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鬼和尚に聞いてみるスレ part9
702
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2017/10/05(木) 20:47:39 ID:1d4drIFg0
>>698
それが何であるかに気付くのじゃ。
それが物としてあるものなのか。
あるいは物としてはないものなのか。
寝ていてもあるものなのか。
寝ているときは無いものなのか。
などに気付くことなのじゃ。
>>699
どちらでもないのじゃ。
自我が何であるかに気付くためなのじゃ。
自分とは何であるかに気付くためなのじゃ。
>>700
そうじゃ。
そうじゃ。
そうではないのじゃ。
ただそれが記憶に依存した認識であると気付くのじゃ。
>>701
1 それは分類される前にはりんごとしては認められず、知られていないのじゃ。
りんごを認めるとは第三者の視点であるからそのようにいうのじゃ。
分類され、記憶と照合される前にはあかくてまるい物体なのじゃ。
2 分類されて記憶と照合されてりんごとして認め知るといことなのじゃ。
703
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/05(木) 21:39:36 ID:czRftzgI0
>701
分別認識は速すぎて観察しづらいですが、頑張って観察しようと思います
ありがとうございました
704
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/05(木) 22:02:47 ID:DAY232aw0
>>702
両方共答えて抱きありがとうございます。
質問ですが、自我が何であるかに気付いたら観照が起こるのでしょうか?
それとも自分とは何であるかに気付いたら観照起こるのでしょうか?
それとも両方に気付かなければ観照は起こらないのでしょうか?
気付く時は両方同時に気付くものなのでしょうか?
質問が沢山になってしまい申し訳ありません。
705
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/05(木) 22:02:48 ID:ydE4b1w.0
>>702
700です。鬼和尚の私に対する返答の三行目の
「そうではないのじゃ。
ただそれが記憶に依存した認識であると気付くのじゃ。」
というのは
700レス目の中の私の最後の質問↓
「そして、その過程を捉えてただ見ることができれば、それは過去の記憶を見ているだけであり、ありのままを見ていなかったんだ、
と気づけばそれによって厭離が起こる そんな感じでしょうか?」
という質問に対する答えとして「そうではないのじゃ。」ということでしょうか?
そうであれば、認識の厭離が起こるためには私の上記の文にあるように
「その過程を捉えてただ見ることができれば、それは過去の記憶を見ているだけであり、ありのままを見ていなかったんだ、
と気づけばそれによって厭離が起こる」
というのではなく、もっとシンプルにもっと単純に、認識が観念を投影する働きを見て、ただそれが記憶に依存した認識であると単純に気付くだけで厭離が起こる、
ということですか?
706
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/06(金) 00:17:08 ID:5b5rHLEE0
鬼和尚まだみんなの難しそうな質問に答えてたんですね
めんどくさくなったりしないんですか?
707
:
旅の客人
:2017/10/06(金) 09:59:10 ID:kcjko4As0
鬼和尚 様、質問させていただきます。
寝ている自分に気付いたときは、気付いているままで良いの
でしょうか?(恐怖を感じて無理やり起きてしまうのですが)。
708
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2017/10/06(金) 21:49:53 ID:1d4drIFg0
>>703
そうじゃ、実践あるのみなのじゃ。
またおいでなさい。
>>704
どちらでも起こるのじゃ。
自我とは自分という観念であるからのう。
自我と自分の二つがあるのではないのじゃ。
ただ言葉のみの違いなのじゃ。
>>705
そうじゃ。
それを観るのは無我になった後であるがのう。
実践あるのみなのじゃ。
>>706
わしは何も思わないのじゃ。
ノー思惑なのじゃ。
>>707
そうじゃ、それでよいのじゃ。
ついでにいろいろ観察すると善いのじゃ。
それが自分ではないと気付くじゃろう。
709
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/07(土) 01:27:31 ID:ydE4b1w.0
>>708
705です、すいません、「そうじゃ」というのが何に対する返答なのかがはっきり
汲み取れなかったんですが、要するに結論から言うと
無我に至った後に認識(阿頼耶識)の働く過程をとらえることができれば、そこから更なる過程を経ることなく
認識の働く様に気付いたのと同じ瞬間に認識(阿頼耶識)が厭離され無認識へ至る、という理解でいいですか?
710
:
旅の客人
:2017/10/07(土) 03:36:29 ID:XGGScHBs0
有難う御座います。
勇気を出して観察してみます。
711
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2017/10/07(土) 22:17:10 ID:1d4drIFg0
>>709
それでよいのじゃ。
しかし言葉通りになるのではないのじゃ。
それは最初何が起きたのかすらわからんじゃろう。
知る必要も無いのじゃ。
言葉も観念もないからのう。
ただ悟りを伝えるためだけに言葉としてそのような気付きがあったと言えるだけなのじゃ。
>>710
そうじゃ、実践あるのみなのじゃ。
またおいでなさい。
712
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/08(日) 20:06:20 ID:DAY232aw0
>>708
ご回答ありがとうございます。
質問ですが、プッタタートと言う人は悟っていますか?
713
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/08(日) 20:35:04 ID:DAY232aw0
連投すいません。
プッダヴァチャナはお釈迦様の本当の教えなのでしょうか?
714
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/08(日) 20:51:52 ID:ydE4b1w.0
>>711
ありがとうございました。
715
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2017/10/08(日) 21:10:05 ID:1d4drIFg0
>>712
悟っていないのじゃ。
何も知らないのじゃ。
>>713
違うのじゃ。
全体から切り取られて編集された言葉はもはやお釈迦様の教えとは言われないのじゃ。
人を殺してはいかんとかいうのを、人を殺すということをお釈迦様は教えたというように変えることもできるからのう。
止観が理解できない者たちが編集した故に、自説を補強するだけのものになっているのじゃ。
>>714
どういたしまして、またおいでなさい。
716
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/08(日) 22:31:41 ID:DAY232aw0
>>715
大変勉強になります。ありがとうございます。
質問ですが、観察し続ける事が難しいのですが、何か良い方法は無いのでしょうか?
717
:
541
:2017/10/09(月) 06:24:10 ID:o7TfOr0I0
鬼和尚、時間や空間は心の中にありますか?心の外にありますか?
718
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/09(月) 17:09:58 ID:czRftzgI0
夢を分析したところ、その中の自分には思考、感情、分別もちろん自我もと覚醒時にあるものの全てがあると気付きました。
この結果をどう活かせばいいですか?
719
:
541
:2017/10/09(月) 18:08:26 ID:irpWTyyc0
鬼和尚、私の前世は何でしょうか?
ちなみに、輪廻転生は現代人が来世に江戸時代に転生することはなく、歴史学的な時間秩序に基づいているのでしょうか?
720
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2017/10/09(月) 21:14:34 ID:1d4drIFg0
>>716
そのような時は集中し続けるのじゃ。
集中することで我を忘れて、観察し続けられるのじゃ。
自我の好悪とかがないからのう。
実践あるのみなのじゃ。
>>717
時間も空間も心の外も中も無いのじゃ。
ただ実践あるのみなのじゃ。
>>718
観察に活かせばよいのじゃ。
夢の中でもなくならないそれらがどのように生起するのか観察してみるのじゃ。
実践あるのみなのじゃ。
>>719
今の環境を反映したものじゃろう。
環境が最悪ならば最悪なことをした者じゃろう。
最高ならば最高なことをした者じゃろう。
それらも観念分別在るのみなのじゃ。
わしは江戸時代に生きていると思っていた者など一人もいないからのう。
721
:
541
:2017/10/09(月) 22:49:05 ID:o7TfOr0I0
答えが意味わからんです(笑)
722
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/10(火) 01:22:18 ID:5b5rHLEE0
鬼和尚くらい修行が進むと、目の前で知り合いや家族が死んでも悲しんだりショック受けたりはしなくなるのですか?
723
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/10(火) 05:50:59 ID:czRftzgI0
>718
「夢の中でもなくならないそれらがどのように生起するのか観察してみるのじゃ。」は「夢の中でもなくならないそれらが覚醒時にどのように生起するのか観察してみるのじゃ。」の意味ですか?
724
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/10(火) 10:56:14 ID:GijSlBiA0
和尚さま。
気になるコメントを見かけたので便乗させてください。
ブッタタートが悟っていないとのことですが、
どのように判断されたのでしょうか。
今後、いろんな方の法話を読むときの参考にしたいので
教えて頂けないでしょうか。
725
:
蓮恵
:2017/10/10(火) 20:36:58 ID:/840N4pM0
鬼和尚さま
思考を黙らせるのに必要なのは、思考によって思考を止めることではなく、無分別に近づくことのみだと愚考しました。
当然未だ無分別に到っておりませんが、分別から離れつつある見地とは、例えるなら足場が不安定でグラグラとなるような、もしくはめまいのようなクラクラする感覚に近いのではないでしょうか(頓珍漢な表現で申し訳ありませんが)
逆に言えば、日頃我々の分別による見地は固定化されすぎて、安定しすぎているようです。
今の私では、先の不安定な感覚であるグラグラ、クラクラを追求していくしか無さそうです。
726
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/10(火) 21:00:03 ID:czRftzgI0
「人の運命、人類社会の発展、そのすべては神佛によって制御されている。1人の人間が生まれてから死ぬまで、その一生の運命はすべて定められており、例え髪1本が抜け落ちることも、すべて塩梅されたこと。」というのは本当ですか?
