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伊東静雄を偲ぶ

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1 : 「伊東静雄詩の転機」に関する諸説(2) / 2 : 第61回菜の花忌・第35回伊東静雄賞贈呈式(1) / 3 : 堺三国ケ丘菜の花忌(2) / 4 : 伊東静雄の詩の転機に関するメモ(1)(3) / 5 : 「連嶺の夢想」から「鵲の飛翔の道」へ(メモ)(2) / 6 : 伊東静雄の詩の転機に関するメモ(3)(1) / 7 : 伊東静雄の詩の転機に関するメモ(2)(2) / 8 : 「わがひとに與ふる哀歌」詩発想の謎?(3) / 9 : (続き)「わがひとに與ふる哀歌」の構成(2) / 10 : 謹賀新年(1)
11 : 「曠野の歌」の造型法(4) / 12 : 第35回 伊東静雄賞(1) / 13 : 住吉高校訪問メモ(3) / 14 : 住吉高校からのご招待(報告)(3) / 15 : 第60回菜の花忌(1) / 16 : 第60回菜の花忌・34回伊東賞贈呈式・記念講演会(1) / 17 : 第15回堺・三国ケ丘 伊東静雄・菜の花忌(1) / 18 : 第34回 伊東静雄賞 名前追加(1) / 19 : 第34回 伊東静雄賞(1) / 20 : 戦時下の叙情について(1) / 21 : セガンチーニ「帰郷」と伊東静雄(2) / 22 : 戦時下の抒情(1) / 23 : 出版のお知らせ(1) / 24 : 堺大浜の詩碑建立の日(1) / 25 : 第59回菜の花忌:第33回伊東静雄賞贈呈式(1) / 26 : 第33回 伊東静雄賞(1) / 27 : 第14回 菜の花フォーラム(1) / 28 : 伊東静雄詩 羨望(1) / 29 : 「夏の終」メモ(改)(1) / 30 : 夏の終(2) / 31 : 照会(1) / 32 : 「夏の終り」(1) / 33 : 「堺のうたびと」(1) / 34 : ありがとうございます。(1) / 35 : 掲示板 引っ越し完了(1) / 36 : 伊東静雄を偲ぶ(1683)  (全部で36のスレッドがあります)

