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生長の家 「今の教え」と「本流復活」を考える
392
:
初心者
:2011/06/19(日) 22:55:58
山ちゃん1952様へ
カトリックの堕落を見て、大勢の人々がプロテスタントに改宗しました。改宗した人々の心に何がおこったのでしょう。宗教の堕落は矛盾です。矛盾のなかに、人々は共通する何かを見いだしたとはいえないでしょうか。
矛盾のなかに何らかの同一性を見いだしたからこそ、人々は心をひとつにして、新しい信仰に魂のよりどころを求めはじめた。このように考えるのは不可能なことでしょうか。同一性を見いだすこともできずに、それでも人々は心をひとつにできるものなのでしょうか。強大な敵と命がけで戦えるものなのでしょうか。
たとえプロテスタントが同一性を見いだしていたにしても、それでは生長の家はどうなのでしょう。おっしゃっておられるとおり、教団内に生じている矛盾のなかに何らかの同一性を見いだせるのかというと、たしかなことは何もいえません。もしも同一性を見いだせるチャンスがあるとすれば、それはルターのような人物があらわれたときだけなのかもしれません。
「妥協」というのは、誰の何にたいする妥協なのでしょうか。わたくしのいう「和解」とは、弁証法でいうアウフヘーベンのことであり、「温存」とは、「矛盾のなかに同一性を見いだすことを認める」という、わたくし流の弁証法的決着の方法なのです。この掲示板ではこういう論法でこれまで書いてきました。
「和解」と「温存」という言葉を、わたくしは、これまでのところ弁証法に限定して使っています。それ以外の意味で使ったことはありません。もしも「妥協」という言葉を弁証法以外の意味で使ってらっしゃるのであれば、話がかみ合うことはありません。いまいちど吟味していただければありがたく存じます。
ちなみに、近代的知性とは、「戦後の学校教育によって育まれた知性」という意味で使ったものです。今のところ、こうした定義で十分ではないかと思います。
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