また、自殺というこの世の修行を放棄する行為もまた神佛によって制御されているのかそれとも人間の自由意志によるものですか?
727
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/10(火) 21:51:41 ID:x/6oSfDM0
プラユキ・ナランボー、ネルケ無方、藤田一照
この三人は修行者としてはどのくらいのレベルの人達なのでしょうか?
728
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2017/10/10(火) 22:11:16 ID:1d4drIFg0
>>721
わからないでよいのじゃ。
実践あるのみなのじゃ。
実践が全てなのじゃ。
>>722
そうじゃ、それは滅びる性質のものであるからのう。
それによって何かがなくなったり、生じたりすることもないとわかっているのじゃ。
全てが足されることも引かれることも無い一つなのじゃ。
>>723
それが夢の中で起こるのならば夢の中で観察するしかないのじゃ。
今ここでしか観察は出来ないからのう。
観察が無意識にもできるようになれば夢の中でも観察できるのじゃ。
自分は夢を見ていると観察する事もできるのじゃ。
実践あるのみなのじや。
>>724
何も知らないのじゃ。
法を知識と思っているのじゃ。
南方仏教のものならば観察を主としている筈なのに四諦も厭離も知識として捉え、行うものと思っているのじゃ。
悟っているならばそれほど無知なはずは無いのじゃ。
クリシュナムルティも知っていたというからのう。
729
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2017/10/10(火) 22:31:46 ID:1d4drIFg0
>>725
集中していればいずれ思考は止まるじゃろう。
実践あるのみなのじゃ。
>>726
嘘なのじゃ。
自分の意志で行うことが全てなのじゃ。
自分の意志で死ぬから自殺なのじゃ。
全て決められていたならば自殺ではないのじゃ。
神が他殺の真犯人なのじゃ。
>>727
おぬしと同じぐらいじゃな。
精進して遥かに遠くへ行くがよいのじゃ。
730
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/10(火) 22:43:09 ID:czRftzgI0
>723>726
なるほど、夢でも観察できるよう精進したいと思います
自殺は意志、考えてみれば当然のことです。これに関しては改めて明日質問します。
今回も丁寧な指導ありがとうございました
731
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/11(水) 03:05:20 ID:ydE4b1w.0
鬼和尚がお経を読んでいる際に観照が起きたっていうのは、その時が初めての
観察体験だったんですよね、
しかもそこからの流れで一気に無認識まで至ったということは
ほとんどの人が通るであろう、
①見性体験が起こる→②自我が戻ってくる→③悟りの探求をさらに進める→④ある程度のところに落ち着く(無我の段階でしょうか)
→(⑤無認識へ至る(至る人は少ないであろう段階))という順序の②と③と④を一気にすっとばしていきなり⑤まで行ったみたいな感じですよね(正確には鬼和尚の場合の①は見性体験が起きたというか観察の結果として無我に至ったんでしたか)、
ほとんどの人は何年もかけてある程度のところに至るというのを聞くと鬼和尚って豪運すぎますよね、
たとえて言うなら初めての宝くじで一千万当たってその軍資金を株にあてすぐ成功して億万長者になり、それにより一生不労所得での生活に
すみやかに安住した、みたいな(下世話なたとえですいませんが)
732
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/11(水) 05:45:59 ID:04sFW9n.0
いつも教えていただきありがとうございます。
悲しいという感情が起ったので、せっかくの機会なので観察をしてみました。
最初は「悲しみが起こっている」などと思考していたのですが、
そのうち「心臓がどきどきしている」とか「みぞおちあたりか強く脈打っている」とかになり、
悲しみを観察しているのではなく、肉体におこっている変化の観察になりました。
脈絡がないためか、結局どのような観察結果になったのかはおぼろにしか思い出せません。
何かを獲得できたような感覚もありません。
観察とはこのような感じでよいのでしょうか?
733
:
541
:2017/10/11(水) 06:44:50 ID:o7TfOr0I0
実践が全てと言いますが、何を実践すればよいので?
734
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/11(水) 09:33:39 ID:GijSlBiA0
>>728
ありがとうございます。
今後の参考にさせて頂きます。
735
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/11(水) 18:14:54 ID:DAY232aw0
>>720
ご回答ありがとうございます。
質問ですが、自分と思っているものは何か観察すれば、自分とは何であるかに気付きますか?
736
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/11(水) 18:40:51 ID:czRftzgI0
無我やサマーディに至るには、または無我やサマーディの修行を始める前には、苦を一つ残らず完全に滅さなければならないのですか?
人間なんだから苦の一つや2つくらい残ってもしょうがないと思うのですが、それらもやはり完全に消し去らねばならないのでしょうか
737
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/11(水) 20:11:07 ID:jfWCoXjM0
鬼和尚、ラマナ・マハルシの問答集「私は誰か?」の解説をしていただけませんか?
一応貼っておきますので、もしよろしければ、是非お願いいたします。
738
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/11(水) 20:12:59 ID:jfWCoXjM0
私は誰か?
生きとし生けるものは、いつでも幸福であることを願い、不幸でないこ
とを願っている。誰にとっても、そこには自分自身への至上の愛が見られ
る。そして幸福だけがその愛の源なのである。それゆえ、人間の本性であ
る幸福、想念のない深い眠りのなかで体験される幸福を手に入れるために、
人は自分自身を知らねばならない。そのためには、「私は誰か?」という問
いで探究する知識の道が最も重要な方法である。
1 私とは誰でしょうか?
七つの要素*1 から成る粗大な身体、それは私ではない。五つの感覚器官、
聴覚、触覚、視覚、味覚、臭覚は、それぞれの対象である音、感触、色、
味、匂いをとらえるが、私はそれらではない。五つの能動的な器官である
言語器官、運動器官、認識器官、排泄器官、生殖器官は、それぞれ話すこ
と、動くこと、理解すること、排泄すること、楽しむことという働きをす
るが、私はそれらではない。五つの生気*2、すなわちプラーナなどは、吸
気などの五つの働きをするが、それは私ではない。ものごとを考える心で
さえ、私ではない。対象物の印象だけが刻みこまれた無知も、対象物も働
きもない無知も、私ではない。
*1 七つの要素: 栄養液、血液、肉、脂肪、骨、髄、精子。
*2 五つの生気 : パンチャ・プラーナ。 身体で働いている五つのプラーナ(気)。アパーナ、
下降する気。プラーナ、上昇する気。サマーナ、食べ物をアパーナに運ぶ気(消化)。ヴィ
ヤーナ、プラーナとアパーナをとらえる気。ウダーナ、食べ物や飲み物を上下に運ぶ気。
2 もし私がこれらのものでないなら、私は誰でしょうか?
今述べたことすべてを「これではない」、「これではない」と否定してい
ったあとに、ただひとつ残る覚醒――それが私である。
3 覚醒の本性は何でしょうか?
覚醒の本性は、存在-意識-至福である。
4 真我の実現はいつ得られるのでしょうか?
「見られるもの」である世界が取り除かれたとき、「見る者」である真我
は実現されるだろう。
5 世界が(実在として)存在しているときでさえ、真我が実現されるとい
うことはないのでしょうか?
ないだろう。
6 なぜでしょうか?
見る者と見られている対象は、ロープと蛇のようなものである。錯覚で
ある蛇という知識がなくならないかぎり、実体であるロープという知識は
得られない。同じように、世界が実在であるという確信がなくならないか
ぎり、実在である真我の実現は得られないだろう。
7 対象として見られている世界は、いつ消え去るのでしょうか?
すべての認識作用とすべての行為を引き起こす原因である心が静かにな
ったとき、世界は消え去るだろう。
8 心の本性とは何でしょうか?
「心」と呼ばれているものは、真我に内在する驚くべき力である。心はす
べての想念を起こさせる源である。想念を離れて心のようなものは存在し
ない。それゆえ、想念が心の本性である。想念を離れて、世界と呼ばれる
独立した実体があるわけではない。深い眠りのなかに想念はなく、世界も
ない。クモが自分のなかから糸を出し、それをまた自分のなかに引き入れ
るのと同じように、心はそれ自身から世界を投影し、再びそれ自身のなか
へ還元させる。真我のなかから心が外に出るとき、世界が現れる。それゆ
え、世界が(実在として)現れているとき、真我は現れない。真我が輝い
て現れるとき、世界は現れない。人が絶え間なく心の本性を探究しつづけ
るならば、心は真我をあとに残して死滅するだろう。「真我」と呼ばれてい
るものは、アートマンである。心はつねに何か粗大なものに依存すること
によってのみ存在する。それはひとりであることができない。微細身ある
いは個我(ジーヴァ)と呼ばれているのは、心である。
9 心の本性を理解する探究の道とは何でしょうか?
