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昭和初期抒情詩と江戸時代漢詩のための掲示板

611やす:2012/02/29(水) 00:47:21
「朔」173号 坂口昌明追悼号
 圓子哲雄様より「朔」173号をお送り頂きました。同封の挨拶状を一読、なにはさておいても御病気の件、御養生専一のこと切にお祈り申し上げます。と同時に後記にありました『村次郎全詩集』刊行のことも初耳にして、こちらはお慶び申し上げる次第。八戸市内の書店でのみ取次いでゐるといふことですが、地元だけで700部の初版を瞬く間に売り切った由。検索したら昨年は刊行に合はせて回顧展も行はれてゐたんですね。

 さて今号は昨秋亡くなった坂口昌明氏の追悼号です。東京生まれの坂口氏が、親友小山正孝の青春の地であったことをきっかけに南部の文学や津軽の民俗学に惹かれ、青森県に宿縁を結んでいったこと。その博識と述志に対して寄せられた賛嘆は、お会ひする機会のなかった私もまた同じくするところであり、あらためて『一詩人の追求−小山正孝氏の場合』を読んだ時に感じた、ただならぬ読後感──博覧強記のすさまじさを思ひ出しました。本邦初の小山正孝論がいきなり単行本で現れたこともさりながら、友情に託けることなく対象を客観視し、意表に出た類比隠喩には立ちくらみさへ催したこと。氏のもどかしげな探究心が進取の気性を以て常に埋もれたものを世に出したいといふ奇特な使命感に向ふとき、時間はどれだけあっても足りることなどなかったと誰しも思はれたのも宜也哉でありませう。

 巻頭には小山正孝ご子息正見様の追悼文が掲げられてゐます。今後の「感泣亭」諸活動に与へる影響が心配されるところですが、坂口氏のお人柄を詩人小山正孝との関りに於いて身近なところから述べることができるのが、正見様と御母堂だけであるのも確かです。
坂口さんの著書『一詩人の追求−小山正孝氏の場合』を執筆するにあたって彼は正孝に一言も聞かなかったと言う。また、本を受け取った正孝の方もニヤリと笑っただけだったらしい。」 2p
 「万事用意周到であった」といふ、かけがへのない支柱を失った活動の行方を、ブログ更新とともに見守りたく思ひます。

 そして圓子様の回想。「朔」誌との関りに於いては、「眼光鋭く、一目で私は見破られたと思った。」といふ、この稀代の祖述者との交流を、師匠である詩人村次郎顕彰の思ひに絡めて活写されてゐますが、特に師の日本語学説については、自ら世に問ふ事のなかったのを惜しみながら、外国語のひとつも自家薬籠中の物にした上で、斯界の現状を鑑みながら論旨を構築してゆくものでなければ、およそ新学説など認められることなどないことを、弟子である圓子様に対して一夜の席上、釘を刺されたといふ一節が興味深いです。坂口氏とは正反対の気質を有しながら(今回のエッセイもロマン派よろしく寄り道がまことに楽しい)、かかるエピソードを敢へて示された圓子様にも、私は贔屓の引き倒しではない先師に対する思ひを強く感じます。さうして隠遁者の自己抑制が永きに過ぎて自己防御に変じてしまった詩人の無念を晴らす為、あくまで地方にあって心を砕き続けてきた圓子様を、坂口氏のこれまでの小山正孝に対する顕彰営為が、形を以て無言で励まし続けて来たのは確かなのです。三者三様ですが、進取の気性が世に報ゐられること尠かったのは一緒なのであって、もし坂口式の比較手法で、村次郎の学的側面が解説されることがあったらどんな眺望が拓けたことでせう。圓子様も頼りにし、全詩集刊行でやうやく詩人にもスポットライトがあたるやうになった矢先の氏の訃報が悔やまれてなりません。御冥福をお祈り申し上げます。

 ここにても寄贈の御礼を申し上げます。ありがたうございました。

612やす:2012/03/03(土) 22:02:49
おめでたうございます。
【速報】現代詩人賞:杉山平一さんの詩集「希望」が選ばれる  毎日新聞 2012年3月3日 18時36分

613松田:2012/03/13(火) 15:34:27
山鶏
 こんにちわ。はじめて書き込みさせていただきます。神奈川県の松田と申します。「四季派の外縁」で一瀬稔の「詩集 山鶏」を初めて知り、こんなにいい詩集があったのかと大変嬉しく思いました。今、愉しみに何度も読んでいます。ところで、お尋ねですが、詩の掲載方法は、詩集そのままというわけではないのでしょうか。というのは、目次と本文では掲載順などいろいろな点で異なっていますので、ちょっと気になってます。細かくなりますが、次のような点です。
1.目次の番号と詩本文につけられた番号が1から5までは一致していますが、それ以下は番号・順番ともに異なっています。
2.目次にあって本文がないものがあります(目次番号6、9、10,11、13)
3.本文があって目次にないものがあります(本文28「春日」、29「山の小駅」)
4.「山の空」がルビの違いがあるものの重複しているようです(本文4、23)
5.「菜園の頌」が目次では章(節?)の題になっていますが、本文では詩の題になっています。
6.「昼の月」が目次では二つ(14、15)ですが本文では三つあります(20、21、22)
 こまごましたことをお問い合わせしてまことに申し訳ありませんが、入手不可能な貴重な「山鶏」を詩集の順序通り読んでみたくて書き込みさせていただきました。よろしくお願い致します。

614やす:2012/03/13(火) 17:44:12
(無題)
 松田様 レファレンスありがたうございました。

 御指摘の『山鶏』テキストですが、これは昔テキストアップした『故園小景詩鈔』のなかから『山鶏』所載のものを拾って掲げてをり、仰言るやうに番号が合ってゐないですね。仮名遣ひも歴史的仮名遣ひになってをりませんし、『山鶏』原本の画像データに差替へたいと思ひますので、お待ち下さい。
 なほ『故園小景詩鈔』のテキストアップは、生前著者から許可を得てのことでしたが刊行元から御指摘をいただきとりさげてをります。てっきり自費出版であると思ひ、御迷惑をおかけしてをりました。詩人が『明日の糧』以降に到着した境地はすばらしく、少々高い本ですが、是非愛蔵されることをおすすめ致します。


今後ともよろしくお願ひ申し上げます。用件のみとりいそぎ。

615松田:2012/03/14(水) 08:44:42
「山鶏」お礼
やす様。厚かましいおねがいに早速ご回答いただきありがとうございます。「山鶏」の画像データを楽しみにしています。一瀬稔の入手できる詩集は手に入れようと思います。
ありがとうございました。

616やす:2012/03/14(水) 21:37:57
(無題)
 池内規行様より「北方人」第16号、舟山逸子様より「季」96号を拝受。「北方人」には「青山光二年譜」が、「季」には杉山平一詩集『希望』の書評が掲げられてをります。ありがたうございました。

 詩集『山鶏』updateしました。戯歌一首。 あしひきの山鶏の詩をしたり気にスキャンしながらひとりかも読む

 花粉飛散とともに気分沈滞とどまるところを知らず。大震災より一年。病ひをおして追悼式典に御臨席賜った天皇陛下に対する新聞記事の、その「日本国象徴」に対する失礼な小ささに (ビデオレターの時にも書きましたが) 憤ってをります。

 わが生活もまた転機を迎へんとしてゐるやうです。

617松田:2012/03/15(木) 10:56:54
感謝
山鶏の早速の更新、まことに有難うございました。
戯句のお返し。山鶏やせっつかれずとも素早くて。

618やす:2012/03/25(日) 22:14:09
『漢詩人岡本黄石の生涯』
 以前に入手した岡本黄石の伝記『漢詩人岡本黄石の生涯』の続編が、その後2集3集と刊行されてゐることを知って世田谷区立郷土資料館に発注したところ、図書館ではなく個人宛に寄贈していただき、寔に恐縮しました。彦根藩家老であった岡本黄石は、梁川星巌をめぐる後進気圏の逸材であるばかりでなく、「悪謀の四天王」と目された師と、主君井伊直弼との間にあって苦悩した、時代に翻弄された歴史的人物といってよい人であります。第3集の副題「三百篇の遺意を得る者」といふのは、「詩経三百篇」をふまへた黄石の人品骨柄に対する星巌の最大限の賛辞ですが、斯様に豊富な資料が、詳細な解読手引きを付して公刊されたことに唯ただ瞠目するばかりです。第一集と同様、学習に活用させて頂きたく、ここにても厚く御礼申し上げます。ありがたうございました。

https://img.shitaraba.net/migrate1/6426.cogito/0000783.jpg

619やす:2012/04/04(水) 01:26:08
はるのあらし
 郡淳一郎様より映画史家の先師をしのぶ『田中眞澄追悼誌』(2012.3.10 田中眞澄書誌・蔵書目録編纂会発行,15p 30cm 500部)を、小山正見様より詩人である先君小山正孝の詩の朗読会の御案内を頂きました。御礼と共に報知いたします。ありがたうございました。

 さて、この四月を以て帰郷奉職二十年。齢を重ぬること五十一歳。この期に及んでふたたび独り身に戻ることになり、年度替りの仕事に取り紛れながらも、思ふところは多いです。情けない仕儀に立ち至った、渾ては自分の不徳ゆゑであり、漱石の漢詩に倣ふるなれば、

「春風吹いて断たず、春恨幾條條。」

 昨日来の風雨に袖もそぼ濡れ、些か途方に暮れてをります。以上報告のみ。

620一行院 住職:2012/04/14(土) 12:46:24
荘原家墓碑
当山に荘原篁墩師の墓碑がございます。なぜ当山にあるのかは不明ですが、当サイトをご覧の方でご興味があれば是非ご参拝ください。

http://www.ichigyo-in.jp/

621やす:2012/04/14(土) 20:17:17
はなぐもり
御住職さま

いつぞやはメールにてレファレンスをありがたうございました。
「庄原篁墩」、名は懿、字は彜卿、通称文助。周防の人、安政中江戸に住む。別号に柳暗。
以前「山田鼎石」を紹介した際、高々200年余で「先生」も無縁仏にされてしまふ現今の日本に長大息したことでしたが、東京の一等地にあるお寺が、公的指定に拘らず先賢の塋域を手厚く保全されてをられる姿勢に脱帽感嘆いたしました。以前(2009年)お送り頂いた写真と情報をここに紹介させて下さいませ。

左:墓碑面欠損 明治15年8月31日没 (明治17年荘原和氏建立)
中央: 篁墩先生(庄原篁墩)之墓 文久元年10月17日没
右:荘原和氏 明治31年6月10日没

御案内をありがたうございました。
折から桜も満開で美しいお花見もできるのではないでせうか。

庄原篁墩のものではありませんが、自蔵の掛軸より一幅紹介。

一池春水[岩]生煙
多少山櫻靜言眠
漠漠濃陰未成雨
慈雲閣畔養花天
詩佛老人

一池の春水、[岩?]、煙を生ず
多少(多く)の山桜、静かに言(ここ)に眠る
漠漠たる濃陰(曇天)、未だ雨を成さず
慈雲閣畔、養花天(花曇り)
詩佛老人

解読訓読御教示を待ちます。「慈雲閣」は増上寺でせうか。昔、池があったことを知りません。お寺の桜だから殊更「山桜」と掛けてゐるんでせう。

https://img.shitaraba.net/migrate1/6426.cogito/0000786.jpg

https://img.shitaraba.net/migrate1/6426.cogito/0000786_2.jpg

622やす:2012/04/15(日) 02:11:55
「モダニズム詩人荘原照子聞書」 第17回 死よ!来たることの何ぞ遅々たる
 さて、前後しましたが、手皮小四郎様よりは『菱』177号を御寄贈頂いてをります。わたくし事にかまけて未だ御礼状を認めてをりませんが、紹介を先にさせて頂きます。

 今回の「荘原照子聞書き」は、「兄の庇護の元に、母とギリギリの生活を送っていた」昭和十年代の横浜六角堂在居時代が描写されてゐますが、貧乏には貧乏の上をゆく輩がゐるもので、キーパーソンとして何と稲垣足穂が登場します。同類と呼んでは叱られさうですが、けだし荘原照子のポエジーが、政治的な色合ひを帯びることは否定しつつも、何かに妥協することは頑なに拒み通す性質にあったことを、タルホを褒めちぎる聞書きの様子がよく語ってゐるやうな気もしたことです。そして彼女が稲垣足穂や、北園克衛の「VOU」から離脱した岩本修蔵、山田有勝らと拠った「詩とコント」〜「カルトブランシュ」といふ雑誌のことが紹介されてゐるのですが、こちらも初出であります。特筆すべきはここで展開される「コント」といふジャンルなのですが、もちろん現代のコント――戦後ストリップ劇場の幕合に誕生し、テレビ番組とともに成長した今日の「芸人コント」とは関係がありません。雑誌を支へた澤渡恒(1916-1951)をはじめとする立教大学出身の詩人達は、最初にこの文芸コンセプトを誌名にも付して旗揚げをし、やがて「ブランシュ:白」といふ、当時すでに使ひ古されたのではないかとも思はれる言葉を選び、これまたいくぶんバタ臭さを感じさせる表紙デザインでもって雑誌の一新を図ったやうです。謂はば一時代前のモダニズムやナンセンス文芸の系譜上にあって、軽薄文化が失速しつつあった1930年代の後半、自覚的にポエジーを寸劇の中に閉じ込めたオチ無しファンタジーを、「コント」と呼んで制作し続けた訳ですが、果たしてそれがエコールとして「戦争前夜のシュルリアリズム」と呼び得る社会的な韜晦であったのかどうかといふことは、同人各人に当るべきでせうし、前衛音痴の私にはちょっと分かりかねるところであります。荘原照子は、タルホの「一千一秒物語」の書割りテイストを有した「家」といふ「コント」を遺してをり、これは次回の連載でも触れられると思ふのですが、雑誌の精粋は、戦争で刊行できなかった『薔薇園傳説:カルト・ブランシュ コント集』(1986年,澤渡恒編,デカドクラブ(山田有勝方),197p,21cm)の中に、それから雑誌の中心にあった澤渡恒の遺稿作品集『エクランの雲』(2002年,郡淳一郎編,ギャラリーイヴ,29p,30cm,付録つき)といふ限定版冊子において、さきの「家」などとともに読むことができます。なので次号刊行までに是非予習いたしませう(「ムハハハ。」笑;)。付録の当事者による対談集(聞き手・構成:内堀弘)も貴重だと思ひます。

 ここにても御礼を申し上げます。ありがとうございました。

連載第十七回 「モダニズム詩人 荘原照子聞書」 死よ!来たることの何ぞ遅々たる――横浜市神奈川区六角橋金子町  『菱』177号 2012.3,? 37-43p

623やす:2012/05/21(月) 21:05:11
杉山平一先生逝去
かけがへのない思ひ出を誰にも一人づつに与へて下さった先生の人徳を心から偲び、慎んで御冥福をお祈り申し上げます。


 悼詩


わが師田中克己は ハリー彗星を見ないで死ぬだらうと予言して

晩年に小さな小さな再来を天文台で確認した

杉山平一先生は300年ぶりにやってくるといふ金環日蝕を

来週どんな感慨を以て迎ふるべきか 考へてをられたにちがひない




人生は予測できない――ひとは自分が主人公だと思って生きちゃゐるが

死んでく時には みな誰かの脇役として死んでゆく

いつか命日となるその日を うかうかと過ごしてゐる私も

「希望」を語ることを恐れ 訃報のあとに訪れた「凶兆」の意味を探しあぐねてゐる




忘れられない惨事と ささやかな希望と

新しい主人公たちに 暗喩や直喩のレンズで指し示されたクラリティは

地上に笑まふ木漏れ陽の 不思議な翳かたちでありました




直接は見ることができないもの

みなが空を仰いでゐるときに 俯くことのできる人だけが知ってゐる

なつかしい希望 かけがへのない人徳でありました

                        2012.5.21


http://libwww.gijodai.ac.jp/cogito/tanaka/tairikuenbo/tairikuenbo-0007.JPG

624やす:2012/06/09(土) 13:37:01
寄贈本
 気持の整理は家族関係にとどまらず、この職場をはなれては、詩を読むことも無からうことがはっきりしてきたので、これまでこつこつ買ひ集めてきた研究書や復刻詩誌、全集テキストの類ひから400冊ほどを職場に寄贈することにしました。国文学科時代の蔵書と合せると、これまで手薄だった近代詩の書棚も、戦前口語抒情詩だけは少しく充実するのではないかと思ひます(ものすごいシャープな守備範囲ですね)。岐阜女子大学図書館の「新着図書」検索や「フリーワードで探す」で御覧下さい。研究を志す学生諸君には、さらに私蔵コレクションにてフォローもさせて頂きたく申し添へます。U^ェ^U「ゐないゐない。」
http://libwww.gijodai.ac.jp/jhkweb_JPN/service/freeref.asp

 明日から遠征といふのに、おかげで腰いためちゃひました(苦)。

625初心者:2012/07/03(火) 14:02:43
四季派学会の連絡先を
この板にお願いしてよいのかわかりませんが、どなたか、四季派学会の事務局の連絡先(住所とか?、メルアドなど)、ご教示いただきたいのですが。だいぶ探しましたが、捜せません。

626やす:2012/07/03(火) 14:23:53
(無題)
事務局は持ち回りになってゐると思ひます。現在はどこでせうか、大谷大学気付で國中治先生まで御連絡をとられるのがよろしいかと存じます。とりいそぎの回答まで。レファレンスありがたうございました。

627初心者:2012/07/03(火) 19:36:06
ご教示感謝です。
やす様、大変ありがとうございました。近日中、國中先生にお願い致してみます。

628服部 剛 :2012/07/07(土) 01:12:52
詩を書いている者です 
はじめまして。
詩作・朗読活動をしている服部 剛(はっとりごう)と申します。
「四季」の心が詩の原点と思い、詩作の道を歩んでいます。

昨日「四季」創刊号に掲載されている丸山薫様の「火」という詩についての
エッセイを書いて、僕のブログに載せました。
http://poetrytheater.blog110.fc2.com/

四季の詩人についていろいろ教えていただけたら、ありがたいです。



 

629やす:2012/07/07(土) 23:29:46
『菱』178号  荘原照子聞書き
 服部剛さま はじめまして。

 四季派といっても、有名な詩人は大学の先生方が生涯や作品分析をすでに語りつくしてをられますので、ここではもっぱら著名ではない、当時の周辺詩人について、彼らが思ひを託して小部数刊行した詩集に脚光をあて、原質の紹介に努めてゐます。
 故・杉山平一先生に「ストーブ」といふ詩がありますが、丸山薫のこの詩にインスパイアされたものなんでせうね。
 こちらこそよろしくお願ひ申し上げます。ありがたうございました。


 手皮小四郎様より『菱』178号をお送りいただきました。

 荘原照子の聞書き連載では、前回の予告通り「カルトブランシュ」に掲載されたコントといふ、近代文学分類上「不幸な継子」に終ったジャンルにおける奮闘と、そこから小説に創作の場を移さうとして挫折したくだりについて考察がおこなはれてゐます。イメージの飛翔が甚だしいモダニズムの散文には伝記的要素もなく、文脈の解釈にはさぞ苦労を強いられたことと存じます。そもそも「ヘルムアフロデイトの月」のやうな「風紀紊乱の詩」が書けてしまふ詩人にとって、詩よりも長く、また理路も少しはつけないとならない「コント」なんてジャンルは、体制に対するあてこすりを如何様にも邪推され得る「より危ない表現手段」であることに、やがて彼女自身が気づいたに相違なく、だからこそ「書きにくく、今後もまづからうと思」ふやうになったのでありませう。

 ただし弾圧の一件については、『マルスの薔薇』を出版してオファーが殺到した彼女を迎へることに成功した「日本詩壇」主宰者である吉川則比古が、寄せられた詩文の過激さを持て余し、何かにつけて自粛を迫ったといふ側面もあるかもしれません。彼女は「日本詩壇」のライバル誌だった「詩文学研究」の創刊号にも寄稿してますが、以後なにも書いてゐません。そして「弾圧」といっても、吉川則比古からの手紙の文字にあるだけなんですよね。特高からは直接連絡がなかったやうですし、いくら「カルトブランシュ」が、意気軒昂たる若人の結束に係る同人誌だったといっても、本当に危ないものなら流石にそっくり同じものを載せられない気もします※。コントが拓いた軽佻浮薄路線を継いだモボ・モガ文化を謳歌してゐたのは深尾須磨子ですが、彼女に筆誅をくらはせた荘原照子こそモダニズムの女傑と呼ぶに相応しく、詩よりもむしろ「詩人の権威及び自由性について」等の散文において、体制への親愛を決して示さなかった彼女の運筆態度にこそ、当局、そしてアンデパンダン同人誌を主催する二流の宗匠詩人を刺激する要因が充分にあった。そして本当に特高に睨まれるやうになってしまったのではないでせうか。次回はそんな彼女を暗殺(?!)する計画の全容が、本人の口から語られるといひます。手皮さんによる客観的な考察によって、証言の虚々実々が明らかにされることも大切ですが、同時に、当人がどう感じてどう行動したかといふ事実にこそ、詩人の鋭敏すぎる感性とだけでは説明できない、戦争末期社会の雰囲気の実際も感じ取れるんだらうと期待してゐます。

 ここにても御礼申し上げます。ありがたうございました。

※「カルトブランシュ」の匿名ペンネーム「近東豹」といふのは「マダムブランシュ」における匿名子「春日新九郎」の正体の一人(?)が近藤東であったことを、それとなく踏まへて命名されたものかもしれませんね。想像の域を出ませんが。

630服部剛 :2012/07/13(金) 06:20:30
ありがとうございます。 
こんにちは。四季の詩人のこころの原質を吸収し、学びながら、僕も詩を書いてゆきたいです。日本の詩人の回帰する原点のような気がします。「ストーブ」は杉山平一先生らしい詩で、今の僕の日常の心情にも重なり、励まされました。

http://poetrytheater.blog110.fc2.com/

631やす:2012/07/19(木) 19:53:36
写本詩集二冊
 写本詩集を2冊入手した。世に一冊きりしかない近世の個人詩集を手にするのは初めてである。

 著者は森春濤の門下だった石井梧岡【弘化4年7月27日(1847)−明治37年5月29(1904)】といふ医師。明治4年、五等医として出仕、書籍出納の仕事を経てその後愛知医学校の教官などをつとめたといふ※。名を彭、字を鏗期、希腎、通称は栄三、梧岡は号である。父は石井隆庵といひ、西洋医学黎明期の医制改革にも関った尾張藩医の家柄。

 この2冊「述古斎詩稾」「行余堂近稿」は弘化4年(1847)の生年からすればそれぞれ、18才、33才時のときに清書されたもの思はれるが、当初は号を梅圃、居処も述古齋と自称してゐたやうである。巻頭の永坂裒卿宅といふのは、同門の2年年長だった永坂石埭のことであらうか。永坂はのちにお玉が池の星巌旧宅を発見してそこに住まふ素封家であるが、裒卿なる字も初見である。なほ調査中、いづれサイトに画像公開の上、翻刻しますのでお楽しみに。

https://img.shitaraba.net/migrate1/6426.cogito/0000796.jpg

632やす:2012/09/18(火) 12:17:11
近況 ―富岡鉄斎関係
 ツイッターではチョコチョコ呟いてをりましたが、こちらは久しぶりの更新。

 富岡鉄斎研究家の野中吟雪先生に、仕事上でしたが新潟の御自宅まで御挨拶に伺ひ、コギト同人でもあった小高根太郎氏の話を伺ったり、また鉄斎翁遺墨コレクションの一部を拝見させて頂きました(写真は鉄斎書き入れ旧蔵書の一冊)。出張から帰還すれば『鉄斎研究』65冊版の揃ひを、古書肆から破格値で図書館に納入することを得て喜んでゐるところ。いふまでもなく『鉄斎研究』は、膨大な画賛釈文を小高根氏が集成された唯一の基本文献です。

 折しも中国・韓国では反日運動が激化してをります。これからの日本の在り方(姿勢)を考へ直す意味でも、漢文学・尊王精神の両つながらを重んじた“儒者”鉄斎翁の存在といふのは、日本が物欲一辺倒から精神的に復帰しなくてはならぬといふ切実な課題に向かふ際、人倫の位相を戦前の政治体制に廻らすのでは なく、幕末の尊王攘夷運動にまで遡り、日本の国柄として一本筋を通しながら考へ直してゆく必要があるのだといふことを、強く感じさせてくれます。

 さて、日常生活不如意になりつつある家族の世話に追はれ、正直どこにも出かけたいとも思へず、かといって本も読めず、「三日書を読まざれば、面目憎むべく語言味なきを覚ゆ」ることをつくづくと実感。「行ひて余力あらばすなはち以て文を学べ」などと言ひ訳に終始するこの頃です。 とまれ前の漢詩集のみ、やうやくスキャン致しましたので、出来損ひの書き下しとともにup乞正、何卒よろしくお願ひを申し上げます。(【ごあいさつ】「★更新履歴」より辿りください。)

https://img.shitaraba.net/migrate1/6426.cogito/0000797.jpg

http://

633やす:2012/09/23(日) 01:16:54
『高山竹枝』
 待ちに待った郷土漢詩集の稀覯袖珍本にして森春濤の処女詩集『高山竹枝:たかやまちくし』(慶応2年跋)が到着。全頁の画像を公開しましたので御利用下さい。早速私も南山大学の先生方によって書き下された詳細な注解を片手に、さらにタブレットにとりこんだ画像を拡大表示したりして、三者を見比べながら楽しんでゐるところです。

 疾風怒濤の幕末の世にこんな小粋でささやかな竹枝詩集を、最早老境にさしかかった自身の遅すぎる処女詩集として、地方で自家出版した詩人の心境や如何。序跋も誰にも依頼せず、巻頭は一番弟子である能書家永坂石埭に、かつて飛騨高山に赴任してゐた先輩詩人館柳湾の詩を代書させてゐます。わづかな余白に藤井竹外、遠山雲如、鷲津毅堂ら先輩友人による鼇頭評もあり(木公と精所は誰でせう)、我が蔵書中では一番小さなお宝本となりました。

 また同時に、森春濤と同門下である鱸松塘(鈴木彦之)の処女詩集も入手。春濤より4歳後輩ですが、こちらの『松塘小稿』は遡ること20年の天保14年、若干二十歳の記念に刊行された少年詩集です。とはいっても序跋は、竹内雲濤、大槻磐溪、菊池五山、大沼枕山、生方鼎齋と本冊の1/4を占めて重々しく、挿画の書斎も…見た感じぢゃこっちの方が御隠居さんみたいなんですがね(笑)。 もちろん稀覯書に相違なく、同様に画像をupしたいと思ひます。お待ちください。

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634日野:2012/09/24(月) 12:19:02
『高山竹枝』の評者について
 もしかすると、それは和○会の金●堂書店からの購入ですか?とすれば、外れても悔しく……やっぱり悔しいかな(苦笑)袋もあり、美本のようですね。
 『高山竹枝』の評者についてですが、島木公は家里松嶹(島=嶹、木公=松)、精所は春濤の弟の渡辺精所です。以上、ご報告まで。

635やす:2012/09/24(月) 20:57:29
御礼
 日野俊彦先生、早速の御教示ありがたうございました。

 自分でも“古本の女神”の再臨(?)を実感してをります此頃でございます。幸運はせめても画像を公開することで、著者の遺志ともども世間に返して参りたいと存じます。今後(これまでもですが)複本を集めるつもりはございません、何卒ご了解いただけましたら幸甚です。

 以前もふれましたが、「日本古書通信」(2011年12月号)に、宮城県図書館の和本群が博物館に移管される話について、館員の方からの報告記事がございました。先日も職場の学芸員の方と意見交換することがあったのですが、江戸時代の刊本をコピー・スキャンにかけることを古文書と同列にみなし禁ずる博物館の立場と、可能な限り利用促進を図らうとする図書館の立場とでは、和本に対する立ち位置が全く異なるもののやうです。私は、和本を読める人材が絶えようとしてゐる現在、それらを読み下して後世に遺す作業が日本読書界の喫緊の課題ではないかと思ってをります。和本はノドを圧してスキャナーの微弱な光線に当てた位では傷みませんし、公開サーバーの環境さへあれば特段の「予算」など必要ないのです。何より世に行はれることを願って公刊された著作物の原姿を、研究現場の方々だけでなく広く在野の篤志家も自由に閲覧できる環境を整備してゆくこと。研究に先立ち、著者たる江戸時代の先賢に対する礼儀と心がけたく思ひます。

 といふことで取り急ぎ画像のみですが、星巌門下の雋鋭詩人たちの最初期の詩集、『枕山詩鈔(嘉永版)』『湖山楼詩鈔(嘉永版)』『松塘小稿』も合せて今回upいたしました。後年の明治定稿版との異同など、興味深いところも多々あるのではないかと思ひます。さきに記したタブレットに全ページの画像を入れて持ち運んでゐますが、原本を傷めず、老眼を気にせず、どこでも楽しめるので重宝です。当年の詩人が液晶画面上に指で自在に拡大される自分の詩集をみたら吃驚するでせうね。

636日野:2012/09/25(火) 15:23:18
詩人がいつでも、どこでも自分の旧作を見ることができたら。
 本がいつ手に入るかは、運や縁など人智では謀りがたいものがありますから、お気になさらないで下さい。このように画像などを公開して下さること、ありがたく思っております。
 詩人がいつでも、どこでも自分の作品を見ることができたら……新鮮な喜びを得るか、「こんなものを書いたのか」と頭が痛くなるか、悲喜こもごもかもしれませんね(笑)

637やす:2012/10/19(金) 13:08:49
『菱』179号「荘原照子聞書──もうすぐあなたは殺される」
 手皮小四郎様より『菱』179号をお送り頂きました。

 今回の「荘原照子聞書」連載ですが、昭和16年末を以て筆を折った詩人の、客観的な資料の無い戦時中の時期を扱ってをり、その「無い」ことに意味を探るべく周辺情報に当たり、唯一の積極的資料である「聞書き」も、無批判に受け売りするのではなく、生の詩人と長年接してこられた手皮様の直覚的な吟味と、別証言との校合を経てはじめて書き起こされたものであります。「暗殺計画」などといふ言葉が独り歩きしさうなテーマも、さうしてはじめて論ぜられるものでありませう。

