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漢文翻訳スレッド

1中村:2004/11/30(火) 00:27
(移行対象  投稿日: 2004/04/28(水) 00:59)

・『晋書』の翻訳や草稿での疑義・質問・指摘に関してご自由にどうぞ!
 現行のMLとかぶる部分ですが、MLでの書式にこだわらず、楽に聞きあう・指摘しあうスレッド。

話題としては『晋書』に限らず、漢文に対する質問なども。

58スート:2004/12/07(火) 16:58
中村さん、指摘ありがとうございました。


巻82陳寿伝

  坐是停滞者累年。「そのために仕官できず隠退したまま年を重ねた」に改めました。

巻90杜軫伝

  奏議駁論多見施行。
  「上奏や、他者への上奏への反駁では、〔彼の意見が〕用いられることが多かった」に改めました。

巻91范平伝

  謝病還家。「病気と称して職を辞して家に帰り」に改めました。
  蔚爲辧衣食。「范蔚は彼らに衣食を提供した」に改めました。
  尚、この伝の注は全て削除しました。

巻91文立伝

  陳壽・李虔爲游夏。「陳寿と李虔(李密)を子游と子夏にたとえ」に改めました。
  文立忠貞清實、有思理器幹。「忠実で心正しく清実であり、思慮深く才能がある」に改めました。
  殊方。「辺境の異域」に改めました。「辺境地域」でもよろしいのでしょうか。
  程瓊雅有徳業。和刻本に従って、「雅ヨリ」と読みました。


范平伝と文立伝は、全面的に修正し次第、新稿を送ろうと思っています。

59えちぜん:2004/12/12(日) 02:37
中村さん、王祥伝への更なるご検討、ありがとうございます。

「車牛」
辞書は中村さんご推奨の引き方にしてみます。数詞に着目して意味を特定する方法も目からうろこな感じで、とても参考になります。

「今日方知君見顧之重矣」
確かにこのニュアンスをどう捉えるかは難しいですね。文法的な観点、前後の文脈からの観点、他の書籍でこの件をどう伝えているかという観点などから、妥当なところを決めていくということになるのでしょうか?正直なところ、7:3くらいの割合で中村さんの訳が自然なのかなと感じています。というのも、えちぜんの訳は司馬昭が帝位に就くことをかなり本気で考えているということが前提となるからです。この前提が明らかになれば。。。という淡い期待が3の割合ということです。この前提については今後も考えていきたいと思います。

「古之致仕,不事王侯」
私は易経の注疏、礼記の注は更に間違うことを恐れて、訳せなかったのですが、中村さんの検討で納得です。

「家無宅宇」
「家」は知行地の意味ではないのですか。。。しっくりくると思ったのですが、ぬか喜びでしたね。


鄭沖伝へのご指摘については、私の方でも検討しましたが、すべてご指摘の通りであろうと思います。


詳細なご検討・ご指摘ありがとうございました。

60仁雛:2005/09/29(木) 16:23:59
こちらの掲示板は、【解體晉書】の掲載されている翻訳についての意見・指摘・質問を募るスレッドです。
会員・非会員にかかわらず、気軽に指摘してください。誤訳をなくすために、迅速に対応します♪


また、翻訳が出ていない『晋書』本文や他書の漢文についての質問も随時受け付けています。
答えられるかどうかわかりませんが、お気軽にカキコミください!!!

#なお、1〜59は会員内でやりとりしていた部分です。

61菅原:2006/01/09(月) 23:34:36
公開してからこの【解體晉書】で重要なスレに書き込みがないのは寂しいですね。
翻訳が出ていない『晋書』本文や他書の漢文についての質問も随時受け付けています。
答えられるかどうかわかりませんが、お気軽にカキコミください!!!

62スート:2006/01/18(水) 17:36:26
『晋書』武帝紀、冒頭部分。

初、文帝以景帝旣宣帝之嫡、早世無後、以帝弟攸爲嗣、特加愛異、自謂攝居相位、百年之後、大業宜歸攸、

初め、文帝以へらく、景帝旣に宣帝の嫡なれども、早世して後無し、帝の弟攸を以て嗣と爲し、特に愛異を加へ、自ら謂ひて相位に攝居せしめ、百年の後、大業宜しく攸に歸すべしと。

当初、文帝は、景帝は宣帝の嫡男であったが早世して後嗣が無かったので、帝(武帝)の弟の司馬攸を景帝の後嗣として特別に愛情を注いでおり、自ら説明して宰相の位に就かせることで百年後には大業は司馬攸に帰すべしと考えていた。

「自謂攝居相位」が不明瞭なので、どのように訳すのが適当か迷っております。

63仁雛:2006/01/19(木) 16:33:08
スートさん、こんにちは!武帝紀の翻訳始められたんですね^^;

「自」は副詞では「みずから」で日本語化している通りの意味(自分で〜する)ですが、他にも「自殺」(自分で自分を殺す)の熟語のように「自分で自分を(V=動詞)する」という意味があります。
さらには、「自(V)」の(V)の後に従属節(まぁ、文ですね)がある場合は、その主語にもなるようです(魏晋以降の用例かと)。
「自謂攝居相位」の部分はまさにそれにあたります。「自分で自分が「攝居相位・・・」だと「謂」(=(V))する」ということです。「謂」はここでは、おもう、です。
それから始めの「以」は「以へらく」ではなく「以て」だと思います。原文はスートさんの通りですから、自分は訓読と私訳を掲げます。

初め、文帝、景帝既に宣帝の嫡なれど、早世して後なく、帝の弟の攸を以て嗣と為すを以て、特に愛異を加へ、自ら謂へらく、相位に攝居し、百年の後なれば、大業は宜しく攸に帰すべし、と。

当初、(兄の)景帝は宣帝の嫡男であったが早世して跡取り(後嗣)がいなかったので、帝(武帝)の弟の司馬攸を景帝の後嗣にしていたことから、文帝は司馬攸のことを特に可愛がっていた。文帝は、自分は宰相の位で補佐し、百年の(or宣帝が死んだ)後、(天下統治という)大事業は司馬攸に任せるべきだ、と思っていた。

『晋書』巻三十八「齊王攸」伝に、攸のことを「宣帝毎器之。景帝無子、命攸為嗣。」と記しています。景帝に男子なく、攸を跡取りにしたとのこと。
「攝居」はちょっと分かりにくいですね。仮訳です。あまり時間もなく、誤りもあるかもしれませんが、ご検討ください。

64えちぜん:2006/01/20(金) 01:48:49
仁雛さんのコメントを踏まえて、もう少し追加。

初め、文帝、景帝既に宣帝の嫡ならば、(すなわち)早世せば後なしを以て、帝の弟の攸を以て嗣と為し、特に愛異を加ふ。自ら謂へらく、相位に攝居するも、百年の後、大業は宜しく攸に帰すべし、と。

当初、文帝は、(兄の)景帝が宣帝の嫡男であるから、早世すれば跡取り(後嗣)がいなくなるだろうという理由から、帝(武帝)の弟の司馬攸を景帝の後嗣にし、司馬攸のことを特に可愛がっていた。文帝は、しばらくは自分が宰相の位に就くが、自分の死後、(天下統治という)大事業は司馬攸に任せるべきだ、と思っていた。

「景帝既」の「既」は、「既にAならば、すなわちB」と読んで、前節での行為や事態が原因となって、後節の結果が導かれるであろうことを推定する用法。(『漢辞海』) 景帝の状況を見て、跡継ぎがいなくなることを推定。
「文帝以」の「以」は、理由や原因を表す。(『漢辞海』) 跡継ぎがいなくなることを推定したので、司馬攸を跡継ぎとした。
「攝居」は、『漢語大詞典』を引くと「暫居君位」とあり、「相位」は「宰相的職位」とあります。「攝居相位」で「実質的な最高権力者の地位(晋王?)に、嫡流ではないが一時的にしばらく就任する」というニュアンスでしょうか。
「百年之後」はそのまま訳すと、司馬攸はかなり長生きをしないといけなくなるので、ここでは人の死後のことを忌んでいう言葉。「百歳之後」「百歳後」の用例が『詩経』や『史記』高祖紀や『資治通鑑』秦紀にあるようです。(『大漢和辞典』)

65殷景仁:2006/01/20(金) 09:36:02
スートさん、仁雛さん、えちぜんさん:

初めまして、殷景仁ともうします。
こちらのサイトは、以前から時々のぞいていたのですが、今回「武帝紀」の訳について、皆さんがお話しされているのが面白そうですので、書き込ませて頂きます(横レスになりますがお許しください)。

これから急ぎの用がありますので、詳しい説明が書けずもうしわけないのですが、この部分についての訳は、私の考えではこのようになると思います。

当初、文帝は(自分の兄の)景帝が宣帝の嫡男であり、早世して跡取りがいないことから、帝(武帝)の弟の司馬攸を景帝の後嗣にし、司馬攸を特にかわいがっていた。文帝は(即位したら)ひとまずは(皇太子は司馬炎にし、司馬攸は)宰相の位に就かせるが、自分の死後は、帝業は司馬攸に継がせるべきだと自身では考えていた。

「既」は「既然」の意、「〜である以上は」。
「自謂」の目的語は、文の最後までかかり、つまり「文帝自身は、〜だと考えていた」
「暫居相位」の目的語は、後半の「大業」以下の記述から考えて、「司馬攸」を指すものと思われます。
「大業」は「帝業」(『漢語大詞典』)、つまり皇帝の位を指します。

66Guang-Bi:2006/01/20(金) 19:31:51
>>52

武帝紀の訳で盛り上がっているところに、一年以上前の投稿について
の話で申し訳ありません。

あるいは、その後にもうお調べになられているかもしれませんが、
列女伝・竇滔妻蘇氏に出てくる「迴文旋圖詩」については、
「[王旋][王幾]図」(せんきず)で『大漢和辞典』を見られると
良いかと思います。

たまたま以前に、自分の周りでこのことが話のタネになったために
知っているのですが(^^;)

67殷景仁:2006/01/20(金) 23:16:24
前回のは急ぎ書き込みしましたので、あらためて「武帝紀」を読み直しました。すると、この文の後に、太子を決めるという話が出てきており、そこで「将議立世子、属意於攸」という記述がありますので、以前の私の訳ではふさわしくないと思いますので、以下のものに変えることにします。

初め、文帝、景帝既に宣帝の嫡にして、早世して後なきを以て、帝の弟の攸を以て嗣と為し、特に愛異を加ふ。自ら謂へらく、相位に攝居するも、百年の後、大業は宜しく攸に帰すべし。

当初、文帝は(自分の兄の)景帝が宣帝の嫡男であり、早世して跡取りがいないことから、帝(武帝)の弟の司馬攸を景帝の後嗣にし、司馬攸を特にかわいがっていた。文帝は、とりあえずは自分は(魏の)宰相の地位に留まるが、自分の死後は、帝位は司馬攸のものになるべきだと自身では考えていた。

68仁雛:2006/01/21(土) 16:39:58
>>62 Guan-Biさん

ご無沙汰してます。情報提供ありがとうございます。
実は、自分も諸橋『大漢和辞典』を見てみたのですが、説明が分かるような分からないような感じでした(笑)。
「[王旋][王幾]図」(せんきず)で、もう一度見てみる必要がありますね。情報提供ありがとうございます!!!

