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『史実・教義の考察』用スレッド
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天城五兵衛(管理人代理投稿)
:2009/01/09(金) 16:22:49
沖浦氏の所謂「人本仏迹論」を正す−8
名前:天城五兵衛 日付:11月11日(火) 0時3分
沖浦氏は、仏法の基礎である「依正不二」「総別の二義」についても理解が出来ていない。
*******(ここから「沖浦説」)
そして、自分と他人は自分が本、他人は迹。ですからご本仏と言えども、この世の関係では私が本、大聖人様が迹。命は双方と差別なく妙法の当体ですから、本です。ここは差別が無いのです。
(「沖浦説」ここまで)*******
「依正不二」についても、池田会長講義を引用する(35頁〜36頁)。
*******(ここから「池田会長講義」)
「依報あるならば必ず正報住すべし」とは、少し疑問に思うところであります。それは、私どもは法華経の教えによって、正報が根本で、それに応じて依報があると理解しているからであります。したがって「正報住するならば依報あるべし」といわれるべきところのように思える。この点について簡単に申し上げると、仏法においては、特に爾前経では一貫して、十界は、十種の異なる世界として説かれてまいりました。十界という言葉自体、十種の世界という意味であります。
これについては、ご承知のように、たとえば地獄界は、地の下一千由旬のところにあるとされた。また、餓鬼界は地の下五百由旬、畜生界は水・陸・空といわれる。修羅は海のほとり、海の底とされ、人は大地によって住し、天は宮殿といいますが、須弥山の山腹から頂上、更にその上方の空というふうに考えられております。
以上の六道のほか、いわゆる四聖についても、二乗は方便土、菩薩は実報土、仏は寂光土と、それぞれ、別々の世界に住すると説かれてきたのであります。
このように、種々の依報が説かれるということは、当然そこに住する衆生も、種々に異なるということです。しよせん、住する衆生すなわち正報と、それぞれの国土すなわち依報とが一体になっているのが、生命の真実の在り方であります。すなわち、爾前経においては、十界とは世界観であった。法華経において初めて依正不二の生命観としてとらえられたのであります。「釈に云く」とあるのは、妙楽大師の法華文句記のことですが 「依報正報・常に妙経を宜ぶ」とは、この十種の依報正報の生命は、いずれも、妙法蓮華経をあらわしている、ということであります。
すなわち仏法においては、依報正報ともにその奥深いところでは断絶がないと教えている。依報が妙法蓮華経の当体であるとともに、正報もまた妙法蓮華経の当体なのであります。妙法蓮華経の一法において、依報も正報も連続しているのであります。
あえていえば、妙法の根源の一法が、一方において正報とあらわれ、それと同時に依報となってあらわれているということであります。すなわち生命という次元において、依報も正報も結合しているのであります。故に、ここから正報の生命の変革が、依報の変革に通ずるという仏法の卓越した原理が生まれてくるのであります。
(ここまで「池田会長講義」)*******
更に、総別の二義から「大聖人本仏論」を宣揚されている(53頁)
*******(ここから「池田会長講義」)
十界の依正の当体が妙法蓮華経であり、妙法 蓮華経が「本仏」ですから、十界の衆生即ち凡 夫が「本仏」である。これに対して、釈迦仏を はじめ、経文に説かれるあらゆる仏は 「迹仏」 である、ということであります。「諸法実相」 の原理、法華経の道理からいえば当然のことで ありますが、それをこのように明確に言い切 り、凡夫こそ本仏なりと断ぜられたところに、 日蓮大聖人の教えが、末法万年の未来に投じ た、不滅の力用と光明があるのであります。
ここに、凡夫と仰せられたのは、別して日蓮 大聖人の御事であり、日蓮大聖人が御本仏であ られることを示されております。「御義口伝」 に「末法の仏とは凡夫なり凡夫僧なり……仏と も云われ又凡夫僧とも云わるるなり」とある通 りであります。
ともに、総じて私どもは、当然、凡夫であり ます。その凡夫が、最も尊く、偉大であること を、日蓮大聖人が、自ら凡夫の姿を示して、お 説きくださっているのであります。
(ここまで「池田会長講義」)*******
どこに一体、「己が本仏で、日蓮大聖人が迹仏」等と解釈出来るのか?
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