 あらましは前回の掲示板でも少し触れましたが、有名な「神戸詩人事件」同様、モダニズム詩人であった荘原照子が「危険人物」視され、憲兵の監視下に置かれた末になんと殺害対象になってゐたといふもの。当の監視員らの機微によって難を逃れたといふことですが、58歳時の記事と83歳時の聞書きではかなりの異同があり、単純に昔の記憶の方が信憑性が高いとも云へない、むしろ差し障りない後年の私的述懐にこそ真実があるとも思はれるのですが、手皮様は、母と二人暮らしで病気がちの荘原照子が、拘留も咎めだてもなく極秘裏に殺害されなければならないほどの危険人物であったのかどうか、そもそものところに疑問を投げかけてをられます。至極真当の指摘であって、横浜から彼女のやうな人間を追っ払ふための方便として監視方が一芝居うったのではないかと、私も思ひます。ただし官憲サイドの好意的心情はともかく、保田與重郎の例でもみられるやうに「要注意」と目された人物に対するヒステリックな監視体制自体は事実でせうし、さういふ恐怖を味あはせ、当人を実際の退避行動に駆り立てた言論統制の生々しい証言として貴重であることには変りがありません。そこへ折に触れ通ったといふ若年の木原孝一が、何か証言を残してゐるかもしれません。私は彼が硫黄島へ送られたけれど発病し、奇跡的に難を逃れた人だといふことを知りませんでした。

 また彼女が参加しなかった『新女性詩集』ですが、モダニズム詩人が多く参加し、菊池美和子などは全編モダニズムの抒情詩を載せてゐます。重鎮永瀬清子も最初に置いてゐるのは、戦争の厳粛を言って一寸見なにを考へてるか分からない詩。全日本女詩人協会といふもの自体、大東亜戦争が始まる直前に、統制が外から掛けられるのを予見した深尾須磨子が自発的に詩人たちを鳩合したものらしいですから、当局からの信頼をかち得てゐる。荘原照子も、体制内の機構のなかにあってモダニズムの抒情詩を書き続けることも、また戦争の厳粛さに瞠目する態度から一歩もあゆみ出さない詩を書き続けることもできた筈です。要はそれらがミックスすると当局の邪推に遭ふといふこと。その不自由さを指摘したのが共産党詩人壊滅以後には彼女ただ一人位だったのでせう。前回の連載で報告されてゐるやうに、荘原照子から「軽薄」との筆誅を受けた深尾須磨子にして、彼女の勧誘に積極的であるはずもなく、またあれだけ体制よりの跋文を書いてゐる編者に、むしろモガ文化を謳歌した軽薄さと同一の精神的素地を看て取った荘原照子は、自ら名を連ねることのなかったこの本を手にとって、さぞ軽侮の微苦笑を浮かべただらうことも推察に難くありません。

 雑誌をお送り頂いてから、随分日にちを過ごしてしまひました。ご紹介とともにここにても厚く御礼申し上げます。ありがたうございました。

『菱』179号
発行連絡先:〒680-0061 鳥取市立川町4-207 小寺様方 0857-23-3486(Faxとも)

638やす:2012/10/19(金) 23:15:32
「杉山平一追悼号」その1 『朔』174号
 圓子哲雄様より「朔」174号を拝受。
 5月に長逝された杉山平一先生を追悼する文章の数々を読んでは、あらためて先生のひとがら人徳に触れ得てまことにうれしくなつかしく、ことにも奥田和子氏の回想は同人誌「季」への参加時期が交差するやうにすれ違ってゐる私にとって、私には度々励ましのお便りを下さった小杉茂樹さんや、小杉さん編輯に係る「東京四季」への屈折した思ひも伝はり、興味深く拝読。杉山先生が誰にも特別の思ひをおこさせる方であることをあらためて認識させる、羨ましくも貴重な証言です。また杉山平一・村次郎の“歴史的邂逅”をセッティングされた圓子様が、「両先生」の間を汗して周旋される様子が手に取るやうにわかる御文章では、タクシーで汽車を追ひ駆け、飛び乗る終盤の条りなど、いつもながら思ふエピソードの名手の手際に感嘆せざるを得ず、楽しく拝読しました。

 今号にはさきに追悼された坂口昌明氏の回想続編、その真打といふべき小山常子氏のエッセイも収められ、夫君とその後輩親友との関係について、いちばん身近から御覧になっての思ふところを記されてをります。まだまだ沢山あるに相違ない今まで封印された思ひ出話を、ぜひ今後書き継いで頂きたいものです。続く相馬明文氏の追懐も、坂口さんの向日的でおのれを枉げぬキャラクターが立ち上がってみえてくると同時に、相馬氏の「第三に同志的太宰研究者に申し訳が立たないと感じ」といふ、気概の礼節が潔い。鈴木亨氏を回想する一文とともに今号は四季派追悼一色の感がふかいです。

 ここにても感謝申し上げます。ありがたうございました。

 写真は平成6年8月、鳥羽貞子氏が記されてゐるところの「東京と関西の四季派をきっちり結んだ合宿」の朝に推参し、写真撮影にちゃっかり先生の隣へ飛び入り参加した一枚。(黒ッ。)

『朔』174号
発行連絡先:〒031-0003 青森県八戸市吹上 圓子哲雄様方

邂逅(詩):杉山平一 1
杉山平一さんのこと:村次郎 2
杉山平一の直線性:佐々木甚一 3
杉山先生と私 往復書簡:奥田和子 6
詩人・会津人・杉山平一先生を悼む:山田雅彦 10
杉山平一先生の詩の匂い:鳥羽貞子 12
杉山平一さんを偲んで:萩原康吉 14
杉山平一氏を偲んで:小笠原 眞 16
杉山平一先生とご一緒した三陸海岸:圓子哲雄 19
坂口さんを哭す:小山常子 24
坂口昌明先生のこと:相馬明文 27
奈良、再び:テッド・ファウラー 30
空の色(詩):加藤眞妙 40
カレンの歌声のような(詩):萩原康吉 42
蓮の花(詩):柳澤利夫 44
普段着の先生:小林憲子 46
実は金子光晴こそ恐るべきリアリズム詩人なのだ:小笠原 眞 48
一人旅でめぐるフランス 1:石井誠 60
編集後記 66

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639やす:2012/10/21(日) 02:36:17
「杉山平一追悼号」その2 『季』97号
 関西四季の会より「季」97号をお送り頂きました。
 97といふ、杉山先生の享年との符合、まことにふしぎでなりません。皆さまの回想みな興味深く、一人ひとりに「自分だけの先生」が生き付いてゐる、さすが精神的支柱として詩人杉山平一を仰いできた同人雑誌だけのことはある、先生の折り目正しい温かさを偲ぶに相応しい追悼号となったことと、半ば身内の院外団(?)ながらお慶び申し上げます。

 公私を峻別されてゐた杉山先生の日常が、このたび御長女初美様の証言で初めて人の知るところとなり、三方を本で囲まれた2階の書斎の存在(やっぱりあった)もあきらかになりました。(文中、“布野さんに関するお便り”云々は私のことかもしれません。※) 天声人語を毎朝音読される条りは、なんとなく「オワリ!」ではなく「ヲハリ!」といふ語感を感じさせ、ガラクタを棄てようとすると顔をしかめて大きく手を振る身振り、などなど、何ともいへぬ、ユーモアと申しませうか、ほぼ一世紀を生き抜いてこられた杉山先生のエピソードには、私の世代には覚えのない筈のなつかしさを感じさせます、それを見守られる初美様の温かなまなざしに涙ぐみました。

※訂正:手皮小四郎様よりお便りあり、私のサイトでの『布野謙爾詩集』公開を知った手皮様が、荘原照子と布野謙爾をめぐる人脈について杉山先生まで直接お便りさし上げた際のことを指したものと判明、謎がとけました。筆記不如意の杉山先生からの返信は初美様の代筆と思はれ、尚のこと手皮様のことは印象に残ってをられたのでありませう。

 さうして同人皆さまの「自分だけの先生」の回想を一覧して思ったのは、杉山先生への全幅の愛情を以て凭れかかることのできた詩人といふのは、さきの奥田和子氏を措けば、やはり杉本深由起氏に最初の指を屈する、といふことでせうか。「季」以外の人脈を知りませんので断定しませんが、杉山先生のモテモテの実態が今後(本日の偲ぶ会で?)明らかになったら面白いことと思ってをります。冗談はさておきその杉本氏の回想ですが、いろいろの愉快なエピソードが初めて耳にするものばかりだったのはもとより、作品の上では杉山詩の一番弟子だと思ってゐましたが、実生活の上でもやっぱり先生の方からも心を許してをられた詩人だったことが、もう手放しで分かる文章で、このひとならではの行文のうまさも、このたびは感じさせないほど心をこめた内容に、御長女の一文と好一対の読後感につつまれたことでした。

 そして今回の編輯方にして長年私を詩人として見守って下さった舟山逸子氏がピックアップされたのは、一枚の杉山先生のカット。誌面には故意に載せなかった由ですが、杉山先生の絵が「季」の表紙を飾りはじめた頃のもので、私が同人になった時の扉絵だったので殊更記憶に焼きついてゐる一葉でした。少年なのか老人なのか不明ですが(私はなぜか『ムーミン谷の十一月』に出てくるスクルッタおじさんを想ひ起こします)、追悼詩の冒頭を少し読んだだけですぐに分かりました。数あるカットのなかであれに目をつけられた舟山さんが嬉しかったし、終連は追悼詩の白眉でせありませう。


一枚の絵から      追悼杉山平一
                            舟山逸子

水際へ消える石段
麦藁帽子の少年がつくる
波紋は 広がって
広がって 幾重ものまるい輪だ

直線と機械の世界から
やがて曲線へ

まっすぐ歩いていると
ゆるやかに まるく曲がって
いつのまにか
もとに戻っている
それがあなたの描いた
無限だった

光へと手を伸ばし続けた
その長い生涯

わたしは 手を伸ばす 水際で
深く顔を伏せて 静かに
あなたを偲ぶ
まるい波紋をつくっていく


 今回の追悼号、皆さまの文章に杉山先生の大阪弁のイントネーションもそれぞれに偲ばれ、まだまだコメントしたくなるやうな充実ぶりですが、さぞや泉下の先生も苦笑ひされつつ、安堵もされてをられることだらうと存じます。本日の「偲ぶ会」に間に合ひ、追悼号の真打に相応しい雑誌に拙文も寄せさせて頂いたこと、たいへん名誉に存じます。ここにても御礼を申し上げます。ありがたうございました。

『季』97号
発行連絡先:〒569-1022 大阪府高槻市日吉台3-4-16 舟山逸子様方

終りよければ・一匹の蜂(遺稿):杉山平一 6
窓 追悼杉山平一(詩):矢野敏行 10
叱咤激励・色紙(詩):奥田和子12
一枚の絵から 追悼杉山平一(詩):舟山逸子 18
杉山さん、お世話になりました:高階杞一 20
宝塚の詩人:中嶋康博 24
杉山さんの「敗走」:山田俊幸 29
父と暮らせば:木股初美 34
現代詩人賞受賞詩集『希望』について(日本現代詩人会2012詩祭スピーチ)
:以倉紘平 39
杉山平一詩抄 42
苺のショートケーキを食べながら:杉本深由起 50
光を信じて:舟山逸子 56
質問の手をあげながら:小林重樹 60
杉山先生の思い出:紫野京子 64
杉山先生を偲ぶ:高畑敏光 66
杉山平一先生の「死生観」:奥田和子 69
詩人杉山平一のこと:矢野敏行 75
杉山平一氏と関西四季の会関連年譜 78
後記 85

写真は平成15年3月29日、風信子忌行事の途次、谷中多寶院近くの感應寺で澁江抽齋の墓碣銘を前にして。

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640やす:2012/11/03(土) 22:39:06
「杉山平一追悼号」その3 『季刊びーぐる』第17号
 舟山逸子氏より御教示頂いた「季刊びーぐる」第17号(特集杉山平一 人と作品 2012.10)を取り寄せて、さきの回想と対をなす木股初美様の「父の最期」を始めとする、寄稿文の一つひとつを興味深く読んでゐる。
 以倉紘平氏や佐古祐二氏が、杉山平一の詩を近代詩の括りに封じ込めてしまはふとする多くの追悼文の論調に抗議する文章を書いてをられること、むしろそれなら私達こそそのやうな「優れた近代詩にたち戻って詩を書き継がねばならないのではないか」と提起してゐることに非常な共鳴を覚えた。戦中戦後から今に至るまで、杉山詩が古びることなく保ち続けてゐる今日的意義について、冨上芳秀氏が「進化し続けてゐる」と敢へて主体的に立言した真意は、書き手としてのシンパシィにあったんだらうし、否、さうではなく最初から「すごい詩」を書く詩人であって作風を些かもぶれさせることなく生涯を全うされた詩人の軌跡は「進化」などと呼ぶべきものでないと批判した國中治氏の真意もまた、読み手としてのシンパシィを以て語ってゐる、さういふ違ひに過ぎないことのやうにも思はれた。さうして私には、戦時下の詩人について細見和之氏が記された次の一節に、杉山平一といふ詩人の本質の一端をあらためて納得させられる鋭い指摘を感じた。

「 つまり杉山は『夜学生』刊行に先立って書いていた「反戦詩」を『夜学生』出版に際しては、「親兄弟が一所懸命戦っているときに人間的に遠慮すべきだと思って」削除していながら、昭和19年にいたってなお、「港」や「球」といった作品で窪田般弥(1926年生まれなので、当時18歳前後である)らに強い印象を与えていたのだった。しかも、それを長らく戦後の詩集にも収めてはいなかったのである。
 これらの一連の杉山の振る舞いには、庶民的な誠実さと、同時にそれをはみ出すような知識人の揺らぎが感じられるだろう。あくまで庶民の立場を倫理としながらも、そこに収まりきることもできず、それをしかし積極的な価値として積極的に自己主張することもしない…。その振幅のすべてを視野に収めて杉山の詩業を受けとめることは、私たちが状況のなかで詩を書いてゆくことの意味を考えるうえで、きっと示唆的であるに違いない。」15p

 この、成った作品ではなく、詩人の側にいつもわだかまってゐたに違ひない「知識人の揺らぎ」が、収録インタビューにも見られる小野十三郎に対する物の見方の親近感と、保田與重郎や伊東静雄に対する畏敬の念においては、心情的擁護といふ形で敗戦を境に逆転して顕れてゐることに、ことさら注意してみたらいいと思ふ。詩人独特の判官贔屓(ヒューマニズム)の表れであり、冨上氏が「今を生きる心」と言ひ換へてをられるやうな、現在進行形の今日的意義を私達に感じさせる平衡感覚と呼んでもいい。四元康祐氏が見事に集約してみせたところの「眼の詩人」「笑ひの詩人」「生活の詩人」といふ、出来上がった作品の側から見た詩人の特質と共に、詩人の節義ともいふべき、「四季」の詩人の四季派詩人たる貴い所以を、私はそんなところに感じてきたのである。

 ところで「現代詩手帖」にても杉山平一先生の特集が組まれてゐたことを、この雑誌の後記で知った。いくら現代詩と縁のない人間でもこれは迂闊であった。國中さんの一文も収められてある由。早速拝見したいものと思ってゐる。

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641やす:2012/11/04(日) 16:09:38
大垣漢詩文化圏のこと
 「デイリー・スムース」の林哲夫様より『種邨親子筆』と題された貴重な写本詩集お送り頂きました。Comment欄の御教示によると、著者であるこの種邨恭節といふ人は伊勢国員弁郡の医師であった模様ですが、写本の後半部分にあたる、彼の嫡子と思しき人によって引き写された詩篇の多くが、さきにここでも御紹介した大垣の漢詩雑誌『鷃笑新誌:あんしょうしんし』にまつはる、明治期初期の岐阜の漢詩人の作品であるところから、その人は父親から文学的素養を受け継ぎ、桑名から揖斐川を遡って大垣に至るルートをたどって何らか美濃の漢詩文化圏とも直接関係があった人ではなかったかと思ってゐます。

 『鷃笑新誌』、大垣の漢詩といへば小原鉄心や野村藤陰が思ひ起こされる訳ですが、この分野でも新刊情報に疎い私は、彼等による紀行詩文集『亦竒録』の現代語訳なる一本が、大垣有志の肝煎によって今年の春に刊行されたことを知りませんでした。どういふ偶然か『鉄心居小稿』、『洞簫余響』の画像データを県図書館まで撮りに訪ねたその日に知って、早速連絡。品切れのところを特別に、このたびは刊行元の三輪酒造さんより貴重な残部一冊を職場の図書館まで御寄贈頂くことなった次第。執筆の横山正先生が、周辺情報にスポットを当てた「大垣つれづれ」 といふコーナーを地域サイトに連載してをられる前IAMAS学長であるといふことも合せて知ったのでした。

 酒飲みの小原鉄心から眷顧を賜ったといふ刊行元の酒蔵では、『バロン鉄心』なる記念銘柄の緑酒も発売されてゐます。この週末は私も出張、さても鉄心の時代とは比べ物にならぬ安直な日程でしたが、帰還しての秋の夜長を、古書と現代語版と二冊の『亦竒録』を披げ、任地の尤物を肴に一献、往時の酒盛りを偲んでをりました。

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642やす:2012/11/12(月) 23:07:32
『亦奇録』
 『亦奇録』の現代語訳版が図書館に入ったので、冒頭部分の訓読を少し許りテキストに起こしてみました。書き下しにはチャンペラ(アンチョコ)といふべき『大垣文教之心発掘顕彰シリーズ』といふ本があるのですが、これをなるだけ見ず、原本だけを睨んで書き起こしてゆくと、野村藤陰や菱田海鴎の章なんかは行書ですし、くずし字の解読や訓読の良い勉強になります。どうしても困ったら、訓みは『大垣文教之心発掘顕彰シリーズ』に、意味は『現代語訳版』に頼ったらいいのです。両者とも頭註には触れてゐないので、そこだけいい加減な私の読みですから御叱正を乞ふ次第。江戸時代の漢詩文集には、斯様な茶々が入るところが面白く、やはり省けません。

 畏れ多くも『現代語訳版』の著者である横山正先生から頂いたお手紙によると、該書は目下絶版。「大垣地域ポータルサイト西美濃」内での公開を念頭に、現在、訂正・補綴作業を進められてゐる由。また浅野忍氏が筆耕された『大垣文教之心発掘顕彰シリーズ』は、過去に以下のタイトルが出てゐるやうですが、私はまだ第2輯しか確認してゐません。伊藤信、冨長蝶如両先哲の後、大凡この二十年ほどで完全に断絶したといってよい旧世代の精神遺産継承を図る上で、私ども世代以降の読書家に資するところ実に大きな遺産の一つであると感謝いたします。

大垣文教之心発掘顕彰シリーズ

第1輯 小原鉄心『鉄心遺稿』1975.
第2輯 小原鉄心『鉄心居小原稿』『亦奇録』『洞簫余響』1975.11
第3輯 鴻雪爪『山高水長図記』1976
第4輯 不詳
第5輯?第6輯 菱田海鴎『海鴎遺稿』1984.3

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643やす:2012/11/13(火) 22:44:07
篠崎小竹手蹟法帖
 ところでオークションは欲しいものが出るたびに入会を繰り返して未だ縁が切れてをりません(見なきゃいいんです。苦笑)。このたび落札したのは篠崎小竹の手蹟法帖。さきに頼山陽と後藤松陰の自筆ものを入手してゐましたから、山陽の親友であり、松陰の義父であり、また我が家の書斎に挂けられた「黄巒書屋」扁額を揮毫された小竹翁のものとあっては、見過ごすことはできませんでした。無事落札に安堵。而して何が書かれてゐるのかも、小山正孝先生の訳文に助けられてをります。けだし一昔前なら入手方法も要脚も儘ならなかった、全国各地にお蔵入りとなってゐた旧世代の精神遺産たるお宝書蹟が、前述したところの継承断絶の末に、かうして貧乏収集家の許に再編されて一同に会することにもまた感慨を少なしとしません。詩人の訳とともに紹介致します。

「丹青引」 ―贈曹将軍霸―??? 杜甫
                           [ : ]は[原作:書帖]の異同を示す。
將軍魏武之子孫 於今為庶為青門
英雄割據雖已矣 文[采:彩]風流今尚存
學書初學衛夫人 但恨無過王右軍
丹青不知老將至 富貴於我如浮雲
開元之中常引見 承恩數上南熏殿
凌煙功臣少顏色 將軍下筆開生面
良相頭上進賢冠 猛將腰間大羽箭
褒公鄂公毛髮動 英姿颯爽[猶:來]酣戰
先帝[御:天]馬玉花驄 畫工如山貌不同
是日牽來赤墀下 迥立閶闔生長風
詔謂將軍拂絹素 意匠慘淡經營中
斯須九重真龍出 一洗萬古凡馬空
玉花卻在御榻上 榻上庭前屹相向
至尊含笑催賜金 圉人太僕皆惆悵
弟子韓幹早入室 亦能畫馬窮殊相
幹惟畫肉不畫骨 忍使驊騮氣凋喪
將軍畫善蓋有神 [偶:必]逢佳士亦寫真
即今漂泊干戈際 屢貌尋常行路人
塗窮[反:返]遭俗眼白 世上未有如公貧
但看古來盛名下 終日坎壈纏其身


絵画をうたう

将軍は魏の武帝曹操の子孫だ
現在は庶民だがもともとは名門の出なのだ
英雄割拠した時代はすぎ去ってしまったが
曹氏一門の文学芸術にすぐれた気風はなおつたわっている
書を学んで初め衛夫人の書風を学んだ
王右軍にかなわないのがただ残念だというまでになった
絵画の道に入っては年をとるのも気づかないほどだった
そうした身にとって富や貴い位は空にうかぶ雲のように関係ないものだった

開元の頃にはいつも天子にお目にかかり
その恩寵をうけて何度も南薫殿に参上した
凌煙閣の功臣たちの肖像が年月に色あせていたのが
将軍がそれに筆を加えると生き生きとよみがえった
名宰相が頭上にいただいている進賢冠
勇猛な将軍の腰のあたりの大羽箭
褒国公や鄂国公の毛髪は動いている
その姿は颯爽として戦いのまっただ中からいま来たばかり

先帝の御乗馬の玉花驄は
画工が何人も山のようにたくさん描いたがなかなか似ない
この日赤くぬった階の所までひきつれて来た
はるか彼方宮門に立つとさっと一陣の風がまきおこった
将軍に対して写生するようにとの天子のお言葉があった
構図をいろいろに苦心して考えて工夫していたが
あっという間に宮中にまことの竜馬が出現した
古来描かれて来た平凡な馬の姿なんかさっと洗い去った

玉花驄はいまやかえって天子の腰かけの上の方にいる
腰かけの上の方と庭前の方とそれぞれさっと立って向かいあっている
天子はにっこりとしてほうびの金をやれとおっしゃっている
馬のかかりの役人たちは皆このありさまにびっくりした
将軍の弟子の韓幹は早くから技法を極めていた
そして馬を描いてもまたなかなかみごとなものであった
ただ韓幹の場合はその形を描いてもまだ本当の精神は描けなかった
素晴しい馬が意気あがらずに描かれてしまうのはなんともやりきれない

将軍の描く絵には精神がこもっている
立派な人物の場合にはそれこそ真実の姿をうつし出すだろう
いま戦乱の世にあってあちこちとさすらっているので
しばしば平凡なつまらない行きずりの人を描いている
行きづまって困っている人間は世俗の人からは白眼視される
世間には将軍のように貧しい暮しの人もないようだ
そこに見るものは昔から名声のある芸術家は
志を得ず不遇の境涯を送る運命にまとわりつかれているということだ


 七言古詩。成都での作。原題は「丹青引」で、丹青は絵画に用いる赤や青たどの顔料からひいては絵画そのものをさし、引は曲調の一種でうたの意。したがって「絵画のうた」の意である。この詩には原注が付されており、「曹将軍覇に贈る」という。左武衛将軍の曹覇の画いた絵の絶妙さと、しかしそれが世上充分に遇されていないことをうたった作品。
 唐の張彦遠の『歴代名画記』巻九に「曹覇は魏の曹髦(曹操の曽孫)の子孫である。髦の画は後代に称えられている。覇は開元中にすでに有名になり、天宝末には天子の命で御馬や功臣をえがいた。官は左武衛将軍までのぼった」と記されている。しかし、天宝の末年には罪を得て、官籍を削られ庶人に貶されたと伝えられる。詩のなかにも曹覇の事跡はうたわれており、他にも曹覇の絵をうたった作品があり(「韋諷録事の宅にて曹将軍の画馬の図を観る引」)、曹覇の絵は杜甫に大きな感銘を与えていることがわかる。
 この詩は『唐詩選』にも採られていて古くから名高く、傑作の一つである。【小山正孝】

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644根保孝栄・石塚邦男:2012/12/09(日) 09:41:38
専門知識に驚嘆
久しぶりに覗いてみましたが、皆さんの専門知識には驚いてます。
なるほど、日本の文化の奥深さ、東洋の文化の深遠を感得してます。
今後も勉強させてください。

http://演習あ熱r哲に部う長

645やす:2012/12/10(月) 00:06:15
(無題)
石塚邦男様
おしさしぶりです。とても穏やかな古典修養の場と化してをります(笑)。

さても皆様よりの頂きものが其の儘となってをり、それぞれ私信にては御礼申し上げて参りましたものの(杉本深由起様、手皮小四郎様、ありがたうございました。)、とりわけて大切な2冊について御紹介が遅れてをります。
出張や日々の雑事に忙殺されてをりましたが、これ以上の延引は許されず、御周知頂くため一旦上記刊行の御報告まで申し上げます。

646やす:2012/12/10(月) 00:11:57
『感泣亭秋報』7号
 思ひ起こせば初めて創刊号を受け取りました時、抱負はそれとして「御遺族」としての想ひの丈を一度すっかり吐露してしまはれば2〜3号で已んでしまふ性質の雑誌ではないかと思ひなしてをりました。その後さらに号数を重ねてゆくのも、ひとへに坂口昌明さんといふ詩人の最大の理解者にして牽引者の意志を、常子夫人が温かく見守ってをられるからだらう、さうしてこのたびはその坂口氏を喪ひ、正見様の関心も感泣亭の活動には一区切りをつけ、御専門の児童俳句を通じて社会的な方向に向ってゆかれるのではないか、そんな風にも思ってをりました。今は不明を恥じなくてはなりません。「感泣亭スペース」の建設と運営を通じて、なにか家族の限定された想ひだけでは量ることのできない、地域の文化事業に発展する気配さへ窺はせる、正見さま発信の最近の催し物の数々に、自分の予想が裏切られる、これまた爽快さを感じてをります。
 このたびの誌面もその充実度に目を瞠るばかり。本来メインであってもをかしくはない坂口氏の追悼コーナーを措いて、特筆すべきは詩人小山正孝没後十年を記念して誌面を飾った、その他本格的論文の数々です。渡邊啓史氏と相馬明文氏と、小山正孝の文学出発期の分析が詩と散文と両つながら揃って掲載されたのは、四季派気圏内にあって文学の可能性を模索してゐた当時の詩人に一入の愛着を覚える私としても慶ばしく、また若杉美智子氏の文章も、いつもながら本質を突く初見の事に論及されるので、立原道造の周辺を探索する連載ともども早く単行本にまとめられたらと思ひつつ拝読。謹厳な蓜島亘氏の属文と並べはまことに対照的なものを感じ、こちらはこちらで今回対象となった小山正孝夫人の義兄であったロシア文学者安士正夫同様「批評眼ではなく精密な研究態度」を良しとする生真面目な学究ぶりの健在を確認したことであります。さらに戦後の四季派顕彰の立役者である麥書房店主堀内達夫氏について、夫人の回想は古書店主としての一面、矜持と鷹揚さといった為人を伝へるエピソードに満ち、限定版出版社「麥書房」の社主としても「家内工場化」した舞台裏の報告など、私も雑誌『本』のバックナンバーは愛蔵してゐますが、『感泣亭秋報』編集の御苦労と重ねたりしてみながら、堀内氏の生き様を偲ばせて頂きました。
 ここにても厚く御礼申し上げます。ありがたうございました。



『感泣亭秋報』 感泣亭アーカイヴズ2012.11.13発行

詩 なかよし  比留間一成
詩 博物館   小山正孝???????????????????????????????? 4

 −小山正孝没後十年−
灰色の抒情 −詩集『雪つぶて』のために−  渡邊啓史???? 6
小説家小山正孝の文学的出発への試み −官立弘前高等学校時代の小説を中心に− 相馬明文 33
小山正孝の詩を聴く             高橋博夫????43
小山正孝詩と遠近(おちこち)         富永たか子??44
小山正孝の詩世界6  『山の奥』       近藤晴彦???? 45

 −坂口昌明さん追悼−
坂口昌明さんの肖像             福井 一???? 49
坂口さんとの出会い             吉田文憲????51
津軽に沈潜する博物誌的形而上学−坂口昌明詩集『月光に花ひらく吹上の』小笠原茂介 54
坂口昌明の深遠なる世界 −「岩木山奇談集」の遥かな頂き− 小田桐 好信 56
不思議な関係                小山正見????60

感泣亭通信(小山常子著『主人は留守、しかし・・・』への返信) 65-71
曾根博義 内山百合子 伊藤桂一 岩田[日明]  相馬明文
渡邊俊夫 杉山平一 馬場晴世 池内輝雄 現影邦子
神田重幸 高木瑞穂 神林由貴子 富永たか子 木村 和
小笠原 眞 西村啓治

詩 青春のこと 大坂宏子 ??????????????????????????????74
詩 道行き   里中智沙 ??????????????????????????????76
詩 夏の行進  森永かず子 ????????????????????????????78


麥書房・堀内達夫の仕事  ???????????????? ??堀内 圭??80
小山正孝の周辺 −安士正夫とバルザック全集− 蓜島 亘 84
昭和二十年代の小山正孝 3 −小山=杉浦往復書簡から− 若杉美智子 98

