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5646a hope:2015/08/09(日) 19:29:30 ID:cEpBaIdo

「生命の實相」 第21巻 p39 4行目〜

この現象界にいるように見えているのは、実は実相浄土にいながら現象界を念の作用にて仮作※1しているのである。

ここに即身成仏※2がある。

だからわれわれは南無阿弥陀仏と称えたとき、すでに成仏している自分を見出すのです。

その実相が悟れた時には、三界は唯心の所現でありますから、自分の立ち向かう環境ことごとくが、神と一つになる、無礙光如来と一つになる、無限の智慧なる、無限の真理なる、完全なる、円満なる、その自分自身の、少しも欠くところなき完全な相(すがた)が、この環境、周囲および体に現われてくる。

そうした時にこの現世が本当の天国となり、浄土となるのであります。

そうして機縁熟して、われわれが念の仮作する人生を投映する銀幕を代えて、霊界の銀幕に映像を投影して生活するようになる時、(いわゆるこの肉体が滅した時)われわれの念が光明一元の波長ばかりを起こすようにしていましたならば、未来世の銀幕には光明一元の世界が投影され、そこにわれわれは指方立相の極楽浄土を現わしていわゆるわれわれは極楽往生したことになるのであります。

これですでに実相では成仏している自分が、現世または霊界において極楽浄土を展開したりしなかったりする原理や、本来去来することなく、来生し往生するように現れる理由もおわかりになったでありましょう。

法顕(ほっけん)という人の訳の『無量寿荘厳経』にはこう書いてあります。

「かの仏如来は来って来る所なく去って去る所なし生なく滅なく過現未来にあらず」これは阿弥陀如来ですが、それと同じくわれわれも「来って来る所なく去って去る所なし過去・現在・未来にあらず」過去現在未来を打ち貫いて、そうして今、このまますでに自分が仏であるということを自覚せしめるのがこの生長の家であります。

(頭注より)
※1・・・本来無いのに仮に作り成す。
※2・・・その身そのまま仏となる。

5647a hope:2015/08/09(日) 19:33:39 ID:cEpBaIdo

>>5646 a hope所感)

<<その実相が悟れた時には、三界は唯心の所現でありますから、自分の立ち向かう環境ことごとくが、神と一つになる、無礙光如来と一つになる、無限の智慧なる、無限の真理なる、完全なる、円満なる、その自分自身の、少しも欠くところなき完全な相(すがた)が、この環境、周囲および体に現われてくる。
そうした時にこの現世が本当の天国となり、浄土となるのであります。>>

これは>>5645のフニュ(´・ω・`)さま(るん吉さま?)の

>>実相独在を頭での理解だけだったら、その時の感情の制御は難しいです。

というご発言にも通じることだと思いますが、
ようするに、頭で実相世界のことや「現象なし」をわかっていても、実相をまことに悟らなければ現世には天国は出現しないというわけですね。


そして、

<<そうして機縁熟して、われわれが念の仮作する人生を投映する銀幕を代えて、霊界の銀幕に映像を投影して生活するようになる時、(いわゆるこの肉体が滅した時)われわれの念が光明一元の波長ばかりを起こすようにしていましたならば、未来世の銀幕には光明一元の世界が投影され、そこにわれわれは指方立相の極楽浄土を現わしていわゆるわれわれは極楽往生したことになるのであります。>>

その肉体が死するときに、実相を悟っていれば、霊界においても極楽浄土は出現するし、悟っていなければ現世と同じような悩みや苦しみが続くというわけですね。


フニュさまがおっしゃる通り、「実相をまことに悟る」てそう簡単なことではないとわたしも思います(;´∀`)

でも、わたしたち「生長の家」の信徒には聖典「生命の實相」という道しるべがあるのですから、本当に幸せだと思います。

わたしは一生「生命の實相」を拝読しつづけ、実相悟ってから極楽成仏したいです。

だって、死んで霊界に行った後も煩悩に苦しみ続けるなんてまっぴらですからね(-_-;)

これからも聖典のお勉強、がんばろうっと・・・!(^^)!

5648フニュ(´・ω・`):2015/08/09(日) 22:09:08 ID:wLZgPbag
a hopeさま。
レスありがとうございます。 いつもご苦労様です。

えっと、はい、るん吉です。(#^.^#)バレテ 嬉し、恥ずかし・・

実相を悟れたら良いけど、その「実相を如実に悟る。要するに絶対境地?」に中々到達出来ない仕組みにでもなってるのか?

と思わせられる位、本当の己を悟るのはあまりにも難しすぎやしませんか?←これ本音。

しかし、こう考えたり、悩んでる我も無いのですよね。・・・頭では解る・・

生命の実相、読も!(*´ω`*)

5649a hope:2015/08/13(木) 09:59:06 ID:cEpBaIdo

「生命の實相」第21巻 p43 9行目〜

「霊」とここにあるのは「霊魂」のことであります。

霊魂という場合は普遍的霊ということではなく、なんらかの体を備えた個別霊のことであります。

仏教は「無我」の教えでありますから、「霊魂」というものを第一義締としては認めないのであります。

生長の家でも、先刻説明したように、第一義締としては迷う「我」も極楽へ行く「我」もないというのでありますけれども、現世、霊界等のスクリーンに投影された念像が、ちょうど活動写真の銀幕(スクリーン)上に躍(おど)っている人物のように、個別の姿をあらわして見えるのが、現世の銀幕(スクリーン)においては肉体であり、霊界の銀幕(スクリーン)においては霊体であります。

この霊体を現している仮我を、霊魂というのであります。

霊魂という実体が実在するのではない、その正体は念の波によって、そこに実在するかのごとくあらわれている活動写真のごとき映像であります。

5650a hope:2015/08/13(木) 10:00:33 ID:cEpBaIdo

>>5649 a hope所感)

『生長の家の教えは「物質なし」の「唯神実相」なのに、なぜ、本来無い「霊魂(個別霊)」を供養するのか?』

それは聖典「生命の實相」の真理に感動して「生長の家」の信徒になった後、
「生長の家」が先祖供養を大切にしているという事実を知ったときに感じた疑問でした。

おそらく、雅宣先生も同じようなお考えをお持ちなのではないかと感じています。


霊界は現象界と同様、本来無い世界だけれども、肉体をもって生きているわたしたちには「現象界」はどうしても存在しているように感じてしまうように、
霊体となった霊魂にも「霊界」は存在しているように感じているのだと思います。

ですから、現象界で生きている間は、両親や兄弟、友人等の現象の姿を「神の子」として感謝してお祈りさせていただくのと同じように、
ご先祖ざまや生前ご縁があって亡くなった方々の霊魂に対しても感謝し供養するのは当たり前の事なんだと、今は思えるようになりました。

5651a hope:2015/08/14(金) 09:19:17 ID:cEpBaIdo

「生命の實相」第21巻 p47 1行目〜
 
霊魂が病気をしたり、霊体が病気をしたりするのは変なことのように考えられますが、霊魂が病念を持つようになるのは、肉体的顕現から、霊体的顕現に移る場合、活動写真に喩えると、一つの銀幕(スクリーン)への映写を終わって、他の銀幕への映写に移る場合、
映写と映写との間に何も映らない「間」が生ずる。

この「間」がすなわち個性意識の中断であります。

活動写真に「間」があり、個性意識の中断がありましても、その人の業(映画において、印象の蓄積たるフィルムの絵)に変化のない限りは、再び意識が回復し、再び映画が始まりますと、その霊魂の意識には(界を変えての映画には)同様の病念が浮かぶのであります。

この病念が客観化して、霊魂自身には病気になっているかのような状態を呈する。

われわれから考えますと、もう霊魂になったらば肉体は無いのであるから、病気に罹りようがないと思えるのであります。

われわれから見たならば、体の無い霊魂が体の病気に罹っている。

胃病も心臓も皆焼いて灰にしてしまったのに、その霊魂が胃病にかかっているという実に滑稽なのでありますが、当事者たる霊魂にとっては、決して滑稽ではない、実に病気ありとして痛ましくも悩み苦しんでいるのであります。

といってわれわれも病気になって苦しんでいる霊魂を「体もないのに、自分の念の投影で病気になっている。滑稽だなア」などと言って笑うことはできないのであります。

「体もないのに病気になっている」というのは必ずしも、霊魂ばかりではないのであります。

われわれ自身も、本来こんな不完全な肉体は無いのに、念の投影(かげ)として現象界に肉体というような時間空間に制約された不自由な体を映し出して、それを実に有りと思い自分自身の病念によって、病気としている人がたくさんあるからであります。

こういう人が『生命の實相』を読んで本来肉体なし、病気なしと悟って病気が消えると、その人の病気が治るのであります。

これは皆さますでに信徒たちが体験せるとおりであります。

5652a hope:2015/08/14(金) 09:20:17 ID:cEpBaIdo

>>5651 a hope所感)

ここにはとても大切なことが書かれていると感じています。

要するに「肉体の死は苦しみの解決にはつながらない」という訳ですね。

自殺する人は、現象の苦しみから逃れようと自らの命を絶つのだと思いますが、
亡くなる前に「肉体なし」「現象なし」を悟っていなければ、例え肉体を滅ぼしたとしても、
霊界において「霊体(霊魂)」として苦しみ続けることになるのですね。

ここに「生長の家」の「肉体なし」「病気なし」「迷いなし」「死なし」等の真理の伝道の重要性が明らかになってきます。

終戦記念日を目前にして、わたしは今、戦死された英霊たちの霊魂に思いを馳せています。

当時「生長の家の教え」に触れることで、この真理を悟って戦死された英霊は多いのではないかと感じています。

「生長の家」の教えに触れた者の使命とは、この『「肉体無し」「唯神實相」の真理の伝道』以外わたしには考えられません。

5653a hope:2015/08/16(日) 09:08:15 ID:cEpBaIdo

「生命の實相」第21巻 p50 後から6行目〜

だから、病み悩んでいる者には、生命の実相(ほんとうのすがた)が完全円満な神そのままの相(すがた)であるということを知らせてやったならば病が消えてしまう。

罪に悩んでいる者には、神は決して罪を作り給わないから、罪というものは本来ないという真理を知らしてやったならば、その罪と、罪より生ずる苦悩苦患(くのうくげん)が消えてしまう。

こうして一切苦患の源となるべき顛倒妄想を摧破(さいは)するために生長の家は出現したのです。

この真理の宣伝(のべつた)えられるや、天界のもろもろの神が和共(あいとも)に讃嘆して、「善いかな!善いかな!」と讃嘆の声を雨降らしつつ相共に人類光明化のために協力してくれるのであります。

それですから、生長の家では最近古今未曾有のことが起こりつつある。

それは、聖典を読むだけで神懸りになり、その神懸りになった人がちょっと『生命の實相』の受け売りをすれば病気が治るというふうな奇跡が続出する。

これ天界の諸神の共同活動によるものであります。

天界の諸神というのは霊界の上層にいる神格を得た諸霊のことであります。

こうして天界の諸霊の協同活動と人間界のわれらの協同活動とによって『生命の實相』の真理が宣布せられるにしたがい、この世の一切の迷い障りが消滅してしまう。

そうして、この惑障(わくしょう)の消滅とともに、惑障の現われであった地上一切の不幸苦悩は消尽して、このまま、この世が光明の常楽世界となるのであります。

5654a hope:2015/08/16(日) 09:09:26 ID:cEpBaIdo

>>5653 a hope所感)

『生命の實相』の真理は、「現象界」だけではなく「霊界」や「神界」に到るまで鳴り響くのですね!

