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住吉高校訪問メモ
1
:
Morgen
:2024/10/26(土) 00:07:32
住吉高校訪問の折に、以前から疑問に思っていた事項について具体的なご説明がありましたので共有します。
1 詩碑に「曠野の歌」が選ばれた経緯は?
昭和10年冬頃の旧制住中朝会のとき、伊東静雄の脳裏に「曠野の歌」の詩想が浮かび、職員室のストーブにあたりながら詩作し、同年4月『コギト』第34号に掲載された。
詩碑建立に当たられた同行の大黒先生は、同校で作られた詩として「曠野の歌」を選んだ。
2 旧制住中の教員になった経緯は?
当時の元田校長(長崎出身)が、京大文学部の卒論トップであった伊東静雄の就任を強く希望したことによる。
2
:
Morgen
:2024/11/08(金) 00:24:38
「曠野の歌」はどんな詩か?
(住高訪問時には、詩碑や資料を見せて頂いて感じた意見を即興的に述べましたが、説明不足でしたのでその補足のつもりで投稿します。)
1、「曠野の歌」が創られた昭和10年2〜3月は、「書簡」等からも分かるように初詩集の目途もついて、伊東静雄の詩作意欲が高揚した時期でした。同年4月だけでも4篇の詩を雑誌に発表しています。
・「曠野の歌」…『コギト』4月号
・「氷れる谷間」…『文学界』4月号
・「眞晝の休息」…『日本浪曼派」4月号をねんとうにおいて、
・『秧鶏は飛ばずに全路を歩いている』…4月号
2、「曠野の歌」は、『コギト』4月号では萩原朔太郎氏に捧げられた詩です。
『コギト』に掲載された伊東静雄の詩を萩原朔太郎が褒め、激励の葉書などをもらい、その感謝の意味を込めて「曠野の歌」を萩原朔太郎氏に捧げました。
伊東静雄は昭和9年6月に発行された『氷島』を高く評価していたので、その念頭には『氷島』の巻頭詩「漂泊者の歌」や「歸郷」があり、これに対応する詩を作りたいという強い気持ちが有ったのではないでしょうか。
旧制住中の朝会の場で、「永久の帰郷」をテーマにセガンテイーニ画集からヒントを得た連嶺の白雪や曠野を詩語とし、日本の古典(万葉集、古事記、日本書紀)に由来する「非時の木の実」や涸れることのない泉(時間の無化)などこの世に無いもので修飾する「曠野の歌」の詩想が浮かんだのではないかと思います。
3、わが「痛き夢」は、島崎藤村や萩原朔太郎のような立派な詩人に成りたいという上昇志向(強い憧れ)の現れ。
『わが人に与ふる哀歌』巻頭の「晴れた日に」は藤村への憧憬詩、「曠野の歌」は朔太郎への憧憬詩であるという清水和子著『朔太郎と静雄』の解説は大いに納得できます。
この2つの詩が『わが人に与ふる哀歌』の巻頭に続けて掲載されていることも伊東静雄の編集意図の現れではないでしょうか。
従って、「痛き夢」を、失恋の痛みや生活の苦労などと見たり、「わが死せむ美しい日」を死の美化とみるのは、納得できません。
3
:
Morgen
:2024/11/08(金) 02:21:17
訂正(以下のように訂正)
・「眞晝の休息」…『日本浪曼派」4月号
・『秧鶏は飛ばずに全路を歩いている』…『四季』4月号
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