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金剛般若経を読んで実践する
1
:
避難民のマジレスさん
:2023/12/07(木) 20:51:29 ID:Dp/qMVVc0
金剛般若経
如是我聞。一時佛在舍衞國祇樹給孤獨園。
與大比丘衆千二百五十人倶。
爾時世尊食時著衣持鉢入舍衞大城乞食。
於其城中次第乞已。還至本處飯食訖。
收衣鉢洗足已敷座而坐。
(一)
わたしはこのように聞きました。
ある時師は、千二百五十人の修行者たちと、シュラーヴァスティ市のジェータ林にある、祇園精舎に滞在していました。
ある日、師は朝早くに起き、簡素な衣を身につけて、食べ物を求めて街に出かけました。街の中を歩き回り、人々からの施しを受けた後、元の場所に戻り、食事を済ませてから、衣と食器をきちんと片付け、足を洗い、身体をまっすぐにして坐禅されました。
すると修行者たちは、師の周囲を敬って右回りに回った後、傍らに座りました。
---
中国語の原文を日本語に機械翻訳し、他の訳文も参考にしつつ内容を整えています。
日本語で著作権を気にせずに使えるものがなかったので、鬼和尚に協力していただき、
現代の修行者にも使いやすい訳を作りたいです。
もし、間違いや補足などがありましたらご指摘ください。
鬼和尚は前世で、コーサラ国の祇園精舎にいたことはありましたか?
お釈迦様の托鉢や、修行者とのやり取りの様子がわかればと思いまして。
2
:
避難民のマジレスさん
:2023/12/08(金) 20:35:47 ID:Dp/qMVVc0
時長老須菩提在大衆中。
即從座起偏袒右肩右膝著地。
合掌恭敬而白佛言。希有世尊。如來善護念諸菩薩。
善付囑諸菩薩。世尊。善男子善女人。
發阿耨多羅三藐三菩提心。
應云何住云何降伏其心。佛言。善哉善哉。須菩提。如汝所説。
如來善護念諸菩薩。善付囑諸菩薩。
汝今諦聽。當爲汝説。善男子善女人。
發阿耨多羅三藐三菩提心。
應如是住如是降伏其心。唯然世尊。願樂欲聞
佛告須菩提。
(二)
ちょうどその時、長老のスブーティもその同じ集まりに来合わせていました。
スブーティは座から立ち上がり、右肩を出し、右膝を地面につけ、手を合わせて敬意を表しながら質問しました。
「師よ、素晴らしいことです。仏陀は常に慈悲深く私たちを導き、教えを伝えてくださいます。
師よ、求道者、男女問わず、最高の悟りを目指す心を持つ菩薩たちは、どのように心を保ち、どのように修行すればよいのでしょうか?」
師は答えました、「スブーティよ、あなたの言う通りだ。仏陀は常に慈悲深く皆を導き、教えを伝えている。よく聞きなさい、私が話して聞かせよう。求道者は、どのように心を保ち、どのように修行すべきか。」スブーティは答えました。「そうしてくださいますように、師よ。」
---
鬼和尚は前世でスブーティやシャーリプトラと会ったことはありましたか?
お釈迦さまの十大弟子が、どのように修行していたのかを知りたいです。
3
:
鬼和尚
◆Yj52hBkdLM
:2023/12/08(金) 22:54:36 ID:QfirRsEI0
>>1
ご苦労さんなのじゃ。
なかなかよい現代語訳なのじゃ。
わしはないのじゃ。
ずうっとそばにいた訳ではないからのう。
お互いに名乗りあうことも無く、みんな修行に励んでいたのじゃ。
4
:
避難民のマジレスさん
:2023/12/09(土) 10:53:47 ID:Dp/qMVVc0
ご回答ありがとうございます。続きです。
諸菩薩摩訶薩應如是降伏其心。所有一切衆生之類。
若卵生若胎生若濕生若化生。若有色若無色。若有想若無想。
若非有想非無想。
我皆令入無餘涅槃而滅度之。如是滅度無量無數無邊衆生。
實無衆生得滅度者。何以故。須菩提。
若菩薩有我相人相衆生相壽者相。即非菩薩
(三)
師は、このように話しだされました。
「スブーティよ、菩薩の道に向かう者は、このような心を、起こさなければならない。
『すべての生きとし生けるもの、卵から生まれるもの、胎内で育つもの、湿り気のある場所から生まれるもの、自然に生じるもの、色を持つもの、色を持たないもの、思考があるもの、思考がないもの、思考があるともないとも言えないもの、これらすべてを私は救済し、不生不滅の涅槃(ニルヴァーナ)に、導かなければならない。
しかし、こうして、永遠の平安に導こうとも、
実は、誰一人、永遠の平安には導かれていない。』
それはなぜかと言えば、スブーティよ。
もし認識主体という観念、個体という観念、
生きているものという観念、輪廻の主体という観念が生ずるなら、
もはや菩薩とは言えないからだ。
—
経を意味を確かめながら読むのが良いとのことですが、「全ての生きものを涅槃に導かなければならないが、実は誰一人涅槃に導かれてはいない」の部分が矛盾に感じられ、イメージしようとしてもイメージできなくて気持ち悪いです。これは、例えば無理やり「菩薩は衆生を導く心を持つべきだが、衆生は自分自身で涅槃に導くので、実際は菩薩によっては導かれていない(ので増長してはいけない)」などと解釈するのではなく、イメージしようとして気持ちが悪い心身の様子をただ観ていれば良いのでしょうか。それとも、意味を理解しようとして思い巡らすこと自体に効果がありますか?