>殷景仁さん・えちぜんさん

書き込みありがとうございます!!
お二人のご意見、解釈、それぞれ拝見しました。前半部分はなお自説が正しいと思っていますが^^;、後半部分は、お二人の解釈を見て、「攝居相位」の「攝」が動詞なのか副詞なのか判別し、さらに意味を確定する必要があり、「百年之後」が誰の死後を指すのか確定しないといけないなと思いました。
前半部の自説の再説明と後半部については、再度検討してレスいたします(実はこれから明日の夜まで外出いたしますので、時間がないのです)。ご挨拶、お礼かたがた、簡単なレスで失礼します。

69えちぜん:2006/01/22(日) 00:48:44
殷景仁さん、はじめまして。書き込みありがとうございます。【解體晉書】会員としての立場から申せば、このようにご意見を頂くと我々の翻訳作業にとって大変刺激になり、うれしく思います。今後ともよろしくお願いします。

さて、武帝紀の訳に関して、仁雛さんのご意見を踏まえ、若干、私の意見も追加して書き込みをしましたが(>>64)、殷景仁さんのご意見も踏まえ、もうちょっと考えてみました。私の訳出の理由など、前回の書き込みで書かなかったことも追記しようと思います。ただ、厳密に史料を追ったわけではなく根拠も薄弱、私の想像や思いこみも入っているので、参考程度でお読みいただければと思います。(スートさんのご質問からどんどんはずれていってしまいますが、ご容赦ください。)

1.「既」の用法について など
これは、文帝が司馬攸を景帝の跡継ぎにした時期を、景帝が死ぬ前だと想定していることからきています。仁雛さんが、「『晋書』巻三十八「齊王攸」伝に、攸のことを「宣帝毎器之。景帝無子、命攸為嗣。」と記しています。」と紹介されていますが、「齊王攸」伝にはその後に「及景帝崩,攸年十歲」と記述があります。この前後関係から司馬攸は景帝が生きている間に跡継ぎになったと考えたわけです。それから、これは思いこみもあるかも知れませんが、跡を継ぐというのは、景帝が死んでから(断絶してから)では遅いような気がするのです。ということで、文帝は、体調を崩しつつある景帝を見て、男子が生まれる可能性は低いと考え、司馬攸に跡を継がせたのだろうと思っています。

ところで、文帝が司馬攸を跡継ぎにしたように書きましたが、ここで「齊王攸」伝の「宣帝毎器之。景帝無子、命攸為嗣。」がちょっと引っかかりました。この文脈からいくと、宣帝が司馬攸を景帝の跡継ぎにしたととれるのです。つまり「宣帝命攸為嗣。」ということです。この可能性を考えたのですが、景帝が死んだ正元二年(255)、司馬攸は10歳です(前段引用)。宣帝が死んだのは、嘉平三年(251)ですから、司馬攸6歳です。「宣帝毎器之。」というからには、少なくとも6歳以前にそう評価したということになるので、それでは司馬攸は若すぎるのではないかと思います。そこでここは、「文帝毎器之。」ではないかと疑っています。(証明する版本を提示できないので本文は直しませんが。)そうすると武帝紀にあるような、文帝の司馬攸への期待とも辻褄があうかなと考えています。そして、司馬攸を景帝の跡継ぎにしたのも文帝ということになります。しかも時期的には宣帝の死後のことだろうと考えています。

2.「攝居相位」・「百年之後」について
「攝居」については、『漢語大詞典』の語義をほぼそのまま使いました。語義の「君位」と本文の「相位」を「実質的な最高権力者の地位」と考え、訳上は「宰相」としています。さて、先ほど司馬攸が景帝の跡継ぎになったことについて述べましたが、私の説でいくと、景帝が死ぬ前、つまり司馬攸が10歳になる前に跡継ぎとなっています。景帝が死に、嫡子とはいえやはり10歳と若すぎるため、「しばらくは自分が宰相の位に就く」と考え、そうしたのだと思います。そして権限を「自分の死後」に司馬攸へ返すことになると考えていたのだと思います。先述のように、司馬攸に跡を継がせたのは、宣帝の死後と考えていますから、この「百年之後」はやはり文帝の死後となります。

それから、殷景仁さんの訳に「文帝は、とりあえずは自分は(魏の)宰相の地位に留まるが」とあり、私はこの訳から文帝が帝位をねらう野心をもっているように感じたのですが(違っていたらすみません)、私はむしろ、文帝は帝位を積極的に避けていたのではないかと感じています。その一方で司馬氏としての権力は着々と強化し、文帝の次の代では禅譲を受けられるような準備はしていたのだと感じています。なので、司馬攸が成長し禅譲を受けられる環境を整えるのが文帝自身の役目と自覚し、それは自身が生きている間の期間は必要だと思っていたのではないかと感じているのです。訳文の「(天下統治という)大事業は」の箇所は仁雛さんの訳そのまま使いましたが、私の認識では殷景仁さんと同じく「帝業」・「皇帝の位」を想定していました。

以上です。魏晋の頃の制度や風俗などの知識がほとんどない状態で、想像で書いていますので、説得力に欠けるものですが、ご参考までに。

70殷景仁:2006/01/22(日) 12:05:43
仁雛さん・えちぜんさんへ

お二方には、丁寧なご返事くださいまして、ありがとうございます。こちらもいろいろと考えさせられるご指摘で、感心することしきりでした。以前のご意見も再度拝察し、その上で、こちらもまた書き込ませていただきます。長々とした文で、読みにくいこと恐縮ですが、また何かご意見・疑問点ございましたら、ご返事ください。

仁雛さんへ
>前半部分はなお自説が正しいと思っていますが^^;

具体的には、司馬攸を景帝の後継にしたのは、①「景帝」か②「文帝」かということをおっしゃっているかと思います。これについて、私の方は、次のように考えます。
文の構造から判断して、仁雛さんの解釈には無理があるように思います。仁雛さんの解釈の場合、最初の「文帝……特加愛異」(文帝は……特に可愛がった)の文の間に、「以景帝旣宣帝之嫡、早世無後、以帝弟攸爲嗣」というフレーズが入ることになります。しかし、「文帝」という主語のいきなりすぐ後ろに、主語の異なるフレーズを長々と置き、それから「特加愛異」という、最初の主語に対応する述語がくるというのは、読みにくくて不自然だと思います。その上、仁雛さんの解釈では、最初の「以」のフレーズの中に、さらに「以帝弟攸爲嗣」という、別の「以」のフレーズが入り、煩瑣な感じが免れません。私には、こういう見栄えが悪く読みにくい文を『晋書』の筆者が書くとは思えないのですがどうでしょう。仁雛さんの解釈のような主旨で書くなら、「初、「景」帝旣宣帝之嫡、早世無後、以帝弟攸爲嗣。故文帝特加愛異。」とすっきりした書き方にすると思います。ですから、この文だけを見る限りでは、私は司馬攸を景帝の後継にしたのは、②「文帝」であり、最初の「以」以下のフレーズは、「早世無後」までであると考えます。ただ、後継にしたのは誰かという問題は、えちぜんさんのご指摘にあるように、他の箇所も丹念に見る必要があると思いますので、この結論も一応のものとしておきます。お帰りくださった後、再度のご意見をお待ちしております。

71殷景仁:2006/01/22(日) 12:06:17
えちぜんさんへ
>「跡を継ぐというのは、景帝が死んでから(断絶してから)では遅いような気がするのです。」

私自身は、文帝が司馬攸を景帝の後継に立てたのは、死後であった可能性は否定できないと思います。もちろん、えちぜんさんのように、生前から養子となっていた可能性も否定しません。ですが、やはり「文帝が」攸を景帝の跡継ぎにしたのは、死後のことと考えた方が比較的いいと思います(「文帝が」とカギ括弧にした理由は後述します)。

というのも、死後、別の養子を立てて跡継ぎにしたという例は、たとえばこのサイトの次の例をみてもあり得るように思うからです。

「薨,無子。安帝時立武陵威王孫蘊爲淮陵王,以奉元王之祀,位至散騎常侍。薨,無子,以臨川王寶子安之爲嗣。」
「〔司馬融が〕薨じたとき、子がなかった。安帝の時に武陵威王の孫の司馬蘊が淮陵王となり、元王(司馬漼)の祭祀を受け継いだ。官位は散騎常侍にまで至った。薨じると子がなかったので、臨川王司馬寶の子の司馬安之を後継ぎとした。」(巻三八の訳を借りました)

『晋書』の他の箇所にも、「薨 、追加封諡、以…爲嗣」「薨 、無子、以…爲嗣」というような記述は結構ありますので(「文六王伝」だけでも四例あります)、景帝死後でも、攸が跡継ぎになる可能性は十分あります。ですから、「死後ではおそい」という判断だけでは、根拠とはなり得ないと思います。

ただし、やはり気になるのは、司馬攸の列伝の記述です。ご指摘の通りここは問題ある箇所です。この「宣帝毎器之。景帝無子、命攸為嗣」の記述からでは、攸を景帝の後継としたのは、明らかに宣帝(司馬懿)ということになり、「武帝紀」の記述と食い違っているように思われます。えちぜんさんのように、「宣帝」を「文帝」の間違いと考える手段もありますが、その場合、すぐ後ろに続く「從征王淩」の記述がネックとなります。これは明らかに司馬懿生前のことですから、やはり「景帝無子、命攸為嗣」したのは、「宣帝」とする方がいいと考えます。頭を悩ませる記述ですが、一つの考えとして、私は次のように考えています。

「武帝紀」の「以帝弟攸爲嗣」とは、攸伝の記述にある「襲封舞陽侯」のことを指している。つまり、宣帝(司馬懿)の在世中、攸は、司馬懿によって景帝の跡継ぎとされていたが、それは一族内での取り決めとしてであり、正式に跡継ぎに「なった」のは、景帝の死後、「文帝が」改めて攸を「襲封舞陽侯」としてからである。

いかがでしょうか。まだ苦しいところはあるとは思いますが、一応つじつまはとったつもりです。あるいは単に『晋書』編纂時に、異なる史書の記述を採録し、整合性をとらないままにしてしまっただけなのかもしれませんが…。とりあえずこの問題については、皆さんのご意見をお待ちしております。

>「文帝は、とりあえずは自分は(魏の)宰相の地位に留まるが」

この部分、以前の訳から内容を変えています。新しい訳(つまり引用されている訳ですね)では、実はえちぜんさんのおっしゃるような主旨に訳し直しています。つまり、「文帝自身は即位するつもりはなく、とりあえず魏の宰相の地位に甘んじるが、自分の死後は、攸を即位させる。」というつもりで書きました。以前の訳では「文帝自身が帝位を窺っていた」という方向に訳していましたが、読み直して「相位に攝居する」のが、「文帝」であるように思われたので、上のように訳し直しました。ですから、「文帝は帝位を積極的に避けていたのではないかと感じています。その一方で司馬氏としての権力は着々と強化し、文帝の次の代では禅譲を受けられるような準備はしていたのだと感じています。」というえちぜんさんのご意見には、私も賛成なのです。「とりあえずは…留まる」というところにその意味を込めたつもりでしたが、前の訳と違うことを説明していなかったので、わかりにくかったかもしれません。失礼しました。

72えちぜん:2006/01/23(月) 02:51:40
殷景仁さん、丁寧かつ詳細な書き込みありがとうございます。

ご意見を拝読し確認いたしましたが、殷景仁さんのおっしゃる通りですね。
異論はありません。

前回の書き込み(>>69)は根拠薄弱であることは自覚しておりましたが、結論(最初に提示した訳)としては概ね間違いなかろうとは思っていました。やはりいけませんね。
死後の跡継ぎの有無や王淩のことなどは、汗顔の至り、自らの不明を恥じ入るばかりです。
まだまだ修行が足りません。(>_<)

73仁雛:2006/01/24(火) 15:03:02
殷景仁さん、丁寧なレスありがとうございます。
まずはじめに、このスレッドへのレスをしてくださり、えちぜんさん同様、掲示板管理担当会員・副代表として本当に感謝しております。ありがとうございます!従来このような議論は、過去ログにある通り、会員内部で行っておりました。それを公開して会員外からもお知恵をぜひ借りたい、それにはスレ式掲示板の導入を、というのが私(たち)の願いで現実になりました。その意味もあり、>>61の菅原代表の声があったのですが、こうして漢文の解釈について掲示板上で話し合えることを幸せに思っています。
それから、>>70の書き込みも、こちらの意図を理解してくださっての意見を書いてくださり、ありがとうございます。

