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金剛般若経を読んで実践する
29
:
避難民のマジレスさん
:2023/12/22(金) 20:57:06 ID:Dp/qMVVc0
須菩提。
忍辱波羅蜜如來説非忍辱波羅蜜。何以故。
須菩提。
如我昔爲歌利王割截身體。
我於爾時無我相無人相無衆生相無壽者相。何以故。
我於往昔節節支解時。
若有我相人相衆生相壽者相應生瞋恨。
須菩提。又念過去於五百世作忍辱仙人於爾所世無我相無人相無衆生相無壽者相。
是故須菩提。
菩薩應離一切相發阿耨多羅三藐三菩提心。
不應住色生心。
不應住聲香味觸法生心。應生無所住心。
若心有住則爲非住。是故佛説菩薩心不應住色布施。
須菩提。菩薩爲利益一切衆生。應如是布施。
如來説一切諸相即是非相。
又説一切衆生則非衆生。須菩提。如來是眞語者。實語者。
如語者。不誑語者。不異語者。
(14-b)
師はこのように話されました。
「スブーティよ、忍耐の完成は、如来が説く忍耐の完成ではない。それはなぜかと言うと、スブーティよ、かつて私がある悪王のために自身の肉体を切り裂かれたとき、私には自我としての、認識主体という観念、個体という観念、生きているものという観念、輪廻の主体という観念、またいかなる観念も、観念でないものも一切なかったからだ。
それはなぜかというと、過去に私が身体を切り刻まれた時、もし自我としての、認識主体という観念、個体という観念、生きているものという観念、輪廻の主体という観念があったなら、必ず怒りや憎しみが生じていたであろうからだ。
スブーティよ、また過去を振り返ってみると、私は五百の生涯のあいだ忍耐を説くものという名の仙人として存在していた。その時代においても、私には自我としての、認識主体という観念、個体という観念、生きているものという観念、輪廻の主体という観念は一切なかった。
それだから、スブーティよ、菩薩はあらゆる観念を取り除いて、無上の完全なる悟りを得る決意を持つべきである。形や音、香り、味、触れられるもの、心の対象に執着して心を動かしてはならない。どこにも執着しない心を持たねばならない。それはなぜかというと、心が何かに執着するというということは、執着しないということだからだ。それだから如来は、「菩薩は、形や声、香り、触れられるもの、心の対象に執着することなく布施をしなければならない」と説かれたのだ。」
「スブーティよ、菩薩はすべての生きとし行けるもののために、このように布施を行うべきである。なぜかというと、すべて諸々の観念は、実際には観念ではないからだ。また、すべての生きものは、実際には生きものではないからだ。
それはなぜかというと、スブーティよ、如来は真実を語る者、真理を説く者、正しい言葉を語る者、欺かない者、矛盾しない者であるからだ。
―
「如來是眞語者。實語者。如語者。不誑語者。不異語者。」をそのまま訳すると、
「如来は真実を語る者、真理を説く者、ありのままに語る者、欺かない者、矛盾しない者。」
となりましたが、多くの日本語訳では
「如来は真実を語る者、真理を説く者、ありのままに語る者、誤りなく語る者、偽りなく語る者。」
のように訳されています。どのような訳が適切でしょうか?
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