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 佛教の經典・祖録・禪語等の保管庫

1安堂拓海 ◆3LK.0gZrV2:2012/01/17(火) 02:13:41 ID:iNWvsNmI0
もともとは仏法仏道は円かに全体に通じている。どうやって修行して悟りを証する必要があるというのか。
仏の教えという乗り物は自由自在で何処にでも誰にでもある。どうして巧夫してそれを得ようというのか。
ましてや何もかも全てが塵埃煩悩穢れなど越えているのであり、
誰がその塵埃を払拭する手段が必要だと信じるというのか。
おおよそはじめからド真ん中にいるのだ。だから悟りのための修行行脚に出る必要などないのだ。
だが、わずかでも分別が生ずれば、天地の差が生じてしまう。自分の主義と違うとか同じだとか、
そういう分別がわずかでも起これば滅茶苦茶になって仏心は失われてしまう。
仏法をわかったつもりになり、悟った気になり、瞥地の智通をチラ見して、仏道を得て、心を究め、
天にも昇るような自信を得るかもしれない。だがそれは入口周辺を知って調子に乗ってるだけで、
迷悟善悪仏悪という対立から脱出する活路を欠いているのだ。
生まれながらの智者である釈迦牟尼が、六年端坐したのを知るべきだ。
少林寺に仏心印を伝えた達磨が面壁して九年端坐したのも知られている。
現代人の我々がどうして坐禅をしないでいられようか。


『普勧坐禅儀』

2安堂拓海 ◆3LK.0gZrV2:2012/01/17(火) 02:29:03 ID:iNWvsNmI0

だから書物や文章を読んでわかろうとする哲学的究明をいい加減やめたまえ。
外を照らすのではなく、内なる自己を照らし、本来の自己へ戻りたまえ。
さすれば身心は自然に脱落して、本来の面目が現れるだろう。
完全なる解脱を得たいと思うなら、今すぐ坐禅をせよ。


『普勧坐禅儀』二

3安堂拓海 ◆3LK.0gZrV2:2012/01/17(火) 02:37:21 ID:iNWvsNmI0
坐るなら静かな部屋で飲食を慎み、諸縁を捨て、万事休息し、
善悪を思わず、是非に及んではならない。
念想観の測量はやめて心意識の運転停止したまえ。仏になろうとか思ってはならない。
行住坐臥にかかわらずそのようにしているべきである。
厚い敷物の上に坐蒲を起き、結跏趺坐か半跏趺坐すべし。
結跏趺坐は右足を左足の上、次に左足を右足の上に置く。
半跏趺坐は左足を右足に置く。衣はゆるいのがいいが整ってるものを着るべし。
次に右手の掌に左手の掌を起き親指同士をくっつけて定印をつくり、
正身端座して左右前後にグラグラ揺れてはならない。 耳と肩は地面に対し垂直にし、
鼻と臍も地面に対し垂直にし、舌は上顎につけ、歯にもつけよ。
目は常に開いておくべきだ。息は鼻から微かにすべし。
まずは深く深呼吸してから、左右に体を揺らして真ん中に定め、 不思量底を思量する。
不思量底をどうやって思量するするか。非思量が坐禅の要術である。

『普勧坐禅儀』三

4安堂拓海 ◆3LK.0gZrV2:2012/01/17(火) 02:56:23 ID:iNWvsNmI0

いわゆる坐禅というのは、何らかの方法で無になったりするものではなく、安楽の法門なのだ。
これは悟りや佛道を極め尽くすための修行であり悟りなのだ。
何ら手を付けずに悟り仏法であり、牢獄や檻などないに等しい。
こうなれば龍は水を得たように昇天する様に、山を縄張りにする虎の如くに近寄りがたい様に誰も寄せ付けぬ。
そのように励めば正法は自ずから現れ、心が沈んだり乱れたりすることは消え失せることを知りなさい。

もし坐から起きるときには、ゆっくりと体を動かして、緩りと起きなさい。
急に雑で性急な動きをしてはならない。

『普勧坐禅儀』四

5安堂拓海 ◆3LK.0gZrV2:2012/01/17(火) 03:35:23 ID:iNWvsNmI0

かつては、凡を越え、聖を越え、坐したまま、立ったまま死した者もこの力による。
倶胝に対する天龍和尚の一指禅、迦葉が阿難に命ずる門前の旗竿を降ろせ、
提婆の一針、釈迦が坐れば文殊が鎚を打つ・・・、などの転機によって悟らせた。
よって馬祖の払子で百丈大悟、趙州が庵主に拳上げてありや、徳山は棒で叩き、臨済は喝をくらわす、
というのも当然の悟りの転機だ。それらは思量分別で解るものではない。
かの神通力ですら修行や悟りは解らないことなのだ。
人間の見たり聞いたりすることを越えた威儀なのだ。
いったい誰が人間を越えたこの知識や見解たる真理を知りえようか。

『普勧坐禅儀』五

6安堂拓海 ◆3LK.0gZrV2:2012/01/17(火) 03:49:26 ID:iNWvsNmI0

このように経典・祖録・禅語などの一片を載せて欲しい。

誰でもわかる現代語にしてな。どんな経でもかまわん。

誰かの役に立つかもしれない。

お願い申す。


普勧坐禅儀は最後まで今後私が記す。

7安堂拓海 ◆3LK.0gZrV2:2012/01/17(火) 04:09:12 ID:iNWvsNmI0

よって頭が良いか悪いかは関係ない。要領が良い悪いも関係ない。
専一に巧夫して坐ればだれもが弁道なのだ、誰でも修行しておるのだ。
修行の中に、自分は悟ったとか、未だ悟れず迷いだとかは無い。
修行も悟りも、浄なるも汚なるもなく平常でもとのままなのだ。
この世に於いては何処でも同じく仏法を伝えてきたのだ。
ただ何者にも邪魔されずに坐禅に打ち込んできたのだ。
様々な道はあれども坐禅をして只管打坐に参ずべし。
どうして自分のやるべきことがあるのに、他のところをうろつき回って探すのか。
坐禅に専一に打ちむのだ。少しでも外れれば天地の差が出て的外れになってしまう。

『普勧坐禅儀』六

8安堂拓海 ◆3LK.0gZrV2:2012/01/17(火) 04:32:17 ID:iNWvsNmI0
すでに人には備わっている要があるのだ。虚しく光陰たる日々を過ごしてはならん。
佛道の機要をしっかり保って守っていろよ。
誰が火打ち石に生じた火花の如くに短く儚い世を楽しむというのか。
そればかりでなく、体は草木の露のようで、命運も雷光の如く儚いものと同じではないか。
あっという間に、これら体も命も刹那のうちに消え失せるものと。

本気の坐禅修行者にはこいねがう。
全体の一部に過ぎない偽仏法で調子に乗って、真なる仏法を疑ってはならない。
直指端的のド真ん中仏道に精進し、思想哲学を越えた人を尊び、仏と仏らに合わさり、
祖師方の三昧の嫡子となれ。


『普勧坐禅儀』七

9安堂拓海 ◆3LK.0gZrV2:2012/01/17(火) 04:38:01 ID:iNWvsNmI0

そして、長らく坐禅の修行してきたた者は、やっただけやったことを受ける。
つまり、宝蔵は自ら開き、自らそれを開けて、
思いのままになるのだ!!!!!!!!!!!!!!!!!

