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『史実・教義の考察』用スレッド
1
:
若鷹の掲示板 管理人
:2009/01/09(金) 16:11:36
若鷹別館『史実・教義の考察』用掲示板(
http://www2.ezbbs.net/35/chidou-waka/
)を継承する『史実・教義の考察』用スレッドです。
『史実・教義の考察』に関する論文などのスレとしてご使用下さい。
なおそれに関する意見などは【若鷹の掲示板 継承スレ】又は【雑談スレ】へ。
なお、2008年11月に天城五兵衛氏が発表された『沖浦氏の所謂「人本仏迹論」を正す−1〜13』を
投稿者の氏名を 天城五兵衛(管理人代理投稿)として掲載させていただきます。
2
:
天城五兵衛(管理人代理投稿)
:2009/01/09(金) 16:13:27
沖浦氏の所謂「人本仏迹論」を正す−1
名前:天城五兵衛 日付:11月10日(月) 23時50分
第二次宗門事件勃発後、日蓮正宗には邪義がはびこりだした。
「三宝破壊」に起因した「法主本仏論」が、その際たるものであった。
宗門の公式機関誌「大日蓮」1991年6月号では、「創価学会における御宗門批判のキャンペーンについて」と題する論文が掲載された。
内田和子なる信徒の論文ではあるが、公式文書に、「(阿部日顕管長は)現代における大聖人様」と発表している。
詳細は、地涌選集・第171号等を参照願いたい(www.houonsha.co.jp/jiyu/04/171.html)。
狂える日蓮正宗の邪義は加速した。
1991年9月の「大日蓮」では、創価学会古参幹部と日蓮正宗の能化との間での交わされた文書が掲載されており、大御本尊と日顕管長とを「不二の尊体」と規定し、両者への信心を信徒に求める邪義を展開したのである。
「本宗の根本は、戒壇の大御本尊と唯授一人血脈付法の御法主上人であります。具体的には、御法主上人の御指南に随従し、御本尊受持の信行に励むことが肝要です。なぜならば、唯授一人の血脈の当処は、戒壇の大御本尊と不二の尊体にましますからであります。したがって、この根本の二つに対する信心は、絶対でなければなりません」等としている。
詳細は、地涌選集・第256号などを参照願いたい(www.houonsha.co.jp/jiyu/06/256.html)。
1991年8月のある式典で、高野法雄(当時・調御寺住職、現・平安寺住職)が、いわゆる「御書部分論」を説法。
「大聖人の御法門の一切は、あますところなく日顕上人猊下が所持あそばされ、その筋目の上から種々の御指南を下されるのであります。私たちが迷うことなく、日顕上人猊下の御指南に信伏随従する所以は、ここに存するのであります」
詳細は、地涌選集・第277号などを参照願いたい(www.houonsha.co.jp/jiyu/07/277.html)。
同月、行学講習会で、元海外部書記で「C作戦」にも関与した福田毅道が日顕管長を「本」で御本仏・日蓮大聖人は「迹」と主張した。
「立つ浪というのは次から次へと起こっては消えていくものだから、いま起こっている波が本で、過ぎ去った波が迹である。従って大聖人や日興上人、また歴代法主も過去だから『迹』で、当代の法主・日顕が『本』である。しかも日顕の指南の中でも新しい指南が本であり、昔の指南は迹である。従って新しい指南に沿っていくのが正しい」
詳細は、フェイク・第620号などを参照願いたい(golgo-to-maria.kill.jp/?cmd=read&page=%E3%83%95%E3%82%A7%E3%82%A4%E3%82%AF_%E7%AC%AC620%E5%8F%B7)。
この様に、日蓮正宗は「日顕宗」へと堕して行ったのである。
私達は、大聖人の仏法を歪曲した「日顕宗」を各地で糾弾し、その邪義に騙されている法華講の方々を覚醒させ、救済する戦いを展開していいる。
そんな折、2008年10月、創価学会員を自称する沖浦克治氏、耕治氏親子が、インターネット上の複数の掲示板で、上記の日顕宗と一脈通じる邪説を開陳した。
曰く、「ご本仏と言えども、この世の関係では私が本、大聖人様が迹」等云々。この論を、便宜上「人本仏迹論」としよう。
この書き込みを機に、心ある複数の学会員諸氏が、「人本仏迹論」の正当性を論ずるべく詰め寄った。
しかし、沖浦氏は諸氏の忠言に耳を傾けることはなく、一方的に自説の正当性を主張し、却って忠言の諸氏を悪口罵詈、誹謗中傷、掲示板へのアクセス禁止措置を講じる暴挙に至った。
氏の子息である、沖浦耕治氏が、ネチケット違反の書き込みを「富士宮ボーイ掲示板」に貼り付けて来た為、同掲示板の常連である私は、沖浦両氏に対し、第三者の運営する掲示板にて厳正に正邪を論ずる対論を再三に亘り呼びかけた。
残念ながら、両氏はザリガニ宜しく私への誹謗中傷、挑発行為をするのみで、対論の提案を黙殺し続けたため、止むを得ず対論終結の判断を下した次第である。
しかし、同氏の邪義・邪説に同調する様子のメンバーが幾ばくかいる様に伺えたため、本掲示板でその邪義・邪説を正す事とした。
破邪顕正に際しては、自説を用いるよりも、私達の師匠である池田名誉会長の講義、指導を優先して用いる事とした。
また、沖浦両氏の人格を否定、批判を目的とするものではなく、あくまでも両氏の邪義・邪説の批判である事を明記しておく。
天城五兵衛 拝
3
:
天城五兵衛(管理人代理投稿)
:2009/01/09(金) 16:14:26
沖浦氏の所謂「人本仏迹論」を正す−2
名前:天城五兵衛 日付:11月10日(月) 23時51分
下記は沖浦氏の持論である、所謂「人本仏迹論」である。
沖浦耕治氏が「富士宮ボーイ掲示板」に、2008年10月21日午前7時に投稿した分である(読み易くするために、一部改行位置を改めたが、原文はそのままにしてある)。
閲覧者の方で、自分の信心に不安を感じる方は、邪説に惑わされぬ様、注意深く読んで頂きたい。
*******(ここから「沖浦説」)
池田先生が、曼荼羅は虚空会の儀式を紙に写し取ったものだ。(趣意)と言われている。
そして、虚空会は迹。と明言されておられる。虚空会が迹で、写し取った曼荼羅が迹は理の当然じゃないですか。何故、小理屈がいりますか?