身体のなかに「私」として立ち現れるものが心である。もし身体のなか
のどこに「私」という想念が最初に現れるかを探究するなら、それはハー
トのなかに現れることが発見されるだろう。そこが心の起源となる場所で
ある。絶えず「私」、「私」と考えても、人はその場所に導かれていくだろ
う。心のなかに現れるすべての想念のなかで、最初に現れるのは「私」と
いう想念である。この想念が現れたあとにのみ、他の想念は現れる。二人
称と三人称の人称代名詞が現れるのは、一人称が現れたあとのことである。
一人称がなければ、二人称、三人称も存在しないだろう。
10 どうすれば心は静かになるのでしょうか?
「私は誰か?」と尋ねることによってである。「私は誰か?」という想念
は、他のすべての想念を破壊するだろう。そして燃えている薪の山をかき
混ぜる木の棒のように、ついには「私は誰か?」という想念そのものも滅
ぼされてしまうだろう。そのとき真我は実現されるだろう。
739
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/11(水) 20:16:54 ID:jfWCoXjM0
11 「私は誰か?」という想念を絶えず心に保つにはどうすればよいでしょ
うか?
他の想念が起こっても、それを追いかけることをやめ、「この想念は誰に
起こったのか?」と尋ねるべきである。どんなに多くの想念が起ころうと
かまわない。想念が起こるたびに「この想念は誰に起こってきたのか?」
と入念に探究すべきである。それに対して現れる答えは「私に」だろう。
そこで、すぐに「私は誰か?」と探究すれば、心は源に引き戻され、起こ
った想念は静まるだろう。このように修練を繰り返せば、心は源にとどま
ることに熟達するだろう。微細な心が脳や感覚器官を通って外に出ると、
粗大な名前や形が現れる。心がハートのなかにとどまっていれば、名前と
形は消え去る。心を外に出さずにハートのなかにとどめておくことは、「内
にあること」(アンタール・ムカ)と呼ばれる。心をハートから外へ出させ
ることは、「外へ向かうこと」(バヒール・ムカ)として知られる。このよ
うに、心がハートのなかにとどまっているとき、すべての想念の源である
「私」は消え去り、永遠に存在する真我が輝きだす。人は何をするときに
も、「私」という自我性なしにそれをすべきである。もしそのように行動す
れば、すべてはシヴァ神の本性として現れるだろう。
12 心を静かにする他の方法はないのでしょうか?
探究以外に適切な方法はない。他の方法で心を静めても、心は制御され
たように見えるだけで、再び勢いを増して現れるだろう。呼吸の制御によ
っても心は静められるが、それは呼吸が制御されている間だけのことであ
り、呼吸が元に戻れば心もまた活動を始め、潜在する印象に駆りたてられ
てさ迷いだすだろう。心も呼吸も、その源は同じである。想念とは、実は
心の本性である。「私」という想念が心の最初の想念であり、それが自我性
である。自我が生まれ出る同じ場所から呼吸も生まれる。そのため、心が
静かになれば呼吸も制御され、呼吸が制御されれば心も静かになる。けれ
ども深い眠りのなかでは、心は静かでありながら、呼吸は止まっていない。
これは、身体が維持されるように、そして死んでしまったと他の人びとが
思わないようにとの神の意志によるものである。目覚めの状態とサマーデ
ィにあっては、心が静まっていれば呼吸は制御されている。呼吸は心の粗
大な姿である。死の時までは、心は身体のなかに呼吸を保っている。身体
が死ぬと、心は呼吸とともに出ていく。それゆえ、呼吸を制御する修練は
心を静める(マノニグラハ)助けにすぎず、心の消滅(マノナーシャ)を
もたらすことはない。
呼吸を制御する修練と同じように、神の姿に瞑想することや、マントラ
の復唱、断食などの修練も、心を静める助けにすぎない。
神の姿に瞑想することや、マントラの復唱を通して、心は一点に集中さ
れる。心はつねにさ迷いつづけるだろう。鼻を鎖でつながれた象が、他の
何もつかまえられないように、心も神の御名や姿に満たされていれば、他
の対象をとらえることはないだろう。心が無数の想念へと拡散していると
き、そのひとつひとつの想念は弱いものとなる。だが、想念が決意を固め
て一点に集中すれば、強いものとなる。そのような心にとって、真我を探
究することは容易になるだろう。すべての規則制限のなかでも、適度な量
の清らか(サートヴィック)な食事を取るという方法が最上のものである。
これを守ることによって、心の清らかさは増し、真我の探究の助けとなる
だろう。
13 心に残ったものごとの印象が、海の波のように際限なく現れてきます。
いつになったらそれらすべてがぬぐい去られるのでしょうか?
真我への瞑想が高まれば高まるほど、それらの想念は破壊されるだろう。
740
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/11(水) 20:18:09 ID:jfWCoXjM0
14 数知れない過去生から蓄積されてきた、心に刻まれたものごとの印象
が取り除かれ、純粋な真我としてとどまることは可能でしょうか?
可能か、可能でないかという疑問に屈することなく、真我への瞑想を続
けるべきである。たとえ、人が大罪人であるとしても、「ああ、私は罪人だ。
どうすれば救われるだろう?」と思い悩み、嘆き悲しむべきではない。「私
は罪人だ」という想念を完全に棄て去り、真我への瞑想に強烈に集中する
べきである。そうすれば、確実にうまくいくだろう。ひとつは善く、もう
ひとつは悪いという二つの心があるのではない。心はただひとつだ。幸運
と不運の二種類があるのは、心ではなく、心に刻まれる印象である。心が
幸運な印象の影響を受けたとき、それは善と呼ばれ、不運な印象の影響を
受けたとき、それは悪と見なされる。
心は世間のものごとや他の人びとに関することへとさ迷いでぬよう、戒
められなければならない。他の人がどれほど悪くとも、彼に対して憎しみ
を抱かぬようにしなければならない。欲望と憎しみは、どちらも避けなけ
ればならない。人が他の人びとに与えるすべては、実は自分自身に与えて
いるのだ。もしこの真理が理解されるなら、人びとに施しをしないでいら
れようか。自己が現れると、すべてが立ち現れ、自己が静まればすべては
静まる。謙遜を忘れないならば、それに応じてよい結果が現れるだろう。
心が静寂に帰すれば、人はどこででも生きていくことができる。
15 探究はどのくらいの期間修練されるべきでしょうか?
心のなかにものごとの印象があるかぎり、「私は誰か?」と尋ねなければ
ならない。想念が起こったなら、そのとき、その起こったまさにその場で
問うことによって、破壊されるべきである。もし真我に到達されるまで、
不断に真我への黙想に打ちこめば、それだけで想念は消滅するだろう。要
塞のなかに敵がいるかぎり、敵は反撃を続けるだろう。もし敵が姿を現す
たびに滅ぼしていけば、要塞はわれわれの手中に落ちるだろう。
16 真我の本性とは何でしょうか?
真実、存在するのは真我だけである。世界、個我、神は真珠貝のなかの
銀色の輝きのように、真我の内に現れるものである。これら三つは同時に
現れ、同時に消え去る。
「私」という想念が絶対にないところ、それが真我である。それは沈黙
と呼ばれる。真我そのものが世界であり、真我そのものが「私」であり、
真我そのものが神である。すべてはシヴァ、真我である。
17 すべては神のなせるわざではないのでしょうか?
欲望も決意も努力もなしに太陽は昇る。太陽がただそこに存在するだけ
で、日長石は火を発し、蓮の花は開き、水は蒸発していく。磁力が存在す
ることによって磁石の針が動くように、人びとが三つの宇宙的機能*3 や五
つの神聖な活動*4 に支配され、それぞれのカルマにしたがって行為し、そ
して休息するのは、ただ神が存在するという美徳によるものである。神は
何の意志も持たず、いかなるカルマも彼に属さない。それは、世間の行為
が太陽に影響をあたえず、すべてに遍在するエーテルが他の四元素の長所
や短所に影響されないのと同じである。
*3 三つの宇宙的機能 : 創造、維持、破壊。
*4 五つの神聖な活動 : パンチャ・ヤジュニャ。『ヴェーダ』の学習、祖霊への食物の供養、ホ
ーマの献火、すべての生き物への食物の供養、人間への供養などを示すヒンドゥー教徒の義
務。
18 帰依者のなかで最もすぐれているのはどのような人でしょうか?
