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Web誌友会 板/2
5746
:
トキ
:2015/09/22(火) 17:52:28 ID:CeKYIz4g
ご投稿、ありがとうございます。いくつもご投稿やご質問を頂戴したので、どれから返答を
したらよいやら、と思案しています。極力、説明をいたしますが、宗教の説明は科学の分野と
異なり、最終的には、「信じるか、信じないか」の世界になるので、ご期待にそえない可能性
が高いのであらかじめお許しください。
まずは、5745から自分の意見を申し上げます。
生長の家の世界観は、唯神実相論という考えから出発をしています。
平たく言うと、この世界で実在するものは神のみであり、ビッグバン以後に誕生した世界は
あくまでも全てバーチャルな世界だという発想です。この発想は古代ギリシャ時代にも存在し
たという話は聞いた事がありますし、最近の死海文書などの研究から原始キリスト教もほぼ
同じ発想をしていたと読んだ記憶があります。
その意味では、谷口雅春先生の発想ですが、歴史上、他の宗教家も言っていたとは言えるで
しょう。これは生長の家の発想ですが、神様の啓示と考えたら、共通するのは当然だと言える
でしょう。
さて、バーチャルな存在だとしたら、人間を含めて、全ての存在が仮想の存在という事に
なってしまいます。当然、本来なら「心」もない、ということになります。しかし、論理的
には、バーチャルな世界でも、そのバーチャル自体は神様のある種の意思の反映ですから、
神様とは全く無関係ではありません。
聖書には、神様は人間を造られた時に、「はなはだ善かりき」と言われたとあります。
その意味では、神の最高の自己実現である、という事になります。同時に、神は人間に
自由な意思も与えた、と書かれています。
余談ですが、よく小説家や漫画家が、作品を書いていると、登場人物が勝手に動きだす
と言います。それに近い状態ではないかと思います。
バーチャルな世界とはいえ、そこに神様の意思が反映している以上、人間は神の最高の自己実現
である、という論理が成り立ちます。同時に、そこにある意思は、神の意思がそのまま反映したもの
ではない以上、ある種、独立した意思が成り立ちうる事になります。
これを、仮に「心」と命名します。
(つづく)
5747
:
トキ
:2015/09/22(火) 18:10:45 ID:CeKYIz4g
この「心」は、神様のご意思とは密接な関連がある以上は、心の動きとバーチャルな仮想世界
とも密接な関係があります。生長の家では、このバーチャルな仮想世界を「現象」の世界と言います。
神がそのバーチャルな世界上にある人間の意思に自由を与えた以上は、直接には、神が人間
を操り人形のように動かすことは、しない、ということになります。が、結果は密接に「現象」
の世界に反映することになります。
環境は心の影、というのは、この密接な連動を指します。
以上は生長の家の発想を一般の人向きに咀嚼した(つもり)です。
では、この以上の理論を検証することは可能か、というと、一般論としては
不可能です。ただし、個々の人間が、それを信じる、信じないかを決めるため
に検証をすることは、可能です。以上の理論については、谷口雅春先生が膨大
な書物に書かれているので、それを読んで、自分が実践し、それで自分の生活
や仕事が良い方向へと変化したなら、それは信じる契機となる、というもので
す。それで、多くの人が実践し、生活が向上したり、その他、納得ができる結果
が出たので、信じている、ということです。
悪い言い方をすると、英語で、Take it, or leave it.という考えがあります。
信じるか、信じないか、という世界になってしまいます。
演繹的なアプローチでは検証は不可能。実践するしかない、というもので
す。その意味では、残念ながら、ご期待にそえない結論になってしまいまし
た。
5748
:
曳馬野
:2015/09/22(火) 18:12:05 ID:JPiKJZkg
純粋教理批判さんの意味する「スピリチュアル」「反証不可能な超越項」とはどのような事を指しますか?
私のような禅と生長の家しか知らないものにはカタカナを使っての話が分かりにくいのです。
意識に上った風光に対して日本語であれば「心象」の言葉で用足りると思うのですが。ホログラムとかドリーミングの言葉を使われますと日本語でさえ人によって汲み取る意味が変わっていることが度々ですので、カタカナは先にこのような意味で使うと定義出来れば話は進むと思いますが、『現象』の定義ひとつでも難しいものになると思いますよ。
心にしても「私がいると認識する心」と「本来の心」と二通りに生長の家では説きますよね、禅では意識になる前の対象物に同化しているものを本心とし、その一瞬後に出来事に意味づけした状態の「念」に変化したものを心の変成作用としているようです。
ですから「心とは何なのでしょうか」?と問われましても、説明はできても、本心の方は禅で言えば究極の存在そのものとされていますので、言葉の世界では決して理解不能ということになります。
「すべては心の影」とはどういうことをいっているのでしょう。にしても説明としては心に応じて二通りに説明はできますが、本心の働きにより出来上がった世界は心を極めた人にしか納得できないと思われます。
『不立文字教外別伝』と云われる存在の根源を言葉で知ろうとすることがそもそもの間違いであろうと考えます。禅では自分の本来の姿を知ることを持って悟りとするようですが、考えで知るのでなく、自分というものが存在し生きているという意識が抜けなければ達することはできないようです。ですから今の私は、自分という限られた意識体があるとしたうえでの話は、全て本質に行き着くとは考えていません。
5749
:
トキ
:2015/09/22(火) 18:18:21 ID:CeKYIz4g
>>5741
私はタルムードについては詳細は知りませんが、その内容はかなり生活に密接に関連したものだ
という印象を受けています。それと、ユダヤ教のラビも基本的には、普通の仕事をしながら信仰の
活動をするとも聞いています。(まちがいだったらゴメンなさい。)
その意味では、生長の家とも近い存在ではないかと思います。その意味は、世俗から独立した
存在になる事による危険性への対応だと思います。
過去、生長の家がかかえていた、または現在かかえている問題は、組織が大きくなり、その
中で、官僚化や形式化が進んだことにあると感じています。
信仰の暴走、ということよりも、自分は活動や組織の暴走、という印象を受けています。
それは、かなり世俗的な部分もあります。活動や組織の暴走を防止することは、組織内の
システムを改善することで十分に可能です。
5750
:
トキ
:2015/09/22(火) 18:45:18 ID:CeKYIz4g
>>5742
Dブレインについては、難しいので私も四苦八苦しています。
まあ、何年か先にはわかるかもしれません(笑)。
5751
:
純粋教理批判
:2015/09/22(火) 18:48:38 ID:DD4jWV6M
>純粋教理批判さんの意味する「スピリチュアル」「反証不可能な超越項」とはどのような事を指しますか?
まずは「反証不可能な超越項」とは「神が完全なる実相世界をつくった」といったような表現です。このようなことをいわれても反論のしようがない。実相世界が創造される様子を多少なりともイメージできるような表現をしてもらわなければ反論のしようがないということです。
「スピリチュアル」にかんしてはわたしもよくわかりません。世間ではふつうに使われているようです。かつてブログでスピリチュアルにかんしての質問をうけたことがありますが、答えられないので適当にごまかしました。
ところでドリーミングですが、これは北米やオーストラリアの先住民が用いている言葉のようです(ちょくせつ聞いたことはありません)。世界はある何者かが夢見ることでつくられているとする考え方、これがドリーミングです。
ドリーミングとは世界はある何者かの夢の中の出来事であるとする考え方ですが、こうした考え方がDブレーンのところで説明した「70億の人類に70億の宇宙あり(70億の人類が70億の夢をみている)」とちょうど符合するので、ホログラムの使用はやめてドリーミングの用語に置き換えました。
ドリーミングは心理学者のアーノルド・ミンデルがいたるところで用いておりますので、詳しくはこちらを参照してください。こちらの掲示板ではドリーミングという言葉が何度も用いられているようなので意味の説明ははぶいたという次第です。トキさんも聞かれたことがあるはずです。
「すべては心の影とはどういうことをいうのか」はこちらの板で「すべては心の影」と言い続けている一信徒にたずねたものです。「個人の勝手な解釈どうしのひらかれた議論」としてたずねたものです。
この方は「心の影」を乱発しておられるようなので、どういう意味でそれを使っておられるのか、まずは確認する必要があったというわけです。トキさんに答えていただいてももちろんかまいません。
5752
:
トキ
:2015/09/22(火) 18:54:43 ID:CeKYIz4g
>>5748
純粋教理批判様が言いたいのは、議論に負けそうになると、神様とか真理とかいう実証
不可能な事柄を持ち出して、議論を打ち切るのは卑怯だ、ということなのでしょう。
私もある部分ではその考えに共鳴しますが、宗教の場合、最終的には「信じるか、信じないか」
という結論になってしまうので、難しい点でもあります。
それでも議論をするのは、何かの結論をだす、というよりも、それを読んだ人が自分の
宗教観や信仰のあり方の参考にするための資料として有益である、ということでしょう。
ところで、純粋教理批判様が生長の家について、いくつかの批判を書かれています。
生長の家の信仰に限らず、宗教団体がある個人を傷つける言動をする場合はないとは限り
ません。生長の家では、愛と知恵との十字架で、と言います。
知恵が足りないか、愛が足りないか、またはその両方が足りないかで、意図しなくても
誰かを傷つける場合はあります。
それはそれで、私も一人の信仰者としては、謙虚に反省すべきだとは思います。
5753
:
純粋教理批判
:2015/09/22(火) 19:11:45 ID:DD4jWV6M
トキさま
わたしが「心の影とは何か」を問題にするのは、人類が心をもったのはたかだか二千年以前と考えられているからです。ではそれ以前はどうだったのか。「人類には心がある」といっても人類の歴史から考えればそれは一瞬のこと。「自由なる意思をあたえた」といってもそれも一瞬のこと。人類の歴史の中でいきなり心があらわれて、それから「すべては心の影」の時代がはじまったということなのでしょうか。
すべては心の影。これは現代人のおごりではないかとおもわれる次第です。
5754
:
純粋教理批判
:2015/09/22(火) 19:20:26 ID:DD4jWV6M
UFOが存在するかしないかも信じるか信じないかの問題ですが、UFOを実際にみた人はそのときの様子をくわしく説明できるはずです。宗教が詳しい説明をしないというのは、信じる信じないとはべつの問題のような気がします。
5755
:
曳馬野
:2015/09/22(火) 20:53:25 ID:JPiKJZkg
>>「実相世界が創造される様子を多少なりともイメージできるような表現をしてもらわなければ反論のしようがないということです。」
理想的な良いものばかりの世界という説きかたが生長の家でされますが、禅ではあるままの姿をして実相としているように思われます。因縁の法で物事が出来上がっているので、善悪の判断以前の物事そのものを実相と云っているようです。
この意味では実相の意味する物が違っているようです。五官に触れた瞬間には其の儘のものに触れているのを、一瞬の後に念のオブラートで隠したものを認識作用の上で理解している、そんな意味では「70億の人類に70億の宇宙あり(70億の人類が70億の夢をみている)」と言えると思います。
「心の影」と云うのも同じ現実はある一瞬においては世界中唯一つであるけれども、一瞬後には各人夫々の念のレンズを通して意味づけしたものとして認識しているのです。物事があるというけれど、ある瞬間の結果としての生成流動そのものでないでしょうか。記憶の中にのみ物事は存在するもので、前後裁断された善悪などの判断の入る余地のないものみたいです。ですから心の影と云いましても心によって作り出されたものという意味と、心によってそのように認識しているという二つの意味があると思います。
「人は自分と同じものを相手に見出す。あらゆる場合において、人は相手そのものを見るのではない。自分の心を相手と云う鏡に映してみるのである。」と言われているのですが、お前の環境はお前の所為だというように責任の所在を知らすための真理ではなく、環境を見ていろいろ感じるのはそのように感じる心を持っているのだから、嫌な奴などと感じるその心を考え直せ、という意味でしょう。
教団の在り様を見れば総裁の心が分かるなんて言う意味での心の影というものではないでしょう。でないと継母にひどい扱いを受け長じても心の傷云えず悲しむべき運命に泣いている人の個人指導に、それでさえ感謝できるものを探して感謝しなさい、ということができ感謝の結果よき状態になったというがごときは説明できません。感謝の心少なき結果としてそのようになっているのであって、継母の心が冷たいのではないということを表す真理として説かれているのでしょう。
しかしこれはどちらからもいえる真理ではあります、裁きの為の真理ではないということですね。
5756
:
トキ
:2015/09/22(火) 21:10:02 ID:PeyOW5Zk
>>5753
純粋教理批判様
すみません、出先からパソコンを借りて書いています。
生長の家の現役の会員が言及するのは不適当かもしれませんが、かって生長の家の本部講師で、
後年、高橋信次さんの教団に移籍し、その後、独自の教団を立てた園頭さんが、心の法則につい
て疑問を感じたことを書いています。園頭さんがその事を高橋さんに質問をすると、高橋さんに
キリストの霊が乗り移り(まあ、このあたりは本当かどうかは不明ですが)