仏法は人間のための教えである。教えのの大原則なんですよ。国の憲法みたいなものです。仏法が人間のためなら、人間が本。仏法が迹。
曼荼羅は仏法に含まれます。物凄く簡単明瞭な理屈です。歴代の仏は曼荼羅なしで悟っているんです。全て内得信仰で悟ります。釈迦、天台、伝教、日蓮大聖人様、戸田先生。全てそうです。この事実すら忘れ果てた不心得者が、ややこしくしているのです。日蓮正宗の害毒から抜けられない人たちです。寛師の毒に侵されています。
例えば大聖人様と私共。身体は仮のものですから迹ですね。恐れ多いので私で説明いたします。大聖人様もおなじですよ。沖浦克治と言う人間。これはこの世での仮の姿です。ですが命は妙法なんですね。この身体は迹。次に生まれる時は違う身体です。命は同じです。妙法の当体です。本です。これは大聖人様も同じです。そして、自分と他人は自分が本、他人は迹。ですからご本仏と言えども、この世の関係では私が本、大聖人様が迹。命は双方と差別なく妙法の当体ですから、本です。ここは差別が無いのです。
『然れば久遠実成の釈尊と皆成仏道の法華経と我等衆生との三つ全く差別無しと解りて妙法蓮華経と唱え奉る処を生死一大事の血脈とは云うなり、』(生死一大事血脈抄)
現実社会の出来事から御書を読む。依義判文と言い、現実主義です。反対が依文判義で、教条主義で原理主義です。
日蓮系は古来二つの道しかありませんでした。教条主義で玉砕。現実主義で堕落。創価学会だけが、現実主義路線でありながら堕落致しませんでした。戸田先生が御書を依義判文なされて読まれたからです。大聖人様とご同様のご境涯でなければ不可能です。世界一のお方だったでしょう。
曼荼羅の現実はこれまでの思い込みとは異なります。海外のメンバーは曼荼羅がない方が多数いらっしゃいます。空の仏壇にお題目を唱え、見事な功徳が出ておられます。私共は、この現実からスタートせねばなりません。依義判文です。そうすると、曼荼羅が絶対ではないことがわかります。曼荼羅のご安置は、絶対条件ではなく、充分条件です。事実なくても大功徳が出ていますから。
大聖人様も曼荼羅なしでのお悟りです。戸田先生も同じく牢獄の中で曼荼羅はありません。お数珠もなく、牛乳瓶のふたで作られておられます。末法を導くお二人の偉大な仏法者が、お二人とも、曼荼羅に頼らず悟りを開かれた事実。門下なら当然大前提にすべきでしょう。この前提を歪め、曼荼羅崇拝を広め信徒支配を企んで来たのが、日蓮正宗と言う名の邪教です。曼荼羅が本。これね、邪義ですよ。
なくても功徳が出て、戸田先生や大聖人様がお悟りになられた。迹じゃないですか。はっきりしてますよ。
(「沖浦説」ここまで)*******
この説に同調出来る様であれば、基礎教学を一から学び直すことをお勧めする。
4
:
天城五兵衛(管理人代理投稿)
:2009/01/09(金) 16:15:51
沖浦氏の所謂「人本仏迹論」を正す−3
名前:天城五兵衛 日付:11月10日(月) 23時55分
はじめに、「本迹」の立て分けについて、「『諸法実相抄』の池田会長講義」の講義から抜粋する(50頁〜53頁)。
*******(ここから「池田会長講義」)
妙法蓮華経すなわち南無妙法蓮華経が仏の生命の常住不滅の体であり、釈迦・多宝の二仏といってもこの南無妙法蓮華経という体があらわす働きにほかならない、との仰せであります。
体は“本体”、用は“働き” であります。まさしく御本尊のお姿であります。御本尊における釈迦・多宝は 「南無妙法蓮華経 日蓮」と中央におしたための脇士となっており、妙法の用の仏として位置づけられております。釈迦・多宝といえども、またあらゆる十方三世の諸仏といえども、妙法の働きであります。南無妙法蓮華経とは、日蓮大聖人のご生命そのものであり、故に大聖人は、十方三世の諸仏を動かしていく当体であられる。私どもも御本尊を受持することによって、あらゆる仏・菩薩を動かしていくことができるのです。なんと私どもには、偉大な境涯の海が開けていることでありましょぅか。本当の信力・行力を貫いていけば、当体義抄文段に「我れ等妙法信受の力用に依って即蓮祖大聖人と顕るるなり」とあるごとく、大聖人の生命が滾々とわいてくるのであります。
また本とは「本地」で、本来の境地をいい、迹は「垂迹」で、影として映った姿をいいます。
これを、もう少し分かりやすくいうと、本迹について天台大師は、天月と池月をもって示しております。空に輝いている本物の月が“本“で、他の水面に映った月影が“迹“であるというのであります。
考えてみると、影は、池だけに映るわけではない。海の水面にも映りますし、湯飲みの茶の面にも映ります。ガラスの面にも映ります。すなわち、十分に光を反射する、滑らかな面であれば、そこに、はっきりとした影を映すことができるのであります。こうした光を十分に反射する面は、現代的にいえば、スクリーンと呼ぶことができます。
したがって、法華経本門において、仏の本地を久遠実成と明かしたということは、久遠五百塵点劫成道の仏身が本地で、それ以前の始成正覚の釈尊は、当時のインド社会というスクリーンに映った影となるのであります。更に、地涌の菩薩が、本地・久遠元初の自受用報身如来であるということは、久遠元初の仏が、法華経の儀式というスクリーンのうえに映した一つの影ということになるのであります。
