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生長の家 「今の教え」と「本流復活」を考える
382
:
トキ
:2011/06/18(土) 13:43:59
>>380
山ちゃん1952 様
ご投稿、ありがとうございます。
この問題は、やはり体験をされた方でないと書けない部分が多いので、今後も、ご指導をお願いします。
谷口雅宣総裁については、青山学院大学在学中、新左翼運動をしていた、との投稿が「本流復活」の掲示板に
出ていました。ご本人は、「小閑雑感」で、当時の写真をアップし、自分は生長の家の活動をしていた、という
趣旨の反論をされました。続いて、「大論争5」で、生長の家本部には出入りしていたが、持ち物、着るものも
上等で、貧乏な中で活動をしていた仲間を鼻で笑うような高慢な態度だった、という投稿がありました。
このあたり、実態はどうだったのか? という点が気になります。
生長の家政治連盟ですが、当時の政治路線の当時でも、信仰の指導はきちんとされていました。
しかし、今は、信仰よりも、環境という雰囲気で、内部はしらけています。
御指摘の通り、「生命の実相」に今こそ、戻るのが大事だと感じます。
合掌 ありがとうございます
383
:
トキ
:2011/06/18(土) 14:06:47
>>381
初心者様
どのスタンスの意見も歓迎しますから、どんどん、投稿をお願いします。
管理人 敬白
384
:
初心者
:2011/06/18(土) 15:45:07
トキ様、お気づかいありがとうございます。
いろいろと誤解があるかと思いますので、ひと言申しあげます。
わたくしの知るところでは、パースペクティブの問題を最初に提起したのは、仏教中観派の開祖、龍樹でありました。すでに千数百年以前に、パースペクティブの問題は、仏教的な課題として取り上げられていたと理解しております。
パースペクティブに関しましてここで書いておりますことは、そのほとんどが、わたくしの個人的な見解でありますが、仏教的には、はるか昔より取り上げられていた問題であるということを、どうか知っておいていただきたいと思います。
385
:
トキ
:2011/06/18(土) 18:27:51
>>384
了解しました。いつも楽しみに拝見しています。これからも御健筆をお祈り申し上げます。
管理人敬白
386
:
トキ
:2011/06/18(土) 21:29:17
>>378
追伸です。
「生長の家政治連盟とその影響」(仮称)
というネーミングですが、別に「生長の家政治連盟」を批判する内容ではありません。
あらかじめお断りしておきます。わかりやすく言うと、「「生長の家政治連盟」が
現在、教団部内でタブーになっているのは、おかしい、という内容です。
管理人敬白
387
:
初心者
:2011/06/19(日) 12:22:47
義春さんへ
こちらの掲示板はのぞいておられますでしょうか。じつは、フリードリヒ2世について、思い出したというか、思い違いというか、ふと思い浮かんだことがあるので、書くことにいたしました。
義春さまがいわれているフリードリヒ2世は、ドイツではなくイタリアに住んでいたという神聖ローマ皇帝でしょう!破門にしたのはローマ教皇グレゴリウス7世。こういった相関関係が、イマジネーションのごとく浮かび上がってまいりました。ピッタシかんかん?それとも単なる勘違い?
なぜこのようなことがらが浮かんできたのかというと、ベネディクト修道会クリュニュー修道院のローマ教皇庁改革運動について考えておったところ、フリードリヒ2世とグレゴリウス7世の名が、イナズマのごとく浮かんでまいったのでございます。
ただいま宗教改革について考えているところであります。クリュニューの改革運動は、ローマ教皇庁にしてみれば内部からの改革運動でありましたよね。改革論者であったグレオリウス7世が、のちに教皇の座にのぼりつめているのが、そのなによりの証拠であろうかと思います。
ところがそのあとにおこった、ボヘミアのヤン・フスの宗教改革は、あきらかに外部からの改革要請でした。改革を要求したフスは、この当時ボヘミアを統治していた、ルクセンブルク家の神聖ローマ皇帝ジギスムントによって火刑に処せられ、これが原因で、ドイツ騎士団の精鋭部隊が、ボヘミアの農民によって編成された即席部隊によって木っ端みじんに打ち砕かれるという、フス戦争が勃発しました。
フス戦争終了後も、フスの出身地であるボヘミアでは、改革への動きが旧態依然とくすぶりつづけ、フスの火刑の200年後には、ボヘミア動乱をきっかけとしたドイツ30年戦争を引き起こし、神聖ローマ帝国の息の根をとめたウエストファリア条約によって、ようやく改革運動が完了したといってよいかと思います。
このかんに登場したのが、宗教改革のスーパースター、マルチン・ルターでありました。ローマ教皇庁による異端審判が出される前に姿を消したルターには、「暗殺された」という不穏なうわさが流されるようになりました。のちに、うわさを流したのが、ザクセン選帝侯であったフリードリヒ○○候であることが判明します(○○には、真摯、敬虔、あるいは何かこのような言葉が入ると思いますが、失念いたしました。持ち駒だけでは、なかなかに勝負しづらいのだ)。
ところがここで、さらに想像を絶するような事実が判明します。うわさを流した張本人が、あろうことかルターをかくまっていた。こうした驚愕の事実が露見します。ザクセン選帝侯は、暗殺のうわさを流しながら、その裏では、所有するヴァルツブルク城にルターをかくまっていたんですね。
このヴァルツブルク城で、ルターは、当時はラテン語でしか書くことを許されていなかった聖書をドイツ語に翻訳します。このドイツ語訳の聖書が、のちにドイツ語の標準語となります。ルターの訳した聖書は、それほどのインパクトをドイツ語圏の人々にあたえたということです。
ルターは、「聖書に書かれていること以外は真理ではない」といって、免罪符を乱発するローマ教皇庁と、神聖ローマ皇帝カール5世を批判しました。この批判に呼応した、ドイツ諸侯と諸都市が同盟をむすび、ハプスブルク家を標的とするシュマルカルデン戦争へと突入することになります。
いま問われているのは、生長の家の宗教改革であるのかもしれません。「聖書に書かれていること以外は真理ではない」。ルターのこの言葉を、義春さんや、そしてみなさまはどのようにお感じになられますでしょうか。
388
:
義春
:2011/06/19(日) 19:42:03
>>387
初心者さま
こんばんわ!今、見ました!
儂、西洋哲学は苦手でして凄く分かりやすく読ませて頂きました。
それで…う〜ん…どうなんだろうと唸ってます。生長の家に於ては生命の實相なんだろうけど…万教に於て考えるに、よく言われる喩えですが『神という真理の山の道筋に於て、各民族の霊的直感に合わせ幾筋もの道がある』というものからしたら、ルターのその理論は狭義のキリスト教になってるのではないか?…と想うのです。
以後、キリスト教に限定して話を続けます。
私はイエス・キリストの説かれた聖典と、そのキリストによって救われた人達の存在も含めて真理ではないのか?…と想う。
因があれば果もある。それらが一体となって真理となるのではないか?…と。
何故なら、真理は魂を救済するのであるから、その救済された魂も真理、神の栄光の現れなのである…と今、書きながら感じています。
389
:
山ちゃん1952
:2011/06/19(日) 20:07:04
初心者様へ
>近代的知性にどう向き合うかということで、和解、温存、否定・・・<
すいません抽象的な言葉ではわかりません。近代的知性といってもわかりにくいので
具体的な言葉でお願い致します。<
私は和解とか温存とか否定とかいうのではないのです。申し訳ありませんが「妥協」しかない
と思っています。それぞれ各個人での思想とか異なっております。生長の家を信じていても何にを
信じて活動されているのかにより異なります。その点は同一性はありえない。
そこで、どこが和解できるのか、ある一点を除き和解出来ないのか、それとも全てが和解できないのか
違います。
そこには妥協されているかどうかであります。そこに経験などが付加され理解するのだと思います。
1番大切なことはドグマという宗教的な要素を理解しているのかどうかです。たとえば教義に異論がないかどうかでしょう。
それが、その宗教の正当性を見出す要素です。私はそこを問題にしているだけであります。
誰かさんが違う意見を持っていても当り前であります。そんな内容を聞いても「仕方」がない。
そのドグマに異論がありかどうかであいます。
生長の家の重要な教義のなかで「天皇信仰」があります。決して生長の家は環境が教義ではありません。
そして『生命の實相』であります。その中に「天皇信仰」もあり、教義の原点があるのです。
それが異なると「生長の家」は似非になるのです。教義を変えなければいけません。
それならば入信もしていません。
トキ様
1回生の時に少しだけ練成には参加していたようです、左翼的な活動はされていません。
ただ態度が傲慢であり、信仰者としての素質が無かったと聞いています。
私は初期から聞いていますが、生長の家の根本的な真理を言っていたかは懐疑的です。
390
:
トキ
:2011/06/19(日) 22:14:50
>>389
山ちゃん1952様
ご教示ありがとうございます。なるほど、わかりました。
そういう事だったのですね。
合掌 ありがとうございます
391
:
初心者
:2011/06/19(日) 22:42:45
義春さんへ
無理に返信を書かせてしまったようですね。
真理によって救われた魂もまた真理。
義春さんのこの言葉を深く味わおうとしています。
これは、理屈ではなく気持ちや感情の問題でありますよね。
だとすれば、じっくりと味わうしかない。
義春さんになった気持ちで、たっぷりと味わうことにいたしましょう。
「西洋哲学は苦手です」
本当でしょうか?
わたくしも本当は苦手なのです。
だから信じてあげることにいたします。
392
:
初心者
:2011/06/19(日) 22:55:58
山ちゃん1952様へ
カトリックの堕落を見て、大勢の人々がプロテスタントに改宗しました。改宗した人々の心に何がおこったのでしょう。宗教の堕落は矛盾です。矛盾のなかに、人々は共通する何かを見いだしたとはいえないでしょうか。
矛盾のなかに何らかの同一性を見いだしたからこそ、人々は心をひとつにして、新しい信仰に魂のよりどころを求めはじめた。このように考えるのは不可能なことでしょうか。同一性を見いだすこともできずに、それでも人々は心をひとつにできるものなのでしょうか。強大な敵と命がけで戦えるものなのでしょうか。
たとえプロテスタントが同一性を見いだしていたにしても、それでは生長の家はどうなのでしょう。おっしゃっておられるとおり、教団内に生じている矛盾のなかに何らかの同一性を見いだせるのかというと、たしかなことは何もいえません。もしも同一性を見いだせるチャンスがあるとすれば、それはルターのような人物があらわれたときだけなのかもしれません。
「妥協」というのは、誰の何にたいする妥協なのでしょうか。わたくしのいう「和解」とは、弁証法でいうアウフヘーベンのことであり、「温存」とは、「矛盾のなかに同一性を見いだすことを認める」という、わたくし流の弁証法的決着の方法なのです。この掲示板ではこういう論法でこれまで書いてきました。
「和解」と「温存」という言葉を、わたくしは、これまでのところ弁証法に限定して使っています。それ以外の意味で使ったことはありません。もしも「妥協」という言葉を弁証法以外の意味で使ってらっしゃるのであれば、話がかみ合うことはありません。いまいちど吟味していただければありがたく存じます。
ちなみに、近代的知性とは、「戦後の学校教育によって育まれた知性」という意味で使ったものです。今のところ、こうした定義で十分ではないかと思います。
393
:
義春
:2011/06/19(日) 23:35:00
>>391
初心者さま
歴史は好きなんですけど…どうも西洋哲学はキリスト教が下地になってますやん?
それで私は歴史学んでるとキリスト教はどうも好かん様になってしまって、結果、西洋哲学も苦手になってしまった・・・という訳なんです。
だから友人に『義春の考え方は(確か)デカルトだね』とか言われても、いや俺は自分なりに生きやすい考え方をしたら、こうなっただけで勉強してないよ〜としか言えないのです。
どちらかと言うと、私は東洋専門なんですよ。まぁ…食わず嫌いもダメだから、一寸ずつ西洋も勉強してますけど…中々、大変ですよね…。
394
:
山ちゃん1952
:2011/06/20(月) 10:36:15
初心者様
いやいや宗教の堕落は矛盾といっても様々あります。一言ではいえません。
欧米の宗教をここで説明されても駄目だと思います。
「生長の家」においての矛盾を説明されないと広範囲すぎてほかの人はわかりません。
「妥協」というのは書いているように人と対峙するする場合に様々の観点があり、その人なりに
こうですとは言えません。だからこそ「トキ」さんに書いたように教義の部分に集約しての矛盾が
ないかどうかを確認すればいいだけであります。
ここで書いておられる人のなかには矛盾はわかっているのだけれど、今までの様々な付き合いのなかで
断絶できないでいるからこそ迷うのであります。
その断絶は今の「生長の家」は違うからこそ「わかっているから」悩むのだと思います。
それを隠蔽しながら活動されている人も多くいます。
だからこその妥協が必要なのです。どこまで妥協できるかはわかりません。
それでもわからない人もいますし、全く無理な人もいます。
だからこそ妥協といいながら”分派”しかないとも思っているのです。
分派は最初に書いています。
またアウフヘーベン弁証法といっても、それだけの高尚なる哲学と力量が必要です。
アンチテ−ゼとテ−ゼとの統合には其々の感情をどう抑制するかが必要であります。
私はそれしか信じないという人には難航します。だからこそ同一性のテ−ゼが必要であります。
でも、それでもその人にどれほどの寛容があるかが大切であります。
難しいですが、違いを見つけてそれを寛容する精神で包容できるかどうかでしょう。
395
:
初心者
:2011/06/20(月) 11:34:32
山ちゃん1952様へ
いろいろとご教示いただいてありがとうございます。大変に失礼な言い方であるかもしれませんが、山ちゃん1952様にたいしましても、わたくしはようやく、役行者様からいただいていたのと似たようなご愛念を感じられるようになってまいりました(本当に深いご愛念を感じております)。
妥協の意味はわかりました。それで、「教義の部分に集約しての矛盾がないかどうかを確認すればいい」ということですが、たとえば矛盾が生じた場合にこの矛盾をどう扱うべきであると考えておられるのか、矛盾のタイプによってケースバイケースであるといわれてしまいそうですが、基本的にはこの矛盾をどう扱えばよいと考えておられるのか、それをお聞かせいただければと思います。
>またアウフヘーベン弁証法といっても、それだけの高尚なる哲学と力量が必要です。
アンチテ−ゼとテ−ゼとの統合には其々の感情をどう抑制するかが必要であります。
おっしゃるとおりです。適切にアウフヘーベンしてゆくには、高尚なる哲学と、十分なる知識量、豊富なる経験と高き見識、重厚な思考力といったものまでも含めた総合的な力量、それと、ともすれば野放図に展開してゆこうとする感情のコントロールなどが必要になってまいります。とても品性下品(げぼん)なるわたくしごときの及ぶところではございません。
わたくしの主張はつねに「矛盾を条件とした同一性を認めることを許す」という、たとえ凡夫であっても実現可能と思える方向性でございます。簡単に申しますなら、悪が存在しなければ善を知ることはできないという、単純な方法でございます。これならわたくしのごとき凡夫にも到達できる、解決の方法であるのかもしれないと考え、日夜努力しておるところでございます。
また「生長の家の矛盾を示せ」といわれましても、わたくしが今の状況を知ったのは、わずか2、3週間前のことでございます。ただいまあれこれと模索している最中でございまして、その模索の手段として西洋の宗教改革を参考にしようと考えてみたような次第であります。それを否定されたのでは、模索のしようがございません。とりあえずあれこれ考えてみる。下手な鉄砲もかず撃ちゃあたる。現状はそういったところなのでございます。
いずれにしましても、わたくしは、現在の生長の家の問題にかんしましては、まだまだ初見参者のようなものでございます。適切なご教示をいただければありがたく存じます。
397
:
初心者
:2011/06/20(月) 12:08:52
義春さんへ
キリスト教が嫌いというのは同感です。キリスト教に改宗せざるものは悪魔である。改宗せざる異教徒はただちに殲滅せよ。これを神の命令として信じる人々は恐ろしいです。
ルターの宗教改革にしても、神秘学徒であるわたくしの立場からすれば、否定的とならざるを得ません。わたくしは反プロテスタントであり、むしろ堕落せしカソリックに共感をいだくものです。
純粋信仰は恐ろしいです。神が存在すればすべてが許される。これが、一神教的純粋宗教が最終的に行き着く場所だろうという気がしています。堕落せしカソリックのように、聖が俗と一体化できれば、一神教を信じる人々のなかで寛容の精神が養われるものと考えます。
東洋といえば、タオイズムはお好きですか。わたくしは、タオイズムとシャーマニズムに関心はあっても、まだまだ遠い場所をうろついているだけのような気がします。初心者の名称は、じつはシャーマニズムから取ったものなのです。初心とは初発心、「予期されぬ心」という意味なのです。
398
:
ブログ「雅春先生に訊け」管理人
:2011/06/20(月) 13:32:52
>初心者さま
――――――――――――――――――――――――――――
(367貴殿ご投稿文章より)
「現象の悪の背後では神が躍動している」。これはたしかで
あります。「確実に在る」。これもたしかです。ではなぜ、
それが「善が表に出てこようとする衝動」であるにもかかわら
ず、「悪らしき姿」となって見えなければならないのでしょうか?
