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鬼和尚に聞いてみるスレ part9
801
:
541
:2017/10/19(木) 04:07:42 ID:o7TfOr0I0
鬼和尚。では、全てを幻だとする鬼和尚の考えは成り立ってないではありませんか。
802
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/19(木) 05:39:22 ID:04sFW9n.0
>>794
ご教授ありがとうございました。
確かに私は自由のようです。本心を偽らずに行動したいと思います。
問題は、私の場合、それが本当に本心なのか確信が得られず、
時間ばかりが経過してしまうことのようです。
803
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/19(木) 20:28:01 ID:ydE4b1w.0
>>799
ご回答ありがとうございました。
804
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2017/10/19(木) 21:10:48 ID:1d4drIFg0
>>800
無くなるじゃろう。
そうじゃ、観察してそれが何か見極めるのじゃ。
そうすれば消えるじゃろう。
実践あるのみなのじゃ。
>>801
その考えも成り立っていないのじゃ。
>>802
そのように迷うのはどちらも自分のやりたいことだからなのじゃ。
周囲の期待にこたえたいのもやりたいことなのじゃ。
むしろ何がやりたくないことなのか観察して見極めたらよいのじゃ。
その反対が本当にやりたいことなのじゃ。
>>803
どういたしまして、またおいでなさい。
805
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/19(木) 23:38:20 ID:DAY232aw0
>>795
ご回答ありがとうございます。
質問ですが、自我を滅するとは自分を滅するという事なのでしょうか?
806
:
蓮恵
:2017/10/19(木) 23:54:00 ID:ETmMy/0M0
鬼和尚さま
瞑想の研究が効を奏して、条件によりますが日常においても、雑念の起きない妙な時間が起きるようになりました。
少しだけですが、上のような力を得たようです。
この力なら、この力だけが真に人を救えるのでは、密かに愚考しています。
807
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/20(金) 00:26:39 ID:Wz03wK1Y0
>>804
鬼和尚、
ハートのモヤモヤが起こるようになり、より悟りたいという気持ちが大きくなりました。
観察を続けてみようと思います。
ありがとうございました。
808
:
541
:2017/10/20(金) 04:47:53 ID:o7TfOr0I0
全て幻であるならば、真実は「全て幻である」ではありませんか?それともただの方便です?
809
:
541
:2017/10/20(金) 04:58:43 ID:o7TfOr0I0
鬼和尚。この娑婆世界は観念で成り立っています。例えば、「一万円札が落ちている」とか「田中さんが山で熊に教われた」と言う出来事すら、ある意味では虚構です。
そして、それらの虚構が生まれる原因の大部分は「私は人間である」と言う観念です。
我々は無意識に人間らしく世界を解釈しています。存在を一万円札とか熊とか山とか田中さんと解釈しますね。
私は人間であると言う観念を捨てるならば、そこにあるのは存在です。
マハリシ等が言うように、私は存在すると言う観念すら捨てるならば、あらゆる存在を成立させる無の境地に至るでしょう。
810
:
541
:2017/10/20(金) 05:14:42 ID:o7TfOr0I0
人間と言う観念世界は人間と言う喜びをもたらしますが、苦しみももたらします。
現代人が無意識に取り込んでいる人間と言う観念は高々200年から300年前に西洋で生まれた人間概念に影響されています。その人間概念の特徴としては、独立性、自由性、完全性等が上げられますが、これらは元々西洋人が抱く神の属性であり、その自己投影でした。それゆえに、老いて、病んで、運命に翻弄されて死ぬと言う目の前の自然現象としての人間の現実に基本的に我慢がなら無い面がある。その事が文明の発展をもたらした面もあるでしょうが、第一次大戦や第二次大戦のような、情け容赦の無い神々の戦いをもたらした面もあるでしょう。
811
:
541
:2017/10/20(金) 05:20:34 ID:o7TfOr0I0
また、世界から切り離されて存在する人間と言うイメージは、そう信じる者に根源的な不安感や孤独感をもたらします。人間が酒を飲んで憂さ晴らししたり、ひたすら集団に同調したりするのは、この観念がもたらす根源的な不安感や孤独感に起因するように思います。
812
:
541
:2017/10/20(金) 05:36:47 ID:o7TfOr0I0
さて、我々は、このような人間観念を前提とした観念世界を生きている。自己の無謬性を信じるならば対立する他者を片っ端から葬り去らねばならない。それと同時に、人間には所詮人間みたいな卑小なイメージも持っているわけで、我々の生活の喜怒哀楽は、この自己イメージと言う私小説をあらゆる機会に読み上げているだけとも言えるでしょう。人間の人生の起伏は人間と言うイメージの起伏に過ぎない。人間としての喜びも悲しみも、自己演出して自分で勝手に苦しんだり喜んだり怒ったりしているわけです。
813
:
541
:2017/10/20(金) 05:42:24 ID:o7TfOr0I0
勿論、このような私の分析も観念でありましょう。
これは人間が生きる世界を解体する為の観念です。根本的な世界観を解体してしまえば、もはや一万円と千円札の違いもなく、それが失われることも得られることも無いでしょう。
814
:
541
:2017/10/20(金) 09:49:52 ID:o7TfOr0I0
現代の虚構性、価値観の中でその虚構の価値をもって虚構に対するのはその価値を強める事になってしまう。
例えば、「鬼和尚くん。残業頼むよ」と言われたとき、現代人は「ちょっと妻の体調が」とか「子供が風邪を引いて」と言った断り方でないと角がたつ。それは現代の価値観を利用して、或いは逆手にとって、構造上否定できない上司の命令をひっくり返した訳だ。例えば、鬼和尚は、大地震が起きたとき「別に大したことではないのじゃ」と言った。「人が無数に死のうと富士山が噴火しようとなにも起きていないから、淡々と座れば良いのじゃ」みたいなニュアンスの発言もあったと思う。本当の本質的な救済とはそう言うことであろうと思う。
自然災害で死んだ人は返ってこないし壊れた家も元通りではない。
だから、それが「何でもないこと」でなければ、本当の意味での救済は無いのである。
ヒューマニズムの観点から人を救うことは悪いことではないが、いきすぎると、無限に国の責任が問われたり、目の前の人間を助けられなかった事で己を苛む。
これらのことが本当の意味で解決すると言うことは「元々なにも起きていなかったのだ」と言う基盤に立たなくてはならない。
その基盤に立ったとき、人々は真の意味で許し合い、助け合い、悼みあうことができる。
人間と言う枠組みではなく、無と言う共通基盤に立ったときに、それは可能となる。
この掲示板で修業をしている人達はまさに、人間と言う枠組みを捨てて、無の境地に立とうとしている。そしてそれはこの掲示板を越えて、まだ少ないが、沸き上がりつつある運動だと思う。
だから、頼むぞ、君達が目覚めた分、私の修業も進むし、世の中が明るくなるだろう
815
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/20(金) 18:13:34 ID:ydE4b1w.0
仏陀は菩提樹のもとに至る前、苦行をしていたと言われている期間は鬼和尚の言う「観察」
は行っていたんでしょうか?
また、菩提樹の下に来て、悟りを得るまでここを動かない、と言っておよそ一週間の間その菩提樹の下
にいた間(他所から聞いた話です、しかもうろ覚えなので間違ってたらすいません)は鬼和尚の言う「観察」を常に行っていたんでしょうか?
それとも悟りを得る直前しか「観察」を行わなかった、と思われますか?
816
:
541
:2017/10/20(金) 18:51:57 ID:o7TfOr0I0
鬼和尚。良寛さんは悟っていたんですかね。
イメージですが、人間関係のいざこざやもつれなどを、ニコニコ笑いおどけながら「無」に帰させ、解消させてしまうような力のあるイメージです。
法然とか日蓮や弘法大師のような生真面目で威厳がありすぎるタイプとは正反対ですが「現実」生活の中では良寛的な柔和さの方が威力を発揮するような気がします。
たとえ、悟りのレベルは低くても、問題解決能力は高い。
それとも、悟りのレベルが高まれば、おのずと、問題解決能力も高まるものでしょうか?
817
:
541
:2017/10/20(金) 18:57:40 ID:o7TfOr0I0
バッと相手の懐に入ってしまって、場や集団の雰囲気を変えてしまう。
そのような存在になりたい訳です。
と言うのも、ちょっと交渉ごとがあって、私は割と胆力はあるので、相手の理屈を粉砕しようかと思ったのですが
それだと、相手をやっつけたとしても、非常に恨みを残すことになる。
という訳で、柔軟路線に変更しようと思うのです。
818
:
541
:2017/10/20(金) 19:04:27 ID:o7TfOr0I0
不思議なものです。強硬路線で、集団のリーダー2、3人を粉砕する論理を探っていたのですが、
観念的に論破できてしまえると(勝てるとわかっていると)知った時点で、「だったら柔軟路線でも良いな」と戦略が大いに転換してしまった。
戦略が転換すると、存在の性質も変る。元々観念の相手を恐れ、観念の相手に備えている訳ですからね。思考と言うものは面白いものです。
思考によって生み出された「敵」が思考によって「味方」に転じることもある訳です。
しかし、もし、思考を書いていたら、敵から味方と言う弁証法的展開は無い。
この世は思考によって作られており、だからこそ、それを思考によって変えられるのかもしれません。
もっとも、このレベルの思考になると、思考と言うよりは瞑想に近いものになっていますが
819
:
541
:2017/10/20(金) 19:05:33 ID:o7TfOr0I0
↑ ×思考を書いていたら←○思考を欠いていたら
820
:
541
:2017/10/20(金) 20:55:43 ID:RnFr4kXY0
柔軟路線が行けるなと思ったとたん、柔軟ろせんというか、別に交渉する必要性すら感じなくなってしまったw
存在が無に転じた瞬間である。
821
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2017/10/20(金) 21:37:30 ID:1d4drIFg0
>>805
自分は滅しないのじゃ。
ないものは滅することもないのじゃ。
それを観察してみるのじゃ。
>>806
善かったのじゃ。
そのような時に自分を観察してみるのじゃ。
気付くこともあるじゃろう。
>>807
そうじゃ、精進あるのみなのじゃ。
またおいでなさい。
>>808
その考えも幻なのじゃ。
>>815
苦行をしている間はしていなかったのじゃ。
七日間瞑想している時に時々できていたじゃろう。
悟りを得る寸前に完全に観察したのじゃ。
>>816
悟っていたじゃろう。
次はおぬしの番なのじゃ。
精進あるのみなのじゃ。
822
:
541
:2017/10/20(金) 21:41:24 ID:RnFr4kXY0
ええ?以前聞いたら、悟って無いのじゃと言ってたぞ。鬼和尚、てきとー過ぎ(笑)!
823
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/20(金) 23:37:01 ID:DAY232aw0
>>821
ご回答ありがとうございます。
質問ですが、自分を厭離して、認識を厭離するのが悟りなのでしょうか?
824
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/21(土) 05:38:44 ID:6RllZ6Zk0
>>804
ご教授ありがとうございました。そのように観察してみます。
ところで、相手をやっつけると結局は自分がやっつけられることになると聞いています。
しかし、それを知っていても、相手をやっつけたくなります。
そして実際やっつけてみると、やはり気分がすっきりします。結果については夢想だにしません。
このような衝動は、本当に自分がやりたいからやっていることなのでしょうか?
825
:
香雪
:2017/10/21(土) 19:00:55 ID:V.gQOPRg0
鬼和尚様 こんばんは。
お久しぶりでございます。ご質問させていただきたいのですが。
無我とは自我が、自分を示す言葉とイメージがなくなっただけの状態で、
間違った認識による記憶との照合、そこから起こる自他を区別する分別、
記憶から起こる思考とイメージ、観念による身体の作用、感情的な反応、
などの自我を自分と思い続けている状態の時とそれほど変わらないのですか?
無我とは単に自己同一化が解消されただけの状態なのでしょうか?
よろしくお願いいたします。
826
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/21(土) 19:09:35 ID:DAY232aw0
連投すいません。
質問ですが、観察している時は、思考は使わないのでしょうか?
827
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2017/10/21(土) 20:16:29 ID:1d4drIFg0
>>822
おぬしに自分で判断させるためなのじゃ。
それも幻なのじゃ。
>>823
自分はないから厭離できないのじゃ。
認識は厭離されるじゃろう。
それが出来れば大悟徹底なのじゃ。
先ずは自我を厭離するのじゃ。
>>824
それも親などからの条件付けからくるものじゃ。
やられたらやりかえせとか教えられるとそのように感じるのじゃ。
それも自分がやりたいからではなく、そうすれば親から褒められると言う記憶からのものなのじゃ。
やらないと親から責められるという感情から解放されるのじゃ。
本心を観察してみるのじゃ。
>>825
記憶との照合は在るのじゃ。
その他はかなり変るのじゃ。
全てが自分に見えたりするのじゃ。
身体は自然に動くのじゃ。
感情もかなり変るのじゃ。
自分を侮辱されたからと怒ったりしないのじゃ。
もはや自分はないと気付いているからのう。
828
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2017/10/21(土) 20:18:12 ID:1d4drIFg0
>>826
本当は思考を使わないで行うべきなのじゃ。
しかし思考が起こってしまっても失敗とか思わないでよいのじゃ。
思考したときは思考したと観察すればよいのじゃ。
実践あるのみなのじゃ。
829
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/21(土) 21:22:29 ID:DAY232aw0
>>827
>>828
ご回答ありがとうございます。
質問ですが、思考を使わずに観察すれば良いと言う事なのでしょうか?