感泣亭アーカイヴズ便り ??????????????????????小山正見 100

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647やす:2012/12/10(月) 00:23:05
『人間山岸外史』
 これまで掲示板でも同人誌「北方人」における連載を逐次御紹介して参りました池内規行様より、さきの『評伝・山岸外史』(万有企画 1985)を補筆して、新たにそれら“山岸外史人脈”に関する項目を連結させた新刊『人間山岸外史』(水声社 2012)の御寄贈を賜りました。不意打ちにも近い此度の刊行には爽快な驚きを感じ、もとより内容については既に読んだものである筈にも拘らず、装幀も瀟洒に一新され、近来の物忘れも手伝って却って最初から読ませて頂く楽しみを新たにしてをります。特筆すべきは、山岸外史をめぐっては私淑する一人者を譲らない下平尾直氏が編集の一切を担はれたといふこと。装釘もハイセンスな仕上がりに一新され、ことにも前著には無かった貴重な写真資料群は、太宰治研究者ならずとも必見とするところでありませう。
 合せて今回著者よりは『眠られぬ夜の詩論』『人間キリスト記』の御恵投にも与り、恐悦至極の有様です。急遽思ひ立ち古書店に発注した『煉獄の表情』とともに御著の理解に資する(あ、それは反対ですね 笑)これら原典につきましては、いづれ年末年始にでもゆっくり読書の時間をつくって臨むこととして、まづはここにても刊行のお慶びかたがた篤く感謝を申し上げる次第です。
 ありがたうございました。

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648やす:2012/12/19(水) 21:07:02
「杉山平一追悼号」その4 『文学雑誌』第88号
 杉山平一先生追悼雑誌のしんがり「文学雑誌」88号を、御息女木股初美様よりお送り頂きました。これまで、てっきり「季」のことを杉山先生のフィールドの“奥の院”と思ひなしてゐたところ、先生の戦後の詩歴とぴったり重ねられる、かくも来歴の古い雑誌の存在に驚き、詩誌ではないものの、ここに集はれる嘗ての若手後輩“後期高齢者の同人一同”の皆様の、杉山先生に対する温かいまなざし、物腰こそやはり穏やかであるもの年近い旧知の彼らにはなかなか厳しい批評もされた「油断のならん」壮年時代の先生のエピソードの数々を、まことに気の置けない得がたいお話として拝読させて頂きました。

 今回寄稿された初美様の回想もまたしかり。古いカセットテープ音源の話が出てくるのですが、音吐朗々の対談が収められてゐるといふ録音はいつ頃のものでありませう。湮滅する前にデジタル化して是非後世に遺して頂きたいものです。また前に逝かれた夫人、初美様御母堂に関する回想も、私生活の今現在をおおやけにはなさらなかった先生でしたから、初めて明らかにされることばかりであり、詩人には睦まじい詩人夫妻を内輪からながめた様子をぜひ今後も書き留めて発表して頂きたく思ふのでした。内輪といへばこのたびも瀬川保氏の、

 「表情といえば、夫人の通夜の晩のこと。椅子を引き寄せ、こちらに肩を凭せるようにして一言、「さびしいでェ」と洩らした。」

 などの条りには、いかにも先生らしい口吻が髣髴され、初美様が「びーぐる」の追悼記で記された浴室事故の、当の本人からの報告を書き写された桝谷優氏の文章なども、その深刻の態さへどこかあたたかく感じさせるのは、あながち関西弁のせゐばかりではないやうにも思はれたことです。

 ここにても御礼を申し上げます。ありがたうございました。


「文学雑誌」88号 2012.12.15発行21cm 106p 800円 題字:藤澤恒夫   表紙・カット:杉山平一
           文学雑誌発行所:豊中市緑丘4-29-3 大塚様方

【杉山平一作品抄】 「父」創刊号 昭和21年4p 「素粒子と新しがり」84号 平成21年19p
【杉山平一年譜・著書】 年譜抜粋22p 著書目録23p? 「文学雑誌」掲載作品抄24p
【追悼記】 26-39p 木股初美 大塚滋 涸沢純平 竹谷正 瀬川保 桝谷優
【創作】 文鎮(大塚滋) 外国切手(桝谷優) わが懐かしのチャンバラ映画(後篇)(竹谷正)40-105p
【編集後記】 瀬川保・大塚滋106p

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649やす:2012/12/30(日) 22:05:38
収穫回顧
今年は私生活に於いて、まことにめまぐるしい一年でありました。
来年は引き続き、人生の一区切りをつける一年となりさうです。


独坐聴啼鳥  独坐 鳥の啼くを聴き
関門謝世嘩  門を関ざして世嘩を謝す
南窓無一事  南窓 一事なく
閑写水仙花  閑かに写す 水仙花

年末年始は夏目漱石みたいな心境で閑居読書にいそしめたらいいのですが、
毎日老犬の下の世話に奔走する我が家では

独坐聴啼犬  独坐 犬の啼くを聴き
隣門謝臭禍  隣門 臭禍を謝す
南窓有一事  南窓 一事有り
閑瀉水洗禍  閑かに瀉ぐ 水洗の禍

といった感じでせうか(笑)。世話中に腰を痛め、万事億劫の寝正月となりさうです。

みなさまよいお年を。


本年のおもな収集品は以下の通り

掛軸: 原采蘋、服部擔風、頼三樹三郎、村瀬太乙、村瀬秋水、梁川星巌
色紙: 村瀬藤城、村瀬雪峡
折帳: 篠崎小竹、江馬金粟
写本:『行余堂近稿・述古斎詩稾』石井彭、『種邨親子筆』種邨恭節
和本:『高山竹枝』森春涛、『攝西六家詩鈔(含後藤松陰詩鈔)』、
『静軒百詩』寺門静軒、『松塘小稿』鈴木松塘、『清狂詩鈔』月性
『問鶴園遺稿』戸田葆堂、『鳳陽遺稿』神山鳳陽、『柳橋新誌』成島柳北、
『珮川詩鈔』草場珮川、『艮齋文略』『遊豆記勝・東省續録』安積艮齋

詩集など:
『生れた家』木下夕爾
『人間山岸外史』池内規行
『人間キリスト記』『眠られぬ夜の詩論』『煉獄の表情』山岸外史
『花とまごころ(増補活版)』竹内てるよ
『松村みね子訳詩集』
『音楽に就て』上林猷夫
『天地の間』藤原定
『干戈永言』『寒柝』『朝菜集』『覊旅十歳』『一点鐘』三好達治
『母』半井康次郎
『詩と詩人詩集』淺井十三郎 編
『鉄斎研究』本巻65冊 小高根太郎 (図書館納品)
『富岡鉄斎 仙境の書』野中吟雪

といったところ。
変ったものでは学生時代から敬愛する畑正憲先生の初版本とか(笑)。

しめて20万円ほどの購入は、他に耆むものもない自分として今年も分相応の散財でした。

http://

650やす:2013/01/01(火) 01:36:45
迎春
今年もよろしくお願ひを申し上げます。

https://img.shitaraba.net/migrate1/6426.cogito/0000815.jpg

651やす:2013/01/11(金) 11:18:32
『菱』180号 モダニズム詩人荘原照子 聞書連載20回 松江の人々
 鳥取の手皮小四郎様より『菱』180号を拝受。ここにても御礼を申し上げます。ありがたうございました。

 今回の荘原照子伝記連載は、終戦前後の松江在住時代が対象になってゐます。乏しい資料を補填するため、新たに現地に赴いた手皮様が当時の教会関係者にインタビューをされてゐるのですが、紀行的な運筆は導入部に故・杉山平一先生との手紙でのやりとりを配し、昭和初期の布野謙爾・景山節二ら松江高校文学圏を回想するとともに「椎の木」の分裂騒動が今一度言及されてゐます。さきの「季」97号での木股初美氏の記述はその先生側からの回想であることが判明しましたが、杉山詩の紹介など特段の配慮をたいへん嬉しく、拙サイトの紹介や、私信で御紹介与りました詩人菊池美和子の御遺族情報も忝く存じました。布野謙爾のプチブル資質をしっかり指摘されてをられるところには、手皮様らしさを感じます。

 さて詩人の在松時代の関係者から聞き取った内容と、詩人自身の聞書きテープとを照合する過程で、聞書きに現れなかったネガ証言として、故意に記憶から抹消されたと思しき鈴木といふ謎の女性のことが炙り出されて参ります。疎開といふべき田舎暮らしのなか、ハイブロウな芸術論談義を唯一共有できたといふこの同居人とは時に激しく議論を闘はせてゐたとのこと。すでに詩壇でも名を馳せてゐた彼女にとって一家言ある無名の後輩との共同生活の記憶は、総括すれば余り快いものではなかったのかもしれません。そしてこの地で洗礼し、正式なキリスト者として終末医療現場に身を置き、患者の心の支へになる一方で、自身の宿痾も悪化してたうとう長期入院することになったらしい。しかしその費用はどう工面してゐたのでせう?同居してゐた母は?

 死の恐怖・日々の生計と直面するのっぴきならぬ生活を送ってゐた彼女は回復の後、終焉の地となった鳥取へ移住し、手皮様と出遇ふこととなります。存在は知られてゐたものの永らく確認できなかった当時の写真が発見されるなど、判明した事実と疑問と、鳥取時代に入る直前の時代が一旦整理された格好の今回。羸弱な体でしたたかに詩作する面影は、聞書きから引かれた当時の歌「コツコツと小鳥の如く叩く音 いばりふと止めわれ応えたり」などといふ一首がよく伝へてゐるもののやうにも感じました。

652やす:2013/01/15(火) 23:36:23
(無題)
 手皮小四郎様より、さきの連載の杉山平一先生を語ったところを収めた「聞書きテープ」をお送り頂き、伝説の詩人荘原照子と手皮様の20年前の謦咳に初めて接しました。
 戦前詩壇の当事者御本人の口からポンポン飛び出す固有名詞といふのは語調、アクセントともに格別な響きありますね。ここにても御礼を申し上げます。ありがたうございました。

 また本日は田中克己先生の祥月命日。不肖の弟子もこしかた20年前当時の、不思議な精神状態だった自らを顧みては、人生の区切りとなる本年、不可視のゆくすゑに思ひをはせて一筆を草してをりました。

653やす:2013/01/16(水) 22:17:34
正月十六日夜
春夜二三更
等間出柴門
微雪覆松杉
弧月上層巒
思人山河遠
含翰思万端

都記由幾者 以川波安礼東毛奴者当万乃 気布能己余非耳 奈遠之可数計利

与板 大坂屋
維馨老尼       良寛


正月十六日夜

春夜 二三更
等間 柴門を出づ
微雪 松杉を覆ひ
弧月 層巒を上る
人を思へば 山河遠く
翰を含んで 思ひ万端

月雪はいつはあれどもぬばたまの けふの今宵になほしかずけり

http://libwww.gijodai.ac.jp/cogito/kanshi/ryokan/ryokan.html

654鸕野讃良皇女:2013/02/02(土) 13:05:08
ツイッターで呟くまずいかなと?
@cogito1967 こんにちは。貴ホームページの梁川星巖翁 附紅蘭女史』読書ノートのなかに『華漢寺』と掲載がありますが、多分、『華溪寺』が正しいのではないかと思いますがいかがでしょうか?
今は水谷弓夫の事を調べています。また、お世話になります。

655やす:2013/02/02(土) 21:02:15
(無題)
鸕野讃良皇女さま、御教示ありがたうございました。もちろん『華溪寺』が正しいです。OCRの校正もれでせうか、お恥ずかしいかぎり。火曜日に訂正させて頂きます。
ちなみにcogito1967ではなくcogito1961です。余生をいかに過ごすか計画中。今後とも御叱正よろしくお願ひを申し上げます。

656やす:2013/02/15(金) 23:04:02
訃報
職場で教鞭を執られた相馬正一先生が亡くなられました(2013.2.5没 83歳)。御存知のやうに太宰治研究家として、山岸外史をめぐっては池内規行氏とは意見対立する一方、私めに於いては、かの編集拙き『夜光雲』をお買ひ上げ下さった数少ない恩人。御冥福をお祈り申し上げます。

657やす:2013/02/15(金) 23:07:52
道下淳先生遺著
 また昨年亡くなられた、同じく職場の非常勤講師であられた道下淳先生(2012.6.14没 86歳)の御遺族より、遺著二冊を御寄贈頂きました。こちらも文学研究者ながら、照準はすべて地元に向けられ、連載記事を集めた此度の二冊も謂はば岐阜県文学散歩の趣きであります。まずは私の興味深い近世近代の項に目を通してをりますが、江戸時代の漢詩人から、深尾贇之丞はもとより蓮田善明の若き日、短かった岐阜教鞭時代にまで言及してをられることには吃驚。単に文献を引き写しただけではない、本人の回想や生き証人に対するフィールドワークが何気なく盛られてゐることにも感銘を受けました。けだし岐阜女子大学には私も奉職二十年、同じ長良に住みながら、もっと早くに郷土文学研究の先輩として謦咳に接して置くべきであったと、後悔しても始まりませんね。以下に二冊の書誌と陣容を抄出して遺徳を偲びます。


『美濃飛騨 味への郷愁』(『月刊 ぎふ』連載の岐阜県の食にまつわる文学散歩)道下淳著 2012/7道下郁子刊行 221p

目次:
岐阜に泊ったクロウ …… クロウ『日本内陸紀行』
中山道の味 …… 森祐清尼『善光寺道の記』
高山の枇杷葉湯売り ……  田中冬二「織姫」
落ちアユのころ …… 葉山嘉樹 日記
ジカバチを追って …… 下佐見老人クラブ『ふるさと物語』
ああマツタケ …… 館柳湾「高山の官舎に題す」
ボタン鍋のころ …… 幸田露伴『酔興記』
美濃と飛騨の雑煮 …… 青木九兵衛 日記
冬の味ネブカ汁 …… 齋藤徳元『塵塚俳諧集』
だらり餅考 …… 森春濤「多羅里 餅を売る店―思案餅と呼ぶ」
春を食べる …… 福田夕咲『紅箋録箋』
卵の“ふわふわ” …… 十返舎一九『方言修行金草鞋』
油のような酒 …… 梁田蛻巌 「桂貞輔に寄す」
幻となった真桑瓜 …… 貝原益軒『岐蘇路の記』
郷愁を誘うカレー …… 安藤更生『銀座細見』
うまい秋サバ …… 徳山民謡 板取民謡
常食だった菜飯 …… 『おあむ物語』
コロッケ、青春の味 …… 森田草平『漱石の思い出』
しな漬と、かぶら漬 …… 滝井孝作『折柴随筆』
とち餅を食う平民社員 …… 「平民新聞」
豆味噌文化圏で …… 向田邦子「味噌カツ」
水を量る …… 『尾濃羽栗見聞集』
お好み焼きへの郷愁 …… 高見順『如何なる星の下に』
里と山のタケノコ …… 獅子文六「春爛漫」
西洋料理のこと …… 内田百?『百鬼園随筆』
蒲焼きを好んだ人びと …… 斎藤茂吉 歌
食事と初年兵 …… 森伊佐雄「新兵日記」
精進落としの鯉 …… 水上勉「美濃谷汲」
甘柿と渋柿 …… 齋藤道三 書状
辛口大根と甘口大根 …… 池波正太郎「真田騒動」
年とりのごちそう …… 江夏美好「下々の女」
おやきの系譜 …… 『飛州志』
いろいろな弁当箱 …… 高田米吉「米吉庵日和」
甘酒のこと …… 興津要編『五文六文』
いかもの食い …… 十和田操「土地官女」
塩煎餅の思い出 …… 滝井孝作「高山の塩煎餅」
お茶について …… 『酒茶論』
大垣の水まんじゅう …… 長塚節「松虫草」
とうふ料理のこと …… 久保田万太郎ほか 歌
にぎり飯の思い出 …… 高見順「敗戦日記」
栗のうまいころ …… 吉野秀雄 歌
鯉と少年 …… 斎藤茂吉 歌
オカラのはなし …… 五十嵐喜広『濃飛育児院』
ごへいもち …… 島崎藤村『夜明け前』
切り漬けのこと …… 江馬修『山の民』
鯛焼き …… 高村光太郎『智恵子抄』
まんじゅう党銘銘伝 …… 池波正太郎『むかしの味』
柳ヶ瀬コーヒー譚 …… 『柳ケ瀬百年誌』
塩イカ煮イカ生イカ …… 島崎藤村『夜明け前』
塩 …… 辰巳浜子『料理歳時記』
かき氷 …… 『枕草子』
旅とうどん …… 松崎慊堂『慊堂日歴』
高山の朝市・夜市 …… 早船ちよ「高山の朝市」
トウガラシの思い出 …… 角田房子『味に想う』
高山のねずし …… 日比野光敏『ぎふのすし』



『郷土史シリーズ 悠久の旅』(岐阜県PTA雑誌『わが子の歩み』連載)道下淳著 2012/12道下郁子刊行 377p

目次:
金華山伝説 因幡社縁起の背景
伊奈婆の大神 日本霊異記の背景
両面宿儺(上) 仁徳紀の背景
両面宿儺(下) 社寺縁起の背景
美濃の一の宮(上) 金属神の背景
美濃の一の宮(下) 梁塵秘抄の背景
美濃の二の宮 伊吹山説話の背景
流浪する美女(上) 小野小町伝説の背景
流浪する美女(中) 和泉式部伝説の背景
流浪する美久(下) 中将姫、照手姫伝説の背景
水を司る女神 泳宮(くくりのみや)伝承の背景
古代安八郡のなぞ 壬申の乱の背景
伊久良河の宮を考える 神鏡奉遷説話の背景
古代の心を探る(上) 神話伝説の背景
古代の心を探る(下) 神話伝説の背景
峠に鎮まる神々
続 峠に鎮まる神々
忘れられた古代の道
大和勢力の美濃進出
将門をまつる神社
防人の道
水没した輪中地帯
吉野神社のナゾ
飛騨の「おばこ」
「おかざき」を追って
青墓の遊女と今様
西行法師の跡を追う
忘れられた信仰
美濃の馬 飛騨の馬
美濃路での水戸藩士
芭蕉は二度来岐した
「ああ野麦峠」
映画化された「夜叉ケ池」
鑑真を招いた美濃僧 映画「天平の甍」にまつわる人物を語る
ふるさとの古川柳 飛騨の巻
川柳でえがく美濃の国(1)
川柳でえがく美濃の国(2)
異聞 飛騨の伝説
濃飛写真事始
隠れた婦人運動家 西川文子
悲劇の親分 弥太郎(上)
悲劇の親分 弥太郎(下)
「赤報隊」東へ
新選組伍長 島田魁(上)
新選組伍長 島田魁(下)
二人の新選組隊土 新選組と美濃
濃飛育児院をめぐる三人
岐阜での蓮田善明 岐阜第二中の教師
正眼寺と詩人 高橋信吉

問合せ先:〒502-0071 岐阜県岐阜市長良982-1 道下郁子様

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658やす:2013/03/24(日) 21:53:57
詩集のこと
 今週またひとつ年をとります。五十も二年過ごした爺となりますが、おもふところあって(もちろん相手もあってのことですが)今月再婚しました。公私ともに多忙となりさうな新年度を、些か面映ゆい新生活で迎へるにあたって、別段語るべき新しい文学的な抱負がある訳ではありません。けれどこんな節目を機会にこれまでの自分の詩作を“ちゃんと背表紙のある本(笑)”にまとめておきたい、と考へるやうになりました。
 久しぶりに十五年以上前の作物を読み返してみて思ったのは、自分の作風が気候や政治のレベルで現在真実に喪はれつつある日本の自然風土に頼りきりのものであり、自然と共生する発想を失ひつつある新しい日本人の目からは、書かれたとき以上に“お幸せな”孤立点として映るのではないかといふ惧れ、といふか感慨でした。
 読んで頂きたい詩人の皆様はあらかた既にこの世になく、もとより世に問ふといふ性格の本でもなく、四季派の詩とは無縁で生きてゐる人に配って歩くつもりもないですが、方々の図書館には寄贈しますので一瞥頂けましたら幸甚です。書斎に積み置かれた在庫を先達の詩集とならべて眺め、弔ひながら日々を覚悟のなかに過ごす、そんな風に今から観念苦笑してゐる次第です。

5月刊行予定『中嶋康博詩集』潮流社 限定300部 内容(「?夏帽子より」「?蒸気雲より」「?雲のある視野」)120ページ余 上製函付 頒価未定

本日より掲示板を自由投稿モードではなく日記モードとさせて頂きました。御指摘・御感想などございましたらメールにてお寄せ下さい。

659やす:2013/04/07(日) 23:00:35
論考「『希望』と命令」
 國中治様より杉山平一先生についての論考「『希望』と命令」を巻頭に掲げた「文藝論叢」79号(大谷大學文藝學會)、および文芸同人誌「愛虫たち」Vol.81 をお送り頂きました。ここにても御礼を申し上げます。ただいま年度初めの仕事に忙殺中のところ、まさにそれゆゑに、杉山先生について書かれた文章を毎朝少しずつ“味はふ”幸せを満喫させて頂きました。 いったいに四季派の詩作品については、論考をものしようと語れば語るほど読後感として野暮(無味乾燥の学問的論文)に落ちることも多いやうに思はれ、むしろ私などは気楽な立場から詩人のエピソードを集めた回想文の方を好むやうな下世話人間なのでありますが、そこはそれ、制作心情の機微に分け入って行く國中さんの筆鋒には、詩作者としての血が確と通ってをります。長年の交際事実に甘えることなく、杉山先生の「プライベートの楽屋内」ではなく「制作の楽屋内」を、誤解を避ける慎重な語り口を保持しながら、広範囲の文献を余さず浚って案内して下さる手腕を俟ってはじめて、学問的論文を味はふなんてことも有り得るんだらうなと(いつもながらのことですが)感じ入ってしまひました。 杉山詩の二大特長であるウィットとヒューマニズム。これの実例を挙げて詩人論を済ますひとが多いのですが、その根本事情として横たはってゐるのが、詩人が「正反対の感情や成り行きを想定せずにはいられない表現者」であるといふことを、いみじくも指摘してをられます。それはただ表現者の方法論としてさうあるだけでなく、祖国の敗戦・愛児との死別・実家倒産といった不条理な困苦が戦後の詩人に強いた、処世術以上の、その人の本性にまで焼きついた姿勢として詩作の外にあってもさうであった、といふことなのでありませう。さうして例へば私がいつも杉山先生の人徳として敬服する、小野十三郎と保田與重郎の双方に配慮するやうな心情、それが一点の打算もない自省に満ちたものである点などを顧みましても、合理主義を貴ぶ一方で最も日本人的な性向を受け継いでゐる、謂はば四季派詩人としての根本性格を、たしかにこの詩人も持ち合せてゐることが肯はれるのであります。自分の言動を相手がどのように感じ、どのように受けとめたか。それを絶えず相手の側に立って考えてみる。杉山はそういうひとり遊びのような習慣を身につけていたのかもしれない。17p  はしなくもそれが詩人の場合は、自虐史観を戴く戦後ジャーナリズムから独り特別視される理由となり、また同時にその安全地帯を無視して四季派を擁護し続けた信念ともなった訳であり、國中さんの論旨に全的賛意を寄せるとともに、「自分の怒りそれ自体に距離を置く」ところまで自らの良心を追ひ詰めてみせる、詩人の真摯な敗北主義については、同時にといふべきか、その素顔について、御遺族・地元の関係者から関西弁を基調とした楽しいエピソードをもっとお聞きしたい、とも思ったりしたのでした。 とまれ、授業評価と論文本数と広報業務と、三方からの要請に疲弊し切ってゐる昨今の大学の先生方と間近に接してゐる仕事柄のせゐでせうか、とくに感じることなのですが、斯様な、詩の愛好者が読んで快くなるやうな論文を書き上げ、紀要巻頭に示し得る國中先生のモチベーションと力量とには唯ただ快哉の声を叫ばずにはゐられません。四季派学会の今後がどうなるのか分かりませんが、今や実質的な代表者として益々の御健筆をお祈り申し上げる次第です。 ありがたうございました。

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660やす:2013/04/19(金) 09:55:29
モダニズム詩人荘原照子聞書き「近藤東、荘原を探す」
 手皮小四郎様より『菱』181号拝受。ここにても厚く御礼を申し上げます。

 今回の荘原照子の伝記連載は、詩人の死亡伝説ならびに戦後ときを隔てて彼女が懐旧され探索され発見された事件(?)について。新聞の発見スクープについては本連載の初めにすでに詳しいですが、そこに到る経緯として最初に紹介されてゐるのは、同じく横浜のモダニズム詩人だった後輩の城田英子、木原孝一による、敗戦前夜の詩人を報告する回想文です (『詩学』1957.12『現代詩手帖』1960.5)。そして“戦友たち”と再会を果たした当時の貴重な写真が二枚。永らく詩壇と没交渉だった自分の生存事実が、新聞記事になるほどの話題となったことについての詩人自らの感想を、どのやうに手皮様が聞きとられたのか、交流を断った心情とともに連載初回時とは角度を変へて聞きたく思ひました。
 また表題のとほり、近藤東が彼女を捜索するために出した『週刊新潮』(1966.3.12号)の訪ね人広告のことが出てくるのですが、詩人をよく知るが故に死亡伝説を信じてゐた身近な人達ではなく、却って「他人とドメステイクな交際をあまりしない」彼だからこそ捜索にのりだすこともできたのではといふ手皮様の推測はなるほどです。皮肉屋の自己分析が妥当かどうかはともかく、都市型のモダニズム詩人として認知される彼に、岐阜のことを記したものは少なく、また北園克衛ほどに抽象的な抒情詩としても故郷を懐古することがなかった事情の一斑にも、確かにさういふ側面があったのかもしれません。

 それから編集後記ですが、Iといふ鳥取出身詩人の悪評が書かれてゐて、もしかしたら伊福部隆彦のことかとも思ったのですが、私の仄聞したところの氏の為人は、戦後に成った抒情詩篇そのままの純粋な、無名の才能を発掘したり、生田長江に篤く事へて兄弟弟子だった佐藤春夫が師の生身を疎んずるやうになったことに憤慨してゐた、などといふ、誠に侠気に富んだものばかりだったので、地元の詩人達に嫌はれてゐるのがその通りであるなら、意外のことに思ひました。たしかに気宇は大きく、転向の前歴もあり、前衛の自負が当たり前だった現代詩詩人の集まりからは、凱旋帰国もはなから色眼鏡の対象となってゐたのかもしれません。この段、私も当事者を知らぬ故いい加減のことは申されませんが、愛弟子の俊穎増田晃が戦後を生きて居たらとあらためて思はざるを得ませんでした。

 御身体ご自愛いただき、あと1〜2回で終へるといふ連載の完結をお祈りしてをります。ありがたうございました。

661やす:2013/04/23(火) 21:30:50
杉山平一追悼号:『ぜぴゅろす』『こだはら』『海鳴り』
 杉山平一先生御息女初美様より杉山先生の追悼号雑誌の貴重な余部をお送り頂きました。三誌みな未見のものにて、ここにても厚く御礼を申し上げます。

『ぜぴゅろす』9号 清里の森・自在舎
『こだはら』35号 帝塚山学院大学
『海鳴り』25号 編集工房ノア

 帝塚山学院大学と編集工房ノアは、杉山先生が長年馴染んだ、謂はば地元のホームグランド。前回ブログに記した「その素顔について、御遺族・地元の関係者から関西弁を基調とした楽しいエピソードをもっとお聞きしたい」と思ってゐたところを、多くの人々によって、それぞれ教員として詩人としての側面から窺ふことができました。
 『こだはら』では、大学の同僚であられた佐貫新造氏が杉山先生の笑ひ声について、本当にkaの発音で「カッカッ」と笑はれたと述懐する「杉山平一先生寸秒」や、女学生に「平ちゃん」と愛称された壮年時の面影ならでは逸話の数々が興味深く、また昨秋行はれた「杉山平一さんを偲ぶ会」に御招待いただいたにも拘らず出席できなかった私にとって、その進行の詳細が記された『海鳴り』掲載の「記録抄」は有難く、嬉しかったです。幹事を務められた以倉紘平氏の、現代詩人賞授賞式のために用意された一文はすでに『びーぐる」追悼号で読んでをりましたが、宝塚市長以下、八木憲爾・國中治氏ほか皆様の壇上での御言葉のほか、二百名余の満場が感じ入ったといふお孫さんのスピーチに触れることができ、まことにこれは販促誌の域を超える内容。その編集工房ノアを主宰する涸沢純平氏は、同誌に現代詩人賞授賞式の様子を報告する傍ら、別に『ぜぴゅろす』に一文を寄稿してをられます。
 この『ぜぴゅろす(西風) 』といふ雑誌、同名の詩集が杉山先生にありますが、高原にあって“関西からの風”先生の作品一篇を毎号巻頭に掲げ、四季の詩人たちに深甚の敬意を払ふ趣きがあります。御息女初美様の「父の思い出」の続きも載ってゐて、講演や原稿の依頼があるたび「えらいこっちゃと苦笑いしながら」娘に話をされた様子など、微笑ましく髣髴されたことです。
 茲に関係するページの目次を掲げます。
 ありがたうございました。



『ぜぴゅろす』9号 清里の森・自在舎 2013.4.20  \700

青風                     涸沢純平   24-26
杉山平一さんのこと              眉村 卓   68-69
希望について                 鈴木 漠   70-71
杉山さんの澄んだまなざし           三木 英治  72-75
杉山平一と経験の抒情化            中村 不二夫 76-78
「ぜぴゅろす」 に乗っかる          桜井節    79-81
父の思い出                  木股初美   82-85



『海鳴り』25号 編集工房ノア 2013.5.1 非売

杉山平一写真と略歴                     64
『希望』について              以倉紘平    65-68
おじいちゃんへの手紙            木股真理子   69-71
杉山平一さんを偲ぶ会 記録抄                72-83
足立さんに教えられたこと1993.8.7「夕暮れ忌」講演 杉山平一 84-94
東京日記                  (涸沢純平)   95-98



『こだはら』35号 帝塚山学院大学 2013.3.10 非売

瞬時とスピードの詩 −学院詩人杉山平一先生− 鶴崎裕雄 4-8
杉山平一先生を偲んで             長谷俊彦 9-11
杉山平一先生寸描               佐貫新造 12-14
杉山平一先生 −曲がり角の向こう−      河崎良二 15-19
杉山さんのこと                山田俊幸 20-22
プリズムのような −杉山先生のこと−     石橋聖子 23-26