この「悪らしき姿」が単なる迷いであるとか、転倒妄想であると
かといってみたところで、何の解決にもなっていません。なぜ迷
っているのか、なぜ妄想を抱くのか。つまり「迷い」や「妄想」
にしたところで、これにもたしかな根拠があるはずなのです。
この根拠を明らかにしなければ、真理を説いたことにはならない
と、わたしはこのように考えます。
簡単に申しますなら、現象の悪はどのようにしてつくられるのか、
これを明らかにする必要があるのではないかということです。
「現象はない!」ではなく「現象がなぜあるのか」
――――――――――――――――――――――――――――
一応返答を兼ねまして、雅春先生と倉田百三氏の対話をブログにアップし
ております。
http://blog.livedoor.jp/con5151/archives/65559391.html
・・・貴殿ご提題は「倉田百三氏のそれと同類である」というのが私見な
のですが、いかがでしょうか?
なお、雅春先生のご返信文ですが・・・もう少し時間をください(笑)
なにせ雅春先生ですが、倉田氏の4ページ分の問い合わせに対し、なんと20
ページ分にも及ぶ返答を作成なされておられます(!)しかもこれですが
「ああっ!」てな気づきに溢れたご文章になっておりますんで、まあ、お楽
しみに(笑)
>トキさん
「生長の家政治連盟とその影響」の件、まことにありがとうございます。
当初は「難しい注文ですね」というご返信を頂戴しましたので、私は、
「ああやはり・・・いくらトキさんとは申せ膨大な作業量になろうなあ」
と諦めるところでありました。ですから貴殿新スレ、まことに嬉しい限り
です。
今後熟読させて頂きます。よろしくお願い致します。
399
:
トキ
:2011/06/20(月) 14:11:51
>>398
ブログ「雅春先生に訊け」管理人様
コメント、ありがとうございました。
実は、家には結構、資料は残っているのですが、これを見ると、もう、量がもっと増えるので、
うろ覚えで書きました。さっそく、初歩的なミスが見つかり、訂正する事になりました。ご指摘
下さったエンジェル様には深く感謝申し上げます。
実は、かなり危険な論文を書いたのは承知しているので、最初は気が進まなかったのです。でも、生長の家政治連合には
たくさんの人が関わったのです。あれが無視されているのは、その人達の事を考えると、すごくやるせない想いがありまし
た。その意味で、是非はどちらでもいいから、もう一度、光を浴びせたい、という願いがありました。
まあ、難しいし、読んでも勉強になるのではなく、面白くもないのですが、関係者には、今でも触れれば
血が出るような生々しい話です。
どうも、お返事が遅れて、すみませんでした。
合掌 ありがとうございます
400
:
トキ
:2011/06/20(月) 14:16:09
謹告
生長の家政治連合と「今の教え」を考える
という名称のスレッドをアップしました。内容も難しいし、異常に長いので、別のスレッドにしました。
ご容赦下さい。初歩的なミスが見つかったので、訂正の上、再度のアップです。ご迷惑をおかけした点を
深くお詫び申し上げます。
今日の教団の迷走を考える、一つの説明の仕方です。正解ではないと思っています。ご理解下さい。
管理人敬白
合掌 ありがとうございます
401
:
初心者
:2011/06/20(月) 18:02:02
ブログ「雅春先生に訊け」管理人様へ
大変なお手間をとらせてしまいました。おっしゃられているとおり、雅春先生と倉田百三氏のあいだでかわされた「寂光論争」をひとつの前提として、パースペクティブ理論を押したててみたのはたしかです。この「寂光論争」で展開された内容を見るかぎり、わたくしは倉田百三氏の立場に近いといえなくもありません。
ただこの論争にかんしましては、ほとんど記憶しておりません。「寂光」という言葉だけがやけに印象に残った。この程度の記憶でございます。もしよろしければ、全文の掲載は無理にしても、かいつまんだ内容だけでもご紹介いただければありがたく存じます。
わたくしは、「この世になぜ悪らしき姿があるのか」ということを、できるだけわかりやすく説明してみたいのであります。そのためにパースペクティブを持ち出しました。もちろんパースペクティブが主役というわけではありません。主役はもちろん人間ということになります。
誤解をおそれずにいえば、人間は実相と戦っている、というのがわたくしの主張です。戦いの場が「悪らしき姿」となってあらわれてくるのです。戦いをやめて、実相が出てこようとする力と調和すれば「悪らしき姿」は消える。こうしたきわめて単純な考え方なのであります。
このように考えることで、神が躍動しているはずの世界に悪らしき姿があらわれてくる理由が、きわめてわかりやすく簡単に説明できてしまいます。もちろん、実際に考えておりますことは、これよりはいくらか複雑でありますが、簡単にいえばこのようになるのであります。
倉田百三氏も加わってくださいましたので、話がだんぜん面白くなってきたように思います。倉田百三氏は、「すべてはみ心のままに」と言っておられるようでもありますので、このあたりは、わたくしの主張とは異なっているようにも思われます。いずれにしましても、わたくしのこの主張は変更OKです。そのあたりはフレキシブルに考えておりますので、どうか遠慮なく、ビシビシと直球でも変化球でも投げ込んでくださいますようお願いいたします。
つけ加えますなら、資本主義の暴力性もまた、人類と実相との戦いによって生じているという考え方で説明できてしまいます。人類は、実相が出てこようとする力に徹底抗戦している。その戦いの場が資本主義の暴力性となってあらわれている。このように考えることが可能です。
ここで最初の弁証法にもどることになります。ブログ管理人様がおっしゃっておられますように、実相と調和して戦いをやめた人々であれば、矛盾を前提としない神の同一性の認識が可能となりますが、そうではなく、戦いを続行中の人々にとりましては、矛盾を条件とした神の同一性の認識だけが可能となる、ということなのであります。もちろんこの認識はポジティブなものである可能性もあります(つまり、わかってやっている人がいるかもしれない、ということです)。
402
:
ブログ「雅春先生に訊け」管理人
:2011/06/21(火) 08:57:00
>大変なお手間をとらせてしまいました。
いやこれが不思議な話でありまして・・・なかなか楽しい作業なのです
よ、これが(笑)なにせあの往復書簡ですけど「他書で見たことないよ」
というほどの圧巻さです(少なくとも個人的には)そして、あの内容は
「ほとんどの読書階級が行き着く疑問」だと思っている次第でありまして、
今、全文アップの使命感に燃えております。あの往復書簡が「世界で初め
てWEBにアップされる(しかも全文を!)」という事業です。がんばろう、
オレ(笑)
>おっしゃられているとおり、雅春先生と倉田百三氏のあいだでかわされた「寂光論争」をひとつの前提として、パースペクティブ理論を押したててみたのはたしかです。
うむ、なんで突如、〝実相世界はどんなかたちなの?〟を論点提示された
のか「正直に申せば意味不明」でありました(笑)
>この「寂光論争」で展開された内容を見るかぎり、わたくしは倉田百三氏の立場に近いといえなくもありません。
うん(笑)絶対そうだと思います(笑)と申しますか、普通の読書階級−
特に哲学系−ならば一度は行き着く疑問だとも思います。そして皆、この疑
問に対して良質の回答を与えきれていないと云う・・・私が知る限り、谷口
雅春を以て嚆矢とする次第なんですが。
>ここで最初の弁証法にもどることになります。ブログ管理人様がおっしゃっておられますように、実相と調和して戦いをやめた人々であれば、矛盾を前提としない神の同一性の認識が可能となりますが、そうではなく、戦いを続行中の人々にとりましては、矛盾を条件とした神の同一性の認識だけが可能となる、ということなのであります。
ああなるほどね!そういう意味でしたか。今ようやく気づいた次第という
(笑)
追伸
他のご文章に関してですが・・・「まあ、雅春先生のご返信文を乞うご期
待」とだけ,申しておきます。時間を見つけてアップしていきます。
その雅春先生のご文章を拝読後に、どんなやり取りが生まれるのか期待して
おります。
403
:
ブログ「雅春先生に訊け」管理人
:2011/06/21(火) 09:13:56
>トキさん
<生長の家政治連合と「今の教え」を考える>
今回、愚生が如き浅学の身が「余計な要請」をした事が発端でありました
が、貴殿に於かれましては「いやもう、大変」というのが正直な所であろう
と、このように推察する次第であります。
いや、それにしてもトキさん・・・かなりリスクを取って書いてくださっ
ておられますね(笑)いやー、読み手の私は「おおお、おっ!」みたいな感
じで楽しめております。
・・・まあこの五歳児がなにか申せば「うぎゃぎゃぎゃあ!」なことを言わ
れそうですんで(現段階では)コメントを避けますけど、ひとつ分かった点、
これをご報告致します。
なにが分かったかと申せば、まず、
●私のメンタリティは「初期 谷口雅春先生時代」のものである
というものですね。そして、大勢の方(本流掲示版など)は「中期以降の
メンタリティ」が強いのかなあ、なんて感想を持った次第でありました。
私は『生命の實相』からしか、生長の家と接しておりません。つまり「初期」
に書かれた本を元に、生長の家を把握しているわけであり、そしてその認識を
元に、種々の議論を眺めている次第なのです。
そしてこの私が「なんでそんなことに、皆さん怒るわけ?」な疑問が生じる
のは、「この立ち位置の違いなんでしょう」ということ・・・これが判明し
た次第です。
まあしかし・・・あっ、現段階ではコメントを避けます。これからもこちら
の方の話題も、ご掲載の労をよろしくお願い申し上げます。(本当にありがと
うございます!)
404
:
トキ
:2011/06/21(火) 10:29:49
>>403
ブログ「雅春先生に訊け」管理人 様
ご丁寧なコメント、ありがとうございました。
あの論文は、結構、穴だらけなんです。例えば、「国際平和信仰運動」ですが、谷口雅宣先生が総裁にご就任後に提案、とありますが、実際には、副総裁に就任して、すぐに言い出したのです。後で気がついたのですが、そのままにしておきました。
あと、生長の家政治連合ですが、谷口雅春先生のご真意がわかる文章が、昭和43年10月号の「明窓浄机」に掲載されています。長い文章なので、要約します。
この時、生長の家政治連合は参議院選挙で大勝したのです。
が、谷口雅春先生は、これを期に、信仰優先の組織指導に戻したい、と書かれているのです。組織が政治運動に挺身するあまり、教団から純粋な信仰姿勢が薄れ、そのため、純粋に真理を求める人の中には、失望して教団を去る人も出て来た事実を書かれています。
そのため、聖使命会員も減少した事実等もあげられ、選挙のために組織が相当の無理をしているので、これを危惧されたのです。谷口雅春先生は、政治が宗教からの負債で勝ったのだ、という表現をされています。
「今、私は、今度の参院選で勝利を得て、勝に乗じて尚進んで政治戦に力を尽くすべきか、暫く退いて宗教の純粋圏に止まるべきかについて考へをめぐらすとき、今暫く退いて宗教の純粋圏のサークルをもっと大きくすることに力を尽くすべきだと思わずに
いられないのである。」(p93)
と書かれ,信仰第1の運動方針に戻す事をご提言されています。
私の印象ですが、谷口雅春先生は、生長の家政治連合をされましたが、あくまでも信仰が第1であり、政治などは第2のものとお考えだったようです。
「明窓浄机」はAmazonで1冊6000円から8000円もする本なので、おいそれとも「読んで下さい」と言えませんが、あれは良い本です。
ちなみに、私は、前期 谷口雅春先生時代ぐらいでしょうね。初期 谷口雅春先生時代は、本当に家族的で良い時代でしたが、これだけ組織が大きくなると、無理でしょうね。初期時代を経験された古い誌友さんも、それは話をされていました。
ただ、本当に、あの時代は、今の生長の家とは全然違いました。母親も子供の頃、あの時代を見ているので、「今の生長の家なんかは、谷口雅春先生の組織とは似て非なるものだ」と言い切っていますね。
では、今後ともよろしくお願いします。
合掌 ありがとうございます
405
:
山ちゃん1952
:2011/06/21(火) 14:22:39
初心者様
明恵上人のことですが、昨年10月頃に京都嵯峨の高山寺に行きました。
明恵上人の歌で
あかあかやあかあかあかやあかあかやあかあかあかやあかあかや月
ただ見た月の美しさを現した歌であります。
その歌とともに
くまもなくすめる心のかかやけば我が光とや月おもふらむ
この明恵上人は月の歌をたくさん詠っています。
月の明恵に桜の西行と言われております。
また自然を愛する心は卓越しておられます。
あはれ知れと我をすすむる夜はなれや松の嵐も虫の鳴く音(ね)も
川端康成はノ−ベル文学賞の授与の時、ストックホルムで
雪月花に象徴されるような自然美が日本美の精神であり真髄であるとして、道元や明恵上人、西行、良寛などの歌を通じて説く。例として、良寛の歌を挙げている(p13〜14)。
霞立つ永き春日を子供らと
手毬つきつつこの日暮らしつ
風は清し月はさやけしいざ共に
踊り明かさむ老いの名残りに
世の中のまじらぬとにはあらねども
ひとり遊びぞ我はまされる
その時に川端康成はこの明恵上人を讃えて詠っています。
雲を出でて我にともなふ冬の月
風や身にしむ雪や冷めたき
明恵上人の詠が取り上げられ、明恵上人がいかに自然と融合しているかを川端は語る。和歌とは自然との合一を目指すもの
であると言っているようだ。和歌だけでなく、花にしろ、お茶にしろ自然との合一を目指すものであるとも言っている。
406
:
ブログ「雅春先生に訊け」管理人
:2011/06/21(火) 16:58:02
本日ブログにて、雅春先生のご回答―倉田百三氏宛て―をアップしました。
是非ご高覧あれ、であります。
http://blog.livedoor.jp/con5151/archives/65559793.html
いやー、雅春先生の御言葉をそれこそ、20ページ分書き写し(PCなんで打ち
写し)しましたけど、スゴイ効果ですね(笑)もう今私の脳内は、雅春先生
ご主張(しかも昭和11年ヴァージョン)で一杯です。ええ、原理主義者と言わ
れる方以上の原理主義者と言えるでしょうか(笑)
まあ、素晴らしい機会となりましたこと、皆様に御礼申し上げます。
合掌
407
:
商人
:2011/06/21(火) 20:41:22
我が尊敬するブログ「雅春先生に訊け」管理人さま
本日のブログは実にすばらしく大変な作業だったんだろうとおもいました。
それとトキさんのすばらしい長文で私も生長の家の過去から現在に至るまでの経緯が、
アバウトですが分りました。
どうもありがとうございました。
408
:
初心者
:2011/06/21(火) 22:56:44
山ちゃん1952様へ
「近代は自然状態からのひきこもりによって始まった」というのが、わたしの好きなジジェクの主張ですが、説明がいまひとつ理解できずにおります。コギトを思いついたデカルトが、そのときたまたま、あまりの寒さに耐えかねて暖炉部屋にひきこもっていた、というのが論拠のひとつになっているようです。巨大な頭脳を持て余すような人は、このような些細なことから、重大なる真理に到達できるようでもあります。
現代人が自然状態からのひきこもりを続けているのはたしかなようです。ただし、ジジェクがいう「自然」とは、たんなる自然的世界ではなく、客観的世界の意味を持つようです。客観的世界から主観的世界へのひきこもり?ことの重大さが、わたくしにはまだわかっていないのかもしれません。
ひきこもりとは、言語の問題のようでもあります。言語とは何か?これを追求するのが文学者であるとするなら、川端康成は何らかの回答を用意していたのでしょうか。それとも文学者は、言語ではなく、言語の美を追求するのでありましょうか。であれば、川端康成は、自然の美に言語の美を重ね合わせていたということになります。
はたして言語は、どこまで自然的世界について語ることができるのでしょう。言辞の道といわれる和歌は、自然的世界を歌っているのでしょうか。それとも和歌は、主観的世界を歌っているにすぎないのでしょうか。もしも主観的世界だけを歌っているとするなら、自然の美は主観のなかにだけある、ということになってしまいそうです。
明恵上人は、世界はマボロシだといっていました。たとえそれがマボロシであったとしても、人はそのマボロシから逃れることができないともいっていました。20年以上も前に読んだ本のなかの遠い記憶です。
明恵上人は、それがマボロシであることを知りながら、自然的世界を歌として詠んでいたのでありますね。明恵上人は、どのようなお気持で月をながめ、それを歌に詠んでいたのでありましょう。明恵上人の気持ちがわかれば、わたくしもコギトへのひきこもりをやめられるのでありましょうに。よき知恵をおさずけください。
409
:
初心者
:2011/06/21(火) 23:00:22