地涌の菩薩ばかりでなく、釈迦・多宝の二仏も、久遠元初の自受用報身即・南無妙法蓮華経という本地の仏が、虚空会の儀式のうえに映し、あらわした影である、との仰せであります。
これを私どもの生命に約していえば(約すとは、立場からという意義である)私どもは、さまざまな社会をスクリーンとして、さまざまな姿=影を映しております。家庭というスクリーンでは、一家の長という姿、会社というスクリーンでは、たとえば課長、学会の組織というスクリーンでは総B長、国際社会というスクリーンでは日本人という影、そして生物の世界をスクリーンとしては、一個の人間という影を映しているといえる。
これらは”影“である故に、スクリーンが揺れれば、影も揺れる。スクリーンはそのままでも、やがて消える影もあります。学生という影は、卒業によって消えるのであります。なかには、早く消して、新しいスクリーンに新しい影を映したいと思いながら、なかなか消せなくて困っている人もいるようですが‥‥‥。
では、消えないで、永続していく本体はいかなるものか。人間の過ちの根本は、仮にあらわれているにすぎない影を、自らの不変の本地であるかのごとく錯覚してしまうところにあるといって過言ではないでしょう。先にあげたうち、人間であるということは、比較的、本地に近いし、生き、行動していくうえで、忘れてならない原点ではあります。
だが、それすら、より深く考えれば、生死流転する無常の存在にすぎない。故に、この生老病死という流転、変貌の人間存在を見詰め、生死を超えて常住の自己の真実の本地を見いだそうとしたのが、仏教なのであります。そして、結論的にいえば、南無妙法蓮華経こそ、其の常住不滅の体であり、それが自己はもとより宇宙万物の実相であると究め尽くしたのであります。
故に、妙法蓮華経こそ“本仏”、それに対して、釈迦・多宝の二仏は“用の仏”“迹仏”であると仰せられるのであります。
(ここまで「池田会長講義」)*******
5
:
天城五兵衛(管理人代理投稿)
:2009/01/09(金) 16:17:05
沖浦氏の所謂「人本仏迹論」を正す−4
名前:天城五兵衛 日付:11月10日(月) 23時57分
日蓮大聖人曰く、
「日蓮仏法をこころみるに道理と証文とにはすぎず、又道理証文よりも現証にはすぎず」(三三蔵祈雨事)
「法門をもて邪正をただすべし利根と通力とにはよるべからず」(唱法華題目抄)
余りにも有名な御文なので引用の必要も無いが、破邪顕正のために敢えて引用した。
教学において持論を展開するならば、当然のことながら「文証」をあげる事が第一である。
而して後、持論を裏付ける「文証」が道理に適っているのか証明するために「理証」が必要になる。
そして、持論の正当性を証明するために「現証」を提示するのが肝要である。
これとは逆に、「現証」を正当なものと証明するならば、理論的な裏付けが必要である。
「文証」であり、「理証」である。これが無ければ、「鰯の頭も信心から」となってしまう。
然るに、「人本仏迹論」には、確固たる「文証」が無い。
下記は、文証の提示を質した際の沖浦氏からの「若鷹の掲示板」での回答である(2008年10月26日)。
*******(ここから「沖浦説」)
文証はね、理解能力が無い人には無意味なんです。現証が一番理解しやすいんです。その最もわかりやすい現証すら理解しようとしない方ですよ。文証わかる分けないじゃないですか。
これね、こう言うふうになるんですよ。ホント、スゲー!で、どうして?
〜これが現証。
理屈はね、これこれこの通りです。ウワッ〜! 超納得〜〜!!!
〜これがね、理証。
そしてね学説的な裏づけがこの論文です。イヤ〜〜!本物なんだね〜〜〜!!
〜これね、文証。
こう言う順番なんです。
ところがね、入り口の現証すらわからない。(以下略)
(「沖浦説」ここまで)*******
何やら、日顕宗管長の過去の説法を彷彿とさせる表現と酷似している点が面白い。
「現証」を証明する理屈の「理証」と学説的な裏付けの「文証」はどこにあるのか?
自己完結では、人々の理解は得られない。
ともあれ、「人本仏迹論」には、確固たる「文証」が無いのである。
また、大聖人は「法門の事はさどの国へながされ候いし已前の法門はただ仏の爾前の経とをぼしめせ」(三沢抄)と説かれているが、私達は、佐渡流罪以前に著された御書を、「迹門」と呼ぶであろうか?
「立正安国論」は迹門と習っただろうか?
十大部である「唱法華題目抄」は爾前の教えとして、軽んじてきただろうか?
答えは「否!」である。何故なら、本迹相対する必要が無いからだ。
しかるに、沖浦氏は何故「人本仏迹論」を主張したのか?その真意は分かりかねるが、全く無意味の本迹相対であることから、かの説は邪論・邪説であることは明白である。
6
:
天城五兵衛(管理人代理投稿)
:2009/01/09(金) 16:18:16
沖浦氏の所謂「人本仏迹論」を正す−5
名前:天城五兵衛 日付:11月10日(月) 23時58分
それでは、各論に入って誤りを正して行こう。
*******(ここから「沖浦説」)
池田先生が、曼荼羅は虚空会の儀式を紙に写し取ったものだ。(趣意)と言われている。
そして、虚空会は迹。と明言されておられる。虚空会が迹で、写し取った曼荼羅が迹は理の当然じゃないですか。何故、小理屈がいりますか?