杉山平一抄・『帝塚山学院大学通信』『こだはら』
詩鈔 27-64
長沖さんという存在(追悼文)               65-66
大谷晃一『文学の土壌』(書評)              67-68
弥次馬(エッセイ)                    69-71
小野十三郎『環濠城塞歌』(書評)             72-73
米倉巌氏の三著を読む(書評)               74-79
庄野英二詩画集『王の悲しみ』(書評)           80-83
庄野英二詩画集『たきまくら』(書評)           84-86
庄野作品のユーモア(追悼文)               87-90

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662やす:2013/04/30(火) 07:14:57
詩人平岡 潤――4人目の中原中也賞
 杉山平一先生が戦 前に受賞した「中原中也賞」。長谷川泰子が寛大な夫である中垣竹之助氏の経済力を恃んで興した雑誌「四季」ゆかりの文学賞である。詮衡が「四季」の編集方 に委ねられ、「文藝汎論」の詩集賞と較べると、より「抒情詩に対する賞」の性格が強い。第1回は昭和14年、亡くなった立原道造に、第2回は雑誌の遅刊が 続いたため昭和16年に2年分として杉山平一、高森文夫の2名に。そして第3回が昭和17年、平岡潤に授与され、以降パトロン中垣氏の事業悪化により途絶 した。 立原道造はもちろん杉山平一、高森文夫のお二方も昭和期の抒情詩史を語る上で名前の欠かせないひとであるが、平岡潤といふ詩人の知名度は如何であらう か。戦後、地元三重県桑名市で地域文化の顕彰にあたり、市史の編纂をなしとげた偉人であるが、賞の詮衡対象とされた詩集『茉莉花(まりか)』は、刊行部数 がたった 120部しかなく、古書でも目に触れることは殆どない。そして投稿の常連者であったのに、戦後、「四季」が復刊される時に彼の名前が無いのである。彼はま た、自由美術家協会から協会賞を受けたといふ絵画界からも遠ざかってゐるが、しかし中部地区の詩人が(在住を問はず)一大集結した『中部日本詩集』(昭和 27年刊)に参加せず、巻末の三重県詩壇の歴史展望の際にも一顧だにされぬといふのは、奇異でさへある。 これは詩集『茉莉花』が軍務の傍らに書き綴られた詩篇を中心とし、伏字を強いられた作品を含みながらも、その作品は旧帝国軍人の手になるもので、彼は戦 意高揚の詩人である、とい烙印を捺されたからなのであらう。多年の軍歴は公職追放をよび、彼は教師の地位からも追はれ、已むを得ず古書店を始めるに至った が、奇特なことに店を繁盛させることより地域資料の散逸をふせぐに遑なかったらしい。これだけの逸材を世間が埋もれさせる訳はなく、中学時代の恩師から詩 史編纂に協力するやう声がかかったのは、むしろ当然の成り行きだったかもしれない。 けだし詩人が戦後、詩壇ジャーナリズムから黙殺・抹殺の憂き目に遭った事情は、岐阜県出身の戦歿詩人山川弘至と同じであり、その後現在に至るまでの詩壇 からの冷遇が能くこれを証してゐる。彼の場合は、なまじい戦争に生き残って、しかも一言も抗弁することなく、故郷に逼塞して歴史顕彰に勤しむやう、自らを しむけなければならなかった。その心情は如何ばかりのものであったらう。南方で米軍に降伏、収容所生活にあっては、ダリの紹介記事を翻訳したり随想をした ため、戦後の文学活動復帰に十全の備へを怠らなかった彼であった。詩才のピーク時を示す「錨」などの詩篇に顕れてゐる丸山薫の詩に対する理解の深さ、そし て授賞時の言葉を考へると、隠棲した豊橋で中部日本詩人連盟の会長に担がれた丸山薫本人から、なにがしかの再起の慫慂がなかったとも思はれ難い。なにより 詩人自身に、さうした文学への思ひや未練を記した雑文 は残ってゐないものだらうか。事情を取材すべく詩人の遺稿集『桑名の文化―平岡潤遺稿刊行会 (1977年刊)』にあたってみた。 桑名の図書館まで足を運んだものの、文学の抱負が記された自筆稿本『無糖珈琲』は未完のまま埋もれ、遺稿集には地元の歴史文化に対する随想が収められて ゐたが、自身の詩歴をめぐる類ひのものは一切得られなかった。むしろ詩を共に語るべき師友のなかったことを、却って物語ってゐるやうな内容であった。なか に引用されてゐる新聞記事も、彼が画家として立つことができなかったことは紹介してあったが、晴れがましい詩歴については触れられてゐなかった。もっとも 巻末には稀覯詩集『茉莉花』の全編ならびに戦前の拾遺詩篇の若干が収められてをり、詩人が眠る市内昭源寺境内には、立派な「詩碑」が建てられてゐるのを 知った。わたしは早速その足で墓参に赴いた。 詩人は昭和50年、郷土史の講話の最中に仆れたといふ。そのため詩碑の建立は詩人の遺志であったとは云ひ難く、その人望の結果であるには違ひない。そし て決して恥じることのない戦前のプロフィールも、地元では尊敬を以て仰がれてゐたことを証するかのやうに、碑面に刻まれてゐたのは彼の郷土史研究の功績で はなく、若き日に自らの前衛絵画を以て装釘を施した、晴れがましい中原中也賞受賞の詩集書影。そして戦後間もなく、未だ詩筆を折ることを考へてゐなかった 時代に、詩的再出発の決意を宿命として表した「名誉」といふ一節が選ばれてゐたのであった。  名譽 詩人は生まれながらにして傷ついてゐる。傷ついた運命を 癒さんために、彼は詩を創るのではなくして、詩を創ることが、傷ついた運命の主なる症状なのである。不治であるといふことは彼の本来の名譽と心得てよい。 昭和二十一年七月十日             平岡潤                 (未刊の自筆稿本『無 糖珈琲』第25節に所載の由) 生涯独身を貫き「郷土史研究がワイフ」とうそぶいてをられた詩人。財産を遺すべき子供の無く、代りに建てられた一対のレリーフの間を“一羽の可憐な折り 鶴”が繋いでゐたのは、その折り方を考案した地元僧侶の顕彰活動に努めたからといふより、なにかしら詩人の「本来の名誉」の鎮魂のために ――、と思はれて仕方が無いことであった。(2013.4.30up) 茲に詩集『茉莉花』の全書影と、初出雑誌の一覧、そして遺 稿集の巻末に久徳高文氏がまとめられた年譜と後記を掲げます。謹んで詩人の御魂と御遺族に御報告するとともに、塋域および御遺族情報を御案内いただきまし た昭源寺様に御礼を申し上げます。ありがたうございました。

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663やす:2013/05/19(日) 19:08:25
杉山平一先生一周忌
本日は杉山平一先生の一周忌です。御魂に御報告すべき拙詩集は、刊行が祥月命日に間に合ひませんでした。すでに校了し、月末頃にできあがる予定です。寄贈者へお配りしたのち、あらためて御報告御案内申し上げたく存じます。さて、杉山先生を支柱に仰いだ同人誌「季」に年長者として参加されてゐた詩人、清水(城越)健次郎氏の戦前の詩集『失ひし笛』を手に入れました。三好達治から「これは面白いね」と批評されたのは、“ミニ『南窗集』”といふべき外装をふくめてのことでありませう。「季」の先輩同人二氏による追悼文とともに御紹介します。このたびは他にも北国の詩人たちの詩集を4冊、そして雑誌「詩魔」のバックナンバーも4冊入手しました。「詩魔」は、名古屋で廃刊した「青騎士」と踵を接して、当地岐阜から創刊された詩誌。同時期の『牧人』と同様、版型や囲み枠など「青騎士」を意識した豪華な造りです。今週より出張が続きますがおちついたら順次紹介したく、お待ちください。周旋頂いた古本先輩からは別に稀覯詩集の画像も多数お送り頂き、ここにても感謝申し上げます。ありがたうございました。

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664やす:2013/05/31(金) 00:24:20
相馬御風旧宅
 先週今週と2週間かけて全行程2200kmにのぼる新潟県大遠征の出張を敢行、携行した本は満足に読めませんでしたが、帰路糸魚川では良寛禅師を思慕した相馬御風の旧宅に立ち寄ることを得、宮大工の旧家の出であった詩人の神経が行き届いた日本家屋のゆかしい造りを堪能してきました。一階仏間から眺められる雪落しの為の坪庭や、浜風が通り抜けて行く二階の書斎など、この季節の眺めは羨ましい限りでしたが、ことさら冬はさびしい故郷に帰り、同じ北越の風に吹かれる環境に身を置いて良寛の生き様を祖述し続けた相馬御風の後半生は、隠栖といふより、“生涯現役”の中身を、真に自足した後半生を送ることに見出し得た田舎暮らしの理想でありませう。床の間には、戦前に頒布された桝澤清作の、私が入手した御風箱書の銅像と同じ鋳像が飾られてをり、感慨無量でした。

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665やす:2013/05/31(金) 00:34:13
帰還後に
 大牧冨士夫様より『遊民』7号を拝受、ありがたうございました。
『中野重治書簡集』覚書は、大牧様宛の一通について本人による解説が付されることで大冊の資料的価値が補強されるとともに、中野重治との個人的な思ひ出の再確認の後ろ盾として斯様な大冊が与ってゐることに、感慨も感じていらっしゃるのがわかる一文。そして「船木山の滑走路」の話は大東亜戦争をめぐる貴重なオーラルヒストリーであり、村松陸軍少年通信兵学校(新潟県五泉市)の話が出てきますが、私も出張の折に一度立ち寄ってみたいと思ひました。

 また前の掲示板にて触れました清水健次郎氏の御子息より、御尊父の遺著にして、戦前に刊行された詩集の集成を含みます『麦笛』の貴重な残部を御寄贈頂きました。出張より帰着したばかりのことにて本当にびっくりしてをります。いかなる符合か、わたくしもこのたび集成詩集を刊行することとなり、ただいま発送の準備に追はれてゐますが、四季派に親しい戦前詩人の言葉のひびき、香り高い内容については、あらためて御紹介させて頂きたく、とりいそぎの御礼を申しのべます。ありがたうございました。

666やす:2013/06/01(土) 21:30:25
お詫び
 出来上った拙詩集の背表紙の箔押ですが、製本屋が訂正を要求してくるままに任せきりにしたところ、とんでもないセンスで上がってきてしまひました。このまま皆様に送り出す勇気なく、やり直しをしたいと思ってゐます。

 そのため五月晦日の刊行日はそのままに、発送が遅れることになりました。本冊中身と函は思ひ通りに作って頂いたので、不取敢“函の写真だけ”お披露目させて頂きます。

 著者の意図とは異なる装釘はいづれ各地の図書館にて確認することができると思ひます。(図書館版:として20余冊は発送済、さらに追加発送の予定)

 作り直した「正規版」第一陣発送は、6月29日の予定です。
 7月に入ってあらためて刊行報告と御案内を申し上げます。

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667やす:2013/06/23(日) 00:00:50
受贈雑誌より
「稀覯本の世界」管理人様より、杉山平一先生が執筆する種々の詩誌バックナンバーをお送り頂いたので幾つか御紹介。●「現代詩」(No.24:昭和23年10月)は、戦後まだ出版事情の悪いなか、無傷だった新潟北魚沼郡の淺井十三郎の根拠地「詩と詩人社」を使ひ、編集をそっくり中央に預けて刊行された雑誌。日本現代詩人会の母体となった錚々たる同人の顔ぶれをみるに、巻頭に掲げられた杉山先生の詩論「詩に於ける肉声」の筆致がめづらしく力んでみえる理由もなるほどと納得される貴重な一文。●「詩学」(No.40:昭和26年8月)は、「現代詩手帖」とともに戦後ながらく詩壇の公器を以て並称された雑誌(2007年に廃刊)。特集「死んだ仲間の詩」として立原道造以降、亡くなった若い詩人達17名の回顧・紹介が行はれてゐる。死後にデビューしたといってよい森川義信や楠田一郎のほか、加藤千晴、西崎晋、饒正太郎といった人達が挙げられてゐるところに注目。杉山先生は津村信夫について、例の「小扇」から触発されて詩の世界へ入った思ひ出を草されてゐる。この雑誌、しかし目を引くのは匿名編集子による「詩壇時評」と「MERRY GO ROUND」であらう。ことに木原孝一と思はれる後者の毒舌ぶりが酷い。おそらくは物議を醸し、俎上に載せられた詩人も腹の虫が到底おさまるまいところを添付した(「女性詩をめぐって」の項)。とくに戦前モダニズム傘下にあった江間章子・中村千尾らの「劣化」に対してはげしく不満を爆裂させてゐるのだが、これは批評子が前項で「北園(克衛)氏の娯楽的模倣者」に対して放った攻撃と同様、所謂「荒地派」のポレミックなスタンスを前世代のノンポリ先輩たちに向けて投げつけたものにすぎない。むしろ抒情詩の正道をぶれずに歩んでゆく永瀬清子の作品を、寄稿者でもあるためであらうが、ひき較べて高く評価してゐる。前項でも北園克衛本人については、その独自の純粋性を以てあからさまな批判だけは留保してゐるが、この「マダムブランシュ」ばりの匿名子の毒舌にかかると「アバンゲールvsアプレゲール」といふ対立も皮肉っぽく「アスピリンエイジvsアトムエイジ」などと書き換へられる。本誌には木下夕爾が戦後に問うた詩集のタイトル詩篇である「笛を吹くひとよ」も載ってゐるが、彼もまた抒情詩系の雑誌「地球」では、そのスタンスを秋谷豊から社会的に飽き足らぬと批評されてゐることを思ひ出した。批評精神の欠如とやらに対する手厳しさといふのは、近親する者に対する程なかなかにやっかいなものであったらしい。●「詩」 (No.10:昭和52年10月, No.12:昭和53年7月, No.18:昭和55年1月)第4次「四季」廃刊後、会員たちが東西で「四季」の名を「詩」と「季」に分けあって発刊した、これは関東の方の機関誌である。あんまり漠然と座りが悪いので「東京四季」と改めたのだと聞いた。10号には杉山平一先生の詩集『ぜぴゅろす』に寄せられた各氏の書評。「ひと世代」前の長江道太郎氏からの一文に感じ入る。18号では『夜学生』寄贈に対する各氏からの礼状のなかで、明晰を旨とする自負を込めた「ピラミッド」を認めてくれた中野重治に対する私かな恩義と親愛が語られてゐる。ここにても御礼申し上げます。ありがたうございました。

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668やす:2013/06/23(日) 00:37:14
受贈雑誌より 2
●「木いちご」 (No.1:昭和4年4月)

わが蔵書中、とびきりお気に入りの一冊が『木苺』(昭和8年 椎の木社刊行)といふ詩集である。その著者である山本信雄自身が主宰者となってゐる昭和初年の詩誌も、また同時にお送り頂いた。もちろん初見である。

以前このサイトで「食パン型」サイズの詩集の系譜について語ったことがあったが(四季派の外縁を散歩する第01回、第13回)、この一冊の発見によって、方形に近い特殊な詩集のサイズが、タイトルとともに永らくこの抒情詩人のうちに温められてゐたことが判明した。詩集中に「木苺」といふ同名タイトルの詩は収められてゐない。名も形も共にまた随分さかのぼったところに偏愛の灯はともされてゐた、といふべきである。まことにささやかなこの雑誌が何号続いたかは知らない。けだしその未来に作られる詩集の原型と、彼の代表作である「紗羅の木」一篇を世に送り出したことにのみ、意義を認め得る雑誌であった、といってよいかもしれない。

内容は出張帰還後、サイト上に公開したい 。

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669やす:2013/06/26(水) 21:46:35
山川京子歌碑除幕式
 岐阜県郡上市旧高鷲村の山中にある国学者詩人山川弘至の実家の裏山には、戦歿した詩人を追慕顕彰する目的で昭和33年、故郷の自然を詠んだ、身の丈に余る巨大な歌碑が建立されてゐる。

「うらうらとこぶし花咲くふるさとの かの背戸山に遊ぶすべもがも」

 その隣に、このたび新しく少し小ぶりの山川京子氏の歌碑が建ち、除幕式が行はれた。短歌結社「桃の会」の世話役であり靖国神社の権禰宜でもある野田安平氏が祭司となり挙行された式典には、御遺族をはじめ桃の会や地元関係ほか30余名の列席者があったが、末席に私も加はり見守らせて頂いた。碑の前で、詩人の弟君である清至氏が義姉の成婚70年をふり返へり、敗戦間際の僅かなひとときを共にされた純愛と、そののち今日にまで至る貞節、そして亡兄の顕彰活動の尽力に対して、感無量の涙を浮かべられた挨拶が印象的だった。また「斯様な記念物は自分の死後に」「せめて長良川の小さな自然石で」といふ本人の希望は叶へられなかったさうだが、強い意向であらう、両つを並べず、まるで夫君を永久(とは)に見守らんとする如き位置に据ゑ置かれた京子氏のお気持を忖度した。いしぶみに刻まれたのは、今年92歳になる未亡人が万感の思ひをこめた絶唱である。

「山ふかくながるる水のつきぬよりなほとこしへのねがひありけり」

 岐阜県奥美濃の産である抒情詩人にして国学者であった山川弘至とその妻、歌人として生きた山川京子は、一者が一者を世の無理解から護り顕彰することで、現代から隔絶した鎮魂が神格化してゆき、逆に今度は一者が一者の祈祷を後光で見守らんとする、もはや不即不離の愛の一身(神)体といふべき、靖国神社の存在意義を示した象徴的存在であり、祭主である京子氏は、同時に国ぶりの歌道(相聞)を今に伝へる最高齢の体現者であるといってよいのだらう。私にとっても杉山平一先生が逝去され、戦前の遺風を身に帯びて文学史を生きてこられた風雅の先達といふのは、たうとう山川京子氏お一人となってしまった。主宰歌誌「桃」が終刊した後に、余滴のごとく続いてゐる「桃の會だより」には、それがいつでも絶筆となって構はぬ覚悟を映した詠草が掲げられ、和歌の良し悪しに疎い私も、毎号巻頭歌だけは瞠目しながら拝見してゐるのである。

 式次第には山川弘至の詩が一篇添へられ、野田氏によって奉告の意をこめ同時に読み納められた。6月の緑陰の深い式典会場には、詩篇そのままに谷川が流れ、ハルゼミがせつなげに鳴きはじめ、まさに京子氏が詩人を讃へた「高鷲の自然の化身・権化」を周りに感じながらの梅雨晴れの一刻であった。かつては山々も杉の木が無節操に植林されることはなく、今よりさらに美しい姿を留めてゐたことを京子氏が一言されたのも心に残ってゐる。

  むかしの谷間
               山川弘至

むかしのままに
青い空が山と山とのあはひにひらき
谷川はそよそよとせせらいで
屋根に石をおいたちいさな家のうへ
雲はおともなくゆききした
夏 青葉しげつて夏蝉が
あの峡のみちに鳴いてゐた
あのころの山 あのころの川
そして時はしづかに流れてゆき
雲はいくたびか いくたびか
屋根に石おいたちいさな家々のうへを
おともなくかげをおとしてすぎ
私のうまれた家のうすぐらい
あの大きな古い旧家の玄関に
柱時計は年ごとにすすけふるぼけて
とめどなく時をきざんで行つた
あの山峡の谷間のみちよ
そこにしづかにむかしのまま
かのふるさとの家々はちらばり
そこにしづかにむかしのまま
かのふるさとの伝説はねむりつつ
ふるきものはやがてほろび
ふるきひとはやがて死に
あの山峡の谷間のみちよ
今眼とづればはろばろと
むかし幼くて聞いた神楽ばやしの笛太鼓
あの音が今もきこえてくる
あのころの山かげの谷間のみち
ゆきつかれ かの山ほととぎす
鳴く音 きいた少年の日よ
そしてあのみちばたで洟たらして
ものおじげに私をみつめたかの童女らよ
今はもう年ごろの村むすめになったらう
そして私はもう青年より壮年に入らうとし
時はしづかに流れ
あの石おいた谷間の家々のうへを
雲は音もなくすぎてゆき
夏となれば又せつなげに
夏蝉が鳴くことだらう
                   詩集『ふるくに』(昭和十八年)所載

 部外者が訪れることも稀なこの谷間には、石碑とは別に、御二人の記念品をおさめた記念館も建てられてゐるが、「タイムカプセル」の未来がどうなるのか、日本文学そして靖国神社や国体の行末とともに、それは私にもわからない。しかし五百年、千年の後にも、開発とは無縁のこの奥深い美濃の山中に、一対の歌碑だけは変はらず立ち続けてゐるだらうことは、自然に信ぜられる気がした。けだし前の大戦にしろ遠い過去とはいへまだ100年も経ってゐない。はるけき時の流れについて、なにやら却って無常の思ひにふけりながら山路の高速道路を帰ってきた。只今の京子様には何卒おすこやかに、健康と御活躍を願ふばかりだが、式典後、記念館に展示された新婚写真をしげしげと見入る参列者に向かって、「そんなにみつめなさんな」と笑顔で叱るお姿に意を強くしたことである。(2013.6.26)

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670やす:2013/07/07(日) 20:06:09
【広告 『中嶋康博詩集』 】
背の箔をやりなほした為、刊行日はそのままに、御案内が遅れました。

2013年5月31日 潮流社刊 126p 21cm上製 付録8pつき
内容?:夏帽子(1988)より?:蒸気雲(1993)より?:雲のある視野(拾遺篇)
http://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I024473296-00

A 函つき版(背箔) :販売用1500円
B 函なし版(背題簽):寄贈用

 思ふところあって、自分のこれまでの詩作のあゆみを一冊にまとめることにいたしました。
 版元潮流社には在庫はございません。一般書店では販売してをりません。 amazonにてお求め下さい。

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671やす:2013/07/07(日) 20:20:05
「ぎふ快人伝」
 本日岐阜新聞8面「ぎふ快人伝」に、詩人深尾贇之丞の紹介記事が掲載されました。

「ほかとは調和のない墓碑は、贇之丞と須磨子を物語っているよう。墓碑を建てることで、須磨子の中で岐阜との決別を打ち立てたのかもしれない(深尾幸雄氏談)」

 職場のあります岐阜市太郎丸出身の詩人、深尾贇之丞の事績がこのやうに大きく紹介されたのは初めてのことです。 これを機会にもっと多くの人に認知されたらと思ひます。取材に訪問下さいました岐阜新聞佐名妙予様に御礼申し上げます。ありがたうございました。


【追記】
 なほ、新聞記事掲載後に佐名妙予様より御連絡あり、元岐阜市教育委員長の後藤左右吉氏よりの指摘として、昭和29年に岐阜で須磨子に会ひ、その際「なぜ岐阜にいらっしゃったのですか」と聞くと、「夫が岐阜出身で、お墓参りに来ました」と話したとのこと。お忍びでだったかもしれませんが、とまれ岐阜に一度も足を運ばなかった訳ではないことについて、事実を追記いたします。

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672やす:2013/07/09(火) 22:49:12
『菱』182号 モダニズム詩人荘原照子 聞書
 鳥取の手皮小四郎様より『菱』182号をお送り頂きました。今回の荘原照子の伝記連載、看板である聞書がないのに内容がいつもにもまして濃く思はれたのは、連載も終盤に入り、手皮様が荘原照子の詩のありかた、つまり詩人の姿勢に対して正面から取り組まれてゐるからに相違ありません。丁度雑誌を頂く前に、文章中に触れられてゐる詩誌『女性詩』について、木原孝一が『詩学』(昭和26年8月号)の批評欄で江間章子らに散々噛みついてゐる様子を紹介したばかりだったので、その符合にまづ吃驚。
 そしてその荒地派の詩学に馴染んでこられた手皮様が、自身の立場とは異なるのは承知の上で、荘原照子が戦後復帰し綴った随想「ちんぷんかん」で韜晦してみせた自恃を俎上に上します。

 荘原は六十年の半生を振り返った時、自分を「旅人」「異邦人」「ちんぷんかん」と観じなければ、どうにも説明できなかったし、むしろそこに自己のアイデンティティーを求めるほかなかったんだと思う。

 ただここで改めて問い直したいのは、荘原にとってあの戦争はなんだったかということである。

 たしかに彼女の詩が作られるのは、抒情詩人のやうな求心的な在り方でも、社会詩人のやうな糺弾的な在り方でもない。その拡散的手法に対しては意図の不明瞭を難じつつも、手皮様はしかし、モダニズムによる豊穣なイメージ効果については惜しみない賞讃を、また現実逃避のその切実さについては同情を寄せられてゐる。つまり総括してやはり他のモダニズム詩人達とは違ったものを感じ取られてゐる。それは伝記事項の探索を通じて深められてきた詩人に対する理解の結果でありませうし、モダニズム詩が作られるモチベーションを作品だけから窺ふことには限界がある、といふことでありませう。モダニズム作品には的外れな断定評価の危険が常にあるといふこと、それは例へば神戸詩人事件で起きたやうな、当てこすりを邪推する検閲の側からばかりでなく、積極的に評価したい場合にあっても、その人の実際の生活を、つまり木原孝一がいふ「作品以前」の詩人の生き様をみてみないとわからないといふこと。喩へてみるなら童話の「ごんぎつね」のやうなところがあるのかもしれません。詩句の意味を完全に解説することができない彼女の作品の数々、その背景への探訪を、モダニズムに疎い私ですが、これまで手皮様の後に就いて御一緒させて頂いてきました。そのなかで私が一番に思ったのは、手皮様が故意に突き放して記すほど明らかになる、彼女のいじらしさでありました。

 次回はたうとう最終回の由。無事の完結をお祈りするとともに、単行本化を見守ってをります。ここにても御礼申し上げます。ありがたうございました。

673やす:2013/07/19(金) 09:53:23
『多喜さん詩集』
 詩集をお送りした方々から少しづつ受領のお便りを頂戴してをります。普段はSNSでやりとりしてゐる方からも、郵便で礼儀をつくされるのは嬉しいことです。
 またお返しに新刊本をお送り頂きました方々には、ここにても厚く御礼を申し上げます。ありがたうございました。

 サイト関連の詩書では、金沢の亀鳴屋、勝井隆則様から頂いた新刊詩集『多喜さん詩集』(外村彰編)に感銘しました。『井上多喜三郎全集』も『近江の詩人 井上多喜三郎』も、それから詩人に宛てた『高祖保書簡集』も職場の図書館へ寄贈してしまって、手許には詩人に関する本が一冊もなくなってしまったので、此度の選詩集は末永く愛蔵します。またそのやうに手許におきたい手触りやサイズは、限定本出版をこととする亀鳴屋が常に心掛けてゐるところ、このたびも詩人と編者と刊行者とのいみじい三位一体の産物であります。披けば巻頭の、詩人が縁側で和んでゐる写真、そして詩篇では選者の眼のつけどころでせうか、小動物によせるユーモア・ペーソスがなんともいへません。

 井上多喜三郎(1902−1966)は、高祖保や田中冬二と親近してゐたといふことからも分かるやうに、堀口大学の『月下の一群』初版1925新編再版1928刊行時にリアルタイムで決定的な影響を受けた(「四季」で育った詩人達よりはやや先輩の、)知的抒情詩をものした詩人、そして木下夕爾同様、家業のために田舎に隠棲を余儀なくされた典型的なマイナーポエットの一人です。戦前は作品よりも地方発の瀟洒な装釘の刊行物で書痴詩人たちを喜び驚かす趣味的なディレッタントとしての位置づけに甘んじた詩人ですが、過酷なシベリア抑留体験を経て詩風が変貌。それが批評精神を身に帯びた戦後現代詩風にではなく、人柄も変わらぬまま優しさを帯び、人間の懐が深くなったところを示して、詩人として一皮むけたのは稀有のことに思ひます。若年には彼を苦しめただらう地方暮らしも、抒情全否定の中央詩壇から遠ざかる環境として彼を守りました。
 昭和41年に突然みまった輪禍、関西詩壇の重鎮に推されるのは時間の問題だった詩人の早すぎる死を、コルボウ詩話会、近江詩人会にあった天野忠から田中克己 をはじめ、様々な詩風の多くの詩人達が悼みました。詩作品に先行してその人柄が、地域の人々に、そして詩壇の気難しい誰彼からも愛された詩人の作品集は、どれもこれも極少部数の限定版ばかりでしたが、今、現代の読者に愛されるための詩集が、資料的な側面の強い全詩集とは別に一冊、彼の造本センスを襲った姿を得て世に送り出されたことに、慶びを申し上げる次第です。ありがたうございました。

  犬

炎天の道の辺で
うんこをしている犬

少しばかりのぞいているのだが
うんこはかたくて なかなかでてこない

彼はうらめしそうに 蝶々をながめながら
排泄と取り組んでいた



  慣

雄鶏の首をひねる
ぎょろりと目をむいているそいつの 羽毛をむしる
じゃけんになれたそのしぐさ

手にあまった抵抗が
急に抜ける
私はとまどう
神さまこれでよいのでしょうか

雌鶏たちは
相かわらず玉子を産んでいる



  夕

ときどき山雨(やませ)がゆきすぎる
竹樋が咳をする

捻飴(ねじりあめ)のようにでてくる水だ
ちよっぴり苔のにおいがする

水溜には豆腐が泳いでいた



『多喜さん詩集』井上多喜三郎  外村彰 編
15.2cm 並製 糸かがり 208頁 限定536部 1600円(税・送料別)

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674やす:2013/08/17(土) 23:38:30
承前 『クラブント詩集』目次
序詩
 どこから
 言葉がなかったら

第一の圏より
 おれは来た おれは行く
 哀れなカスパール
 どんな町にも
 反語的風景
  褐色の畑の波だつ連り
  灰色のぼろを着たごろつきの列のように
 大きな鏡窓の中で
 眠れぬ夜
 夜明けに
 川は静かに
 トルコ椅子の上で
 ハンブルクの娼婦の歌
  バラッド
  ソマリーの女ども
  アパッチの別れ
  酔っぱらいの歌
  神々しい放浪歌人
   1.おれのからだは毒の飲物が
   2.おれは臆面もなく
   3.おれは一人の女を
   4.お前の持っているものは
   5.おれは良心の呵責に
   6.これを名残りと
   7.ああ失ったものは
   (8.もう一度お前の鳥を) 落丁
 酒飲みの歌
 沈みゆく感惰のなかに
 おれは全くのひとりぼっち
 夜な夜なさすらうおれは
 アローザヘの馬車の旅
 ルガノ湖畔にて
 谷を見下して
 イタリアのドイツ人
 初冬
 田舎町のクリスマス
 いつかはこんなになるだろう
 (おれは白昼に眠った) 落丁
 お前だけ

