却出来ない米国債)に支出。関税権立法権、食糧自給を放棄し、国内法に優越する国際秘密条約TPPに国民を騙して駆け込む。一票の格差違憲判決を根拠なく議員定数削減に結びつける政府与党。議員を減らして首相が人選するナントカ会議を乱立させ政策を仲間内で勝手に決める無法。マスコミはアベノミクス万歳のごますり嘘つき報道一色。止まらない司法の不正行為・冤罪。アメリカは天使、中韓は悪魔という恣意的な報道。なんだかカルト政党に制圧されたようで大変不吉です。宇沢弘文、鈴木宣弘、孫崎享他の識者やアカデミズムの人々の発言はマスコミが報じない上、度々事実に反する中傷を受けています。竹下先生のテーマと違う相談で恐縮ですが不吉な空気を訴えずにはいられません。どのような抵抗が考えられるでしょうか?

649Sekko:2013/04/07(日) 23:37:30
愚者さま
このご質問は、私がブログ記事http://spinou.exblog.jp/19734282/で、アメリカに対するフランスと日本の対応を比較したことをお読みになってのことでしょうか。

そのブログにも書きましたように、10年前のイラク派兵の時の日本政府の支持の基準がひたすら「英米の便宜を図る」ことであったことを知り、あらためて、あの頃の日本での反対運動はいったいなんだったのだろうかと愕然としました。

原発再稼働反対や、TPP反対にしても全く同じです。

いくら、現実を突きつけても、信頼できるデータや予測を並べて、正論を語り、道理を説き、真の利益を訴えても、政府の方針は国民の声の総意ではなく、「連合国」の声の総意で決まるという現実があるようです。

そして、今や、その「連合国の声」も、実は一部の多国籍大企業のパトロンたちの利益によって決まっているという現実があります。

それにもともと、日本には、国民の意思が国家の意思に変換されるという伝統はありません。

「仁者による徳政」に期待するような伝統がありましたから。

東浩紀さんなどが、国民の声を政府の独断への有効な抑止力とするために情報ツールを駆使して集合知を可視化するというタイプの提言をされているのを読んだことがあります。
でも、いくら集合知が可視化しても、日本の「戦後」は、「政策決定はアメリカの意向に沿う」という合意から出発しているようなので、それを変えない限りは、だれがどんなに正論を唱えても多分「多数で説得」とか「理屈で説得」ということにはならないと思います。

では、どうしたらいいか。

ひとつは、そうやって押しつけられてきた憲法だの政策だのを日本の国益にかなうように巧妙にすり替えて利用する。
今の世の中で国際的な合意である普遍主義や平和主義や環境保全主義などの流れをうまく使ってロビー活動をする。FTAも対EUとか中韓とのものを平行して進めて、アメリカを牽制する。

もう一つは、拝金主義の資本家たちではなくアメリカの一般国民に的を絞って、啓蒙活動をすることが考えられます。アメリカ人は子供の頃から「アメリカ一番」を刷り込まれているのでものの見方が単純ですが、いざ「知らなかった過ち」を突きつけられると本気でショックを受けて懺悔したりします。

私は第二次大戦時の日系人の収容所のことを初めて知ったアメリカ人に面と向かって涙を浮かべて詫びを入れられたこともあります。

アメリカ人は平均的に、ひとりひとりは日本人やヨーロッパ人ほど偽善的でなく、正義感の強いいい人たちだと思います。
だから、ステファン・エッセルの呼びかけにもすぐ反応してオキュパイ・ウォールストリートの運動を始めるし、TPPにですら、http://democracynow.jp/video/20120614-2
で日本人にも明らかにされたように、

「これは貿易協定ではない、企業による世界支配の道具です」「1%の富裕層が私たちの生存権を破壊する道具です」

と糾弾の声を上げたりしているわけです。

従軍慰安婦の話でも多分そうだったのでしょうが、「犠牲者」側がうまく働きかけて利用すればアメリカ人は義憤に駆られてすぐ話がまとまり、それが政府の方にまで届きます。つまり、アメリカは、一応、国民の声が上に達するとそれを反映しないではおけない基本線はあるわけです。

だから、日本人も、アジア政策におけるアメリカの傲慢さを今の情報ツールを使ってうまくアメリカの一般市民に伝えることができたら、「そりゃひどい」ということになるかもしれません。

戦勝国と敗戦国の関係で政府の側にはもうどうしようもない負の前提があるようですから、もうそちらには期待しないで、アメリカ一般市民の「草の根義憤」につながるような正論啓蒙活動を戦略的にやっていく方が流れを変える可能性があるような気がします。

「日本がアメリカに蹂躙されている」というのではなく、あくまでも、日本もアメリカ一般国民も、企業による世界支配の犠牲になっているのだというスタンスで。

国民番号法案も完全にマーケティングのベースデータのような気がしますね。

アメリカ人のピューリタン的メンタリティを刺激すれば、できることもあるような気がするんですけれどね。日本の政治家を変えることよりはまだ可能性があると思います。

最近、北朝鮮の好戦的な挑発なんかについては、ローマ法王に手紙を書いてもらえばどうかとも思いました。

キューバ危機の時に、当時の教皇ヨハネ23世がソ連のフルシチョフに平和を訴える手紙を書き、なんと、共産党機関紙の『プラウダ』に掲載されました。

当時のケネディ大統領がアイルランド系カトリックだったので思いついたのかもしれません。

北朝鮮は表向きは信教の自由があるのでカトリック教会も一応はあり、韓国からのキリスト教NPOもたくさん入っています。金日成の家族にも確かカトリックがいました。

何かそういう超国家的、あるいは、超ビジネス的なネットワークを利用して、小さな危機、ひいては大きな危機を回避できるのではないかと期待します。

3.11の後で、それまで原発のことを問題にしていなかった多くの人が自主的に情報を集めて啓蒙し合い、原発廃止のコンセンサスができた(けれど国家の政策や企業の方針にはもちろん反映しないわけですが)ように、弱者連帯の潜在的な力は普遍的にあると思うのでそれをどうつなげていくかということですよね。

私もずっと考えていきます。

http://setukotakeshita.com/

650愚者:2013/04/13(土) 12:58:23
コメントありがとうございます。
私の環境からforum3に投稿する方法が解らないのでこちらに書かせていただきます。『フランスの不思議』の記事を読み直しました。ヴィルパン外相のイラク戦争反対の国連演説でフランスはいざという時に指導者が理性的な判断ができる国という強烈な印象を受けたので、その後の政治家達の姿勢がそんなものだったとは興醒めです。
伝統宗教のゾンビに匹敵するものが日本にはないのでしょうか?日本人の拠り所というか偶像はいまや市場、自由主義経済、アメリカのようです。
竹下先生やNPOの方々のご指摘のとおり、敵を間違えずに99%がグローバルに連帯して1%に抵抗するべきですが、具体的な方策はあまりにも微力です。
郵政民営化を境に日本の行政機関は金融業者か詐欺屋?みたいになり、産官学の連携も行き過ぎになりました。東大総長がM総研のトップに就任して新聞各紙に広告が出たり。国会や内閣はテレビのワイドショーとなり、芸人が活躍しまっとうな政治家は排除されています。「自由な競争」や「規制緩和」の信者たちが政官財界を仕切っていて、テーマパークのアトラクションみたいなプランをどんどん出しています。

651愚者:2013/04/13(土) 13:11:26
連投2
(続き1)会議や社内のコミュニケーションを英語にする規則とか、秋入学にすれば世界中から優秀な留学生を集められるとか。大震災の美談は飽きられてきて、原発、基地、TPP、改憲、増税の致命的な国内問題を忘れさせるためマスコミは近隣諸国への反感を煽る報道一色です。
夏の選挙で逆転しないと、国民番号法案、秘密保持法案、国家総合安全保障法案(憲法改正)があっというまに成立して、政府に不都合な者をいくらでも取り締まれる全体主義軍事国家への決定的な一歩を踏み出すということです。護憲の運動は存在しますが、驚いたことにカトリックのピース9は猛烈に信者達に叩かれているらしいです。日本が99%が犠牲になる国になりつつあるというのに。B16教皇は何度か市場至上主義と相対主義を公式に非難しましたよね。JP2教皇の死の文化への非難を具体化したものと思います。宗派的な主張ではなく普遍的な、99%が共有する考えです。
竹下先生の『アメリカにNOといえる国』が、本澤二郎氏という評論家のブログの今読むべき本のリストに挙げられていました。

652愚者:2013/04/13(土) 13:26:29
連投3
(続き2)
知識人達はレジスタンスを既に実践してきたとも言えますが、今やメディアと言論の戦場で本気で戦っていただく時です。特にいわゆる保守良識層が、仁者の徳政を信頼する気風につけこまれたのか、政府与党のイデオロギー(市場主義、アメリカと組めば間違いないという信仰)に気づいていない点が難しいのです。与党と、野党を装う市場教政党の八百長が繰り広げられマスコミの政治報道を独占しています。
99%と9条に象徴される立憲主義を殺さないために、知識人やアーティスト達が緩く連携して、石ノ森章太郎氏の999のキャラクターを活用したりして1%を叩きのめし正気にしてあげて下さい。お願いします。
連投失礼しました。

653Sekko:2013/04/15(月) 08:23:37
愚者さま
イラク戦争の頃のことを今思うと、2002年の時点でたとえばドイツではシュレーダー首相がフランスと共に不参加を表明した時、「戦後ドイツの政治家たちがずっとアメリカのいいなりになってきた中ではじめてアメリカの要求を拒絶した」とドイツ国内で絶賛された話を思い出しました。その時にブッシュの政策をヒトラーになぞらえた女性閣僚がいてアメリカが激怒したという話もありました。

で、その後、米独関係がどれだけ壊れたかというと、大して壊れていない。

2002年や2003年の時点での日本なら、日本がもしNOと言っていても、失うものはなかったようにも思います。

フランスに暮らしていてもそうなのですが、一般的に言って、いわゆる欧米人って日本人が思うほどいろいろなことを根にもたないというか、単純というか、すぐ忘れるというか、割と関係を修復しやすい人たちなんです。

拒絶したい時にはバシッと拒絶しても、別の機会に友好的にふるまえばまたうまくいくというような。日本人は自分で前のことを気にして気まずくなったり、あるいは関係が悪くなるのをおそれて嫌なことでも譲歩したりしても、そんなことも分かってもらえないし、譲歩し損ということが往々にしてあります。

こういうメンタリティの問題は、それでも、国際関係をじっくりと観察していれば分かると思うんですけれどね。

それでも難しい問題はたくさんありますね。

たとえばフランスは痩せても枯れても普遍主義の国なので、そして、社会民主主義の国なので、福利厚生の各種手当が、収入の多寡や国籍に関係なく、合法的にフランスに住んでいるというだけで支払われます。

そういう政策のせいで新自由主義経済に後れをとっていて、そのおかげで自分たちは得をしているとドイツやイギリスは公言しています。

理念に殉ずること自体は私はいいことだと思うので、その結果の不都合は受け入れるのにやぶさかではないのですが、問題は、そうやって、「稼ぐ以上にばらまく」うちに、財政赤字が膨大なものになってしまっていることです。

もっとも、CAC40のトップが税金逃れのために国外に投資している金だけで財政赤字の3分の1に達するそうで、噴飯ものという気はするのですが、それでも、カユザックを擁護するわけではないですが、そういうことも知り尽くしている人が政治に目覚めるというのは悪いことだけではないとも思います。少なくとも、政治家になることで金儲けをしようと思っているのではなく、最初から金がある人がようやく政治的使命に目覚めたのかもしれませんし。

清貧だけで生きてきた人ばかりで国を動かすのは別のリスクがあるかもしれませんし、フランス革命などもほどなく恐怖時代に突入したわけだし、「1%をたたきのめして…」などという目線では語れないかもしれません。

個人的にはもっと社会学者にがんばってほしいです。日本の社会学って、なんだか、「ガラパゴス化した日本に特有の社会現象」みたいなものを分析したり解説したりしているようなのが目だって、本質的なものはあまり語られていないような気がします。

多くの人が多様性を活かしながらおっしゃるように緩い連携をして、立憲主義、平和主義を守っていければいいですね。

でも、最近、ドイツに占領された時のフランスのヴィシィ政権について、これまでは親ナチのコラボの極悪政権みたいに言われていたんですが、あの時点では、「平和主義」、つまり戦闘を回避する道だったという評価も出てきています。まあナチに過剰に迎合して自主的にユダヤ人狩りをするなど結果的に道を誤ったわけですが、親独政権なしでみながそろってレジスタンスに向かえっていえば、ずっと多くの血が流されていたかもしれないのも事実でしょう。

どちらにしても、何を譲れない線とするかをまず明確にして、それを歴史の文脈とすり合わせながら個々の場面に対応していくのが大切かと思います。

http://setukotakeshita.com/

654グラ(愛犬の名称):2013/06/21(金) 05:05:41
トラウマについて
竹下先生
先生がご指摘になった「トラウマ」について、補足的な説明をさせていただきます。
なお、このメールへの返信は、気になさらないでいただければと思います。
しかし、なぜ、竹下先生に、宗教相談のメールをするかというと、竹下先生の著作やブログを読んでいて、キリスト教を平易に表現することを通して、若い人たちにも理解してもらおうという姿勢に貫かれているように思えるからです。この「平易に」という意味は、日常の生活感覚を通してということです。

私は、プロテスタントの福音的な教会に身を置く者です。謂わば、キリスト教原理主義者であるかもしれません(笑)
ただ、この日本のプロテスタントも超高齢化社会の到来とともに、絶滅危惧種にリストアップされそうな勢いにあるということです。
そして、その原因のひとつに、敗戦後のプロテスタントのキリスト教が、マッカーサーの占領政策の一環としてアメリカから直輸入されてきたことにあります。負け犬が虎の威を借る、です。(マッカーサーは本気で、キリスト教による日本人の洗脳を考えていたことは事実のようです。)

問題は、敗戦後のプロテスタントのキリスト教の受容が、こうした卑屈な屈折した気分の中で展開したことですが、さらに問題を複雑にしたのが、無教会主義の台頭でありました。
戦時下、非戦を貫いたということで、共産党と無教会は戦後一大ブームとなります。戦後の初代東大総長は南原繁、続いて矢内原忠雄と、無教会出身者を就任させて、新生「東京帝大」は戦前からの権威付けに成功します。(岩波文化も後押しします。)

無教会主義、特に、塚本虎二を中心としたグループは、「教会の外に救いあり」として、カトリック・プロテスタントを問わず、総ての教会に挑戦します。

以上が、敗戦後のプロテスタントの歴史を、私なりの理解で略述しましたが、問題は、無教会主義は「メイド・イン・ジャパン」なキリスト教であり、「かなり異端臭い」のではないかという疑問です。
内村鑑三が主張した無教会(行くべき教会が無い)と塚本虎二の無教会主義は似て非なるものと思います。
しかし、一世を風靡した無教会主義が今や「風前の灯」であることを対岸の火事とは思えません。カトリック・プロテスタントを問わず、日本においては、遠藤周作が指摘した通り、キリスト教受容の根っこが腐るようになっているのかもしれない、これがトラウマです。

竹下先生の著作やブログを読んでいて、こうした不自由さを感じませんから、この「ご相談」は先生にとっては理解不能のような気もします。

しかし、日本の戦後のプロテスタントは、無教会主義と向き合い、清算すべきものを清算しないのであれば、いずれ絶滅危惧種に確実にリストアップされることになると思います。

私も「天の風」に吹かれてみたいものです。

655sekko:2013/06/21(金) 08:15:40
グラさま
興味深いお話をありがとうございました。

>日本においては、遠藤周作が指摘した通り、キリスト教受容の根っこが腐るようになっているのかもしれない、これがトラウマです。

そんな指摘があるのですか…

でも、第二次大戦後の伝統宗教の崩壊ぶりはフランスのような国でも同じで、資本主義の肥大が人々を即物的にしたのは「先進国」の共通した傾向だと思います。

そんな時代に無教会主義の果たした役割もあると思います。

結局、マイノリティ宗教に属するとどこでも共同体主義に陥りやすいということかもしれません。私はフランス人の仏教徒コミュニティと親しいのでよけいにそう思います。

私は、昨年出た中公文庫の矢内原忠雄さんの『キリスト教入門』に解説を書きました。グループとして、あるいは運動としては「風前の灯」なのかもしれませんが、また、教会の本当の意味から逸脱している点もありますが、矢内原さんたちが誠実にキリスト教を説明しようとした姿勢は今も充分通用する重さと深さをもっていると思いました。

日本に限らず、今の世界のキリスト者は、非キリスト者に何かを促したり納得させたりするというのではなく、自分の生き方によって、「人となった神を通して、人は人を愛することができる」というあかしをしていくのがいいのではないでしょうか。

その意味で、

>竹下先生の著作やブログを読んでいて、こうした不自由さを感じませんから

という印象をもっていただいているのは嬉しいです。

「キリスト教信者っていろいろ不自由なんだ」などという印象などもちたくないしもたせたくもないですから。

トラウマのないところでキリスト教にかかわった私はその立場を生かしていきたいと思っています。

ゲラさまもどうか時々は視点をずらせてリラックスしてください。

「天の風」って、吹いてますよ。

http://setukotakeshita.com/

656グラ(愛犬の名称):2013/06/23(日) 08:26:08
矢内原忠雄
矢内原忠雄の「キリスト教入門」を手に取らせていただきました。先日の竹下先生へのメールは釈迦に説法どころではなく、『無知の恥!』も度を超しておりました。大変、失礼いたしました。

私事ではありますが、私が矢内原忠雄を知ったのは、私に同じ教会内の女性を紹介し、結婚へと導き、結婚式の際には仲人までしてくれた、教会の長老格の役員を通してでした。その意味では、彼は今の私たち家族の土台を作ってくれた方であります。その彼は、1937年(昭和12年)12月2日の東大を辞する矢内原忠雄の最終講義に出席しており、その時の様子を語ってくれております。特に、矢内原の最後の言葉、「身体ばかり太って魂の痩せた人間を軽蔑する」との言葉は脳裏に焼きついたと語りました。この彼は、その後、学徒出陣します。彼は学生時代、全日本での剣道での優勝やら、ヒトラーとの謁見、賀川豊彦との出会いがあったようです。彼は仏印に従軍し、傷病兵を置き去りに撤退しようとする上官たちを縛り上げたため、叛乱罪、要凶器上官殺害未遂で軍法会議で死刑の宣告を受けましたが、敗戦により9月に釈放されたという波乱万丈の持ち主です。彼は1984年に召天しますが、葬儀は彼の遺言で「凱旋式」として執り行いました。敗軍の将校が天に凱旋するというのが、彼の信仰でした。
彼にとって矢内原忠雄は福音の証人、人生の教師、信仰の導師であったと思います。彼の死後、彼の蔵書から矢内原の畏友で、矢内原が編集した藤井武全集10巻は、今、私の本箱にあります。
私たちのグループは、その彼を記念して、「凱旋」という私家本を発刊いたしました。

竹下先生が解説でお書きになっている通り、「だからこそ、敗戦の後で、『民主主義』を採用しても実は昔から何一つ変わらず(原文は代わらず)、経済の繁栄に目をくらまされて実存的な弱さの手当てを怠ってきた結果、希望や目標を失って漂流するに至った二十一世紀の日本において、矢内原の言葉が貴重な証言であり続けるのだ。」は、私にとっても「クレドー」となり得ております。

657sekko:2013/06/23(日) 23:50:33
グラさま
とんでもありません、お話はとても参考になりました。

仲人の方がヒトラーと謁見してどういう感想を抱いたのか、何をヒトラーと話したのか、興味津々です。

藤井武さんというのもすごい方ですね。

日本のような国で何につけてマジョリティの側にいる人は空気にのまれて思考停止に陥りがちですから、「日本のクリスチャン」の体験する葛藤は精神を強靭にして貴重ですね。

しかもその中で共同体主義への誘惑を斥けて真の「普遍性」に到達した人々はすばらしいと思います。

矢内原本の解説、短いものなのに変換ミス(「変わらず」を「代わらず」)があったのに気づきませんでした。ご訂正ありがとうございました。

お話からグラさまが男性だと知りました。なんとなく同世代の女性をイメージして書いてました。グラって、犬の名にしても珍しいのでは? 奥さまや愛犬グラちゃんによろしく。(グラちゃんのイメージは柴犬。これも違っているかもですが)

http://setukotakeshita.com/

658ウラヌス:2013/06/24(月) 07:44:38
最近のポストモダン
昨日は詳しい回答をありがとうございました。また質問してよろしいでしょうか?フランスではフーコーやドゥルーズ、ガタリ、デリダ、リオタールといった思想家が20世紀後半に現れて、日本にも影響を与えましたが、彼ら以降フランスではポストモダンの思想はどうなったのでしょうか?私が知る範囲ではバディウとかナンシーが今も現役のようですけど、特にどういう人がポストモダンの今現在の中心なのでしょうか?それと日本では80年代から90年代にかけて、ポストモダンがもてはやされましたが、最近はロールズのような英米系のリベラリズムも影響が強まっているように思われます。フランスではポストモダンの思想はどの程度評価されているのでしょうか?かつて日本でよく読まれたサルトルやフランクフルト学派のアドルノは本国では極左とされ、批判も多かったと聞きました。ポストモダンもフランスでは案外批判が多かったりするのでしょうか?特にソーカル事件以降はどうなったのでしょうか?

