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『史実・教義の考察』用スレッド

14天城五兵衛(管理人代理投稿):2009/01/09(金) 16:31:05
沖浦氏の所謂「人本仏迹論」を正す−13 結論

名前:天城五兵衛 日付:11月11日(火) 22時27分

沖浦氏は邪論の根拠を、大白蓮華(2008年11月号)に掲載されたエルサルバドルSGI理事長の体験談を、「現証」としている。

*******(ここから「沖浦説」)
エルサルバドルの理事長の、命がけの体験が大白に載っています。曼荼羅が迹。の現実の証拠です。でも、この体験見てもわからない。これね、理屈や文献教えるレベルに無いんです。(10月26日若鷹の掲示板への投稿)
(「沖浦説」ここまで)*******

エルサルバドルSGIのソト理事長の素晴らしい体験である。
また、2006年に行われた、池田SGI会長への子息による「ボリバル協会」からの功労顕彰のシーンは、多くのメンバーの脳裏に焼き付いていると思います。

さて、沖浦氏の主張する「現証」が、何故「曼荼羅が迹」に結びつくのか?
ソト理事長が、全く知識の無いところから題目を唱えたならば話は別次元になるが、既に「メキシコの姉から題目を教えてもらっていた」のだから、メンバーでなくとも、また、御本尊を見たことが無くとも、題目の力を信じて唱題すれば諸天善神の守護は現れてくる。

日蓮大聖人曰く、
「法華経を受け持ちて南無妙法蓮華経と唱うる即五種の修行を具足するなり、此の事伝教大師入唐して道邃和尚に値い奉りて五種頓修の妙行と云う事を相伝し給ふなり、日蓮が弟子檀那の肝要是より外に求る事なかれ」(日女御前御返事)

五種の修行とは、「五種の妙行」と同意で、法華経法師品に説かれている。すなわち、受持・読・誦・解説・書写の五つの修行法である。
法華経を受持すること(信行学)で、五種の修行を自然に習得されると言うことである。この中の「誦」とは、「経文をそらんじる事、心の中で唱題する事」を意味する。
故に、御本尊の無い場所でも心の中で唱題すれば、同様の功徳が顕れるし、入会していなくとも、内得信仰や会友メンバーでも功徳が出るのは当然なことである。
因みに、SGI-USAでは、六ヶ月以上の学会活動を経て、初めて御本尊を授与されていた(最近のことは分からないが)。その間に功徳の体験が出来るから、多くのメンバーが入会をしているのである。

沖浦氏が、ソト理事長の体験談を「曼荼羅が迹。の現実の証拠」とするならば、連日聖教新聞に掲載されている学会員の体験談をどのように解釈するのだろうか?非常に興味深い点である。

この一点を見ても、同氏が「仏界即九界、九界即仏界」を十分に理解していない事が分かる。
本来、私達人間と御本尊との関係を「本迹相対」すること自体に問題があるのである。

日蓮大聖人曰く、
「法性の妙理に染浄の二法有り染法は熏じて迷と成り浄法は熏じて悟と成る悟は即ち仏界なり迷は即ち衆生なり、此の迷悟の二法二なりと雖も然も法性真如の一理なり、譬えば水精の玉の日輪に向えば火を取り月輪に向えば水を取る玉の体一なれども縁に随て其の功同じからざるが如し、真如の妙理も亦復是くの如し一妙真如の理なりと雖も悪縁に遇えば迷と成り善縁に遇えば悟と成る悟は即ち法性なり迷は即ち無明なり」(当体義抄)
「法華宗の心は一念三千性悪性善妙覚の位に猶備われり元品の法性は梵天帝釈等と顕われ元品の無明は第六天の魔王と顕われたり」(治病大小権実違目)
仏の生命にも「染法」があり、「無明」があることは間違いない。同様に「浄法」もあれば「法性」もある。「本迹」などではなく「一体不二」が実相である。

私達自身、縁によって染法を熏じさせて迷の生命に覆われない様に、共々に先々の用心をして行く事が肝要である。

(この項終了)


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