またここで、鬼和尚の金剛経解説を参考に、サットヴァ、ジーヴァ、アートマン、プトガラをそれぞれ、生きているもの、個体、認識主体、輪廻の主体と訳しました。
http://onioshyou.blog122.fc2.com/blog-entry-78.html
他に現代人が個我と言うものに抱きがちなイメージがありましたら、お教えください。
また文章全体の訳に問題や、補足などがありましたら、お願いします。
5
:
鬼和尚
◆Yj52hBkdLM
:2023/12/09(土) 22:54:31 ID:hEQEirKg0
そのようにイメージできない感覚を念じるだけでよいのじゃ。
解釈も解説もいらないのじゃ。
それが智恵の完成なのじゃ。
観念を破壊するものであるからいかなる観念も持ち得ないのじゃ。
ただひたすら繰り返し念じる実践あるのみなのじゃ。
大体それでよいのじゃ。
そのまま続けるとよいのじゃ。
6
:
避難民のマジレスさん
:2023/12/10(日) 19:30:00 ID:Dp/qMVVc0
復次須菩提。
菩薩於法應無所住行於布施。所謂不住色布施。
不住聲香味觸法布施。須菩提。菩薩應如是布施不住於相。
何以故。若菩薩不住相布施。
其福徳不可思量。須菩提。於意云何。東方虚空可思量不。
不也世尊。須菩提。
南西北方四維上下虚空可思量不。不也世尊。須菩提。
菩薩無住相布施福徳。亦復如是不可思量。須菩提。
菩薩但應如所教住
(四)
「また、スブーティよ、菩薩たるもの、
何かに執着しながら、施しをすべきでない。
形に執着しながら、施しをすべきでない。
音、香り、味、触れられるもの、方法についても、同様である。
果報を求めるという、思いに囚われないように、
スブーティよ、菩薩は施しをしなければならない。」
「それは何故かと言うと、スブーティよ。
もし菩薩が、執着することなく施しをすれば、
その功徳が重なり、計り知れぬ程になるからだ。
スブーティよ、東の方の虚空の量を、計り得るか。」
「いいえ、師よ、計り知れません。」
「スブーティよ、これと同じように、
南や、東や、北や、下や、上の方角の、
あまねく十方の虚空の量を、計り得るか。」
「いいえ、師よ、計り知れません。」
「スブーティよ、これらと同じことである。
もし菩薩が、執着することなく施しをすれば、
その功徳が重なって、計り知れないほどになる。
スブーティよ、このように、菩薩の道に向う者は、
果報を求めるという思いに執着せずに、施すのだ。」
―
>>5
>そのようにイメージできない感覚を念じるだけでよいのじゃ。
この念じるというのは、イメージできない状態で、何度も読んだり、唱えたり、聴いたたりするということでしょうか?
また、「所謂不住色布施。不住聲香味觸法布施。」の色・声・香・味・触・法に住せずの部分ですが、どう訳せば適切なのかが分かりません。一応「形に執着しながら、施しをすべきでない。音、香り、味、触れられるもの、方法についても、同様である。」と訳したのですが、もっと良い訳がありそうに思います。
7
:
鬼和尚
◆Yj52hBkdLM
:2023/12/10(日) 22:56:23 ID:/7DDEg/A0
そうじゃ、何度も何度も読んで文を念じるのじゃ。
意味がわからなくとも心に入っていくのじゃ。
実践あるのみなのじゃ。
色と文脈がつながっているから理解できるのじゃ。
何にも囚われずに布施をするという文意がわかればよいのじゃ。
8
:
避難民のマジレスさん
:2023/12/11(月) 20:21:20 ID:Dp/qMVVc0
須菩提。於意云何。可以身相見如來不。
不也世尊。不可以身相得見如來。
何以故。如來所説身相即非身相。佛告須菩提。
凡所有相皆是虚妄。
若見諸相非相則見如來
(五)
「スブーティよ、どう思うか。
身体の特徴をもって如来を見るべきだろうか。」
「師よ、そう見るべきではありません。それはなぜかというと、『身体の特徴は、実際には身体の特徴ではない』と如来が説いたからです。」
そこで師はスブーティに告げました。「すべての特徴は虚妄である。もし、全ての特徴を特徴ではないと見るならば、そのときにこそ如来を見ることになる。」
―
ありがとうございます。経が心に入っていくのが大事なのですね。念じるというのは、心に強く思うという意味で大丈夫でしょうか? 何度も繰り返し読み、念じやすいように、元の文の意味は保ちつつも、簡潔な表現で訳していこうと思います。
また、他の訳も参考にして、「声・香・味・触・法」は、「音、香り、味、触れられるもの、心の対象」と訳すことにしました。
9
:
避難民のマジレスさん
:2023/12/12(火) 21:06:38 ID:Dp/qMVVc0