659sekko:2013/06/24(月) 16:08:24
これは自分で調べてください
ウラヌスさん、申しわけないですがこういうことはまず自分で調べてください。上のタイトルに説明を加えたように、一般的情報をレジュメして答える場所ではありません。よほど時間があってちょうどそのこと考えていた、というような場合は答えます。お書きになったようなことのキイワードをフランス語でフランスのgooglなどに打ち込めばいくらでも情報は出てきます。フランス語がおできになるのですから今はやり方次第で良質の情報もいくらでも手に入ります。その上で、「ここではこれについてこう言われてあそこではこう言われているがじぶんはこう思うのだが…」というようなピンポイントの疑問が出てきたらまた寄ってみてください。(この掲示板の過去にもポストモダンについての話題はあったように記憶しています。暇があれば検索してください。)

http://setukotakeshita.com/

660ウラヌス:2013/06/24(月) 16:59:01
わかりました
承知しました。では今後は一般的なことは避けます。

661グラ(愛犬の名称):2013/06/25(火) 21:55:36
西洋近代理念
グラはトイプードルで、娘が連れてきましたが、その娘も結婚のため、グラを置いて引っ越して行きました。
十日ほど前のことです。別れる時は、グラを抱き締めて、娘は大泣きしました。私とってグラは、娘が置いて行った「コ・コ・ロ」と思い、<ネコっ可愛がり>しますので、家内から「バ〜カ」と言われている今日この頃です。

竹下先生の「キリスト教の真実」を再読しました。
矢内原忠雄の本で、キリスト教の入門書が文庫サイズというのは、私の中では「想定外」でありましたので、敷居の高いキリスト教も、それも無教会関係の本も、「ここまで来たか」という驚きでありました。
それで、改めて、「キリスト教の真実」を再読しました。
佐藤優氏の「はじめての宗教論 右巻・左巻」あたりから、「ふしぎなキリスト教」橋爪大三郎氏・大澤真幸氏共著と、キリスト教界以外からの積極的なアプローチを、それこそ不思議なモノを見るような感覚で眺めておりました。その線上で「キリスト教の真実」を読みましたが読みやすかったですし、「腑に落ちました!」その感覚がなぜだろうと思い、再読しました。

竹下先生は、ISOをご存知ですか。国際標準化機構のことです。私は、ISO9001の品質管理システムの統括管理責任者(社長の代行)の経験があります。非上場企業でしたが、資本金約5億円、社員はアルバイトまで入れると約1千名の規模で、新規導入の責任を持たされました。
戦後のQC(品質管理)運動はアメリカから持ち込まれますが、中途半端に終わります。ISO9001はこのQC運動をまさに普遍化したものです。
企業がISO導入に積極的になるのは公共事業の入札条件になったからです。
ISOの原理的なことの説明は省きますが、導入時は、文書化が面倒臭いとか、作業手順は気合だとか、それはそれはすごい抵抗に遭いました。しかし、標準化がされると、「言った言わない」の責任の曖昧さがなくなったばかりか、利益も大幅な改善をみて、期末賞与まで支給されることになりました。
ISOは、P(計画)D(実行)C(評価)A(改善)のサイクルを通して、継続的な改善を実施する「運動」です。

竹下先生があとがきでお書きになっている、「『近代理念』とは、『受容』して『順応』し、『停止』や『惰性』に至れるような着地点ではない。それは、たえず『自己定義の統合』に向かって前進し続けることを課された『運動』なのである。」(P275)に符号しております。
ちなみに、神学をまじめに学んでいる牧師は、このISOの原理は理解できるようです。
ISOは、中小企業を中心とした草の根運動として定着しました。
普遍化の意味を生活レベルで理解できる初めてのツールになったと思います。
その意味でも、「キリスト教の真実」は、他のキリスト教界以外からの積極的なアプローチ「本」とは、一線を画していると思います。

662sekko:2013/06/26(水) 06:07:05
トイプードルでしたか
グラさまの思い入れのようなものからなんとなく健気な柴犬を想像したのですが、健気なのはグラさんの方だったのですね。

子供の置いていった犬や猫を世話し続ける親ってすごく多いですね。子供たちってひょっとして、親元から羽ばたくために、ほんとに「こころ」の一部を残してあげようとして、無意識にペットを持ち込むのかもしれません。ペットって、永遠のかわいい二−トですよね。

ISOはもちろん知っていますよ。日本での受容がそういう具合になっていったということは知りませんでしたが、なるほど普遍主義が文化を超えてこういう風に機能していったといういい例の一つですね。有意義なお仕事をなさいましたね。

先ほど別の読者の方にForum3でお答えしたのですが、『キリスト教の真実』と『戦士ジャンヌ・ダルク…』は私の中では実は一続きの本なのです。

以前『バロック音楽はなぜ癒すのか』(音楽之友社)、『聖女の条件』(中央公論新社)、『アメリカにnoと言える国』(文春新書)という3冊で、ユニヴァーサリズムの擁護の路線をはっきり意識して始めました。

何を書いても、形を変えてはいますが、どうすれば、弱者を排除することのない世界に近づけるかという模索を続けていることには変わりはありません。

これからの予定はユダ論とフリーメイスン論とナポレオン論ですが、いつも同じ風を感じ続けて航行していくはずです。お祈りください。

http://setukotakeshita.com/

663グラ(愛犬の名称):2013/06/29(土) 06:08:07
「聖母マリア」
聖書での表記も、イエスの母については、マリアとマリヤに分かれといるように、振り返ってみますと、プロテスタントの、それも福音派と呼ばれるキリスト教原理主義では、マリアの生涯、例えば、15歳でイエスを生み、多分、72歳頃に「被昇天」したなどということは、聖書研究でもその対象にすらなりません。

しかし、イエスの十字架は、神学的にも、天と地を決定的に隔てる出来事であると同時に、天と地を結び合わせ、救済する真理となります。そのイエスの生涯に寄り添い、様々な出来事を「心に納めて、思いを巡らし、(ルカ2:19)、心に留めて(ルカ2:51)」、と記すことで、マリアがイエスの生涯を、その真実の姿を十分に理解できないながらも、心に刻むことを、福音記者ルカは強調します。

竹下先生の「聖母マリア」を読むことで、マリアの生涯とその後の民間信仰の展開を通して、私自身の信仰の在り方にリアリティーを齎しました。
ヨハネの福音書によりますと、マリアは、十字架の足元に留まっております。マリアは、自分が産んだ子を罪人として死刑に処せられる場面に立ち会っているということです。母マリアは、母である自分よりも先に死ぬ「親不孝」の場面に無力な姿を晒しています。さらに、十字架上のイエスからは、「女の方」と呼ばれます。

実は、私は教会の礼拝で、時々、信徒説教者として、牧師たちの「検閲」を受けた説教原稿をもとに礼拝説教をします。「検閲」が通れば、7月21日の礼拝で、先ほどの聖書箇所も含め、イエスが、なぜ「女の方」と呼んだのか、これは同じヨハネの福音書のカナの婚礼での奇跡でも、「女の方」と母マリアが呼ばれることと関連付けて、説教をする予定でおります。

とにかく、竹下先生の「聖母マリア」からも大きな刺激を受けて、聖書の読み方が変わったことをお伝えしたかったのです。
わたし的には、依然として、思弁的であり、敬虔主義的でありますが、日本のプロテスタントの教会が絶滅危惧種もしくはガラパゴス化から抜け出す努力をしたいと考えております。

これと関連して、竹下先生にお尋ねしたいことがあったのですが、躊躇しております。
カール・バルトの神学の出発点となった出来事に、「ブルームハルトの体験」があります。この体験については、わたし的には、結局、思弁的、敬虔主義的な理解に留まっているのではないかという疑問が、最近、湧いてきております。これも、竹下先生の本を読むことで、ヨーロッパのキリスト教文化の伝統を踏まえて、「ブルームハルトの体験」を理解しないと、表面的な理解に終わっていたのではないかという反省を持ち始めているからです
この「ブルームハルトの体験」は、
「神の国の証人 ブルームハルト父子 待ちつつ急ぎつつ」 井上良雄著 1982年3月 第一版第一刷発行 新教出版社
に、詳しく記載されておりますが、いずれにしましても、躊躇しております。

664sekko:2013/06/30(日) 05:11:23
ブルームハルトの体験
ブルームハルトの体験って、息子の方の1896年10月の出来事ですか、それともおとうさんの方の悪魔祓いの話ですか?

私にとってブルームハウトというのはキリスト教社会主義が行き過ぎて社会党から議員になってしまった人、バルトが評価したように「宗教」という言葉のかわりに「神の国」を語っていた終末論的な人というものなのですが、グラさまにとって問題となっているのはどういうことなのでしょう。(彼についての日本語の本は読んだことがありません)

http://setukotakeshita.com/

665グラ(愛犬の名称):2013/07/02(火) 18:35:27
「父ブルームハルトのこと」
竹下先生
所謂、「悪魔祓い」のことです。
場所は、シュトゥットガルトから鉄道で2時間、ヘルマン・ヘッセの故郷カルフの町から東北に向かって8キロほどのメットリンゲン村。恐らく、ヒルデガルトのビンゲンとも約々二百キロ圏内かと思われます。

この「悪魔祓い」は、映画エクソシストのような内容で、ゴットリービン・ディトゥス(1815年生まれ)という娘の二年以上続いていた憑依状態のなか、1843年12月のクリスマスの期間に決定的な出来事が起きます。ブルームハルトのヴィテンベルクの宗務局への「報告書」によりますと、「娘は頭と上半身を、椅子の背にのけぞらせていたが、人間の喉から出るとは思えない声で、『イエスは勝利者だ。イエスは勝利者だ。』と、吼えるように叫んだ。この言葉は、それを聞いた限りの人々に理解され、忘れることのできない印象を与えた。」と記されております。

ブルームハルトにとって、この「悪魔祓い」についての理解は、キリスト教教義のいう「恵みの勝利」などではなく、さらに、一つの原理とそれに対立する別の原理の戦いというものではなく、活きた人格的な神とそれに逆らうやはり人格的な暗黒の力とのつばぜり合いの戦いであったということです。この戦いは、「模擬戦」などではなく、事実粗野なまでに「肉薄戦」であったということです。

バルトは、教会教義学で、「イエスは勝利者だ」という節を設け、「この言葉は、当時においても新しい言葉であり、そのような言葉として、当時もそしてその後長い間、孤独な言葉であり続けた。」と記します。

私は、ここでバルト神学を説明する能力もありませんが、しかし、この「悪魔祓い」事件は、ヨーロッパの歴史おいては、竹下先生の「聖者の宇宙」=「聖者システムの歴史と実態と意味」(P12)の一齣であるようにも思えます。
ブルームハルト父子・バルトは、信仰覚醒・教会覚醒に進みますが、カトリック的な理解、ビンゲンのヒルデガルトをブルームハルトも知っていたかも?などと想像しております。

竹下先生にどのように説明しようか、右顧左眄してましたら、
井上良雄著 「神の国の証人 ブルームハルト父子 待ちつつ急ぎつつ」の一節に、
ブルームハルトが東方教会的だということを言うのは、バルトだけではない。エルンスト・ガウグラ-は、そのブルームハルト論の中に、「あるロシアの神学者」が、ブルームハルトの書いたものを読んで、「父ブルームハルトは、私にはプロテスタントの『長老』のように思える」と言ったというエピソードを伝えている。
と記しておりました。
この長老の注釈として、
「ロシア語で『スターレッツ』は、年老いた人の意。ロシア正教会における宗教的指導者、修道士であるが、「長老」というのが、教会内の階層的な職位として位置付けられているわけではない。霊的な賜物によって、権威を持ち、若い修道士たちの訓練に当たった。「長老」は、東方教会の歴史において古くからあったが、十八世紀の後半から、ロシアの修道生活の中で大きな役割を持つようになった。平信徒たちは、その苦悩を癒してもらうために、その周囲に集まった。われわれには、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』に描かれたゾシマ長老の姿によって親しい。」
とありました。

竹下先生には、プロテスタントの視点での、この「ブルームハルト的なもの」を、聖者の宇宙的な視点から意見をいただこうかなと思っておりました。といいますのは、ブルームハルトが「肉薄戦」を闘った人間の現実は、キリスト教会全体の歴史での戦いでもあったと思います。
少なくとも、ブルームハルトの戦いは、聖者の宇宙の一齣として、理解される必要があると思われます。

とりとめのない内容になってしまいましたの、無視してください。

竹下先生の本は、プロテスタント側からもアプローチしなくてはならない本だということを伝えたかったのですが…。

666グラ(愛犬の名称):2014/04/17(木) 11:54:08
「ユダ」を読ませていただきました
竹下先生

早速、「ユダ」を読ませていただきました。
時機に適った出版であったと、個人的には感じております。
私は、プロテスタントの所謂福音派に身を置く者ですが、「福音とは何か」という根本的な理解にゆらぎが生じた中に生きている者でもあります。

福音は、救いの歴史だけでは捉えきれないという反省が、教会を変え始めております。
私は、この教会の反省は、正しいものと理解しております。福音は救いだけではなく、救いを包含する、神の歴史全体を理解する必要があります。

ユダの両義性もまたそのように理解する必要があるように思われます。
森有正先生が、「アブラハムの生涯」という講演集で触れておりましたが、創世記15章12節、「深い眠りがアブラムを襲った。そして見よ。ひどい暗黒の恐怖が彼を襲った。」(新改訳聖書の訳ですが)アブラムへの祝福に先立つところの「暗黒の恐怖」は、何であったのでしょう。

ユダという表現では、日本での作品は、大下英治の「十三人のユダ」しか、私は知りません。三越百貨店を私物化した、岡田茂と竹久みちを題材にした作品です。この作品でも、「一人目のユダ」とか、「ユダは誰だ」という章もあります。ユダを裏切りの象徴として使用しておりますが、結局、公器である企業を私物化するという視点も「ユダ」かもしれません。

ユダを、歴史的に、文化的に俯瞰し、調理する、竹下先生の凄みには、相変わらず脱帽です。
大切にしたい、ご本であります。ありがとうございました。

667sekko:2014/04/18(金) 00:42:43
グラさま、ありがとうございます。
ご感想をいただいて嬉しいです。直接の知り合い以外からの最初の感想でした。

サイトの著作紹介のコメントもお読みください。

『十三人のユダ』のことは知りませんでした。

このタイトルの選び方とインパクトにはいろいろなものを感じさせられます。

今日、進化生物学者の書いた『「先送り」は生物学的に正しい』(宮竹貴久)という本を読んだのですが、とにかく生き残るためには生物は死んだふり、擬態、パラサイト、なんでも実践するというのを見て、「裏切り」も含めて、「十三人のユダ」のとった行動は、きっとそれぞれの生存戦略だったということなのだろう、と想像します。

アブラムの「暗黒の恐怖」についても考えさせられます。

ありがとうございました。

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668エトワール:2014/04/26(土) 07:08:29
天使
745年に第91代ローマ教皇ザカリアスは教会会議においてウリエル、ラグエルなどの天使を堕天使と認定し、ラグエルを「聖人の名を騙る悪魔」と非難したといわれています。民間において過熱していた天使信仰を危険視した教会がそれを沈静化するために行った政治的処分で、知名度の高かったウリエル、ラグエルなどの天使がその見せしめとなったというものですが、この年に公会議が開催された記録はなく、その真相は、邦訳されている文献では、あまりよく分かりません。ウリエル、ラグエルらの堕天使事件について、どのようにお考えでしょうか。

669sekko:2014/04/26(土) 23:49:19
エトワールさま
ミカエル、ガブリエル、ラファエルの3人以外の大天使は基本的には名前が啓示されていないということですね。ウリエルら4人はエノク書など旧約外典に出てくるわけで最初から要注意ではありました。

Adelbertという人がこれら外典の天使たちについて詳細に書き出したので、聖ボニファチウスが教皇ザカリアスに進言して745年にこの人を異端として破門しました。Uriel, Raguel, Tubuel, Inéas, Tubuas, Saloac, Simielへの祈りを勝手に作ったということで、これらの天使の集まりは悪魔の集まりだと言われたようです。

(Françoise Bouchard, "Les grands miracles de la dévotion", Ed. Résiac, 1996.)

"Dictionnaire portatif des Conciles" (Paris, Veuve Didot, 1767)によれば 745年10
月25日にローマで、7人の司教、17人Romeの司祭と聖職者が教皇のもとに集まって、Adelbert と Clement du Sacerdoceを異端として前者の著作を焚書したそうです。 正典に出てこない名前を勝手につけてはいけないということです。このことは789年のアーヘンの公会議でも確認されました。

でもその前に787年の第2ニカイア公会議で絵画や彫刻で天使を表現することが許可されたので、天使の図像そのものは多くなりました。その時に参考にされたのは、翼を備えたギリシャの勝利の女神ニケの姿だったりしています。

もっとも、アウグスティヌスが言ったように、天使とは神に仕える「機能」のことであり、その実態は「霊」であり、名前をつけて偶像化するのはまずいということです。

でもその後も、連祷に出てきたり棺に名が彫られたり、7人の大天使をまとめて守護を祈るのが流行ったり、イエズス会士がフィリピンにまで7人の名を広めて女子修道院の名になったり、4人の大天使の名も結局、復活継承されてきました。

人はきっと天使に祈ったり頼ったりするときに「名前」を呼ぶ必要があるのかもしれません。そしてその名前にはちゃんと仕様書や取扱説明書もついていてほしいのが人情なのかもしれませんね。

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670kei:2014/05/08(木) 02:12:04
「キリスト教の真実」について
竹下様
最近になり、ファンになった者です。
遅まきながらではありますが、「キリスト教の真実」という著書につき感想を述べたく存じます。
まず、大きな問題意識に満ちた、とても新書には収まらない労作と存じます。
第1章だけでさえも、一般の日本人にとっては、なかなか常識とはかけ離れたことかと。
拙は大筋において貴方の考え方に同意します。
本書は、いわゆる西側先進国と言われる諸国が、キリスト教の考え方を、これまでの歴史において、「普遍主義」に一般化、脱宗教化してきた過程であり、果たしてそれを非キリスト教世界にまで包摂したグローバル世界化できるのかが問われている、という趣旨、あるいは問題意識かと存じます。
今拙が考えているのは、なかなか困難なことかと。
さらに言えば、非キリスト教世界との接合の中で、キリスト教的な考え方までネグレクトされ、旧約的、あるいはローマ的な考え方が復活してきているのではないか、とも思われます。
貴方は第7章で、「十字架上のイエス」の形象が心の中に刻まれていることを述べておられます。
拙は、シリアという地域が非常に好きなので、シリア戦争に心を痛めてウォッチングしていましたが、政府、反政府、あるいはそれをとりまくイスラム諸国さえ、駆け引き的で、暴力に対しての絶対的嫌悪という言説はなかなか見られませんでした。
また悪いことに、さらにそれをとりまくアメリカ、フランス、イギリスについても、実に形式主義的であり、言葉とはうらはらに、国家主義的でとうてい和平を実現するとは思えぬものだと思っています。
さらに現在進行中のウクライナでもそのようなことが見られると思います。
貴方の他の著作を拝読いたしますと、十字架上のキリストは、権力者の側ではなく、民衆、フォークロアの中にこそ、よりビビッドに映しこまれていたように感じております。
権力者の側ではなく、民衆の中から十字架上のキリストを権威として、その理想を叫ぶ者がでてきたのではないのでしょうか。
双方の側にそのような共通の苦難の形象がないところではなかなか歯止めがかかりにくいことを感じております。
救いとしては、現在カトリックが生命力を取り返してきつつあり、平和主義の立場から強く働きかけているところだと思われます。
なかなか思ったように書けませんが、まずはここまで。
乱文深謝。

671sekko:2014/05/09(金) 07:39:00
keiさま、ありがとうございます
keiさま、

確かに新書としては重過ぎることを詰め込んだあの本を的確に読んでくださってありがとうございます。

日本にいた3週間は韓国の沈没事故のニュースばかり表に出ていましたが、フランスに帰ると、ウクライナはもとより、中東やアフリカでの深刻な内戦や暴力行為(ナイジェリアで200 人の女子高生がイスラミストに拉致されて売られたことなど)のニュースがいっぱいで、平和主義の残滓も見えないように思えます。

それでも、最悪の恥辱や苦痛を与えられて無抵抗で死に至った人を神のペルソナのひとつとして掲げているキリスト教は、根本的なところで「上から目線」を成り立たせない宗教であると思っています。だからこそ、全知全能の神の代理人として君臨した教会だとか王権神授と言って独裁した絶対君主たちとか、異教の討伐や排斥をした人たちなどが席巻した歴史の中でも、いつもそれはキリスト教ではあり得ないといって清貧や弱者救済に乗り出したアッシジのフランチェスコなどの改革者がいつも存在してきたのです。