もう一つ質問申し訳無いのですが、自我を滅して、認識を滅するのが悟りなのでしょうか?それとも自我を厭離して、認識を厭離するのが悟りなのでしょうか?
830
:
香雪
:2017/10/21(土) 21:29:51 ID:V.gQOPRg0
鬼和尚様 ありがとうございました!
やっぱり苦滅ともかなり大きな違いがあるんですね。
改めて無我を目指していこうと思います。
また何か聞きたくなったらお邪魔しますので、よろしくお願いします。
失礼します。
831
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/21(土) 23:16:04 ID:ydE4b1w.0
815です、
そうですか、しかし七日間しか観察していなかったかもしれないのにあそこまで仏教
の教えというか理論体系を築き上げたのってすごいですよね、釈迦は悟った後に色々考えて
そういう細かい数々の概念を作っていったんでしょうか?
108の煩悩の区別とかも釈迦が考えたんでしょうかね、そうだとしたらよく七日間しか観察
してないかもしれないのに考え付いたな、と感心します。
832
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/22(日) 04:22:02 ID:DAY232aw0
連投すいません。
質問ですが、なるようにしかならないのでしょうか?
833
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/22(日) 04:51:06 ID:DAY232aw0
>>832
追記です。
お釈迦様の言葉で
思いわずらうな。
なるようにしかならんから、
今をせつに生きよ。
と書かれてあったのですが、本当なのでしょうか?
834
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/22(日) 12:36:55 ID:czRftzgI0
阿部敏郎のブログから
多くの人が勘違いしていることの中に「修行」があります。
修業とは、いまよりもっと上等な自分になるためとか、悟るためとか、何かになるために行うことだと思っているのです。これは人のマインド(自我)が時間の中に存在しているから起きる発想です。
しかし実際には時間は存在せず、ただいつも「いま」だけが展開しています。その「いま」を生きる態度を「修行」と呼ぶのです。
マインド(自我)の引力は強力で、うっかりするとすぐに頭の中の物語に吸いこまれてしまいます。いつも頭の中を生きている人には、このことさえもピンときません。思考が湧いたときに、それを思考だと見抜き、思考が作りだす物語に埋没することなく、いまここを生きることを「修行」と言うのです。
したがって幾多の禅師が言うように、修行そのものが悟りなのです。
修行そのものが悟りというのは本当ですか?
835
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/22(日) 16:22:27 ID:Y5LPInQE0
鬼和尚さん
本心を見れば何が起こるのでしょうか?
836
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/22(日) 16:28:46 ID:Y5LPInQE0
>>795
ご回答ありがとうございました
肉体が空ということのイメージがよく掴めないのですが
空とはどういうことなのでしょうか?
科学で言うところの原子核の周りを電子が回っていて
肉体としてあるように見えている物は、実はほとんどがスカスカの
空間だとかそういう話でしょうか?
837
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2017/10/22(日) 19:52:24 ID:1d4drIFg0
>>829
そうじゃ、思考を使わない観察が理想的なのじゃ。
自我も認識も厭離すれば滅するじゃろう。
もはや自己同一化がなくなるからのう。
実践によって確めるのじゃ。
>>830
どういたしまして、またおいでなさい。
>>831
そうじゃ、悟った後にさまざまな法や戒や律を作っていったのじゃ。
何も考えていなかった悟った直後の説法は失敗したりしているのじゃ。
煩悩は三毒だけなのじゃ。
増えたのは後の者が付け足していったからなのじゃ。
>>832
>>833
そのようなことはないのじゃ。
お釈迦様は常に修業に励むようにと説いたのじゃ。
ダンマパダにも励むようにと言葉が遺されているのじゃ。
>>834
嘘なのじゃ。
悟りが何か知らない者がそのように書くのじゃ。
修業と悟りが違うのは登山することと山の頂上とが違うようなものじゃ。
登山すれば頂上にも至れるが、登山そのものを頂上とは言わないのじゃ。
修業も日々続ければ悟りに至れるが、修業そのものは悟りではないのじゃ。
このような明白な違いがあるのじゃ。
838
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2017/10/22(日) 19:57:17 ID:1d4drIFg0
>>835
変容が起こるじゃろう。
真の変容は常に何らかの形で自己の本心を観ることで起こるものじゃ。
師匠とか他人の指摘で本心がわかることもあるがそれも自ら本心を観ているのじゃ。
実践あるのみなのじゃ。
>>836
ただ無いと言うことなのじゃ。
そのようにイメージすることなのじゃ。
原子とかは関係ないのじゃ。
肉体も食べることとか水を飲み空気を吸うという条件にょってあるものじゃ。
条件が無ければ直ぐに消えるものじゃ。
或いは時とともに衰えて消えたり、事故とか病でもなくなる性質のものじゃ。
そのように幻と同然と観想することで肉体への執着と自己同一化を無くす方法なのじゃ。
839
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/22(日) 20:23:27 ID:czRftzgI0
>834
はっきり嘘と言い切るところが和尚さんらしい。やっぱり悟りは必要ということですね。
840
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/22(日) 20:29:08 ID:czRftzgI0
>834
と思ったら、彼のいう悟りの説明がありました。
そもそも悟っている人など誰もいないのですから。逆の言い方をすれば、全ての人は最初から悟っています。
その人が内側から消えた時、そこに悟りがあります。
悟りとは、個人の精神レベルのことではないのです。個人という錯覚が消えた時、もともとあったありのままのリアリティーを悟りと言います。
引用元
http://abetoshiro.jp/archives/4497230.html
これは合っているでしょうか?
841
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/22(日) 23:12:00 ID:uhL2Zu5U0
鬼和尚、
私は意識に思考が起こり、五感が起こると観察しました。
それらを連結させて私と言う自我が幽霊のように立ち上っている。
この意識に気づいたことが悟りであるとしばらく思っていましたが、鬼和尚の心の模式図を見ていて、この意識は阿頼耶識なのではないかと考えました。
そこで質問なのですが、
この意識上で、記憶との照合である認識作用が起きている様を観察すれば良いのでしょうか。
842
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/23(月) 14:00:07 ID:ZcjPAbko0
少し内容がわかりづらかったかもしれません。
阿頼耶識というスクリーンみたいな意識に私を生起させていると言いましょうか…。
そして生起させている原因は五感と思考による刺激である、と感じます。
この先に進むには、この阿頼耶識を「これが阿頼耶識である」とレッテル付けしている作用に気づくことかなと思いました。
いかがでしょうか。
843
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/23(月) 16:13:43 ID:ydE4b1w.0
>>837
ありがとうございました。
844
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/23(月) 20:29:46 ID:Y5LPInQE0
>>838
ご回答ありがとうございます。
どういった場合、本心を見る事は有益なのでしょうか?
例えば、修行なんてやらないでナンパでもしたいけれど、
修行やらなければならない気がしてナンパやっていても
何か罪悪感を感じ気が引けるというような場合、本心を見れば、
ナンパに打ち込めるようになったりするのでしょうか?
空の観想、やってみようと思います。
845
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2017/10/23(月) 22:19:28 ID:1d4drIFg0
>>839
そうじゃ、悟りなくしては老病死の苦を滅することも出来ないのじゃ。
観念遊戯に陥る事無く修行するのじゃ。
実践あるのみなのじゃ。
>>840
悟っているものがいないのに全ての人が悟っているとは一体どういうことじゃ?
全ての人が悟っているならば悟っている人が誰もいないというのはおかしいのじゃ。
そのような完全に狂った論理を受け容れる側もおかしいのじゃ。
奇を衒ったことを言えばよいというものではないのじゃ。
個人が消えただけでは小悟なのじゃ。
そこまで至っていない者が観念によって考えた幻想なのじゃ。
>>841
>>842
それはまだ自我が完全に観えていないのじゃ。
自我が完全に観られれば無我になるのじゃ。
阿頼耶識が観られるのはそれからなのじゃ。
自我を完全に観察するのを目標にするのじゃ。
>>843
どういたしまして、またおいでなさい。
>>844
おぬしがこれから生きる上で全てにおいて有益なのじゃ。
行き先がわからない者がどこにも行けないように、自分の本心がわからなければどこにもいけないのじゃ。
ナンパがしたいというのが本心ならばナンパをすればよいのじゃ。
罪悪感があるならば本当はナンパなどしたくないということなのじゃ。
そのように本心がわかれば自分の本当にしたいことがわかるのじゃ。
それがなくてはどこにもいけないのじゃ。
実践あるのみなのじゃ。
846
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/24(火) 04:10:49 ID:ZcjPAbko0
鬼和尚、
「肉体も思考も私ではなく、私はこの意識である」などと悟ったつもりでいる者、「この意識が本質であり私個人はいない」と記憶を基に認識している者こそが自我であると観察したのですが、自我はもっと気づきにくいものなのでしょうか。
それとも灯台もと暗しのように近すぎて気づいていないのでしょうか。
847
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/24(火) 06:14:05 ID:6RllZ6Zk0
>>827
ご教授ありがとうございました。本心が観察できるように努力します。
別の質問なのですが、私は他人がくちゃくちゃ音を立てて食べていると苦を感じます。
その原因は親からそのような行為を強く戒められたからだ、と知っています。
しかし苦はなくなりません。
なぜなのでしょうか?
親からそのような指導がなければ苦が生じない、
ということを観察できていないからでしょうか?
848
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/24(火) 18:24:29 ID:czRftzgI0
>840
もうこの人のブログは読まないようにします
849
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2017/10/24(火) 23:12:36 ID:1d4drIFg0
>>846
そのように言葉に出来るようなもならば未だ気付いていないのじゃ。
いま自分の名前を呼ばれればおぬしはそれは自分だと認識するじゃろう。
そのよう名前と姿かたちのイメージを持つものが自我なのじゃ。
それを観察してみるのじゃ。
>>847
完全に観察していないからなのじゃ。
それは両親に対しての怒りを投射しているのかもしれん。
自分は怒られたのになぜ今の他人は怒られないのかと思うからかもしれん。
そのような真の原因をもっと詳しく観察してみるのじゃ。
>>848
そうじゃ、読まなくて善いのじゃ。
真の目覚めた者は常に自分の心を観るようにと勧めているのじゃ。
ただ知識を押し付けているのは目覚めていない者なのじゃ。
おぬしも心を観ればそこに真の悟りを見出すじゃろう。
850
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/25(水) 00:14:09 ID:v0wSFOKY0
>>849
鬼和尚、何度もありがとうございます。
今この瞬間をあるがままに観てみます。
あえて言葉にすると、映像と背中の圧迫感と手の感覚だけがあります。
そこをイメージで補完し、「横になってスマホを見ている私」になります。
鬼和尚のおっしゃる自我とはこのイメージとは違うのでしょうか?
851
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/25(水) 00:22:25 ID:v0wSFOKY0
もちろん映像と背中の圧迫感と手の感覚というのも過去との照合でそのように認識したものだと思います。
これらすべての認識が外れたところに悟りがあるのかなと思っていますが、どうなのでしょうか。
852
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/25(水) 07:29:39 ID:DAY232aw0
>>837
ご回答ありがとうございます。
厭離に対して質問ですが、完全に観察すれば厭離は起こるのでしょうか?
853
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/25(水) 12:27:32 ID:DAY232aw0
>>852
スルーした下さい。すいません。
質問ですが、観察に思考は必要無いのでしょうか?
854
:
進路探訪者
:2017/10/25(水) 19:58:06 ID:DIiPmWc60
鬼和尚さんご無沙汰しております。
ひょっとしたら悟りの入り口に立てたかもしれません。
最近、自分は煮ても焼いても自分であることに気づきました。
物心つく前の自分の顔や動きを思い出せば、そのころの自分の感覚を
思い出しました。そして、その感覚を通して、自分はその頃から今まで
全く変わっていないことにも気づきました。その感覚は物心つく前だから
周りの目なんて存在しないし関係ありません。単に生物的に生まれて成長
してそのような感覚を持つに至ったという事実があるだけにすぎません。
変わったとすると学校や社会で勉強や仕事を通じて能力が図られ、それにより
能力のある自分という理想像が生まれ、そのギャップに苦しんでいる点です。
しかし、自分は良い悪い関係なく絶対的な存在です。
物心つく前の自分が根源であるとすれば、それが過不足なく自分の全てであり、
それが全てであるから当然理想像とのギャップといった悩みもまたありません。
今までの自分は周りの目を気にしていましたが、それは自分の頭にあった理想像
が壊されたときに、自分の中で起きた喪失感にすぎず、それは私が自分の理想像
を自分であると思い込んでいた自我が感じている感情にすぎません。したがって、
自我以外の私にとってはそのような喪失感は無縁で、理想像という学校や社会が
生み出した幻想に、根源的に存在する子供のころの感覚が囚われることも当然
ありません。
恋愛、友人や家族兄弟などの人間関係についての悩みも、根源的には存在しないものであり、
自分の根源を思えばどうでもよくなりました。
また、前世は見えませんが、もしあるのであると仮定すれば、私の前世はADHDや
ダウン症なんだろうなと何となく直感しました。
私は悟ったのでしょうか?