須菩提白佛言。世尊。
頗有衆生得聞如是言説章句生實信不。佛告須菩提。
莫作是説。如來滅後後五百歳。
有持戒修福者。於此章句能生信心以此爲實。
當知是人不於一佛二佛三四五佛而種善根。
已於無量千萬佛所種諸善根。
聞是章句乃至一念生淨信者。須菩提。
如來悉知悉見是諸衆生得如是無量福徳。
何以故。
是諸衆生無復我相人相衆生相壽者相。
無法相亦無非法相。何以故。是諸衆生。
若心取相則爲著我人衆生壽者。
若取法相即著我人衆生壽者。何以故。若取非法相。
即著我人衆生壽者。是故不應取法。
不應取非法。
以是義故。如來常説汝等比丘。
知我説法如筏喩者。法尚應捨何況非法
(六)
スブーティは尋ねました。
「師よ、このような言葉や教えを聞いた者たちが、本当に信じることができるでしょうか?」」
師はスブーティに答えました。
「そう言うな。将来、正しい教えが滅びるような最後の五百年代にも、戒律を守り、福徳を修める者たちが、この教えを聞いて信心を生じ、これを真実とするだろう。」
「これらの者たちは、善根を一人の仏だけではなく、二人、三人、四人、五人の仏のもとで植えただけでもない。無数の千万もの仏のもとで、多くの善根を植えてきたのだ。そして、この教えを聞いて、たとえ一瞬でも純粋な信心を生じる者がいるならば、スブーティよ。如来(仏陀)は、そうした者たちが計り知れない祝福を得ていることをすべて知り、見ているのだ。
それはなぜかというと、その者たちは、認識主体という観念、個体という観念、生きているものという観念、輪廻の主体という観念を持たないからだ。また、(悟りを得る)方法という観念も持たず、方法でない観念も持たない。なぜならば、もしその者たちが心に観念を受け取るならば、それは、(自我である観念としての、)認識主体、個体、生きているもの、倫理の主体に固執することになるからだ。もし方法という観念を受け取れば、それも、認識主体、個体、生きているもの、倫理の主体に固執することになるからだ。従って、方法も方法でないものも受け取るべきではない。それはなぜだろうか。如来は常にあなたたち修行者に説いている。私の説法はいかだの喩えのように理解すべきだと。方法さえも捨てなければならないとすれば、まして方法でないものは、なおさらである。」
(いかだの喩え:仏教の教え(法)を川を渡るための筏のように利用するが、川を渡った後はいかだ(法)を捨てるべきだという意味です。これは、仏教の教えが最終的な目的地ではなく、悟りに至るための手段として実践し、達すれば捨て去られる方法として説かれることを示しています。)
―
ここでは、法を「方法」と訳していますが、「教え」と訳すのとどちらが良いでしょうか。
もし今回の部分、あるいは今後、修行の妨げになるような間違いがありましたら、修正をお願いします。また、鬼和尚の解説があったほうが実践の足しになりましたら、その部分では解説をお願いします。
10
:
鬼和尚
◆Yj52hBkdLM
:2023/12/12(火) 22:15:57 ID:HE5z8gkY0
>>8
そうじゃ、何度も何度も読誦して思念するのじゃ。
そうすれば効果が現れるのじゃ。
11
:
鬼和尚
◆Yj52hBkdLM
:2023/12/12(火) 22:26:29 ID:HE5z8gkY0
>>9
方法でよいじゃろう。
教えを捨てるというとまた語弊が生じるからのう。
教えは伝えていくべきものであるからのう。
12
:
避難民のマジレスさん
:2023/12/13(水) 17:31:07 ID:Dp/qMVVc0
須菩提。於意云何。
如來得阿耨多羅三藐三菩提耶。如來有所説法耶。須菩提言。
如我解佛所説義。
無有定法名阿耨多羅三藐三菩提。亦無有定法如來可説。何以故。
如來所説法皆不可取不可説。非法非非法。
所以者何。
一切賢聖皆以無爲法而有差別。
(七)
師は、スブーティに問われました。
「スブーティよ、どう思うか。
如来がこの上ない正しい悟りを得たような方法が、あるだろうか。
如来によって説かれた方法が、あるだろうか。」
スブーティは答えました。
「師よ、私が師の教えを理解したところによると、
如来がこの上ない正しい悟りを得たような方法は、何もありません。
如来によって説かれた方法も、ありません。
なぜならば、如来が説いた方法は、認識することもできないし、説き示すこともできないからです。それは方法ではなく、方法でないものでもありません。
それはなぜかというと、すべての聖者たちは、皆、無為の法によって差異を持っているからです。」
―
一切賢聖皆以無爲法而有差別。がどう訳したら良いのか分かりません。「無爲法而有差別」の訳をお願いします。また、この節でも全て「法」は方法と訳していいのでしょうか?
