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「伊東静雄詩の転機」に関する諸説

1Morgen:2025/06/19(木) 16:13:49
1、大岡信は『昭和10年代の抒情詩ー「四季」「コギト」その他』(1959年)で、次のように静雄詩の「下降」を述べています。
 a) 伊東静雄でさえ『夏花』以後は急速に「意志の姿勢」を崩し、およそ何の魅力も、何の魅惑的音楽も持たない青春喪失の詩境に落ち込んでしまった。 b)『夏花』のいくつかの詩篇を除けば、詩人は急速に日常の時間へ、もっと具体的に言えば、季節の感覚の中へ、ずりおちていく。「非持」の意識は消え、詩人の現実との接触の痛切な証しであったアイロニーも消える。
 c) アイロニーに見放された時、詩における高貴な属性のひとつである、事物の重層的認識を曇らせ、透徹さをなくした視力をわずかに硬い古語のレンズでかばいながら、しだいに想像力の枯渇した詠嘆的詩境に後退してしまった。
2、高橋渡『雑誌コギトと伊東静雄』―191~282頁『伊東静雄」の項において、以下のように反論しています。(詳細は同書を是非お読み下さい‼!)
 a) ここで述べられている大岡説は、以降今日の「定説」となっている。菅野昭正「平明何地上の生の平面に近づきすぎている」これが評価の大勢である。しかし、『夏花』を詩人の退却とみないで転位とみる立場から、転位がどのようになされたのか論じてみたい。
b) 大岡信の、静雄没後六年の批判と論断には「詩を構成している感性的な秩序そのものが、現実社会に対して否定的または批判的機能を持つことは不可能であろうか」という鋭い、いかにも20年代という戦後の問題意識によって展開された「四季」派批判、あの吉本隆明に刺激されての伝統的な美意識批判という狙いがあろう。また、戦後詩、すなわち現代詩がモダニズム、或いはプロレタリア詩をそれぞれ批判的に継承する「荒地」や「コスモス」を先導として成立したという側面もあろう。
 c) 昭和11年は伊東静雄にとって極めて多事多難な年であった。(長女誕生と妻の病気、母の急逝)堺市三国ケ丘への転居、よく2年には大陸での戦争が始まり、自宅の横の街道を連日轟々と音を立てて軍隊が移動し傷病兵が運ばれていった。
 d) 「わたしは戦争に行けないから、日本に居て、在来の否定的発想法をしんの髄から、ぶちこわそうと、それを仕事にしてをります。」(昭和13・12・9)。 静雄詩に決定的な転機が訪れ『夏花』へ向かう「別の力」となった。内部世界、現実と個我との落差を凝視し追求する態度に代って、外部と内部との調和に詩を発見し、生の充足を図る姿勢が浪漫的な高揚感、沈痛感を伴う韻律にのって開示されるのである。(227頁)
3、饗庭孝雄「伊東静雄の花と雪」(1979年)<現代読本10に所載>
 a) 『哀歌』所載の「詠唱」は、人間の感情と無縁なために、無辺際なまでにかがやく蒼空をうたった詩である。蒼空の、その痛みのない、<自然>こそ、私達の意識とは無縁の姿であり、痛みとは私たち、意識をいだくものの不幸な所有物である。伊東静雄の詩の発想は、こうした違和から生まれていると私は考えている。この痛みこそが彼の詩の内的な衝動力ではないだろうか。したがって詩をつくるとは、この痛みの深さにペンをひたすことにほかならない。
 b) 詩「そんなに凝視つめるな」は、単に認識ではなく生の受容の形を示すことであり、断念である。「水中花」において、「昼と夜のあ派火」で、幻想の花をとおし、生と死はもはや詩ポエジーとかして溶け合い、その輪郭を失う。
 c) 詩人の晩年の詩は、多くを語らず平明で深く、透き通った生を持っている。「夜の停留所で」の「あゝ無邪気な浄福よ」、「小さな手帖から」で「音楽」のなかに生きる叡智をしらべをききとる。「寛恕の季節」で、その叡智は自らを含む病者と貧者への眼差を形づくり、西欧中世の聖母信仰の「憐れみ」misericordeを生む。ここに伊東静雄が到達した一つの高みがある。だが、この高みは自らをむなしくし、低めたもののみが得れる高みである。表現はおのずからそこに生まれる。この認識を前にすれば、「死」はその内部からの生の完成にすぎない。


以上、「伊東静雄詩の転機」に関する諸説をご案内しましたが、猛暑の折からくれぐれもご健康に留意されますように、お祈りいたします。


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