<<生命の実相(ほんとうのすがた)が完全円満な神そのままの相(すがた)であるということ>> 【唯神実相】
<<神は決して罪を作り給わないから、罪というものは本来ない>>【人類無罪】

というように、その真理は本当に単純なのに、わたしたちはそれをなかなか悟れない(体得できない)・・・(-_-;)

悟れば、此の世が光明の常楽世界になるというのに・・・。

だからこそわたしたちには、聖典『生命の實相』を毎日拝読して、その真理を伝道して行く使命があるのですね!

5655a hope:2015/08/23(日) 22:59:48 ID:cEpBaIdo

「生命の實相」第21巻 p59 2行目〜

生長の家の人類光明化運動には人間だけが参加しているのだと思うとまちがいでありまして、霊界における高級スピリットが参加していて、霊界からこの光明化運動を護念しているのであります。

そして一信徒が生長の家の真理を説くと、説く人もハッキリ分かっていないし、説かれる人もそれほどハッキリわかっていないのに、難病がパッと治ってしまうような実例がある。

これは、霊界からスピリットが強烈な光明思念を送って迷いの思念を破壊してしまうのであります。

5656a hope:2015/08/23(日) 23:01:17 ID:cEpBaIdo

>>5655 a hope所感)

唯物思想に感化されてしまった人たちには、この霊界とかスピリットとかいう存在を認めるのは難しいかもしれませんね。

わたしは「生長の家」の教えに触れる前からその類の本(精神世界関係)はかなり読んでいたので、
この現世の人間とスピリットとが影響し合っているという関係はすぐに理解できました。

真理を大悟された谷口雅春先生やその愛弟子さんたちがこの現象界に沢山ご存命だったころは、
「生長の家」教団自体が光明思念で満たされていたでしょうから、霊界のスピリットたちもその光明思念に共振し、
「生長の家」の光明化運動を護念してくださっていたのでしょうね。

ですから、たとえ真理を悟っていない信徒であっても、その「おかげ」を受けて、
聖典を拝読したり聖経を読誦するだけで簡単に病気が治ってしまったりするような、奇跡を起こすことができたのだと思います。

5657トキ:2015/08/24(月) 22:15:05 ID:jDE0Dx5.
>>5656

 これはその通りだと思います。

私の縁者の「一白鳩会員」が谷口雅春先生ご先導の神想観に参加したときに、
ものすごいパワーを感じたと言います。奇跡も続出したみたいです。

5658a hope:2015/08/27(木) 09:53:34 ID:cEpBaIdo

「生命の實相」第21巻 p60 8行目〜

念の世界に、本来無い世界に、勝手に自分たちの妄念で不幸を創り、混乱状態を起こし、それがまたこの現象界に、勝手に自分たちの妄念で不幸を創り、御蘭状態を起こし、それがまたこの現象界に現われでようとした場合に、「かわいそうに」とそこに実相の世界から光明の念が及ぼされてくる、その光明の念が応現して観世音菩薩となり、阿弥陀如来となるのであります。

これは、化身または応化身の神であります。

そして宇宙に遍満する神というのは、実相とか、法身の神とか大本体の神とか言うのであり、この応化身の救済の活動に、霊界の高級霊が参加して活動するのは地上では悟りに近い現世の人々が参加して活動するのも同じであります。

この大本体の神が第一義の神であり、応化神が第二義の神である、これらは霊魂ではないから霊媒には憑(かか)らない。

霊界の高級霊というのは第三義の神と称するのがそれで、その眷族(けんぞく)あたりが、時には「大本体の神」の御名(みな)を僭称(せんしょう)して霊媒にかかってくることがあります。

仏典に「衆生仏を億念すれば、仏、衆生を憶念す」という 語がありますが、神は宇宙に遍満し給うのでありますから、憶念しても、しなくてもすでに満ちてい給うものでありますが、生が迷って、救いを求める気持ちになる。

換言すれば仏または、神を憶念した時に、阿弥陀仏となり、観世音菩薩となって、機に応じて現われ給うので、迷いは無明であり、暗(やみ)である。

暗は本来虚でありますから、そこに光が射せば暗は自然に消滅してしまう。

それが実相の神が、地上に応現し給うと、地上の迷いが自然に消滅してしまうということになるのであります。

5659a hope:2015/08/27(木) 09:55:08 ID:brQxC10.

(a hopeまとめ)

○第一義の神・・・宇宙に遍満する神・実相・法身の神・大本体の神・(光明の念)

○第二義の神・・・第一義の神の「応化神(応化身)」・観世音菩薩・阿弥陀如来 
        ※霊魂・で・は・な・い・から霊媒には憑(かか)らない

○第三義の神・・・霊界の高級霊 (スピリット)

○悟りに近い現世の人びと・・・高徳な僧や宗教の開祖とその直弟子たち・慈善活動家等・現世の高級霊【a hopeの個人的解釈】


○人類光明化運動・・・第二義の神「応化神」の救済活動に、霊界の高級霊(スピリット)や悟りに近い人びとが協力し合って行う運動【a hopeの個人的解釈】

5660a hope:2015/08/27(木) 09:57:54 ID:cEpBaIdo

>>5658 >>5659 a hope所感)

昔から、神さまのことを考えだすと、果てしなくひろがっていく宇宙の神秘を感じるのと同じような気持ちになりましたが、
実際、第一義の神は宇宙に遍満する実相ですから、それは当たり前のことだったのですね。

人間知では考えても考えてもわからない宇宙の果てのような存在が「実相・神」・・・

だから、「神さま」は慈悲深い「応化身」となってわたしたちの前に姿を顕(応現)し「迷っている」わたしたちを救済してくだる・・・

そしてその活動に霊界や地上(現世)で参加しているのが、スピリットや悟りに近い人々・・・

なんか、わたしはだんだんわかってきましたよ。

『縁あって「生長の家の教え」に触れた人々はみな「高級霊」である』どこかでと聞いたことがあります。

そういう意味だったのですね!

5661a hope:2015/08/31(月) 10:46:15 ID:cEpBaIdo

「生命の實相」第21巻 p72 5行目〜

しかし、現実をこの現象界を軽んじることが、「無」を悟るということにはならないのでありまして、生長の家では現象界を軽んじようとは決して言っていない。

ただこの現象界を映し出しているところの、その源(みなもと)の世界を把握して、活動写真を映すフィルムをつかんで、この肉眼に見える世界は、その影にすぎないのだということが分かれば分かるほど、すべての現われが実相を映し出し自由自在に、意のごとくになるというのであります。


(a hope所感)

この第二章の前半は「甘露の法雨」の『物質』の項目の解説ですが、
ここには、われわれが「物質無し」「現象無し」をまことに悟れば、妄念、迷いが払しょくされて念のフィルムが無色透明になり、
現象界に映し出される映像が実相一元の完全円満で光明そのものの姿になるという仕組みが詳しく解説されています。

それはとてつもない悟りの境地だと思いますが、それが生長の家を信仰しているわたしたちが目指すべき『実相独在』『唯神実相』の悟りなのですね!

聖典「生命の實相」は学べば学ぶほどそのレベルの高さを実感できます。

ほんとにすごい聖典ですね!!

5662a hope:2015/08/31(月) 10:48:11 ID:cEpBaIdo

ところで、今日は8月31日、今月の最終日です。
本当なら、9月からは第37回web誌友会を開会して「生命の實相」第22巻に移りたいのですが、
まだ、第21巻のお勉強が終わっていなので、勝手ですがこのまま第36回web誌友会を継続させていただきたいです。

トキさま、みなさまいつも勝手を言って申し訳ありませんが、どうぞよろしくお願いいたしますm(__)m

5663a hope:2015/08/31(月) 10:48:55 ID:cEpBaIdo

☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 

第36回 web誌友会 案内 (改訂版)

期間   8月2日〜9月30日まで
テキスト 「生命の實相」第21巻 経典篇 
内容  『甘露の法雨』講義
     
☆ ☆ ☆ ☆ ☆

5664a hope:2015/09/05(土) 23:21:49 ID:cEpBaIdo

「生命の實相」第21巻 p79 後から6行目〜


・・・われわれの本質は久遠の実在なのだ。

宇宙に充ち満つる大生命と同体の我こそ自分である。

(自己を指して)大生命ここにありと自覚する。

(また、聴衆をさして)皆様自身のうちに大生命ここに在りと自覚する。

自分が実在であり、大生命であると自覚することが必要なのであります。

自分は宇宙に充つる真理と同じものだ。

自分の実質は久遠の仏と同じものだ。

永遠の真理と一つのものだと悟ることが肝心なのです。

それだのに自分と実在すなわち神とを別々に離して、別物のように考えているから、どんな大宗教もたんなる哲学になってしまって実際に人を救う力がなくなってしまうのであります。

われは真理と一つのものである。

実在と一つのものである。

神と一つのものであるという実感が要するに現実世界を生かす根本であります。

生長の家が仏教、キリスト教と神髄において、同じことを説いていながら仏教、キリスト教に現われない数多くの奇跡を現わしているというのも、そこなのであります。

仏教、キリスト教で言っているのと同じ真理を、抽象的に説かないで、「実在のみある」という立場から、真理を実生活と遊離しないで、生きた人間の中に持ってきて、我すなわち真理である。

大生命である。

と、真理と吾とをぴったり一つに重ねてしまって、吾すなわち真理なりとの大自覚に入らせる。

ここに生長の家が在来の宗教の真理と同じ真理を説きながら、生活上に、治病上に実際の力ができてくるゆえんがあります。

5665a hope:2015/09/05(土) 23:25:51 ID:cEpBaIdo

>>5664 a hope所感)

<<それだのに自分と実在すなわち神とを別々に離して、別物のように考えているから、どんな大宗教もたんなる哲学になってしまって実際に人を救う力がなくなってしまうのであります。
われは真理と一つのものである。実在と一つのものである。
神と一つのものであるという実感が要するに現実世界を生かす根本であります。
生長の家が仏教、キリスト教と神髄において、同じことを説いていながら仏教、キリスト教に現われない数多くの奇跡を現わしているというのも、そこなのであります。>>


仏教にしてもキリスト教にしても、真理を大悟した釈迦やキリストがこの世に存在していた頃は生きた宗教で、
実際に多くの人を救っていたでしょうし、様々な奇跡も起きていたのだと思います。

ですが釈迦やキリストが現象世界を去った後に、どちらの宗教でも偶像崇拝のようなことが起こったり、
<<自分が実在であり、大生命である>>という大切な真理がないがしろにされたりして、
形式ばかりを重視する「救済力のない宗教」になっていってしまったのだと思います。


わたしは、現在の「生長の家」にも、同じようなことが起きている気がしています。

5666a hope:2015/09/07(月) 08:16:52 ID:cEpBaIdo

「生命の實相」第21巻 p82 6行目〜

・・・けれどもその仏教の説き方にいろいろの段階がある。
声聞遠覚(しょうもんえんかく)などという下段、中段にある人に説く説き方を聞いていますと、「この人間は生まれた以上死ななければならない」などとこんな説き方になるのです。

生きているものは死ななければならないという教えは、生命というものを眼に見えている肉体だと思っている悟りの発達の低い人たちに説く教えなのです。

5667a hope:2015/09/07(月) 08:18:28 ID:cEpBaIdo

>>5666 a hope所感)

わたしは物心ついてきた5歳の時に大好きだった祖父を亡くしてから、
その後何十年間も「この人間は生まれた以上死ななければならない」と信じて生きて来ました。

でも、実際はそうではないのですよね。

それにしても、

<<生きているものは死ななければならないという教えは、生命というものを眼に見えている肉体だと思っている悟りの発達の低い人たちに説く教えなのです。>>

『悟りの発達の低い人たち』とは、ちょっと衝撃的な内容でした・・・(-_-;)

5668トキ:2015/09/07(月) 18:09:19 ID:jVJQMSko
>>5667

 それは、衝撃的でしたね。

これは私見ですが、宗教の教えは、釈尊の時代から、相手を見て法を説く、つまり対機説法という
技法を使います。その場で一番最適な表現と内容で相手を説得します。だから、後から見ると、
必ずしも他の場面では適当とは言えないものもあります。

 例えば、お母さんが子供に「一生懸命勉強しないと、立派な大人になれないよ」というと、
「東大を出ても警察に捕まっている人はいます」と反論する人がいます。しかし、お母さんから
見ると、子供が大人になったときに困らないように、勉強を鼓舞するのが目的で、客観的に、
あるいは学術的に、初等教育の成績と将来の人生との関連を述べるのが意図ではないみたいな
ものです。

 と、まあ、個人的には、こう考えております。

5669フニュ(´・ω・`)るん吉:2015/09/08(火) 00:56:49 ID:???
>>悟りの発達の低い人たち』とは、ちょっと衝撃的な内容でした・・・(-_-;)


生長の家は、要するに「悟り」やもんねぇ。神の子の真理を絶対境地で体験して悟らにゃ、本物の我は出てこない?ですよね?