>>70 殷景仁さんへ
「文帝以景帝既宣帝之嫡、早世無後、以帝弟攸爲嗣、特加愛異」
この前半部分について私が63のように「文帝以【景帝既宣帝之嫡、早世無後、以帝弟攸爲嗣、】特加愛異」と解釈したのは、文帝「以〜〜特加愛異」という構文を重視したためです。検索で「以〜特加(動詞)」という文が散見したので(指摘後に再調査したところ、理由を「以」で表さない「特加(動詞)」の例もあり、なんとも言えずです^^;)。「読みにくくて不自然」というのは私も感じましたが、「〜〜」の部分に違う主語の文がくることがあり、その部分が長くなることはありえるので、文法的には間違いではないと考えました。それから「以」が重なる「煩瑣な感じ」も指摘の通りですが、書き込み当時は【景帝既宣帝之嫡、早世無後、以帝弟攸爲嗣】の「以帝弟攸爲嗣」の主語をあまり深く考えていませんでした。あとは、以前このような「以」が文内に重なっているのを読んで「こんな文もあるのか」と記憶しているので、これもありなのかと思った次第です。しかし、【 】内だけを素直に読めば「以帝弟攸爲嗣」の主語は景帝となり、現実的にはその可能性はないようですから、自分の読みがあまり説得力のないものだということが分かりました。やはり短時間でのレスには誤りがつきもので、自分もまだまだ精進せねば、と思った次第です。ご指摘、本当にありがとうございます。

さて、71の殷景仁さんのレスは、非常に興味のある解釈だと思います。
殷景仁さんは「文帝以【景帝既宣帝之嫡、早世無後、】以帝弟攸爲嗣、特加愛異」という解釈かと思います。これも「以」が重なってしまいますが、前者は理由・原因をあらわし、後者は動詞の対象をあらわしているので、不自然な感がないわけではありませんが、文法的に間違いはないと思います。そうなると「以帝弟攸爲嗣」の主語は文帝ですが、司馬攸の列伝の「宣帝毎器之。景帝無子、命攸為嗣」と矛盾してしまいます。その点の解釈の理解を示されており、検討の価値がある見解だと思います。

いずれにせよ、なかなか突き詰めると難しいですね・・・。跡取り決定に関して、いろいろと調べないと確定できないですね。うーむ。
取り急ぎ、忙しいのですが、あまりレスを延ばすのも失礼かと思い、自説を再考するということで失礼します^^;

74殷景仁:2006/01/25(水) 18:10:37
えちぜんさん、仁雛さん

ご返事ありがとうございます。お二方のご意見は、私にとっても>>70のレスを出すとき非常に参考にさせていただきました。このように漢文の解釈をめぐって、実のある意見のやりとりができることは、私自身とてもうれしく思います。

司馬攸後継に関する今回の問題についてですが、「武帝紀」の訳自体は、たぶん>>70のようになるのでしょうが、司馬攸の列伝の記述との食い違いはさて一体どういうことなのか?なかなか難しいところです。あまり深く入り込むと、このスレッド(漢文解釈)の主旨とはややはずれるかもしれませんが、興味深い問題ではあります。>>70の考えはとりあえずのものです。あくまで参考/たたき台として出してみたものですので、これを補強するような考えや、もっと説得力のある別のご意見など、出てきてくれればうれしいです。私の>>65の時のように、急ぎのレスは間違えたり、読みが浅かったりすることがあるので、これはというご意見がありましたら、ご遠慮なくおっしゃってください。

あと、本の推薦ということで、参考文献のスレッドにも書き込ませていただきました。あるいはこの問題の参考になるかもしれません。

75NAGAICHI Naoto:2006/01/27(金) 19:59:36
>>66
Guang-Biさん
遅レスm(_ _)mですが、「[王旋][王幾]図」情報ありがとうございます。
列女伝第二稿も凍結してしまって久しいですし、
少しはやる気出さないとなあ…(;)

76スート:2006/01/27(金) 21:40:53
どのように読み下し、どのように訳せばよろしいでしょうか?>武帝紀

77スート:2006/01/29(日) 19:47:08
76はすみません。
注釈を入れて、「こういう解釈もある」等としようと思います。

再び武帝紀についての質問なのですが、序盤に、

  「咸煕二年五月、立爲晉王太子、八月辛卯、文帝崩」

とあるのですが、「夏五月」とか「秋八月」というふうに、季節が抜けているのは何故でしょうか。注釈に、「『夏』の一字を補った」とか附すべきでしょうか。

78えちぜん:2006/01/30(月) 01:35:04
>>77

>季節が抜けているのは何故でしょうか。

校勘の立場からだと、異なる版本を比較して「咸煕二年夏五月」となっているテキストがあるかどうか確認する必要があると思います。異なる版本に「咸煕二年夏五月」となければ、ここには脱字はなく「咸煕二年五月」だと考えるのが妥当と思われます。

あとは、同様の用例があるかどうかを『晋書』の中から探して、「咸煕二年五月」のような用例が他になく、あったとしても非常に少ないと言えれば、脱字があると推定できるかも知れませんが、恵帝紀・孝懐帝紀にも用例があるので、脱字である可能性は低いと思います。

季節が抜けているのは何故かは分かりませんが、ざっと見た感じ、帝位に就いてから(宣帝・景帝・文帝は実権を握ってから)は季節がついているようで、それ以前の記述には季節なしとなっているようです。全部見たわけではないので、悪しからず。

>注釈に、「『夏』の一字を補った」とか附すべきでしょうか。

スートさんが用意される「原文」に『夏』の字を補っている(テキストを修正している)のであれば、このように注釈を加えるべきだと思いますが、それ以前に「原文」は直さない方がよいと思います。注釈者が不用意に原文を改め、本来の文意が変わっていったというのが、校勘の歴史であるようですから、原文の修正には慎重の上にも慎重を期すというのが、大事なようです。

「原文」は修正せず、翻訳の文章上に付け加えたのであれば、上記の注釈で良いと思いますが、「夏」の字を補った根拠は示すべきかと思います。

「校勘の立場から・・・」なんて書きましたが、最近校勘学のテキストを読んだだけのことなので、思わぬ勘違いをしているかもしれません。ご参考までに。

79仁雛:2006/01/31(火) 13:10:55
>>77 スートさん
「咸煕二年五月、立爲晉王太子、八月辛卯、文帝崩」と季節が抜けている理由は、>>78のえちぜんさんのレスの「帝位に就いてから(宣帝・景帝・文帝は実権を握ってから)は季節がついているようで、それ以前の記述には季節なしとなっているよう」だというのが当たっていると思います。その他の部分は省略だと思います(たとえば「春正月」という記事で記述があり、次の記事が「三月」から始まる場合、本来は「春三月」なわけですが省略して「三月」としています。晋書帝紀をパラパラめくってのことですが^^;)。

80スート:2006/01/31(火) 22:56:59
えちぜんさん、仁雛さん

なるほどです。『三国志』帝紀とは基準が違うのですね・・・。
ありがとうございました。

81殷景仁:2006/02/01(水) 13:57:34
>>77 スートさん:

ここ数日、用事がありまして、掲示板を見ていませんでした。済みません。
書き下し・訳については、とりあえず、私の方ではこのようになると思うものを書いておきます。

(書き下し)
初め、文帝、景帝既に宣帝の嫡にして、早世し後無きを以て、帝の弟攸を以て嗣と為し、特に愛異を加う。自ら謂えらく、相位に摂居すれど、百年の後、大業宜しく攸に帰すべしと。

(訳)
当初、文帝は、景帝が宣帝の嫡子であり、早世して跡継ぎがいないことから、武帝の弟司馬攸を跡継ぎとし、非常に可愛がった。(自分は)とりあえず宰相の地位に留まるが、その死後、帝位は司馬攸のものにすべきだと自身では思っていた。

書き下し・訳は、大体このようになると思います。ただ、語られている内容については、おっしゃるとおり、他の部分との異同を訳注で補う必要があるでしょう。

取り急ぎですみませんが、この程度で宜しくお願いします。

82仁雛:2006/03/13(月) 17:30:56
ageもかねて、カキコミを(笑)。

この部分、和刻本はどうなっているのでしょうね。。。ずっと気になっていたところです。
なかなか所蔵している図書館に行って確認する時間がないので、ずっと見れずじまいできてしまいました。購入したいのですが、先日の鶴本書店の目録では、和刻本『晋書』が3万くらいでした・・・。あぁ、手が出ない^^;
あと、晋書は現代中国語訳が出たので、そこでもどう訳されているのやら。。。現代中国語訳は、古典漢語のあいまいな部分も、あいまいに訳せてしまう(主語や述語などを明示しないなど)し、実際に訳出する人はそれほど専門な人でもなかったりするので、経験上それほどあてにはならないのですが、参考にはなるので。

83巫俊(ふしゅん):2006/03/13(月) 18:27:49
東晋時期に李充という文官がいまして、晋書の文苑伝に名を挙げられている人なんですが、
そこの李充の伝記の終わりにこういう記述があります。

- 2391 -
充注尚書及周易旨六篇、釈莊論上下二篇、詩賦表頌等雑文二百四十首,行於世.

李充が尚書(書経)と周易(易経)、荘子関係、雑文などに注を付けて、
それが「行於世.」すなわち世間に流通した(という意味ですよね?)と書かれているようです。

そいで李充という人の名を挙げたところとしては、
西晋の武帝が呉を平定した年の前後に発掘された『竹書紀年』をはじめとする、
晋代に新出した出土史料を使って宮廷に伝来する古文献を再構成したのではないか?
と目されるところにあります。

84巫俊(ふしゅん):2006/03/13(月) 20:56:26
『竹書紀年』は河内(晋代は汲郡に分離)の戦国期魏の王族墓から出土したとされる、
司馬遷の『史記』に先行する戦国時代の「史記」(年代記)で、呉平定の司令官のひとり杜預をはじめとする、晋代の人が目にしたという中国史上の重要文献です。
元明時代に散逸してしまった為に惜しくも、古典籍の注に引かれた内容を輯本にしたものがあるだけですが、
それでも、夏代〜戦国中期までの通説的なものを変えてしまうだけの内容がそこに書かれています。

それら出土史料を整理したのが出土当時の現代人の晋代人で、そこから晋という時代に関心があるようです、私。
そいで晋代の人に整理されたという出土史料の竹簡は、『竹書紀年』(年代記の類)ひとつではなくて、書経や易経にも及ぶようです。
書経や易経の出土史料バージョンは、晋の秘閣(史料庫)に収納されて、図書館司書にあたる晋代の人や一部の知識人(杜預など)は見ることができたといいます。

85えちぜん:2006/04/15(土) 00:56:07
『晋書』石苞伝翻訳中のえちぜんです。不明な箇所がありますので、質問させてください。

『晋書』石苞伝(二十四史点校本p.1002 L2)に

 武帝踐阼,遷大司馬,進封樂陵郡公,加侍中,羽葆鼓吹。

とあります。「羽葆鼓吹」というのは、「劍履上殿」や「入朝不趨」のような特権を表しているものと考えているのですが、具体的にはどのような特権なのでしょうか?