855
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2017/10/25(水) 21:27:19 ID:1d4drIFg0
>>850
>>851
違うのじゃ。
感覚だけを観察するのじゃ。
ただひたすらに観察し続けるのじゃ。
>>853
必要ないのじゃ。
思考は無くても観察できるのじゃ。
実践あるのみなのじゃ。
>>854
まだなのじゃ。
その自分がどのようなものであるのか観察するのじゃ。
完全に観察できれば厭離が起こるのじゃ。
実践あるのみなのじゃ。
856
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/25(水) 21:42:14 ID:v0wSFOKY0
>>855
鬼和尚、ご回答ありがとうございます。
感覚だけをただひたすら観察すると、鬼和尚の仰る自我が見えてくると言うことでしょうか?
何度も質問してしまい申し訳ございません。
857
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/26(木) 00:07:53 ID:DAY232aw0
>>855
ご回答ありがとうございます。
質問ですが、観察は目的ではなく手段なのでしょうか?
858
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/26(木) 06:47:19 ID:DAY232aw0
>>857
スルーした下さい。すいませんでした。
859
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/26(木) 13:08:59 ID:fuOAkotI0
鬼和尚、
主体の観察についてお教えください。
自我の観察のうち、主体が現れた後で自分が思考しているイメージが現れるところまでは観えるようになってきました。しかし、主体はイメージというより、「自分が行なっている」というリアルな実感として現れていて、それがイメージだとは思えません。
むしろ自我が投射されていない場合のほうが、遠くで勝手に起こっていてリアリティを感じられないという状況です。
実感を伴うことが本当のことだと認識しているようですが、その認識には介入せず、ただ主体をより詳しく観察し続ければよいのでしょうか?
あと、詳しく観察しようとすると集中のために心身に緊張が生じます。一方でリラックスして全体を眺めるようにすると、詳細を見落としているように思います。観察に習熟すれば、全体を詳しく観察できるようになるのでしょうか?
860
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2017/10/26(木) 21:19:59 ID:1d4drIFg0
>>856
感覚を観察するならば感覚だけを観察するのじゃ。
それによって自我の起こることも気付くのじゃ。
そこに自我がある筈だとか思っていると観念を観てしまうのじゃ。
観念は自らの思うとおりに働くのであるからのう。
観たいと思うものを作り出し、観てしまうのじゃ。
それによって観念遊戯に陥ってしまうのじゃ。
ただひたすらに今ここにあるものにのみ集中し、観察していると本当に自我か起こることも見える瞬間がやってくるのじゃ。
実践あるのみなのじゃ。
>>857
そうじゃ、悟りを得る手段なのじゃ。
修行はみんなそうなのじゃ。
悟った後には衆生を導く手段になるのじゃ。
>>859
そうじゃ、どんどん観察すると善いのじゃ。
悟りも向こうからやってくるじゃろう。
慣れれば上手くできるようになるじゃろう。
精進あるのみなのじゃ。
861
:
進路探訪者
:2017/10/27(金) 00:26:30 ID:DIiPmWc60
>>855
ご返信ありがとうございます。
私は、自分の子供のころを思い出すときは、自分が小学1年であった
ときのころをイメージしております。
そのときの感覚が一番思い出しやすく、その時の感覚をつかむのが容易
であるからです。
しかし、物心つく前の記憶については難しいです。
小学一年の物心ついたころの感覚をつかみ取るのでよいのでしょうか。
862
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/27(金) 03:21:21 ID:v0wSFOKY0
>>860
鬼和尚、再度ご回答頂きありがとうございます。
見たいものを見てしまう観念遊戯に陥るとは今までも身に覚えがあり、深く納得しました。
心を横に置き、今ここにあるものそのままを観察することが大事なのですね。
糸口が掴めたように思います。
実践してみます!
863
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/27(金) 06:31:48 ID:DAY232aw0
>>860
ご回答どうもありがとうございます。
質問ですが、無意識の観察ができる様になれば良いのでしょうか?
864
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/27(金) 19:15:20 ID:LC3de7YgO
鬼和尚の仏教勉強会 悟りの真実 2 [自己啓発]
長文連騰でつぶしてしまったであります。
ごめんなさい。
明日、新規に建てるでありますが、長文にならないように気を付けるであります。
γ⌒:"-ヽ〟
(∪( )
∪∪∨-∨
865
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/27(金) 19:59:30 ID:VrFZalN.0
鬼和尚、
再度ご質問なのですが、観察の際に「注意」「焦点」があると思います。
「椅子に座りつつも注意を足に向ける」などの注意です。
足に注意を向けると、足のイメージが湧きます。
また私というイメージから、足への注意の矢印のようなイメージと、距離感のイメージが湧きます。
それらはイメージにより認識したからそのように感じたのだと思います。
イメージはイメージとして横に置き、今ここで起こっていること素直にそのまま観ることが観察でしょうか?
866
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2017/10/27(金) 22:38:29 ID:1d4drIFg0
>>861
それによって起こる今の感覚を観察するならば善いじゃろう。
今ここにあるものごとを観察するのじゃ。
記憶を観てしまってはいかんのじゃ。
それは既に無いものであるからのう。
気をつけて進むのじゃ。
>>862
そうじゃ、精進あるのみなのじゃ。
またおいでなさい。
>>863
そうじゃ、日々続けていればできるようになるじゃろう。
毎日の修行ができないこともできるようにしてくれるのじゃ。
実践在るのみなのじゃ。
>>862
ゆるすのじゃ。
どんどんやるとよいのじゃ。
>>865
それもまたイメージがわいたと観察してよいのじゃ。
横に置いたりしなくてよいのじゃ。
心の働きを全て余さずありのままに観るのじゃ。
なにも操作せずありのままに観察を続けるのじゃ。
それを続けていれば更に深く観察できるようになるのじゃ。
実践あるのみなのじゃ。
867
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/28(土) 08:04:48 ID:DAY232aw0
>>866
ご回答ありがとうございます。
質問ですが、悟りを得る事が目的なのでしょうか?それとも死を超える事が目的なのでしょうか?
868
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/28(土) 11:50:17 ID:czRftzgI0
誰かがおしゃべりをしているのを聞いた時、はじめは聞き流していたのに、「あ、自分のこと!」ど話の内容が自分の悪口だと知ったとします。その瞬間嫌な感情が起きます。
この場合、はじめは自我はなくて「自分のこと!」と気付いた瞬間に起きるのが自我でしょうか?
とすると、自分の何かの事柄の記憶と聞いた言葉を照合したとき自我が生じていることになります。
869
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/28(土) 19:51:29 ID:WRAz50E60
>>866
鬼和尚、度々ありがとうございます。
とにかく見に起こる現象全てを観察し尽くすのですね。
やってみようと思います。
870
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/28(土) 19:52:55 ID:WRAz50E60
身に起こるの間違いです。
失礼しました。
871
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2017/10/28(土) 22:01:51 ID:1d4drIFg0
>>867
それはおぬし自身が決める事なのじゃ。
おぬしは死を超えたいと思うのじゃろうか?
それともなにやらすごい悟りというものがあるらしいから得たいと思うのじゃろうか?
自らの本心が求めるままに道を進むのじゃ。
>>868
それは既に自我は起こっているのじゃ。
自分の名に反応しただけなのじゃ。
忘我の状態から名に反応して自我が起こることもあるじゃろう。
そのような時こそ自我が起こる事を観察する好機といえるじゃろう。
>>869
そうじゃ、精進あるのみなのじゃ。
またおいでなさい。
872
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/29(日) 06:20:37 ID:czRftzgI0
対象を認識している時点で既に自我があるということですか?
自分の名に反応したのではなく、過去に自分のやったことで思い当たることが話しの中に出てきたのです。
873
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/29(日) 10:05:58 ID:DAY232aw0
>>871
ご回答ありがとうございます。
質問ですが、自分の本心が求めるままに目的を決めたら良いと言う事なのでしょうか?
もう一つ質問申し訳無いのですが、悟りを得れば、苦は全て滅するのでしょうか?
874
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/29(日) 10:43:25 ID:DAY232aw0
連投すいません。
質問ですが、自分の本心が求めるままに道を進めば、何の目的も無くても悟りは得れるものなのでしょうか?
875
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/29(日) 13:43:42 ID:DAY232aw0
>>874
追加です。
質問ですが、自分の本心が求めるままに道を進むと仰ってますが、心の主人にならなくてもいいのでしょうか?
876
:
蓮恵
:2017/10/29(日) 17:23:32 ID:QZjWADYU0
鬼和尚さま
力の抜き方が下手で、どうしても姿勢が定まりません
前後に倒れます
方法的には、力みで体を固定せず重心が不安定なまま、上から吊るされたような揺れない点を見つけるというのであっているのでしょうか
877
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2017/10/29(日) 20:52:35 ID:1d4drIFg0
>>872
日常では殆ど自我があるのじゃ。
我を忘れている時を除いてのう。
自分に思い当たることや自分にまつわることがらや自分のものについて気がつくのも自我があるからなのじゃ。
我を忘れていれば思い当たることもないじゃろう。
思い当たる自分が忘れられているからのう。
>>873
そうじゃ、自らの本心の求める道を行くのじゃ。
悟りを得れば全ての苦は滅するじゃろう。
精進在るのみなのじゃ。
>>874
本心が求めているのが悟りならば悟りは得られるじゃろう。
本心が金を求めているならば金が得られるじゃろう。
おぬしの本心次第なのじゃ。
>>875
心の主人になるとは無理にでも強制して悟りを求めることではないのじゃ。
本心から悟りを求めているのではない限り、悟りは得られないじゃろう。
本心では金とか名声とか権力などを求めているならばそれらを得て修業を終えてしまうからのう。
老病死の苦を超える手段が悟りしかないと見極めて本心から悟りを求めるのが本当に心の主となることなのじゃ。
>>876
少し違うようじゃ。
下腹と腰に力を入れて安定させるのじゃ。
上半身からは力を抜くのじゃ。
背骨や頭が垂直になるようにバランスを保つのじゃ。
精進あるのみなのじゃ。
878
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/29(日) 21:21:36 ID:DAY232aw0
>>877
沢山の質問に答えていただきありがとうございます。自分の本心の求める道を行こうと思います。
879
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/29(日) 21:55:40 ID:czRftzgI0
>872
おーなるほど、自分のものについて気がつくのも自我があるから、納得です。
毎回目から鱗の落ちる返答をありがとうございます。
880
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2017/10/30(月) 21:47:08 ID:1d4drIFg0
>>878
そうじゃ、前進あるのみなのじゃ。
またおいでなさい。
>>879
どういたしまして、またおいでなさい。
881
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/31(火) 12:16:33 ID:DAY232aw0
鬼和尚さん質問ですが、
考えない観察をすれば良いのでしょうか?
882
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/31(火) 18:47:08 ID:czRftzgI0
視覚の観察をしています。
Q1.襖を観察して、白い物が目の前にあると感じるのは認識で、目の前に白い襖があると感じるのも認識で、襖に描かれた木を見て木と感じるのも認識でいいですか?
この例の場合、分別はどのようなことを言うのですか?
触覚の観察をしています。
Q2.皮膚の感覚の観察で、金属を額に当ててヒヤッとした時、冷たい感覚を認識した(分別でも思考でもなく)という理解でいいですか?
883
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/31(火) 19:30:30 ID:DAY232aw0
>>881
スルーして下さい。すいませんでした。
884
:
避難民のマジレスさん
:2017/10/31(火) 20:12:27 ID:ydE4b1w.0
鬼和尚、「無我から無認識に至る過程」に関して質問させてください。
私の頭だけの理解では、
無我に至ったら主体と客体という感覚が消え、あえて言葉にするなら「見るものすべてが
自分である」、というそんな感じの感覚になる、と私は理解しています。
それを踏まえて話を進めます。
ある人が無我に至り、それゆえに個人感覚が消え、すべてが「いつなるもの」である、という体感を得た後に、
観照に至る前の修行中の段階において見ることのなかった強い観念、例えば「怒るのはダメだ」という観念がその人が無我に
至った後にその人のマインドにあまりにも強固な思考パターンとして沸いてきたとします。
そこで、 質問1
その場合、その人は無我に至ることで得られる「主体と客体というのがないという感覚」、すべてが「いつなる
もの」である、という感覚をそれによって失うことなくその沸いてきた思考パターンに対処することは可能でしょうか?
それともそのような強固なエゴ的思考パターンにとらわれることによって主体と客体という感覚がある、という
ところまで逆戻りしてしまうんでしょうか?そしてすべてが「いつなるもの」である、という感覚も消えて無我に至る前の状態に
逆戻りするんでしょうか?