ブログ「雅春先生に訊け」管理人様へ
それにしても、あなた様は、どこまで酔狂なお方なのでありましょうか。雅春先生が、霊界からか実相世界からかは存じませんが、「とんでもない弟子があらわれたもんじゃわい」と呵々大笑なさっておられるにちがいありません。
そりゃあたくしでも、「書け」といわれれば、20ページぐらいは書きますよ。でも、「写せ」といわれれば、あたくしは何があろうと拒否いたします。それを楽しくやってしまえるあなた様は、きっとふつうの人ではございません。あたくしは、あなた様を語る言葉を持ちません。ただあなた様を嫉妬するばかりでございます。
あなた様の労作を、嫉妬とともに読ませていただいております。それでも、「あなたと同じような信仰に落ち着いていられる方もおりましょうし」のところでは、思いっきり笑わせていただきました。雅春先生がこのような面白いことをいわれるお方であったとは、ついぞ存じ上げておりませんでした。「落ち着いていられる方」とは、いうまでもなくあたくしのことでもあるのですから。
詳しきことはいずれ機会を見て話すことにして、やはり気にかかるのはパースペクティブでございます。「念のレンズ」とはパースペクティブのことであるのや否や。「寂光論争」から生じたるこの疑問は、いまだ解消し得てはおりませぬ。雅春先生の御存命中にうかがっておくべきことでござったか。
パースペクティブが効いていない世界とはいったいどのような世界なのでございましょう。遠くのものも近くのものも、みな同じ大きさに見える世界とはどのような世界でございましょう。雅春先生がいわれる「天人の充満のせし世界」とは、どの天人もみな等身大に大きく見えて、それで充満しているがごとく見える世界なのでありましょうか。現職員、妻様には、このようなことを本気で考えざるを得ないのが本物のパラノイアであることを知っていただきとうございます。
410
:
現職員、妻
:2011/06/22(水) 09:14:26
初心者さまもいじわるく?ここでもむちの代表にこの名前をあげるのはやめて下さいよ〜
皆さんのように純度の高い思考と霊感をもたないものは、
ぱーすぺくてぃぶなせかいにうもれ、天人を遠く…どころか、
見えもせず…なのですから、お話にもなりません。
411
:
初心者
:2011/06/22(水) 12:21:49
まさか、現職員、妻様に見られてしまうとは(絶句ぅ)。
雅春先生でさえ「玄人好み」といわれる話題なのだから
「絶対に見ているはずがない」と油断しておりましたです。
まあ、対抗心むきだしのパラノイア自慢とでも申しましょうか。
そんな軽い気持ちで、いじわるく書いてしまったでございます。
でもでも、「ここでもむちの代表者みたいにこの名前」というお言葉に、
「う〜ん、わかるなこの沈みこみ感」みたいな気になったです。
おたがい、「劣等感」では、つらい思いをしているようでありますね。
わたくしは、現職員、妻様の文体を評価させていただいておりますのに・・・。
412
:
現職員、妻
:2011/06/22(水) 14:20:14
初心者さま隠れファンは、
案外多いんですよ、
ご注意です
(パラノイアは天才の代名詞と忘れて軽々しく使い、
恐れ多くも聖域を犯す意図?はございませんでした、汗。
初心者様こそふさわしき?お言葉ですので、ご安心を!)
413
:
初心者
:2011/06/22(水) 21:39:06
わたくしは『生命の實相』にふられたものでございます。
なんどか言い寄ってはみましたが、その都度ふられしものです。
いくらページをめくってみても、ストンと入ってくるものが何もない。
奇跡は起きたのか起きてないのか、わからない。
何かが得られたという実感もない。
現職員、妻様は「生長の家を捨てようとした」といっておられますが、
わたくしは、生長の家に捨てられたのです。
ふられた相手にうらみつらみを述べ立てる。
「見返してやる〜ぅ」と切磋琢磨する。
相思相愛でうまくいっている人々に嫉妬する。
ふられたものの考えることとは、だいたいこのようなものでございます。
見返すための、独学がはじまりました。
飢えたチンパンジーのごとく、食えそうなものには見境なく飛びつきました。
何年かの年月がすぎ、気づいたときは、すっかり真理オタクと化しておりました。
「パラノイアとは堕落した理想主義だ」といってる人がいました。
まさにそのとおりだと思いました。
ふられて自暴自棄となったわたくしは、信仰者としての道をはずれて堕落しました。
>初心者さま隠れファンは、
案外多いんですよ
わたくしは、みなさまから見れば、道を踏み外した外道でございます。
そんなわたくしを受け入れてくださる方がおられるのであれば、
こんなうれしいことはございません。
昨日は、ブログ管理人様のおはからいにより、
『生命の實相』の奥義にふれることができました。
少しばかり手応えを感じました。
山ちゃん1952様も救いの手を差し伸べてくださってます。
わたくしはひょっとして回心できるのでありましょうか。
まだまだ道は険しゅうございます。
ふられていじけまくり、
ついには道を踏み外してしまった外道がどこまで回心できるのか。
それが試されているような気がいたします。
414
:
役行者
:2011/06/22(水) 22:39:55
初心者様
お久しぶりですね。
しばらく見ないうちに、状況は一変してました(*_*)ちょっと、待っててください。私も参戦しますので・・・
それにしても、雅春先生に訊けブログ様、貴男には敬意を表します!
トキ様、生政連の問題は生長の家にとって、避けては通れない、必ず解決しなければならない問題です。タケシのテレビタックル、朝まで生討論どころか、一週間徹夜討論をしなければならない逃げられない問題なのです!
生長の家が新生するためにも、近未来に必ず、全信徒でこの踏み絵を踏み、赤裸々に語る日が来なければならないのです!
415
:
初心者
:2011/06/22(水) 23:01:29
役行者様へ
よそで浮気でもなさっておられたのでありましょうか。本当に久方ぶりにお会いするような気がいたします。
今回の「寂光論争」は、わたくし的には、真理の中核に位置する大問題なのであります。わたくしの考え方は、そうとうに倉田百三氏よりでありますが、いささか手の込んだものとなっております。
乾坤一擲、皇国の荒廃この一戦にあり、の覚悟で論争にのぞむ所存であります。とはいえ、誌友会的雰囲気で和気あいあいと語り合ってゆきたいというのが本音でもあります。なごやかな雰囲気で、いと高き真理の味わいを心ゆくまで楽しもうではありませんか、です。
416
:
役行者
:2011/06/22(水) 23:48:54
初心者様。手始めに、お伺いします。
現象世界は矛盾を内包している、だからこそ、神を見いだせる。
矛盾が存在するからこそ、神を観ることができる。
と初心者様は仰っていると思います。
このことに関しては、なるほど、その通りだと思います。
そして、その矛盾は、バースペクティブにより生じた。
神は良しとした。そうですね。ここは、谷口実相哲学からいうと、
認められません。如何に?
417
:
役行者
:2011/06/23(木) 06:43:44
>初心者様へ
先ほどの投げかけを、もっと膨らましてお伺いします。
>この念のレンズをパースペクティブと置き換えることは
できませんでしょうか。パースペクティブのない実相世界に
パースペクティブを効かせる。すると、自と他の違いが生じ、
物事がゆがんで見えてしまう、不完全な現象世界があらわれる。
現象世界のあらわれ方を、このように単純化して考えることが
できるのではないかと思います。
つまり、パースペクティブが現象を生んだことになります。
それでは、パースペクティブはだれが創造されたのでしょうか?
別の言い方をすれば、
>簡単に申しますなら、現象の悪はどのようにしてつくられるのか、
これを明らかにする必要があるのではないかということです。
「現象はない!」ではなく「現象がなぜあるのか」
これだと思います。現象はなぜ存在するのか?
このような内容になると、倉田百三氏との「寂光論争」で果たして補えるのか、どうか・・・
地球という三次元空間、誕生秘話、と話が進んできます。
元に話を戻しますと、まぼろしの現象世界を生んだ
パースペクティブの正体は一体何なんでしょうか?
初心者様はもちろん、雅春先生に訊けブログ管理人様ほか、
皆様。どう思われますでしょうか?
418
:
ブログ「雅春先生に訊け」管理人
:2011/06/23(木) 09:55:27
>役行者さま
わお、突然お現れになったと思いきや、もうそのやり取りを開始されまし
たか(笑)貴殿も入って頂ければこれ、おもしろい話になりそうですね。貴
殿が初心者さまに問いかけられた点、これ、愚生理解と(ほぼ)同様です。
今後のやり取りを同じOSで行えそうでありまして、大いに期待をする次第と
いう・・・
・・・さて以下、余談めいた話をツラツラと。まあ、余談とは申せ、「藤
原先生ならばなんと返答するだろう」なんてことを、妄想してみようかと・
・・
まあ、この〝ジジェク要塞〟でありますが、攻略命令(※)を拝した光軍
(こうぐん)藤原第一師団ならば、どんな方針を下知されるでありましょう
か。そして、戦術指示を待つ我が小隊において、もしも下士官が「師団長閣
下のご決心、いずこに在りや?」と問うてきたならば、小隊長の私はどう返
答すべきでしょうか。
たぶん今の私ならば、こう返答すると思います。「藤原閣下はおそらく、抜
刀銃剣戦術は採用せぬであろう」と。そして「要塞内部に対し宣撫戦を展開
されるであろう」と。
つまり「あの要塞は〝溶かす〟に限る」てな下知が「我が小隊に届くであろ
う」と。まあたぶん、そんな返答が適当なものになりましょうか。
・・・藤原敏之先生が、もしもこのジジェク氏と対峙したならば、おそら
く「それ、設問が間違っておりますなあ」くらいのことを、軽やかな関西弁
にて、おっしゃるのかもしれません。上述喩え話の意味を補足するならば、
まあ、そんな所になろうかと。
<註>
※ 攻略命令
(>初心者さま)
云うまでもないことですが、これ、「言葉のアヤ」ってヤツですんで(笑)
あと、
http://www.youtube.com/watch?v=_GD69Cc20rw
にてジジェク氏の主張
を(まあ、概要になりますが)把握した点は、ご報告申し上げておきます。
有益なやり取りを期待する次第です。
419
:
役行者
:2011/06/23(木) 11:24:28
>雅春先生に訊けブログ様
ジジェク氏の演説を聴こうと、紹介してくださったURLを開きました。
ニューヨークにてこれは、ジャーマン語ですか・・・私には到底、理解できる
能力がなかったのです。とりあえずご報告まで。
420
:
ブログ「雅春先生に訊け」管理人
:2011/06/23(木) 11:58:33
>役行者さま
これはスロベニア訛りのイングリッシュでありましょう(笑)まあ私のヒア
リング力は、フィリピンパブ仕込みときてますから、不確かではありますが。
しかし余談が過ぎますが、フィリピンパブ嬢の話す日本語・・・正調だった
りすることがあります(笑)まあ彼女らが使う日本語テキストが、戦前の日本
語をベースにしているためなのかもしれません。「ソレハ、イサギヨシトシナ
ーイ(それは潔しとしない)」なんて言われ、感動したことありましたが(笑)
421
:
初心者
:2011/06/23(木) 12:12:22
ブログ「雅春先生に訊け」管理人様へ
ブログ管理人様は英会話が堪能でらっしゃるのでしょうか?わたくしも、20代のころには、英国人、米国人、オーストラリア人などの知人がいて、そこそこに会話が成り立っていましたが、その後、言語学の問題にとりつかれて、「言葉とは何か」と考えているうちに、「英語を使うとバカになる」という結論を得たのであります。
最近になって同様の主張をする学者があらわれ、わたくしの考えは間違っていなかったとの意を強くしているところです。負け惜しみとも捉えることができますが、以来、英語とは極力かかわらないように生きてきたために、比較的、聞き取りやすいと思えるジジェクの発音にたいしてさえ拒絶反応が出てまいります(たしかにキャピダリズムとか言ってますね。それと、スラブ語なまりとでもいうのでしょうか。英語だかなんだか、どうもよくわからず、スラブ語圏の言語のようにも聞こえてまいりますね)。
英語にかんしては、会話だけでなく文字にたいしても拒否反応が出てまいります。「大和民族は英語を使うな」。これがわたくしの主張なのであります。かつて、ロラン・バルトという言語学者が来日したことがあるそうです。わずか2、3週間の滞在であったそうですが、このわずかな期間に「日本語は天皇制によって支えられている」と看破したといいます。
ロラン・バルトはフランス人ですが、欧米の言語と日本語のちがいを明らかにしました。バルトは「シニフェなきシニフィアン」とこのように日本語を位置づけました。シニフィアンが、キリスト教学的シニフィエによってガチガチにしばりつけられた欧米語をバルトは嫌悪し、シニフィエに縛られることなく、シニフィアンが自在に跳梁跋扈する日本語を、バルトは好意をもって評価したということです。
シニフィエなきシニフィアンが可能であるのは、天皇制あればこそだとバルトは言っていたそうです。キリスト教学的体系に支配されざるを得ない欧米語と、天皇制によって支えられた空虚によって織りなされる日本語は、本質的にまったく異なる言語であるとわたくしは理解しました。負け惜しみと捉えられそうですが、この理解により、英語とは、ここ四半世紀、まったく疎遠となっております(わたくしが英語を嫌うのは、キリスト教にたいする嫌悪感が土台にあるような気がいたします)。
できますならば、ジジェク発言にかんしてのブログ管理人様による解説をお願いしとうございます。
422
:
初心者
:2011/06/23(木) 12:17:09
役行者様へ
役行者様のご参戦により、なんとも面白い展開になってまいりました(とってもワクワクしております)。
パースペクティブにかんしましては、すでに拙文において明示しておりますように、「根拠はない」、「何となくそんな気がする」といった程度の理解であります。あえてパースペクティブ理論を提示いたしましたのは、これを用いることで説明が簡単となり、理解していただくのが容易になると考えたためであります。
したがって、パースペクティブ理論は、わたくしの本筋の理論とはかなりかけ離れたものなのでありますが、いちど提示いたしましたる以上は、これを使い続けざるを得ないということです。説明に一貫性が欠けるとか、矛盾が生じるとかの弊害が出てくるとは思います。かなり苦しゅうございますが、このまま使い続けることといたします。
これからのわたくしの課題は、本筋の理論とパースペクティブ理論の整合性をどのようにして確保するか、ということになってまいります。これはかなり難度の高い作業であります。しかし、こうした作業もまた、わたくしにとりましては勉強のひとつでありましょう。
このような次第でありますので、先の見通しは立っておりません。途中でボロが出る可能性がありますが、とりあえずはじめることにいたします(役行者様に突っ込まれまして、本当にかなり苦しいのでございます)。
おっしゃられておりますように、倉田百三氏の「寂光論争」でこの問題を捉えるのは、ほとんど不可能であるといえます。「寂光論争」を超えるために、まずはひとつの仮説を提示いたします。「3次元空間はパースペクティブによって創造された」。これを仮説として提示いたします。
この仮説に基づいて、役行者様が提起されました「パースペクティブはだれが創造されたのでしょうか?」の問いについて考えることにいたします。すると、「パースペクティブは神によって排出された」という答えが、わたくしの本筋の理論との整合性から導き出されるのであります。パースペクティブは、創造されたのではなく排出された。これが現時点でのわたくしの答えであります。
423
:
役行者
:2011/06/23(木) 14:08:55
>雅春先生に訊けブログ様
それはそれは、フィリピンパブにて武士道を教わるとは・・・
ネオン街もまんざらではないですね。わたしも結構好きですから・・・
>初心者様
>このような次第でありますので、先の見通しは立っておりません。
途中でボロが出る可能性がありますが、とりあえずはじめることに
いたします(役行者様に突っ込まれまして、本当にかなり苦しいので
ございます)。
ゆっくりと、いきましょう。お互いにスキだらけの人生を楽しみましょう。
>「3次元空間はパースペクティブによって創造された」。
これを仮説として提示いたします。
>この仮説に基づいて、役行者様が提起されました「パースペクティブは
だれが創造されたのでしょうか?」の問いについて考えることにいたします。
すると、「パースペクティブは神によって排出された」という答えが、
わたくしの本筋の理論との整合性から導き出されるのであります。
パースペクティブは、創造されたのではなく排出された。
これが現時点でのわたくしの答えであります。
私の方も、難題を質問してしまいまして、逆に追いつめられております。
神によって、排出?