神である真我に自分自身をゆだねきった人が、最もすぐれた帰依者であ
る。自分自身を神にゆだねるとは、真我という想念以外のいかなる想念も
起こることを許さず、ひたすら真我の内にとどまっていることである。
どんな重荷を負わされようと、神はそれに耐える。神の至高の力がすべ
てのものごとを動かしているというのに、なぜわれわれはその力に身をま
かせず、何をどうすべきか、どうすべきではないかと思い悩むのだろう
か? われわれは列車がすべての荷物を運んでくれることを知っている。
列車に乗ってまでも、自分の小さな荷物を頭にのせて苦労する必要がどこ
にあろう。荷物をおろして安心しなさい。
19 無執着とはどういうことでしょうか?
想念が起こるとともに、その起こったまさにその場で、あますところな
く完全に消滅させること、それが無執着である。真珠採りが自分の腰に石
をくくりつけて潜り、海底に沈む真珠を採るように、誰もが無執着ととも
に自己の内に深く潜り、真我という真珠を手に入れなければならない。
741
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/11(水) 20:19:04 ID:jfWCoXjM0
20 神やグルは、魂の解脱をもたらすことはできないのでしょうか?
神やグルは解放への道を示すだけだろう。神やグルが人を解脱の状態に
連れていくわけではない。
実際は、神とグルは異なるものではない。トラの顎にくわえられた獲物
に逃れるすべがないように、グルの慈悲深い眼差しにとらえられた者は、
グルによって救われ、見棄てられることはないだろう。けれどもひとりひ
とりは、神あるいはグルによって示された道を自分自身の努力で究め、解
脱に達しなければならない。人はただ自分の知識の目によってのみ、自分
自身を知ることができる。ラーマ神がラーマ神であることを知るために、
鏡の助けが必要だろうか?
21 解脱を熱望する者にとって、意識の構成要素の本質(タットヴァ)を
探究する必要があるでしょうか?
ゴミを捨てたいと思っている人にとって、その中身を分析したり、それ
が何であるかを調べたりする必要がないように、真我を知ろうとする人に
とっても、意識の性質を調べたり、その構成要素を分類して数えたりする
必要はない。彼がすべきことは、真我を覆い隠している構成要素すべてを
払いのけることである。世界はひとつの夢のようなものと見なされなけれ
ばならない。
22 目覚めと夢見の間に違いはないのでしょうか?
目覚めている間は長く、夢を見ている間は短い。これより他に何の違い
もない。目覚めの間に起こることが真実に見えるように、夢の中で起こる
ことも夢のなかでは真実に見える。夢の中では心はもうひとつの身体をと
っている。目覚めの状態でも、夢見の状態でも、想いや、名前と形は同時
に現れるのである。
23 解脱を願う者にとって、本を読むことにはどんな価値があるのでしょ
うか?
すべての聖典は、解脱を得るためには心を静かに保たなければならない
と述べている。それゆえ、心を静かに保つべきだということが、聖典の最
終的な教えである。ひとたびこれが理解されたなら、際限なく本を読む必
要はない。心を静めるには、人はただ自分自身の内に、真我とは何かと問
いつづけるべきである。この探究がどうして書物のなかでできるだろう
か? 人は自分自身の智慧の目で、自分の真我を知るべきである。真我は
五つの鞘*5 の内にあるが、書物はその外にある。真我は五つの鞘を棄て去
っていくことで探究されるべきものであるため、それを書物のなかに求め
るのは無駄なことである。いずれ学んだことをすべて、忘れ去らなくては
ならないときが来るだろう。
*5 五つの鞘 : パンチャ・コーシャ。 真我を覆い隠す五つの身体の鞘。アンナー・マヤ・コ
ーシャ、身体の鞘。プラーナ・マヤ・コーシャ、生気の鞘。マノ・マヤ・コーシャ、心の鞘。
ヴィジニャーナ・マヤ・コーシャ、知性の鞘。アーナンダ・マヤ・コーシャ、至福の鞘。
24 幸福とは何でしょうか?
幸福とは真我の本性そのものである。幸福と真我は別のものではない。
世界のいかなるものごとのなかにも幸福はない。われわれは無知ゆえに、
ものごとから幸福を得るものだと思っている。心が外へ出ていくと、不幸
を体験する。心の願いが満たされたとき、実は、心は自己本来の場所に戻
っており、真我である幸福を楽しむのである。同じように、眠りの状態、
サマーディ、失神状態、あるいは、得たいと願っていたものが得られたり、
嫌っていたものが消え去ったりしたときには、心は内面に向かい、純粋な
真我-幸福を楽しむのである。このように心は休むことなく動きまわり、
真我からさ迷いでては、また戻ってくるということを繰り返している。木
陰は気持ちいいが、外では太陽が焼けつくようだ。灼熱の太陽のなかを歩
いてきた人が木陰にたどり着けば涼しいと感じる。木陰からわざわざ出て
猛暑のなかを行き、それからまた木陰に戻ってくるのは愚かなことである。
賢い人はずっと木陰にとどまっているだろう。同じように、真理を知る人
の心は、ブラフマンを離れることはない。その反対に、無知な人の心は、
悲惨を味わいながら世界をさ迷い歩き、つかの間の幸福を味わうためにブ
ラフマンに戻ってくる。実際には、世界と呼ばれているものはただの想念
にすぎない。世界が消え去ったとき、つまり想念が存在しないとき、心は
幸福を体験する。世界が現れると、不幸を味わうのである。
25 洞察力(ジニャーナ-ドリシュティ)とは何でしょうか?
静寂にあることが洞察力と呼ばれている。静寂にあるということは、真
我のなかに心を帰り着かせることである。過去、現在、未来の出来事を知
るテレパシーや千里眼は洞察力ではない。
742
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/11(水) 20:19:57 ID:jfWCoXjM0
26 無欲と智慧にはどんな関係があるのでしょうか?
無欲が智慧である。二つは別のものではない。それは同じである。無欲
とは、心がいかなる対象物に向かうことも差し控えることである。智慧と
は、何の対象物も現れないことを意味している。言い換えれば、真我以外
の何ものも求めないことが無執着あるいは無欲であり、真我をけっして離
れないことが智慧である。
27 探究と瞑想の違いは何でしょうか?
探究とは、真我のなかに心をとどめておくことである。瞑想とは、自己
をブラフマン、つまり存在-意識-至福であると思いなすことである。
28 解脱とは何でしょうか?
