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『史実・教義の考察』用スレッド

8天城五兵衛(管理人代理投稿):2009/01/09(金) 16:21:29
沖浦氏の所謂「人本仏迹論」を正す−7

名前:天城五兵衛 日付:11月11日(火) 0時1分

色心不二論を全く理解していない事を自己証明する文書である。

*******(ここから「沖浦説」)
例えば大聖人様と私共。身体は仮のものですから迹ですね。恐れ多いので私で説明いたします。大聖人様もおなじですよ。沖浦克治と言う人間。これはこの世での仮の姿です。ですが命は妙法なんですね。この身体は迹。次に生まれる時は違う身体です。命は同じです。妙法の当体です。本です。これは大聖人様も同じです。
(「沖浦説」ここまで)*******

日蓮大聖人曰く、
「又帰とは我等が色法なり命とは我等が心法なり色心不二なるを一極と云うなり、釈に云く一極に帰せしむ故に仏乗と云うと」(御義口伝)

「大地は色法なり虚空は心法なり色心不二と心得可きなり虚空とは寂光土なり、又云く虚空とは蓮華なり経とは大地なり妙法は天なり虚空とは中なり一切衆生の内菩薩蓮華に座するなり、此れを妙法蓮華経と説かれたり」(御義口伝)

「然れば文字は是一切衆生の色心不二の質なり汝若し文字を立てざれば汝が色心をも立つ可からず汝六根を離れて禅の法門一句答へよと責む可きなり、さてと云うもかうと云うも有と無との二見をば離れず無と云わば無の見なりとせめよと有と云わば有の見なりとせめよ、何れも何れも叶わざる事なり」(諸宗問答抄)

「色法」は迹で、「五陰仮和合」の姿が本、という理論は、どこから来るものか?「諸宗問答抄」にある通り、禅宗の影響であろうか?
「五陰仮和合」の姿こそ、「色心不二」である。「色心不二」が成立しない以上、百界千如・一念三千は当然成り立たない。
また、「命は同じ」とあるが、五陰世間を含む「三世間」では、その様な定義は無い。「世間」とは差別の意味である。
故に、人間で言えば夫々の姿形や性格、生まれて来る環境の違いが出てくるのである。

「色心不二」が分からない以上、十如是にも誤解が生じてくる。到底、本尊論を論じても、噛合う事など出来ない。

十如是については、池田会長講義を引用する(38頁〜40頁)

*******(ここから「池田会長講義」)

 また、如是力・作・困・縁・果・報、すべてをそなえております。だれびとにも、その人でなければもたない「力」がある。そして、それを周囲に及ぼしていく「作用」ももっているのであります。自己のなかにある「因」、外界との関係である「縁」、そして、それらがもたらす生命内在の「果」、外界にあらわれる「報」と、一切を私たちはもっております。更に、最初の相から終わりの報に至るまで、一貫して等しい生命活動を展開している。これが本末究竟して等しいということであります。

 したがって、実相といっても、諸法、また十如をそなえていなければ、実相ではなく虚相といわざるをえない。たとえば、爾前経で説かれている仏にしても、大日如来などは、十如是がありません。だいいち如是相がない。いまだかつて、大日如来にお目にかかった方は、だれ一人いないはずです。相・性・体をそなえていない仏に、衆生を救う、力や作用もあるわけがない。これはキリスト教のゴッドやイスラム教のアラーにしても同じであります。

 本来、それらは、形あるものとしてあらわれるべきではない、という考え方に立っているのでありましょうが、諸法や十如のない実相はないというのが、法華経の主張であります。釈迦にしても実在の人物であるし、日蓮大聖人は、現実社会の真っただなかで、人々の苦しみを分かちながら戦われ、ご自身の悟りの境涯を、全人類に本末究竟して等しく与えていこうとされた御本仏であります。仏とは、また実相とは、決して架空の抽象存在ではなく、諸法、十如を厳然とそなえるものである、と私はいっておきたい。

(ここまで「池田会長講義」)*******


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