(「沖浦説」ここまで)*******
池田名誉会長が、一体いつ、どこで、誰に対して、この様な発言をしたのか?
出典元を明記出来ない以上、同氏の脳内説法であると言われても否定出来ない。
昭和52年に聖教新聞者から発刊された「『諸法実相抄』の池田会長講義」では、下記の講義がなされている(42頁から44頁)。
*******(ここから「池田会長講義」)
法華経は、この真理を、あるいは法説し、あるいは譬喩説し、あるいは因縁によって説いて、在世の声聞の弟子たちを得脱せしめたのち、滅後の未来のため、多宝の塔が涌現し虚空会の壮大な儀式が展開されていきます。「釈迦多宝の二仏と云うも」うんぬんの文は、この本門の虚空会において、多宝塔中に釈迦・多宝の二仏が並座しますが、そこにあらわされたものも、しよせんは妙法蓮華経にほかならないということであります。
この御文は、非常に深い含蓄のある表現になっています。一つは、釈迦・多宝の二仏といっても、妙法蓮華経の一法が衆生を利益するその働きを、具体的な仏という形によってあらわしたのであるということです。これはこのあとに出てくる「仏は用の三身にして迹仏なり」に対応するもので、経文に説かれる荘厳な仏も、結局は、大宇宙に遍満する仏界という妙法蓮華経の働きを表現したものであるということです。
したがって、仏と同じく、十界すべて、妙法蓮華経のあらわす、生命の働きであるというのが、ここに仰せの元意なのであります
もう一つは「宝塔の中にして (釈迦・多宝の二仏が)・うなづき合い給ふ」とあるように、虚空会の儀式によって、釈迦・多宝の二仏が説きあらわした法とは、妙法蓮華経であるということです。釈迦が説き、多宝が合意し証明したことを「うなづき合い給ふ」と仰せられています。
こうした宝塔の儀式が何をあらわしたものであるかについて、戸田先生は次のように講義をされています。
「釈迦は宝塔の儀式を以て、己心の十界互具一念三千を表しているのである。日蓮大聖人は、同じく宝塔の儀式を借りて、寿量文底下種の法門を一幅の御本尊として建立されたのである。されば御本尊は釈迦仏の宝塔の儀式を借りてこそ居れ、大聖人己心の十界互具一念三千――本仏の御生命である。この御本尊は御本仏の永遠の生命を御図顕遊ばされたので、末法唯一無二の即身成仏の大御本尊であらせられる」
この戸田先生の講義の意味するところも、日蓮大聖人が本抄で仰せられているところと全く合致するのであります。末法永遠の御本仏・大聖人に対して、折伏の師匠・戸田先生の立場はもとより異なりますが、仏法の真実の意味を同じくとらえられていたと拝することができるのであります。
(ここまで「池田会長講義」)*******
戸田先生の講義を引用される形で、池田先生も、
「虚空会の儀式」=「御本尊」=「御本仏の生命」
と明確に講義されている。
一体どこに、「虚空会は迹。と明言されておられる」のだろうか?
7
:
天城五兵衛(管理人代理投稿)
:2009/01/09(金) 16:20:11
沖浦氏の所謂「人本仏迹論」を正す−6
名前:天城五兵衛 日付:11月10日(月) 23時59分
*******(ここから「沖浦説」)
仏法は人間のための教えである。(略)仏法が人間のためなら、人間が本。仏法が迹。
(「沖浦説」ここまで)*******
昭和52年に聖教新聞者から発刊された「『諸法実相抄』の池田会長講義」では、下記の講義がなされている(34頁から35頁)。
*******(ここから「池田会長講義」)
仏法の限から見るならば、宇宙の一切の運行の、その真実の相は妙法蓮華経であります。凡夫の眼には、木々が揺れ動いているのみであっても、仏の眼には、妙法の妙なる旋律であり、太陽の輝きも、生命をはぐくむ妙法のハーモニーであります。
したがって、私ども一人一人の生命も、一切、妙法によって構成され、妙法のリズムに従って活動しているといってよい。ただし、そのことのみにとどまれば、まだ理であり、それを知らず、妙法に冥合することを知らない人は、あたかも、万有引力の法則を知らずに、空を飛ぼうとして落ちる人のごとく、不幸から不幸へと、暗きから暗きへとおもむくのみでありましょう。
また、たとえ諸法実相の哲理を知ったとしても、たんなる観照の哲学に終われば、それも理の範疇にとどまる。
それを希望の方向へと向け、価値創造し、幸福へと蘇生させていく方法として、日蓮大聖人は御本尊を顕されたのであります。すなわち、諸法は実相であるとの方程式を、日蓮大聖人の魂魄をとどめて御本尊という価値創造の当体のうえに具現化したのであります。それは、もはや諸法実相という哲学ではない。日蓮大聖人の御本仏の生命それ自体の諸法実相であります。御本尊を「事の一念三千」と申し上げるゆえんは、ここにあるのであります。
(ここまで「池田会長講義」)*******
仏法は人間が創ったものではなく、宇宙根源の法である。
この法に則って生きるか、逆らって生きるかは、その人の問題である。
本迹にこだわる事自体が、無意味な考え方である。
8
:
天城五兵衛(管理人代理投稿)
:2009/01/09(金) 16:21:29
沖浦氏の所謂「人本仏迹論」を正す−7
名前:天城五兵衛 日付:11月11日(火) 0時1分
色心不二論を全く理解していない事を自己証明する文書である。
*******(ここから「沖浦説」)
例えば大聖人様と私共。身体は仮のものですから迹ですね。恐れ多いので私で説明いたします。大聖人様もおなじですよ。沖浦克治と言う人間。これはこの世での仮の姿です。ですが命は妙法なんですね。この身体は迹。次に生まれる時は違う身体です。命は同じです。妙法の当体です。本です。これは大聖人様も同じです。
(「沖浦説」ここまで)*******
日蓮大聖人曰く、
「又帰とは我等が色法なり命とは我等が心法なり色心不二なるを一極と云うなり、釈に云く一極に帰せしむ故に仏乗と云うと」(御義口伝)
「大地は色法なり虚空は心法なり色心不二と心得可きなり虚空とは寂光土なり、又云く虚空とは蓮華なり経とは大地なり妙法は天なり虚空とは中なり一切衆生の内菩薩蓮華に座するなり、此れを妙法蓮華経と説かれたり」(御義口伝)
「然れば文字は是一切衆生の色心不二の質なり汝若し文字を立てざれば汝が色心をも立つ可からず汝六根を離れて禅の法門一句答へよと責む可きなり、さてと云うもかうと云うも有と無との二見をば離れず無と云わば無の見なりとせめよと有と云わば有の見なりとせめよ、何れも何れも叶わざる事なり」(諸宗問答抄)
「色法」は迹で、「五陰仮和合」の姿が本、という理論は、どこから来るものか?「諸宗問答抄」にある通り、禅宗の影響であろうか?