『大漢和』によれば「羽葆」は「鳥の羽で作った儀仗などに用いる車の華蓋。親王、又は大勲功ある者などの用ひるもの。」とあります。
「鼓吹」は「①軍楽を奏する官。」「②つづみ及びふえの類。又、それらの楽器を鳴らすこと。太鼓を打ち笛を吹くこと。又、軍事に奏する音楽。軍楽。」とあります。

似た用例として、『文選』所収の任纊「王文憲集序」に

 追贈太尉、侍中、中書監,如故。給節加羽葆鼓吹,増斑劔為六十人。

とあるのは見つけたのですが。。。
ご教示よろしくお願いします。<(_ _)>

86殷景仁:2006/04/15(土) 18:38:22
>加羽葆・鼓吹

ここでは、天子に許されている特権が功臣に与えられたことを意味しているといっていいでしょう。

手元に増田清秀『楽府の歴史的研究』(創文社)があるので、鼓吹について述べますと、この制度は前漢の武帝の時代に始まり、基本的には、軍楽や天子の鹵簿の時のみに用いることが許されたようです。

これが臣下に下賜されるようになったのは、後漢の時代からのようですが、それでも鼓吹を下賜された臣下は、(軍楽という性質上)軍事を執行する将軍在職者、あるいは功臣を表彰する目的で特賜される場合は、死後葬送の際にのみ限られていたようです(時代は違いますが、「王文憲集序」にある王倹のケースはまさにこの場合に相当します。この場合は、柩車に鼓吹が随従したようです)。それが三国を経て西晋時代になると、生前において功臣を表彰するため、鼓吹が下賜されるようになりました。さらにこうした功臣に下賜されたのは、一般の武将たちに下賜される諸官鼓吹の伶人ではなく、天子直属の黄門鼓吹の伶人だったとされています。

なお臣下への鼓吹下賜は、晋代では比較的頻繁に行われたようですが、南朝にはいると、再び厳しく制限されるようになったともあります。

87えちぜん:2006/04/18(火) 23:49:10
殷景仁さん、ご教示ありがとうございます。

鼓吹についてよく分かりました。ただ、王倹のケースであればイメージしやすいのですが、石苞のように生前に下賜された場合、その特権をどういう場合に行使するのかが、よく分からないのでした。手元に適当な資料がないので実態がどうか分からないのですが、特権というより栄誉賞みたいなものなのでしょうか?鼓吹は音楽に関する特別な技能者でしょうから限られた人からなると思われ、かつ「天子直属の黄門鼓吹の伶人」となれば、その道の一流の人でしょうから、そういう鼓吹を下賜されるということ自体が非常に名誉なことだったのかなと想像しております。

ちなみに「王文憲集序」を『文選』を開いて見ましたら、冒頭に

 公諱儉字仲寳,琅邪臨沂人也。

とあります。この王倹も琅邪王氏ですね。王祥伝を訳したので、「琅邪臨沂人」に思わず反応してしまいます。(^^;)
李善注を頼りに、『宋書』の目次をめくれば、王倹の祖父王曇首の名の横に殷景仁さんのお名前が。奇遇ですね。(^o^)

88山口博数:2006/10/31(火) 11:51:36

郤詵伝のカク注に「詵表自理曰臣生三月而孤随母依外祖舅為縣悉家以咸寧二年母亡家自祖以下十四墳在緱氏而墓地数有水規悉遷改常多悉病遂使留此此方下湿唯城中高故遂葬於所居之宅祭於所養之堂不知其不可也。」とあるのですが、うまく句読点がうてません。どう訓むのでしょう。それから咸寧二年の寧は「うかんむりに丁の下に皿」の如きを寧としました。

89仁雛:2006/10/31(火) 21:27:46
山口さん

ご協力ありがとうございました!

90仁雛:2006/11/02(木) 01:51:19
カク注が、『通典』のどのテキストを利用したか知りませんが、中華書局本では以下のようにあります。
詵表自理曰,臣生三月而孤,隨母依外祖,舅為縣悉將家。以咸寧二年母亡,家自祖以下十四墳在緱氏,而墓地數有水,規悉遷改,常多疾病,遂便留此。此方下濕,唯城中高,故遂葬於所居之宅,祭於所養之堂,不知其不可也。

むじんさんが既に内容を紹介されていますが、以下のように読んでみました。

「詵、表して自らを理して曰く、臣、生まれて三月にして孤なり。母に隨い外祖に依る。舅、縣(吏?)と為り、悉く家を將う。咸寧二年を以て母、亡す。家、祖より以下の十四墳、緱氏に在り。而るに墓地に數(しばし)ば水有り。規、悉く遷改し、常に疾病多し、遂に便ち此に留まる。此の方、下は濕にして、唯だ城中のみ高なり、故に遂に居る所の宅に於いて葬し、養う所の堂に於いて祭す。其の不可なるを知らざるなり。」

91山口博数:2006/11/06(月) 12:06:07
仁雛さん
『通典』の訓読有難うございます。この時代の人は父を亡くしたり孤児だったり戦乱の世は大変ですね。
テキストは無く、芸文印書館印行の二十五史の晋書カク注の一文でした。
郤詵と郷品の格下げと関連の人物などに今関心を持っています。それにこの部分は重要でした。

92駿:2006/12/08(金) 21:40:11
於是項王乃上馬騎,麾下壯士騎從者八百餘人,直夜潰圍南出,馳走。平明,漢軍乃覺之,令騎將灌嬰以五千騎追之。項王渡淮,騎能屬者百餘人耳。項王至陰陵,迷失道,問一田父,田父紿曰「左」。左,乃陷大澤中。以故漢追及之。項王乃復引兵而東,至東城,乃有二十八騎。漢騎追者數千人。項王自度不得脫。謂其騎曰:「吾起兵至今八歲矣,身七十餘戰,所當者破,所擊者服,未嘗敗北,遂霸有天下。然今卒困於此,此天之亡我,非戰之罪也。今日固決死,願為諸君快戰,必三勝之,為諸君潰圍,斬將,刈旗,令諸君知天亡我,非戰之罪也。」乃分其騎以為四隊,四嚮。漢軍圍之數重。項王謂其騎曰:「吾為公取彼一將。」令四面騎馳下,期山東為三處。於是項王大呼馳下,漢軍皆披靡,遂斬漢一將。是時,赤泉侯為騎將,追項王,項王瞋目而叱之,赤泉侯人馬俱驚,辟易數里與其騎會為三處。漢軍不知項王所在,乃分軍為三,復圍之。項王乃馳,復斬漢一都尉,殺數十百人,復聚其騎,亡其兩騎耳。乃謂其騎曰:「何如?」騎皆伏曰:「如大王言。」

93駿:2006/12/08(金) 21:40:43
訳して〜!!

94菅原:2006/12/09(土) 23:06:20
駿さん、はじめまして。【解體晉書】代表の菅原です。
92の文章92の文章を訳してほしいとのご要望ですが、どういった事情があるのでしょうか?
92の文章は『史記』「項羽本紀」の一部ですので、もし訳が必要でしたら『史記』の訳本を読まれた方が
われわれの拙い訳よりもはるかにわかりやすいことと思います。
『史記』の訳本はいろいろな種類があります。
もし漢文の宿題等でしたらそんなに難しい文章ではないので、
漢文の基本に従って読んで時間をかければ訳すことができると思います。

95<削除>:<削除>
<削除>

96齊藤:2006/12/13(水) 13:30:59
漢文のことは何も判りません。教えてください。
他の未だ成さりしことを成さんとす を漢文に訳したいのですが。
他未事不成 ですか??全然わかりません。。。

97菅原:2006/12/17(日) 00:10:19
齊藤さん、はじめまして。【解體晉書】代表の菅原です。
もしよかったらその漢文が必要な理由を教えていただければ幸いです。
またその文章が何からの引用とかわかりましたらもっとお力添えできるのですが。
「他の未だ成さりしことを成さんとす」というのは読み下しに少し違う点や足りない点が
ありそうな感じですので、私が現時点で漢文を試みても間違えそう気がします。
「未だ成さりしこと」や「成さんとす」で間違いないでしょうか?

98こばやし:2007/01/07(日) 20:16:58
いきなりすみません
この漢文の意味・読み方わかる方いらっしゃいますか?
 他日趨庭叨陪鯉対
趨と庭の間にレ点があって鯉の前に二、対のあとに一とあります
漢文についての知識が全くないのでわかる方がいたら教えてください

99えちぜん:2007/01/08(月) 01:17:01
>98

唐の王勃の著した『滕王閣序』の一節ですね。
読み下し文、日本語訳は、星川清孝 著『古文真宝(後集)』(明治書院 新釈漢文大系16)にあります。

これによると、お尋ねの一節の読み下しは、

「他日庭に趨(はし)つて叨(みだ)りに鯉対に陪せん」

とあります。

この一節の意味ですが、この箇所は『論語』季子篇の故事を踏まえている点と、この文章を著した際の王勃の境遇を知らなければ十分な理解はできないと思います。先に挙げた『古文真宝(後集)』をご覧になることをお勧めします。

100こばやし:2007/01/08(月) 09:51:56
わかりました。ありがとうございました!!

101みどり:2007/01/13(土) 23:58:10
『晋書』とは全く関係がなくて申し訳ないのですが、よみ方がわかる方がいらっしゃったらお教え下さい。
錐代靉靆碓孤圓
花得浮雲淺霞鮮
况又清香不遮掩
東風吹送鼻次穿
江戸時代の倭僧の書いた画賛です。
勝手ながら、宜しくお願いいたします。

102八頭:2007/01/14(日) 08:24:34
おはようございます。
読んでみたのですが、間違いがあるかもしれません。
お分かりの方がいらっしゃったら、ご指摘お願い致します。

錐(きり)は靉靆(あいたい)に代わって 碓孤(たいこ)圓(まどか)に、
花は浮雲(ふうん)を得て 浅霞(せんか) 鮮やかなり。
況(いわん)や又(また)清香は遮掩(しゃあん)せず、
東風 吹き送りて 鼻次(びじ)を穿(うが)つ

103中根:2007/01/14(日) 11:14:33
みどりさん、はじめまして。
錐代靉靆碓孤圓で検索したところ、画像が出てきました。
作者は江戸期の人のようですが、署名部分は達筆すぎて読めませんね。
「靉靆」「碓孤円」いずれも禅門で多く用いる言葉のようです。
書き下しは八頭さんの訳で問題ないと思います。

104みどり:2007/01/14(日) 11:51:07
八頭さま、中根さま、早速お答えいただきまして、ありがとうございます。
碓孤圓につきまして、孤圓の語は『佩文韻府』に蘇軾の「心月皎皎長孤圓」を引いていますし、禅語でも心月孤圓では多く出てくるようですが、碓孤圓となるとさっぱり分りませんでした。
碓が孤圓なのかと思っていましたが、碓孤(たいこ)もありですねぇ。
ただ、いずれにしても一行目の意味がよくわかりません。
また、鼻次(びじ)はどういう意味なのでしょうか。お教えいただければ幸いです。
署名は「翠巌叟」と読みましたが。

105八頭:2007/01/14(日) 19:00:26
こんばんは。

よく調べていないので、分からないのですが、
錐は突き刺すような風を例えているのでしょうか。
また、碓弧とは月を指しているのでしょうか。

花は初め桜かと思ったのですが、梅かもしれません。或いは別の花でしょうか。
鼻次は鼻の穴のことだと思います。
『漢辞海』三省堂 の次の項目を引くとありますね。

以上から
おおまかな意味は次のようなものではないかと思いました。

錐のように突き刺す冷たい風が緩み、春めいた空に丸い月が昇ってきた。

花は満開となり、霞の中にぼんやりと見え隠れしている。

まして清らかな香りは何にも遮られることなく、

東風に乗って人々の鼻へ送られてくる。

私も署名部分を拝見しましたが、全く読めませんでした。
翠巌叟と読むのですか。教えてくださり、ありがとうございます。

106八頭:2007/01/14(日) 19:03:52
次は中という意味で、
鼻次は鼻の中ですね。
失礼しました。

107みどり:2007/01/14(日) 20:00:11
八頭さま、ありがとうございました。
申し遅れましたが、賛のついているのは、月に槍梅の画です。
やっと、わかってまいりました。
本当にありがとうございました。

108八頭:2007/01/15(月) 07:19:35
おはようございます。
錐が突き刺すような冷たい風かどうかなどは、
単に推測しただけですので、間違った解釈かもしれません。
ですので、あまり信用しないほうが無難だと思います。

詳しいことについてお分かりになる方がいらっしゃったら
ご指摘お願い致します。

109中根:2007/01/20(土) 12:07:41
>みどりさん
おはようございます。

>署名は「翠巌叟」と読みましたが。
ひょっとして、江戸時代の臨済宗の僧翠巌宗萊(すいがんそうみん)かも…
翠巌と名乗るお坊様は、

江戸初期の大徳寺百九十五世住職 翠巌宗萊師
唐の禅僧 翠巌令参師
現代の故大雄山主 余語翠巌師
がいらっしゃるようですが、みどりさんが「江戸時代の倭僧」と
おっしゃっていたので、作者は翠巌宗萊師の可能性もあるかなと思います。
もっとも翠巌という名前のお坊様は江戸期にも色々居たようですので
大徳寺の住職の翠巌宗萊師かどうかというのは厳密には分からないですけど。