排出とは 内部にある不要の物を外へ押し出すこと。ですよね。
エデンの園追放劇ですね。
となると、神の地球計画において、神により排出された存在により現象が
生じた。
なるほど、現象はない!!と断言する神からは認められてないという
ことですね。
パースペクティブは神からなぜ排出されなければならなかったのか?
この矛盾に満ちた現象世界を創造するためにですか?
その矛盾のなかから、リベンジをパースペクティブは神から与えられた
のでしょうか?
つまり、具体的にいうと、生活していると世知辛い矛盾が押し寄せてくる。
それを、ポジティブに捉える。そこに、神を観じる。
いや、そこに神が現れる。
神によって、不要なものとして出されたパースペクティブは、
何故に現象世界を創造されたのでしょうか?
424
:
トキ
:2011/06/23(木) 15:13:41
>>414
役行者 様
ご意見に賛同します。
生長の家政治連合は、今なら、当事者が多数おられますから、きちんと総括をするべきだと思います。
谷口清超先生も、当時の理事長だった和田英雄先生もこの数年で亡くなられました。今後の運動のあり方を考える上でも、
徹底的に考えるべきです。
合掌 ありがとうございます
425
:
初心者
:2011/06/23(木) 16:18:35
役行者様へ
おたがい、ギリギリの勝負となってまいりしまたね。
このような早い時期に、核心部分にまで追い込まれるとは、思ってもみませんでした。
>パースペクティブは神からなぜ排出されなければならなかったのか?
神は、神ならざるものを創造する必要があった。
世界は神一元であり、神ならざるものはどこにも存在しなかった。
そこで神は、神ならざるものを創造する必要があるとお感じになられた。
神ならざるものを創造できるのは神だけ。
しかし神は、神ならざるものが何であるかをご存じではなかった。
なぜなら、神ならざるものはどこにも存在しなかったから。
神は、どのようにすれば神ならざるものを創造できるかとお考えになられた。
神はとりあえず、神ご自身のいちぶを排出してパースペクティブをこしらえてみられた。
するとそこに、神ならざる世界があらわれた。
神はお喜びになり、パースペクティブによって出現した神ならざる世界を使って、
神ご自身をながめてみようとなされた。
そのために、神の本質としての実相を、
パースペクティブによって虚構された神ならざる世界に注ぎ込んでみられた。
これにより、神ならざる世界に神が出現した。
神は、神ならざる世界に神ご自身を置くことに成功なされた。
神は、神ならざる世界の探索をおはじめになった。
探索の結果、神ならざる世界に「悪らしき姿」や「不完全そうな姿」が充満していることをお知りになった。
神は、神ならざる世界の「悪らしき姿」を見ることにより、
神ご自身が善なる姿であることをお知りになりました。
神は、神ならざる世界の「不完全らしき姿」を体験することにより、
神ご自身が完全な姿であることをお知りになったのです。
>つまり、具体的にいうと、生活していると世知辛い矛盾が押し寄せてくる。
それを、ポジティブに捉える。そこに、神を観じる。
いや、そこに神が現れる。
役行者様のおっしゃられるとおりだと思います。
神は、神ご自身についてお知りになるために、
神ならざる世界に神ご自身をあらわしてみようとなされた。
この場において、このようなストーリーを提示いたしました。
とりあえずは、わたくしが提示いたしましたストーリーを吟味していただいて、パースペクティブによって虚構された世界にかんします見解が一致いたせば、雅春先生から提示していただいた「寂光論争」へと突入いたしたく存じます(そうなれば、ますます苦しい立場へと追い込まれるやもしれませぬ。ブログ管理人様は、仕事でいそがしいのをよいことに、役行者様とわたくしを戦わせておいて、ご自分は高みの見物をきめこんでおられるのでありましょうや)。
いずれにしましても、「神はどのような方法でパースペクティブを排出なされたのか」や「どうやって神ならざる世界に神を注入なされたのか」といった問題が未解決なままに残っております。このあたりの問題へのツッコミはしばらくご遠慮いただいて、『生命の實相』への突入(乱入?)を最優先に考える、というのはいかがでありましょう。
426
:
役行者
:2011/06/23(木) 19:01:43
>トキ様
実現までの工程表を作成しなければならないですね。大がかりですよ。
その時には、初心者様も雅春先生に訊けブログ様も同席のほどを!!(笑)
>初心者様
確かにぎりぎりで、腑に落ちないところがありますねぇ〜
>神は、どのようにすれば神ならざるものを創造できるかとお考えになられた。
神はとりあえず、神ご自身のいちぶを排出してパースペクティブをこしらえてみられた。
するとそこに、神ならざる世界があらわれた。
これはあくまでも物語であると知っていながら突っ込みますが、ここが短絡的すぎます。
神一元であるのに、排出はできません。
生長の家で説かれている、神の第一創造、神の第二創造という教えがあります。それは、創世記から由来されているのですが、途中で神の名称が、“神”から“主なる神”に変わるのです。雅春先生は、現象世界は神の第二創造によってなされたと、仰っています。
また、神と創造主の二元論によって創られた世界というのが、生長の家出現前、雅春先生が、“聖道へ”という書物で綴られておられます。
ご参考にしてください。
まあ、難解です。ここのところは互いに深く学ばねば、また魂を一層向上させねば・・・と、これからおいしいビールを飲みに行くので、しばし・・・(笑)
427
:
初心者
:2011/06/23(木) 20:22:13
役行者様へ
>これはあくまでも物語であると知っていながら突っ込みますが、ここが短絡的すぎます。
神一元であるのに、排出はできません。
やはり突っ込まれましたか。突っ込まないようにと、いちおうクギを刺してはおいたんですけど。
この部分なんですよ、問題は。排出であれ、流出であれ、神一元の世界においては、これは不可能なんです(ここまで追い込まれるとは、まったく予想もしておりませんでした)。
ですけども、何が問題かというと、神が神ご自身の姿を知るためには、どうしても神ご自身を外在化する必要があるということです。これはたしかなのですね。外在化できなければ、神は神自身の姿を見ることができないのです。
しかもこの問題を、何が何でも、二元論ではなく、神の一元論で解決しなければならない。こういう厳しい制約があるわけですね(だんだんと追い込まれてゆく自分を感じております)。
つまりですね、問題は、自分で自分の姿を見るということなのです。どうやれば、自分で自分の姿を見ることができるのか。この問題を解決すればよいということなのです。
ここでの大問題は、神は神ご自身の姿をご存じではない、ということなのです。神にとって外部は存在しないわけですから、外から自分の姿を見るわけにはゆかない。したがって神は、神ご自身の姿をいちども見たことがないということになりますので、神はご自分の姿をご存じではないということになるのです。
こういう厳しい条件のなかで、神は神ご自身の、いちども見たことのない姿を、あるはずのない外部に外在化しなければならないのです。これができなければ、神は永遠に、神ご自身の姿を見ることができなくなってしまわれるのです。
そこで神は特別な装置をお作りになりました。その装置とは、なんでもかんでも映し出せる装置でした。とにかくデタラメに、意味のありそうなものもなさそうなものも、ありとあらゆるものを映し出す装置です。
この装置には、じつは重大な仕掛けがほどこされていて、映し出したものとおなじものが神のなかにあれば、たがいに共鳴して、ピンポーンとランプが灯る仕掛けになっていたのです。ランプが灯ったのを確認した神は、映し出されている映像をハードディスクに記録します。こうやって記録の量を増やしてゆけば、神にかんする大量の情報がハードティスクに記録されてゆくことになるのです。
そうしてこの情報をもとに、映像をこしらえます。この映像こそが現象世界なのです。ハードディスクには、神にかんする情報がランダムに記録されていますから、映し出された映像は、一見すると不完全に見えます。しかしそこには、神にかんする十分な情報が映し出されているということになるのです。
ここから神の体験がはじまります。不完全な映像のなかに、神は、神ご自身の姿を見いださねばならないのです。これこそがまさに、自分で自分の姿を見るという困難な作業なのであります。この作業を遂行するために、神は、ありとあらゆる断片に、神はご自分の姿を見なければならないのです。
リンゴは神の一部なのです。イヌやサルもまた神の一部なのです。山も川も神の一部です。そのひとつひとつを体験しながら、神は神ご自身の全体像をこしらえなくてはならないという、そういう困難な作業を、この現象世界でおこなっておられるのです。
これがパースペクティブとどういう関係があるんや?いえいえ、ここまで追い込まれますと、パースペクティブがどうのこうのとは言っておれませぬ。なりふりかまわずデタラメな情報を書きまくって、混沌のなかにひそんでいるであろう有用な情報を、役行者様に拾い集めていただくことにいたします。こうした作業こそが、この現象世界で神がおこなっておられる作業なのですから(ほとんどやけになっております)。
人が困りはてているときにビールでござりまするか。情報の拾い集めは、役行者様にすべておまかせいたしまするぞよ。
428
:
ブログ「雅春先生に訊け」管理人
:2011/06/24(金) 04:05:46
いやー人が仕事している間に、なんかトンデモない展開を見せているじゃ
ないですか。ああもはや「一区で出遅れた〜」な感じの、高校駅伝チーム状
態ですね。
とは云え、まあ、この「人が仕事している間に」の、この仕事内容につい
てですが、実は「キャバクラで接待」の意味ではあるのです・・・あっ、誰
ですか、「気楽でいいですね」なんて申される方は。もう今回の接待ですが、
ホント最悪でしたよ(現象的には、ねw)団塊世代のオヤジ、否、ロマンスグ
レーなナイスミドルのおじさま方による「オヤジギャグ・フェスティバル」と
化しました今回接待、でありまして、さらに「オレらが若い頃ワ〜」節も炸裂
し、そしてその上・・・(中略)・・・まあ、要件などを。
いやなんか、参入タイミングを逸している感、アリアリです(笑)もうすこ
し状況を見ながら割り込んでいこうかと、こう考えております。今は頭の中、
オヤジギャグが炸裂中で・・・(中略)・・・モードチェンジ不能と云う。
429
:
ブログ「雅春先生に訊け」管理人
:2011/06/24(金) 07:30:33
>初心者さま
>役行者さま
『人間死んでも死なぬ』よりアップしました。
http://blog.livedoor.jp/con5151/archives/65560893.html
#more
たぶん、解決のための〝一転語〟とは成りえぬでしょう。しかしながら、
錯綜する議論に於いて「新論点の提示」「話し合い再開のための糸口」くら
いにはなろうかと、このように愚考致します。
追伸
昔、先輩が教えてくれた「仕事、早いね!」と言われるためコツ。
それは・・・予定される資料を用意した上で「 設 問 を 設 定 し
て い く こ と 」(笑)
いやしかし、予定より早くなりましたんで、焦りましたが(笑)
430
:
役行者
:2011/06/24(金) 07:56:35
やあ、初心者様、混沌としてきましたね。初心者様の頭の中が・・・(笑)
されど、神は秩序なり。と私は信じています。
>ですけども、何が問題かというと、神が神ご自身の姿を知るためには、
どうしても神ご自身を外在化する必要があるということです。
このことは、理解できます。まあ、このようにして、人間の知性が、
神なるイメージを想像してきたのでしょうね。そのなかで、
究極の真理を悟られた方々によって、聖典という書物が編纂されてきた
ものと信じております。
そこで人類の英知によって編纂された聖書を紐解いていくのが
宜しいのではないかと、存じます。
雅春先生が説かれている、神の第一創造、神の第二創造という教えは、
創世記を紐解いておられるのですが、途中で神の名称が、
“神”から“主なる神”に変わるのです。神の項では、神の地球創成物語、
主なる神に突然変わりまして、そこからはまず、地球のチリによって
アダムが創造され、森羅万象一切のものが創造されたあと、最後に、
アダムが深い眠りに就いて、イブがアダムの肋骨より創造される。
これぞ、骨の骨、肉の肉と、言われて・・・と続くのです。
ここで、初心者様の言葉を持ってきます。
>「近代は自然状態からのひきこもりによって始まった」というのが、
わたしの好きなジジェクの主張ですが、説明がいまひとつ理解できずに
おります。コギトを思いついたデカルトが、そのときたまたま、
あまりの寒さに耐えかねて暖炉部屋にひきこもっていた、
というのが論拠のひとつになっているようです。
巨大な頭脳を持て余すような人は、このような些細なことから、
重大なる真理に到達できるようでもあります。
現代人が自然状態からのひきこもりを続けているのはたしかなようです。
ただし、ジジェクがいう「自然」とは、たんなる自然的世界ではなく、
客観的世界の意味を持つようです。客観的世界から主観的世界への
ひきこもり?ことの重大さが、わたくしにはまだわかっていない
のかもしれません。
聖書のおける第一創造は、自然界の客観的世界でした。
それが、第二創造において、主観的世界にストーリーは進んでゆくのです。
つまり、認識の世界が展開されているのではないかと、思っております。
>ここから神の体験がはじまります。不完全な映像のなかに、神は、
神ご自身の姿を見いださねばならないのです。これこそがまさに、
自分で自分の姿を見るという困難な作業なのであります。
この作業を遂行するために、神は、ありとあらゆる断片に、
神はご自分の姿を見なければならないのです。
このことは、神の第二創造のことを述べられているのではないでしょうか?