束縛されている自己の本性を探究すること、その真の本性を悟ることが
解脱である。
743
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2017/10/11(水) 21:02:14 ID:1d4drIFg0
>>730
どういたしまして、またおいでなさい。
>>731
見性は自我を見ることではないのじゃ。
本性が見られただけなのじゃ。
そうであるから見性なのじゃ。
一部の禅の者が無我とか悟りの意味で使っているが間違いなのじゃ。
それも本心を見るには役に立つものであるがのう。
自我を観るのは観照なのじゃ。
大抵の者はそこから無我となり、大悟に至るのじゃ。
白陰も大悟二度とか言っているのじゃ。
真摯に求めていればやがて誰もがそこに至るのじゃ。
それは大地のように永遠普遍のものであるからのう。
>>732
それでよいのじゃ。
感情が肉体の反応を起こすことが見えたのじゃ。
今ここに起こることをありのままに観ればよいのじゃ。
やがて自我が自分という概念とは無関係であることさえ観えてくるがそれもありのままに受け容れればよいのじゃ。
>>733
止観を実践すればよいのじゃ。
集中と観察なのじゃ。
わしのブログなどを参考にするのじゃ。
744
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2017/10/11(水) 21:23:51 ID:1d4drIFg0
>>734
どういたしまして、またおいでなさい。
>>735
真摯に探求すれば気付くじゃろう。
恐れや逃避があれば気付かないこともあるじゃろう。
おぬし次第なのじゃ。
>>736
滅さなくてよいのじゃ。
修業の邪魔になるものだけを滅するとよいのじゃ。
サマーディには一つの苦も滅さなくても至れるのじゃ。
ただ姿勢をよくして座るだけでよいのじゃ。
>>737
>>738
1は仏教でもよく使われる五感や身体が自分ではないと気付くための教えなのじゃ。
それらはよく観察する事で自分ではないと気付くじゃろう。
五蘊を観察する仏教の法とは少し違うがのう。
心身の要素を観察して厭離する意図は同じなのじゃ。
2 それらの心身の要素を観察して行き、全てが厭離されて残るのが覚醒なのじゃ。
それを私と言っているがもはや私も無いものじゃ。
言葉の便法によって私と言うのじゃ。
3 その覚醒の本性とは存在であり、意識であり、至福と言うのじゃ。
お釈迦様が不死の境地とか言ったものと同じなのじゃ。
死もない永遠の意識こそ覚醒の本性なのじゃ。
4 真我とはそれ自体が認識するものでありながら、認識はされないものなのじゃ。
認識できたならばそれは真我ではないのじゃ。
全てが見る者となる時、真我は実現したと言えるのじゃ。
5 そこにはもはや世界とかの概念設定されるものは存在しないのじゃ。
世界があったならばまだ真我は実現したと言えないのじゃ。
6 全ての概念設定を離れて認識が実現すれば真我も実現すると言えるのじゃ。
虚妄の世界と真実である真我は両立しないのじゃ。
745
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2017/10/11(水) 21:38:28 ID:1d4drIFg0
>>738
>>739
7 認識が記憶に依存していれば概念は起こり続けるのじゃ。
認識作用が記憶への依存を止めた時に心は止まり、虚妄の世界も消え去るのじゃ。
8 ここで心と呼ばれるのは観念を投射する記憶に依存した認識なのじゃ。
それは今ここでも絶え間なく悟りを得ない者の心にさまざまな観念を作り出しているじゃろう。
それが個我の観念をも生み出すのじゃ。
その作用がなくなり、虚妄の世界゛消えて真我は表れるというのじゃ。
9 個我を起こす認識の働きは心臓への集中によって見出されるというのじゃ。
それは心臓に限ったことではないがのう。
一度、その働きが観られたならば自我は消えさるのじゃ。
10 常に自己を探求することで心は鎮まると言うのじゃ。
それが完全に観察された時に、個我は滅し、真我が実現されるのじゃ。
11 雑念が起こればその都度、それが自分から起こる事を観察するように言うのじゃ。
常に全ての注意を自己の探求に向ければ悟りも自ずから訪れるのじゃ。
12 呼吸の制御も神を瞑想することもマントラも断食も心を鎮める助けになるだけなのじゃ。
自分とは何かを観ることが真の悟りへの道なのじゃ。
13 雑念がどれほど浮かび上がってきても日々の実践によって消えていくのじゃ。
746
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2017/10/11(水) 22:20:32 ID:1d4drIFg0
>>740
14 長年の執着も一つの気付きで消え去るように、観念の蓄積も認識を観れば消え去るじゃろう。
それらは妄想に過ぎないからのう。
妄想を妄想とわかってしがみつく者はいないのじゃ。
15 観念があり続ける限り探求は終わらないのじゃ。
それがどのくらいで終わるかは本人次第なのじゃ。
日々の実践だけがその道を近ずけてくれるのじゃ。
16 真我とは唯一つの実在であり、永遠の意識なのじゃ。
全ての者の全てなのじゃ。
神仏などの観念さえそこに含まれるのじゃ。
ただ妄想としてであるがのう。
17 神が意識であればそれは人に何かをさせるものではないのじゃ。
ただ在るがままにあるのみなのじゃ。
人はただ自ら実践してその意識の至福に至ることができるだけなのじゃ。
それこそが恩寵と呼ぶべきなのじゃ。
18 金や物を捧げるより、自らを真我にゆだねきった者こそ最も優れた帰依者であるというのじゃ。
帰依とは神仏に回帰することであるが自らの心身をささげつくす者は少ないものじゃ。
自分自身にさえ自らをささげ尽くすことは難しいのであるからのう。
19 無執着とは今ここにのみ在ることなのじゃ。
過去を想い、未来を臨んでいれば今ここにはいないのじゃ。
心に浮かんでは消える雑念をその場で手放して真我を得るのじゃ。
>>741
20 どれほど優れた師匠や神も人に悟りを得させることはできないのじゃ。
お釈迦様でさえ道標になるだけと言ったのじゃ。
人は自ら悟りへの道を歩まなければいかんのじゃ。
21 知識は塵芥であり、糟糠であると空海も言ったのじゃ。
実践こそ真の悟りへの道なのじゃ。
22 目覚めと夢は同じ意識の現われなのじゃ。
夢の中でも観念はありつづけるものじゃ。
23 聖典を読めば実践すべきことが書かれているのじゃ。
実践が全てなのじゃ。
知識を集めれば知識に執着し、妨げになることもあるじゃろう。
実践あるのみなのじゃ。
24 真の幸福は真我の実現によってのみ達成できると言うのじゃ。
その他の幸福は幻想であり、一時の気休めに過ぎないのじゃ。
25 心を鎮め、心臓に真我を求める力こそ洞察力なのじゃ。
超能力ではないのじゃ。
747
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2017/10/11(水) 22:27:29 ID:1d4drIFg0
>>742
26 無欲とはなにものにも囚われない心なのじゃ。
智慧とはそのような心そのもの働きなのじゃ。
欲があれば智慧は無く、智慧があれば欲は無いのじゃ。
欲が無く智慧のある状態が真我実現なのじゃ。
27 探求と瞑想との違いは真我を求めることと、ブラフマンの法との違いと言うのじゃ。
真我探求の法は心臓にひたすら集中し、真我を求めることなのじゃ。
ブラフマンの瞑想は心身をどこまでも広げてブラフマンと一体化する法なのじゃ。
悟りを得ればそれらも一つの法と知れるのじゃ。
28 解脱とは自己の本性を探求し、悟ることなのじゃ。
それが存在しないと気付いた時に人は無我になり、無認識にも至るのじゃ。
それこそ解脱なのじゃ。
748
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/11(水) 22:35:19 ID:OYxDwooY0
鬼和尚すげーwww
脱帽です…。
749
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/12(木) 17:23:19 ID:jfWCoXjM0
鬼和尚、解説ありがとうございます!
一瞬で片付けてしまうとは、まさに鬼ですねw
悟った人同士ですと、言わんとしている事もツーカーなのでしょうか?
750
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/12(木) 17:40:04 ID:jfWCoXjM0
この「私は誰か?」という問答集の総評を聞かせてください。
それと↓もラマナ・マハルシの言葉なので、コメントをお願いします。
生きとし生けるものは、いつでも幸福であることを願い、不幸でないこ
とを願っている。誰にとっても、そこには自分自身への至上の愛が見られ
る。そして幸福だけがその愛の源なのである。それゆえ、人間の本性であ
る幸福、想念のない深い眠りのなかで体験される幸福を手に入れるために、
人は自分自身を知らねばならない。そのためには、「私は誰か?」という問
いで探究する知識の道が最も重要な方法である。
751
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/12(木) 19:03:22 ID:czRftzgI0
和尚さんは無我・サマーディに至るには苦をすべて取る必要はないとおっしゃいました。では、執着もすべて取る必要はないのですか?
752
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2017/10/12(木) 20:55:56 ID:1d4drIFg0
>>748
おぬしには負けるがのう。
わっはっは。
>>749
そうじゃ、まさに鬼じゃ。
医者が他の医者の言葉が直ぐにわかるように、悟った者同士もわかるのじゃ。
特に難しいことは言っていないのじゃ。
>>750
マハリシは質問する者が観念に陥らないように常に心臓の真我に実際に集中するようにと答えているのじゃ。
実践が全てなのじゃ。
悟った者は常に実践を説くのじゃ。
悟らない者は知識を説くのじゃ。
それが悟ったものと悟らない者の違いなのじゃ。
マハリシも自ら悟り、不死の境地を知っているから皆をそこに導こうとしているのじゃ。
それもまた実践によって真の幸福を実現するための言葉なのじゃ。
全ての幻想を滅し、心の中にある真実を実現した者だけがそのように語りかけることもできるのじゃ。
>>751
そうじゃ、全ての執着を滅しなくて善いのじゃ。
執着は心の働きによって次々に作られてしまうものであるからのう。
全て滅しようとしてもきりがないのじゃ。
修業の邪魔になる執着だけを取れば良いのじゃ。
753
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/12(木) 22:27:44 ID:czRftzgI0
>751
はい、そのように修行したいと思います
754
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/13(金) 07:21:55 ID:ydE4b1w.0
鬼和尚、
>>738
の書き込みの中の9項目目に
「もし身体のなか
のどこに「私」という想念が最初に現れるかを探究するなら、それはハー
トのなかに現れることが発見されるだろう。そこが心の起源となる場所で
ある。」
と書かれていますが、それは人は一般的に言って心臓のあたりに自分という感覚を強く
感じやすいということでしょうか?
そして、そうであるなら心臓らへんに対する観察は自我の正体を見るうえで効果的である、
ということなんでしょうか。
755
:
541
:2017/10/13(金) 10:46:36 ID:o7TfOr0I0
これだけの人間が真我探求して見付からないと言うのはどう言うことなのだろう。
心臓の辺りに真我があるならば、心臓の辺りを意識したら見付かるはずである。
何でそんなに難しい話になるのだ?
真我があるならば、もう見付かってもいいだろう
何年も探求して見付からないとしたら、それが幻想だからではないでしょうか?