>八頭さん
訳はおそらく問題がないと思います。私も禅語に関しては詳しくないので
余りよくわかりませんが…

110みどり:2007/01/20(土) 14:25:27
中根さま、ありがとうございます。
月に槍梅の絵には、法眼永真筆とありますので、狩野永徳の孫の狩野永真安信(慶長18年;1613〜貞享2年;1685)と思われます。
時代的には、翠巌宗萊(慶長13年;1608〜寛文4年;1664)が符合しているようです。
賛は、俳諧に「咲やり梅のとがる言の葉」などという句もあり、説文に「錐。鋭也」とありますから、錐は槍梅に掛けているような気がしております。穿はその錐に対応していると思いますが、なんとなく俳諧的というか諧謔の気を感じております。

111テソン:2007/02/20(火) 11:40:44
はじめまして。韓国で日本語を専攻しているものです。あるテキストでこんな漢文を見ましたが
意味がぜんぜん分からなくてこのサイトで助けを求めっています。
次の日本語で表記したらどう変わりますか?意味はどんな意味でしょうか?
教えてください。普通の現代日本の方々が見ても意味は分かりますか?
(一)有リレ朋自リ二遠方一來タル。不二亦タ樂シカラ一乎。
(二)七十ニシテ而從ヘドモ二心ノ所ニ一レ欲スル。不レ踰エレ矩ヲ。
(三)春眠不レ覺エレ曉ヲ 處處聞ク二啼鳥ニ一
(四) 所二以ハ枕スル一レ流レニ、欲スレバナリレ洗ハント二其ノ耳ヲ一。
(五) 李下ニ不レ正サレ冠ヲ。
また次の文の読み方の順番はどうなりますか?よろしくお願いします。

(一)○レ○○二○○レ○○一○      (二) ○レ○レ○○レ○二○レ○レ○○一

(三)○レ○三○○二○○○一レ○     (四)○○二○○一○レ○二○レ○○一

(五)○二○レ○○一○○下○二○レ○○一○○上

112テソン:2007/02/20(火) 11:41:21
はじめまして。韓国で日本語を専攻しているものです。あるテキストでこんな漢文を見ましたが
意味がぜんぜん分からなくてこのサイトで助けを求めっています。
次の日本語で表記したらどう変わりますか?意味はどんな意味でしょうか?
教えてください。普通の現代日本の方々が見ても意味は分かりますか?
(一)有リレ朋自リ二遠方一來タル。不二亦タ樂シカラ一乎。
(二)七十ニシテ而從ヘドモ二心ノ所ニ一レ欲スル。不レ踰エレ矩ヲ。
(三)春眠不レ覺エレ曉ヲ 處處聞ク二啼鳥ニ一
(四) 所二以ハ枕スル一レ流レニ、欲スレバナリレ洗ハント二其ノ耳ヲ一。
(五) 李下ニ不レ正サレ冠ヲ。
また次の文の読み方の順番はどうなりますか?よろしくお願いします。

(一)○レ○○二○○レ○○一○      (二) ○レ○レ○○レ○二○レ○レ○○一

(三)○レ○三○○二○○○一レ○     (四)○○二○○一○レ○二○レ○○一

(五)○二○レ○○一○○下○二○レ○○一○○上

113仁雛:2007/02/21(水) 14:17:13
>テソンさんへ
普通の現代の日本人が見て、ずばり意味を分かる人がどれほどいるかは、私には分からないのですが、中学や高校の漢文の教科書に載っている漢文かと思います。少なくとも、私が中高生の時は載っていました。
(一)〜(五)まで、「(漢文)訓読文」「書き下し文」などと呼ばれるもので、一種の(特殊ですが)古典日本語と言えるでしょう。
ですので、すでに「日本語で表記」されている、と言えます。現代日本語での意味は、翻訳になるのでそれぞれ訳者により違ってきます。
意味については、後日。あるいは他の人が書き込んでくれるかもしれません。取り急ぎ。

114NAGAICHI Naoto:2007/02/21(水) 23:53:12
テソンさん、はじめまして。
「レ点」や「一二点」や「上下点」は、漢文を日本式に訓読するための「返り点」という附点です。
漢文の「本文」と読み仮名にあたる「訓点」と読み順を示す「返り点」を同列に並べられると、日本人でも分かりにくいと思います。
以下にそれぞれについて、以下に「書き下し」「読み」「出典」「原文」「意味」の順で示します。

(一)「朋有リ遠方自リ來タル。亦タ樂シカラズヤ。」
「ともありえんぽうよりきたる。またたのしからずや。」
出典は、『論語』学而第一です。
原文は、「有朋自遠方來不亦樂乎」。
意味は、「友人が遠方から訪ねてくる。また楽しいことではないか」。

(二)「七十ニシテ心ノ欲スル所ニ從ヘドモ、矩ヲ踰エズ。」
「しちじゅうにしてこころのほっするところにしたがえども、のりをこえず。」
出典は、『論語』為政第二です。
原文は、「七十而從心所欲不踰矩」。
意味は、「七十歳になって心の欲するままにふるまっても、道を踏み外さなくなった」。

(三)「春眠曉ヲ覺エズ 處處啼鳥ニ聞ク」
「しゅんみんあかつきをおぼえず しょしょていちょうにきく」
出典は、唐の孟浩然の詩「春暁」です。
原文は、「春眠不覺曉 處處聞啼鳥」
意味は、「春の眠りの気持ちよさに夜が明けたのも気づかなかったが、あちこちに鳥の鳴く声が聞こえる」

(四) 「流レニ枕スル所以ハ、其ノ耳ヲ洗ハント欲スレバナリ。」
「ながれにまくらするゆえんは、そのみみをあらわんとほっすればなり。」
出典は、『晋書』孫楚伝ですね。「枕流漱石」の故事です。
原文は、「所以枕流欲洗其耳」。
意味は、「流れに枕するというのは、その耳を洗いたいだけだ」。

(五) 「李下ニ冠ヲ正サズ。」
「りかにかんむりをたださず。」
出典は古楽府の「君子行」です。有名なことわざですね。
原文は、「李下不正冠」。
意味は、「すももの木の下でかぶりものを直すようなことはしない(泥棒と勘違いされるような行動はしない)」。

115テソン:2007/02/22(木) 19:20:44
NAGAICHI Naotoさん、仁雛さんありがとうございます。私は1月軍隊を卒業して
4月大学に復学する予定ですけど、軍隊の2年間日本語をまったく接していなかったので、復学して授業について行けるかどうか悩んでいます。
自分で勉強するしかないけど、軍隊に行く前に習った古典文法を全部忘れてしまって、勉強がなかなか進まないです。
自分で古典文を翻訳してみたりするんですけど、正しいのかどうか確認ができなくてネットで色々検索してみてこのサイトを見つかりました。
次は自分で日本語の現代語に翻訳してみたものです。目を通していただける方がいますならよろしくお願いします。
耐震偽装にて世間を欺かむ事、まことに許し難ければ、関係当局真相解明せられたしと願ふ。
>耐震偽装で世間を欺いたことは、まことに許し硬く関係当局に真相の解明を願う。
2.やむを得ざる事情あり候と言へど、他人に責任を負はしめしこと許されざるべきに候はずや。
>やむを得ず事情があるといえども、他人に責任を負わせることができないだろう。
3.いづこにてか買はむと問ひしに、バーゲンなればかの店にて買はざるべからずと言へるなり。
>どこで買おうかという問いにバーゲンであればあの店で買わずにはいられないと言える。
4. 船内の光の晴れがましきも徒なるは、舟に残れるは余一人のみなればなり。
>船内の光が晴れやかに連なるのは、船に残ってる人は一人だけである 。
5.この恋愛こそ、いつになるとも、我々いづれにとりても、その記憶の消ゆべからざるものなれ。
>この恋愛こそはといつになっても私たちはどれをとってもその記憶が消えることはないものである 。
6.よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし。
>よどみに浮かんでいる船は、一方では消えて他方では増えて、長い間とどまっていることはない 。
7.五大洲ノ内、・ハ山ト湖ヲ隔テタルノミニテ候、一洲ト定メ候テモキ地勢ニ御坐候。
>五大州ノ内、は山と湖を隔てているだけであり、一洲と定めており、地勢によるということである 。
8.知事自らはたびたび釈明せしかど、ことここに至りては逮捕も当然ならざるべからず。
>知事自らはたびたび釈明したけれどここにいたっては逮捕も当然ならざるえない 。
9.選挙の結果には大いに驚き候へど、昨今の政党のだらしなき様を省みればありえぬことではなく候はむ。
>選挙の結果には大変驚いたけれど、昨今の政党のだらしない様子を振り返ってみるとありえないことではないだろう 。
10.いはゆる全入時代に入りしが為に、各大学必死になれるも当然なり。然れども、学生の教育こそたとへんに物なからぬ重要事なれば、偽りて世間を欺かば、自ら教育機関たることを放棄せしとこそみなさるべけれ。
>いはゆる全入時代に入ったために各大学が必死になるのも当然である けれど、学生の教育こそ物はなくても重要なことであるので 偽って世間を欺けば 自らの教育機関であることを 放棄したとみなされるであろう。
ーーーーー候文を作ってみましたーーーーーーー
@強いたくありません>>>強いたくはなき候 @用いるべきでしょう>>>用いるべし候 @誰の責任でも御座いません>>>誰の責任におらず候
@問題です>>> 問題にて候 @こころえませんが>>>心得なき候 @蹴りますなら>>>蹴り候ならば

116八頭:2007/02/23(金) 21:03:59
初めまして。

高校の古文の授業で候の用法は習いましたが、候文については殆ど分かりません。
古典文法を学んでおられるとのことですので、私も
テソンさんの作られた候文を古典文法で読んでみました。
あまり参考にならないかもしれませんが、ご覧いただければ幸いです。

試読した候文(□…)の後に
文法と読み(■…)を添えてみました。
これだけ日本語の文章を上手にお書きになられるので、蛇足だったかもしれません。
間違っていましたら、ご指摘くださるようよろしくお願い致します。

(1)強いたくありません>>>強いたくはなき候 

強いたく/ありません→強いたく/ない→強いたくは/なし→
→□強いたくはなく候
→■強いたくは/なく①/候②(■しいたくは/なく/そーろう)
①なく…形容詞「なし」の連用形。
②候ふ…謙譲の補助動詞「そうろふ」の終止形。形容詞の連用形に接続。

問題の文を「強いたいとは思いません」とすると、
□強いたしとは思ひ候はず(■しいたしとはおもいそーろわず)といえるかもしれません。

(2)用いるべきでしょう>>>用いるべし候

□用いるべく候(■もちいるべくそーろう)

以下、考えてみました。あまり自信がありません。
用いるべきでしょう→用ゐるべし→用ゐるべく候ふ
→□用ゐるべく候はむ
→■用ゐる/べく①/候は②/む③(■もちいる/べく/そーらわ/ん)
→■用ゐる/べう/や/候/らん (■もちいる/びょう/や/そー/らん)           

①当然の助動詞「べし」の連用形
②丁寧の補助動詞「そうらふ」の未然形。
③適当の助動詞「む(ん)」の終止形。

(3)誰の責任でも御座いません>>>誰の責任におらず候
→□誰の責任にもあらず候
→■誰の責任にも/あら/ず①候(だれのせきにんにも/あらず/そーろう)
誰の責任にもなく候

①打ち消しの助動詞「ず」の連用形(動詞「あり」の未然形に接続)

(4)問題です>>> 問題にて候

私も「問題にて候」と読みました。

問題です→問題なり→問題にて候
□問題にて候
■問題/にて①/候②(■もんだい/にて/そーろう)
①断定の助動詞「なり」の連用形(に)+接続助詞「て」
②丁寧の補助動詞「さうろふ」の終止形(接続助詞「て」に接続)
□問題で候