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1 「伊東静雄詩の転機」に関する諸説 (Res:2)All First100 Last50 SubjectList ReLoad 1
1Morgen :2025/06/19(木) 16:13:49
1、大岡信は『昭和10年代の抒情詩ー「四季」「コギト」その他』(1959年)で、次のように静雄詩の「下降」を述べています。
 a) 伊東静雄でさえ『夏花』以後は急速に「意志の姿勢」を崩し、およそ何の魅力も、何の魅惑的音楽も持たない青春喪失の詩境に落ち込んでしまった。 b)『夏花』のいくつかの詩篇を除けば、詩人は急速に日常の時間へ、もっと具体的に言えば、季節の感覚の中へ、ずりおちていく。「非持」の意識は消え、詩人の現実との接触の痛切な証しであったアイロニーも消える。
 c) アイロニーに見放された時、詩における高貴な属性のひとつである、事物の重層的認識を曇らせ、透徹さをなくした視力をわずかに硬い古語のレンズでかばいながら、しだいに想像力の枯渇した詠嘆的詩境に後退してしまった。
2、高橋渡『雑誌コギトと伊東静雄』―191~282頁『伊東静雄」の項において、以下のように反論しています。(詳細は同書を是非お読み下さい‼!)
 a) ここで述べられている大岡説は、以降今日の「定説」となっている。菅野昭正「平明何地上の生の平面に近づきすぎている」これが評価の大勢である。しかし、『夏花』を詩人の退却とみないで転位とみる立場から、転位がどのようになされたのか論じてみたい。
b) 大岡信の、静雄没後六年の批判と論断には「詩を構成している感性的な秩序そのものが、現実社会に対して否定的または批判的機能を持つことは不可能であろうか」という鋭い、いかにも20年代という戦後の問題意識によって展開された「四季」派批判、あの吉本隆明に刺激されての伝統的な美意識批判という狙いがあろう。また、戦後詩、すなわち現代詩がモダニズム、或いはプロレタリア詩をそれぞれ批判的に継承する「荒地」や「コスモス」を先導として成立したという側面もあろう。
 c) 昭和11年は伊東静雄にとって極めて多事多難な年であった。(長女誕生と妻の病気、母の急逝)堺市三国ケ丘への転居、よく2年には大陸での戦争が始まり、自宅の横の街道を連日轟々と音を立てて軍隊が移動し傷病兵が運ばれていった。
 d) 「わたしは戦争に行けないから、日本に居て、在来の否定的発想法をしんの髄から、ぶちこわそうと、それを仕事にしてをります。」(昭和13・12・9)。 静雄詩に決定的な転機が訪れ『夏花』へ向かう「別の力」となった。内部世界、現実と個我との落差を凝視し追求する態度に代って、外部と内部との調和に詩を発見し、生の充足を図る姿勢が浪漫的な高揚感、沈痛感を伴う韻律にのって開示されるのである。(227頁)
3、饗庭孝雄「伊東静雄の花と雪」(1979年)<現代読本10に所載>
 a) 『哀歌』所載の「詠唱」は、人間の感情と無縁なために、無辺際なまでにかがやく蒼空をうたった詩である。蒼空の、その痛みのない、<自然>こそ、私達の意識とは無縁の姿であり、痛みとは私たち、意識をいだくものの不幸な所有物である。伊東静雄の詩の発想は、こうした違和から生まれていると私は考えている。この痛みこそが彼の詩の内的な衝動力ではないだろうか。したがって詩をつくるとは、この痛みの深さにペンをひたすことにほかならない。
 b) 詩「そんなに凝視つめるな」は、単に認識ではなく生の受容の形を示すことであり、断念である。「水中花」において、「昼と夜のあ派火」で、幻想の花をとおし、生と死はもはや詩ポエジーとかして溶け合い、その輪郭を失う。
 c) 詩人の晩年の詩は、多くを語らず平明で深く、透き通った生を持っている。「夜の停留所で」の「あゝ無邪気な浄福よ」、「小さな手帖から」で「音楽」のなかに生きる叡智をしらべをききとる。「寛恕の季節」で、その叡智は自らを含む病者と貧者への眼差を形づくり、西欧中世の聖母信仰の「憐れみ」misericordeを生む。ここに伊東静雄が到達した一つの高みがある。だが、この高みは自らをむなしくし、低めたもののみが得れる高みである。表現はおのずからそこに生まれる。この認識を前にすれば、「死」はその内部からの生の完成にすぎない。


以上、「伊東静雄詩の転機」に関する諸説をご案内しましたが、猛暑の折からくれぐれもご健康に留意されますように、お祈りいたします。

2名無しさん :2025/06/19(木) 16:22:15
「水中花」において、「昼と夜のあ派火」で、幻想の花をとおし・・・・・→「「昼と夜のあはひ」


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2 第61回菜の花忌・第35回伊東静雄賞贈呈式 (Res:1)All First100 Last50 SubjectList ReLoad 2
1伊東静雄顕彰委員会 :2025/03/25(火) 19:33:00
日時 令和7年3月30日(日曜日)午後2時~
場所 諫早市美術・歴史館
    第61回菜の花忌のあと第35回伊東静雄賞贈呈式を行います
記念講演 「詩のことば・小説のことば」 芥川賞作家 青来有一氏

入場無料 お気軽にご来場ください

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3 堺三国ケ丘菜の花忌 (Res:2)All First100 Last50 SubjectList ReLoad 3
1Morgen :2025/02/23(日) 03:05:30
堺三国ケ丘での菜の花忌のご案内をいただきましたので共有します。テーマ「若者世代に伝えよう、伊東静雄の抒情詩を!」
3月9日(日)12時30分受付開始/堺市立三国が丘幼稚園
「美しい日本語」の詩を残した伊東静雄をめぐって、講演やトークセッションが行われる予定です。主催者の「けやき通りまちづくりの会」は皆様のご参加をお待ちしています。