客観的世界から主観的世界へのひきこもり?これは、太古の昔からあった
のかもしれません。
そのようななか、和歌をとおしたりしながら、>リンゴは神の一部なのです。
と、そこに神を観たりしていたのでは・・・
そこで、山ちゃん1952様。
>明恵上人のことですが、昨年10月頃に京都嵯峨の高山寺に行きました。
いいですね。わたしも是非、行ってみたいところの一つです。
あかあかやあかあかあかやあかあかやあかあかあかやあかあかや月
何とも・・・月のなかに神を観、客観的世界の絶賛でしょう!!
山ちゃん1952様。贅沢な願いですが、もっと、日本的情緒の世界を
垣間見てみたいです。
雅春先生に訊けブログ様。やあ、接待とはゆえ、いいですね。わたしゃ、
ビアガーデンで、旧友とカン首相の悪口を言って、帰ってきました。
カンさん、植物人間となり、延命させられてまっせぇ〜
消費税導入まで何が何でも、辞めないような気がします。
タケシのテレビタックルでも言っておりましたが、
やっぱり、まず、税収が20兆も減ったのですから、
税収から貪っている公務員給料の是正から始めるべきではないか・・・
順序が違うよ。やあ、思わず愚痴を・・・(笑)
431
:
ブログ「雅春先生に訊け」管理人
:2011/06/24(金) 08:30:21
>役行者さま
この議論に合わせブログ記事をアップしましたが・・・役行者さまご主張の
線でお進めください。しばらく静観させて頂き等存じます。(非常におもしろ
そうなので)
ちなみに余談が過ぎるわけですが、
>税収が20兆も減ったのですから、
>税収から貪っている公務員給料の是正から始めるべきではないか・・・
に関してですが、これに関しては愚生、ある疑問を抱く次第であります。
結論から申すと「日本政府には¥、まだまだザクザクある」というのが私見
です。
一例を挙げますと、日銀の通貨介入額なんですが、3.11以降増大しており
ます。総額なんと100兆円規模(!)とか。(ちなみに納税者ひとり当たり換
算でいきますと¥300万円という規模です)まあ私は菅総理(財務省のエージ
ェント)の申す「政府に¥がないのよ〜」「だから国民、ガマンしてよ〜」
てな主張、全 く 信 用 し て お り ま せ ん (笑)
余談の余談
オヤジギャグフェスティバルよりも、真理の話を行ないたいものです(いや
これ、本音です)
432
:
初心者
:2011/06/24(金) 09:10:12
役行者様へ
>やあ、初心者様、混沌としてきましたね。初心者様の頭の中が・・・(笑)
何をおっしゃるウサギさん、でございまするよ。わたくし初心者は、いやしくも真理オタクでございまするのよ。これまでの話の展開を、これからビシッと整理してお目にかけまする。
何が話し合われているのかといえば、それはいうまでもなく「寂光論争」なのであります。そこで、これまでの展開が、正真正銘の「寂光論争」であることを、これより説明いたしまする。
そのために、「神は情報なり」と仮定いたします。神は情報によって構成されている、とこのように見なします。もちろん、情報とは、神にふさわしき情報でございます。「寂光論争」とは、この情報がどこにあるのか、という問題なのであります。
雅春先生がお説きになっておられる事柄を、畏れながら「実相モデル」と呼ばせていただくことといたします。倉田百三氏の考えを「寂光モデル」とします。実相モデルと寂光モデルとでは、情報の在り処が異なっておるのでありまする。
実相モデルでは、情報はハードディスクに記録されております。ハードディスクを読み取ることで情報が取り出せます。取り出した情報をもとに映像をこしらえれば、それが完全なる実相世界の風光となります。
寂光モデルの情報は、空間に、波動として保存されております。この情報は、取り出すことができません。情報のすべてが、混然と一体化され、分離も分割も不可能だからです。そのために、読み取ることができないのです。
読み取ることができないために、それは「寂光」と見なされます。しかし、この情報を取り出す方法がひとつあります。それが、昨日紹介いたしました「ピンポーンとランプが灯る装置」なのであります。
仕組みは、テレビのアンテナとほぼ同じであります。波動の共鳴や共振といった現象を利用すれば、分割不可能な情報を、分離して取り出すことが可能となります。この場合は、情報を、試行錯誤をくり返しながら、ひとつひとつ取り出すことになりますので、すべての情報を取り出すには、無限ともいえる膨大な時間が必要です。
「ピンポーンとランプが灯る装置」を使って取り出した情報を、そのつどハードディスクに記録いたします。この情報をもとにつくられた映像が現象世界です。ハードディスクの情報は、時間がたつにつれて増大いたします。無限の時間をかけて、徐々に神の姿に近づいてゆくことになります。神のすべての情報が記録されたとき、このハードディスクは、実相モデルのハードディスクとほぼ同じものとなります。
寂光モデルの「ピンポーンとランプが灯る装置」と「外付けハードティスク」は、神がおつくりになったと考えるよりほかはありませぬ。またパースペクティブ理論を寂光モデルに適用する必要はなく、むしろ実相モデルにこそ適用が必要であると考えます。
以上が、これまで話し合われてきた「寂光論争」の骨子なのでありまする。
433
:
初心者
:2011/06/24(金) 12:09:15
役行者様へ
>聖書のおける第一創造は、自然界の客観的世界でした。
それが、第二創造において、主観的世界にストーリーは進んでゆくのです。
つまり、認識の世界が展開されているのではないかと、思っております。
仰せのとりおです。鋭い読みだと思います。役行者様の言葉から、またしてもドイツ観念論の話となりますが、ドイツ観念論の硯学、シェリングを思い出しました(ちょっとばかし格好をつけさせてくださいまし)。
役行者様がいわれておりますことは、まさしくシェリングがたどった道であります。シェリングは自然的世界をながめることで、不思議な感慨にとらわれることが多かったといいます。その感慨とは、自然的世界とシェリング自身の内的世界が深くつながっているのではないかという予感であったようです。
こうした予感からシェリングの哲学がはじまります。自然は沈黙しているけれども、いつか自分にたいして語りかけてくるのではないか。あるいは、シェリング自身が、自然にたいして語りかけることのできる言葉を、いつか持てるのではないかと、こうした予感をいだくようになったといいます。
シェリングは、自然的世界を神の第一創造と捉えていたはずです。その自然的世界と深くかかわりを持つことで、神の第二創造が成し遂げられるとも捉えていたはずです。役行者様がいっておられることそのままを、シェリングは予感し、この予感から哲学的思索がはじまったといってよいのかもしれません。
ひょっとすると、明恵上人も、シェリングと同じような契機から、自然的世界をながめていたのかもしれませんね。
あかあかやあかあかあかやあかあかやあかあかあかやあかあかや月
これは、明恵上人が、月を題材に、自然的世界に語りかけた言葉であるのかもしれません。島に手紙を出した。明恵上人は、自然的世界と深くつながることのできた人であったのかもしれません。
役行者様の鋭き洞察力に感謝いたします。
434
:
初心者
:2011/06/24(金) 12:12:06
ブログ「雅春先生に訊け」管理人様へ
ジジェクの話す姿と、動く姿をはじめて見たです。
これだけのド迫力演説を見せつけられれば誰だって、
ムチでぶって〜
ローソクたらして〜
てな気持ちにもなろうってものです。
それにしてもブログ管理人様は、
これからも参観王を続けられるおつもりでありんすか。
435
:
役行者
:2011/06/24(金) 12:48:25
初心者様へ。
いやはや、花金が消えそうです。
感無量!圧巻であります。
東西の融合ですね。実に気持ちいい。
ただ、一点、疑問があるので、また、後ほど!!
436
:
ブログ「雅春先生に訊け」管理人
:2011/06/24(金) 15:31:51
>初心者さま
いやー参入障壁がありまして(笑)
いま2点ほど「うーむ」な疑問がありまして、ですね、そしてこのタイミ
ングで提示しちゃいますと、役行者さまご提題を邪魔してしまいそうなので
す。ですんでしばし、静観します。
(ちなみに仕事中の「チラ見の見物」ではありますが、決して高見の見物
ではございませんw)
一点だけ感想を述べますと、貴殿がご提示なされた視点ですが(ハードデ
ィスク云々)これ、ニール・ドナルド・ウォルシュという人が『神との対話』
で触れておられます。まあ彼のは「ゲームを喩えに」したものでありまして、
そして「ゲーム機のジョイスティックで、いろいろな結末があるでしょ?」
てな趣旨のお話しをしておりましたね。「神は常にあなたに問うておられます。
『どんな結末が欲しい?』と」そして(望まないものが現れたら)「また選択し
直せば?」とも。
ただブログ更新は貴殿さま達のお陰を持ちまして、超頻繁になっております
が(笑)本日も千客万来でありがとうございます。
437
:
ブログ「雅春先生に訊け」管理人
:2011/06/24(金) 15:38:42
↑補足
グーグルで「谷口雅春」を検索語に致しますと、2位表示されるくらいに
なりました(笑)
しかしなぜか「本流管理人殿」への掲示文が、今でも視聴率が高いのが残
念ですがね(笑)「藤原先生のも、読んでよ」なんですけど・・・
438
:
初心者
:2011/06/24(金) 19:23:12
ブログ「雅春先生に訊け」管理人様へ
>いま2点ほど「うーむ」な疑問がありまして、ですね、そしてこのタイミ
ングで提示しちゃいますと、役行者さまご提題を邪魔してしまいそうなので
す。ですんでしばし、静観します。
今のブログ管理人様のお立場は、まさしく「香厳上樹」ではおじゃりませぬか。
「道」を尋ねるものがおるにもかかわらず、ものが言えぬとは、
いかほどのことがおじゃって、そのようなことが言えるのでおじゃりましょうぞ。
439
:
役行者
:2011/06/24(金) 19:39:49
枝を噛んで、全身を支えているので、仕方なきことでしょう。
あと、一時間半、待っててください。
花金を捨てました。
440
:
役行者
:2011/06/24(金) 21:12:40
はあ・・・
>初心者様
>雅春先生に訊けブログ様
はあ・・・
10分しかないので結論を述べます。
>そこで神は特別な装置をお作りになりました。その装置とは、なんでもかんでも映し出せる装置でした。とにかくデタラメに、意味のありそうなものもなさそうなものも、ありとあらゆるものを映し出す装置です。
この装置には、じつは重大な仕掛けがほどこされていて、映し出したものとおなじものが神のなかにあれば、たがいに共鳴して、ピンポーンとランプが灯る仕掛けになっていたのです。ランプが灯ったのを確認した神は、映し出されている映像をハードディスクに記録します。こうやって記録の量を増やしてゆけば、神にかんする大量の情報がハードティスクに記録されてゆくことになるのです。
そうしてこの情報をもとに、映像をこしらえます。この映像こそが現象世界なのです。
上記と、下記です。
>「ピンポーンとランプが灯る装置」を使って取り出した情報を、そのつどハードディスクに記録いたします。この情報をもとにつくられた映像が現象世界です。ハードディスクの情報は、時間がたつにつれて増大いたします。無限の時間をかけて、徐々に神の姿に近づいてゆくことになります。
現象世界というのは、三界は唯心の所現という真理がございます。これが、現象世界です。
つまり、>神は特別な装置をお作りになりました。その装置とは、なんでもかんでも映し出せる装置でした。とにかくデタラメに、意味のありそうなものもなさそうなものも、ありとあらゆるものを映し出す装置です。
という世界です。
>「ピンポーンとランプが灯る装置」を使って取り出した情報を、そのつどハードディスクに記録いたします。この情報をもとにつくられた映像が現象世界です。
でなくこれは、
>「ピンポーンとランプが灯る装置」を使って取り出した情報を、そのつどハードディスクに記録いたします。この情報をもとにつくられた映像が現象世界のなかで、神が良しとした世界!!
ということです。あしからず、時間が来ました。
441
:
初心者
:2011/06/24(金) 23:01:35
役行者様へ
>花金を捨てました。
捨てておられんのではございませぬか?
>「ピンポーンとランプが灯る装置」を使って取り出した情報を、そのつどハードディスクに記録いたします。この情報をもとにつくられた映像が現象世界のなかで、神が良しとした世界!!
神が良しとした世界!!
生きてみることにいたしました。
現実の世界にもどります。
では、これにて。
442
:
役行者
:2011/06/24(金) 23:39:57
>初心者様
しばし、また話を膨らませます。
>神は特別な装置をお作りになりました。その装置とは、
なんでもかんでも映し出せる装置でした。とにかくデタラメに、
意味のありそうなものもなさそうなものも、ありとあらゆるものを
映し出す装置です。
これは、明らかに寂光と定義できるでしょう。
実相なる神からは、寂光を排出することができないのでは・・・
この世界は、明らかに、先ほども触れましたが、「三界は唯心の所現」
なる世界で、現象世界です。
この混沌とした、矛盾の内包された現象世界から
>「ピンポーンとランプが灯る装置」を使って取り出した情報を、
そのつどハードディスクに記録いたします。
この情報をもとにつくられた映像が現象世界のなかで、
神が良しとした世界!!
つまり、矛盾の奧に、神を見いだす。すべての出来事をポジティブに捉え、
そこに神が現れる。そのとき、ピンポーンとランプが灯るのではないでしょうか?
> 「ピンポーンとランプが灯る装置」を使って取り出した情報を、
そのつどハードディスクに記録いたします。
これは、神の第二創造において、つまり、現象世界において、
神を見いだした記録です。第二創造で、やがて人間は、
エデンの園から追放されます。神の第一創造である自然的世界を
観なかったからです。しかし、この自然的世界と深く関わった人たちが、
神を現し、ハードディスクの情報に記録されていくのです。
>ハードディスクの情報は、時間がたつにつれて増大いたします。
無限の時間をかけて、徐々に神の姿に近づいてゆくことになります。
神のすべての情報が記録されたとき、このハードディスクは、
実相モデルのハードディスクとほぼ同じものとなります。
そのとき、神の地球計画は、千秋楽を迎えるのです。
神の地球計画物語でした(笑)。
443
:
初心者
:2011/06/25(土) 12:57:13
役行者様へ
あまりに戦況が不利でありますので、現実世界への逃走をはかりましたが、役行者様の追走にあい、逃げきれずに、ふたたびもどってまいりました。あいも変わらず、先の見通しがたっておりません。その場しのぎの言説を弄し、狙撃手の影におびえる日々でございます。
今一度、ここでの対話の目的を明確化いたしますなら、それは「一致点を見いだす」ということであります。わたくしが、ブログ管理人様の参加を促しますのは、一致点を見いだしたあとに登場された場合には、ふたたび一致点を見いだす作業にとりかからねばならなくなるということであり、それならば、三つ巴の関係のなかで一致点を見いだす作業をおこなったほうが、よりダイナミックな議論ができてよいのではないかと考えるからなのであります。どのような形であれ、とりあえずご参加願いたいと考えるゆえんであります。
さらに、ここで何が話し合われているのかといえば、神一元論で現象世界の出現が説明できるか、ということであります。もしも説明できないということになれば、神一元論を否定しなければならなくなるという事態でもあります。
役行者様におかれましては、神一元論よりの現象世界の出現の仕組みを、ふたつの段階にわけてご説明なさろうとしておられます。第一創造においては、神が直接かかわり、第二創造において人間がかかわってくると、このように説明しておられるように理解いたします。
こうした2段階説において、役行者様から
>つまり、矛盾の奧に、神を見いだす。すべての出来事をポジティブに捉え、
そこに神が現れる。そのとき、ピンポーンとランプが灯るのではないでしょうか?
