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『史実・教義の考察』用スレッド

13天城五兵衛(管理人代理投稿):2009/01/09(金) 16:30:11
沖浦氏の所謂「人本仏迹論」を正す−12

名前:天城五兵衛 日付:11月11日(火) 22時25分

引き続き、御本尊と私達の関係性を、池田会長講義から引用する(23頁〜24頁)

*******(ここから「池田会長講義」)

 「教相の本尊」すなわち「脱益の一念三千」は、もとより、それらと同等に見るべきではありませんが、すでに得脱した立場とする以上、迷いの底にある衆生とは天地の相違があり、そこに、既存の多くの宗教がもたらしたのと同じ弊害に陥る要因を多分にもっていたのであります。

 文上脱益法門を立てた天台仏法が、民衆とは縁の遠い特権的宗教となり、もっぱら王侯貴顕と結びつかざるをえなかったその歴史をみるとき、この事実は明々白々であります。

 それに対し、日蓮大聖人の「観心の本尊」は文底下種の事の一念三千であります。この観心とは、日寛上人によれば、我等衆生の観心であります。ゆえに「観心の本尊」とは、人々の生命の外にあるものではなく、本来、平等に、生命の内にある妙法という尊極の当体につながっていくのであります。そこでは、あらゆる人にとって、本尊と自分との間に、まったく距離がないと説くのであります。ゆえに、なにものも入り込む隙間はない。衆生は、ただ朝な夕な唱題して自身が妙法の当体であることを覚ればよいのであります。

 だが、これを覚るには、それだけの「智」が必要です。その「智」を得る方法を、法華経は「信」と教えたのであります。「以信代慧」「以信得入」というのは、それであります。日蓮大聖人の教えでは、この「信」がさらに具体的に「受持」として明確化されます。それは、受持する当体として御本尊が顕されたことによるといえます。

 したがって、御本尊を受持することが、我が身を妙法の当体と覚る親心であり、これを「受持即観心」というのであります。

(ここまで「池田会長講義」)*******

御本尊と私達の関係は、「あらゆる人にとって、本尊と自分との間に、まったく距離がない」以上、「曼荼羅が迹」は邪論である。


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