756
:
541
:2017/10/13(金) 11:01:24 ID:o7TfOr0I0
確かなことは、意識と特定の肉体が何故か結び付いている事だよね。
それは、意識が肉体から生じているからなのか、或いは、意識が特定の対象(個別の肉体)を現象化し続けているかどっちかだろうね
この肉体は昨日と今日では別の性質を持つが、知性が、同一のものと見なしているから、昨日と同じ自分の肉体と判断している。
だから、全て幻想とは言えるのだが、それでも特定の肉体と言う認識システムと意識が関連していることは否定できない
757
:
541
:2017/10/13(金) 11:06:30 ID:o7TfOr0I0
つまり、どうして、意識は、この眼球(視角システム)やこの脳(認識システム)を通して、世界を眺め見るのか?
それは、「そう言うものだから」としか言いようがない。
つまり、意識は、この肉体を通して世界を経験しようとしており、それに「私」が異議申し立てをしても、意に関しないのである。
俺様は、そうしたいのだ、文句あるか?と言わんばかりである。
758
:
541
:2017/10/13(金) 11:11:18 ID:o7TfOr0I0
その時の私ってなんなの?この今、文字を打とうとして打っているものよ
まあ、あえて言うなら、この「世界を考え、語るもの」に、私は、自我意識を感じている訳だ。
鬼和尚の理論からすると、この世界を考えて語っているものを観察するときに、観照が起きることになる。
759
:
541
:2017/10/13(金) 12:44:02 ID:o7TfOr0I0
観察しようと思うと思考は消える。
と言うより「誰かに語ろう」とした瞬間に思考は生まれる。ほら、この通り。
私は、この語りや思考にidentityを感じており、自覚もあるし、観察してもいるが、観察されたからと言ってこれが滅却される事もなければ、永遠に触れているとも言えない。
760
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/13(金) 12:57:15 ID:ydE4b1w.0
鬼和尚としては
相当の覚悟、己を捨てられる、という強い意志があれば人はたった一日であっても観察
しまくって大悟に至れることは現実的に可能であると思われますか?
761
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/13(金) 18:21:43 ID:DAY232aw0
>>744
ご回答ありがとうございます。
質問ですが、自分を探求すれば良いのでしょうか?
762
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/13(金) 20:01:12 ID:jfWCoXjM0
鬼和尚、解説ありがとうございます。
ラマナ・マハルシの教えの実践としては「心臓に集中して、私という思いの生起を見る。」で良いでしょうか?
鬼和尚的には、心臓でなく他の部位に集中してもOKで、自我の観察が出来れば効果は同じということですか?
763
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2017/10/13(金) 21:28:21 ID:1d4drIFg0
>>753
そうじゃ、精進あるのみなのじゃ。
またおいでなさい。
>>754
違うのじゃ。
強く集中していると集中の対象と同一化が起こるのじゃ。
そのために心臓に自分があると感じられるのじゃ。
集中の対象は何でもよいのじゃ。
集中力によって自我を観やすくなるだけなのじゃ。
>>755
真我などないのじゃ。
ただ集中のための対象に過ぎないのじゃ。
何も無いのが真我なのじゃ。
>>760
できるじゃろう。
マハリシも一日で悟ったのであるからのう。
今日にも死ぬというようなほどに強い動機が無ければ難しいかも知れんがのう。
>>761
そうじゃ、自分を探求すればよいのじゃ。
実践あるのみなのじゃ。
実践が全てなのじゃ。
>>762
そのような理解でよいのじゃ。
どこにでも自分の生起は観られるじゃろう。
大事なのは集中力と観察力なのじゃ。
764
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/13(金) 22:00:25 ID:ntpTPdXY0
>真我などないのじゃ。
バッサリw
真我も観念であることを見破らなければいけませんね。
私も真我に囚われていましたが、ようやくそれも自分の考えであることが見えてきました。
765
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/14(土) 08:30:43 ID:aIZyr5vQ0
>>763
鬼和尚さま
「強く集中していると集中の対象と同一化が起こる」とありますが、ああいうのは何がどうなっている状態なのでしょうか?
例えば虫を観ていて、虫と自分とどちらが自分かわからなくなるとか、自分が虫になったとか、言いますが、
ああいうのは自分の側の分別がなくなるとか、認識の仕方が変わっただけのことなのでしょうか?
例えばこの場合、自分の側ではなく、虫の側に何か影響はあるのでしょうか?
例えば誰かが鬼和尚さまに集中して、鬼和尚さまと同一化した場合、
鬼和尚さま側は何か感じたり変化があったりするのでしょうか?
766
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/14(土) 10:41:47 ID:czRftzgI0
スピ系の精神性の高い人は、神仏や高次の宇宙人の訪問を受けたり、UFOに招待されるそうですが、和尚さんにそういうことはありますか?
また、見知らぬ普通の人からあなたはオーラがすごいですねえとかあなた只者じゃないですねえとか言われたことがありますか?
767
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/14(土) 16:50:27 ID:5b5rHLEE0
悟るとモテますか?
768
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2017/10/14(土) 20:07:27 ID:1d4drIFg0
>>764
そうじゃ、全て捨てて進むのじゃ。
精進あるのみなのじゃ。
>>765
自分という観念が集中の対象に投射されているだけなのじゃ。
それは観念である故にどこにでも投射されるのじゃ。
自分がそう感じるだけなのじゃ。
虫とかわしには影響はないのじゃ。
>>766
そのようなことはないのじゃ。
妄想なのじゃ。
そのような者もいないのじゃ。
全て幻想なのじゃ。
>>767
もてもてなのじゃ。
わしもおぬしにもてもてなのじゃ。
769
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/14(土) 22:16:01 ID:DAY232aw0
鬼和尚さん質問ですが、
本心を観るのは何故でしょうか?
770
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/14(土) 22:21:26 ID:czRftzgI0
>766
はあー、和尚さんにかかるとそれらは全部幻になるんですね。ひやー
771
:
765
:2017/10/15(日) 03:05:14 ID:aIZyr5vQ0
>>768
単に自分の観念、自分にとってのことなんですね。
ありがとうございます。
ところで、ただ意識だけがあり、個々の分別が錯覚であっても、
個々の境界に関係なく影響し合うものというのはないのですか?
同一化はその人の観念ということですが、シンクロニシティだとか虫の知らせとか双子が同じことを考えているとか、
個々の垣根を超えて影響し合うように見える状態は、何ですか?
ああいうものも偶然や錯覚なのでしょうか?
ただ意識だけが在るという悟りの境地からすると現象は全て幻なのでしょうが、
個々が存在してるとする現象レベルにも意識だけが在ることの片鱗や現れが見えるのかなと思ったのですが。
772
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/15(日) 05:10:57 ID:04sFW9n.0
>>743
ご教授ありがとうございました。そのように観察を続けます。
別の質問があります。
他者のために生きなさい、という教えと、自分のやりたいように生きなさい、
という教えがありますが、両立しない場合もあると思います。
例えば、仕事をすれば資本家のためや、納税を通じて社会のためになると思いますが、
自分のやりたいことをやる時間はなくなります。
このような場合、どのような判断基準が正しいといえるのでしょうか?
773
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/15(日) 07:04:18 ID:ydE4b1w.0
身体部位を厭離できた際に想念のエネルギーのようなものが放出することはその身体部位を厭離できたか
どうかに関係ありますか?
身体部位に対する自我の観念(=体への自己同一化の観念)ではない、善悪の観念のような自分を
しばりつけるような類の観念を手放せたとき、その観念にひっついていた感情のエネルギーのようなものが
放出するのを感じる時がよくあるんです。
しかし、身体部位に対する自己同一化の観念を厭離できた際は上記のようなエネルギーの放出が起こるときもあるんですが、ないときの方が多いんです、
身体部位を観察してじっと見つめ続けていたら、気づいたらいつのまにか自分とは思えないような感覚になっていた
とか、そんな感じのケースの方が多いんですが、それって厭離できているんでしょうか?
想念のエネルギーのようなものが放出されないと厭離できた感が薄いんですが、想念エネルギーが放出
される感覚と身体部位に対する自己同一化の観念を厭離できたかどうかには関連性はないんでしょうか?
また、身体部位をじっと見続けていて(この腕がなくなっても私という感覚はあるだろう、したがってこの腕は自分ではない
というような考えるプロセスさえも省いてただ見続けて)ずっとその部位を見てたら気づいていたらどうもその身体部位が自分とは
思えなくなった、というようなぼんやりと薄い手ごたえでもきちんと厭離されているんでしょうか?
774
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/15(日) 07:18:05 ID:ydE4b1w.0
訂正です
× また、身体部位をじっと見続けていて(この腕がなくなっても私という感覚はあるだろう、したがってこの腕は自分ではない
というような考えるプロセスさえも省いてただ見続けて)ずっとその部位を見てたら気づいていたらどうもその身体部位が自分とは
思えなくなった、というようなぼんやりと薄い手ごたえでもきちんと厭離されているんでしょうか?