「五陰仮和合」の姿こそ、「色心不二」である。「色心不二」が成立しない以上、百界千如・一念三千は当然成り立たない。
また、「命は同じ」とあるが、五陰世間を含む「三世間」では、その様な定義は無い。「世間」とは差別の意味である。
故に、人間で言えば夫々の姿形や性格、生まれて来る環境の違いが出てくるのである。
「色心不二」が分からない以上、十如是にも誤解が生じてくる。到底、本尊論を論じても、噛合う事など出来ない。
十如是については、池田会長講義を引用する(38頁〜40頁)
*******(ここから「池田会長講義」)
また、如是力・作・困・縁・果・報、すべてをそなえております。だれびとにも、その人でなければもたない「力」がある。そして、それを周囲に及ぼしていく「作用」ももっているのであります。自己のなかにある「因」、外界との関係である「縁」、そして、それらがもたらす生命内在の「果」、外界にあらわれる「報」と、一切を私たちはもっております。更に、最初の相から終わりの報に至るまで、一貫して等しい生命活動を展開している。これが本末究竟して等しいということであります。
したがって、実相といっても、諸法、また十如をそなえていなければ、実相ではなく虚相といわざるをえない。たとえば、爾前経で説かれている仏にしても、大日如来などは、十如是がありません。だいいち如是相がない。いまだかつて、大日如来にお目にかかった方は、だれ一人いないはずです。相・性・体をそなえていない仏に、衆生を救う、力や作用もあるわけがない。これはキリスト教のゴッドやイスラム教のアラーにしても同じであります。
本来、それらは、形あるものとしてあらわれるべきではない、という考え方に立っているのでありましょうが、諸法や十如のない実相はないというのが、法華経の主張であります。釈迦にしても実在の人物であるし、日蓮大聖人は、現実社会の真っただなかで、人々の苦しみを分かちながら戦われ、ご自身の悟りの境涯を、全人類に本末究竟して等しく与えていこうとされた御本仏であります。仏とは、また実相とは、決して架空の抽象存在ではなく、諸法、十如を厳然とそなえるものである、と私はいっておきたい。
(ここまで「池田会長講義」)*******
9
:
天城五兵衛(管理人代理投稿)
:2009/01/09(金) 16:22:49
沖浦氏の所謂「人本仏迹論」を正す−8
名前:天城五兵衛 日付:11月11日(火) 0時3分
沖浦氏は、仏法の基礎である「依正不二」「総別の二義」についても理解が出来ていない。
*******(ここから「沖浦説」)
そして、自分と他人は自分が本、他人は迹。ですからご本仏と言えども、この世の関係では私が本、大聖人様が迹。命は双方と差別なく妙法の当体ですから、本です。ここは差別が無いのです。
(「沖浦説」ここまで)*******
「依正不二」についても、池田会長講義を引用する(35頁〜36頁)。
*******(ここから「池田会長講義」)
「依報あるならば必ず正報住すべし」とは、少し疑問に思うところであります。それは、私どもは法華経の教えによって、正報が根本で、それに応じて依報があると理解しているからであります。したがって「正報住するならば依報あるべし」といわれるべきところのように思える。この点について簡単に申し上げると、仏法においては、特に爾前経では一貫して、十界は、十種の異なる世界として説かれてまいりました。十界という言葉自体、十種の世界という意味であります。
これについては、ご承知のように、たとえば地獄界は、地の下一千由旬のところにあるとされた。また、餓鬼界は地の下五百由旬、畜生界は水・陸・空といわれる。修羅は海のほとり、海の底とされ、人は大地によって住し、天は宮殿といいますが、須弥山の山腹から頂上、更にその上方の空というふうに考えられております。
以上の六道のほか、いわゆる四聖についても、二乗は方便土、菩薩は実報土、仏は寂光土と、それぞれ、別々の世界に住すると説かれてきたのであります。
このように、種々の依報が説かれるということは、当然そこに住する衆生も、種々に異なるということです。しよせん、住する衆生すなわち正報と、それぞれの国土すなわち依報とが一体になっているのが、生命の真実の在り方であります。すなわち、爾前経においては、十界とは世界観であった。法華経において初めて依正不二の生命観としてとらえられたのであります。「釈に云く」とあるのは、妙楽大師の法華文句記のことですが 「依報正報・常に妙経を宜ぶ」とは、この十種の依報正報の生命は、いずれも、妙法蓮華経をあらわしている、ということであります。
すなわち仏法においては、依報正報ともにその奥深いところでは断絶がないと教えている。依報が妙法蓮華経の当体であるとともに、正報もまた妙法蓮華経の当体なのであります。妙法蓮華経の一法において、依報も正報も連続しているのであります。
あえていえば、妙法の根源の一法が、一方において正報とあらわれ、それと同時に依報となってあらわれているということであります。すなわち生命という次元において、依報も正報も結合しているのであります。故に、ここから正報の生命の変革が、依報の変革に通ずるという仏法の卓越した原理が生まれてくるのであります。
(ここまで「池田会長講義」)*******
更に、総別の二義から「大聖人本仏論」を宣揚されている(53頁)
*******(ここから「池田会長講義」)
十界の依正の当体が妙法蓮華経であり、妙法 蓮華経が「本仏」ですから、十界の衆生即ち凡 夫が「本仏」である。これに対して、釈迦仏を はじめ、経文に説かれるあらゆる仏は 「迹仏」 である、ということであります。「諸法実相」 の原理、法華経の道理からいえば当然のことで ありますが、それをこのように明確に言い切 り、凡夫こそ本仏なりと断ぜられたところに、 日蓮大聖人の教えが、末法万年の未来に投じ た、不滅の力用と光明があるのであります。
ここに、凡夫と仰せられたのは、別して日蓮 大聖人の御事であり、日蓮大聖人が御本仏であ られることを示されております。「御義口伝」 に「末法の仏とは凡夫なり凡夫僧なり……仏と も云われ又凡夫僧とも云わるるなり」とある通 りであります。
ともに、総じて私どもは、当然、凡夫であり ます。その凡夫が、最も尊く、偉大であること を、日蓮大聖人が、自ら凡夫の姿を示して、お 説きくださっているのであります。
(ここまで「池田会長講義」)*******
どこに一体、「己が本仏で、日蓮大聖人が迹仏」等と解釈出来るのか?