13
:
鬼和尚
◆Yj52hBkdLM
:2023/12/13(水) 23:32:17 ID:70OFuSgU0
そこも方法でよいのじゃ。
無為の法とは涅槃に導く法なのじゃ。
それこそが正しい法だというのじゃ。
その法を説く者こそ他の偽者の導師とは違う、真の聖者であるというのじゃ。
無為の法とは世間の論理とは違う、日常を離れた論理によるものじゃ。
そこまで説くことができる者こそ、真の導師なのじゃ。
14
:
避難民のマジレスさん
:2023/12/14(木) 21:15:12 ID:Dp/qMVVc0
須菩提。於意云何。
若人滿三千大千世界。七寶以用布施。是人所得福徳寧爲多不。
須菩提言。甚多世尊。何以故。
是福徳即非福徳性。是故如來説福徳多。
若復有人於此經中。受持乃至四句偈等爲他人説。
其福勝彼。何以故。須菩提。
一切諸佛及諸佛阿耨多羅三藐三菩提法。
皆從此經出。
須菩提。所謂佛法者即非佛法
(8)
師は問われました。
「スブーティよ、どう思うか。
もし誰かがはてしなく広い宇宙に満ちるほどの七宝を施し、布施を行ったとしたら、その人が得る福徳は多いだろうか?」
スブーティは答えました。「非常に多いです、師よ。なぜかと言うと、その福徳とは福徳ではないからです。それゆえに、如来はその福徳が多いと言われるのです。」
師は言われました。「さらに、もし誰かがこの経の中で、たとえ四行詩一つでも受け入れ、他人のために説いたとしたら、その人の福徳は前者よりも勝るだろう。なぜならば、スブーティよ、すべて諸々の仏の得る、この上なく正しい悟りの方法は、皆この経に由来するからである。それはなぜかというと、
スブーティよ、覚者の方法とは、覚者の方法では無いからだ。」
―
日本語に翻訳された金剛般若経をいくつか読んでみたのですが、それらでは、この後にさらに、「それゆえに覚者の方法と言われるのだ」のような文が続きます。
中国語版では、この部分ではそのような表現は見当たらないのですが、鬼和尚の金剛経の解説ではA=非A ゆえにA=Aという論理外の論理が認識を止めるために有効であると書かれていました。今回の翻訳でも、そのような表現を加えても良いでしょうか?
15
:
鬼和尚
◆Yj52hBkdLM
:2023/12/14(木) 23:44:32 ID:CCmJoy9.0
善いのじゃ。
読む者の利益になると思われる文は何でも取り入れてよいのじゃ。
それこそが経の目的であるからのう。
16
:
避難民のマジレスさん
:2023/12/15(金) 20:37:19 ID:Dp/qMVVc0
須菩提。於意云何。須陀オン能作是念。
我得須陀オン果不。須菩提言。不也世尊。何以故。
須陀オン名爲入流而無所入。
不入色聲香味觸法。是名須陀オン
須菩提。於意云何。
斯陀含能作是念。我得斯陀含果不。
須菩提言。不也世尊。何以故。斯陀含名一往來。
而實無往來。是名斯陀含。
須菩提。於意云何。
阿那含能作是念。我得阿那含果不。
須菩提言。不也世尊。何以故。
阿那含名爲不來而實無來。是故名阿那含。
(9)-a
師は問われた。
「スブーティよ、どう思うか。
涅槃への流れに乗った者(預流)が、私は預流という果報を得たと考えるだろうか。」
スブーティは答えました。
「いいえ、師よ。なぜならば、その者はなにも得てはいないからです。それだからこそ預流と言われるのです。形や音、香り、味、触れられるものや、心の対象を得ていません。それだからこそ、預流と言われるのです。」
師は問われた。
「スブーティよ、どう思うか。
もう一度だけ生まれかわって覚る者(一来)が、私は一来という果報を得たと考えるだろうか。」
スブーティは答えました。
「いいえ、師よ。なぜならば、一来の名称は、もう一度だけ生まれかわって覚る者を意味しますが、実際には、生まれかわって覚る者は存在しないからです。それだからこそ一来と言われるのです。」
師は問われた。
「スブーティよ、どう思うか。
もう決して生まれかわって来ない者(不還)が、私は不還という果報を得たと考えるだろうか。」
スブーティは答えました。
「いいえ、師よ。なぜならば、不還の名称は、もう決して生まれかわって来ることがない者を意味しますが、実際には、来る者は存在しないからです。それだからこそ不還と言われるのです。」
―
ありがとうございます。今後も他の日本語訳なども参考にし、適宜取り入れていきます。
17
:
鬼和尚
◆Yj52hBkdLM
:2023/12/15(金) 21:42:43 ID:NFUF8Ruw0
そうじゃ、衆生の利益のために実践あるのみなのじゃ。
18
:
避難民のマジレスさん
:2023/12/16(土) 21:20:29 ID:Dp/qMVVc0
須菩提。
於意云何。阿羅漢能作是念。我得阿羅漢道不。
須菩提言。不也世尊。何以故。
實無有法名阿羅漢。
世尊。若阿羅漢作是念。
我得阿羅漢道。即爲著我人衆生壽者。
世尊。佛説我得無諍三昧人中最爲第一。
是第一離欲阿羅漢。我不作是念。我是離欲阿羅漢。
世尊。
我若作是念我得阿羅漢道。
世尊則不説須菩提是樂阿蘭那行者。
以須菩提實無所行。而名須菩提是樂阿蘭那行
(9)-b
師は問われた。
「スブーティよ、どう思うか。
最高の覚りを得た者(阿羅漢)が、私は阿羅漢という果報を得たと考えるだろうか。」
スブーティは答えました。
「いいえ、師よ。なぜならば、阿羅漢と名付けられるものは、実際は存在しないからです。それだからこそ阿羅漢と言われるのです。
師よ、もし阿羅漢が「私は阿羅漢であることに達した」と考えるならば、それは、認識主体という観念、個体という観念、生きているものという観念、輪廻の主体という観念に執着していることになります。
師よ、如来は私のことを煩悩の無い最上の瞑想状態を得て、人々の中で最も優れている、最上の離欲の阿羅漢だと仰られました。しかし私は「私は離欲の阿羅漢だ」とは考えません。
師よ、もし私が「私は阿羅漢であることに達した」と考えるならば、
如来は『スブーティは阿蘭那の行を楽しむ者であるが、実際はスブーティには何の行いも無い。それだからこそ、阿蘭那の行を楽しむ者と言われる』とは説かれなかったでしょう。
―
「樂阿蘭那行」を「阿蘭那の行を楽しむ者」と訳しましたが、阿蘭那行とは何でしょうか?