『愛の心のない人に心の法則を教えてはいけません」
と返答をしたそうです。実は、どこだか忘れましたが、谷口雅春先生も同じ趣旨のことを書かれて
いたのも憶えています。
心の法則というのは、もともと、自分が反省し、進歩向上するために教えられたものですが、
それを中には、自分が他人を裁くために使う人もいる、ということでしょう。
あと、人類が登場する前の地球はどうだったのか、というと、それは同じ事だったのではないで
しょうか。
スピリチュアルな説明になってすみませんが、いろいろな本を調べてみると、有名なモンロー
研究所について書かれた「死後体験 3」という本に、人間はマイクロコスモス、つまり小宇宙
である、という説明がされていました。人体を更正する細胞まで意思を持っている、という説明
をしていました。それが分子や原始、さらにヒモまで言っても意思がある、という説明です。
これも現象のレベルの話ですが、宇宙意思が細胞や分子のレベルまでも存在すると考えるのな
ら、心の影が連動するのも不思議ではない、と考えることは可能です。
5758
:
純粋教理批判
:2015/09/22(火) 23:57:21 ID:DD4jWV6M
>この意味では実相の意味する物が違っているようです。五官に触れた瞬間には其の儘のものに触れているのを、一瞬の後に念のオブラートで隠したものを認識作用の上で理解している、そんな意味では「70億の人類に70億の宇宙あり(70億の人類が70億の夢をみている)」と言えると思います。
生長の家では五官を迷いであるかのごとく説きますが、五官はたしかに実相なのです。五官によって得た情報のようなものを何らかの方法で変換することで人間はそれをドリーミング(ホログラム映像)として翻訳しているはずなのですね。
夢(現象)は映像です。映像に力の入り込む余地はありません。映像で力を伝えることはできない、と言い換えることもできるでしょう。映像の世界を生きていながら、それでも人間は五官によって力を感じています。したがってその力は映像以前のもの、つまりは現象以前のものと考えるより他はないと考えます。
>「人は自分と同じものを相手に見出す。あらゆる場合において、人は相手そのものを見るのではない。自分の心を相手と云う鏡に映してみるのである。」と言われているのですが、お前の環境はお前の所為だというように責任の所在を知らすための真理ではなく、環境を見ていろいろ感じるのはそのように感じる心を持っているのだから、嫌な奴などと感じるその心を考え直せ、という意味でしょう。
自分のなかにあるものを相手にみいだすことを心理学では投影といいますね。相手にたいする敵意があるとき、本当は自分の中にあるはずのものなのに相手が自分に敵意をもっていると思い込んでしまう現象が投影ですが、生長の家で説く「心の影」は投影についていっているのかとずっと疑問におもっておりました。その可能性もあるということを理解いたしました。
ただ心理学者のミンデルは(ミンデルはMITで量子力学を専攻していました)、投影にも量子力学的な背景があることを示唆しており、投影としての「心の影」にもなんらかの物理的実体がある可能性が残るのではないかと考えます。このあたりはトキさんの研究を待つしかありません。
5759
:
純粋教理批判
:2015/09/23(水) 00:29:01 ID:DD4jWV6M
>聖書には、神様は人間を造られた時に、「はなはだ善かりき」と言われたとあります。
その意味では、神の最高の自己実現である、という事になります。同時に、神は人間に
自由な意思も与えた、と書かれています。
自由とはなにかが問題ですね。スピノザは神一元の世界を思い描いていたといいますが、自由というものがどうしても説明できなかったようです。なぜかといえば一元論は決定論だからです。一元論ははじめから結末がどうなるかが決められている決定論だからです。
神一元の世界観では神と対立するものは存在しません。これはいってみれば一人でゲームをやっているようなものですから予想外の展開というものがありません。予想外の展開にもちこもうとおもったところで、それも自分がやるわけですから予想外といえるはずがありません。
すべてが予想の範囲内でゲームがすすめられて最終的な決着をみる。これが一元論です。自由というものがどこにある。スピノザはこの問題で悩みつづけ結論をだすことはついにできなかったようです。
自由とはなんでしょう。一元論が決定論であることを認めること。この苦渋の決断こそが人間にあたえられた唯一の自由という気がいたします。
5760
:
純粋教理批判
:2015/09/23(水) 12:56:00 ID:DD4jWV6M
実相にもいろいろある。
「物質はない」ということはいえるでしょう。しかしたとえば行く手に電信柱があるのに「電信柱はないんだ」とそのまままっすぐ歩いていけばぶつかって痛いおもいをします。電信柱はないはずなのになぜぶつかるのかといえばそこに力が働いているからです。
電信柱にぶつかった瞬間、それは力を感じた瞬間でもあるわけですが、この一瞬、人は実相世界にいるともいえる。しかしそのすぐあとに「痛い」とか「こんちくしょう」とかの思いが湧いてきて人はたちまちにして現象の世界にひきずりこまれる。
こういうことが起きているとすれば力はそれじたいが実相ともいえるが、人間が解釈や判断をくわえた途端に力は現象へと落ち込んでいく。力は実相でもあれば現象でもある。しかしここでいう実相とは「究極の実相」ではないということだけはいえる。
「それがある」、「それがただある」、これが究極の実相です。究極の実相を想像するのはそれほどむつかしくはない。宇宙のなかに自分一人だけがいると想像できれば、これが究極の実相です。
自分以外には何もない。もちろん自分もない。自分という感覚は他人があればこそであって、他人がいなければ自分という感覚もない。ただそこにあるだけ。まわりには何もない。
いや、まわりというものさえない。それがある。ただそれがある。
実相独在とはこういう意味です。ほかに何もない。「ほか」という観念もない。ほんとうになにもない。「ない」ということもない。「ただあるだけ」としかいいようがない。これが究極の実相です。
5761
:
純粋教理批判
:2015/09/23(水) 13:20:16 ID:DD4jWV6M
究極の実相を活性化させたのが外部です。外部が内部に侵入した。外部に侵入された実相は収縮を余儀なくされた。実相は内部のさらなる内部へのひきこもりを開始した。実相は他者との関係をもったことでこのときはじめて「自分」の感覚をもった。
心とはなんでしょう。言葉と情動がまざりあったもの、これが心です。かつての人類は言葉と情動が分離されていたために心をもてなかった。何千年かまえに言葉と情動がまざりあったことで人類ははじめて心をもつことができた。
心はしかし心を体験することはできない。心を体験しているものはべつにいる。心はほんとうの自分ではない。心を体験しているほんとうの自分がべつにいる。
心を体験しているもの、それが内部のさらなる内部へとひきこもった究極の実相です。心を体験している究極の実相こそがほんとうの自分です。「赤肉団上に一無位の真人」と臨済が呼んだ一無位の真人こそが究極の実相でありほんとうの自分です(このあたり、正統の解釈とはズレている可能性あり。正統の解釈があればの話ですが、存じておりません)。
わたしのいう一無位の真人はただみているだけです。心の中の出来事をただみているだけ。人は誰もが一無位の真人として世界をみている。このことだけはいえる。しかし多くの人はそのことを自覚できずにいる。
自分のなかの一無位の真人を自覚するには自分をべつの場所に置く必要がある。外部とつながった場所におく必要がある。外部とつながった場所に自分をおいたとき、人は一無位の真人を感じられるようになる。究極の実相を感じることができるのは外部だけだからです。
5762
:
神の子さん
:2015/09/23(水) 14:21:29 ID:???
臨済は言った。
「この赤肉団上(肉体のこと)に一無位の真人がいて、常にお前たちの面門を出たり入ったりしている。まだこの真人を見届けていない者はさあ看よ! さあ看よ」
この言葉を聞くと、修行僧たちは、悟りに到達すると、自由闊達な真正の自分、つまり一無位の真人(そういった意識)が体を自由に出入りし、あらゆる差別を超越した大自由、大自在の境地になれるものだと思わない者はいないだろう。宗教学者や禅僧たちまでが、知ったかぶりして一無位の真人を真摯に解説している者もいる。
しかし、これは悟りに到達して得意げになっている臨済の、上から目線の最もらしく作った造語で、よく先行した者があとに続くものに優越感を持って幻惑するようなヒントを与えたりする心境と酷似している。
たぶん本来の自己を、臨済一流の言い回しで飛躍して言ったものと思われるが、真に親切心があるならば一無位の真人なんてまぎらわしい言い方はすべきではないと思う。聞いた者はよけい混乱するだろう。
釈迦以降、悟りに到達した者は沢山いるが、だれ一人として一無位の真人なんて言葉はおろか、それに類似したような言葉を述べたものはいない。
わたしは臨済と同じ禅の奥儀に到達したが、もし、わたしが臨済と同じように修行僧たちにヒントを与えるとしたら、やはり上から目線で宇宙の一握を実感せよ、とでも言うだろうか。すると修行僧たちは、悟りに到達すると、宇宙を一握できるぐらいの壮大な心境に浸れるぐらいに思うのではないだろうか。しかし、これは、わたしが最もらしく作った、悟りとは何の関連もない造語である。先行した者はどうしても上から目線になりやすいものである。しかし、そういった態度は人間として間違っているのである。
べつに悟りに到達しても、宇宙を一握できるような壮大な心境になれるわけではない。しかし、悟りの何たるかを知らない修行僧たちは、ひょっとすれば金科玉条のように宇宙の一握にこだわってしまうかも知れない。もっとも融通無碍の法をもってすれば宇宙を一握できぬこともないが、それは芥子粒に須弥山を閉じ込めるのとおなじような、「法」の世界での話であって現実味は乏しい話である。
だから、禅を学ぶ人たちは、いかにも最もらしい一無位の真人なんて造語に惑わされぬことである。何回もいうが、一無位の真人なんてものは、悟りとは何の関連もない、臨済が上から目線で、言い得て妙に作った造語でしかない。
北宗禅の臥輪禅師の偈に
伎倆あり、よく百思想を断ず。境に対して心起こらず、菩提は日々に長ず。(わたしには巧みな技能があって、百種の妄想を断ち切ることができる。対象に向かっても心は動かず、悟りへの道は日に日に成長している)
というのがあるが、この偈を聞いた六祖慧能は次のような偈を示して、臥輪禅師の誤りを暗に指摘した。
伎倆なしに、百思想を断ぜず、境に対して心しばしば起こる。菩提なんぞ長ぜん。(わたしには巧みな技能などない。百種の妄想を断ち切りもしない。対象に向かって心はそのつど動く。悟りへの道がどうして成長しようか)
禅の奥儀を極めたわたしには、慧能の偈こそ真実とわかる。もし臨済の時代に慧能が生存していたならきっとこういうだろう。
「わたしには、一無位の真人なんてものは、影も形も見えない」
5763
:
純粋教理批判
:2015/09/23(水) 15:11:38 ID:DD4jWV6M
たしかに「一無位の真人」の表現をもちいはしましたが、それがなんであるかは理論的に説明したはずです。「内部の内部へと収縮した究極の実相」と説明したはずです。
そのときの様子をより詳しく理論化せよ、と言われても無理ですね。「一無位の真人」という言葉を用いたためにわたしが禅の悟りについて語っているとおもわれたのかもしれませんが、わたしがやろうとしているのは真理を理論化することです。
「一無位の真人」をもちいたのは、この掲示板にきている人たちが宗教関係者だからです。宗教関係者にこの言葉は有効であろう、と考えたからです。「生長の家の用語をもちいて説明せよ」との注文をつけられることもあります。
宗教関係者でなければ、わたしは「主体」という言葉をもちいたでしょう。ふつうの人たちが相手であれば「主体」という言葉をもちいて事態を説明したでしょう。もちろん「究極の実相」という言葉をもちいることもありません。
5764
:
純粋教理批判
:2015/09/23(水) 15:24:52 ID:DD4jWV6M
「一無位の真人が出入りしている」というのはわたしにはわかりません。これは理論化することができません。「正統の解釈とのズレ」といったのは、この意味です。
5765
:
曳馬野
:2015/09/23(水) 17:56:50 ID:JPiKJZkg
東都之市有大隱 飽来眠兮覺来嚬
不作善又不作惡 不拘舊又不拘新
生來無名併無姓 人呼之無位眞人
咄是眞人何奇怪 三百六旬氣如春
これは明治のある居士が詠んだものです。その人物に対し西有穆山は「彼の如き境涯に達するには、一生二生の修行では出来るものに非ずと驚嘆していた」と弟子の秋野孝道はいう。その西有穆山の弟子に丘 宗潭がい、秋野孝道、丘 宗潭から原田 祖岳が出ている。原田 祖岳から安谷 白雲がでつぎに山田耕雲がいる。彼の「禅の正門」の中に岩崎財閥のある24,5のお嬢さんが多分結核であろうが、病い重くまもなく死に至るという一月ほどの内に見性のみならず大悟したことが載っている。
また「彼は凡人ではない、吾等の遠く及ばぬところがある」と由理滴水天龍寺管長が云ったと孫弟子の天龍寺管長をした關精拙は云う。その次に関牧翁が出、次に大森曹玄、平田精耕、荒金天倫がいる。
『曹源一滴』という言葉がある。六祖慧能禅師によって大成し、臨済、雲門、洞山、潙山、法眼という禅匠たちによって、臨済宗、雲門宗、曹洞宗、潙仰宗、法眼宗の五家と、これに臨済宗の二派、楊岐派と黄龍派を加えて五家七宗に分化し日本に伝来した禅の法流です。先の詠を歌った人を明治大正の日本禅界を背負った方々が褒め讃えるのか、『曹源一滴』の慧能の悟りを継いでいるからに他ならない。その人間が「人呼之無位眞人」と云い「咄是眞人何奇怪 三百六旬氣如春」と謳う。「釈迦以降、悟りに到達した者は沢山いるが、だれ一人として一無位の真人なんて言葉はおろか、それに類似したような言葉を述べたものはいない。」が如何に戯言か知られるものである。臨済と同じ悟りに達したとは?