今のローマ法王フランシスコもそうですが、長く続いたヴァティカンの利権構造をおびやかしてかなりラディカルに弱者の側に立っているわけですが、「上から目線」を封印するというのがキリスト教の根本にある限り、だれも面と向かっては文句を言えないわけです。

他の、「偉い神様の神託を受ける人」とか、「教えや真理を体現している人」とかを崇める宗教よりは、ある意味で自浄力があるのかもしれません。ローマ・カトリックも、宗教戦争や近代革命や二度の大戦など、何度もいつ消滅してもおかしくない危機があったのに、いまだ存続していて一定の存在感を保持しているということ自体が奇跡のように思われます。

「上から目線」を否定すること、弱者や少数者の排除を許さないことを磔刑像が分かりやすく示し続けていることが、キリスト教文化の人たちを通して平和主義への潜在的な力となっていくことを期待したいと思います。

絶望する方がずっと簡単に思えるような世の中ではありますが、最新作『ユダ』についてのコメントにも書いたように、真の平和を標榜するのは結局のところ私たち一人ひとりの心の持ち方にあるのかもしれません。

http://setukotakeshita.com/page1.html

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672kei:2014/05/17(土) 14:38:35
ジャンヌ・ダルク炎上と復活
竹下様、「戦士ジャンヌ・ダルクの炎上と復活」拝読いたしました。
ジャンヌ・ダルクにつきましては、実は講談社新書で貴著書に初めて接したのです。
ふとリュック・ベッソンの「ジャンヌ・ダルク」を観たところ、裁判の理路整然としたジャンヌの論理に触れて、不思議に思い、いくつか読みすすんだものです。
これまでに貴著他、岩波新書、ペヌルー「ジャンヌ・ダルク」、集英社新書「英仏百年戦争」また物語としては映画バーグマン主演「ジャンヌ・ダーク」「火刑台のジャンヌダルク」劇「ひばり」を見ております。
本書は、3つのテーマで、ジャンヌ・ダルクをめぐる歴史的事象について詳らかに述べられています。それは終章に向かう巡礼のようでもありました。
終章において、ジャンヌ・ダルクと聖母マリアが比較されております。
お告げの2つのタイプと書かれていますが、ある意味同じことのように思えます。
ジャンヌ・ダルクの場合も受容であったでしょうし、彼女は自分を声の器と考えていたでしょう。そしてその受容は聖母マリアを心に留めたことでしょう。
また聖母マリアの場合も、拙は「Mary of Nazareth」の影響を受けておりますが、老シメオンに「剣で貫かれる」と予言されたように、その道は苦難であったでしょうし、最後までその言葉の通り自分で歩みぬかれたと今考えております。
「Mary of Nazareth」では、エジプトからの帰還、主イエスに親族と共におしかけたとき、受難のときにおいて、その言葉が試され、聖母ご自分でその都度足を踏み出したように描かれておりますが、拙は聖母マリアのこれまでの違和感がそれで解消されたと感じました。
ジャンヌ・ダルクの生涯を考える場合、受難も通して考えねばならないと思われます。
「フランスを救え」という声はランスではなく、ルーアンまでも含めて貫徹されていたのではないでしょうか?
ペヌルーの著書、「英仏百年戦争」共にジャンヌの処刑以降にノルマンディーでの反乱が起きていることが述べられています。「英仏百年戦争」などは、ジャンヌの戦闘の意義はあまり軍事的に評価されていませんが、死後にこそナショナリズムの「否定できない潮流をつくる」と面白いことが述べられています。
さらに帰天されてからは、今に至るまでフランスを救い続けていると考えることもできると存じます。
考えてみれば、ジャンヌは、諸勢力すべてに裏切られましたが、そのことでかえってどの勢力にも属さない「民衆の聖女」となり、どの勢力にとっても負い目を持ち、掲げねばならない存在になってしまったのかもしれないと思えます。
リュック・ベッソンの映画は「聖戦」という新たな薪を投げ込むこととなりました。
イラクからウクライナに至るまで、現代の「聖戦」は双方の側に双方の側のための殉教者を出しており、それは交わることがありません。
ジャンヌのようにすべての側に負い目をつくる殉教者がない限り終わることがないのでしょうか、イエス・キリストのように?
ともあれ、日本の中世内戦の天下統一は武将の上からの英雄は居ますが、ジャンヌのような下からの英雄はいません。西欧他国でもここまでの存在はないように思えます。それは単にプロパガンダを超えたものがあるのではないでしょうか?

673sekko:2014/05/18(日) 07:45:21
ジャンヌ・ダルクと聖母マリア
興味深いコメントをありがとうございます。

ジャンヌ・ダルクが圧倒的に意味があると思うのは、あの本にも書きましたように、異端審問と復権裁判によって徹底的にその肉声から生い立ちその他に至るまでの記録が残されて発掘されているところです。

それに比べて、大きな声では言いませんが、聖母がイエスを神殿に連れて行った時にシメオンが言った言葉など、誰が聞いていたのか、書き留めたのか、マリアが自分で言ったのか、「記録」の実証性からいうと、ジャンヌ・ダルクとは全く別の次元のことだと思ってしまいます。もちろんルカに出てくる聖母にまつわるいろいろな情景がその後のキリスト教の信仰や文化において大きな役割を果たしたことは確かなことだし看過できないことですが。

ジャンヌに対してすべての人が一種の「負い目」を持っているという見方はおもしろいですね。確かにその負い目はナザレのイエスへの負い目みたいなものと共通しているのでしょう。

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674kei:2014/05/22(木) 00:20:24
EUとジャンヌ
CNNでEU議会選挙のニュースがありましたが、ル・ペンさんがジャンヌの看板の前で演説していました。
ジャンヌは今反EUの旗のもとに居るのでしょうか?反論はどうなっているのでしょうか。ナショナリズムが曲がり角の時期にはジャンヌももっと普遍的な読み方をしていく必要があるのかもしれないと思います。
詳細な記録が明らかになり、ジャンヌの明晰で敬虔な人物像が明らかになったと思います。
ジャンヌは決して狂信的ではなかったと存じます(そして今度は傀儡論が出てきたようですが)
デリダが正義論の中で「あらゆる決断という出来事は、自らのうちに、決断不可能なものを少なくともファントムとして、しかしながら自らの本質をなすファントムとして受け入れ、住まわせ続ける」と、まるでジャンヌのようなことを述べています。(法政大学出版局「法の力」)
ジャンヌは、まだ自分にもファントムとしてしか見えない正義を、自分の十字架を背負い、畏れおののきて、つくっていったのだと思えます。
そこが狂信的殉教戦士や現代の十字軍と決定的に違うところだと思います。
ジャンヌの名を借りる者は、ジャンヌの孤独な祈りと戦いを欺かないようにしてほしいものだと思います。
復活されたイエスは、信じないトマスに、傷の中に手を入れさせました。我々はどこまで詳細な記録が欲しいのでしょうか。イエスは「どんと来い」と言っているようですが。
ユダを書かれて、まだ読むに至っておりませんが、トマスも書いてほしいような気持ちです。

675sekko:2014/05/24(土) 23:00:30
Keiさま
もともと5月はジャンヌ・ダルクの祝日があり、聖母マリア月でもあり(だから母の日があります)、ル・ペンに取り込まれやすい時期なのですが、娘の代に変わってからもっと利用している感じがします。

ジャンヌが自分でも決断不可能なものをそれでも本質的なものとして抱えていたというのは興味深い視点ですね。

信念に基づいて意志や希望や観測、予測をいくら掲げても、根本なところにある「不可知」を不可知として容認しなくては人は道を見失うのかもしれません。

聖トマスについては『聖者の宇宙』(中公文庫)の第5章で触れたことがあります。どの絵を見てもどきどきするシーンです。

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676グラ(愛犬の名称):2014/07/31(木) 10:42:02
B16の著作から
竹下先生

ベネディクト16世ヨゼフ・ラツィンガーの「ナザレのイエス」を読みました。
「チェルノブイリ」が引用されており、それは福島と重なります。
福島原発事故は人災という評価を政府事故調もしております。
まるで、日本にはキリストの教会がないとB16から指摘されたようで、ショックですが、受け止めなくてはならないようです。
ヨーロッパのキリスト「教界」は、日本の教会(新旧ともですが)に対して厳しい視線なのでしょうか。

参考までに、B16の本からその箇所を一部引用させていただきます。
「ナザレのイエス」 (春秋社 2008年)  P52  里野泰昭訳
誘惑の場面の短い記述(マルコ1:13)において、マルコ福音書はアダムとの対比を強調します。それは、人間の苦難のドラマを苦しみ抜くことにあります。イエスは『野獣とともにおられ、天使が仕えていた』。荒野は楽園の対極ですが、和解と救いの地となります。創造に対する反抗と死の力であり、人間存在に対する脅威の具体的な姿である野獣は、楽園におけるように人間の友となります。イザヤがメシアの時として告知したあの平和の状態が現実となるのです。『狼は子羊とともに宿り、豹は子山羊とともに伏す』(イザヤ11:6)。罪が超克されたところ、人間の神との調和が実現されたところでは、創造は和解の状態に戻り、引き裂かれた世界は再び平和の場所となるのです。パウロは被造物のうめきについて語り、『被造物は、神の子たちの現われるのを切に待ち望んでいます』(ローマ8:19)と言っています。西ヨーロッパのベネディクト会修道院の周りに生まれた平和な村落は創造のオアシスであり、神の子たちによる和解の世界を先取りするものの一つの例といえるのではないでしょうか。それとは逆に、チェルノブイリは神の不在の暗闇に閉じ込められた創造の衝撃的な表現ということができましょう。(下線・強調文字は原文にはありません。)


「ナザレのイエス」は2008年に出版されましたから、福島原発事故を知りません。
創造のオアシスに対比されるチェルノブイリは、政治体制をも含めた皮肉も含んでいるかもしれませんが、チェルノブイリは福島のことです。
そこには、キリスト者もキリストにある教会もないと言われているのも同然のような気がします。

私たち、日本のクリスチャンはそのような時代と場所で生きていることになります。

「ナザレのイエス」三巻本は、B16がドイツ人でもあるせいか、プロテスタントの私にとっても良書でありました。B16がチェルノブイリに触れていることを、竹下先生に、ご紹介しておこうと思ったことと、信仰の世界から日本を見て、暗澹としている一人の信徒がいることをお伝えしただけです。

677sekko:2014/07/31(木) 20:33:20
グラさまへ
ありがとうございます。

そう、B16(ベネディクト16世)は教皇庁のエコロジー路線を前面に押し出した画期的な人です。

彼が選ばれた時? Habemus papam ecologistum ! ≫というべきだったという人もいるくらいです。

今回フランシスコ教皇が登場したことで先進国保守派の中でのカトリックの位置が鮮明になってきました。

カトリックもプロテスタント福音派も、先進国では保守ブルジョワジーが力を持っていて、そこでは「キリスト教=倫理(特に結婚、性、同性愛、避妊、中絶、安楽死)」という枠にはめようとしてきました。

カトリックの社会活動、キリスト教本来の持つ拝金主義の否定などは、多くの保守的な人にとって「不都合」だからです。「キリスト教=ピューリタン的で性道徳にうるさいやつ」という矮小化は非キリスト教徒ばかりか、社会の上層にいる多くのキリスト者にとっても都合のいい落としどころでした。

だからこそ、先進国ではない南米出身で底辺の悲惨さと社会の矛盾をよく知っているフランシスコが教皇になって現代世界の格差構造を糾弾し、棄民状態になっているさまざまな人の救済というキリスト教本来の正論を唱え始めると、保守陣営は激しく動揺しているのです。

レーガンらと組んで共産圏と戦ったヨハネ=パウロ2世はまあ都合よかった部分もあるとして、後は同性愛結婚反対とか中絶反対とか言っていればいいので、それは時代遅れだとか、司祭の小児性愛はどうする、など黙殺したり批判したりしやすい部分です。

保守派の人間もそういう道徳だけを言っていれば「倫理的でキリスト教的」だという満足感や優越感を得られるというわけです。

そういう困難な状況の中で、B16は、左派から揶揄される倫理路線、右派から嫌悪される社会活動路線の両方を迂回した「エコロジー」路線を前面に出したのです。

これはすばらしいことでした。左派にも右派にも受け入れられたからです。

地球の環境問題をここまで悪化させたのはエネルギーをはじめとした大資本の利権構造ですから、エコロジーを訴えることは社会の貧困の根本問題をたたくことで左派的にもOK。

そして持続可能エネルギーの開発などの新事業は新しい利権の獲得や事業拡大の可能性もあるので右派にもOK。
政治家たちのイメージ戦略的にもクリーンでポイントが上がります。

フランスの貴族のカトリック保守派で、B16の呼びかけに応えて急進的なエコロジー活動家になった人も少なくありません。無視できない影の影響力やネットワークを持つ彼らにとって、中絶や避妊がどうとかという問題以外の大きな使命感とそれを発揮する場を与えた効果は絶大です。

B16は必ずしも、キリスト教のないところでより大きい罪が繰り広げられているとは言っていません。

彼が、2011/6/9、駐ヴァティカン新任大使にあいさつしたメッセージをお読みください。

これは「フクシマ3ヶ月後」であり、当然フクシマが念頭にあります。大使たちは別にカトリック国から来たわけではありません。日本語の訳を一つ見つけたのでぜひ読んでください。

http://www.paparatzinger.org/Soc.Culture/9.6.2011.Udienza_nv.ambasciatori.pdf

残念ながらあまりこなれていない訳なので分かりにくいかもしれませんが、

「神から自然のよき管理を任された人間がテクノロジーに支配されその奴隷になることはできない」と言い、

神の似姿である個々の人間よりも金やテクノロジーや権力が上に置かれている状況が人の実存的迷いと生の意味の喪失を招いたこと、

超越的なものとの関係を欠いた人と物のヴィジョンは人から大地のルーツを奪い、深いところでアイデンティティも失わせること、

などを語っています。

そして、人間の尊厳は、信教の違いによって変わるものではないこと、正義や平和の希求をリスペクトすべきであると言っています。

さらに、どこの国でも、教皇のこの指針のもとで働くものは各国の諸問題を傾聴するはずであるからどうぞ活用してください、みたいなことも言っています。

つまり、無責任な原発事故を起こす国は神が不在の国と言っているのではなく、神なき闇に閉じ込められたテクノロジーを神の光に照らして考え直さなくてはいけない、どこの国でもキリスト者はそれを自覚して協力しなければならないと言っているわけです。

ですから、「チェルノブイリ‐フクシマ‐神なき闇」のような悲観的な見方をする必要はないですよ。

http://setukotakeshita.com/

678モトカー:2014/07/31(木) 21:46:46
カトリック反宗教改革とユダヤ思想の関わり
栗本慎一郎先生の『ユダヤがイスラムを生んだ』(光文社カッパブックス)の中で、カトリックの反宗教改革時代に、ユダヤ教の思想がカトリックの教義に流入した可能性があると触れられています。
この点につき、竹下先生のお考えをお聞かせ願いたいと思います。

以下、その第三章からの引用です。
「サンタ・テレサは、十六世紀にルターの宗教改革に対抗して起こったスペインの反宗教改革、つまりカトリックを内側から新しいものに変えていこうとする動きの中心人物であると考えられてきました。そういう人物の父親が、じつはマラーノ、隠れユダヤ教徒であったことが、スペインの歴史家によって一九四〇年代に明らかにされたんです。ということは、カトリックのなかの新しい考え方がユダヤ神秘主義と非常に強く結びついているということになります。」

途中略

「サンタ・テレサの特異性は、女性であるということ、しかもユダヤ人の改宗者というバックグラウンドをもっているということにあります。そういう二重のマージナリティをかいくぐりながら、けっしてユダヤ教に帰ることをせず、キリスト教の枠組みを使って、どうやって神との対話を実現していけるのか。」

さらに...

「アンルブラードスとサンタ・テレサは、当時の反宗教改革的なスペインのカトリックの流れのなかで、非常に特異な位置を占めています。そこには改宗ユダヤという状況が流れ込んでいたからです。しかし、こうした系譜は、のちにはイエズス会やカルメル派というかたちで、スペインのカトリック布教活動のひとつの中心を築いていく流れにも影響を及ぼしてゆきます。実際サンタ・テレサは、カルメル修道会を改革して跣足カルメル会を興した中心人物でもありました。」

とあります。

これが真実であるならば、カトリックは最低3度は変質しているような気がします。

1.キリストの教えから、パウロの教え等のギリシャ哲学の影響
2.アウグスチヌス(=元マニ教徒)による古典的なカトリックの教義の定立
3.反宗教改革による、ユダヤ神秘主義の流入

1については、栗本先生の上に挙げた著作のほか、『イエスの王朝』(ジェイムズ・D・テイバー著、ソフトバンク・クリエイティブ株式会社)というアメリカ人の書いた研究書、その他から、そう考えております。

いかがでしょうか?

679sekko:2014/07/31(木) 23:57:35
モトカーさまへ
まず、私のブログ記事からここへ来てくださった方に。

ブログに書いた当該記事はこの記事より二つ前のグラさんへの返事です。

以下モトカーさまへの返事です。

このような言説はあまり意味がないと思うのでスルーしてください。

陰謀論の一種のように、カトリックの有名聖女が実はユダヤ教の影響を受けていた、みたいな「面白いお話し」になっているのかもしれませんが、キリスト教はもともと旧約聖書を聖典にすることで「ユダヤ教」の影響を受けていますし、というより、もともとユダヤの聖典が成就したという形でキリスト教が成立しています。イスラムはその両者の影響を受けています。


アヴィラのテレサは私の好きな聖女で彼女について本格的な論考を書こうとアヴィラやトレドにも取材して準備していたのですが、クリスティ―ヴァに大作を書かれてしまったので仕切りなおそうと思ってそのままです。

テレサの父親は確かに改宗ユダヤ人の家庭に生まれて洗礼を受けた人で、その後ユダヤ教に戻って、さらに1500年(テレサの生まれる12年前)にカトリックに改宗しなおした人です。で、聖人伝や殉教者物語が好きで、幼い子供たちに読み聞かせていたらしく、テレサは大いに影響を受けてイスラムの地で殉教したがっていました。まだイベリア半島にイスラムの足跡が濃い時代です。

しかしそれよりずっと前、改宗しなかったユダヤ人がコンキスタドールで1492年にスペインから完全に追われた前後に、イベリア半島のユダヤ人コミュニティはルネサンスのカトリック世界に広がり、15世紀のルネサンス全盛期には、ユダヤのカバラに影響を受けたキリスト教カバラが生まれたり、プラトン主義、ヘルメス文書のグノーシス主義、魔術、錬金術などがハイブリッドな文化を形成していました。

まあそのような頽廃ぶりが16世紀の宗教改革の原因の一つになるわけです。

この辺の事情は『レオナルド・ダ・ヴィンチ 伝説の虚実』(中央公論新社)で少し触れました。

ですから、聖女テレサの神秘主義はもとよりハイブリッドなものではありますが、それを知性でねじ伏せる「知的腕力」みたいなものに私は惹かれます。

来年キリスト教の解説みたいなものを新書で出す予定なので、モトカーさんの質問も念頭に置いて書いていきます。ありがとうございました。

http://setukotakeshita.com/

680モトカー:2014/08/01(金) 21:05:38
ユダヤ
竹下先生...
ご丁寧にお返事をいただき、誠にありがとうございます。

わたくしは、キリスト教とユダヤ教の関連につきましては個人的に昔から興味があり、
いろいろと研究書を読んだり、欧米人の著作にも触れて参りました。
私は、キリスト教はユダヤ教をその起源としつつも、内容は正反対だと考えます。
それは、ひとことでいうと、
旧約聖書の神は、”正義の神”であるのに対し、新約の神は、”愛の神”という点です。

”正義”と”愛”とは人類の二大行動原理だと思いますが、
この2つはまったくの正反対の考え方・価値観であります。

したがって、キリスト教はユダヤ教をその淵源としながらも、
内容は180度違うものであると言えるのではないでしょうか?

旧約中心にユダヤの思想が、今年の5月のNHK教育番組の「100分de名著」で取り上げられていましたが、
その内容もふまえ、自分の考えを加味して申し上げますと、
旧約時代、ユダヤ人は迫害の中で、”正義”を追い求めました。
そして、ユダヤ人は自分たちが正義に反することをしているから(=堕落)、
神は救ってくれないんだ、と考えるのが主流でした。

しかし、イエスは、そうではないんだと主張したのです。
「神に対するまことの信仰があるならば、すでに救われているんだ」と。

律法のために人があるのではなく、人のために律法があるのです。
というのがまさにそれを示す典型的な言葉です。律法=正義だと思うので。

もちろん、旧約にも”神の愛”は語られていますが、正義の傾向の方が強いです。
そして、”正義”の傾向が強いのには、ユダヤ人が古代エジプトにいたことと関係があるのではないか、
と思っています。

古代エジプトの神である「マアト」の思想です。
人は死後、マアトに心臓をはかりにかけられ、重さを調べられて裁かれるのだという...