自我のまま、現象の我のまま?ですよね。「我即神」の絶対境地になってないんやもの。 

例えば、生命の実相を読んで「実相独在の真理」があまりに有難くて、読んだ後は有難い、明るい心持ちになって

その結果、心の法則によって現象界に良いことが起こる。(それは嬉しい事だけど)しかしその時の心は

依然として、自我の心ですよね?新生したわけでは無いですよ・・・ね。

ところで、二代目の清超せんせいは、ご自分が神の子ということを如実に実感されてたんでしょうか?

どう思います?

5670a hope:2015/09/08(火) 09:51:53 ID:cEpBaIdo

>>5668 トキさま >>5669 るん吉さま

コメントをありがとうございます。

わたしは、『生長の家の教えの神髄』=『谷口雅春先生の「実相独在・唯神実相」お悟り』だと思っていますが、
そのお悟りの境地はわたしたち凡人には一生かかっても実感できないような最高レベルのお悟りだと思うのです。

それでも谷口雅春先生は、その御慈悲心から「生命の實相」やその他の聖典の中でそのお悟りをあらゆる方便(対機説法)を駆使して、
わたしたちにもわかり易いように何度も何度も表現を変えて伝えて下さっていますよね?

ですからわたしたちは、聖典を繰り返し拝読していれば、頭ではその理屈はかなり理解できてくると思いますが、
実際には、そのお悟りの境地を100パーセントそのまま感受することはとても難しいことだと感じています。

このお悟りを感受するのには、文章の内容を頭で理解するのは勿論ですが、
その文章から発している波動に自分の波動を共振させることが重要なのではないかと感じています。

谷口雅春先生の波動は最高レベルの波動ですから、自分自身もよい波動を発していないと、
お互いの波動を共振させることはむずかしいと思います。

実際、わたしも心が乱れている時は、「生命の實相」をいくら拝読しても感動しませんし、魂も震えません。

そのような時は、常に三正行を怠らず波動を調えることの大切さを実感します。


谷口清超先生は、谷口雅春先生から正式に法燈継承をされた「生長の家」の法燈等継承者ですから、
かなりのレベルのお悟りをされていたのではないかと思われますが、
それでも、谷口雅春先生のお悟りには及ばなかったのではないかと拝察しています。
( a hopeごときが、大変生意気な発言をして申し訳ありませんm(__)m)

5671a hope:2015/09/12(土) 09:08:08 ID:cEpBaIdo

「生命の實相」第21巻 p84 

「生長の家」では人間は仏であると始めから直截(ちょくせつ)に断定する。

迷いなんてものは本来無いものだ。

迷えば衆生になり、悟れば仏になるなんて人間の本体はそんなフラフラのものではない。

そんなフラフラな「心」は本来無い心である。

迷いなんて無い、始めからわれわれは仏なのだと断然と迷いを断ち裁(き)ってしまって、断然と「我は仏なり」と肯定してしまうからこそ実際に宗教が生き、実人生を動かす力が出てくるのであります。


不生不滅などというどちらつかずのフラフラの言葉で、われわれの生命を形容したのでは力がでてこない。

われわれは生きとおしの生命であって滅びはない。

消ゆることもない。

迷いを一刀両断に斬り捨てて「生」のみを断然高く掲げ、本来「生」であって、無限の昔から、無限の未来へ生きとおす無限の生命こそ吾であり、無限の生命、すなわち仏であると断言してしまって、そこでわれわれ本来仏であり、無限の生命、すなわち仏であると断定してしまって、そこでわれわれ本来仏であればこそ、滅びもなければ、迷いも無い、そしてこれのみが事実である、これのみが実在である、その他のものはすべて無い、とすべて無いものを斬ってしまって(自己を指差して)「ここに仏あり」と思う。

そうすれば自分のうちに無限の力の宿ることを自覚することもできるのです。

迷いは無い。

ここに仏が坐っている。

今は迷っていて一生懸命念仏して仏になれるというような、そんなフラフラした影みたいな人間ではないのだ。

そんなものは初めから無いものなのだ。

われこそ仏である。

本来無限の仏力が宿っている、これをまず肯定せよと「生長の家」では言うのであります。

心、仏、衆生、三無差別としての仏は本来ない、そういう仏も衆生も心も斬り捨ててしまったとき、なお残る実在――久遠よりの仏のみがあり、それが本当の自分なのであります。

5672a hope:2015/09/12(土) 09:09:49 ID:cEpBaIdo

>>5671 a hope所感)

>>5641で謹写したはしがきにも

<<主として講義の速記によったのでわたしの文章だというよりも、わたしの語調が写されているところに特徴があるであろう。>>

とありましたが、この第21巻の「甘露の法雨」講義は、谷口雅春先生のお話になられたままの語調がそのままご文章になっているようです。

たとえば、違う誰かが「われこそは仏である。」と発言したら、まわりで聞いている人はどんな風に感じるでしょうか?

気が違ったか、もしくは傲慢極まりないと感じるかもしれません。

まったく同じ真理の言葉を伝道するにしても、その真理を本当に悟っている人が話すのと、そうでない人が話すのでは、
影響力に雲泥の差が出て来てしまうのだと思うのです。

わたしたちは「仏の子」であり「神の子」だというのは確かな真理だけれども、
その真理を伝道するにはまずは自分がそのことを自覚し(悟り)その波動を発することが重要だと感じています。


偽我の自分を「仏の子」「神の子」だと勘違いしてしまうと、それは増上慢になってしまいますものね。

わたしはこの『「唯神実相」を悟る』というありがたい課題に、これからも謙虚に取り組んでいきたいです。

5673a hope:2015/09/13(日) 09:25:47 ID:cEpBaIdo

「生命の實相」第21巻 p89  2行目〜


先日読売新聞に武本喜代蔵さんという大阪天満教師が書いておられるのをちょっと見たのでありますが、この武本という方はキリスト教の牧師さんで信仰によって病気を直された経験があるらしい。

名前も、わたしは十数年も前から聞いて知っているのですが、その方がこういうことを書いておられたのであります。

「信仰によって肉体の内部の病気が治るというのはあたりまえの話だ。しかし肉体の外部の、外傷は信仰では治らない。――」

こんなことを書いておられたのですが、わたしはこれを見て、この偉い牧師さんも本当のことが分かっていないな、と思ったのでありました。

この牧師さんには、われわれの外界に起ることは自分たちの内界の投影であって、外界も心の現われであるということが分からないで、肉体という一定の殻の内側だけが自分の心に左右されるもので、肉体という外殻の外側はもう自分の外だと考えていられるから、こういうことが書かれるのであります。

この方には三界は蜃気楼のごとく唯心の所現であるということが解らない。

自分というものは小さな肉体である。

脳髄に心というものが宿っていて、その心の宗教的感情はわずか五尺何寸、十四貫何匁のこの小さな肉体だけを支配しているとこう考えているのです。
(つづく)

5674a hope:2015/09/13(日) 09:26:58 ID:cEpBaIdo

>>5673 a hope所感)

<<「信仰によって肉体の内部の病気が治るというのはあたりまえの話だ。しかし肉体の外部の、外傷は信仰では治らない。――」>>

「生長の家」を信仰されているみなさんは、この武本喜代蔵さんの考え方を間違いだと思われましたか?

つまりは、『ガンなどの内臓疾患や精神病などの身体の内部の病気は信仰によって治すことはできるが、
事故等で外界からダメージを受けた外傷は信仰によっては治らない』、という意味だとわたしは解釈しました。

わたしは、すでに「生長の家の教え」を5年以上学んでいますが、いまだにこの武本さんの考え方は間違いであるといいきることはできません。

ですが、谷口雅春先生は「甘露の法雨」講義で、この武本さんは『本当のことが分かっていない』とおっしゃっています。

では、『本当のこと』とはいったいどういうことなのでしょうか?

つづけて謹写していきます。

5675a hope:2015/09/13(日) 10:44:30 ID:cEpBaIdo

>>5673 つづき)

ところが、この空間は自分という一点の中心から周囲にレンズを向けたように、念波の広がりによって成り立っているのであって、自分がその空間の中心である。

自分が宇宙の中心である。

いっさいを周囲の空間に現しているのが自分であるのです。

それが分かると、自分は実に偉大なものだという実感が得られるのであります。

そうすると、この自分たち一人一人が宇宙の中心であるといえば、この宇宙には中心ばかりたくさんあるということになって、なんだか変だと思われるかもしれませんが、少しも変なことはない。

無限大の宇宙は、いくらたくさん中心があっても、そのすべての中心をそのまま収容することができるのであります。

みなさんは御存知でありましょうが、楕円形には無数の中心があるのであります。

有限の楕円形にでさえ、無数の中心があるとすれば、無限大の宇宙に、たくさんの中心がありうるというのは当然のことであります。

無限大の実相の宇宙においてはわれわれおのおのが中心なのである。

と同時にわれわれは実相においては一つの大生命と、まったく一つのものであるというのであります。

楕円形の中央の一直線上にある無数の中心が一つでもかけたらその楕円形は成り立たない。

皆それぞれの中心の一つ一つがなくならない中心であるのと同じように、われわれ各自は皆宇宙の中心であって各自は宇宙を双肩に担っているのであります。

そして宇宙の生命と一つになってこの宇宙を動かしているところの存在なのです。

5676a hope:2015/09/13(日) 10:45:39 ID:cEpBaIdo

>>5675 a hope 所感)

「自分が宇宙の中心であったら、他の人はどうなるんだろう?」という疑問がここで一気に解消されますね!

現象は影である。

影の中(仮相)ではいろいろな不都合や差別なんかが起こって見えていても、
実在界(実相)では、わたしたちおのおのが中心で自由自在に宇宙を動かしているのですね!

すごいですね!(◎_◎;)!

