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生長の家 「今の教え」と「本流復活」を考える

449初心者:2011/06/25(土) 18:24:59
もしもこの掲示板の「寂光論争」を読んでおいでの方がおられるとすれば、「なぜこのようなラチもないことを言い合っているのか?」との疑問を持たれると思います。「寂光だろうが実相だろうが、どっちでもいいではないか」、とお考えになられると思います。

ここで「何が問題なのか」ということをはっきりさせておこうと思います。問われているのは「実相のあらわれ方」なのです。実相はどのようにしてあらわれてくるのか。これが問題になっているのです。

「実相モデル」の場合は、実相を覆い隠しているのは「念のレンズの曇り」といわれています。実相はすでに、すぐそこにあるにもかかわらず、「念のレンズの曇り」によって見ることができずにいるということになるのです。

「実相モデル」では、実相を見るためには「念のレンズの曇り」を取り除けばよいということになります。取り除きさえすれば、そこに完全なる実相があらわれてくるということになります。

「寂光モデル」の場合は、実相は、いまだ完全にはあらわれていません。実相は今も流出中ということになるのです。したがって、「念のレンズの曇り」を取り除いただけでは実相を見ることはできません。実相を見るためには、実相が流出してくる現場をキャッチしなければならないということになるのです。

わたくしがシャーマニズムやタオイズムに惹かれますのは、シャーマンやタオイストが、今まさに流出せんとしている実相をキャッチしようとしているからです。シャーマンは、24時間油断なく、実相が出てくる現場を嗅ぎまわっています。実相をとらえるために、どんな些細な出来事にも注意を払おうとしています。

流出の現場に運よく出くわせたとしても、それだけでキャッチできるわけではありません。必要なのは「初心」つまりは「予期されない心」なのです。これはむかし友人から聞いた話です。

男が山にこもって修行をしていました。目的は悟りを得るためです。あるとき、サトリと名のる小動物があらわれて男の邪魔をするようになりました。修行をはじめると、かならずあらわれて男をからかうようになったのです。

男はサトリを捕まえようと、いろいろと画策しますが、すべて失敗してしまいます。男は、サトリに心を読まれていたのです。

ある日、男が斧で巻き割りをはじめました。サトリがあらわれて、男をからかいはじめました。男は、サトリを無視して巻き割りをつづけました。すると、何かのはずみで斧の先が飛んでサトリに当たりました。サトリは気絶し、男はようやくサトリを捕まえることに成功したのです。

この話は、香厳和尚が悟りを開いたときの話と似ています。香厳和尚は、竹ぼうきで道を掃除していました。ほうきの先が、道に落ちていた瓦のかけらにあたり、飛ばされたかけらが竹にあたって、「コーン」と音がしました。この音を聞いて香厳和尚はにわかに悟りを開いたのです。

いったい何がおきたのでしょう。この音こそが「ピンポーン」だったのです。実相が流出する現場を、香厳和尚はキャッチしたのです。しかしなぜ、いつもはキャッチできなかったのに、このときにかぎってキャッチできたのでしょう。

それは、キャッチするためには「予期されない心」が必要だからなのです。実相は、狩人が狙う獲物です。修行者は狩人です。狩人は、獲物の心と動きを読まなくてはなりません。そのために、心をつねに獲物に集中させておく必要があるのです。

しかし、それだけでは獲物を捕らえることはできません。獲物に心を読まれてしまっていたのでは、いとも簡単に逃げられてしまいます。そればかりか、下手をすると、狩人自身が獲物にされてしまいます。

実相をキャッチするには、こちらの心を読まれてはならない。狩人は、つねに「予期されない心」でいなければならない。サトリの話や香厳和尚の逸話は、このことを教えてくれているようにも思われます。

「寂光論争」で問われているのは、実相はどうやればキャッチできるのか、ということです。このキャッチの仕方に、「実相モデル」と「寂光モデル」では大きな違いがあると考えて、共通した見解を見いだそうとしているところなのです。


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