一般論的にはユダヤ教の中におけるゾロアスター教思想に言及される場合も多いですが、
古代エジプトの、このマアトの思想と、イクナートンによる一神教を目指した宗教改革とに、
ユダヤ教の思想の核があり、それが長い時間をかけて徐々に形成されていったのがユダヤ教であり...

そのユダヤ教にコペルニクス的転回を加えたのがイエスだったのではないか。

これが私の考えです。

いかがでしょうか?

681sekko:2014/08/02(土) 00:37:23
モトカーさま
ユダヤ教とキリスト教の関係については私も別のところで書いたことがありますし、いろいろな本も出ていますから、ここで掘り下げることはしません。ユダヤの神が怒れる父的で、キリスト教の神が慈しみの母的な神だという言い方はよくされますし、明らかに二つは別だと言い切って異端の烙印を押された人もいました。

まあ、素人目には、この二つを結びつけるのは無理があるよなあとつっこみたくなりがちですが、キリスト教の成立におけるそれなりの神学的必然性があったわけで…。最近では中央公論新社の『ユダ』でユダ像の作り方を通してユダヤ教とキリスト教の関係を書きましたので興味があればお読みください。

でも、旧約を読んでるとつい「ユダヤの神様ってどんだけ怒りっぽいんだよ、
万物創造した後の品質管理が歴史なのかよ」と思いたくなりますが、
私たちの基準で見るとなんだかハチャメチャなユダヤ人の行動や意識にも、よく読むと普遍的真実だと頭を下げたくなる部分があります。

たとえば創世記の終わりのほうのヨセフの話ですが、兄たちに奴隷に売られた後、エジプトで出世して家族を呼び寄せるのですが、父の死後さすがに兄たちがいよいよ報復されるのではないかとあせった時に、ヨセフはこういいます。

「恐れることはありません。わたしが神に代わることができましょうか。
あなたがたはわたしに悪をたくらみましたが、神はそれを善に変え、多くの民の命を救うために、今日のようにしてくださったのです。
どうか恐れないでください。このわたしが、あなたたちとあなたたちの子供を養いましょう。」

この部分は、ケセン語訳新約聖書で有名な山浦玄嗣さんがお孫さんを対象にして書かれた「ヨセフさんの手紙」ではこうなっています。

「そんなこと、もういいんです。どうかそんなに怖がらないでください。
わたしは兄さんたちの弟なのです。
確かに、あれは辛く苦しい日々でしたけれども、そのお陰で今日があるのです。
神さまのなさることは誰にもはかり知ることなどできません。
でも神さまは悪いことも善いことに変えるお方です。あなたがたはわたしに悪をたくらみましたが、神はそれを善に変え、多くの民の命を救うために、今日のようにしてくださったのです。
何にも心配しないで、これからずっと仲良く暮しましょう。どうか恐れないでください。このわたしが、あなたたちとあなたたちの子供を養いましょう。
どんなことがあっても、わたしは力の限り兄さんたちをお守りします。
兄さんたちの子供たちもしっかりとお守りします。
ね、兄さん。兄弟が仲良くするって、こんなにすばらしいことなんですよ。
許しあうことって、こんなにすばらしいことなんですよ。
だから兄さん、生意気だったわたしのことも許してください。
そしていつまでも、いつまでも、このエジプトの国でみんなで仲良く暮しましょう!」

これを読んで私は感動しました。

前半はいわゆる「摂理」思想であり、わかります。
ところが「手紙」ヴァージョンでは聖書にない言葉が補われています。

「ね、兄さん。兄弟が仲良くするって、こんなにすばらしいことなんですよ。
許しあうことって、こんなにすばらしいことなんですよ。
だから兄さん、生意気だったわたしのことも許してください。
そしていつまでも、いつまでも、このエジプトの国でみんなで仲良く暮しましょう!」

の部分です。

今の世界でいくら強調しても強調しすぎることはない言葉だと思いました。
私は今のパレスティナ内戦を頭においています。

イスラエルはハマスというテロリストに対する自衛だとか、植民者を守るとか、イスラエル兵士が殺されたとか言って猛攻撃をやめません。

ヨセフの言葉を聞いてほしい。ヨセフと兄弟たちがイスラエルの12部族の先祖です。

兄たちに奴隷に売られ、七年も牢獄に入れられるという一方的な不運にあいながら、みんなきょうだいであることには変わらない、生意気で兄たちの反感をかうことになった自分のことも許してほしい、と言います。兄たちの一方的な罪を自分が一方的に許すのではなく、ゆるし「合おう」と言っているのです。

互いにゆるし「合う」ことだけが「子どもの代まで仲良く暮らしていく」ための唯一の方法だということです。どちらがより悪いとか、責任の追及、弾劾、制裁、などからは決して「いつまでも」「みんなで」の平和は生まれません。

ユダヤのラビたちがこの言葉をネタニヤウ首相らに喚起してくれればいいのにと思います。

今のエジプトが和平を呼びかけることも、エジプトでの共生を試みたヨセフのことを思うと感慨深いです。幼子イエスもエジプトに避難しました。長じても暴力にあって殺されました。そして復活することで、救いとは報復や制裁によって得られるものではないことを示したわけです。

聖書のヨセフの物語をよく読めば、ヨセフの最後の言葉に、山浦先生の補足がまるまる込められていることが分かるはずです。

考えたら、ここまでの仕打ちを受けながら仲良くするなんて私たちの生活感覚の基準からいえばほぼ奇跡であり、何がその奇跡を可能にしたのかということをじっくり考えさせてくれる最後の言葉でした。

裁きの論理ではなく「ゆるしあい」による歩み寄りだけが、人が共に生きることを可能にしてくれるのだというのが神のメッセージだとしたら、ユダヤの神からキリスト教が生まれたのも納得できる気がします。変わっていくのは「神と人間との関係性」なのですね。

http://setukotakeshita.com/

682モトカー:2014/08/02(土) 09:15:38
旧約聖書
再度のご丁寧なご返答をたまわり、誠にありがとうございます。

「旧約聖書」ですが、私は、加藤隆氏の著作「旧約聖書の誕生」の説が的を得ているのではないかと思っております。

氏はヨーロッパにも留学し、ヨーロッパ人に混じって議論も行った経験もある、ということですが、
みずからの知識とヨーロッパ人とのディスカッションの中から生れたこの考えが真相に近いのではないかと思います。

氏の言説は、「旧約聖書」とは、アケメネス朝ペルシャ帝国が、ユダヤ人に自治を許す代わりに命じて作らせた、
一種の「自治法典」である、というものです。

古代にしては寛容だった同帝国は各民族に自治を許したが、統治上の要請から(=秩序の維持)、
そして、自分たちで規律させるために、ルールブックを作らせた、という仮定です。

その際、ルールだけでなく、民族の自己紹介も記載させたのだそうです。

そしてユダヤ人たちは、帝国の支配者からの命を受け、様々な不文律や慣行、そして語り継がれてきた民族の伝説などを
急いで文書にとりまとめて提出しただろう、というのだそうです。

この仮定の下では、旧約聖書の中にあるさまざまな矛盾も説明できます。

また、アブラハムやヨセフにまつわる物語は、民族の神話であり、「古事記」的なものだと思います。

なので、アブラハムやヨセフ、モーゼのあたりは、信仰的な要素と民話的な要素とが入り混じっており、
未分化で未完成的な説話的なものではないだろうか?、と思うわけです。

”宗教”としてユダヤ教が発達しはじめたのは、北王朝がアッシリアに滅ぼされ、南王朝にも危機が迫ってきて、
預言者たちが活動し始めてからではないでしょうか?

それ以前は、宗教と呼べるほどのものではなかったと考えます。

モーゼ五書と預言者たちの書では、明らかに、傾向が違うと思うのです。

ただ、ユダヤ人たちは、比較的安定したエジプトの富裕で強大な諸王朝と、
変転きわまりないメソポタミアの諸帝国とのはざまで苦労して生きながらえ、
その中から、”民族の処世術”ともいうべきものを学び取っていたのは間違いなく、
それが、アブラハムの流浪の物語から、ヨセフの人生の物語のあたりに結実している、
ということは言えるようには思えます。

いかがでしょうか?

683sekko:2014/08/02(土) 16:37:34
モトカーさま
ありがとうございます。

ここは諸説に関する私の感想を書く場所ではないのでこれで打ち切らせてください。

もっと適切な掲示板が他にあると思います。

あるいは、すでになさっているかもしれませんが、モトカーさんが諸説をまとめたりご意見を発表なさったりするサイトやブログを作られたほうが、有益なコメントも得られるのではないでしょうか。

個人的には、「真相は…ではないか」系言説は、陰謀論も含めて、テーマによっては読むのはいいですが、参入したくはないのでよろしくお願いします。

http://setukotakeshita.com/

684kei:2014/08/31(日) 03:46:12
弱い父ヨセフ
父ヨセフと初めて出会ったといえるのは、ジョルジュ・ラトゥールの「大工ヨセフ」を見たときのことでした。
幼いイエスの蝋燭の灯火で大工仕事に励む父。しかしその目はイエスに向けられず、悲しみをさえ湛えている。
息子の厳しい運命を知りながらも、黙々と自分の出来ることで支えるしかない父。
何か普遍的な父の姿を見た思いでした。

現代日本において、父と家族の姿は悲惨なものです。
子供を養うには特に教育費に大金がかかります。さらに教育環境を整えるためにもまた金がかかります。
父は競争に勝たざるを得ず、また息子にこの厳しい世の中で生きるための(競争を生き抜くための)修行を早期に課せざるを得なくなります。
そしてそこから多くの罪が生まれます。

社会を見渡しましても、族長たる父は、旧約の族長の如く、自分の民を守るために、他の国と張り合っていかねばならない。自国の利益、論理を主張しあい、いっこうに和解が訪れません。

2000年も前に父ヨセフの姿が記されたことは驚くべきことのように思えます。
ケイシャ・キャッスル=ヒューズ主演映画「マリア」も、どちらかというとヨセフの苦労が印象的な映画でしたが、やはりアメリカらしく家長としての父の姿でした。それよりも「Mary of Nazareth」のヨセフのほうが好ましく思えます。
崩壊しつつある悲劇的な家族の姿は毎日のようにTVのドラマネタとなっています。しかし最後を感動的に終わらせようとも、それは感情的に肯定された姿でしかありません。
世界一有名な不思議な聖家族の姿、父ヨセフの姿をもっと描いてほしいものだと思うものです。

現実は、子殺しをしようとするようなノアが描かれているようですが。

685グラ(愛犬の名称):2014/08/07(木) 21:52:37
安全と安心
エコロジーとキリスト教という枠組みについては、新たな可能性を感じます。

福島原発事故を含む、「災後」の混乱は、多岐にわたってしまいました。生活の基本にある、食べることでも食品表示偽装があり、教育の分野でも陰惨な事件が佐世保で起きてしまい、理化学研究所という大組織も30歳の女性の自爆テロの状態です(小保方さんには頑張ってもらいたいですが、笹井氏の自殺によってスキャンダルになってしまいました)。

「災後」の混乱の要因は、安全と安心の枠組みの喪失にあります。そもそも、福島原発事故を防ぐことが出来なかったのは、科学的な知見による実証がなかったことでした。原子力の平和利用というイデオロギーを支えたのは「安全神話」でしたが、しかし実はこれは「安心」神話でしかありませんでした。安全と安心の混同がありました。

エコロジ−は、科学的な知見に基づく、安全でなくてはなりません。
竹下先生に教えていただいた、「神なき闇に閉じ込められたテクノロジーを神の光に照らして考え直さなくてはいけない」は、安心の基準になります。安心の形は多様です。

下記の文書は、2012年4月から、食品衛生法において、一般食品の基準値が、従来の暫定基準値500ベクレル/?から100ベクレル/?に引き下げられた時、この安全と安心の基準を明確に区別して、私が報道機関向けに準備したものです。安全と安心をどう区分けしたか参考にしてください。NHKをはじめテレビ各局の取材に対応する基本的な考え方が明示されております。

「弊社としましては、お客様の水産物に対する安全性、特に放射能汚染の関心の高さとデータの信頼性の確保の観点から、基準値以下であることを挙証できる水産物を取り扱うことを基本原則としまして、取り組ませていただきました。
従いまして、放射性セシウムが基準値以下であることを挙証できるシステムの構築を通して、お客さまに安全な水産物を提供させていただくことで、生産地と消費者を繋がせていただこうと努力してまいりました。
この間、大学の教授および食品分析の専門機関、放射能測定機の製造メーカーの方々と、水産物の安全を挙証できる仕組み作りの話し合いを重ねてまいりました。
この結果、水産物の安全性を、お客さまが納得される安心に結び付けるシステムを構築することで、生産地と消費者を繋がせていただくことといたしました。
大学をはじめとする関係機関と、新たに準備いたします、お客さまが納得される安心システムにつきましては、お客さまの信頼を確保するとともに、生産地の復興の一助を図る目的を持っております。この安心システムは、製品認証スキームに準拠しております。」

固有名詞を普通名詞に変更しており、また差し障りがある表現は一部修正しておりますが、安全と安心の基準と運用を理解していただけると思います。

686sekko:2014/08/11(月) 07:29:53
グラさまへ
なるほど、安全性をみなが納得できる安心に結びつけるシステムに構築する、というのはよい表現ですね。

「安全なき安心」は神話になりかねないわけで、安心はいわゆる「備えあれば憂いなし」というベースに立つべきですね。逆にいくら安全を確保しても、それを安心に結びつけなければ「不安」が安全を脅かすことになるかもしれません。

いろいろ応用して考えられそうです。ありがとうございました。

http://setukotakeshita.com/

687sekko:2014/08/11(月) 07:37:08
keiさまへ
私もラトゥールのヨセフは好きです。ヨセフには何となく夜なべ仕事が似合うなあと思います。でも確かに映像化は難しいですね。

私が最近家族について書いた記事の一部を引用します。

>>>他のすべての人間の営みと同じように、家族は固定された状態ではない。「家族愛」という言葉はしばしば家族のメンバーをそれぞれ決まった役割に縛り付ける圧力として使われることもある。また共通の敵に対して無条件で結束するようなナショナリズムのひな型のエネルギー源として使われることもある。理性や意思を封印するために「愛」が情動で包み込まれることもあるのだ。聖家族の「両親」は単純な生物的家族愛でごまかせることができない複雑な関係を乗り切った。彼らが自分たちのエゴの外から来る声にいつも耳を傾けたからだ。


やはり個々の人間だけで運営していくには限界があり、視界を広げる必要がありそうです。

http://setukotakeshita.com/

688kei:2014/08/11(月) 10:59:11
スポーツとキリスト教
最近ふとしたことから下記記事を目にしました
(小生サッカードイツ代表ファンです)

教会とスポーツ、ちょっと意外な関係
http://toyokeizai.net/articles/-/44522

スポーツには教育的役割があるが、ドイツでは「公正」「寛容」など、より普遍的な価値観をつかってスポーツを意義付けている。そのため、われわれにはピンとこないが、キリスト教がかかわってくるような一面もある。日本の「体育会系」と比較しながら、ドイツのスポーツを見てみよう。

これは「キリスト教の真実」の具体的事例といえそうです

シリーズ
「ドイツのスポーツはなぜいじめ・体罰がないか」
http://toyokeizai.net/category/deutschland_sport

689sekko:2014/08/12(火) 00:38:42
kei さま
なるほど、キリスト教が「価値OS」になっているという比喩はおもしろいですね。

ドイツ人というかゲルマン人の感じってスポーツをやらせたら強そうです。

第二次大戦中フランスがドイツに占領されていた時、ナチスの若い軍人たちがみなスポーツマンで、身体能力に優れていたのでフランス人女性がまいってしまったという話を聞いたことがあります。そのせいで後からコラボと言われてリンチされたりしましたが、占領軍におもねったというより本気で惹かれたのかもしれないと思ったことでした。

でも、当時のドイツ本国では、女性は教会、子供、キッチンの3Kに閉じ込められていたのだから、(キリスト教?)価値とスポーツは男性に限られていたのかと疑いたくなります…

まあ、フランスでも体育会系のいじめとかはあまり聞きません。

ドイツと同じく年齢序列がなく、学校自体も飛び級も落第があるために年齢差ができるので、クラス内で身体能力を競うのは無理だし。

やはりスポーツは学校外の公立や私立のスポーツ施設に外注です。日本は学校自体が同調圧力の強い閉鎖社会なので、そこでのクラブ活動も、いい方にも悪い方にも展開しそうです。

キリスト教とスポーツというとやはりパウロの言葉を思い出します。

「コリントの信徒への手紙一/ 09章 24−26

あなたがたは知らないのですか。競技場で走る者は皆走るけれども、賞を受けるのは一人だけです。あなたがたも賞を得るように走りなさい。

競技をする人は皆、すべてに節制します。彼らは朽ちる冠を得るためにそうするのですが、わたしたちは、朽ちない冠を得るために節制するのです。

だから、わたしとしては、やみくもに走ったりしないし、空を打つような拳闘もしません。」

ヨハネ=パウロ二世が山登りやスキー、水泳を熱心にやっていたことも思い出します。

カトリックのスポーツの守護聖人はドン・ボスコで、19世紀に貧しい子供たちの教育にスポーツを奨励して遵法精神とか連帯を学ばせました。

でも、私が、キリスト教の価値OSがスポーツに反映されているなと思う分野がひとつあって、非キリスト教文化圏出身の者として羨ましいような悔しいような気がします。

それは障害者スポーツです。

耳の不自由な人のスポーツ大会は1924年のパリではじめてThe Silent Gamesとして開催され、ヨーロッパ9ヶ国から145人の参加者があったそうです。4年ごとに開かれているそうで、耳の不自由な人はコミュニケーションのハンディが大きいので他の障害のあるアスリートと別枠になっていたそうです。

後、1988年からオリンピックのすぐ後で開かれるようになったパラリンピックの方は、第二次大戦の傷痍軍人のリハビリとして主に英米で始まった障害者スポーツが起源のようです。

「健常者」と同じ条件では戦えないアスリートのために試合を開催するという発想、これこそは、絶対に「体育会系」のいじめやしごきとは別の土壌から生まれたような気がします。

フランシスコ教皇が9月にローマでインター宗教サッカーを開催するという話はブログに書きました。

スポーツがナショナリズムや商業主義や弱者差別から守られて、本当の意味で「節制」して「賞を得る」ように人々の元気を引き出し力を養ってくれるといいなと思います。

http://setukotakeshita.com/

690kei:2014/08/12(火) 10:25:39
サッカー・性・宗教
スポーツ全体は知りませんが、ドイツでは、かのオリバー・カーンが21世紀になっても
「サッカーは男のスポーツだ」と豪語しておりました。

女子サッカーはノルウェーから始まり、ドイツもワールドカップ優勝2回の強豪国中の強豪国ですが、ドイツ女子ワールドカップでようやく認知されたような状況です。
サッカーはコンタクトスポーツのため、女性保護の観点から向いていないというのはドイツサッカー協会の面々が言っておりました。

最近になって女子サッカーと宗教の問題がメディアを賑わせました。
イラン女子のユニフォームのヒジャブが原因でワールドカップ予選を失格になったのです。
FIFAとしては、ヒジャブが相手との接触で首を絞めかねないという保護上の問題で、アジアAFCの努力で、ヒジャブがすぐとれるようにしてOKとなりました。
しかし、フランスの女性団体が、ユニバーサリズムに反し、サッカーに宗教的象徴を持ち込むものだとして反対しました。
ヨーロッパのUEFAは、ユニバーサリズムの観点からヒジャブ着用を認めておらず、フランスでムスリム女性の出場が取り消しになるという事件もありました。
ヒジャブはアジアでも厳格なイラン以外は着用は個人に任せられて、アジアカップに出たヨルダンはするものもしないものも居ました。
イランは、女性はサッカー場へ入るのも男性とサッカーを集団でTVで観るのも禁止。理由は男性はサッカーを観戦すると野蛮になり女性保護だということです。

性の問題も女子サッカーは提起しました。
ロンドン五輪の前にアメリカ代表のラピノーが同性愛をカミングアウトし、その後スポーツ選手の同性愛カミングアウトが続きました。
女子サッカーで同性愛が多いのは公然の秘密ですが、先進国スウェーデンでも中傷が隠然とあるようです。

ジャンヌ・ダルクでもお書きになっていますが、女性の男性化は罪の一部となっており、まだまだ諍いがあるようです。
マリア・マグダレーナの本を書いていただきたいのは、こうした「罪の女」の始めに、マリア・マグダレーナと新約の「罪の女たち」が居ると思うからです。
マリア・マグダレーナは娼婦の守護聖人となっています。
罪の中を生きる女たちにとってマリア・マグダレーナに象徴される罪の女たちが許されたことはどんなに生きる糧となったかと思います。
イブから始まる罪の女の系譜をぜひ書いていただきたいのです。