『普勧坐禅儀』八 終

10安堂拓海 ◆3LK.0gZrV2:2012/01/18(水) 00:54:32 ID:iNWvsNmI0

壹、菩提心を発すべき事
貳、正法を見聞して必ず修習すべき事
參、仏道は必ず行に依りて証入すべき事
肆、有所得心を用って仏法を修すべからざる事
伍、参禅学道は正師を求むべき事
陸、参禅に知るべき事
柒、仏法を修行して出離を欣求する人は須く参禅すべき事
捌、禅僧行履の事
玖、道に向かって修行すべき事
拾、直下承当の事

『学道用心集』

11安堂拓海 ◆3LK.0gZrV2:2012/01/19(木) 02:05:58 ID:iNWvsNmI0

天竺の大仙人である釈迦の心は、東から西へしかと伝えられてきた。
人には賢人も愚人もいるが、佛道に南宗禅北宗禅の違いはないのだ。
もとの霊源は無色透明で明らかであったが、支派が多く出て暗くて
わからなくなってしまった。分かれた多くの支派ばかりに
目を奪われていると、元の霊源を見失って迷いだ。
理法にしがみついているのも、また悟りではないのだ。

          『参同契』

12安堂拓海 ◆3LK.0gZrV2:2012/01/19(木) 02:19:29 ID:iNWvsNmI0

六根と六境は、一如の世界と差別の世界を回って、お互いに関わりあっている。

それがなければ、どこかに留まることになる。

眼に見える色の物質的世界は質や形態が異なっており、

耳が聞く声境もいいことと嫌なことが元々異なっている。

            『参同契』

13安堂拓海 ◆3LK.0gZrV2:2012/01/19(木) 02:34:46 ID:iNWvsNmI0

暗の平等界では、上流も中流も言うことは同じく合しておるが、

明の差別界では、清濁浄垢生滅増減の二元論に分かれてしまう。

四大である地水火風の性質は自ずから復元するもので、

子供が母親に再会するようなものである。

             『参同契』

14安堂拓海 ◆3LK.0gZrV2:2012/01/19(木) 02:46:57 ID:iNWvsNmI0

火は熱し風は吹く、水は潤い地は堅固、

眼は色を見、耳は音を聞き、鼻は香を嗅ぎ、舌は味を感じる、

しかもこれら一つ一つの法は根本から枝分かれして葉に分布している。

本末たる始めも終わりも、みんな宗たる元に帰らなければならん。

貴族も平民もそれぞれの話し言葉を用いるところに・・・。

               『参同契』

15安堂拓海 ◆3LK.0gZrV2:2012/01/19(木) 02:59:24 ID:iNWvsNmI0

明中たる差別界にあっても、暗の平等界はあるのだ、

暗相の平等界に浸って、明相の差別界を疎かにしてはならない。

暗中たる平等界にあっても、明の差別界はあるのだ、

明相の差別界に浸って、暗相の平等界を疎かに観てはならない。

明相と暗相は相互が関係しあっており、

例えるなら、右足を出せば、次に左足が前に出るようなものだ。

              『参同契』

16安堂拓海 ◆3LK.0gZrV2:2012/01/19(木) 03:12:14 ID:iNWvsNmI0

万物たるすべてのものは自ずから役割というものがあるのだ。

まさに用途と場所があるはずだ。

事が存すれば、函と蓋がピタリと合い、理が合えば互いに放った矢先がぶつかるようなもの。

言葉を承れば、宗たる大元に戻るべきで、自分の立てた物差しで測ってはならない。

             『参同契』

17安堂拓海 ◆3LK.0gZrV2:2012/01/19(木) 03:23:29 ID:iNWvsNmI0

目で物が見えたとしても、道とは何かがわからないならば、

ただ足を動かして歩いていても、どうして道路を知ることができるのか。

歩みを進めても、近いとか遠いとかいうことではない。

迷って山と河の隔たりが生じてしまうのだ。

参ずる者に謹んで申し上げる、年月を無駄に過ごしてはならない。

             『参同契』 完

18n:2012/02/04(土) 17:18:42 ID:xPYhjiK60
集団ストーカー犯罪者のオッサンに贈る言葉

サンキッチャ沙弥は、彼らに「生きる」ということがどういうものかを明確に説明しました。
「生命というのは機械みたいに生きているだけではないでしょうか。ただ生きるだけで、せいいっぱいでしょう。何とかして生きる。強盗でも、人殺しでも、何でもして生きる。何のために生きるのかと瞬間でも考えることはしません。国王であろうとも、あなた方みたいな殺人者であろうとも、みんな生きることに必死になってはいますが、結局人は誰でも老いて、病気になって、死んでいくでしょう。ですから、人は何をして生活しても、ただ無意味で無駄なことをやっているだけです。みんな確実に死ぬのです。王様も大臣も知識人も一般人も、あなた方みたいな犯罪者も、みんな死んでしまうのですから、あなた方の、とにかく生きよう、なんとでもして生きよう、という行動は、あまりにも無知でおかしくて、見ていられません。私にとっては、あなた方が私を殺そうとしたその馬鹿げた行動さえもおかしくてたまらなかったのです。生け贅までして、この妙なおじさんたちは生きようとしているのではないか。でも結局みんな死んでしまう。生きられるわけではない。それさえわかっていないのだなあと私は考えていました。私は子供かもしれませんが、人間として生まれてきた目的を達成しています。今死んでも、年をとってから死んでも、私にとってはどちらでもかまわないことです。あなたがたもこんなくだらないばかばかしい生き方をやめて、何のために生きるかと自己観察し、それを発見されてはいかがでしょう」

19n:2012/02/04(土) 19:43:29 ID:xPYhjiK60
自殺の苦しみは単純に殺されるよりも深い


プンナ:スナーパランタという地方に定住して伝道しようと思います。


ブッダ:スナーパランタの人は凶悪である。しかも粗暴である。人々がお前を罵り嘲ったならば、お前はどのように対処するか。


プンナ:そのときはこのように思いましょう。「スナーパランタの人は皆んな、よき人々である。なぜなら私を掌をもって打つことがないから」と。


ブッダ:されどプンナよ、掌をもって打ったらどうするか。


プンナ:私はこのように思いましょう。「スナーパランタの人は皆んな、よき人々である。なぜなら土塊をもって打つことがないから」と。


ブッダ:されどプンナよ、杖をもって打ったらどうするか。


プンナ:私はこのように思いましょう。「スナーパランタの人は皆んな、よき人々である。なぜなら刀剣をもって打つことがないから」と。


ブッダ:されどプンナよ、刀剣をもって打ったらどうするか。


プンナ:私はこのように思いましょう。「スナーパランタの人は皆んな、よき人々である。なぜなら命を奪うことがないから」と。


ブッダ:されどプンナよ、命を奪ったらどうするか。


プンナ:私はこのように思いましょう。「スナーパランタの人は皆んな、よき人々である。なぜなら世尊の弟子の中には苦悩のために刃物をとって死を求めるものもおります。私は自分で刃物をとらないで死ぬことができる」と思いましょう。


ブッダ:お前は自制力と安穏な心を持っている。(p.123)