第二の圏より
 おれは愛情のみでこの世に生れたのに
 皇帝の歌(アダム・ミツキエヴィツチュにより自由に)
 朝が赤いトランペットを
 おれは音この国にいたことがある
 秋の歌
 瀕死の兵士
 ドイツの傭兵の歌
 墓掘り人夫
 おれは故里へ帰ってきた
 葉が落ちる
 支那の戦争詩
  別離
  徴兵官(杜甫により白由に)
  ゴビの砂漠の戦い(李太白により自由に)

第三の圏より
 小さな歌をうたつてあげようか
 さあお前の手を
 あたりはお前の香りで一ぱいだ
 もとのように
 果しない波
 許してくれ
 夏が来ると
 熱
  1.ときどき道路工夫が
  2.金髪の女よ
  3.シスター
 (時間が止まる) 落丁
 ぶらんこ
 お前も
 毎日おれは改めて
 白頭の歌
 今は苦情もない
 放たれた矢(ハーフィスにより自由に)
 すべてこの世のことは

第四の圏より
 原人
 おれは見た
 春の雲
 イレーネ頒歌
 すばらしいことではないか
 お前は永遠に愛するか
 まだおれの指先に
 さあ黙って坐って
 樽で明るく
 マロニエの燭台に
 谷で小さな山羊を見た
 おれの悲惨の歌を
 おれは女房を失った
 抱いてくれ
 おれの足許に
 おれの小さな妹を
 樹林教会の合唱席で梨が
 草原から霧がのぼる
 人間より何が
 手で顔を覆って

第五の圏より
 芸者
  夜の叫び
  私はこわい
  漆塗りの酒器の中に
  夜が白む
  釜は歌う
 荒くれ猟師
 老人
 盲人
 主なる神がこの世を回られたとき
 少女と聖母
 クリスマス物語
 杜甫より李太白に
 老子
 神様のところへ行くとき

(あとがき) 未完

675やす:2013/08/17(土) 23:41:16
『クラブント詩集』板倉鞆音 編訳
 残暑お見舞申し上げます。 お盆も終はり、まだまだ秋の気配には遠いですが、拙詩集に対し皆様から頂いた温かい御言葉を読み返し、また合せて御返礼にお送り頂いた編著書・刊行物の数々をゆるゆる拝読してをります。『クラブント詩集』板倉鞆音 編訳 全141p 21cm和綴 和紙二色刷りの、まことに瀟洒な装釘の和本仕立ての詩集をお送り頂きました。なぜか刊記(奥付)がありません。なのでどこの図書館にも所蔵はありません。せめて制作メモのやうなものでも巻末に付されるとよかったのですが、おそらく刊行時のものと思はれるレポートがありましたので参照ください(daily-sumus2009/12/08)。御寄贈頂きました制作者の津田京一郎様には、ここにても厚く御礼を申し上げます。ありがたうございました。 クラブント(Klabund :1890-1928)はドイツの詩人ですが、これも板倉鞆音氏の訳で有名なリンゲルナッツ(1883‐1934)と同様、第一次大戦後の混乱期、批判精神とペーソスたっぷりの青春を謳歌し、ナチスによって“退廃芸術”が一掃される前に、さっさとこの世から退場してしまった無頼派の詩人のやうです。生前すでに鴎外の『紗羅の木』(1915)に訳出されてをり、このブログでも紹介した『布野謙爾遺稿集』でも度々の言及のある、戦前の詩人たちにとっては同時代の最先端海外詩人の一人だったことがわかります。 内容が5つの“圏”に分かたれてゐるのは原書に倣ったもののやうですが、ところどころ「落丁」があるのは遺された原稿のままを写してゐるからでありませう、訳者板倉鞆音氏に対する謹飭な私淑態度が示されてゐます。むしろこれを以て定本原稿と認めて欲しくない、といふ制作者のメッセージを読み取るべきかも。だからこそ、これだけ立派な内容をも「刊行物」とはならぬやう、奥付を廃した「複製」の体裁にしたのでありませう。さても何冊つくられたのか、これを“簡易製本”と称せらるゆかしき事情を慮っては、寄贈に与り胸がいっぱいになってしまった一冊。私は純愛を盛った第3の圏が好きです。  さあ お前の手をさあ お前の手をおだし春が牧場に燃えているお前を濫費せよこの一日を濫費せよお前の膝に寝て おれはお前の視線をさがすお前の眼は霞んで空を空はお前を投げかえすああ 白熱して縁をこえてお前たちは休みなく流れ去る空がお前になったお前が空になった  果てしない波海の波が上を下へと打ちよせるようにお前を捕えたい 抱きたいおれの願いは果てしなく浪だつこの妄想をどう逃れたらいいか船から下をのぞけばたった一つのこの思いが海の中で上を下へと揺らいでいる  板倉鞆音氏(1907-1990.1.19)はリンゲルナッツのほかにも、昭和11〜12年の初期の「コギト」誌上に於いて、すでに服部正己のマイヤーや田中克己のハイネとならんで「ケストナァ詩抄」を連載されてゐます。クラブントにせよリンゲルナッツにせよケストナーにせよ、戦前から一貫して反骨の詩人ばかりを対象に据ゑてゐるのは、自身は政治的態度を誇示する人ではなかっただけに、却って特筆に値するかと思ひます。雑誌「四季」をめぐる先達文学者のなかでも、燻し銀的な存在であり、戦後は丸山薫のゐる愛知大学にあって、ふたたび服部氏とは官舎を隣にしてをられた由。私は処女詩集をお送りしましたが、眼病すでに篤くお目を通していただけたかどうか、大きな文字の受領葉書が唯一度きり賜ったお言葉となりました。【板倉鞆音 参考文献】 雑誌『Spin』vol.22007.8発行 津田京一郎「板倉鞆音捜索」27-41p++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++【追記】 2013.8.25 津田京一郎様より頂いた訂正コメントを付します。ありがたうございます。 『クラブント詩集』のご紹介ありがとうございました。この詩集の成り立ちにつき少し説明させて戴きます。 板倉鞆音の未完訳詩集『クラブント詩集』の原稿コピーは板倉鞆音の『リンゲルナッツ抄 動物園の麒麟』(国書刊行会、1988)『ドイツ現代詩抄 ぼくが生きるに必要なもの』(書肆山田、1989)を編集された川村 之さんより戴いたものです。板倉さんより預かった生原稿をオートシートフィーダーでコピーをとった際に、紙送りの不具合により残念なことに“落丁”と記した部分が失われました(ノンブル入り原稿だったためノンブルが飛んでいることで判明)。また“あとがき”部分は未完のまま板倉鞆音さんは亡くなりました。返却された生原稿の行方も不明のままです。 原書についてはタイトルとして『クラブント詩集』で「第1の圏」「第2の圏」…という章立てになっているものは見当たらないとのことです。収録されている詩篇の多くはそれぞれほかのクラブントの詩集に収録されていることが判明しているため、この詩集は過去の複数のクラブント詩集から再編集されたものではないか、と考えられています。 まだ実現はしていませんが、川村さんはこの詩集としては膨大な再編集詩集をまるごと1冊にするよりも、(1)可能なかぎり原詩を集める、(2)原典がわかった詩篇をふるいにかけて、(3)適度な分量でうまく編集して1冊にまとめて刊行したいと考えています。 それまでの“仮の詩集”としてテキスト化したものを簡易製本(20部くらい)したため刊記はつけなかったのです。 『沙羅の木』については、ミクシィに以下のように書きました。『沙羅の木』 2011年04月29日14:29 Mさんのご教示で、森林太郎『沙羅の木』にクラブントの訳詩十篇が収録されていることを知った。早速復刻版を入手し調べてみると、板倉鞆音も訳しているものが四篇あった。以下に両者をひく。(原詩略)Ich kam 「己は来た」己は来た。己は往く。母と云ふものが己を抱いたことがあるかしら。父と云ふものを己の見ることがあるかしら。只己の側には大勢の娘がゐる。娘達は己の大きい目を好いてゐる。どうやら奇蹟を見るに都合の好さそうな目だ。己は人間だらうか。森だらうか。獣だらうか。??????????????????????????????????????????????????? 森林太郎『沙羅の木』Ich kam 「おれは来た おれは行く」 おれは来たおれは行くいつか母の腕に抱かれたことがあるだろうかいつか父を見かけることがあるだろうか ただ大勢の女どもがおれのそばにいるみんなおれの大きな目が好きだという恐らく奇蹟を見るのに役だつのだろうおれは人か 森か 動物か??????????????????????????????????????????????????? 板倉鞆音『クラブント詩集』Fieber 「熱」 折折道普請の人夫が來て石を小さく割つてゐる。そいつが梯子を掛けて、己の脳天に其石を敲き込む。 己の脳天はとうとう往来のやうに堅くなつて、其上を電車が通る、五味車が通る、柩車が通る。 ??????????????????????????????????????????????????? 森林太郎『沙羅の木』Fieber 「熱」ときどき道路工夫が来て石を砕き梯子をかけておれの脳天に石を打ちこむ 頭が街路のように固くなりその上を市電が、堆肥車が、霊柩車がかたかた走ってゆく??????????????????????????????????????????????????? 板倉鞆音『クラブント詩集』?Still schleicht der Strom 「川は静に流れ行く」 川は静に流れ行く、同じ速さに、波頭の白きも見えず。 覗けば黒く、渦巻く淵の険しさよ。こはいかに。いづくゆか我を呼ぶ。 顧みてわれ色を失ふ。漂へるは我骸ゆゑ。??????????????????????????????????????????????????? 森林太郎『沙羅の木』Still schleicht der Strom 「川は静かに」 川は静かに同じ早さで流れている流れに白い波頭も立たぬ 一と所 黒い淵が激しく渦巻いておれを呼ぶ声が聞こえるようだ おれは顔をそむけて蒼ざめるおれのなきがらが流れてゆく-----??????????????????????????????????????????????????? 板倉鞆音『クラブント詩集』?Hinter dem grossen Spiegelfenster 「ガラスの大窓の内に」 己はカツフエエのガラスの大窓の内にすわつて、往来の敷石の上をぢつと見てゐる。色と形の動くので、己の情を慰めようとしてゐる。女やら、他所者やら、士官、盗坊、日本人、黒ん坊も通つて行く。皆己の方を見て、内で奏する樂に心を傾けて、夢のやうな、優しい追憶に耽らうとするらしい。だが己は椅子に縛り付けられたやうになつて、ぢつと外を見詰めてゐる。誰ぞひとりでに這入つて來れば好い。髪の明るい娘でも、髪の黒い地獄でも、赤の、黄いろの、紫の、どの衣を着た女でも、いつその事、脳髄までが脂肪化した、でぶでぶの金持の外道でも好い。只這入つて來て五分間程相手になってくれれば好い。己はほんに寂しい。あの甘つたるい曲を聞けば、一層寂しい。ああ己がどこか暗い所の小さい寝臺のなかの赤ん坊で、母親がねんねこよでも歌つてくれれば好い。??????????????????????????????????????????????????? 森林太郎『沙羅の木』Hinter dem grossen Spiegelfenster 「大きな鏡窓の中で」 喫茶店の大きな鏡窓のなかに坐っておれはじっと大通りの舗道を眺めやり色彩と物体の混雑のなかに感傷的な悲しみの治療を求めている大勢の女、見なれぬ男、はでな将校、詐欺師、日本人、ニグロのマスターまで通るみんなおれの方を見て中の音楽をうらやみ夢のような和やかな音(おん)を思い出そうとするだが、おれは椅子に縛りつけられ燃えつきて目もそらさず外を見つめて見とれている誰かこないものか 無理強いでなくて自発的に金髪の少女 -----褐色の娼婦-----ピンクの、黄色の、すみれ色のシュミーズなんか着て----------- いや、太っちょの扶助料暮しのごろつきの脂ぎった、脳にコレステロールのたまった奴だってただおれの前に五分間だけ姿を現してくれたら――おれはとても孤独だ 甘いオペレッタがおれを一層孤独にするああ、どこかの夜の暗がりで寝たいものだ子供ベッドの中の子供になって母親にやさしく寝かしつけられて??????????????????????????????????????????????????? 板倉鞆音『クラブント詩集』 クラブント(Klabund, 本名 Alfred Henschke)はドイツの小説家・詩人で1890年11月4日にクロッセンで生まれ、1928年8月14日に結核のためスイスのダヴォスの結核療養所で亡くなった。1913年に第一詩集『朝焼け!クラブント!夜が明ける!(Morgenrot! Klabund!Die Tage dämmern!)』(Erstdruck: Berlin (Erich Reiss))を出版、『沙羅の木』に訳出されている詩は全てこの詩集から、並び順に訳されている。クラブントの略歴、著作目録、著作内容については以下のサイトが詳しい。 ?(略)?  またユルゲン・ゼルケ著・浅野洋 訳・叢書・20世紀の芸術と文学『焚かれた詩人たち ナチスが焚書・粛清した文学者たちの肖像』(アルファベータ、1999)P153-175でクラブントの生涯と作品が紹介されている。 クラブントが生前に刊行した詩集は以下の4冊のようです。1. Morgenrot! Klabund! Die Tage dämmern!? [Erstdruck: Berlin (Erich Reiss) 1913.]2. Der himmlische Vagant [Erstdruck: München (Roland-Verlag) 1919.]3. Das heisse Herz [Erstdruck: Berlin (Erich Reiss) 1922.]4. Die Harfenjule [Erstdruck: Berlin (Verlag Die Schmiede) 1927.]?

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676やす:2013/08/18(日) 01:25:37
『茅野蕭々詩集』西岡勝彦編
『茅野蕭々詩集』西岡勝彦編 全434p 電子出版 晩霞舎刊 開設草創時から拙ないサイトを見守って下さってゐる西岡勝彦様(「従吾所好」管理人) よりは、これも戦前の翻訳文学者による変り種の新刊本を御寄贈いただきました。『リルケ詩抄』(1927)の訳者として有名なドイツ文学者である茅野蕭々(1883-1946)の、これは訳詩集ではなく其のひと本人の詩集で、変り種と申しましたのは、なんとe-Bookであるからです。抑も、紙・電子を通してこのたびが初めての集成となるわけですが、分量400ページにも垂んとする作品の探索を、初出底本の一覧年譜とともに地道にまとめ上げられた努力にまず脱帽、言葉がありません。「明星」「スバル」に籍を置いて出発した作品は、もちろん大半が文語詩なのですが、今日このやうな内容を商業出版に乗せることは、確かにむつかしいことでありませう。電子出版に上した意義と可能性についてサイト上に刊行メモが記されてありました。 わが任に余る文語詩の感想・評価は避けますが、巻末には編集作業を通じてみえてきた作風の変化や特徴を、当時の状況と、それから作品に即して、西岡様が概括を試みた覚書ノート「蕭々私記」が付せられてゐます。これまた初めての詩人論となりませうが、浩瀚な本書をひもとく際の、初学者にはまことに懇切なガイドになってをります。 さて私にとって茅野蕭々といへば、詩人津村信夫の庇護者としての側面、つまり『北信濃の歌』のなかで紹介された、津村信夫の婚約者昌子さんのために世話を焼く養家夫妻としてのエピソードに親しんでをりますが、やはり一般には前述した『リルケ詩抄』、あの天地を少し落とした私好みの究極の版型(笑)の、豪華な革背本一冊の印象につきるやうです。透かし入りの洋紙に余白を充分にとり、十全の吟味を経て選ばれた一語一語の活字が、やや間をとって布置されたレイアウト。それは歴史的仮名遣ひとともに、思索的で、沈潜する詩境を強調するに適した印刷効果を発揮して、内容の解釈に先立ち、何がなしリルケの四季派的な受容が、高雅な装釘と相俟って嚮導された、さう呼んでも大げさではないやうな気がするわけです。新しい抒情詩人たちに与へた影響は、同じく押し出し満点の第一書房版の豪華本であった、堀口大学の『月下の一群』(1925)や『フランシスジャム詩抄』(1928)に劣るものではなかったでせう。訳詩の妙諦は詩心を写すことを最優先に心得てゐたに違ひない彼の訳業によって、リルケの受容史がどのやうに偏ったとか、そんなことはどうでもよく、覚書の冒頭、西岡様もこの詩人に興味を持つ発端となった口語詩「秋の一日」について、ゲオルゲの訳詩との関係から説き起こされてゐますが、季節の移り変りを人心になぞらへて思索する流儀など、また尾崎喜八の語り口にも親近するものを感じさせます。・・・などと三流詩人によるハッタリ紹介はこれ位にします(汗)。 しかし学者詩人の詩人たる前身の風貌を辿ったこのたびの一冊の俯瞰を通じて、西岡様がされた次のやうな指摘、「しかし、泣菫と違い蕭々は詩作をやめなかった。一時代を築いた有明・泣菫と違い、蕭々はまだ何事も成していないのだから、簡単に野心を捨てることはできなかったろう。」「蕭々の詩作への意欲は未完に終わった。とはいえ、残された詩業を通観すると、文語定型詩から文語自由詩、そして口語自由詩へと、日本の近代詩とともに変転してきた二十年の詩歴に未完の印象はない。」  かうした、詩人の位置をざっくり捉へて最初に語り得た意義は大きく、真の愛読者にしかできないことを大書したいです。『クラブント詩集』は刊行物ではないため図書館でも閲覧不可ですが、同じく図書館には所蔵のないものの、こちらは手軽に読むことができます。以上、ここにても御礼かたがた御紹介させていただきます。ありがたうございました。

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677やす:2013/08/29(木) 00:03:32
とりいそぎの報知まで
本日8/28中日新聞13面、詩人冨永覚梁氏の連載欄[中部の文芸]において拙詩集が御紹介に与りました。予告なき突然の記事、もちろんマスコミ上で斯様な扱ひを受けることも初めてのことにて吃驚してをります。ここにても篤く御礼を申し上げます。ありがたうございました。

【追記】拙詩集を読むことのできる(予定の)図書館は以下の通り(2013.12.20現在)。

岐阜県図書館
岐阜市立図書館
関市立図書館
恵那市中央図書館
大垣市立図書館
各務原市立中央図書館
飛騨市図書館
美濃加茂市中央図書館

国立国会図書館

北海道立図書館
札幌市中央図書館
山形県立図書館
福島県立図書館
栃木県立図書館
茨城県立図書館
千葉県立東部図書館
都立中央図書館
富山県立図書館
県立長野図書館
愛知県図書館
三重県立図書館
神戸市立図書館
滋賀県立図書館
岡山県立図書館
徳島県立図書館
香川県立図書館
福岡県立図書館
長崎県立長崎図書館
鹿児島県立図書館
沖縄県立図書館

県立と市町村立との所蔵分野の住み分けが進むなか、
受入れの意向を頂いた他府県の基幹図書館には感謝の極みです。
篤く御礼を申し上げます。

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678やす:2013/10/13(日) 22:54:22
モダニズム詩人荘原照子 聞書最終回「猫の骸に添い寝して」
手皮小四郎様より『菱』183号を拝受いたしました。毎号楽しみにしてをりましたモダニズム詩人荘原照子の聞書が、6年間(23回)にも及ぶ連載を経てこのたび完結を迎へました。感慨も深くここにても御礼かたがたお慶びを申し上げます。ありがたうございました。

「一体に身辺に血のつながる身寄りをもたないも老女が、それも異郷の地にあって老いさらばえて死んでゆくというのはどういうことであろうか。」

今回は文学上の記述はありません。役所の手続き等、手皮様が私生活のサポートまでされた当時82歳の詩人の落魄したさまの報告が興味ふかく、表題の「猫のむくろに添い寝して」ゐたなどは無頓着に過ぎますが、しかしその平成三年から四年にかけて聞書きをされた手皮様の当時の記憶そのものが、テープの内容とは別に、謎の多い詩人の年譜の最終ページにも当たるわけです。けだしこれまでの聞書きの内容にしても、そのままが資料として威力を発揮することは少なくて、インタビューされた場が再現されるなかで、手皮様による批判的なフォローを俟ってはじめて、その肉声の意味が明らかになってくる態のものでありました。当時の手皮様の記憶こそは、聞書きに直結する終端地点であり、正確な伝記の一部に自分も参加してゐる貴重な体験記でありませう。

その場では当然話題になったに違ひない、子供など縁者の消息をはじめとして、手皮様が文中では口ごもられたことや、日常生活で萌し始めた認知症のことなど、身寄りがなく、また世間体を気にしない詩人らしさのために、あっけないほど無防備に手皮様の手に落ちていった彼女のプライバシーについては、却って手皮様の側で面くらふ仕儀となり、その結果、生活弱者としての老詩人をほって置けない羽目にも陥ってしまひます。次第に文学上の興味を逸脱して、厄介にも思はれていったらうことも自然に拝察されるのです。かつての閨秀詩人の知的な気位の高さは今や老女の偏屈さに堕し、苛立ちさへ催させるものとなってゐる――。しかし聞書きを終へた後に詩人との関係を裁ったこと、そのときはそれでよかったと思はれたことが、時を経ての自問自答、つまりこれまでは何がなし気位の強いこの先輩詩人を客観的に突き放して書いてこられた手皮様が、最後になって自分がなすべきだったことについて吐露された一節――これは全体の眼目となりますのでここでは抄出しません。一切感傷を雑へないがゆゑに却って突き刺さる告白が応へました。

昭和初期モダニズム詩といふ、ある意味「非人情」「スタイリッシュ」の極みといふべき、個性偏重の詩思潮を体現したといってよい、謎多き女詩人荘原照子。その晩年に偶然接触を持たれ、聞き書きを得た手皮様でしたが、放置されたテープの存在が、年月と共に心の中で大きくなってゆき、その意味をはっきりさせ決着をつけるために始められた連載でありました。もちろんそのまま報告しても面白いに決まってますが、手皮様は生身の詩人の息遣ひに対するに実証的なフィールドワークでもって脇を固め、その結果、日本の近代史に翻弄された一人の女性の生きざまを剔抉し、モダニズムや詩史に興味のない人の通読にも耐へる読み物に仕上げられることに成功しました。それは単なる伝記といふより、忘れられんとする過去の詩人の生涯の端っこに、報告者の存在意義をも位置づけて自分ごと引っ張りあげる作業ではなかったでせうか。謎の多い彼女の生涯を追って結末が慟哭に終ったこと、私には気高くもいじらしい詩人に対する何よりの供養に思はれてならなかったのであります。

おそらく予定されてゐる単行本化にあたっては、連載中の6年間に新たに明らかにされた事実も反映されませう。なにとぞ満願の成就されますことをお祈りするとともに、ひとこと御紹介させて頂きます。



また西村将洋様より田中克己先生の未見の文献(昭和19年11月『呉楚春秋』)につきまして、コピーを添へて御教示を賜りました。外地で編集されたやうな雑誌には、今でも知られないままの文献もまだまだあるのでせう。
ほか山川京子様より「桃だより」14号を拝受。あはせて深謝申し上げます。
ありがたうございました。

679やす:2013/10/17(木) 12:32:46
ご感想ならびに受領連絡の御礼
 このたびの拙詩集刊行につきましては、少ないながら寄贈者の皆様からのまことに手厚い激励のお言葉を賜りました。旧き友人知己のありがたさをあらためてかみしめてをります。

 なかでもむかし詩集を刊行した当時には消息さへ知らずにをり、今回初めてお手紙でその不明を詫びて御挨拶させていただきました山崎剛太郎様より、新刊詩集『薔薇の柩』とともに長文のお手紙を、きびしい視力をおして認めて頂きましたことには、感謝の言葉もございません。小山正孝の親友、『薔薇物語』の作者として晩年の立原道造が計画した雑誌『午前』構想のひとりに員へられた方であり、敗戦前後にはマチネポエティクの人々の盟友として、四季派詩人としての青春期を過ごされた、いまや当時を知る唯一の生き証人の先生であられます。

 また受領のしるしに詩誌「gui」「柵」「ガーネット」の各最新号をお送りいただきましたことにつきましても、あつく御礼申し上げます。
ありがたうございました。

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680やす:2013/11/14(木) 07:57:20
『新柳情譜』
 西岡勝彦様よりEPUB出版有料版の第二弾、成島柳北による新橋・柳橋の芸妓列伝『新柳情譜』をお送り頂きました。ここにても御礼申し上げます。書き下し文に懇切な注記が付された内容の詳細についてはサイト解説をご覧ください。

 これから残った人生をいそしんでゆきたい日本の漢詩文ですが、明治のものだからといって、また書き下し文にされたからといってすらすら理解できるかといへば、そんなことは全くなく、これは暫く口語詩の世界に戻ってゐた私の目を覚まさせるに充分のプレゼントでありました。森銑三翁をして「明治年間を通じての名著」と云はしめた未単行本の雑誌連載記事なのですが、翁が評価されたのは、花柳世界の実地実体験をつぶさに報告してゐる面白さに加へて、各章に一々茶々を入れてゐる“評者”秋風同人も語るらく、やはり「時勢一変、官を捨てて顧みず放浪自ら娯しむ。而して裁抑すべからざるの気あり。時に筆端に見る。」ところに存するもののやうにも思はれます。

 「地獄」といひ「一諾一金」といひ、あからさまな藝妓の呼名もあったものだと呆れたことですが、とまれ藝妓各人に対する解説文言・賛詩・評辞と、菲才かつ野暮天の私には落とし所の可笑しさが分からない段が多くて情けない限りです。何難しさうなもの読んでるんですか、とタブレットを覗かれて、にやにや顔を返すことができるくらいにはなりたいものです。

 ありがたうございました。

『新柳情譜』西岡勝彦編 全265p 電子出版 晩霞舎刊

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681やす:2013/12/02(月) 11:51:38
『天皇御崩日記』
 大分県宇佐市在住の宮本熊三様より、以前紹介した『天皇御崩日記』という折本について、その作者「岩坂大神健平」についてメールから御教示を賜りました。(建平、連、村路、左衛士とも;なお「大神」姓は、宇佐宮祠官の名門である大神氏の子孫であることをしめす)

 また『国立歴史民俗博物館研究報告』第122,128,146,159集に『平田国学の再検討』の表題のもと、岩坂建平のことが出てゐるとのこと。以下の二点について合せて御教示を得ました。

 岩坂建平は、嘉永七年(1854)正月十九日、三十歳の時に平田門に入門。逆算すると1825年(文政八年)生。
 『平田門人録』 、豊橋市図書館 羽田八幡宮文庫デジタル版 歴史/48 平田先生授業門人録中 和281-36-2 1 / 5を見る 23コマ

 そして入門から四年後の安政五年(1858)に、彼は同じ宇佐宮祠官の国学者で後に明治の大蔵官僚となった奥並継(1824 - 1894)や、おなじく国学者で明治の外交官・実業家・ 政治家となった島原藩士の丸山作楽(さくら1840 - 1899)の入門紹介者となってゐる由。
 『平田門人録』 、豊橋市図書館 羽田八幡宮文庫デジタル版 歴史/48 平田先生授業門人録中 和281-36-2 2 / 5を見る 4コマ

 丸山作楽は島原藩士でしたが、島原藩の飛地領が宇佐郡にあり、宇佐神宮が実質島原藩の管理下にあったこと。そのため当時荒廃した宇佐宮を、島原藩・中津藩・幕府の三者で修復・再建することを、彼等は江戸に留まり何年もかけて幕府に請願し続けてゐた模様です。

 宇佐神宮が神仏習合の歴史に深く関わってゐるといふことや、また忌日の考へは仏教に起源があって神道ではあまり重要視されてゐなかったことなど、初耳に属することでしたが、しかしこの折本の作り様からして「日々の勤行に使用するため」だけに刷られた印刷物のやうにも思はれてなりません。それほど宇佐といふ土地柄においては神仏習合が身近であり、一般庶民に対する尊王広報活動も、安政当初はかうした次元から始められてゐたのだ、といふことでありませうか。謎は尽きません。

 御教示ありがたうございました。

682やす:2013/12/28(土) 22:06:38
保田與重郎ノート2 (機関誌『イミタチオ』55号)
 金沢星稜高等学校の米村元紀様より、所属する文芸研究会の機関誌『イミタチオ』55号(2013.12金沢近代文芸研究会)をお送り頂きました。同氏執筆に係る論考「保田與重郎ノート2」(11-50p)を収めます。

 対象を保田與重郎の青年期に絞り、これまでの、大和の名家出身たるカリスマ的な存在に言及する解釈の数々を紹介しながら、最後にそれらを一蹴した渡辺和靖氏による実証的な新解釈、いな、糺弾書といふべき『保田與重郎研究』(2004ぺりかん社)のなかで開陳されてゐる、保田與重郎の文業に対する根底からの批判に就いて、その実証部分を検証しながら、それで総括し去れるものだらうか、との疑問も提示されてゐる論文です。

 渡辺和靖氏による保田與重郎批判とは、反動への傾斜を詰る左翼的論調がもはやイデオロギー的に無効になりつつある今日の現状を見越し、この日本浪曼派の象徴的存在に対しては、反動のレッテルを貼るより、むしろ戦時中の青年達を熱狂させた彼の文業のライトモチーフそのものが、文学出発時の模倣からつひに脱することがなかった、つまり先行論文からの剽窃を綴れ合はせた作文にすぎなかったのだと、一々例証を挙げて断罪したことにあります。彼の文体にみられる華麗な韜晦も、さすれば倫理的な韜晦として貶められ、文人としての姿勢そのものを憐れんだ渡辺氏はその上で、日本浪曼派もプロレタリア文学やモダニズム文学と同じく1930年代の時代相における虚妄を抱へた、思想史的には遺物として総括が可能な文学運動として、止めを刺されたのであります。