質問2
無我に至ることで得られる「主体と客体というのがないという感覚」、すべてが「いつなるもの」である、という感覚を失うことなくその沸いてきた思考パターンに対処することが可能であった場合、
一度、無我に至ってしまえば、どのような残存しているエゴ的思考パターン(観念)が沸いてきて再びそれらにとらわれても
常に無認識に至るために認識の作用を観察し、認識を厭離させるということは常に可能な状態でい続けられるんでしょうか?
わかりやすく言うと、無我に至る前の段階では無認識に至るために認識の作用を観察し、認識を厭離させるということが常に不可能であるのなら、逆に無我に至った
場合なら、どのようなエゴ的思考が沸いてきても認識を厭離できる可能性は24時間常にあるのか?
というところが疑問に感じたので質問させていただきました。
質問3
ある人が無我に至った後に上記のようにエゴ的思考パターンが沸いてきてその思考に完全に
飲み込まれ同一化してエゴまみれな状態になっている最中に認識を観察→厭離させる、ということは可能でしょうか?
質問4
ある人が無我に至った後に上記のようなエゴ的思考パターンが沸いてきてもそれと一体化せず、
「ああ、これはまだ自分の中に残存していた観念だ」というように俯瞰的に観察できている状態から
認識を観察→厭離させる、ということは可能でしょうか?
質問は以上です、よろしくお願いいたします。
885
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2017/10/31(火) 21:56:45 ID:1d4drIFg0
>>881
そうじゃ、実践あるのみなのじゃ。
>>882
① そうじゃ、白いと言うのもすでに分別なのじゃ。
分別しなければ色も無いのじゃ。
② そのような理解でよいのじゃ。
>>884
1 いかなる思考であろうと囚われて無我であることを失うことは無いじゃろう。
2 常に可能なのじゃ。
3 本当に無我になっているならばエゴまみれになることはないのじゃ。
常に可能なのじゃ。
4 常に可能なのじゃ。
886
:
避難民のマジレスさん
:2017/11/01(水) 06:41:50 ID:czRftzgI0
>882
白い物が目の前にあると感じるのは分別をしていて、かつ認識もしている状態という理解でいいですか?
887
:
避難民のマジレスさん
:2017/11/01(水) 07:13:48 ID:czRftzgI0
執着する物はいずれ朽ちてなくなるから空と考えるのが一般的な空の法ですが、社会的地位に執着している場合、自分がいずれ死ねばそんな物を持てなくなるからその社会的地位は空であると考えるのも空の法ですよね?
888
:
避難民のマジレスさん
:2017/11/01(水) 11:41:43 ID:DAY232aw0
鬼和尚さん質問ですが、
縁起の法は何の為にあるのでしょうか?
889
:
避難民のマジレスさん
:2017/11/01(水) 16:52:52 ID:ydE4b1w.0
>>885
そうなんですね、わかりました、ありがとうございます。
それから、申し訳ないですがまた長文で質問させてください。
質問1
私は鬼和尚がいつだったか、「無我のままでは生活ができない」とおっしゃられたのを見たと思います(間違ってたらすいません)
しかし、無我に至ったと思われる先人たちが現に生きて生活していらっしゃることを考えると、彼らは少なくとも「無我のままでは生活ができない」
という状態ではない、と自分は推測します。
そこで質問は、そのような完全な無我の状態ではなく、無我に至った後、支障なく日常生活を
送れている状態であっても認識を観察して厭離させることは可能ですか?
質問2
日常生活が送れないほどの完全な無我の状態のさなかに認識を観察→厭離させることは可能ですか?
質問3
日常生活すら送れない無我の状態というのは観照が起こって無我に至った直後に誰しもが一瞬なるもの、そんな感じのものなんでしょうか?
そうでないなら、観照が起こる→無我 という流れの中のどの辺で「日常生活すら送れないほどの無我の状態」になるのですか?
質問4
日常生活すら送れないほどの無我の状態から日常生活が送れる無我の状態に移行するためにはどのようなきっかけが
必要とされるんですか?
890
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2017/11/01(水) 21:55:26 ID:1d4drIFg0
>>886
そうじゃ、それでよいのじゃ。
白とか認識しているのは既に分別したからなのじゃ。
分別しなければ色も無いのじゃ。
>>887
そうじゃ、なくなってしまうものというのも空の性質なのじゃ。
それも執着をなくすためのものなのじゃ。
>>888
苦を滅し、自我をも厭離するためなのじゃ。
苦から根本の原因である自分があるという無明にまで観察が及べば無我にもなれるのじゃ。
実践あるのみなのじゃ。
>>889
1 できるのじゃ。
いつでもできるじゃろう。
2 できるのじゃ。
3 悟った後に一時的になるのじゃ。
もはや自分が無く認識も無いからこの世の価値観や常識を無と知るのじゃ。
4 人に教えを説くために無意味な価値観や常識に従う意志が必要となるのじゃ。
45
891
:
避難民のマジレスさん
:2017/11/02(木) 03:14:56 ID:ydE4b1w.0
>>890
889です、そうなんですか、ということは鬼和尚のおっしゃる「日常生活も送れないほどの無我の状態」
というのは認識を厭離し無認識になった直後になる状態であって、観照が起き無我に至っただけでは
「日常生活も送れないほどの無我の状態」にはならない、ということですか?
892
:
避難民のマジレスさん
:2017/11/02(木) 06:50:50 ID:czRftzgI0
>887
これを観察に活かそうと思います。ありがとうございました
893
:
避難民のマジレスさん
:2017/11/02(木) 13:19:41 ID:DAY232aw0
>>890
ご回答ありがとうございます。
質問ですが、どうやって観察するのでしょうか?
もう一つ質問申し訳ですが、どうやって追求するのでしょうか?
894
:
避難民のマジレスさん
:2017/11/02(木) 16:25:57 ID:ydE4b1w.0
追加で質問すいません、釈迦は菩提樹の下で悟る直前、国と家族をほったらかして悟りの道
を歩んだ、ということに強い罪悪感を感じた、という話は鬼和尚は聞いたことはありますか?また、それは本当の話なんでしょうか?
895
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2017/11/02(木) 21:39:56 ID:1d4drIFg0
>>891
そうじゃろう。
まだ認識は残っているからのう。
慣れた日常生活はおくれるのじゃ。
>>897
どういたしまして、またおいでなさい。
>>893
今まで通り観察するのじゃ。
観るものを追求するのじゃ。
そのように思えるのも自分が主体であり、主体から観察や全ての働きが起こっていると感じるからなのじゃ。
実際には全ての心身の働きは主体なくして起こるものじゃ。
主体はあとから投射される観念に過ぎないものなのじゃ。
>>894
そのようなことはないじゃろう。
身を捨てても悟りを得たいと思っていたのであるからのう。
お釈迦様が悟る前に魔が家族の姿で迫ってきたことをそのように心理的に解釈する者がいたのじゃろう。
896
:
避難民のマジレスさん
:2017/11/02(木) 22:59:53 ID:1yJIgtKg0
鬼和尚、
主体や客体というのは、時間差による錯覚。
実際は主体も客体もイメージであり、起こる現象が今ここにただ起こっているだけであると観察しました。
しかしこの先は何をどのように観察すれば良いのでしょうか?
阿頼耶識を観察したいと思っています。
897
:
541
:2017/11/02(木) 23:17:57 ID:o7TfOr0I0
鬼和尚、一休さんは悟っていたとおしゃっていましたが
一休の師匠の華叟宗曇や兄弟子の養叟(ようそう)は悟っていたのでしょうか?
898
:
541
:2017/11/02(木) 23:20:28 ID:o7TfOr0I0
ところで、私は、権力や女や名誉が大好きなのですが、苦の元だからこれらへの執着は捨てたほうが良いのでしょうか?
899
:
541
:2017/11/03(金) 06:29:57 ID:o7TfOr0I0
人間関係にも恵まれ、立ち上げた商売も成功しつつあります。
しかし、成功のなかにも、「信頼を失わないようにしなくては」など、気を回す事が多く、新たなストレスの元になりそうです。
例えば、商品に傷がついていたりしないかとか、健康上問題はないだろうかとか、誠実であろうと思うほど、心配が増えてくる。
これは、客観的には商品の質の向上に繋がるし、勿論、悪いことではないが、精神を疲弊させる面もある。結果に一喜一憂することなく、顧客にも職員にも振り回されることなく、淡々と製品や運営システムを向上させていくことは可能ですか?
900
:
541
:2017/11/03(金) 06:42:46 ID:o7TfOr0I0
和尚。食欲や性欲などは、観念だけではなく、肉体に由来する面もあると思いますが、それらも厭離可能ですか?
901
:
避難民のマジレスさん
:2017/11/03(金) 11:57:59 ID:DAY232aw0
>>895
ご回答ありがとうございます。
観るものを追求すると仰ってますが、やっぱり追求の仕方がわかりません。自分とは何か追求するのと原因を追求するのでは追求の仕方は一緒なのでしょうか?
自分と感じるものは何か観察していれば追求していることになると仰ってましたが、観察すれば追求していることになるのでしょうか?
観るものを追求するとは追求して観るを追求するのでしょうか?それとも観察して観るものを追求するのでしょうか?
追求がいまいち分からずしつこいようですが質問させて頂きます。すいません
902
:
541
:2017/11/03(金) 12:31:18 ID:28Zc32Jo0
いつもながら沢山質問してすみません。
以前鬼和尚は鈴木大拙を「悟っていたのじゃ」と言っており、親鸞や法然などは「悟って居なかったのじゃ」とおっしゃっていましたが、
鈴木大拙自身は『日本的霊性』のなかで、法然、親鸞を高く評価し、「南無阿彌陀仏」にこそ日本精神の真髄があるとし、学識も修行もしていないが、ひたすら念仏を唱えて、日々の生活に自足している妙好人のような人々を称賛していましたが、大拙は、人々が、釈迦のような真のさとりを得ることは無理だと思っていたのでしょうか?
或は、禅の悟りよりも浄土真宗の信仰の方が、真の悟りに近いと考えていたのでしょうか
903
:
避難民のマジレスさん
:2017/11/03(金) 15:33:09 ID:ydE4b1w.0
>>895
わかりました、ありがとうございました。
それから、また質問させてもらいます。
質問1
以前、鬼和尚は「すべての観念は主体を想起させる」というようなことをおっしゃっておられましたが、
無我に至った人の場合その段階ではまだ観念は残っているから、それらの残っている観念が認識された際に主体という感覚を起こす、ということが
無我に至った後でもありうるんですか?
でも主体の感覚があるならそれは無我と言えるんでしょうか?
質問2
観念が想起させる主体の感覚、というのは自我とはまた違うものですか?
904
:
避難民のマジレスさん
:2017/11/03(金) 15:46:57 ID:rVd9uqEE0
鬼和尚さん、腰痛になってしまいました。
軽いぎっくり腰のような症状です。
何をしたら改善できますか?
ストレッチなどはやっていますが、ここ数週間なかなか治りません…。
905
:
避難民のマジレスさん
:2017/11/03(金) 17:16:31 ID:czRftzgI0
過去にどぶにはまって友人に笑われた嫌な記憶があるとします。この場合、どぶにはまった自分を自分だと思うから恥ずかしいのであり、どぶにはまった自分は自我といえます。
そして、どぶにはまる行為を自分の行為だと思うから、どぶにはまった自分を自分だと思って苦が生じます。さらに、どうしてその行為を自分の行為と思うかは、自分の体を自分だと思っていて、その自分の体の行為も自分のものだと思っているからです。
だからこうした過去の行為の苦を乖離するには、行為を生じさせる自分の体を自分のものだと思わないように乖離する必要があると考えました。行為に基づくすべての自我は身体の乖離により解体されるというのが結論です。
まとめると
自分の体を自分のものだと思う→自分の体の行為を自分の行為だと思う→どぶにはまった自分を自分だと思う→苦
この見解は正しいでしょうか?
906
:
糞和尚
:2017/11/03(金) 21:28:01 ID:YUVcWBgU0
>>902
それはあくまでも「日本的」霊性なのじゃ。
鈴木大拙は禅をやっていたのじゃ。
仏教の日本独特のものを取り上げただけなのじゃ。
907
:
避難民のマジレスさん
:2017/11/03(金) 22:26:09 ID:XZhaK0vE0
>>899
鬼和尚じゃないけど,品質課を作ればいいんじゃないの?