     『ブッダの人と思想』中村元・田辺祥二

http://deathofgangstalkers.blogspot.com/2012/02/blog-post.html

The Death of Gangstalkers  <集団ストーカーの死>にても掲載中

20n:2012/02/05(日) 23:39:39 ID:XCh81jy20
こんにちは

自殺を助長するアメリカの集団ストーカー犯罪に関するブログ更新です

http://americanobotsuraku.blog132.fc2.com/blog-entry-46.html


『拝啓 日本のギャングストーカー犯罪者の皆様』

「・・この10年だけで30万人以上自殺。広島・長崎の原爆で殺された人の数に匹敵。これはどう考えても正常な国ではない」

【ストーカー側の罪悪意識を被害者に転嫁させるためのストーキング】その5

21安堂 ◆3LK.0gZrV2:2012/08/07(火) 03:11:44 ID:S9sDEAhM0

遊びをせんとや生れけむ、

戯れせんとや生れけん、

遊ぶ子供の声きけば、

我が身さえこそ動がるれ。

『梁塵秘抄』法文歌

22安堂 ◆3LK.0gZrV2:2012/08/10(金) 02:17:58 ID:S9sDEAhM0

人のいない林は楽しい。

世人の楽しまないところにおいて、

愛著なき人々は楽しむであろう。

かれは快楽を求めないからである。

23安堂 ◆3LK.0gZrV2:2012/08/20(月) 02:39:11 ID:OCZ2H4N20
禅病が起こった時は、意識を両足の上に集めて坐りなさい。

心が沈む時は、意識を眉間に集めなさい。

心が落ち着かないときは、意識を鼻の頭、もしくはその奥の方に集めなさい。

一般に坐るときには、左手の掌に集めなさい。

長く坐っていると、必ずしも寂静境に落ち着かなくても、心は自然と落ち着いてきます。

坐禅用心記

24安堂 ◆3LK.0gZrV2:2012/10/26(金) 01:03:47 ID:ii2zRgw.0
今いう我とは釈尊自身のことでない。釈尊もこの「我」から生まれてきたんや。
ただ釈尊が生まれたばかりでない。大地も一切の生類も、悉くがこの「我」より生まれたんや。
大綱を持ち上げりゃ、網目がみな持ち上げって来るように、釈尊の成道の瞬間、
大地も一切の生類も成道するんや。ただ現在する大地生類一切が成道するだけやなく、
過去現在未来の諸仏全て成道するんや。

25安堂 ◆3LK.0gZrV2:2012/10/26(金) 01:09:02 ID:ii2zRgw.0
諸法は悉く本来的に不生。万象の中の一法たる山は本来的に一法たる山ではない。
一法たる水は、本来的に一法たる水ではない。不肖の性である。
そこで阿難は商那和修の袈裟の角を指したのだ。袈裟の角もまたその体は、
そのままもと不生の性だ。

26安堂 ◆3LK.0gZrV2:2012/10/26(金) 01:11:51 ID:ii2zRgw.0
参禅とは必ずみずから坐禅し悟ることだ。しかし自分だけで悟ったつもりならば、
邪道に落ちやすい。そこで悟ったなら、正師にあわねばならん。
もし正師にあわなんだら、いたずらに分別計度して安心できない。
このこと思うに、実に参禅というは大切なことである。

27安堂 ◆3LK.0gZrV2:2012/10/26(金) 01:16:43 ID:ii2zRgw.0
釈尊がどんだけ優れた理論を説いて、場や人に応じて説かれた無数の説法の内容が
千差万別であったといってもただ「このこと」と説いているきり。
だから仏は、天上天下唯我独尊であるから仏とうのでもないし、真如から来て真如に去る
なんて、一歩突っ込んで言えば、真如遍在だから来るも去るもない。無來無去だが、
その当体を仏というかというと違う。

28安堂 ◆3LK.0gZrV2:2012/10/26(金) 01:20:11 ID:ii2zRgw.0
あらゆる仏法の法門も、限りない仏法の妙理も、坐禅工夫の中で、機縁にふれて
自分の肌で感得できなけりゃ、煩悩妄想の流れになってとどまることを知らない有様になる。

29安堂 ◆3LK.0gZrV2:2012/10/26(金) 01:26:50 ID:ii2zRgw.0
出家など我も我所もない我の露呈だ。身とか心が出家するとか思わんことだ。
身心は変滅するが、無我我は不変の大我だ。大我は諸仏でも衆生でもなく迷悟を超越してる。
肉体とか精神でもないし、輪廻してる三界六道の世界でもない。これらは生滅するものだし。
心は定まった形態相貌なし。
眼耳鼻舌身の作用や判断推量の知も妄分別の変動だから心の実相にあらず。
心の実相は、過去未来を行ったり来たりもせず、動いたり静まったりもしない。
このように見抜いた者は、知ったといえるが知的理解どまりの奴だ。

30安堂 ◆3LK.0gZrV2:2012/10/26(金) 01:28:57 ID:ii2zRgw.0
以上、伝光録(瑩山禅師)から・・・。少々簡略した。

31安堂 ◆3LK.0gZrV2:2012/10/30(火) 00:49:28 ID:ii2zRgw.0


みずから自分を励ませ。みずから自分を反省せよ。

修行僧よ。自己を護り、正しい念いをたもてば、汝は安楽に住するであろう。

実に自己は自分の主である。自己は自分の帰趨である。

故に自分をととのえよ。商人が良い馬を調教するように。

喜びにみちて仏の教えを喜ぶ修行僧は、動く形成作用の静まった、幸いな、やすらぎの境地に達するであろう。

たとい年の若い修行僧でも、仏の道にいそしむならば、雲を離れた月のように、この世を照らす。

32安堂:2012/11/02(金) 00:40:06 ID:ii2zRgw.0
不生にして霊明なのが仏心に極りきったというのを、
人々皆決定して、不生の仏心で御座る人は、今日より未来永劫の活如来と申すものでござるわいの。
不生なが一切のもと、不生なが一切のはじめでござるわいの。
不生より一切の始という物はござらぬゆえに、不生なれば諸仏のもとで居るというもので御座る。
所で、不生にして居れば不滅というもむだ事でござれば、身どもは不生というて、不滅とは申さぬ。
生ぜぬものの滅するという事はなきほどに。

33安堂:2012/11/02(金) 00:42:22 ID:ii2zRgw.0
親の産み付けたもつたは、仏心一つでござる。
その仏心は不生にして霊明なものでござって、不生で一切の事が調いまする。
その不生で調いまする証拠は、皆の衆がこちら向いて、身共が云ふことを聞いてござるうちに、
後ろにて烏の声、雀の声、それぞれの声が、聞かうとも思ふ念を生ぜずに居るに、
烏の声、雀の声が通じ別れて、聞き違はず聞かるるは、不生で聞くといふものでござる。
そのごとくに皆、一切の事が不生で調ひまする。これが不生の証拠でござる。
その不生にして霊明なる仏心に極まつたと決定して、直に不生のままで居る人は、
今生より未来永劫の、活如来でござるわいの。

34安堂:2012/11/15(木) 01:48:02 ID:dQGgUa0s0
これから、ヨーガについて、解説をしよう。
ヨーガとは、心の作用を止滅することである。
心が止まると、真我は、自己本来の姿に止まる。

心が動くと、真我は、心の作用と同化して、
心が止まると、真我は、心の作用と分離する。
分離をした、本来の真我は、純粋観照者である。

心の作用は、正知、誤謬、分別、昏睡、記憶。
このそれぞれが、煩悩性と非煩悩性に分かれる。

正知とは、正しい知識であり、三種類がある。
経験による知識、推理による知識、聖典の知識。

誤謬は、実態に基かない、不正な知識である。
分別とは、陰陽に分かれる、固定の観念である。

昏睡は、意識が隠される、虚空の体験である。
記憶とは、意識に現われる、過去の経験である。

心に生じている、種々の作用を越える為には、
修習と離欲という、二つの方法が不可欠である。

修習とは、繰り返し、努めて行うことである。
心の動きと、逆に繰り返せば、心は止り始める。

離欲とは、あらゆる対象から、遠離すること。
最終的には、三つのグナからも、離れてしまう。

35安堂:2012/11/15(木) 01:48:49 ID:dQGgUa0s0
三昧とは、主体と客体の合一のことである。
有想三昧は、想念の有る、三昧のことであり、
無想三昧とは、想念の無い、三昧のことである。