○ また、身体部位をじっと見続けていて(この腕がなくなっても私という感覚はあるだろう、したがってこの腕は自分ではないというような考えるプロセスさえも省いてただ対象を見続けて)
ずっとその部位を見ていて気づいたらその身体部位が自分、または自分のものであるとは思えない感覚で対象の身体部位を見ていた、というようなぼんやりと薄い手ごたえでも
「それが自分、または自分のものだとは思えない感覚」になればきちんと厭離された、と判断していいのでしょうか?
775
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/15(日) 12:34:27 ID:czRftzgI0
分別と認識についてお聞きします。
鳥の声がしているのに気付いた時、小鳥の声だと思ったなら、どんな小鳥か分からなくても小鳥の声という記憶と照合したことになるから、認識でいいですか?
聞いたことのない鳥の声でなんだろうと思っているときは、分別なのか、それともとりあえず記憶から鳥の声ということがわかっているから認識になるのどちらですか?
と、ここまで書いたら記憶と照合しないで分けることができるのか、分別とは何なのかわからなくなりました。認識との違いは名前や性質などの知識情報がついているかいないかでしょうか。
776
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/15(日) 18:37:19 ID:ydE4b1w.0
鬼和尚、「自分」という観念から生じる根源的な不足感を埋めようとして快楽に
執着したままでも無我に至る観照は起こりえますか?
もし起こらないならどの程度執着心を落とせば観照は起きますか?自分で内観してリストアップ
した限りでも数えきれないくらいの対象に対する個別の執着が見つかったんですが、それら全部ですか?
そうでなければどれくらいの執着を落とせば観照は起こりますか?助けてください。
777
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/15(日) 19:58:26 ID:ydE4b1w.0
ごめんなさい、何度も尋ねてしまって、
非二元の本とかでよく目にする「悟りを求める探求心が落ちない限り悟りはない」
というのは
「悟りを得ようとして観察をしようとする心の働き、言い換えれば悟りへの探求心が止まない限りは鬼和尚のおっしゃる「観照」はおこらない」
という意味ですか?
自分の今の現状が「自分はこの体だ」という思い込みから自分は死に得る存在であるという死の恐怖に震えていて、
解決の道は観照が起こることだとも思っているんですが、観照が起こらない限り肉体が自分であるという観念も落ちず、したがってその観念が生じさせる死の恐怖も存続し続ける、
しかし、探求心が落ちない限り非二元で言われる悟り(鬼和尚のおっしゃる観照)は起きない、しかしどう頑張っても、どう他の色々な要素を手放そうとしても悟りへの探求心が落ちず
それゆえに、自分は今どうすれば、、、と感じているんですが、
そんなこと言ったって、自分のやれることは観察しかもはやないと思っているので観察をつづけているんですが悟りを得ようとするエゴエゴの
探求心を残したまま観照を目指しても観照は起きますか?
778
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2017/10/15(日) 22:28:56 ID:1d4drIFg0
>>769
本心でなければ嘘の心なのじゃ。
嘘を見ても何も起こらないのじゃ。
おぬしの金を二倍にしてやると言って金を預けても嘘ならば二倍にならず金も返ってこないのじゃ。
そのように嘘を信じても損をするばかりなのじゃ。
>>770
わしでなくとも幻なのじゃ。
>>771
全てが観念の世界であれば影響も観念なのじゃ。
そのようなこともあるじゃろう。
しかし人が機械を使い通信しあうのと同じなのじゃ。
囚われれば妨げになるものじゃ。
囚われずに進むのじゃ。
>>772
自分のやりたいことが他者のためにならないならばそれは違うことじゃろう。
しかしそれほど違うことも無いものじゃ。
絵を描きたいとか劇をしたいとかも他者のためになる作を創る事が出来るじゃろう。
そうでなければ誰にも注目される事の無い無名で終わるからのう。
自分のやりたいことで他者のためになる道を探すと善いのじゃ。
>>773
それはエネルギーというより感情的な開放感じゃろう。
今までストレスを与えられる囚われなどを持っていたものが、それを解放したときに感じたりするものじゃ。
身体などの特に囚われのない部位を厭離しても起こらないのは当然なのじゃ。
例えば今まで自分を苦しめてきた観念が要らないものと気付いた時に重荷を下ろしたように感じるのじゃ。
その感覚が無くとも自分と感じなければもはや厭離は出来ているのじゃ。
>>775
そうじゃ、認識できているのじゃ。
何かの鳥の声と言う認識なのじゃ。
知識情報がなくとも類似や推測などが働いているのじゃ。
それも記憶からの分別の一部なのじゃ。
779
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2017/10/15(日) 22:47:05 ID:1d4drIFg0
>>776
それが障害にならないならば起こるじゃろう。
障害になるならば起こらないのじゃ。
悟りを最も求めていたならば何も障害にならないのじゃ。
>>777
それが強い囚われとなり、障害になるならば起こらないのじゃ。
そうでなければ起こるじゃろう。
他人の言葉はあてにはならいなものじゃ。
そうであるから仏陀達はただ道標になるだけなのじゃ。
なにものも信じずただ鬼のように探求し続けるがよいのじゃ。
それがおぬしの道なのじゃ。
それがあっても心身を完全に観察し尽くせば必然的に観照は起こるじゃろう。
780
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/15(日) 22:51:05 ID:Y5LPInQE0
鬼和尚さんは不死の探求の最中に観照が起こったそうですが、不死の探求とはどのような内容だったのでしょうか?
ここで我々に勧めている方法(心身を完全に観察する?)との違いはあるのでしょうか?
781
:
771
:2017/10/16(月) 00:11:58 ID:6WTCjnEc0
>>778
ありがとうございます。
悟った見地からすると全ては観念でどうでもいいことなのでしょうね。
そのレベルからすると、現象のひとつひとつをいちいち取り出してあれこれ言っても何の意味もないことだ、
というのはわかります。
そういう見聞きするひとつひとつの事象を囚われにせず、
修行していくのが大切ですね。
ありがとうございました。
782
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/16(月) 07:45:17 ID:czRftzgI0
>775
未だ両者の違いが理解できたわけではありませんが、現時点ではそんなに厳密に区別する必要はないかなと思っております。
ありがとうございました
783
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/16(月) 08:11:16 ID:ydE4b1w.0
>>779
ありがとうございます。探求心が自然と落ちるためには自分が完成させた観念の資料を見ながら
観念を一通り手放せれば徐々に探求心も落ちていくと思うので、それらを手放す作業をとりあえず
やり抜こうと思います。
観察について質問させてください。
脳みそや心臓、後頭部や背中、顔の形体などの目に見えないところはどう観察すればいいですか?
784
:
541
:2017/10/16(月) 11:37:52 ID:uckpFOu60
全て幻ならば嘘も幻ですよね
785
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2017/10/16(月) 20:25:44 ID:1d4drIFg0
>>780
ただひたすら経典を読み、瞑想していたのじゃ。
全く違うのじゃ。
自分が何をしているのかもわからんかったのじゃ。
経典を読むことが自然に観察に繋がっていたと後で知れたのじゃ。
止観ができる者は幸せなのじゃ。
>>781
そうじゃ、精進あるのみなのじゃ。
またおいでなさい。
>>782
そうじゃ、実践あるのみなのじゃ。
またおいでなさい。
>>783
それらもまた注意を向ければ感覚があるじゃろう。
心臓は動いているとか、触感があるとか熱があるとかわかるものじゃ。
そのような感覚を観察するのじゃ。
それもまた五感のうちであるのじゃ。
>>784
その考えも幻なのじゃ。
786
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/17(火) 05:29:05 ID:ydE4b1w.0
>>785
783です、ということは頭だったり心臓、背中、顔のように目に見えないところの観察は
実際に目に見える状態で観察する必要はなく、その部位がある場所の「感覚」を見て(感じて?)
その感覚にひっついている自己同一化を観察する、そういう理解でいいですか?
また質問なんですが、日常で生活を送っているとエゴからの欲が沸いてくる時が多々あります。
例えば美味しいものが食べたいとか、タバコを吸いたいとか、めんどくさいから風呂に入りたくない、とかの
快楽に対する執着と不快に対しての拒否心です。
それらの欲や執着心が沸いたまさにその時、私は下記のうちのどのような対処を行うべきでしょうか?