2Morgen :2025/03/12(水) 22:05:02
堺三国ケ丘での菜の花忌(3月9日)は、住高卒業者の参加者多数で会場満員の盛況でした。(諫早出身者は4名参加)「伊東静雄の抒情詩を学ぶ機会を増やし、美しい日本語を伝えよう」という趣旨が生かされた菜の花忌でした。


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4 伊東静雄の詩の転機に関するメモ(1) (Res:3)All First100 Last50 SubjectList ReLoad 4
1Morgen :2025/01/29(水) 23:48:48
 伊東静雄の『哀歌』期は、昭和8年8月『コギト』投稿開始から同10年10月『わがひとに與ふる哀歌』発行までの約2年間 。その後の『夏花』期、『春のいそぎ』期、『反響・反響以後』期と比べても短期間であるのに、伊東静雄が「哀歌の詩人」と呼ばれるのは適正でない。また「日本浪曼派」への投稿も3回しかないのに、「日本浪曼派の詩人」と呼ぶのはおかしい。日本浪曼派代表の保田與重郎は極端な国家主義者としてGHQにより公職追放処分を受けており、「日本浪曼派とは保田與重郎である。」(橋川文三)と政治的セクト扱いを受けているのに、安直に「伊東静雄は日本浪曼派の詩人である」と決めつけるのは、彼を貶める(おとしめる)ものであるという見解も出されている。(渡辺信二立教大教授、詩人)

次のテーマ「伊東静雄初期の「哀歌風」の詩は何時転機を迎え、どのように変わっていったのか?」― 取りあえず、「転機」に関する諸論文の一部抜粋を列挙してみる。 

1、「朝顔」(昭和11年夏作)(『コギト』昭和12年2月号)

 ーその頃住んでゐた、市中の一日中陽差の落ちて来ない我が家の庭に、一茎の朝顔が生

  ひ出でたが、その花は、夕の来るまで凋むことを知らず咲きつづけて、私を悲しませ

  た。その時の歌・・・・・

 →日常生活の中の花である朝顔を目の前にして歌っているのは、「無季節・無色の」哀歌

  期の花とは違う具体的な花の表現になっている。(多くの学者)

2、「八月の石にすがりて」(昭和11年9月『文藝懇話会』)

  「…あゝ われら自ら弧寂なる發光體なり!/白き外部世界なり。」 の詩句について

 →「自ら弧寂なる發光體」とは孤立した自我の状態、「白き外部世界」とは、自我が消滅

  してしまった後の広漠とした世界) ついに息絶えてしまった自分は「弧寂なる發光

  體」となってわずかな抵抗を示すがそれも束の間、まわりにはただ何もない、白く不

  透明な空間の広がりだけがある。「わたし」の消滅と同時に「自然」もまた消滅し、白

  の状態だけが残る。「八月の石にすがりて」は、『わがひとに與ふる哀歌』で張りつめ

  ていた「わたし」と「自然」との緊張の糸がついにはじき切れてしまった、その瞬間

  を描いている。 (エリス俊子「伊東静雄の自然」から抜粋)

3、「沫雪」(昭和14年5月『コギト』

 →皆が死んで行き、その後、更に切り刻んで余分なものを切り捨てた空白の現在に、あ

  るいは、否定形によって浮かび上がらせた現存の地平に伊東静雄は、個を屹立させる

  可能性があった。彼にとって、うたうべきは〈現在=いま〉である。〈ゆきどけのせは

  しき歌はいま汝をぞうたふ〉「沫雪」。たとえそれが日本浪漫派と呼ばれようとも、彼

  の試みは、評価されねばならない、むしろ、日本浪漫派として、戦前の歴史の一齣へ

  貶(おとし)める方が危険である。→(CF:リルケ 〝孤高の詩人の姿″)

  (『幻実の詩学-ロマン派と現代詩』ふみくら書房 275~6頁から抜粋)

2Morgen :2025/02/19(水) 05:37:18
訂正/「日本浪曼派」への投稿も3回しかない→「日本浪曼派」への投稿も5回しかない、①昭和10年1巻2号「真昼の休憩)②1巻8号「まだ猟せざる山の夢」⓷4巻9号「さる人に)⑤第2巻1号「追放と誘い」同誌は同13年8月終刊