5766
:
曳馬野
:2015/09/23(水) 18:18:36 ID:JPiKJZkg
>>5762
さん
何処から引用されたか知りませんが、禅の悟りには決して至っていない人のものと思います。単に言葉としての引用であれば意味がないと思いますよ、あなたが理解した上で同じく「一無位の眞人」を否定するのであればよろしいでんが。
臨済宗、曹洞宗の両宗の老師方が共に吾等の遠く及ばぬところがあると断言した人間の言葉を否定できるのであれば、述べて頂きたい。
5767
:
曳馬野
:2015/09/23(水) 20:27:52 ID:JPiKJZkg
中庸に「致中和、天地位焉、万物育焉」とあります。そこの前の所を雅春先生はよく引用して
「喜怒哀楽の未だ発せざる之を中と謂ひ、発して皆節に中る之を和と謂ふ。中は天下の大本なり、和は天下の達道なり。中和を致して、天地位し万物育す。」と言われていた。
ここの天地位焉、万物育焉を指して無位の眞人と云うのでしょう。天地万物に実相生命が宿り生かす、その大生命を指して無位の眞人と、立ち位置のない様のを表現する言葉です。
5768
:
純粋教理批判
:2015/09/24(木) 00:41:15 ID:DD4jWV6M
対話の相手があらわれずに間延びしているようなので書き込ませていただきます。
「主体」という言葉をもちいた以上、「主体とはなにか」の説明が必要でしょう。ふつう一般に心といわれているものを、わたしは意識、自我、主体の三つ組にわけて考えています。
主体とは「それがただある」が主体生成の過程をへて誕生したものです。この過程は、「それがただある」の収縮と言語的世界の誕生によって説明されますが、くわしいことはわかりません。
「それがただある」をとりあえずはエスと名づけましょう。主体生成はエスが主体として活動できる場の生成によって成し遂げられますが、場の生成にあたって主導的な役割を果たしたのが言語であったと考えられます。
人類が主体という概念にはじめて出会ったのはおそらくデカルトの「われおもう、ゆえにわれあり」ではなかったでしょうか。デカルト的主体はコギトと呼ばれ、現代の思想界や言論界においてはあまり評判がよくありません。
そんな中にあってコギトを高く持ち上げるのが、あのひねくれもののラカン派哲学者スラヴォイ・ジジェクです。ジジェクはデカルトがコギトをみいだすに至ったときの思索の内容よりも、そのときの「身ぶり」を問題にします。
デカルトがコギトをみいだしたのはある冬の寒い一日でした。寒さを避けるためにデカルトは日がな一日暖炉部屋にひきこもったのです。このひきこもりの身ぶりこそがコギトであるとジジェクは言います。
主体はひきこもることで主体となった。ジジェクがいいたいのはこういうことでしょう。エスもまた内部の内部へとひきこもることで主体生成の場と出会い主体となったのです。
ジジェクのコギトはエスとおそらくおなじものなのでしょう。
ジジェクは「主体は空無である」といいます。エスも空無です。しかしジジェクはこれにつけくわえて、主体は狂気のさなかにあるともいいます。ジジェクが正しければエスもまた狂気のさなかにあることになります。エスはいまだに救われていない。そういうことのようです。
「一無位の真人こそが究極の実相でありほんとうの自分です」などと光明思想を気取ろうといたしましたが、さっそくクレームが入ってまいりました。なれぬことはせぬほうがよいということでしょう。
5769
:
純粋教理批判
:2015/09/24(木) 00:50:17 ID:DD4jWV6M
主体を中心化した個人として批判するのがポスト構造主義です。ポスト構造主義は主体を言葉に支配されたあやつり人形とみなします、言葉の効果そのものとみなします。何を言ったところでそれは言葉によって言わされたにすぎない。何をなしたところでそれは言葉によってやらされたにすぎない。このように考えるのがポスト構造主義です。
人は誰もが自分で自由にものを言い、自由にことをなしていると考えますが実はそうではない、すべては言葉がそうさせているのだ、といわれたらどうでしょう。多くの人が「そうではない」と反論するでしょう。しかしその反論でさえもが言葉にあやつられてのことだとすればどうでしょう。
みずからを中心化させた個人は言葉を道具と考えますが、ほんとうはあなたこそが言葉の道具なのかもしれません。
5770
:
純粋教理批判
:2015/09/24(木) 00:56:43 ID:DD4jWV6M
教えを広めさえすれば環境問題は解決するといわんばかりの人への質問です。
「神は無駄なものをあたえたまわない。原子力エネルギーは神が人間にあたえたもうたものである」と説く生長の家が「神は無駄なものをあたえたまわない。地球の資源は神が人間にあたえたもうたものである」と主張する人々を教えみちびけるとおもえるのはなぜなのでしょう。
5771
:
a hope
:2015/09/24(木) 08:14:22 ID:cEpBaIdo
みなさま おはようございます。
ようやくパソコンがつかえるようになりました(*^▽^*)
わたしの留守中に、ご参加くださったみなさまありがとうございます。
わたしも今日からまた、自分のペースでこのweb誌友会に参加して、
聖典「生命の實相」の真理を学んでいきたいと思いますのでよろしくお願いいいたします。
5772
:
a hope
:2015/09/24(木) 08:15:03 ID:cEpBaIdo
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
第36回 web誌友会 案内 (改訂版)
期間 8月2日〜9月30日まで
テキスト 「生命の實相」第21巻 経典篇
内容 『甘露の法雨』講義
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
5773
:
a hope
:2015/09/24(木) 08:15:43 ID:cEpBaIdo
「生命の實相」 第21巻 p106 後から3行目〜
われわれは光の子である。
すなわち光から生まれ出でたものですから、われわれは常に光の中に在る、と同時に自分の中に光があるのであります。
わがうちに光があり、光のうちにわれわれはあるのですから、われわれは絶対に暗(やみ)を知らない。
いっさいの暗黒はない。
すなわちわれわれを躓(つまず)かせる障礙(さわり)などはいっさいないのであります。
(略)
それだのにわれわれが不自由に、いろいろのものに妨げられたりするのはわれわれが本当の力を出しきっていないからで、その時、そこに暗(やみ)が姿を仮に表わして本来ない躓きを、あるかのごとくに表わすのにすぎないのであります。
(略)
智慧とは実相の悟りの智慧であります。
(略)
暗(やみ)とは光の欠乏せる状態に他ならないのです。
5774
:
a hope
:2015/09/24(木) 08:17:46 ID:cEpBaIdo
(
>>5773
a hope所感)
みなさんは、聖典「生命の實相」の文章を拝読してるとあらゆる迷いが消えて、
『本当の自分は実相そのものなんだ』という実感がわき出てきませんか?
わたしたちがこの現世に投影されている時間にはリミットがあります。
無駄な時間はありませんよね?
わたしはこれからも聖典「生命の實相」の真理を真剣に学んで生長し続けたいです。
5775
:
純粋教理批判
:2015/09/24(木) 10:44:56 ID:DD4jWV6M
考えがちがう相手と話をするのは時間の無駄。ようするに「個人の勝手な解釈どうしのひらかれた議論」は必要ないということですね(排他性ここに極まれり)。
ところでホープさんは「テキストに関係のない内容はお控えいただきたいです。ですが、わたしの所感に対する反論は歓迎させていただきます」といっておられますよね。歓迎していただけるものと無信じております。
5776
:
純粋教理批判
:2015/09/24(木) 11:16:59 ID:DD4jWV6M
>わがうちに光があり、光のうちにわれわれはあるのですから、われわれは絶対に暗(やみ)を知らない。
いっさいの暗黒はない。
これがわたしのいう排他性ですね。光と暗の二項対立を立てて劣位項である暗を外部へと排除することで優先項である光を内部にとどめおく。こういうことを延々とつづけていれば、誰だって排他的な性格が身につくことでしょう。現に「時間の無駄」といって問答無用とばかりに排除しようとしているではありませんか。
5777
:
純粋教理批判
:2015/09/24(木) 12:02:26 ID:DD4jWV6M
ずっと以前にもこちらの掲示板で「元本部講師」を名のる人が「時間の無駄」といっていましたが、そういう人にかぎってじつは何も考えてこなかった人であり、必要な知識を身につけてこなかった人なのですよ。
なにも考えずにきたからいまだに単純なことしか考えられない。必要な知識を身につけてこなかったから誰もが言えるようなことしか言えない。おおやけの場で発言をするのであればもっと考えておくべきでしたね。必要な知識を身につけておくべきでしたね。時間を無駄になさいましたね。
5778
:
純粋教理批判
:2015/09/24(木) 16:02:17 ID:DD4jWV6M
状況を説明いたしましょう。まずホープさんは以下のごとくいっておられます。
>生長の家の信仰により環境保護運動をするのであれば、そのような現象に対応するような形ではなくて、
まずは信徒一人一人が「本来罪なし」の「実相独在」を自覚し(悟り)、それを人類に伝道していく方法が正道だと思います。
「現象に対応するような形」とはあきらかに総裁がおしすすめておられる環境運動についてのことです。ホープさんが総裁の方針を批判しておられるのはあきらかです。
代わりにどうすればよいのかというと「教えを伝えることだ」といっておられます。そこでわたしは以下のごとく質問いたしました。
「原子力エネルギーは神が人類にあたえたもうたものだ」と説く生長の家の教えで問題解決が可能なのか。
この「原子力エネルギー」のところには、欲望のおもむくままにどのような言葉でも入れることができます。地下資源、水産資源、生物資源、森林資源、大地、海、川、どんな言葉でもいれることができます。
環境問題とはけっきょく人類が「〇〇は神が人類にあたえたもうたものだ」と考えたことからはじまったと考えます。生長の家もこれとまったく変わらぬことを説いています。おなじことをいっているにもかかわらず生長の家の教えが環境問題の解決にむすびつくとおもえるのはなぜかと、「私の所感にたいする反論は歓迎する」といわれたホープさんに問いかけたところ「答えるのは時間の無駄」との返事をいただいたというのが今の状況です。
5779
:
a hope
:2015/09/24(木) 18:31:24 ID:cEpBaIdo
>>5778
<<「原子力エネルギーは神が人類にあたえたもうたものだ」と説く生長の家の教えで問題解決が可能なのか。>>
とおっしゃていますが、それってほんとに生長の家の教えですか?