19
:
鬼和尚
◆Yj52hBkdLM
:2023/12/16(土) 22:52:23 ID:Q18/xQ7I0
阿蘭那とは山林とか郊外の人のいない所じゃな。
孤独行とか隠遁の行を楽しむ者というような意味じゃな。
人のいない静かな所で修行しているのを阿蘭那の行を楽しんでいるというのじゃ。
実際は何か特別なことをしているのではないから、何もしないことが阿蘭那の行を楽しんでいるということになるのじゃ。
20
:
避難民のマジレスさん
:2023/12/17(日) 19:47:58 ID:Dp/qMVVc0
佛告須菩提。於意云何。
如來
昔在然燈佛所。於法有所得不。世尊。
如來在然燈佛所。於法實無所得。須菩提。於意云何。
菩薩莊嚴佛土不。不也世尊。何以故。
莊嚴佛土者則非莊嚴。是名莊嚴。是故須菩提。
諸菩薩摩訶薩應如是生清淨心。
不應住色生心。不應住聲香味觸法生心。
應無所住而生其心。須菩提。
譬如有人身如須彌山王。於意云何。是身爲大不。
須菩提言。
甚大世尊。何以故。佛説非身是名大身。
(10)
師は問われた。
「スブーティよ、どう思うか。
如来が過去にディーパンカラ如来のもとで、
教えにおいて何かを得ただろうか。」
「いいえ。師よ、
如来がディーパンカラ如来のもとで、
教えにおいて得たものは何もありません。」
「スブーティよ、どう思うか。
菩薩が浄土を完成することはできるだろうか。」
「いいえ、師よ。なぜならば、浄土の完成は、実際には完成ではないからです。それゆえに完成と呼ばれるのです。」
師は言われました。
「それゆえにスブーティよ、すべての偉大な菩薩は、このように清浄な心を生じさせるべきである。形に執着して心を生じさせるべきでない。音、香り、味、触れられるものや心の対象に執着して心を生じさせるべきでない。何にも執着せずに、その心を生じさせるべきである。
スブーティよ、例えばある人がスメール山のような大きな身体を持っていたとする。どう思うか。その身体は大きいだろうか。」
スブーティは答えました。「非常に大きいです、師よ。なぜならば如来は、身体というものは無く、それゆえに大きな身体と呼ばれると説かれたからです。師よ、それは身体が有るのでもなく、身体が無いのでもないのであって、それゆえに、身体と呼ばれるのです。」
―
ありがとうございます。今回中ほどに「それゆえにスブーティよ、すべての偉大な菩薩は、このように清浄な心を生じさせるべきである。」とあります。その前の文と「それゆえに」でつながっているのですが、浄土の完成と清浄な心を生じさせることとの関係がよくわかりません。解説をお願いします。
21
:
鬼和尚
◆Yj52hBkdLM
:2023/12/17(日) 23:00:49 ID:tRHtAGyk0
菩薩が目指すべき浄土とは心によって創られるものであるから政なのじゃ。
心を清浄にすれば浄土も清浄になるのじゃ。
それもこれで完成したと言えるものではないのじゃ。
その浄土で修行する衆生の心が乱れれば、浄土も乱れるものであるからのう。
常に精進あるのみなのじゃ。
22
:
避難民のマジレスさん
:2023/12/18(月) 20:03:36 ID:Dp/qMVVc0
須菩提。如恒河中所有沙數。如是沙等恒河。
於意云何。是諸恒河沙寧爲多不。須菩提言。
甚多世尊。但諸恒河尚多無數。何況其沙。
須菩提。我今實言告汝。
若有善男子善女人。
以七寶滿爾所恒河沙數三千大千世界。
以用布施得福多不。須菩提言。甚多世尊。
佛告須菩提。若善男子善女人。
於此經中乃至受持四句偈等。爲他人説。
而此福徳勝前福徳
(11)
師はスブーティに問われた。
「スブーティよ、もしガンジス大河にあるすべての砂の数ほどのガンジス河があるとする。どう思うか。それらのすべての河にある砂は多いだろうか。」
スブーティは答えました。「非常に多いです、師よ。ガンジス河自体が数えきれないほど多いのですから、ましてやその砂に至ってはなおさらのことです。」
師は言われた。「実に、また、スブーティよ。もし善き男や善き女が、そのような数のガンジス河の砂ほどの果てしない世界を七宝で満たし、それを布施として行ったとしたら、その福徳は多いだろうか?」
スブーティは答えました。「非常に多いです、師よ。」
師はスブーティに言われました。「もし善き男や善き女が、この経の中で、たとえ四行詩一つでも心に留めて実践し、他人のために説いたとしたら、その福徳は先の福徳よりも勝るだろう。」
―
ありがとうございます。浄土は心によって創られるのですね。現代の私たちが「浄土の完成」という言葉を読むときには、どのような意味に捉えて読めば良いでしょうか?