品質課に人員を割けなければ,受け入れ検査,出荷検査など,商品を検査することにして
検査項目,検査方法を決めて,チェックシートを作って,結果を記入して,記録に残すとか
908
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2017/11/03(金) 22:34:23 ID:1d4drIFg0
>>896
自分を観察するのじゃ。
自分を観察して厭離しない限り阿頼耶識も観察できないものじゃ。
恐れとか何かの理由で自分が観察できないのかもしれん。
そのような逃避をも観察してみるのじゃ。
>>897
悟っていたじゃろう。
>>898
執着は捨てたほうがよいのじゃ。
苦になるからのう。
どんどん捨てるのじゃ。
>>899
出来るじゃろう。
自分には出来ると唱えているとできるようになるのじゃ。
実践あるのみなのじゃ。
>>900
しようと思えばできるのじゃ。
しなくてよいのじゃ。
>>901
自分という観念を起こす原因を追求するのじゃ。
どんどんやればそうなるじゃろう。
やらなければならないのじゃ。
自我がある限り観るものはあるとおもえるじゃろう。
まずは自分を観察するのじゃ。
それが観るものなのじゃ。
恐れがあるから観られないならばその恐れも観察するのじゃ。
>>902
大拙はスゥエデンボルグなども賞賛していたのじゃ。
オショーと同じく、全ての宗派を包摂しようとしていただけなのじゃ。
悟ったとは言っていないのじゃ。
ただ真宗の者を取り入れるためにゴマをすっていたのじゃ。
909
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2017/11/03(金) 22:40:39 ID:1d4drIFg0
>>903
1 真に無我になったならばないじゃろう。
既にそれが観念とわかってしまったのであるからのう。
忘我ならばあるかもしれんのじゃ。
観念は全て刹那に起こるものじゃ。
忘れていたものも刹那に思い出したりするのじゃ。
2 違うものなのじゃ。
それに自我が投射されているのじゃ。
自我は名前とイメージによる観念であり、分別された認識とは違うものなのじゃ。
客体と主体を分別された後に自我の観念は投射されるのじゃ。
>>904
痛むところよりずうっと腰の上とか尻等に硬いところや痛む所を探すのじゃ。
そこを揉み解すのじゃ。
心臓に向けてさするのじゃ。
そこが治れば治るのじゃ。
>>905
そのような理解でよいのじゃ。
後は実践あるのみなのじゃ。
910
:
541
:2017/11/03(金) 22:53:23 ID:o7TfOr0I0
>>897
悟っていたじゃろう。
一休の兄弟子の養叟(ようそう)と一休は確執があり、喧嘩別れしたとの話ですが
それは周囲の凡人の解釈で、実際は、どっちも悟っていたので「喧嘩」などはしていなかったのですかね。
悟った人同士でも、意見の相違や感情のぶつけ合いはあるのでしょうか?
>>900
しようと思えばできるのじゃ。
しなくてよいのじゃ。
しなくてよい。つまり性欲や食欲は放置プレイでよいのでしょうか?
結構、こいつらの力は強いですよね。
>ただ真宗の者を取り入れるためにゴマをすっていたのじゃ。
www予想外の斬新過ぎる解釈
それは本当に、大拙の真意なのでしょうか?鬼和尚の主観と言うことはないのですか?
911
:
541
:2017/11/03(金) 22:57:31 ID:o7TfOr0I0
大拙の代表的な書物である『日本的霊性』だけを読むと(多くの人はこれしか読んでいない場合もある)、真宗を取り入れるどころか、
なむあみだぶつと唱えていればいいんだと真宗の信仰に自信を持って、むしろ、禅者のうちに真宗に転向するものが出そうな勢いかと思います。
912
:
541
:2017/11/03(金) 23:06:00 ID:o7TfOr0I0
でも、鬼和尚の解釈は面白いと思います。
我々は内心小馬鹿にしているものをあえて賞賛することはありますからね。
歴史上の人物とかの手紙や発言を、そのまんま受け取る学者とかは、人間と言うものが全く分かってないなと感じる事はあります。
913
:
避難民のマジレスさん
:2017/11/03(金) 23:49:55 ID:ltsvCJfk0
>>908
鬼和尚、
厭離とは、主体だと思っていたものを客体視した時に起こると考えます。
思考や肉体から厭離し、それらをただ観ている視点に立ち、苦から離れることと理解し、また経験しています。
しかし今回私が観察したのは、思考が現れている瞬間は、それを離れて観ている主体など実はいないということでした。
思考の直後に、それを観ている主体という観念が起こっています。
思考→それを観ている者→「思考から離れているぞ」…
という一連の流れが意識に起こっていました。
これは思考に限ったことではなく、五感もそうでした。
何かを触った瞬間は、それを感じている主体はなく、その直後に感じている主体を作りだしていると言いましょうか。
これは何か別の方向に行ってしまってるのでしょうか。
914
:
避難民のマジレスさん
:2017/11/04(土) 02:31:51 ID:ydE4b1w.0
903です。
鬼和尚の主体という概念、難しいです、、、
また、分けて質問します。
質問1
鬼和尚の
「真に無我になったならばないじゃろう。」
という私への返答の中の「真に無我になったならば」という言葉は、
「認識を厭離して無認識に至ったときになる完全な無我の状態になったならば」という意味ですか?
それとも
「本当に無我に至ったのなら(まだ無認識まで至ってはいないが観照が起こって無我に至った)」という意味ですか?
質問2
>>909
の文章の中で鬼和尚のおっしゃられたことをまとめると
「すべての観念は主体を想起させるが、無我に至った後はすべての観念が主体を想起させることがなくなる」
ということですか?
質問3
私は目の裏に自己感覚というか主体の感覚があるんですが、上記で言われている「すべての観念が想起させる主体」
と私のこの主体の感覚とはまた別物ですか?
質問4
「すべての観念が想起させる主体」というのを実感としてどんなものか認識してみたいのですが、
そこを意識してそれがその主体だ、というようにわかるものでしたらどうすれば「すべての観念が想起させる主体」
というのを意識の上で捉えられるか教えてくれると助かります。
それとも、それはかなり微細な感覚で人間には到底認識できないようなものなのでしょうか?
915
:
避難民のマジレスさん
:2017/11/04(土) 05:52:59 ID:czRftzgI0
>905
身体の観察という膨大な作業を前に呆然となりますが、実践したいと思います。
916
:
避難民のマジレスさん
:2017/11/04(土) 09:50:04 ID:DAY232aw0
>>908
ご回答ありがとうございます。
まずは自分を観察すると仰ってますが、自分の本心を観察して、自分を観察するのでしょうか?それとも自分を観察して自分の本心を観察するのでしょうか?
917
:
避難民のマジレスさん
:2017/11/04(土) 16:18:49 ID:czRftzgI0
顔を観察する時、和尚さんは実際にどのようにされたのですか?鏡を前に置いてじっくり眺めたのか、顔を触って触覚を使って観察したのですか?
918
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2017/11/04(土) 21:55:09 ID:1d4drIFg0
>>910
>>912
ただ単にお互いを必要としていなかったのじゃろう。
修業の邪魔になる執着を滅するとよいのじゃ。
大拙は何でも褒めていたのじゃ。
騙されてはいかんのじゃ。
>>913
それでよいのじゃ。
何度でも観るのじゃ。
完全に観察されれば厭離されるのじゃ。
>>914
1 無認識ではない無我なのじゃ。
2 そのような解釈でよいのじゃ。
無我でも主体の無い観念は未だ起こるのじゃ。
3 それが別かどうか自ら観察してみるのじゃ。
おぬし以外には誰にもわからないのじゃ。
4 おぬしが目玉の裏に感じているものかもしれん。
おぬし以外には誰にもわからないのじゃ。
ただひたすらに観察するのじゃ。
実践あるのみなのじゃ。
>>915
そうじゃ、実践あるのみなのじゃ。
またおいでなさい。
919
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2017/11/04(土) 22:02:38 ID:1d4drIFg0
>>916
どちらでもないのじゃ。
自分の本心だけを観察するのじゃ。
>>917
何もしていないのじゃ。
わしは体が自分とは思っていなかったのじゃ。
920
:
避難民のマジレスさん
:2017/11/04(土) 22:38:23 ID:DAY232aw0
>>919
ご回答ありがとうございます。
質問ですが自分の本心だけを観察して、自分という観念が起こす原因を追求すれば良いのでしょうか?
921
:
避難民のマジレスさん
:2017/11/05(日) 00:20:47 ID:vrNcXKcg0
>>918
鬼和尚、ご回答頂きありがとうございます。今まで思考や肉体を観ることにより「それは私ではない」という距離を取る観察でしたが、転じて思考や肉体の感覚に成り切ることも苦を滅するものだと気づきました。
痛みの後に「私」が起こり、「私が痛みを感じている」という錯覚が苦の原因でした。
痛みそのものになってしまえば痛みは苦ではなく、ただの痛み。と認識しています。
このまま観察を続け、完全に悟ってみたいと思います。
922
:
避難民のマジレスさん
:2017/11/05(日) 04:15:41 ID:Y5LPInQE0
鬼和尚さん
主体と意識には、どのような違いがありますか?
923
:
避難民のマジレスさん
:2017/11/05(日) 05:07:29 ID:ydE4b1w.0
>>918
わかりました、ありがとうございました。
924
:
避難民のマジレスさん
:2017/11/05(日) 05:48:06 ID:czRftzgI0
>917
子供の頃から体が自分とは思っていなかったのですか?それとも何かのきっかけで修行を始める頃には体が自分とは思っていなかったのですか?
925
:
避難民のマジレスさん
:2017/11/05(日) 12:50:13 ID:DAY232aw0
>>920
追記です。
それとも自分の本心だけを観察していればいいのでしょうか?
926
:
避難民のマジレスさん
:2017/11/05(日) 15:38:31 ID:Tu1eESLY0
>>909
鬼和尚さんありがとうございます。
腰痛はここ2日でかなり良くなりました。
鬼和尚さんのおかげですm(__)m
927
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2017/11/05(日) 21:12:51 ID:1d4drIFg0
>>920
自分の本心を観て自分と言う観念が起こることを観察するのじゃ。
そして原因も追究するとよいのじゃ。
自分と言う観念が見えなければ原因を追究することもできないのじゃ。
>>921
そうじゃ、精進あるのみなのじゃ。
またおいでなさい。
>>922
主体は観念なのじゃ。
本来無いものじゃ。
意識は観念ではないのじゃ。
本来存在するものであり、全てなのじゃ。
観念も主体も意識とは言えるが、謬見によるものなのじゃ。
>>923
どういたしまして、またおいでなさい。
928
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2017/11/05(日) 21:22:05 ID:1d4drIFg0
>>924
最初からなのじゃ。
何を自分と思っているかは人によって違うのじゃ。
わしは記憶を持つものが自分と思っていたのじゃ。
>>925
本心をどこまでも追求していけば自分に突き当たるじゃろう。
自分がある人間はなにを観ても最後には自分にいきつくのじゃ。
恐れずにそれを観るがよいのじゃ。
>>926
よかったのじゃ。
またおいでなさい。
929
:
避難民のマジレスさん
:2017/11/05(日) 22:07:45 ID:bP6oxyAs0
記憶を持つものって誰なんですか?
930
:
避難民のマジレスさん
:2017/11/05(日) 23:51:49 ID:ydE4b1w.0
>>928
横レス失礼しますが、「肉体が自分だ」という観念が外れるのは観照が起きたと同時にやっと外れる
ものではないんですか?それによって死の恐怖も消え去る、そういう流れだと思ってるんですが、
子供のころから肉体への同一化がないってかなり特殊では?と感じまして、、
931
:
避難民のマジレスさん
:2017/11/06(月) 06:26:45 ID:DAY232aw0
>>927
>>928
ありがとうございます。実践していきます。
932
:
避難民のマジレスさん
:2017/11/06(月) 07:00:31 ID:czRftzgI0
>924
和尚さんのような人でも10年かかったのなら、体を自分と思っている私は悟りにどれだけかかるか不安になります。
一方、執着と人との比較と人目を気にすることが全て自分があることから来ると気付きました。自我乖離に向けたいい兆候だと思います。
933
:
避難民のマジレスさん
:2017/11/06(月) 15:58:58 ID:FnHdG3lo0
鬼和尚
最近坐禅をしていると、座禅中のほとんどの時間は忘我の状態だったと気が付きました、
時々、それを眺めている自分がいるんですが、ほとんどの時間は忘我になっているんですね、
実際の普段の生活においても同じような状態だなと、ここ数日、そのような理解が起きたのですが
この理解は正しいでしょうか。
934
:
避難民のマジレスさん
:2017/11/06(月) 16:17:29 ID:U6SatYxg0
鬼和尚、ブログの
> 何にも気付かないで変ることもないならば、それは観察ではなく観念遊戯をしている事になるのじゃ。
について二つ質問があります。
1."何にも気付かないで変ることもない"以外の観察と観念遊戯の違いを見分けるすべはないのでしょうか?
2.また、観念遊戯とはどういう状態のことなのかも詳しくお聞かせください。
935
:
避難民のマジレスさん
:2017/11/06(月) 17:16:11 ID:DAY232aw0
>>931
お礼に続けて質問申し訳です。
質問ですが、自分と言う観念が起こることを観察して、その原因を追求すると言う事なのでしょうか?