(5)こころえませんが>>>心得なき候

→□心得なく候へども

こころえませんが→こころう(心得)
→□こころえず候へども

(6)蹴りますなら>>>蹴り候ならば

私も「蹴り候ならば」と読みました。近世後期(江戸時代後期)以前では、
□蹴候ふならば
■(け そーろうならば)
と読んだのでしょうか。

117八頭:2007/02/23(金) 21:16:40
(1)強いたくありません>>>強いたくはなき候 
この候は謙譲ではなく、丁寧を表している
と思いました。

118八頭:2007/02/24(土) 17:22:08
ご参考にならないかもしれませんが、
訳してみましたので、ご覧いただけますか。

1.耐震震偽装にて世間を欺かむ事、まことに許し難ければ、関係当局真相解明せられたしと願ふ。
>耐震偽装で世間を欺いたことは、まことに許し硬く関係当局に真相の解明を願う。

■耐震偽装で世間を欺いたことは、まことに許し難いので、関係当局には真相を解明してほしいと願う。
さらに現代風に、
■耐震偽装で世間を欺こうとする行為は、決して許せることではないので、関係当局には事件の真相を解明してほしい(解明していただきたい)と願う。

解明してほしい、解明していただきたい、という部分がひっかかります。どなたか良い訳はありますでしょうか。

2.やむを得ざる事情あり候と言へど、他人に責任を負はしめしこと許されざるべきに候はずや。
>やむを得ず事情があるといえども、他人に責任を負わせることができないだろう。

■やむを得ない事情がありましても、他人に責任を負わせることは許されることではございません。

3.いづこにてか買はむと問ひしに、バーゲンなればかの店にて買はざるべからずと言へるなり。
>どこで買おうかという問いにバーゲンであればあの店で買わずにはいられないと言える。

■どこで買おうかと聞いたら、バーゲンであれば、あの店で絶対に買うということだ。
文末のなりは、伝聞の助動詞「なり」の終止形。
4. 船内の光の晴れがましきも徒なるは、舟に残れるは余一人のみなればなり。
>船内の光が晴れやかに連なるのは、船に残ってる人は一人だけである 。
船内にあふれる光は明るいのに、何となく物思いに沈んでしまうのは、この船に残っているのが私一人だけだからである。
くどいかもしれませんが、少し意味を補うと次のような感じだと思います。船の窓から差し込む明るい光。船内はあふれる光に輝き、人の気持ちも自然に晴れ晴れとしてくるはずなのに、それでも私が何となく物思いに沈み、一抹の寂しささえ感じるのは、この船に残っているのが私一人だけだからである。明治時代の小説を思わせる一文ですが、この「私」は旅をしているのでしょうか。

5.この恋愛こそ、いつになるとも、我々いづれにとりても、その記憶の消ゆべからざるものなれ。
>この恋愛こそはといつになっても私たちはどれをとってもその記憶が消えることはないものである 。

■この恋愛こそは、時がどれだけ経っても、私たち二人のどちらにとっても、その記憶が消えることのできないものであれ。
文末のなれは断定の助動詞「なり」の命令形。

119八頭:2007/02/24(土) 17:23:40
6.よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし。
>よどみに浮かんでいる船は、一方では消えて他方では増えて、長い間とどまっていることはない 。

■河の淀みにできる水の泡は、一方では消え、他方では生まれ、長い間同じ状態であることはない(常に変化している)鴨長明『方丈記』の冒頭の一文ですね。

7.五大洲ノ内、・ハ山ト湖ヲ隔テタルノミニテ候、一洲ト定メ候テモキ地勢ニ御坐候。
>五大州ノ内、は山と湖を隔てているだけであり、一洲と定めており、地勢によるということである 。
五大州は、アジア、アフリカ、ヨーロッパ、アメリカ、オーストラリアのことで、
この文ではアジアとヨーロッパの地理について述べているのでしょう。
>一洲ト定メ候テモキ地勢ニ御坐候
定メ候テモキの部分がよく分からないのですが、
一洲ト定メ候テモヨキ地勢(一つの州と定めてもよい)という意味なのでしょうか。

8.知事自らはたびたび釈明せしかど、ことここに至りては逮捕も当然ならざるべからず。
>知事自らはたびたび釈明したけれどここにいたっては逮捕も当然ならざるえない 。
テソンさんの訳で正しいと思いました。
知事自らは何度も釈明したけれど、事態がここまできてしまっては逮捕も至極当然のことだ、というような意味でしょうか。

9.選挙の結果には大いに驚き候へど、昨今の政党のだらしなき様を省みればありえぬことではなく候はむ。
>選挙の結果には大変驚いたけれど、昨今の政党のだらしない様子を振り返ってみるとありえないことではないだろう 。
テソンさんの訳で良いと思います。
選挙の結果には大変驚きましたが、昨今の政党のだらしない様子を振り返ってみれば、あり得ないことではないと存じます。(あり得ないことではないでしょう。)

10.いはゆる全入時代に入りしが為に、各大学必死になれるも当然なり。然れども、学生の教育こそたとへんに物なからぬ重要事なれば、偽りて世間を欺かば、自ら教育機関たることを放棄せしとこそみなさるべけれ。
>いはゆる全入時代に入ったために各大学が必死になるのも当然である けれど、学生の教育こそ物はなくても重要なことであるので 偽って世間を欺けば 自らの教育機関であることを 放棄したとみなされるであろう。

■いわゆる全入時代に入ったために、各大学が必死になるのも当然である。しかし、学生の教育はこの上なく重要なことなので、嘘をついて世間を騙したりしたら、自ら教育機関であることを放棄したと見なされるであろう、だが、そうであってはならない。
係り結び こそ…べけれ(べしの已然形)
例文の必死になれるも
は、必死になるも、必死になりぬるも或いは必死にならるるも(?)
だと思ったのですが、文法的にどれが妥当なのでしょうか。詳しい方がいらっしゃったら、お教えくださるようよろしくお願い致します。

120八頭:2007/02/27(火) 19:12:55
>五大州は、アジア、アフリカ、ヨーロッパ、アメリカ、オーストラリア

明治時代ですと、五大州は、アジア、アフリカ、ヨーロッパ、北アメリカ、南アメリカ
のことを指すのかもしれません。

121みどり:2007/03/16(金) 21:21:52
また、お邪魔します。いわゆる漁歌子について調べています。
『能改齋漫録』に、徐師川云:張志和漁父詞云:“西塞山前白鷺飛。桃花流水鱖魚肥。青箬笠、䖝蓑衣。斜風細雨不須歸。”顧況漁父詞云:“新婦磯邊月明。女兒浦口潮平。沙頭鷺宿魚驚。”東坡云:“玄真語極麗,恨其曲度不傳,加數語以浣溪沙歌之云:“西塞山前白鷺飛。散花洲外片帆微。桃花流水鱖魚肥。自庇一身青箬笠,相隨到處䖝蓑衣。斜風細雨不須歸。”山谷見之,擊節稱賞,且云:惜乎散花與桃花字重疊,又漁舟少有使帆者。乃取張顧二詞,合為浣溪沙云:“新婦磯邊眉黛愁。女兒浦口眼波秋。驚魚錯認月沉鉤。青箬笠前無限事,䖝蓑衣底一時休。斜風細雨轉船頭。”東坡跋云:“魯直此詞,清新婉麗,問其最得意處,以山光水色,替卻玉肌花貌,真得漁父家風也。然才出新婦磯,便入女兒浦,此漁父無乃太瀾浪乎。
とありますが、これはどのように書き下したらよろしいのでしょうか。お教えいただければ幸いです。『晋書』に関係ないものばかりですみません。

122中根:2007/04/15(日) 20:12:25
>みどりさん

亀レスで申し訳ありません。わかるところだけ書き下します。
正直な話宋の詞となると俗語が入ってくるので相当解釈しずらいです。

徐師川云う、張志和が漁父詞に云う「西塞山前白鷺飛ぶ。桃花流水鱖魚肥えたり。
青き箬笠(じゃくりゅう)、䖝の蓑衣(さい)。斜風細雨、帰るを須いず。」と。
顧況が漁父詞に云う「新婦磯の邊に月明らかなり。女兒浦の口の潮平らかなり。
沙頭の鷺、宿魚を驚かす。」と。
東坡云う「玄真が語は極めて麗なるも,恨むらくは其の曲、度を伝えず」と。
數語を加えて以て浣溪沙に之を歌いて云う、
「西塞山前、白鷺飛ぶ。散花洲外、片帆微かなり。桃花流水、鱖魚肥えたり。
自ら一身を庇う青箬の笠,相い隨して到る處䖝蓑の衣。斜風細雨、帰るを須いず。」と。
山谷之を見,節を撃て稱賞し、且つ云う「惜しいかな、
散花と桃花の字は重疊なり,又た漁舟には少しく帆を使う者有り。
乃ち張顧の二詞を取り,合せて浣溪沙と為して云う、

…以下はちょっと書き下しにくいですね。

123みどり:2007/04/15(日) 21:43:52
中根さま、ありがとうございます。
無理なお願いをして申し訳ございませんでした。

124中根:2007/04/22(日) 17:39:31
>みどりさん

いえいえ、途中までしか書き下し出来なくて申し訳ないです。
これからも何かありましたらよろしくお願いします。

125:2007/05/06(日) 05:20:55
妻曰:“妾闻之:可食以酒肉者,可随以鞭捶。可授以官禄者,可随以鈇钺。今先生食人酒肉,授人官禄,为人所制也。能免于患乎!妾不能为人所制,投其畚莱而去。”老莱子曰:“子还,吾为子更虑。”遂行不顾,至江南而止,曰:“鸟兽之解毛, 可绩而衣之。
の訳教えてください!

126八頭:2007/05/08(火) 22:20:45
初めまして。訳ではないのですが、訳の参考になればと思い、
訓読をしてみました。一読していただければ、幸いです。

間違いがあるかもしれませんので、お気づきの方はご指摘お願い致します。

ぶしつけですが、中さんは中国語或いは中国古典を勉強している方でしょうか?
文章が簡体字のようですね。


妻曰(いわ)く:“妾(しょう)之を闻く:食(く)わすに酒肉を以(もっ)てすべき者は,随(したが)うに鞭捶(べんすい)を以てすべし。授(さず)くるに官禄(かんろく)を以てすべき者は,随ふに鈇鉞(ふえつ:斧とまさかり;刑具)を以てすべし。今 先生 人の酒肉を食(く)らひ、人に官禄を授(さず)かれば、人の制する所となるなり。能く患いより免れるかな!妾 人の制する所となる能はず,其の畚莱(ほんらい:土石を運ぶ用具と荒れた畑)を投じて去かん。”老莱子曰く:“子(し)還(かえ)れ,吾 子の為に更に慮(おもんぱか)らん。”遂(つい)に行(ゆ)きて顧(かえりみ)ず,江南に至りて止(とど)まる,曰く:“鳥獣(ちょうじゅう)の解毛は, 績(つむ)ぎて之を衣にすべし。

127中根:2007/05/13(日) 01:26:14
>中さん

はじめまして。
かかれた文章は『列女伝』楚老莱妻の項のようですね。
日本語訳が市販されています(山崎純一訳と牧角悦子訳)ので、ぜひ
参照してみてください。

余談ですが、わたしは学生時代牧角悦子先生に中国語を習いました。できの悪い
生徒でして、怒られたりしていましたが、先生のお蔭で仕事で中国語で
現地の人とやり取りできるようになったと思うと、
ありがたいことだと学恩に感謝しております。
歌手のイルカさんのようなチャーミングな方でしたが、
今でもお元気でいらっしゃるでしょうかねえ…

128八頭:2007/05/13(日) 19:48:40
中根さん、参考書を教えてくださり、ありがとうございます。

>日本語訳が市販されています

一冊は『列女伝』牧角悦子(まきずみ えつこ)明治書院 2001年ですね。
東洋文庫にも『列女伝』があるようです。

訓読に間違いがあったかもしれませんが、気付いた間違いでは、
>畚莱(ほんらい:土石を運ぶ用具と荒れた畑)
ネットで原文を探して読んでみましたが、アカザの入った籠(籠の中のアカザ)
のようですね。(籠鳥(ロウチョウ 籠の中の鳥)と同じ)
『漢辞海』には、「もっこ」とありますが、こうした農具は、身近にないとイメージしにくいですね。