3Morgen :2025/02/19(水) 06:11:12
訂正/→「日本浪曼派」への投稿も6回しかない/①「真昼の休憩)②「かの微笑みの人を呼ばん」⓷「まだ猟せざる山の夢」④「さる人に)⑤「追放と誘い」⑥「水中花」なお同誌は同13年8月終刊
このうち、戦前の詩集で公にされたのは「かの微笑みの人を呼ばむ」と「水中花」だけであり、たった2篇の詩でもって「日本浪漫派を代表する詩人」と位置付けるのは、事実に反する決めつけです。


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5 「連嶺の夢想」から「鵲の飛翔の道」へ(メモ) (Res:2)All First100 Last50 SubjectList ReLoad 5
1Morgen :2025/02/15(土) 06:36:39
「曠野の歌」(『コギト』昭和10年4月号)から、詩集『わがひとに與ふる哀歌』発行(同10月5日)、「夏の嘆き」(『四季』同第11月号)まで一連の流れが意味する事柄について考えてみました。

1、「曠野の歌」―「わが死せむ日」は漠然とした未来、それが「美しい日」であってほしいという願望。/「連嶺の夢想」―連嶺が「夢想」するのではなく、詩人が「曠野の歌」全体を「夢想」していることを意味し、最後は「わが痛き夢」で締める構成になっている。「息ぐるしい稀薄」は、1886-94年の8年間もスイスの4000m級のベルリナ・アルプスに囲まれたエンガディンのMaloyaに住み、毎日外出してモティーフに触れながら絵画を制作したG.SEGANTINIを想起させる。(2011年夏滋賀県の佐川美術館でセガンティー展でその絵画実物を観たことがある。)/ひと知れぬ泉をすぎ/非持の木の実熟るる/隠れたる場しょを過ぎ/わが屍骸を曳く馬の道行。その道標として花の種を播いておく。/「夢想においては人間精神は自立的な創造の力をさずけられており、その力は、自由に寓話、形象、イマージュを想像できる。」(マルセル・レイモン『ボードレールからシュールレアリスムまで』) さらには「詩的言語は虚構を容れる容器であるがゆえに、個人としての死=永遠という圏域を運行する精神として蘇る」が(マラルメ「方法について」「ノート1」)以上菅野昭正『ステファヌ・マラルメ』からの引用/「あゝかくてわが永久の帰郷を」連嶺の白雪の光が照らし、木の実照り 泉はわらひ/わが痛き夢よこの時ぞついにやすらわむもの!/しかし(夢が醒めた現実は)教職員としての時間的拘束があ家庭の事情がある中(=マラルメも同じ境遇)での詩作である。早く初詩集を発行して、一人前の 詩人として認められたいという目前の「夢」が痛いほど湧いてくるのだ!

2、昭和10年10月5日に詩集『わがひとに與ふる哀歌』が300部発行され、同13日萩原朔太郎からのはがき「わがひとに與ふる哀歌、昨日拝受致しました。新しき島崎藤村の詩を、若き日に再度よむ思ひです。コギトに紹介をかねて 批評をかきたく思ってゐます。」関係者に詩集を送り、詩集は好評であった。同年11月『四季』に「夏の嘆き」、『日本浪曼派』に「まだ獵せざる山の夢」の2作品を発表している。「夏の嘆き」は、師萩原朔太郎に捧げられた作品である。鵲の飛翔の道<伊東静雄の詩人としての道>は、ゆるやかに飛翔する方向を見定められた。「まだ獵せざる山の夢」の詩につ続けて小高根二郎氏が『詩人、その生涯と運命』に書いている実話は面白いが(新潮社版同書300頁)、引用は長くなるので割愛。「實生活の上では、非常に危険な時期であったような気がする。詩と同じ程度に、いつもその頃は故知らず激してゐて、家の中にいても、並外れた言動をしていた。」

2Morgen :2025/02/16(日) 03:55:09
(補注)「夢想においては人間精神は自立的な創造の力をさずけられており、その力は、自由に寓話、形象、イマージュを想像できる。」(マルセル・レイモン『ボードレールからシュールレアリスムまで』)は『フランス象徴詩の研究』(平野威馬雄著 思潮社)第四部「夢と象徴」からの引用。なお同228~32頁では、マラルメが「現実をも夢と見て詠吟した」ことが述べられており、夢においては物象の離合聚散が現実のそれとは全く異なるように、詩においても各語のつながりは決して現実普通のそれであってはならない。各語がただ詩をなすためにだけ連結するとき、そこに詩が生まれるというマラルメの詩論が述べられている。


