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「連嶺の夢想」から「鵲の飛翔の道」へ(メモ)
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:
Morgen
:2025/02/15(土) 06:36:39
「曠野の歌」(『コギト』昭和10年4月号)から、詩集『わがひとに與ふる哀歌』発行(同10月5日)、「夏の嘆き」(『四季』同第11月号)まで一連の流れが意味する事柄について考えてみました。
1、「曠野の歌」―「わが死せむ日」は漠然とした未来、それが「美しい日」であってほしいという願望。/「連嶺の夢想」―連嶺が「夢想」するのではなく、詩人が「曠野の歌」全体を「夢想」していることを意味し、最後は「わが痛き夢」で締める構成になっている。「息ぐるしい稀薄」は、1886-94年の8年間もスイスの4000m級のベルリナ・アルプスに囲まれたエンガディンのMaloyaに住み、毎日外出してモティーフに触れながら絵画を制作したG.SEGANTINIを想起させる。(2011年夏滋賀県の佐川美術館でセガンティー展でその絵画実物を観たことがある。)/ひと知れぬ泉をすぎ/非持の木の実熟るる/隠れたる場しょを過ぎ/わが屍骸を曳く馬の道行。その道標として花の種を播いておく。/「夢想においては人間精神は自立的な創造の力をさずけられており、その力は、自由に寓話、形象、イマージュを想像できる。」(マルセル・レイモン『ボードレールからシュールレアリスムまで』) さらには「詩的言語は虚構を容れる容器であるがゆえに、個人としての死=永遠という圏域を運行する精神として蘇る」が(マラルメ「方法について」「ノート1」)以上菅野昭正『ステファヌ・マラルメ』からの引用/「あゝかくてわが永久の帰郷を」連嶺の白雪の光が照らし、木の実照り 泉はわらひ/わが痛き夢よこの時ぞついにやすらわむもの!/しかし(夢が醒めた現実は)教職員としての時間的拘束があ家庭の事情がある中(=マラルメも同じ境遇)での詩作である。早く初詩集を発行して、一人前の 詩人として認められたいという目前の「夢」が痛いほど湧いてくるのだ!
2、昭和10年10月5日に詩集『わがひとに與ふる哀歌』が300部発行され、同13日萩原朔太郎からのはがき「わがひとに與ふる哀歌、昨日拝受致しました。新しき島崎藤村の詩を、若き日に再度よむ思ひです。コギトに紹介をかねて 批評をかきたく思ってゐます。」関係者に詩集を送り、詩集は好評であった。同年11月『四季』に「夏の嘆き」、『日本浪曼派』に「まだ獵せざる山の夢」の2作品を発表している。「夏の嘆き」は、師萩原朔太郎に捧げられた作品である。鵲の飛翔の道<伊東静雄の詩人としての道>は、ゆるやかに飛翔する方向を見定められた。「まだ獵せざる山の夢」の詩につ続けて小高根二郎氏が『詩人、その生涯と運命』に書いている実話は面白いが(新潮社版同書300頁)、引用は長くなるので割愛。「實生活の上では、非常に危険な時期であったような気がする。詩と同じ程度に、いつもその頃は故知らず激してゐて、家の中にいても、並外れた言動をしていた。」
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