>患
「災難、わざわい」という意味だと思いますが、
素朴な疑問なのですが、読みは患(うれ)い、それとも患(わずら)い
のどちらなのでしょうか。
『漢辞海』は、患(わずら)い、としていますが、
患(うれ)い、と読むべきという意見もあるようです。

129名無晋書さん:2007/07/04(水) 22:28:02

 『晋書』武帝紀咸煕二年の条。

 於是天子知暦數有在、乃使太保鄭沖奉策曰、咨爾晉王、我皇祖有虞氏誕膺靈運、受終于陶唐、亦以命于有夏、
惟三后陟配于天、而咸用光敷聖紱、自茲厥後、天又輯大命于漢、火紱既衰、乃眷命我高祖、方軌虞夏四代之明顯
、我不敢知、惟王乃祖乃父、服膺明哲、輔亮我皇家、勳紱光于四海、格爾上下藭祇、罔不克順、地平天成、萬邦
以乂、應受上帝之命、協皇極之中、肆予一人、祗承天序、以敬授爾位、暦數實在爾躬、允執其中、天祿永終、於
戲、王其欽順天命、率循訓典、底綏四國、用保天休、無替我二皇之弘烈、帝初以禮讓、魏朝公卿何曾・王沈等固
請、乃從之、

 是に於いて天子は暦數の在るを有するを知り、乃ち太保鄭沖をして策を奉ぜしめて曰く、
 「咨、爾晉王よ、我が皇祖有虞氏は、誕(おおい)に靈運を膺(あた)られ、終を陶唐に受け、亦た以て有夏
に命ず。惟れ三后陟(のぼ)りて天に配して、咸な用ひて聖紱を光敷せり。茲自り厥(そ)の後、天は又た大命
を漢に輯めり。火紱既に衰へ、乃ち我が高祖に眷命せられ、軌を虞夏四代の明顯に方(くら)べしむるに、我敢
へて知らず。惟れ王が乃祖乃父は、明哲を服膺し、我が皇家を輔亮し、勳紱は四海に光れり。爾は上下の藭祇に
格(いた)れり、克順せざる罔(な)く、地平(やす)らかに天成り、萬邦以て乂(をさ)まれり。上帝の命を
受け、皇極の中に協(かな)ふるに應へよ。肆に予一人、祗(つつし)みて天序を承り、以て敬ひて爾に位を授
く。暦數實に爾が躬に在り、允に其の中に執らば、天祿終を永ぜん。於戲、王其れ欽みて天命に順へよ。訓典に
率循(したが)ひ、四國を底綏し、用ひて天休を保ち、我が二皇の弘烈に替はる無かれ」と。
 帝は初め禮を以て讓るも、魏朝の公卿何曾・王沈等固く請へば、乃ち之に從へり。

 カッコ内が難しくてよくわかりません。よろしく御願いします。

 参考資料
 ttp://strawberrymilk.gooside.com/text/shinjo/03-1.html
 ttp://members.at.infoseek.co.jp/valentyne_suite/zz_shinjo_003_ki03_butei.jpg

130スート:2007/07/04(水) 22:38:31
おお、名前が無い。
すいません。

131あそ:2007/07/05(木) 21:19:19
初超被徴、以戊己校尉任尚爲都護、與超交代、尚謂超曰、君侯在外國三十餘年、
而小人猥承君後、任重慮淺、宜有以誨之、超曰、年老失智、任君數當大位、豈班超所
能及哉、必不得已、願晋進愚言、塞外吏士、本非李子順孫、皆以罪過徙補邊屯、而蠻
夷懐鳥獸之心、難養易敗、今君性嚴急、水芿無大魚、察政不得下和、宜蕩佚簡易、寛
小過總大綱而已、超去後、尚私謂所親曰、我以班君當有奇策、今所言平平耳、尚至數年、
而西域反亂、以罪被徴、如超所戒。
後漢書の班超伝第三十七です。どこ探しても訳がないんです。訳して下さい。お願いします。

132菅原:2007/07/16(月) 17:16:51
あそさん、はじめまして、代表の菅原です。
レスが遅くなり、申し訳ありません。
『後漢書』「班超伝」の訳が必要とのことですが、
明徳出版社の中国古典新書シリーズの『後漢書』に当該部分の訳がありますので、
そちらを参考にされればと思います。

ちなみにあそさんは西域関連に興味があるのでしょうか?

133燐爛:2007/07/19(木) 21:23:42
こんばんは、はじめまして!

いきなりですいませんが、この問題だけ解けなくて苦戦しております;汗

*問題*
返り点と送り仮名をつけなさい。

宜進而進、宜退而退、良将也。
[現代語訳:進むのがよい時には進み、退くのがよい時には退くのが、
すぐれた将軍である。]
書き下し文だけで構いません!
どなたかわかる方いらっしゃいませんか?><

134中根:2007/07/21(土) 11:09:36
どうもはじめまして。実は漢文の書き下しは色々細部で違いがあるので、
私の解答を先生にそのまま出しても○が付くかどうかはわかりませんが、
まあもっとも標準的なものを書きます。受験の文法的には宜は「よろしく
・・・べし」の再読文字ですから、

宜しく進むべくして進み、宜しく退くべくして退くは、良将なり。

となります。

以下は余談ですが、本当は日本語のリズムから言えば
「進むべくして進み、退くべくして退くは良将なり」のほうがよほど
いいでしょうね。多分これだと再読文字を読めてないのでペケでしょうが。
森鴎外も『渋江抽斎』では
「進むべくして進み、辞すべくして辞する」
というように書いてますね。
難しいところです。

135燐爛:2007/07/22(日) 06:45:10
中根さま

中根さまは物知りでいらっしゃるのですね。すごいです!


問題のほう、ご丁寧にどうもありがとうございます!!
大変助かりました!

136菅原:2007/08/18(土) 21:34:35
このスレでは一般の漢文に対する質問は受け付けていますが、
大学等の問題や宿題等に対する回答はできませんので、
そういったご質問はご遠慮ください。

137ひこにゃん:2007/08/29(水) 21:56:45
はじめまして。
以下の訓読が分からないのですが・・・。

正しい読み方が分かる方がいらしたら、
教えてください。
お願い致します。

傷心處別時路有誰不同

138八頭:2007/09/01(土) 19:45:47
ひこにゃんさん、はじめまして。
出典がよくわからないのですが、読んでみました。
間違っているかもしれませんが、

傷心處別時路有誰不同
心を傷むる処、別るる時路,誰か同じからざること有らん。

でしょうか。
恐らく間違っていると思います。
どなたかご指摘よろしくお願いします。

139名無晋書さん:2007/09/03(月) 04:42:47
出典はおそらく屠洪剛という人の歌っている「霸王別姫」の曲ではないでしょうか?
ttp://baike.baidu.com/view/8506.htm
「人世間有百媚千抹 我独愛 愛你那一種 傷心處別時路有誰不同 多少年恩愛匆匆葬送」

140八頭:2007/09/06(木) 18:57:17
名無晋書さん、ご指摘ありがとうございます。
有名な曲らしく、「十年輝煌中国歌曲排行榜 1996年」というCDに収録されていますね。
書虫で購入できます。
なかなか雰囲気の出ている曲でした。

141和尚:2007/09/07(金) 19:10:59
こんばんは。以下の文の読み方、意味などご教授お願いできますか。どうかよろしくお願い申し上げます。
夫五情六欲人心所常有斧藻防輭外事之至苦荀人鬼無尤於趣舎何不順其所甘而強其苦哉

142名無晋書さん:2007/09/07(金) 21:26:57
浙西軍校呉景者辛酉歳設齋於石頭城僧院(『稽神録』徐鉉)
浙西ノ軍校呉景ハ、辛酉ノ歳、齋ヲ石頭城ノ僧院ニ設ク。
浙西地方の将校、呉景は辛酉の年に、石頭城の或る寺で齋を施した。

この「齋」は、僧侶に食事を差し上げるという意味だと思うのですが、それは死者の供養のためなのですよね。
宗教(ここでは仏教)が分からないと中国の文学、歴史は分からない、と、学生の頃、中国古典文学(宋詞)の先生からお話を伺ったことがあります。
詳しいことをご存知の方がいらしたらご指摘お願い致します。

143名無晋書さん:2007/09/07(金) 21:33:52
呉景
浙西軍校呉景者辛酉歳設齋於石頭城僧院其夕既陳設忽聞婦女哭聲甚哀初遠漸近俄在齋筵中矣景乃告院僧曰景頃歳従軍克豫章獲一婦人殊有姿色未幾其夫求贖將軍令嚴粛不可相容景即殺之後甚以爲恨今之設齋正爲是也即與僧倶往乃見婦人在焉僧爲之祈告婦人曰我従呉景索命不知其他遽前逐之景急走上佛殿大呼曰我還爾命於是顚仆而卒

144えちぜん:2007/09/09(日) 23:39:11
>141
和尚さん、こんばんは。
この文の出典、あるいはどういうところに書いてあったのか、そういう情報もいただけると読解の助けになったのですが。。。
私も最近漢文に取り組む時間が取れなかったもので、ちょっと腕試しに挑戦してみました。あまり自信はありませんので、ほんの参考程度になさってください。

まず、書き下し。

夫れ五情六欲は人心の常に有する所なり。斧藻・防輭・外事、之れ至苦なり。苟も人鬼趣舎に於いて尤無ければ、何ぞ其の甘き所に順わずして、其の苦きを強めんや。

次に語釈。

●夫れ それ。発語の辞。 さて、そもそも。●五情六欲  この文章が仏教に関係するとすれば、人が有する五つ、乃至六つの欲望のこと。諸橋大漢和を引けば、その五つ、六つが何かが出ています。●斧藻・防輭・外事 斧藻(ふそう)の「斧」はけずる、「藻」は飾ること。元は柱を削って装飾を施したことをいう。防輭(ぼうかん)は、防閑ではないかと。防閑の「防」も「閑」も防ぐの意。元は人の行為を止めることに用いられたようです。外事(がいじ)は、他のこと、あるいは世間のこと。ここでは、人が欲望に負けて、自分の身を飾り立てたり、人の行為を邪魔したり、世間の事が気になったりということではないかと思います。●至苦 後文で、「甘」「苦」が対で用いられていることから、ここは「にがい」の意味で取ると良いと思います。●苟も 元の文では「荀」となっていますが、「苟」の誤りではないかと思います。仮にの意味。●人鬼 本来は死んだ人の霊魂ということのようですが、先に「人心」とありますから、その言い換えと思われます。●趣舎 取ることと捨てること。取捨。●尤  過ち。咎め。●何不順其所甘而強其苦哉 何不A而Bで、「何ぞAしてBせざらんや」と通常は読むようなのですが、ここでは上記書き下しのように読んだ方が意味が通ると思います。



さて、五情六欲というのは、人の心に常に存在するものです。身を飾ったり、人の邪魔をしたり、世間のことが気になったり、これらは最も苦々しいことであります。もし仮に人の心が取捨選択することにおいて過ちが無いとすれば、どうして甘いところに従わないで、苦いことを強めようとするのでしょうか?

