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『史実・教義の考察』用スレッド

11天城五兵衛(管理人代理投稿):2009/01/09(金) 16:27:36
沖浦氏の所謂「人本仏迹論」を正す−10

名前:天城五兵衛 日付:11月11日(火) 22時19分

池田名誉会長は、昭和53年1月に観心本尊抄の講義を学会本部で行い、その講義録が「『観心本尊抄』の池田会長講義」と題して発刊された。

ここでは、本尊論についての部分を抜粋(19頁〜22頁)し、沖浦説の誤謬である「曼荼羅が本。これね、邪義ですよ。」を明確に破しておく。

*******(ここから「池田会長講義」)

 さて、大聖人は、末法万年の衆生の成仏のために、御本尊を顕されました。ご在世当時の人人は、法即人の当体であられる大聖人という仏の生命に録することができる。しかし大聖人も、いつかは入滅なされる。その滅後の衆生のために、ご自身の生命を曼荼羅の御本尊とし

て顕し、遺されたのであります。

 この人即法の当体としての御本尊は、一往は法本尊でありますが、再往は人法一箇の御本尊であります。ゆえに「南無妙法迎撃経 日蓮」

と中央にしたためられております。南無妙法蓮華経は“法”、日蓮在御判は“人”を表すのであります。

このように、顕された大聖人のお立場に約せば、御本尊の根本的特質は「人法一箇」ということであられますが、では、御本尊を拝する私ど

もの立場でいえば、なにがもっとも根幹となる特質でありましょうか。それを日蓮大聖人は御みずから「観心」であると教えてくださっているの

であります。法本尊開顕の書を『観心本尊抄』と題されたのは、このゆえであります。

「観心」とは、どういうことかといえば、本尊抄の文中では、一往の立場で「我が己心を観じて十法界を見る、是れを観心と云うなり」(同二四

〇頁)と示されております。そして鏡を用いなければ、自分の眼、耳、鼻等の六根を見ることができないように、己心の十界も、仏法の鏡なくし

ては見ることができない、と教えられている。いわく「設い諸経の中に、処処に六道並びに四聖を載すと雖も、法華経並びに天台大師所述の

摩訶止観等の明鏡を見ざれば、自具の十界・百界・千如・一念三千を知らざるなり」(同頁)とございます。

これで明らかなように「十法界を見る」といっても、一念三千を見るということであります。しかして、たんに一念三千というなら、それは理で

あり、南無妙法蓮華経こそ「事の一念三千」であるというのが、大聖人の結論であります。したがって「我が己心を観じて十法界を見る」とは、

我が己心を観じて南無妙法蓮華経を見ることにほかなりません。

十界のいかなる衆生であれ、我が己心の究極の実相は南無妙法蓮華経であります。この本来、我が身が妙法の当体である真理を教えた

のが、法華経の迹門であります。なかんずく迹門方便品の「諸法実相」が、これを述べたものであることを、大聖人は『諸法実相抄』に、次の

ように論じられておられる。「下地獄より上仏界までの十界の依正の当体・悉く一法ものこさず妙法蓮華経のすがたなりと云ふ経文なり」(同

一三五八頁)、「万法の当体のすがたが妙法蓮華経の当体なりと云ふ事を諸法実相とは申すなり」(同一三五九頁)と。

(ここまで「池田会長講義」)*******

(つづく)


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