10
:
天城五兵衛(管理人代理投稿)
:2009/01/09(金) 16:24:00
沖浦氏の所謂「人本仏迹論」を正す−9
名前:天城五兵衛 日付:11月11日(火) 0時4分
本尊に迷った沖浦氏の論は、更に悪化して行く。
*******(ここから「沖浦説」)
曼荼羅の現実はこれまでの思い込みとは異なります。(中略)末法を導くお二人の偉大な仏法者が、お二人とも、曼荼羅に頼らず悟りを開かれた事実。門下なら当然大前提にすべきでしょう。この前提を歪め、曼荼羅崇拝を広め信徒支配を企んで来たのが、日蓮正宗と言う名の邪教です。曼荼羅が本。これね、邪義ですよ。
なくても功徳が出て、戸田先生や大聖人様がお悟りになられた。迹じゃないですか。はっきりしてますよ。
(「沖浦説」ここまで)*******
大聖人図顕の御本尊が「根本尊崇の当体」でなければ、何であろうか?
大聖人が、御本尊が「迹仏」ならば、沖浦氏は御本尊に向かって勤行・唱題をしないでいるのかと思ったが、「曼荼羅が迹だから粗末にしていい。そんなことしたら、大謗法です」(若鷹の掲示板:10月26日投稿分)等と論理性の全く無い投稿をしている。
尤も、この投稿は、バトルトーク参戦意思表示を迫られた挙句、自己正当化と逃げ口上としての投稿と考えた方が良さそうである。
池田会長講義を引用する(48頁〜49頁)
*******(ここから「池田会長講義」)
もし、大聖人が、単に「南無妙法蓮華経」の題目流布のみをもって、本懐とされたとするならば 「妙法蓮華経の五字を弘め給うのみならず、宝塔の中の二仏並座の儀式を作り顕す」とはいわれなかったでありましょう。むしろ「宝塔の中の二仏並座の儀式」すなわち御本尊をあらわされたところにこそ、日蓮大聖人の出世のご本意があったことは、この文に明確にうかがわれるのであります。
ともあれ、この題目・御本尊をあらわし弘めることは、地涌の菩薩の上首・上行等にしかできないことである。その故は、これが本門寿量品の事の一念三千の法門だからであると。迹化の菩薩は迹門の法門は弘めることができる。しかし、本門寿量晶の事の一念三千は、本化の菩薩でなければならない。
迹門の法は迹化の人、本門の法は本化の人でなくてはならない。
この「地涌の菩薩の上首・上行・無辺行等の菩薩」とは、日蓮大聖人ご自身のことであり、人本尊をあらわします。また「本門寿量品の事の一念三千」とは、法本尊のことであり、人法一箇をあらわしております。大聖人に連なる私どももまた、もともと末法の独一本門の南無妙法蓮華経に徹する使命をもって生まれてきたのであります。
(ここまで「池田会長講義」)*******
末法今時、一般的な学会員は「迹仏(である釈尊や多宝如来等)」は拝まない。
果たして、沖浦氏は御本尊に向かって勤行・唱題をしているのだろうか?気になるテーマではある。
ともあれ、上記の論は、簡単に覆されることとなる。
11
:
天城五兵衛(管理人代理投稿)
:2009/01/09(金) 16:27:36
沖浦氏の所謂「人本仏迹論」を正す−10
名前:天城五兵衛 日付:11月11日(火) 22時19分
池田名誉会長は、昭和53年1月に観心本尊抄の講義を学会本部で行い、その講義録が「『観心本尊抄』の池田会長講義」と題して発刊された。
ここでは、本尊論についての部分を抜粋(19頁〜22頁)し、沖浦説の誤謬である「曼荼羅が本。これね、邪義ですよ。」を明確に破しておく。
*******(ここから「池田会長講義」)
さて、大聖人は、末法万年の衆生の成仏のために、御本尊を顕されました。ご在世当時の人人は、法即人の当体であられる大聖人という仏の生命に録することができる。しかし大聖人も、いつかは入滅なされる。その滅後の衆生のために、ご自身の生命を曼荼羅の御本尊とし
て顕し、遺されたのであります。
この人即法の当体としての御本尊は、一往は法本尊でありますが、再往は人法一箇の御本尊であります。ゆえに「南無妙法迎撃経 日蓮」
と中央にしたためられております。南無妙法蓮華経は“法”、日蓮在御判は“人”を表すのであります。
このように、顕された大聖人のお立場に約せば、御本尊の根本的特質は「人法一箇」ということであられますが、では、御本尊を拝する私ど
もの立場でいえば、なにがもっとも根幹となる特質でありましょうか。それを日蓮大聖人は御みずから「観心」であると教えてくださっているの
であります。法本尊開顕の書を『観心本尊抄』と題されたのは、このゆえであります。
「観心」とは、どういうことかといえば、本尊抄の文中では、一往の立場で「我が己心を観じて十法界を見る、是れを観心と云うなり」(同二四
〇頁)と示されております。そして鏡を用いなければ、自分の眼、耳、鼻等の六根を見ることができないように、己心の十界も、仏法の鏡なくし
ては見ることができない、と教えられている。いわく「設い諸経の中に、処処に六道並びに四聖を載すと雖も、法華経並びに天台大師所述の
摩訶止観等の明鏡を見ざれば、自具の十界・百界・千如・一念三千を知らざるなり」(同頁)とございます。