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6 伊東静雄の詩の転機に関するメモ(3) (Res:1)All First100 Last50 SubjectList ReLoad 6
1Morgen :2025/02/06(木) 04:01:24

1、(伊東静雄詩研究者達の登場) 昭和一桁生まれの詩人・評論家たちは…

1970~80年代の伊東静雄論のリーダー達/ 川村二郎(1928年~2008)、菅野昭正⁽1930年~2023年)、大岡信(1931年~2017年)、饗庭孝雄(1930年~2017年)、小川和佑(1930年~2014年)各氏。/いずれも終戦前後に『春のいそぎ』(昭和18年)『反響』(昭和22年)、『現代詩集』(昭和15年刊)などを古本で買って、伊東静雄の後期の詩から読み始めた。『わがひとに與ふる哀歌』や『夏花』などは古本でも手に入らなかった。そんな事情もあって初期の静雄詩の解読には大変な苦労があった。(参照;『ユリイカ』1971/10 共同討議「ものと超越伊東静雄をめぐって」など)

2、「フランス・サンボリズム」の視点―『夏花』は根源の場所への近接の断念、硬質の詩語の放棄という指摘(菅野昭正「曠野の歌―深層のレアリスム*」「現代詩手帖」1964) 「深層のレアリスム*」とは、「曠野の歌」で歌われている帰郷者の意識/…我々の存在がもともとそこで新しい生命力を汲み上げつづけねばならぬはずの場所。そんな根源の場所が確かに実在することを、更にまたその根源の場所への近接を自分が厳しく要請されていることを、伊東静雄は痛切に体験していたのに違いない。そして、彼はその体験のなかに詩が誕生する源泉を確認したのである。=プラトニスム=深層のレアリスム=サンボリスムの系譜につながる詩人となった。<『現代詩読本 伊東静雄』133頁 >「八月の石にすがりて」は、「根源への近接」への諦念、激しい断念と呪詛が示されている。参照:中島栄次郎「詩の論理と言語」

3,大岡信/『古今集』風…あるひとつのものをもってきて、同時に、そのものが背景に引きづっている全く別のコンテキストを同時に透かしてみせる。心情の二重構造。(褻の世界を絞め殺して晴れの世界を歌う屈折した心理) (憧れ+拒否)/二律背反的精神状態を保ちつつ、意志の純粋な指向性だけが残る。詩は純粋な精神現象としての、詩とよばれる構造物となる。(=「詩索」=「完成への意識的な拒絶」意味のはぐらかし・語の無方向性への志向・言葉の充実した空無の内に、時空の日常的限定を脱したポエジーそのものの出現を目指す)/詩の完成ということに対する疑念を方法的に詩作のエネルギーに転化したマラルメやヴァレリーとの共通性/「不条理の感覚・認識形式」は「八月の石にすがりて」まで引きついでいる。/「あゝわれら自ら弧寂なる発光体なり! 白き外部世界なり。」(自己を孤立した主体としてとらえ、同時にそれを、主体の 消滅し去った後の荒涼たる外部世界としてとらえる)→わずか10年足らずの間に「弧寂なる発光体」の光をみずから覆い消そうと努力するようになる。(『詩人たちの近代/昭和詩の問題』145~161頁)

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7 伊東静雄の詩の転機に関するメモ(2) (Res:2)All First100 Last50 SubjectList ReLoad 7
1Morgen :2025/02/02(日) 02:55:09
(4)「晴れた日に)(昭和9年8月『コギト』)につきエリス俊子前掲論文他