有想三昧は、想念の種類で、四つに分かれる。
第一には、有尋であり、粗大な心の作用を伴う。
第二には、有伺であり、微細な心の作用を伴う。
第三には、有楽であり、平安な心の状態を伴う。
第四は、有我想であり、純粋な心の状態を伴う。

尋が消え、伺も消え、楽も消え、我も消えて、
最後に、行だけが残ると、有想から無想となる。

色界や無色界の神々は、無想三昧で居るが、
その他の者は、精進の結果、無想三昧に至る。
解脱への欲を持つほど、無想三昧の完成は早い。

即ち、信念が生まれると、精進が生まれる。
精進が生まれると念想、念想が生じると三昧、
三昧が生じると真智、これは欲により早くなる。

36安堂:2012/11/15(木) 01:49:44 ID:dQGgUa0s0
自在神を祈念しても、無想三昧に到達する。
自在神とは、煩悩に塗れてない、真我であり、
自在神は、一切知の最高の種子を、持っている。

自在神は、時間を越えた、存在であるため、
過去のグルにとっても、自在神はグルである。
その至高神を、音で表した物が、AUMである。

AUMを唱えながら、自在神を念じなさい。
そうするならば、内観の力を得ることにより、
ヨーガに対する障害を、無くすことが出来よう。

病、無気力、疑、放逸、怠惰、貪欲、妄見、
三昧に入れないこと、三昧に止まれないこと。
この九つが障害であり、全て心が散動している。

このように、心が動くほど、手足が震えて、
呼吸が乱れて、苦悩や不満が噴き出して来る。
これを治すには、繰り返し、思念を集中させる。

慈の心とは、他の幸福に対して、注ぐ心であり、
悲の心とは、他の不幸に対して、注ぐ心であり、
喜の心とは、他の善行に対して、注ぐ心であり、
捨の心とは、他の悪行に対して、注ぐ心である。

このように、心を念じても、心が安らかになる。

眼の先に、心を集中させると、良き色が生じて、
耳の先に、心を集中させると、良き音が生じて、
鼻の先に、心を集中させると、良き香が生じて、
舌の先に、心を集中させると、良き味が生じて、
身の先に、心を集中させると、良き触が生じる。

このように、心を念じても、心が安らかになる。

或いは、呼吸法を行じても、心が動じなくなる。
或いは、純質性を高めても、心が動じなくなる。
或いは、聖者方を念じても、心が動じなくなる。
或いは、神に夢で会っても、心が動じなくなる。
或いは、熟睡し目覚めても、心が動じなくなる。
或いは、好む物を念じても、心が動じなくなる。

これらの法をして、心が動かなくなった者は、
極微から、極大まで、すべての物を治められる。

こうして、心の作用が、完全に消えたとき、
心は、認識主体の真我か、認識客体の対象か、
認識手段の器官かに止まる、これが禅定である。

37安堂:2012/11/15(木) 01:50:19 ID:dQGgUa0s0
禅定には、有種子三昧と無種子三昧がある。
有種子三昧は、輪廻の原因が残る三昧であり、
無種子三昧とは、輪廻の原因が無い三昧である。

有種子三昧は、尋伺の有無で、四つに分れる。
第一には、ヴィタッカが残った、有尋定であり、
第二には、ヴィタッカが消えた、無尋定であり、
第三は、ヴィチャーラが残った、有伺定であり、
第四は、ヴィチャーラが消えた、無伺定である。

たとえば、鐘を鳴らすと、後まで響くよう、
ヴィタッカ、尋とは、鐘を鳴らすことであり、
ヴィチャーラ、伺とは、後まで響くことである。

たとえば、馬に乗るとき、乗り続けるよう、
ヴィタッカ、尋とは、馬に跨がることであり、
ヴィチャーラ、伺とは、乗り続けることである。

無伺定を繰り返すと、内なる清澄が生じる。
それは、サットヴァが、優位になった状態で、
その中から、直観智、プラジュニャーが生じる。

この直観は、具体的であり、個別的である。
サットヴァに基づく行は、他の行を抑え込み、
純粋なるサットヴァに導く、性質を有している。

そして、最後に、このサットヴァも越えると、
一切の心の作用が消滅して、無種子三昧となる。

38避難民のマジレスさん:2012/12/19(水) 02:16:48 ID:.PE8Yo7g0
249 :神ちゃま :2012/12/19(水) 02:06:29.52 ID:7vsXCznI
> わたしの魂を守り、わたしを助け出し

> 恥を受けることのないようにしてください。


・・・・・・・・却下!!

250 :安堂 ◆3LK.0gZrV2 :2012/12/19(水) 02:09:56.55 ID:dWr3AwDq
>>249

我に刃向かう神など消え失せろ!

251 :パーピマン ◆hf7IuUESTg :2012/12/19(水) 02:10:01.77 ID:7vsXCznI
>やっぱりオレ以外にもパーピマンに迫害されている人がいたよ。

こいつ、今まで自分のしてきたことに「反省のはの字」もねえなwwww

252 :パーピマン ◆hf7IuUESTg :2012/12/19(水) 02:11:55.56 ID:7vsXCznI
ん????  トリが変わった?  何故だ??


悪魔の自演へたすぎ
ばーかwww

39安堂:2013/07/12(金) 02:31:45 ID:iwMdIaew0
上堂云く、
赤肉団上に一無位の真人有り。
常に汝等諸人の面門より出入す。
未だ証拠せざる者は、看よ看よ
時に、僧有り出でて問う。
如何なるか是れ無位の真人。
師、禅床を下って把住して云く、
道え道え。
其の僧擬議す。
師托開して云く、
無位の真人是れなんの乾屎橛ぞ。
便ち方丈に帰る。

40乱入:2013/08/14(水) 13:36:42 ID:wqr.6GRM0
仏教の阿含経典では、この三昧に至る過程には、まず初禅から第四禅までの4段階があるとする。
続いて空無辺処・識無辺処・無所有処・非想非非想処の4段階があるとする。

・空無辺処
(くうむへんしょ)とは、無色界の(下から数えて)第1天。無量空処(むりょうくうしょ)とも言う。
 物質的存在がまったく無い空間の無限性についての三昧の境地。

 物的存在たるこの肉体を厭い、無辺の虚空の自在を欣び、空無辺の理(ことわり)を解し、
 修行して生ずる処である。欲界と色界とにおける一切の物質的な形を離れ、 
 一切の作意のない、無辺の空を観じる禅定。形のあるこの肉体を厭い、
 大空は無限であることを達観すること。無色界には空間的な場所はないが、
 果報の違いに依って感じるので「処」と名付ける。

・識無辺処
(しきむへんしょ)とは、無色界の(下から数えて)第2天。認識作用の無辺性についての三昧の境地。


無色界の初天である空無辺処を越えて、その空の無辺なるを厭(いと)い、心を転じて識を縁じ、
 識と相応し心定りて動かず、三世(過去・現在・未来)の識が悉く、定中に現じて清浄寂静なる
 果報をいう。外の虚空の相を厭い、内なる識を観じて、識が無辺であると達観すること。

・無所有処
(むしょうしょ)とは、無色界の(下から数えて)第3天。いかなるものもそこに存在しない三昧の境地。


 空は無辺なりと観じて、空を破した人が、さらに識が三世(過去・現在・未来)にわたって無辺であるを
 厭(いと)い、所縁共に所有なしと観じ、この行力に依って生まるる処であるから、無所有処地という。
 何も存在しないと観察し達観する事。