「生長の家の教え」では「神とは人間の実相」のことですから、
「神が人間に与えたもうたもの」ということになると、
「人間が人間自身に与えたもうたもの」ということになってしまい表現自体に違和感を覚えるのですが・・・。
その教えが説かれている引用文献を教えてくださいませんか?
5780
:
純粋教理批判
:2015/09/24(木) 22:52:46 ID:DD4jWV6M
生長の家に「神は〇〇を人間にあたえたもうた」とする教えや考えはないといわれるのですね。〇〇に入るのは「自由」でも「豊かさ」でも他のなにかでもよいわけですが、このような教えや考え方はないといわれるのですね。
「神は無駄なものをあたえたまわない」とする教えも考え方もない、ということですね(何度も聞いたような気がいたしますが、わたしの思い込みなのでしょう)。「神は無駄なものをあたえたまわないのであるから原子力エネルギーは神からあたえられたものである」とする発想が出てくる可能性はないということですね。
それなら問題はありません。そういう教えや考え方は「ない」ということを確認いたしました。こうした考え方が少しでもあれば、キリスト教のように拡大解釈されて人間中心主義にむすびつくおそれがあります。「ない」といわれるのであればそのおそれはないということで、これはこれでよろしいかと存じます。
引用文献をだせといわれてもそれは不可能です。教えはたしかにそういうものだと理解してきたということです。「ない」といわれるのであればわたしの理解がまちがっていのでしょう。すべては杞憂であったということでしょう。
神を主語にして人間に都合のよいことを述べてはならない。これはわたしの信条のようなものです。教えにたいする理解がまちがっていたようです。
5781
:
神の子さん
:2015/09/25(金) 01:44:30 ID:DD4jWV6M
>「生長の家の教え」では「神とは人間の実相」のことですから、
この表現も”あの表現も「生長の家の教え」からしたら違和感ありだけどだれも文献出せとは言わないふつう。生命の実相やたら引用してるからとて生長の家のしゆうかいではやはり思えない。シルバーウィークでおわりまた独占板にもどりましょう
5782
:
a hope
:2015/09/25(金) 09:33:56 ID:cEpBaIdo
「生命の實相」第21巻 p118後から6行目〜
「悟る」ということでも迷っている凡夫の貧しき智慧が真理を教えられてだんだん向上して悟るのだなどと考えていますと間違いであります。
悟るというのは内在の神の智慧がポカリと浮かび上がってくるのであって、脳髄意識が悟るのではない、脳髄意識が悟るのなら、宗教的悟りというものは、肉体が死んで脳髄が灰になった後に通用しない悟りであって、それでは死後まで救う宗教的悟りだとは言えないのであります。
「いや智慧は脳髄の中にあるんだ」なんて言う人があるかもしれませんが、智慧は脳髄の中にあるのではない。
いったいこの脳髄という器官は、これは自分で作った、自分の心で都合のよいように作り出した道具にすぎないので、わたしたちはそれを利用しているだけであって、決して脳髄という物質の中から智慧が発生したのではないのであります。
それでまた、われわれの智慧は、ここにあり、かしこにありというように甲の人、乙の人の智慧と一つ一つばらばらに離れて孤立しているものではない。
天地一切のものに満ち充ちている智慧とまったく一つのものである、これを知ることがすなわち生長の家の悟りであります。
自分の智慧は、天地万物を生かしているところの大いなる智慧と一つのものであると分かると自分の智慧は小さい自分の中にだけ這入るようなそんな小(ち)っぽけなものではない。
実に広大無辺のものであって、わが念ずることがただちに天地に満つる節理の智慧に相感応すべきものであることが分かってくるのであります。
5783
:
a hope
:2015/09/25(金) 09:35:56 ID:cEpBaIdo
(
>>5782
a hope所感)
<<悟るというのは内在の神の智慧がポカリと浮かび上がってくるのであって、・・・>>
とありますが、これは、
「甘露の法雨」の『神』の項の一説に、
神があらわるれば乃ち、
善となり、義となり、慈悲となり、
調和おのずから備わり、
一切の生物処を得て争うものなく、
相食むものなく、
病むものなく、
苦しむものなく、
乏しきものなし、
とあるところの、<<神があらわるれば乃ち、>>という状態と同じことなのだと思います。
「神」とは自分の外側に存在するものでなく、自分の中に内在するものであって、そのことをわれわれが本当に悟れば、
すべてが大調和して、この現象世界に地上天国が顕われるのではないでしょうか?
ですから、原子力エネルギーにしても、地下資源にしても水産資源にしても、生物資源にしても、なににしても、
実相を悟った(神が顕現した)人間が利用すれば、『善となり、義となり、慈悲となり、
調和おのずから備わり、一切の生物処を得て争うものなく、相食むものなく、病むものなく、苦しむものなく、乏しきものなし、』という、
大調和の関係が保たれるのだと思われます。
わたしが、「生長の家」の『唯神実相』や『実相独在』真理の伝道をして人々を目覚めさせることの方が、
現象問題に対応する運動よりも重要で、もっとも優先すべきことだと考えるのはそういう理由からです。
具体的に例えれば、よく切れるナイフがあったとして、それを良心的な人間が利用すればすばらしい料理を作って人々を喜ばすでしょうが、
復讐心や、悪意や、狂気の人間が利用すればとんでもない事件に利用されてしまうかもしれません。
この現象世界にあるすべてのものはすべて実相世界の投影ですから、ひとつも無駄なものはないのだと思います。
「神は人間に選択の自由を与えたもうた」それが生長の家の教えかどうかはわかりませんが、
地球上のすべての資源をどう利用するかは、わたしたち人間の選択にゆだねらているのだと思います。
5784
:
純粋教理批判
:2015/09/25(金) 11:34:54 ID:DD4jWV6M
>「生長の家の教え」では「神とは人間の実相」のことですから、
「神が人間に与えたもうたもの」ということになると、
「人間が人間自身に与えたもうたもの」ということになってしまい表現自体に違和感を覚えるのですが・・・。
「神とは人間の実相」というのはわたしもはじめて聞いた言いまわしです。しかし、神一元の世界であればすべては神ということなので間違いではないのでしょう。
文献をだせといわれても無理です。「神は人間に自由なる意思をあたえた」とする表現が仮にあるとするなら、ホープさん流の神一元の考えでは「人間が人間に自由なる意思をあたえた」となってしまい、違和感を覚えるに十分な表現となってしまいます。
しかしこれを言い換えれば「神は神に自由なる意思をあたえた」となるわけですが、これはいい得て妙といった表現です。「神は完全なる世界をつくった」とする表現は「神は完全なる神をつくった」となり、「神は完全なる人間をつくった」はこれもまた「神は完全なる神をつくった」となるからです。
「神は〇〇に〇〇をあたえた」は「神は神に神をあたえた」となり「神は〇〇なる〇〇をつくった」は「神は神なる神をつくった」となります。神一元の神は、ふれるものすべてを金に変えたというミダス王のごとく、あらゆる対象を神へと変えてしまうようです。教えを信じていたころから教えにたいする違和感をどうしても解消できずにおりました。もしかしたら違和感の正体はこれであったのかもしれません。
「完全なる証明には外部が必要」とするゲーデルの定理が示すごとく、内部だけですべてを説明しようとするものは、すべてのものを自分に回帰させてしまうミダス王になるよりほかはない。そんな気がいたしました。
5785
:
純粋教理批判
:2015/09/25(金) 12:54:49 ID:DD4jWV6M
「神が神なる神をつくった」とする考え方が成り立たないわけではありません。チリの生物学者ウンベルト・マトゥラーナが提唱するオートポイエーシスがまさにこの一例と考えます。
オートポイエーシスとは自分で自分をつくりだすシステムとわたしは理解していますが、マトゥラーナ本人も「オートポイエーシスは自分で自分を持ち上げようとするようなものだから、すっきりと理解できる筋合いのものではない」と認めているようです。
オートポイエーシスを理解できるか、といわれても「理解できる」とはどうしても言えません。わかった気にはなれるが理解した気にはどうしてもなれない。オートポイエーシスはこうした事態の代表格のような気がいたします。
オートポイエーシスにしても外部はあります。外部からの入力も、外部への出力もない、これがオートポイエーシスのようです。しかもそれでいてオートポイエーシスは外部からの影響をうけている。
内部は外部にたいして完璧に独立している。にもかかわらず外部は内部に入り込んで内部に影響をあたえつづけている。わたしが考えているのはこうしたシステムのような気がいたします。
5786
:
純粋教理批判
:2015/09/25(金) 19:34:23 ID:DD4jWV6M
>わたしが、「生長の家」の『唯神実相』や『実相独在』真理の伝道をして人々を目覚めさせることの方が、
現象問題に対応する運動よりも重要で、もっとも優先すべきことだと考えるのはそういう理由からです。
そうですか。それなら信ずることをなさればよいでしょう。そのようにおもわれるのであれば、教えを広めて環境問題を解決する運動をまずは身近なところから起こされればよいでしょう。
総裁はすでに実際的な活動をはじめておられます。ホープさんの考えが実際の環境運動よりも重要といわれるのであれば、ホープさんが実際の活動をはじめられて、総裁の考えが間違っており自分の考えが正しいことをお示しになればよいでしょう。その結果や途中経過をこちらで発表なさればよいでしょう。
教えを信じることでホープさんじしんにどのような変化がおきているのか、これも重要な要素です。ホープさんのなかで環境問題の解決に向けた重要な変化がどのような形で起きているのか、それをこちらで発表していただかなければ、なにをいわれても説得力に欠けるというものです。ホープさんの変化をまずは語ってください。希望的観測はそのあとでも十分でしょう。
生長の家が立教して80年だそうですが、その間にも日本国内で数々の公害問題が発生しています。生長の家は公害防止のための役割を果たしたのでしょうか。わたしにはどうもそのようにはおもえません。
生長の家の教えが広まっていさえすれば公害問題は起きなかった。ホープさんはこのようにおっしゃりたいのでしょうか。たとえそうであっても、80年の年月をついやしたところで日本国内にさえ広まっていない教えを全世界に広めるのに、いったい何百年まてというのでしょう。
現実味のある提案とはおもえませんが、復興Gさんをはじめとして多くの方々がホープさんを支持しておられるようです。教えが広まるまで何百年でもまて。責任ある人の言葉とはとてもおもえません。
5787
:
a hope
:2015/09/25(金) 22:36:35 ID:cEpBaIdo
わたしあてにいろいろなご意見ご提案などいただいているようですが、
特に『a hopeの「生命の實相」の解釈が間違っているのではないか?』
というような内容ではないようなので安心しました。
わたし自身は日常に追われている普通の主婦ですから、
生長の家の総裁・副総裁先生というような公人の方とは立場がまったく違います。
ですからわたしが「生長の家」のために実際の活動を起こして、その内容をここで説明する義務などないと思っています。
わたしは聖典「生命の實相」の素晴らしい真理をここでお勉強させてもらっていることが、
今現在、自分自身のできる精一杯の光明化運動だと思っています。
5788
:
純粋教理批判
:2015/09/25(金) 23:07:05 ID:DD4jWV6M
ホープさんは自分の考えの正しさや有効性をためしたわけでもないのに、総裁に「これをやれ」といっておられるのですか。本を読んだだけで、実際にはなにも体験していないのに、総裁に「これをやれ」といっておられるのですか。正しさや有効性がわからぬものを「何百年もかけて実現せよ」といっておられるのですか。
自分がやる気もないことを人には「やれ」という。無責任にもなるはずです。しかも「教えの解釈が間違っていなかったので安心した」とのこと。環境問題などどうでもよい。教えの解釈が正しければそれでよい。こういうことなのでしょうか。
5789
:
a hope
:2015/09/25(金) 23:35:55 ID:cEpBaIdo
<<ホープさんは自分の考えの正しさや有効性をためしたわけでもないのに、総裁に「これをやれ」といっておられるのですか。
本を読んだだけで、実際にはなにも体験していないのに、総裁に「これをやれ」といっておられるのですか。>>
わたしは今はもう雅宣先生にも純子先生にも何もお願いなどしていませんよ。
過去に何度も何度もお願いしましたが、結局、わたしのような一信徒の掲示板でのお願いなど一度も聞いて頂けなかったですから・・・。
わたしは「生命の實相」を拝読しだして5年ほどたちますが、その有効性(?)はものすごく実感していますよ。
自分の周りの人たちへの影響力がどんどん強まってきているのを感じています。
身ばれをするので控えていますが、具体的体験もたくさんあります。
「生長の家の教え」はほんとにすごいので、その真理が「迷い」に眩まされないようにこれからもこの掲示板で発言しつづけるつもりです。
5790
:
a hope
:2015/09/25(金) 23:51:36 ID:cEpBaIdo
「生命の實相」第21巻 p123 後から行5行目〜
・・・人間は罪があるから宗教が必要なのではなく、罪が無いから罪の無いことを知らせるために宗教が必要なのであります。
(a hope所感)
宗教とは人を教育して善人に仕立て上げるためにあるのではないのですね。
人々に真理を知らせ、目覚めさせるためにあるのですね!