145和尚:2007/09/10(月) 22:05:12
えちぜん様、ありがとうございます。出典は『廣弘明集』唐 道宣にある「釋疑論」晋 載逵です。斧藻防輭外事之至苦をどこで切ればよいか分からず、とても助かりました。
荀人鬼無尤於趣舎何不順其所甘而強其苦哉ですが、
荀も人鬼 趣舎に於いて尤むこと無ければ、何ぞ其の甘き所に順わせ、其の苦きを強らざる。 
と読みました、もし、人鬼(死者の魂)が人の取捨選択を咎めないのなら、どうして(仏の教えは、人に取捨選択の)快楽に従わせ、苦痛を強要しないのか。
快楽に従わせ、苦痛を強要するべきだ。

となり、よく理解できません。

釋疑論    晉戴安
T52n2103_p0221c24(00)║安處子問於玄明先生曰。
T52n2103_p0221c25(07)║蓋聞積善之家必有餘慶。積不善之家必有餘殃。又曰。
T52n2103_p0221c26(03)║天道無親常與善人。斯乃聖達之格言。
T52n2103_p0221c27(05)║萬代之宏標也。此則行成於己身。福流於後世。
T52n2103_p0221c28(04)║惡顯於事業。獲罪乎幽冥。然聖人為善。
T52n2103_p0221c29(06)║理無不盡理盡善積。宜歷代皆不移。行無一善惡惡相承。
T52n2103_p0222a01(01)║亦當百世俱闇。是善有常門。惡有定族。
T52n2103_p0222a02(03)║後世修行復可益哉。又有束修履道。言行無傷。
T52n2103_p0222a03(01)║而天罰人楚百羅備纓。任性恣情肆行暴虐。
T52n2103_p0222a04(01)║生保榮貴子孫繁熾。推此而論。
T52n2103_p0222a05(06)║積善之報竟何在乎。夫五情六慾人心所常有。
T52n2103_p0222a06(04)║斧藻防閑外事之至苦。苟人鬼無尤於趣舍。
T52n2103_p0222a07(04)║何不順其所甘而強其苦哉。請釋所疑以祛其惑。
T52n2103_p0222a08(02)║先生曰。善哉子之問也。史遷有言。
T52n2103_p0222a09(06)║天之報施善人何如哉。荀絓亦云。飾變詐而為姦宄者。
T52n2103_p0222a10(01)║自足乎一世之間。守道順理者。不免飢寒之患。
T52n2103_p0222a11(00)║二生疑之於前而未能辨。吾子惑之於後。
T52n2103_p0222a12(01)║不亦宜乎。請試言之。夫人資二儀之性以生。
T52n2103_p0222a13(01)║稟五常之氣以育。性有脩短之期。
T52n2103_p0222a14(05)║故有彭殤之殊。氣有精麤之異。亦有賢愚之別。
T52n2103_p0222a15(04)║此自然之定理不可移者也。是以堯舜大聖朱均是育。
T52n2103_p0222a16(00)║瞽叟下愚誕生有舜。顏回大賢早夭絕嗣。
T52n2103_p0222a17(01)║商臣極惡令胤剋昌。夷叔至仁餓死窮山。
T52n2103_p0222a18(02)║盜跖肆虐富樂自終。比干忠正斃不旋踵。
T52n2103_p0222a19(03)║張湯酷吏七世珥貂。凡此比類不可稱言。
T52n2103_p0222a20(03)║驗之聖賢既如彼。求之常人又如此。
T52n2103_p0222a21(06)║故知賢愚善惡脩短窮達。各有分命。非積行之所致也。
T52n2103_p0222a22(02)║夫以天地之玄遠。陰陽之廣大。
T52n2103_p0222a23(07)║人在其中豈惟[米*弟]米之在太倉。毫末之於馬體哉。
T52n2103_p0222a24(05)║而匹夫之細行。人事之近習。一善一惡皆致冥應。
T52n2103_p0222a25(03)║欲移自然之彭殤易聖於朱舜。此之不然居可識矣。
T52n2103_p0222a26(00)║然則積善積惡之談。蓋施於勸教耳。
T52n2103_p0222a27(03)║何以言之。夫人生而靖天之性也。
T52n2103_p0222a28(07)║感物而動性之欲也。性欲既開流宕莫檢。聖人之救其弊。
T52n2103_p0222a29(02)║因神道以設教。故理妙而化敷。順推遷而抑引。
T52n2103_p0222b01(00)║故功玄而事適。是以六合之內論而不議。
T52n2103_p0222b02(01)║鑽之而不知所由。日用而不見所極。
T52n2103_p0222b03(04)║設禮學以開其大矇。名法以束其形跡。
T52n2103_p0222b04(06)║賢者倚之以成其志。不肖企及以免其過。使孝友之恩深。
T52n2103_p0222b05(01)║君臣之義篤。長幼之禮序。朋執之好著。
T52n2103_p0222b06(03)║背之則為失道之人。譏議以之起。
T52n2103_p0222b07(07)║向之則為名教之士。聲譽以之彰。此則君子行已處心。
T52n2103_p0222b08(03)║豈可須臾而忘善哉。何必修教責實以期應報乎。
T52n2103_p0222b09(01)║苟能體聖教之幽旨。審分命之所鍾。
T52n2103_p0222b10(04)║庶可豁滯於心府不祈驗於冥中矣。安處子乃避席曰。
T52n2103_p0222b11(00)║夫理蘊千載念纏一生。今聞吾子大通之論。
T52n2103_p0222b12(00)║足以釋滯疑祛幽結矣。僕雖不敏請佩斯言。

146えちぜん:2007/09/12(水) 02:05:31
>145
和尚さん、こんばんは。
出典をご紹介いただき、ありがとうございます。晋の戴逵(字は安道)の「釋疑論」、この文章は『全晋文』にも収録されていますね。戴逵の伝は晋書列伝第64にあります。

141でご質問された文章は、安處子が玄明先生に質問する言葉の中にあります。聖賢の教えと現実とのギャップ、天道是か非か、という問題です。その文脈で141の文章を読むと、人間の欲は自然の摂理に逆らって働いているようだが、なぜか?ということだと思います。

それでいくと、144で訳した内容でほぼ大丈夫かなという気が致します。
人の心は普通、平静で穏やかな境地を望むはず。しかしながら人の心の欲は、わざわざ平静さをかき乱すように人の心をかき立てている。甘いものと苦いものがあれば、甘いものの方へよるのが自然の摂理。人の心も平静で穏やかな境地を望むという自然の摂理に従うはずなのに、どうしてわざわざ苦い方へ寄っていこうとするのだろうか?ということだと思います。

「斧藻防輭外事之至苦」は難しいですよね。私も悩みました。144では「斧藻・防輭・外事、之れ至苦なり。」と読んだのですが、「斧藻・防輭・外事、之れ苦きに至る。」と読んだ方が良いかも知れません。

>荀も人鬼 趣舎に於いて尤むこと無ければ、何ぞ其の甘き所に順わせ、其の苦きを強らざる。 
>もし、人鬼(死者の魂)が人の取捨選択を咎めないのなら、どうして(仏の教えは、人に取捨選択の)快楽に従わせ、苦痛を強要しないのか。

「人鬼」はやはり先に出てくる「人心」の言い換えでしょうね。「尤」は名詞として扱った方が良いと思います。「人鬼 趣舎に於いて尤(あやまち)無し」 人心は取捨選択において過ちがない。→人心は自然の摂理に従うはず。
「何不順其所甘而強其苦哉」は144でも書きましたが、通常は和尚さんのように読むようです。ところがやはり意味が通じないのですね。なので、あえて「何ぞ其の甘き所に順わずして、其の苦きを強めんや。」と読んでみました。主語も仏の教えではなく、「人鬼」(人心)でしょうね。甘いものと苦いものがあれば、甘いものへ寄るはず。(人の心は)どうしてその甘いものに寄らずに、わざわざ苦いものへ寄っていくのか?

というわけで書き下し修正。

夫れ五情六欲は人心の常に有する所にして、斧藻・防輭・外事、之れ苦きに至る。苟も人鬼 趣舎に於いて尤無ければ、何ぞ其の甘き所に順わずして、其の苦きを強めんや。

訳修正。

さて、五情六欲というのは、人の心に常に存在していて、身を飾ったり、人の邪魔をしたり、世間のことが気になったりと、(わざわざ)苦いところへ行っています。もし仮に人の心が取捨選択することにおいて過ちが無い(甘いものと苦いものがあれば、甘いものを選ぶ)とすれば、(人の心は)どうして甘いものを選ばず、苦いものばかり選ぼうとするのでしょうか?

147玄丘校尉:2007/09/23(日) 19:02:14
初めまして。訓読よろしくお願い致します。

老子曰吾有三寶持而寶之一曰慈ニ曰倹三曰不敢爲天下先
此三寶者吾於終日疏林中盡見之落葉慈也
損小己以全宗幹可謂慈矣
松柏需水供至微故生水土澆薄之所秋冬水絶亦不虞匱乏
人但知其後彫而莫知後彫之由於能倹也。

148玄丘校尉:2007/09/23(日) 19:04:22
終日疏林は、
秋日疏林でした。

149名無晋書さん:2007/09/24(月) 21:54:10
一切誰心造
これってどのように訳せば良いのですか?

150名無晋書さん:2007/09/24(月) 21:54:54
一切誰心造
これってどのように訳せば良いのですか?

151和尚:2007/09/25(火) 20:20:54
一切誰心造
出典を教えて下さるようお願い致します。仏典でしょうか。

152Christian:2007/09/26(水) 21:18:49
一切誰心造

一切誰(なに)をか心造せん。

だと思いますよ。

153中根:2007/09/28(金) 23:09:02
>和尚さん
知りたいお気持ちは大変良く分かりますが、短時間に連続の書き込みは
ご遠慮ください。

>一切誰心造
仏典ではないようです。大蔵経検索でもヒットしません。文体からいって
宋あたりの口語ではないかと思います。儒者の語録か何かではないでしょうか。
今ひとつ手がかりにかけますので、和尚さんがどこでご覧になったか
教えて頂ければあるいは何か手がかりがあるかも知れません。
読みはChristianさんの読み方でいいと思います。

154中根:2007/09/28(金) 23:29:19
>玄丘校尉さん

はじめまして。途中まで訳しておきます。

>老子曰吾有三寶持而寶之一曰慈ニ曰倹三曰不敢爲天下先
老子曰く。吾に三寶有り。持して而して之を寶とす。
一に曰く、慈。ニに曰く倹。三に曰く、敢えて天下の先たらず。

老子はいった。
「私には三つの宝がある。それを宝として大事にしている。
第一に慈愛。二番目は倹約。三番目は敢えて天下に先んじないという
ことだ」と。

老子の第67章ですね。翻訳は各種ありますので参照してみてください。

>此三寶者吾於秋日疏林中盡見之
この三寶は吾秋の日の疏(まばら)なる林の中にことごとくこれを見る。

訳:老子がいう「三宝」を、私は秋の日の木のまばらな林の中で全て見た。

後は簡単なので、読んで見てください。

155菅原:2007/09/29(土) 12:55:57
みなさん、ご訪問ありがとうございます。
訓読を希望される際は出典がわかる場合は出典を明示していただければ
その分ご説明しやすいと思いますので、お手数ですがよろしくお願いします。

>名無晋書さん
「一切唯心造」であれば『華厳経』の言葉で
「一切は唯だ心の造るものなり」という意味のようです。

156玄丘校尉:2007/09/29(土) 16:26:44
中根さん、ありがとうございます。
出典ですが、胡適の『嘗試集』中の「秋聲」という作品です。短い散文の後に、詩(文語)が添えられています。詩の内容は、晩秋の凋落の中、緑を保つ松柏を讃える、というものです。

157玄丘校尉:2007/10/07(日) 11:29:33
兪平伯の随筆「秋茘亭随筆」を読んでいます。

幼年不學詩,唯令属対。対有三四五七字之分,由三而漸展至七,亦課蒙之成規也。
其先皆由両大人自課,其課本則吾母手抄。
至光緒戊申,則附入塾中日程内。最初想尚不時倩人,継而師知余拙,毎出一対,輒先自爲之。
若余対不出,則師径以其所預儲者填入“課本”中,遂作爲今日課畢而放學矣。 
則附入塾中日程内ですが、

則ち塾の中日程の内に附して入る。
でしょうか?読みがよくわかりません。

父兄に連れられて、一日おきの日程の塾へ入学した。或いは、
一日おきに家塾へ通って学問の手ほどきを受けた、という意味でしょうか?
どなたか、教えて下さい。お願い致します。


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