 私などは、「論文らしい形式を嫌ひ」「先行思想家の影響に口をつぐんで」大胆な立論を言挙げしてゆく壮年期の独特の文体には、ドイツロマン派の末裔である貴族的な文明批評家シュペングラーにも似た鬱勃たる保守系反骨漢の魅力を感じ、参考文献を数へたてることなくして完成することはない大学教授の飯の種と同列に論ずることとは別次元の話ではないだらうか、などと思ってしまふところがあるのですが、実証を盾にしつつ実は成心を蔵した渡辺氏の批判に対して、米村氏も何かしら割り切れないものを感じてをられるやうで、批判対象となった初期論文と周辺文献とをもっと精緻に読み込んでゆくことで、さらなる高みからこの最後の文人の出自を救ひ出すことはできないか、斯様に考へてをられる節も窺はれます。米村氏の帰納的態度には渡辺氏同様、いな先行者以上の探索結果が求められるのは言ふまでもないことながら、同時に渡辺氏の文章にはない誠実さを感じました。

 後年の文章に比して韜晦度は少ないとはいへ、マルクスなり和辻哲郎なり影響を受けたと思しき文献を見据ゑながら、客気溢れる天才青年の文章を読み解いてゆくのは並大抵の作業ではありません。ところどころに要約が用意されてゐるので、私のやうな読者でも形の上では読み通してはみたのですが、新たな視点に斬り込むために提示された「社会的意識形態」などの概念は、社会科学に疎い身には正直のところなかなか消化できるところではありませんでした。
 しかし誠実さを感じたと申し上げるのは、生涯を通じて保田與重郎がもっとも重んじた文学する際の基本的な信条(と私が把握してゐる)、ヒューマニズムを動機において良しとする態度と、今の考へ方を以て昔のひとびとものごとを律してはいけないといふ態度と、この二点について米村氏が同感をもって論証をすすめてをられる気がするからであり、その上で、恣意的な暴露資料としても利用され得る新出文献の採用態度に、読者も自然と頷かれるだらうと感じたからであります。

 けだし戦後文壇による抹殺期・黙殺期を経て、最初に再評価が行はれた際の保田與重郎に対するアプローチといふのは、「若き日の左翼体験の挫折」を謂はば公理に据ゑ、捉へ難い執筆モチベーションを政治的側面から演繹的に総括しようとするものでした。米村氏は「日本浪曼派(保田與重郎)と人民文庫(プロレタリア文学)とは転向のふたつのあらはれである」と述懐した高見順を始めとするかうした二者の同根論に対しては慎重に疑問を呈してをられます。
 管見では、ヒューマニズムを動機においてみる態度に於いて同根であっても、今の考へ方を以て昔のひとびとものごとを律してはいけないといふ態度に於いて両者(保田與重郎とプロレタリア文学者)は決定的に異なる。その起因するところが世代的なものなのか、郷土的なものなのか、おそらく両者相俟ってといふことなのかもしれませんが、米村氏の論考も今後さらに続けられるものと思はれ、機会と読解力があれば行方をお見守りしたく存じます。

 とまれ今回の御論文に資料として採用された、先師田中克己の遺した青春日記ノート『夜光雲』欄外への書付や、「コギト」を全的に支へた盟友肥下恒夫氏に宛てた書簡集など、保田與重郎青年が楽屋内だけでみせた無防備の表情が学術論文に反映されたのは初めてのことではないでせうか。
 ここにても厚く御礼を申し上げます。ありがたうございました。

683やす:2013/12/31(火) 00:28:03
よいお年を。
年末に舟山逸子様より同人詩誌「季」98号(2013.12関西四季の会)をお送り頂きました。
精神的支柱だった杉山平一先生の死を乗り越へて、一年ぶりの再始動。お祝ひの意をこめて、私も一篇、寄せさせて頂きましたが、
今年刊行した拙詩集への収録を見送った十年前の未定稿に手を入れたもの。詩想が涸渇したこの間をふり返り・・・いろいろの思ひがよぎりました。
ここにても御礼を申し上げますとともに、同人皆様の更なる御健筆をお祈り申し上げます。これまでの御鞭撻ありがたうございました。

その「季」に発表してきた大昔の作品を中心に、集成にしてはあまりにも薄すぎる詩集でしたが、只今以て反応はとぼしく、
今年は「風立ちぬ」なんて映画も公開されましたが、抒情詩が相変らず現代詩人の評価ネットワークの埒外にある酷しい現実だけは、しっかり見せつけられた気がいたします。
書評を書いて下さった冨永覚梁先生、最後の戦前四季派詩人である山崎剛太郎先生からのお手紙は忘れられません。ありがたうございました。



さて今年の主な書籍収穫。

寄贈頂いた本から
清水(城越)健次郎 詩文集 『麦笛』昭和51年
『クラブント詩集』(板倉鞆音訳)平成21年
山崎剛太郎 詩集 『薔薇の柩』平成25年
斎藤拙堂 評伝 『東の艮齋 西の拙堂』平成25年
井上多喜三郎 詩集 『多喜さん詩集』平成25年
成島柳北 漢詩 EPUB出版『新柳情譜』平成25年
茅野蕭々 詩集 EPUB出版『茅野蕭々詩集』平成25年など

いただきものから
館高重 詩集 『感情原形質』昭和2年
『詩之家年刊詩集1932』昭和7年
雑誌「詩魔」5,9,10,34
<tt>雑誌「木いちご」昭和4年</tt>
明田彌三夫 詩集 『足跡』昭和4年
城越健次郎 詩集 『失ひし笛』昭和13年などなど

購入書から
平岡潤 詩集 『茉莉花』 昭和17年
河野進 詩集 『十字架を建てる』昭和13年
牧田益男 詩集 『さわらびの歌』昭和22年
北條霞亭『霞亭渉筆 薇山三觀』文化13年など

嬉しかったのは、三重県桑名の詩人平岡潤の詩集で戦前の中原中也賞を受賞した限定120部の『茉莉花』や
「季」の先輩でもあった清水(城越)健次郎氏の詩集、岐阜での詩作をまとめた夭折詩人館高重の詩集『感情原形質』など。
ありがたうございました。


今年はまた実生活でも新しく出発を始めた記念すべき年でした。
記憶力の減退に悩むやうになりましたが、新しいことを始めなくては、と思ってゐます。

来年もよろしくお願ひを申し上げます。
皆様よいお年を。

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684やす:2014/01/01(水) 00:01:39
今年もよろしくお願ひ申し上げます。
立原道造年賀状葉書(昭和12年)

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685やす:2014/01/13(月) 14:10:00
新刊『森の詩人』 野澤一のこと
 昨夏、拙サイトを機縁に知遇を辱くした坂脇秀治様から、詩人野澤一(のざわはじめ:1904-1945)の作品を紹介・解説した御編著『森の詩人』新刊の御寄贈に与りました。出版をお慶びするとともに、ここにても厚く御礼を申し上げます。ありがたうございました。

 戦後日本の自由を味はふことなく、41歳で結核に斃れた山梨県出身の自然詩人。自然のなかで自然を歌ったといふ意味だけでなく、大学を中退して六年間を地元「四尾連(しびれ)湖」畔の掘建て小屋に籠もり、村人・友人から命名されるまま「木葉童子(こっぱどうじ)」と自らも称した彼自身が、私淑したH.D.ソローに倣って酔狂な自炊生活に勤しんだ自然児詩人でありました。その作品はもちろんのことですが、むしろさうした天衣無縫のひととなりが面白く、このたびの新刊巻末40ページにわたる坂脇様による解説、そして詩友だった故・一瀬稔翁が前の再刊本で披露された回想に、語られるべき風貌や逸話は詳しいので、ぜひ読んで頂きたいのですが、昭和初期の口語自由詩が花開いた時期、実践生活からもぎとった自分の言葉で、すでに時代を突き抜けた詩を書いてゐた彼は、その脱俗の様が徹底してゐる点で特筆に値する詩人でした。恒産を案ずることなく政治体制からも超絶してゐたといふ点では、四季派同様、お坊ちゃんの現実逃避・体制承認との批判も耳をかすめさうですが、私はさうは考へません。戦争詩の類ひにも一切手は染めてゐないやうです。

 もとより物欲なく、肉食を嫌ひ、詩人は一日2升の水(!)を飲み、蟻やねづみやこほろぎの子供を炉辺の友として、散歩と詩作(思索)にあけくれることを日課としたといひます。歌や祈りが朗々たる声で庵前の湖に捧げられ、感極まれば地に額づいて土壌や灰を食らったりするといふ、かなり奇特な変人の趣きです。「その姿は求道者のようにも、野生児のようにも、仙人のようにも、あるいは世捨て人のようにも映る」と坂脇様が記してをられますが、作られる詩も作文も「なつかしい」といふ言葉の用法のほか、稚気を含んだ助詞の使ひ方など、舌足らずな独特の言ひ回しが清貧を貫いた詩人的人格と相俟り、なんとも不思議な雰囲気を醸し出してゐます。

 灰

灰を食べましたるかな
灰よ
食べてもお腹をこはしはしないかな
粉の如きものなれども
心に泌みてなつかしいものなれば
われ 灰を食べましたるかな

しびれのいほりにありて
ウパニイの火をたく時
この世の切なる思ひに
灰を舌に乗せ
やがて 寒々と呑み下しますのなり
このいのちの淋しさをまぎらはすこの灰は
よくあたたかきわが胃の中を
下り行くなり

しづかに古(いにしへ)の休息(いこひ)を求め
山椒の木を薪となして
炉辺に坐れば
われに糧のありやなしや
なつかし この世の限り
この灰は
よくあたたかきわが胃をめぐり めぐりて
くだりゆくなり


 ちっぽけな自分を「壷中の天地」ならぬ「湖中の天地」に放下して、得られた感興を赴くままに、詩といはず散文といはず、生命讃歌に昇華させるべく腐心した様子の彼ですが、しかし同時に野狐禅を嘯く自身の姿については客観視もできてをり、だからこそ風変りな謫居生活も、村人から安心を以て迎へられ、否、親しみさへ込めて遇せられたのでありませう。やがて彼は正直にも「嫁さんが欲しくなったから」と庵をたたんで山を下りるのですが、妻帯して子供も儲け、東京で父の家業を手伝ひ、何不自由のない市民生活者として上辺を振舞ひながら、その実、森のなかで過ごした青春の六年間を懐古し、鬱々と思慕する日々を送るやうになるのです。けだし彼の命を縮める遠因ともなったやうな気がします。

 前掲の「灰」ほか、彼の理想化された湖畔の独居生活の様子は、山から下りてから刊行した詩集『木葉童子詩経』(昭和8年自家版2段組242p)に明らかに、惜しみなく公開されてゐます(このたびの新刊ではうち32編を抄出)。たしかに電気もガスも無ければ、御馳走も食卓を飾ることがなかった耐乏生活には違ひないですが、森に囲まれた周囲1キロの湖と四方の山々を、借景として独り占めできた生活といふのは、ある意味こんなに贅沢な生活はないかもしれない。彼は詩集を献じた有名詩人たちのなかで、唯このひとと見定めた高村光太郎に対し、詩的独白を書き連ねた長文の手紙をほとんど毎日、250通近くも送り続けるといふ、まことに意表をつく挙に出るのですが、子供が三人もある社会人となっても、都会暮らしに馴染めず、ロマン派詩人たる多血質の性分を病根のごとく抱へて生きざるを得なかった人だったやうです。といって光太郎の弟子になりたいとかいふのではなく、敢へてそのやうな仕儀を断つため手紙では「先生」ではなく「さん」付で呼びかけて、高名な詩人を自分の唯一の同志・知己と勝手に恃んだ上で、詩的な心情を吐露し続け、手紙として送りつけ続けた。そんなところに彼なりの矜恃と甘えとの独擅場が窺はれるのではないでせうか。残念なことに、殆ど一方的だったといふそれら往信の束と、光太郎からの貴重な来信は、ともに戦災により焼失し、今日控へ書きによってその一端が窺ひ知られるに過ぎません。ですが、詩人の本領を遺憾なく伝へる内容は圧倒的な迫力に満ち、詩集以後、同人誌に発表された詩篇・散文とともに全容が紹介されることが今後の課題であります。

 「自由」や「地球」や「人民」や、所謂コスモポリタリズム思想のもとで詩語を操った人道主義や民衆詩派に与することを潔しとせず、敢へて身の丈に合った小環境に閉ぢ籠り、自然との直接交感を、身近な命たちを拝むことによって只管に希った詩人、野澤一。この世に生きて資本主義物質文明から逃げ果せることができないことは重々承知しつつ、なほ寒寺の寺男となって老僧との対話を夢想し、彼なりに宗教的命題に対して自問自答を構へるなど、晩年の思索には西洋のソローよりも、良寛さらに宮澤賢治といった仏教的、禅的な境地に心惹かれてゆくやうになるのですが、抹香臭いところは微塵もなく、坂脇様が指摘するやうに、生涯を通じて野生の林檎の如き野趣を本懐とする、やはり規格外の爽快さを愛すべき自然詩人であったやうに思はれてなりません。

 野澤一については、かつてサイト内で拙い紹介を草してをり、それを御覧になった坂脇様、そして坂脇様を通じて詩人の御子息である俊之様との知遇を賜ることになったのでした。読み返せば顔あからむばかりの文章ですが、現代の飽食社会・電力浪費社会に一石を投ずるやうな此度の新刊が、忘れられんとする詩人の供養となりますことを切に願ひ、恥の上塗りを承知でふたたび詩人の紹介を書き連ねます。


 山の晩餐

きうりとこうこうの晩餐のすみたれば
わたくしは
いざ こよひもゆうべの如く
壁を這ふこほろぎの子供と遊ばんとする

こほろぎよ
よく飽きずこの壁を好みて来りつる
秋の夜長なり
我は童子 いま
腹くちくなりて書を採るももの憂し

こほろぎの子供よ
汝(なれ)もうりの余りを食ひたりな
嬉しいぞや
さらば目を見合せ
ことばもなうこころからなる遊びをせん

しびれの山に湖(うみ)は静まり
草中(くさなか)に虫の音もしげし
大いなる影はわたくし
小さなる影は汝
共に心やはらかく落ち流れたり

さらば世を忘れ
しばし窓を開きて
こほろぎの子供よ
へだてなく
恙なき身をいたはりて
共にしばしの時を遊ばん

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686やす:2014/01/26(日) 23:46:37
詩誌「びーぐる」22号 『風立ちぬ』の時代と詩歌の功罪
 季刊詩誌「びーぐる」22号の寄贈に与りました。

 特集が「『風立ちぬ』の時代と詩歌の功罪」といふことで今回、私などにもアンケートのお鉢が回ってきたのに吃驚。その冊子が送られて参りましたが1冊でしたので、自分の回答部分のみ掲げさせて頂きます。各先輩諸氏の回答はぜひ書店にてご確認を。

?「四季」派の詩を今どう評価されますか。

 雑誌『四季』に拠った「四季」派の詩人といふより、知的ではあるが線の細い、自己否定・批判精神の希薄な戦前抒情詩人たちの精神構造に対し「四季派」といふ呼称が行はれました。元来は戦後詩壇から軽侮される際に使用されたレッテルであり、特に戦争への対応に於いて批判され続けてきました。現代詩に解消されることなく、ただ過去の遺産の根強い読者を以て命脈を繋いできた、受容のみに偏った戦後このかたの在り様は、やさしい口語詩であるだけに異様とさへ云へます。
 四季派に限らずすぐれた抒情詩が表現すべきものは、丸山薫が夙に「物象」と呼んだところの、(伝統的花鳥風月に限らぬ)「物質に仮託した心象」につきます。その観照が成功するためには、同時にフレームとして状況なり文体を詩人が宿命として身に負ふてゐることが必須です。抒情には自己否定も批判精神も本来関係ないです。
 戦前に於いては意識的・無意識的にせよ、肯定的・否定的にせよ天皇制が統べる世界観、その空気圧がフレームとしてあらゆる表現者に働いてゐたと思ひます。宿痾が人生の重石になってゐた詩人たちは、ある意味、戦争も天皇制も関係ないところで詩作し得た人々でした。
ですから今、抒情詩を書いたり読んだりするには、病気持ちとして切実な孤立点を生きるか、もしくは今日の日本を総べる自由の野放図さ、おめでたさを宿命と観じ、何らかのフレームを設定して自ら向き合ふ必要があるのではないでせうか。四季派は「派」ではなく孤立点の集りでしかありませんが、戦後現代詩詩人の多くが溺れた、コスモポリタリズムを約束するかのやうな思想に流されることなく、TPPや原発・電力浪費社会が招来する殺伐とした世界に対峙する論拠を基盤に深く蔵してゐると思ひます。

?「四季」派で好きな詩人と作品をあげてください。(字数オーバーの故もあって省略。尤もこのサイトに全部のっけてあります。笑)

 特集に関する論考は、やはり四季派について語る場合、避けて通ることのできない戦争詩との関りについて。以倉紘平氏、高階杞一氏がいみじくも指摘された以下のやうな視点について、胸のすく思ひで拝読。

「私は賞味期限付き戦後思想より三好達治という詩人の<号泣>とその作品を信じたい」5p
「三好が賛美した戦争詩は、日中戦争に対しては一篇も存在しない。彼が肯定した戦争とは、アジアを侵略し植民地化した英米蘭国に対する大東亜戦争である。」6p
「憂国の詩人・三好達治」以倉紘平氏 より

「これまで述べてきたように吉本の論にはおかしな点が多々ある。達治の問題について書きながら、それをいつのまにか四季派全体の問題にすり替えたり、四季派の詩人たちが戦争詩を書いたことを、彼らの自然観や自然認識に問題があったからだと書きながら他のほとんどすべての詩歌人が戦争詩を書くに至ったこととの違いが示されていない。戦争協力詩=四季派、という図式で捉え、責任を四季派に帰趨させようとしている。」25p
「吉本隆明「「四季」派の本質」の本質」高階杞一氏 より

またアンケートでは、

「「抒情」ということばでひとくくりに解決済みとされているものとは何だろうか。それを問う機会を与えてくれる資料として、「四季」には複雑な裾野の広がりがあると思う。」貞久秀紀氏49p

「詩の核心は<感傷>にあるのではないかということだ。(中略)心の傷みを言葉に造形するのが詩であり、文学である。」藤田晴央氏54p

などといふ回答があり、もっと社会的な立場からやっつけられるかと思ってをりましたので、今日的課題を社会的関心に絡めて提出した私こそ浮き上がった感じす。

ここにても御礼を申し上げます。ことにも高階様には拙ブログの紹介まで賜り厚く感謝申し上げます。ありがたうございました。

季刊詩誌「びーぐる」22号 2014.1.20 澪標(みおつくし)刊行 ISBN:9784860782634  1,000円

◆論考「風立ちぬ」の時代と詩歌の功罪◆
憂国の詩人・三好達治 以倉紘平4
第三次『四季』の堀辰雄 阿毛久芳10
吉本隆明「「四季」派の本質」の本質 高階杞一16
萩原朔太郎と『四季』 山田兼士29
堀辰雄の強さ 細見和之35
「四季」をめぐる断章 四元康祐41

◆アンケート「四季」派について◆
安藤元雄46 池井昌樹46 岩佐なを47 岡田哲也47 神尾和寿48 北川透48
久谷雉48 貞久秀紀49 新川和江50 陶原葵50 鈴木漠51 添田馨51
田中俊廣52 冨上芳秀52 中嶋康博53 中本道代53 藤田晴央54 松本秀文54
水沢遙子55 八木幹夫55 安智史56 山下泉57

以下通常頁(〜129p)

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687やす:2014/01/26(日) 23:52:15
「季」98号
 さてその「四季」派の残党ともいふべき同人詩誌「季」は、わが古巣でもありましたが、精神的支柱であった杉山平一先生の死を乗り越え、茲に矢野敏行大兄の詩「喪のおわり」の副題を持つ「十月に」を巻頭に掲げて再出発されました。


 十月に  喪のおわり
                    矢野敏行

明け方、虫声はひときわ盛んに、地から湧き上るように、天に
響いている。その虫声を、私は、聞き分けることが出来る。

エンマは優しく、オカメは忙しげに、ツヅレサセは語りかける
ように。カネタタキはそれから少し、間遠く。

空には冬の巨人が、青白く輝くセイリオスを連れて、昇ってき
ている。その先では、プレイアスの娘達が、ささめいている。

この世から消えていった、大切な人達よ。貴方達は、この虫声
を、どこで聞き、星々を、どこで見ているのか。

もしかしたら、一枚の銀幕を、ひらりと捲れば、すぐそこに
皆、居たりするのか。

藍色をした薄明は、短い。虫の声も星の光も、消えていく。
ちょうど貴方達のように、消えていく。

いや、そうではない。貴方達は、すぐそこに居る。いや、もう
すでに、私の中に、居る。

私は聞き分けることが出来る。貴方達の声を、私は、聞き分け
ることが出来る。


津村信夫の呼吸法を矢野さん独自の解釈で、ふたたび彼等にお返ししてゐるやうな趣きです。
私も詩集に収録を見送った詩を一篇寄稿、宣伝までして頂きました。ありがたうございました。ここにても厚く御礼を申し上げます。

「季」98号 (2013.12.20 関西四季の会刊行)  500 円

十月に・夏 矢野敏行4
草は踏まれて・あの日の日記から 杉本深由起8
峠ちかくで 中嶋康博12
花の蔭 紫野京子14
山里・植木鉢の花・愚問 高畑敏光16
母・戦争反対・悪態・死なないで・お題目 奥田和子20
龍の火 小林重樹29
百合の気持 小原陽子32
夏の終わり・どこへ? 舟山逸子34
後記 38


【追伸】今週は稀覯本『富永太郎詩集』を入手したり、「きりのなかのはりねずみ」「話の話」などのアニメーションで有名な映画監督ユーリ・ノルシュテイン先生の講演会&サイン会(1/25於岐阜県美術館)に赴き、憧れの映像詩人を間近にしては、嬉しくてどうにかなりさうな週末でした。詳細はTwitter、Facebookにて。

https://img.shitaraba.net/migrate1/6426.cogito/0000855.jpg

688やす:2014/02/20(木) 00:06:45
『富永太郎 ― 書簡を通して見た生涯と作品』
 折角詩集を入手した富永太郎ですが、恥ずかしながら詩人のことを詳しく知らなかったので『富永太郎 ― 書簡を通して見た生涯と作品』(大岡昇平著1974中央公論社342p)といふ評伝の古書をamazonから最安値でとりよせたところ、なんとサイン本でありました。で、読み始めたら釈く能はずそのまま一気に読了。 著者の大岡昇平は、生前の面識こそなかったものの詩人の弟と同級生になったのを皮切りに、かの中原中也、小林秀雄、河上徹太郎などなど、フランス象徴詩の受容史に関係する友人とは悉く深いい交友を結び、仲間内では最も年少の筈ですが誰とも互角に渡りあった豪胆な気性の持ち主。殊に不遇のうちに夭折した中原中也と富永太郎にとっては、世に送り出すに与って力のあった謂はばスポークスマン的存在でもあります。愛憎を突き放したやうな筆致には、富士正晴が伊東静雄に対するやうな感触もあり、何度も改訂を経た評伝に対する責任を果たした感もあり、しかし当時から先輩に対する態度はこんなだったのでせう、当時の文学青年の知的共有圏を説明するに硬軟、幅広くあけすけに本質を突いた叙述にひきこまれてしまひました。 ボードレールもヴェルレーヌもランボーも、もとよりフランス語を解せぬ自分ですが、前半は人妻との恋愛事件に始まった詩人の、といふか大正期青年の性欲に言及する姿勢に、後半はやはり迷走を始めた京都時代以降、中原中也や小林秀雄と交友を結びながら「真直に死まで突走った」晩年の足跡について、そして全体を通しては正岡忠三郎、冨倉徳次郎の二人の親友の友情に感じ入った次第です。 本関連のことでいへば、このたび私が入手した昭和二年に刊行された私家版の遺稿詩集は、彼が生前まみゆることなく私淑した日夏耿之介と佐藤春夫に指導・助言を仰ぎ、長谷川巳之吉の尽力を俟って実現した出版であったこと、後書に記されてゐる通りです。 当時、日夏耿之介は例の豪華定本詩集3巻本を第一書房で刊行中であり、社主長谷川巳之吉とは蜜月時代にありました。その後「パンテオン」編集をめぐって堀口大学と争った際、同じ新潟出身の巳之吉とも袂を分つことになるのですが、富永太郎の当時はといへば、結核の転地療養に精神耐へず鎌倉より脱走。節約しなければならぬ家産事情も上の空、“譲価”五十円といふこの破格の予約出版を、死の床から「とりあへず発注」したのだといひます。もっとも没後、代金はそっくり『富永太郎詩集』の刊行費用の足しに宛てられたのでせう。背革こそ張られてゐませんが、サイズもほぼ同じで、これを羨んだ中原中也が『山羊の歌』を同サイズで作ったエピソードは有名ですが、なるほどそのまた原型として、この『日夏耿之介定本詩集』はゴシック・ローマン詩体に私淑した亡き詩人のために装釘を倣ったものだったといってよいのかもしれません。 けだし富永太郎は北村初雄のやうに良家の長男坊で絵心もありましたし、措辞はもちろん、「保津黎之介」といふ平井功(最上純之介)より露骨なペンネームさへ持ってゐた。専門を英仏とする違ひはあれ、黒衣聖母時代の日夏門を叩かなかったことが不思議にさへ思はれることです。 さういへば先日、ネットオークションで大正時代の無名詩人の孔版詩集を手に入れたのですが、当時の不良文学青年(?)の、今ならさしづめ“絶対領域”といふんでせうか、フェティッシュに対する感情が同じい結構でわだかまってゐる様子を、興味深く拝見した(家人にアホといはれた也)ので、一寸写してみます(笑)。 金髪叔女(淑女)の印象                    大澤寒泉 『白銀の壷』(大正12年3月序)より六月の雨けぶる新橋駅近きとある果物店の前ふと擦り違ひし金髪の淑女足早に――洋傘斜に過ぎ去りし。紫紺のショート スカートの下ブラックストッキングを透してほの見えし脛(はぎ)の白きに淡き肉感のときめきしが……。夕(ゆふべ)、 ふとも思ひいづるかの瞬間の不滅の印象秋なれば かの果物店にくれなゐの林檎の肌やつややかに並び居るらん。 大澤寒泉といふ詩人は、童謡雑誌「赤い鳥」に寄稿してゐた川越在の青年らしいのですが、関東大震災ののち名前をみません。御教示を仰ぎます。 そしてこちらが富永太郎の無題詩。やみ難きエロチシズムに表現を与へ、文学の名を冠して発表することは、由来一種の性的代償行為であり、日夏耿之介が創始したパルナシアン風の措辞(ゴシック・ローマン詩体)は、黒外套のやうな韜晦効果を以て、羞恥と衒ひを病むハイブロウな大正期文学青年輩にひろく伝播したのでありませう。大岡昇平も呆れてゐますが、「社会と現実に完全に背を向けた若者」には関東大震災に関する日記も手紙も一切遺されてゐなかった、といふ徹底ぶりでありました。 無題                   富永太郎(大正11年11月)幾日幾夜の 熱病の後なる濠端のあさあけを讃ふ。琥珀の雲 溶けて蒼空に流れ、覺めやらで水を眺むる柳の一列(ひとつら)あり。もやひたるボートの 赤き三角旗は密閉せる閨房の扉をあけはなち、暁の冷氣をよろこび舐むる男の舌なり。朝なれば風は起ちて、雲母(きらら)めく濠の面をわたり、通學する十三歳の女學生の白き靴下とスカートのあはひなるひかがみの青き血管に接吻す。朝なれば風は起ちて 濕りたる柳の葉末をなぶり、花を捧げて足速に木橋をよぎる反身なる若き女の裳(もすそ)を反す。その白足袋の 快き哄笑を聽きしか。ああ夥しき欲情は空にあり。わが肉身(み)は 卵殻の如く 完く且つ脆くして、陽光はほの朱く 身うちに射し入るなり。なほ、個人ホームページである本サイトでは向後、今回の『白銀の壷』のやうな、片々たるコレクションや著作権満了状況が不明の資料に特化した公開を心がけてゆきたいと考へてゐます。と申しますのも、国会図書館では今年から「図書館向けデジタル化資料送信サービス」が始まり、「近代デジタルライブラリー」未公開資料に対する閲覧・複写サービスが劇的に改善されたからです。わが職場でも端末が更新され次第申請の予定。これまで古書界に通用してゐた「おいそれと読めないがための高額本」といふ事態だけは、いよいよこの日本から払拭されることになりさうで、どこの図書館も予算削減の折から、これはまことに慶賀の至り。と同時に、本サイトでこれまで公開してきた稀覯詩集も、その役目を終へるものがいくつか出て来さうです。いづれ画像を整理する時が来るかもしれませんので、必要な向きには今のうちに取り込んで置かれますこと、お報せ方々お願ひを申し上げます。

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689やす:2014/02/23(日) 12:56:14
『棟方志功の眼』
 毎年お送り頂いてゐる素敵なカレンダーに続き、石井頼子様から、以前に予告もございましたの初めての著書『棟方志功の眼』が出版の運びとなり、このたびは貴重な一冊を賜りました。

 冒頭と巻末に、それぞれ

「淡々とした職人のような生活の中から厖大な作品が生まれた。そこにはおそらく多くの人が抱くイメージとは少し異なる棟方が居る。4p」

「映像ではいつも制作しながら鼻歌を歌ったり、しゃべったりしているんだけど、それは映像用のパフォーマンスで、実際はそうじゃない。今「そうじゃないんだよ」と言い続けているのは、実際の棟方の方がもっと面白いからです。162p」

 と記されてゐますが、とかく奇人扱ひされることの多い棟方志功そのひとの普段着の様子を、間近にあった祖父の記憶として織り交ぜながら、遺愛の品々をとりあげて、多角的な面から(画伯として・摺職人として・好事の目利きとして・道義の人として)論じてをられます。とりわけ著者の絶対的な信頼が、適度な客観視を許す描写となってゐるところが、気持ちよく感じられました。

「雨の予報が出ると家の中がわさわさし始め」「画室中に張り巡らされた洗濯紐にぬれぬれとした作品が万国旗のように翻る」話や、スピンドルバックチェアを疎開のために梱包するのに使はれた十大弟子版木の話、テープレコーダが届くと孫を前に突然歌ひ出されたねぶた囃子のこと、そして手も足も出ぬ入院中の境遇をたくさんの達磨に描いて人々に送った話など、興味は尽きません。 もっとも古本のことしか知らない私にとって、師と仰ぎ、交歓をともにされた民藝運動の巨擘の面々はもとより、連載時毎に話題に挙げられた「萬鐵五郎の自画像、コンヴィチュニー指揮ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団によるベートーヴェン交響曲全集、河井寛次郎の辰砂碗、尾形乾山の掛軸、サインに付された折松葉の意匠、通溝の壁画、梁武事仏碑懲忿窒慾の拓本、有名な「棟」の陶印、胸肩井戸茶碗、上口愚朗の背広、」などなど・・・無学者はインターネットで検索しては、一々確かめながら読み進めていったやうな次第です。