その中に同性愛をめぐる問題のヒントもあるような気がします。

PS.漫画ですが「修道士ファルコ」はご存知ですか?
著名な女性漫画家の青池保子さんが書いていますが、フランス修道院まで取材に行ったり本格的なものです。
貴女の著書とも整合性がとれていて、中世ドイツ風俗、教会の地位などとても楽しめます
http://www.aoikeyasuko.com/works/falco/

691愚者:2014/08/16(土) 16:06:37
地上の平和
sekko様
「私達は特定秘密保護法に賛成です。」と主張するカトリックのグループのサイトを見ました。正義と平和協議会や関係司教への非難と数人の記名がありました。彼等は憲法「改正」にも賛成だと推測できます。
カトリック教会には「政治を教会に持ち込んではならない」という不文律があるようです。政治の話をしたかったら教会の外でどうぞ、憲法9条の話は駄目、といった科白を私も耳にしました。つまり政府と同じ考えは「政治的」ではないが、それ以外はダメと言っているのです。以前教会関係の印刷物に「社会経験のない司祭には複雑な世の中の政治的な問題は理解できない。従って憲法や外交などに口を出すべきではない。」という意見が、投書だったか座談会だったか忘れましたが、記載されていました。
「現代世界憲章」、「地上の平和」の平和主義の教えに、つまり聖霊に司教は従っているのです。正平協や護憲活動を拒む人も「地上の平和」を読むべきです。生命、人権、尊厳、自然環境を守る必要条件である平和を外交や経済の次元で考えるのが誤りです。
長々と失礼しました。

692愚者:2014/08/16(土) 17:19:23
続き
sekko様
質問を書く前に字数が足りなくなってしまいました。
平和や護憲のことになると、高等教育を受けた人、柔軟な頭の人、勉強熱心な人、良識豊かな人、イデオロギーに無縁な人が、紋切り型の左右(政府-反政府)路線論争みたいな頑なさで固まってしまうのは何故なのか、ほんとうに不可解です。一種の倒錯ではないかとすら感じます。カトリック信者は一般人が懸念したり議論している問題に関わるべきではないという信念でもあるのでしょうか。
JP2世の、2度と戦争をしてはいけない、という言葉は誰でも知っていて共感するはずですが。保守政党の政策とカトリック信仰を同一するかのような無意識の混乱があるんでしょうか。
平和を実現する人々は幸いである、というときの平和は憲法の平和主義とは全く関係無いということなのでしょうか。

693森下克介:2014/08/16(土) 17:20:08
政教分離の件
前略;
「キリスト教の真実」を読んでいます。途中です。
152頁の、世俗の王たちの徳義を監視するのもまた、「天」ではなく、聖職者や教会権威でしかない。世俗の主権者には、聖職者のコントロールなしの権威を行使するための自由を必要とした。
結局、西洋近代はそのような「神」を世俗の主権者から切り離すことによって、世俗の自由と自立を獲得した。
と有りますが、「神」としては、「聖書」にある、「預言者」が伝える「神からの言葉」がすべてで、現実にはその仲介をする「聖職者」は神と同等でないとすると、一般の信者の皆さんは「本当に信ずべきものとしての「神の代理」の言葉を正しく聞けなくなるのではないでしょう
か?
ここでは、「「そのような神」とは、聖職者の言葉が正しくない」という意味であれば、信者も同じ、聖職者や教会権威を信ずるに値しないという事になる。と云うジレンマが生ずるのではないかと思いますが。いかがでしょうか?
文面がうまくできませんが、先生のご意見をお聞き出来たら大変うれしく思います。
よろしくお取り計らいください。
26−8−16
421−0216
焼津市相川408
森下克介
tel/fax??054-662-0057
Email??morikatsu@palette.plala.or.jp

694sekko:2014/08/16(土) 23:29:46
愚者さまへ
ええと、いろいろなテーマが複合しているので、簡単には答えられませんが、この掲示板の7/31付の私の答えをお読みになっていると仮定してその先を続けてみます。

今の時代は、エコロジーの角度から平和の問題、社会悪や不平等にまで切り込む路線が貴重で有効だと思います。

解放の神学もそうでしたが、カトリック的な社会活動が左派イデオロギーと重なる部分があって共闘したり利用されたりすることもあったわけですが、基本的にはキリスト教には右派も左派もなくて、福音的活動の実践が問われていると思います。

「現代世界憲章」などは普遍宗教と人間の関係の中で到達点の一つとしてまさに画期的なものだと思います。これをじっくり読めば、「聖霊に従う」ということの意味が分かると思うのです。

ただ、「ミッションスクール=お嬢様文化=勝ち組グループ」みたいなものと結びついた小教区みたいなところでは、勝ち組の立ち位置を揺るがせるような反体制的言辞が「政教分離」の名のもとに嫌われて排除されるというのはフランスでもいくらでもあります。

司祭が家族を持たないとか社会経験がないから云々というのはもちろん言いがかりで、そういう人が本気で考えてくれれば、自分状況に縛られずにはいられない人々と違って、クリアで建設的な提言が生まれるかと思います。

少なくとも近代以降に教皇の地位にまで上り詰めたような人々の回勅や説教は、私心なくして考え抜かれた貴重なものだという印象を持っています。

「時の政権」というのは国や時代によっていろいろあるわけですから、そのあり方が福音に反しているものであればキリスト者が従うことができないのは当然だと思います。

でもこれも難しい問題ですね。

たとえばクウェーカーとか絶対平和主義の宗派が、たとえ犠牲を伴ってでも、絶対兵役拒否をすべての信者に強制できるほどの力を発揮するのを見る時、確かに、同じ宗教的力で若者たちを聖戦の名で自爆テロに向かわせる宗派だってあるのだから、複雑な気分です。

どうせなら全員を「絶対兵役拒否」「完全非暴力主義」で「洗脳」すればこの世に戦争はなくなるだろうに…と思ったり、でも兵器産業があれば無人戦争が続くのか、とか、どんなに「洗脳」して戦争をなくしても、違法暴力行為に向かう人やそのために組織される団体などはなくならないだろうから、結局それを取り締まるために合法的暴力装置としての警察は必要だし、とか…。

聖職者が神と同等でないとして世俗の権力者がその力を排してきたという話はあくまでもヨーロッパの歴史の流れで、そこに至るまでには、政教癒着や権威主義の実態がいろいろあったわけです。

すごいと思うのは、カトリック教会が、その中で消滅することもなく、分派することもなく、その葛藤の反省をしながら自己批判も臆せず、福音の道へ絶えず戻ってきたということです。

これについて、9/10発売の『カトリック生活』10月号に「ジャンヌ・ダルクと神学」というテーマで書いたところなので、発売前ですが、関連箇所を少し引用すると、

『コンスタンツの公会議では、公会議によって代表される「戦う教会」はキリストから直接授けられた至高の権力を持ち、その権力は教皇を含むすべての人間の服従義務を前提とすると宣言された。
それは大分裂を解消するために必要なものだったが、単に教皇支持派と公会議主義者の争いという構図ではない。世界を「聖職者」と「非聖職者」に二分して、後者を前者に無条件で絶対服従する下層民となす差別的世界観が提示されたのだ。世俗の者にとっての「徳」とは「服従」であり、「服従」が「信仰」と同義だった。「教会学」が「教会全体主義」というイデオロギーと化したわけである。(・・・・)』

それが今は、

『教会の力とは「服従させる力」ではなく「福音の力」であり、聖性にいざなわれた神の民である地上の教会とは、謙虚な奉仕と愛を実践するものだとされるようになった。その帰結が二〇世紀後半の第二ヴァティカン公会議だ。教会への服従こそが「徳」であり「信仰」であるというイデオロギーの時代を越えて、信教の自由が謳われたのだ。ジャンヌ・ダルク裁判は、もっとも貴重で聖なる一人一人の人格(ペルソナ)を根本的に無化する試みだった。だからこそジャンヌの復権と列聖は、カトリック教会が天に向かって確かに歩を進めていく象徴になる。人は自由意志によって神の呼ぶ声に答えるのだ。』

となったわけです。

ひとりひとりが「神の代理」となるくらいの気持ちで心と耳を傾ける必要があるのかもしれません。

http://setukotakeshita.com/

695sekko:2014/08/16(土) 23:34:16
すみません
さっきのお答えで、愚者様へのお答えと森下さんへのお答えをまとめてしまいました。続いて読んだのと、ある意味で共通した問いだと思ったので。

森下さまも、愚者さんからの質問も合わせて読んでいただけると幸いです。

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696sekko:2014/08/17(日) 00:13:24
Keiさま
Keiさま

ドイツはトルコからの移民家族が娘を公立学校で体育に参加させないとかスカーフをかぶらせることにもフランスと違って寛大なので政教分離がうるさいトルコ本国よりもいいねというトルコ人もいると、ドイツのドキュメンタリーで見たことがあります。

すぐれた女子スポーツ選手に同性愛者がいるというのは、優れた男性ダンサーに同性愛者が少なくないことと同じく、驚きません。

筋力だけでなく競争力や努力のパフォーマンスに男性ホルモンが関係しているのは事実ですし。

だからこそ競技では男女が分けられているのですが、グレーゾーンというのはどこにでもあるわけです。
女性ホルモンの多い男性選手がスポーツで有利になるとは思えないので、グレーゾーンはもっぱら女性として活躍する女性の同性愛者で目立つのでしょう。

勝ち負けが商業効果にも関係するプロスポーツだといろいろ問題でしょうが、勝ち負けとは関係のないアートの世界ではグレーゾーンも問題が少ないなあと周囲を見ていても思います。

娼婦が罪の女とか、男装して戦争に行くのが罪とかいうのは、罪と言っても「社会的罪」の側面が大きいかと思います。

その点イヴの罪は、何一つ不自由しない環境(何しろ「楽園」ですから)にいながら、「神の言葉に背く悪」の誘惑に乗ってしまったという意味の罪なので、ちょっと違うかなあと思います。

同性愛の人たちは「性的な誘惑」には異性愛の人同様に負けてしまうことがあるかもしれませんが、「同性愛であること」の誘惑に負けるわけではありません。

最初からグレーゾーンに生まれる人というのは必ずいますから。

ただ世間がそれをどう見るかということの推移はまた別問題です。

キリスト教の原罪説は、人間に罪悪感を植え付けてよくない、などと言われたこともありますが、逆にプロテクトしてくれているという説もあります。

悪いのは人間でなく誘惑したサタンだと責任転嫁できるということで。

人間が自助努力しなくちゃいけないのは、誘惑に耳を傾けない、耐えるという部分で、その反面教師としてアダムとイヴがいるという人もいます。

完全に罪のない人間はいない、つまり完全な善人はいないということによって二元論を避ける意味でも、原罪は役だったかもしれません。

つまり、すべての人は悪の誘惑にさらされているという点で平等で、その証拠に中世のカテドラルの「地獄図」みたいなものには必ず、普通の人と友に枢機卿の姿の人なんかも炎に焼かれていたりします。

日本のイメージでは「家」の中に邪鬼を入れない、疫病神を入れない、みたいな「家内安全」努力があって、その代わり家族の誰かが罪を犯したら「家」全体が「罪」の連座になったりします。

それに対して、キリスト教的なイメージでは、各自が自分の中に悪魔に入られないように、つけ込まれないように、という感じでしょうか。

うちの猫を見てると、罪のない状態というのはこういうのだなあ、とは理解できるのですが…(智慧の実なんか食べなくてもいいからね。)

「修道士ファルコ」は前にもどなたかから名前は聞いたことがありますが読んだことはありません。おもしろそうですね。私もいつか修道院物のホラーとか書きたいなあと思ってるのですが・・

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697ふうこ:2014/08/20(水) 13:46:54
許しあうこと
「ね、兄さん。兄弟が仲良くするって、こんなにすばらしいことなんですよ。
許しあうことって、こんなにすばらしいことなんですよ。
だから兄さん、生意気だったわたしのことも許してください。
そしていつまでも、いつまでも、このエジプトの国でみんなで仲良く暮しましょう!」

この箇所に感銘をうけました。sekkoさまは、パレスチナ内戦を念頭に話されていますが、「許しあう」ことなくしては本当の平和はもたらされない、というのはあらゆる人と人との関係性においても言えることですね。
とても身近なことですが、お父さんと長く絶縁関係にあった友人がお兄さんが不治の病で闘病をすることがきっかけでお父さんと会う決心をしました。そのお父さんは、相当な暴君で、愛人を家に連れて来たり、いわゆる「飲む、打つ、買うは、日常茶飯事」暴力的で子供の言い分は全て無視で言いなりでなければならない、というお母さんにとっても友人きょうだいにとっても耐え難い存在だったそうです。お父さんと別れて、やっと平和な生活を送っていた矢先のお兄さんの発病。高額の治療費の支援の要請が表向きですが(お父さんも後悔しているらしい、との話もあり)、友人は「兄は父への恨みで病気を呼び寄せているように思えてならない。父との和解なしには、回復を望めないのでは」と言います。でもお父さんといざ対峙したとき自分がどうなってしまうか不安で、ある神父さまに「許しは癒しにつながりますか」と尋ねたところ、神父さまは「許しは、癒しです」と何度も繰り返され、友人に按手しました。その瞬間は、感動的でした。もしお父さんと和解できたら、それは奇跡だと思います。「許し、許されること」「愛し、愛されること」は、キリストが命を賭して投げかけたメッセージですね。「隣人を愛せよ」という言葉にとどまらず(これは一方的になる可能性があると思います)、ヨハネの「互いに愛し合いなさい」という言葉の意味を思いめぐらしています。

698kei:2014/08/20(水) 15:18:18
修道士ファルコ「辱めの儀式」
原罪という考えかたは、日本人が一番拒否感を感じるところかと思います。
自分もまあ、そんなことを考えなかった頃は常にパーフェクトを目指してずいぶんストレスを貯めていたものでした。
今「ユダ」を読んでいますが、その中で日本的「良心」のことが書かれています。
良心というのは個人的なもので、罪の意識は忘れ去るか、いつまでも疼きに耐えるか、するしかありません。
日本人は重大なときには耐えかねて自殺まで追い込まれてしまいます。
フーコーの言う「パノプティコン」が当てはまるのかもしれません。
自分もかなりまいったものです。
しかし人は皆罪を犯すようになっており、主によって赦されうるという考えかたはずいぶんと救いになったものです。

さて「修道士ファルコ」の印象的なページをアップロードしておきました。
貴女の著作で、守護聖人がその義務を果たさないときには罰せられると読んでおりましたが、具体的にこのような儀式があるとは興味深く思いました。
この場面は聖女が娼婦に降臨するところで、中世キリスト教の特徴が出ているものと思われます。

いつか著者の青池保子さんとのコラボでキリスト教や中世思想の解説本ができたらと夢みています。

http://fast-uploader.com/file/6964069546497/
http://fast-uploader.com/file/6964069605371/
http://fast-uploader.com/file/6964069660215/

699sekko:2014/08/21(木) 03:08:21
ふうこさま、keiさま
keiさまが

「良心というのは個人的なもので、罪の意識は忘れ去るか、いつまでも疼きに耐えるか、するしかありません。」

とおっしゃることと、ふうこさまがおっしゃるゆるしの問題は関係があると思います。

「罪の意識は忘れ去るか、いつまでも疼きに耐えるか、するしかない」わけではなく、ゆるされることで、いい方に向けて解消される気がするのです。

私がユダのコメント

http://setukotakeshita.com/page1.html

で書いたことがそれです(このコメントのエラーをまだ直していません。JP2による平和の定義は3・11の翌日でなく翌年です。回勅のはじめです)。

7/21の読売新聞のインタビューでも、

ユダという存在はキリスト教の『ゆるしのシステム』を思い出させると言いました。

>>人が悪事をなした時に抱くやましい気持ちは、それを隠し通しても解消されない。逆に「ゆるしてもらいたい」と願って告白し、ゆるしを得ることで初めて解消される。キリスト教はそのメカニズムを理解し、「告解」というシステムを作り上げた。現代はキリスト教社会も世俗化して「ゆるしのシステム」も失われつつあるが、竹下さんは「ユダが語られ続けることで、人間には『ゆるし』が必要だということが思い出されるのではないか」と言う。

その意味でユダへのこだわりは、「悪や背信といった暗い部分に倒錯的にひかれるだけではなく、人間同士が『ゆるす』ことで共に生きる可能性につながります」<<

という感じです。

もともとすぐ罪悪感を抱いてしまうようなタイプの人は別ですが、私のような人間は、あれやこれやのプチ罪悪感のおかげでエゴイズムや独善から辛うじて逃れている感じです。

「ゆるしてもらう」っていうのは精神衛生にとてもいいので、そのためには、より難しい方の「ゆるす」努力もしなくては、と思うのですが…。

「辱めの儀式」云々はやはりかなりフォークロリックですよね。

こういう、神仏への祈願とその効験いかんによる対応の仕方は時代や国や文化によっていろいろですね。

「祈願した側の責任だ、いまいち信心が足りなかった」などと言われると私などはすぐ納得しますが、神仏に対して「神も仏もあるものか」とならずに、「約束が違う、謝罪会見で土下座せよ」みたいなことで「次に期待する」飴と鞭みたいなやり方もあるのかも。

いずれにしても、人間の、

「目の前の不幸を何とかしてくれ」、

「目の前の脅威を取り払ってくれ」、

という神仏祈願の欲求は多分なくならないと思うので、それをどうやって信仰の文脈に組み入れていくか、危機管理していくかというのもまた人間の宗教の知恵なのだと思います。特に中世では。そのことについてブログでまた書くつもりです。

http://setukotakeshita.com/

700愚者:2014/09/08(月) 01:32:20
公会議
sekko様
回答ありがとうございます。面白い講義を受けた気分です。
以前、JP2世がコンスタンツ公会議の公会議至上主義を教皇至上主義に変えたとどこかに書いていらっしゃったのを読んだ覚えがあります。
知りませんでしたが、B16世の主な功績は教会の環境倫理の確立だったのですね。戦争は巨大な環境破壊だから、必然的に教会は反戦ですね。今日、資源に加えて金融、法制度、学術、文化などが覇権を争う主な戦場である現実に鑑みればもっともなことです。
カトリックはカルトだとか、洗脳されて非科学的なことを信じてるなどという理解も少なくありませんが、自由意志を尊重して強制を避けるのが本来の教えではないでしょうか?
警察のあり方として、日本は確保して検挙するのが目的であり、傷を負わせたり殺したりしてはいけないという強力な原則が実践されているるらしいです。いくつもの冤罪事件で明らかになった違法な捜査、証拠捏造、暴力的な取り調べとは不釣り合いな慎重さです。
教会がしぶとく生き延びていることに関して、押田神父という人(故人、ドミニコ会)が、教会は神様が設立して今も運営してるんだからこの世が続く限り消え去ることが出来ない、と言っていました。
質問を書ききれないので後ほど投稿します。

701愚者:2014/09/08(月) 19:46:02
現代史のバチカン
sekko様
「カトリック生活」は「カトリック・サプリ」を目当てによく購入します。10月号も楽しみです。引用部分からは公会議の変遷の意味と壮大な激しいドラマが読み取れて面白いです。ジャンヌ・ダルクが500年後に復権し列聖される隠された道筋といい、頑なな瀕死の老人のような?教会が叡智に満ちた預言者に生まれ変わった公会議といい、神業ですね。
ところで、第二次大戦でバチカンはナチスを容認しつながっていたとの理解が、一部では現代史の常識的な知見として受け入れられているようです。
これの反証になる文献ー検証に耐える記録はないのでしょうか?
日本では長年カトリックを看板にしているミッションスクール出身の作家が他の御用識者以上に原発と事故、沖縄戦についてトンデモ発言を重ねています。ナチスの手口発言の閣僚もカトリック信仰を公にしています。また、先週入閣したカトリックの女性閣僚は極端な国粋主義グループのメンバーで、政権と関わりの深い某カルト教団に寄付をしたと言われています。彼等は積極的に某神社に参拝するようです。そして、自信満々で究極の上から目線です。こうした様子がカトリック教会は極右でナチスと同類といった見方を助長する一面があるのではないでしょうか。平和、生命、尊厳を政治の次元に引きずり降ろして、右左のラベルを貼るからおかしなことになるのではないでしょうか。
前述の人々の思想信条も言動も自由ですが、カトリック教会=極右=ナチスの同類、は誤りですから放置してはいけないと思います。護教ではなく、事実の検証が必要だと思います。でも、どこに確かな証拠があるのか知識がありません。反論するささやかな機会に遭遇したら反論するためにそれを知りたいと思います。
ヒントを与えて下さるようよろしくお願いいたします。そういう著作を出版していただければもっといいと思いますけど。

702sekko:2014/09/08(月) 23:51:09
愚者さま
「カトリック教会=極右=ナチスの同類」なんて思われてるんですか。

そうかと思うとユダヤとカトリックの共同の陰謀論もあるし、まあ、何でも組み合されますが、イデオロギーに使われたり、現職の議員や閣僚の言動をチェックされると困りますよね。