また、今回の文に関して質問です。以前、「受持」を「受け入れる」と訳しました。しかし、経は実践されるべきものですので、「心に留めて実践する」の方が適切かと思い、そのように訳しましたが、それは適切な訳になっていますでしょうか?それとも「繰り返し念じて実践する」のように、より具体的な方が良いでしょうか?
23
:
鬼和尚
◆Yj52hBkdLM
:2023/12/18(月) 23:40:45 ID:1Nlpqu4k0
浄土とは心であるから清浄な心の完成という意味でよいじゃろう。
清浄な心とは慈悲の心なのじゃ。
心が慈悲の思いによって満たされた時に清浄な心は完成されたということになるじゃろう。
それでよいのじゃ。
経とは実践するために説かれたものであるからのう。
24
:
避難民のマジレスさん
:2023/12/19(火) 20:42:20 ID:Dp/qMVVc0
復次須菩提。隨説是經乃至四句偈等。
當知此處一切世間天人阿修羅。
皆應供養如佛塔廟。何況
有人盡能受持讀誦。須菩提。
當知是人成就最上第一希有之法。
若是經典所在之處。則爲有佛若尊重弟子
(12)
「さらにまたスブーティよ、どのような地方でもこの経を、たとえ四行詩一つであっても、説いて聞かせられるとすれば、その地方は、人間と天人と神々全てにとって、まるで仏の聖地に供え物を捧げるように尊重されるということを知るべきである。
ましてや、この経を全て心に留め、繰り返し念じて実践し、読み、聞かせる人がいるとしよう。
スブーティよ、その人は最高の教えと実践を成就したということを知るべきである。
この経典が存在する場所は、まるで仏がいるかのよう、または尊い弟子がいるかのような場所である。」
―
ありがとうございます。「繰り返し念じて実践する」にします。
25
:
鬼和尚
◆Yj52hBkdLM
:2023/12/19(火) 23:20:56 ID:mWEC0js60
そうじゃ、実践あるのみなのじゃ。
この金剛経も繰り返し唱え、念じていれば必ず効果はあるものじゃ。
実践が全てなのじゃ。
26
:
避難民のマジレスさん
:2023/12/20(水) 19:06:29 ID:Dp/qMVVc0
爾時須菩提白佛言。
世尊。當何名此經。
我等云何奉持。佛告須菩提。
是經名爲金剛般若波羅蜜。以是名字汝當奉持。所以者何。
須菩提。佛説般若波羅蜜。
則非般若波羅蜜。
須菩提。於意云何。如來有所説法不。
須菩提白佛言。世尊。如來無所説。須菩提。
於意云何。
三千大千世界所有微塵是爲多不須菩提言。甚多世尊。須菩提。
諸微塵如來説非微塵。是名微塵。如來説世界非世界。
是名世界。
須菩提。於意云何。
可以三十二相見如來不。不也世尊。
不可以三十二相得見如來。何以故。
如來説三十二相即是非相。是名三十二相。須菩提。
若有善男子善女人。以恒河沙等身命布施。
若復有人於此經中乃至受持四句偈等。
爲他人説其福甚多
(13)
その時、スブーティは師に尋ねました。
「師よ、この経は何と名付けられるのですか?
また私たちはどのよう記憶すべきですか?」
師はスブーティに告げました。
「この経は智慧の完成と名付けられる。
その名前で記憶すべきである。
なぜならば、スブーティよ、如来が説く智慧の完成は、智慧の完成では無いからだ。それだからこそ、智慧の完成と言われるのだ。」
「スブーティよ、如来が説いた法はあるだろうか。」
スブーティは答えました。
「師よ、如来が説いたものは何もありません。」
「スブーティよ、この果てしなく広い世界の大地の塵は多いだろうか。」
スブーティは答えました。
「師よ、非常に多いです。」
「スブーティよ、如来は大地の塵を大地の塵ではないと説く。それゆえに大地の塵と言われる。如来は世界を世界ではないと説く。それゆえに世界と言われる。」
「スブーティよ、どう思うか。如来は偉大な人物に具わる三十二の特徴によって見分けられるだろうか。」
「いいえ、師よ。如来は三十二の特徴によって見分けることはできません。
なぜならば、如来は三十二の特徴は特徴ではないと説いているからです。それゆえに三十二の特徴と言われるのです。」
「スブーティよ、もし善き男や善き女が、ガンジス河の砂と等しいほど体を捧げたとしても、
この経の中でたとえ四行詩一つでも心に留めて実践し、他人のために説く人がいるとすれば、その福徳のほうが遥かにに大きいのだ。」
―
「我等云何奉持」を「私たちはどのよう記憶すべきですか?」と訳したのですが、「記憶すべき」で大丈夫でしょうか?