936
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2017/11/06(月) 20:48:08 ID:1d4drIFg0
>>929
誰もいないのじゃ。
誰かが持っているのでもないのじゃ。
ただ行雲流水の如く主体無くしてあるだけのものなのじゃ。
>>930
無我になる前からなのじゃ。
自分が肉体ではないと思うものは普通にいるのじゃ。
思考とか感情が自分と思う者も多いじゃろう。
肉体は自分のものではあるが、自分そのものではないと思うのじゃ。
>>931
そうじゃ、実践あるのみなのじゃ。
またおいでなさい。
>>932
日々実践すれば悟りも近いのじゃ。
よい気付きなのじゃ。
自我も見えてきたのじゃろう。
自我乖離も近いのじゃ。
更に精進あるのみなのじゃ。
>>933
それでよいのじゃ。
よい瞑想なのじゃ。
忘我と気付きが多くなれば無我も近いのじゃ。
更に精進あるのみなのじゃ。
937
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2017/11/06(月) 20:59:58 ID:1d4drIFg0
>>934
1 今ここにないものごとを空想しているならば観念遊戯なのじゃ。
今ここにあるものごとを観ているならばそうではないのじゃ。
2 思考している時とか過去を思い出している時とか未来のことを考えているならば観念遊戯なのじゃ。
>>935
それでよいのじゃ。
実践あるのみなのじゃ。
938
:
避難民のマジレスさん
:2017/11/06(月) 21:18:32 ID:czRftzgI0
>>932
その言葉を励みにがんばります。ありがとうございました
939
:
避難民のマジレスさん
:2017/11/07(火) 14:24:08 ID:U6SatYxg0
>>937
お教えありがとうございます
例えば心が動揺したときに
"同じシチュエーションでも動揺するときとしないときがある"と発見したとします。
それにより何ら変わることはできなくても"するときとしないとき"という発見があったので観察してることになりますか?
それとも過去(記憶)と比較するという思考が入っているので遊戯になってしまいますか?
940
:
避難民のマジレスさん
:2017/11/07(火) 16:06:53 ID:ydE4b1w.0
>>936
そうですか、でも鬼和尚は悟る前に死を恐れてはいたんですよね、
肉体が自分だ、という観念がなくてもいまだどこかに自分という感覚があって、それが
死ぬことで消えることが怖かった、そんな感じなんですか
941
:
避難民のマジレスさん
:2017/11/07(火) 17:08:18 ID:DAY232aw0
>>937
ご回答ありがとうございます。
質問ですが、自我を厭離させれば、無我なのでしょうか?
942
:
541
:2017/11/07(火) 18:16:18 ID:nhEvgxNI0
鬼和尚は因果律は自己を離れて客観的に実在すると思いますか?
943
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2017/11/07(火) 22:19:55 ID:1d4drIFg0
>>938
どういたしまして、またおいでなさい。
>>939
そうじゃ、それが観察なのじゃ。
記憶された観念をも観察して比較しているのじゃ。
記憶された観念をあれこれと操作するのが思考であり、観念遊戯になるのじゃ。
それぞれについてなぜ動揺したり、動揺しないのか条件を観察してみるのじゃ。
>>940
そのようなものじゃ。
感情が自分ではないと思うから恐れもないわけではないのじゃ。
何を自分と思っていても恐れや不安はあるのじゃ。
>>941
そうじゃ、無我になるじゃろう。
無我を目指すのではなく、自我を完全に観察して厭離が起こり無我になるのじゃ。
自我を観ることを目指すのじゃ。
>>942
おぬしがそう思えばあるのじゃ。
思わなければ無いのじゃ。
944
:
避難民のマジレスさん
:2017/11/08(水) 02:25:50 ID:ydE4b1w.0
ラマナとかニサルガダッタは悟りの完成には無我に至るだけじゃなく認識を厭離させる
必要がある、ということを明確に認識しているんでしょうか?
私が無認識について言及しているところを単に見逃しているだけかもしれませんが彼らが
認識を厭離させる必要性やその具体的手順について説明しているところを聞いたことがありません。
945
:
避難民のマジレスさん
:2017/11/08(水) 02:32:51 ID:ydE4b1w.0
それとも色々なものを厭離させていった中で知らず知らずのうちに認識も厭離していたが
それを特別重要なこととしてみていなかったが故に別に概念化して提示するほどのものでもないだろう
的な心境だったんでしょうか
946
:
避難民のマジレスさん
:2017/11/08(水) 10:22:08 ID:Y5LPInQE0
鬼和尚さん、心を観察するとは、こういう感じですか?
イライラしている場合、イライラしていることに気づく
混乱している場合、混乱している事に気づく
絶望している場合、絶望している事に気づく
>>927
ご回答ありがとうございます
947
:
避難民のマジレスさん
:2017/11/08(水) 10:51:59 ID:DAY232aw0
>>943
ご回答ありがとうございます。
質問ですが、何を指針にすれば良いのでしょうか?
948
:
避難民のマジレスさん
:2017/11/08(水) 17:05:47 ID:U6SatYxg0
>>943
わかりました。そのように取り組んでみます。ご指導ありがとうございました。
あとですね、もともと自律神経失調症なんですが
最近になって、ほぼ一日中動悸が止まなくなりました。就寝時は特に激しくなります。
痛みや不安感は無いので昼間は気にしないでいられるのですが
就寝時の煩さが酷すぎて薬を飲まないと眠れなくなりました。
このような状態を改善するマッサージ等あったら教えていただけないでしょうか。
949
:
避難民のマジレスさん
:2017/11/08(水) 20:33:28 ID:FCZrbmx.0
鬼和尚、
意識が世界を作っていると言います。
「何か」を蛇と認識した時、本当にそれは蛇なのだと思います。
実はそれは縄だった!と気づいた時に縄になるのだと思います。
実相は蛇にも縄にもなるのだと思っていますが、鬼和尚はどのようにお考えですか?
なぜそのような質問をするかと言うと、どう思い返しみてもこれは蛇だったのに、今見ると縄になっている、と言うことが多いのです。
950
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2017/11/08(水) 20:35:00 ID:1d4drIFg0
>>944
>>945
知らんじゃろう。
知識として記憶している訳ではないのじゃ。
それを語ったのは禅の者とオショー位なのじゃ。
優れた運動選手が自分の動きを全て言葉やイメージで認識し、伝えられるのではないように、
大悟した者も自分に起きたことを全て知識として記憶し、伝えられるのではないのじゃ。
>>946
それでよいのじゃ。
今ここで起きている心の働きをありのままに認め、気付くのじゃ。
それが本心を観察する事なのじゃ。
>>947
自らの本心を指針とするのじゃ。
本心は何を欲しているのか。
本心は何をしたがっているのか。
本心はどうしたいのか。
全て知るがよいのじゃ。
そのために本心を観るのじゃ。
>>948
もともと人間は心臓が動悸しているものじゃ。
それを気にしてはいかんのじゃ。
気にすることが心の病になるのじゃ。
気にして集中すると動悸が激しくなるのじゃ。
自分で心臓に集中して動悸を激しくしているのじゃ。
それによって眠れないのじゃ。
人の体は集中する処に血液を送り込んで激しく活動するのじゃ。
走る者は足に集中し、手を使うものは手に集中して激しく動かす準備とするのじゃ。
寝るときは足の先に集中するとよいのじゃ。
よく眠れるじゃろう。
951
:
避難民のマジレスさん
:2017/11/08(水) 22:37:34 ID:Y5LPInQE0
>>950
ご回答ありがとうございます
主体や自我の観察は、どうすれば良いですか?
自分という感覚を観察しようとしても「ああ、自分が居るなぁ」くらいしか
分からないのですが
952
:
避難民のマジレスさん
:2017/11/09(木) 10:14:11 ID:DAY232aw0
>>950
ご回答ありがとうございます。
質問ですが、自分の本心に従えば良いのでしょうか?
953
:
避難民のマジレスさん
:2017/11/09(木) 15:03:01 ID:ydE4b1w.0
>>950
ありがとうございました。
954
:
避難民のマジレスさん
:2017/11/09(木) 15:39:56 ID:U6SatYxg0
>>950
確かに集中すればその部位が暖かくなるわ、なるほど!
…と思いってやってみたのですが、よけいに気になるようになってしまいました。
まるでインド小話のグルに「薬を飲むとき猿のことを考えるな」と言われた男のよう…お恥ずかしい限りです。
修練が足りないのですね。当分はあきらめて薬で凌ぐことにします。
お教えありがとうございました。足先だけに集中できるようになるまで集中の訓練頑張ってみます。
955
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2017/11/09(木) 20:19:24 ID:1d4drIFg0
>>949
縄は咬まないのじゃ。
縄と思ったものが蛇であったならば死んだりするじゃろう。
縄であるから死なないはずと思っていても死んだりするのじゃ。
そのように事実を誤認していれば大きな災いにあったりするのじゃ。
本当は違うものを記憶によって創っていたのかもしれん。
ただひたすらに観察してみるのじゃ。
>>951
それがどのような原因でいると感じるのか観察してみるのじゃ。
寝ている時はそのように感じないじゃろう。
それでは何があるときに自分は感じられるのか、何が無ければ自分は感じられないのか観察して気付くのじゃ。
更にそのように自分と感じるものは何なのか見極めるのじゃ。
>>952
本心に従う以外に人の道はないのじゃ。
偽りの心に従えば迷うばかりであるからのう。
先ずは本心がどのようなことを欲しているのか観察してみるとよいのじゃ。
>>953
どういたしまして、またおいでなさい。
>>954
そうじゃ、足に集中するのじゃ。
実践在るのみなのじゃ。
956
:
避難民のマジレスさん
:2017/11/09(木) 22:44:04 ID:FCZrbmx.0
>>955
ご回答ありがとうございます。
私はまだ認識のない実相を見たことがないので何とも言えないのですが、認識なくとも毒があって噛みつく細長い「何か」は存在しているということでしょうか?
私が「何か」を「毒があって噛みつくもの」と認識するから、それはそのような特性を帯びるのではないか?それがこの世界なのではないか?と考えています。
もちろん、縄かと思って触ったら蛇だった…ということもあります。
それも、縄と蛇の情報を阿頼耶識が貯蔵しており、様々な認識が相まって予想も付かないことが意識で起こっているのではないかと。
まったく夢と同じ意識の世界がこの現実なのではないかと考えていますが、実際はどうなんでしょうか?
957
:
避難民のマジレスさん
:2017/11/10(金) 10:08:37 ID:DAY232aw0
>>955
ご回答ありがとうございます。
質問ですが、自分の本心を観察するだけで、自我を観れるのでしょうか?
958
:
避難民のマジレスさん
:2017/11/10(金) 17:39:39 ID:DAY232aw0
連投すいません。
鬼和尚さんに沢山質問させて頂きましたが、未だに自我を厭離させる方法がいまいちわかりません。
自分とは何か追求して観察したら良いと仰られますが、追求して観察する事自体が中々出来ないと思います。
心身の全てを観察すれば良いと仰られますが、自分は自分を追求して行こうと思ったので、中々心身の全て観察して行こうと思いません。
具体的に確実に自我を厭離させる方法はどの様にしたら良いのでしょうか?
自分を追求するとか、心身の全てを観察するとかだけでは無く、自分の本心を観察して行うのか、具体的に全体的にお教え頂けるとありがたいです。
自我を観る、厭離させる方法がわからないので普通の人が出来る方法で具体的に出来る方法をお教え願えないでしょうか。
宜しくお願い致します。
959
:
避難民のマジレスさん
:2017/11/10(金) 21:53:23 ID:ydE4b1w.0
>>754
で質問した者です。
それに対する
>>763
の鬼和尚の私に対する答えの内容がいまいちわかりませんでした。
>>738
のレスの中に書いてある
> 9 心の本性を理解する探究の道とは何でしょうか?
>
> 身体のなかに「私」として立ち現れるものが心である。もし身体のなか
> のどこに「私」という想念が最初に現れるかを探究するなら、それはハー
> トのなかに現れることが発見されるだろう。そこが心の起源となる場所で
> ある。絶えず「私」、「私」と考えても、人はその場所に導かれていくだろ
> う。心のなかに現れるすべての想念のなかで、最初に現れるのは「私」と
> いう想念である。この想念が現れたあとにのみ、他の想念は現れる。二人
> 称と三人称の人称代名詞が現れるのは、一人称が現れたあとのことである。
> 一人称がなければ、二人称、三人称も存在しないだろう。
という上記の文ではハートが心の起源となる場所である、というようなことが書いてあるので
一般的に「私」という感覚はハートの中に強く感じられる、というようなことを言ってる、ということなのかなと
おもうんですが、また別のことを指しているんでしょうか?
960
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2017/11/10(金) 22:49:37 ID:1d4drIFg0
>>956
おぬしがなにものも認識しなくても蛇はおぬしに噛み付いたりして死んだりするじゃろう。
誰かがおぬしの知らぬ間に後ろから殴ればやはり死んだりするのじゃ。
全てが認識ではないのじゃ。
唯識も本当は認識優勢論なのじゃ。
思考や論理に囚われてもいかんのじゃ。
常に現実を観察して進むのじゃ。
>>957
どこまでも追求すればいずれ観られるじゃろう。
全てはおぬしとおぬしのものとおぬしのものではないものとして観られているからのう。
本心を観るならばどこにいっても自分に突き当たるのじゃ。
>>958
おぬしが自我をどうしても観られないというならば、それは自我を観ようとしてはいないからなのじゃ。
心身の全てを観察すればいずれは観られるのになぜそれだけは実践しようとしないのじゃろうか?