ちょうど昨日、キューバのフリーメイスンについて書いていて、そうか、チェ・ゲバラもフランシスコ教皇もアルゼンチン人なんだよなあ、と感慨深く思ってたところです。

日本におけるカトリックのイメージについて、最近岡田大司教の本で、青年の時にプロテスタント教会で洗礼を受けて、「カトリックは宗教改革で否定された反動的な中世の遺物だと思っていた」ら、自由意志と神の恩恵についてのカトリック神学の精緻な教理に出会って「二千年の教会の歴史の遺産と知恵を見い出」して、実存的な飢えと知的探求心の両方を満たされ手「改宗」したとあったのを読んで、なるほどと思いました。

私も、カトリックが、歴史の荒波の中でいろいろな難破もしながらとにもかくにも大船を建て直し維持してきた智慧の結集にはいつも感心させられます。

フランスでは何世紀もカトリックしかないような村はまだいくらでもありますから、そんなところでは、政治的にも思想的にも性格的にもあらゆるタイプの人がいるわけで、「カトリックだから何々」とは別に言われないのは、「日本で家の墓が何々宗のお寺にあるからあの人は…」と言われないのと同じです。

でもそんなフランスでわざわざカトリックから仏教に「改宗」するような人はやはり、仏教徒だから菜食だとか殺生しないとかいう目で見られます。日本で「カトリック」をあえて選ぶ人もそういう意味で、上から目線どころかひたすら謙虚に弱者に仕えるところを見せてほしいですね。今の教皇が言っているのもそういうことですが。

ヒトラーとバチカンの関係についてはいくらでも資料はありますよ。ヒトラーのライヒ・キリスト教は何しろイエスはアーリア人だとか言っているのだし、基本的にお話になりません。でも国際政治のパワーゲームはまたそれとは別ですし、個別にはいろいろなケースが出ました。

今日本語ですぐに何かないかと少し検索したら、wikiに「ドイツのカトリック」というのがありました。多少役に立つかも。

しかし最も大切なのは、そのような時代を経た後彼らがどうそれを乗り越えたかということで、その意味で第二ヴァティカン公会議もそうですが、ポーランド人教皇やドイツ人教皇さらにアルゼンチン人教皇を輩出したことには感心します。

前も書きましたが、世界的に見ると「人材」には事欠かない大きな組織なので、今時、その中から選出されるような人は、ありとあらゆることを考え尽くす知的誠実さに信頼のおける人だなあと思います。聖霊の風に吹かれているとはいえ何でもきっちり文章化してくれるのも分かりやすくて魅力です。

そして、誠実に突きつめれば突きつめるほど単純化する本質的なものもあって、仏教も含めて「普遍宗教」の霊性というのは本当はそういうものなんだなあと思います。

あまり「評判」や「誤解」を気にせず、自分より相対的に弱い人の役にたてることを少しずつやっていくのが一番確かかもしれません。

http://setukotakeshita.com/

703kei:2014/09/10(水) 22:11:20
ユダ
ヒストリーチャンネルでしたか、ビン・ラディンの殺害に重ねて、リーダーを捕まえるには必ず手引きをする者が必要だ、と言っていましたが、アメリカのTVが言うと妙に納得します。

最後の晩餐の動揺からしても、マークされていたのはユダだけではなかったと思われます。
著書のように、イエスは確かにユダを許していたし、ユダの状況を理解してその苦しみを和らげようとしていたようにも思えます。

しかしその後、ユダヤ人と共に、人類最大の悪人とされてしまったのはこれこそ人間の罪の深さというべきでしょうか?

最近でも、キエフ派のウクライナ正教会総主教が、プーチン大統領を「カイン」に例えたとのことです。
シリア内戦(もうアラブ宗教戦争と言うべきでしょうが)では、サウジのイスラムの指導者が、アラウィー派のアサド大統領と戦うことを聖戦扱いにして、アサド大統領は、外国戦闘員を背教者と呼んでいました。こんな取り返しのつかないことをすると泥沼は深まるばかりです。

自らの立場を正当化するために、相手を絶対悪とレッテルを貼るのは今後も続くことでしょう。(世俗的には「民主主義の敵」なる言葉も流行しているようです)

罪深い人間の歴史の中で、ユダも少しずつ人間的な光を当てられているようですが、それはポジティブなことなのでしょうか。
今、教皇は困難な中でも寛容と和解を訴えているようですが、その基本的な立場を貫いてほしいものです。
(ISISに対しては正当防衛の歴史からの理解をしています)

今ユダはどこに居るのでしょうか?

704sekko:2014/09/11(木) 02:09:15
keiさまへ
教皇と正当防衛については前に少し書きました。

http://spinou.exblog.jp/22507342/

ユダについては、そうですね、ユダの罪が少しずつ「人間だもの」みたいな許され方をする傾向は、もしそれが「裏切りを正当化する」ものならポジティヴとは言えません。

でも、これまでユダ一人を悪者にしたてて責任転嫁してきたやり方よりも、ユダ程度の裏切りは「人間だもの」と認めることで逆に、誰でもユダになり得る、それをどう克服するかという一般論の方向に行くならポジティヴかもしれません。

「人間だもの」で許すのではなくて、それを克服しようとするのもまた人間的な営為だと思います。

原罪は「蛇=サタン」の誘惑のせいということで、人間が皆断罪されるかわりに、「悪の誘惑をどうしたら斥けられるか」という方向にスライドしていく場合、ネガティヴではないと思います。でも、ユダの場合はいくら「サタンが彼の中に入った」せいだと言っても、ユダという人間が悪と同義にされて否定されるのだとしたら、それは「救いの対象になるすべての人」を人が勝手に「仕分け」してしまうことになるので、いろいろな差別と共通の根を持つことになるでしょう。

出来心だとか小さな裏切りは、ほとんどは大した結果を生みませんが、運が悪いと大きな災厄を引き起こします。そういう例は少ないのかもしれませんが、それをたいそうに言い立ててもらった方が、自分も含めて凡人には抑止力になるかも、とも思います。

多くの人が、「ユダが悪い、神殺しだ」のように短絡化してやってきた歴史は不思議でもあります。でも、「悪いのはいつも自分や自分たちの仲間ではない誰か」という言説を人は信じたいのかもしれません。

ユダがいるのはやはり普通の人の心の中、なのかもしれませんね。

http://setukotakeshita.com/

705愚者:2014/09/13(土) 00:36:18
ナチスとバチカン
sekko様
おっしゃるとおり評判を気にするべきではないのですが、私の目上の親しい人は、カトリックは嘘と迷信の原点から始まった宗教であることを知った方がよいと忠告してくれました。中学以来の親友はアラブ研究の片倉ともこ氏が寄稿した雑誌を貸してくれて、目を覚ませというメッセージをくれました。片倉氏は「キリスト教は明らかにあり得ない処女懐胎や復活を信じる宗教。イスラム教にはそうしたお伽噺はなく理性に反しない宗教」と記していました。
そんな経験から、カトリック教会に縁のない一般人の印象は、反感と侮蔑が基調にあることを知りました。下はよくあるその種のツイートとコメントです。

http://sun.ap.teacup.com/souun/15241.html

教会は世の終わりまで敵意や侮辱という十字架を担うのでしょうが、その原因の事実誤認や誤解に腹がたつこともあります。
女性が司祭になれないのも時代遅れの性差別といわれますが、私見では「被除階権」という権利は存在しないと思うので性差別には当たらないような気がします。最後の晩餐の原型への拘りが感じられて、カトリックにも原理主義的な聖書への忠実さがあることに気づきました。
最も困惑させられるのは、天動説の弾圧、宗教戦争、異端審問、魔女狩りなどの愚行を犯したのはカトリック教会唯一者だけである。というイメージがいつの間にか定着してしまったことです。
いつの時代にも、最悪の過ちを犯してきたカトリック教会という根強いイメージ。その反面、コペルニクス、ガリレオ、デカルト、パスカル、エラスムス、ルソー、メンデルなどの不朽の思想家たちがカトリックであることはあまり知られていません。ラスカサスは最近まで知りませんでした。
wikiの「ドイツのカトリック」反論の素材になる情報がありました。
近年教皇庁で第二次大戦中の文書などの整理が進み、いずれ公開されるとどこかで読んだ気がしますが、日本で優れた翻訳や解説が出るまでには十年や二十年はかかるのでしょうね。
現教皇は大変好もしい方で、ユーモアのセンスもあるそうなので、厳しい危機に適した人材ですよね。B16世は極端な金融ゲームを公に非難して良識を示しましたが、報道したのはカトリック新聞だけでした。

706sekko:2014/09/13(土) 01:31:37
愚者さま
なるほど…。これは『キリスト教の真実』でも書いたのですが、「西洋近代史」って、プロテスタントがその名の通りカトリックを大批判または全否定するような形で生まれ、その後、理神論とか無神論がカトリックもプロテスタントもまとめてキリスト教を批判、否定するような形で進んできたので、そういう議論には事欠きません。

順番からして一番たたかれているのがカトリックで、言い換えると、プロテスタントや理神論、無神論の勢力の台頭と接触のなかった文化、脅威にならなかった文化は全くたたかれていないわけです。

カトリックの方は何を言われても、最初は「破門だ、異端だ」と言っていても、そのうち「よく考えてみると自分たちもまちがっていたかも」と反省もしてしまい、他宗教への批判がアイデンティティになるところまではいかないので、自己弁護の武装が今一つ足りませんよね。

でも、プロテスタントやイスラムより古くて、しかも、あれこれメンテナンスしながら生き続けているのですから、「今のやり方を見てくれ」といういわば「大人の態度」をとっているともいえるわけです。私は自分も年を取ってくるとそういう方にシンパシーを感じます。

宗教の創生神話とか建国神話とか、教祖の誕生の不思議譚そのものはどこにでもあるのでその表層はあまり気になりません。

同時に、「理性では信じられない」という言い方は、理性や科学では説明がつかなかったり考えられないようなことはこの世にたくさんあって、いや、多分、合理的な部分というのはほんの一部だと思うので、私はむしろ不可知論です。

『自由人イエス』(ドン・ボスコ社)で書かれているように、イエスの「復活」というのは、私には想像もつかないような形で使徒たちの全世界観を覆すようなことが起こったのでしょう。

すごいなあ、ちょっと知りたいなあ、とは思いますけれど、私が知りたいけれど理解を超える、または手の届かない世界の不思議なんて無限にありますから、復活をきっかけに何が起こって何が問われているのかの方が本質的なものだと思います。

カトリックではなく無教会派ですが矢内原忠雄の『キリスト教入門』(中公文庫)も日本におけるキリスト教理解について興味深い本です。プロテスタント無教会主義の明快な、それだけに厳しい信仰の態度は、うらやましいような、やってられないような、日本人には無理だなあ、という感じはします。フランスにおけるカトリックのぬるさの方が「応用がきく」という私の印象は変わりません。

『自由人イエス』、『キリスト教入門』とも私が解説を書いています。よかったら参考にしてください。

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707今紫:2014/09/26(金) 22:07:23
改めて気になるバチカンへの落雷
お久し振りです。
もう大分前のことになりますが前教皇が退位され一時聖マラキの予言が話題になりました。退位を発表したその日、バチカンのサンピエトロ大聖堂に落雷した事件はご存じでしょうか。あの映像は覚えています。巷では様々な憶測と説が交差し混乱しました。これはどういう意味が込められていたのでしょうか。単なる偶然でしょうか、それとも神のおもしめしでしょうか。

708sekko:2014/09/27(土) 18:04:19
今紫 さま
そうですね。フランス系の通信社AFPのカメラマンがあの日、嵐になったので、サン・ピエトロ大聖堂の上の避雷針に雷が落ちるのではないかと期待して柱列の下で2時間も待機して、3度の落雷のうち2度目をキャッチしたのでその特ダネ写真は世界中に配信されました。

BBCのカメラは3度とも録画していてこれも今もネットで見れますが、当時も、「神の存在証明だ」という人や単にジョークとして扱う人もいました。

1981年に初めて社会党のミッテランが大統領選に勝利した夜も大嵐で、オランド大統領も大雨男で、就任後のパレードもずぶ濡れ、ドイツに向かった大統領機に落雷して引き返したことなどもいろいろ言われていまして、フランス国内ネタではそっちの方が熱心でした。

あの日のイタリアは半島部分の西半分、サルデーニャ島まで広範囲で嵐で落雷があったので、別にヴァティカンだけに突然落雷したわけではないし、避雷針が機能していたということでしょう。

前教皇はそんな予報の出ていた日にわざわざあんな発表をしてしまったわけですが、もちろん偶然でしょう。

でもそれだけ「絵になる」ということは、あの大聖堂が「神と人間の中継地点」「神へのアンテナ」と多くの人にイメージとして刷り込まれているのだなという意味ではすごいなと思います。

あの写真だけで「マラキ書」が蒸し返されるとしたら、巷の見た目もっと堅固な陰謀論や終末論には反論してもなおさら無理かもしれません。視点を変えた方がいいですね。

フランシスコが最後の教皇、世界の終わりの教皇などと言われても、彼の福音的にぶれない姿勢は広く評価されていますし、使命感は変わらないと思います。自然現象ではなく、生き方、使命の遂行の仕方によって「神の意志」を伝えようと彼は思っているのでしょう。

この掲示板に時々来る陰謀論や終末論系のリンクは消去しています。あまりこの手の話題をふらないようにご理解ください。

http://setukotakeshita.com/

709愚者:2014/09/28(日) 21:17:48
不穏
「自由人イエス」を読んでから投稿するつもりでしたが、のんびりしてはいられない気分です。
国連人種差別委員会からレイシズムの禁止と規制を勧告されてほどなく内閣が改造され、19人中15人が極端な国粋主義グループのメンバーであると同時に差別団体と親しい関係にあることが明らかになりました。国連が禁止・規制を勧告した類いの団体の代表的なものです。逮捕者も出ています。
欧米の主要紙が取り上げたそうですからsekko様もご存じと思います。しかし国内の主要メディアは全く報道しません。9月25日は外国特派員協会(FCCIJ)で行われた山谷国家公安委員長の講演と質疑応答の驚くべき内容が、タイムズ、ウォールストリートジャーナル、ワシントンポストなどで報じられたそうで、主にwebに表れる独立ジャーナルや識者の記事によって私たち一般人はそれを知りました。
海上自衛隊がNATO軍と合同訓練をすることが決まったなどというニュースも、重要な情報ほど主要メディアは知らせません。
先々週、ロックフェラー家の財団だか持株会社だかが石油事業から手を引いて再生エネルギー事業に出資するBBCのニュースがありましたが、主要メディアは取り上げません。政府もメディアもグローバル化、グローバル人材と大合唱しているのに、グローバルイシューを活発に論じません。
件の国家公安委員長は普通選挙法、婚姻の自由と男女平等に反対していて、離婚禁止法が必要だと公言したそうです。就任時に山谷氏は有名な差別団体との関わりを訊かれて、そんな団体はきいたこともない、と答えたのですが、写真や文書の記録がいくつも公にされてからは、記事の書きぶりが問題だと居直りました。国家公安委員長が差別主義団体の仲間で、それを隠すために就任早々虚言を吐いたのです。ナチスドイツを手本にする閣僚も差別主義(ヘイトクライム)団体の顧問を務めた人も即刻辞任するべきだと思いますが、全くその気配はありません。
遠からず秘密保護法が施行されたら、この程度の常識的な会話も監視や嫌がらせの対象にならないとは言えません。質問したかったのはリベラルという語と概念の理解のねじれについてですが、改めて投稿します。
そういえば、岡田大司教やその仲間は大学紛争で暴れた左翼崩れで祈りを軽んじて運動に走るのは間違いだなどと小教区の古参の人が批判してるという話を聴きました。

710sekko:2014/09/28(日) 23:53:44
愚者さま
ここは一応宗教・哲学のテーマなので、深入りしませんから、Forum3の方にでもまた話題をふってください。他の人も参加してくれるかもしれません。

山谷さんのことは前からネットを通して聞いています。昨日も田中龍作ジャーナルで経緯を読みました。確かにヘイトスピーチの団体の堂々のデモなど、私の知っている日本では想像もつかないことです。でも、フランスにいても日本の情報がこうして伝わってくるのですから、これも30年前には想像もつかなかったことで、このようなグローバル化をなんとかしていい方につなげたいですが・・

>>>岡田大司教やその仲間は大学紛争で暴れた左翼崩れで祈りを軽んじて運動に走るのは間違いだなどと小教区の古参の人が批判してるという話<<<

ですが、ラザリストや愛徳姉妹会を創った近代都市の社会福祉の先駆である聖ヴァンサン・ド・ポール(ヴィンセンシオ・ア・パウロ)はこう言いました。

「あなたが祈っている最中に一人の貧しい人がドアをノックしたなら、神をひとまずおいて、神を迎えなさい。
ドアを開けに行きなさい、あなたに会いに来たのは神なのです」

この言葉を教えてくれたラザリストの神父が弱者を支援する時の座右の銘は

「ゆるす、忘れる、継続する」

なのだそうです。これについてまたどこかに書きます。

時代も国もはなれた今の日本でも、愛徳姉妹会の日本人シスターたちは迷わず聖ヴァンサンの言葉に従っています。というか、貧しい人、一人暮らしのお年寄り、病人などのうちのドアをたたき続けています。もちろん国籍や出自は無関係です。

これは今の教皇の霊性に近いので、今の教皇を煙たがる人も決して少なくないですね。

http://setukotakeshita.com/

711愚者:2014/09/29(月) 02:41:46
sekko様
哲学宗教と関係ない投稿申し訳ありませんでした。
外国在住者はむしろメディアコントロールを免れていることに気がつきませんでした。内田樹、水林章、佐々木中といった知識人もブログやSNSで遠慮なく言論活動をしていて、それが当たり前に外国に届いているのですね。
フランシスコ教皇の著書邦訳を読んだ友人が、教会の未来に希望が持てることが書いてあったと言ってました。
ある神父さんがフランスの教会は見る影もなく縮小してしまったが新しい霊性や霊性の刷新はなぜかフランスで生まれると言っていました。霊性ではありませんが、アメリカでブームになったT.ピケティの本ー特権階級が煙たがる経済史らしいーは12月に翻訳が出る予定だそうです。日本国内では読んだ人による書評はまだありません。もしもsekko様がお読みになったら、どこかで感想を書いていただければと思います。
これからは質問するときはFORUM3に参ります。
ありがとうございました。

712愚者:2014/09/29(月) 03:38:46
訂正
愛徳姉妹会を身近に感じる環境ではありませんが、福音を文字通り実践する修道会なのですね。
信徒であっても聖ヴァンサンの教えを実践できるようにならなくては。
水林先生のサイトは工事中でしたので、取り消します。
sekko様を始め思慮に富んだ知識人がインターネットで言論活動を続けている限りなんとかなると思えてきました。改めてありがとうございました。

713sekko:2014/09/29(月) 06:26:51
愚者さま
ピケティの新著については前にブログで触れたことがあります。

http://spinou.exblog.jp/22257223/

このブログで書いたピケティの以前のパートナーだったオーレリー・フィリペティは、 8月にヴァルス首相がフランスの経団連みたいなのにすり寄って内閣改造した折に怒って出て行ってしまいました。

新著は通して読んでいないのですが、数々の記事や抜粋や著者インタビューを聞いて、この本を取り巻く言説の方に興味を持ちました。

愛徳姉妹会は徹底的な社会奉仕においてぶれがなく、ラディカルです。いつも感動します。私はカトリックの不思議話が好きで、パリの愛徳姉妹会の「奇跡のメダイ」のチャペルの話を本で紹介して以来のつきあいなのですが、今は、「奇跡、なに? それ」という感じでエネルギッシュに活動しているシスターたちの存在そのものが奇跡だなあ、と思っています。

10/22には大阪で彼女らが運営する養護施設「聖家族の家」で子供たちのためにバロック音楽劇をやります。11年ぶりです。

11年前の慰問コンサートのことはトリオのブログに書きました。

http://nitetis.cocolog-nifty.com/blog/2010/10/post-c7e8.html

今回は子供たちと踊る趣向もあります。子供たちに今より少しでもよくなる社会を残したいです。

http://setukotakeshita.com/

714今紫:2014/09/29(月) 19:44:09
大天使ミカエル、ガブリエル、ラファエルの祝日
竹下先生

先日はありがとうございました。偶然の出来事であることがわかり安心しました。

陰謀論の件は今後、ふらないように気を付けます。申し訳ありませんでした。

本日、大天使の祝日です。竹下先生に大天使のご加護がありますように。

715kei:2014/10/10(金) 14:45:14
プロファイラー、パルジファル
10月8日放送のザ・プロファイラー「ジャンヌ・ダルク」に出演しておられました。
あの1時間ではとうていプロファイリングなどできないのはもちろんでしょうが、改めて合理的な理由が出れば出るほどそれをすり抜けてしまうことを実感しました。
テロ戦以来、西側の戦争の戦略論理に慣らされてしまっています。そのようなものは結局シャルルの論理なのでしょう。
日本で今ジャンヌ・ダルクの劇がやっているようで、なぜ日本で?と思ってしまいますね。