との発想が導きだされたわけでありますが、見事な発想の転換であるというよりほかはありません。役行者様のこの発想は、わたくしに重要なインスピレーションをあたえてくれるものであります。
役行者様のご主張をひと言でまとめますと、第一創造においては、「ピンポーンとランプが灯る装置」は必要ないということだろうと思います。この点で、わたくしの発想とのあいだで不一致が見られていたわけであります。
こうした不一致は、本源的存在である神の情報が読み取れるのか否や、の見解の違いであるように思われます。わたくしは、情報は読み取れないという立場であり、これが倉田百三氏の「寂光説」を支持する根拠となっております。
「寂光説」の弱点は、「情報を読み取る」という行為にあると思われます。その理由は、「寂光説」では、情報の読み取り手は、あきらかに「外部」に存在しなければならないからであります。「外部」から、ほんらいであれば読み取れるはずのない情報を読み取る。こうした作業をおこなっているものが存在することになるのであります。
つまり、「寂光説」では、「神の外部」を認めなくてはならなくなるのであります。神は、神ご自身の情報をけっして知り得ない立場にあり、神になり代わって、外部の存在が神の情報を読み取る役割を担うことになるのであります。
つづく
444
:
初心者
:2011/06/25(土) 12:58:20
前回のつづきです。
こうした考え方を「寂光説」で押しとおすとするなら、もはや、通常の「内部」と「外部」という思考方法では理解し得ないということになってまいります。「寂光説」においては、内部とは何か、外部とは何か、ということにかんして、哲学的ともいえる定義が必要になってくるということになるのであります。
宇宙という存在について考えてみます。宇宙には、たしかに外部があります。しかし、宇宙の内部の存在者たる人間にとって、宇宙の外部は存在しません。人間には、宇宙は内部だけでできているように見えるのです。
「寂光説」の神一元論においても、こうした考え方が成り立つものと考えます。神一元論は、一元論であって、しかも二元論ともなりうるということです。神一元論において、わたしたち人間は神の内部を経験しているわけでありますが、こうした内部にも、じつは、わたしたちには経験不能な外部が存在するという話になってまいります。
わたしたちには体験不能な外部こそが、神の本質であるとはいえないでしょうか。わたしたちが、神の一元論として体験している世界がこの宇宙でありますが、しかし、宇宙には、人類には体験不能な外部が存在します。神は、神ご自身の一部をひずませることによって、神の内部に神ならざる空間をおこしらえになった。このひずみこそが宇宙であり、わたしたちは「ひずみ」の外に出ることはできないということなのではないでしょうか。
わたしたちは、神の内部にありながら、神ならざるものという意味で、神の外部の存在として生きているともいえるのではありますまいか。もしそうであるなら、神は、わたしたちには体験不能な「寂光」と感じられることになるはずです。
それなら、わたしたちはどうやって、「寂光」ともいうべき体験不能な外部の情報を読みとっているのでしょうか。それはおそらく、この世界が「ひずみ」であることと関係しているはずです。それが「ひずみ」であるなら、元にもどろうとする力がかならず働いているはずです。この力こそが実相へともどろうとする力であるはずなのです。
元にもどろうとする力に、神の情報が、何らかの形で含まれていたとしても不思議ではありません。この隠された情報を「ピンポーンとランプが灯る装置」で読み取っている。このように考えますなら、これはまさしく、役行者様がいっておられる、第二創造におけるピンポーンなのであります。
445
:
ブログ「雅春先生に訊け」管理人
:2011/06/25(土) 15:16:26
>初心者さま>役行者さま
どうも(笑)呑気にチラ見参戦(?)させて頂いておりまして、非常に申しわけありません。
今、幼稚園のPCをお借りしまして、そしてこんな書き込みをしております。
本日はバザーでありまして、私は責任者のひとりになっております。いやー、
ですんでなかなか参戦できませんが、一応「間接参加」をさせてもらってはおります
のですよ。
まあここ最近、本件に関する話題を、ブログにアップ中です。ここに直接書き込み
しますと、まあなにか、不調和なものを生みそうですんで・・・まあ、焦らず、ノンビリ
行きましょう(笑)別に「何月何日までに、結論を出せ!」てな問題でもないので
ありますし・・・いかがでしょうか。
ちなみにバザーですが・・・3時間連続で「焼きそば」を焼いています(笑)
無論こちら、「炎天下」ときてまして、そしてこの「焼きそばコーナー」は誰も
なり手がつかないという担当箇所なんですけど・・・いやー神の子無限力、今、これ
をデモンストレート中という(笑)
「暑い」「キツイ」「疲れた」・・・こんな意識が浮上するたびに、ですね、私は
「ああこれで、これらの嫌感は消えた!神様ありがとうございます!」てな認識で
重労働をこなせております。これから片付けに入りますけど、30代のオトーサンから
も「すごい体力ですね」と感嘆されている最中です。
いややはり、雅春先生の御教えは偉大過ぎまして畏れ多い・・・
追伸
本日アップした記事
http://blog.livedoor.jp/con5151/archives/65561280.html
に関して・・・
一緒に焼きそば焼いているオトーサンがいるんですけど、彼、養護学校の先生
とか。さっきまでこの、ヘレンケラーネタで盛り上がっておりました(笑)
ヘレンケラーネタを話題にしながら炎天下で焼く「焼きそば」・・・なぜか整理券
が出るくらいに繁盛してます(笑)ああ畏るべし「焼きそば・ヘレンケラー」
・・・ということで後日、彼には『生命の實相』を献本しようかと。
446
:
初心者
:2011/06/25(土) 15:28:14
これより、役行者様によって論破された「寂光モデル」について、言い訳じみたことを書かせていただくことにいたします。
「ピンポーンとランプが灯る装置」で語られる「寂光モデル」は、わたくしはいちおう理科系の人間でありますので、現代物理学の主張にたいする対抗手段として考案したものであります。もちろんわたくしは、物理学者でもなければ物理学徒でもありません。素人的な好みで、現代物理学の周縁部をかじってみたにすぎないことを、前もって断っておきます。
標的は量子力学と「ひも理論」でした。量子力学にはいくつもの解釈があり、そのなかで、かつては「標準」とされたコペンハーゲン解釈を、寂光モデルの中心部に取り込みました。情報の読み取りが不可能という「寂光」とは、いまや「古典戦士」と揶揄される、物理学者のデイヴィッド・ボームの理論を取り入れたものなのであります。
ボームは、量子力学を哲学的に解釈した数少ない物理学者のひとりです。量子力学のコペンハーゲン解釈は、人間の意識を中心におきます。世界の出来事は人間の意識によってつくられる。これがコペンハーゲン解釈の主たる主張であると理解しております。
ボームは、量子力学のパイロット波解釈を提出した物理学者でもありますが、中心はやはりコペンハーゲン解釈でした。寂光モデルの中心部に取り込むのに値する、壮大で、あまりにも宗教的すぎる世界観を、ボームは構築してくれていました。
わたくしは、ボームの世界観を中心においた寂光モデルを考案しました。標的は、量子力学の多世界解釈と「ひも理論」です。「ひも理論」の中核は、いまや、Dブレーンとホログラフィック理論のふたつであろうと考えられます。これはいってみれば、宇宙は、Dブレーンと呼ばれるディスプレーに、ホログラフィックな映像として映し出されたマボロシである、という主張です。これ自体は、宗教界としては歓迎すべき主張であります。わたくしが提示いたしました「寂光モデル」にも、当然のことながら取り込まれています。
宗教界にとって問題となるのは、「ひも理論」がたどりついた、マルチバース、あるいはメガバースと呼ばれる理論であり、それと、現代の量子力学で主流となりつつある多世界解釈と呼ばれる主張なのです。このふたつの主張は、これまで宗教界が拠り所としてきた、人間中心の宇宙観を木っ端みじんに打ち砕いてしまいます。ボームのファンタジックな世界観を完膚なきまでに破壊します。宗教界は、何としてでも、マルチバースや多世界解釈に対抗しうる哲学を打ち出さなければならないのです。
昨日、ブログ管理人様より、「神との対話」のなかでふれられているという「ジョイスティック」の話が提示されました。わたくしは、ジョイスティックが何かを知らず、「神との対話」もそのごく一部を読んだにすぎません。したがって推測で書くしかないのでありますが、ブログ管理人様からご紹介いただいた内容は、多世界解釈を強く意識したものであるとの印象を受けました。
「いくつもの結末があり」、「選択し直せる」というのは、あきらかに多世界解釈です。多世界解釈の本当の恐ろしさを、ほんどの人はご存じない。それが地獄の世界を記述するものであることに、ほとんどの人は気づいていないはずです。「神との対話」にもしも多世界解釈が忍び込んでいるとするなら、これはゆゆしき問題となります。
寂光モデルの外付けハードディスクを無限の台数に増やすとします。しかも、そのなかのいくつかはゆるやかなLANによってつながれている。このように考えれば、これが多世界解釈となります。LANでつながれることがまったくないとすれば、これがマルチバースやメガバースであると考えることができます。
外付けハードディスクに記録できるデータに制約はあるのか。もしも何の制約もないとすれば、そこには、たとえば人間が永久に老化しつづけるという、地獄のような世界が出現します。宗教界は、現代物理学が、人間を地獄へと誘う理論を展開しつつあることに、いまだ気づいてはおりません。「寂光モデル」は論破されましたが、しかしこのモデルが、現代物理学にどこまでも対抗してゆこうとするわたくしの意志を表象したものであるという事実に変わりはありません。現代物理学を取り入れ、しかもそれに対抗しうる世界観の構築が急務と考えるゆえんであります。
447
:
初心者
:2011/06/25(土) 15:51:39
ブログ「雅春先生に訊け」管理人様へ
>まあここ最近、本件に関する話題を、ブログにアップ中です。ここに直接書き込み
しますと、まあなにか、不調和なものを生みそうですんで・・・まあ、焦らず、ノンビリ
行きましょう(笑)別に「何月何日までに、結論を出せ!」てな問題でもないので
ありますし・・・いかがでしょうか。
お気持ち、お察しいたします。会社を経営なさり、しかも地域の顔役ともなれば、口にふくむべき枝の多きことは容易に想像できます。
役行者様によって崖っぷちにまで追い込まれ、イラ○と呼ばれるどこかの総理ほどに無様ではござりませぬが、わたくし、相当に苛立っております。苛立ちの矛先が、高みの見物をきめこんでいると思えしブログ管理人様に向けられてもおります。
この苦しき立場から逃れたい。このことばかりを考えております。逃れるために、言い訳じみた言説を連発しようかとも考えております。連発のなかで、ブログ管理人様が標的になることも多々あるかと存じます。あさましき人の姿とおぼしめしいただき、広きお心で、笑って許してやっておくんなまし。
448
:
名無しさん
:2011/06/25(土) 17:45:58
ゆっくりと行きましょう!!
お互いの魂磨きですから!
449
:
初心者
:2011/06/25(土) 18:24:59
もしもこの掲示板の「寂光論争」を読んでおいでの方がおられるとすれば、「なぜこのようなラチもないことを言い合っているのか?」との疑問を持たれると思います。「寂光だろうが実相だろうが、どっちでもいいではないか」、とお考えになられると思います。
ここで「何が問題なのか」ということをはっきりさせておこうと思います。問われているのは「実相のあらわれ方」なのです。実相はどのようにしてあらわれてくるのか。これが問題になっているのです。
「実相モデル」の場合は、実相を覆い隠しているのは「念のレンズの曇り」といわれています。実相はすでに、すぐそこにあるにもかかわらず、「念のレンズの曇り」によって見ることができずにいるということになるのです。
「実相モデル」では、実相を見るためには「念のレンズの曇り」を取り除けばよいということになります。取り除きさえすれば、そこに完全なる実相があらわれてくるということになります。
「寂光モデル」の場合は、実相は、いまだ完全にはあらわれていません。実相は今も流出中ということになるのです。したがって、「念のレンズの曇り」を取り除いただけでは実相を見ることはできません。実相を見るためには、実相が流出してくる現場をキャッチしなければならないということになるのです。
わたくしがシャーマニズムやタオイズムに惹かれますのは、シャーマンやタオイストが、今まさに流出せんとしている実相をキャッチしようとしているからです。シャーマンは、24時間油断なく、実相が出てくる現場を嗅ぎまわっています。実相をとらえるために、どんな些細な出来事にも注意を払おうとしています。
流出の現場に運よく出くわせたとしても、それだけでキャッチできるわけではありません。必要なのは「初心」つまりは「予期されない心」なのです。これはむかし友人から聞いた話です。
男が山にこもって修行をしていました。目的は悟りを得るためです。あるとき、サトリと名のる小動物があらわれて男の邪魔をするようになりました。修行をはじめると、かならずあらわれて男をからかうようになったのです。
男はサトリを捕まえようと、いろいろと画策しますが、すべて失敗してしまいます。男は、サトリに心を読まれていたのです。
ある日、男が斧で巻き割りをはじめました。サトリがあらわれて、男をからかいはじめました。男は、サトリを無視して巻き割りをつづけました。すると、何かのはずみで斧の先が飛んでサトリに当たりました。サトリは気絶し、男はようやくサトリを捕まえることに成功したのです。
この話は、香厳和尚が悟りを開いたときの話と似ています。香厳和尚は、竹ぼうきで道を掃除していました。ほうきの先が、道に落ちていた瓦のかけらにあたり、飛ばされたかけらが竹にあたって、「コーン」と音がしました。この音を聞いて香厳和尚はにわかに悟りを開いたのです。
いったい何がおきたのでしょう。この音こそが「ピンポーン」だったのです。実相が流出する現場を、香厳和尚はキャッチしたのです。しかしなぜ、いつもはキャッチできなかったのに、このときにかぎってキャッチできたのでしょう。
それは、キャッチするためには「予期されない心」が必要だからなのです。実相は、狩人が狙う獲物です。修行者は狩人です。狩人は、獲物の心と動きを読まなくてはなりません。そのために、心をつねに獲物に集中させておく必要があるのです。
しかし、それだけでは獲物を捕らえることはできません。獲物に心を読まれてしまっていたのでは、いとも簡単に逃げられてしまいます。そればかりか、下手をすると、狩人自身が獲物にされてしまいます。
実相をキャッチするには、こちらの心を読まれてはならない。狩人は、つねに「予期されない心」でいなければならない。サトリの話や香厳和尚の逸話は、このことを教えてくれているようにも思われます。
「寂光論争」で問われているのは、実相はどうやればキャッチできるのか、ということです。このキャッチの仕方に、「実相モデル」と「寂光モデル」では大きな違いがあると考えて、共通した見解を見いだそうとしているところなのです。
450
:
ぼるぼ
:2011/06/25(土) 18:30:12
突然、ですが、ROMだけでは物足りない衝動にかられて、書き込みます。
自分勝手な、神の自覚のせいでしょう。
何故、神は自己表現を欲し給うか
それは美人が鏡の前に立って自分の顔や姿を飽くことなく眺めていたいのにも似ている。
鏡に映るところの姿は、既に自己に備わっているところの諸々の姿である。
「既に全てがあるのに何故神は表現せずにはいられないのか」と疑問を投げかけた人がいつかあったが、
既にあるからこそそれを表現したいのである。
既に美人であるからこそ、鏡の前に立って自分自身の姿を鑑賞せずにはいられないのと同じことである。
谷口雅春「神 真理を告げ給う」171p
最近、本流やブログ管理人さんやここなどの生長の家関連の個人掲示板が活性化していて、嬉しい展開であります。
私も、大いに刺激を受け、埃をかぶっていた雅春先生の本を読み直しました。
再読するほどに、その深い真理が全身の細胞に染み渡る心地がしてきます。
私は、若い頃飛田給道場で生活していたことがあります。生長の家によって再生した命であります。
生長の家を愛してやまないのですが、教団には参加していません。
一個の個人事業者として、日本人として、真理を生きることをだけ願うものであります。
451
:
初心者
:2011/06/25(土) 18:39:32
どなたかは存ぜませぬが、ご助言、かたじけのうございます。
たしかに、魂磨きでありまするよね。この苦悩は、きっと魂の向上につながるのでありましょうぞ。
何にしましても、論争の意義と目的をあきらかにいたしましたる以上は、できるだけ大勢の人に参加していただきたく存じます。ここで提示いたしましたる問題は、生長の家にとりましても、けっして看過できない重要な問題であると認識いたします。
大勢の人を巻き込んでこの論争が発展いたしますなら、各人の自覚の向上に、少なからず貢献するものと考えます(わたくしはすでにバテバテでありますので、誰かに代わりにやってもらいたいというのが本心であります)。
まあ、ブログ管理人様も同じことを言われておりますので、あせらずゆっくりいきましょう。「名無しさん」も、たとえ戦況が不利になったとしても、けっしてお逃げになってはなりませぬぞ。
452
:
初心者
:2011/06/25(土) 18:57:23
ぼるぼ様へ
>私も、大いに刺激を受け、埃をかぶっていた雅春先生の本を読み直しました。
素晴らしいではございませぬか。バテバテになりながらも、続けてきた甲斐があろうというものです。
ここでの問題のひとつは、神はどのようにして神ご自身が美人であることを知り得たのかということなのであります。「実相モデル」と「寂光モデル」とでは、このあたりの見解にかなりの違いがあるようなのです。ぼるぼ様も、よいお考えがあれば発表なさってください。
この掲示板では、相手の意見を否定するのではなく、批判をとおしてたがいの魂の向上をめざそうとしています。お気づきになったことを書き込んでいただければ、ありがたく存じます。
のちほど、管理人のトキ様よりご挨拶があると思います。何か関連したご発言があると思います。
453
:
トキ
:2011/06/25(土) 19:18:31
>>450
ぼるぼ様
ご投稿、ありがとうございます。ご参加を心から歓迎申し上げます。
飛田給で魂を磨かれたのですか。素晴らしいですね。徳久先生などの指導も受けられたと拝察します。
たいへん的確な助言を初心者様にされたので、関心しました。
また、谷口雅春先生のご著書を再読される契機になったとの事、管理人として、光栄に思います。
感謝、感謝です。
このスレッドも、おかげさまで活況を呈しておりました、これも皆様のおかげです。
一応、1000の投稿でおしまいになり、次のスレッドを立てるのですが、次に立てる
ときは、何か「名称」をつけて、スレッドを立てたいと考えています。もし、ご賛同
いただけるのなら、皆様から名称を募集したいとも考えています。でも、まだ半分ですから
先の話ですが。
管理人としてはまだまだ「青葉」マークですから、至らない点があると思います。
なにとぞ、ご指導、御鞭撻のほど、お願い申し上げます。
では、これからのご投稿を心から期待しております。
合掌 ありがとうございます
454
:
トキ
:2011/06/25(土) 19:20:08
>>453
誤植です。お詫び申し上げます。
×関心しました。
◎感心しました。
あと、御不明の点は、お気軽にお尋ね下さい。
管理人敬白
455
:
役行者
:2011/06/26(日) 02:06:38
>>448
の投稿は、初心者様のお察しのように、役行者でございます。
いま、パソコンを使える状況ではないので、携帯からコメントしている次第です!ただ、そのためのミスです。
いやはや、初心者様の求道心プラス負けず嫌い、完敗しました。
私はただ、真理の追究とともに、魂磨きをしたいと、そう願っているものです。
できれば、ゆっくりと、時間をかけてゆきましょうぞ!
