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『史実・教義の考察』用スレッド

3天城五兵衛(管理人代理投稿):2009/01/09(金) 16:14:26
沖浦氏の所謂「人本仏迹論」を正す−2

名前:天城五兵衛 日付:11月10日(月) 23時51分

下記は沖浦氏の持論である、所謂「人本仏迹論」である。
沖浦耕治氏が「富士宮ボーイ掲示板」に、2008年10月21日午前7時に投稿した分である(読み易くするために、一部改行位置を改めたが、原文はそのままにしてある)。

閲覧者の方で、自分の信心に不安を感じる方は、邪説に惑わされぬ様、注意深く読んで頂きたい。

*******(ここから「沖浦説」)

池田先生が、曼荼羅は虚空会の儀式を紙に写し取ったものだ。(趣意)と言われている。
そして、虚空会は迹。と明言されておられる。虚空会が迹で、写し取った曼荼羅が迹は理の当然じゃないですか。何故、小理屈がいりますか?

仏法は人間のための教えである。教えのの大原則なんですよ。国の憲法みたいなものです。仏法が人間のためなら、人間が本。仏法が迹。

曼荼羅は仏法に含まれます。物凄く簡単明瞭な理屈です。歴代の仏は曼荼羅なしで悟っているんです。全て内得信仰で悟ります。釈迦、天台、伝教、日蓮大聖人様、戸田先生。全てそうです。この事実すら忘れ果てた不心得者が、ややこしくしているのです。日蓮正宗の害毒から抜けられない人たちです。寛師の毒に侵されています。
 
例えば大聖人様と私共。身体は仮のものですから迹ですね。恐れ多いので私で説明いたします。大聖人様もおなじですよ。沖浦克治と言う人間。これはこの世での仮の姿です。ですが命は妙法なんですね。この身体は迹。次に生まれる時は違う身体です。命は同じです。妙法の当体です。本です。これは大聖人様も同じです。そして、自分と他人は自分が本、他人は迹。ですからご本仏と言えども、この世の関係では私が本、大聖人様が迹。命は双方と差別なく妙法の当体ですから、本です。ここは差別が無いのです。

『然れば久遠実成の釈尊と皆成仏道の法華経と我等衆生との三つ全く差別無しと解りて妙法蓮華経と唱え奉る処を生死一大事の血脈とは云うなり、』(生死一大事血脈抄)

現実社会の出来事から御書を読む。依義判文と言い、現実主義です。反対が依文判義で、教条主義で原理主義です。

日蓮系は古来二つの道しかありませんでした。教条主義で玉砕。現実主義で堕落。創価学会だけが、現実主義路線でありながら堕落致しませんでした。戸田先生が御書を依義判文なされて読まれたからです。大聖人様とご同様のご境涯でなければ不可能です。世界一のお方だったでしょう。

曼荼羅の現実はこれまでの思い込みとは異なります。海外のメンバーは曼荼羅がない方が多数いらっしゃいます。空の仏壇にお題目を唱え、見事な功徳が出ておられます。私共は、この現実からスタートせねばなりません。依義判文です。そうすると、曼荼羅が絶対ではないことがわかります。曼荼羅のご安置は、絶対条件ではなく、充分条件です。事実なくても大功徳が出ていますから。

大聖人様も曼荼羅なしでのお悟りです。戸田先生も同じく牢獄の中で曼荼羅はありません。お数珠もなく、牛乳瓶のふたで作られておられます。末法を導くお二人の偉大な仏法者が、お二人とも、曼荼羅に頼らず悟りを開かれた事実。門下なら当然大前提にすべきでしょう。この前提を歪め、曼荼羅崇拝を広め信徒支配を企んで来たのが、日蓮正宗と言う名の邪教です。曼荼羅が本。これね、邪義ですよ。

なくても功徳が出て、戸田先生や大聖人様がお悟りになられた。迹じゃないですか。はっきりしてますよ。

(「沖浦説」ここまで)*******

この説に同調出来る様であれば、基礎教学を一から学び直すことをお勧めする。


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