ところで、「ユダ」の反ユダヤ主義の例にワグナーが入っていません。
楽劇「パルジファル」などはその好例のように思われます。
最初に永遠に呪われて死ねない女クンドリが出てきますが、さまよえるユダヤ人を知らずにはちょっとわからないでしょう。
クリングゾルなどアラビアとなっていますが、どうみてもユダヤ人のことです。
これを見る人たちはユダヤ人のもたらした悪徳からの救済と見ていたのでしょうか。

どうもここには、自分たちの問題点の責任を他者に転嫁してしまう西欧的思考が見られるような気がします。
それが社会主義やイスラムにとって代わられているだけではないでしょうか。

ジャンヌも背教者として処刑され、免罪、そして聖女となったわけですが、こうしたご都合主義が今も続いている気がします。

716sekko:2014/10/11(土) 23:49:35
Keiさま
今赤坂ACTシアターでやっている『ジャンヌ・ダルク』の公演のパンフレットにも記事を書いています。今までとは少し違った視点で書いてみました。機会があればご覧ください。

私はコンサートや講演で日本にいくので、11月の横浜公演の方に行ってみたいと思っています。(コンサートの情報は下のURLから入れるトリオ・ニテティスのブログに載せてあります)

ワーグナーについては複雑な思いがあります。フルトヴェングラーについても複雑なので。

私は中学生の頃から渡辺護さんと交流があり1967年の大阪国際フェスティバルのバイロイト国際フェスティヴァルで講演された時も楽屋でおしゃべりしました。

そんなこともあってゲルマン神話世界と反ユダヤ主義の関係は何となくスルーしたのです。

反ユダヤ主義は「ユダ」本人への憎悪よりずっと政治的でもあり複合的なのであまり深入りできないところでもあります。今はフリーメイスンについての書下ろしを進めているのですが、ユダヤ=フリーメイスンの陰謀論の構造と歴史がまた複雑です。ユダと同じく、フリーメイスンにまつわる言説を通して見えてくる文化の差、歴史というものは興味深いです。

http://setukotakeshita.com/

717愚者:2014/12/24(水) 00:22:19
クリスマスおめでとうございます。
sekko様も藤永先生のブログの読者なのですね。あんな94歳に、できるものなら自分もなりたい、と感じさせる方ではないでしょうか。闇の中で叫ぶ賢者。
T.サンカラの生涯とJ.ジグレール「世界の半分が飢えるのはなぜ?」が改めて取り上げられていて、クリスマスのプレゼント向けの本だと思いました。日本の漫画家がサンカラの伝記を描くといいと思います。井上雄彦氏あたり(他の作家を知らないので)。
岡田大司教との対談を聴かせていただきました。大司教が、我々はずっと以前からキリスト教の悪口を毎日聞きながら宣教している、と言ってましたが、実感がこもっていました。長年の報われない宣教の苦労で、疲労困憊した顔色や表情が固定してしまったのでしょうか。
でも、大司教の指摘のとおりだと思います。音楽家、彫刻家、画家、小説家・詩人などにはキリスト教徒がけっこういるみたいですが、キリスト教の影響に接することのない普通の人は、その人がキリスト教だと思っているところの、キリスト教に非ざるものをキリスト教だと考えていることが多いと思います。よく、ローマ法王に忠誠を誓うカトリック信者という表現を見ますが、少なくとも日本では忠誠を誓ってるカトリック信者に会ったことはありません。しかし、そう定義されているようです。陰謀論の世界ではバチカンやイエズス会はレギュラーらしいし。
一方、映画「天国は本当にある」は意外と空席が少ないとか、銀座の大手レコード店でノートルダム大聖堂のミサのライヴの売れ行きが凄いなどという話も聴きました。
「自由人イエス」を読んでおりますが、むずかしいところは飛ばしています。文章は平易なのに内容は私にはやさしくありません。
幸いなクリスマスとお正月をお過ごしください。

718sekko:2014/12/30(火) 08:03:07
愚者さま
ありがとうございます。

クリスマスって、よく考えるとすごいですね。神が受肉する時、わざわざ赤ん坊になって、しかも飼い葉おけの中で、牛やロバからさえ見下ろされる、世界中のキリスト教会や家庭で飾られる「馬小屋」の中で、一番低い位置にいるのが「幼子イエス」って、「上から目線」の神さまや教祖様とは正反対の究極の「下から目線」。

これが出発点で、最後は、十字架の上に「上げられて」下から見上げられる「さらし者」として殺されて、そのまた後に復活して、ようやく「昇天」して「天の父」と合流するわけですけれど…。

生まれたとたんにすたすた歩いて「天上天下唯我独尊」としっかり「優越性」を宣言しているように見えるお釈迦様のイメージとは違いますよね(お釈迦様は生まれた時に立っていて、亡くなった時に涅槃で横たわってという感じで、イエスは生まれた時は裸かぐるぐる巻かれて横たわり、死ぬ時と昇天が垂直のイメージで逆なのが興味深いです)。

藤永先生は、まだ80代でいらっしゃると思います。まだまだお元気で発信し続けていてほしいです。

カトリックに関して、ローマ教皇に忠誠を誓う修道会は普通にありますけれどね。普通の信者は忠誠というより、「キリストのまねび」というか、キリストをまねて生きた聖人たちの生き方をまたまねて、というようにモデルがたくさんあるので目的地ははっきりしているはずですけれど生き方路線はいろいろなのかもしれません。

よいお年をお迎えください。

http://setukotakeshita.com/

719kei:2014/12/31(水) 13:47:37
JP2とF2
クリスマスネタですが日本の漫画「セイントお兄さん」でマリア様がネットで馬小屋で出産したと書き込んだら「うっそー」「ありえない」との反応だったようですよ
なかなかあの漫画はためになりますね

ジャンヌ・ダルクの舞台、堀北真希ちゃんのがネットであがってますが、ちょっとリュックベッソンに影響されすぎていますね。
モーニングで漫画家の山岸 涼子が書き出したようですが、これもどうもリュック・ベッソンの系統のようです。
「宗教戦争」の時代に妙なとらえかたをされたのは困ったことです。

「イスラム国」ですが、「アラブの春」の混乱の中で、結局極端なイスラム主義にアイデンティティを求めてしまったのでしょうか。
そもそもアラブの春というものが民族主義的な独裁を打破ったとき出てくるのは、西欧型民主主義ではなくイスラム主義というのは当時からみえていたことではなかったでしょうか?
アラブの春そのものも、さまざまな諸潮流がまざりあっていたのに、民主主義と単純に規定してプロパガンダに乗せられてしまって今日に至る気がします。
ウクライナ然りですが。
私は、現教皇フランシス2世のアプローチは正しいように思います。
双方に和解と寛容を促すアプローチ。
キューバとの和解についてはマスコミでもヨハネ・パウロ2世のアプローチと比較されていますが。
無神論なるがゆえに体制を変えようとしてしまったJP2は、その後のブッシュ政権のイラク侵攻から、この混乱を招く引鉄になってしまっている気がします。
JP2は、冷戦崩壊後の世界はフクヤマ主義的なものを考えていたのではないでしょうか。
まさかこのような混乱と弱肉強食の世界となるとは考えていなかったに違いありません。

720sekko:2015/01/01(木) 01:35:45
新年おめでとうございます
フランスはまだ大晦日ですが、これから忙しくなるので今のうちにご挨拶です。

keiさま、現教皇はフランシスコです。選出された時「フランチェスコ一世」と報道されたこともありましたが、正式には、次にフランシスコ二世が登場した時に、今の人がフランシスコ一世とよばれることになるそうです。

(ヨハネ・パウロ一世はなんだか最初から一世と呼ばれていたような印象なのですが、ひと月ほどで亡くなってすぐにJP2が誕生したからかもしれません)

「アラブの春」に関しては、軍事独裁政権がそれまでイスラム主義勢力を抑えていたのが打倒されたことで歯止めがなくなったこと、「民主主義」を求めていた人々はまとまった政党をつくるストラクチャーも余裕もなくて、結局イスラム主義政権が「民主的選挙」で選ばれてしまったというジレンマがあったと思います。

それを言うなら、フランシスコ教皇のアルゼンチンもずいぶん危うい道をたどってきました。フアン・ペロンの正義党がファシズムだったのかどうか、その運命を思うと感慨深いです。今も正義党は健在ですし。

ペロンも教皇と同じイタリア人ルーツがありました。今の教皇の人気もポピュリズム、ペロニズム(ペロニスマ)と評する人もいて、危うい部分もあるなあと案じられます。ともかく、世界中で平和や環境保護を望む人たちが教皇の人気をよい意味で最大限に利用して、特定の国や企業への利益誘導という流れを変えていってくれればなあと思います。

http://setukotakeshita.com/

721kei:2015/01/05(月) 17:43:54
イスラム国とナポレオン
確かCNNだったと思いますが、乳幼児死亡率などの改善は中国の効果が非常に大きいということを見た覚えがあります。

アラブの春からイスラム国への流れは、シリア情勢をウォッチングしていた過程から言うと、結局「民主主義派」が武装闘争になるときに、なんでもかんでも引き入れてしまい、特に欧米がアンタッチャブルのサウジ、カタールなどが、スンニ対シーアの観点から介入して、シリア国内のスンニ派高官などに働きかけ、政権転覆を狙ったときから宗派戦争化してしまいました。
イランとサウジどちらが先に介入したのかは論争の的ですが。
イスラム国の前のISISも、イラクのシーア派政権を牽制するために泳がされていたのはもう周知といってもいいと思いますが、
まさかここまで思い上がるとは、と攻撃にまわっていますが、それは甘すぎるというものです。

フランス革命もナポレオンが居なければあっさりと潰されていたかもしれません。
皇帝を名乗るなどと妙なことをしましたが、近代の思想に基づいた改革を行ったのは、希に見る「良い独裁者」といえるかもしれません。
ある意味ナポレオン帝国が短期で終了してしまったことが、ナポレオンの良い側面がその後に受け継がれたかもしれません。

マルクスもレーニンも革命と民主主義と独裁の関係を研究していますが、それを考えると共産主義独裁が残ってしまったロシアよりも、敗北したドイツやフランスのほうが社会主義の思想をうまく引き継げたのかもしれないとも思ってしまいます。

革命と啓蒙主義的普遍主義思想のイデオロギー化の失敗、そしてナポレオンによるカトリックとの和解と普遍主義、さらに宗教。

こんな感じで考えてゆけばナポレオンは今日的かもしれません。

722愚者:2015/01/13(火) 00:49:47
1/2
sekko様
去年の投稿の誤りを指摘して下さってありがとうございました。藤永先生は21年生まれと思い込んでいましたが、私の誤りで正しくは26年生まれの80代でした。
sekko様が他のところでも書かれたキリスト教の逆説は最も心を惹かれる事柄ですが、精神を調えて集中しないと質問するにしてもまとめることが難しいので(^O^)、後回しにします。
L'art de croire を読んでアメディとアメドの対比には心を打たれました。
今回の事件に関する日本の識者の反応では、「反テロリズムでは一致できるのに、なぜ反戦争で(ともに行進した首脳ら)は一致できないのか?」想田和弘
「Charlie Hebdoが命をかけて守った風刺精神が今向かうべきは、Je Suis Charlie の「熱狂」だ。」伊勢崎賢治
「シャルリ・エブドの風刺は下劣で差別的だが、(中略)マイノリティへの人権侵害を成しているとは言えない。無論テロに正当性を与えるものでもない。」「言えることは二つしかない。いかなる言論に対してもテロ行為は許されないということと、テロリストたちがムスリム社会を代表するかのような捉え方はとんでもない誤りであるということ。」中野晃一
などいまのところ共感できる意見が目につきます。イスラエルの首相が反テロリズムの行動に参加することへの疑問・批判も散見され、巧妙に忍び込んだ「偽善」にも気がついています。

723愚者:2015/01/13(火) 01:51:21
2/2
8日の新聞には「風刺は弱い立場の者から権力に向けるものであって、シャルリの表現は風刺ではなく差別だ。」という日本のムスリムの声が載っていました。トルコ研究とイスラム研究の内藤正典同志社大大学院教授は、欧州のムスリム差別の歴史の理解なしには(ムスリム側から見た歴史という意味らしいですが)、イスラミストによるテロやイスラム国出現の真の原因を解き明かすことはできない、との論を展開しているようです。
犯人が殺されて背景や動機の捜査が出来なくなったのでは?生きた犯人を逮捕することを重視しないのでしょうか?
非人道的な死刑制度がないとはいえ、現行犯として容疑者をためらいもなく射殺するフランスの警察は、犯罪を解明したくないのだろうか、裁判で死刑にできないから凶悪犯は裁判にかけずに殺してもいいといった深層心理でもあるのか?と疑問を感じました。
日本の警察は、犯罪の全容の解明に必要なので、生きている犯人や容疑者を逮捕するのが原則だときいたことがあります。冤罪や不都合な事実が次々出てきたけれど、この原則は人道的だと思います。
キリスト教の伝統と人権宣言の国フランスの警察の姿勢は意外でした。
教皇への忠誠についてですが、洗礼に際して使徒信条を自らの信条とするのを教皇に忠誠を誓うと言い表すのではないでしょうか。教皇様に臣従を誓って家来になる、わけではないですよね。

724kei:2015/01/13(火) 13:09:11
グローバル化と寛容
まず掲示板の趣旨から言って、複雑な一事件の警察の対応などへの質問は控えるべきかと考えます

内藤 正典氏はこのごろとみに過激化しておりますのでお気をつけください

それに比べて酒井 啓子氏は非常にバランスがとれていると思われますので、中東・イスラム問題については参考にしてよろしいかと思います
http://www.newsweekjapan.jp/column/sakai/2015/01/post-901.php

シャーリー・エブドの襲撃については、一連の問題が最悪の形で爆発して切り分けられないまま進行しているかと存知ます

ムハンマド肖像風刺で揶揄・批判の対象しているのは、結局イラン、サウジなどの宗教と政治権力が一体化している国家ではないかと思われます。

しかしムハンマド肖像問題は権力問題とはかかわりなく長い間の文化問題でもあり、権力を批判しているつもりが、ムスリム一般が侮辱されているよう受け取られているように思われます。

フランス国内のムスリムはどうかわかりませんが、イランなどが声高に批判してくるので、ますますお互い過激になり、今回のように犠牲になるのは国内のムスリム達ではないかと。
グローバル社会、ネット社会の難しさが如実に出ているように思います。

例えば私はドイツのBILDはよく見ますが、過激なことを書いていても「またアホやってる」とか大笑いできるのですが。
他国でそのことだけを取り上げて、それがその国の姿勢みたいに広められると慣れない人は憤慨するかもしれません。

サッカーでもテロまでは至りませんが、メディアが煽って暴力沙汰は頻繁にあります。
国内で多数派のことで他国を煽りあいして、その結果戦争になるのは繰り返されてきたことではないでしょうか?

ワールドカップでもドイツ代表が祝賀会でアルゼンチンをからかう悪ふざけパフォーマンスをやったところ、アルゼンチンメディアから「侮辱」と言われて、「そんなつもりはなかった」と謝りました。

グローバル的な節度は求められているとは思いますが、今のメディアの過激化は問題かと思います。

教皇フランシスコ2世が和解と寛容を求め、自らモスクで礼拝している態度はそれに比べてなんと立派かと思います。
今はトルコですが、イランにも行けるようになればいいかと思います。

国家などにはそれぞれ複雑な問題があり、ある程度長期的にみていかねばならないことですが、欧米は性急にすぎて、かえって自分たちに降りかかっているように思えます。

挑発ではなく相互理解の積み重ねが大事かと

725sekko:2015/01/14(水) 00:50:36
keiさま、ありがとうございます
確かに昨日の書き込みはこの質問箱に適していなかったと思うのでForum3に移動しました。この質問箱は、上に書いていますが、死生観などについて迷っていることや考えていることについてピンポイントで私ならどう考えるかを知りたいという人のために開いているものですので、みなさま、それ以外についてはできたらForum3の方に書き込んでください。

このサイトもこの掲示板も、前にボランティアでやっていたフランス語のレッスンをやめた時に、引き続き、何か役に立てればと思ってはじめたものです。その頃、困っていたことについて他の掲示板で相談してみたらとても親切に答えていただいたので、私も自分にできることを何かしたいと思ったのです。それには、他の人よりも分かるのはフランス語とフランスの暮らしかなあと思って、Forum1を作りました。

ひっそりやっていくのが基本方針なのでみなさまよろしくお願いします。

http://setukotakeshita.com/

726愚者:2015/01/25(日) 20:32:54
お詫び
投稿が掲示板にそぐわない内容で申し訳ありませんでした。
フォーラム3への投稿を何度か試みましたが、ハードの機能の限界が立ち塞がりました。
フランスの政教分離に関する著作には心から期待しております。釈迦に説法で恐縮ですが、日本人によるフランスの政教分離に関する研究書で一般人の関心にもある程度応える著作は、今のところ伊達聖伸「ライシテ、道徳、宗教学ーもうひとつの19世紀フランス宗教史」くらいではないでしょうか。この本は私たち一般人には分厚過ぎて堅すぎます。私たちに必要なのは政教分離の宗教史文化史的な、また人物が登場する読み物だと思います。これを書ける人はsekko様の他にいないのではないでしょうか。
板違いで申し訳ありませんが、板垣友三東大名誉教授の興味深いインタビューがIndependeot Web Journal(IWJ) のサイトやアカウントに公開されています。もし未読だったらご一読に値するかもしれません。お騒がせしました。お詫びまで。

727愚者:2015/01/25(日) 20:37:43
訂正
誤 板垣友三
正 板垣雄三
でした。

728sekko:2015/01/27(火) 07:56:57
愚者さま
Forum3 に入れないのですね。

無理なさらないでください。
私もIT弱者なので。(愚者さまの問題は別の者かもしれませんが…)

板垣先生のインタビュー拝見しています。

1/11の共和国デモにネタニヤフがぎりぎりになって来ることを決めたのは、選挙が近くて、対立党の外務大臣らが出席するのを知った後での自国向け政治的パフォーマンスのようです。それでオランドも慌ててアッバス議長を呼んだようです。

政治家たちの思惑ばかりが交錯していたにしろあれはあれでよかったかもしれません。ヨルダンの国王夫妻がいたのも印象的でした。

板垣先生がフランスはイスラムをからかうのは自由でユダヤ人をからかうのには厳しいダブル・スタンダードだと言っていましたが、それは違います。

ユダヤ人差別言辞についてはペタン時代のホロコースト加担という過去のせいで特別に厳しいというのは事実ですが、もう長い間、いわゆる「平均的フランス人」には反ユダヤ主義は見られなくて、イスラム差別も、極右だと思われるのが嫌、不寛容だ、共和国的でないと思われるのも嫌だという自主規制が働いているので事実上見られませんでした。

社会のアメリカ化と共同体主義が進み、ムスリムが共同体化していったので、パレスティナ情勢のこともあり、反ユダヤ人言動は一部のムスリムか極右、ネオナチなどが主体でした。

カトリック文化で育ったけれど冠婚葬祭以外に教会には行かないという普通のフランス人は、「宗教」などもう過去のものだと半分は思っているのです。それなのにキリスト教も含めてを執拗に揶揄し続けていたシャルリー・エブドなどは「無神論の活動家」であるわけです。

それなのにヴァルス首相などが「ライシテこそ共和国の最高宗教だ」みたいな感じのことを言うので、なんか変な具合になってきました。

しかも、日本もそうですが、非キリスト教文化圏の人たちはなぜか「フランス=欧米=キリスト教」と言う連想があるので、シャルリーのせいでパキスタンやニジェールなどで教会が焼き討ちされたりしたのは気の毒です。イラクやシリアのキリスト教に至ってはヨーロッパよりも昔からの伝統ある宗教なのにさらに気の毒だなあと思います。

フランスのライシテについてはフランス人自身、特に知識人たちが自己欺瞞しているので実態は伝わりません。私が解説すると感心されることがよくあります。機会があれば書きますね。

http://setukotakeshita.com/

729kei:2015/03/03(火) 23:18:25
教皇の言葉は命令か?
シャルリー・エブドの復刊号の表紙に教皇などがエブドを追っている画が載っているそうですね。
この雑誌にこだわるわけではありませんが、最近教皇が子供のお尻を叩いてもいいのか、という議論を起こした、というニュースがありました
http://vpoint.jp/world/eu/37080.html

私などは、非暴力のドグマに捕らわれて、ほぼ子供のお尻も叩いたことはありませんが、心のどこかで「それでいいのだろうか?」と思っていたところ、この答えは大変参考になったものです。
しかしそれでも教皇が体罰を容認したというような声が出てくるのですから、なかなか難しいものだと思います。
フランスやヨーロッパは我々と違い、教皇の言葉を絶対命令のような形で聴くような心理的圧力があるのでしょうか?
ウサギ発言についても、私はとても具体的でウィットに富んだ言葉だと思いますが。