5677a hope:2015/09/15(火) 10:58:10 ID:cEpBaIdo

「生命の實相」第21巻 p101 後から5行目〜


この因縁というものは、人間だけにあるのではありません。

因縁は全宇宙にあるのです。

宇宙の因縁循環して、いろいろの現象を起こしているのであります。

星雲状態も、燃ゆる灼熱の天体が冷めて月になるのも、宇宙の業の流転であります。

宇宙の業が循環流転していろいろの姿を現している。

この世は宇宙の業が流転して、因縁因果の姿を現じているものでありますから、『法華経』にかかれているごとく「劫(こう)尽きて末世が来てこの世が滅尽(めつじん)してしまう」というようなこともおこりうるのであります。

宇宙の業が流転して一太陽系統世界が生成し、やがてさらに流転して滅びてしまう。

その一期間を「劫(こう)」というのであります。

この一期間の週期が終わってこの世が滅尽してしまうようなことが起こっても「実相の浄土」は因縁によって現じている世界ではないから、決して滅びることはありえないのであります。   

(中略)

「実相」の世界は完全円満であっても、現実界ではわれわれは地震にも逢わなければならないと考える人がありますが、広範な大地震というような事件は宇宙の業によって起こりますから、一人の人間の悟りが大地震そのものを無くしてしまうことはできない。

しかしわれわれが本当に実相を知って因縁を超越した時には、地震はありながらも自分が地震に傷つかないような状態になるのです。

生長の家の信徒が自動車に轢かれても、微傷だも負わないというのはすでに因縁を超越した証拠であります。

現象世界の重力の法則によれば自動車に轢かれたらつぶれてしまうか、負傷するのがあたりまえのことでありましょう。

その重力の法則が因縁の法則であります。

その因縁をまったく超越した時には、自動車に轢かれても傷つかない。

憂苦満つる娑婆世界にいながらも、寂光土にいるような状態が現われ出てくるのであります。

なぜならわが環境はわが心の影、三界は唯心の所現であるからであります。

(第二章 終り)

5678a hope:2015/09/15(火) 10:59:58 ID:cEpBaIdo

>>5677 a hope所感)

各地で頻繁に起こっている地震、 火山活動の活発化、 豪雨による水害・・・・
最近の日本列島はどうも落ち着きません。

果たしてそのすべての原因は、わたしたち『人間の業』の自壊なのでしょうか?

もしそれが宇宙の業の流転の一端であるのならば、わたしたちがどんなに自分たちの犯した罪を反省し、
現象問題に対応してもその自然災害を食い止めることはむずかしいのではないでしょうか?

実際、先日起きた栃木の水害でも、自然環境を守るためのソーラーパネル建設が堤防決壊の原因なのではないかという問題もあがっていますよね・

生長の家の信仰により環境保護運動をするのであれば、そのような現象に対応するような形ではなくて、
まずは信徒一人一人が「本来罪なし」の「実相独在」を自覚し(悟り)、それを人類に伝道していく方法が正道だと思います。

そしてそれが本来の「人類光明化運動」だと思いますし、わたしはその方法しか人類救済はありえないと感じています。

5679トキ:2015/09/15(火) 18:38:42 ID:FzzGVrCQ
>>5678

 地球の歴史を省みると、いわゆる「大量絶滅期」という時代があって、例えば大きな隕石が
地球に落ちて、生命体の大部分が死滅した時代もあったそうです。当然、その時代は人間は
存在しなかったのですから、『人間の業』というのも変ですね。

 確かにスピリチュアルな観点からは、人間の意識もある程度は地球に影響を与えるそうです
が、それを極端に誇張するのは逆に危険な気もします。

>>まずは信徒一人一人が「本来罪なし」の「実相独在」を自覚し(悟り)、それを人類に伝道していく方法が正道だと思います。

全く同意いたします。

5680a hope:2015/09/16(水) 00:46:18 ID:cEpBaIdo

>>5679 トキさま

わたしの意見にご同意くださりありがとうございます。

わたしは聖典「生命の實相」を拝読していると、気持ちが明るくなり生きる力がみなぎってきます。

この掲示板でその大好きな「生命の實相」のお勉強ができるのも、管理人のトキさまのおかげですから、
トキさまにはいつも心より感謝しています。


ところで、明日から1週間くらいになると思いますが、事情があって自宅のパソコンが使えなくなります。

ですから、しばらくこのweb誌友会の書き込みをお休みさせていただきますね。


わたしはお休みしますが、今月は先月に引き続き、第21巻を学んでいますのでみなさまどうぞご自由にご参加くださいね。

5681トキ:2015/09/17(木) 19:32:50 ID:A5YPtPrA
>>5680

a hope様

 ご丁寧なご挨拶、ありがとうございます。

ゆっくりと英気を養ってください。
今後ともよろしくお願いします。

合掌 ありがとうございます

5682「訊」:2015/09/17(木) 19:37:34 ID:???
>>a hopeさん

 突然ですが最近、再度ハマっております。
http://blog.livedoor.jp/con5151/archives/65720842.html
http://blog.livedoor.jp/con5151/archives/65721221.html

 この方、雅春先生の実相一元に達しておられますよ。DVDが英語版しかナイのが残念なんですが、かなりイイです。ご紹介しておきます。

5683純粋教理批判:2015/09/19(土) 10:47:56 ID:DD4jWV6M
部室板がかまびすしいのでこちらに再掲いたします。

復興Gさんのイデア論

うかつなことは申せませぬが、復興Gさんへの疑問を述べさせていただきます。

復興Gさんは徹底したイデア論者のようです。神は無駄なものを与えたまわない。原子力エネルギーは神によって与えられたものだ。これがイデア論に特有の物言いであるのは何度も述べたとおりです。

地球の資源は神からあたえられたものだ。家畜となった生き物は神からあたえられたものだ。復興Gさんの物言いがこれとまったく異ならないのは誰がみてもあきらかでしょう。

原子力を必要としているのは人類だけです。人類以外に原子力を必要とする生き物はおそらくおりません。そんな人類がいったいどれだけの生き物を絶滅に追い込んだのでしょう。神が無駄なものを与えたまわないのであれば、絶滅に追い込まれた生き物は人類を必要としていたとでもいうのでしょうか。それとも、無駄なものは与えたまわないとは、人類のことだけをいっているのでしょうか。復興Gさんにはこのような疑問をどうしてももってしまいます。

5684純粋教理批判:2015/09/19(土) 10:49:19 ID:DD4jWV6M
復興Gさんの物言いひとつとっても生長の家がイデア論であるのはあきらかでしょう。生長の家はイデア論なのですよ。

環境問題をつくりだしたのはイデア論です。生長の家をつくったのもイデア論です。総裁のなかでこのふたつながっているのですよ。

復興Gさんはけっきょくイデア論で総裁を批判している。総裁が否定しているであろう当のもの(イデア論)をもちいて総裁を批判しているのですよ。このことに復興Gさんはまったく気づいておりません。

復興Gさんの批判のごく一部しか読んでおりませんが、それでも以上のことがわかった気がしております。

5685純粋教理批判:2015/09/19(土) 10:53:22 ID:DD4jWV6M
イデア論で総裁を批判することの愚かしさにまったく気づくことなく、復興Gさんは一冊の本を著したのでしょうか。

5686純粋教理批判:2015/09/19(土) 11:50:16 ID:DD4jWV6M
生長の家の歴史は浅く人類的評価はまったく定まっておりません。人類全体の問題を考えるにあたって評価の定まっていない教えをもちだして持論の正当性を訴えるのは適切ではないでしょう。このようなことをされても反論することができません。

原子力がよいとおもうのであれば原子力エネルギーの優越性を訴えればよいだけの話です。教えをもちだして信徒の気をひこうとしているとしかおもえません。

5687純粋教理批判:2015/09/19(土) 12:34:35 ID:DD4jWV6M
重要なことを書きましょう。

復興Gさんがたとえ原子力エネルギーの自然エネルギーにたいする優越性だけで総裁と議論したとしても、その議論の中にはイデア論がひそんでいるのですよ。

人類は自己の欲望を肥大化させエゴむきだしでみずからの繁栄を追求してきましたよね。この追求に少なからず貢献したのがイデア論です。みずからの言葉をもって真理となす。これがイデア論ですから人類にとってこれほど都合のよいものはありません。

人類が原子力を必要とするようになったのはイデア論を都合よく利用して欲望を肥大化させたからです。イデア論と「原子力エネルギーを必要とする人類」は密につながっている。復興Gさんが原子力の必要性を説くとき、その言説の背後にはイデア論が間違いなくひそんでいます。

5689トキ:2015/09/19(土) 15:42:16 ID:YIc16UiA
純粋教理批判 様

 もし、ご希望なら、別の板、例えば、現在あまり使われていない「信仰・体験」板を提供するか、もしくは別に
純粋教理批判 様専用の「トーキングスティック」板を作りましょうか?

 ここは誌友会に使っているので、できれば他の場所のほうが良いかと思います。

 よろしくご検討ください。

合掌 ありがとうございます

管理人敬白

5690神の子さん:2015/09/19(土) 17:01:23 ID:DRZ7EDG2

<<ここは誌友会に使っているので、できれば他の場所のほうが良いかと思います。

トンチンカンに本流対策室でなら何を書いてもかまわないと云ったのに、本流対策室はそっちのけで、アジ演説の出来るとこへは何処でも出て来る

そを放って置くから差し障りが出るのだよ。うのはなさんを一つの版に閉じ込めるのなら、トンチンカンにも同じ処置をしたらいかが。

5691トキ:2015/09/19(土) 17:29:14 ID:YIc16UiA
>>5690

 コメント、ありがとうございます。

 確かにトンチンカン様に自由な投稿を認めていますが、同時に、純粋教理批判 様
にも自由な投稿を認めています。

 誌友会の場合、最初からテーマが決まっており、それにそった投稿が前提になって
おります。純粋教理批判 様の投稿は歓迎しますが、この場所以外の場所の提案をさせ
ていただいた次第です。

 ご気分を害された点はお詫びしますが、ご理解のほど、お願いいたします。

合掌 ありがとうございます

管理人敬白

5692トキ:2015/09/19(土) 17:54:24 ID:YIc16UiA
 すみません、追伸です。

 純粋教理批判様の投稿を妨害する意図は全然ありません。
その点は申し上げます。

 よろしくお願いします。

合掌 ありがとうございます

5693純粋教理批判:2015/09/20(日) 09:14:11 ID:DD4jWV6M
トキさま

誌友会で総裁を「虚説」と批判するのは許される。その理由をお聞かせください。

こちらの板で総裁を「虚説」と批判するのはよいがそれへの応答は許されない。こういうことなのでしょうか。

一信徒と復興Gさんによる「虚説」発言への応答はここが主戦場であったはずです。復興Gさんがこちらで、「生命の経済学」という実体のない空言をもちだして総裁の環境運動を批判したのは事実でしょう。それにたいする応答がこちらの趣旨にふさわしくないというのはどういう意味でしょう。

5695トキ:2015/09/20(日) 11:09:20 ID:ati5bUBw
>>5693

純粋教理批判 様

 ご投稿、ありがとうございます。平素は弊掲示板をご利用下さり、深く
感謝申し上げます。

 純粋教理批判 様が、a hope 様への反論と書かれていたら、これは私も歓迎を
したと思います。ただ、部室からの横滑りの趣旨を書かれていたので、関係がないか
と理解をしておりました。

