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『史実・教義の考察』用スレッド

10天城五兵衛(管理人代理投稿):2009/01/09(金) 16:24:00
沖浦氏の所謂「人本仏迹論」を正す−9

名前:天城五兵衛 日付:11月11日(火) 0時4分

本尊に迷った沖浦氏の論は、更に悪化して行く。

*******(ここから「沖浦説」)
曼荼羅の現実はこれまでの思い込みとは異なります。(中略)末法を導くお二人の偉大な仏法者が、お二人とも、曼荼羅に頼らず悟りを開かれた事実。門下なら当然大前提にすべきでしょう。この前提を歪め、曼荼羅崇拝を広め信徒支配を企んで来たのが、日蓮正宗と言う名の邪教です。曼荼羅が本。これね、邪義ですよ。
なくても功徳が出て、戸田先生や大聖人様がお悟りになられた。迹じゃないですか。はっきりしてますよ。
(「沖浦説」ここまで)*******

大聖人図顕の御本尊が「根本尊崇の当体」でなければ、何であろうか?
大聖人が、御本尊が「迹仏」ならば、沖浦氏は御本尊に向かって勤行・唱題をしないでいるのかと思ったが、「曼荼羅が迹だから粗末にしていい。そんなことしたら、大謗法です」(若鷹の掲示板:10月26日投稿分)等と論理性の全く無い投稿をしている。
尤も、この投稿は、バトルトーク参戦意思表示を迫られた挙句、自己正当化と逃げ口上としての投稿と考えた方が良さそうである。

池田会長講義を引用する(48頁〜49頁)

*******(ここから「池田会長講義」)

 もし、大聖人が、単に「南無妙法蓮華経」の題目流布のみをもって、本懐とされたとするならば 「妙法蓮華経の五字を弘め給うのみならず、宝塔の中の二仏並座の儀式を作り顕す」とはいわれなかったでありましょう。むしろ「宝塔の中の二仏並座の儀式」すなわち御本尊をあらわされたところにこそ、日蓮大聖人の出世のご本意があったことは、この文に明確にうかがわれるのであります。
 ともあれ、この題目・御本尊をあらわし弘めることは、地涌の菩薩の上首・上行等にしかできないことである。その故は、これが本門寿量品の事の一念三千の法門だからであると。迹化の菩薩は迹門の法門は弘めることができる。しかし、本門寿量晶の事の一念三千は、本化の菩薩でなければならない。
 迹門の法は迹化の人、本門の法は本化の人でなくてはならない。
 この「地涌の菩薩の上首・上行・無辺行等の菩薩」とは、日蓮大聖人ご自身のことであり、人本尊をあらわします。また「本門寿量品の事の一念三千」とは、法本尊のことであり、人法一箇をあらわしております。大聖人に連なる私どももまた、もともと末法の独一本門の南無妙法蓮華経に徹する使命をもって生まれてきたのであります。

(ここまで「池田会長講義」)*******

末法今時、一般的な学会員は「迹仏(である釈尊や多宝如来等)」は拝まない。
果たして、沖浦氏は御本尊に向かって勤行・唱題をしているのだろうか?気になるテーマではある。
ともあれ、上記の論は、簡単に覆されることとなる。


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