残念ながら私は子供のお尻を叩く機会をもう失っておりますが、次に孫が出来るときには、威厳を損なわない形でお尻を叩く方法を考えてみたいと思っております。

730sekko:2015/03/05(木) 07:21:57
keiさまへ
子供への体罰ですが、フランスでもヨーロッパの他の国のように禁止の法律化が話題になっています。個人的には、すべてその家庭での親と子の普段の関係を抜きにしては考えられないし、子供のタイプや親の判断力にもよると思います。子供が小動物や自分よりも小さな子供に害を加えたりいじめたりするような行動をとった時に害のない体罰によって断固とした親の意志を見せるという場合、その親がその信念にふさわしい行動をしているならばありかなと思いますね。でもこんな法律が必要になるほど、今は子供の虐待の連鎖とかの問題があるのだとしたら深刻です。

私自身は子供を叩いたりしたことはありませんが、普段可愛がっている猫にだって、ひどく引っ掻かれた時に思わず叩いたことが何度かあります。たいていはこちらが悪いのだし、犬と違ってそれこそしつけにすらなりませんが、反射的に手が出ることがあるというのは体験しているので、他人を批判することはできません。

で、「教皇の言葉を絶対命令のような形で聴くような心理的圧力があるのでしょうか」、というご質問、フランスに関してはないです。まあ今の教皇は人気者なのでこういう話題も取り上げられますが、普通はたいていスルーされます。『シャルリー・エブド』の復刊号にも、教皇の「私の母を悪く言う者は…」云々が取り上げられて、「福音書を読んでくれ(右の頬を殴られたら左の頬を出せ)」とか書かれていましたが、それでも愛されキャラみたいな扱いです。

もう30年位前、フランスのカトリックしかないような田舎で年配の女性たちのやっていた「昇る星」とかいう信徒の集まりに出たことがあります。みなそれこそ第二ヴァティカン公会議以前の要理でやってきた人たちばかりでしたが、すごくリベラルでフランクでびっくりしたことがあります。
避妊について、ヴァティカンが避妊具を容認してないことについて「そんなことちゃんときいてる人なんてない、家庭をもったことのない人たちに言われたくない」ってみんな言っていました。
まあ、フランスは司教会議もリベラルですが。

もちろん原理主義的な人たちはいますが、そういう人たちって分派していく傾向にあるし、たいていは教皇よりも「過激」ですからね。

フランスは絶対王政の頃も、ガリア教会主義で教皇の勅令が出ても、国会の承認を得なければ適用されなかったので、ある種の禁令が野放しだった例があります。

でもいつの時代も庶民はプラグマティックだったという気がします。社会に別のクライシスの要因が顕在化した時には信仰を刷新する人や下手すると狂信者なども出てくるのかもしれませんが…。

http://setukotakeshita.com/

731ともこ:2015/04/12(日) 00:23:27
サルトル「存在と無」第三部「対他存在」
私は海外の大学で哲学を学んでおり、現在、サルトルの「存在と無」の第三部「対他存在」第三部「他者との具体的諸関係」の部分を英語で読んでいるのですが、とても難しいです。「存在と無」の内容全体ではなく、第三部の第三章について、日本語で詳しく教えてほしいです。また、「存在と無」のオンライン書籍があれば紹介していただきたいです。私の英語力が全く追いついていなくて、困っています。時間がないので日本語の本を取り寄せる時間がありません。助けてください。

732sekko:2015/04/12(日) 00:30:31
ともこさん
残念ですが対応できません。図書館で当該図書の英語の解説書をさがせばいかがでしょう。ネットでも、日本語で助けを求めるよりは英語で検索すればレジュメや掲示板などあるのでは?

http://setukotakeshita.com/

733kei:2015/11/02(月) 07:43:57
神の計画
「フリーメイソン」楽しく読ませてもらいました。なかなか新教と旧教の対立は激しいものだと改めて思い、それを超えた普遍を求める志向について認識を新たにしました。しかし結局エリート主義結社だったなあと実感しました。グローバル時代とはいいながら、対立が深まるばかりで、新しい普遍がでてきてこないようですね。
ところでちょっと質問ですが、カトリック聖職者からも「神のご計画」という言葉をききます。
しかし人間の自由意志を重視しているのなら、個人のあれこれは個人(と守護天使)にかなりまかせておられるということになるのではないでしょうか?
カルヴァンの予定説との違いがよくわからなくなります。お教えいただければ幸いです。

PS.「ナポレオンと神」を心待ちにしています

734sekko:2015/11/03(火) 03:28:33
kei さま
「神のご計画」と人間の自由意志の関係ですが、神学的なことはカトリック系サイトの質問箱でお尋ねになれば答えてくれると思います。

エラスムスはトマス・アキナスを引いて、神の意思と人間の自由意志は別々に存在する、神の意思はあっても固定したものではなく、自由意志による人間の反応に適応するといいました。
その時にルターは、自由意志は神にしかなくて、人間に適用するのはナンセンスであり、人間のすべての行動は神の意思に添っているのだといってユダの例を出し、ユダの行動もすべて神のみ旨だと言いました。

ユダならまあ何とかこじつけられますが、もっと納得のいかない例もこの世にはたくさんありますよね。まあ、それは「この世」のことで「神のみ旨」なんて理解できないのだから不可知論になってしまいそうです。

でも、単純に言えば、神の計画はきっとあって、いろいろ人間に働きかけ続けているのだとは思いますよ。

でもそれに気づくか、アンテナをそちらに向けるか、気づいてもスルーするかなどの自由が人間にあるのでしょう。

でも、スルーされても拒否されても、気づかれなくても、神の方からはいつも情報を発信している(愛し続けている)わけで、いつしか人間の方が、自分の条件が変わった時(病気や老いや孤独その他)などに態度を変えて、今までの生き方を悔いたり、「神の計画」に参入するとか愛に応えるとか新しい関係性に入っていくことがいつまでも可能なのではないかと思います。放蕩息子の帰還みたいに。

「神の意思はあっても固定したものではなく、自由意志による人間の反応に適応する」ということは多分そういうことなのでしょう。

ちょっとハイゼンベルクの不確定原理みたいですが、電子を測定する時はじめて位置だの運動量だのが確定するので、神のみ旨を知りたいとか神のみ胸にゆだねるとか神の計画の役に立ちたいとか誰かが自由意志で決意した時にはじめてそれが見えてくる感じでしょうか。

そういうのを決意なしで自然体でやってしまっている人たちもたくさんいるのでうらやましいですが。

まずは、命を与えられて無事に生きていて信頼できる人がそばにいて、などの幸福に感謝、というところから始めたいです。

http://setukotakeshita.com/

735kei:2015/12/03(木) 17:15:11
聖母マリア
改めて「聖母マリア」を読んでいます。
この著作は貴女の著作を読んだ2作目(最初はジャンヌ・ダルク)で、そのころは不勉強でなんとも思っておりませんでしたが、その後いろいろ読むうちに、聖母マリア崇敬が異端であった時期があるのかなあ?と現在思っています。むしろ聖母マリア崇敬を抑えるためにマリアの従順さをクローズアップしたのではないかと思っています。
神が人間となり、母の胎内から生まれたのがわかっている以上、マリアの聖化は避けられなかったことかと思います。ローマ弾圧時代でも女子信徒は多く、ヨハネ福音書は女性に人気があったとの記述もあります。聖カタリナはマリアの勧めで、キリストと神秘の結婚をしたとされています。
現代は、メディアが英米優先なので、ピューリタン的男女平等が喧伝されておりますが、カトリックのいうように、母性については尊重されるべきものと思います。先進国での少子化の一端はそこにあるかとも思います。
拙の娘も結婚して、旦那の要望に従って専業主婦となりましたが、かえって自由に自分の好きなことをやれて、今和装の免状もとってサイドビジネスになりつつあります。こういう仕事の復帰もあるのか、と目をひらかされております。

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736sekko:2015/12/04(金) 03:41:03
聖女の条件
『聖女の条件』(中央公論新社)の中で、ジャンヌ・ダルクの子とも聖母マリアの子ともさらに敷衍、展開しています。機会があればお読みください。

聖性と母性は都合よく結びつけられることが多いので私は警戒しています。

ただ、日本においては、専業主婦や母親になることで世間の圧力なしに実は自由を獲得する道が女性に開けている部分はあると思います。

でもそれは夫、父親の収入だけでやっていける恵まれたケースで、今はそれがだんだん難しくなっているのは心配です。

母性がリスペクトされるべきだというのはもちろんです。小さな命がこの世に生まれる、命を送り出す、というのは死の時と同じように、永遠とどうつながるかというすごいことだと感心します。

http://setukotakeshita.com/

737kei:2015/12/22(火) 04:02:45
クリスマス
ちょっと変な質問で申し訳ありません。日本でもクリスマスコンサートが教会で行われています
私も近隣の2,3に参加しました。
日本人は「教会」という定盤はほぼカトリックの大聖堂で、ヨーロッパ観光に行くとよく入るのに、ミサを体験してやろうという人はいないし、日本でもほぼ居ないと思います。わざわざクリスマス気分を味わうためにヨーロッパに出かける人もいます。せめてこんなときくらい来ればいいのにと思うのですが。
日本人にはカトリックは海外高級ブランド品のようなものなのでしょうか?中に居るとそんなこともないのですが、確かに感じなくはありません。聖フランチェスコの最初の教会のような貧しい者が集まる教会かというと疑問です。フィリピン人、ベトナム人などは平気で来てくれるわけですが。
アメリカ系では、大ホールに集まってゴスペル歌ってもりあがろうぜ、という教会が日本にも来ているようです。ポピュラーはポピュラーでしょうね。
慈しみの聖年が始まりました。貧者を招く教会というのは何なのかと考えるクリスマスです。

PS 貴女の著書でカトリックの面白さに気づき、(まあそれだけではありませんが)、入信しようという人が出ました、感謝申し上げます。

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738kei:2015/12/22(火) 04:28:33
奇跡
すみません、あと1つ。まとめて答えていただいて結構です。
マザー・テレサの奇跡が承認されました。著書でフランスでは奇跡は割と不思議なこととは思われていない、と書かれていたと思いますが、これは伝統でしょうか?
日本では神道、修験道系で奇跡は出てきますし、神社で○○頼みをしているのは奇跡を待っているようなのですが、いざ「奇跡」と言われると引くと思います。アメリカでは事故などで助かった場合定盤のように「神が助けてくれた」と言いますね。
癌になったと落ちこんでいる(苦しんではいない)人が奥さんの友達に居て、マザー・テレサの奇跡を言って、気晴らしにルルドにでも行ってみたら?と言いたいのですが、ルルドも日本人知りませんね。

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739sekko:2015/12/22(火) 08:27:13
kei さまへ
日本人のキリスト教感にはきっとミッション・スクールのイメージがあるのだと思います。前にもどこかで書きましたが、「日本にはカトリックお嬢カルチャーというものがあるんですよ」と教えてくれた方もいました。

それとは別に、今日のブログでも触れましたが、明治以降の知識人で、特にプロテスタントから無教会主義系で、キリスト教の精神を民主主義や人権などに結びつけて軍国主義や国家神道やらへの抵抗思想とした人たちの系譜もありますね。

でもその人たちは、神の摂理の予定調和などに疑問を感じて、いわゆる信者になる人は少数でした。

日本では、いわゆる貧しい人を救う、共同体から疎外された人を救う、という点では、新興宗教のネットワークが活躍したと思います。困難な状況にある人のところに出かけて行って支援と勧誘をセットにしたことが多かったのですね。

教会の方は、扉を開けて待っているだけで、すでに信者である人の共同体のケアという内向きのものが多かったのではないでしょうか。

貧しい人、一人暮らしのお年寄り、病人、母子家庭などのところに積極的に出向いて寄り添うタイプの活動をし続けてきたのは各種の修道会というイメージでしょうか。でも彼ら彼女らは、それこそマザー・テレサと同じで徹底して奉仕するだけで新宗教やカルトのような勧誘など絶対しませんから目立たないし、「海外ブランド」のようなカトリックとは別物と意識されるのでしょう。

日本にいる外国人がカトリックのコミュニティを通して助け合いやネットワークづくりをするのはうらやましいですね。
彼らの方がある意味では割り切っていると思うし、「困った時の神頼み」式の信仰や帰属意識の強さというものはすごいなあと思います。

ミッションスクール間の国際的なつながりも羨ましい感じです。(私には縁がないものばかりです。)

今の教皇の言っているのは、貧者を招くというより、動く元気もなく傷ついている人のところに積極的に出て行って野戦病院のように助けよう、ということですから、活動修道会の精神と近いですね。カトリックでなくても他のNGOとも協力しあう開かれた奉仕が目指されているのでしょう。

マザー・テレサの列福の奇跡は腹部ガンの30歳の女性で、今回はその13年後の2008年に35歳の男性で複数の悪性脳腫瘍があり、手術室で昏睡し、手術開始予定から30分後に外科医が来たら座って治っていて、「私はここで何をしているのか」と聞いたというやつです。腫瘍はすべて消えていました。奥さんがマザーテレサに助けてくださいと祈ったとか。前の奇跡は患部に不思議のメダイをあてていた、という話でした。

今回は9/5に、「現代の医学では説明不可能」という結論が出て、12/5にそれの奇跡としての神学的整合性が認められたという話で、列聖が来年の9/4ということですね。
マザーテレサのようなビッグネームなら祈る人も多いでしょうから、公式認定されない奇跡の治癒もきっとたくさんあると思います。

日本でも尊者認定されて奇跡を待っている蟻の町のマリアだとか調布のチマッティ神父とかいますし、取次ぎの祈りの文も紹介されていますから、祈っていれば治らないでも気持ちが楽になるかもしれません。
メダイでも他のお守りでも、奇跡でも「神の手」の外科医とかでも、苦しんでいる人が楽になったり治ったりするのは歓迎です。

カトリックでいうと、65歳以上の人は病気でなくとも病者の秘跡を受けられるというので、65歳になるのが楽しみです。
まあそんなことを言っているのは今のところ深刻な病気がないからかもしれませんが、生きている限りは何らかの形で人の役に立てるように、避けられる痛みや病気を軽減してくれる良心的なツールはいくらあってもいいなあと思います。

ルルドも、長崎の「ルルド」にはちゃんと水も湧いているそうです(というか昔から健康にいい水の湧く所に洞窟のレプリカを作った?)から長崎もありかなあと思います。東京カテドラルのルルドもいい感じだけれど水はないです。

不思議のメダイは、贈る人に信仰があれば「信者でなくとも効く」というスタンスですから、差し上げやすいのではないでしょうか。病気を患われているお知り合いの方のためにどうか祈ってあげてください。

http://setukotakeshita.com/

740kei:2015/12/24(木) 00:23:12
父の慈しみの御顔
詳しいご回答ありがとうございます。拙も聖年にちなみ、とにかく募金箱に必ず入れるという戒律を建て実行しているところです。クリスマスコンサートもアフガンやカンボジアへのチャリティでした。
しかし翻って我が国を見ますと、失業率は低く、皆確かに食べてはいけるでしょうが、ワーキングプアーで心のほうがパンクしているようです。カトリックの美しい典礼で心を休めてほしいのですが、ちょっと声をかけると、「クリスチャンです」と言われ、聞いてみればキリスト教系?新興宗教でした。ますますそれにのめりこんでまわりが見えなくなっていくようです。
フランスと同じようなものを感じます。オウムのようにテロをしろと言われればやってしまうような感じです。既存システムからの疎外感は、「自分たち(だけ)が正しい」と言われるとすぐ反応してしまうようです。歴史的にもルネサンスのフィレンツェの閉塞感からサヴォナローラの原理主義が一時期支配しました。日本のプロテンスントでも何やら終末論をほのめかすところもあります、アメリカ映画の「レフト・ビハインド」が教会に(多分映画会社?)が貼ってあってびっくりしました。アメリカはこういう映画は、宗教層の観客動員が見込まれるため、制作されているようです。
教皇のご提起は時期を得たものですが、若干の無力感も覚えます。父の慈しみの御顔とはどういう顔なんだろうか?といつも考えています

https://www.facebook.com/kouji.yamasaki.31

741アップル:2016/03/04(金) 17:07:07
心霊主義について
節子先生、こんにちは。
数年前にたしかキリスト教福音派について質問させていただいたものです。

その時のハンドルネームは忘れてしまったのですが。

福音派教会は日本在住の日系ブラジル人の間にまだまだ存在していますが、
数年前のあの熱狂ぶりから比べると、今は少し落ち着いているような印象です。

かわりに最近増えてきているのが、espritismo のグループです。
調べてみるとブラジル本国では確かに信望する人が多いようです。


彼らのバイブルは、アラン カルデックの書物です。
ブラジルで、サッカー選手にアラン カルデックという選手がいるくらい
多くの人が名前を知っています。


現代のフランスではどうなんでしょう?
アラン カルデック及びスピリチスムのフランスでの位置づけ
を知りたいのですが。よろしくお願いします。




私が知りたいのは、アラン カルデックの国フランスでは

742sekko:2016/03/05(土) 07:55:42
アップルさま
そうですか。

ブラジルではカルデックの本が3千万部も売れているらしいですね。

フランスでは、確かにペール・ラシェーズのお墓はいつも花がいっぱいですごいなあと思いますが、まあオカルトの位置づけですね。

カルデックも、もとは子供たちを迷信から啓蒙しようという合理主義の教育者でしたから、アメリカ由来の「霊との交信」に本格的にはまってからも、霊名(?)を使い分けて、スピリティスムも「科学」の言葉で語ろうとしていました。

だから、一応、宗教とは違う、というスタンスで、無神論のイデオロギー陣営ともキリスト教陣営とも直接衝突しないで、文化人を含むかなりの人の「オカルト趣味」として一時はかなり浸透していたようです。

今はオカルトのon of them という感じでしょうか。

ブラジルのようにカトリック、先住民インディオの土着宗教、17世紀から奴隷として連れて来られたアフリカ人の土着宗教の三つの心性が混然としている所だからこそスピリティスムがその三つをつなぐけれど既成宗教とは直接バッティングしない形で自然にシンクレティズムを形成したのでしょうね。

スピリティスムが新宗教の形をとるとベトナムのカオダイ教のような分かりやすいシンクレティズムとなります。宗教でなく「科学だ」とか「実在する超常現象だ」という形で信奉者を獲得するビジネスになる場合もありますね。

日本では土着のシャーマニズムの伝統や先祖との交流みたいなものが心性として残っているので、カタカナのスピリチュアリスムはそれらとフュージョンすることはなく、カタカナのオカルト、カタカナのスピリチュアリスムとして別枠で存在するのかもしれません。

カルデックはブルターニュの名で、前世がドルイッド教であるとしてキリスト教以前のガリアの土着宗教と結びつけることで正統性みたいなものを担保しているわけですが、そしてお墓もドルメン型ですが、ブラジルではそんなことどうでもいいような気がします。

でも、亡くなった人との魂の交流そのものは古今東西よくある話で、別にわざわざ科学だと言わなくとも、そして詐欺や騙りもあるでしょうが、「宗教」とか「霊性」とかとは別枠で考えればいいのでは、思います。

今、あるジャーナリストが、父親の棺に4つのものを入れて埋葬し、有名な霊媒4人に父親にコンタクトしてそれが何か伝えてもらうというテストをレポートした本を読んでいます。おもしろいですよ。

結局は、病気や治療や治癒と同じで、現象は似ていても、その原因も経過もケース・バイ・ケースとしか言いようがなく、教義や教祖をたてるのは罠か誘惑か誤りか矮小化なのでしょうかね…

http://setukotakeshita.com/

743アップル:2016/03/05(土) 11:19:48
(無題)
お返事ありがとうございます。

フランスでは、なんというかやっぱり予想通りオカルト扱いなんですね。

節子先生がおっしゃるように、もともとブラジルには文化的に親和性があったということで、
独自に発展していったのでしょうね。

日本在住日系人たちが集まるスピリティスムのグループに属する人から
耳にするのは、輪廻転生についての講義を受けたり、
espirita という指導者が無料で人々の悩みを聞いて
アドバイスしたり、病気の人にはspiritual surgeryを施すというような
ことです。

ブラジルではシコ シャビエルという霊媒(故人)が今でもとても
尊敬を受けています。

日本人の私としてはなんだか胡散臭く感じてしまうのですが
ブラジル人たちは「シコ シャビエルは
お金を取らずに人の役に立った人」と讃えます。

福音派の動きが落ち着いてきたのは、彼らの教会のマーケティング戦略
に嫌気がさした人が増えて離れたからだと思います。

節子先生が読んでおられる本はフランスのジャーナリストが書いた本ですか?

私の勝手なイメージでは霊媒による話などは
フランス人にとっては完全にゲテモノ扱いなんじゃないかと思っていました。
でもそうでもないのでしょうか。感心のある人がいるのはいるのですね。


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