 総裁を支持する意見も反対する意見も歓迎をしております。
確かに、復興g様がこちらに投稿をされていた時期は、この場所が「主戦場」で
した。

 が、web誌友会は、主催者が変更し現在、テキストとテーマが決まっており、その内容
で進めることになっております。

 もちろん、純粋教理批判 様も他の投稿者様の投稿も大歓迎いたしますが、
この誌友会の板以外の場所でお願いをさせていただきた、という意味で、
決して純粋教理批判 様の投稿自体を否定したり、反対する意図はありません。

 おそらく当方の書いた表現に行き届かない点があり、誤解を生じさせた点
があったと思います。その点はお詫びします。

 ただ、場所については、趣旨と違いのではないか、という考えをもっています。
 
 もちろん、他の板のご利用にあたって、ご希望があれば、最大限の対応をさせて
いただきます。例えば、純粋教理批判 様専用のトーキングスティック板を設ける事
も可能です。ご検討のほど、お願い申し上げます。

 a hope様も現在、お留守ですから、a hope様のご意見も聞きたいですが、おそらく
は同じ意見になるのではないか、と考えております。

 せっかくのご投稿に注文をつけてしまい、ご気分を害された点は重ねてお詫び
します。

合掌 ありがとうございます

管理人敬白

5696a hope:2015/09/20(日) 11:37:02 ID:H4pfxWHA

みなさま、こんにちは。

パソコンが使えないので、スマホからの投稿です。

トキさまのおっしゃるとおり、このweb誌友会板では現在生命の実相 第21巻の『甘露の法雨』講義を学んでいます。

テキストに関係のない内容はお控えいただきたいです。

ですが、わたしの所感に対する反論は歓迎させていただきます。

パソコンが使えるようにならないとお返事できませんが…

よろしくお願いいたしますm(__)m

5697純粋教理批判:2015/09/20(日) 11:38:29 ID:DD4jWV6M
>>5678

>生長の家の信仰により環境保護運動をするのであれば、そのような現象に対応するような形ではなくて、
まずは信徒一人一人が「本来罪なし」の「実相独在」を自覚し(悟り)、それを人類に伝道していく方法が正道だと思います。

これがホープさんの環境運動にたいする考え方であるようです。教えはイデア論だとわたしは思いますが、ホープさんはイデア論を人類に伝道することでイデア論がつくりだした環境問題は消えると、このようにいっているとわたしにはおもわれます。

環境問題を解決するには、「地球の資源は神が与えたもうたものだ」とするイデア論から人類が脱却するよりほかはない。このことをわたしはいっているのですが、ホープさんはどうも逆の方向を向いているようです。

生長の家では「神は無駄なものはあたえたまわない。原子力エネルギーは神が人類にあたえたもうたものだ」と説くようですが、こうした教えで「神は無駄なものを人類にあたえたまわない。地球の資源は神が人類にあたえたもうたものだ」と主張する人々を教えみちびけるおもえるのはなぜなのでしょうか。

5698a hope:2015/09/20(日) 11:38:39 ID:H4pfxWHA

☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 

第36回 web誌友会 案内 (改訂版)

期間   8月2日〜9月30日まで
テキスト 「生命の實相」第21巻 経典篇 
内容  『甘露の法雨』講義
     
☆ ☆ ☆ ☆ ☆

5699神の子さん:2015/09/20(日) 11:57:37 ID:.f2R09mc
>>管理人も気がつかないまま、おかしな運営をしている、

テーマ?書いてる一人の人の解釈次第じゃないですかそんなの。この板だけは独善会の反対意見書くと「テーマと外れてる!」と他はほったらかしの管理人も一緒に大騒ぎなんだよね?ふしぎなことに。。
一人だけの解釈で、生長の家の本流や本部がおかしいだの、清超先生の悟りは雅春先生の下だの、悟りを開くだの、散々やって、
テーマといわれたら、ずっと生長の家のテーマなんてはずれてるのにね?
ただの疑問ですので。

5700トキ:2015/09/20(日) 12:03:56 ID:ati5bUBw
>>5699

 ご意見、ありがとうございました。

 ぜひ、誌友会への参加をお待ちしております。
「生命の實相」第21巻 経典篇がテーマです。一緒に勉強をしましょう。

 お待ちしております。

5701純粋教理批判:2015/09/20(日) 12:19:33 ID:DD4jWV6M
>ぜひ、誌友会への参加をお待ちしております。

わたしは参加しておりますよ。みなさまのご意見をお待ちしております。

5702曳馬野:2015/09/20(日) 17:53:53 ID:JPiKJZkg

>>5699 お元気ですね相変わらず、非難中傷がとかなんとかあったようですが。

この板だけは≪≪独善会≫≫の反対意見書くと「テーマと外れてる!」と他はほったらかしの管理人も一緒に大騒ぎなんだよね?ふしぎなことに。。一人だけの解釈で、生長の家の本流や本部がおかしいだの、清超先生の悟りは雅春先生の下だの、悟りを開くだの、散々やって、

テーマといわれたら、ずっと生長の家のテーマなんてはずれてるのにね?・・・・おもろい

〝病なし! 迷いなし! 罪なし!〟これが生長の家の根本真理であります。それでは、神様ただ今より眠らせていただきます。6月13日3:30am谷口雅春先生 最後のお言葉――

〝病なし! 迷いなし! 罪なし!〟これが生長の家の根本真理であります。この言葉は自分の事ばかりでなくすべての人を見る時にもその通りでないのですか?

雅宣総裁は罪を犯しているという人の意見を聞きたいものだ。あなた方の心は病あり、罪在り、ではないかと、罪の観念に満たされていないかと。自分の心以外のものは見ることができないと云われる生長の家。「心の影と云うのは現象の事です。影を見て、引っかかったら信仰は落第です。」と云った講師がいた。

試しに妻に訊いてみた、雅春先生の最後の言葉は何かと、ちゃんと答えれたね。教団で生きているが。此の根本真理に照らして『吾恥ずかしいところ一点もなし』という人間に出遭いたいものだ。

5703純粋教理批判:2015/09/20(日) 21:53:58 ID:DD4jWV6M
>>5675

>自分が宇宙の中心である。
いっさいを周囲の空間に現しているのが自分であるのです。

わたしは自分が宇宙の中心であるというよりも自分が宇宙をつくりだしているとおもいます。いっさいを周囲の空間にあらわしているのではなく、周囲の空間をつくりだしているものこそが自分であると考えます。

宇宙はホログラム映像です。ホログラムをつくりだしているのは自分です。空間をつくりだしているのも自分です。70億の人類が70億のホログラム宇宙をつくりだしている。この「自分」をわたしはドリーミングボディと呼んでいますが、仏教的にはひとりひとりが大日如来ということになるでしょう。

>それが分かると、自分は実に偉大なものだという実感が得られるのであります。
そうすると、この自分たち一人一人が宇宙の中心であるといえば、この宇宙には中心ばかりたくさんあるということになって、なんだか変だと思われるかもしれませんが、少しも変なことはない。
無限大の宇宙は、いくらたくさん中心があっても、そのすべての中心をそのまま収容することができるのであります。

ひとりひとりがひとつの宇宙をつくっているわけですから宇宙の中心はひとつです。中心が無数にあるのではなく宇宙が無数(70億)にあると考えるべきかと存じます。

>みなさんは御存知でありましょうが、楕円形には無数の中心があるのであります。
有限の楕円形にでさえ、無数の中心があるとすれば、無限大の宇宙に、たくさんの中心がありうるというのは当然のことであります。

楕円の中心は・・・。

>無限大の実相の宇宙においてはわれわれおのおのが中心なのである。

実相の宇宙においては、人間は宇宙大の大きさに広がっているのではないでしょうか。「おのおのが中心」ではなく「おのおのが全体」なのではないでしょうか。

雅春先生の教えを正しいものとして物事をつきつめていくとかならず矛盾につきあたります。宇宙には中心が無数にあるとする考え方では、ホログラム宇宙のなかにホログラム人間が無数に存在することになり、ホログラム人間がホログラム宇宙をみている、つまりは映像が映像をみているといった事態をどうしてもまねいてしまいます。

5704トキ:2015/09/20(日) 22:20:16 ID:LtlCeku.
>>5703

 純粋教理批判様のご意見は、たぶん、宇宙論で言う「多元的宇宙論」という発想を
パラレルにしたものかと思います。そういう可能性があること自体は肯定も否定もし
ません。でも、多元的宇宙論にしろ、ホログラフにしろ、人間の三次元的な発想でい
けば矛盾はあるかもしれませんが、4次元以上の発想でいけば、矛盾がないわけでは
ないと思います。(まあ、そこまで行くと、ぶっ飛んだ世界になりますが。)

 多元的宇宙論にしても、生長の家で言う「現象」ですから、その限りではあくまで
も「現象」の世界になります。映像が映像を見ている、という例えも、あくまでも
三次元的な制限の上での例えですから、申し訳ありませんが、私は少し違うと思って
います。

 よく現象というと、映画のマトリックスに出てくる妄想のような、頭脳を制御された
幻のような印象がありますが、実際には、それ自体もないと想像をしています。

 おそらく、現在の人間の置かれた状態は、そういう多元的な世界観でいけば、まだ
初歩の段階でしょう。しかし、そういう初歩の段階をクリアーすることが私たちの
義務ではないかと考えています。

 エコロジストが、Think globally, act locally と言っていますが、実相のあるべき姿
を追求するのが一つの義務としたら、置かれたその場で精一杯生きるのがもう一つ
の義務だと思います。

 小さな、些細なことが大事なのは、そういうことだと思いますね。

5705純粋教理批判:2015/09/20(日) 23:13:52 ID:DD4jWV6M
「多元的宇宙」がマルチバースをいっておられるのであれば、わたしがいっていることとは無関係です。それとも量子力学の多世界解釈をいっておられるのでしょうか。もしそうであればこれもちがいます。多元的宇宙とはなにをいっておられるのでしょうか。パラメーターの数をいっておられるのでしょうか。

わたしはDブレーンについて語っております。もちろん専門的な知識があるわけではありませんが、理論物理学者のマルダセナによればDブレーンにおける、おそらくはひもどうしの相互作用によってホログラム映像がつくられる可能性があるということです。

ホログラム映像がつくられるとして問題は誰がそれをみているのかということです。ホログラム映像は人間の映像をつくりだすはずですが、こうした映像人間がホログラムをみている可能性はないということです。ではいったい誰がみているのか、トキさんはいかがお考えになられますでしょうか。

もちろんホロクラム映像はドリーミングボディ(大日如来)がつくりだす夢のようなものであるはずなので、トキさんがいっておられるように実体はもちろんないものと考えます。

いずれにしても問題は、誰が何をどうやってみているのかということです。理学部出身のトキさんにはぜひともこのあたりの見解をお聞かせねがいたいものです。雅春先生の御文章ではこのあたりがまったく語られておりませんので、できれば雅春先生の御文章にもとづいた見解をおねがいいたします。

5706トキ:2015/09/20(日) 23:27:48 ID:Uri1CqDQ
>>5703

 追伸です。

 難しい論考ですが、宇宙の中心が自分である、というのは、おそらく認識の場では
そうなんだと思います。多元的な宇宙観というか、宇宙のあり方については、まだ確定的
な定説は存在しません。しかし、仮にそれを前提にして考えます。そこで、多元的な宇宙
をマルチバースと呼ぶ事にすると、マルチバースが存在するような空間が存在するとし、
そういう場所がある以上は、そこに中心はあり得ます。それは、おそらくは宇宙意思とも
言うべき存在でしょうが、宇宙意思と密接に繋がっている以上は、確かに、それをもって
宇宙の中心と考える事は可能だと思います。