これで明らかなように「十法界を見る」といっても、一念三千を見るということであります。しかして、たんに一念三千というなら、それは理で
あり、南無妙法蓮華経こそ「事の一念三千」であるというのが、大聖人の結論であります。したがって「我が己心を観じて十法界を見る」とは、
我が己心を観じて南無妙法蓮華経を見ることにほかなりません。
十界のいかなる衆生であれ、我が己心の究極の実相は南無妙法蓮華経であります。この本来、我が身が妙法の当体である真理を教えた
のが、法華経の迹門であります。なかんずく迹門方便品の「諸法実相」が、これを述べたものであることを、大聖人は『諸法実相抄』に、次の
ように論じられておられる。「下地獄より上仏界までの十界の依正の当体・悉く一法ものこさず妙法蓮華経のすがたなりと云ふ経文なり」(同
一三五八頁)、「万法の当体のすがたが妙法蓮華経の当体なりと云ふ事を諸法実相とは申すなり」(同一三五九頁)と。
(ここまで「池田会長講義」)*******
(つづく)
12
:
天城五兵衛(管理人代理投稿)
:2009/01/09(金) 16:28:36
沖浦氏の所謂「人本仏迹論」を正す−11
名前:天城五兵衛 日付:11月11日(火) 22時21分
*******(ここから「池田会長講義」)
「観心」とは成仏得道の謂
しかしながら、本来、我が身が妙法の当体であるという道理だけでは、成仏にはならない。もし、それだけで成仏であるなら、万物は等しく妙法の当体でありますから、仏と衆生の差別が現実問題としてあるはずがないし、仏道修行も必要なくなるはずです。
問題は、我が身が妙法の当体であることを自身が覚知するか否かにある。この事実のうえでの覚知した仏の境地を明かしたのが本抄であります。そして、覚知したとき成仏といい、それを知らずに迷うのを凡夫、衆生というのであります。これを『諸法実相抄』に「然れども迷悟の不同にして生仏・異なるに依って倶体・倶用の三身と云ふ事をば衆生しらざるなり」(同頁)と述べられていることは、すでにご存じの通りであります。
また『一生成仏抄』にいわく「夫れ無始の生死を留めて此の度決定して無上菩提を証せんと思はばすべからく衆生本有の妙理を観ずべし、衆生本有の妙理とは・妙法蓮華経是なり故に妙法蓮華経と唱へたてまつれば衆生本有の妙理を観ずるにてあるなり」(同三八三頁)と。
衆生本有の妙理、すなわち、我が身が本来妙法蓮華経であることを観ずることが「無上菩提を証すること」すなわち成仏の本義であります。我が身を妙法と観ずるとは、言い換えれば「観心」でありますから、「観心」とは、すなわち成仏得道の謂にほかならないのであります。
ゆえに「観心の本尊」とは、十界の衆生が、我が身妙法の当体なりと観じて成仏するための本尊であり、十界のいかなる境涯であれ、それを受持するならそのままで、いわゆる即身成仏できる御本尊ということになるわけであります。この「観心の御本尊」を建立された大聖人によって、初めて、あらゆる衆生の成仏の直道が開かれたのであります。
(ここまで「池田会長講義」)*******
13
:
天城五兵衛(管理人代理投稿)
:2009/01/09(金) 16:30:11
沖浦氏の所謂「人本仏迹論」を正す−12
名前:天城五兵衛 日付:11月11日(火) 22時25分
引き続き、御本尊と私達の関係性を、池田会長講義から引用する(23頁〜24頁)
*******(ここから「池田会長講義」)
「教相の本尊」すなわち「脱益の一念三千」は、もとより、それらと同等に見るべきではありませんが、すでに得脱した立場とする以上、迷いの底にある衆生とは天地の相違があり、そこに、既存の多くの宗教がもたらしたのと同じ弊害に陥る要因を多分にもっていたのであります。
文上脱益法門を立てた天台仏法が、民衆とは縁の遠い特権的宗教となり、もっぱら王侯貴顕と結びつかざるをえなかったその歴史をみるとき、この事実は明々白々であります。
それに対し、日蓮大聖人の「観心の本尊」は文底下種の事の一念三千であります。この観心とは、日寛上人によれば、我等衆生の観心であります。ゆえに「観心の本尊」とは、人々の生命の外にあるものではなく、本来、平等に、生命の内にある妙法という尊極の当体につながっていくのであります。そこでは、あらゆる人にとって、本尊と自分との間に、まったく距離がないと説くのであります。ゆえに、なにものも入り込む隙間はない。衆生は、ただ朝な夕な唱題して自身が妙法の当体であることを覚ればよいのであります。
だが、これを覚るには、それだけの「智」が必要です。その「智」を得る方法を、法華経は「信」と教えたのであります。「以信代慧」「以信得入」というのは、それであります。日蓮大聖人の教えでは、この「信」がさらに具体的に「受持」として明確化されます。それは、受持する当体として御本尊が顕されたことによるといえます。
したがって、御本尊を受持することが、我が身を妙法の当体と覚る親心であり、これを「受持即観心」というのであります。
(ここまで「池田会長講義」)*******