 巻末対談における深澤直人氏(日本民藝館館長)とのやりとりのなかで披露された、お二人の含蓄ある鋭い観察がまた読みどころとなってゐます。

深澤氏 「ただ民藝と棟方志功は別で、棟方志功は完全なアーティストだと私は思っている。民藝というのは自分が作家だと思ってない人がつくったものです。ここが大きく切り分けるところなんです。棟方志功が上手いも下手も関係なくグアッとつくっていける強さと、ほんとに下手な人が一所懸命につくったものの良さとは違います。154p (中略) 可愛いというのは、完全じゃないというもっと別の魅力になってくるんです。それが民藝館を支えている大きなファクターで、そのなかの一番の魅力が棟方志功のなかにも脈々と流れている。157p (後略)」

石井氏 「古語で言うところの「なつかしい」という感じ。郷愁ではなくて、心がやさしく寄り添うという意味合いですね。158p」

 ここにても厚くお礼を申し上げます。ありがたうございました。

690やす:2014/03/17(月) 12:05:33
サイト休止の御挨拶【予告】
 私こと長らく勤めてきました職場の図書館からはなれ、この春より一学科部局の事務職への異動を仰せつかりました。残念ですが新しい大学図書館構想から現状の体制を省みますと、事務課長として力量不足、反省面もありますが致し方ない気もしてをります。

 さて仕事上もさることながら、図書館サーバーの空き領域を拝借して開設してをりました当個人サイト(6Gb)も、保守ができなくなるため休止せざるを得ません。大学にはHP運営を黙認頂いたことに対し感謝申し上げるとともに、これまでコンテンツのために各種御協力を賜った近代文学研究者・詩人たちの御遺族・古書業界等々の関係者各位の皆様にはまことに申し訳なく、いつかは考へなくてはならない移転問題を先送りにして胡坐をかいてきた怠慢を詫びるほかございません。
 新任地では頭を冷やし、ふたたび出直すべく、暫しインターネットからも遠ざかることになるもしれませんが、精神衛生を第一に養生・修養に努めます。不徳の管理者の心中なにとぞ御推察のほどよろしくお願ひを申し上げます。

 なほ、トップと「ごあいさつ」ページ、および掲示板はこのまま残します。今後、コンテンツごとになるかと思ひますが、どのやうな形で復活させられるかは、また掲示板の方でお報らせいたします。よろしくお願ひ申し上げます。

 ありがたうございました。

691やす:2014/03/20(木) 23:21:22
【急報】山川京子様 訃報
歌人山川京子様、本日正午ご逝去の由さきほど御連絡を頂きました。休止するホームページ最後のお報せがこのやうな悲しいものになるとは…言葉がございません。謹んでお悔やみを申し上げます。

http://libwww.gijodai.ac.jp/cogito/essey/shiki10.htm
http://6426.teacup.com/cogito/bbs/837


【追伸】2014.3.21 11:54 御遺族山川雅典様からのメールをそのまま添付いたします。
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桃の会主宰で歌人の山川京子が、昨日、逝去致しました。
享年92歳、患うことなく眠るような大往生でした。
生前、皆様から賜りましたご厚情に心から感謝申し上げます。

通夜  3月25日(火) 午後6時〜7時
告別式 3月26日(水) 午前10時30分〜12時
場所  代々幡斎場
住所  東京都渋谷区西原2-42-1
電話 03-3466-1006??FAX 03-3466-1651

喪主 赤木圭子(姪)
連絡先 京子宅 03-3398-6585

ご生花のご注文・お問い合わせは、下記までご連絡ください。
電話 03-5770-5521 FAX 03-5770-5529 (株)一願

692やす:2014/03/22(土) 19:17:29
鯨書房 山口省三さんの訃
 本夕さきほど、自分の図書館異動のことを、最近めっきり本を買はなくなって縁遠くなってしまったご近所の古本屋さん、鯨書房にお詫び方々お報せに行ったところ、反対に御店主山口省三さんが亡くなったことを奥様から伺って絶句する。それも最近のことではない。昨年12月21日未明、神田町で呑んでの帰りに長良上天神バス停近くの溝に浸かって亡くなってゐるのがみつかったのだといふ。発見の経緯や、生前の口癖だった「俺が死んでも葬式はするな」といふ遺言を半ば守り、内うちに済ませた葬儀のことなど、ご親切にも不躾に私が訊ねるままにお話下さったが、警察の調べでは事件性はなく、さりとて命旦夕に迫る持病も無かったとのことで、涙を浮かべて当時を語られる奥様の心中の混乱、察するに余りある。

 お店は一緒に手伝ってをられた御子息がそのまま継がれてゐる。訃報は新聞にも載せず、ホームページでも知らされず、これまで直接お店にやって来た常連さんに限って伝へられてゐた。店売りのお客はインターネットと無縁なのだらうか、どこのブログにもTwitterにも何の言及も無く、3ヵ月も経った挙句に私なんかがかうして訃報を記すといふのも、ここ何年か「インターネット(日本の古本屋)の所為で忙しくなってね、困っとる。昔に帰りたいよ。」と、例の嗄がれ声で微笑みながらいつもボヤいてをられた御店主にして、まことに皮肉な思ひでもって泉下から苦笑ひしてをられるやうな気がしてならない。

 私が高校生の時に開業(レジ横に設へてあったエロ本の平台こそが我が古本との出会ひであった)、角刈りに度付きサングラスといふ強面ルックスで(斜視でいらした)、どこかしらに学生運動華やかなりし時代の反骨の闘士の面影を残し(当否を伺ったことはない)、その後10余年を経て帰郷した私の最も盛んなる古本購入時代に於いては、地元の戦前詩集・漢詩集の収集のことでお世話になった一番の恩人であった(高木斐瑳雄のアルバムを散佚寸前の際で救ひ私に御連絡下さったことなど数限りない)。
 2013年12月21日未明、岐阜の昔ながらの古本屋、名物店主だった山口省三さん逝く。昭和24年10月1日生れ、享年六十四。

 山川京子女史の突然の逝去といひ、わが図書館からの異動、ホームページの休止といひ、今やこの非常の春に、天変地異にも似た、何か自分の運命に対する終末的気分と変革的予感とを、同時に、ひしひしと感じてゐる。
 まことに間抜けな元常連の顧客より、とりいそぎのお悔やみを申し上げます。

693やす:2014/03/30(日) 10:18:04
近況
○ホームページを休止すると発表しましたら、「稀覯本の世界」管理人様からミラーサイトなるものを作って下さるとの有難いお申し出がありました。
できあがりは半分くらいの容量になるさうで、楽しみです。
ここにても篤く御礼を申し上げます。ありがたうございました。

追記:サイトコンテンツの取り込みについて、便利なコマンドを使って順調に取り込みが終了したとのこと。当初の予定通り3月31日をもってホームページを休止いたします。永い間ありがたうございました。



○先日の山川京子女史御葬儀弔電にお供へしました三首を録します。

 悼

ふるさとの古きさくらの枝に咲く言葉のごとき人は今なく

ふるさとの花は未だしまちこがるその山川にかへりしひとはも

山川のよどみなければうたかたの消ゆる思ひもつきることなく



○五十三になりました。年をとったとて何の感慨もないですが、岳父、丈母が一緒に食事をして祝ってくれました。老母、荊妻、耄碌犬みな恙ないのが嬉しいです。

694やす:2014/04/03(木) 23:32:23
近況 2
○昨日は山川京子女史の義甥にあたる山川雅典様が、詩人山川弘至の妹君敏子様御夫妻(関市在)を伴ひ、東京より職場まで遠路をお越し下さいました。
御葬儀の様子などを伺ったのですが、入学式の忙殺中のさなか何のお構ひもできず、まことに申し訳なく、恐縮いたしました。
当日配られたリーフレットをいただきましたが、録されてあったのは、書斎の歌稿ノートに遺された三月十日付の、遺詠となった三首でした。

 いちにんの君を思ひて七十歳 面影は今も若くうつくし

 いちにんの君を思ひて幾十歳 昔を今に嘆かるるかな

 老いてなほ思はるるかな めぐまれしひとりの恋の何ぞめでたき

 亡くなる前日の夜も、普段とお変りなく御自身で床を延べて休まれたといひます。普段からその全ての詠草が遺言に等しいものであったことは、主宰された「桃」の会員の皆々様のよく御存じのところ。しかし余りにも突然のことにて、謂はば世に思ひを刻むことを一念に生きてこられた方にして、さて一期にのぞんで何の遺言をのこすこともなかった大往生に一番驚いてをられるのは、あるひは御本人であるかもしれません。夫婦の再会を寿ぐなどいふお悔やみのおざなりを、今はまだ申し上げることができません。
 あらためて御冥福をお祈り申し上げます。

695やす:2014/04/07(月) 22:28:17
サイト移転
 さてサイトの移転ですが、まったく予想しなかったスピードでの再開に驚いてをります。

 新ホームページ http://cogito.jp.net/

 御足労いただいた「稀覯本の世界」管理人様には、拙劣な文弱サイトのためにオリジナルドメインまで賜り感謝の言葉もございません。

 ありがたうございました。

696やす:2014/04/19(土) 02:45:13
訃報三たび・上京記
 八戸圓子哲雄様より『朔』177号の御恵贈にあづかりました。と同時に同日到着した小山正見様からの報知によって、今号巻頭に掲載の小山常子様(小山正孝夫人)の訃報に接し、愕然。はからずも絶筆となった「思い出 立原道造氏母堂光子様」は、周辺の回想を片々たるものでもよいから遺していただきたかったと思はずにはゐられない貴重な証言でした。亡くなられたのはすでに先月23日とのこと。御連絡いただいた翌々日の日曜には、横浜の感泣亭スペース(小山邸)で四季の詩人小山正孝をしのぶ感泣亭の会合が催されるといふことで、かねがね一度はお尋ねしたいと思ってゐたところ、故山川京子様の弔問とあはせて急遽、岐阜から日帰りで御挨拶に伺ったやうな次第です。

 午前中に伺った、短歌結社「桃の会」の歌会錬成会場でもあった荻窪山川京子邸は、これが東京の住宅地かと目を疑はんばかりの佇まひを持した、六十余年の年月を刻した純然たる日本家屋。姪御であられる赤木圭子様には、これまでこの家を訪ねてこられた保田與重郎ほか多くの文学者のことや、このたびの逝去に至る不思議な暗合エピソードのことなど、玄関入ってすぐの、夫君を祀る神棚の隣に新しく祭壇が設けられたつつましい居室において懇切にお話をしていただき、かたがた別棟の離れや菜園畑のある庭など御案内いただきました。ここにても篤く御礼を申し上げます。大変お世話になりました。ありがたうございました。

 その後に伺った横浜感泣亭スペースでは、春の別会プログラムとして雑誌「山の樹」にまつはる思ひ出話が、「青衣」創刊同人であり現詩壇の長老でもある先達詩人、比留間一成氏によってすでに語られてゐる最中でした。十名弱の聴講者に雑じり、午後の時間いっぱいを末席を汚して拝聴。その前に、正見様令閨邦子様には生田勉設計の邸内に招じ入れられ、ここでもお骨を前にして伺ったお話に、終にお会ひすることのなかったものの、先年の御著随筆『主人は留守、しかし・・・(2011年)』や、記憶に新しい拙著に賜った感想のお言葉から想像したとほりの、遺影の笑顔からにじみ出てくるやうなやさしさにとらはれては、さしぐみかけたことでした。

 山川京子様3月20日九十二歳、小山常子様3月23日九十三歳、ともにお最後まで、瞠目に値する意識の明澄をもって、夫君である詩人への「純愛」を貫かれた御生涯でございました。それは京子様のごとく守旧的であらうと、常子様のごとく開明的であらうと、抒情を志として守りとほした我が国の前時代女性においては変はりやうもない。その堅操を、はるか末世に生を享けた泡沫の男性詩人は深く銘記いたします。 合掌

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697やす:2014/04/19(土) 03:31:56
装釘を紹介する図録2種 : 棟方志功と北園克衛
 このたび古本収集のお仲間の一人だった山本正敏様(富山県埋蔵文化センター所長)から、すばらしい図録『「世界のムナカタ」を育んだ文学と民藝:高志の国文学館企画展』の御寄贈に与りました。棟方志功の画業に関して出された画集・図録は数々あれど、書籍装画に絞ったものは考察ともに少なく、雑誌自体は短命だった「日本浪曼派」の、保田與重郎を「渦の中心」に据ゑたイメージづくりに大きく関ったといへる、かの「志功装画本」の全容の解明を目指してきた山本様のコレクションは、夙に古本仲間うちでは有名だったのですが、紙質や印刷を直に確認できる現物収集の史料的な重要性はともかく、このたびは点数の統計的な分析を試みたことなど、山本様ならではの独擅場と呼ぶべき永年の成果を、郷土の文学館の企画展で披露し、カタログに美しいカラー図版で盛られましたことを心よりお慶び申し上げます。

 「棟方志功の装画本を集め、調査研究する意義はどこにあるのか」・・・その意義や、そもそもコンプリートなど不可能事であるとして、口さがない古本仲間から収集営為そのものが揶揄されたやうな時代もありましたけれども、なになに一念通じてもはや誰も否定できぬ陣容のコレクションは自ずと語ってをります。本冊解説にも曰く、ひとつは「棟方の板画や倭絵の画風の時代的変化」との関はりについて。もう一点は「装画本を通じて多くの文学者との交流の実態が明らかになること」。その通りではないでせうか。前者について門外漢の軽々に論ずるところにないのは仕方ないこととして「戦後しばらくして出身地青森県の文学者や出版社にも積極的に関わっていくのは、ようやく郷土への複雑な思いから解き放たれたあらわれであろう。」との考察など、統計によってはじめて説得力を得る新説ですし、また後者の視点を強く反映した今回の紙面づくりは、愛書家、日本浪曼派ファンの私としても、たいへん嬉しく、たしかに冒頭で福江充氏が記されたやうに「文学を愛するこころ」が棟方芸術の大きな要素となってゐることは、ただ単に装釘の仕事が多かっただけではない、何か、例へば冨岡鉄斎と儒学との関係性に似たものが類比されるやうにも思はれたことです。

 先だっては石井頼子様より『棟方志功の眼』といふ新刊の寄贈にも与りましたが、山川邸に伺った折にも、御遺族から保田與重郎とともに話題となったのは、「世界のムナカタ」の拘りのない仕事ぶりについてでありました。



 また日を分かたずして編集者の郡淳一郎様より、雑誌「アイデア」364号の御寄贈にも与りました。さきが棟方志功ならこのたびは戦前の詩精神を視覚的に代表するもう一方の極といふべき北園克衛。その彼が手がけた装釘本の総覧が大部の半分(143-254p)を占めてをります。拙サイトの旧くからの盟友、加藤仁さんのコレクションワークの産物ともいふべき、橋本健吉時代からの足取りを俯瞰した「ヴィジュアルアーティストとしての戦前の歩み」の一文や、労作「北園克衛をめぐる戦前モダニズム詩誌の流れ」を絵解きにしてみせた年表をはじめ、気鋭のキゾニストたちのセンスが汪溢する郡様編集の誌面に圧倒、ことにも貴重な戦前詩集・詩誌の類ひをフューチャーした美しい写真図譜、稀覯詩集『白のアルバム』『夏の手紙』『火の菫』や詩誌『白紙』の拡大写真などにうっとり見惚れてをります。



 大好きな詩人の装釘を紹介する、瀟洒なカタログに縁ある今週この二三日でありました。
ここにても御礼を申し述べます。ありがたうございました。

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698やす:2014/07/11(金) 20:34:01
不機嫌な抒情詩 小野十三郎
 田舎のごった煮のイメージがある詩誌「歴程」、なかでもグループのしたたかな体臭を感じさせることで筆頭に挙げられる詩人に小野十三郎がある。反権力反権威の姿勢を貫いた経歴によって戦後詩壇に返り咲いた。草野心平を東日本の雄とするならば、さしずめ彼などは関西に君臨して現代詩を牽引する役目を担った旧世代詩人のリーダーと思しい。温和な四季派抒情詩人たちにとっては、謂はば敵陣の巨擘であったけれども、職場の帝塚山短期大学にあっては田中克己先生の同僚として一目置きあひ、同じく文学部で教鞭を執られた杉山平一先生もま た尊敬を以て両者間をとりもたれた時期を持ってゐる。在野にあっては大阪文学学校の開設に関り、ながらく初代校長を務めた。

 その小野十三郎の戦前刊行に係る詩集『古い世界の上に』『大阪』を入手した。興味があらたに湧いたといふのではなく、以前に較べて入手可能な価格で二冊が相次いで現れたのだ。これもまた出会ひである。ことにも第2詩集『古い世界の上に』 (昭和9年 解放文化連盟)は、コミュニズムに親炙する内容とは凡そマッチしない、キュートな表紙が魅力的な一冊。草野心平の装釘である。中身とマッチしないのに魅力的、といふのも変ではあるが、詩集の挿画意匠を語るとき、私の中では佐藤惣之助の詩集『荒野の娘』のカミキリムシをあしらった函とともに、いつか手にしたいと思ってゐた詩集だった。

 全体この感情過多の詩人は、詩だけでなく自著のデザインについても屈折した意識ある人であったらしい。処女詩集『半分開いた窓』(大正15年 太平洋詩人協會)のデザインはダダイズムといふか構成主義が意識されたものだが、装釘者は著者より「キタナラシクつくって呉れ」との依頼があった由、で「出来上りがキタナ過ぎた」とぼやいたのだとか。(尾形亀之助記)。

 さういふ意味では意表を突いたといふより、狙ひ通りの屈折した出来栄えと言へるのだらうか。入手したもう一冊の、有名な第3詩集『大阪』(昭和14年 赤塚書房刊)は、同じくアナーキストだった歴程同人菊岡久利の手になる実に投げやりなスケッチによる装釘が、(意識的なのだらうが)過度なつまらなさ(笑)に仕上がってゐる。(人間性の魅力本位で行動する菊岡とはこのあと思想的立場を真反対にすることになる)。

 ただしかし彼の批評精神を宿した詩想はその意識的な「つまらなさ」の下で開花したのであった。戦後、彼の作品は「抒情を排した抵抗精神の顕れ」などと担がれた。けれど私に言はせれば、彼の佳作はことごとく「不機嫌な抒情詩」と呼んだ方がしっくりする。小野十三郎が伊東静雄を回想する一文で『春のいそぎ』収録の詩篇「夏の終り」を選んで親近感を示してゐるのは、伊東が大阪在住の同世代詩人で当時子息の担任であったなどといふ卑近な事情からではない。イロニーの「不機嫌さの質」において等しいものを感じてゐたからであって、このたび酸性紙の香りが芳ばしい『古い世界の上に』の原本を、注意深く繙きながら感ずるところがあったのも、初期伊東静雄の新即物主義風の作品にも通ふやうな 成心に満ちた措辞についてであった。



 ある詩人に



あなたは眼を輝かせて

僕らの話を聞いてゐた

あなたは人一倍涙もろくてすぐに亢奮するのであつた

僕らが語らうとするもの、あなたはそれをお互ひの友愛の上でのみ読まう とした

おそらくあなたは非常に幸福だつたらう

あなたは路傍の泥酔者(のんだくれ)よりも猶悪く酔つぱらつた

あなたの誠実と熱意にもかかはらずあなたは事実その話を聞いてはゐなかつた

あなたは舌鼓をうつて飲んだのだ。僕らの話を。

                             『古い世界の上に』47p







 葦の地方



 遠方に

 波の音がする。

 末枯れはじめた大葦原の上に

 高圧線の弧が大きくたるんでゐる。

 地平には

 重油タンク。

 寒い透きとほる晩秋の陽の中を

 ユーフアウシヤのやうなとうすみ蜻蛉が風に流され

 硫安や 曹達や

 電気や 鋼鉄の原で

 ノヂギクの一むらがちぢれあがり

 絶滅する。

?????????????????????????????????????????????? 『大阪』13-14p

 『大阪』集中の有名な「葦の地方」といふ詩においても、イメージは全編が重苦しい。「ユーフアウシヤのやうなとうすみ蜻蛉が風に流され」といふ一節に、まず読者は躓かされるだらう。ユーファウシャとは「euphausia:オキアミ」のことである。言葉が分からなくても「とうすみ蜻蛉」がアキアカネでないことは分かるのだが、語義が分かると、腹脚をうごかして揺曳するオキアミよろしく、イトトンボがそこかしこを飛翔するイメージが、滄海と秋旻とを重ね合はせられて一層美しく伝はってくる。あるひは晩秋に灯心蜻蛉はそぐはない。むしろ彼が忌むべきアキツシマの語源をもち、オキアミとも似つかはしい赤蜻蛉の群泳シーンに変換して読んでも面白いと思ふ。

 とまれ「コギト」的な抒情詩だったら美しい一篇にシニカルな瑕瑾を混ぜるところ、彼はその反対をやって効果を上げたのであり、不機嫌の極みながらこれもまた抒情詩と呼んで差し支へないもののやうに私は思ってゐる。抒情詩を作れぬ詩人は詩人ではない。そして詩に社会的メッセージがなければ価値なしと断ずるなら、メッセージが社会から否定された時点で作品もまた無価値になってしまふ事情は、彼が忌んだ戦争詩だけでなく、この詩においても同様であると思ふからである。

 けだし小野十三郎によって社会的現実に対する認識が投影されない抒情詩人たちの作品が否定されたこと。それに意味があったのは、躬を挺した指弾を彼が敗戦前に放ってゐたからである。いかなる思想も遠慮なく発表できるやうになったのち、小野十三郎にかぎらない、抵抗詩人たちの戦後の詩業といふのは、なほ怨みをもって抒情詩人たちを総括糾弾した散文の詩論に較べれば、漸次戦闘の意味を失はざるを得なくなっていったやうに私には思はれる。180度転身したジャーナリズムは、現実の彼らに充分に酬ゐたであらう。けれど続く高度経済成長はかつての抵抗詩人たちの前衛の自負を後ろから刺したのであった。 その上に露見する共産主義国家の腐敗と恐怖に至っては、彼らは何を思ったらう。嫌気がさし再びアナーキズム的に嘯いてみせることは、戦争を体験した旧世代の抵抗詩人たちだけに許された特権であり、謂はば見果てぬコスモポリタンの夢である。しかし彼らの薫陶を受けた団塊世代以降の現代詩詩人たちが同じいポーズを取りながらも、師匠が否定した四季派否定には頬被りをしたまま、時に抒情詩の魅力なんぞを語る様子をみるにつけ、この上ない破廉恥を私は感ぜざるを得ない。

 詩人の責任ではないところでその詩が述べる志が社会的に有効・無効に選別される「時代」がある。時代からの「お墨付き」の評価に胡坐を掻いた途端、詩人は足元を掬はれる。それは戦前も、戦中・戦後も同じことではないだらうか。 私の中で「批評精神」とは、決して思想ではありえず、その「不機嫌さ」の真率を絶えず問ふことにつながってゐる。

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699やす:2014/07/11(金) 20:40:59
『桃の会だより』17号
 いつも頂いてゐる『桃の会だより』ですが、前号に続いて17号も主宰者山川京子女史を偲び奉る特集となりました。葬儀後初の歌会での詠草と回想は、それぞれ皆さんの哀悼・思慕・尊崇の想ひに満ち、時に曠世の女傑でもあった京子氏その人となりを伝へる消息にも触れ得て、嬉しく拝読しました。
 亡くなる前夜、姪御の赤木圭子氏の呼びかけに対し、応へるでもなく毅然と発せられた「大丈夫よ」といふ最期になった言葉のこと。ほかにも「どして百歳に限るの、百歳以上は生かしてくれないの?」「私に事へるのでなく学ぶのよ。」「甘えるじゃないの。」などなど、煥発される気丈な立ち居振る舞ひの一々が、細やかなことも決して疎かにされなかった几帳面と配慮とを一度でも経験して相対した人ならば、まことになつかしく髣髴されるに違ひありません。
 そして昨年、郡上高鷲に建てられた歌碑のこと。

「山ふかくながるる水のつきぬよりなほとこしへのねがひありけり」

 「とこしへの願ひ」とは何か。会員からの質問には「そのうちわかるわよ」なんて嘯かれた由。その真意を結社の各自銘々が心にひきとり、これからも歌の道をあゆんでゆかれることになるのでありませう。和歌はたしかに亡き夫であった詩人山川弘至と京子氏との「心の通ひ路」でありました。しかし私は野田安平氏の「とこしへの願ひについて」といふ一文にありました、「ねがひ」とは自身の没後にも夫君を追慕し続けるといふやうな、京子氏個人の願ひといふより、何かを指し示してゐるものではないか、その標識として自身の歌碑を建立せよといふ周囲からの懇請をしぶしぶ承知されたのだ、といふ卓見に同意します。

『日本創生叙事詩』は、原稿を確認してもなぜか「桃」の章※が脱落してゐます。以前、先生にお尋ねしましたが、「桃の会」発足時、そのことに結びつける意識はなかったとのことです。しかし結果として、先生は、父君の原著の脱漏を六十年にわたって埋め続けられたことになります。そして未完の長歌の最後に、美しく反歌を添へて一巻を完成なされた。そのやうに思へてなりません。12p (※古事記でイザナキが黄泉軍から逃れる条り)

 日本浪曼派の衣鉢を継ぐ短歌結社といふと、右翼か何かの集まりのやうに思はれる向きもあるかもしれません。しかし山川弘至記念館資料の整理に尽力、今後の運営についても影響されると思はれます野田氏は、靖国神社の権禰宜でありますがキリスト教の薫陶を家庭で受けた謹飭の人であり、姪御の赤木氏は英語の先生、また京子氏自身も戦前日本で迫害にさらされた大本教の司祭になられたのでした。「文学(文士)とは行儀の悪いものである」といふ世に行はれてゐる観念、その対極に立つやうな桃の会の「歌の道」そして大和魂の精神は、ますらをぶりを掲げた山川弘至を愛しむ山川京子のたおやめぶりを本義とするかぎり、俗念の赴くまま自己表現することを誡めながらも、決して表現の自由や平和の大切さを蔑ろにするものでない。むしろその反対だと、それだけは堅く言へるのではないでせうか。

700やす:2014/08/18(月) 16:35:26
連日溽暑
休暇後半も引続き修養中。

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701やす:2014/08/24(日) 23:12:02
舟山逸子詩集『夢みる波の』
 まもなく創刊100号を迎へる季刊同人詩誌「季」の旧き先輩、舟山逸子様より新詩集『夢みる波の』の御恵投に与りました。ここにても御出版のお慶びを申し上げます。
前回の素晴らしい装釘の詩集『夏草拾遺』(1987年)から、早や四半世紀が経ちます(当時は活字本でした)。あれから以降の作品を春夏秋冬、毎回ぽつんぽつんと拝見してきたわけになるのですが、今回かうして一冊にまとめられてみると、淡い色調ながら生きる悲しみが主調低音となって響いてゐることにあらためて驚き、抒情的な滑空を回想のうちに示してみせてゐるこの一冊には、前後も無く
「長い間心にかかっていた古い詩編にやっと場所を与えることができました。」
と、著者にとって何か心の荷物を下ろしたやうな呟きを記した紙片が添へられてゐるのでした。

 けだし杉山平一先生直系のエスプリあり、散文で書かれた海外美術館を巡るスケッチあり。しかし舟山さんの詩の個性はどちらかといへば、やはりエスプリといふより、母性とは異なった女性ならではの語り口、その優しさそのものにあるやうな気がしてをります。現代詩に疎い私は、それを誰それになぞらへたり、また独擅場の語り口であるとも自信を以て讃へることができないのが歯がゆいところ。わが詩的出発の際には矢野敏行大兄とともに姉のやうに見守り励まして下さった、その思ひ出もいまだに当時のままに、このたびは私好みの一篇を抄出して紹介に代へさせて頂きます。ありがたうございました。

  五月

五月の 若葉をたたいた
雨はあがって
ひろがりはじめる青空
草の匂いの濃い森のなかでは
淀んだ池の葦のあいだを
一匹の光る蛇が 首をたてて
泳いで行く


舟山逸子詩集『夢みる波の』2014.9.1 編集工房ノア刊行 75p \2,000 isbn:9784892712142

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702やす:2014/09/24(水) 07:25:03
リルユール
フランスに10日間ほど行ってきました。20年ぶりの海外旅行です。写真はFacebookにupしました。

さて、古本愛好家としてパリの古本屋さんや古書市にも行ったは行ったんですが、所詮言葉が分からないのだからどうといういふこともありません(笑)。
探してゐたドイツ人画家ハンス・トマの画集はみつからず(ここはフランスですからね)、またフランスで一番のおきにいりの詩人フランシス・ジャムの古書も、メモ帳をみせつつ訊ねてはみましたが市にはないやうでありました。(詩が一般庶民の生活に根づいてゐるといふフランスでも今や四季派みたいのは人気がないのかな。)

せめてもの旅の記念にと、美しい革装の袖珍本など左見右見するうち、やがて蚤の市で手に取った一冊の背表紙に目が。『Pierre Lafue. La France perdue et retrouvée1927』理由は写真の通り、日夏耿之介の詩集『黒衣聖母』を彷彿させたからでした(背の褪せ方がまた 笑)。
内容もよくわからぬまま求めたのですが、どうやら元は並装本で装釘をし直したもの。並製の背をそのまま遊び紙に残してあるところがなんともフランスらしく「リルユール」文化を感じた次第であります。

ここではフランシス・ジャムの本(評論) 『Armand Godoy. A Francis Jammes1939』もみつかりました。もっていったもののどう処分したら分からなくなって困ってゐた拙詩集を進呈したら、笑って二冊を値引きして頂きました。御主人ありがたうございます。訳してもらふことになる知り合ひの日本人さんにもよろしく!