27
:
鬼和尚
◆Yj52hBkdLM
:2023/12/20(水) 22:52:33 ID:Mwr23Mxs0
記憶でよいじゃろう。
保つのであるからのう。
28
:
避難民のマジレスさん
:2023/12/21(木) 21:06:00 ID:Dp/qMVVc0
爾時須菩提聞説是經深解義趣。
涕涙悲泣而白佛言。希有世尊。
佛説如是甚深經典。我從昔來所得慧眼。
未曾得聞如是之經。
世尊。若復有人得聞是經。
信心清淨則生實相。當知是人成就第一希有功徳。
世尊。是實相者則是非相。是故如來説名實相。
世尊。我今得聞如是經典。
信解受持不足爲難。
若當來世後五百歳。
其有衆生得聞是經信解受持。是人則爲第一希有。
何以故。此人
無我相人相衆生相壽者相。
所以者何。我相即是非相。
人相衆生相壽者相即是非相。何以故。離一切諸相則名諸佛。
佛告須菩提。如是如是若復有人得聞是經。
不驚不怖不畏。當知是人甚爲希有。何以故。
須菩提。
如來説第一波羅蜜非第一波羅蜜。是名第一波羅蜜。
(14-a)
そのときスブーティはこの教えを聞き、その深い意味を洞察し、感動して涙を流しました。
涙を拭い終わって、師に申しあげました。
「師よ、すばらしいことです。
如来がこのような非常に深い教えを説かれたことは、私がこれまでに得た智慧をもってしても、聞いたことがありませんでした。
師よ、この教えを聞いた菩薩が、清らかな信心を持って受け入れ、真実だという思いが生じるならば、そのような人は最も稀有な功徳を成就すると知るべきです。
なぜならば師よ、この真実だという思いは、実は真実だという思いではありません。それゆえに如来は真実だという思いと名付けるのです。
師よ、私が今、このような教えを聞いて、信じて受け入れることは難しくありません。しかしもし、教えが滅びる未来の最後の五百年代に、この教えを聞いて信じて受け入れる人がいれば、その人はこの上なく希有でありましょう。
なぜならば、その人には認識主体という観念、個体という観念、
生きているものという観念、輪廻の主体という観念がないからです。
それはなぜでしょうか。自我という観念は実際には観念ではないからです。認識主体の観念、個体の観念、生きているものの観念、輪廻の主体の観念も観念ではありません。なぜならば、一切の観念から離れることが、諸々の覚者であるからです。」
師はスブーティに告げました。
「その通りだ。もし他の人がこの教えを聞いて、驚かず、怖れず、恐怖に陥らないならば、その人はこの上なく希有である。
なぜならば、スブーティよ、如来が説く最上の完成は、実際には最上の完成ではない。それゆえに最上の完成と名付けられる。
―
ありがとうございます。記憶と訳します。
上の「我從昔來所得慧眼。未曾得聞如是之經。」がよく分かりませんのでお教えください。中国語の文の意味ですと「(スブーティが)以前から持つ智慧の目でもこれまでにこのような教えは聞いたことがない(ほど深く稀有である)」という意味になると思います。
しかし、諸々の日本語訳では、「如来が(菩薩に)教えを説かれ、それによりスブーティに智慧が生じた。このような教えは未だ聞いたことがない」というように訳されています。
29
:
避難民のマジレスさん
:2023/12/22(金) 20:57:06 ID:Dp/qMVVc0
須菩提。
忍辱波羅蜜如來説非忍辱波羅蜜。何以故。
須菩提。
如我昔爲歌利王割截身體。
我於爾時無我相無人相無衆生相無壽者相。何以故。
我於往昔節節支解時。
若有我相人相衆生相壽者相應生瞋恨。
須菩提。又念過去於五百世作忍辱仙人於爾所世無我相無人相無衆生相無壽者相。
是故須菩提。
菩薩應離一切相發阿耨多羅三藐三菩提心。
不應住色生心。
不應住聲香味觸法生心。應生無所住心。
若心有住則爲非住。是故佛説菩薩心不應住色布施。
須菩提。菩薩爲利益一切衆生。應如是布施。
如來説一切諸相即是非相。
又説一切衆生則非衆生。須菩提。如來是眞語者。實語者。
如語者。不誑語者。不異語者。
(14-b)
師はこのように話されました。
「スブーティよ、忍耐の完成は、如来が説く忍耐の完成ではない。それはなぜかと言うと、スブーティよ、かつて私がある悪王のために自身の肉体を切り裂かれたとき、私には自我としての、認識主体という観念、個体という観念、生きているものという観念、輪廻の主体という観念、またいかなる観念も、観念でないものも一切なかったからだ。
それはなぜかというと、過去に私が身体を切り刻まれた時、もし自我としての、認識主体という観念、個体という観念、生きているものという観念、輪廻の主体という観念があったなら、必ず怒りや憎しみが生じていたであろうからだ。
スブーティよ、また過去を振り返ってみると、私は五百の生涯のあいだ忍耐を説くものという名の仙人として存在していた。その時代においても、私には自我としての、認識主体という観念、個体という観念、生きているものという観念、輪廻の主体という観念は一切なかった。
それだから、スブーティよ、菩薩はあらゆる観念を取り除いて、無上の完全なる悟りを得る決意を持つべきである。形や音、香り、味、触れられるもの、心の対象に執着して心を動かしてはならない。どこにも執着しない心を持たねばならない。それはなぜかというと、心が何かに執着するというということは、執着しないということだからだ。それだから如来は、「菩薩は、形や声、香り、触れられるもの、心の対象に執着することなく布施をしなければならない」と説かれたのだ。」
「スブーティよ、菩薩はすべての生きとし行けるもののために、このように布施を行うべきである。なぜかというと、すべて諸々の観念は、実際には観念ではないからだ。また、すべての生きものは、実際には生きものではないからだ。
それはなぜかというと、スブーティよ、如来は真実を語る者、真理を説く者、正しい言葉を語る者、欺かない者、矛盾しない者であるからだ。
―
「如來是眞語者。實語者。如語者。不誑語者。不異語者。」をそのまま訳すると、
「如来は真実を語る者、真理を説く者、ありのままに語る者、欺かない者、矛盾しない者。」
となりましたが、多くの日本語訳では
「如来は真実を語る者、真理を説く者、ありのままに語る者、誤りなく語る者、偽りなく語る者。」
のように訳されています。どのような訳が適切でしょうか?