・非想非非想処
 (ヒソウヒヒソウテン)とは輪廻にかかわる世界全体を表す「三界」と呼ばれる3つの世界の最も上位にある
 「無色界」の、さらに最上位が非想非非想天と呼ばれる領域。

 この「無色界」は思考と精神作用のみになった者の世界ではあるが、思考は残っているので煩悩を完全に
 捨て去った訳ではない。その煩悩の捨て去り具合によってさらに段階が分かれており、ほぼあらゆる煩悩を
 捨て去る事に成功している(非想)が、まだちょっとだけ残っていて完全ではない(非非想)状態を指す。
 完全では無いが、一応一番上。

41乱入:2013/08/14(水) 13:37:12 ID:wqr.6GRM0
釈尊自身が色界四禅定(jhana)に順次入定してから解脱した例に見られるように,禅定は,仏教では悟りへの道において重要な役割を果たしている.第一禅定への入定の仕方がパーリ経典に明示されるが,それは悟りに必要な信・精進・念・定(samadhi)・慧の五力の順に沿って説かれている.修行者は,まず如来の教法を聞き,如来に対する信を得る.法を聞き法に随い(随法),如来に対する信(saddha)を持つ(随信)ことは,悟りに向かう者が正しく踏み出す第一歩である.仏教において入定次第は,その始めから,禅定体験自体を目的とするものではなく,悟りに導くプログラムに組み込まれている.修行者は次に戒律によって身業と語業を守り(精進),仏教独自の観(vipassana)瞑想に基づく念(sati)という修行法によって意業を守る.念とは,眼耳鼻舌身意の六根から入る刹那毎の現象を次々にただ感受したままに確認し,思考や,それから生じるあらゆる感情・煩悩をはたらかせない行法である.念が身に付くと,修行者は禅定に入るために結跏趺坐し上半身を垂直に保ち,念を正面に据える.五力の中の定(samadhi)である.定(samadhi)は未だ禅定(jhana)に入ってはいないが,念を一点に集中する止(samatha)瞑想という行法である.念を一点に定めていると,智慧(panna)が現れるのを妨げている五蓋と呼ばれる煩悩が次々に取り除かれる.この智慧の現れが悟りの第一歩である.智慧が現れると,必然的に第一禅定(jhana)に入定する.パーリ経典では,止瞑想を仏道修行に取り入れることで,集中力や禅定との相乗効果によっで悟りがより確実にスムーズに得られるようにプログラムされていた.

42乱入:2013/08/14(水) 13:37:47 ID:wqr.6GRM0
「空観 仮観 中観」を映画に例えてみると(再転写)

・空観=常に「映画というのは全てフィクションなのだ」と言う視点で映画を観る見方

・仮観=映画はフィクションだがそのストーリーには役割があり意味があるので
    ストーリーの中に入いり込む

・止観=自分を常に第三者として観ながら冷静に判断する事で↓
・中観=空観のフィクションだと認識しつつ、仮観の役割を認めフィクションの
    世界に価値を見出す視点

43乱入:2013/08/14(水) 13:38:40 ID:wqr.6GRM0
諸行無常は 全ての行いは常に流動変化するものであるのだから

苦も流動変化する無なのだろう


クレーマーのお客の対応も 流動変化する時間の中では 就業時間が過ぎれば

そこには 生じていない 事象ではないのだろうか?

生老病死 の苦も 死んでも魂が残ると信じられている仏教の中においては

流動的な無常なのでしょう

諸行無常なのだから 不苦不楽 も流動変化し滅する苦になると考えるのが

一切皆苦である


一切皆苦 には 諸行無常を合わせてみる

全ての行いは常に流動変化するものであるのだから 苦も流動変化する無なんだよ 

だから無を理解しなさいという事なのだろう

44乱入:2013/08/14(水) 14:36:33 ID:wqr.6GRM0
苦諦

苦諦(くたい)とは人生の厳かな真相、現実を示す。「人生が苦である」ということは、仏陀の人生観の根本であると同時に、これこそ人間の生存自身のもつ必然的姿である。このような人間苦を示すために、仏教では四苦八苦を説く。

四苦とは、生・老・病・死の4つである。これに、
愛する対象と別れねばならない「愛別離苦」(あいべつりく)
憎む対象に出会わなければならない「怨憎会苦」(おんぞうえく)
求めても得られない「求不得苦」(ぐふとっく)
最後に人間生存自身の苦を示す「五陰盛苦」(ごおんじょうく)、または「五取薀苦」(ごしゅうんく)

を加えて「八苦」と言う。非常に大きな苦しみ、苦闘するさまを表す慣用句「四苦八苦」はここから来ている。

集諦

集諦(じったい)とは、苦が、さまざまな悪因を集起させたことによって現れたものである。という真理、またはこの真理を悟ることを言う。 集諦とは「苦の源」、現実に苦があらわれる過去の煩悩をいうので、苦集諦といわれる。「集」とは招き集める意味で、苦を招きあつめるものが煩悩であるというのである。

この集諦の原語は「サムダヤ」(samudaya)であり、この語は一般的には「生起する」「昇る」という意味であり、次いで「集める」「つみかさねる」などを意味し、さらに「結合する」ことなどを意味する。その点、集の意味は「起源」「原因」「招集」いずれとも解釈できる。

苦集諦とは "duHkha-samudaya-satya" とあるので、「苦の原因である煩悩」「苦を招き集める煩悩」を内容としている。そこで、具体的には貪欲や瞋恚(しんに)、愚痴などの心のけがれをいい、その根本である渇愛(かつあい)をいう。これらは欲望を求めてやまない衝動的感情をいう。

さて、仏教において苦の原因の構造を示して表しているのは、十二縁起である。この十二縁起とは苦の12の原因とその縁を示している。十二縁起より、苦とは12の原因のシステムという事になる。12個集まってそれ全体が苦なのである。だから、「無明」も「渇愛」も、苦の根本原因であり苦集諦である。

滅諦

滅諦(めったい)とは、「苦滅諦」といわれ、煩悩が滅して苦のなくなった涅槃の境地を言い、いっさいの煩悩の繋縛(けばく)から解放された境地なので解脱の世界であり、煩悩の火の吹き消された世界をいう。または、苦の滅があるということを認識すること、すなわち苦の滅の悟り、または苦の滅を悟ることを滅諦という。

具体的には、諸法皆空という言葉で言われているように、森羅万象全ての法、すなわち諸法はすべてこれ空であって、実体のあるものではなく、因と縁から成り立っているものであり、苦は縁であり、縁は因(たとえば心や行いなど)を変えることによって変わりうるという悟りであるとも言える。

道諦

道諦(どうたい)とは、「苦滅道諦」で、苦を滅した涅槃を実現する方法、実践修行を言い、これが仏道すなわち仏陀の体得した解脱への道である。その七科三十七道品といわれる修行の中の一つの課程が八正道である。

45乱入:2013/08/14(水) 14:47:16 ID:wqr.6GRM0
四諦(苦諦 集諦 滅諦 道諦)

苦というのは 苦を集める仕組みを知り 苦を集める因縁を知り 苦を無くす道を知る(戒律 八正道 等)

ところが >>43

で 言っている通り

「一切皆苦 には 諸行無常を合わせてみる

全ての行いは常に流動変化するものであるのだから 苦も流動変化する無なんだよ 

だから無を理解しなさいという事なのだろう 」

と この真理を理解すると

般若心経で言っている通り 無苦集滅道 と 苦集滅道を考えなくとも 無を理解すると

解決してしまう事になるのである

46乱入:2013/08/14(水) 14:54:33 ID:wqr.6GRM0
般若心経にて 色即是空 空即是色はあまりにも有名である

解説書によると 色即是空 = 諸行無常 + 諸法無我 としているんです。

色即是空 が 常に無なんですよを 包括しているのなら

逆行する 空即是色 が 成り立たないんですよ

なので この解説書の解説者は 書きながら 論理破綻しているんですね

47乱入:2013/08/14(水) 15:17:26 ID:wqr.6GRM0
空即是色 が 何故成り立たないんでしょう

空 = 無 では無いからではないでしょうか?