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703やす:2014/10/13(月) 13:53:17
「昭和十年代 鳥取のモダニズム詩運動」
 永年モダニズム詩人荘原照子を探索してこられた手皮小四郎様より、同人誌『菱』187号の御寄贈に与りました。
 巻頭に掲げられた小谷達樹氏の御遺稿の8ページ、このあとハイブロウな読書家に人気のある歌人塚本邦雄がらみのお話に続く筈だったといふことで、続編が書かれなかったことが残念でありますが、詩人であった先君、小谷五郎(安田吾朗)が関はった、貴重な戦前の地方詩史の発掘紹介がなされたお慶びを、お悔やみとともに申し上げます。

 小谷五郎氏は現在、鳥取地方の郷土史家として名を残されてゐるやうですが、戦前に発刊されたといふ詩誌『狙撃兵』『ルセルセrecherche』から抄出された、安西冬衛テイストの作品をみるかぎり、シュールレアリズムがかった盟友清水達(清水利雄)氏のものよりも凝縮された抒情がこめられてゐて、詩集を刊行しても反応がなかったことに落胆し画業に向かったともありましたが、斬新な装釘意匠をものする才能ともに残念なことに感じられました。

 閑日の構成
                    小谷五郎

要塞の午後M大尉の私室で麻雀は行はれた。
赤い三角旗のもとで少女は十六才であると言ふことを発見した哨兵はゐた。
U河附近の図上に帰ってこない騎兵斥候。
その日は砲術家のゲミア軍曹が大尉の夫人の眼を気にかけてゐたのでたびたび牌を投げ出してゐた。

                                      (「狙撃兵」2号)

 近視で肋膜の前歴もあったためか戦争にはとられなかったやうですが、地方の師範学校出身の先生ともなれば、そうそう思想的な進取の気性を標榜し続けることも難しかったでせうし、清水氏のやうに軛を嫌って上京することも、おそらく本来詩人の稟質に叶ふものではなかったのだと思ひます。その処女詩集だってそもそも何冊刷って配られたものか、『歴程』といふタイトルの詩集は小谷五郎・安田吾朗いづれの名義でも国会図書館ほか国内の図書館に登録がありません。(一方昭和十年代の西日本同人誌界を風靡したアンデパンダン誌「日本詩壇」から出された清水氏の詩集『航海』は国会図書館で確認できるやうです。) 手皮様が、無念に斃れた達樹氏の略歴を記されましたが、当の詩人の略歴を御子息の手で書き遺して頂きたかったものと、せめて詩集の書影・書誌概略なりとも知ることができたら、これは拙サイト管理者としても残念に思はれたことであります。

 地方に隠棲して郷土史家の道を歩まれたみちゆきは、戦前最後の中原中也賞を受賞しながら詩筆を断った、当地方の平岡潤を髣髴させるものがあります。以下に手皮様の紹介文より経緯について引きます。
 ここにても御礼を申し上げます。ありがたうございました。

「確か昭和41年頃のことと思うが、部員の話題が塚本邦雄の第一歌集『水葬物語』に及んだ際、家にあるよと言って、翌日持ってきた。部員に鳥取西高の短歌誌『青炎』同人も居て、120部限定のこの稀観歌集を熱心に書き写す者もあった。『水葬物語』は塚本邦雄から小谷の父、小谷五郎へ献本された一冊だった。
 小谷五郎は『狙撃兵』『ルセルセ』を編集発行した後、十年の空白を経て、十歳年少の杉原一司と避遁し、戦後『花軸』を創刊した。小谷にとって〈前衛の歴史を創る詩徒〉の相手が、上京した清水達に替わって杉原一司になったわけである。杉原は八東川対岸の若者で、前川佐美雄の『日本歌人』(当時は『オレンヂ』)に属する俊秀だった。
 昭和23年春、『花軸』が終刊すると、杉原は〈前衛の歴史を創る〉伴走者に『オレンヂ』の塚本邦雄を選び、『メトード』を創刊。 『メトード』全7冊中11冊に小谷五郎が寄稿しており、これらのことが背景にあって、塚本は小谷に『水葬物語』を贈ったのである。

 小谷五郎には多くの著作があり、没後編まれた『小谷五郎集成(文学篇)』もあるが、全作品を網羅した詳細な書誌はなかった。ぼくはかねてからこの書誌の作成と、『狙撃兵』から『メトード』更には『水葬物語』へと流入する八東川畔のモダニズム文学の系譜を纏めるべきだと言い募ってきた。
 小谷達樹がこれに応えて取りかかったとき、彼はすでに病床にあった。二稿辺りの原稿の隅には、もう頭が回らないと震える筆跡の添え書きを残している。小谷は遠のく意識に自らの頬を打ちながら、この前篇を仕上げて逝った。無念であるが、これが彼の命の最後の華と思えば感堪え難いものがある。」
                                                    (「小谷達樹遺稿一件」31p)

『菱』187号 2014.10.1 詩誌「菱」の会発行 56p  500円

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704やす:2014/11/11(火) 21:08:59
舟山逸子散文集『草の花』
 新詩集『夢みる波の』に続き、はじめての散文集『草の花』を、関西四季の会の先輩、舟山逸子様よりお送りいただきました。御刊行のお慶び、そしてふたたびの恵投に与りました御礼をここにても厚く申し上げます。

 先輩舟山さんはわたしよりもうひと世代上、第4次復刊「四季」をリアルタイムで体験された投稿世代にて、ここには「四季」終刊を契機に関西四季の会を興され、本格的に詩作を始められた1970年代から折に触れてものされた散文の粋が収められてゐます。乙女心が映える瑞々しい初期文章はもちろんですが、詩人必ずしも詩情を展ぶるに韻文に限ったものでないこと、ことにも舟山さんの詩人たる特長はむしろ散文の語り口に於いて顕著であること、かうして纏められると一層はっきりするやうな気がいたします。清楚で内省的で、地に足の付いた誠実な心情の吐露は、その手際がまた杉山先生を例に出すなら「手段がそのまま目的」であります。即ち「文は人なり」といふことに尽きる訳ですけれども、書きはじめられた頃の文章から些かの変りもない「操」「育ちの良さ」といった、実際に舟山さんに会った人がやはり同じく感じられるであらう印象に重ね合はせては、また驚いたことでありました。

 第一部の創作エッセイでは、詩人が得意とする美術館探訪エッセイの嚆矢といふべき、碌山美術館の回想を叙した冒頭の一文をはじめ、若くして逝った先考を追慕した作品、花弁を呑み込まうとしては吐き出してしまふ鯉に託した切ない短編などにこころ打たれます。
 対して第二部の詩人論には、これまで単発で発表されたままの優れた立原道造論・杉山平一論がまとめて収められてをり、昭和期の最良の読者から眺められた視点が、そのまま同時代の詩人達に同じ書き手の視線から援用されるところにもあらたな発見を認めます。

「視野の限界が映画の芸術性を支えている。」253p「「型」の肯定は杉山平一氏の特質の一つではないだろうか。」252p
「興味深いのは、この「隱す」ということが、すっかり溶けこんで混じり合ってしまうということでは決してない、ということである。(中略) 存在そのものを消しはしない。(中略) その存在のありようは、強い自負心に裏打ちされているように思われる。」257p

 これを読まれた杉山先生の喜びが手に取るやうに分かるやうな評言に、思はず鉛筆を引いてしまひます。


「私は信じる。「うそ」のなかの「ほんたう」こそが、文学の真実の世界であり、それは常に「ほんとうらしいうそ」であるかもしれぬ現実世界とせめぎ合っていると。」185p
「「夢をみた」と詩人がいうとき、詩人は決して眠ってなどいない。目を閉じてなどいない。くっきりと目ざめていて、その「夢」をみているのである。」207p

 詩人の成立背景を余すところなく語ってゐる点、そして「四季」の詩人達に私淑された影響(成果)が、当時昭和40年代の現代詩ブームが与へた影響よりも、 散文であるためよりはっきりと刻印されてゐるといふ意味においても、舟山逸子の抒情詩人を一番に証する一冊として語られるものになるのではないでせうか。

舟山逸子散文集『草の花』2014.11.1 編集工房ノア刊行 285p 2,500円 isbn:9784892712159

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705やす:2014/11/12(水) 21:11:39
「薄明の時代の詩人」
「薄明の時代の詩人」 スイス在住、写真家にして詩人でもあるschale様のブログを紹介いたします。

 まづはアルプスの山稜や高原、極北の地勢を捉へた風景写真の息を呑むやうな美しさに瞠目です。合せて詩と平和に関する断章が、実存主義に列なる詩人哲学者たちをトリビュートしながら綴られてゐるのに圧倒されました。タイトルはヘルダーリンを評したハイデガーの言葉「乏しき時代の詩人」から。
 驚いたのは、戦後文壇から「日本浪曼派」の中心人物として悪罵の限りを浴びて抹殺された感のある評論家、芳賀檀氏晩年の謦咳に接されたschale様、先師の貴族的精神に対する誤解を釈くべく、ネット上で擁護されてゐることでした。それも政治思想によるのでなく、晩年に至るまで抒情を重んじた思索する詩人としての姿を掲げてをられてゐるのを拝見して、御挨拶さしあげたい方だなと常々思ってをりました。このたび拙詩集をお送りすることが叶って、懇篤なご感想をいただくと共に同庚であることにも聞き及んで、大変励まされてをります。


 また酒田の加藤千晴詩集刊行会、齋藤智様よりは、現在酒田市立資料館で開催中の「吉野弘追悼展」に付随して設けられた、詩人加藤千晴を紹介する小コーナーについて、報告とご案内のお便りをいただきました。こちらは失明によって文字通りの「薄明の世界」を、詩を書くことのみを支へにして生きた四季派詩人ですが、在郷詩人の方々により、この機に合せて顕彰されてゐることを嬉しく思ひました。


 ここにてもお礼を申し上げます。ありがたうございました。  (写真はすべて齋藤智様より)

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706やす:2014/11/29(土) 12:37:09
松本健一さんの訃報
 松本健一さんの訃が報じられた。

 先師の詩業『田中克己詩集』を、たった300冊しか刷ってゐないにも拘らず中央雑誌の書評欄で紹介して下さったのは松本健一先生だけでした。

 また小高根二郎氏による浩瀚な評伝が出された後、誰も続いて評する者のなかった蓮田善明について、詩人的側面を切り捨てずに論じた単行本を著すなど、日本浪曼派の文学に深い理解を寄せられる当代一の評論家が、折しも時の民主党政権の顧問に迎へ入れられた時には、吃驚もしたことでした。

 昔、海のものとも山のものとも判らぬ無名の若者が送り付けたペラペラの詩集に対し御感想を賜ったこと、忘れません。
 心より御冥福をお祈り申し上げます。

707やす:2014/12/11(木) 19:32:27
『感泣亭秋報』9号 『朔』178号 小山常子追悼号
 詩人小山正孝の御子息正見様より年刊雑誌『感泣亭秋報』9号を拝受、前後して八戸の圓子哲雄様より『朔』178号の御恵投にも与りました。ともに今春93歳で身罷った小山正孝夫人常子氏を追悼する特集が組まれてをり、感懐を新たにしてをります。拝眉の機会なく、お送り頂いた雑誌に対する感想をその都度これが最後になるかもしれないとの気持でお便り申し上げてきた自分には、今回あらためて寄稿する追悼文の用意がありませんでした。同じく書翰上のやりとりを以て手厚いおくやみを捧げられた『朔』同人のお言葉を拝して恥じ入ってをります。

『感泣亭秋報』9号 (感泣亭アーカイヴズ 2014.11.13発行)
発行連絡先:〒211-002 神奈川県川崎市中原区木月3-14-12

『朔』178号 (朔社 2014.11.20発行)
発行連絡先:〒031-0003 青森県八戸市吹上3-5-32 圓子哲雄様方

 詩作の出発時から現夫人との純愛をテーマに据えてきた「四季」の詩人小山正孝。その片方の当事者自らの筆により楽屋裏からのエピソードを提供、それを契機にエッセイ類を陸続発表されるやうになった常子氏ですが、このたび感泣亭の会合に集はれた皆様、そして『朔』同人の方々から寄せられた回想といふのは、亡き夫君の面影を纏ひつつも常子氏独自の人柄才幹を窺はせるエピソードが興味深く、読み応へのあるものばかりでした。

 そもそも詩人当人より奥方の方が、よほど現実生活において対人的な魅力と包容力に勝ってゐるといふのは、わが先師田中克己夫妻の例を引き合ひに出すまでもなく、詩人と呼ばれるほどの人物の家庭では、必ずやさうなのでありませう。詩人からの“呪縛”と記してをられた方もありましたが、伴侶を失った妻が驥足を伸ばし、夫より長生きするといふのも、常子氏の場合において特筆すべきは、その“呪縛”を自らもう一度縛り直すがごとき殉情ロマンチックな性質のものであったこと。まことに「小山正孝ワールド」において韜晦された愛の真実を証しするもののやうにも感じられます。最愛の夫を失った喪失感を埋めるために始められた執筆が、不自由な青春を強いた戦前戦中に成った夫婦の原風景にまでさかのぼり、たちもとほる、その回想が恐ろしいほどの記憶力を伴ってゐることに、読者のだれもが驚嘆を覚えずにはゐられなかった筈です。

 斯様な消息は、(小説と銘打ってゐますが)このたび『感泣亭秋報』に遺稿として載ることになった雑誌の懸賞応募原稿「丸火鉢」にも顕著で、これが卆寿を超えた女性の書いたものであるとは思はれない等といふ単なる話題性を超え、戦時中の日本の青春の現場が、斯様に若い女性の視点からあからさまに描かれてゐるのも稀有のことならば、戦地へ送り出す新妻の心栄えを杓子定規な御涙頂戴の視点からしか称揚してみせることができない邦画的感傷主義に比してみれば、非社会的なあどけない主人公の心持が、許婚に対する意図しない残酷さを伴って綴られてゐる様は新鮮でさへあり、家族に対する真面目な倫理性との混淆も計算上の叙述といふことであれば、非凡といふほかないと自分には思はれたことです。読み進めての途中からどんどん面白くなり、未来の御主人「O氏」が全面に出てくる前に筆を擱いてゐるところなどは、(自分に小説を語る資格などありませんが、一読者として)唸らざるを得ませんでした。
出版社も事情を飲んで一旦応募した作品の返却によくも応じてくれたものだとも思ひます。掲載に至る経緯をあとがきに読み、感慨を深くした次第です。

 一方の『朔』巻頭には絶筆となった未定稿「the sun」が載せられました。

「何時までも何時までも鼓動しているのでしょうか。私の心臓 一時は困ったことだと思っていましたが此の頃になって私の日常のラストのラストまで未知の経験と冒険の日々を作ってみようかなと思うようになりました。」5p

 生(いのち)の陽だまりに対する感謝が、英語塾の先生らしいウィットを以て太陽(sun)と息子(son)に捧げられたこの短文、御子息の編集に係る『感泣亭秋報』には、立場からすれば一寸手前味噌にも感じられてしまふ内容だっただけに、掲載されて本当に良かったと思ひました。けだし1971年に創刊した抒情詩雑誌『朔』はこの数年、小山常子氏の純情清廉なモチベーションによる貴重な文学史的回想によって、四季派の衣鉢を継ぐ面目を保ち、新たにしたといって過言ではありませんでした。常子氏においても自ら書くことによって亡き詩人の余光を発し続けることができることを悟り、残された自身の存在証明とも言はんばかりの創作意欲を、迎へ入れられた「朔」誌上でみせつけてこられたのは、同じく未亡人であった堀多恵子氏以上の情熱であったといってもいいかもしれない。それ故にこそ、訃報を受け取った圓子氏の心痛も半年以上筆を執ることができなくなったといふ体調不良にまで及んだのでありましたでせうし、常子氏が昨年文業を一冊にまとめられて区切りをつけられたことに、私も某かの讖を感じぬでもありませんでしたが、御高齢とはいへ、明晰な思考と記憶と、そして恋愛を本分とする抒情精神をお持ちだった文章の印象が先行してゐただけに、やはり突然の逝去は、期日と年歯をほぼ同じくした山川京子氏の訃報と共に不意打ちの感を伴ふものでありました。謹んでご冥福をお祈り申し上げます。


 また今号の『感泣亭秋報』について補足します。このたびは渡邊啓史氏、蓜島亘氏の労作原稿を得て倍増し、資料的価値満載の150ページを超える大冊の文学研究雑誌となってゐます。渡邊氏は詩人小山正孝の一作一作の業績ごとに肉迫する論考を第4詩集『散ル木ノ葉』に於いて展開。一方の蓜島氏は戦中戦後の文芸雑誌人脈を出版面から実に細かく一次資料に当って描き出し、連載3回目のこのたびは、雨後の筍の如く林立しては淘汰されていった終戦直後の出版界の混乱に、抒情派の旗揚げもまた翻弄される様子が述べられてゐます。新雑誌の盟主に『四季』の名前とともに担ぎ出されんとする堀辰雄をめぐり、あくまで抒情詩の旗頭になってほしいと願ふ四季派第二世代である小山正孝・野村英夫らの若い詩人たち、文学者であるコネクションを発揮して頭角を露さんとする新進出版社主の角川源義、そして両者の間にあって病床の堀辰雄のスポークスマンを買って出た親友の神西清、その三者の思惑が一致せず、堀辰雄晩年の思案顔も髣髴されるやうな状況が、正確を期する記述と小山家に残された書翰によって明らかにされてをります。小山正孝は結局『四季』ではなく、1号で終った『胡桃』といふ雑誌を編集することになるのですが、四季派の抒情詩人として出版に携はった、例へば稲葉健吉といったマイナーポエットなども今回は紹介されてゐます。戦後しばらくの抒情詩陣営の活況を、資料によって相関関係とともに焙り出してゆく蓜島氏らしい実証作業は、現代詩一辺倒の詩史の隙間を埋めるものとして注目に値します。

 とりいそぎの御紹介まで。ここにても御礼を申し上げます。ありがたうございました。

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708やす:2014/12/12(金) 21:28:12
『季』 100号
 同人詩誌『季』が100号を迎へた。精神的支柱に杉山平一先生を戴いた四季派直系の雑誌である。詩を書き始めた頃、拠るべき場所を失った私を迎へ入れてくださった雑誌であり、最年少の身分で好き勝手させてもらったここでの発表が、乏しいわが詩作のピークであったことを憶ふと、お送りいただいた一冊を手に取っては今更の感慨を禁じえない。
同人の詩風はおしなべて雅馴、かつ淡彩ながら各々別あり、私の脱落とすれ違ふやうに入会された杉本深由起氏は、最年少同人の特別席を襲って杉山平一ゆずりエスプリを発揮し、『季』40年の歴史が送り出した選手と呼んでよいのかもしれません。

ちいさな我慢や 怒りが重なって
ミルフィーユみたいになってきたら
紅茶の時間にいたしましょう

カップの中のティーバッグと
白い糸でつながって
ゆらゆら ゆらしているうちに
風とおしのいい丘の上で
凧あげしている気分になってきました
(後略)                      杉本深由起「ゆらゆら」より

 長らく編集に携はってこられた舟山逸子、矢野敏行両氏の温和な人柄が、ゆったりした組み方からはじめ雑誌全体の雰囲気を決定し、毎号の扉・表紙を飾る杉山先生の簡潔なカットは、これが雑誌「四季」の衣鉢を継ぐ牙城であることを示す徽章のやうでありました。杉山先生なきあと、さきの98、99、100号と、深呼吸をしたのち再び歩みをすすめてゆかうとされる皆さんの意気込みが、気負ひなく表れてゐる誌面となってゐます。

 ここにてもお慶び申し上げます。ありがたうございました。

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709やす:2014/12/13(土) 15:16:54
おくやみ 松本和也氏(下町風俗資料館初代館長)
 口語自由律俳句の鬼才、嘗てわが上司にして台東区立下町風俗資料館の初代館長でありました、松本和也(まつもとかずや)氏の逝去を、年賀欠礼状によってお知らせいただき、吃驚してをります。さる四月十四日とのこと、二年間の闘病生活を送られてゐたことも存じませんでした。毎年娘さんの描く一風変はったイラストに、一言を添へた年賀状を返していただくのが楽しみでしたが、昨年はお送りした拙詩集に感想もないまま、いただいた賀状の言葉の意味を計りかねてゐた自分を恥かしく思ひかへしてをります。

  思ひ起こせば地方の大学を卒業して仕事も決まらぬまま上京、三月も終りに「来月からどうしよう」と思ひ倦み、上野は不忍池をぶらぶらしてゐたところ、偶然下町風俗資料館の玄関に貼りだしてあった求人広告に目がとまったのでありました。マンガ雑誌「ガロ」の影響で下町風情にあこがれて上京してきたなんぞといふ、学芸員の資格もない訳のわからない男を、よくも一見しただけで採用して下さったものだと、今に当時のことを思って不思議の感にとらはれてなりません。この資料館に私は文化財専門員として1984年から1990年までの間、丸6年お世話になりました。新任職員の賃金を上回ってはならぬといふ待遇規定で毎年更新、区は学芸員を正規採用するつもりはなく、だから私みたいな者が採用されることになった訳ですが、館長が常々仰言る「いつまでもおったらだめだよ」といふ言葉通り、同僚はここをステップにキャリアアップを目指して次々飛びたっていったのに、無目的の私は9時5時勤務で週に三日もあった休みを精神生活の彷徨に費やし(お金はありませんでしたから)、しっかり怠け者の詩人の生活が板についてしまったのでありました。

 「前衛の自負」を標榜された新日本文学派の松本館長にとって四季・コギトの編集同人だった田中克己の門を敲いた私は、謂はば「花鳥風月の詩人」「戦犯詩人」に与する反動派であり、氷炭相容れぬ関係だった筈ですが、一方では公務員らしからぬ無頼派を気取り斜(はす)に構へてみせる。例へば縦縞の入った紫色のスーツで身を固め、職場に通ずるポルノ映画館の路地裏を肩で風を切って、といふか風に吹かれてゐるやうにもみえる、浅草生まれを自負する粋人でもありました。「民主主義は多数決の勝利である」と言挙げしつつ、イデオロギーを超えたロマンとエロスに苛まれた実存を吐き出す場所を求め、あくまでも自由律「俳句」のカオスに拘泥された。お役所体質と公務員気質を心底嫌ってをられましたが、日本で初めてできた下町の文化風俗を展示する博物館(敷地規模のため資料館とされましたが)の、構想から設立・運営の差配をすべて任されたのちは、恐るべき情熱をもってこれに没頭され、明治・大正・昭和の風俗論を実地調査と共に展開して、その成果を公的刊行物らしからぬ言辞の揺曳する図録に次々とまとめてゆかれました。核となった原風景は自身が青春を送った敗戦後の猥雑たる浅草界隈であったと思しく、威圧感を嫌って物腰こそ柔らかいものの、何事につけても独断専行、わくわくするやうなモチベーションが先行した斯様な型破りのキャラクターが、私ら口さがないペーペーの若者職員にとって瞠目・称賛・畏怖・観賞に値するボスでない訳がありませんでした。遠まきに時折り議論めいた詩論をふっかけてくる、何にもわかっちゃいない、歯牙にも掛らぬ若者の生意気な口吻も、たしなめつつ不羈の精神を嘉して、温かく見守って下さった、その御恩を仕事の上で在職中にお返しすることはできませんでした。勇退後の松本館長とはむしろ私が帰郷した後、同人誌や著作のやりとりを通じてお言葉を頂く間に、頑固な四季派それもよろしい、といふ文学上の認可に至ったとも任じてをりました。

 まことに東京砂漠で路頭に迷ふ既の所を救って下さった御恩。そして資料の収集・展示にまつはる面白をかしい失敗譚の数々。当時の同僚や出向事務方との思ひ出とともに、ひさしぶりに三十年前の自分をなつかしく回想してをります。謹んで御冥福をお祈り申し上げます。

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710やす:2014/12/26(金) 10:07:19
『森春濤の基礎的研究』
 年末にうれしい贈り物、日野俊彦先生より御高著『森春濤の基礎的研究』の御寄贈に与りました。以前に御論文のコピーをいただいてをりましたが、資料編を万全に付した、立派な装釘に瞠目です。刊行のお慶びを申し上げます。

 内容は三度も賦されなければならなかった悼亡詩をはじめ、「洗児詩」に託す思ひが下敷きとした中国の古典のこと、維新前後の詩人の動静について丹羽花南との関はりや、漢詩時代の掉尾を飾った逐次刊行物『新文詩』の意義。そして春濤といへば必ず挙げられる「竹枝」「香匳体」について。ことにも詩壇から「詩魔」と称された一件に於ける「述志」の詩人岡本黄石との関係にスポットライトを当てての考察は興味深く、最後に野口寧斎が遺した184句にのぼる「恭輓春濤森先生」の追悼詩によって春濤の伝記を概括してゐます。
 これら「基礎的研究」と謙遜される話題の数々について、資料を明示しながら神田喜一郎、入谷仙介、揖斐高ほか先達の考察を踏まへた自説が開陳されてゐるのですが、後世の門外漢たちによって、ともすると不遇な大沼枕山をよしとする為に、まるで政界と癒着して成功を収めたかの如く対比して持ち出されることもあった森春濤のことを、人間性の面から捉へなほさうとする姿勢にまづ敬服です。

 森春濤といへば、私の関心は岐阜にまつはる事迹と、梁川星巌翁はじめ幕府から最も危険視された尊攘グループとどのやうに誼を通じてゐたか、といふことに尽きるのですが、岐阜のことは詳しくは書いてありませんが、高山については幻の選詩集に終った『飛山詩録』のことが述べられてゐます。そして政治へ身を投じることができなかった理由について、妻孥の夭折が決定的に掣肘したのではとの指摘に詩人の苦衷を思ひました。星巌門の末席に連なってゐるといふ意識は大獄の後、どのやうに総括されていったのでありませうか。けだし森春濤・大沼枕山あたりを境にして(もちろん性格と身分に拠るところも大きいのでありませうが)やや年長の小野湖山、岡本黄石といった星巌門の人々は、本当に紙一重のところでの生き残りといった感じが深いのですが、春濤は維新後、それらの人々と文事をもって濃密に交はってをります。如何なる話題が往き来したのか、本書には俊才の弟(渡邊精所)の詩稿を「付録」にしてでも収めることとなった『安政三十二家絶句』の出版事情が、編者家里松嶹からの手紙として紹介されてゐますが、同じく打診されて退けられた佐藤牧山の評価とともにたいへんおもしろい。永井荷風『下谷叢話』の粉本だったともいふ出典『春濤先生逸事談』を読んでみたくなりました。

 かつて中村真一郎は、明治新体詩の新声も、円熟した江戸後期漢詩から精神的にはむしろ後退したところから始まったと喝破して江戸後期の漢詩壇を称揚したのでしたが、では明治時代の漢詩とはいへば、こちらはこちらで市井の人情を盛る役目から、漢詩の特性に相応しい志を述べる役目へと、維新時の志士達からそのまま政界人達に受継がれてゆくに従ひ結局「詩吟」の世界へと硬直してゆかざるを得なかった。当路の人たちを指導した春濤を中心とした漢詩檀サロンの盛況こそ、さうした趨勢を裏書きしてゐるやうに感じます。実地では風俗に通じてゐるだけでなく、家庭的にも教育的にも人間味に富んだ穏健円満な「手弱女振り」ともいふべき漢詩の御師匠さんが、押し寄せる西欧文学から漢詩を救ふ活路を見出すにあたって、政事・軍事を盛りやすい「益良夫振り」が喜ばれる場所を用意した象徴的人物になってしまった、といふのはある意味とても皮肉なことでありませんか。世捨て人型の成島柳北や大沼枕山に後世の人気が傾いたのは仕方がないことですが、管見では、同じ熱情をもちながら実際行動に移すを得ぬまま維新を迎へ、はしなくも斯界の巨擘に育っていった様を、私は詩画二大文化においてもう片方に、孤峰ですが冨岡鉄斎を見立ててみたいとも思ってゐます。

 さて「詩魔」といふレッテルは、時代を下り昭和初期になってから岐阜市内に興った同人詩誌のネーミングとして敢へて踏襲されてゐるのですが、ここに拠った詩人たちは近代詩における香匳体といってよいのか、観光的俗謡の分野で大いに気炎を上げたグループでありました。そして森春濤にせよ梁川星巌にせよ、岐阜から出て斯界を総べるに至ったオーガナイザーの巨星たちには、あとになって懐の深さを誤解される批評が行はれたことも多かったこと。あるひはもっと昔の各務支考をふくめてもいいですが、美濃といふ保守的土地柄が稀に特異点を生む場合の一性格として、風土に関係することがあるのかもしれないと思ったことです。

 星巌も春濤も同じく庶民の出であり、役人の家柄を嫌って野に下り低徊したポーズはない。少年時の無頼によって培はれた反骨精神は、現体制と反対の権威の上で発現しようとする尊王精神に結びつき昇華されるものでありました。上昇志向が未遂に終ったのが星巌であり、雌伏して維新を迎へ成功したのが春濤だったといへるのではないでせうか。本書では成島柳北が槐南青年のバーチャル恋愛詩を揶揄する条りが語られてゐますが、父春濤の若き日の狭斜趣味もまた、不自由なく実地を極め得た柳北の青春とは違ったものであったことでせう。梁川星巌もまた吉原で蕩尽して改心、坊主になり詩禅と名乗ったのでありましたが、苦労人である星巌も春濤もともに禅味といふか、道学仏教に揺曳する脱俗の詩境に韜晦したがる一面を、上昇志向の裏返しと呼んでいいやうな詩人的本質としてもってゐるところも共通してゐます。 最後に、著者は星巌の詩集に妻の名なく紅蘭の詩集に夫の名なしと本書の中で記してをられますが、妻のこと夫のことを歌った詩はあり、行迹行状を顧みてもこの夫にこの妻ありの破天荒さと進取の気性は無双です。死別には終ったものの森春濤の三度の婚娶もまた、閨秀詩人であったり、夫に文才を求めたりと、先師夫妻の形態を襲った面もあるのではないかと思ったりしました。

 もっともかうしたことは全て漢詩を自在に読解することができてはじめて話するべきことがらです。頂いた本から触発され、つまらぬ我田引水の妄想まで書き連ねてしまひました。

 ここにても御礼を申し上げます。有難うございました。


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