30
:
鬼和尚
◆Yj52hBkdLM
:2023/12/22(金) 22:59:52 ID:L.yFqRJQ0
上の方が正しいじゃろう。
前の文と後の文の意味が繋がっているからのう。
自分(スブーティ)の前から得ていた慧眼でも聞いたことが無い教え、という意味じゃな。
31
:
鬼和尚
◆Yj52hBkdLM
:2023/12/22(金) 23:18:49 ID:L.yFqRJQ0
>>29
真実と異なることを言わないのであるから正しく語る者とかじゃな。
32
:
避難民のマジレスさん
:2023/12/23(土) 19:22:02 ID:Dp/qMVVc0
須菩提。
如來所得法此法無實無虚。須菩提。
若菩薩心住於法而行布施。如人入闇則無所見。
若菩薩心不住法而行布施。
如人有目日光明照見種種色。須菩提。
當來之世若有善男子善女人。能於此經受持讀誦。
則爲如來以佛智慧悉知是人。悉見是人。
皆得成就無量無邊功徳。
(14-c)
スブーティよ、如来が得た法は、真理でもなければ虚妄でもない。
スブーティよ、もし菩薩が法に執着して布施を行うならば、それは暗闇に入るようなもので何も見えない。しかし、もし菩薩が法に執着せずに布施を行うならば、それは目のある人が日光の下で様々な色を明瞭に見るようなものだ。
スブーティよ、未来において、もし善き男や善き女がこの経を繰り返し唱え、念じて実践するならば、その人々は如来の智慧によって全て知られ、見られるであろう。彼らは計り知れない無数の功徳を成就するであろう。」
―
ありがとうございます。
金剛経を繰り返し唱えて実践していると、修行者にはどのような変化が現れてくるのでしょうか?以前、集中の瞑想に関して習熟段階を示してくださいましたが、もし金剛経による空の法の実践に関しても、習熟段階のようなものがありましたら、お教えください。私の場合は初期の頃、非常に読み進むのに苦労があり、すぐに眠くなったり、嫌になって、読むのをやめてしまうということがありました。今も読み進めるのにまだ抵抗感があります。
33
:
避難民のマジレスさん
:2023/12/24(日) 20:32:28 ID:Dp/qMVVc0
須菩提。若有善男子善女人。
初日分以恒河沙等身布施。
中日分復以恒河沙等身布施。後日分亦以恒河沙等身布施。
如是無量百千萬億劫以身布施。
若復有人聞此經典信心不逆其福勝彼。
何況書寫受持讀誦爲人解説。須菩提。以要言之。
是經有不可思議不可稱量無邊功徳。
如來爲發大乘者説。爲發最上乘者説。
若有人能受持讀誦廣爲人説。如來悉知是人。
悉見是人。
皆得成就不可量不可稱無有邊不可思議功徳。
(15-a)
「スブーティよ。もし善男子や善女人が、午前中にガンジス河の砂と等しいほど体を捧げ、昼間にも同じく、夕刻にもまた同じく布施を行い、このように無限に長い間にわたって体を捧げたとしても、もしまた誰かがこの経を聞いて信心が揺らがなければ、その人の福徳はそれよりも勝るだろう。ましてや、この経を書写して記憶し、繰り返し唱え、念じて実践し、他の人々に詳しく説いて聞かせるならばなおさらのことだ。
スブーティよ、実に、この経には測り知れない、無限の功徳がある。
如来は、この上ない道に向かう人々のために、また最上の道に向かう人々のためにこれを説いた。もし人がこれを記憶し、繰り返し唱え、念じて実践し、広く他の人々に説くなら、如来はその人を完全に知るだろう。
如来はそのような人をすべて見ており、彼らは計り知れない、言葉では表せない、限りなく、考えられないほどの功徳を成就するだろう。
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