5791
:
純粋教理批判
:2015/09/26(土) 00:03:33 ID:DD4jWV6M
環境問題解決の有効性?
それはすごいですね。身バレしない程度に教えてください。
個別の事案ではなく、こういう考え方をすれば環境問題解決につながるこのような行動があらわれる、といった具合の提案をおこなってください。生長の家が80年かけてできなかったことをホープさんはやっておられるわけですから、これは「すごい」の一語につきます。
5792
:
a hope
:2015/09/26(土) 00:36:52 ID:cEpBaIdo
<<個別の事案ではなく、こういう考え方をすれば環境問題解決につながるこのような行動があらわれる、といった具合の提案をおこなってください。>>
人類が聖典「生命の實相」の拝読をして唯神実相の考え方になれば環境問題の解決につながりますよ。
環境問題なんて本来無い現象なんですから・・・。
前から、そう言っているではないですか・・・。
もう、ねむいのでこれ以上のお返事はできません。
初心者さま みなさま おやすみなさい。
5793
:
純粋教理批判
:2015/09/26(土) 10:43:14 ID:DD4jWV6M
>人類が聖典「生命の實相」の拝読をして唯神実相の考え方になれば環境問題の解決につながりますよ。
環境問題なんて本来無い現象なんですから・・・。
生長の家の実際の活動においても、何か問題がおきてそれを解決しようとすると、ホープさんのように「それはほんらいない現象なのだから具体的行動は何もしなくてよい」という人がかならずあらわれていたという話を聞きます。それで何もできなくなって問題はけっきょくそのままであったのだそうです。
「現象なのだから何もしなくてよい」といっている人は気持ちがよいのでしょうが、まわりの人は迷惑です。
かつて日本は公害問題でたいそう苦しみましたが、生長の家の一部の人たちは「これは現象だから何もしなくてよい」と具体的な取り組みには反対したはずです。問題はほぼ解決したとおもわれますが、それは何もしなかったからではなく技術や法規制が大きな役割を果たしたからです。
今でも生長の家には、日本が公害問題を技術や法規制で解決したことにたいして「ない現象に取り組んだ」といって批判している人がいるのでしょう。
雅春先生は戦後左翼の問題に取り組んでおられたはずです。詳しい内情はわかりませんが「左翼問題は現象だから具体的行動はしなくてよい」とはいっておられなかったはずです。現象に取り組んでおられる雅春先生にたいする批判があったのかどうか、これはわかりません。
5794
:
純粋教理批判
:2015/09/26(土) 12:32:31 ID:DD4jWV6M
生長の家の活動で問題がおきたのでその問題を解決しようとすると、「それは迷いだ。現象にひっかかっているから問題を解決しようなどとおもうのだ」との反対論が一部の人からでてくることがあるといいます。
教えをそのように大上段にふりかざされてしまうと問題への対応ができなくなり、問題はそのままということになります。たとえ問題はそのままであっても、反対論をふりかざした人が責任を感じるわけでもありません。
その人のなかでは「問題はない」わけですから解決がないのもあたりまえ。教えをふりかざせたことでその人は大満足です。
環境活動にたいする批判もこれとおなじです。環境問題はない。なにひとつ対処しなくて環境破壊がそのままつづいたとしても、その人のなかでは「環境破壊はない」のですから解決がなくてもあたりまえ。
教えが広まるまで何百年かかろうが関係ない。環境破壊はないのだから、迷った人たちが勝手にあるとおもっているだけだから、何百年かかろうが関係ない。まわりはえらく迷惑するとおもいますが、本人は教えをふりかざせたことで大満足のようです。
5795
:
純粋教理批判
:2015/09/26(土) 14:49:42 ID:DD4jWV6M
>わたし自身は日常に追われている普通の主婦ですから、
生長の家の総裁・副総裁先生というような公人の方とは立場がまったく違います。
ですからわたしが「生長の家」のために実際の活動を起こして、その内容をここで説明する義務などないと思っています。
わたしは聖典「生命の實相」の素晴らしい真理をここでお勉強させてもらっていることが、
今現在、自分自身のできる精一杯の光明化運動だと思っています。
たとえ主婦であっても実際的な活動をしている人は大勢おられるのでは。「主婦だからできない」と言い訳するような人にたいしては「あなたは神の子だからかならずできます」との励ましがなされるようです。
「この教えで人類は救われる」といっておられるわりには、ずいぶんと消極的なお考えですね。自分のこととなるとあれやこれやの都合がでてきて「それはできません」となるわけですか。
ここで勉強することが自分のできる精一杯の光明化運動。生長の家にこのような考え方があるとは知りませんでした。自己限定を取っ払うというのが生長の家の考え方ではないのですか。「自分ができるのはこれが限界」。こういうことをいうためにホープさんは教えを学んでおられるのですか。
「日常に追われる」というのも妙ないいわけですね。日常に追われないのが神の子ではないのですか(文献をだせといわれても無理です)。いったい何を学んでこられたのですか。自分のこととなるといいわけたらたらの「現象あり」で、人には「現象なし」を押しつける。わかってもいないのにわかったふりをして人に説教したがる信徒によくあるパターンです。
おまえこそわかってもいないのにわかったふりをして人に説教するな。
ばれましたか。仰せのとおりにいたしましょう。
5796
:
a hope
:2015/09/26(土) 19:30:32 ID:cEpBaIdo
ここは 聖典「生命の實相」の真理を学ぶ誌友会です。
わたし個人の人格や行動に関してご批判またご助言くださるのはご遠慮くださいませんか?
わたしは「実際的な活動をしていない」などと一言も言っていませんし、
「生活に追われているからできない」などと云い訳もしていません。
『「生長の家」の総裁・副総裁先生とは立場が違うから、自分のしていることを公にする義務はない』
と言ったつもりです。
ですから、だれからもそのことでご批判を受けるような立場ではありませんので、
これからは、そのようなご投稿にはお返事は控えさせていただきます。
今月中に21巻のお勉強を終らせたいと思っているので、御理解をどうぞよろしくお願いいたします。
5797
:
a hope
:2015/09/27(日) 10:23:21 ID:cEpBaIdo
「生命の實相」第21巻 p126 9行目〜
神を絶対的なものと観ないで、相対的な神をわれわれが信ずることになりますと、どうしてもわたしたちは本当の安心に到達することはできないことになります。
絶対者だからこそ安心して信頼もできるのだけれども自分の頼っているものは相対的な存在でそれに対するやはり強い力をもって対立している何かがあって、いつどこからかせめてくるかもわからないということになれば、不安で、どうしたって本当の安心を得られるはずはない。
相対的な神を信じている限り、安心は得られません。
絶対的な神を信じた時、われわれは初めて安心が得られる。
もし罪業が神から出てきたものならば、神が罪を作ったということになれば、罪は実在します。
しかし罪を作ったりするような不完全な神や、やりそこないの世界や人間をこしらえて、またやり直しをやるような神を信じていて本当に安心していられるはずはありません。
われわれが本当の安心を得るには絶対的な、完全円満なもののみを創り給うた神を信ずる他はないのであります。
われわれは神の子である。
神の無限の善でありますから罪を創り給うはずがない。
神の生命が宿ってわれわれは生かされているのであるから、神の無限に善なる生命すなわち我であるところの大自覚に入った時のみ、いっさいの不安や、罪苦は消え去って、本当の善なる実相が現われ、この世が光明楽土と化するということになるのです。
5798
:
a hope
:2015/09/27(日) 10:25:25 ID:cEpBaIdo
(
>>5797
a hope 所感)
------------------------------------------------------------------
大辞林 第三版の解説
そうたい‐てき〔サウタイ‐〕【相対的】
[形動]他との関係において成り立つさま。また、他との比較の上に成り立つさま。「―な価値」「物事を―に見る」⇔絶対的。
ぜったいてき【絶対的】
( 形動 )
物事が絶対であるさま。何物にも制限されないさま。 ↔ 相対的 「 -な権力」 「 -な優位に立つ」
https://kotobank.jp/word/%E7%B5%B6%E5%AF%BE%E7%9A%84-548310
#E3.83.87.E3.82.B8.E3.82.BF.E3.83.AB.E5.A4.A7.E8.BE.9E.E6.B3.89
------------------------------------------------------------------
この「相対的神観」と「絶対的神観」の違いですが、とても重要だと感じています。
世の中のほとんどの人が「神さま」といえば、自分とかけ離れた別の存在だと観じているのではないでしょか?
ですから、そのような考え方の人々に、いきなり「あなた自身が神なんですよ」と説いても、
すぐに「あーそうなんですか」と納得してその自覚(悟り)に到る人は少ないと思います。
ですから、「生長の家」では、ワンクッションおいて「神の子」という表現をつかって人々に伝道しているとわたしは学びました。
ですが本当は、生長の家は「絶対的神観」つまり『唯神実相』が教えの根本なんですよね!
5799
:
a hope
:2015/09/28(月) 08:04:19 ID:cEpBaIdo
「生命の實相」第21巻 p138 6行目〜
話す人が、真理を知って話せば、同じ話でも効果が多いのであります。
どういって話すかというと、あなたの痛む肉体、物質は本来無いのでそれは心の影である。
痛むのは物質という形体だけの塊が痛むのではなくて、本当は心が痛んでいるのだ。
何かあなたは心に痛みを持っていますね。
たとえば発病の前に人に口惜しい、憎たらしいと思って腹を立てた、その痛み、苦しみが心のうちに鬱積して、表現できずにいるとかいったようなことがあるでしょうと伺いますと、きっとそういうことがあるのです。
しかし、よく考えてみれば自分が口惜しい、憎いというような思いをするのは、他の人からいじめられるのはやっぱり自分の心のせいなのです。
自分の心のうちに業を積んでいるから、それで人からいじめられるように自然になってくる。
しかしいじめられることによって業が消えるのでありますから、いじめてくれる人も神の子であったということが分かれば、ああ怒って申しわけなかったと、詫びる気持ちになると同時に怒りの念が消えてそのまま神経痛が治ってしまうという例がたくさんあるのであります。
5800
:
a hope
:2015/09/28(月) 08:06:16 ID:cEpBaIdo
(
>>5799
a hope所感)
「心が病気を作る」ということが分かれば、自分の心をコントロールすることがどれだけ重要かがわかります。
ですが、谷口雅春先生ですら「唯神実相」の真理を悟られる直前まで、心をコントロールするのが難しいと嘆かれていました。(「生命の實相」第20巻 p132〜)
唯心所現の真理から考えれば病気は悪しき心(業・罪)の影であり、
唯神実相の真理から考えれば悪しき心(業・罪)などない、ということになります。
生長の家の縦横の真理は、どちらもとても大切な真理なんですね。
5801
:
a hope
:2015/09/28(月) 08:44:43 ID:cEpBaIdo
「生命の實相」第21巻 p143 後から3行目〜
病気や不幸は何からくるというと、病気や不幸は迷いから来るという。
その迷いはどこから来るかというと「迷いは無い」という、これが生長の家の解釈であります。
「迷い」はどこから来たと言われる方が往々にありますが、どこから来たということが答えられるくらいならば、「迷い」はあることになる、「迷い」は無いから出所(でどころ)もない。
迷いをアルと言ったら迷いから出たというあらゆる悪も肯定しなければならない、それが現実界の実際の状態であります。
しかしながらこの「迷い」は無いから、迷いから生じた憂苦満つる世界も本来無いのであります。
わたしがある時、「この世界には幸福ばかりが満ちている。人間は健康の人ばかりで病気の人は一人も無い。いっさいの生物は、互に争う者なく、生存競争で血みどろな戦いをして入る者のない」と講演いたしますと、「何を貴様は事実を見ないで空想ばかり言っているのであるか。この現実の人生の悲惨な戦いを見よ」と言って来られた方がありました。
わたしの申しましたのは現実世界のことでなく、実相世界のことであって、そこにはなんの悪も存在しないということが自覚されてくるのであります。
これが分からない人は生長の家に反駁(はんばく)して来られるのですが、こういう人たちはその反駁の根拠を現象界に置いて、いろいろのことを言ってくるのです。
5802
:
a hope
:2015/09/28(月) 08:46:29 ID:cEpBaIdo
(
>>5801
a hope所感)
<<「何を貴様は事実を見ないで空想ばかり言っているのであるか。この現実の人生の悲惨な戦いを見よ」と言って来られた方がありました。>>
わたしはつい最近、この掲示板上で同じようにどなたかに反論されたような気がします。
わたし自身、現実世界への対応はとても大切であると感じています。
ですがその対応方法も、実相世界の完全円満さを悟った上で対応するのと、そうでないのでは結果に雲泥の差が出て来てしまうと思っています。
谷口雅春先生は完全に「唯神実相」を悟られていました。
ですから現実世界への対応も、その時起きている現実問題に自由自在に対応されていたのではないかと拝察しています。
「生長の家」信徒であるならば、まずは教えを学び、「唯神実相」を悟り、その上での環境保護運動、政治運動、・・・でなければ、
すべてが間違った方向へ向かってしまう可能性があるのではないでしょうか?
