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『史実・教義の考察』用スレッド
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:
天城五兵衛(管理人代理投稿)
:2009/01/09(金) 16:18:16
沖浦氏の所謂「人本仏迹論」を正す−5
名前:天城五兵衛 日付:11月10日(月) 23時58分
それでは、各論に入って誤りを正して行こう。
*******(ここから「沖浦説」)
池田先生が、曼荼羅は虚空会の儀式を紙に写し取ったものだ。(趣意)と言われている。
そして、虚空会は迹。と明言されておられる。虚空会が迹で、写し取った曼荼羅が迹は理の当然じゃないですか。何故、小理屈がいりますか?
(「沖浦説」ここまで)*******
池田名誉会長が、一体いつ、どこで、誰に対して、この様な発言をしたのか?
出典元を明記出来ない以上、同氏の脳内説法であると言われても否定出来ない。
昭和52年に聖教新聞者から発刊された「『諸法実相抄』の池田会長講義」では、下記の講義がなされている(42頁から44頁)。
*******(ここから「池田会長講義」)
法華経は、この真理を、あるいは法説し、あるいは譬喩説し、あるいは因縁によって説いて、在世の声聞の弟子たちを得脱せしめたのち、滅後の未来のため、多宝の塔が涌現し虚空会の壮大な儀式が展開されていきます。「釈迦多宝の二仏と云うも」うんぬんの文は、この本門の虚空会において、多宝塔中に釈迦・多宝の二仏が並座しますが、そこにあらわされたものも、しよせんは妙法蓮華経にほかならないということであります。
この御文は、非常に深い含蓄のある表現になっています。一つは、釈迦・多宝の二仏といっても、妙法蓮華経の一法が衆生を利益するその働きを、具体的な仏という形によってあらわしたのであるということです。これはこのあとに出てくる「仏は用の三身にして迹仏なり」に対応するもので、経文に説かれる荘厳な仏も、結局は、大宇宙に遍満する仏界という妙法蓮華経の働きを表現したものであるということです。
したがって、仏と同じく、十界すべて、妙法蓮華経のあらわす、生命の働きであるというのが、ここに仰せの元意なのであります
もう一つは「宝塔の中にして (釈迦・多宝の二仏が)・うなづき合い給ふ」とあるように、虚空会の儀式によって、釈迦・多宝の二仏が説きあらわした法とは、妙法蓮華経であるということです。釈迦が説き、多宝が合意し証明したことを「うなづき合い給ふ」と仰せられています。
こうした宝塔の儀式が何をあらわしたものであるかについて、戸田先生は次のように講義をされています。
「釈迦は宝塔の儀式を以て、己心の十界互具一念三千を表しているのである。日蓮大聖人は、同じく宝塔の儀式を借りて、寿量文底下種の法門を一幅の御本尊として建立されたのである。されば御本尊は釈迦仏の宝塔の儀式を借りてこそ居れ、大聖人己心の十界互具一念三千――本仏の御生命である。この御本尊は御本仏の永遠の生命を御図顕遊ばされたので、末法唯一無二の即身成仏の大御本尊であらせられる」
この戸田先生の講義の意味するところも、日蓮大聖人が本抄で仰せられているところと全く合致するのであります。末法永遠の御本仏・大聖人に対して、折伏の師匠・戸田先生の立場はもとより異なりますが、仏法の真実の意味を同じくとらえられていたと拝することができるのであります。
(ここまで「池田会長講義」)*******
戸田先生の講義を引用される形で、池田先生も、
「虚空会の儀式」=「御本尊」=「御本仏の生命」
と明確に講義されている。
一体どこに、「虚空会は迹。と明言されておられる」のだろうか?
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