魅力溢れる掲示板を、つくっていきましょうぞ!!
それから、先ほどの設問ですが、美人がどうして、美人を知り得たのか?
それは、鏡があったからです。
つまり、神がなぜ、神を知り得たか?
それは、神性を映し出す鏡があったからでしょう。果たして鏡とは何か?ちょっと、考察中です。
ちょっと、目覚めたので、コメントしました。(笑)
456
:
ブログ「雅春先生に訊け」管理人
:2011/06/26(日) 05:19:13
>皆様
いやー、素晴らしい展開ではないですか。
私は理屈民族でありまして、そしてこれは「理屈で腑に落ちぬことは、い
かにしても同意しがたい」を意味しまして、同時に「理屈で把握できぬこと
は、たとえどんな高名な方のご主張であろうとも不同意を表明する」ことを
意味するのですが・・・ああ皆さん、ここにいらっしゃる方々は「同じ民族、
だ(笑)」てな感想を持つ次第です。実にオモシロイ(笑)実生活では皆さん、
「ああなんでアンタは、そんなに理屈っぽいのw」と差別されておられること
と愚考します(笑)でもしかし、そんな差別に遭おうともこのテーマ・・・や
り取りせずにはオレナイという(笑)
そしてまあ、既述になりますが、このテーマに関し、まあ議論の大枠を確認
していくならば「ゆっくり行きましょう」が正解だと思います。なぜと申して、
これ、「一転語は存在しない」ことは確かであります。雅春先生すら「迷いに
迷われ」た上で、ようやく気づかれたというテーマなのでありますから、まあ、
我々の様な凡夫ならばなおのことでありましょう(とは申せ、我々には御教え
があるわけです。それこそ若き雅春先生の思索の「一万分の一時間」ほどで
「容易に同意に至るであろう」そのことは付記できようかと)
>初心者さま
ご配慮をありがとうございます。でもしかし「月末なんでこんな話、してい
る場合じゃない!」なんて言葉よりも「実にオモシロイ」という言葉が飛び出
してしまうのが愚生です。「実にオモシロイ」が本音なので、ああこれ、経営
者としては失格かもしれませんね(笑)そんな真理に関することよりも、「ち
ゃんと仕事しろよ」と言われかねない、そんな時間配分で生きておりますんで
(笑)
>「寂光論争」で問われているのは、実相はどうやればキャッチできるのか、ということ>です。このキャッチの仕方に、「実相モデル」と「寂光モデル」では大きな違いがあると>考えて、共通した見解を見いだそうとしているところなのです。
まあ大凡の展開−今後、愚生が提示するであろう話―を事前告知致しますと、
以下記事になりましょうか。
●再度問う。「現象、とは?」
http://blog.livedoor.jp/con5151/archives/65560893.html
(同記事より抜粋)
『現象無し』と云うことは、何にも無いということではない。其処にその
〝現れているもの〟は無いということである。現れているものは無いけれども、
〝現れていないもの〟があるのである。肉体は現れて見える。肉体は現象であ
り、現象は無いのであり、従って肉体は無いのである。現れて見える肉体は無
いけれども人間“そのもの”は無いのではない。
その他記事も関連があるのですけど、まあ「上記を膨らませながらの話にな
るのかも」という、そんな展開を予想しております。そして頃合を見て参戦予
定であります。(まあ既に、意識の上では参戦中ではありますが)
今後もどうぞ、よろしくお願いします。
457
:
ブログ「雅春先生に訊け」管理人
:2011/06/26(日) 05:26:32
>トキさま
>次のスレッドを立てるのですが、次に立てる
>ときは、何か「名称」をつけて、スレッドを立てたいと考えています。もし、ご賛同
>いただけるのなら、皆様から名称を募集したいとも考えています。
<私の希望するスレ名称>
【理屈上等】なんで〝ない〟のに〝ある〟んだよ?!
458
:
ぼるぼ
:2011/06/26(日) 08:51:55
トキさま
不特定多数の一般閲覧者の中から、突然書き込んだ一言に対して、どんなボール球でもヒットにしてしまう天才長嶋のようなレス、さすがです。
本流を出て一躍人気掲示板と成り得たのもむべなるかな。
しかし、今更長嶋はなかったかな。古すぎると、反省。
僕が飛田給にいたのは30才の頃で、ざっと30年前なんですが、徳久先生はアメリカの教化総長だったので不在でした。
僕は一番下の位の道場員でありまして、農事部に所属していて、雅春先生の指示にしたがって鶏の世話をし卵をお山に届け、徳久先生宅の草刈や、雅春先生が磨り潰して飲むという
麦の若芽にあんまり綺麗とは言えない水をやったりして下座業に励んだものです。
もちろん、教団のすべての雑務、法供養、錬成、講習会もろもろの裏方としての仕事をやりました。
当時は雅春先生が家長で、生長の家はひとつの大家族で観がありました。
組織の常として、上位のポスト争いはマキャベリズムがカビのように蔓延ります。
僕の生得の体質で、茶坊主が嫌いで、神にのみ信を置くという潔い生き方をするには教団組織外で生きるほうが
自分にはふさわしいとの結論を得て、本部へ就職を断り、当時職員だった女性と結婚して無一文で一般社会に回帰し今日に至りました。
その妻も3年前に他界しました。我が国にも大転換の兆しが感じられる今日この頃です。
自己紹介ついでにスレッドも紹介しておきます。
http://nf.ch-sakura.jp/modules/newbb/viewtopic.php?topic_id=5267&forum=8
459
:
役行者
:2011/06/26(日) 09:00:37
>訊けブログ様
いま、パソコンを使える状況ではないので、簡単に挨拶します。
面白くなってきました。
実相のみが存在する。
いいですね。
460
:
役行者
:2011/06/26(日) 09:08:31
訊けブログ様
なんでないのにあるんだよ!
に、座布団10枚!!
初心者様
もう、始めから仮説なので、当然なのですが、実相モデルも寂光モデルも人間がつくった神観です。
それでも、宇宙創造の神は存在します。
461
:
ぼるぼ
:2011/06/26(日) 09:45:09
読み返して気になるので、誤字訂正します。錬成→練成、下座業→下座行。
462
:
初心者
:2011/06/26(日) 11:48:29
おやっ!
「いやはや、初心者様の求道心プラス負けず嫌い、完敗しました」と言われし役行者様。
負けをお認めになられたということですね!
短期決戦と心得ておりましたが、
役行者様より、
予想外というべきか、予想どおりというべきかの手痛い反撃をくらい、
思いのほかの長期戦となってまいりました。
戦力の一斉投入をと考えておりましたが、ここはひとつ、戦力の消耗をふせぐために、
小出し戦術に切り替えますでございまする。
ブログ管理人様へ
>実生活では皆さん、
「ああなんでアンタは、そんなに理屈っぽいのw」と差別されておられること
と愚考します
わたくしは、小学校の1、2年生のときの担任の女教師より
「この子は、おとなになったら理屈ばかり言うようになって人から嫌われる」
と言われておったでござりまする。
この大予言を肝に銘じて、人前ではできるかぎり理屈は言わぬようにと、
このように考えて生きてまいったでござりまする。
理屈が言える場があるというのは、じつに素晴らしいことではございませぬか。
463
:
ぼるぼ
:2011/06/26(日) 12:15:51
初心者さま
あなたは既に十分真理の書を読み、科学的知識も豊富にお持ちであるにも拘らず、神について何故こんな妄想をしてしまうのでしょう。
>ここでの問題のひとつは、神はどのようにして神ご自身が美人であることを知り得たのかということなのであります
神というのは、藤原敏之さんの言葉を借りれば、「生命であり、理念であり、愛であり、慈悲そのものをいう」
「相対でも、有限でもなく、無限であり、絶対である」
これが生長の家では常識であるはずなんですが・・・・
今、藤原敏之さんの本をパラパラと読みながら思いついたので書き込んでいますが、続いて
「このような神を捉えるには、知識や学力によるのではなく、直感(生命)による以外はないのであります。身体を通し、実際の
生活を通し、さらに動かすことのできない事実を通す以外に方法はないのであります。全てにおいて生かされている事実に目覚め、
その中から救いが実感として生まれるとき、ただ感謝以外にないことを驚きと共に気付くのであります。この状態を信というのであります。」
さすがに実力ある生長の家講師であった故藤原先生は的確な指摘をしているなあ、と感じました。
初心者さまにかけているものはまさにこの信である、とズバリ指摘させていただきます。
464
:
初心者
:2011/06/26(日) 15:27:02
ぼるぼ様へ
ご登場なさって、さっそくの愛深きお言葉に感謝いたします。ですがわたくし、四面楚歌でございます。
無敵をほこった項羽は、戦えばかならず打ち破ってきた劉邦の軍にかこまれます。四方から聞こえてくるのは、故郷であるはずの楚の歌ばかり。楚の人びとにも見放されたかと、項羽は失望落胆いたします。今のわたくしには、項羽の気持ちが痛いほどわかります。
>「相対でも、有限でもなく、無限であり、絶対である」
「美人」とは相対でありましょうか?それとも絶対でありましょうか?有限でありましょうか?無限でありましょうか?
465
:
初心者
:2011/06/26(日) 15:47:55
役行者様へ
>それから、先ほどの設問ですが、美人がどうして、美人を知り得たのか?
それは、鏡があったからです。
つまり、神がなぜ、神を知り得たか?
それは、神性を映し出す鏡があったからでしょう。果たして鏡とは何か?ちょっと、考察中です。
「鏡があった」というのは順序が逆ではありませぬか。
鏡がなかった。だから鏡をおこしらえになった。こういうことではありませぬか。
神は、神ご自身の姿を見るための鏡をおこしらえになった。
これが第一創造でありましょう。
その鏡こそがこの宇宙なのでは?
宇宙を鏡として、神は神ご自身の姿を見てみようとなされた。
見えたときが「ピンポーン」の瞬間なのでは?