5803
:
a hope
:2015/09/29(火) 07:32:39 ID:cEpBaIdo
(
>>5801
つづき)
「生命の實相」第21巻 p144 後から4行目〜
現象界すべてのものはわれわれの描く念のフィルムに従って「無」の展開せる諸相なのです。
その「無」の展開せる諸相の奥に、ちょうど芝居の楽屋裏に本当の人間がいるように、生長の家でいう生命の実相があるのであります。
それは実に無限の生命に満ちる世界でありますが、それは直観によって体得するより他はない。
ここに見よ、かしこに身よと言って示されるものではない。
示されるものはすでに現象で実相ではないのですから、実相は、このままここにあると、パッと悟るより仕方ないのであります。
5804
:
a hope
:2015/09/29(火) 07:34:24 ID:cEpBaIdo
(
>>5803
a hope所感)
実相とは 「ここに見よ、かしこに身よと言って示されるものではない。」
「このままここにあると、パッと悟るより仕方ないのであります。」というようなものなのですね。
ですが、雅春先生はそのあとに、現象世界に於いても、「実相の写し」ならば見せて示すことはできるとおっしゃっておられます。
いったい、「実相の写し」というのは、どのような現象のことをいうのでしょうか?
つづけて謹写していきます。
5805
:
疑問
:2015/09/29(火) 08:11:30 ID:NaAec0Zc
>自分の心のうちに業を積んでいるから、それで人からいじめられるように自然になってくる。
総裁にいびられたとかいう本部講師の人達にも当てはまるのでしょう?左遷されたとかいう本部の人にも。
5806
:
a hope
:2015/09/29(火) 08:14:44 ID:cEpBaIdo
(
>>5803
つづき)
「生命の實相」第21巻 p145 3行目〜
このように完全円満な実相の世界、天国浄土は、ここに見よ、かしこに見よというようなものではない、現象の奥にあるものであります。
だから現象世界を眼の前にもって来て「ここに天国はあるのだぞ」と言って見せられはしないけれども、どうかわれわれにそれを見せてくれという人には、実相を映し出した世界において、実相の写真(うつし)を見せて示すことはできるのであります。
実相の映画(うつし)の世界、それはこの席にいられる多くの方が体験しておられるように、欲しいと思ったものがすぐに出て来るとか、あるいは病気が忽然と消えて無病幸福な生活に入るとか、経済的に好転を来すとかいうように現実に迷いのない世界が出て来る、それが取りも直さず実相を映した世界であります。
まだ実相を直接的悟りで知らない人には実相の写真を見せて、実相の写真を見せるより仕方ない。
写真には血も通っていないし、厚みもない、血色もない、写真と実際の人間とはそれくらい異う。
現象世界の浄土と、実相の浄土との異いも、それくらい異うのですが、見合いお写真で相手の概念を与えるくらいの役目のために、実相の世界を体得できない人に実相の写真をみせてあげることがある。
皆さんの現象界の幸福の体験は、これがその写真です。
それが実相その物なのではない。
それは実相のあらわれにすぎない。
実在の世界を得るための写真であります。
5807
:
a hope
:2015/09/29(火) 08:16:18 ID:cEpBaIdo
(
>>5806
a hope所感)
たとえ、現象界に地上天国が出現したとしても、それはあくまでも実相世界の写真(うつし)に過ぎないのですね(;´∀`)
「現象は無い」のですからそれはそれであたりまえのことなのですが・・・。
その本来無い「現象世界」で、本来無い「肉体」を抱えて生きているわたしたちは、
本来無い「迷い」に振り回せれて、憂苦懊悩している・・・。
うーん。
やっぱり、一日も早く「生命の実相」を悟らねばいけませんね〜!
5808
:
疑問
:2015/09/29(火) 08:16:50 ID:NaAec0Zc
>唯心所現の真理から考えれば病気は悪しき心(業・罪)の影であり、
>唯神実相の真理から考えれば悪しき心(業・罪)などない、ということになります。
>生長の家の縦横の真理は、どちらもとても大切な真理なんですね。
人を非難する時は横の真理を使い、自己弁護する時は縦の真理を使うのでは?
5809
:
a hope
:2015/09/29(火) 08:23:25 ID:cEpBaIdo
>>5805
疑問さま
Web誌友会ご参加ありがとうございます!
>自分の心のうちに業を積んでいるから、それで人からいじめられるように自然になってくる。
総裁にいびられたとかいう本部講師の人達にも当てはまるのでしょう?左遷されたとかいう本部の人にも。
唯心所現の真理から言えば、そういうことなのだと思います。
現象世界の出来事のほとんどは自分の業(前世の業も含む)のなせる結果なのではないでしょうか・・?
と、わたしは思いますがみなさまのご意見もぜひ伺いたいです。
5810
:
疑問
:2015/09/29(火) 08:45:27 ID:NaAec0Zc
>「迷い」はどこから来たと言われる方が往々にありますが、どこから来たということが答えられるくらいならば、「迷い」はあることになる、「迷い」は無いから出所(でどころ)もない。迷いをアルと言ったら迷いから出たというあらゆる悪も肯定しなければならない、それが現実界の実際の状態であります。
>こういう人たちはその反駁の根拠を現象界に置いて、いろいろのことを言ってくるのです。
>「心が病気を作る」ということが分かれば、自分の心をコントロールすることがどれだけ重要かがわかります。ですが、谷口雅春先生ですら「唯神実相」の真理を悟られる直前まで、心をコントロールするのが難しいと嘆かれていました
「唯神実相」の真理を悟るまえのa hopeさんが自分の心をコントロールできずに、反駁の根拠を現象界に置いて、総裁は現象相手の運動をしているといつも述べているから、総裁の今の現実があるということになります。しかし「迷い」は無いから出所(でどころ)もない。迷いをアルと言ったら迷いから出たというあらゆる悪も肯定しなければならない、と云われる。
迷いの出所は自分の心であるからコントロールがどれほど重要か判る、といいそれは谷口雅春先生ですら「唯神実相」の真理を悟られる直前まで、心をコントロールするのが難しいと嘆かれていました、という。
では自分の心のコントロールの出来ないあなたが現象の総裁の生き様を批判する根拠は何なのでしょうか?
5811
:
a hope
:2015/09/29(火) 09:01:03 ID:cEpBaIdo
>>5810
疑問さま
申し訳ありませんが、今日はこれから仕事なのでお返事は夜になります。
>>5805
の疑問さまの質問はとても重要だと思いますので、みなさま、特に「生長の家」本部講師、
元本部講師の方々、本流関係の講師の方々のご意見、ご指導をいただけるとありがたいです。
よろしくお願いいたします。
5812
:
疑問
:2015/09/29(火) 09:07:31 ID:NaAec0Zc
>その本来無い「現象世界」で、本来無い「肉体」を抱えて生きているわたしたちは、本来無い「迷い」に振り回せれて、憂苦懊悩している・・・。
>うーん。やっぱり、一日も早く「生命の実相」を悟らねばいけませんね〜!
一生懸命努力して4,5年経ってもこの感想、実際のところ4,50年キャリアの方でも同じ心境ではないのでしょうか?迷いはないと悟った方が、迷いの産物の悪現象を相手にする訳が無いでしょうから。私の所へも現象を証拠に反論してくる人がいるけれど、と雅春先生が言われているのに、現象を根拠に非難しまくりなのが本流派と自認する人たちでしょう?
5813
:
疑問
:2015/09/29(火) 09:42:57 ID:NaAec0Zc
>たとえ、現象界に地上天国が出現したとしても、それはあくまでも実相世界の写真(うつし)に過ぎないのですね(;´∀`)「現象は無い」のですからそれはそれであたりまえのことなのですが・・・。
人間は何処で生きてるのでしょうか?この現象世界は単に映しの世界として存在するということですが、五官で自分が感じているという意味ですか?実相世界と云うところで、具体的に生きているのでしょうか?五官で諍いの生活をしているように見える時に、実相世界ではどんな生活をしているのでしょうか?普通は五官の認識を通して自分の行動はされますね。
現象本来無しという言葉、は五官を使う実際の生活の上でどのような意味になるのでしょうか?非難されるような行動をしているとの判断は五官を通しての判断ですね、その五官は肉体についているものです、そのような判断の正しいかどうかの判断は何処でされるのでしょうか?
よき現象と云っても自分にとってのものですが、それを映し出すのもこの肉体、五官を使って映し出すのですよね、そうしますと純粋に実相世界と云うところで具体的な生活を人間がしていて、それを単に五感で感じているというものではないようです?
自然界の木々は心でもって現象の自然を映し出しているわけでもないでしょう?人間が何処でどのようにして生きているのか?これが気にかかります。
5814
:
トンチンカン
:2015/09/29(火) 10:05:29 ID:z9V4A.MQ
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
レストランの「メニュー」をみて <迷う> ?
これって、『迷い』。。と言うより、『選択』ではないのでしょうか??
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
・レストランの「メニュー」。。なら、コレって「指をさせば」解決するのです!!
