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伊東静雄の詩の転機に関するメモ(1)

1Morgen:2025/01/29(水) 23:48:48
 伊東静雄の『哀歌』期は、昭和8年8月『コギト』投稿開始から同10年10月『わがひとに與ふる哀歌』発行までの約2年間 。その後の『夏花』期、『春のいそぎ』期、『反響・反響以後』期と比べても短期間であるのに、伊東静雄が「哀歌の詩人」と呼ばれるのは適正でない。また「日本浪曼派」への投稿も3回しかないのに、「日本浪曼派の詩人」と呼ぶのはおかしい。日本浪曼派代表の保田與重郎は極端な国家主義者としてGHQにより公職追放処分を受けており、「日本浪曼派とは保田與重郎である。」(橋川文三)と政治的セクト扱いを受けているのに、安直に「伊東静雄は日本浪曼派の詩人である」と決めつけるのは、彼を貶める(おとしめる)ものであるという見解も出されている。(渡辺信二立教大教授、詩人)

次のテーマ「伊東静雄初期の「哀歌風」の詩は何時転機を迎え、どのように変わっていったのか?」― 取りあえず、「転機」に関する諸論文の一部抜粋を列挙してみる。 

1、「朝顔」(昭和11年夏作)(『コギト』昭和12年2月号)

 ーその頃住んでゐた、市中の一日中陽差の落ちて来ない我が家の庭に、一茎の朝顔が生

  ひ出でたが、その花は、夕の来るまで凋むことを知らず咲きつづけて、私を悲しませ

  た。その時の歌・・・・・

 →日常生活の中の花である朝顔を目の前にして歌っているのは、「無季節・無色の」哀歌

  期の花とは違う具体的な花の表現になっている。(多くの学者)

2、「八月の石にすがりて」(昭和11年9月『文藝懇話会』)

  「…あゝ われら自ら弧寂なる發光體なり!/白き外部世界なり。」 の詩句について

 →「自ら弧寂なる發光體」とは孤立した自我の状態、「白き外部世界」とは、自我が消滅

  してしまった後の広漠とした世界) ついに息絶えてしまった自分は「弧寂なる發光

  體」となってわずかな抵抗を示すがそれも束の間、まわりにはただ何もない、白く不

  透明な空間の広がりだけがある。「わたし」の消滅と同時に「自然」もまた消滅し、白

  の状態だけが残る。「八月の石にすがりて」は、『わがひとに與ふる哀歌』で張りつめ

  ていた「わたし」と「自然」との緊張の糸がついにはじき切れてしまった、その瞬間

  を描いている。 (エリス俊子「伊東静雄の自然」から抜粋)

3、「沫雪」(昭和14年5月『コギト』

 →皆が死んで行き、その後、更に切り刻んで余分なものを切り捨てた空白の現在に、あ

  るいは、否定形によって浮かび上がらせた現存の地平に伊東静雄は、個を屹立させる

  可能性があった。彼にとって、うたうべきは〈現在=いま〉である。〈ゆきどけのせは

  しき歌はいま汝をぞうたふ〉「沫雪」。たとえそれが日本浪漫派と呼ばれようとも、彼

  の試みは、評価されねばならない、むしろ、日本浪漫派として、戦前の歴史の一齣へ

  貶(おとし)める方が危険である。→(CF:リルケ 〝孤高の詩人の姿″)

  (『幻実の詩学-ロマン派と現代詩』ふみくら書房 275~6頁から抜粋)


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