48乱入:2013/08/15(木) 09:02:20 ID:wqr.6GRM0
真俗二諦とは

真諦と俗諦との二つをいう。

四諦の内 苦・集諦は俗諦、滅・道諦は真諦

苦→ >>45を知ると → 滅

集(苦を集める)→ 道(戒律 八正道)で消える

真理と世俗にしたがう相対真理である

諦(たい)とは真実や真理の意味である。

49安堂:2013/08/17(土) 10:57:34 ID:VFRQ5MRw0
>>46-47
そうです色即是空空即是色は成立しません
色=空 空=色ではないからです。

リンゴは丸い。しかし丸いのはリンゴ、とはならないのと同じです。

50乱入:2013/09/11(水) 19:48:22 ID:wqr.6GRM0

「三界」とは、私たちが生まれかわり死にかわりするこの世界のことで

「欲界(よくかい)」、「色界(しきかい)」、「無色界(むしきかい)」の三つの世界をいいます。

「欲界」とは 六道(ろくどう)輪廻の事であります。


「色界」は、前記の三欲を離れた生きものの住む清らかな世界をいいます。

「無色界」は、最上の領域であり、物質をすべて離脱した高度に精神的な世界をいいます。

 ここの最高処を 非想非非想処(三昧の一番上)「有頂天(うちょうてん)」といいます。

51素人A:2013/09/12(木) 22:49:08 ID:C/BBer0M0
空から色々な世界眺めて 自己が空である事忘れて
色々から空の世界を眺めて色々に化けた積もりの空
自己が色々な正解忘れて空に化けた積もりまあ混然
一体になつていつたい如何なつているのか?い、意味不明
私は素人だし不通の私の実力の問題取り組もう。悟りとはレベル高いし
普通の人皆悟れる説きは永遠に無理のよような、無理して大乗部とか言つ
てもうそ臭いし大乗の理想は永遠に来ないかも、短期起こして世界抹殺
すれば永遠に矛盾も何もないののか?普通の人が望むのは
平凡な今のままのこの世とあの世かもで望まない仏教の理想は実現不可能
何を言いたいのか自分でも解らないけど、普通とは何かまとまらない台風は
熱たいてい気圧のまま北へすすむのみ

52安堂:2013/09/17(火) 02:56:07 ID:jN7TODbU0
                 /⌒ヽ ぬお〜っ♪
                 ( ^ω^)
               /,/-_-_-_-_-_\      ポッ♪
               _/ \  \_
            ((/___))___\))
下に〜〜〜!        | |!!! !!!| | |!!! !!! !!!| |
              | |;;;; ;;;;| | |;;;; ;;;; ;;;;| |
              | |;;;; ;;;;| | |;;;; ;;;; ;;;;| |
  Λロ二二ロ二Λ二Λ二Λ二Λ二二二二Λ二Λ二Λ二Λ二l         下に〜〜〜!下に〜〜〜!
  (^×^∩  ∩(´∀` ) (・∀・ )   ∩(ΦλΦ )(ー人ー )
┌〔〔 〔〔V)  ヽ〔〔 〔〔 つ〔〔 〔〔 つ   ヽ〔〔Э〔〔 つ〔〔 〔〔 つ
(_ノ〈 ||_|  (_ノ〈 ||_|(_ノ〈 ||_|    (_ノ〈 ||_|(_ノ〈 ||_|
   (__)     (__)   (__)       (__)   (__)

53避難民のマジレスさん:2013/09/19(木) 04:21:18 ID:rjrCqQY20
ここでは個人は悟れても全てが一度に悟ることはあり得ないような。
むしろ悟るために個人に生まれるのかもしれませんね。
個我は肉体を買い求めて共食いの世界に生まれてくる。
無味乾燥な渾然一体では悟れないから、個我を返上するためにやって来るのかもしれませんね。
そんな存在たち(?)にとってははここは不可欠な世界なのかもしれません…。

54乱入:2013/09/19(木) 08:45:27 ID:wqr.6GRM0
空とはお釈迦様が申した 縁起である 縁起では解りづらいので 縁起+無なのではないのだろうか?

色(いろいろな物)は 無(うつろいゆき消え行く様)である それが空ではないのだろうか?

色即是空 = 諸行無常 + 諸法無我 と訳した人がいたが うつろいゆき消える 無常は苦である

一切皆苦 と 諸行無常 は 同じ様な意味になる

無常とは (色、声、香、味、触、法)を指す 色は色あせ消えてゆく 声も時間の経過により消えて行き

香も 味も 触れられた事も 時間の経過でうつろいゆき消えていく

リアルで存在しているのではないのだろうか?

無常 声で 色即是空 空即是色 を表すと

色即是空  口から先の音の現象である 音が消え行く様 

空即是色は 肺から口までの音を出す現象であろう 音が発生する様

55乱入:2013/09/21(土) 07:38:05 ID:wqr.6GRM0
空 コーザル体

無色界 上位メンタル体

色界 下位メンタル体

欲界(六道輪廻)アストラル体

56乱入:2013/09/21(土) 07:39:02 ID:wqr.6GRM0
初地(菩薩道の始まり) {非想非非想処(三昧の一番上)「有頂天(うちょうてん)」}

これより 53段階 昇ると 悟りお釈迦様と同じ如来の世界

初地より十地あり
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%81%E5%9C%B0

57乱入:2013/09/25(水) 16:54:12 ID:wqr.6GRM0
(順観)

無明(根本的無知)によりて 行(潜在的形成力)が生じる
          ↓
行(潜在的形成力)によりて 識(認識作用)が生じる
          ↓
識(認識作用)によりて 名 色(名称と形態) が生じる
          ↓
名 色(名称と形態)によりて 六入(六つの領域) が生じる
          ↓
六入(六つの領域)によりて 触(感覚器官と対象の接触) が生じる
          ↓
触(感覚器官と対象の接触) によりて 受(感受)が生じる
          ↓
受(感受)によりて 愛(とらわれ)が生じる
          ↓
愛(とらわれ)によりて 取(執着)が生じる
          ↓
取(執着)によりて 有(生存)が生じる
          ↓
有(生存)によりて 生(誕生)が生じる
          ↓
生(誕生)によりて 老死(老いと死)が生じる


(逆観)

生(誕生)がなくなれば 老死(老いと死)も無くなる
          ↓
有(生存)がなくなれば 生(誕生)も無くなる
          ↓
取(執着)がなくなれば 有(生存)も無くなる
          ↓
愛(とらわれ)がなくなれば 取(執着)も無くなる
          ↓
受(感受)がなくなれば 愛(とらわれ)も無くなる
          ↓
触(感覚器官と対象の接触)がなくなれば 受(感受)も無くなる
          ↓
六入(六つの領域)がなくなれば 触(感覚器官と対象の接触)も無くなる
          ↓
名 色(名称と形態)がなくなれば 六入(六つの領域)も無くなる
          ↓
識(認識作用)がなくなれば 名 色(名称と形態)も無くなる
          ↓
行(潜在的形成力)がなくなれば 識(認識作用)も無くなる
          ↓
無明(根本的無知)がなくなれば 行(潜在的形成力)も無くなる