それでも具体的に自我を観る方法が知りたいとはおかしなことじゃ。
心身を観察する方法が普通の人でも出来る方法なのじゃ。
お釈迦様もそれを説いているのじゃ。
誰でも自我を観られる方法でも自我を観られない者は自分が消える恐れや不安などから観ようとしていないのじゃ。
そこに逃避があればどんな方法も無意味なのじゃ。
これからどのような方法を教えてもそれを実践していこうとは思わないと書くじゃろう。
そして又普通の人でも自我が観られる方法をきくじゃろう。
本当に自我を観察し、厭離しようと本心から思う者は、どのような困難な方法でもやり抜くじゃろう。
それが本心からの欲求であるならば当然なのじゃ。
先ずは自分の本心を観察して、何を本当に求めているのか、何から逃避しているのか気付くのじゃ。
それが出発点になるのじゃ。
>>959
ただ集中している所に常に自分が感じられるだけなのじゃ。
実践して見るとよいのじゃ。
胸に集中していると胸に自分と言う感覚がわくじゃろう。
眉間に集中していると眉間に自分がいる感覚があるじゃろう。
マハリシはハートに集中している者であったからそう感じたのじゃ。
実践によって確めてみるのじゃ。
961
:
避難民のマジレスさん
:2017/11/10(金) 23:08:07 ID:DAY232aw0
>>960
お答え頂き本当にありがとうございます。鬼和尚さんの仰る通りです。反省しています。
心身の全てを観察したいのですが、自分の本心を観察して心身の全てを観察したら良いのでしょうか?
962
:
避難民のマジレスさん
:2017/11/11(土) 09:48:10 ID:czRftzgI0
一旦乖離したものが元に戻ることはありますか?
例えば、観察して乖離した手が、しばらくほっておくとまた自分のものという感覚に戻る事はありますか?
963
:
避難民のマジレスさん
:2017/11/11(土) 10:16:20 ID:ozubKx8M0
>>960
鬼和尚、ありがとうございます。
唯識も本当は認識優勢論であるとはどういうことでしょうか?
964
:
541
:2017/11/11(土) 11:12:19 ID:o7TfOr0I0
この「蛇縄問題」は興味深いですよね。
>おぬしがなにものも認識しなくても蛇はおぬしに噛み付いたりして死んだりするじゃろう。
この場合の「おぬし」が何を意味しているかですよね。
おぬし=真我だとすると、蛇に噛まれたところで、自分には何もおきていないわけです。死んでも居ないし噛まれても居ない。
おぬし=肉体だとすると、「蛇に噛まれて死ぬ」こともありえる。
肉体は老病死を免れないが、それを見ている何かは、老病死を超越している。
真我の立場に立てば、「生命」すら超越しているので、もはや、蛇と縄の区別すら、絶対的ではない。
だからこそ、落ち着いて、蛇と縄を区別できるとも言えるでしょうが
鬼和尚はどう思われますか?
965
:
541
:2017/11/11(土) 11:21:28 ID:o7TfOr0I0
西洋の存在論哲学を援用して考えて見ましょう。
蛇も人間も毒も縄も「存在」な訳です。
あらゆるの出来事は「存在の内部交流」のようなもので、その出来事が忠臣蔵だろうと、蛇に襲われるだろうと、車に轢かれるだろうと
それらの出来事はあくまで「人間的解釈」或いは「言語現象」であって、存在論的に観ると、エネルギーがグルグルめぐっているようなもの「存在の戯れ」のようなものといえましょう。
蛇と縄を区別できるのは人間だけです。蛇も縄も、人間の世界にしか存在しません。
蛇も縄も「仮象」に過ぎませんが、そのような区別は生きていくのに便利なので人は採用しています。
つまり、蛇や縄は、「生きよう」と言う人間の「気がかり」「配慮」が生じさせたとも言えます。
だから実体ではない。自殺志願者にとっては、毒蛇は「恋人」ですらあるかもしれない。
966
:
541
:2017/11/11(土) 11:45:29 ID:o7TfOr0I0
「全てが認識じゃない」
例えば、マムシの中にも「毒の無いマムシ」も居るかもしれませんね。
しかし「マムシ=毒をもって危険な蛇」と言う知識や認識があれば、その存在者は「毒蛇」に見える訳だ。
また、現代では、精巧に作られた蛇のロボットもあるかもしれません。
そう思えば、蛇と縄を区別するのは、そう簡単ではない。
いや、区別不可能なこともあるかもしれません。
かつては、白人と黒人(有色人種)は明確に「区別」されていた訳ですからね。
白人と黒人で生物学的に何かが変ったわけではなく、これは単に「認識」が変ったのです。
白人と有色人種は別人種と思われ、殺しても罪にならず、人権は存在しなかったのです。
これは、縄と蛇が「実は同じものだった」と言う事例です。
しかし、黒人と白人とが「同じである」と言う根拠も特に無く、結局は「その時代の人間がそう思うからそうする」と言うもの以上のものではない。
時代が変り、新しい分類学が生まれれば、「何で、これらを一緒のものと考えていたのだろう」と言う話になりえる。
つまりですよ。蛇と縄の区別にしても、現在の分類学が生物と非生物で分類しているので区別されるが(学問的区別)
「ほそ長いもの」の集合を一つの種類とするという新たな分類学が生まれれば、蛇と縄は学術的に同じ種族であるなどと言う話にもなりえる。
いやいやいやと、学術が生まれる前から人々は蛇と縄を区別しているよと言う主張もあるだろう。これを情動的区別としよう。
つまり、生命に危険があるか、無いかの区別である。すると、毒の無い蛇は、太いミミズとか別の名称が与えられているかもしれない。
という訳で、蛇と縄の区別は意外と「一筋縄ではいかない」のではなかろうか。
結局は、背後にある、文化的秩序を見ているのであって、本来自然に区別は無い。
そもそも、何故、我々は、これを蛇と呼び、これを縄とするのか
何故これが「蛇」に見えるのか。
それは「私とは何か」の追求とリンクするものが在ると思う。
悟りを得ようとする人が自我が生まれる瞬間を観察するように、蛇と縄が分別される瞬間も「観る」必要があるのではないでしょうか?
967
:
541
:2017/11/11(土) 11:53:17 ID:o7TfOr0I0
やはり、結論とすると
存在と言うレベルでは、蛇も縄も同じである。しかし、人間の「認識」がそれらを区別すると言わざるを得ない。
蛇を蛇たらしめて、縄を縄たらしめるのは、人間の認識である。
「人間」が居なければ、蛇も縄も無いのである。
それは「全ては人間の認識が作り出すならば縄を蛇にしてみろ!」と言う話ではない。
そうではなく、「人間」が生まれた瞬間、縄と蛇が生まれるのである。
現代の哲学では、存在論と存在の違いとする。存在的には縄と蛇は区別されるが、存在論的には「無」であると言うように。
968
:
541
:2017/11/11(土) 11:57:15 ID:o7TfOr0I0
>存在論と存在の違いとする
↑誤解が生まれそうなので、「存在論的な見方と存在的な見方の違い」と修正
存在論的な見方とは、言わば、「悟った人の視点」と言い換えても良いと思う。あらゆる観念性が落とされた視点のことである。
存在的な見方とは、我々の日常の物事の見方で、実際は対象それ自体ではなく、観念を見ているあり方のことである。
969
:
541
:2017/11/11(土) 12:07:55 ID:o7TfOr0I0
この喩えを好んで用いたマハリシは、存在論的な意味で「蛇と縄の喩え」を言っているのだが、
普通の人々は「ん? 生物的な区別の話か?」と思ってしまう。
勿論、鬼和尚も、本質的には、存在論的な意味で、この喩えを用いているのだが、説明が雑なので、やはり、存在的な区別の話に聞こえてしまうのだw
970
:
541
:2017/11/11(土) 12:22:08 ID:o7TfOr0I0
まじで、現象学と止観の方法論的差異について考察して見たい
それは全く同じものなのか、違うのか
現象学を一言で言うと、「経験とは何か」と言うことを考察していく学問である。
それにあたって、あらゆる実在性を括弧でくくる(エポケー) 何故、それがそのように見えたり感じたりするのかと言うことを考察する
外界に対しても、観念に対しても同じような態度を取る。
止観は外界にはさほど関心は無いが、心の考察と言う点では一致するものがあると思う。
971
:
541
:2017/11/11(土) 12:24:16 ID:o7TfOr0I0
根本的な違いとしては、現象学は特に「悟り」と言う状態を志向しないということである。
恐らく、止観もその過程で、悟りへの執着を取り除くだろうが、そうはいっても「悟り」と言うことをどこかに意識はしていると思う。
一方で、現象学者には「悟り」と言う概念がそもそも無いのである。
972
:
541
:2017/11/11(土) 12:38:37 ID:o7TfOr0I0
>説明が雑なので
失礼、説明がシンプルなので、に修正w
973
:
避難民のマジレスさん
:2017/11/11(土) 17:25:02 ID:8qFvIk/s0
鬼和尚、質問があります。
和尚のブログなどを参考にして、ヴィッパーサナーをしています。
自分の心を観察しようとして、ブログにある、
> 真のヴィパッサナーをしようと思う者、本当に心を観察しようと思う者は、坐る前にこのように決意し、誓うがいい。
> 「私はいままで心の中にある恐怖や不安、嫌悪感、劣等感から逃げてきた。しかし、もう逃げはしない。心の中に表れるものを全て逃げずに観察する」
> と、自分自身に強く誓うのじゃ。
> そして坐るがいい。
> もはや逃げないと、今まで逃げて隠したりしてきた恐怖や不安、嫌悪感、劣等感、孤独感、悲しみ、苦しみなどが襲ってくるじゃろう。
> そのような思いを、誓った通りに逃げずに観察するのじゃ。
> 恐ろしいなら恐れていると、不安なら不安だと、嫌悪するなら嫌悪していると、劣っていると感じるならなら劣っていると感じていると、孤独なら孤独だと、全て観察するのじゃ。
の通りにしてみたのですが、不安、嫌悪感、劣等感などは普段の生活でありありと感じる事があるのですが、瞑想中だと
こういった感覚が湧き上がってきません。そういった感覚が湧き上がるまで待って観察すればいいのでしょうか?
それとも、そういった感覚が起こるようにわざと記憶を思い出すようにしたり、念じるなどのことをしたほうがいいのでしょうか?
よろしくお願いします。
974
:
避難民のマジレスさん
:2017/11/11(土) 19:44:21 ID:ydE4b1w.0
>>960
ありがとうございました。
975
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2017/11/11(土) 20:28:18 ID:1d4drIFg0
>>961
わしもおぬしも、もはやそうではないとわかっているのじゃ。
ただ自分の偽りの無い心だけを自分に明かすのじゃ。
本当は何をしたいのか。
何のために悟りを求めようとしているのか。
それを自分に確めるのじゃ。
それは実は金や名声や権力のためなのかもしれん。
そうであるからそれらを楽しむ自我が必要なのかもしれん。
それが本心ならばそれでよいのじゃ。
悟りの道に求めるものはないと知れるのじゃ。
いずれそれらが死には対抗できないものと知り、虚しくなれば真に悟りを求めることもできるのじゃ。
善事を積んで福楽を得ればそれらも楽しめるのじゃ。
それもまたお釈迦様の教えなのじゃ。
自らの本心を知って求める道を行くのじゃ。
>>962
それが習慣になればそう感じることも出来るのじゃ。
しかし完全に厭離されればそれが自分ではないと知っている故に、完全に元には戻らないのじゃ。
大人が子供の遊びに付き合っているようなものじゃ。
鬼ごっこの鬼は本当の鬼ではないと知りながら逃げ回るようなものじゃ。
>>963
認識が心身全ての活動の源であるというようなものじゃ。
何かを認識しないとそれを考えることも行動することも出来ないからのう。
認識が心身の全てに先立って働くものと言う程度の意味なのじゃ。
>>973
それは深い瞑想に入っているからじゃろう。
普段感じるならば普段の心境で観察して見るとよいのじゃ。
恐れや不安から観察できなくなれば瞑想に入ってそれらを観察してみるのじゃ。
そして原因を追究していくとよいのじゃ。
976
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2017/11/11(土) 20:29:07 ID:1d4drIFg0
>>974
どういたしまして、またおいでなさい。
977
:
避難民のマジレスさん
:2017/11/11(土) 21:31:20 ID:DAY232aw0
>>975
鬼和尚さん今まで沢山の質問に答えてくださり本当にありがとうございました。
今まで鬼和尚さんと質問を通した会話は本当に楽しかったです。
いつの日か本当に悟りを求める日がきたらその時はよろしくお願いします。
自分の本心を知って求める道を行こうと思います。
本当にありがとうございました。
978
:
避難民のマジレスさん
:2017/11/11(土) 21:40:54 ID:czRftzgI0
>962
自分の手という感覚が視覚だけではなく触覚の記憶からも生じている場合、視覚による観察では乖離に不十分で、さらに触覚の観察による乖離も必要なことはありますか?