(参考) <小閑雑感>
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
2007年9月11日 迷いはどこから来る? (4)
迷いはどこから来るか? 現時点での答えは、こうなる……「欲望追求のために自由を行
使せんとするところから来る」。
谷口 雅宣
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
『迷いは ナイ!!』。。。 ≪谷口雅春先生≫
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
5815
:
トキ
:2015/09/29(火) 10:21:31 ID:ksUeryWU
少し時間がないので、簡単に。
例えば、中華料理店に入って、餃子を注文したのにラーメンが出てきたら、
「これは違うよ。」と普通は言います。そう指摘することは、別に、他人を
攻撃する事にはなりません。ましてや、人間の実相を見ない事でもありませ
ん。それに対して、中華料理店の店主が、それに応じないのなら、それを説明
する義務が生じます。
社会通念という観点からは、説明をする義務の所在を考える事が大事だと
思います。
現在の教団の方針は、伝統的な谷口雅春先生の解釈から違っています。
当然、それに納得しない人は、「現在の教えは、過去の谷口雅春先生の教え
とは違っている」と指摘します。これに対して、教団は、「いや、これは
谷口雅春先生の教えを現代風にアレンジしたもので、基本的な部分は同じ
です。」と抗弁をします。この場合も、教団側は信徒や社会に対して、そ
れを変更した理由をきちんと説明をし、納得してもらう義務が生じます。
教義の解釈の大幅な変更を含めて、現在の方針の変更の多くは、教区の
人間の預かり知らないところで決まる事が多いです。これに納得しない人
が疑問の声を上げる事は、別に普通の事で、悟りの云々とは関係はありま
せん。
生長の家が、あくまでも谷口雅春先生の教えが基本である、というのな
ら、教団側はこの義務から解放される事はないと考えます。
疑問様のなすことは、具体的に、現在の方針が谷口雅春先生の教えと
外れていないと説明することだと思います。
5816
:
疑問
:2015/09/29(火) 11:22:25 ID:4q2kCbp2
>>5815
私ははahopeさんの引用並びに感想への疑問を述べているのです。教団の解釈が伝統的解釈と違うということはどちらでもいいのです。
真理は生きなくてはなりません、その生き方に於いての疑問を呈しているのです。どちらが正しいかということを論じているのでなく、伝統的解釈とあなたが云うその生き方そのものが、どのように生きれば矛盾が無いのかを、今の本流派を自認する人に問いただしているのです。
教団内で10年、本流を造って10年、20年かかって統一した生き方が出来ない、それでいて真理を悟れば本来の良き世界が出て来る、という話に聞こえるのです。
20年かかって世間の物笑いになっている生長の家の在り方を、相手方に答えを求めてどうするのですか?教団側は好きにすればの態度であるのでしょう、であれば本流を自認する側が真理を生きることにより不完全と見えることの解消をするしか仕方ないでしょう。
そんな意味で真理を生きるという事がどんなことか聞いているのです。私はよき結果が出ていないことの原因は何処にあるのかを聞いているのであって、出てない以上本流を名乗っていても正しく真理の実践が出来ていないのではないか?との疑問から発議しているのです。真理の実践は誰かに求めるものでなく自らするのが当たり前の事ではないですか?
5817
:
疑問
:2015/09/29(火) 11:58:34 ID:4q2kCbp2
真理を生きるということはどのような事なのですか?と聞いているのです。トキさんが不完全な事が有るとの認識を持っている、それに対し総裁はそんなことは知らんとの態度を取るように見える、その現実の事実に対してあなたはどんな行動をとるのですか?
不完全があると見えている時にどんな行動をするのが真理に適った生き方なのですか? 不完全を表している中心者の生き様を代えろ、と主張しても、それは相手の事です。自分の行動としてはお前は駄目だと言葉で云っているだけです、そんなことは真理を知らなくても誰でもします。
中国指導者相手に、共産主義を正しいものとして独裁的に政治をするのは間違っている、お前たちは辞めろと云っているのと何も変わりません。伝統的解釈と違うという貴女の真理の実践が正しいのであれば問題は解決向かっていることでしょう。
そんな意味で伝統的解釈が物事の解決に役立っていないのではないか?であればどのように真理の言葉を受け入れて実行すればよいのか?そのことを正当な解釈をしているという人に聞いているのです。
不届きな嫁に苦しんでいますとお婆さんに云われたら、そんな嫁は追い出しなさいというのですか?さんざん注意をしても嫁さんには嫁さんの考え方があります。こんな息子は死んでくれたらいいと考えていた母親が息子と和解で来た話もあります。相手の心変わりを求めるのが伝統的生長の家の解釈ですか?
5818
:
疑問
:2015/09/29(火) 13:32:32 ID:4q2kCbp2
国家は吾々の最高理念である。数字に先立って『数』が存在するがごとく、理念はすべての形あるものに先行して存在する最高の存在であり、生命(いのち)の生命である。
国家はその理念のうちの最高なるものである。個生命はこの最高理念のために、『生命の生命』のために、一切をなげうって奉仕しなければならぬ。否、奉仕することそのことが喜びであり、それが個生命なる小さな理念的存在が最高の理念にまで包摂せられ向上し行く最後唯一の道である。
銃後の親戚知友に送られて征途に旅立つ軍人の歓呼こそは、見送る人も、見送られる人も、それは個生命が最高の理念に包摂し向上する刹那の生命の凱歌であり、鬨(とき)の声である。
(谷口雅春『明窓浄机』草創篇284-285頁「昭和12年 天皇は中心理念に在す」)
5819
:
疑問
:2015/09/29(火) 13:40:31 ID:4q2kCbp2
戦争の倫理的意義 谷口雅春
私は『大自然が催し、大自然がはかろうて自分をその境遇にまで追い寄せた現在の生活』を百パーセント完全に生きることが、生長の家の生き方であるといった。この意味において『戦争』というものが吾々に課せられた場合には(現に課せられているのであるが)それを完全に戦い抜くことが生長の家の生き方でなければならないのである。
今与えられた環境から飛出すところの出家道は、否応の選択が働くのであるから、戦争というものは魂の修養にならないというような価値判断がはたらいて、戦争忌避や、敗戦主義に捉えられるおそれがあるが、生長の家では出征する人にとっては戦場が直に魂の修養の道場となり、戦争が直に吾々の魂を練るところの公案となるのである。
多くの人たちは戦争の悲惨な方面ばかり見ていて、その道徳的、宗教的意義を理解しない。そして動もすれば戦争を忌避するのであるが、戦争は実に真剣な、否応なしに左右をいわずに、ただひたすらに至上命令に従うところの激しき宗教的行事なのである。しかも同時に、肉体の『無』を理屈でなしに実証するところの行事である。
かの天華の修行に天華の教祖渡辺薫美が修行者たる一婦人に課したところの『千仭の谷へ、今跳べ!』の必至命令の如く、否やの選択を許さぬ絶対命令と同じことである。『爆弾を抱いて、そのまま敵のトーチカに跳び込め!』これに対して、軍人はただ『ハイ』と答えて跳び込むのである。宗教の修行においては、たとひ教祖の命令通り跳び込まなくとも、『修行が足りない、まだ心境がそこまで達していない』位で許されるだけに、それは修行の『型』をやっているだけである。また、その命令者が教祖という個人である。
しかし戦争においては否応はない、言葉通り肉体の生命が放棄せられる。そして軍隊の命令者は天皇であって、肉体の放棄と共に天皇の大御命令に帰一するのである。肉体の無と、大生命への帰一とが、同時に完全融合して行われるところの最高の宗教的行事が戦争なのである。戦争が地上に時として出て来るのは地上に生れた霊魂進化の一過程として、それが戦地に赴くべき勇士たちにとっては耐え得られるところの最高の宗教的行事であるからだと観じられる。
(『谷口雅春選集』谷口雅春著 潮文閣、1941年、302-303頁)
5820
:
疑問
:2015/09/29(火) 13:47:09 ID:4q2kCbp2
常住戦死の心 谷口雅春
宇宙には唯一つ、大御心のみがある。天皇の大御心である。『忠』とは、大御心に無我帰一する心である。すなはち天之御中主大神(あめのみなかぬしのおおかみ)の心に『中』(ちゅう)する心である『中』とは的に中(あた)るであり、生命の本質に貫き徹するのである。
宇宙の実相に少しもウラハラなることをせず、無我になりて宇宙の心に従ふのである。吾らが大御心を行ずるのは、それによって幸福になれるからでも、都合がよくなるからでもない。さふ云う第二次第三次の事物よりも、尚尚すぐれて無常価値なるものが大御心である。その大御心を実現することは無常価値であるが故に、そのやうな第二次、第三次のお蔭などは心に微塵も止めないで、大御心を行ずるのが『忠』である。そしてそれがまた生長の家家族の心である。
大御心を行ずる為に、その他の物質的なるもの悉くを戦死せしむるのである。戦場に於(おい)て戦死せしむるだけではなく、常住戦死の心である。これを『死』と云ふ不吉な連想を伴ひ易き言葉を用ひず、『肉体なし、物質なし』と吾らは云ふ。その死に切った心だけでは消極的否定の心である。そこに『大御心のみあり』の大肯定がなければならぬ。生長の家ではこれを『神一元』と云ふ。天皇独在とも云ふのである。
(谷口雅春「常住戦死の心」『谷口雅春選集』潮文閣、1941年、2頁)
5821
:
疑問
:2015/09/29(火) 13:55:24 ID:4q2kCbp2
常住戦死の心 谷口雅春
宇宙には唯一つ、大御心のみがある。天皇の大御心である。『忠』とは、大御心に無我帰一する心である。すなはち天之御中主大神(あめのみなかぬしのおおかみ)の心に『中』(ちゅう)する心である『中』とは的に中(あた)るであり、生命の本質に貫き徹するのである。
宇宙の実相に少しもウラハラなることをせず、無我になりて宇宙の心に従ふのである。吾らが大御心を行ずるのは、それによって幸福になれるからでも、都合がよくなるからでもない。さふ云う第二次第三次の事物よりも、尚尚すぐれて無常価値なるものが大御心である。その大御心を実現することは無常価値であるが故に、そのやうな第二次、第三次のお蔭などは心に微塵も止めないで、大御心を行ずるのが『忠』である。そしてそれがまた生長の家家族の心である。
大御心を行ずる為に、その他の物質的なるもの悉くを戦死せしむるのである。戦場に於(おい)て戦死せしむるだけではなく、常住戦死の心である。これを『死』と云ふ不吉な連想を伴ひ易き言葉を用ひず、『肉体なし、物質なし』と吾らは云ふ。その死に切った心だけでは消極的否定の心である。そこに『大御心のみあり』の大肯定がなければならぬ。生長の家ではこれを『神一元』と云ふ。天皇独在とも云ふのである。
(谷口雅春「常住戦死の心」『谷口雅春選集』潮文閣、1941年、2頁)
5822
:
疑問
:2015/09/29(火) 14:01:49 ID:4q2kCbp2
ああ天地万物を見るたびに、吾々は、天皇陛下があがめられます。 天皇の下に生まれ 天皇の大みいのちに還りて死し死して永遠のいのちを得る。
天皇万歳である。…・万歳は久遠の象徴(しるし)である。…・・この際、この時、この生長の家の思想を広めて吾ら死なん。死なんかな。死なんかな。来りてともに死に給へ。死は大なる生につながる。
(谷口雅春『明窓浄机』飛躍篇106頁 昭和16年 「天皇はすべてのすべてにまします」)
上二つダブりましたすみません
5823
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<削除>
:<削除>
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5824
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<削除>
:<削除>
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5825
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<削除>
:<削除>
<削除>
5826
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<削除>
:<削除>
<削除>
5827
:
トンチンカン
:2015/09/29(火) 15:30:35 ID:z9V4A.MQ
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
≪迷いのルツボ≫にはまり込み、右往左往して出口の見えない「曳馬野ご一統」!!
「頭脳明晰」なるが故、色々と考えるのでしょうね? 「無の関門」を越えられない・・
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
・『迷いはナイ!!』。。 信じるのか・・ 信じないのか・・
5828
:
トンチンカン
:2015/09/29(火) 15:46:10 ID:z9V4A.MQ
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
『20年かかって世間の物笑いになっている生長の家の在り方』
『不完全を表している中心者の生き様を代えろ、と主張しても、それは相手の事です』
<曳馬野ご一統>
多くの人々が≪総裁のご乱行≫を言っているのです。 ≪総裁の「責任問題」≫です!!
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
・今や、「開き直り」しかないのですか? 「屁理屈」で逃げ切るのですか?
・『世間の物笑いになっている』のは、「マサノブ爺さん」なのですよ・・・
(参考)
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
5816 :疑問:2015/09/29(火) 11:22:25 ID:4q2kCbp2
>>5815
私ははahopeさんの引用並びに感想への疑問を述べているのです。教団の解釈が伝統的解
釈と違うということはどちらでもいいのです。
20年かかって世間の物笑いになっている生長の家の在り方を、相手方に答えを求めてど
うするのですか?教団側は好きにすればの態度であるのでしょう、であれば本流を自認す
る側が真理を生きることにより不完全と見えることの解消をするしか仕方ないでしょう。
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5817 :疑問:2015/09/29(火) 11:58:34 ID:4q2kCbp2
真理を生きるということはどのような事なのですか?と聞いているのです。トキさんが不
完全な事が有るとの認識を持っている、それに対し総裁はそんなことは知らんとの態度を
取るように見える、その現実の事実に対してあなたはどんな行動をとるのですか?
不完全があると見えている時にどんな行動をするのが真理に適った生き方なのですか?