御本尊と私達の関係は、「あらゆる人にとって、本尊と自分との間に、まったく距離がない」以上、「曼荼羅が迹」は邪論である。
14
:
天城五兵衛(管理人代理投稿)
:2009/01/09(金) 16:31:05
沖浦氏の所謂「人本仏迹論」を正す−13 結論
名前:天城五兵衛 日付:11月11日(火) 22時27分
沖浦氏は邪論の根拠を、大白蓮華(2008年11月号)に掲載されたエルサルバドルSGI理事長の体験談を、「現証」としている。
*******(ここから「沖浦説」)
エルサルバドルの理事長の、命がけの体験が大白に載っています。曼荼羅が迹。の現実の証拠です。でも、この体験見てもわからない。これね、理屈や文献教えるレベルに無いんです。(10月26日若鷹の掲示板への投稿)
(「沖浦説」ここまで)*******
エルサルバドルSGIのソト理事長の素晴らしい体験である。
また、2006年に行われた、池田SGI会長への子息による「ボリバル協会」からの功労顕彰のシーンは、多くのメンバーの脳裏に焼き付いていると思います。
さて、沖浦氏の主張する「現証」が、何故「曼荼羅が迹」に結びつくのか?
ソト理事長が、全く知識の無いところから題目を唱えたならば話は別次元になるが、既に「メキシコの姉から題目を教えてもらっていた」のだから、メンバーでなくとも、また、御本尊を見たことが無くとも、題目の力を信じて唱題すれば諸天善神の守護は現れてくる。
日蓮大聖人曰く、
「法華経を受け持ちて南無妙法蓮華経と唱うる即五種の修行を具足するなり、此の事伝教大師入唐して道邃和尚に値い奉りて五種頓修の妙行と云う事を相伝し給ふなり、日蓮が弟子檀那の肝要是より外に求る事なかれ」(日女御前御返事)
五種の修行とは、「五種の妙行」と同意で、法華経法師品に説かれている。すなわち、受持・読・誦・解説・書写の五つの修行法である。
法華経を受持すること(信行学)で、五種の修行を自然に習得されると言うことである。この中の「誦」とは、「経文をそらんじる事、心の中で唱題する事」を意味する。
故に、御本尊の無い場所でも心の中で唱題すれば、同様の功徳が顕れるし、入会していなくとも、内得信仰や会友メンバーでも功徳が出るのは当然なことである。
因みに、SGI-USAでは、六ヶ月以上の学会活動を経て、初めて御本尊を授与されていた(最近のことは分からないが)。その間に功徳の体験が出来るから、多くのメンバーが入会をしているのである。
沖浦氏が、ソト理事長の体験談を「曼荼羅が迹。の現実の証拠」とするならば、連日聖教新聞に掲載されている学会員の体験談をどのように解釈するのだろうか?非常に興味深い点である。
この一点を見ても、同氏が「仏界即九界、九界即仏界」を十分に理解していない事が分かる。
本来、私達人間と御本尊との関係を「本迹相対」すること自体に問題があるのである。
日蓮大聖人曰く、
「法性の妙理に染浄の二法有り染法は熏じて迷と成り浄法は熏じて悟と成る悟は即ち仏界なり迷は即ち衆生なり、此の迷悟の二法二なりと雖も然も法性真如の一理なり、譬えば水精の玉の日輪に向えば火を取り月輪に向えば水を取る玉の体一なれども縁に随て其の功同じからざるが如し、真如の妙理も亦復是くの如し一妙真如の理なりと雖も悪縁に遇えば迷と成り善縁に遇えば悟と成る悟は即ち法性なり迷は即ち無明なり」(当体義抄)
「法華宗の心は一念三千性悪性善妙覚の位に猶備われり元品の法性は梵天帝釈等と顕われ元品の無明は第六天の魔王と顕われたり」(治病大小権実違目)
仏の生命にも「染法」があり、「無明」があることは間違いない。同様に「浄法」もあれば「法性」もある。「本迹」などではなく「一体不二」が実相である。
私達自身、縁によって染法を熏じさせて迷の生命に覆われない様に、共々に先々の用心をして行く事が肝要である。
(この項終了)
15
:
天城五兵衛
:2009/07/04(土) 23:10:06
ROMの皆様へ
当掲示板の「破邪顕正スレッド(長文向き)」に佐藤某が「人本仏迹論」こそ日蓮大聖人の教義、創価学会のスタンスなどと喧伝しておりますが、全くの邪義です。
その証拠に、我が論に対して一遍の反論が出来ないばかりか、当方からの質問に回答出来ずに逃げ回っております。
教学に関心のある方は、リンク先の我が論を参照して頂けると幸甚です。
http://www2.ezbbs.net/33/amagian/
また、逃げ回っている事実も、下記リンク先を参照して頂ければ幸甚です。
http://www2.ezbbs.net/05/amagian/
天城五兵衛 拝
16
:
こうめいいのち
:2010/07/03(土) 04:34:48
本〜題目を唱える本因の一念の強い生命状態。 しゃく(漢字に変換できなくてすみません)〜その場その場に即した方法論ではいけないのかな? 釈尊は人々の救済を優先し、しゃくに徹し、法華経で本因の一念の強い生命状態を説いた。
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