今の自分の手がそんな感じがしているので質問しました。
979
:
避難民のマジレスさん
:2017/11/11(土) 23:05:07 ID:soI.jltg0
>>975
鬼和尚、ご回答ありがとうございます。
そのような意味でしたか。
となると、やはり認識が世界を作っていると考えてしまいます。
いわゆる実相などあるのでしょうか?
実相を実相と観た時点でそれは実相ではないのでは?と思ってしまいます。
それを確かめたいがため、悟りを目指しているところもあります。
541さん、哲学的な考察ありがとうございます。
私は哲学はさっぱりですが、探求していたらいつの間にか現象学的な解釈で世界を見るようになっていました。
それが本当にそうなのか、観察を通じて知れればなと思っています。
980
:
541
:2017/11/12(日) 07:28:35 ID:o7TfOr0I0
>>979
さん
お返事ありがとう御座います。是非とも、意見交換をして、お互いに悟りを深めていきましょう。
981
:
541
:2017/11/12(日) 07:32:40 ID:o7TfOr0I0
>>いわゆる実相などあるのでしょうか?
979さんは哲学にもお詳しそうなので
実相に関しては、「我々に知る事はできない」と言うのが、カント哲学の結論ですよね。
いわゆる「物自体」です。
ただ、あらゆる観念を剥奪して言った先の「存在」のようなものは感じられるような気がします。
「厭離された手」などがその片鱗を見せている気がしますね。
982
:
避難民のマジレスさん
:2017/11/12(日) 12:52:28 ID:gH6Q6Ryw0
鬼和尚は、老子と、その著作の老子道徳経をどのように評価されますか?
もし悟りに有用なら、信心銘の時のように鬼和尚の訳解をお願いしたいです。
983
:
避難民のマジレスさん
:2017/11/12(日) 15:34:33 ID:8qFvIk/s0
>>975
ありがとうございます。
普段注意して、沸きあがってきたら見るようにしてみます。
984
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2017/11/12(日) 21:37:55 ID:1d4drIFg0
>>977
よかったのじゃ。
本心を受け入れ、認める事はどのような道に行こうとも無駄にはならないじゃろう。
またおいでなさい。
>>978
それも必要じゃろう。
完全に観察できなければ厭離は起こらないのじゃ。
全てをありのままに認識するのじゃ。
実践あるのみなのじゃ。
>>979
あるのじゃ。
阿頼耶識をも滅することは認識の全てがなくなるのではないのじゃ。
本来の認識に回帰することなのじゃ。
それが悟りなのじゃ。
それによって真実の世界も見えるのじゃ。
>>982
断片しか残っていないのじゃ。
それも意味不明なのじゃ。
ほとんどが後世の創作のようじゃ。
あまり役にはたたないのじゃ。
>>983
そうじゃ、実践あるのみなのじゃ。
またおいでなさい。
985
:
避難民のマジレスさん
:2017/11/13(月) 18:41:42 ID:czRftzgI0
>978
そうですか、そのように修行します
986
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2017/11/13(月) 20:29:21 ID:1d4drIFg0
>>985
そうじゃ、実践あるのみなのじゃ。
またおいでなさい。
987
:
避難民のマジレスさん
:2017/11/14(火) 14:49:06 ID:gH6Q6Ryw0
>>984
そうだったんですね。
では、鬼和尚も悟っていたと言われていた盤珪禅師の「臼ひき歌」はどうでしょうか?
一応貼っておきますね。
988
:
避難民のマジレスさん
:2017/11/14(火) 14:49:44 ID:gH6Q6Ryw0
生れ来りしいにしへ問へば、何にも思はぬ此心。
来る如くに心を持てば、すぐに此身がみな仏。
不生不滅の此心なれば、地水火風はかりの宿。
かりの火宅に心をとめて、我ともやして身をこがす。
過去も未来も只今ばかり、心とめよより只歌うたへ。
心とめずはうき世もあらじ、何もないこそ活如来。
恋しゆかしも只今ばかり、あはぬ昔しがある故に。
昔おもへば夕べの夢よ、とかく思えば皆うそじや。
夢と思へば浮世の中に、うきもつらきもなきものを。
因果歴然我なす事を知りて迷ふは身のひいき。
有為の転変身にならはして、それに迷はば己が損よ。
989
:
避難民のマジレスさん
:2017/11/14(火) 14:50:24 ID:gH6Q6Ryw0
有為の転変わが為す事を知らで迷うて身のひいき。
うその世界をまことのやうに化しばかさる化物ぢや。
いつか五欲を身にならはして、それに習うて日をくらす。
人にをしへはもとないものぢや、是非を争ふ我身なり。
仏道修行つとめし後は、何もかはりは得ぬものぞ。
迷い悟りはもとないものぢや、親もをしへぬならいもの。
後世のつとめも此頃いやと出入の息のあり次第。
無為の心はもとより不生、無為がなき故迷ひなし。
をしやほしやと思はぬ故に、いはば世界が皆我ものじや。
きめう不思議は一つもないぞ、しらにや世界が皆ふしぎ。
かねを持たりや貧者がいやし、もたぬむかしを忘れたか。
後世を願ふとひいきを、いとど我まんにそつかけて。
悪を嫌ふを善じやとおもふ、嫌ふ心が悪じやもの。
としはよれども心はよらじ、いつも変らぬ此心。
嬉し芽出度や老せぬ君に尋あふたりや我ひとり。
我と造れる心の鬼が責めて苦しむ身のとがを。
やすく養う浄土は爰よ五萬五萬の奥もなし。
さとる心を我ぢやと思へ、念と念とで相撲とる。
さとるさとると此頃せねば、朝のねざめも気が軽い。
よきもあしきも一つにまるめ、紙につつんで捨ておけ。
死んで、世界によるひるくらせ、それで世界が手に入るぞ。
とかく浮世はもとないものぢや、心とみよより唯うたへ。
990
:
避難民のマジレスさん
:2017/11/14(火) 14:51:09 ID:gH6Q6Ryw0
仏さまこそおいとしうござる、そとの飾りにまばゆかろ。
内の仏にや、そりやまだはやい、門の仁王にまづなりやれ。
われと浄土をたづねて見たら、けつく仏にきらはれた。
鬼の心であつめた金をがきにとられて、目がまうた。
地獄嫌の、極楽好きで、らくな世界に苦をうけた。
金がほしさに命をすてて、すてて見たれば、金いらず。
冬の頃しも悦ぶたき火、夏のくるほどあらいやや。
夏の頃しも乏しき風も秋の果てぬに早やにくむ。
人にかたきもと無きものぢや、是非を争う我が成る。
991
:
避難民のマジレスさん
:2017/11/14(火) 20:20:46 ID:gH6Q6Ryw0
>>989
訂正です。
後世を願ふとひいきを、いとど我まんにそつかけて。
↓
後世を願ふとひいきを願ふ、いとど我まんにそつかけて。
992
:
避難民のマジレスさん
:2017/11/14(火) 22:07:31 ID:Nw8VwStU0
>>988
〜
>>991
現代代語訳もアップせんと、ほとんどの人は読めんじゃろう
宝の持ちぐされになってしまうのう
993
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2017/11/14(火) 22:08:27 ID:1d4drIFg0
>>988
産まれて来た根源を聞けば何も思わない心なのじゃ。
種子と言うものじゃな。
来るが如く去るが如くに心を持てば皆如来なのじゃ。
心は本来あるものではなく不生不滅の意識であるからには、物質的な肉体は仮の宿なのじゃ。
そのような物質的な肉体に囚われれば、身を焦がす苦があるばかりなのじゃ。
過去も未来も無く在るのは今ここだけなのじゃ。
そのような過去や未来に囚われずに今ここにあるのじゃ。
心が囚われなければ浮世も無いも同然なのじゃ。
そのような無の境地こそ生き仏なのじゃ。
執着も過去の想いがあるからなのじゃ。
本来は今ここにあるのみなのじゃ。
過去を思うのは夕べの夢を思うようなものであり、皆虚妄なのじゃ。
修業の因果は歴然としてあり、修業をなすべきことと知りながら迷うのは身びいきがあるからなのじゃ。
自分だけは死なないとか、特別とか思っているのじゃ。
この世の無常は誰の身にも訪れるものじゃ。
それに迷っていては損なのじゃ。
994
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2017/11/14(火) 22:09:01 ID:1d4drIFg0
実践することをも知らなければ迷い傲慢になるのじゃ。
虚妄の世界を本当のものと思って騙したり騙されたりして世を終わるのじゃ。
五欲に慣れ親しみ日を送るのじゃ。
元より仏教もないものであるが、これが正しいとかあれが間違いとか争うもののためにあるのじゃ。
修業の代わりになるものはないのじゃ。
迷いも悟りも無いものとは親でも教えてくれないのじゃ。
後世のための勤めも息のありよう次第なのじゃ。
無為の心は不生であり、無為もなければ迷いも無いのじゃ。
何かが欲しいとか惜しいとかの心は無い故に世界は皆我が物なのじゃ。
それが奇妙不思議と言うこともないのじゃ。
悟らなければ皆不思議なだけなのじゃ。
金を持った者が持っていない昔を忘れて貧乏をいやしむ様に後世を願う心や身びいきも悪なのじゃ。
悪を嫌い善を願う心も悪なのじゃ。
年はとっても心は不変なのじゃ。
不変の心に我はたどり着いたのじゃ。
自ら作った心の鬼も、この浄土にはない安楽の地なのじゃ。
悟ろうとする心があればそれが邪魔になるのじゃ。
それがなくなれば心も軽いのじゃ。
良い悪いの分別も捨てて死んで生きれば世界が我になるのじゃ。
ありもしない浮世に迷うより、心をとどめずにただ今ここにあるのじゃ。
995
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2017/11/14(火) 22:09:33 ID:1d4drIFg0
いとしい仏も外の飾りには眩いものじゃ。
心の内に仏を求めるのじゃ。
それが早ければ門の仁王になるのじゃ。
己の欲で浄土を求めれば仏にも嫌われるのじゃ。
鬼となって集めた金も餓鬼にとられておしまいじゃ。
苦しいのが嫌で快楽がすきでも苦の世界にいるのじゃ。
金が欲しくて命もイランとしても命が無くなれば金も役には立たないのじゃ。
冬には喜ばしい焚き火も夏には暑苦しいものじゃ。
夏には少ない風も秋が終わる頃には激しく吹くものじゃ。
人には元々敵も無いのに是非を争う心が敵を作るのじゃ。
996
:
避難民のマジレスさん
:2017/11/14(火) 23:30:50 ID:Y5LPInQE0
>>994
>良い悪いの分別も捨てて死んで生きれば世界が我になるのじゃ。
鬼和尚さん、良い悪いの分別を捨てて良いのでしょうか?
良い悪いの分別を捨てたら、悪事も平気で行えてしまいますよね?
997
:
避難民のマジレスさん
:2017/11/14(火) 23:33:14 ID:Y5LPInQE0
>>955
ご回答ありがとうございました
998
:
偽和尚★
:2017/11/15(水) 00:37:36 ID:???0
次スレ
鬼和尚に聞いてみるスレ part10
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立ててくれた人>乙
ということでこちらのスレは切りのいいところでストップします。(まだしません。多分明日します)
999
:
避難民のマジレスさん
:2017/11/15(水) 05:54:57 ID:1wPDzgc60
>>849
ご教授ありがとうございました。
真の原因を観察して、観念を遠離しようとする場合、観念による反応が生じた時、
体に起こる感覚を感じていれば、あるとき突然、
観念を抱くにいたった原因に気づく、ということなのでしょうか?
思考による過去への思索はいりませんか?
1000
:
避難民のマジレスさん
:2017/11/15(水) 20:13:48 ID:gH6Q6Ryw0
ありがとうございます!まさに鬼ですm(_ _)m
>>後世のための勤めも息のありよう次第なのじゃ。
これはどういったことを言っているのでしょうか?
1001
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2017/11/15(水) 21:56:51 ID:1d4drIFg0
>>996
それは己にとっての好悪の判断なのじゃ。
りんごは好きであるがみかんは嫌いと言うようなものじゃ。
それがあれば執着も生まれ、苦と迷いのもとになるものじゃ。
>>999
そのようなこともあるじゃろう。
思索によることも出来るじゃろう。
記憶を観察して思い出して原因に気付くこともあるじゃろう。
原因に気付く事はさまざまな道があるものじゃ。
注意深く追求していくのが大事なのじゃ。
>>1000
今の息をしている間、日々の生活の中で善事をしたり修業したりすることじゃな。
生きるとは息をしていることなのじゃ。
生きているときの行いが大事ということじゃな。
1002
:
鬼和尚
◆GBl7rog7bM
:2017/11/15(水) 21:57:27 ID:1d4drIFg0
>>998
ご苦労さんなのじゃ。
正に菩薩の行ないじゃ。
1003
:
偽和尚★
:2017/11/15(水) 23:11:11 ID:???0
それではこちらのスレはストップします。
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