不完全を表している中心者の生き様を代えろ、と主張しても、それは相手の事です。自分
の行動としてはお前は駄目だと言葉で云っているだけです、そんなことは真理を知らなく
ても誰でもします。
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5829
:
トキ
:2015/09/29(火) 16:41:27 ID:ksUeryWU
いやいや、疑問さんは、痛いところを突かれたので、錯乱されているのです。
しかし、「疑問」さん、a hope 様も社会人ですから、質問をするのなら、
それなりの礼儀作法というものが必要です。こういう詰問をするような口調
の文章をいきなり送りつけて回答を要求するのは、社会通念上、「失礼」と
言います。
ご理解ください。
合掌 ありがとうございます
管理人敬白
5832
:
トキ
:2015/09/29(火) 17:07:09 ID:ksUeryWU
疑問様の投稿は、誌友会と関係がないので、一部の投稿を別板の移転板へ
移しました。こういう投稿は大変迷惑なので、以後、疑問様はそちらへ
投稿をしてください。
合掌 ありがとうございます
管理人
5833
:
疑問
:2015/09/29(火) 17:45:33 ID:gJV5Cq.Q
>疑問様のなすことは、具体的に、現在の方針が谷口雅春先生の教えと外れていないと説明することだと思います。私は、教義の解釈の変更が重大な事柄だ、と言っているのです。逃げずに返答をしたまえ。
>いやいや、疑問さんは、痛いところを突かれたので、錯乱されているのです。
教義が変更されたかどうかそんなことは知りません。教義が変更されて嫌だというのであればさっさと辞めたらいいのでは。なんで私があなたに説明しなくてはならないのですか?どこが痛いところなんですか?私は痛くもかゆくもありません。
国家が起こす戦争で死ぬことは神の子の無我の最高の心に到達するための最高に尊いことであると、常に常住戦死の心で生きるのが最高と云うから、そんな心を求められるのが生長の家の真理だと知ったうえで誌友会版で真理の研鑽に励んでいるのですか?と聞いて何が悪いのですか?
解釈の変更がたとえ有ったにしても、それを重大な事柄とするのはあなた並びに自称本流派でしょ。総裁は何も困っていないから10年以上同じ路線を走っていのでしょう。困るのは困る人が悪いと云った有名な本部講師がいました。困るならさっさと辞めて自分の思う運動をすればいいでしょう。
世間の常識で行くと人間神の事はどんなことかの話は邪魔で、トンチンカンのアジ演説は素晴らしと云うのですね。世間の人はウダウダ云っている人のその姿にあきれているのでしょ。世間の人で教団の在り方を批判している人がいますか?世間の人が何を考えているかに関する引用ですよ、原文に当たってみたらよいでしょう。
5834
:
疑問
:2015/09/29(火) 18:05:29 ID:gJV5Cq.Q
>>5830
>>5831
を自由に削除して自分の体裁を繕う姿が素晴らしい神の子の姿と云うのですか?
いくら少なく見積もっても2,3万の信徒はまだいるでしょう、今でも講師試験を受ける人がいるのです、その人たちは馬鹿で阿保であるというのですか?少なくても新たに講師になる人達にとっては重要な問題でなく、世間を笑わせようとするあなた方にとって問題と云うだけです。
総裁は公人であるから幾ら汚い言葉で批判しても許されるという判断でトンチンカンはそのままにしているのですね。そんな考えのトキさんはさっさと辞めて本流派と合流するほうがいいです。
5835
:
トキ
:2015/09/29(火) 18:22:34 ID:ksUeryWU
>>5833
疑問様
トンチンカン様の投稿は、確かに、最初は削除と移転をしようと思いました。
と、同時に、疑問様の全ての投稿を全部、削除と移転をしようと思いました。
しかし、それでは、誌友会としての流れが止まります。仕方がないので、
全く誌友会のテーマと関係がない部分をとりあえずは移転と削除しました。
なお、疑問様とトンチンカン様には申し訳ありませんが、適当な時期に、
お二人の投稿を削除と移転をさせていただきます。
次に。
教義が変更されたというのは、たいへん重要な問題です。生長の家というのは
宗教法人です。法人というのは、法人としての「目的」があります。その「目的」
は、登記され、誰でもが閲覧することができるのです。
戦前、天理教が当局の要求により教義の「革新」を余儀なくされたときに、大騒ぎに
なったこともありました。
(つづく)
5836
:
トキ
:2015/09/29(火) 18:37:35 ID:ksUeryWU
それぐらい、教義というものは重要なものなのです。
法律に詳しい人に尋ねると、法人における「目的」はかなり重要で、
目的外の行為は、原則として「無効」になる、というぐらいの重みがある
みたいです。
生長の家の場合、生命の実相が目的に明記されていたと記憶しており
ます。だとしたら、生命の実相が教団内部で語られなくなったのは、
問題である、という声があがるのは当然ではないでしょうか。
さて、疑問様は、教義の変更が嫌なら辞めろ、という発言をされまし
た。生長の家が発祥当時のような任意団体ならその解釈も可能でしょう。
しかし、現代のような法人格を取得して団体では、一部の人の独裁の
ような行動が正当化され、異論を唱えた者が容赦なく排除されるのなら、
それは、法人格をもらった趣旨から逸脱すると思います。
(つづく)
5837
:
トキ
:2015/09/29(火) 18:47:56 ID:ksUeryWU
さらに申し上げると、私が問題にしているのは、この掲示板では何を
書いても構わないが、誌友会の板では、テーマが決まっているので、それに
沿った内容の投稿をしてほしい、ということです。
掲示板で、管理人がいたら、その管理人の指示に従う前提で掲示板は
成立しています。もちろん、運営上のご意見も可能な限りは拝聴しますが、
「疑問」様の投稿は、板の趣旨を逸脱しています。
トンチンカン様の投稿も確かに表現に問題はありますが、トンチンカン様
の投稿が「疑問」様への反応であることを考えると、いきなりの削除ができ
ないと考えています。
最後に付け加えますが、私の考えは、本流復活派も支持しないし、また、
今日の状態に至ったのは、総裁だけの責任でもない、という立場です。
その考えは、過去、再三、表明しています。
しかし、掲示板の方針として、極力、検閲はしない方向でいます。
問題になる投稿については、反論という方法での対応をお願いをしており
ます。
5838
:
トキ
:2015/09/29(火) 18:53:49 ID:ksUeryWU
ですから、「疑問」様の投稿の原則としては、削除したくありませんでした。
しかし、関係のない文章を長々と書いて、誌友会のリーダーに返答を強要す
るのは、これは違うと思います。
この点はご理解をお願いします。
合掌 ありがとうございます
管理人敬白
5840
:
トキ
:2015/09/29(火) 19:38:02 ID:ksUeryWU
以下、訂正します。
トンチンカン様
ご覧の通り、「疑問」様から、総裁を「侮辱」する表現を問題視
する投稿が届いております。
管理人としては、内容については容喙するものではありませんが、
表現については、多くの方が閲覧をしている現状もありますので、
より丁寧な表現をしてくだされば、助かります。それで削除をする
ということはありませんが、どの人であれ、人格を尊重する態度は
必要だと思いますので、ご協力をお願いします。
勝手なお願いをして、すみません。
今後とも、投稿をお願い申し上げます。
投稿者様各位へ
もちろん、ここでは本流復活派へのきわどい表現もあるので、
総裁への投稿だけを問題視するつもりはありません。本流派への
投稿も、表現については慎重にお願いします。
賛成意見も反対意見も大事ですが、本流復活派の方々
も、ご自身の信念により頑張っているのは事実ですから、その点
は尊敬したいと思います。
同時に、教団への支持も批判も歓迎ですが、表現については慎重に
お願いします。
合掌ありがとうございます
管理人敬白
5841
:
トキ
:2015/09/29(火) 19:41:49 ID:ksUeryWU
謹告
以上の投稿は、誌友会とは関係のない内容が多いので、適当な時期に
削除させていただきます。もちろん、私の投稿も含めてです。
ご了承ください。
合掌ありがとうございます
管理人敬白
5842
:
疑問
:2015/09/29(火) 20:02:18 ID:gJV5Cq.Q
>しかし、関係のない文章を長々と書いて、誌友会のリーダーに返答を強要するのは、これは違うと思います。
関係のない人間が関係のない文章を書いたのはトキさんあなたでしょう。誌友会版でのa hopeさんの言葉解釈への疑問を書いていたところに、あなたが勝手に総裁と間違えての感想を、勝手に書いたのでしょう。
国家が起こす戦争で死ぬことは神の子の無我の最高の心に到達するための最高に尊いことであると、常に常住戦死の心で生きるのが最高と云うから、そんな心を求められるのが生長の家の真理だと知ったうえで誌友会版で真理の研鑽に励んでいるのですか?と聞いて何が悪いのですか?
とあなたへの返事は書いてあります。誌友会、講演会で真理の話をするのは何の為、本当の神の子の自覚に至る為でしょう。その神の子の自覚は天皇信仰に至る事でありその神髄は斯くの如しと書いてある文を投稿するのが何故削除に値するのですか?
いちゃもんをつけてきたのはあなたトキさんです。引用したような書き方で神の子の自覚を説くのが生長の家であるとの認識の下で、a hoopeさんがその体得にいそしむのであればよろしいのですが、そうでなければ後でこんなはずではなかった云うことになりかねません。
あなたが割り込まなければ、引用文までは書かなかったのです。趣旨に則った質問だから夜にの返事があったのでしょう。出しゃばり、趣旨に反したのはあなたなのです。
5843
:
トキ
:2015/09/29(火) 20:23:28 ID:ksUeryWU
>>5842
すみません、一箇所、申し上げます。
>>勝手に総裁と間違えての感想を、勝手に書いたのでしょう。
私は、そういう文章は書いていません。また、あなたが総裁だとも思っていません。
その点はお願いします。
誌友会、あるいは輪読会では、あくまでもリーダーの指示で動くことが前提になって
います。この点もご理解ください。
合掌ありがとうございます
5844
:
トキ
:2015/09/29(火) 20:46:31 ID:ksUeryWU
>>5805
では、あらためて書きましょう。
谷口雅春先生が、かってバキュームオイルカンパニーを馘首されたあと、
馘首した上司と対面をした時の話を講演で言われています。
「会社をクビにされても恨んではいけませんが、クビにするのもよくない」
と。よほど修行ができた人でないと、クビにされたら恨みます。生長の家を
していても、それは、現象の人間ですから、酷い扱いや侮辱を受けたら、
やはり恨みます。ただ、それをいつ切り替えるかです。
そういう念は、クビにした人のところへ行きます。確かに前世なり何なり
で、そういう人には原因になる行為があったのかもしれませんが、何でも
かんでも、前世の因縁とかでかたずけると、人間の自由な意思というものが
無視されてしまいます。それは魂の向上という観点からは、有害無益なので
す。また、そういう恨みの念で復讐をすると、今度は、また、次にその人が
その因縁で不幸になる、という循環になります。
私も経験があるのですが、侮辱されたり、嫌がらせをされた人がいて、自分
が強い立場になったら、復讐をしたいという感情にはかられます。そこを逆転
して、そんなつまらないことをしないと決めるかは、難しいですが、大事な事
だと思います。本流復活派の中には、ごく一部ですが、パワハラのような言動
をする人もいて、そういう人に不愉快な経験をした人の中には、そういう人が
不遇な目にあって喝采を叫んでいる人もいるかもしれません。
しかし、それをしたら、私は、「負け」だと思っています。
前世の因縁が全てではありません。人間、どこかで、上のような悪循環をと
めるかが大事だと思っています。
5845
:
疑問
:2015/09/29(火) 20:54:52 ID:gJV5Cq.Q
https://twitter.com/search?q=%E8%B0%B7%E5%8F%A3%E9%9B%85%E6%98%A5&src=typd
でヒルコ蛭義氏が「完全にイ○カレてる。」「稲田の朋ちん様、あなたと一緒に進め、一億火の玉だとか、ほんと勘弁してください」と感想を言っている、何を読んでそんな感想になったのか?それは
http://sei4ch1ou.seesaa.net/article/421281552.html
の資料2なのだ
世間で笑われているのは雅宣総裁でなく、創始者の説く生長の家の神髄を読んでの事なのです。私は大っぴらになるのは困るなんていう時期は通り過ぎていると思いますよ、トキさん。この資料2に書かれていることを世間に解るように説明する義務が本流は並びにトキさんには生じていると思います。
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