①「〜したい、〜したくない」という執着心や拒否感が沸いたとき、その執着心や拒否心を観察によって手放す
②「〜したい、〜したくない」という執着心や拒否感が沸いたとき、その欲に従ってその欲望を満たす行動をする(美味しいものが食べたいなら食べるという行動に移す)
しかし、②の行動を行うと、「自分は今、エゴからの欲を行動に移している、悟りの道とは正反対の方向に向かっている」という感じがして大きな違和感を感じます、
さらに罪悪感も感じます、その罪悪感は「悟りを目指しているものはエゴの差し出す快楽に向かうべきではない」
という観念からのものなのですが、その観念が正しくない、間違っている、とはどうしても思えなくて、したがって
その観念は外れないまま残存しています。
また①の行動を移した場合、それは以前もやったことがあるんですが、沸くたびにこの執着はどこから沸くのだろう
とかその場で色々やって手放そうとして生活できないくらいに身動きが取れなくなり、沸くたびに手放そう手放そう
というのが忙しすぎてほかのことがほとんどできなくなる、最終的にその執着心は弱まるんですが、自分の理解だと
「私」という観念が生じさせる根本的不足感を何とかしないと執着心はそこからまたどんどんとわいてくる、と思うと
「自分の手放そう手放そうとやってることって結局うわずみをすくってるだけだよなぁ」と思えてきます。
それゆえ、別にそういう欲が沸いてもその場では放っておいてもいいんじゃないか?
どっちにしろこれから私が行っていくワークによって「私」という観念が消えれば不足感も消え、それに
伴い欲も消えるのであれば別に今そうした執着心をなんとかしようとしなくてもいいのでは?
とも思っています。
だからと言ってそうした欲が沸いたときに欲望を満たす方向に向かうというのも大きな違和感があり、
「これじゃまずいよなぁ」と思えてしまうので結局のところ自分はその時どうしたらいいんだという
感覚になります。どうしたらいいのでしょうか?
その欲望が沸いたということに気づいたらただそれに気づいていさえすれば美味しいものを食べてもいいんでしょうか?
787
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/17(火) 06:12:27 ID:04sFW9n.0
>>778
ご教授いただきありがとうございました。
同じような質問で恐縮ですが、またお願いいたします。
例えば、一人で穏やかに静かに暮らしたい、という本心があったとします。
周囲はそれを望んでいないとします。
この場合、自分のために、自由に、やりたいように振る舞うべきでしょうか。
それとも本心を抑圧し、周囲の期待に応えるべきなのでしょうか?
788
:
541
:2017/10/17(火) 07:30:41 ID:ixanSuLQ0
>その考えも幻なのじゃ
でもその考えも幻ですね。ループですが。
789
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/17(火) 11:45:43 ID:ydE4b1w.0
鬼和尚、
>>779
のレスの中の
「心身を完全に観察し尽くせば必然的に観照は起こるじゃろう。」という鬼和尚の言葉は
例えば手という一部分を厭離までもっていくことが可能であるなら、体全体を部分的にどんどん
厭離させていけば、最終的には体全体に対する同一化がはがれて、肉体が自分であるという観念も
消える=観照まで自力で持っていける、ということですか?
自分は「自力で悟りを起こすことはできない」、といろんな本に書いてある通りに信じ込んでいたんですが、
自力で体全体を部分的に観察→厭離させれば最終的には観照に至る、ということが可能ということですか?
790
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/17(火) 19:24:25 ID:czRftzgI0
身体の同一化は、肉体を自分だと思うのか肉体を自分の物だと思うのかどちらですか?
791
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/17(火) 19:26:44 ID:DAY232aw0
>>763
>>768
この前はお礼を言い忘れてすいません。
ご回答ありがとうございます。
質問ですが、観察者であれば良いのでしょうか?
792
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/17(火) 19:48:54 ID:czRftzgI0
すいません、これもお願いします
思考の同一化は、思考を自分だと思うのか思考を自分の物だと思うのかどちらですか?
793
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/17(火) 19:54:12 ID:Y5LPInQE0
>>778
鬼和尚さん、ご回答ありがとうございます。
>経典を読むことが自然に観察に繋がっていたと後で知れたのじゃ。
とは、どういう事でしょうか?
経典を読んでいる最中に雑念が浮かんできて、それを観察していた、ということですか?
794
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2017/10/17(火) 22:34:50 ID:1d4drIFg0
>>786
そのような理解でよいのじゃ。
どのような対処も行わなくて善いのじゃ。
観察だけをするのじゃ。
食べなかったならば食べなかったと観察するのじゃ。
食べたならば食べたことを観察するのじゃ。
観念は間違っていないと思うならば観念は間違っていないと思っていると観察するのじゃ。
欲を満たしたならば欲を満たしたと観察するのじゃ。
観察によって何かをしようとも思わなくてよいのじゃ。
ただひたすらに観察してみるのじゃ。
>>787
それはおぬし次第なのじゃ。
自分のしたいようにしたいと思えばそうするのじゃ。
周囲の期待にこたえたいと思うならばそうするのじゃ。
自由なのじゃ。
死と言う限界の在る身で自ら願う道を行くのじゃ。
>>788
その考えも幻なのじゃ。
>>789
そうじゃ、できるじゃろう。
お釈迦様もマハリシも自らの意志で観照を起こしたのじゃ。
死も超える強い意志があれば可能なのじゃ。
そのような意志の無い者は自らを手放す時を待つ以外にないのじゃ。
795
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2017/10/17(火) 22:41:08 ID:1d4drIFg0
>>790
>>792
それはおぬしの認識している通りなのじゃ。
おぬしが肉体を自分だと思っているならばそれが自己同一化なのじゃ。
おぬしが肉体を自分のものと思っているならばそれが自己同一化なのじゃ。
おぬしが思考を自分だと思っているならばそれが自己同一化なのじゃ。
おぬしが思考を自分のものと思っているならばそれが自己同一化なのじゃ。
>>791
そうじゃ、観察者でいるのじゃ。
ただひたすらに観察するのじゃ。
死の恐れも超えて観察できれば悟りも訪れるのじゃ。
>>793
例えば般若心経ならば肉体を空とか読むとおりに肉体は空じゃな、と観想するのじゃ。
そのように読んでいれば経を読むことが自然に修行になるのじゃ。
お釈迦様がいま自分に説いているかのように読んでみるのじゃ。
796
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/18(水) 06:51:20 ID:czRftzgI0
>790
自分がどちらなのかわからなくなりまして、観察してみます
797
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/18(水) 10:53:25 ID:ydE4b1w.0
>>794
786です、二つの質問への回答ありがとうございます。
「食べなかったならば食べなかったと観察するのじゃ。
食べたならば食べたことを観察するのじゃ。
観念は間違っていないと思うならば観念は間違っていないと思っていると観察するのじゃ。
欲を満たしたならば欲を満たしたと観察するのじゃ。」
という文の「観察する」とは、その原因を分析したり、思考を挟んだりせずただその行為や思いに気付いていること。
という意味で置き換えて理解していいですか?
すなわち
欲を満たしたならば欲を満たしたと(その原因を分析したり、思考を挟んだりせず)ただその行為や思いに気付いていること
観念は間違っていないと思うならば観念は間違っていないと思っていると(その原因を分析したり、思考を挟んだりせず)ただその思いに気付いていること
というような意味で「観察する」という言葉を理解していいですか?
そして、障害になりえるエゴのパターンに阻まれた際はただ気づくだけではなく、しっかり原因を分析し、突き詰めていってそれを解放し、それ以外の時は
自分の一挙手一投足を分析も何もせずにただ気づいている状態でいる(=観察する、ただ気づく)ということでいいでしょうか?
798
:
541
:2017/10/18(水) 18:41:38 ID:mmf5Fyts0
鬼和尚。その考えも幻ですよ。
799
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2017/10/18(水) 21:47:39 ID:1d4drIFg0
>>796
そうじゃ、実践あるのみなのじゃ。
またおいでなさい。
>>797
そのような理解でよいのじゃ。
注意深く気付いているようにするのじゃ。
どのような特徴も見逃さないように観るのじゃ。
そうすれば気付くことも多くなるのじゃ。
障害になりえる苦には原因を探すと善いのじゃ。
それから自分を追及するのもよいのじゃ。
障害になりえるものへの強い囚われが自分というものの認識を強くしている場合も多いからのう。
>>798
その考えも幻なのじゃ。
昔のインド人はそのようにループになりえる考えはそれ自体が矛盾しているゆえに成り立たないと考えたのじゃ。
800
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/18(水) 22:53:48 ID:WybGUs/o0
>>799
インドの話、納得しました。
さすが和尚ですね。
鬼和尚、最近ハートの辺りがモヤモヤと苦しいです。
以前は観察でこのモヤモヤが開放される感覚があったのですが、最近どうもうまく行かない。
これは最近慣れない環境に生活が変わり、自我を強烈に感じているからかもしれません。
鬼和尚のように悟るとこのハートのモヤモヤは無くなるものなのでしょうか。
またこれを無くすには、やはり観察なのでしょうか。
801
:
541
:2017/10/19(木) 04:07:42 ID:o7TfOr0I0
鬼和尚。では、全てを幻だとする鬼和尚の考えは成り立ってないではありませんか。
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