58乱入:2013/09/25(水) 18:39:56 ID:wqr.6GRM0
経験知
一 順観とは、縁起を表に観ること
二 逆観とは、縁起を裏に観ること
三 因が現われると、果も現われる
四 因が失われると、果も失われる
五 転生とは、生と死に分れること
六 解脱とは、生と死を越えること
七 縁起とは、因縁が生起すること
八 条件が変わると、因果も変わる
九 縁起を順観して、転生に向かう
十 縁起を逆観して、解脱に向かう

覚醒の書
順観 … 因が現れると、果も現れると、観る
逆観 … 因が消えると、果も消えると、観る

羯磨の書
転生 … 縁起に拠って、無明に塗れていく
解脱 … 縁起に依って、無明を越えていく

59乱入:2013/09/26(木) 16:23:31 ID:wqr.6GRM0
○ 良い心の働き

大善地法 信・勤・捨・慚・愧・無貪・無瞋・不害・軽安・不放(身をつつしんで穏やかに)


○ 通常の心の働き

大地法 受・想・思・欲・触・慧・念・作意・勝解・三摩地(思ったり 考えたり 念じたり)

不定地法 悪作・眠・尋・伺・貪・瞋・慢・疑(考察したり 疑ってみたり)


○ 良くない心の働き

小煩悩地法 忿・覆・慳・嫉・悩・害・諂・誑・憍・恨(怒ったり 嫉妬したり 恨んだり おごりたかぶったり)

大煩悩地法 無明・放逸・懈怠・不信・惛沈・掉挙(どうでもいいや 投げ出したり)

大不善地法 無慚・無愧(やりたい放題)

60乱入:2013/09/26(木) 16:24:01 ID:wqr.6GRM0
八顚倒 = (誤った見解)


楽顚倒(快楽主義)

常顚倒(世の中は何も変わらない ずっと同じだよね )

我顚倒(我 わたしがわたしが)

浄顚倒(いつまでも 美しく)

= 中 道 =

無常顚倒(修行しても無駄 無気力)

無楽顚倒(やりすぎ DrSTOP)

無我顚倒(修行を途中で投げ出す)

無浄顚倒(肉体はやがて朽ちる 不浄こそが悟りの道と勘違いする事)

61乱入:2013/09/28(土) 11:20:12 ID:wqr.6GRM0
>>794
(逆観)
生(誕生)がなくなれば 老死(老いと死)も無くなる
          ↓
          ↓
          ↓
          ↓
          ↓
          ↓
          ↓
          ↓
          ↓
          ↓
無明(根本的無知)がなくなれば 行(潜在的形成力)も無くなる



無明(根本的無知)がなくなれば  生(再誕)も無くなる?(輪廻?)

62乱入:2013/09/28(土) 19:13:16 ID:wqr.6GRM0
無明(根本的無知)がなくなれば  生も無くなる

生がなくなれば(再誕)も無くなり

(再誕)がなくなれば(輪廻)も無くなる

(輪廻)がなくなれば(解脱)する事になる

63素人A:2013/09/29(日) 06:40:50 ID:G5HiNwNQ0
禅スレなのに全禅禅の事最近書かないののは曹洞にまずいただろう、でも臨在宗は公案に夢中で全禅坐禅しないと道元さんが
書いていたし、まあそれぞれの立場から坐禅したりしなかつたりしなければ立場が無い、私は素人で坐禅する商売で無いし
悟ろうとして坐禅する事もないし、もっと楽しい趣味は色々あるし、楽しい煩悩は108以上ある師、なんで坐禅しなければ
いけないのか?仏が個の様に縛られて自由も修業もしないのは不味いのか?善くわからん今朝は屁理屈が多いし坐禅から逃れ
用途している。あれ昨日の夢が?ペツトの犬が草原に逃げてそれが金魚になって其れが私だったのか?私が修業しないので結局
仏もあきらめてほつとけになってホトケ家のの責任放棄したのか?でも坐禅以外に色々な修業いや煩悩が有る世?珠には仏さん
ほっとけ内で坐禅少しするか、坐禅したからとてしないと換わらんしでも24時間わけ解らない気になるエネルギーが体の中で
振動しているしでもしんどいと思わないしあるものはあるしで坐禅は時間が内、あサボろうとしている、でも本の少しだけなら

64おまえ乱入か:2013/10/21(月) 16:56:35 ID:wqr.6GRM0
 戒・定・慧の三学(かい・じょう・えのさんがく)

 戒・定・慧の三学とは、仏道を修行するものは必ず修めなければならない最も基本的な三つの行で、八正道の行法を要約したものである。

 戒は仏教徒の生活規範である。
仏教徒には捨家棄欲の生活をして仏道に専念する出家の行者と、家庭にあってそれぞれの職業に従事しながら仏陀のいましめを守り布施をする在家の信者とがいる。
双方に男女の別があり、出家者は比丘と比丘尼、在家者は優婆塞(うばそく)と優婆夷(うばい)に別れる。これを「仏の四衆」と呼ぶ。

 出家・在家のいかんを問わず、仏道を行ずる教徒は、それにふさわしい生活をしなければならない。そうするには仏陀が時に応じ折りにふれて定められた戒を守らなければならない。
比丘には250戒、比丘尼には348戒、優婆塞・優婆夷には五戒(不殺生・不偸盗・不邪淫・不妄語・不飲酒)が規定されている

 定とは禅定、身心を静かにし、心を一つの対象に集中して統一し、思いの乱れない状態をいう。
 禅定は仏陀以前からあったインド一般の修行法であるが、仏教に採り入れられると悟りへの道の重要な実践行法となり、三昧・坐禅・止観・観法などの特異な発展をとげた。


 慧とは智慧のことである。
仏教でいう智慧は、世間一般にいう知識や知性といった世間智ではなく、真理を見ひらく般若(はんにゃ)の智慧、すなわち出世間智である。
その智慧は煩悩の汚れのない清浄無漏智のことで有漏智ではない。

 智慧の修行には、聞慧(経典の教えを聞いて生じる智慧)と思慧(理を思惟して生じる智慧)と、
修慧(禅定を修して生じる智慧)の三種がある。

65おまえ乱入か:2013/10/25(金) 01:17:20 ID:wqr.6GRM0
信・精進・念・定・慧


信 如来の教法を聞き如来への信頼を得る

精進 戒律を守って 精進する

念 観想に基づく瞑想を行う(眼耳鼻舌身意の六根)

定 念を一点に集中する止観瞑想

彗 念を一点に定めている事により 智慧が現る

66おまえ乱入か:2013/10/29(火) 15:55:47 ID:wqr.6GRM0
薬師佛加持薬物治病法

南無薬師瑠璃光如来

南無日光遍照菩薩 (金三丁)

南無月光遍照菩薩 (金三丁)

南無十二夜叉大将 (金三丁)

祈祷文

弟子○○至誠祈求大慈大悲薬師瑠璃光如来及薬師海会諸大聖咒慈悲燈明・

弟子○○因為過去生中不明因果・有殘害欺悩有情冤親◎◎等・今日至心

在佛前向有情冤親◎◎等哀懺悔・弟子○○至誠祈求大慈大悲薬師瑠璃光如来

慈悲加被・令弟子○○興有情冤親◎◎等能 解冤釋結・轉悪縁為善縁


南無日光遍照菩薩 (金三丁)

南無月光遍照菩薩 (金三丁)

南無十二夜叉大将 (金三丁)