 詩「晴れた日に」の大意は、冒険ののち(「わたし」と「自然」とのかかわり方・詩の発想法を変えたら)太陽はいやに透明になり、まわりの自然が全然見覚えのないものになった。胸は真鍮の籠のように空っぽになり、心臓はおもちゃのような音がする。名前のない体験のなり止まぬのはなぜだろう。万物(自然)が「拒絶」するもの、「拒絶」されるものになったとき、自然は抽象的な存在となる。(非実在) このようにして、『わがひとに與ふる哀歌』の世界は「私」と「自然」との緊張関係・不安定な状態となり、ファンタジー詩からの転換を予感しながら、実質約一年間にわたり『わがひとに與ふる哀歌』の各詩を作り続けたということにならないだろうか(?) また、ポケット型の『拒絶』という詩集を出す旨を述べており、「拒絶」という詩も公表していたが、これは静雄詩の転換の陰で捨てられた。この「拒絶」詩は、『哀歌』詩の詩論すなわち「詩による詩論」と見ることもできる。

(5)「水中花}(昭和12年8月『日本浪曼派』)につき松本健一「伊東静雄と保田與重郎」)

「水中花」で歌われているのもまた、抽象的な花ではなく、色や形を持った日常の具体的な花のイメージである。それが、「いかなれば」(同12年9月)で歌われているように「曾て飾らざる水中花と養はざる金魚」であり「自然」ではなかったが、滅びの美を水中花に託してうたったものであるこの歌の完璧性、完成度は、古典そのものといった風情を示している。」『哀歌』時代のイロニーという方法からも抜け出し、詩のかたちは「西洋の図」を一切こそげおとしている。「伊東静雄が日本浪曼派と画然と訣れざるを得ない質というものがあきらかである。」と松本氏は述べている。(『現代詩読本』53~61頁) 菅谷規矩雄氏は、堪えがたければわれ空に投げうつ水中花。/金魚の影もそこに閃きつという発句と脇の恰好になっており、俳諧的な様式性(文体の擬古性)にもとづいていると述べられている。いずれも、『哀歌』期からの転換を示すものである。

(6)「燕」(昭和13年7月『コギト』)につき穎原退蔵「伊東静雄君と『夏花』-芭蕉への歩み」

「単調にして するどく 翳りなく」という一行の中にも、最初に渡りついた燕の声に対して、作者の心がいかに動きのない確かさを持って居るかは見られる。それは観照というよりも寧ろ燕の声の中に投げ入れられた作者の心自体の表現である。私はそこに芭蕉の所謂〝句と身と一枚になる″境地を思わずには居れない。作者の歩いてきた道は、やはりここを目指して居たのであろうか。習俗への作者の烈しい反撥は独り弧寂の道をたどってついにこの境地に到ったのだ。

2Morgen :2025/02/02(日) 02:59:38
穎原退蔵「伊東静雄君と『夏花』-芭蕉への歩み」は、『現代詩読本 伊東静雄』218頁からの引用


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8 「わがひとに與ふる哀歌」詩発想の謎? (Res:3)All First100 Last50 SubjectList ReLoad 8
1Morgen :2025/01/10(金) 01:39:09
「わがひとに與ふる哀歌」発想の謎?

 昭和8年8月号「新世界のキィノー」を手始めに、伊東静雄は『コギト』へ精力的に投稿していますが、この時点で既に初詩集を企図していました。(昭和9年12月号「冷たい場所で」まで10本投稿)特に、昭和9年2月「私は強いられる」詩の発想法はそれまでとは一変しており、その背景や「わがひとに與ふる哀歌」へと詩が深化・重層化した契機・原動力は何か? そういうテーマを想定した想定問答に確定的な回答とは参りませんが、取敢えずの詩論をまとめてみました。

昭和7年3月『コギト』が創刊され、伊東静雄は「コギトの詩人なかなかよろしい」という葉書を送りました。中島栄次郎氏(23才 京大生)は、

田中克己氏とともに静雄を訪問し、それから何度も会い、会えば2~3時間も話し込みました。(『中島栄次郎著作選』)