 しかし、それをもって、宇宙全体と考えるのが適当か、どうかは私は違うような印象は
あります。もちろん、それは否定するまではいきません。考えようによっては、宇宙の
中心でもあり、宇宙全体とも考える事も可能だと思います。

 要は、人間が三次元というレベルで宇宙を表現する以上は限界があり、それはそれで
仕方がないです。その上で宇宙を表現しようとすると、やはり齟齬は生じるのかもしれ
ませんね。

 ただ、それをもって、宇宙の中心である、ということを否定するまでにはいかないと
思っています。

5707純粋教理批判:2015/09/20(日) 23:34:11 ID:DD4jWV6M
雅春先生の御文章は最初のほうだけを読むと現象宇宙について語っておられるようですが、最後のところではいきなり実相宇宙の話になっております。いったいどの宇宙の話をなさっておられるのでしょうか。

また「映像が映像をみている」は三次元に限定されるとのことですが、これを多次元に拡大した場合にはどのような考え方がふさわしいとおもわれるのでしょうか。後学のためにもぜひともご教示ねがいたいところです。

それとマルチバースではなく今あるこの宇宙、ユニバースに限定して話をすすめていただければとおもいます。

5708トキ:2015/09/20(日) 23:38:54 ID:v4x/1O0A
>>5705

 先の投稿は、5704の投稿を拝見しないままだったので、失礼をしました。
純粋教理批判様の言われている事がまだ理解をしていませんので、的外れな点はお許し下さい。

 イメージとしては、私は、スパコンの中の世界が近いのではないか、と想像しています。
スパコンで、生命体の生理作用をシュミレートしたり、気候変動のシュミレートをしたりします。
外部に見せる時にはモニターには映し出しますが、部内で情報を処理する場合では、そういう事
は一切しません。精密講習会で、谷口雅春先生は、実相世界とは具体的な世界だ、と言われてい
ましたが、スパコンの中の情報に近いものが、実相世界のようなものではないか、と想像をして
います。

 谷口雅春先生がそれについて語られているか、という点は私は知らないのですが、おそらく
ご存知であっても、それほど語られていなかったという予感はあります。

 明日は早いので、今日は寝てしまいますが、難しい問題なので、少し思案します。
ご投稿に深く感謝申し上げます。

5709純粋教理批判:2015/09/21(月) 08:12:23 ID:DD4jWV6M
わたしの記憶では、マルチバースはインフレーション理論でもあったはずですが、この理論は旧ソビエトの科学者が考えていたもので、したがって西側に知られたのは冷戦終結後ですから、雅春先生がマルチバースについて語っておられる可能性はないとおもわれます。

話をユニバースに限定いたしますが、わたしが問題にしておりますのは、ユニバースのホログラムはひとつなのか複数なのかということです。雅春先生はひとつであると考えておられるようです。

ひとつとすると、人類はホログラム宇宙(ユニバース)にあらわれたホログラム映像ということになってしまいます。それぞれの人がホログラム映像ということになります。雅春先生はホログラムとしてあらわれた映像人間を宇宙の中心といっておられることになります。

ここで問題が生じます。このホログラム映像をみているのは誰かという問題です。この考え方ですと、それぞれの映像人間がホログラムをみていることになります。ホログラムとしてあらわれた映像人間がホログラム宇宙をみていることになります。これがわたしのいう「映像が映像をみている」状態です。

映像が映像をみる。これはありえない。それぞれが宇宙の中心とされる雅春先生は「映像が映像をみている」といっておられることになります。

5710純粋教理批判:2015/09/21(月) 09:36:09 ID:DD4jWV6M
わたしは宇宙はひとつでもホログラムは複数であると考えます。70億の人類がいれば70億のホログラム宇宙があると考えます。ここが雅春先生とのちがいです。

ホログラムをつくりだしているのは人間です。人間が大日如来です。

5711トキ:2015/09/21(月) 10:40:56 ID:1YpTHrO6
>>5710

 お返事が遅れてすみません。

 今、思い出したのですが、10年以上前、新聞に変わった死亡広告を出した人がいました。

 趣旨は、確か、

 「自分は無宗教であす。だから葬式はしない。と、同時に、今、見えている世界は自分が存在する
限りは見えているが、自分が死んだら消滅するのではないか、という疑問をいだいている。それを検証
したいので、自分が死んだら、自分がこういう事を考えていた、という広告を新聞に出すようにと、私
の家族に遺言として残した。」

というものだったと記憶しています。

 どうやら複数の新聞に掲載されたみたいで、中外日報が後日、記事にしていたのも読みました。
宗教という観点から、参考になる内容だったのでしょう。

 私がそれを読んだ、という事は、ホログラムの世界が単一である、という証明にはならないが、一つ
の資料にはなるかもしれません。(笑) どなたか、お時間のある人は中外日報や他の新聞社に尋ねて
みてください。

 上の話は、ホログラムが複数あるという考えは、昔からあった、ということでしょう。
でも、その証明は容易ではない、ということも示すものだと思います。

 それはともかく、天使の言葉の中には、「百万の鏡をおけば 一個も百万の姿をあらわす」という
言葉があります。谷口雅春先生が、ホログラムが一つなのが70億なのか、という点については、おそら
くは、その中間のような理論をお考えではなかったのではないか、と勝手に想像をしています。「一即多」
ということがそれではないかと考えています。

5712純粋教理批判:2015/09/21(月) 11:06:46 ID:DD4jWV6M
誤解があるようです。70億の人類が70億の宇宙をつくっているとすれば、個人がつくりだしているホログラムはそのうちのひとつにすぎません。これが消滅したところでほかの人たちがつくりだしているホログラムが消えるわけではありません。

5713純粋教理批判:2015/09/21(月) 16:09:18 ID:DD4jWV6M
宇宙がただひとつのホログラムでできているとすれば、あるひとりの超越者によってそのホログラムはつくられたことになります。人間もまた超越者によってつくられたホログラムのひとつということになります。

超越者によってつくられた映像に人間の意識がやどった、それが宇宙の中心としての人間である、とするのが雅春先生のお考えのようにおもわれますが、このようなモデルで映像に意識がやどる仕組みが説明できるでしょうか。人間の持つ多様な要素が説明できるでしょうか。人間関係がなぜ生じるのか、その仕組みを説明できるでしょうか。

たとえば脳には複雑な機能がありますが、それらの機能がいかにして映像に組み込まれたのかの仕組みがこうしたモデルでは説明できないでしょう。ただひとつの可能性は、超越者ではなく人間が共同でひとつのホログラムをつくりあげた、とする可能性であるとおもわれますが、これでは肝心の映像が個人を離れたところにつくられてしまい、人間は離れた場所からそれをみているだけ、ということになりはしないでしょうか。

ホログラム宇宙は人間のなかにつくられなければならない。人間は宇宙の中心でなく宇宙の作り手である。ホログラム宇宙は人間のなかにある。これがわたしの考えです。

5714純粋教理批判:2015/09/21(月) 16:12:51 ID:DD4jWV6M
ホログラム宇宙が人間のなかにあるとするのは独我論ではないか、との批判をうけそうですが、もちろん独我論ではありません。独我論であれば「自分だけが宇宙をみているのではないか」といった不安をまねきかねませんが、わたしがいっているのはこういうことではありません。

宇宙にはただひとつの実体があります。その実体における出来事を人間は、各人がつくりだしたホロクラム映像で体験している。わたしがいっているのはこういうことです。

実体?それはイデア論だ!いえいえ、ちがいます。

ここでいう実体とはDブレーンです。Dブレーンは平面ということにしておきましょう。このDブレーン上に平面世界がある。ご存知のようにこれがブレーンワールドです。人間は平面世界であるブレーンワールドの出来事や体験をホログラム映像へと変換することで立体的世界をつくりだしている。わかりやすくいいますと、ブレーンワールドの出来事はそのままでは体験できないので人間はそれを立体化して体験している。これがわたしの考えでありますので独我論とはまったく関係がありません。

新聞広告の人物は独我論に陥っていたのでありましょう。たしかにこういう考え方なら古くからあります。トキさんは、わたしの考えをこれと同列のもとみなされたようですね。

5715純粋教理批判:2015/09/21(月) 16:45:28 ID:DD4jWV6M
ブレーンワールドの出来事はカオスそのものです。これを立体化したところでカオスはカオスです。カオスをコスモスへと変える必要があります。言葉の出番です。言葉にはカオスをコスモスへと変える力があります。

「カワ」と呼んだことで川があらわれた。カオスがコスモスへと変わる瞬間です。言葉がカオスをコスモスへと変えた瞬間です。言葉がなければ人間はカオスをコスモスへと変えることができません。カオスを「カワ」と名づけた瞬間から人間はコスモスの世界の住人となります。

5716純粋教理批判:2015/09/21(月) 16:58:03 ID:DD4jWV6M
「物質はない」は絶対的真理でもなんでもありません。すべての物質は言葉でつくられています。ないのがあたりまえです。

5717トキ:2015/09/21(月) 18:22:31 ID:1YpTHrO6
 用事で出かけていました。

 Dブレーンについては私は詳しく知らないので調べている段階ですが、ある特殊な
状態で存在するものみたいです。議論されているのは、例えば、10次元とか23次元
とかの存在を前提にしている場合、人間が3次元以上の存在を認識できない理由がまだ
説明ができていないみたいです。ただ、それを現象か実相か、と言うと、私の個人的な
解釈では、やはり現象の世界になると思います。もちろん、実体を現象と理解したら、
純粋教理批判様のおっしゃる通りになるのかもしれません。

 あと、私の個人的な印象ですが、ここで言う「言葉」とは、特定の言語とかいう意味
ではなくて、もっと広い意味、例えば、プログラムに近いような気がします。

 議論から外れますが、谷口雅春先生は、この実相のあり方について詳述はされていな
いと思います。その理由として、生長の家が誕生した昭和の初期は、まだ、ユークリッド
幾何学とニュートン物理学が力を持っていましたから、現在のような理論物理学は世間に
広まっていなかった、という理由があります。

 同時に、谷口雅春先生は、個人の悟りや社会の改善など、いわば「実践」の立場に力
を入れられました。青年の書で、はし書きで、霊界について青年が興味を持ちすぎること
は良くない、と言われていますが、現実世界からの乖離を恐れられたみたいです。その
例で言うと、「実相」があり、それについての基本的な知識だけで十分である、という
のが谷口雅春先生のお立場かと思います。

 さらに、これは私の憶測です。出口王仁三郎さんが、霊界物語で、自分の知識の全て
を開陳することは、神様から禁じられている、と書いています。私は、この実相論につ
いては、実は、それもあるような気がします。

 ただ、Dブレーンはについては、今後の研究により物理学に大きな影響を与える可能
性がありますが、現象と理解するべきだと個人的には思っています。ただ、将来、実相
と現象の間の橋渡しになる部分の説明になる可能性は、否定できないかもしれません。

5718純粋教理批判:2015/09/21(月) 19:31:09 ID:DD4jWV6M
実相とはなにかといっても定義不可能というのが実情でしょう。言葉とはもともと定義不可能なものであり、それを定義した気になって物事を判断するところに排他性や暴力性が生じます。実相独在といったところで外部があるのかないのか、どこまでが実相でどこからが現象なのか、それさえも決定不可能です。

ところで言葉ですが、実相の言葉はおそらくプログラムでありましょうけども、人間が用いる言葉はプログラムではなく「物事を分離させる力をもつもの」と解すべきではないでしょうか。脳のニューロンになんらかの作用をおよぼすものではないかと個人的には考えております。