南無毘羯羅(びから)大将
南無招杜羅(しょうとら)大将
南無真達羅(しんだら)大将
南無摩虎羅(まこら)大将
南無波夷羅(はいら)大将
南無因達羅(いんだら)大将
南無珊底羅(さんていら)大将
南無頞儞羅(あにら)大将
南無安底羅(あんていら)大将
南無迷企羅(めきら)大将
南無伐折羅(ばさら)大将
南無宮毘羅(くびら)大将
         (金三丁)

解冤呪(金三百丁)

解決解決解冤結 解了多生冤和業

洗心滌慮發慮誠 今對仏前求解結

薬師佛 薬師佛

消災延壽薬師佛 随身満願薬師佛

67おまえ乱入か:2013/10/29(火) 15:56:33 ID:wqr.6GRM0
薬師偈

薬師如来瑠璃光 焔網荘厳無等倫

無辺行願利有情 各遂所求皆不退

南無当方浄瑠璃世界消災壽薬師佛

南無消災延壽薬師佛

南無日光遍照菩薩(金三丁)

南無月光遍照菩薩(金三丁)



奉請十二薬叉大将(合掌)

奉請毘羯羅(びから)大将
奉請招杜羅(しょうとら)大将
奉請真達羅(しんだら)大将
奉請摩虎羅(まこら)大将
奉請波夷羅(はいら)大将
奉請因達羅(いんだら)大将
奉請珊底羅(さんていら)大将
奉請頞儞羅(あにら)大将
奉請安底羅(あんていら)大将
奉請迷企羅(めきら)大将
奉請伐折羅(ばさら)大将
奉請宮毘羅(くびら)大将

南無薬師会上佛菩薩(金三丁)

68おまえ乱入か:2013/11/04(月) 19:17:42 ID:wqr.6GRM0
1.見所断の煩悩:

四諦の真理を理知的に理解することで断ち切ることが可能な煩悩、理知的に理解できれば断ち切ることができる比較的克服し易い煩悩。

2.修所断の煩悩:

情、意の面での煩悩。禅定三昧を修行して真理の観知を繰り返し行わないと断ち切ることができない。この煩悩は単なる理知では滅尽不可能な根深い煩悩である。主として、貧、瞋、痴、慢の4つの煩悩。

69おまえ乱入か:2013/11/08(金) 12:56:13 ID:wqr.6GRM0
藥師如來念誦儀軌

大興善寺三藏沙門大廣智不空奉 詔譯

佛一時在維耶離樂音樹下。與大菩薩三萬六千比丘八萬人俱。及十二神王並諸眷屬天龍八部大神王。在如是等大眾會中。說此法已。大眾皆聞無不歡喜。是名即為結願神咒即薄伽梵。說咒曰

南謨薄伽筏帝鞞殺社窶嚕蔽琉璃缽喇婆喝囉闍耶怛他揭多怛侄他唵鞞殺逝鞞殺逝鞞殺社三沒揭帝娑婆訶

若有受持此真言。能拔身中過去生死一切重罪。不復經歷三途。免離九膻超越眾苦。十方世界隨處安樂。自在無礙法應如是。若善男子善女人等。受持讀誦是真言者。日夜精勤香湯洗浴著新淨衣。持諸禁戒如法。誦滿真言十萬遍已。就清淨處如法治地。以淨土築令平。以淨牛糞和檀香塗圓壇。以種種雜寶莊嚴壇。安中心一藥師如來像如來左手令執藥器。亦名無價珠。右手令作結三界印。一著袈裟結跏趺坐。令安蓮華台。台下十二神將。八萬四千眷屬上首。令 又令須蓮台。如來威光中令住日光月光二菩薩。如是壇四方周匝五色。近前安置二閼伽器商佉瓦器。隨意受用奉獻承事尊像。像前念誦四十九日間。若三七日。畫像壇四角安置賢瓶。如是晝夜七日內。誦咒數滿百千萬遍。所求從心無量獲果報。除不至心。法應如是。所有利益說不可盡。其餘功能窮劫不可說

複次說藥師如來根本印。以左右手頭指以下八指。反叉入於掌。以二大指來去。咒曰

唵戰馱祇哩娑婆訶(是名根本印)

次說閼伽印。以二手掌捧器頂戴。真言曰

南莫三曼多沒馱南羯羯哞三摩三摩娑婆訶

次花座真言印 次說塗香印 二手合掌二頭指二大指端合如彈指。真言曰

南莫三曼多沒馱南巘吐羯羅耶娑婆訶

次說花印 二手合掌二小開末。真言曰

南莫三曼多沒馱南沒社華娑婆訶

次說燒香印 二手合掌山屈。真言曰

唵那謨磷羅磷羅曼拿微灑曳屍並寧娑婆訶

次說花座印 二手背合以右腕押左真言曰

唵社皤羅娑蒲悉什皤羅末吒阿

次說普供養印 二手金剛合掌。真言曰

南莫三曼多沒馱南唵阿凡賀布灑摩尼娑婆訶

次念誦 次說發遣 以禪智指取花投壇中方。真言曰

南莫三曼多沒馱南阿[薛/木]磋[薛/木]磋娑婆訶

是法印咒。能滅一切苦惱。若有人等。多諸罪障。及諸婦女。願欲轉禍。依教作藥師像一軀。寫藥師經一卷。造幡四十九燈作七層形如車輪。安置像前。五色作索。以印柱之。四十九結系彼人身。又轉藥師經四十九卷。所有罪障皆得解脫。壽命延長不遇膻苦即得安穩。鬼神之病。並即除愈

若欲降伏惡人者。作印以嗔心誦一百八遍。遙打一切外道破滅

若人患心病者。加持青木香塗心除愈

若人患頭病者。加持桂皮二十遍。服之除愈

若人患腫黃者。加持鬱金香一百八遍塗除愈

若人欲遠去怨家。加持苦練子一百八遍。一咒一燒投火中燒。其人即遠去

若患身體支節痛。咒湯水一百八遍。洗浴即得除愈

若人每日早朝。以水一掬咒七遍飲之。在身所有惡報悉得消滅。何況無諸災厄者。及諸三業苦亦得除愈。並得壽命長遠

若咒飲吃者。一切諸毒不能為損

若見惡人及有怨家。當須念誦此咒。所有怨家起噁心者。當皆降伏噁心即滅慈心相向。有恐怖處。當須攝心念誦

若欲臥時。當誦此咒一百八遍。即得好夢善知吉凶

若人或患瘧病。持此咒者視患瘧人。切誦此咒一千八遍。其患即除愈

藥師如來念誦儀軌一卷

保元三年二月二日酉時書了 恭賜大緣房法印禦本書了留贈後賢共期佛慧耳 求法沙門覺成

延寶二甲寅年九月十四日以高山寺法鼓台之本于仁和寺書寫一校了 野澤末資淨嚴 三十六歲

天明元年辛醜天潤五月以覺遠僧正本寫之 慈忍 享和元年辛酉紀號。求上件本訓國字。此藥師念誦軌。元文年中既鑄梓。然彼缺脫之本。唯一紙闕。是故更校正以壽梓矣 豐山長谷寓居沙門 快道志

一校加筆畢 享和癸亥四月十日 慈順

70おまえ乱入か:2013/11/08(金) 12:56:48 ID:wqr.6GRM0
藥師瑠璃光七佛本願功徳經
ttp://www.bgvpr.org/ex/2/ex_48.htm

藥師琉璃光如來消災除難念誦儀軌 一行
ttp://www.bgvpr.org/sutra/sutra_05.htm

藥師如來觀行儀軌法
ttp://buddhism.lib.ntu.edu.tw/BDLM/sutra/chi_pdf/sutra10/T19n0923.pdf

藥師儀軌一具
ttp://www.bgvpr.org/sutra/sutra_08.htm


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