その頃、中島氏は詩や小説の他「創作―自然主義と浪漫主義」「絶望の文学」「小説は問題を解かない」「2つの方向ー"旅の誘い″と"善悪の彼岸″」「文学における『距離』の問題ファンタジー考」「言語の形而上学とロマンの問題」「批評のレアリズム」「レアリズムの精神」「リベラリズムと文学の功罪」等々、毎号力の籠った論文を投稿しています。そのなかで、静雄詩の発想法に関りがあるのではないかと私が推察するのは「文学における『距離』の問題ファンタジー考」「言語の形而上学とロマンの問題」「レアリズムの精神」です。 (また長くなってしまいそうなのではしょりますが)「文学における『距離』の問題ファンタジー考」(以下「ファンタジー考」)において、「"ただ人間のみが不可能を可能にする″(ゲーテ)のは ロマンであり、想像の世界を生き生きとした現実にまでもちきたらすのがロマンである。ギリシャ語の「想像Phantasia」は「見得るものにするPhantazein)に由来するものであり、詩人が感動したものを見得るものにすることであり、人間の内の自然な心がやがて大きな自然に帰する、自然にかなう、それが歌である。それが人の心の琴線にふれるのである。」というのが「ファンタジー考」の核心です。

中島氏のこのような「ファンタジー考」と、「風景なり絵画なりに感動したときどうして美しいのか又はどうして美しいと感動するのかを探りそれを書く」という静雄詩論とが共鳴したことが、「私は強いられる」→「わがひとに與ふる哀歌』へと静雄詩の発想法が展開されたきっかけではないでしょうか。。長くなると拒否されるので一旦ここで置き、それぞれの詩の構成や造型法(?)については次稿に譲ります。読み難い拙文とのお付き合いありがとうございました。

2Morgen :2025/01/10(金) 01:53:45
訂正/取敢えずの詩論→取敢えずの試論


3Morgen :2025/01/12(日) 02:12:10
「私は強いられる」の「強いられて」という言葉の謎を解くカギとして、『中島栄次郎著作選』p77で「ただ私はそのままに置くことが出来なかったが故に歌ったに過ぎなぬ」(クライスト)という言葉を見つけました。


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9 (続き)「わがひとに與ふる哀歌」の構成 (Res:2)All First100 Last50 SubjectList ReLoad 9
1Morgen :2025/01/11(土) 01:06:47
前稿では『コギト』昭和9年2月号「私は強いられる」は静雄詩の転換点にある重要な詩であることを述べました。                            私は強ひられる この目が見る野や/雲や林間に、/昔の私の恋人を歩ますることを…

「私は強いられる」―私に強いるのは何か?― 心の中に秘められた感動、苦い想い出、悲しみ等を「目に見得るようにしてみたい」という私の心の衝動であり、自然=「この目が見る野や 雲や林間に、昔の私の恋人を歩ませ」てみて、詩作することで「肉眼では眺めえなかった現実の皺をときほぐす」(『中島栄次郎著作選』71頁)という試み―これは「詩(歌)の発想法」の転換ではないでしょうか。これを転機に昭和9年4月「帰郷者」、6月「4月の風」、8月「晴れた日に」、10月「河邊の歌」、11月、12月「冷めたい場所で」と『コギト』への投稿が続けられました。

「わがひとに與ふる哀歌」冒頭7行の、太陽の輝く広大無辺の自然の中を「手をかたくくみあはせ/しずかに私たちは歩いて行った」という詩句は、昭和9年2月の「私は強いられる」詩の展開であります。

 太陽は美しく輝き/あるひは 太陽の美しく輝くことを希ひ /手をかたくくみあはせ/しずかに私たちは歩いて行った (以下省略)

この「手をかたくくみあはせ」という詩句が「セノオ楽譜モルゲン」の表紙絵の印象からきているとか、マッケイの歌詞全体の印象が「哀歌」詩構想のヒントとなっていので「モルゲンからの本歌取り」だ(小川和佑『伊東静雄論考』)というのはその通りだ思います。。(杉本秀太郎氏『伊東静雄』はこれに猛反発しています。)いずれにしても「本歌取り」冒頭7行であり、次の展開部(抒情詩部分)6行の格調高い讃歌にまでも「モルゲン」の影響を考えるのは行き過ぎだと思います。