マルダセナのホログラフィー理論ですが、今のところは3次元空間によく似た空間という制限があるようですし、理論が成り立つ条件としてドッジッター空間とか反ドッジーター空間とかといわれても素人にはまるでわからない世界の話です。

楕円の中心の数がそうであるように、雅春先生の御文章はけっこういい加減なことが書かれているようです。信じるか信じないかの問題であるのならともかく、「宇宙の仕組み」、「世の中の仕組み」、「人間の仕組み」を問題にしようとするときには、こうしたいい加減さが混乱をきたす原因となります。

5719純粋教理批判:2015/09/21(月) 19:45:26 ID:DD4jWV6M
邪悪なまでに難解とされるジャック・ラカンの哲学ですが、ラカンに言わせれば「これ以外の方法で語ることは彼らが許してくれない」となるようです。「彼ら」が誰かはラカンのみが知るところなのでしょうが、「神は無駄なものはつくりたまわない」などと何でもありの言説をふりまわす某御指導者様とは雲泥の差という気がいたします。

5720トキ:2015/09/21(月) 20:30:43 ID:1YpTHrO6
 うーん、このあたりは少し純粋教理批判様と認識が違うところだと思います。

 人間は、確かにそれなりの知識や知能を持っており、科学は発展していますが、
では、人間の認識している世界は、まだプリミティブな段階だと思っています。
その段階の人類に対して、実相の存在を説くのは大事ですが、一即多のあり方
など詳細に説くことが有益か、どうか、という議論があり得ると思います。

 幼稚園児をつかまえて、大学で習う内容の学問、例えばシュレジィンガーの
波動方程式を教えても、理解することなど不可能でしょう。ただ、幼稚園を
出て、ずっと大人になったら、大学という学校があり、そこでは難しい学問
を勉強する、という程度の説明をしておくだけで必要にして十分かと思います。

 谷口雅春先生が生長の家を始められたのは、純粋に「神学」の体系を作る
ためではなく、信仰を通じての人類の救済だと思います。これは谷口雅春先生
だけではなくて、釈尊でもキリストでもそうだと思います。それが後年になり
弟子が体系化して学問にしたのでしょうが、教祖自体はそういうことにはほぼ
無関心だったと思います。

 例えば、経営者なら経営の問題で四苦八苦しているでしょうし、家庭不和や
学業不振で悩んでいる人、病気で苦しんでいる人もいます。人生の意義につい
て苦悩している人もいるでしょう。

 そういう人達の救済がメインの目標であって、教学の理論化という点につい
ては二の次であった、という点が言えるのではないか、と思います。

(つづく)

5721トキ:2015/09/21(月) 20:36:06 ID:1YpTHrO6
 あと、よく宗教者の言動の不一致という点が世間から言われますが、これは実際に
活動をしている人間から見たら、驚くに当たらないと考えています。

 例えば、私はヒラの信徒ですが、もし生長の家の講師の試験で、「地獄があるか?」
という質問にイエスと答えたら、落第でしょう。しかし、自殺する直前の人間に対して
「自殺したら地獄へ落ちるぞ!」と脅したことは責められるべきではないと思っていま
す。

 釈尊でもキリストでも、対機説法というテクニックを使います。その場合、理論的な
整合性よりも結果の妥当性が重視されます。もちろん、それに不満を感じる人がいるの
は否定しませんが、私はそれを肯定します。

(つづく)

5722トキ:2015/09/21(月) 20:55:39 ID:1YpTHrO6
 例えば、Dブレーンにしても最近、ようやく証明されたもので、詳細についてはまだ議論の余地があるものだと
思います。実相とは宇宙創造の根源の存在と言えば、現段階ではそれで必要にして十分だと思います。

 純粋教理批判様の仰りたいことを煎じ詰めると、要するに、実相については詳細もわからないし、定義も不可能
なのだから、それを拝むことは意味がないし、危険である、ということかと思います。

 これに対しては、現段階の人間では、そこまでは不可能だし、その必要もない、ということを私は考えます。
人間も科学も、まだ、プリミティブな段階だから、というのがその理由です。

 ただ、神様をネタに戦争をしたり、テロを起こす人間がいます。それはそれで、政治学や宗教学の問題であり
ます。昔、ビタミンBを発見した人が、これだけは戦争に使われないだろう、と思っていたら、後で潜水艦の
乗組員がビタミンBを使って長期の作戦行動を可能にしている、という話を聞いてショックを受けた、という
記事を読んだことがあります。同じことで、信仰ですら、人間のエゴの道具になりえます。しかし、それでも
ビタミンBの存在価値には変わりはありません。それと同じことです。

 要は受け取る人間の側の問題だと思っています。

5723純粋教理批判:2015/09/21(月) 23:22:49 ID:DD4jWV6M
問題は中心化された個人です。自分を世界の中心とみなす中心化された個人、これが問題です。

中心化された個人は自分中心にしか世界をみない。すべては自分の心の影。自分が正しいと信じるものが真説で、そうでないものは虚説。自分中心に真理を理解した気になって、自己満足でしかない言説を周囲にふりまく。問題が起こればなぜそれが起こるのかを深いところまで考えようとはせず、自分が信ずるものを広めさえすればそれですべての問題が解決するとのご託宣。あげくの果てには自分の言葉を真理と思い込んでなんでもありの言いたい放題。おのれの主観にとじこもって客観性はかえりみない。雅春先生までもが人間は世界の中心と説いておられる。

>純粋教理批判様の仰りたいことを煎じ詰めると、要するに、実相については詳細もわからないし、定義も不可能なのだから、それを拝むことは意味がないし、危険である、ということかと思います。

中心化された個人にお灸をすえる。誰かがやらねばならぬことでしょう。

5724純粋教理批判:2015/09/22(火) 08:54:00 ID:DD4jWV6M
>要は受け取る人間の側の問題だと思っています。

問題が生じたとき、なぜそれが起きたのかとは考えない、教理を広めさえすれば問題は解決する、このように考えるのが宗教です。ようするに「ものを考えない人」をつくりだすのが宗教なのです。

宗教のなかでものを考えようとする人と考えようとはしない人との対立が起きたときに、考えようとはしない人をいかにして正当化するか。トキさんがなされたいのは結局こういうことでしょう。

ものを考えない人は自分中心にしかものごとをみることができないでしょう。自分中心にしかものごとを判断できないでしょう。すべては心の影。ものを考えない人はこうやっていともあっさりと自分を中心化してしまえるようです。「受け取る人間の側の問題」ではなく「受け取る人間の側に問題」というべきでしょう。

教理の体系化はなぜ必要なのでしょう。それは中心化された個人の勝手な解釈をなくすためであるのかもしれません。

5725純粋教理批判:2015/09/22(火) 10:00:49 ID:DD4jWV6M
Dブレーンをもちだすと科学的考察の問題がでてまいりますので、これは取り下げます。代わりに持ち出したいのが、プラトンが語ったコーラです(コーラについては以下を参照)。

http://www.kuniomi.gr.jp/geki/iwai/cola01.html

実相と現象のあいだに位置するのがコーラです。コーラは生成の場です。実相を現象へと変換する生成の場でもあるようです。コーラはわたしがDブレーンを持ち出して語ったことを裏づけているかのようですが、実際にはDブレーンを超えています。

>コーラという哲学概念のうちに、私たちは神以前のスピリットの活動を感じ取ることができる。

ここでいう「スピリット」を「外部」と置き換えれば、上記の引用は「私たちは実相以前の外部の活動をコーラに感じ取ることができる」と言い換えることができます。これが、わたしがこちらで述べてきたことです。

コーラを感じ取れるかどうか、これが問題です。コーラを感じ取るにあたって必要となるもの、これをわたしは「一回かぎりのカテゴリー」とこちらでは呼んでおります。

5726純粋教理批判:2015/09/22(火) 10:31:04 ID:DD4jWV6M
プラントといえばイデア論ではないのか。

もちろんイデア論ですが、プラトンともあろう人物がイデア論という単純きわまりない思想を信じていたとはとてもおもえませんね。

イデア論は、ヘラクレイトスの生々流転する世界とパルメニデスの永遠不滅の世界の調和をはかるためにプラトンが編み出した思想とされていますが、問題はこれに外部がくわわるかどうかです。外部がくわわらなければこれはただのイデア論です。

5727トンチンカン:2015/09/22(火) 11:03:40 ID:z9V4A.MQ

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
スゴイですね!! この『哲学』みたいなもの・・・ (曳馬野ご一統)

『生命の實相』に替わる、「マサノブ教」用≪聖典≫作成の 「下書き」 でしょうか?
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

5729曳馬野:2015/09/22(火) 11:23:04 ID:JPiKJZkg

>>5727

ここは誌友会版なんだよね。昔の高校生錬成には所謂左翼系の考え方をする高校生も来たのです。そして座談会になるとただ神の子の話がよいとして参加するレベルの信徒では話にならないような質問が出たこともあるのです。つまりあなたの言う又分派の言う虚説に対し話し合いがもたれたのです。

標語専門でなく虚説であるというのであれば、相手に受け入れられる説明が必要なのです。そういう意味であなたの態度は誌友会参加者としてはあまりにひどいと云わざるを得ません。話をするという態度ではないのです。ただ単に≪ダメ≫というイメージの擦り込みに忙しいだけの人間と認めざるを得ません。

5730トキ:2015/09/22(火) 11:24:23 ID:CeKYIz4g
純粋教理批判 様

 ご投稿、ありがとうございます。おっしゃる通り、教義は必要です。
もっとも、教祖がご存命の間は、教義の必要性は低いかもしれません。
しかし、教祖が亡くなられると、結局は教義しか頼るところがなくなります。

 釈尊の場合は、ほぼ口述での伝承でしたが、後年に至り釈尊の教えをまとめる必要があり、それが第1次と
第2次の仏典結集になりました。しかし、それが後年に至り、仏教の分裂の原因になったと言われます。

 キリストの場合は、逆で、何回かの公会議で聖書が淘汰されたことが最近になってわかっています。
その結果、教会の組織は長年統一は守られましたが、実際にキリストが説かれた教えから乖離した内容
になったし、また、異端狩りで多くの人命が失われたのも事実です。

 谷口雅春先生の場合は、ご存命中に著作や講演という形で教えを遺されましたが、それでも現在、分裂に
至っていることは残念なことです。しかし、谷口雅春先生の教えは、基本的な部分には全くブレがありませ
ん。例えば、神想観をしなさい、先祖供養をしなさい、愛行をしなさい、と言った部分には変化はありませ
んし、解釈に違いが出る余地もありません。それ以上に部分の解釈、例えば世界情勢や環境問題については
解釈に対立があります。そこに組織が分裂に至った原因があります。

 おそらく、本流復活派が考えているのは、仏典結集後の分裂した仏教団体のような状態であり、教団が
理想とするのは、公会議後に統一したキリスト教のような存在だと思います。

(つづく)

5731純粋教理批判:2015/09/22(火) 11:58:22 ID:DD4jWV6M
>>5729

たしかにそうですね。誌友会の参加者から教理にかんする疑問が提出されたときに、「生長の家は救済がメインですからそういう疑問には答えないことにしています」では話になりませんよね。