466
:
ブログ「雅春先生に訊け」管理人
:2011/06/26(日) 16:13:08
>ぼるぼさま
初めまして。本議論へのご参戦誠に歓迎する次第であります。
さて早速ではありますが、議論の現況を、わたくしなりにご解説申し上げ
ます。
我々は種々のやり取りを行っておりますが、現在、本議論に於けるポイン
トのひとつは、「現象をいかに解釈すべきや」であります。そして「もとも
と五官では認知不能」であるのが實相界なのであるが「いかにせば、五官認
知可能な言葉で以って説明できようか?」といったものも本議論には含まれ
ているように感じております。ですので「(理解するには)信しかない」と
の貴殿お言葉でありますが、これに対しましては「まあ敢えて申すならば、
そこを『信』なき衆生には、どう説明するべきでありましょう?」という一
文を以ってお応えする次第という・・・
追伸
とは申せ、貴殿ご言及のお言葉でありますが・・・藤原第一師団小隊長(
私のことw)としましては「それが正解」なる一文をもって、お応え申し上
げる次第です。
初心者さまとのやり取りでありますが、最終的にわたしが結論するであろ
う言葉の概要は、まあ、その部分になろうかと予想しております。ただしか
し、現時点の初心者さまに於かれては、「最終的には『信』しかない」なる
言葉ですが――「論理が飛躍したカタチにしか映らない」と思われることと
愚考致します。(この主張根拠は・・・「わたし自身が元・無神論者であっ
たからワカル」というものですがwまあでも初心者さまは「無神論者」とは
言い難い御仁でありますけれどもね)
467
:
初心者
:2011/06/26(日) 17:13:33
ブログ管理人様へ
いやいや、ひさしぶりに楚歌以外の歌声が聞こえてきたような心地でござる。ご解説、まことにもってかたじけのうござる。
じつはわたくし、ぼるぼ様の真意がわからぬ段階でこのようなことを書くのは僭越と思いながら、ぼるぼ様のご意見が、これまでここで語られてきたことにたいする、ひとつのアンチテーゼとなっているような気がしなくもないのでございます。
おそらく、ぼるぼ様のお考えは、美は相対ではなく絶対であるというものだろうという気がします。絶対的な美が存在すると、このようなお考えを示されているのではないかと、このように推察いたしております。
もしそうであるとすれば、「寂光論争」に、これまでの議論を根こそぎ否定しかねない、きわめてやっかいな問題が持ち込まれたことになります。わたくしの推測では、ぼるぼ様によって持ち込まれたのはプラントのイデア論なのです。
プラトンのイデア論では、美は絶対的な観念として存在することになります。誰が反対しようとも、それは神の象徴としての絶対観念ということになってくるのです。そして神はまさに、ぼるぼ様が言っておられるように、この絶対観念の表現者ということになってくるのです。
ヘーゲルは、人類の意識は、弁証法的発展をとおして進化し、やがて絶対観念に達するということを言っていたように思います。もしもプラトンのイデア論が正しく、ヘーゲルが正しければ、わたしたち人類は、この現象世界においてすでに表現された神の絶対観念を最終ゴールとしたレースの参加者ということになってしまうのかもしれません。
このような重大な問題が提起されてしまったと、わたくしは勝手に解釈いたしております。もしも神が、真善美の絶対観念をすでに表現なさっておられるとすれば、わたくしたちが直観すべきは神の絶対観念だけということになってまいります。雅春先生や生長の家の諸先生方は、はたしてこのようなことを説いておられるのでありましょうか。
468
:
ぼるぼ
:2011/06/27(月) 01:07:19
ブログ管理人さま
>初めまして。本議論へのご参戦誠に歓迎する次第であります。
と、申されますが、貴殿のブログは開始直後から「お気に入り」にしていますので、なんだか旧知のような
気がしています。そちらでは、広大なる慈門という名前でコメントしています。
貴殿の熱情的な雅春先生への傾倒ぶりには圧倒されています。私は生の雅春先生と接していた世代の人間ですが、
貴殿の世代の生長の家は、像法の時代であって、仏教でいうなら、維摩経が釈迦と同時代人の悟りとすると、釈迦滅後、集大成され北伝し、さらに空海によって日本国教化された大乗仏教の悟りが求められている。
これは、大変きびしい要請であり、おそらく雅春先生の弟子の誰一人として、生長の家再興はできないであろう。
しかし、仏教にも中興の祖という人物が現れたように、時代の要請にあった宗祖的興隆は有りうる。
法然とか、日蓮みたいな宗祖が、現代の日本の混迷せる社会に現れる必要がある。
インターネットという新しい視野が広がっているので、ネット経由での真理普及も多数試みられている。この掲示板や貴殿のブログもそのひとつである。
不特定多数参加者は、練成や講習会に参加している有縁の信者と考えればよいと思う。
質問者にはその気根に適した回答が、どこからともなく、神意によって与えられる。
469
:
ブログ「雅春先生に訊け」管理人
:2011/06/27(月) 06:30:46
>ぼるぼさま
>広大なる慈門という名前でコメントしています。
ああ!これはこれは(笑)いつもありがとうございます。
コメント欄へなかなか返信できずに、すみません。以前、コメント欄が不調
となりまして(コメントを入れると全文消去なんて事件がw)非常に神経質に
なっております(笑)でも、歓迎致しますのでどうぞよろしくお願いします。
>私は生の雅春先生と接していた世代の人間ですが、
羨ましい限りであります。「い――(30秒)――な――(30秒)――」
が本音でございます。
>インターネットという新しい視野が広がっているので、ネット経由での真理普及も多数
>試みられている。この掲示板や貴殿のブログもそのひとつである。
特にこの掲示板は、可能性無限大でありましょう。なにせ管理人様が聡明な
方であります。やはり管理人は(黒澤映画に喩えるならば)志村喬さんでなく
ては勤まらぬでしょうね・・・あっ、これは別に他の掲示板が「管理人が三船
敏郎だ」と言っているわけではありません(笑)そして「管理人も三船敏郎だ
けど、投稿者まで三船敏郎だ」なんて、一言も申しておりません(笑)
>不特定多数参加者は、練成や講習会に参加している有縁の信者と考えればよいと思う。
いやーしかし、柔軟な発想をお持ちの方ですね。これからもご指導をよろし
くお願い致します。こちらの掲示板でならば(コメント不調に見舞われず)活
発に意見表明ができそうです。
>初心者さま
いかにせば、〝五官認知可能なコトバや事象〟で真理を表現できるのか?
・・・非常に楽しみなやり取りです。そして貴殿なかりせば、こんなやり取
りは不能でありましょう。
ただ我々が取り組むテーマですが云うまでもなく、かの道元すら「半生をか
けて悩みぬいた」という、壮大なものであるという・・・
470
:
初心者
:2011/06/27(月) 10:42:42
ブログ管理人様へ
真理を「五官認知可能なコトバや事象」で語り、その妥当性について語り合うということは、とくに「真なき衆生」においては必要なことでありましょう。何を信じてよいのか、それさえわからぬのが「真なき衆生」でありますから。
「絶対観念」なる言葉が登場したことでもありますし、ここでの論点をわかりやすくまとめておきたいと思います。わたくしは、雅春先生がなぜ実相世界をお説きになられたのか、根本のところでそれが理解できずにおります。倉田百三氏がいわれているように、「寂光であればついてゆけるが、実相世界ではついてはゆけぬ」ということになるのであります。
実相世界と実相は異なるものだと思います。寂光に実相はありますが、寂光は実相世界ではありません。雅春先生がお説きになっておられる実相世界とは、具体的な形として存在する、神の創造せし世界であると理解しております。
ここでひとつのことが明確になります。実相世界が存在するのであれば、それですべてが完結するということであります。完結するということは、「現象はない」ということになってくるのであります。
これはきわめて明確な理屈であります。実相世界が存在するのであれば現象世界は必要ない。これは、当然の論理的帰結であります。
ここで神はなぜ実相世界を創造なされたのかと考えてみます。当然のことながら、それは真善美を表現するためであります。この表現が、実相世界において完結します。ただし、この真善美とは、神の絶対観念であります。絶対観念とは、いっさいの経験を経ずして知りうる観念であり、何らかの方法で表現しうる観念であるかと存じます。
これは、言葉を変えていえば、実相世界は神の絶対観念によって支配された世界ということになります。どんなにあがこうとも、神の絶対観念の外に出ることはできないという世界なのであります。
これは、あらかじめ先行きがすべて決定せられた世界ということでもあります。最終的には、神の絶対観念にしたがうしかないという世界であるような気がいたします。雅春先生がお説きになられた実相世界とはこのような世界ではないかと、わたくしには感じられてならないのです。
ここでは、実相世界に対抗するモデルとして「寂光モデル」を取り上げています。「寂光モデル」では神の絶対観念は存在せず、神の本質である真善美を表現するのは、現象世界における人間ということになってまいります。このあたりの対抗軸をわたくしが想定しておりますことを、まずはご理解ください。
当然のことながら、こうした対抗軸には相当な問題点がござりましょう。こうした点についても話し合ってゆければと考えております。
471
:
初心者
:2011/06/27(月) 11:55:47
>質問者にはその気根に適した回答が、どこからともなく、神意によって与えられる。
回答があたえられるべきは、わたくしではなくあなた様であるような気がいたします。
472
:
役行者
:2011/06/27(月) 12:05:12
>初心者様
いまだ、パソコンを使える状況ではなく、携帯からなのでご了承ください。
初心者様はただ単なる負けず嫌いだけではなく、論文に筋が通っております。ここまで来ると、本当に頭が下がります。
さて、トキさんから待ったがかかるかも知れませぬが、私も谷口実相哲学の範疇から外れるかもしれない持論から話すしかない状況下に置かれてきました。
まず、実相世界が存在するなら、そこは無限生長の世界でしょう。つまり、矛盾はないのですが、弁証法的に進化向上していく世界と存じます。
次に、ここからはますます持論なのですが、実相世界は来るべき地球の未来に必ず実現すると信じております。
確かに、いまは寂光世界と存じます。いや、地球創成のころから、寂光は宇宙に内包されていたと思います。
でないと、人間を中心とした神の第二創造に理由が付かないのです。
初心者様の仰る通り実相は神の理念として、存在しておりますが、実相世界は、現象的にはいまだ存在してないのでは?
いまは、神の地球計画最終章第一幕といったところでしょうか?
473
:
トキ
:2011/06/27(月) 13:25:33
>>472
待ったはかけませんから、気にしないで書いて下さい。
474
:
役行者
:2011/06/27(月) 14:23:22
>トキ様
お言葉に甘えて。
475
:
ブログ「雅春先生に訊け」管理人
:2011/06/27(月) 17:16:56
>皆さま(笑)
熱い議論がつづいておりますね(笑)おそらくたぶん、種々真理探求サイ
トあれど、ここまでハイレベルなやり取りは「他に存在せぬ」とこを確信す
る次第であります。道元禅師も「うむむむむ」と申されておいでのことであ
りましょう。
さて過熱する議論に「入りたいけど入れない」そんな方々のために資料を
用意致しました。今後この議論に入られる際に参考になさってください。
● 五つの人生観
http://blog.livedoor.jp/con5151/preview/edit/2e90e990bfbdc233b98a7e6cf5ccd3f8
雅春先生ですが、世の中の思想を五種類に大別されておられます。現在の
やり取りに関して「あっ、初心者さまのこの仮説は(3)ではないか?」
「役行者さまのは(4)から(5)なのでは?」「ブログ管理人・・・実は貴様、お前の意見
は(1)だな!?」などという使い方が出来ようかと思います。
まあ云わば便利な「思考判定用モノサシ」と云えるでありましょう。
<一部抜粋>
(1)
※※※※※※※※※
※ 現象 ※
※ ※
※ 即我 ※
※※※※※※※※※
真我も仮我もそんな区別はない、「我」というのは一種の肉体現象であって、
肉体我というものの他に「我」というものはなく肉体が消えれば「我」も消えるという説。
(2)
※※※※※※※※※ ※※※※※※※※※
※ ※ ※ 我 ※
※ 肉体 ※ ※ ※
※ ※ ※ 【霊魂】 ※
※※※※※※※※※ ※※※※※※※※※
この見解は一方では現象の他に超越神を見、肉体の他に「我」というもの
を仮定し「我」は肉体と別にある。肉体が滅しても「我」というものは霊界
に残るが、その「我」はつまるところ現象我すなわち変易するわれであって
常恒のものではなく、いろいろに生まれ更わったり変易して苦しむという説。
(現世の他に霊界の存在を認む)
(3)
※※※※※※※※※
※ 現象我 ※
※ ※
※ 【真我】 ※
※※※※※※※※※
真我は現象我の内部にあると観る。
現世、霊界の現象我を〝有り〟と観ている。
(4)
※※※※※※※※※
※ 真我 ※
※ ※
※ 【現象我】 ※
※※※※※※※※※
真我の内部に迷いの要素ありて、真我が迷いの影を映して生じたのが現象我であ
ると観る。
(5)
※※※※※※※※※
※ ※
※ 真我 ※
※ ※
※※※※※※※※※
實相独在、真我独在であると観、現象は顕われていても顕われなくとも、
捨てても捨てなくても、そんなことに関せずに、如来があり、涅槃がある。
即身即仏久遠実成の説である。
476
:
ブログ「雅春先生に訊け」管理人
:2011/06/27(月) 17:18:09
ああやはり・・・改行で表が破壊されました(笑)
まあ詳しくは、弊ブログまでお越しください。
477
:
初心者
:2011/06/27(月) 17:58:03
役行者様へ
携帯でのご投稿、まことにご不便なることとお察しいたします。たとえ短い文章であったとしても、ご意見をお聞かせねがえれば、ありがたく存じます。
>確かに、いまは寂光世界と存じます。いや、地球創成のころから、寂光は宇宙に内包されていたと思います。
でないと、人間を中心とした神の第二創造に理由が付かないのです。
わたくしも、役行者様と同意見です。実相世界がすでに完成しているとすれば、神の意志としての第二創造の説明がつきません。
ただこのことにかんしましても、「反・生長の家」的ともいえる持論があります。
神が神ご自身を表現なさるために実相世界をおこしらえになったとすれば、つづいて、鑑賞者としての人間をおこしらえになったと考えられます。神は、「わが創造せしすばらしき世界を讃嘆せよ」と、このように人間に命じられたことでありましょう。すかさず人間たちは、「さすがに神がつくられた世界だ。どこまでも完璧でスキがない」と、口々に讃嘆しあいました。しかしそのうち物足りない気分におそわれることになります。実相世界では、9回裏ツーアウトからの大逆転もなければ、役行者様のお好きな花金もなかったのです。
人間たちは、「こんな退屈な世界はもういやだ」と考えるようになりました。やがて念のレンズをこしらえ、それをゆがませることで、実相世界を、パースペクティブの効いた不完全な世界として見るようになったのです。
こうして人間たちは、実相世界からの逃走をはかりました。神様があらわれて、「こんな不完全な世界は、本物ではない。わが創造せし完全なる世界にもどれ」と説得しますが、人間たちは聞こうとしません。ああだこうだと押し問答となり、この不調和な波動により、現象世界にさまざまな悪が出現することとなりました。
今も人間たちは、実相世界にもどそうとする力と戦っています。戦いがつづくかぎり、現象の悪が消えることはありません。それでも人間たちは、「あんな世界にもどるのはいやだ」と戦いをつづけているのです。
このシナリオでは、当然のことながら、実相世界にもどそうとする神の力のほうが、やや優勢であります。やがて人間は力つき、実相世界へとつれもどされてしまいます。役行者様の「実相世界は来るべき地球の未来に必ず実現すると信じております」とのお言葉が実現することになるのです。
>初心者様の仰る通り実相は神の理念として、存在しておりますが、実相世界は、現象的にはいまだ存在してないのでは?
こちらのシナリオが、これまでここで話されてきた「寂光モデル」でありますね。わたくしもこのように考えます。ですから、雅春先生が実相世界をお説きになっておられる理由を判然と理解することができないのです。
ただひとつはっきりしておりますのは、もしも雅春先生が、実相世界ではなく寂光を説いておられたとすれば、教義は今よりずっとわかりやすいものとなり、仏教界からの反発もなければ、倉田百三氏による疑問も提出されることはなかっただろうということです。
しかしこれでは、生長の家ではなく、並の宗教として、仏教の一派ぐらいに数えられるのが関の山であったと考えられます。「いまだ実相世界は顕現せず」。このように説くのはやさしいことなのですが、それをなされず、「絶対観念」の問題や「第二創造不要論」、あるいは「人類造反説」も含めて、より困難な説明を要するであろう「実相世界はすでに顕現せり」のお考えを雅春先生がお説きになられたということは、やはり何か重要なお考えがあってのことだという気がしてなりません。
それにしましても、役行者様が「持論」を隠し持っておられたとは、まったく存じておりませなんだ。ひょっとして生長の家に、隠れ持論保持者はあんがい多いのでありましょうか。
480
:
役行者
:2011/06/27(月) 18:25:48
>雅春先生に訊けブログ様
五つの人生観!なかなか、いいタイミングにもってこられました。
鋭いです。
雅春先生は、唯神実相までの過程に、神を裁く、神と創造主の二元論でこの世は成り立っているという、聖道へなどの思想を経由しております。
そのように、汗と涙と血の滲むような努力のなか、実相が流出し、全身で感じ取られたのでは。
確かに、初心者様が仰る通り、実相をキャッチするには雅春先生同様多くの聖者が体験してきたよう、予期されない心が大切だと、存じます。ただ、雅春先生に限らず、実相を体現された方は必ず、いとも簡単に、ただ気づけば良いんだよ!と仰るのです。
聖者の方々のお言葉に甘えてみるのも、また一つ、悟りに近づく方法かもと、思う今日この頃なのです。聖者の方々の血の滲むような努力に敬意を表しながら・・・
481
:
役行者
:2011/06/27(月) 18:28:42
トキ様
478 479 を削除お願いします。
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