 無縁のひとはたとへ /鳥々は恒に変わらず鳴き /草木の囁きは時をときをわかたずとするとも/いま私たちは聴く/私達の意志の姿勢で/それらの無辺な広大の讃歌を

この抒情詩部分は「肉眼で観た」いわゆるリアルな詩ではなく、目をつむって「意志の姿勢で」歌ったロマン詩であります。しかしながらファンタジー(想像)による自然は肉眼で見ると(「目の発明」)反転してしまい、讃歌は「有」から「無」に変わり、その残像だけが残されます。肉眼で見た自然には、輝く日光の中に忍びこんでいる「音なき空虚」が存在するばかりです。「切に希はれた太陽をして 殆んど死した湖の一面に遍照」させるのには「如かず」(=及ばない)と、観念上の太陽の残光でもよいから照らしてほしいと希って「哀歌」は結ばれています。さらに、内容的に繋がる翌月投稿の「冷めたい場所で」を「哀歌」と一連の詩とみれば、"私の想いは哀歌の反対ですよ"と言っていることになり、全体を見るとパロディ化されていると見ることもできます。                         「冷めたい場所で」―私が愛し/そのため私につらい人に/ 太陽が幸福にする /未知の野の彼方を信ぜしめよ/そして/真白い花を私の憩ひに咲かしめよ / 昔のひとの耐へ難く/望郷の歌であゆみすぎた/荒々しい冷たいこの岩石の/場所にこそ

追記/ エリス俊子氏が「(藤原定家)“見わたせば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕ぐれ”のうらさびしい秋の夕ぐれの無色感と比べて、「哀歌」は「遍照」する光に閉ざされた空間の裏側に、なおも太陽が君臨する壮大な自然の姿が見えている」「未知の野の彼方とは、(哀歌を歌った私が切望していた)鳥が鳴き、風がそよぎ、草木が香る、陽光に満ち溢れたあの野原である」と述べられているのが参考になります。(エリス俊子「伊東静雄の自然」‐川本晧嗣編『詩と歌の系譜』所収)

2Morgen :2025/01/12(日) 00:54:32
去年10月15日に参加させて頂き、校長先生や同窓会長様から懇切丁寧なご説明や資料提供をいただきました。同校の伊東静雄先生が、朝会の場で「曠野の歌」の発想を3~4分で得られたという「情報」などに刺激されて本棚に眠っていた関係本を再読する機会を得て、本欄に若干の感想文を投稿することができました。このような機会を与えていただいた住吉高校の先生方並びに同窓会の方々に心から感謝申し上げます。


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10 謹賀新年 (Res:1)All First100 Last50 SubjectList ReLoad 10
1Morgen :2025/01/08(水) 02:14:43
皆様 明けましておめでとうございます。

(実は12/29投稿の続きとして「わがひとに與ふる哀歌」の造型法を書いて投稿を試みたのですが、長文過ぎて拒否。短文にして後日再投稿予定。)

前稿でメーリケの詩の引用について書きましたので、その周辺をもう少し知りたいと思い居間のテーブルで『ロマン主義とリアリズムの間』(藤村宏)の「オーストリアそのまま」ーシールスフィールド、レーナウ、グリューンーのページを開いているとき玄関のベルが鳴り、娘と孫が新年の挨拶に来ました。年末から旅行にでも行ったのかと思っていたら何とオーストリア旅行から昨夜帰ったばかりということで、偶然の一致に驚きました。

伊東静雄が、昭和8年8月号『コギト』から投稿を初めて、同9年11月号「わがひとに與ふる哀歌」に至るまでに、コギト同人の諸論文やドイツロマン派の詩集などからどのような影響を受けたのか自分なりの理解をしたいというのが読書の目的でした。

『コギト』総目録で見ると、沖崎猷之介(中島栄次郎)服部正巳氏、田中克己氏、松下武雄氏などが、詩論や翻訳を投稿されています。手元の『コギト』バックナンバーは昭和9年1月号以降の分しかないので、『中島栄次郎著作選』やシュレーゲル『文芸についての談話」も併せて読みました。ドイツロマン派の詩集は、手元にはあるのですがまだ読んでいません。しかし、どれも難しいですね!

結局、今年の正月は生田神社に初詣に行っただけで自宅に籠りきりでした。

天気の良い日は毎日1~2時間のウォーキングをしたいですね。

皆様、一年間お元気でお過ごしください。

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