トキさま、いかがでしょうか。

5732トキ:2015/09/22(火) 12:02:57 ID:CeKYIz4g
>>5731

 ご投稿、ありがとうございます。

 例えば、誌友会の参加者から教義に関する質問があったときには、疑問には答えるべきです。
また、私の知る限りは、そういう努力はなされてきたと認識をしています。

5733純粋教理批判:2015/09/22(火) 12:19:26 ID:DD4jWV6M
>例えば、誌友会の参加者から教義に関する質問があったときには、疑問には答えるべきです。
また、私の知る限りは、そういう努力はなされてきたと認識をしています。

こちらの誌友会板でも努力はなされるということですね。

5734トキ:2015/09/22(火) 12:21:09 ID:CeKYIz4g
>>5730

 教祖の想いを考えると、分派というのはさけたいところです。

 ただ、分派が出る余地がないような教義の設定や解釈の強要をすると、行くつく先は
独裁の正当化という世界になるような気がします。しかし、それでも限界はあるでしょう。

 教義の一本化に正当化したキリスト教ですら、プロテスタントやイギリス国教会やギリシャ
正教が生まれています。「個人の勝手な解釈」を撲滅するのは、不可能ではないか、と思って
おります。生長の家も、これから世界規模で拡大すると、国ごとに解釈に相違が出てくるのは
当然に出てくると思います。ましてや、これだけ価値観の多様化した現代では、ファンダメンタル
な部分ではみなさん同じ思考でも、それ以上の部分になり、統一することは無理だと思います。

 その上で、分裂を回避したい、となると、これは組織はファンダメンタルな部分にのみ特化し
それ以上の部分では、「個人の勝手な解釈」を認める、という方向しかないのではないか、と
感じております。

5735トキ:2015/09/22(火) 12:24:48 ID:CeKYIz4g
>>5733

 努力はします。ただ、必ずしも期待できる返答があるとは限りません。

 うのはな様が、ここの管理人は無能だ、という正しい指摘をされています
が、能力の限界はあります。それもかなり低いですよ。

例えば、戦前の生長の家の云々という質問だと、ここではなくて、別の人
への質問のほうが適当かもしれません。

 また、マニアックな内容のやりとりだと、長期に至る場合は場所をかえ
てゆっくりと対話をしたほうが良いかもしれません。

5736トキ:2015/09/22(火) 12:29:01 ID:CeKYIz4g
>>5729

曳馬野様

 私自身は、「虚説」という表現を使ったことはありません。が、教団発表する教義についての
批判をする意見の中には、的確な内容のものがあります。それに教団側がまともな回答をした事
は知りません。

 先日も、某教区で、教団の幹部が現在の総裁の方針の正しさを説明に地域の会合にこられたの
ですが、出席者から矢継ぎ早の質問をされ、右往左往し、ついに、

 「実は、私もよくわからないのです。」

と告白していました。

5737トキ:2015/09/22(火) 12:29:54 ID:CeKYIz4g
>>5736

 ここは、やはり、教団側も「虚説」との批判には、丁寧に説明をするべきだと思います。

5738トキ:2015/09/22(火) 12:56:50 ID:CeKYIz4g
>>5725

 Dブレーンの話題を引っ込めてくださり感謝します。

 何せ、Dブレーンを勉強しようと思ったら、相対性理論や量子力学の勉強からやり直す必要がある
とのことで、純粋教理批判様は頭が良いので簡単に理解できるでしょうが、私は返答がいつできるか
不明な状態だったのです。(笑)

 コーラの話ですが、私もまだ十分に理解をしているとは思いません。ただ、神以前の存在という
のですが、ここに言う「神」とは第2義の神と理解すべきなのかもしれません。第1義の宇宙創造の
神様以前の存在だとしたら、人間が認識ができる存在なのか、どうか、という疑問を感じております。

 しかし、それはそれで、否定するまでの見識を私は持っていないので、一応は肯定したとします。

 このコーラの話とか、あるいはスピリチュアルな世界から、宇宙も、地球も、その構成物である
鉱物や自然も神の表れである、という発想自体は、谷口雅春先生は否定されていなかったと記憶し
ておりますし、私も否定するつもりはありません。が、私は優先順位については、かなり強く主張
します。おそらく、谷口雅春先生もその点は否定されないのではないか、と勝手に考えております。

 例えば、人間でも、法律ではどの人間も同じ価値を持つとされています。しかし、主観的には、自分
の親兄弟と赤の他人では、同じ人間でも、重さは当然違います。生物でも、人間と人間以外の生物は、
スピリチュアルな観点では同等かもしれませんが、人間の視点からは当然に違います。いや、それは
間違っている、という反論はあるかもしれませんが、そうなると、もう、元禄時代の「生類憐みの令」
の世界になります。そういう世界に普通の人は住みたいとは思わないでしょう。

 生長の家の信仰は、あくまでも普通の市民生活をしている人間の生活を対象にすべきだと思います。

 確かにスピリチュアルな世界観を徹底したら、私の考えは否定されるべきなのでしょう。しかし
人類はまだプリミティブな段階というべきで、そんな高尚な段階にはまだ至っていないです。法律に
詳しい人に尋ねると、動物と人間を救助するべき場面で動物を救い、人間を見殺しにすると、現在の
刑法では殺人や遺棄罪などの犯罪になるそうです。もちろん、純粋教理批判様がそういう主義でこれ
から生活をする、というのなら、それは純粋教理批判様の自由ですから、止めませんが、おそらくは
他の人の共感は呼ばないでしょう。

 ただ、無制限な環境破壊などは肯定されないのは当然で、それはそれで、スピリチュアルな世界観
やコーラの話で正当化されるとも思っています。

5739純粋教理批判:2015/09/22(火) 13:56:13 ID:DD4jWV6M
トキさま

>ここは、やはり、教団側も「虚説」との批判には、丁寧に説明をするべきだと思います。

教団は何が虚説だと批判されているのですか。

5740純粋教理批判:2015/09/22(火) 14:12:02 ID:DD4jWV6M
>純粋教理批判様がそういう主義でこれから生活をする、というのなら、

「そういう主義」とは何でしょうか。わたしの主義をあえていうなら「人類ほんらいの能力をとりもどす」という主義です。あらためてたずねますがわたしがどこで「そういう主義」を語っておりますでしょうか。

それと第一義、第二義といった型にはまった応答は避けるべきでしょう。コーラはこのような単純な話で片づけられる問題ではないと考えております。生長の家の人は決まりきった型にどうしても思考を閉じ込めてしまいますよねえ、

5741純粋教理批判:2015/09/22(火) 14:14:25 ID:DD4jWV6M
「個人の勝手な解釈」が「この教えを広めさえすればすべての問題が解決する」や「この教えにしたがわない考え方は虚説である」となったときに、解釈は原理主義とみまがうばかりの危険思想に近づく可能性があるのではないでしょうか。

ユダヤ教のタルムードをご存じでしょうか。これは解釈だけで成り立っているような経典のようなものだろうと推測いたしますが、いつの時代にあっても対立するふたつの解釈があって激しい議論のやりとりがおこなわれるようです。やりとりの様子は両論併記という形でタルムードにつぎつぎと書き込まれていくものであるようです。

解釈とはいっても「個人の勝手な解釈」が許されるわけではなく、解釈の仕方に一定のルールがあり、それをまもることで「終わりなきやりとり」が可能となるようです。ようするに、やりとりを継続するための知恵があるということです。生長の家にそのような知恵があるでしょうか。個人の勝手な解釈による議論を継続できるような知恵が、生長の家にあるでしょうか。歯止めなき解釈、知恵なき解釈、議論なき解釈は解釈の暴走をまねくだけです。

議論ができるかどうか、これが問題とおもわれますが、現状をみるかぎりそれは不可能といわざるをえません。反証不可能な超越項の乱用はつつしむ。説明責任を果たす。議論を継続するためのこれは最低限のルールであるとおもわれます(説明責任をきれいごとで放棄し、反証不可能な超越項による反論しかできない人がいましたよね)。

5742純粋教理批判:2015/09/22(火) 14:18:37 ID:DD4jWV6M
Dブレーンにかんして、わたしはど素人ですからトキさんに勉強していただいて教えていただくつもりです。

5743曳馬野:2015/09/22(火) 14:52:11 ID:JPiKJZkg

>>5738 .>宇宙も、地球も、その構成物である鉱物や自然も神の表れである、という 『発想自体』 は、谷口雅春先生は否定されていなかったと記憶しておりますし、私も否定するつもりはありません。が、私は 『優先順位』 については、かなり強く主張します。おそらく、谷口雅春先生もその点は否定されないのではないか、と勝手に考えております。

確かに 『スピリチュアルな世界観を徹底したら、私の考えは否定されるべきなのでしょう』。 しかし 『人類はまだプリミティブな段階というべき』 で、そんな 『高尚な段階には』 まだ至っていないです。 『   』は私が付けました。


●「発想自体」ですか?実相の大地に降り立ったのだ、と言われているのです。存在の実相を観た上での立教ということになります。この「実相」なる言葉が何を指しているかは、至った人しか解りません。『優先順位』という見方は、この世の森羅万象が分離したものとして存在している、との六識の「差別智」からの見方であり、八識と云われる「実相智」からのものでないと思います。その実相智に至るための行事として「神想観」はあるのではありませんか?色々聖典を読むことは良いけれど、いよいよというところは神想観によらなければならない、と説かれていませんでしたか。トキさんは神想観により究極の存在に至りその上で、この肉体人間がこの世界の経綸の主催者と云われるのですか?

人類は原始と呼ぶべき精神発達段階であり、『高尚な段階には』 まだ至っていないです。これも上の説明と同じで現象を差別智から見たものではありませんか?「人間神の子」「無限の智慧徳相を具す」との生長の家に外れていませんか?

現象のお蔭を与えるべく真理の話をするのは、火のついた家の中で遊びに夢中になる子供を外に連れ出すための方便であると、法華経の喩えを引いて説かれたのではないですか?「すべては与えてある」との世界の体験こそが一番でしょ。然るにお蔭を与えようとしないのは救済の否定だぐらいの感想が在るのは如何なものでしょうか。「神想観」により到る世界の体得が生長の家の目的でないですか?これこそが生長の家の救済でしょう。私も本当には知りませんが、その世界にたどり着いたという人に遇いたいものです。そんな人であれば今の状態を解決するのは容易いものと考えます。

到らない人(こんな日本語にも真理が見えます)同士で話をするのは夢の中で喧嘩していると夢見ているのと同じことでないのでしょうか。このトキさんの言葉には私が思っている生長の家とは大分違うものを感じます。

5744純粋教理批判:2015/09/22(火) 16:43:16 ID:DD4jWV6M
リンクを貼ったさきが間違っていたのか、話がスピリチュアルの方向に向かってしまいました。スピリチュアルにはまったく関心がないので、とりあえず話の矛先をかえていただきましょう

コーラとは生成の場であるとともに外部への通路がひらかれた場所です。Dブレーンをコーラに、ホログラムをドリーミング(夢見)に置き換えていただければ話は通じるはずです。

Dブレーンをコーラに置き換えたことで、直観的にも、体験的にも、想像的にも話せるようになったはずです。生成の仕組みについてはすでに述べたとおりです。

5745純粋教理批判:2015/09/22(火) 16:59:28 ID:DD4jWV6M
個人の勝手な解釈どうしのひらかれた議論。ひらかれた生長の家実現のためにこれを実現しましょう。ルールは、説明責任を果たす、反証不可能な超越項の乱用はつつしむ、これでいいでしょう。

誌友会参加者として質問させていただきます。

「すべては心の影」とはどういうことをいっているのでしょう。

そもそも心とは何なのでしょう。

以上ふたつの質問に答えていただけることを期待いたします。


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